秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

歴史

1692/安本美典・2017年7月著。

 「組織集団がある方向にむいている場合、その内部にいる人たちには、組織集団の文化の特異性に、気づきにくくなる。/思い込みと、ある程度の論証の粗雑さとがあれば、どのような結論でもみちびき出せる。当然見えるべきものが見えず、見えないはずのものが見えるようになる」。はじめにⅲ。
 「捏造をひきおこす個人、組織、文化は、捏造をくりかえす傾向があるといわれている」。はじめにⅹ。
 「素朴な人がらのよさを持っている方が、他の分野よりも多いような感じがする。/それだから困ってしまう。/信じたい情報だけを選び、それ以外は無視する」。p.346。
 「私は、…、捏造であるという『信念』を述べているのではない。…である『確率』を述べているのである。/それは、…私が…にあった『確率』を計算して述べているのであって、『信念』を述べているのではないことと同じである。/確率計算は、証明になりうる」が、「宣伝は、証明にならない。/この違いを、ご理解いただけるであろうか」。p.347。
 以上、安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017.07)。
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 「信念」だけで、物事を判断してはいけない。信念とか、<保守の気概>とかの精神論は、理性的判断を誤らせ、人々を誤らさせる狂信・狂熱を呼び起こすに違いない。
 「宣伝」をしてはならないし、それを単純に信頼してもいけない。「宣伝」する者は、事実に反していることを知っていても事実・真実だと偽って「宣伝」することがしばしばある。とくに<政治的論評・主張の分野>では。<評論家・政策研究家>の肩書きの「宣伝員」を信頼してはいけない。
 自戒を込めて、安本美典の文章も読みたい。この人は古代史、かつ「邪馬台国」所在地論争について語っているが、<歴史>全般にかかわるし、現在の種々の<認識・報道・論評>にも関係するだろう。
 上の文章を、日本共産党員に読ませても意味がない。しかし、阿比留瑠比や小川榮太郞には、多少はぶつけてみたい気がする。
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 安本美典は、もう10年前には<卒業>したつもりでいた。
 しかも、しっかりと吸収して、「邪馬台国」北九州説をほとんど迷うことなく支持し、中心地だったとする福岡県甘木市(合併によりいまは朝倉市)も訪れた。さらに、甘木の奥のわが故郷(?)秋月地区も訪れた。
 卑弥呼=天照大神説もほとんど迷うことなく支持していて、実在の人物を反映しているとみられる卑弥呼=天照大神は、3世紀半ば頃の活躍だったと推測している。
 とすると、神武天皇等々の年代も、おおよそのことは判断できる。
 いつぞや皇室の系譜はどこまで実証できるかについて、神武天皇、さらには天照大神にので遡らせることはせず、継体以降は確実だが、とか記したが、実証はほとんど不可能にしても、神武天皇や天照大神「に該当する人物」または人たちはいたのだろうと感じている(但し、血統関係の正確さはよく分からない)。
 安本美典は<神武天皇実在説>なるものに分類されていることもあるようだが、日本書記記載のそのままのかたちで存在していたなどと主張はしていない(はずだ)。
 安本美典は記紀編纂時期までの<天皇の代数>くらいの記憶・記録はあったのではないか、とする。あくまで「代数」で、在位年数とか、在位時代の記述までそのまま彼が「信じて」いるわけではない(はずだ)。
 一定時期以前に関する記紀の叙述を「すべて」作り話とする大勢の学者たちに反発しているのであって、逆に「すべて」がそのまま真実だなどと主張しているわけではない(はずだ)。
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 ちなみに、櫻井よしこは、簡単に「2600年余の」皇統とか平気で書く。
 神武天皇は紀元前660年に「即位」とされているので、以降、1940年は<紀元2600年>だったわけだ。
 しかし、天照大神より後の(とされる)神武天皇が紀元前7世紀の人の可能性は絶無だろう。
 そう<信じたい>・<信念を持ちたい>人は、どうぞご勝手に、なのだが。
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 上のように安本美典を「ほとんど迷うことなく支持」したいのは、その理性的・合理的な説得性による。「確率」の高さの主張かもしれないが、そのとおりだろうなぁ、と感じてしまう。立ち入らないが、余裕があれば、詳細にこの欄で紹介したいくらいだ。
 10年ほど前までに安本の本は読み尽くした感があったので、しばらくはずっと手にしなかった。
 ところが、数年前から、ぶ厚い書物をまだ多く刊行していることに気づいた。これまでの書物をまとめた全集ものかと思ってもいたが、実際に入手してみると、そうではなかった。
 安本美典、1934年~。もう80歳を超えている。そして、上の書物は今年7月の刊行。
 すさまじい精神力と健康さだと思われる。
 この人の本を立てて並べてだけで、2メートルほどの幅になるのではないか。
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 西尾幹二・全集第20巻-江戸のダイナミズム(国書刊行会、2017.04)。
 この本の巻末に、江戸のダイナミズム・原書(文藝春秋、2007)の出版を祝う会の叙述があり(なお、2007年!、としておこう)、その中に「安本美典」の返信文も掲載されている。
 安本美典と西尾幹二は、刊行本を交換し合うような程度の交際はあったらしい。ある程度は「畑」が違うので、西尾の本で安本の名を見て、興味深く思った。
 西尾幹二、1935年~。 
 お二人とも、すごいものだ。
 秋月瑛二は80歳まで絶対に生きられないと決めて(?)いるので、異なる世界に住んでおられるようだ。いくら「信念」があっても、いくら「根性」があっても、致し方ないことはある。

1664/明治維新⑤-吉田松陰と木戸孝允。

 一部の「保守」派あるいはかなり多くの国民にとって、吉田松陰は<偉人>なのだろう。
 そのことを全否定するつもりもないが、全肯定するつもりもない。<偉人>か否かは、どうやって決めるのか。
 水戸学-藤田東湖-吉田松陰(-一定の長州藩士)。とりあえず素人の頭の中に浮かんだラインを書いた。
 吉田松陰/留魂録-古川薫・全訳注(講談社学術文庫、2002/原著1990)。
 これに、松陰が「死罪」となった経緯を示す、松陰自身の文章が載っている。
 1859年。その後、10年も経つと、明治新政府ができて、「内戦」も終わっている(西南戦争等は別論)。
 以下は原文でも現代語訳でもない、読み下し文。最初と最後の1/3ほどだけ。
 「7月9日、初めて評定所呼び出しあり、三奉行出座…/
 …何の密議をなさんや。吾が性公明正大たることを好む。余、是に於て六年間幽閉中の苦心たる所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。」(p.82、第二章)
 古川の「解題」によると(おそらく基本的には諸研究者の一致はあると見られる)、「下獄」=死罪(斬首)の基礎は「自首」で、その内容は、①勤王派公卿・大原重徳を長州に招いて「反幕」の旗揚げを図ったこと、②老中・間部詮勝(鯖江侯)の「暗殺」を企てたこと。
 吉田松陰の死は安政の大獄による不当なもの(逆殺)という見方もあり、そういう印象もあるのかもしれない。
 だが、これを読むと、まず少なくとも、当時の政府側(江戸幕府)による<暗殺>ではないし、(上では分からないが)当時としてはとくに残虐な処刑方法だったのではなさそうだ。 
 逮捕-取調べ、という<手続>は履んでいる。そして「自白」を基礎にしている。
 「自白(自首)」内容が事実そのままだったかどうかは、判断し難い。
 だが、明治憲法・刑事法制下での「犯罪」に関する取り扱いを想定して比べてみても、政府要人の「暗殺」企図に対する処断としては、当時としてはありうるだろう、という感想は抱く。
 吉田松陰はすでに幕府(当時の国の政府)に知られていると勘違いしていたという話もあるし、<誠を尽くして説明すれば政府・公務員も理解してくれる>と考えた「甘さ」・「若さ」があった、ともされる(古川、p.43)。 
 おそらくは、吉田松陰の上の文章部分を基礎にして、長州藩士側の文献史料も含めて、吉田松陰の死と「その遺体の埋葬」に関する小説類は書かれている。
 当時としてはさほど無茶苦茶な処刑ではなかったとしても、<首と胴体の離れた>、髪が乱れて(出血があるから当然の推測だが)「軽く」なった松陰の遺体を抱えて、埋めた長州藩士たちが、井伊直弼や幕府に対して、<こいつらは絶対に許せない>と憤懣するところがあっても、これまた、自然なことかもしれない。
 引用は省くが、つぎの著(小説)は、松陰「殺害」=処刑によって<幕府は長州を敵に回してしまった>と、重要な画期だったとしている。
 村松剛・醒めた炎-木戸孝允(1987)。
 既にこの欄に書いたが、松陰の「死体」を見て、処理をした者数名の中に、木戸孝允(桂小五郎)と伊藤俊輔(・博文)がいた。
 吉田松陰の死の影響力の大きさは、この「留魂録」そのものにもあっただろう。
 これは、死の直前の遺書であり、かつ若き長州藩士たちへの「遺言」でもある。
 一番最後に記された個人名は、「利輔」、すなわちのちの伊藤博文だ。p.116。
 この書を、ある程度の範囲の者たちは<回し読み>をして、胸に刻んだ、という。
 松陰が彼らに教えたこと、「遺言」にも記したことが、一定の人々に<精神的>影響を与えなかったはずはない、と思われる。人によるし、程度の差はあるだろうが。
 木戸孝允(桂小五郎)は、五箇条誓文の文章を最終的に決定し、それの奏上の形式も最終的に決した、とされる(むろん当時の政権中枢の支持・決裁を受けたが)。
 よくも悪くも(?)、明治期初年までの木戸孝允は、重要な人物だ。
 何が、いかなる情念、怨念、あるいは人間関係、あるいは出身地(出身藩)が、木戸孝允等々を動かしたのか。
 誰についても言えるだろう。西郷隆盛についても。あるいは動く現在の<歴史>についても。
 <歴史を動かす・変える(現実化する)>のは、理念・建前論・知識等々の<綺麗ごと>だけではないのだ、後者もまた無視してはいけないが、という関心からも明治維新を考える。

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1658/中西輝政と西尾幹二②。

 中西輝政・歴史通2016年5月号(ワック)。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。
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 「共産主義は当時からアジアの平和をかき乱す最大の要因だったわけです。それをなぜ、懇談会報告書は無視したのか」。「中国共産党への迎合ではないか」。p.75。
 「歴史問題には、戦後日本が抱え続けてきた『闇』が伏在しているように思えてな」らない。p.76。
 「ロシア革命の1917年ごろから、日本は共産主義の悪しき影響を受け続けてきた」。p.77。
 「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメントが日米関係を最重視する特定の歴史観を『オーソドクシーとして動かさないぞ』という、非常に強い意志がある…」。p.78。
 以上、中西輝政・月刊正論2015年11月号(産経)。
 「20世紀は、四つの大きなイデオロギーに支配された世紀でした」。①ファシズム、②共産主義、③「白人文明覇権思想」、④「アジア主義」。日本の④が「イデオロギーとしては最も貧弱」。20世紀はあとの三つ、「つまり西欧が創り出したイデオロギーによって攪拌された」。p.83。
 「それらの根はただ一つ、フランス革命に端を発して」おり、「アメリカのフェデラリズム」と「ソビエトの革命思想」に流れるものの二つがあった。「それに対するアンチ・フランス革命の思想としてナチズムが生まれた」。p.83。
 「そういう思想どうしの戦い」、「 いわば西洋の『内戦』に日本は否応なく参戦させられた」。中国も「参戦」した。中国は共産主義の側に立ち、日本は「欧米帝国主義に最も近いようでいて、実際にはどれにも属さない形で、西洋の価値観との争いのボーダー上のに自らを置いて歴史を刻んできた」。p.84。
 20世紀の日本には「この三つのイデオロギーが全て入ってき」たが、「どのいずれにも徹底的に属することはしなかった」。常に「どこにも所属しない孤独の中にあった」が、「そういう自己像を、当の日本人自身が把握しきれていない。そこに今日の混乱の根がある」。
 以上、西尾幹二・月刊正論2015年11月号(産経)。
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 少しばかりのコメント。①中西輝政のいう「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメント」なるものがきわめて気になる。読売新聞社も、産経新聞社(フジ・産経グループ)もその中に入っているのではないか。
 ②西尾幹二の歴史把握は鋭いだろうが、分類・系統化に全て賛同するものではない。

1654/中西輝政と西尾幹二。

 相対的にはマシかもしれない西尾幹二や中西輝政も、所詮は自らの「名誉」を気にしながら生きてきていて、秋月瑛二のような無名の庶民には理解できない感覚を持っているのではないかと思ってきている。
 日本の「保守」もまた、このような人たちによって支えられているのではないように思える。
 櫻井よしこや「日本会議」派はむしろ弊害になっている。良識的な人々が「保守」思想に近づくことを阻んでいる。こんなのが「保守」なら、絶対に支持しない、と。
 「保守」系雑誌などにはいっさい登場しない論者たちや、「保守」などとは自称しない無名の多数の人たちの中にこそ、本当の「保守」的な人々はいるのではないか。
 ほんの一年余り前の文章、お二人はきちんと記憶されているだろうか。
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 安倍内閣戦後70年談話(2015)を批判しないで「沈黙している保守系のジャーナリストや評論家の多く」に「何か不純な政治的動機」があるとしたら、「まさしく『政治に譲った歴史認識』の最たるもの」だ。/
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。以上p.96-p.97。
 「保守派のオピニオン・リーダーたちが八月の『七十年談話』を、しっかり批判しておけば、安倍首相は十二月のあの慰安婦合意に至ることはなかったであろう」。p.101。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 以上、中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」歴史通2016年5月号(ワック)。
 「九〇年代に日本の名誉を守るために一生懸命調査し議論し論証を重ねてきた人たちは、悲しみが身に染みているに違いない。/
 あのときの論争は何だったのか、という言論のむなしさをひたすら痛恨の思いで振り返らざるを得ないであろう」。p.75。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。/
 言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。p.77。
 以上、西尾幹二「日韓合意、早くも到来した悪夢」月刊正論2016年3月号(産経)。

1649/天皇制はなぜ存続したか②。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。p.24。
 「天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか。」
 「天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各『時代の価値』・各『時代の精神』があったはずなのだ。/つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。」
 以上、この欄の執筆者。7/14付・№1644。
 天皇制が存続したのは、個々の時代の「固有の事情」による。天皇制は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきた。
このような見方に対して、3世紀後半からだと1600年以上、6世紀からだと1300年以上、これだけ長く「天皇」制度が続いてきたことの説明にはならないのではないか、との疑問がやはり生じるだろう。
 しかし、こうした長さは、直接に考慮に入れる必要はない。
 つまり、「制度」にはいわば<慣性>というものがあり、いったん設定されてしまうと、改廃を意識しないで長々と続く可能性がある、という面がある
 例えば、戦後72年、明治維新から先の敗戦まで78年、江戸時代の250年以上、平安時代の300年以上、いったん設定された各時代の「天皇」制度はそれぞれに長く継続してきた。つまり、日々あるいは毎年のように、その存続の是非が重大な問題として問われ続けたわけではない。
 上記の、家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
 この本は、天皇制が廃止されても不思議ではなかった、換言すれば「天皇にとって替わってもおかしくない権力者や当該時期が幾度も出現した」として、六回または六時期を挙げている。p.18-19。秋月において整理すると、以下になる。
 ①蘇我氏の独裁権力/6世紀後半-崇峻天皇暗殺。*聖徳太子一族滅亡もこの時期。
 ②道鏡/8世紀後半-称德天皇から皇位継承? *宇佐の神言。
 ③北条氏/1221年-承久の変・後鳥羽上皇等の挙兵。土御門・順徳も。
 ④足利義満/室町時代第三代・「日本国王」。*14世紀後半。
 ⑤織田信長・豊臣秀吉/16世紀後半。
 ⑥徳川氏/第三代家光時代くらいまで。*17世紀。
 これにおそらく、⑦?/第二次大戦終結直後-1945-6年、というのを加えてよいだろう。
 長い天皇制の歴史の中で、それが危機を迎えた、あるいはその存廃が現実的な問題になりえた、というのは、さほど多くないことが分かる。
 信長と秀吉を2回に分け、漠然と平安時代の藤原氏による皇位簒奪?というのを想像して加えてみても、計9回ほどにしかならない。
 これらの「危機」、「存廃が意識され得た」時期を、天皇制は、それぞれの時期の固有の事情でもって「乗り切った」のではないか、と思われる。
 その中には、上の④のように、<天皇を目ざした?>足利義満の「死」による決着もあった。
 この④は例外だが、それぞれの時期の世俗権力者は、天皇制の廃止に関して、廃止することのコストと利益、廃止しないことのコストと利益を、つまりは要するに簡単には<費用効果分析(CBA)>を行って、敢えて廃止しようとするときのコスト・不利益も考慮して、それぞれに天皇制そのものには手をつけない、という判断をしたのではないか、と思う。むろん、天皇・朝廷を存続させておくことのコストと「利益」(や「不利益」)もまた配慮したに違いない。また、各時代の様相として、存続を前提にすれば、天皇にある程度の「権力」が少しずつは認められたとも考えられる。
 簡単に書きすぎてはいるのだが-上の各人・各氏・各時期によって事情は異なる-、要するに、そういうことではないか。
 なお、応仁の乱以降の戦国時代は、信長まで、日本は「国家」だったのか、という疑問を持っている(その限りでは天皇制もきちんとは「連続」・「継続」していないのではないか、とのシロウト思いつきにつながる)。
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 現在の日本国憲法のもとでの天皇制を支える世俗権力とは何か ?
 憲法自体が根拠になっている。したがって、憲法制定者だ。建前として、国民主権という場合の「国民」 ? それとも、実質的には戦勝諸国、とくにアメリカ?
 また、<世襲・象徴>としての天皇制を憲法改正によって廃止しようとはしていない、憲法改正権者、つまり有権者国民が支えているとも言えるし、そのような改正発議をしようとはしていない、国会もまた、そして国会内多数派政党も、これを支えている。
 だが、論理的可能性としては、国会内多数派政党の「発議」、国民投票有権者の「国民投票」によって廃止されることが全くないとはいえない。
 この場合、神社神道の「長」、または<最高祭祀者>として憲法には明記されないままで一族は存続する可能性はある。
 上の発想は別として、ともあれ、天皇制の安定性というのは絶対的ではないし、そうではあり得ない、と考えられる。
 長く続いている日本の伝統だから今後も、という考え方はある意味では自然だ。
 このことを批判したり、否定するつもりはない。
 ただ、そういう世俗国民の<気持ち>によってこそ-維持されるとすれば-維持されるのであり、天皇制の中に、それに固有の<存続力>、存続すべき「価値」が先験的に?あるわけではないように思われる。

1648/松竹伸幸・レーニン最後の模索(2009)。

 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
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 あらためて、日本共産党の現在の綱領(2004年1月17日/第23回党大会で改定)から。
 ①「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。」
 ②「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。」
 ③「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…となろうとしていることである。」
 ④「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ロシア革命とレーニンを肯定的に評価し、かつ「市場経済を通じて社会主義へ」という基本方針を掲げていることが明らかだ。
 かつ、ここでの「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、不破哲三、志位和夫によると、レーニンが、1921年3月党大会における「ネップ」導入決定後、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のものとして明確にした、という。関係する文献には、この欄で何度か触れた。
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 1991年のソ連解体後もまた、ロシア革命・「社会主義」やレーニンの意味を決して否定しておらず、(スターリン以降はともあれ)これらを明確に擁護する学者・研究者もいる。すでに記した。
 溪内謙、藤田勇、笹倉秀夫
 しかし、レーニンによる「ネップ」期での<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の明確化(「社会主義」建設の一般論としても)、という把握を明確に述べている文献は、日本では、ほとんど日本共産党の幹部ものに限られる。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 外国(欧米)文献で、こんなバカなことを記しているのは、見たことがない。
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 日本ではほかに、「松竹伸幸」(「1955-、日本平和学会員」とされる)のつぎの文献が、不破哲三らの上の考え方を支持する。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 この問題をきちんと論じようとすれば、相当に関係文献を読んで検討しなければならないはずだ。
 しかし、2009年刊行の本でありながら、そのような形跡はない。注記はない。参考文献の一覧・後掲もない(統計資料についてだけ、なぜかある)。
 本文中に表に出てきているのは、レーニン全集からのレーニンの文章と、E・H・カー等のおそらくは10に満たない、この人物の主張の障害にならない文献だけだ。
 そもそもが、ロシア10月「革命」の「革命」性、あるいは、資本主義からの離脱という「社会主義革命」性自体を否定する文献が(日本も含めて)少なくない。
 そのような文献は、いっさい無視している。
 今回は予告として書いておくのだが、日本共産党綱領を踏まえつつ、不破哲三、志位和夫の「基本路線」から逸脱しないように、その基本的歴史理解を「敷衍」しているのが、上の本だろう。
 言うまでもなく、この「松竹伸幸」は(筆名の可能性がある)、日本共産党の党員だ、と明確に推察できる。
 日本共産党の幹部以外に、同党と同じ主張をする、同じ歴史理解をする「学者・研究者」もいる、ということを示すために執筆された、と推定される。
 そしてまた、社会一般、学界一般(ロシア・ソ連史、共産主義史・社会思想史等)に対してというよりも、上のことを日本共産党の一般党員に示すためにこそ、つまり不破哲三・志位和夫の「レーニン理解」に一般党員が(むろん何らかの分野の学者党員を含む)疑問を抱かないようにするためにこそ、執筆され、刊行されたのではないか、と想像される。
 一時期の間、見失っていたが、再発見した。
 リチャード・パイプスの関係時期およぴ「ネップ」関連部分は、すでに試訳を掲載した。
 L・コワコフスキの著にも、数頁の言及はある。
 その他、ネップに関する論及のある欧米文献は(粗密は様々だが)、100までいかないとしても、数十は瞥見している。
 じっくりと、この立派な?松竹伸幸著と比べて、この松竹著を批判的に分析いていきたい。

1644/天皇制はなぜ存続したか-家近良樹著(2007)。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
 「その時々の権力…が、天皇を必要だと認めたからこそ、天皇というシステムが存続したのだ」。「時代を離れた検討はありえない」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
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 上の家近良樹著の初めに、ずばり「天皇制はなぜ存続したのか」(第一章第一節)との表題があり、日本史学上の「支配的見解」として、上のことが書かれている。
 支持したい。思いめぐらせ、考えていたこととほとんど合致する。
 「万世一系の…」というのは勿論言葉の綾で、「万」ではない。神武天皇から数えても、120余代(とされている)だから、およそ100倍に誇張している。
 また、かりに日本書紀等の記載の多くを信頼するとして、いったいいつの頃から天皇家は継続しているかというと議論は分かれている。天照大神・神武天皇からずっと、その前からもずっと、というのは、(実際には誰かの血を承けているのは間違いないだろうが)、「お話」としてはともかく、信じ難い(「神武」天皇にあたる、かつ「天皇」にあたる人物又は集団がいただろうとは思う)。
 継体天皇以降というのは、有力だと思われる。この人はそれ以前の皇統の女性と結婚したことに日本書記上ではなっているので、継体以降は、「女系」天皇だ、とも言える。
 もっと前の天皇の実在性を肯定する学者たちもいる。崇神天皇等々。
 それにしても、5~6世紀頃以降、1000年以上も続いているとすると、貴重な、稀な家系であることに変わりはない。そしてずっと、(言葉としては7世紀からだが)「天皇」という呼称を受け継いできた。
 こう長く続いたのには、それなりの理由・根拠があったに違いないと、誰もがあるいは多くの人が考えたに違いない。 
 上の家近著が紹介する、津田左右吉説、石井良助説もそうだ。
 しかし、天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか、と考えてきた。
 何か特殊で、日本らしい「価値」を持っていたからこそ長く続いてきた、というのは、容易に思いつきやすいが、その「価値」なるものは曖昧模糊とした、「宗教」・「信念」的なものになってしまうだろう、と感じていた。
 また、そもそも、天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各「時代の価値」・各「時代の精神」があったはずなのだ。
 つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。
 早い話が、明治維新以降、そして明治憲法下の「天皇」と現日本国憲法のもとでの「天皇」は、類似性もあるが、そしてそのことを強調する向きもあるが(「日本会議」派歴史観)、世俗権力との関係、または自らがもつ「権力」の有無等において、異質なものだ。
 大戦前後についてすらそうなので、古代天皇制の時代と中世・近世の天皇制の時代における「天皇」の意味・位置づけは大きく異なる。古代天皇制と言っても、藤原氏の台頭の前後で、大きく異なる。
 「祭祀王」としての連続性、という主張があるのかもしれない。
 しかし、「祭祀王」として存続し続けることができたのは、「祭祀王」だったから、というのでは全くない。
 秋月瑛二は、①「民主主義対ファシズム」という虚偽の構造認識を打破し、②断固として「反共産主義」の立場に立ち、③<日本的な自由・反共産主義>の国家・社会を目指したい。
 こうした構図の中では、「天皇」は大きな意味・価値を持たない。天皇制護持か否か、「天皇を戴く国柄」を維持するか否か、これは最大の決定的な主題では、全くない。産経新聞社・桑原聡の「思い」ではダメだ。
 このようなことを主張・提唱する人々には、では<日本共産党あるいはその他の共産主義者たちが擁護し、利用する「天皇」制でもよいのか>?と、問いかけたい。
 先の国会の(たぶん)内閣委員会で、日本共産党・小池晃は自民党議員たちとともに起立して賛成し、自由党・森裕子は着席のままで反対していた。このようなことが先々でもありうるだろう。共産主義者・日本共産党は、目的のためならば、「天皇」制もまた、利用するに違いない。<情勢に応じて>それを護持しようとするかもしれない。
 日本の<天皇・愛国>主義者たちは、櫻井よしこも含めて、冷静に歴史と日本を見つめる必要がある。

1643/ボルシェヴィキ・犯罪者集団-2010年のアメリカ刊行書。

 Yuri Felshtinsky, Lenin and his Comrades (New York, Enigma Books, 2010).
 =ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
 本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
 この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
 明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
 1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
 1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
 <レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
 ③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
 この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
 上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
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 「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
 過去のこの部分が、この本の対象だ。
 この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
 ①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
 ②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
 ③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
 レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
 ④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
 そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
 ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
 すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
 そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
 ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
 ⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
 そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
 ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
 彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
 そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
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 内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
 「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
 以上。

1637/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究③。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 一 この本の最終頁はp.219で、もともと長くはない。
 しかし、1頁に横14行、縦36字(14×36)の504文字しか詰まらない作り方をしているので(つまり一つの活字文字が大きいので)、1頁あたりの文字数だけ比ると同年7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店)の2/3以下程度しかない。
 したがって、かりにこれと同様の文字数を詰め込むと、最終頁のp.219というのは、じつはp.140からp.150になってしまう。厚さ・外観だけでいうと、かなりの<上げ底>だ。
 二 p.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さも目を惹く。
 A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34(うち全て英語の原書が11)(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。計、133件。かつまた、本文の内容との関係は不明なままだ。
 以上は、すでに書いたことの要旨。
 三 何と言っても際立つのが、ある意味では目を剥くのは、この「主要参考資料」に記載されている書物類の著者についての<差別>だ。もう少し各著者について調べてからと思っていたが、とりあえず分かることだけでも記しておこう。
 すでに別のテーマの際に簡単に記したが、①西尾幹二、藤岡信勝のものは、一つもない。一冊も「参考資料」とされていない。
 ②これに対して、中西輝政のものは、堂々とある。
 A/中西輝政・国民の文明史(2003)。
 B/中西輝政・日本文明の興廃(2006)。
 このうちAは、西尾幹二・国民の歴史(1999)のいわば姉妹書のようなものだ。ともに産経新聞社刊行であるとともに、末尾に「新しい歴史教科書をつくる会」の役員名簿が記載されているなど、個人著だが同時に1997年に正式発足の「つくる会」の企画?にもとづいてもいるようだ。
 要するに、この会の「運動」の一つとしても位置づけられるものだったのではないか。
 あらためて確認すると、「編・新しい教科書をつくる会」と、きちんと表紙に記載されていた。
 同じ性質の、同じく日本の歴史全体に関する書物だ。
 しかし、○中西輝政、×西尾幹二。これが歴然としている。なぜか?
 C/西尾幹二=中西輝政・日本文明の主張-『国民の歴史』の衝撃(PHP、2000)。
 これはどうか。西尾著の『国民の歴史』刊行の翌年の二人の対談本。内容は、中西輝政の上のA・Bに相当に重なる(主題がとの意味で、同じ文章があるとの趣旨でない)。
 だが、おそらくきっと、西尾幹二の名があるからだろう。これは×。
 本来のテーマから逸れるが、ここで以下を付記しておく。
 2007年以降にいずれかまで、「日本会議」・椛島有三と中西輝政と関係は良好?だったようで、つぎの二つの著を確認できる。
 D/小堀桂一郎=中西輝政・歴史の書換えが始まった!-コミンテルンと昭和期の真相(明成社、2007.10=<日本の息吹ブックレット>)。「日本の息吹」とは日本会議機関誌(月刊)。
 E/中西輝政・日本会議編・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP、2008.11)。
 2015年安倍内閣戦後70年談話への反応内容等、西尾幹二と中西輝政の二人は「かなり近い」と感じていたが、かつての、こうした<待遇?>の違いは、なぜ?
 なお、DもEも上記椛島有三著の刊行後のもので、当然に<参考資料>には入っていない。
 ③西尾幹二や藤岡信勝の書物がいっさいなくて、なぜこの人等のこの著は記載されるのか、と奇妙に感じるものがある。
 ・加藤陽子・戦争の日本近現代史(2002)。
 ・田原総一朗・日本の戦争(2000)
 その他、朝日新聞社刊のつぎの二つもある。
 ・草柳大蔵・実録満鉄調査部/上・下(1983、朝日新聞社)。
 ・日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編・太平洋戦争への道/1~7(1987、朝日新聞社)。
 自分の理解・主張を支えるものだけでなく、反対のものも挙げられて当然なのだが、そうすると、<日本帝国主義>、<日本の侵略>に関する膨大な日本の「左翼」の書物を挙げる必要がある。上の4つは、椛島有三において、どういう位置づけなのか?
 こんなのもある。
 ・佐藤優・日米開戦の真実(2006)。
 記載されているつぎの本は「大東亜戦争」に関係があったのか、確かめてみたい。
 ・百地章・政教分離とは何か(1997)。
 また、さすがに?、渡部昇一著3冊、渡部昇一編著1冊も堂々と?日本文献の最後にある。
 どう書いてもはっきりしているのは、つぎのことだ。
 西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない。無視されている。排除されている。
 もともと、多数の「参考資料」をどのように生かしたのかは定かでない、とすでに書いた。したがって、ほとんど<推薦図書>なのではないか、とも書いた。
 そうすると、加藤陽子や田原総一朗の位置づけに読者としては迷うけれども。
 しかし、ともあれ、西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない、排除されているのは、不思議だ。そして、奇妙だ。
 何らかの<意図>があるに違いない、と考えて当然だ。
 <公平さ>などよりも<政治的判断>を優先する。これ自体を批判するつもりはない。「日本会議」事務総長の本なのだから。
 「日本会議」事務総長の、2007年という時期の本。2007年に、何があったか?

1636/明治維新④-「歴史」なるものの論理。

 「ああ、それにしても。この空の青さはどうだ。この雲の白さはどうだ。
  ああ、それにしても。あの朝の光はどうだ。この樹々の緑はどうだ。」
  小椋佳「この空の青さはどうだ」1972年、より
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 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。」
 <日本会議>設立宣言(1997年5月)。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
 この二つを合成すると、「明治維新」による「近代」国家の形成で「列強の植民地にならずに済んだ」という、大まかには誰でも承認しそうな立派な?歴史観の叙述がなされているようだ。
 余計だが、ここで興味深く感じるのは、<保守>代表のような印象を与えるかもしれない(少なくともそう意図していると見える)「日本会議」も、堂々と「近代国家」という、ごくありきたりの概念を採用していることだ。
 この「日本会議」は、ある意味では、あるいはある側面では、特殊な考え方を別に採用しているのではなく、ごくふつうの、平凡な、ある意味では目新しくない、そして-いろいろな形容句はありうる-陳腐な概念と論理を使って思考し、活動していると思われる。
 そしてむしろ、概念や論理をどれだけ掘り下げて緻密に考察しているかが、この団体の人々には問われているとも思われる。
 戻って、上の立派な?歴史観について、立ち入る。
 「明治維新」を通過したからこそ植民地にならずに済んだ(独立の近代国家になった)。
 この叙述自体に、論理的にはじつは問題が介在している、と考える。
 第一に、「明治維新」かそうでないか、という二項対立的思考に陥ってはいないか、ということ。この場合、「そうでない」とは、徳川幕府体制の維持を無意識に念頭に置いている可能性がある。
 つまり、「明治維新」だけが<植民地にならずに、独立の近代国家になった>という現実をもたらしたのか否かだ。
 少なくとも論理的には、そんなことはない。
 「明治維新」なるものを経ないで、かつ<徳川幕府体制のそのままの維持>もしないで、<植民地にならずに、独立の近代国家になる>可能性はあった、というべきだ。
 論理的に、そうだ。実際もそうだったと考えているが、その方向へとは立ち入らない。
 第二に、「明治維新」が<植民地にならずに、独立の近代国家になる>必要な条件だったとかりにして、「明治維新」という概念で何を理解するか、だ。
 現実にあった「明治維新」なるものを、西南雄藩等出身者が一部公卿と天皇・朝廷とともに遂行した変革または改革だったと理解するとするのが大まかには通念かもしれない。
 しかし、「明治維新」なるものが、現実にあった(<歴史になった>)それ以外のものでもよかった可能性が、論理的にはある。
 つまり、いろいろな要素があるので多岐の論点に言及すると複雑になり過ぎるので簡潔にいうが、かりに「西南雄藩等出身者」ということを前提にしても、現実にあったのとは違って、長州・薩摩両藩出身者たち以外のものが優位を占める下級武士(・藩主)が遂行した「明治維新」になる可能性もあった、と見るべきだろう。
 その場合に、最終的には現実には木戸孝允が確定し、その奏上方式の原案も作ったとされる<五箇条誓文>なるものが発表された、とは限らない。
 論理的に、そうだ。実際にも、なお種々の選択の余地が、主体・理念・組織等の面であり得たと思われる。そうであっても、<植民地にならずに、独立の近代国家になった>ということは生じ得た、と考えられる。
 ややこしいことを、書いたかもしれない。
 結局のところ言いたいのは、<現実化した>・<歴史になった>ものが「正しかった」・「やむを得なかった」・「それなりの根拠・理由があった」という、よくありがちな<歴史観>・<歴史の見方>から解放されなければならない、ということだ。
 いかに「明治維新」を肯定的に評価したくとも、それは、現実にあった「明治維新」を主導した中心人物たち、櫻井よしこがよく言う<明治の先人たち>を高く評価するという理解の仕方に必然的につながらなければならないのでは、全くない。。
 「明治維新」なるものの理解も問題にしなければならないし、それ以外の選択肢が(徳川幕府継続のほかに)あったかどうかもまた、考慮すべきだ。
 あまりに単純な(と私には思われる)歴史理解が評論家・運動団体に散見されるので、あえて記した。
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 <歴史的決定論>あるいは<運命論>を過去に投影させるのは、将来に向けて日本共産党ら共産主義者が前提にしているかのごとき<不可避の歴史法則>と変わらないのではないか(不破哲三と櫻井よしこの発想の共通性・類似性をこの欄で指摘したことがある)。
 このような考え方を書いたのは、レーニン・「ロシア革命」のことを思い浮かべたにもよる。
 また、関連して、リチャード・パイプスの、<現実に生じてきたことを(無意識にであれ)必然・不可避のものと是認するのは、「勝者」のために釈明・弁明している>という趣旨の文章に接したことも大きい。
 幕末・明治維新そして明治期について、何となくこういうイメージを持つ者は、櫻井よしこや「日本会議」派以外にも多いのではないか。
 ロシアで1917年以降に起きた「現実」が<正しい>・<やむを得ない>・<それなりの理由がある>ものだったとすれば、その過程で、またレーニン時代にもスターリン時代にも、そして第二次大戦後においてすら、「体制」に反抗して(ときにはその旨を一言ふたこと洩らしただけで)殺された、しばしば残虐に殺された個々の人々の人生はいったい何だったのか。ロシア・ソヴィエト国家に限らない。
 <現実になった歴史>について、「正しい」とか「間違っている」とかの、価値判断を少なくとも簡単に下すのは、絶対に避ける必要がある。<歴史は勝者が作る>のであり、正しい・間違いというレベルの論争点ではない、ということをまずは確認すべきだろう。価値判断は関係がない。先にある問題は、<事実(歴史)になった>ことは何か、だ。
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 日本の被占領期における「日本国憲法」制定(形式上は明治憲法改正手続による)についても、似たようなことは言える。 
 現憲法を全体として「否定」したい気分がある程度の範囲にあるのは分かるとしても、現憲法は<無効>だとか、明治憲法復元とかの主張になるのを見ると、社会通念や論理上の問題とは別に、ある程度において<精神病理学>上の問題がある、と思っている。
 この点は、いずれまた(再び、何度も)触れる。
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 レシェク・コワコフスキは、「神は幸せか?」と題する論考の中で、明らかにつぎの二つを区別していた(凡人の私でも理解できた)。<*出典を、7/12に訂正した。>
 すなわち、経験(experience)の世界と想念(imagination)の世界。
 現実の世界と観念の世界。当たり前の区別のはずなのだが、これを十分に明確には区別していない文章を月刊雑誌や週刊誌に書いている人がいる。

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
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 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
 ---
 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1632/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(1996)②。

 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
 1995-96年の二人の対談を内容とするこの本で、西尾幹二は「全体主義」について-これは下記の頁ではスターリン、ヒトラー、中国を含むものとして用いられている)、とくに、「運動としての全体主義」、「きわめて能動的な運動としての全体主義」ということを指摘している。p.136。これに対比されるのは、「単なるイデオロギーではありません」ということのようだ。p.136。
 他の本にもあったような気がする。しかし、必ずしも理解しやすい指摘ではない。静態的・状態的にではなく、動態的・行動的に把握すべきとの趣旨だとは分かる。
 しかし、批判しているのでは勿論ないが、昨秋に以下のE・ノルテの本が早くにあることに気づいて、何やら納得した。
 Ernst Nolte, Die Faschistischen Bewegung (独語, 1966).
 これには、つぎの邦訳書がある。しかし、元々の書名は、<… Bewegung>、つまり、<…の運動>が正確だ。
 ドイツ現代史研究会訳・ファシズムの時代/上・下(植村出版、1972)。
 この研究会の代表格は、「訳者あとがき」によると山口定(欧州政治史、立命館大・大阪市立大)だと見られる。
 ともあれ、「ファシズム運動」よりも「ファシズムの時代」の方が、類似の「…時代」と訳せる表題のE・ノルテの書物が未邦訳であることもあり、選ばれたかに見える。
 E. Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche(独語, 1963(Taschenbuch, 1984)). 〔ファシズムとその時代=ファシズムの時代(未邦訳)〕
 本体・内容に立ち入らないので、些細な、かつ推測しての、したがって何ら確実性のないことだが、E・ノルテの複数の書物をある程度は読んだ上で、西尾幹二はあえて上のように「運動としての…」ということを強調したかったのではないか。
 リチャード・パイプスはその1994年の著<ボルシェヴィキ体制下のロシア>=Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)でこう書いていた。試訳は、この欄の3/29付・№1473も参照。
 「1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった」。
 ソヴィエト(スターリン?)、ナチスおよびイタリア・ファシズムには共通性がある、つまり一括りできるとたぶん戦後早くに指摘したのだったが、上のごとく「静態的な分析」だとも見られた。
 読まないままで言うのだが、西尾幹二は上記のように、あえて「運動」性を強調している。おそらくは、リチャード・パイプスの上の書物を読んではいない(たぶん、E・ノルテのものは見ている)。
 些細かもしれない情報源探しを、もう一つする。
 西尾幹二は、上の本では(まだ)発見できなかったが、何度か、世界大戦、とりわけ第一次の世界大戦について、ヨーロッパ(欧州)の「内戦」だった、と指摘している。
 この点が重要な論点として選ばれて、指摘されているわけではない。しかし、複数回にわたると、読み手である私の印象に残った。
 たしかに、「世界」大戦を戦った諸国は、第二次とされるものを含めても、多くはヨーロッパ諸国だ。とくに第一次とされるそれは、最初はトルコが、遅れてアメリカと日本が関与しているものの、ほとんど欧州諸国がほとんど欧州の領域内で行った戦争だ。
 <ヨーロッパ内戦>という見方は、十分に首肯できる。また、こういう命名を勝手にして、日本の歴史学もそのまま受容して(させられて)いるのだから、欧州人の<ヨーロッパ=わが世界>という見方がよほど根強いものであるかを感じさせられる。
 今はかつてほどではなく、アジア・日本やイスラム世界への関心は強くはなっているかもしれないが、しかし、欧州又は欧米中心主義はなおも根強いだろう。
 知的世界、学問・研究の分野でも、英語を母国語とする英米(・カナダ)と、ドイツとフランス(・イタリア)およびその他の欧州といったあたりで、いちおうは<完結>しているような印象がある。日本の研究者・読者などは気にすることなく、母国である国の研究者・読者と上の広狭はあるが<欧米>の研究者・読者を意識しておけば足りる。
 日本の学界の閉鎖性・そして世界に(欧米に?)稀な<容共産主義>性は、日本語だけの世界で、日本だけでいちおう<完結>しているためではないか、と思っている。
 また、日本に独特の<特定保守>の存在も、日本語だけで通じさせるしかない、<島国>に特有なことだろう(一般に日本固有のことを否定はしない)。
 学界もメディアも「論壇」も、ある程度の人口と「市場」をもつ日本という国の中で、<閉鎖的に>、<自己完結して>、つまりは日本語の分からない欧米人の批判の目にほとんど全く晒されることなく、活動している。日本共産党なるものの存在もまた、その一つ。
 ソ連解体後に<ユーロ・コミュニズム>もまた解体したことの意味を、ほとんどの日本人は理解していないように思われる。消極的意味での、日本の<特殊性>だ。
 想定外に迂回した。
 世界大戦を「欧州の内戦」と捉えるのは、じつはE・ノルテがずばり行っていたことだった。
 Ernst Nolte, Der europaeische Buergerkrieg 1917 - 1945: Nationalsozialismus und Bolschewismus (独語, 2000). 〔1917年-1945年のヨーロッパ内戦-ナチスとボルシェヴィズム〕
 1917年・「ロシア革命」と1945年・二次大戦終焉=ヒトラー・ナチス崩壊の間の時期を、一つの時代、つまり<ヨーロッパの内戦>の時代と把握する。
 西尾幹二は、これをまた、参照しているのではないか。
 ついでに書くと、E・ノルテはドイツでの<歴史家論争>の一方当事者で、その<歴史観>(敢えて簡潔化すれば、レーニン→ヒトラ-)は、むしろ<多数派>だったのではないかと見られる<左派>のユルゲン・ハーバマス(Jurgen Habermath)らに批判された。
 日本では、ユルゲン・ハーバマスの書物は多数翻訳されていて、岩波書店はこの人の論考類をわざわざ日本で一つにまとめた一冊の書を刊行している。
 しかし、エルンスト・ノルテの上の本は、邦訳書がないまま、15年以上を経た。
 なぜか。ドイツの戦後の書籍の紹介や翻訳でも西尾幹二には奮闘してほしかったと思うのだが、無い物ねだりなのかもしれない。
 西尾幹二を批判しているのではない。立場の違いはあれ、欧州で広く読まれかつ意識されていると思われるE・ノルテ、さらにはフランスのフランソワ・フュレの扱いは、日本では奇妙だ。反共産主義へと進まないようにする、産経新聞社も含む日本のメディア・出版業界での<自主規制>があると考えられる。もちろん、「左翼」学者・研究者が加担しており、朝日新聞社や岩波書店は、それを当然だと思っている。
 <自主規制>。そう、まだ日本は「閉ざされた言語空間」の中にいる。占領が終わって全ての傾向の欧米世界の書籍・論考等が「自由」に流入していると思ったら、大間違いなのだ。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)。この人の「マルクス主義」に関する大著の邦訳書すらない。しかも英訳版発行の1978年から、もうほとんど40年になる。このことを知ったのが、今年になって最も衝撃的なことだった。かなり逸れてしまった。

1629/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(PHP,1996年)。

 「許してくれるだろうか、僕の若いわがままを。
  解ってくれるだろうか、僕の遙かな彷徨いを。/
  僕の胸の中に語りきれない実りが、たとえ貴女に見えなくとも。」
  小椋佳・木戸をあけて(1971年)より。
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 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
一 この書の関連年表によると、前月に記者会見ののち、1997年1月、「新しい歴史教科書をつくる会」設立総会。初代会長は、西尾幹二。
 西尾幹二・国民の歴史(産経、1999/文春文庫、2009)等とともに、この「つくる会」に対する社会的反応はすごかった。当時に日本共産党および「左翼」系の、これに反発する書物は小さいのを含めると100冊を超えたのではないか。また、「新しい教科書」不採択運動も、日本共産党を中心に繰り広げられた。
 当時はまだ、<分裂>していなかった。産経新聞-扶桑社-育鵬社が、2007年以降に、「つくる会」とは別の教科書を発行するに至った。「つくる会」系二教科書とか、あいまいに言われる。
 ついでながら、菅野完・日本会議の研究(2016)は、なぜか<扶桑社新書>
 二 上の本を見てみると、計8章のうち共産主義・社会主義を扱うのは一つだけで、<第4章・ソ連崩壊にも懲りない社会主義幻想-時代遅れの学説で綴られる「独断」史観>だ。但し、他の章でもマルクス主義等に言及があることは、目次で分かる。
 <保守>論者の共産主義(・マルクス主義・社会主義)に関する本(!あるかどうか)や論考類・雑誌記事等をかなり見てきたが、この本程度でも、まだ優れている方だ。
 かつて戦後にも、林達夫(『共産主義的人間』)とか猪木正道(『共産主義の系譜』)とかの骨太反共産主義知識人・研究者はいたと思うが、かつ文芸評論家的<保守>はこんな仕事ができないと思うが、なぜかほとんど消えてしまった。
 中川八洋は<反共産主義>で優れていると思うが、欧米等の戦後から最近までの共産主義・「左翼」運動や議論について、詳細にフォローしていないし、たぶんL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』も(この人はたぶん英語を簡単に読めるが)知らないのではないかと思われる。
 また、日本の近年の<共産主義・社会主義陣営>の動きを精確に把握しているわけでもない。基礎にある理論的・理念的な知識・教養が、この人を支えているのだろう。
 三 さて、もう少し細かく、上の本(のとりあえず上の章)を見る。
 まず生じる感想は、スターリン批判が強いが、レーニンまで、あるいは<レーニン主義>まできちんと目が配られていない。当時の私自身の認識・理解ぶりはさて措く。
 例えば、西尾は語る。①「スターリンの犯罪を個人の犯罪と片付けて」いいのか。p.135。
 そのとおりだが、レーニンもまた、すでに「犯罪」者だった。
 ②「ナチス」国家と「スターリン型独裁体制との近似性・類似性…」、ハンナ・アレントはヒトラーのシステムは同じ1930年代に「スターリンの帝国にすっかり類似の形態をとって」具現化していたと指摘した。p.135-6。
 そのとおりだが、しかし、①と同旨だが、レーニン時代はよくて又はまだましでスターリン時代に「全体主義」国家になったのではない(そんなことはハンナ・アレントも言っていない)。
 ③「シュタージ(東独)」と「ゲシュタポ(ナチス)」は構造と様態がよく似ている。p.137。
 そのとおりだろうが、レーニン時代、すでに1918年早くには、ゲペウにつながるソ連の秘密政治警察が作られている(チェカ、初代長官・ジェルジンスキー)。
 東ドイツの類似のものは、スターリンそしてレーニンに行き着く。
 総じて、この時代の日本の知的雰囲気を考えると(悲しいことに現在もまだよく似ているが)、スターリンの批判はまだ許されても、レーニン批判までは進まないことが多い。
 なぜか。レーニン・ロシア革命を擁護する、そしてスターリンは厳しく批判する日本共産党とその周辺共産主義者と「左翼」がいた(いる)からだ。出版社、マスコミを含む。
 スターリンを厳しく批判してレーニンを美化する点では、<トロツキスト>も変わりはないし、日本共産党を離れたりあるいは同党から「除名」されたりした者も、共産主義者・容共産主義で残るかぎりは、日本の特定の共産党を批判しても、レーニンとロシア革命は「否定」しない。
 日本の<保守>派もまた影響を受けているか、そもそも、レーニンとスターリンの違いなどに全く興味を示さない、<そんなことはもう片が付いた、天皇・愛国・日本民族こそ大切>という者が多い。涙が出るが、いずれかがほとんどだ。
 日本でも、<スターリンとヒトラー>を比較した欧米の書物はたぶん複数邦訳書となって出版されている。
 最近に気づいたが、<レーニン、スターリンとヒトラー>と並べた欧米文献はあるが、全く日本では翻訳書が刊行されていない。これは、別にきちんと述べよう。
 四 誰についてもそうだが、西尾幹二は情報のソースまたは思考の方法の根源について、何によっているのだろうと、考えることがある。
 私自身がほんの少しは欧米文献や欧米歴史学界等の雰囲気を知って気づいたことがある。
 それは、西尾幹二は、ドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)の議論を知っている、ということだ。昨年あたりにようやく気づいたのだから、何の自慢にもならないが、西尾はとくに明記していないものの、1990年代までに、Ernst Nolte の書物を複数、何らかのかたちで参照している。
 長くなったので、もう1回書く。


1626/明治維新②-櫻井よしこと伊藤哲夫。

 「五箇条の御誓文と十七条の憲法」は「普遍的な価値観で支えられています。それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本」ではないか。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84。 
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 表記にいう「明治維新」にはいわゆる幕末ないし江戸幕府崩壊過程を含む。または概念上は含まないとしても、これに関連する主題として、後者についてもここで触れる。「考」を省いたが、メモ書きという趣旨は同じ。
 櫻井よしこは上の論考(?)でしきりと日本と日本人にとっての「五箇条の御誓文」(五箇条誓文)の意義を強調する。これを「認識」するのが「保守の基本」なのだそうだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の計8章(終章を含む)のうち「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題される。
 しかし、「五箇条誓文」への言及はない。言葉としても出てこない。「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していた、とか書いてもよさそうなのに、一切ない。
 伊藤哲夫の以下の三著。ついでだが、②と③は「著」というには小学生低学年用ほどに活字が大きすぎ、椛島有三の2007年著にも似て、かなりの厚化粧感がある。 
 ①伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(高木書房、2000)
 ②伊藤哲夫・教育勅語の真実(致知出版社、2011)
 ③伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社、2013)
 このうち①は計5章で成っていて、2章の題は「国のかたちを求めて」。
 これの節にあたるものが二つあって、「五箇条の御誓文を考える」と「五箇条の御誓文はいかにして成立したか」。つまり一つの章全体で<五箇条誓文>を扱う。これに否定的、消極的ではむろんない。計38頁をかける。
 教育勅語に関する②は、第1章の冒頭で<五箇条誓文>から始める。明治維新観は別に扱いたいが、興味深いので、ここでも少し引用。
 「重要なのは明治維新は…開国、すなわち国を根本的に開く改革であったという事実でしょう。その改革の出発点になったのが、五箇条の御誓文でした」。/「中でも四、五項目は」、「旧来の陋習を捨て」、…という「先取の意気込みにあふれています」。p.19-20。
 ③は、計5章で、そのうちの一つの章の題が「五箇条の御誓文から始まった明治憲法」。たまたまだろうが、計38頁をかける(内容重複は吟味していない)。
 伊藤哲夫がいかに<五箇条誓文>を重視しているかが分かる。
 本人に問い詰めたわけではないが、櫻井よしこは、これら伊藤哲夫の書物を、上の2000年以降はしっかりと読んだと思われる。
 櫻井よしこは、<日本会議>刊行文献(椛島有三はもちろん)や伊藤哲夫著を座右に置いて、仕事をしているのだと思われる。
 日本共産党の党員研究者・学者が、綱領は簡単だからたいていは役立たないとしても、自分の専門分野に関する同党文献・政策集あるいは不破哲三ら幹部の関係文献を見て確認しつつ(用心しつつ?)論文等を書き、かつ参照文献にはいっさい挙げない、のだろうというのと、全く同じだと思われる。
 最初の方にもどって、櫻井の上記月刊正論論考(?)計6頁は、印象だが、1/10以上は明らかに「五箇条の御誓文」への言及とその紹介で費やしている。平均で1頁に1回は、<五箇条誓文>に触れている。多すぎるだろう。
 いつから、櫻井よしこはかくのごとく変わったのだろうか。
 先の戦争にかかる「歴史認識」とともに、日本の<特定保守>派の明治維新に関するイメージ、論及の仕方・内容も興味深いものがある。

1620/明治維新考①-天皇・神道と櫻井よしこ・井沢元彦。

 明治維新につき、考える。
 古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.85。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号
 しかし、井沢元彦のこんな文章もある。
 「ここに、江戸時代を通じて徐々に形成された朱子学(外国思想)プラス神道(国内思想)の合体が生んだ、『天皇教』というべきものの完成形がある」。
 井沢元彦・逆説の日本史20/幕末年代史編Ⅲ(小学館文庫、2017.04)p.350。
 =<単行本>同・同/<西郷隆盛と薩英戦争の謎>(小学館、2013)p.318。
 「ここに」というのは、真木和泉、平野国臣、そして久坂玄瑞に至る考え方で、天皇(この時期は孝明天皇)が実際に・現実に何を考えていようと、天皇の考え=「大御心」は絶対に正しく「絶対の正義」である<はずだ>という考え方だ。実際・現実ではなく、自分たちで作り出すことができ、その「大御心」に従うことこそが正義になる。
 井沢元彦は続ける。
 「長州閥によって作られた帝国陸軍」、「長州の遺伝子を受け継ぐ青年将校たち」の二・二六事件で、彼らは「昭和維新断行、尊皇討奸」を叫び「大御心に沿って君側の奸を排除した」と称した。/彼らは、「あるべき姿の『天皇』に天皇自身が従うべきだ」と考えた。
 明治維新、天皇、神道。櫻井よしこと井沢元彦と、どちらがより適切に理解しているだろうか。いや、どちらが、少なくともよく<思考>しているだろうか。
 こんな文章を書いていて、こんな文章を簡単に書いてしまって、ああ恥ずかしい、ああ気の毒だ、後世に残るというのに、ああ恥ずかしい、気の毒なことに、と感じることが、櫻井よしこの文章について頻繁にある。
 追記。櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一、八木秀次らは、譲位に関して「あるべき」天皇像を勝手に作り、今上天皇もそれに「従うべきだ」と考えた。特定の狂信にもとづく、「天皇教」だと言えるだろう。


1613/理性・理念・理論と感性・情念・怨念-現実の歴史。

 人が何か行動するときの<衝動>・<駆動力>といったものについて考えている。
 例えば、本郷和人が、つぎの本を書いて刊行したのは、たんなる学究意欲ではないだろう。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、1917年01月)。
 執筆依頼があったのかもしれないが、「いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさん」いて、中には「知っていてわざとウソをついているのでは」という人もいる、という現状に抗議したい気持ちが強かったのが一つの動機だったのではないだろうか。
 文章や原稿の執筆、書物の刊行、人はなぜこんなことをするのか。
 「食べて生きていく」本能がそうさせている場合もありうる。当然ながら、原稿料・印税等に魅力がある(こんなものは、この欄の秋月瑛二には全くない)。
 自分の<思想>・<考え方>を広く知ってもらいたいとの動機の場合もありうる(大洋の海底に生息する秋月瑛二にもほんの少しだけある)。
 いろいろな衝動・駆動力が混じっているように思われる。
 青少年期に、親その他の肉親・親族、あるいは親しいまたは敬愛する人の死を体験し、かつその死後の遺体を見てしまった若者たちは、その後の人生への影響を何ら受けないだろうか。
 もちろん、人間関係の近さにもよるし、死の原因にもよるし、遺体の処理は時代によって異なるので、時代にもよる。
 いま関心を持っているのは、レーニンの人生とその若年期における実兄の帝制下での刑死との関係だ。
 知りうる情報を増やして、また触れる機会があるかもしれない。
 吉田松陰(1830~1859)。
 子細に立ち入らない。テロルではなく、少なくとも当時においては、「合法的に」処刑された。死罪。井伊直弼、坂本龍馬、大久保利通らがのちに<テロル>に遭って殺されたのとは異なる。しかし、<殺された>ことに変わりはないとも言える。
 この松陰の遺体・死体を現に見て、埋葬した者も当然にいた。
 秋月瑛二でも知っている、のちの著名人、明治維新の功労者とされる者が二人いた。
 おそらくは当然に、松陰と同じ長州藩の者になる。
 桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文(-俊輔)。
 瀧井一博・伊藤博文-知の政治家(中公新書、2012)は、松陰の処刑後について、伊藤を中心において、こう書いている。
 「たまたま木戸孝允の手附として江戸に在勤」していて、「木戸とともに遺骸を引き取る」ことになった。/「変わり果てた師の姿が多感な青年の心に大きな衝撃を与えたことは想像に難くない」。
 伊藤博文、1841~1909年。この年に、満18歳になる。
 但し、瀧井によると、松陰と伊藤はタイプが違い、「松陰の影響から脱した時点」から伊藤の伊藤たる所以が始まるともいえる、とする。
 泉三郎・伊藤博文の青年時代(祥伝社新書、2011)は、根拠史料は分からないが、虚構ではなくして、つぎのように書く。
 伊藤は木戸らとともに、松陰の「遺体の受取」に行く。
 「桶に入れられた遺体は丸裸で、首は胴から離れ髪は乱れて顔には血がついており、見るも無惨な姿だった」。二人らは、「憤慨し、涕泣した」。
 そして、「顔を洗い、髪を整え、桂〔木戸〕の着ていた襦袢で遺体をくるみ、伊藤の帯を使って結び、首を胴体にのせて棺に収めた」。同じく処刑された橋本左内の墓の傍らに「埋葬」した。
 「幕府への憤り、その理不尽な酷刑への憤慨は、十九歳の伊藤に強烈なインパクトを与えた」。
 古川薫・桂小五郎(上下/文春文庫、1984/原書1977)は、小説だ。上の場面をつぎのように描写している。
 「粗末な棺桶」に役人が案内して、「吉田氏の死体です」と言った。一人(尾寺新之丞)が「走り寄ってその蓋をとった」。
 「首と胴の離れた人間の遺体が、無造作に投げこまれている。全裸にされていた」。
 「先生!」。尾寺が「泣き声で首を取り出し、乱れた髪を束ねた」。
 桂が「松陰の顔や身体を丁重にぬぐい清め」、伊藤が「首と胴をつなごうとすると」、役人に制止された(後日の検視の際に叱られると)。
 「小五郎は襦袢を」脱ぎ、遺体に着せて「伊藤は帯を解いてそれを結んだ」。
 「ようやく衣類にくるまれた松陰の胴体を、小五郎がかかえあげ、甕の中におさめた」。
 「まるで子供のような松陰の軽い体重に、強い衝撃を覚えて」、桂は思わず「ああ」と声を洩らす。<中略>
  「松陰の体重の、あまりにも軽すぎる感触が、いつまでも小五郎の手にのこった」。それは「人の命のはかなさ」に驚いたというよりも、そんな「矮小な肉体しか持ち得ない人間が抱く巨大な思想のふしぎさ」に心打たれたのだろう。上巻p.175-177。
 木戸孝允=桂小五郎、1833~1877年。この年に、満26歳だった。
 とくに結論を導こうとしているのではない。
 ただ、人は理念・理屈・理想だけでは動かないだろう。木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文にとって、一時期であれ「師」だった吉田松陰の<死に様>を見たことは、その後の彼らの人生に何らかの影響を与えたに違いないだろう、と推測できる、またはそう推測できるのではないか、というだけのことだ。
 吉田松陰に限らず、他のとりわけ長州藩の仲間たちの「死」を体験してきたに違いない。そのような桂や伊藤たちは、いったいどのような<情念>らしきものを抱くいたのだろうと、想像してみる。
 別に彼らに限らない。幕末・維新時の記録に残る全ての者たちが、理想・理念で全て動いていたわけではなくて、何らかの感情・執念・情念・怨念で行動していたに違いない、と思っている。
 西郷隆盛も、徳川(一橋)慶喜も、等々々、みんなが。
 表向きの、<声明文>とかの公式文書類だけに頼って、歴史が叙述できるはずはない。
 もっとも、例えば、日本共産党・不破哲三のように、もっぱらレーニンの文献だけ(たぶん全集だけ)を読んで、<レーニンの時代>を理解しようとしている者もいる。
 あるいはまた例えば、<五箇条の御誓文>のような(権力所在未確定の時期も含めて)薩長・新政府の公式発表文を読むだけで、<明治維新>の意味が分かるはずがないだろう。伊藤哲夫や櫻井よしこらの明治維新理解に、その弊はないか。

1601/ケレンスキー首相-R・パイプス著10章12節。

 前回からのつづき。
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 第12節・蜂起鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁③。
 7月6日の夕方にペテログラードに帰ったケレンスキーは、ペレヴェルツェフに激しく怒って、彼を解任した。
 ケレンスキーによると、ペレヴェルツェフは、『レーニンの最高形態での国家叛逆を文書証拠が支えて確定する機会を、永遠に喪失させた』。
 この言い分は、レーニンとその支持者に対して行ったその後の日々の果敢な行動が失敗したことについて、尤もらしい釈明をしたもののように見える。
 『レーニンの最高形態での国家叛逆を確定する』努力がなされなかったとすれば、それは、レーニンの弁護へと跳びついた社会主義者たちを宥める気持ちからだった。
 それは、『すでにカデット〔立憲民主党〕の支持を失ってソヴェトを敵に回す余裕のない政府が、ソヴェトに対して行なった譲歩』だった。(*)
 このように考察すると、7月とそれ以降数ヶ月のケレンスキーの行動は、際立っていた。//
 ケレンスキーはルヴォフに代わって首相になり、陸海軍大臣職を兼任した。
 彼は独裁者のごとく行動し、自分の新しい地位を見える形で示すために、冬宮(Winter Palace)へと移った。そしてそこで、アレクサンダー三世のベッドで寝て、その机で執務した。
 7月10日、コルニロフ(Kornilov)に、軍司令官になるように求めた。
 コルニロフは、7月事件に参加した兵団の武装解除および解散を命令した。
 守備軍団は10万人へと減らされ、残りは前線へと送られた。
 プラウダその他のボルシェヴィキ出版物は、戦陣から排除された。//
 だが、このような決意の表明はあったものの、臨時政府は、ボルシェヴィキ党を破滅させるだろう段階へとあえて進むことをしなかった。公開の審問があれば、国家叛逆活動に関して所持している全ての証拠資料が、呈示されていただろう。
 新しい司法大臣のA・S・ザルドニュイ(Zarudnyi)のもとに、新しい委員会が任命された。
 その委員会は資料を集めたが-10月初めまでに80冊の厚さになった-、結局は法的手続は始まらなかった。
 この失敗の理由は、二つあった。すなわち、『反革命』への恐怖、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕と対立したくないとの願望。//
 7月蜂起によってケレンスキーには、右翼がボルシェヴィキの脅迫を利用して、君主制主義者がクーを企てるのではないかとの強迫観念的な恐怖が、染みついた。
 彼は7月13日にイスパルコムで挨拶し、『反革命勢力を刺激する行動』から構成員は距離を置くように強く要求した。そして、『ロシア君主制を復古させる全ての企ては断固として、容赦なき方法で抑圧される』と約束した。
 ケレンスキーは、多くの社会主義者たちのように、7月反乱を打ち砕いた忠誠ある諸兵団の献身さを、喜んだというよりむしろ警戒した、と言われている。
 彼の目からすると、ボルシェヴィキが脅威だったのは、そのスローガンや行動が君主制主義者を助長するという範囲においてのみだった。
 ケレンスキーが7月7日に皇帝一族をシベリアに移送すると決定したのは、同じような考えにもとづくものだったと、ほとんど確実に言える。
 皇帝たちの出立は、7月31日の夜の間に、きわめて秘密裡に実行された。
 ロマノフ家の者たちは、50人の付添いや侍従たちの随行員団に同伴されて、トボルスク(Tobolsk)へと向かった。それは、鉄道が走っておらず、したがってほとんど逃亡する機会のない町だった。
 この決定の時機-ボルシェヴィキ蜂起およびケレンスキーのペテログラード帰還の三日のち-は、ニコライを皇位に復帰させる状況を右翼の者たちが利用するのを阻止することに、ケレンスキーの動機があった、ということを示している。
 このような見方は、イギリスの外交部のものだった。//
 関連して考えられるのは、ボルシェヴィキを仲間だと見なし、それへの攻撃を『反革命』の策謀だと考え続けている、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の機嫌を損ないたくないという願望だった。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルは、政府のレーニンに対する『誹謗中傷運動』を繰り返して攻撃し、訴追を取り下げて、拘留されているボルシェヴィキたちを解放することを要求した。//
 ボルシェヴィキに対するケレンスキーの寛大な措置は、ボルシェヴィキは彼とその政府をほとんど打倒しかけたにもかかわらず、翌月にコルニロフ将軍に関して見せた素早いやり方とは著しく対照的だった。//
 政府とイスパルコムのいずれもの不作為の結果として、ペレヴェルツェフが主導して解き放とうとしたボルシェヴィキに対する憤激は、消散した。
 この両者は、右翼からの想像上の『反革命』を怖れて、左翼からの本当の『反革命』を消滅させる、願ってもない機会を失った。
 ボルシェヴィキはまもなく回復し、権力への努力を再び開始した。
 トロツキーは、1921年の第3回コミンテルン大会の際にレーニンが党は敵との取引で間違いをしたとを認めたとき、1917年の『性急な蜂起のことを頭の中に想い浮かべた』、とのちに書いた。
 トロツキーは、つぎのように付記した。『幸運にも、我々の敵には十分な論理的一貫性も、決断力もなかった』。(203)
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  (*) Richard Abraham, Alexander Kerensky (ニューヨーク, 1987), p.223-4。ペレヴェルツェフはネクラソフとテレシェンコが言い出して7月5日の早いうちに解任されたが、二日長く職務にとどまつた。
  (203)トロツキー, レーニン, p.59。 revolution
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 第10章、終わり。第11章の章名は、「十月のク-」。但し、第11章の最初から「軍事革命委員会によるクー・デタの開始」という目次上の節までに、48頁ある。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
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  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
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 ③へとつづく。

1594/三谷博・明治維新を考える(2012)と櫻井よしこ。

 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
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 全部を読んだわけではないが、ふと印象に残る叙述を見つけることがある。
 仲正昌樹(1963~)のつぎの二つも、そうだ。なお、この人の書物はたいていは所持している。
 仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014.05)。
 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・B選書、2006.02)。
 三谷博(1950~)のつぎの本も、きわめて興味深い。この人の書物も、かなり所持している。
 三谷博・明治維新を考える(岩波現代文庫、2012.11/原書・有志舎、2006)。
 櫻井よしこのように、明治維新・明治天皇・五箇条の御誓文を単純素朴に「讃える」悲痛な人もいて、何とも嘆かわしい。櫻井よしこが旧幕府を<因循固陋>・<非開明>とイメージし、「機能停止」に陥っていた(週刊新潮2013年10月10日号)と理解するのも、何とも嘆かわしい。
 この人は<明治維新>についてきちんとその関連歴史を<勉強>してみようという気がたぶん全くない。だから、「無知」をさらす。あるいはそもそも、そうイメージするのが「保守」だと思い込んでいる。
 三谷・上掲書p.219-220は、日本共産党員だったとみられる遠山茂樹の明治維新に関する書物に論及したあとで、最後の方で、自分の論として、つぎのような旨を言う。
 ①明治維新における「復古」とは、現状の「全面否定」で、「保守」とは正反対の、「進歩」・「革命」の発想に近い
 ②「復古」の行き先が「神話的伝承の世界」だったことは、明治維新の「復古」・改革に「かなりの自由度」を与えた。明治政府が「文明開化」・「ヨーロッパ化」を「臆面もなく」追求できた条件の一つは、この「空虚さ」にあった
 別途の議論が必要だろうが、櫻井よしこや「日本会議」が追求しているらしい「日本の国柄」らしきもの、「天皇を戴く日本」というものには、じつは何の<価値>もない、と秋月瑛二は考えている。
 すなわち、<日本の天皇・皇室>は、いざとなれば、共産主義とも両立しうる。あるいは、逆の言い方をすると、日本の共産主義者たちは、いざ必要とあれば、<日本の天皇・皇室>の存在をも利用する。
 <天皇・愛国>の主張だけでは決して、反共産主義の主張にはならない。
 かくして、三谷博の上記に関連させると、明治維新の「復古」対象としての「神話的伝承の世界」が、何の<価値>もない「空虚」だった、ということもじつによく分かる。
 神話世界・天皇中心政治の中に、いかなる「価値」をも取り込むことができたわけだ。
 つい数年前まで尊皇と「攘夷」を唱えた者たちが、「臆面もなく」、開国・文明開化の政治路線を歩んだ。
 明治維新を主導したともされる薩長(土肥)勢力とは、いったい何だったのか。
 櫻井よしこが高く評価する光格天皇も、天皇・皇室と幕府に関する基本的考え方については、孫の孝明天皇と変わらなかったと思われる。
 孝明天皇は対幕府協調・「公武合体」路線、あるいは世俗政治・行政は原則的に幕府に任せるという「大政委任」の考え方で、幕府を潰そうとは考えていなかった。
 幕府内にも優秀な官僚たちはいた。井伊直弼もそうだっただろう。彼らこそが「開国派」(通商条約締結・施行)で、これに天皇・皇室側が注文をつけた最初は、岩倉具視を含む「一部の公卿たち」の働きかけによっていた。井伊直弼は、水戸藩士らの「テロル」に遭った。理由は<違勅>だったのだろう。
 「開国」的動きを掣肘し、それを「反幕府」の運動へと変形させようとしたのは、-旧幕府側にも善良な?ミスはあったが-長州藩や「一部過激公卿」だった。のちの著名人物、「元勲」たちがいっぱい出てくる(薩摩藩は最後の局面で幕府をつき離す。そしてここにも「元勲」たちがたくさん生まれる)。
 その結果として、<暴力>・大きな「内戦」を伴う政権体制の基本的な変化=「革命」的なものになってしまった。
 徳川時代の最初・家康に「復古」したのでは、江戸幕藩体制を否定できない。鎌倉時代戻っても武家政権になるし、平安時代も<藤原摂関政治>だった。となると、奈良・飛鳥の<律令制度>をさらに遡って、「純粋な」日本の往古にたち戻らなければならない。神武天皇時代の初心・初業への「復古」なのだ。
 かくして、体制否定の論理または「イデオロギー」が、<天皇>親政、<神武天皇創業という日本の古代に立ち返る>ことだった、と思われる。だがこれはおそらく、元々は一部の者のみが考えていたことで-長州にある程度の「信者」はいたが-、孝明天皇没後の1867年くらいから「公」になり、多くは<後づけ>で用いられたのではないかと想定している。旧時代とは異質という意味での「新しい」ものである必要があった。
 今から見ての当時の最終盤の現実的な争点は、幕府機構または「徳川家」を残すか否かだった。
 幕府機構は解体しても、旧幕臣や徳川氏も協力する新体制、というのも、想定しえただろう。
 それをすら、つまり「徳川氏」の政治関与すら絶対に許せない、と考えた者たち・集団がいた。彼らには、<天皇第一>(これは反幕府・幕府解体につながる)の「原理」は必要だったかもしれないが、攘夷も、開国も、「基本政策」問題は全て、おそらく関係がなかった。権力奪取の後で、種々の重要な政策問題に付け焼き刃的に対処せざるを得なかった。
 だから、より漸進的な変革はありえた、と考えられるが、現実は、より血が流れる、より多くの人が殺戮される「革命」的なものになった。当初の<理念宣告>を貫くために、神仏分離・廃仏毀釈等々の「無理」もしなければならなくなった。
 明治維新の「復古」とは「革命」に近い、という三谷博の理解も、十分に納得できる。
 現在の日本の「特定」の「保守」派らしき人々が、明治維新をかつての日本の素晴らしい事象のごとく描くのは、どこかおかしいのではないか。エドマンド・バーク的な「保守主義」の立場にたてば、むしろ批判的立場にいても不思議ではないのではないか。
 あるいは、彼らは<保守革命>という、劇的な変化を夢想しているのではないか、とも思われる。それは、日本共産党的「左翼」・共産主義者たちと、発想は変わらない。
 いずれにせよ、明治維新に関する「歴史認識」いかんもまた、鋭く問われている、と言えるだろう。明治維新に関する上の簡単な秋月の叙述は、粗雑な、思いつきの文章にすぎない。



1593/犯罪逃亡者レーニン①-R・パイプス著10章12節。

 前回第11節終了からのつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁①。
 こうした事態が推移していたとき、ケレンスキーは戦線にいた。
 恐れおののいた大臣たちは、何もしなかった。
 タウリダ宮の前の数千人の男たちの叫び声、見知らぬ目的地へと走る兵士や海兵を乗せた車の光景、守備軍団が放棄したとの知識、これらは、大臣たちを絶望感で充たした。
 ペレヴェルツェフによると、政府は、実際には捕らえられていた。//
 『私は、資料文書を公表する前に、7月4日蜂起の指導者たちを逮捕することはしなかった。彼らの決意が彼らの犯罪の活力の十分の一でもあれば、そのときに彼らはすでに実際にはタウリダ宮の臨時政府の一部を征圧して、何の危険を冒すことなくルヴォフ公、私自身そしてケレンスキーの議員団を拘束することができた、という理由でだけだ。』//
 ペレヴェルツェフは、この絶望的な状況下で、兵士たちの間に激しい反ボルシェヴィキの反応を解き放つことを期待して、レーニンのドイツとの関係について、利用できる情報の一部を公表することに決めた。
 彼は二週間前に、この情報を公表しようと強く主張していた。しかし、内閣は、(メンシェヴィキの新聞によると)『ボルシェヴィキ党の指導者に関する事柄には、慎重さを示すことが必要だ』という理由で、彼の提案を却下していた。
 ケレンスキーはのちにレーニンに関する事実を発表したのは『赦しがたい』過ちだったとしてペレヴェルツェフを非難したけれども、ケレンスキー自身が7月4日に騒擾のことを知って、『外務大臣が持つ情報を公開するのを急ぐ』ように、ルヴォフに対して強く迫った。
 ニキーチン総督およびポロヴツェフ将軍と確認したあとで、ペレヴェルツェフは、報道関係者とともに80人以上のペテログラードおよびその周辺の駐留軍団代表者を、彼の執務室へと招いた。
 これは、午後5時頃のことだった。タウリダでの騒乱は最高度に達していて、ボルシェヴィキのクーはすぐにでも達成されるように見えた。(*)
 将来に見込まれるボルシェヴィキ指導者の裁判での最も明確な有罪証拠資料を守るために、ペレヴェルツェフは、持っている証拠の断片だけや、価値がきわめて乏しいものを公表した。
 それは、D・エルモレンコ(Ermolenko)中尉のあいまいな調書で、彼はドイツ軍の戦時捕虜だった間に、レーニンはドイツ軍のために働いていると言われた、と報告していた。
 こうした伝聞証拠は、政府関係の事件では、とくに社会主義者関係のそれでは、多大に有害なものだった。
 ペレヴェルツェフはまた、ストックホルムを経由したボルシェヴィキのベルリンとの金銭関係に関する情報も、ある程度は発表した。
 彼は愚劣にも、信用のないかつてのボルシェヴィキ・ドゥーマ〔帝制国会下院〕議員団長、G・A・アレクジンスキーに対して、エルモレンコの調書の信憑性を調べてほしいと頼んだ。//
 司法省にいる友人、カリンスキーはすぐに、ペレヴェルツェフがまさにしようとしていることをボルシェヴィキに警告した。それによってスターリンは、レーニンに関する『誹謗中傷』の情報をばらまくのを止めるようにイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に求めた。
 チヘイゼとツェレテリは、ペテログラードの日刊新聞社の編集部に電話をかけ、イスパルコムの名前で、政府が発表したことを新聞で公表しないように懇請した。
 ルヴォフ公も、同じようにした。そして、テレシェンコとネクラソフ(Nekrasov)も。(**)
 全ての新聞社が、一つだけを除いて、この懇請を尊重した。
 その一つの例外は、大衆紙の < Zhivoe slovo >だった。
 この新聞の翌朝の第一面の大見出し--レーニン・ガネツキーと共謀スパイたち--のあとにはエルモレンコの調書と、ガネツキーを通してコズノフスキーとスメンソンに送られたドイツの金に関する詳細が続いていた。
 この情報を記載した新聞紙は、街中に貼られた。//
 レーニンとドイツに関するこの暴露情報は、ペレヴェルツェフの説明を受けた連隊の使者から伝わり、諸兵団に電流を通したかのような効果をもった。
 ほとんど誰も、ロシアはソヴェトと友好関係にある臨時政府によって統治されているのか、それともソヴェトのみによって統治されているのか、などとは気に懸けなかった。敵国と協力していることに関して、感情的になった。
 敵国領土を縦断した旅で生じたレーニンにつきまとう疑念によって、レーニンは兵団にはきわめて不人気になっていた。
 ツェレテリによると、レーニンは制服組から嫌われているのでイスパルコムに保護を求めなければならなかった。
 タウリダに最初に到着したのはイズマイロフスキー守備兵団で、プレオブラジェンスキーと、軍楽隊のあとで行進したセメノフスキーの各兵団が続いた。
 コサック団も、現われた。
 兵団が接近してくるのを見聞きして、タウリダ正面の群衆たちは、慌てふためいてあらゆる方向へと逃げた。何人かは、安全を求めて宮の中に入った。//
 このときタウリダ宮の内部では、イスパルコムとボルシェヴィキ・工場『代表団』との間の議論が進行中だった。
 メンシェヴィキとエスエルたちは、政府が救出してくれるのを期待して、時間を潰していた。
 政府側の兵団がタウリダ宮に入ってきた瞬間、彼らはボルシェヴィキの提案を拒否した。//
 反乱者たちがそれぞれに分散したので、ほとんど暴力行為は行われなかった。
 ラスコルニコフは海兵たちにクロンシュタットへ戻るように命令し、400人をクシャシンスカヤ邸を守るために残した。
 海兵たちは最初は離れるのを拒んだが、勢力が優る非友好的な政府側の軍団に囲まれたときに屈服した。
 深夜までには、群衆は、タウリダにいなくなった。//
 事態の予期せぬ転回によって、ボルシェヴィキは完全に混乱に陥った。
 レーニンは、カリンスキーからペレヴェルツェフの行動を知るやただちに、タウリダから逃げた。それは、兵士たちが姿を現わす、寸前のことだった。
 レーニンが逃げたあと、ボルシェヴィキは会議を開いた。その会議は、蜂起を中止するという決定を下して終わった。
 正午頃に彼らは、大臣職の書類を配布されていた。6時間後には、探索される獲物の身になった。
 レーニンは、全ては終わった、と思った。
 彼は、トロツキーに言った。『今やつらは我々を撃ち殺すつもりだ。やつらには最も都合のよいときだ』。(181)
 レーニンはつぎの夜を、ラスコルニコフの海兵たちに守られて、クシェシンスカヤ邸で過ごした。
 7月5日の朝、新聞紙< Zhinvoe slovo >の売り子の声が通りに聞こえているときに、レーニンとスヴェルドロフは抜け出して、仲間のアパートに隠れた。
 つづく5日間、レーニンは地下生活者になり、毎日二度、いる区画を変更した。
 他のボルシェヴィキ指導者たちは、ジノヴィエフを除いて、逮捕される危険を冒して公然としたままだった。ある場合には、逮捕するのを要求すらした。//
 7月6日、政府は、レーニンとその仲間たちの探索を命じた。全員で11人で、『国家叛逆(high treason)と武装蜂起の組織』で訴追するものだった。(***)
 コズロフスキーとスメンソンは、すみやかに拘引された。
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  (*) NZh = Novaia zhin', No. 68 (1917年7月7日), p.3。この事態に関するペレヴェルツェフの説明は、つぎの編集部あて書簡にある。NoV = Novoe vremia, No. 14-822 (1917年7月9日), p.4。ペレヴェルツェフは、その回想をつぎで公刊した、と言われる。PN = Poslednie novosti, 1930年10月31日。しかしこの新聞のこの号を私は利用できなかった。
  (**) Zhivoe slovo, No. 54-407 (1917年7月8日) p.1。参照、Lenin, PSS, XXXII, p.413。ルヴォフは、早すぎる公表は機密漏洩罪になるだろうと編集者たちに言った。  
  (181) Leon Trotzky, O Lenin (モスクワ, 1924), p.58。
  (***) Alexander Kerensky, The Crucifixion of Liberty (ニューヨーク, 1934), p.324。その11人とは、以下のとおり。レーニン、ジノヴィエフ、コロンタイ、コズロフスキー、スメンソン、パルヴゥス、ガネツキー、ラスコルニコフ、ロシャル、セマシュコ、およびルナチャルスキー。トロツキーはリストに載っていなかった。おそらくは、ボルシェヴィキ党の党員ではまだなかったためだ。彼は7月末にようやく加入した。トロツキーはのちに、収監される。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1590/七月三日-五日の事件②-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事②。
 他の工場や軍事分団から集まって群衆は膨れ上がり、その数は数万人になった。(+)
 ミリュコフ(Miliukov)は、タウリダ宮の正面で繰り広げられた情景を-自然発生的だという見かけにもかかわらず、群衆の中に分散していたボルシェヴィキ党員によって緊密に指揮されていた情景を-、つぎのように叙述する。//
 『タウリダ宮は、言葉の完全な意味での、闘争の焦点(the focus)になった。
 全日にわたって、武装した軍団がその周辺に集まり、ソヴェトが最後には権力を奪えと主張した。<中略>
 (午後4時頃、)クロンシュタットの海兵たちが到着し、建物の中に入ろうとした。
 彼らは司法大臣のペレヴェルツェフ(Pereverzev)に対して、ジェレツニャコフ(Zhelezniakov)の海兵やアナキストがドゥルノヴォ(Durnovo)邸に拘禁されている理由を説明せよと要求した。
 ツェレテリが出てきて、反抗的な群衆に、ペレヴェルツェフは建物内にいない、すでに辞任してもはや大臣ではない、と告げた。
 前者は本当だったが、後者はそうでなかった。
 直接に釈明されることがなかったので、群衆たちはしばらくは、どうすればよいか分からなかった。
 しかし、ついで、大臣たちはお互いに連帯して責任を負っている、との叫び声が鳴り響いた。
 ツェレテリを拘束しようとする企てがなされたが、彼は宮の中へと何とか逃れた。
 チェルノフ(Chernov)が宮から姿を現わして、群衆を静かにさせた。
 群衆はすぐに彼に突進し、武器を持っていないかと探した。
 チェルノフは、こんな状態では話せない、と宣告した。
 群衆は、沈黙した。
 チェルノフは、社会主義者大臣たちの仕事ぶりについて、一般的にかつ、とくに農務大臣である彼自身について、長い演説を始めた。
 カデット〔立憲民主党〕の大臣に比べれば、まだ安全なこと(bon voyage)だった。
 群衆たちは反応して叫んだ。
 「なぜ以前に、そう言わなかったのか?
 土地は労働者に、権力はソヴェトに移されていると、すぐに宣言せよ!」
 一人の背の高い労働者が拳を大臣の面前につき突けて、怒って叫んだ。
 「おい、おまえたちにくれたら、権力を奪え!」
 群衆の中の数人がチェルノフを捕まえて、車の方向に引き摺った。他の者たちは一方で、彼を宮の方に引っ張った。
 大臣のコートは引き千切られ、クロンシュタットの海兵たちはその身体を車の中に押し込んで、ソヴェトが権力を奪うまでは解放しないと宣言した。
 何人かの労働者たちがソヴェトが会議をしている部屋に突入して、叫んだ。
 「同志たちよ、チェルノフをやっつけているぞ!」
 混乱の真っ只中で、チハイゼはチェルノフを自由にさせるべく、カーメネフ、ステクロフ(Steklov)およびマルトフを指名した。
 しかし、チェルノフはトロツキーによって解放された。トロツキーは、その場に着いたばかりだった。
 クロンシュタットの海兵たちはトロツキーに従い、彼はチェルノフを連れて会議室に戻った。』(*) //
 そうした間に、レーニンは、目立つことなくタウリダに向かっていた。そこで、現場の事態に関与することなく、事態の展開に依拠しながら、権力を握り取るか、それとも示威活動は民衆の怒りが自然発生的に暴発したものだと宣告するか、を考えた。そして、その情景から姿を消した。
 ラスコルニコフは、レーニンは満足しているようだと思った。(165) //
 全ての行動がタウリダ宮で起こったわけではなかった。
 群衆がソヴェト所在地に集まっている間に、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構が指令した武装分遣隊員が、戦略的な諸地点を占拠した。
 ボルシェヴィキが勝利する見込みは、ペトロ・パヴロ要塞の守備軍団、8000人余りがボルシェヴィキの側へと動いたことで、かなり良くなった。
 武装車のボルシェヴィキ分団は、いくつかの反ボルシェヴィキ新聞社から機械装備を取り上げた。
 アナキストたちは、新聞社の中で最も自由な< Novoe vremia〔新時代〕>を掌握した。
 他の分遣隊は、フィンランド駅とニコライ駅で警護任務を剥奪し、ネフスキー通りとその両側の通りに機関銃の砲台を設置した。この後者は、ペテログラード軍事地区の参謀がタウリダ宮から出てくるのを阻止する効果をもった。
 ある武装分団は、レーニンのドイツとの取引に関する資料が保存されている防諜機関の建物を攻撃した。
 抵抗には遭わなかった。
 リベラルな新聞社の判断によると、その日の推移の結果、ペテログラードはボルシェヴィキの手のうちに渡された。(167)//
 かくして段階は、正規の奪取へと設定された。すなわち、表面的にはソヴェトの名前での、現実にはボルシェヴィキのための、権力の奪取。
 この最高の事態を用意して、ボルシェヴィキは、54の工場から厳選した代表団をすでに編成していた。彼らは、ソヴェトが権力を掌握することを要求する請願書を持って、タウリダ宮で呼びかけることになっていた。
 この者たちは、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕が占有している部屋に強引に入っていった。
 そのうち数人が、話すのを許された。
 マルトフとスピリドノワ(Spiridonova)は、彼らの要求を支持した。マルトフは、これは歴史の意思だ、ときっぱりと述べた。
 この時点で、反乱者たちが身体を張って埋め尽くして、ソヴェト所在地を奪ってしまうことになるようにも思える。
 ソヴェトには、このような脅威に対する何の防御もなかった。ソヴェトを防衛しているのは、全体で6人の護衛だった。//
 だが、それでもなお、ボルシェヴィキは最後の一撃(coup de grace)を放つことに失敗した。
 これは組織が貧弱だったからか、決意のなさによるのか、あるいはこの双方のゆえか、を語るのは不可能だ。
 ニキーチン(Nikitin)は、つぎのように述べて、ボルシェヴィキによる権力奪取の失敗を、拙劣な計画によるとして非難した。//
 『蜂起は、即興的に行なわれた。敵方の全ての行動は、それらが準備されていなかったことを示した。
 連隊や大きな分団は、主要地域に入っても、自分たちの直接の使命を知っていなかった。
 彼らは、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕のバルコニーから、「タウリダ宮〔ソヴェト本部〕へ行け、権力を奪え」と告げられた。
 彼らが行ってつぎの命令を待っている間に、それぞれが混じり合ってしまった。
 対照的に、トラックや武装車に乗った10人から15人の分隊や車の小分遣隊は、完全に自由な行動をした。全市にわたって大きな顔をした。
 しかし彼らも、鉄道駅、電話局、食糧貯蔵所、兵器庫という重要拠点や広く開いている全ての入り口を奪い取れという具体的な命令を受け取らなかった。
 街路は血で染まった、しかし指導者がいなかった……。』(**)//
 しかし、最終的な分析をするならば、ボルシェヴィキの失敗は、不適切な戦力や拙劣な計画以外の要因で惹起されたと思われる。
 今日の研究者たちは、市〔ペテログラード〕は、求めているボルシェヴィキのものだった、ということで合意している。
 上のような要因ではなくて、最高司令官の側にある、最後の瞬間の精神力(nerve)の失敗が原因だった。
 レーニンは、たんに決心できなかったのだ。
 この数日間をレーニンの側にいて過ごしたジノヴィエフによると、今は『やる(try)』ときなのか、そのときではないのか、レーニンは声を出して迷い続けていた。そして、そのときではない、と決めた。
 何らかの理由で、レーニンは、飛躍をする勇気を呼び覚ますことができなかった。
 ドイツとの取引が政府によって暴露されるということが引っ掛かっていて、その暗雲が彼を思いとどまらせた可能性がある。
 のちに二人ともに収監されていたとき、レーニンへの隠れた批判をしていたラスコルニコフに、トロツキーは言った。
 『おそらく、我々は過ちをおかした。
 我々は、権力を奪うべきだったのだ。』//
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  (+) ボルシェヴィキはその数を、50万人またはそれ以上だと推算する。V. Vladimir in : PR =Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.40。これはひどく水増しされている。示威活動に参加した群衆は、おそらくこの数の十分の一を超えなかった。参加したと知られる守備軍の一隊による分析が示しているのは、兵団のせいぜい15-20%が関与し、またはたぶんそれよりも少なそうだ、ということだ。B. I. Kochakov, in : Uchenye Zapski Leningradskovo Gosudarstvennogo Universiteta, No. 205 (1956), p.65-66、G. L. Sobolev, in : IZ, No. 88 (1971), p.77、を見よ。
 示威活動者の数をきわめて誇張するのは、そのときものちもボルシェヴィキの政策で、その目的は、自分たちは『大衆』を指揮しているのではなく彼らの圧力に対応しているのだ、という主張を正当化することにあった。目撃者による証拠資料である、以下を見よ。A. Sobolev, in : Rec,' No. 155-3-897 (1917年7月5日), p.1。
  (*) Miliukov, Istoriia Vtoroi Russkoi Revoliutsii, Ⅰ, Pt. 1 (ソフィア, 1921), p.243-4。チェルノフ事件に関する別の説明は、Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5-17 (1923), p.34-35、Raskolnikov, 同上, p.69-71 にある。
  (165) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5/17 (1923), p.71、No. 8-9/67-68 (1927), p.62。
  (167) NV= Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) Nikitin, Rokovye gody, p.148。ネヴスキーは、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は、敗北する可能性を予期して、慎重にその戦力の半分を残したままだった、と語る。Krasnoarmeets, No. 10-15 (1919.10), p.40。
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 第12節へとつづく。

1589/七月三日-五日の事件①-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事①。 
 臨時政府は、ボルシェヴィキがしようとしていることを7月2日に知った。
 7月3日に、ドヴィンスク(Dvinsk)の第五軍の司令部と連絡をとって、兵団出動を求めた。
 誰もが、進んで何かしようとは思わなかった。少なくともその理由の一つは、その承認が必要なソヴェトの社会主義者たちが、実力行使に訴える権限を与えるのを躊躇したからだ。
 7月4日の早い時間に、ペテログラード軍事地区の新しい司令官、P・A・ポロフツェフは、武装示威活動を禁止し、守備兵団に対して秩序維持を助けるよう『示唆する』声明を発表した。
 軍事参謀部は、街頭騒擾を抑圧するために使える軍力を調べて、ほとんどが存在していないことに気づいた。いたのは、プレオブランジェスキー守備連隊の100人、ウラジミール兵学校からの一隊、2000人のコサック兵、50人の傷病兵だった。
 守備軍団の残りは、反乱兵士たちとの対立に巻き込まれるようになるのを望まなかった。//
 7月4日は、平穏のうちに始まった。誰もいない街頭の不思議な静けさが、何かが始まるのを暗示しているようだった。
 午前11時、車に乗った赤衛軍と一緒に、機関銃連隊の兵士たちが、市の要所を占拠した。
 同時に、クロンシュタットからきた5000人から6000人の海兵が、ペテログラードに上陸した。
 彼らの指揮官のラスコルニコフはのちに、政府が地上の砲台から彼らの一つふたつの小型船を射撃して阻止しなかったことに驚いた、と語った。
 海兵たちは、ニコラエフスキー橋近くの上陸埠頭から直接にタウリダへと進むよう、命令を受けていた。
 しかし、彼らが隊列を整えたとき、ボルシェヴィキの使者が、命令は変更された、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕へと行くように、と伝えた。
 そこにいたエスエルは抗議したが、無視された。エスエルのマリア・スピリドノワは海兵たちに演説すべく来ていたが、聴衆はいないままで放っておかれた。
 軍楽隊を先頭にし、『全権力をソヴェトへ』と書く旗を掲げながら、長い一団の縦列になって、海兵たちは、ヴァシリエフ島と株式交換所橋を縦断し、アレクサンダー広場に着いた。そこから、ボルシェヴィキの司令部へと、進軍し続けた。
 そこで彼らは、バルコニーから、ヤコフ・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)、ポドヴォイスキー(Podvoiskii)およびM・ラシェヴィッチ(Lashevich)の挨拶を受けた。
 クシェシンスキー邸にわずか前に到着していたレーニンは、言葉を発することについてはっきりせずにためらいを示した。
 レーニンは最初は、体調が悪いという理由で海兵たちに語るのを拒んでいたが、最後には屈して、若干の短い言葉を述べた。
 海兵たちを歓迎して、レーニンはつぎのように語った。//
 『起きていることを見て、嬉しい。二ヶ月前に打ち上げた全権力の労働者、兵士を代表するソヴェトへという主張が今や、理論的スローガンから現実へと転化しているのが分かって、嬉しい』。(163)//
 このような注意深い言葉ですら、誰の心にも、ボルシェヴィキがクー・デタを実行していることを疑う余地を残さなかっただろう。
 これは、レーニンが10月26日までに公衆の前に姿を見せた、最後のことになった。//
 海兵たちは、タウリダへと向かった。
 彼らが出立したあとでボルシェヴィキ司令部内部で起きたことについては、ルナシャルスキーに教えられたスハノフの文章によって分かる。//
 『7月3日-4日の夜、「平和的な集団示威行進」を呼びかける宣言書を<プラウダ>に送る一方で、レーニンは、心のうちにクー・デタの計画を具体化していた。
 政治的権力-実際にはこれはボルシェヴィキ中央委員会によって掌握される-は、傑出しかつ著名なボルシェヴィキ党員で構成される「ソヴェト」省によって公式に具象化される。
 この点で、三人の大臣が指名されていた。レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキー。
 この政府は、ただちに講和と土地に関する布令を発して、この方法で首都と地方の数百万人の共感を獲得し、それでもって政府の権威を強化する、ということとされていてた。
 レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキーは、クロンシュタットの海兵たちがクシェシンスキー邸を後にしてタウリダ宮へ向かったあとで、このような合意に達した。<中略>
 革命は、つぎのようにして、達成されるものとされた。
 クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo)からの第一七六連隊-ダン(Dan)がタウリダを守護するために任されたのとまさに同じ連隊-が、〔ソヴェトの〕中央執行委員会メンバーを拘束する。
 まさにそのときに、レーニンが行動の現場に到着して、新政府の設立を宣言する。』(*)//
 海兵たちは、ラスコルニコフに率いられて、ネフスキー通りを行進した。
 彼らの隊列には、小さな分団と赤衛兵が配置されていた。
 先頭と最後尾には、武装した車が進んだ。
 男たちは、ボルシェヴィキ中央委員会が用意したスローガンを書いた旗を掲げた。
 ペテログラードの『ブルジョア』の中心部、リテイニュイに曲がって入ったとき、銃撃音が響いた。
 群衆は恐怖に囚われて、咄嗟に離れた。銃火は広く渡り、あらゆる方向に撒き打ちされた。
 一人の目撃者が窓から写真を撮り、ロシア革命の暴力に関する数少ない写真記録の一つを生んだ(図版第53〔秋月注記/本文中の写真-この書物の表紙に使われているもの〕)。
 銃撃が終わったとき、示威行進者たちは再び集まって、タウリダへの行進を再開した。
 彼らはもう秩序だった編成を維持しておらず、すぐに使えるように銃砲を持っていた。
 午後4時頃に、ソヴェト〔所在地〕に着いた。そこで、機関銃連隊の兵士たちから、大きな歓声で迎えられた。//
 ボルシェヴィキはまた、プティロフ〔企業名〕の労働者の大群団をタウリダ宮へと送り込んだ-その推算数には変わりがあり、1万1000人から2万5000人になる。(+)
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  (163) Chuganov, Revoliutionnoe dvizhenie v iiue, p.96。参照、Lenin, PSS, XXXIV, p.23-24、Flerovskii, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 7-54 (1926), p.77。
  (*) Sukhalov, Zapiski, IV, p.511-2。スハノフがこうした記憶を1920年に公刊したあとで、トロツキーは強く否定し、トロツキーに突つかれてルナシャルスキーもそうした。ルナシャルスキーはスハノフ宛ての手紙で、スハノフの記述には全く根拠がないと非難し、公刊すれば『歴史家としての不愉快な結果』になるだろうとスハノフを警告した(同上、p.514n.-p.515n.)。しかし、スハノフは撤回するのを拒否し、自分は正確にルナシャルスキーが語ったことを回想した、と主張した。
 だが、その同じ年にトロツキー自身が、あるフランスの共産主義者の出版物の中で、七月事件は権力奪取を-つまりボルシェヴィキ政府の確立を-意図していた、ということを認めた。
 『我々は、一瞬たりとも、七月の日々は勝利に至る前奏だということを疑わなかった』。Bulletin Communiste (Paris), No. 10 (1920年5月20日)。これは、以下で引用されている。Milorad M. Drachkovitch & Branko Lazitch, レーニンとコミンテルン, Ⅰ (Stanford, 1972), p.95。
  (+) Nikitin, Rokovye gody, p.133 は少ない数を、Istoriia Putilovskovo Zavoda 1801-1917 (モスクワ, 1961) は多い数を示す。トロツキーの8万という推算(ロシア革命の歴史 Ⅱ, p.29)は、全くの空想だ(fantasy)。
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 本来の改行箇所でないが、ここで区切る。②へとつづく。

1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1585/七月蜂起へ(2)③-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備③。
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、その戦術は、いつもと同様に、用心深く、面目を維持しつつ退却する余地を残していた。
 この事件の参加者だったミハイル・カリーニン(Mikhail Kalinin)は、かくして、党の立場をつぎのように叙述する。//
 『責任ある党活動家たちは、微妙な問題に直面した。
 「これはいったい何か-示威活動か、それともそれ以上の何かなのか?
 ひょっとすると、プロレタリア革命の始まり、権力奪取の始まりなのか?」
 これがこのとき、重要な問題として現われた。そして、彼らは(レーニンの存在を)切望した。
 レーニンならば、答えるだろう。「我々は何が起きているか、分かるだろう。だが今は何も言うことができない!」<中略>
 これはじつに、革命家の力、その数、その質、そしてその行動力を再吟味することだった。<中略>
 再吟味すれば、重大な結果に遭遇することがありえた。
 全ては、力の相関関係に、そして好機が発生する多さにかかっていた。
 いずれにせよ、不愉快な驚きを防ぐ保障のためであるかのごとく、司令官の命令は、「我々は、分かるだろう」だった。
 これは決して、力の相関関係が有利であることが判明すれば連隊を戦闘へと投入する可能性も、あるいは他方で、可能な最小限の損失で退却する可能性も、いずれも排除するものではなかった。七月に現実に起きたのは、後者だった。』 (*)//
 中央委員会は、翌日の7月4日までの予定で、ポドヴォイスキーが長である軍事機構に、作戦を指揮する責任を委ねた。
 ポドヴォイスキーとその同僚たちは、親ボルシェヴィキの軍団や工場と連絡を取り合い、行動を留保するように助言したり行進の順序を教えたりしながら、その夜を過ごした。
 クロンシュタットは、クシェシンスカヤ邸のボルシェヴィキ最高司令部から、兵団出動の要請を受けた。
 武装の集団示威活動は、午前10時に開始するものとされた。//
 7月4日、<プラウダ>は、第一面に広い白紙面をつけたままで発行された。それは、前夜にはあったカーメネフとジノヴィエフの抑制を求める論文を削除したことの、見える証拠だった。
 この判断にレーニンがどういう役割を果たしたかは、あったとしても、確定することはできない。
 ボルシェヴィキの歴史家は、レーニンは仲間たちが何をしているかを知らないままでフィンランドの片田舎の平和と静穏を味わっていた、と執拗に主張する。
 レーニンがボルシェヴィキの行動を伝言配達者(courier)にょって初めて知ったのは、7月4日の午前6時だった、と言われている。その後で彼は、すぐに首都へ出立して、クルプスカヤやボンシュ-ブリュヴィッチと一緒になった、とされる。
 このような公式見解は、レーニンの支持者は彼の個人的な是認なくしていかなる行動も決して企てなかったことを考えると、信じ難いように思える。そんな莫大な危険のある冒険をするような行動では、疑いなく、なかったのだ。
 スハロフ(Sukhanov)によって(後述参照)、レーニンは叛乱の前の夜のあいだ、当該主題に関して<プラウダ>用の論文を書いていた、ということも知られている。
 当該主題、それはほとんど間違いなく『全ての権力をソヴェトへ』で、その論文は、新聞<プラウダ>が7月5日に掲載した。(158)//
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  (*) M. Kalinin, in : Krasnaia gazeta, 1917年7月16日, p. 2。
 レーニンは現場にいなかったので、カリーニンは合理的に推測して、レーニンが次の日に語ったことを参照している。つぎの同様の評価を参照。Raskolnikov, in :PR= Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.59。
 ボルシェヴィキの戦術は、メンシェヴィキに漏れていなかったわけではなかった。ツェレテリ(Tsereteli)は、7月3日の午後にスターリンがイスパルコムに姿を見せて、ボルシェヴィキは労働者と兵士が街頭に出るのを止めるために可能なことは全てすると伝えたあとで事件が起きた、と叙述する。
 チヘイゼ(Chkheise)は微笑みながらツェレテリに対して言った、『今や状況は明らかだ』。ツェレテリは続ける、『私は彼に尋ねた。状況が明らかだというのはどういう意味か?』チヘイゼは答える、『平和的な民衆には、その平和的な意図を述べる原案など必要はない、という意味さ。我々は、指導者のいないままに大衆が放っておかれることはありえない、と言って、ボルシェヴィキが加わるつもりのいわゆる自然発生的な示威活動に関して議論しなければならないだろう、と思う』。
 Tsereteli, Vospominaniia, Ⅰ, p.267。
  (158) Lenin, PSS, XXXII, p.408-9。
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 第11節につづく。

1583/七月蜂起へ(2)②-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備②。
 適切な資料が不足しているため、こうした進展に関するボルシェヴィキの態度を決定的に語るのは困難だ。
 ボルシェヴィキ党の第六回党大会への報告として、スターリンは。7月3日の午後4時に中央委員会が武装の集団示威活動に反対する立場をとった、と主張した。
 トロツキーは、スターリンの主張を確認する。(144)
 指導するレーニンがいない中で、反乱が彼らのスローガンのもとでだが彼らの誘導なくして災難に終わってしまうのを怖れて、ボルシェヴィキの指導者たちが最初から反対した、とは想定し難い。
 しかし、この日に関する中央委員会の議事要領が利用できるならば、この判断についてもっと自信を感じるだろう。//
 提案された集団示威活動について知るや、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕はただちに、兵団に対してやめるように訴えた。
 イスパルコムには、政府を打倒して、ボルシェヴィキがその手にしようと執拗に押し進んでいる権力を獲得する欲求はなかった。//
 その日の午後、クロンシュタット・ソヴェト執行委員会の前に、機関銃連隊の二人のアナキスト代議員がやって来た。粗雑で、教養が乏しいように見えた。
 彼らは、連隊は他の軍団や工場労働者と一緒に路上に出て権力のソヴェトへの移行を要求する、と伝えた。
 彼らには、武装した支援が必要だった。
 執行委員会は、海兵はペテログラード・イスパルコムが承認しない示威活動をすることはできない、と回答した。
 そのときに使者たちは、海兵たちに直接に訴える、と言った。
 言葉通りに進み、アナキストが政府を非難する演説を聞くために8000人から10000人の海兵が集まった。
 海兵たちには、ペテログラードへと出立する心づもりがあった。
 目的は不明瞭だとしても、両側にある何かを略奪してブルジョアをやっつけることは、彼らの気持ちから離れているはずはなかった。
 ラシャルとラスコルニコフは彼らを抑えようとして、しばらくの間、ボルシェヴィキの司令部に指令を求めて電話した。
 ラスコルニコフは、司令部と通信したあとで、海兵たちに、ボルシェヴィキ党は武装示威活動に参加することを決定した、と伝えた。そのときに、集まった海兵たちは、満場一致でそれに加わることを表決した。(*)//
 機関銃連隊からの代議員は、プティロフの労働者の前にも姿を現した。その労働者の多くから、彼らは自分たちの信条への支持をとりつけた。//
 午後7時頃、集団示威活動に賛成表決した機関銃連隊の兵団は、兵舎に集合した。
 先行分団は、機関銃を山積みした略奪車に乗って、すでにペテログラードの中心部へと分かれて進んでいた。
 午後8時、兵士たちはトロイツキー橋を行進し、そこで他の連隊の反乱兵団が加わった。
 午後10時、反乱者たちが橋を縦断した。
 ナボコフ(Nabokov)は、このときに彼らを見ていた。『我々が二月の日々から記憶しているのと同じ、鈍くてうつろな、野獣のような顔をしていた。』
 川を渡り終わって、兵団は二つの軍団に分かれた。うち一つはソヴェト所在地であるタウリダへ、もう一つは臨時政府所在地であるマリンスキーへと向かった。
 たいていは空中への、的がはっきりしない発砲がいくつかあった。ほんの少しの略奪も。//
 ボルシェヴィキ最高司令部-ジノヴィエフ、カーメネフおよびトロツキー-は、7月3日の正午頃に、党をこの反乱に参加させることを決定したと思われる。すなわちこのとき、機関銃連隊の兵団は集団示威活動をする決定を採択していた。
 このとき、上の三人は、タウリダ宮にいた。
 彼らの計画は、ソヴェトの労働者部会(Section)の支配権を握り、その名前で権力のソヴェトへの移行を宣言すること、そして兵士部会や幹部会とともにイスパルコムに対し、達成した事実を呈示すること、だった。
 その口実は、抗しがたい大衆の圧力にある、とされた。//
 この目的のためにボルシェヴィキは、その日おそくに、労働者部会での小蜂起を企んだ。
 ここではボルシェヴィキは、兵士部会と同じく、少数派だった。
 〔労働者部会の〕ボルシェヴィキ団はイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に、午後3時に労働者部会の緊急集会を開催するというきわめて簡単な告知をすることを要請した。
 このことですぐに、この部会のエスエルとメンシェヴィキの党員たちが接触できた。
 しかしボルシェヴィキは、自分たち仲間が一団となって出席することで一時的な多数派となる、と確信していた。
 ジノヴィエフは集会を開いて、ソヴェトは政府の全権力を勝ち取ると主張した。
 出席していたメンシェヴィキとエスエル代議員はジノヴィエフに反対し、ボルシェヴィキに機関銃連隊を止めるのを助けるよう求めた。
 ボルシェヴィキがそれを拒んだとき、メンシェヴィキとエスエルは退出して、結果として彼らの好敵に全権を与えた。
 ボルシェヴィキは労働者部会の事務局(Bureau)を選出し、これは、カーメネフが提示した決定をしかるべく裁可した。その最初の文章は、つぎのとおりだった。//
 『権威の危機にかんがみ、労働者部会は、労働者・兵士および農民の代議員から成る全ロシア・ソヴェト大会は権力をその手中に収めると強く主張することが必要だと考える』。
 もちろん、このような『全ロシア大会』は、紙の上にすら、存在していない。
 言いたいことは明らかだ。すなわち、臨時政府は、打倒されなければならない。//
 これを成し遂げて、ボルシェヴィキたちは中央委員会の会議のために、クシェシンスカヤ邸へと向かった。
 午後10時、会議が始まろうとしたときに、一団の反乱兵士たちが近寄ってきた。
 共産党の資料によると、ネヴスキーとポドヴォイスキーがバルコニーから、反乱兵士は兵舎に帰るように強く迫り、それに対して兵士たちが不満の叫びを上げた。(**) //
 ボルシェヴィキは、まだ揺れ動いていた。
 彼らには、動きたい衝動があった。しかし、前線兵士たちのクーに対する反応を心配した。前線兵士たちの中で熱心に情報宣伝を行ったけれども、ボルシェヴィキは何とか、とくにラトヴィア・ライフル部隊といった若干の連隊で勝利したにすぎなかったからだ。
 戦闘部隊の大半は、臨時政府に忠実なままだった。
 ペテログラード守備軍団の雰囲気ですら、確実なものでは全くなかった。
 なおも混乱は増し、プティロフの数千人の労働者たちがタウリダの前に集まっていると妻や子どもたちから伝えられて、ボルシェヴィキの躊躇する心は負けた。
 午後11時40分、この頃までに反乱兵士たちはまでには兵舎に戻り、静穏が街に帰ってきていた。そのとき、ボルシェヴィキ中央委員会は、臨時政府の武力による打倒を呼びかける、つぎの決議を採択した。//
 『現にペテログラードで起きている事態を考慮して、中央委員会会合はつぎのように結論する。
 現在の権威の危機は、革命的プロレタリアートと守備軍団がただちに固くかつ明白に労働者・兵士および農民の代議員から成るソヴェトへの権力の移行に賛成すると宣言しなければ、人民の利益において解消されることはないだろう。
 この目的のために、労働者と兵士はただちに路上に出て、その意思を表明すべく示威行進を行うよう求める』。//
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、…。
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  (144) レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 20。
  (*) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.60。ロシャルは、1917年12月に反共産主義者により射殺された。ラスコルニコフは、1910年から党員、1917年にクロンシュタット・ソヴェトの副議長、1920年代と1930年代に国外のさまざまのソヴィエトの外交職にあった。ラスコルニコフは1939年にモスクワへと召還されたが帰国するのを拒み、公開の書簡でスターリンを厳しく非難した。そのあと彼は、『人民の敵』だと宣告された。その年のあと、彼はきわめて疑わしい状況のもとで南フランスで死んだ。
  (**) Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.11-13。Ia. M. Sverdlov, in : ISSSR, No. 2 (1957), p.126。七月叛乱を調査するために任命された政府委員会の報告書は、ボルシェヴィキはより攻撃的に演説したと叙述している(p.95-96)。この報告書は、以下として再発行された。D. A. Chugaev, ed., Revoliutsionoe dvizhenie v Rossi v iiule g. (モスクワ, 1959)。
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 ③につづく。

1582/七月蜂起へ(2)①-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・蜂起の準備①。
 V・D・ボンシュ-ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)によると、6月29日の夕方に、フィンランドのヴュイボルク市(Vyborg)近くのネイヴォラ(Neivola)の彼の別宅に、予期せぬ訪問者が現れた。ペテログラードから、小列車に少しばかり乗ってやって来ていた。
 それは、レーニンだった。
 迂回した経路を-『秘めたクセで』-旅したあとだったが、レーニンは、とても疲れた、休みが欲しい、と説明した。
 これはきわめて異様な行動で、レーニンの性格から全く外れていた。
 彼には、休暇をとるという習慣がなかった。1917年から1918年にかけての冬のような、疲労を感じた方がよかった重要な政治的事件の真っ只中ですら、そうだった。 
 レーニンの説明は、この場合について、きわめて疑わしい。レーニンが欠席したいと思っていたとは想定し難い、ペテログラード組織の大会を、ボルシェヴィキは二日のちには開くことになっていたからだ。
 レーニンの『陰謀めいた』行動はまた、当惑させるものだ。なぜなら、彼には自分の動きを隠すもっともらしい必要がなかったからだ。
 ゆえに、レーニンがペテログラードから突然に姿を消した理由は、別のところに求めなければならない。
 政府がレーニンがドイツと金銭上の取引をしている十分な証拠資料を得て、彼をまさに逮捕しようとしている、という風聞を彼が知った、というのがほとんど確実だ。//
 フランス諜報機関のピエール・ローラン(Pierre Laurent)大佐は、6月21日に、敵国〔ドイツ〕との取引を示す、ペテログラードのボルシェヴィキとストックホルムのその仲間たちとの間の14回の傍受した通信内容を、ロシアの防諜機関に渡した。すぐに、さらに15回分が増えた。
 政府はのちに、レーニンの第一のストックホルム工作員、ガネツキーを捕まえたかったのでボルシェヴィキの逮捕を遅らせた、と述べた。ガネツキーはロシアに次に来るときに有罪証拠となる文書を携帯しているはずだった、と。
 しかし、蜂起後のケレンスキーの行動を見てみると、政府が遅らせた背後には、ソヴェトを怒らせることへの恐怖があったと疑うに足る、十分な根拠がある。//
 しかし、6月末日には、訴追するための証拠は当局に十分にあり、7月1日に当局は、一週間以内に28名のボルシェヴィキ指導者党員を逮捕するように命じた。//
 政府内部の誰かが、この危険についてレーニンに察知させた。
 最も疑わしいのは、ペテログラード司法部(Sudebnaia Palata、高等裁判所)の他ならぬ長官の、N・S・カリンスキー(Karinskii)だ。ボンシュ-ブリュヴィッチによると、このカリンスキーは、レーニンはドイツ工作員だとして有罪視することを司法省が公的に発表する予定だと、7月4日にボルシェヴィキに漏らすつもりだった。
 レーニンもまた、6月29日に諜報機関員がスメンソンの尾行を始めたことを知らされて、警戒しただろう。
 何も他には、レーニンがペテログラードから突然に姿を消したことを説明していない。ロシア警察の手の届かないフィンランドに彼が逃亡したことについても、だ。(*)//
 レーニンは、6月29日からボルシェヴィキ蜂起が進行していた7月4日の早朝の時間まで、フィンランドに隠れた。
 七月の冒険(escapade)の準備へのレーニンの役割を、確定することはできない。
 しかし、現場に存在していなかったことは、彼が無関係だったと不可避的に意味させるわけではない。
 1917年の秋、レーニンはまたフィンランドに隠れていたが、なおも十月のクーへと導く諸決定に積極的な役割を果たした。//
 七月作戦は、政府が機関銃連隊を解散してその兵員を前線へと分散させようとしていることを、この連隊が知って、始まった。(**)
 ソヴェトは6月30日、軍事専門家と問題を議論するために連隊の代表者たちを招いた。
 その翌日、連隊の『活動家たち』は、自分たちの会合をもった。
 隊員たちの雰囲気は緊張していて、強熱的な焦燥の中にあった。//
 ボルシェヴィキは7月2日、人民会館(Narodnyi Dom)で、連隊との協同集会を組織した。
 外部の発言者は全てボルシェヴィキで、その中に、トロツキーとルナシャルスキー(Lunacharskii)がいた。
 ジノヴィエフとカーメネフは出席する予定だったが、おそらくはレーニンのように逮捕を怖れて、姿を見せなかった。
 トロツキーは5000人以上の聴衆を前に演説して、六月軍事攻勢について政府をなじり、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 彼は連隊員に対して、多くの言葉を使って政府への服従を拒否するようにとは言わなかった。
 しかし、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は会合を開いて、つぎの趣旨の決議を採択した。その決議は『ニコライ、血の皇帝』の歩みに従うケレンスキーを非難し、全ての権力をソヴェトへと要求した。//
 連隊員たちは兵舎へ戻ったが、興奮して眠れなかった。
 彼らは徹夜で事態について議論し、その結果として、暴力行動を要求する声が挙がってきた。スローガンの一つは、『<ブルジョア>をやっつけろ(beat the burzhui)』だった。//
 集団暴行(pogrom)が行われていた。
 クシェシンスカヤ邸に集合したボルシェヴィキたちは、どう反応すればよいか分からなかった。加わるか、やめさせようとするか。
 ある者は、兵団は後退できないから、我々もあえて行動すべきだと主張し、別の者は、動くのは早すぎると考えた。
 そしてこのあと、民衆的な激しい怒りの波に乗って権力に昇るという願望と、自然発生的な暴力はナショナリストの反応を刺激してその最大の犠牲者は自分たちになるだろうという恐怖の間で、ボルシェヴィキたちは引き裂かれた。//
 ボルシェヴィキと機関銃連隊の連隊委員会は、さらに7月3日に、会議を開いた。その雰囲気は、農民反乱の前の村落集会と同じだった。
 主な発言者はアナキストで、中で最も著名なのは、『シャツを開けて胸を見せ、巻き毛を両側に飛ばしていた』I・S・ブレイクマン(Bleikhman)だった。彼は兵士たちに、武器を持って街頭に出て、武装蜂起へと進むことを、呼びかけた。
 アナキストたちは、こうした行動の客観的な目的については語らなかった。『街頭が自ら明らかにするだろう』。
 アナキストたちのあとのボルシェヴィキたちは、その問題を論じなかった。彼らはただ、行動する前にボルシェヴィキ軍事機構の指令が必要だと主張した。//
 しかし、連隊員たちは、前線での務めをやめると決意して、またアナキストに激高へと駆り立てられて、待とうとしなかった。
 彼らは満場一致で、完全武装をして路上に出動することを表決した。
 臨時革命委員会が選出されて示威活動を組織することになった。この委員会の長になったのは、ボルシェヴィキのA・Ia・セマシュコ(Semashko)中尉だった。
 以上は、午後2時と3時の間に起きた。//
 セマシュコと、何人かは軍事機構に属する仲間たちは、政府が抑圧行動をとっているかどうかを知るために、かつ自動車を取り上げるために、偵察兵を送り出した。
 彼らはまた、工場と兵舎およびクロンシュタットへ、使者を派遣した。//
 使者たちは、異なる対応を受けた。守備軍団の若干の兵団は、参加することに合意した。主としては、第一、第三、第一七六および第一八〇歩兵連隊だった。
 その他の兵団は、拒否した。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、セメノフスキー(Semenovskii)およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の守備兵団は、『中立』を宣言した。
 機関銃連隊自体の中では、多くの隊員が、身体に暴力被害を受ける危険はあったが、線上で待ち構えることに投票した。
 結局、連隊の半分だけが、およそ5000人の連隊員が、蜂起に参加した。
 工場労働者の多くもまた、参加するのを拒んだ。//
  ------
  (*) レーニンは5月半ばにはすでに、スットックホルムとの連絡が政府によって傍受されていることに気づいていた。レーニンは5月の16日付の<プラウダ>紙上で、『ロシア・スウェーデン国境を越えた』けれども、全ての手紙や電信類は掴みそこねた『カデットの下僕』を侮蔑した。Lenin, PSS, XXXII, p.103-4。参照、Zinoviev, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 8-9 (1927), p.57。
  (**) 7月のこの連隊の役割に関する最良の叙述は、資料庫文書にもとづく、P. M. Stulov in : KL = Krasnaia letopis', No. 3-36 (1930), p.64~p.125 だ。参照、レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 17。
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 ②へとつづく。 

1580/七月蜂起へ(1)-R・パイプス著10章9節。

 前回につづく。
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 第9節・ボルシェヴィキによる新しい襲撃の用意。
 ロシア革命の事件のうち、1917年の七月暴動ほど、意図的に虚偽が語られているものはない。レーニンの最悪の大失敗だった、党をほとんど破滅させる原因となる誤った判断だった、ヒトラーによる1923年のビア・ホール蜂起と同等だ、という理由でだ。
 ボルシェヴィキは、責任を免れるために、七月蜂起は自然発生的示威行動でボルシェヴィキは平和的な方向に導こうとした、と異様に長々と偽りの説明をした。
 7月3-5日の行動は、予期される敵の反攻に備えてペテログラード守備軍団を前線に派遣するという政府の決定によって、突如として発生した。
 もともとは軍事上の配慮をして、この決定には、ボルシェヴィキの虚偽情報宣伝にきわめて汚染された首都の軍団を取り除くという意味もあった。
 この移動は、権力への次の企てのために使うつもりの実力部隊を奪われるおそれがあったので、ボルシェヴィキにとって、災厄を意味した。
 ボルシェヴィキは応えて、『ブルジョア』政府を攻撃し、『帝国主義的』戦争に抗議し、そして前線に行くのを拒否しようと強く訴える、猛烈な情報宣伝活動を守備軍兵団の間で行った。
 民主主義の伝統をもつならばどの国でも、戦時中にこのような反乱の呼びかけがあるのは耐え難いものだっただろう。//
 ボルシェヴィキへの支援の主要な基盤は、第一機関銃連隊にあり、ここに1万1340名の兵士とほぼ300名の将校がいた。後者の中には、多くの左翼知識人が含まれていた。
 この隊の多くの者は、能力欠如または不服従を理由として、元々の軍団から追い出されてきたよそ者だった。
 急進的な工場群近くのヴュイボルク地区の宿舎に住んでいる、内心では怒り狂っている大衆だった。
 ボルシェヴィキの軍事機構はここに、およそ30名から成る細胞を作った。それには若い将校も含まれていて、ボルシェヴィキは彼らに定期的に煽動技術の訓練をした。
 彼らは、アナーキストはもちろんだが、連隊の前で頻繁に演説をした。//
 連隊は6月20日、500人の機関銃兵団を前線に派遣せよとの指令を受けた。
 その兵団は翌日に会合をもち、『革命戦争』を闘うためだけに、つまり、『資本家たち』が除去された、ソヴェトが全権力をもつ政府を防衛するためだけに、前線へ行くという、-内容で判断するとボルシェヴィキに由来する-決議を採択した。
 決議が言うには、政府がその兵団を解散させようとすれば、連隊は抵抗することになる。
 連隊の別の諸兵団に対して、支援を要請する密使が派遣された。//
 この反乱で最大の役割を果たすボルシェヴィキは、慌てて行動をして愛国主義的反発を刺激してしまうのを懼れた。
 彼らには、ほんの僅かの刺激を与えても襲いかかってくる用意をしている、多くの敵がいた。
 シュリャプニコフ(Shliapnikov)によると、『生命の危険を冒させるにまで至らないと、ネフスキーに我々の支持者が出現することはなかっただろう』。
 そのゆえに、ボルシェヴィキの戦術は、大胆さに慎重さを結合するものでなければならなかった。彼らは、高いレベルの緊張を維持するために兵士や労働者のあいだで激しく煽動した。しかし、把握し切れずに反ボルシェヴィキの集団殺戮(pogrom)に終わるような衝動的な行動には反対した。
 <兵士プラウダ>は6月22日、党からの明確な指令がないままで集団示威活動をしないように兵士と労働者たちに訴えた。//
 『軍事機構は、公然と市街に出現することを呼びかけてはいない。
 かりに必要が生じれば、軍事機構は、党の指導組織-中央委員会およびペテログラード委員会-との合意の上で、公然と街頭へ出現することを呼びかけるだろう。』//
 ソヴェトへの言及は、なかった。
 この抑制した立場の呼びかけは、のちに共産党歴史家がボルシェヴィキ党には七月反乱についての責任がないとする証拠として引用するものだ。しかし、このことはいかなる種類の何をも、証明していない。たんに、党は事態をしっかりと掌握し続けたいと考えていた、ということを示すだけだ。//
 連隊での最初の不穏の波は、ボルシェヴィキが示威活動を思いとどまらせて落ち着いた。ソヴェトはボルシェヴィキの決議を是認するのを拒否した。
 連隊は、諦めて、500人の機関銃兵団を前線に派遣した。//
 このとき、ソヴェトも一緒になって政府は、クロンシュタットでも、暴乱の萌芽を抑圧した。
 ペテログラード近くのこの海軍基地の守備軍団は、アナキストの強い影響のもとにあった。しかし、その政治組織は、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)とS・G・ロシャル(Roshal)が率いるボルシェヴィキの手にあった。
 海兵たちには、不満があった。政府が、二月革命のあとで彼らが奪い取って司令本部にしていた元大臣のペーター・ドゥルノヴォ(Peter Durnovo)の邸宅から、アナキストたちを実力で追い出したからだ。
 その邸宅にいたアナキストたちはきわめて乱雑に振る舞ったので、6月19日に19の兵団が、邸宅を取り戻して占有者を拘束するために派遣された。
 そのアナキストたちに扇動されて、海兵たちは6月23日に、収監者を解放するためにペテログラードで行進しようとした。
 彼らもまた、ソヴェトとボルシェヴィキの協同の努力があって、抑制された。//
 しかし、温和しくしていたときでも、機関銃兵士たちは、絶え間なく続く扇動的情報宣伝の影響下にあった。
 ボルシェヴィキは全権力のソヴェトへの移行を主張しており、それにはソヴェトの再選挙、そしてソヴェトが排他的にボルシェヴィキの手に落ちることが続くことになっていた。
 ボルシェヴィキは、このことが直接に平和をもたらすことになると約束していた。
 彼らはまた、『ブルジョアジー』の『抹殺(annihilation)』を主張した。
 アナキストたちは兵士に対して、『ミリュコフ通り-ネフスキーとリテイニュイ-での集団殺害(pogrom)』を扇動した。//
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 第10節へとつづく。

1578/六月の軍事攻勢-R・パイプス著10章8節。

 前回につづく。
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 第8節・ケレンスキーの夏期軍事攻勢。
 ロシア軍は、6月16日、連合国からの銃砲と砲弾をたっぷりと装備して、二日間の砲弾攻撃を開始し、終わって砲弾づめをした。
 ロシアの攻撃の矛先は南部戦線で、ガリシアの首都のルヴォウ(Lwow)を狙っていた。
 コルニロフ将軍が指揮する第八軍は、目立った。
 第二次の攻撃作戦は、中部および北部前線に向けられた。
 政府が望んだように、この攻勢は愛国主義の明確な兆候を呼び起こした。
 ボルシェヴィキは、このような雰囲気の中であえて軍事行動に反対はしなかった。
 6月のソヴェト大会で、レーニンもトロツキーも、支持に対する反対動議を提案はしなかった。//
 オーストリアに対するロシアの作戦は、二日間よい展開を示た。だが、十分に義務を果たしたと思った諸兵団が攻撃命令に従うのを拒否したことで、やむなく停止した。
 彼らはすぐに、大急ぎで逃げ出した。
 7月6日、追い詰められるオーストリア軍を助けに何度か来ていたドイツ軍が、反攻をはじめた。 
 ドイツの軍人たちが見ていると、ロシア軍は略奪し狼狽を広げて、逃げていた。
 6月大攻勢は、旧ロシア軍の死直前の喘ぎだった。//
 旧ロシア軍は1917年7月以降は、重要な作戦を行わなかった。
 この辺りが、第一次大戦でのロシアの人的被害について述べる、適当な場所だろう。
 ロシアの戦争に関する統計は貧相なので、人的損失を正確に決定するのは困難だ。
 標準的な情報源によれば、ロシアの死傷者数は交戦国のうちそれが最大のものと同程度だった。
 例えば、クラットウェル(Cruttwell)は、ロシア人死者数170万人、負傷者数495万人と推算する。
 これらは、ドイツの被害を僅かに上回り、ロシアよりも16ヶ月間長く戦争を続けたイギリスやフランスとほぼ相応する。
 別の外国人は、死者数は250万人に達すると概算する。(114) 
 これらの数字は、多すぎると考えられてきた。
 公式のロシアの情報源によれば、戦場での死者数は、77万5400人だ。
 もっと最近のロシア人の概算では、いくぶんか多い数字になる。
 戦場での死者数は90万人、戦闘負傷による致死者数40万人、合計で死者は130万人。
 これは、フランス軍およびオーストリア軍の死者数に並び、ドイツ軍のそれよりも三分の一少ない。//
 ロシア軍は、はるかに超える最大数の戦争捕虜を敵国に手に残した。
 ドイツとオーストリアの戦時捕虜収容所(POW camps)には390万人のロシア人捕虜がいた。これは、イギリス、フランスおよびドイツ各軍の戦争捕虜の合計数(130万人)の3倍に達した。
 オーストリア=ハンガリー軍だけは220万人の捕虜を出し、接近した。
 戦闘に投じられた100人のロシア人ごとに、300人が降伏した。
 比較してみると、イギリス軍ではこの数字は20、フランス軍では24、ドイツ軍では26だった。
 言い換えると、ロシア人兵士たちは、西側の諸軍の兵士よりも12倍から15倍の高い確率で降伏した。//
 六月軍事攻勢の失敗は、分断された国家を彼と政府の周りに再結集させようとしたケレンスキーにとって、個人的な惨事だった。
 大きな賭けをして負けて、彼は狼狽し、立腹しやすくなり、極度に懐疑的になった。
 こうした気分の中で、彼は重大な過誤を冒して、敬愛される指導者から、左からも右からも軽蔑される生け贄に変わった。//
 六月軍事攻勢の失敗がもたらした士気低下と失望の雰囲気の中で、レーニンとその部下たちは、新しい蜂起へと冒険的企てをした。
  (114) C. R. M. F. Cruttwell, A History of the Great War, 1914-1918 (Oxford, 1936), p.630-2。Tsen-tral'noe Statistiki, Rossiia v Mirovoi Voine 1914-1918 goda (モスクワ, 1925), p.4n。
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 第9節につづく。

1576/六月騒乱の挫折②-R・パイプス著10章7節。

 前回からのつづき。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
 ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
 この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
 蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
 レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
 カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
 中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
 『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
 我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
 ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
 スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
 レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
 ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
 6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
 軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
 その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
 『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
 このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
 6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
 出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
 ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
 公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
 彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
 おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
 ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
 ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
 メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
 これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。 
 レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
 最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
 議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
 青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
 『起きたことは、<陰謀に他ならない。
 -政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
 彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
 この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
 しかし、明日にもまた発生しうる。
 反革命が頭をもたげた、と言う。
 それは違っている。
 反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
 反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
 ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
 批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
 ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
 武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
 ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
 彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
 機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
 我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
 ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
 ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
 純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
 彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
 マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
 社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
 精神の、重大な過ちだった。
 レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
 ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
 社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
 ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
 <プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
 『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
 ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
 すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
 我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
 <国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
 これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。// 
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  (*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
  (112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
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 第8節につづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
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   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
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 ②につづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
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  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
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 第7節につづく。

1570/レーニンらの利点とドイツの援助②-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの財政援助②。
 しっかりした指導者がいないロシアでは解体が進み、社会主義者が作動させていたものを含む国家諸制度が全て弱体化した。そうして、事態の推移は、全ロシア・ソヴェトや労働組合中のメンシェヴィキやエスエルの指導者たちを出し抜く機会を、ボルシェヴィキに与えた。
 連立政府の形成ののちにマルク・フェロ(Marc Ferro)は、ペテログラードの全ロシア・ソヴェトの権威が各地域のソヴェトのそれが大きくなるにつれて弱くなったことを指摘した。
 同じようなことが労働運動でも起こり、全国的労働組合は権威を失って地方の『工場委員会(Factory Committe)』に譲った。
 各地域ソヴェトと工場委員会は、ボルシェヴィキが操縦しやすい、政治経験のない人々によって管理されていた。//
 ボルシェヴィキは、メンシェヴィキが支配する大きな全国的労働組合にはほとんど影響力を持たなかった。
 しかし、輸送と通信の状態が悪化したとき、ペテログラードかモスクワに本部がある大きな全国的労働組合は、広大な国土に散在している構成員と接触できなくなった。
 労働者たちは今や、職業的労働組合から工場へと、忠誠の方向を移す傾向が生じた。
 このような推移は、1917年に全国的労働組合の構成員数がきわめて多数になったにもかかわらず、発生した。
 実力と影響力を最も急速に身につけた労働者組織は、工場委員会(あるいは Fabzavkomy)だった。
 この工場委員会は、旧政府が任命した管理者が姿を消したあとで、二月革命の始まりの時期に、国有の防衛装備工場で出現した。
 そこから、私有の諸企業へと広がった。
 3月10日、ペテログラード産業家連盟はイスパルコムとの間で、首都の全工場施設(plants)に工場委員会を設置することに合意した。
 臨時政府は翌月に、それらを公的に承認し、工場委員会が労働者たちの代表団として行動する権利を付与した。//
 工場委員会は最初は穏健な立場を採用し、生産の増大と労働争議の仲裁に関心を集中させた。
 そうして、工場委員会は、急進化した。
 不幸なことに物価高騰や燃料、原料の不足が工場閉鎖になるほどにひどくなり、工場委員会は、投機や偽りの会計帳簿のせいだと雇用主を責め立て、一時罷業の手段をとった。
 あちこちで彼らは、所有者や管理者を追い払って、自分たちで工場を稼働させようと企てた。
 そうでなくとも、彼らは経営に自分たちの声が強く反映されることを要求した。
 メンシェヴィキはこのようなアナクロ・サンディコ主義的組織に好意をもたず、工場委員会を全国的労働組合へと統合しようとした。
 しかし、労働者の当面の日々の関心が、別の場所にいる同職業の仲間ではなく同じ傘のもとに雇われている仲間とますますつながっていくにつれて、趨勢はメンシェヴィキの意向とは反対の方向へと進んだ。
 ボルシェヴィキは、労働組合でのメンシェヴィキを弱体化する理想的な手段だと、工場委員会のことを考えた。
 ボルシェヴィキは『労働者の支配』というサンディコ主義の考えに同意はしなかったが、かつ権力奪取ののちにはこの組織を絶滅させることになるのだが、1917年の春には、工場委員会を大きくすることが彼らの利益だった。
 ボルシェヴィキは工場委員会の設立を助け、全国的に組織した。
 5月30日に開催されたペテログラード工場委員会の第一回大会では、ボルシェヴィキは、少なくとも三分の二の代議員を支配した。
 工場の会計書類に関与できるだけではなくて工場の管理についての決定的な表決権が労働者に与えられるべきだとのボルシェヴィキの提案は、圧倒的な多数でもって可決された。
 工場委員会、Fabzavkomyは、ボルシェヴィキの手に落ちた、最初の組織だった。(*)//
 レーニンは暴力行為による権力奪取を目論んでいたので、政府とソヴェトの双方から独立し、党の中央委員会に対してのみ責任をもつ自分自身の軍団を必要とした。
 『労働者の武装』は、将来のクー・デタへの綱領の中心にあった。
 群衆は、二月革命の間に、軍需物資を略奪した。数万の銃砲が消え、そのいくらかは工場の中に隠された。
 ペテログラード・ソヴェトは、帝制時代の警察に代わる『人民軍』を組織した。
 だがレーニンは、ボルシェヴィキがこれに加入するのを拒んだ。自分自身の実力部隊が欲しかったのだ。
 国家転覆のための組織を作っているとして訴追されることのないように、レーニンは、その私的な軍を最初は『労働者民兵』と呼んで、工場を略奪者から守る当たり障りのない護衛団のごとく偽装した。
 この私的民兵は4月28日に、ボルシェヴィキの赤衛軍(Red Guard, Krasnaia Gvardiia)と一つになり、後者には、『革命の防衛』と『反革命軍に対する抵抗』という使命が加わった。
 ボルシェヴィキは、この自分の軍に対するソヴェトの反対を無視した。
 赤衛軍は結局は、通常の民間警察に変わるか人民軍と併合するかしたので、期待外れのものに終わった。どちらの場合でも、レーニンが期待したような階級軍精神をもつものにはならなかったからだ。
 必要になった十月には、存在していないことで異彩を放つことになる。//
 ボルシェヴィキはクーを準備して、守備軍団や前線兵団の間での虚偽情報宣伝や煽動活動も熱心に行なった。
 この仕事の責任は、軍事機構(Military Organization)が負うこととされた。
 ある共産党資料によれば、この軍事機構は、守備兵団の四分の三に、工作員や細胞(cell)を持った。
 軍事機構はその工作員や細胞から軍団の雰囲気に関する情報を得るとともに、それらを通じて、反政府および反戦争の宣伝活動を実行した。
 ボルシェヴィキは制服組の人間からほとんど支持されていなかったが、首尾よく兵団の不満を煽った。それの効果は、兵士たちが、政府またはソヴェトからのボルシェヴィキに対抗する呼びかけに服従したくない気分になる、ということだった。
 スハノフ(Sukhanov)によれば、最も強く不満を持っていた守備軍兵士たちですらボルシェヴィキを支持したのではなかったが、兵士たちの雰囲気は『中立』や『無関心』の一つで、反政府の訴えに反応しやすくなっていた。
 守備軍団の中の最大部隊、第一機関銃連隊の雰囲気は、この範疇に属していた。//
 ボルシェヴィキは主としては、印刷した言葉の手段でもって、心情に影響を与えた。
 <プラウダ>は、6月までには、8万5000部が発行された。
 ボルシェヴィキは地方紙や特定の集団に向けた文書(例えば、女性労働者、少数派民族)を発行し、夥しい数の小冊子を作成した。
 ボルシェヴィキは、制服を着た男たちに特別の注意を払った。
 兵士用の新聞、< Soldatiskaia プラウダ>が4月15日に発刊され、これは5万から7万5000部が印刷された。
 つづいて、海兵用の< Golos Praudy >、前線兵士用の< Okopnaia Pravda >が、それぞれクロンシュタット、リガで印刷されて、発刊された。
 それらは合わせて1917年の春に、兵団にむけて一日に10万部が配られ、ロシアの全軍に1200万人の兵士がいたとすれば、一隊あたり毎日一人のボルシェヴィキ党員の需要を満たすものだった。
 ボルシェヴィキ系新聞の合計部数は、7月初めには、32万になった。
 追記すると、< Soldatiskaia プラウダ>は、35万の小冊子と大判紙を印刷した。
 ボルシェヴィキには1917年二月には新聞がなかったことを考えれば、こうしたことは特筆されるべき事柄だ。//
  (*) 労働組合と工場委員会の対立は、20年後にアメリカ合衆国でも起きた。そのとき、工場を基礎にする組合はCIOと提携して、AFLの職業志向の組合に挑戦した。ここでは共産主義者は、ロシアのように、前者に味方した。
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 ③へとつづく。

1569/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究②。

 「一九七〇年にかけては、ひょっとすると、僕も、ペンを捨てて武士の道に帰らなければならないかもしれません。/
 東京の話題といふと大学問題ばかりで、ほかのことは何一つありません。たのしい時代は永遠にすぎさりました。しかし、たのしくない時代も、亦、それなりにたのしいものですね。」
 三島由紀夫全集第38巻443-4頁(新潮社、2004)、1969年2月2日/D・キーンへの書簡より。
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 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この本を手にして捲ってみて、すぐに気づくのは、活字の文字が大きいことだ。
 小学校高学年生の教科書よりも、大きな字ではないか。
 たまたま手近にあった、外形がほとんど同じ(たぶんB5版)のつぎの二つと、一頁あたりの行数、縦の文字数を比べてみた。
 各著の中でとくに大きくも細かくもない、つまり各著では標準の行数・縦文字数だと思われる、(頁数印刷の)100頁めのところで計算してみる。
 ①椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
  横14行、縦36字。14×36=504文字(一頁に印刷可能)。
 ②母利美和・井伊直弼/幕末維新の個性6(吉川弘文館、2006.05)。
  横16行、縦45字。16×45=720文字(一頁に印刷可能)。
 ③西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
  横18行、縦43字。18×43=774文字(一頁に印刷可能)。
 やはり、違いは歴然としている。
 ①椛島著は、②母利著の5/7以下、③西尾著の2/3以下しか、文字数がない(つまり活字が大きい)。
 したがって最終頁は、①p.219、②p.244、③p.315、なのだが、①椛島著は③西尾著と同じ組み方をすると、計140頁くらいにしかならないと思われる。
 ①椛島著は、②母利著と同じ組み方をしても、計153頁くらいだ。
 要するに、一見はふつうの書物のようにも感じるが、実際は、長さだけでいうと、140~150頁の本だ。
 つぎに、体裁的にも異様に感じるのは、<主要参考資料一覧>としてp.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さだ。
 数えてみると、A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34で、うち全て英語の原書が11(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。
 もともとこの一覧を含めて219頁の本で、上記のように、実際には140-150頁の本だと見てよい。
 この長さの本にしては、この「参考資料」の件数は、つまり合計133(冊+件)は、異様に多すぎるのではないだろうか。
 しかも、「主要」なものに限っている、とされる!。   
 「主要」なものだけで、極論すれば、一頁あたり一冊の専門?書または一件の専門?論文が使われている。
 常識的には、こんなことはありえない。これほど多数の「主要」参考文献を用いれば、書物自体の長さ、大きさがもっとはるかに長く大きいものになつているだろう。
 また、本文の内容を読んでも、これだけ多数の文献を駆使した、かつ綿密な、密度の濃いものになっているとも感じられない。
 したがっておそらく、<主要参考資料一覧>というのは、この書物を書くために実際に(基礎的であれ直接にであれ)用いたものではなく、多くは、著者・椛島有三が「気に入っている」または読者に「推薦したい」書物等の<一覧>なのだと思われる。
 繰り返すが、もともとでも219頁の本に、計133冊・件という「参考資料」の数は多すぎる。しかもそのうち、単行本和書85、同翻訳書23、洋書11、という数字なのだ。
 これらをよほどうまく「参考」にして吸収したうえで、かつ要領よくまとめないと、219頁(実際は140-150頁)の書物にはならない。それだけの吸収と概括が本文にあるようには、日本史・戦前史の素人である私には思えない。なお、個別の章等のあとには、「参考文献」の提示はない。まとめて最後に、<一覧>が示されている。
 さて、<保守>論者の諸文献を少しは読んで、かつ所持もしている秋月瑛二の目から見ると、この<主要参考資料>の掲載の仕方・内容は、あくまで主観的にだが、きわめて異様だ。
 つづく。

1568/レーニンらの利点とドイツの援助①-R・パイプス著10章6節。

 第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
 1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
 6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
 しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
 ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
 新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
 メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
 このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
 社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
 だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
 社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
 そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
 『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
 ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
 したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
 社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
 社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
 レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
 多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
 しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
 保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
 彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
 このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
 ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
 かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
 こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
 この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
 自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
 のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
 そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
 (*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
 第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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 ②につづく。

1567/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究①。

 「研究」というのは、おこがましい。感想、コメント程度を書く。
 今はやりの「日本会議」研究本?は、<民主主義対ファシズム>程度の感覚の単一層・単一面の素朴で単純な意識によるものが多いと見られ、どの程度に総合的で客観的な叙述になっているかは、相当に疑問だ(しかし、日本共産党中央からの「指令」にもとづいているものも間違いなくあると見られる)。
 「日本会議」自体を扱うつもりはないし、椛島有三「個人」を「研究」するのでもない。
 櫻井よしこの悲惨・悲痛の原因をつきとめてみたい、という気持ちが強い。
 きっと、「日本会議」事務総長の方の著書ならば、ヒントがあるだろう。
 少し迂回する。
 月刊正論(産経)の三年前の三冊の背表紙には、こう、目立つように書かれていた。この当時の「編集人」は、小島新一
 2014年4月号/激化する歴史戦争に立ち向かえ。
 2014年5月号/慰安婦・歴史戦争、我らの反撃。
 2014年6月号/歴史戦争、勝利への橋頭堡。
 名もなき多くの日本の<保守的>読者が、熱心に読んで頷き、心強く感じていたかもしれない。
 あれれ? しかし、この「歴史戦争」はいま、いったいどうなったのか?
 続いているのか、どのように続いているのか。それとも、勝ったのか、負けたのか?
 月刊正論編集部は「編集代表」・編集部が交替したなどと言わずに教えてほしいものだ(いや、この当時の編集部にちゃんと「菅原慎太郎」の名もある)。
 あるいはたかが月刊雑誌編集部では適切にな判断ができないなら、よく知らないが、産経新聞内の月刊正論等の雑誌統括部局の長、あるいは産経新聞社の社長でもよい、きちんと答えていただきたいものだ。
 それとも、上に書いたのは眼が悪くなった私の幻影なのか?
 そんなことはない。ちゃんと、書かれている。
 真面目に上のように月刊正論の背表紙に書いたのだから、それなりの意思・気持ちがあったのだろう。
 その後は、いったいどうなったのか? その年の夏に朝日新聞社が大騒ぎして、月刊正論も勝ち誇っているように見えたが、あれはいったい何だったのだろうか?。あれも幻像だったのか、はて?
 かつての一読者あるいは国民として、このような疑問を持って、当然なのではないか。
 このような疑問を発する「権利」が、我々にはあるのではないか。
 奇妙なことは、月刊正論(産経)にもよく登場する、同編集部が別冊<一冊まるごと…>をすら発行したらしい、櫻井よしこについてもある。
 立ち入らない。櫻井よしこの、時期の異なるつぎの三つの文章をきちんと比べて読んで見れば、この人の最初の感覚とその後の<ひどい(悲痛な)詭弁>がよく分かる。安倍内閣戦後70年談話についてだ。
 ①櫻井よしこ・週刊新潮2015年8/27号=同ウェブサイトにあり。
 ②櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)p.192の「追記」。
 ③櫻井よしこ「安倍総理は…」月刊Hanada2017年7月号(飛鳥新社、発行人・編集長/花田紀凱)p.38~p.39。
 さて、椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この2007年4月というのが、どういう時期だったかは別に触れるだろう。
 1997年5月30日が「日本会議」設立宣言日なので、事務総長としてほぼ10年経ったあとの書物になる。
 本人の「あとがき」を除くと第5章までと「補論」がある。タイトルは、つぎのとおり。
 第1章・昭和天皇のご見解-大東亜戦争の原因について。
 第2章・アメリカのアジア戦略について-アメリカのアジア戦略の原点は満州獲得だった。
 第3章・満州事変の背景-米ソによるアジアのヤルタ体制の第一歩は満州で始まった。
 第4章・アジアにおけるヤルタ体制の誕生-米ソがもたらした志那事変の勃発と泥沼化。
 第5章・大東亜戦争の真相に迫る-すでに戦争は始まっていた。
 補論・朝鮮戦争を通じ初めて日本の立場を理解した米国。
 全行にわたって熟読したわけではないが、対象・内容はおよそ満州事変以降の「大東亜戦争」で、この時期の日本国家の立場を擁護し、主としてアメリカを批判していることが明らかだ。つぎのような「節名」もある。
 「国際的に認められ、正当性をもった日本の中国大陸における権益」。p.46。
 「満州事変はなぜ起こったか-①日本人居留民の被害、②絶対絶命のなかで起きた満州事変」p.80。
 「日本は自衛戦争を戦った」p.117。
 「アメリカによる徹底した日本の封じ込め」p.172。
 「生存をかけた日本の戦い」p.181。
 重大な関心事は、このような内容の書物を「日本会議」事務総長名を明らかにして刊行していた椛島有三は、2015年夏の安倍内閣戦後70年談話における「満州事変」以降の日本に関する叙述を、どのように聞いたか、だ。
 安倍談話は必ずしも明瞭ではないところはあるが、根本趣旨を理解できないような日本語文ではない。また、1995年村山談話と同様に、内閣としての<政治文書・政治談話>であることは、あえて記すほどのことではない。これを「学究的、研究論文」ではないからよいなどと論評するのは(櫻井よしこ)、一部の厚顔無恥の、悲惨な「頭内」状態の人に限られるだろう。
 明らかに、椛島有三の歴史認識又は歴史叙述と安倍内閣の2015夏時点での歴史認識・歴史叙述は異なっている。かりに100%とはいわなくとも、きっと75%くらいは異なっている。
 椛島有三は、この談話に対して、どう反応したのだろうか。
 椛島有三は補論でジョージ・ケナン(George F. Kennan)等の言を持ち出して、朝鮮戦争を通じてアメリカは、かつての敵国までもが、かつての「日本の立場」を分かってくれた、と書いているが、その「日本の立場」を、安倍内閣戦後70年談話は、きちんと述べたのだろうか。
 そうでないとすれば、椛島有三は安倍談話を批判して当然だった。
 「日本会議」は、2017年夏の安倍内閣戦後70年談話について、どういう公式態度を表明したのだったのだろうか。よく知らない。少しは、調べてはみる。
 つづく。

1566/『自由と反共産主義』者の三つの闘い⑥-共産主義とリベラル民主主義。。

 「池よりも、湖よりも海よりも、深い涙を知るために。/
  月よりも、太陽よりも星よりも、遠くはるかな旅をして。」
 小椋佳・ほんの二つで死んでゆく(1973)より。作詞・小椋佳。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 すみやかに正しておこうか。
 前回に 1) 2) は勝利できる可能性はあるが(つまりは極端にいえば<全面対決>の問題だが( -1)はデマとの闘い)、3) はこれと違って、どう<切り分ける>かの問題だというようなことを書いた。
 次元の違いを意識したつもりだったが、どうも考え不足だ。
 つまり、Liberal Democracy の中に、「共産主義(communism)」は含まれるのか、という問題だ。
 言葉ないし概念の問題として、含まれているとすれば、Communism をまずはLiberal Democracy から除去する闘いを先にして勝利したうえで、Liberal Democracy のうちから「日本」と矛盾しない、又は積極的に採用すべきものを<切り分けて>取り出すことになる。
 含まれていないとすれば、それはそれで、前回のとおりの説明でよい。
 しかし、欧米的 Liberal Democracy は、Communism と異質なものだろうか。
 これは言葉・概念の問題として処理してもよいが、歴史的・思想史的な考察も必要だ。
 既存の知識によれば、二つの理解がありうる。
 一つは、ズビグニュー・ブレジンスキーが語っていたことで、欧米的なフランス革命以降の「自由・民主主義」は「共産主義」とは無縁で、後者は前者の正常な進行から「逸脱」したものだとする。
 一方で、読んできたものの中では、フランス革命-ロシア革命を一つの線上に、つまり前者の不可避的な(あくまで一つだが)結果と考えるものが多いようだ。
 ルソー/フランス革命-マルクス・レーニン/ロシア革命、という系譜になる。
 フランソワ・フュレもその一人で、この人は、フランス人だからだろうか、マルクスの諸叙述の中のルソーやフランス革命への言及の仕方を追跡しようとすらしている。下記。
 マルクスとフランス革命=今村仁司他訳(法政大出版局、2008)。
 ルソー・「市民革命」にマルクス主義やロシア革命の淵源の確かな一つを見る。
 また、マルクスも、<ブルジョア民主主義革命>の担い手たちへの敬意を隠さなかったし、一度だいぶ前に、レーニン『国家と革命』に関する平野義太郎の分析・注釈書を通じて、レーニンもまたフランス革命を大いに参照していたことを記したこともある。
 前回に書いたときの感覚とは違って、やはり、欧米的 Liberal Democracy とCommunism は無関係ではない。そもそも、後者は、日本とは無縁に、ヨーロッパで(ドイツ人により)生まれた異質な思想であるとともに、欧米的 Liberal Democracy がなくしては、誕生していないだろう。
 「奇胎」・「鬼子」かそうでないかは、一種の価値判断を含む。
 「奇胎」・「鬼子」か正嫡子かのどちらかであれ、あるいは「逸脱」か「発展(の一つ)」のいずれであれ、欧米的 Liberal Democracy の基礎のうえに「共産主義」もある、という理解がおそらく適切だろう。
 そうだとすると、2) の闘いは、当然に、3) の中にも持ち込まれ、やはり結局のところ、三つの闘いは相互に分かち難く、相互に関連しあっていることになる。
 しかし、どうもこの 3) の論点が最終の基本的課題にはなりそうだ。ずるずると他の論点を引き摺りながら、この論点を意識した論争もまた必要であることになる。
 あえて文献を提示しないのだが(それをすると途方もない時間がかかる)、中川八洋には、2) に関するきわめて旺盛な問題意識がある。彼の目からすると、反共産主義の姿勢が明確でない者は、全て<日本共産党員>であると-ここでは極端に概括しているかもしれないが-見なされる可能性がある。西尾幹二も、櫻井よしこも変わりはない。
 しかし、中川八洋の問題性は(反共産主義の点で全く問題がないとは思わないが、それはさて措き)、3) の問題意識がないか希薄なことだろう。
 一方、佐伯啓思には、3) に関する問題意識が強くある。しかし、佐伯啓思には、2) の問題関心がないかきわめて乏しい。「日本会議」宣言書のご託宣のごとく、「マルクス主義」との闘いはもう必要がないがごとくだ。
 また、せっかく反 Liberal Democracy の趣旨を詳しく説きながら、佐伯啓思における「日本」は曖昧なままだ。西田幾多郎等々に少し遡っただけでは、たどり着けないのではないだろうか。
 「日本」とか「愛国心」とかを語りつつ、佐伯啓思における日本の将来像はクリアではない。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを期待してもいない。
 それぞれに限界はあるものだと、思わざるをえない。
 佐伯啓思は「日本会議」派に比べるとはるかに理性的・合理的だが、しかし、例えば日本の現実政治についての「感覚」は、どこかおかしい。橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>などを指摘し始めてから、私は佐伯から離れてしまった。たかが大阪府知事・大阪市長にこのような大仰なことを言うのは、<ファシスト(ハシスト)>扱いと、どこが違うのだろうか。
 もとより、日本に関する中川八洋の個々の政治的「感覚」が適切である保障もない。
 個々の政治的選択・判断を問題にしようとは考えていない。
 日本の論者は、月刊誌や週刊誌に書きすぎる。書きすぎるから、本来の得意分野以外にまで手を出して、つい<識者>らしきことを書いてしまう。
 これは、産経新聞社を含む日本のメディア、出版業界の問題でもある。多くの「評論家」・大学教授類の一部は、出版業に雇われる「使い走り」・「文章作成係」になっている。
 きちんとした評論書・時代分析書・将来展望書は、2年くらいの期間をかけないときちんとは執筆できないのではないか。
 月刊誌(または櫻井よしこのごとく週刊誌)に書いたものをあとでまとめて、ハイ一冊、という本の作り方では、いかほどに真摯な思考が、体系的にまとめられているかは疑問だ(もちろん、人によるが)。櫻井よしこは、自分は毎年少なくとも二冊を刊行している大?「評論家」・「ジャーナリスト」などと妄想しない方がよいだろう。既述のとおり、自分の言葉は10%以下、他人・第三者からの紹介・引用が半分程度、あとは公開事実の<要領のよいまとめ>だ。また、この人には、平気で<剽窃>のできる、希有の才能がある。
 じっと深く思考することが必要だが、その際に重要なのは、基本的な<論争点についての位置の自覚>だ。
 いったい何のための、いったいどういう次元の、いったい誰を相手(「敵」)にした議論をしているのか?
 日本の<保守>派の混迷は、基本的に、これに無自覚なところにあると思われる。
 櫻井よしこ又は「日本会議」派は、いったい何を追求しているのか?
 訳が分からなくなって、精神的頽廃に落ち込んでいる者もいる。ただ毎日を忙しく過ごして、自分の「名誉」又は「顕名欲」さえ守れればよいと思っている人もいる。
 西尾幹二にも、中西輝政にも、十分な満足は感じていない。相対的にまだマシだと思っているだけだ。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを求めるつもりはない。
 上のように並べても、西尾幹二と中西輝政が同じであるはずはない。
 こんなことを書いていても、<大海の底の小さな貝の一呼吸>が生むほんの小さな水の揺るぎにすぎないだろう。
 それでよい。つまらないことを書きなぐって、後世に恥をさらす櫻井よしこよりは、まだ生きている価値がある。
 それにしても、櫻井よしこの<悲しいほどに痛々しい>ことの理由、背景は、いずれにあるのか。

1563/五月連立・エスエルら入閣-R・パイプス著10章5節。

 前回からのつづき。
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 第5節・社会主義者の臨時政府への加入。p.405-7。
 四月騒乱は、臨時政府の最初の重大な危機だった。
 ツァーリ体制(帝制)が崩壊して僅か二ヶ月後に、知識人たちはその眼前で国の統合が壊れていくのを見た-そしてもはや、責めるべき皇帝も官僚層もいなかった。
 政府は4月26日に、もう統治できない、『今まで直接で即時には内閣の一部を占めていなかった国の創造的な人たちの代表者』を、つまり社会主義知識人の代表者を、招き入れたい、という感情的な訴えを国民に対して発した。
 『大衆』の目から妥協しているとされるのをまだ怖れて、イスパルコムは4月28日に、政府からの打診を拒否した。
 イスパルコムが態度を変えた原因は、戦時大臣、グチコフの4月30日の退任だった。
 グチコフが回想録で説明するように、ロシアは統治不能になったと彼は結論していた。
 唯一の救済策は、コルニロフ将軍や実業界の指導者たちに代表される『健全な』勢力を政府に招き入れることだ。      
 社会主義知識人の態度が変わらなければこれは不可能なので、グチコフは階段を下りた。
 ツェレテリによれば、そのあとでミリュコフの任務から解放されたいとの要請がつづいたグチコフの辞任は、もはや一時凌ぎの方策では対応できない範囲に及んでいる、危機の兆候だった。
 『ブルジョアジー』が、政府を放棄しようとしていた。
 5月1日にイスパルコムは方針を変え、総会に諮ることなく、賛成44票対反対19票、保留2票の表決をして、メンバーが内閣の職を受諾することを許した。
 反対票は、ソヴェトが全ての権力を獲得することを願うボルシェヴィキと(マルトフ支持者の)メンシェヴィキ国際派によって投じられた。
 ツェレテリは、〔国際派以外の〕多数派を合理化する説明をしている。
 彼が言うには、政府は、迫りつつある破滅から国を救うことができないことを認めた。
 このような状況では、一歩を踏み出して革命を救う義務が、『民主主義』勢力にある。
 ソヴェトは、マルトフやレーニンが望むように、自らのために自らの名前で権力を得ることは、できない。そんなことをすれば、民主政を信じてはいないが民主主義勢力と協力するつもりのある多数の国民を、反動者たちの手に押し込んでしまうことになるのだから。
 別のメンシェヴィキのV・ヴォイチンスキー(Voitinskii)にツェレテリが語ったのは、つぎのようなことだ。
 『ブルジョアジー』との連立に賛成し、『全権力をソヴェトに』のスローガンに間接的には反対することになるのは、農民たちがソヴェトの『右翼側に』位置しており、おそらく彼らは自分たちが代表されていない組織を政府だと認めるのを拒むだろうからだ。//
 イスパルコムは、連立政府の設立に同意する際に、一連の条件を付けた。
 すなわち、連合国間の協定の見直し、戦争終結への努力、軍隊の一層の『民主化』、農民に土地を配分する段階を始める農業政策、そして憲法制定会議(Constituent Assembly)の召集。
 政府の側では、新政府を、軍隊の最高指令権の唯一の源泉であることはもとより、状況によれば軍事力を実際に行使する権限をもつ、国家主権の排他的保持者だと認めることを、イスパルコムに要求した。
 政府とイスパルコムの代表者たちは、五月の最初の数日間を、連立の条件を交渉することで費やした。
 5月4日から5日にかけての夜に、合意に達した。それに従って、新しい内閣が職務を開始した。
 安定感があって無害のルヴォフ公が首相に留任し、グチコフとミリュコフは正式に辞任した。
 外務大臣職は、カデット〔立憲民主党〕のM・I・テレシェンコ(Tereschenko)に与えられた。
 若き実業家のテレシェンコは政治経験がほとんどなく、公衆にはあまり知られていなかったので、これは不思議な選抜だった。
 しかし、一般に知られていたのは、ケレンスキーのようにフリーメイソンに所属しているということだった。この人物の任命はフリーメイソンとの関係によるという疑問の声が挙がった。
 ケレンスキーは、戦時省を所管することになった。
 彼もこの職へと後援するものは持たなかったが、ソヴェトでの卓越ぶりと弁舌の才能によって、夏期の攻勢を準備している軍隊を鼓舞することが期待された。
 6人の社会主義者が、連立内閣の大臣になった。そのうち、チェルノフは農務省の大臣職に就き、ツェレテリは郵便電信大臣になった。
 この内閣は、二ヶ月間、生き存えることになる。//
 五月協定は、究極的な権威について国民を当惑させる二重権力体制(dvoevlastie)の奇妙さを、いくぶんか和らげた。
 五月協定は、大きくなっていく失望の意識だけを示すのではなく、社会主義知識人の成熟さが増大したことをも示していた。そして、そのようなものとして、一つの明確な発展だった。
 表面的には、『ブルジョアジー』と『民主主義』を一つにした政府は、二つの集団が相互に敵対者となるよりは効率的だと、約束した。
 しかし、この合意は、新しい問題も生じさせた。
 社会主義政党の指導者が入閣した瞬間に、彼らは反対者〔野党〕の役割を失った。
 内閣に入ることで彼らは自動的に、間違う全てについての責めを分け持つことになった。
 このことが許したのは、政府に入らなかったボルシェヴィキが現状に対抗する唯一の選択肢であり、ロシア革命の守護者であるという位置を占めることだった。
 そして、リベラルおよび社会主義知識人の行政能力は救いようもなく低かったので、事態は、より悪化せざるをえなかった。
 ボルシェヴィキが、唯一の想定できるロシアの救い手として、現われた。//
 臨時政府は今や、崩壊する権威から権力統御権を奪う穏健な革命家たちの、古典的な苦境に立ち至った。
 クレイン・ブリントン(Crane Brinton)は、革命に関する比較研究書の中で、つぎのように書く。//
 『穏健派たちは、少しずつ、旧体制の反対者として得ていた信頼を失っていることに気づく。そして、ますます旧体制の相続人としての地位と見込みでは結びついていたものを失墜させていることに。
 防御側に回って、彼らはつぎつぎと間違いをする。防御者であることにほとんど慣れていないのが理由の一つだ。』
 『革命の進行に遅れる』と考えることが心情的に堪えられなくて、左翼にいる好敵と断交することもできなくて、彼らは誰も満足させず、十分に組織され、十分に人員をもつ、より決意をもつ好敵たちに、喜んで道を譲る。(79) //
  (79) Crane Brinton, Anatomy of Revolution (ニューヨーク, 1938), p.163-171。

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 第6節につづく。 

1560/四月騒乱②-R・パイプス著10章4節。

 前回のつづき。第4節は、p.399-p.405。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動②。
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 ボルシェヴィキ中央委員会は4月21日の朝に再度会議をもち、その日の活動命令を採択した。
 一つの指令は、工場と兵舎へと扇動者を派遣し、労働者と兵士にその日に計画している示威活動に関する情報を伝え、参加すべく呼びかけるように命じた。
 この扇動者たちは真昼間に、労働者がペテログラードでは最も急進的なヴィボルク地区の多くの工場に現われた。それは、昼食の休憩時間中だった。
 午後に仕事を離れて反政府抗議活動に参加しようとの訴えは、失望する反応を受けた。その主な理由は、イスパルコムからのエスエルとメンシェヴィキの工作員が、労働者たちを中立化する準備をしていたからだ。
 三つの小さな工場の労働者だけが、ボルシェヴィキの決議を採択した。彼らはわずか千人ほどで、ペテログラードの労働者人口の1%の半分以下だった。
 プティロフ、オブホフその他の大企業は、ボルシェヴィキを無視した。
 ボルシェヴィキが武装行動を計画したことは、軍事機構の長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoisky)がクロンシュタット海兵基地に対してペテログラードに信頼できる海兵の派遣を求めている事実によって、示されている。
 クロンシュタットの海兵たちは、市の中で最も粗々しくて最も暴力好きの者たちだった。無政府主義者(anarchist)の影響を強く受けていて、< burzhui >〔ブルジョア〕を痛めつけて略奪するのに刺激はほとんど必要なかった。
 彼らを市へと送り込むことは、集団的殺戮を生むことになるのはほとんど確実だった。
 彼らを呼んだことは、ボルシェヴィキは4月21日に『平和的な偵察』を意図したのだというレーニンの主張が偽り(lie, ウソ)であることを示している。//
 午後早くに、反政府の旗を掲げる一群が、銃砲で武装したボルシェヴィキの『工場軍団(Factory Militia)』を先頭にして、ネヴスキーに沿って中心部へと前進した。
 兵士も海兵も参加しないという残念なできだったが、これは民主主義的政府に対する、最初の武装による挑戦だった。
 示威行進者がカザン大聖堂に接近したとき、彼らは『臨時政府に永き生を』と叫ぶ反対の行進者と遭遇した。
 乱闘が起こり、何人かが散発的に射撃した。これによって、三人が死亡した。
 これは、二月以来最初の、ペテログラードでの街頭暴力(street violence)だった。//
 支持者たちが街頭にいる間、レーニンは慎重に家にいようと考えていた。//
 秩序をもう一度回復しようと、コルニロフ(Kornilov)は、砲兵隊および兵団を送り出すように指令した。
 このとき彼は、群衆は説得によって静穏化できると主張するイスパルコムに抵抗された。
 イスパルコムは、軍事スタッフに、コルニロフの指令を取消すように電話した。
 そのあと、コルニロフはイスパルコムの代表団と会った。
 その代表団は騒乱を阻止する責任を請け負い、コルニロフは指令を撤回して兵団に兵舎にとどまるように命じた。
 政府もボルシェヴィキも武力に訴えないことを確実にするために、イスパルコムは、ペテログラード守備兵団に対して、つぎの公式宣明書を発した。//
 『同志兵士諸君!
 混乱しているこの数日の間、執行委員会(イスパルコム)が呼びかけないかぎり、武器をもって外出してはならない。
 執行委員会だけが、君たちの行動を差配する権利を持っている。
 軍団の街頭への出団(日常の些細な任務を除く)に関する全ての命令は、印章が捺され、以下の者のうち少なくとも二名の署名のある、執行委員会の文書用紙で発せられなければならない。チヘイゼ、スコベレフ、ビナシク、ソコロフ、ゴルトマン、ボグダノフ。
 全ての命令は、電話104-06によって確認されなければならない。』//
 この命令書は、ペテログラード軍事司令官の権威を弱めた。
 コルニロフは、任務を履行することができなくなり、解任と前線への任命を求めた。
 のち五月の最初の日に、彼は第八軍の司令官の任に就いた。//
 その日遅く、イスパルコムは投票して、続く48時間の間の全ての集団示威行進を禁止した。
 街頭に武装した人間を送り込む者は誰でも、『革命への裏切り者』だと非難した。//
 4月21日、全く同じスローガンを掲げる、ボルシェヴィキと推定される示威行進がモスクワであった。//
 ペテログラード騒乱は、民衆の支持のなさから4月21日の夕方にかけて収まった。
 政府に忠誠心のある示威行進者は、ボルシェヴィキの指導に従った者たちと少なくとも同程度に戦闘的で、数の上ではそれよりも相当に上回っていたことが分かった。
 モスクワではボルシェヴィキの反乱はまだ翌日まで続いたが、怒った群衆が反乱者たちを取り囲み、反政府の旗を彼らの手からちぎり取って終わった。//
 蜂起は失敗したことが明白になった瞬間に、ボルシェヴィキは全ての責任を否定した。
 4月22日にボルシェヴィキ中央委員会は、『小ブルジョア』大衆が最初は躊躇したが『親資本家』軍の支援をうけて出現した、ということを認め、反政府スローガンを時期尚早だとして非難する決議を裁可した。
 党の任務は、政府の本性に関して労働者を啓発することだ、と説明された。
 集団示威活動はもうないとされ、ソヴェトの指令には従うべきだとされた。〔A〕
 カーメネフが提案した可能性が高い決議は、彼が『冒険主義』だと非難するレーニンの敗北を示した。
 レーニンは、ペテログラード委員会の性急さによるとする示威活動の反政府的性格を非難して、弱々しく自らを守った。
 しかし、自己防衛をしている間にも、レーニンは思わず、心に浮かんだことを露わにした。
 『これは、暴力的手段に訴える企てだった。
 あの懸念した時点で、民衆が我々の側へと立場を大きく変えたかどうかは、分からなかった。<中略>
 我々はたんに敵の強さの「平和的な偵察」を実施しようとしていたのであり、決して戦いは望まなかった。』(70)
 四月騒乱は『暴力的手段に訴える企てだった』と言っていることと、『平和的な偵察』を意味したという主張を、どのように調和させることができるのか、レーニンは説明しなかった。(*)
 さしあたりの間は、群衆はイスパルコムに、そして、その代表者を通じて政府に、従った。
 こうした文脈では、社会主義知識人はなぜ実力の使用に反対したのかを理解することができない。
 しかし、群衆の気分は変わりやすいものだ。そして、四月の主要な教訓は、ボルシェヴィキ党が弱かったことではなく、政府とソヴェトの指導者たちが実力に実力でもって対処する用意がなかった、ということだった。
 四月の日々の教訓を数ヶ月後に分析したレーニンは、戦術の面でボルシェヴィキは『十分に革命的でなかった』と結論づけた。これによって彼は、権力をひったくらなかったことに謬りがあった、とだけ意味させることができたのだろう。
 さらに言えば、レーニンは小さな戦闘の始まりから多くの鼓舞を、スハーノフによれば、四月におけるレーニンの『大きく生え始める翼』への希望を、引き出していた。//
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  〔A〕 <レーニン全集第24巻(大月書店)p.207以下「1917年4月22日(5月5日)朝採択されたロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会の決議」が該当するー試訳者・注記。
  (70) Lenin, PSS (Polnoe sobranie sochinenii, 5th ed.), XXXI, p.361。
  <レーニン全集同上p.245以下「現在の情勢についての報告の結語ー4月24日(5月7日)」が該当する。レーニンはこう述べる。以下、一部引用。カーメネフは「われわれに同意して、いまでは別な立場をとっている…。われわれの冒険主義はどこにあったか? それは、暴力的方策に訴えようと試みたことにあった。大衆が…のかどうか、われわれにはわからなかった。そしてもし大衆が大きく振れたのであれば、問題は別であっただろう。われわれは、平和的なデモンストレーションというスローガンをだした」。「われわれは、ただ敵の勢力にたいする平和的な偵察だけをおこない、戦闘はやらないことをのぞんだのであるが、ペテルブルグ委員会は、ちょっぴり左寄りのコースをとった。そして、このことは、…とんでもない犯罪である。組織機構がしっかりしていないことがわかった。つまり、…」/同全集この文書末尾の注記によると、「1921年に、レーニン全集、第1版第14巻第2分冊にはじめて発表。議事録のタイプした写しによって印刷」。ー以上、試訳者・注記。
  (*) アメリカの歴史家、アレクサンダー・ラビノヴィッチ(Alexander Rabinowitch)は、四月の示威活動は平和的なものだったというボルシェヴィキの文書内容を採用して、その上のレーニンが『暴力的手段』に言及している文章を、引用から省略している。A. Rabinowitch, Prelude to Revolution (1968), p.45。
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 第5節につづく。

1558/四月騒乱①-R・パイプス著10章第4節。

 前回のつづき。
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 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動①。
 ロシアの戦争意図をめぐる政治的危機を利用して、ボルシェヴィキは4月21日に、権力をめざす最初の試みを行った。
 イスパルコム〔Ispolkom, 全ロシア・ソヴェト執行委員会〕は1917年の3月末に臨時政府に対して、オーストリアとトルコの領土に対するミリュコフ(Miliukov)の要求を承認しないように強く主張したことが、想起されるだろう。
 社会主義者たちを宥めるべく、政府は3月27日に宣言書を発表し、イスパルコムが承認した。それは、領土併合の放棄を多言することなく、ロシアの目的は『民族の自己決定権』にもとづく『永続平和』だと宣言していた。//
 こう認めることで問題は収拾されたが、一時的にだけだった。
 ヴィクトル・チェルノフ(Viktor Chernov)がロシアに帰ってきて、この問題は再び4月の論争の根幹部分になった。
 このエスエル党の指導者は戦時中の数年間を、西欧で、主としてスイスで過ごした。スイスではツィンマーヴァルトとキーンタールの会議に参加し、伝えられるところではドイツの資金で、ドイツやオーストリアにいるロシア人戦争捕虜に関する革命的な書物を刊行した。 
 彼はペテログラードに戻って、すぐにミリュコフに反対する宣伝運動を始め、ミリュコフの辞任を要求し、政府に対して3月27日の宣言書をロシアの正式の戦争意図であるとして連合諸国の政府に電送することを求めた。
 ミリュコフは、公式に領土放棄を明らかにすれば戦争からの離脱の意図を意味していると連合諸国が誤解する、という理由で、この要求に反対した。
 しかし、内閣はミリュコフの言い分を認めなかった。
 ケレンスキーは、この事案に特別の熱心さを示した。それは、彼の重要な好敵であるミリュコフの評判を落とし、ケレンスキー自身のソヴェト内での立場を強くするはずだった。
 そのうちに、妥協に到達した。
 政府は3月27日の宣言書を連合諸国に伝えるのに同意するが、戦争を継続するとのロシアの意図についての疑いを除去するように、説明の文書〔Note, 覚え書〕を添付することとする。
 ケレンスキーによると、ミリュコフが案を作成して内閣が承認した説明文書は、『ミリュコフの「帝国主義」への最も厳しい批判で充満していたはずだった』。(53)
 それは、連合諸国と共通する『高い理想』のためのロシアの戦闘決意と、そのために『義務を完全に履行する』ことを再確認した。
 二つの文書[宣言と説明書(覚え書)]は、4月18日(西暦で5月1日)に連合国諸政府へと電送すべく国外のロシア大使館へと打電された。//
 政府の文書が4月20日朝のロシアの新聞に掲載されると、社会主義知識人界は激怒した。
 ごく一部の極端派を除く社会主義諸政党の公式目標である、勝利までの戦争継続の誓約が不愉快だったのではなく、問題は、『併合と配分』に関する両義的な言葉遣いだった。
 イスパルコムはその日に、『革命的民主主義は、攻略的な目的のために…血が流れることを許しはしない』と票決した。
 ロシアは、戦いつづけなければならない。だがそれは、全交戦国が領土併合のない講和を結ぶ用意ができるまでだ。//
 政府とイスパルコムの間の協議によって、論争は容易に解消されえただろう。それはほとんど確実に政府側の屈従になっただろうけれども。
 しかし、両者間に妥協が成る前に、兵舎および労働者区画で怒りが発生した。それは、見えない糸でイスパルコムとつながっていた。//
 街頭不安は4月20日-21日に自然発生的に始まったが、速やかにボルシェヴィキが指導した。
 若き社会民主主義者の将校、リュテナント・テオドア・リンデ(Lieutenant Theodore Linde)は、この人は指令書第一号の草案作りに関与していたのだが、政府の文書は革命的民主主義の理想に対する裏切りだと解釈した。
 リンデは彼の連隊、フィンランド予備衛兵団の代表者たちを呼び集め、彼らにミリュコフに反対する街頭示威活動へと部下を投入するように言った。
 彼は同じ伝言書を携えて、別の守備兵団も回った。
 リンデは、ロシアが戦争し続けることを望む、熱烈な愛国者だった。
 すぐのちに、彼は死ぬ。闘いに加わるよう求めた前線の兵士団によって、殺戮された。彼らは、リンデのドイツふうにひびく名前によって、敵の工作員に違いないと決めたのだった。
 しかし、彼は、多くのロシアの多くの社会主義者のように、戦争は『民主主義』の理想を掲げて開始されたと思いたい人物だった。
 どうも彼は、権威により正当化されていない政治的な示威運動に参加するように兵士たちに熱心に説くことは反乱を呼びかけるに等しい、ということを認識していなかったように見える。
 午後三時からそれ以降、フィンランド予備衛兵団を先頭とする若干の軍団が、完全武装をして、政府が所在するマリインスキー宮へと行進した。そこで彼らは、ミリュコフの退任を要求して叫んだ。//
 グチコフ(Guchkov)が病気だったため、このときの閣議はマリインスキー宮ではなくて、グチコフの戦時省の職場で開かれていた。
 その前に、コルニロフ将軍が現れていた。彼は、ペテログラード軍事地区司令官であり、首都の治安に責任をもっていた。
 彼は、兵団に反乱兵士たちを解散させることの許可を求めた。
 ケレンスキーによると、内閣は一致してこの要請を拒んだ。
 『我々は、推移を把握している自信がある。また、きっと民衆は政府に反対するいかなる暴力行為をも許さないだろう』。
 これは、臨時政府がその権威に対する公然たる挑戦に直面して実力を行使するのをためらった最初のことで、かつ最後のことではなかった。-この事実をコルニロフもレーニンも、忘れなかった。//
 このときまで、ボルシェヴィキは騒乱と何の関係もなかった。実際、彼らは驚いたように思える。
 しかし、ボルシェヴィキはこれを利用する時間を逸しなかった。//
 この時点でのボルシェヴィキの最高司令部の活動については現在、明確ではない。重要な文書証拠類のほとんど非公刊のままであるためだ。
 事態に関する公式の共産党の見方によると、党中央委員会は、4月20日夕方から21日の全日にわたってペテログラードで起きた反政府の集団示威活動を、正当なものとして承認してはいなかった。
 『臨時政府打倒』とか『全権力をソヴェトへ』とか書いた旗を掲げて街頭を歩くボルシェヴィキ党員は、S・Ia・バグダエフ(Bagdaev)を含む第二ランクのボルシェヴィキの指令によって行動した、とされている。(*)
 しかし、ボルシェヴィキ党のような中央集中的政党で、小さな党組織が自分で中央委員会に果敢に逆らって革命的なスローガンを掲げるのを認めただろうとは、全く考え難い--レーニンの臨時政府への対立的な立場に反抗したとバグダエフの文書が証して、責任はより愚かな者へと転嫁された。
 1917年4月20-21日の事態に関して誤導するような説明方法は、ボルシェヴィキの最初の蜂起の企てが恥ずかしい失敗に終わったことを隠蔽するために作り上げられてきた。
 事態を正確に描くのをさらに混乱させるのは、共産党の歴史家が事象発生後に党によって採択された諸決議を長々と引用してきたことで、それはこの事象は、発生前に意図されていたと示唆しており、かつレーニンが書いた指令を『出典不明』だと推論している。//
 リンデによって呼び出された兵団がマリインスキー広場に集まっていた4月20日の午後、ボルシェヴィキ中央委員会は緊急の会議を開いた。
 ミリュコフの文書を読んだあとその日の早くにレーニンが起草した決定を、同委員会は裁可した。このことは、その後の示威活動はボルシェヴィキが支持していたことの、合理的な根拠を提示する。
 レーニンの著作物の初期の諸版は、レーニンが執筆者であることを否定した。
 これを初めて肯定したのは、1962年発行のレーニン全集の第5版だった。(61)
 レーニンは、臨時政府は『完全に帝国主義的』だ、イギリス・フランスはもとよりロシアの資本によって支配されている、と表現した。
 この類の体制はまさにその本性において、領土併合を放棄することができない。
 レーニンは、政府を支持しているとしてソヴェトを批判し、ソヴェトに全権力を握るように求めた。〔A〕
 これはまだしかし、政府打倒の公然たる訴えではなく、レーニンの文章からこのような結論を導くには、深い洞察が必要だ。
 これはたしかに、ボルシェヴィキ党員が『臨時政府打倒』や『全権力をソヴェトへ』と書く旗をもって示威行進をするのを承認している。レーニン自身がしかし、のちにはこれらと離れることになる。//
 このときの会議で中央委員会が採択した戦術的諸決定がどのようなものであったかは、知られていない。
 中央委員会会議にしばしば加わっていたペテログラード委員会の議事録で公刊されている版は、瑣末な組織上の問題のみを記録している。
 5月3日までの全てのそれに続く会議の議事は、省略されている。
 しかしながら、つぎの二つのことは、合理的に見て確かだ。
 第一に、レーニンは攻撃的な示威行動の主な提唱者であり、かつ強い反対に遭ったように見える。
 これのかなりは、後で起きたことから分かる。のちにレーニンは、同僚、とくにカーメネフから批判を受けた。
 第二に、集団示威活動は、激発した労働者や反乱した兵士たちがツァーリ(帝制)政府を打倒した2月26-27日の再現、全面的な蜂起を意図するものとされていた。//
 すでに4月20日の夕方、午後の示威行進に参加した兵士たちが兵舎に帰ったあとで、兵士と労働者の新しい一群が、反政府の旗を持って街頭に現われた。彼らは、ボルシェヴィキが指導する反乱者たちの先行軍団だった。
 そのあと、『レーニンよ、くたばれ!』と書く旗を掲げる、反対の示威活動が起きた。
 示威行進中の者たちは、ネヴスキー通りで衝突した。
 イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕による介入に従って、群衆たちは平穏になった。//
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  (53) Alexander Kerensky, The Catastrophe (ニューヨーク, 1927), p.135。
  (*) バグダエフは実際に、5月1日、これは4月18日にあたる、のデモを組織したとしてペテログラード委員会から追及された。この日に政府の戦争意図に関する宣言書と説明文書は、連合諸国政府に伝えられた。
  (61) Lenin, Sochineniia, XX, p.648。プラウダ第37号(1917年4年21日付)p.1からの文章は、p.608-9。Lenin, PSS, XXXI, P.291-2。
 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)183頁以下の「臨時政府の覚え書」/1917年4月20日執筆・プラウダ第37号(1917年4年21日)に発表、が該当する。「覚え書」とは、本文上の<添付した説明文書>の旨で訳したNoteのことだ。-注記・試訳者〕。
  〔A〕試訳者注記/上のレーニン全集第24巻183頁以下「臨時政府の覚え書」から一部引用する。p.183-5。
 「…と覚え書は、補足している。//簡単明瞭である。決定的に勝利するまで戦う。イギリスやフランスの銀行家との同盟は神聖である…。//
 問題は、グチコフ、ミリュコフ、…が資本家の代表者だという点にある。/
 問題は、いまロシアの資本家の利益が、イギリスとフランスの資本家とおなじものだということにある。このために、しかもただこのために、ツァーリと英仏資本家との条約は、ロシアの資本家の臨時政府の心情にとっては、こんなに貴重なのである。//
 どの自覚した労働者も、どの自覚した兵士も、臨時政府を『信頼』する政策を、これ以上は支持しないであろう。信頼の政策は破産したのだ。//
 いまの労働者・兵士代表ソヴェトは、二者択一をせまられている。すなわち、グチコフとミリュコフが進呈した丸薬をのみこむか、…、それともミリュコフの覚え書に反撃をくわえるか、…である。//
 労働者、兵士諸君、いまこそ、大きな声で言いたまえ、われわれは、単一の権力-労働者・兵士代表ソヴェト-を要求する、と。臨時政府、ひとにぎりの資本家の政府は、このソヴェトに場所を明けわたさなければならない。」
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 ②へつ続く。

1556/レーニンの革命戦術②-R・パイプス著10章3節。

 R・パイプス著の試訳のつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術②。
 世界的社会主義革命についてのレーニンの秘密主義は、一つは彼の意図を対抗者に隠しておこうという望みに由来していた。もう一つは、計画したようには事態が進まなかったときに失敗したという汚辱を避けることができるという利益があるからだった。
 そうしておけば、計画が失敗したときいつでもレーニンは、その計画はなかったと開き直ることができた(そして実際にそうした)。
 個人的にボルシェヴィキ勢力を指導していた1917年の春や初夏に、レーニンはいくつかの指令を発した。その諸指令から、レーニンの戦闘計画に関する一般的な見取り図を描くことができる。//
 二月の経験からレーニンは、臨時政府は街頭の大衆示威活動で打倒できると学んだように見える。
 まずは、1915-16年にそうだったように、雰囲気が醸成されなければならない、次いで、民衆からの目から見て臨時政府の評判を落とす力強い宣伝活動がなされなければならない。
 この目的のためには、過った全てについて非難が加えられるべきだった。政治不安、物資不足、物価高騰、軍事的後退。
 ペテログラードを明け渡すドイツ軍との共謀だ、と追及すべきだった。一方ではそれを防御し、裏切りだと非難しつつもコルニロフ(Kornilov)将軍と協力したけれども。
 非難が度はずれになればなるほど、政治的に鍛えられていない労働者や兵士たちは、その非難を信頼しそうだった。信じられない現実には、信じられない原因があるからではないのか ?
 しかし、二月とは異なって、街頭での過激な示威活動は厳しく監視されていたので、自然発生性という見かけを与える高度に計算した努力が必要だと強く考えていたにしても、レーニンは自発的な行動を待ちはしなかった。
 レーニンはナポレオンから学んで、< tiraillerie >、小戦闘の原理を国内戦争に適用した。何人かの軍事史研究者はこの考え方を、戦争へのナポレオンの主要な貢献だと見なしている。
 ナポレオンは、戦闘のためにその戦力を、職業的正規軍と志願兵団の二つに分けた。
 志願兵団を送ってその中に敵の砲火を誘い込むのは、戦闘の初期のナポレオンのやり方だった。これは、敵陣の配置を知ることを意味した。
 重大な時点になると、ナポレオンは、敵の最も弱い地点で敵陣を粉砕すべく正規軍を活動につかせ、戦闘させた。
 レーニンはこの戦術を、都市での戦闘に適用した。
 民衆が、臨時政府を刺激する扇動的なスローガンを掲げて街頭に送り込まれた。これへの反応で、政府側の強さと弱さが判明することになる。
 群衆が政府側の実力を圧倒するのに成功したとすれば、ナポレオンの正規軍に当たるボルシェヴィキが-つまり、ボルシェヴィキ軍事機構が組織する武装労働者と兵士たちが-奪い取ることになる。
 群衆が失敗したとすれば、その地点はそのままにされて、民衆が変えようとするが抵抗してみて政府は『反民主的』だと分かる、ということになる。
 そして、ボルシェヴィキは次の機会を待つ、といこととなる。
 基本的な考え方は、ナポレオンの『< on s'engage et puis on voit >』-『自分でやってみて、そして分かる』ということだった。
 レーニンの三回の蜂起の企てで(1917年の4月、6月および7月)、彼は群衆を街頭に送り込んだが、自身は後方でじっとしており、『人民』を指揮するのではなくてそれに従うふりをした。
 いずれの企ても失敗したあと、レーニンは革命的意図を持っていたことを否認することになるし、ボルシェヴィキ党は軽はずみな大衆を抑え込もうと全力を尽くしたとすら装うことになる。(*)//
 レーニンの革命の技術には、群衆を操作することが必要だった。
 本能的だったのか知識によってだったかを言うのは難しいが、レーニンは、フランスの社会学者のギュスタフ・ル・ボン(Gustav Le Bon)が1895年に< La Psychologie des Foules (群衆の心理学)>で初めて定式化した群衆行動の理論に従った。
 ル・ボンは、人は群衆の一員になると個性を失い、その本能的心理をもつ集団的人格の中へと解体させてしまう、と述べた。
 その心理の重要な特徴は、論理的に推論をする能力が低下し、対応して、『無敵の力』をもつという意識が発生することだ。
 無敵だと感じて群衆は行動に走り、熱望は彼らを操作にさらす。『群衆は何かを期待する精神状態になり、簡単に暗示に従う』。
 群衆は、言葉と観念との連関による暴力への訴えに、とくに反応する。その観念は壮大でかつ曖昧な像(イメージ)を呼び覚まし、『不可思議』の雰囲気を漂わせる。『自由』、『民主主義』そして『社会主義』のごとく。
 群衆は、恒常的に繰り返された暴力のイメージと結びつく狂信者に反応する。
 ル・ボンによると、群衆を動かす力は宗教的な忠誠心だと最終的には分析できるので、『他の全ての前の神を、必要とする』、超自然的性格を授けられた指導者を。
 群衆の宗教的情緒は、つぎのように素朴だ。//
 『優れた者と想定されている者への崇敬、価値づけられる権力への恐怖、その命令への盲目的服従、その教条に関して議論できないこと、その教条を拡散したい欲求、自分たちを受容しない者全てを敵と考える傾向』。(48)//
 群衆の行動に関する最近の観察者は、群衆の活力(dynamism)に注意を向けた。//
 『いったん形成された群衆は、急速に大きくなろうとする。
 群衆が広がる力と意思力を、強調してもすぎることはない。
 大きくなっていると感じるやいなや-例えば、少数だがきわめて激烈な群衆によって始まる革命的な諸国では-、群衆は自分たちが大きくなるのに反対する者を束縛的だと見なす。<中略>
 こうなると群衆は包囲された都市のようなもので、多くの包囲攻撃に見られるように、その壁の前にも内部にも敵がいる。
 戦闘している間に、群衆は、国じゅうから、ますます多数の別働隊(パルチザン)を魅きつける』。(49)//
 レーニンは、きわめて稀な正直なときに、仲間のP・N・レペシンスキーに、大衆の心理に関する原理的なことをよく理解している、と打ち明けた。彼は、つぎのように書く。//
 『(レーニンは)1906年の夏の終わりに、ある私的な会話の中で、相当の確信をもって革命の敗北を予言し、退却(retreat)をする準備が必要だと示唆した。
 このような悲観的な状況にもかかわらずレーニンがプロレタリアートの革命的な力を強化するために活動するとすれば、それは、おそらくは大衆の革命的精神は決して損なわれないという考えからだった。
 勝利への、あるいは半分の勝利へですら、新しい可能性が生じるのだとすれば、そのきわめて多くは、この革命的精神に拠っているだろう』。//
 言い換えると、失敗だったとしてすら、大衆の行動は、群衆を緊張と戦闘準備の高い次元にとどまらせ続ける、価値ある仕掛けなのだ。(**)//
 ロシアに帰国した後三ヶ月の間、レーニンは、臨時政府を群衆行動で打倒しようという無謀で性急なことをした。
 レーニンは、言葉で絶えず攻撃して、臨時政府とそれを支持する社会主義者は革命に対する裏切り者だという批判にさらし、それと同時に、民衆に対して国民的な不服従を呼びかけた-軍には政府命令の無視を、労働者には工場の管理の掌握を、地方共同体の農民には私的土地の確保を、少数民族には民族の権利の要求を。
 彼には予定表はなかったが、小戦闘は対抗者〔臨時政府〕の無能力さとともに優柔不断さを暴露していたので、すぐにでも成功すると確信していた。
 七月蜂起の間の決定的な瞬間にレーニンが狼狽しなかったとすれば、十月にではなくそのときに権力を奪取していたかもしれなかった。//
 逆説的にだが、レーニン(とのちにはトロツキー)の戦術は、武装はしたものの、肉体への暴力をたいして含んではいなかった。
 肉体への暴力は、のちに、権力が確保されたのちに出現することになった。
 虚偽情報宣伝活動と大衆の示威活動、集中砲火的な言葉と街頭騒乱の目的は、公衆一般はもとより対抗者〔臨時政府〕の心のうちに、不可避性の意識を植え込むことだった。変化はやって来る、何も止められはしない。
 レーニンの生徒で模倣者のムッソリーニやヒトラーのように、彼は、まずは進路上に邪魔して立つ者たちの精神を打ち砕き、そして滅亡する運命にあるのだと説き伏せることによって、権力を勝ち取った。
 十月のボルシェヴィキの勝利は、十分の九は、心理的なもので達成された。
 つまり、関与した軍事力はきわめて小さいもので、1億5000万人の国民のうちせいぜい数千人にすぎない。また、ほとんど一発も銃砲が火を噴くことなく勝利が到来した。
 戦争は始まる前にでも、人々の心の中で勝ったり負けたりする、というナポレオンの格言の正しさを、十月の全行程は確認している。//
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 (*) この戦術は、何人かの歴史家をすら困惑させるのに成功してきている。ボルシェヴィキは権力への欲求を公然とは宣言しなかったので、そう望まなかったのだ、という主張がある。しかし、1917年10月には、ボルシェヴィキは、そんな圧力は実際には存在しなかったにもかかわらず、下からの圧力によって行動した、と装うことになるのだ。
 ボルシェヴィキやその模倣者が使ったこの手法の二元性は、クルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)が、その著<クー・デタ>で最初に指摘した。
 ムッソリーニによる権力奪取の参加者であるマラパルテは、ほとんどの同時代人や多くの歴史家が見逃したことを知っていた-すなわち、ボルシェヴィキ革命とその継承者たちは、見えるものと隠されたものという二つの異なる次元で作動した、ということをだ。後者の隠されたものこそが、現存した体制の致命的な機関に対して、死への一撃を加えた。
  (48) G. Le Bon, The Crowd (ロンドン, 1952), p.73。
  (49) E. Canetti, Crowd and Power (1973), p.24-25。 
  (**) E. Hoffer, The True Believer (ニューヨーク, 1951) p.117, p.118-9 を参照。
 『行動とは、団結させるものだ。<中略> 全ての大衆運動は、団結する手段として自らの大衆行動の助けになる。大衆運動が探求し喚起する闘いは、敵を倒すためばかりではなく、その支持者たちに本能的な個人性を剥き出しにさせ、集団的な媒体へとより溶解させていくためにも役立つ』。
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 第4節につづく。

1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。

1553/『自由と反共産主義』者の三つの闘い③-櫻井よしこ批判。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 上の三点の概略でも少しは語った方がよいのかもしれないが、三つは分かち難いところがあるので、順番に一つずつというわけにはいかない。
 <神道・天皇主義>は、上では<「日本主義」または…>辺りに関係しそうで、そうすると、3) の最も先端的な、または最も将来的な論点にすでに関係しているようにも見える。
 しかし、そんなことは全くない。
 櫻井よしこが主張・議論していることは、上の三点の違いはもちろん、どれを意識しているのかも、ほとんど感じさせない、率直に言って<無茶苦茶(むちゃくちゃ)>なものだ。 
 いずれは日本人は欧米的<liberal democracy>の基本的束縛から脱して、対等な<日本主義>を主張する必要がある。
 リチャード・パイプス、レシェク・コワコフスキらに感心し、アンジェイ・ワリツキの紹介がほとんどない(邦訳書はもちろんない)と不満は述べても、日本人が広い意味でのヨーロッパ化すればよいとは全く思っていない。
 彼ら欧米人の、「共産主義」に対してかつてもった切迫した現実感を思うととともに、対ソ連「冷戦」終結とともにまるで共産主義は消滅したかのごとき(日本の著名な論者にもしばしば見られる)欧米中心主義には賛同できないし、神道も仏教も知らないキリスト教世界での、ある意味では気楽さも看取できる。
 日本と日本人が欧米化してしまえばよい(自由・民主主義の点で欧米に追いつく ?)と考えている「左翼」がいるかもしれないし、<保守>派の中川八洋の英米中心主義らしき主張・立場(強い反共産主義はけっこうなことだが)もあるが、従えない。
 櫻井よしこが決して欧米的<liberal democracy>を克服しているわけではないことは、その安倍晋三支持論を読んでもすぐに分かる。
 櫻井よしこは(他にも同調する<天皇主義者>でかつ何としてもという安倍内閣支持者はいると思うが)、安倍晋三または安倍内閣の<価値観外交>を何の留保をつけることなく支持しているようだ。
 <自由・人権・法の支配>といった価値は、元来は欧米のもので、究極的には、日本国家と日本人は完全には、いわゆる欧米西側諸国や欧米人と同じ<価値観>に立つことはないし、その必要もない、と考える。
 「法」や「権利」に対する感覚は、欧米と同じだとは思えない(欧米でも例えばアメリカとドイツで同一ではないだろうが)。
 上に「日本的自由主義」と仮に書いているように、自由・民主主義等々といっても、日本的に変質させたものにきっとならざるを得ない、と考えられる。現に今でも、軋み(きしみ)があると、私は認識している。
 この辺りに注意を払わない、口先だけの<ナショナリスト>・<愛国主義者>あるいは<天皇主義者>を信用することができない。
 櫻井よしこもその一人で、この人には、例えば<戦後民主主義と日本人>という主題で深刻に(もちろん自分自身のこととして)苦悩した形跡はない、と見られる。
 だからこそ平然と、安倍<価値観外交>の支持を語れる。
 つぎに<神道・天皇主義>といっても、この立場の人々がどの程度に終始一貫しているのかは、はなはだ疑わしい。
 「日本の宗教」として神道だけを語るふうであることには、もう触れない。
 <天皇>については、議論がきわめてしにくい。たくさんの人が種々のことを論じてきた。この一年の間に何度か三島由紀夫をもう一度読もうとして、果たしていない。
 しかし、櫻井よしこの論旨一貫性のなさくらいは、簡単に指摘できる。
 櫻井は「立憲君主制」(とこの人が考えるもの)を諒としているらしく、昨年11月の政府リアリングでは、わざわざ昭和3年の田中義一首相関連のことを持ち出して明言している。要するに、<政治への介入>を慎んだ、又は反省したとして、誉め称えているのだ。
 こんな奇妙なことはない。
 明治憲法上の天皇の権力が単純に「権威」にとどまった、俗世間または「政治」と関係がないものとされた、とは私は全く理解していない。
 なぜなら、例えば二・二六事件の際の昭和天皇の言動、終戦の「ご聖断」という決意の表示、これらは完全に、側近の影響はむろんあったにせよ、<権力>の行使だった、と考える。
 そのような権力行使の余地を明治憲法自体が残していた、と法解釈せざるをえないと思われる。
 櫻井よしこに問いたいものだ。終戦「ご聖断」は立憲君主制の範疇にとどまっていたのか否か。
 目的あるいは結果がよければそれでよし、というならば、朝日新聞の<ご都合主義>と何ら異ならないだろう。
 また、ヒアリング発言ではとくに昭和天皇を称える旨を何点か述べているが、八木秀次や平川祐弘ほどではないにしても、暗に<それに比べて現在の天皇は…>と言いたいのが透けて見えて、じつに見苦しい。
 自分たちの考えと同じ言動をする天皇は「ご立派」で、そうではない天皇は「ご立派」ではないと櫻井は自分が語っていることになることに気づいていないのだろうか。これまた、<存在と祭祀>による評価という自分たちの根本的出発点を逸脱している。
 天皇・皇室中心主義などと言いつつ、じつに奇妙奇天烈なのだ。
 月刊正論の今年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)へと移ろう。
 櫻井よしこは簡単に、鎌倉・徳川幕府は、あるいは「俗世の権力」は「皇室の権威」に服し、あるいは「皇室の権威の下にあ」った、「究極の権威」は幕府や世俗にはなく「皇室」にあった、と書く(月刊正論1917年3月号p.86)。
 これは日本の歴史の「偽造」だ。「偽造」が厳しすぎれば、「極度の単純化」だ。
 時代によって異なるが、実質的な権力は完全になかったかときもあるかもしれないが(そのときはおそらく「権威」もなかった)、多くの時代は<権力>は<分有されてきた>、というのが私の理解で、日本史学界の多くとも、たいして異ならないのではないか、と考えている。
 西尾幹二は何かに「権権体制」という言葉を使って権力・権威の分離を語っていたが、これまたかなり単純化しすぎているだろう。
 櫻井よしこは、天皇が「征夷大将軍」を任命した(たしかに形式上はそうかもしれないが)という<絵空事>に欺されているのではないか。そしてまた、究極の権威はずっと天皇・皇室にあった、という歴史観は、明治新政府およびその後の政府が、そしてとりわけ大戦時の政府・文部省がかなりの程度作り上げたものだ、と私は思っている。
 マルクス主義・マルクスらの発展段階史観のごとき<単純な>ものこそが、受容されやすい。原始共産制-農奴制-封建制-絶対王政-資本主義-社会主義(・共産主義) ? ?
 やや飛ぶが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>または<天皇中心史観>は、日本のマルクス主義的史観の真反対であるようでいて、じつは発想がよく似ている。
 つまり一方は天皇に実質的な力(権威)があったことを肯定的に理解し、片方は、天皇にこそ実質的な最高権威があったとして否定的に理解する(そして打倒を叫ぶ。あるいは叫んだ)。
 対立していそうでいて、前提は同じなのではないか ?
 そうしてまた、立ち入ると手に負えなくなるが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>は、戦時中の「國體の本義」のレベルにすら達していないし、むろんそれを克服してもいない。  櫻井よしこらは「國體の本義」の要旨だけでなく、全文をきちんと読んで、もっと「勉強」すべきだろう。
 さらに、最近はあらためて北一輝に関心をもっているが、櫻井よしこと似ている(表面的には同じ)理解または主張を北一輝がしている部分があって面白い。
 北は「純正社会主義」・「社会民主主義」の標榜者だが、明治維新を、かつての政変・権力交替とは違って、国家・国民関係を作りだし、日本に「民主主義」をもたらしたものとして肯定的に評価する(その理念を当時の財閥・政治家等が壊したと言うのだ)。そして、確認しないまま書くが、櫻井よしこが近年にやたら肯定的に持ち出す(月刊正論上掲も同じ)「五箇条の御誓文」を「民主主義」宣言書としてこれまた肯定的に語る。
 櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか。
 もちろん同じではないのだが、櫻井よしこや一部の<保守>派は、北一輝あるいは「青年将校たち」の主張と自分たちの主張とどこが同じでどう違うかくらいはしっかりと理解したうえで、何らかの主張をしたり、「運動」をしたりする方がよいのではないか。
 最後の方は筆がいわば走っていて、きちんと文献提示ができない。だが、言いたいことは朧気にでも分かるだろう。

1551/レーニンの革命戦術①-R・パイプス著10章3節。


 リチャード・パイプスの近著に、以下がある。
 Richard Pipes, Alexander Yakovlev -The Man whose Ideas delivered Russia from Communism (2015) . <R・パイプス, アレクサンダー・ヤコブレフ-ロシアを共産主義から救い出した人物>。
 これの2015年2月付の序言の一部は、つぎのとおり。
 「2005年に、イタリア・トリノで開かれた会議に、ミハイル・ゴルバチョフから招かれた。その会議は、『世界を変えた20年』と題して、世界政治フォーラムが組織しており、1985年から始まったゴルバチョフの5年間の指導者在職中にソヴィエト同盟で生じた、諸変革を記念するのを目的としていた」。
 さて、Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990), の第二部第10章の試訳。
 前回からのつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術①。
 レーニンは、きわめて秘密主義の人間だった。
 合わせて55巻の全集になるほどに多くを語り、書いたけれども、彼の演説や著作は圧倒的に虚偽宣伝や煽動で、潜在的な支持者を説得することか、または知られた対抗者の考えを暴露するというよりもそれを破壊することかを意図していた。
 心に浮かんだことは、身近な仲間にすらほとんど明らかにしなかった。
 階級間の世界戦争の最高司令官として、計画は個人的なままにした。
 したがって、レーニンの思想を再述するためには、知られている行為から隠された意図へと遡って分析することが必要だ。//
 一般的な諸論点-誰が敵でその敵に対して何がなされるべきか-については、レーニンは包み隠さなかった。
 大まかに把握された目標-『綱領』(プログラム, programm)-を、彼は公にしていた。
 そこからレーニンの意図を見抜くには、かなりの困難がある。
 ムッソリーニについて言うと、彼自身はクー・デタ技術の専門家では全くなかったが、ジョバンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)に対して、『国家は革命の綱領に対してではなく、革命の戦術に対して防衛されなければならない』と打ち明けていた。//
 レーニンはメンシェヴィキ・エスエルの二段階革命の原理およびその推論形である dvoevlastie 、つまり二重権力を拒否した。
 彼は臨時政府を可能なかぎり実際にぐらつかせて、権力を奪取することを意図した。
 レーニンの注目すべく鋭い政治的本能-どの成功した将軍も所持する才能-によって、これができると考えた。
 彼は、リベラルなまたは社会主義的知識人がどういう存在なのかを知っていた。クレマンソー(Clemenceau)の言葉を借りれば、『菜食主義の虎』たちは、彼らの革命的な言辞にかかわらず、政治責任を死ぬほど怖れ、かりに手渡されても権力を行使できない。
 この点で彼は、ニコライ二世のようなものだと判断した。
 さらに、国民的な一体性の外観や臨時政府への一般的な支持の奥底には、煽り立てて適切に指揮すれば非効率な民主政体を打倒してレーニンに権力をもたらすような、力強い破壊力が煮え立っていると、気づいていた。都市での物資の不足、農民の社会的動揺、民族的な欲求。
 ボルシェヴィキはその目標を達成するため、現況(status quo)に対する唯一の選択肢として、臨時政府や他の社会主義政党のいずれもからきっぱりと離れなければならなかった。
 ロシアへの帰還後レーニンは、この主張を基本線として、支持者たちに臨時政府への融和的態度を放棄すること、メンシェヴィキとの統合を考えてはならないことを力強く説いた。//
 民主主義的なスローガンがますます民衆性を獲得しているのを見たレーニンは、ボルシェヴィキ党への権力の要求を公然とは主張できなかった。
 ボルシェヴィキ党の党員以外は誰も、そして党員ですらほとんど、権力要求が達成できる見通しを持たなかった。
 この理由で短い幕間(中間休憩期間)として、レーニンは1917年の間は、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 1917年の秋までボルシェヴィキはソヴェトの中の少数派だったことを見ると、この戦術は当惑させるもののように思える。そして、表向きは、この綱領を達成するということは、権力のメンシェヴィキとエスエルへの移行を意味するはずだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、このような移行は決して生じないと確信していた。
 メンシェヴィキの全指導者の中で対抗派に対する幻想を最ももっていなかったツェレテリ(Tsereteli)は、ボルシェヴィキはソヴェトの多数派から国民的権力を闘い取ることに何ら困らないと思っている、と書いた。
 臨時政府にはいろいろな欠点があったけれども、レーニンの見地からすると、それは大きな軍事力をもちかつ農民層および中産階級からの確実な量の支持を受けているがゆえに、民主主義的社会主義者たちよりもはるかに危険な敵だった。
 民族主義に訴えることで、臨時政府は力強い力を結集することができた。
 名目上であろうと、臨時政府に権力がとどまっているかぎり、国家が右へと舵を切る危険はつねに存在した。
 ソヴェトに権威の中心があったので、政治的雰囲気を急進化させ、『反革命』という妖怪でもって脅迫して優柔不断な社会主義者たちを引っ張り続けるのは、相対的には簡単なことだった。//
 レーニンはその目標-権力の奪取-をめざし、軍事史や軍事学で学んだことにもとづく方法で追求した。
 純粋な政治というのは、権威主義的な方法であっても、権力への競争者と自主的な主導性については抑えた展望をもつ民衆全体の両者との間の、何らかの種類の調整を含んでいる。
 しかし、レーニンには政治とはつねに階級戦争であり、クラウセヴィッツの語法で思考をした。
 軍事戦略としての目的は、対抗者との調整ではなくして、彼らを破壊することだった。
 これは、先ず第一に、二つの意味での対抗者の武装解除を意味した。すなわち、(1) 軍事力の剥奪、(2) その諸機構の破壊。
 しかしこれはまた、戦場と同じく、敵の肉体的な殲滅を意味しえた。
 ヨーロッパの社会主義者はよく『階級戦争』と語ったが、それは主としては、バリケードを築くという頂点があるかもしれないとしても、工場ストライキや投票行動のような、非暴力的な手段によるものを意味した。
 レーニンは、そして彼だけは、『階級戦争』を文字どおりに国内戦争(civil war)の意味で用いた-戦略的破壊を目的とする、必要ならば政治の戦場での再挑戦を不能にするほどの首尾での勝利につながる敵の殲滅を目的とする、使用可能な全ての武器を使っての、戦争だ。
 このような見地での革命とは、別の手段によって遂行される戦争だった。違いは、国家間や民族間ではなくて、社会的階級の間で行われる戦闘だということにあった。
 戦闘のラインは、水平ではなく垂直に〔横ではなく縦に〕走っていた。
 このような政治の軍事化に、レーニンが成功する重要な根源があった。
 成功するためにレーニンはこのように考えていたが、それは、彼の敵が、設定もされず予期もできない地域での戦闘だと政治を取り扱う者がいるなどとは想像できないほどのものだった。//
 レーニンがその人格の内奥から導く政治に関する考え方は、彼の支配への渇望とレーニンが成長したアレクサンダー三世時代のロシアで形づくられた伝来的政治風土とが結びついたものだった。
 だが、この心理的な衝動と文化的伝統とを、理論的に正当化するものがなければならない。レーニンは、これを、マルクスのパリ・コミューン(Paris Commune)に関する論評のうちに見出した。
 この主題に関するマルクスの著作はレーニンに圧倒的な印象を与え、彼の行動の指針になった。
 マルクスはコミューンの生成と崩壊を観察して、全ての革命家はそのときまで、既存の諸制度を破壊するのではなく奪い取ろうとするという重要な過ちを冒していたと結論づけた。
 階級国家の政治的、文化的そして軍事的な諸構造を無傷なままに残して、たんに人員だけを置き換えることでは、反革命の生育地が残されてしまった。
 これからの革命家は、違うやり方で前進しなければならないことになろう。
 『これまでなされたように官僚・軍事機構を一塊としてある者から別の者に移行させるのではなく、それを破壊すべきだ』。(44)
 これらの言葉は、レーニンの心に深く染みこんだ。
 レーニンはあらゆる機会にこれを繰り返し、その重要な政治命題の中心に据えた-<国家と革命>。
 それはレーニンの破壊本能を正当化するのに役立ち、新しい秩序を樹立するというその欲望に合理性を与えた。『全体主義』要求の中に全てを包括する、新しい秩序をだ。//
 レーニンはつねに、革命を世界的な意味で捉えた。
 彼にはロシア革命はたんなる偶然的事件であり、『帝国主義』の最も弱い環を偶発的に切断することだった。
 レーニンはロシアを改革することにでは決してなく、ロシアを征圧して、産業諸国家とその植民地における革命への跳躍台にすることにだけ関心があった。
 ロシアの独裁者となっても、1917年やその後の事態を世界的観点から見ることをやめなかった。
 彼にとっては、『ロシア革命』であってはならず、ロシアで開始された、発生するはずの世界的革命なのだった。
 ロシアへと出立する日の前に渡したスイスの社会主義者たちあての別れの文章の中で、レーニンはこの点を、つぎのように強調している。//
 『一連の諸革命を<開始>したという大きな栄誉は、ロシア人に与えられた。<中略>
 ロシアのプロレタリアートが<独特の、おそらく短期間のみの>全世界の革命的プロレタリアートの前衛になったのは、その特殊な属性にではなく、特殊な歴史的条件に原因がある。
 ロシアは農民国家であって、ヨーロッパの最も遅れた国の一つだ。
 そこで<直接に、現時点で>、社会主義が勝利するのは<不可能>だ。
 しかし、国家の農民的性格は…、ロシアのブルジョア民主主義革命への巨大な一撃を導くことを、そして我々の革命を世界的社会主義革命の<序曲>にすること、それへの<一歩>とすること、を<可能に>する。』(45)
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 (44) レーニン全集に引用される、1871年のクーゲルマン博士への手紙。
 (45) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)25頁「戦術に関する手紙」(1917年4日8-13日に執筆、のち単行小冊子)かと思われる。-注記・試訳者による〕
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 ②へとつづく。

1548/B・パステルナークとジバゴ・ラーラの「レーニン時代」②。

 映画・ドクトル・ジバゴ(1965)は、日本では翌1966年に公開されている。その年か翌1967年に私も観た。じつに、50年前。
 その頃に、舟木一夫・内藤洋子主演のその人は昔(松竹)という映画も観た。
 自室以外に本棚らしきものはなく、まして一冊の単行本の新刊書も自宅になく(自分の教科書類以外は)、安い文庫の本をときには中古ですら買い求めていた頃に、よくぞ映画はいくつか観ていたものだ、と思う。
 「その人は昔、海の底の真珠だった。
  その人は昔、山の谷の白百合だった。
  その人は昔、夜空の星の輝きだった。
  その人は昔、僕の心のともしびだった。
  でもその人は、もう今は、いない。」
 舟木一夫・その人は昔(1967年)/歌詞・松山善三(映画監督)。
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 ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』は「レーニン時代」の物語でもあると書いたのだったが、二月革命や「十月」ボルシェヴィキ政変がどのあたりに出てくるのか確かめてみた。
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, 2011)だと、最終の「詩篇」を除く本文は、p.9~p.645。「二月革命」についての叙述は第4章の最後のp.163に初めて少しだけある。
 ちなみに、工藤正廣訳・ドクトル・ジヴァゴ(未知谷、2013)は、最終の「詩篇」を除いて本文は13頁から681頁で、「二月革命」は172頁に出てくる。
 それぞれ8頁と12頁を引いて、独書では、155/638、工藤邦訳書では160/669のところに位置する。これは、おおよそ最初の24%あたりの箇所で、つまりは小説の四分の三は1917年「二月革命」以降のことだ。
 つぎに「十月」ボルシェヴィキ政変については、独書ではp.238に、工藤邦訳書では254頁に初めて出てくる。230/638と242/669で、これはおおよそ最初から36%進んだ箇所で、三分の二近くは「十月」以降の物語だ。
 但し、最後に飛んで1943年頃の、ユリイとラーラの娘・ターニャが出てくる場面はある。しかし、レーニンの死とか指導者の交替といった話題は何も出てこないので、要するに、この小説=ドクトル・ジバゴは少なくとも6割ほどは間違いなく<レーニンの時代>を背景にしている。
 そして、語るのはジバゴだったり、ラーラの夫で共産党幹部になるが嫌疑をかけられて自殺するストレーリニコフ(パーシャ)だったり、あるいは作者自身だったりの違いはあるが、かりにレーニンの名はほとんど出てこなくとも(1箇所だけある)、明らかにロシア「革命」やボルシェヴィキに対する、懐疑・皮肉・揶揄や批判的叙述がある。
 戦後のソヴィエト国家が、その権威の正当性が帰着する原点を衝かれているので、この本の発刊を国内では許さなかったこともあらためてよく分かる(なお、むろんロシア語で書かれたが、出版はイタリア語版が最初だったようだ)。
 以下は、部分的な、試訳だ。
 主要登場人物は首都にもモスクワにもいないときの、「二月革命」-「『大変重大な事件が発生。ペテルブルクで街頭騒擾だ。ペテルブルクの守備隊兵団が蜂起者の側に移った。革命だ』。」
 独書p.163、工藤邦訳書172頁、江川・新潮文庫/上224頁。
 つぎに「十月」、主要登場人物は首都にではなくモスクワにいて、モスクワに関する叙述がまずある。
 独書p.237、工藤邦訳書p.250、江川新潮文庫/上334頁が、それぞれ最初。
 モスクワでの騒乱-「まさにそのとき、通風口から入ってくる風と同じように急いで、ニコライ叔父が部屋に飛び込んできて、ニュースを伝えた。
 『市街戦が始まった。臨時政府を支持している士官学校生とボルシェヴィキの側にいる守備隊兵士たちの間に軍事的衝突が起こっている。/戦闘は一進一退で、蜂起の群衆は数えられないほどだ。』」
 「事態はその間にもさらに進展していた。新しい細かいこともあった。ゴルドンは、激しくなっている銃撃戦や、逸れた弾に当たって死んだ通行人について話した。市の交通は途絶えた」。
 「事態の帰趨は、もう明らかだった。労働者たちが優勢だという風聞が至るところから伝わってきた。士官学校生の小隊がばらばらになってまだ戦っていたが、お互いに孤立し、指導部との連絡がつかなかった。」 
 数日後、首都について-「ある十字路で、『最新ニュース』と叫びながら、新しく印刷された束を腕に抱えて、新聞売りの少年が彼〔ジバゴ〕の傍らを通りすぎた」。
 「片面だけが印刷された号外版の内容は、人民委員のソヴェトが形成されたこと、ロシアにソヴェト権力が設立されたこと、プロレタリアート独裁が導入されたこと、に関する政府のペテルブルクからの発表を伝えることだった。そのあとに新政府の最初の諸布令(Dekrete)と電報や電話で送られてきた種々の情報がつづいていた。」
 この「十月」政変についてのジバゴらの特段の感慨は、すぐには叙述されていない。
 機会があれば、明確な懐疑・批判類を訳出してみたいが、パステルナークは、少しだけあとの新しい節の冒頭部分(第6章・篇「モスクワの露営」第9節)で、その後の雰囲気をこう叙述する。独書p.245~。
 「予言したとおりに、冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//
 旧い生活と新しい秩序は、まだ一致していなかった。両者の間には、一年後の国内戦争(内戦)の間のようなあからさまな敵対関係はなかったけれども、決して結びついてはいなかった。両者は、対峙し合っている、決して合意しない、相互に離れた党派だった。//
 至るところで、指導部の新しい選挙が行なわれた。住宅組合、諸団体、職場、公共供給事業体のどこででも。/
 構成は変わった。全ての部署に、無制限の権能をもつ政治委員(Kommissare)が任命された。黒皮のジャケットを着て、威嚇措置とナガン銃で武装した、鉄のごとき意思をもつ者たち、めったに鬚を剃らず、もっとたまにしか眠らない者たちだった。//
 この者たちは、綱領(基本方針)が命令する全てのことを手中に握って、企業や団体は、別のボルシェヴィキ的なものへと変えられた。」
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 「やっとまた、同じところにいる、ユーロチュカ。神さまは、私たちが再び会うというご褒美を下さった。でも、何と恐ろしい再会なの!
 さようなら、私の偉大な人、私の愛した人。さようなら、私の誇り。さようなら、私の深くて激しい河。
 まだ憶えてる ? どんなふうに私はあの雪の中で、あなたと別れたのか ?」  
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 これは、ジバゴの遺体にとりすがって語りかけるラーラ。ドイツ語版、p.625。途中省略がある。

1547/レーニン帰国②・四月テーゼ-R・パイプス著第10章。


 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けでレーニン帰還②。
 そこ〔ストックホルム〕で待っていた人たちの中に、パルヴスがいた。
 彼はレーニンと逢いたいと頼んだが、慎重なボルシェヴィキ指導者は拒んで、ラデックに譲った。ラデックは、オーストリア人だったおかげで裏切りだと追及される危険がなかった。
 ラデックは3月31日/4月13日のかなりの部分を、パルヴスとともに過ごした。
 二人の間に何があったかは、知られていない。
 彼らは別れ、パルヴスは急いでペルリンに向かった。
 4月20日(新暦)に、パルヴスは私的に、ドイツの国務長官(state secretary)のアルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann)と会った。
 この会見についても、記録は残されていない。
 パルヴスは、ストックホルムに戻った。(32)
 文書上の証拠は不足しているが-高いレベルの秘密活動を含む資料についてよくあることだ-、後で起こったことを見てみると、パルヴスがドイツ政府に代わってラデックと逢い、ロシアでのボルシェヴィキを財政的に支援する条件や手続について取り決めた、ということが、ほとんど確実だと思われる。(*)//
 ストックホルムのロシア領事館は、到着を待って入国査証を用意していた。
 臨時政府は、戦争反対活動家たちの入国を認めるかどうかを躊躇したように見える。
 しかし、方針を変更して、敵国領土を縦貫したことでレーニンが政治的に妥協することを期待した。
 一行はストックホルムを立って3月31日/4月13日にフィンランドに着き、三日後(4月3日/16日)の午後11時30分にペテログラードに到着した。(+)//
 レーニンがペテログラードに着いたのは、全ロシア・ボルシェヴィキ大会の最終日だった。
 地方から出てきている多くのボルシェヴィキ党員は知っていて、指導者レーニンを歓迎する用意をしていた。その歓迎ぶりは、その劇場性において、社会主義諸団体でかつて見た全てをはるかに上回っていた。
 ペテログラード委員会は、フィンランド駅へと労働者たちを呼び集めた。
 委員会は、線路に沿って護衛兵と軍楽隊を配置した。
 レーニンが列車から姿を現わしたとき、軍楽隊は『マルセイエーズ(Marseillaise)』を演奏し始め、護衛兵たちは見ようと跳び上がった。
 チヘイゼ(Chkheidze)がイスポルコム(Ispolkom)を代表して歓迎し、社会主義者は国内の反革命と外国の侵略から『革命的自由』を防衛すべく一致団結するという希望を声を出して語った。
 フィンランド駅の外で、レーニンは装甲車の上に昇り、投光器によって照らされながら、簡単に若干の言葉を発した。そのあとでクシェシンスカヤ(Kshesinskaia)邸に向かい、群衆が後を続いた。//
 スハーノフ(Sukhanov)は、その夜のボルシェヴィキ中央司令部での出来事について、目撃証言書を残した。//
 『かなり大きなホールの下に、多数の人々が集まった。労働者たち、『職業的革命家たち』、そして女性たち。
 椅子は足らず、出席者の半分は心地よくなく立っているか、テーブルの上に体を伸ばしていた。
 誰かが進行役に選ばれ、各地域からの報告という形での挨拶の言葉が述べられた。
 この挨拶は、全体としては単調で、長々と続いた。
 しかし、いまそのときに、ボルシェヴィキの「様式(スタイル)」の奇妙で独特な特徴、ボルシェヴィキ党の仕事の独特の流儀(モード、mode)だとの思いが生じた。
 そして、ボルシェヴィキの全作業が、それなくして党員たちは完全に無力だと思い、同時にそれを誇りに思い、中でも自分が聖杯の騎士のごとくそれの献身的な召使いだと感じている、異質な精神的根源の鉄の枠に捉えられている、ということが絶対的な明白性をもって、明確になった。
 カーメネフも、漠然と何かを喋った。
 最後に、彼らはジノヴィエフを思い出した。ジノヴィエフはあまり熱意のない拍手を受け、何も語らなかった。
 そうして、報告の形での挨拶が最後を迎えた…。//
 そのとき、体制の大主人公〔レーニン ?〕が、『反応的に』起ち上がった。
 私は、あの演説を忘れることができない。異端者的に図らずも熱狂的興奮に投げ込まれた私にだけではなく、本当の信仰者たちにも衝撃を与えて驚愕させた、雷光のごときあの演説を。
 誰もあのようなことを予期していなかった、と断言する。
 まるで全ての原始的な諸力が棲息地から起き上がったように思えた。
 そして、全ての自然界破壊の精神的なものが、邪魔する物なく、懐疑なく、人間的な苦しみも人間的な打算もなく、クシェシンスカヤ邸のホールにいる取り憑かれた信徒たちの頭の上で、響き回った。』(35)//
 90分続いたレーニンの演説の基本趣旨は、『ブルジョア民主主義』革命から『社会主義』革命への移行は数ヶ月の問題として達成されなければならない、というものだった。(**)
 これは、帝制が打倒されたあと僅か4週間後に、死刑を執行するつぎの承継者は自分だとレーニンが公に宣言している、ということを意味した。
 こういう前提命題は、彼の支持者たちの大多数の気分とは違っていて、無責任で『冒険主義的』だと思われた。
 その結果として、その夜に残った者たちは、嵐のごとき議論を交わした。その会合は、午前4時に終わった。//
 その日の後で、レーニンは、ボルシェヴィキ党の一団に対して、そして別にボルシェヴィキとメンシェヴィキの合同の会議に対して、一枚の文書を読み上げた。それは、反対を予想して、レーニンの個人的見解による回答を提示するものだった。
 のちに『四月テーゼ(April Theses)』として知られるこの文書は、狂気でなければ完全に現実感を失っていると聞き手には思える行動綱領を概述したものだった。(36)
 レーニンの提示は、こうだった。進行する戦争への不支援、革命の『第二』段階への即時移行、臨時政府への支持の拒絶、全権力のソヴェトへの移行、人民軍を結成するための現軍隊の廃止、全ての地主所有土地の没収と全国土の国有化、ソヴェトの監督のもとでの全銀行の単一の国有銀行への統合。
 そして、ソヴェトによる生産と配分の統制、新しい社会主義インターナショナルの結成。//
 <プラウダ>編集局は、印刷装置が機械的に故障したという偽りの理由をつけて、レーニンの『テーゼ』を印刷するのを拒否した。
 4月6日のボルシェヴィキ中央委員会総会は、レーニンのテーゼに対する否認決議を採択した。
 カーメネフは、レーニンが現在のロシアとパリ・コミューンとの間の共通性を指摘するのは過っている、と主張した。
 一方、スターリンは、『テーゼ』は『図式的(schematic)』で事実に即していないと考えた。
 しかし、レーニンおよび一時期に<プラウダ>編集局に一緒にいたことのあったジノヴィエフは同編集局に発刊を強いて、『テーゼ』は4月7日に掲載された。
 レーニンの論文には、カーメネフの論評が付けられていて、これは党機関の決定から逸脱している、と書いていた。
 レーニンは、『ブルジョア民主主義革命は達成されたという前提から出発し、その革命の社会主義革命への即時移行を唱える』。
 さらにカーメネフは続ける。しかし、中央委員会の考えは異なっており、ボルシェヴィキ党はその決議に従う。(***)
 ペテログラード委員会は4月8日に会議を開き、レーニンの文書について議論した。
 表決は、やはり圧倒的に否定的だった。賛成2票、反対13票、そして保留が1票。
 地方の諸都市の反応も似ている。例えば、キエフとサラトフのボルシェヴィキ組織は、レーニンの基本方針(program)を却下した。後者は、執筆者〔レーニン〕はロシアの状況に疎い、という理由でだった。//
 指導者の宣言文書に関するボルシェヴィキの見解がどうであろうと、ドイツは愉快だった。
 ストックホルムにいるドイツの工作員は、4月17日に、ベルリンへと電信を打った。
 『レーニンの入国は、成功だった。彼は、我々がまさに望んだように仕事をしている』。(41)//
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  (32) ゼーマン=シャルラウ, 革命の商人・パルヴスの生涯 (1965), p.217-9。
  (*) ラデックはオーストリア人で、臨時政府からは敵国人だと考えられた。ロシアへの入国査証の発行を拒否されたので、彼は1917年10月までストックホルムにとどまり、レーニンのために働いた。
  (+) そのあと、ロシア難民のいくつかの一行がさらにドイツを縦貫してロシアに着いた。
  (35) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, III (1922), p.26-27。
  (**) この演説の音源上の記録はない。しかし、レーニンが用いたノートは、同全集・選集類で刊行されている。〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)10頁「われわれはどうやって帰ってきたか」1917年4月4日執筆、同13頁「四月テーゼ擁護のための論文または演説の腹案」1917年4月4-12日の間に執筆/1933年1月22日<プラウダ>上で初公表-「手稿による印刷」。とくに後者が該当しそうだ-試訳者の注記。〕
  (36) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)3頁「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について/テーゼ」<プラウダ> 26号(1917年4日7日)。-注記・試訳者による〕
  (***) Iu. Kamenev in :<プラウダ> 27号(1917年4日8日)2頁。カーメネフは、3月28日のボルシェヴィキ大会の諸決議を参照要求する。
  (41) ゼーマンら編, ドイツとロシア革命 (1958), p.51。
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 第3節につづく。

1544/ドイツの援助で帰国①-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けによるレーニンの帰国①。
 ドイツには、ロシアの急進派について自らの計画があった。
 戦争は膠着している。そして、勝利する可能性が残るのは、敵国の協調を分裂させることだ、最もよいのはロシアを戦争から追い出すことだ、と認識するに至った。
 ドイツ皇帝は1916年の秋に、つぎのように書いた。//
 『厳密に軍事的観点から言えば、残りの諸国と全力を挙げて戦闘するために、分離講和をして協商側の交戦国の中の一国又は別の一国を分離することが重要だ。<中略>
 そうすると、ロシアの内部抗争が我々との講和の結論に影響を与えるかぎりでのみ、我々は戦争努力を組織することができる。』//
 ロシアを軍事力で排除することに1915年に失敗したドイツは、こうして、革命ロシア内部にある分裂を利用するという政治的方法に訴えた。
 臨時政府は完全に、協商国側の基本方針を支持していた。二月革命はイギリスが工作した、と思っていたドイツ人もいたほどだ。(18)
 ロシア外務大臣・ミリュコフ(Miliukov)の声明には、中央諸国軍が楽観できる理由はなかった。
 したがって、ロシアを協商国軍から切り離せる唯一の希望は、『帝国主義』戦争に反対してそれを内戦(civil war)に転化しようと主張している急進的過激派を、換言すると、レーニンが疑いなき指導者だったツィンマーヴァルト・キーンタールの左翼を、利用することにあった。
 レーニンがロシアに帰還すれば、階級対立意識を引き起こし、民衆の厭戦気分を利用して、臨時政府に対して尽きない混乱を生じさせることができるだろう、そしてたぶん権力を握ることすら。//
 『レーニン・カード』を使うのを最も強く主張したのは、パルヴス(Parvus)だった。
 パルヴスは1915年にレーニンに接近していた。そのときレーニンは協力するのを拒否したが、状況は今は変わった。
 1917年にパルヴスはコペンハーゲンに住んでいて、諜報活動をする隠れ蓑として、そこで輸入商社を経営していた。
 スパイ行為(espionage)を指揮するために、表向きだけの科学研究所も持っていた。
 ストックホルムにいる彼の商売上の代理人はヤコブ・ガネツキー(Jacob Ganetskii)で、レーニンが信頼する仲間だった。
 パルヴスはロシアの亡命者政策をよく知っていたので、レーニンのような過激主義者には大きな望みをもった。
 彼はデンマークのドイツ大使、V・ブロックドルフ=ランツァウ(Brockdorff-Rantzau)に対して、解放された戦争反対左翼は政治不安を広げ、二、三カ月にはロシアは戦争にとどまることは不可能だと気づくだろう、と請け負った。(20)
 パルヴスはレーニン一人を選び出して、ケレンスキーとチヘイゼ(Chkheidze)のいずれよりも『はるかにすごい狂乱者』だとして特別の注意を向けた。
 不可思議な洞察力をもってパルヴスは、いったんロシアに帰国すればレーニンは臨時政府をぐらつかせ、権力を奪い取り、そして速やかに分離講和を結ぶだろうと、予言していた。(21)
 パルヴスはレーニンの権力への渇望をよく理解しており、自分はドイツ領をスウェーデンへと通過させる仕事ができると考えた。
 パルヴスの影響によって、ブロックドルフ=ランツァウはベルリンに電報を打った。//
 『我々は今無条件に、ロシアに可能な最大の混乱を生み出す方法を探さなければならない。<中略>
 我々は、穏健派と過激派の間の対立を悪化させるため…可能な全てをすべきだ。後者が上回ることが最大の利益になるのだから。
 そうすれば、革命は不可避になり、その革命はロシア国家の安定を破壊する形態をとるだろう。』(22)//
 スイスにいるドイツ公使、G・フォン・ロンベルク(von Romberg)は、ロシア事情に関する当地の専門家から得た情報にもとづいて、同様の進言を行った。
 彼は、『Lehnin〔レーニン, ドイツ語ふう綴り〕』の支持者たちは講和交渉を即時に開始することや臨時政府と他社会主義諸政党のいずれにも協力しないことを主張しており、ペテログラード・ソヴェトを混乱させるという事実に、ベルリンの注意を向けさせた。(23)//
 これらに従って、ドイツ首相のテオバルト・ベートマン=ホルヴェク(Theobald von Bethmann-Hollweg)は、ロシア亡命者たちとスウェーデンへの移動について話を始めるように命令した。
 会談は、3月遅くと4月初頭に(新暦で)、初めはロバート・グリム(Robert Grimm)、あとはフリッツ・プラテン(Fritz Platten)というスイスの社会主義者の助けで、行われた。
 レーニンは、ロシア人たちの代表者として行動した。
 このような危険な政治的冒険をするに際してレーニンについても彼の綱領についても情報を得る面倒なことをしなかったのは、ドイツ人の洞察力の欠如(myopia)の兆候を示すものだ。
 彼らにとって重要なのは、ボルシェヴィキとその他のツィンマーヴァルトの追随者たちの、ロシアに戦争を止めさせたいという立場だけだった。
 ドイツの資料庫を調べたある歴史家は、ボルシェヴィキへの関心を示す文書資料を見つけなかった。レーニンの雑誌、< Sbornik Sotsial-Demokrata >の二号分があり、ベルンの大使館からベルリンへと進呈されていたが、40年の間書庫に眠ったままで、頁は切られていなかった。//
 ドイツ縦断移動に関する交渉の際にレーニンは、亡命者たちが敵国と協調する責任を感じることはないと安心させるのに多大の骨折りをした。
 列車は治外法権の地位をもつと、レーニンは主張した。プラテンの許可なくして誰も立ち入ってはならないし、旅券(passport)の検査もない、と。
 貧乏な難民〔レーニン〕がドイツ政府に条件を提示する地位にあると感じていたという事実は、彼が委ねた職務部門から高い評価を得ていたことを示唆する。//
 ドイツ側では、交渉は、外務省、とくにその長のリヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuehlmann)の積極的な支援を受けて、民間人団体が実行した。
 その〔外務省が大きく関与した〕結果としてレーニンのロシア帰還の背後で促進したのはルーデンドルフ(Ludendorff)だと考えられるようになったけれども、実際には将軍は大した役割を果たしてはおらず、彼は護送車両を手配するのに寄与したにとどまる。//
 プラテンは4月1日(新暦)に、レーニンの条件をドイツ大使館に電送した。
 二日後に、諸条件は受諾できると知らされた。
 この時期にドイツ財務省は、『ロシア工作』のために500万マルクを与えよとの外務省からの要求に同意した。(27)
 ロシアに関してドイツが行なっていたことは、つぎに示されるように、いつものやり方と同じだった。//
 『どの敵国、フランス、イギリス、イタリアおよびロシアについても、ドイツは内部での反逆を計画する工作をしていた。
 その計画は全て、大まかには同じだ。
 第一、極左の政党を使っての混乱。第二、金を払ってかドイツが直接に教唆してかの、敗北主義者の平和主義論文。最後、弱体化した敵国政府から最後には権力を奪取して平和を願う、重要な政治的人物との相互理解を確立すること。』(28)
 ドイツは、イギリスについては、アイルランド人のロジャー・ケイスメント卿(Roger Casement)、フランスについてはジョセフ・カイヨー(Joseph Caillaux)、そしてロシアについてはレーニンを使った。
 ケイスメントは射殺され、カイヨーは投獄された。
 レーニンだけが、金銭を支払ったことを正当化した。//
 3月27日/4月9日に、32人のロシア人亡命者たちがツューリヒを離れてドイツの前線へと向かった。
 乗客の完全な名簿を利用することはできないが-ドイツ人は列車の旅行客を審問しないという取り決めだった-、彼らの中には、6人のブント構成員、3人のトロツキー支持者のほかに、レーニン、クルプスカヤ、ジノヴィエフとその妻子、イネッサ・アーマンドおよびラデックを含む19人のボルシェヴィキ党員がいたことが知られる。(29)
 ゴットマディンゲンで国境を越えたあとで、彼らは二車両で成るドイツの列車に移った。
 一つはロシア人用で、もう一つは、ドイツの護衛兵用だった。
 伝説になっているのとは違って、列車は封印されていなかった。
 シュトゥットガルト、フランクフルトを通過して、3月29日/4月11日の午後早くに、ベルリンに到着した。
 そこで列車は、ドイツの監視兵に囲まれて20時間、留め置かれた。
 3月30日/4月12日、彼らはバルト海の港があるサスニッツ(Sassnitz)へ行き、そこでスウェーデンのトレレボリ(Traelleborg)行きの蒸気船に乗り込んだ。
 上陸すると、ストックホルム市長の歓迎に合った。そして、スウェーデンの首都へと進む。//
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  (18) General M. Hoffmann, Der Krieg der versaeumten Gelegenheiten 〔機会を逃した戦争〕(ミュンヒェン, 1923), p.174。
  (20) Z. A. B. Zeman = W. B. Scharlau, The Merchant of Revolution : The Life of Alexander Helphand (Parvus)〔革命の商人/アレクサンダー・ヘルプハンド(パルヴス)の人生〕(ロンドン, 1965), p.207-8。
  (21) P. Scheidemann, Memoiren eines Sozialdemokraten 〔ある社会民主主義者の回想〕(ドレスデン, 1930), p.427-8。
  (22) Hahlweg, レーニンの帰還, p.47。 
  (23) 同上, 49-50。4月3日/3月21日付電信。これはおそらく、その日の<プラウダ>に掲載されたレーニンの第一の『国外からの手紙』を指している。
  (27) Z. A. B. Zemann 編, Germany and the Revolution in Russia〔ドイツとロシア革命〕, 1915-1918 (ロンドン, 1958), p.24。
  (28) Richard M. Watt, Dare Call It Treason 〔敢えて裏切りと呼ぶ〕(ニューヨーク, 1963), p.138。
  (29) Fritz Platten, Die Reise Lenins durch Deutschland 〔レーニンのドイツ縦貫旅〕(ベルリン, 1924), p.56。
  (31) Hahlweg, レーニンの帰還, p.99-100。 
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 ②へとつづく。

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
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 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
  ------
  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
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 第2節につづく。

1541/緒言・スイスのレーニン①-R・パイプス著第10章。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990、Vintage)〔リチャード・パイプス・ロシア革命〕の第二部の最初の第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』の試訳は、すでに済ませた(2月下旬以降)。
 この本には1997年に新版が出ていて、①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919、というタイトルになっている(Harvill Press 刊、計950頁余)
 中身は頁数を含めて変わっていない。但しいわば大判から中判への変更で、活字・文字はやや小さくなり、少し読み辛い(もっと小さな活字・文字の小型判の本はある)。
 タイトルに「1899-1919」が付いて分かりやすくなっている。
 そして、この欄で1994年刊の「別著」とも称したものは、次のタイトルになった。
 ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Refime 1919-1924.(計約600頁)
 こう並べてみると、簡潔版(単純な抜粋又は要約でないが)の、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995、Vintage, 1996、計430頁余)=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)が、①のではなく、時期・内容ともに①と②を併せたものの簡潔版(Concice 版)であることがよく分かる。
 ちなみに、リチャード・パイプスの、注記・参考文献等も詳しい上の①、②ともに(③はあるが)、邦訳書がまだ存在しないことに留意されてよい。試訳している部分でも明らかだが、リチャード・パイプスの記述内容は、日本の<ある勢力>にとって<きわめて危険>だ。アメリカの安全保障会議の「ソ連・東欧問題」補佐官だったが、この人が1989-91年のソ連・東欧の激動期に日本のメディアからインタビューされたり、原稿執筆を依頼された痕跡が全くないのはどうしてだろうか ?
 Leszek Kolakowski(L・コワコフスキ)のMain Currents of Marxism (マルクス主義の主要な潮流)は邦訳書がないかぎりは、レーニン関係部分だけでもこの欄で邦訳してみたい。
 ただ-すでにネップに関連してこの著を参照してレーニン全集(大月書店)の一部を引用しているのだが-、L・コワコフスキはたんなる抽象的・理論的「哲学者」ではなく、モスクワでの留学経験、スターリン体制下でのポーランドでの実経験を踏まえて(マルクス等々だけでなく)レーニンやスターリンの諸文献を熟読しており、(かつこれが重要だが)ロシア・ソ連の歴史の基本的なところはきちんとした知識をもったうえで、叙述している。したがって、L・コワコフスキ著の一部の邦訳を試みるにしても、やはりロシア革命等々の歴史の基本的な理解が必要だ。
 二月革命、十月「革命」あるいは<一党支配の確立>について、すでにリチャード・パイプス著の概読はしている。
 しかし、邦訳を試みたかどうかはやはり<記憶>への定着度がかなり異なるので、あらためて、上の①の第二部・第10章からの試訳を、これから掲載してみよう。
 この著の第二部・第10章の節の区分・タイトルはつぎのとおり(但し、原著の詳細目次の中にタイトル名は出てきて、本文にはない。また、「節」の文字や「数字」もない。「緒言」は詳細目次にすらない)。
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 第二部/第10章・ボルシェヴィキの権力奪取への努力(Bid)。
 (緒言)
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 第2節・ドイツの助力によるレーニンの帰還。
 第3節・レーニンの革命戦術。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキ集団示威行動。
 第5節・臨時政府への社会主義党派の加入。
 第6節・権力闘争へのボルシェヴィキ資産とドイツの援助。
 第7節・6月のボルシェヴィキ街頭行動の中止。
 第8節・ケレンスキーの夏期攻撃。
 第9節・ボルシェヴィキの新たな攻撃の準備。
 第10節・蜂起の準備。
 第11節・7月3-5日の出来事。
 第12節・鎮圧された蜂起-レーニンの逃亡・ケレンスキーの独裁。
 注記は、本文の下部にある(*)や(+) はできるだけ訳し、後注(note)は原則として訳さない。
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 緒言
 1917年のロシアの革命について二つを語る-第一に二月で第二は十月-のが一般的だが、革命の名に値するのは、第一のものだけだ。
 1917年二月に、ロシアはつぎの意味で、本当の革命を経験した。まず、ツァーリスト(帝制)体制を打倒した社会不安は、刺激もされず予期もされずに自然発生的に起こり、つぎに、続いた臨時政府は、すみやかに国民全体に受容された。
 1917年十月は、いずれの点でも本当ではない。
 まず、臨時政府の打倒につながった事象は自然発生的に起こったのではなく、緊密に組織された陰謀集団によって計画され、実施された。
 つぎに、この陰謀家たちが民衆の過半を服従させるためには、三年間の国内戦争(内戦)と無差別のテロルが必要だった。
 十月は、古典的なクー・デタ(coup d'etat)だった。政府の統治権力は、民衆参加の外見でも帯びるという当時の民主主義的な慣行を無視して、民衆の関与なくして、少数集団によって奪取され、行使された。
 政治にではなくて戦争にむしろ適切な手段が、その革命的な行動には用いられた。//
 ボルシェヴィキのクー(権力転覆)は、二つの段階を経た。
 第一は4月から7月までの時期で、レーニンは、武装した実力が支える街頭示威行動によって、ペテログラードの権力を奪おうとした。
 二月の騒擾の態様にしたがって、この示威行動を段階的に拡大するのが、レーニンの意図だった。そうして、最初はソヴェトに、その後即時に彼の党へと権力を移行させる、大規模な暴乱へと持ち込もうとした。
 この戦略は、失敗に終わった。三回めの7月の行動は、ボルシェヴィキ党の破滅をほとんど生じさせた。
 ボルシェヴィキは8月までには、権力への衝動力を十分に回復した。しかしこのとき、彼らは別の戦略を用いた。
 レーニンは、フィンランドにいて警察の目から逃れていた。その間の責任者だったトロツキーは、街頭の集団示威行動を避けた。
 トロツキーはその代わりに、偽りのかつ非合法のソヴェト大会という前景の背後で、政権中枢を奪取する特殊な突撃兵団に依拠した、ボルシェヴィキのクーを準備していた。
 権力掌握は、名目上は、一時的にのみかつソヴェトのために実行された。しかし、実際は、永続的に、かつボルシェヴィキ党の利益のために、だった。//
 <〔原文一行あけ〕>
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 レーニンは、ツューリヒにいて二月革命の勃発を知った。
 戦争の開始以来ずっと故国から切り離されて、レーニンは、スイスの社会主義的政界人たちに身を投じていた。そして、彼らに非寛容と論争好きというよそ者の精神を注入していた。
 レーニンの1916年から1917年の間の冬の日誌によると、熱狂的だが焦点が定まらない活動様式が分かる。小冊子を配ったり、対抗的なスイスの社会民主党に対して策略を試みたり、マルクスとエンゲルスを勉強したりしていた。//
 ロシアからのニュースは、数日遅れてスイスに届いた。
 レーニンはまず、ペテログラードの社会不安について、ほとんど一週間遅れて、3月2日/15日〔ロシア暦/新暦、以下同じ〕の<新ツューリヒ新聞(Neue Zuercher Zeitung)>の報道で知った。
 ベルリン発のその報道は、戦争の舞台からの二つの速報の間に挿入されていて、ロシアの首都で革命が勃発した、ドゥーマ〔もと帝制議会・下院〕は帝制下の大臣を逮捕して権力を握った、と伝えていた。//
 レーニンはすぐに、ロシアに帰らなければならないと決めた。
 1915年にスカンジナヴィアに移動することはまだ可能だったのにその『危険を冒す』ことをしなかったのを、今や激しく悔いた。(*)
 だが、どうやって帰るか ? 明確なただ一つは、スウェーデンを経てロシアに入ることだった。
 スウェーデンに行くには、フランス、イギリスまたはオランダという連合国の領域を通過するか、ドイツを縦断するかのどちらかだつた。
 レーニンはイネッサ・アーマンド(Inessa Armand)にほとんど任せて、英国の査証(visa)を得る機会を探してくれるよう頼んだ。だが彼は、英国は自分の敗北主義の綱領を知っているのでほとんど確実に発行を拒否するだろうと、これを得る見込みはまずないと考えた。
 レーニンはつぎに、偽の旅券(passport)でストックホルムへ旅行するという現実離れした計画を抱いた。
 スイスの彼の工作員、フュルステンベルク・ガネツキー(Fuerstenberg Ganetskii)に、使える旅券をもつ、かつレーニンと肉体的に似ているだけではなくて彼はスウェデン語を知らなかったので聾唖者でもある、スウェーデン人を見つけるよう頼んだ。
 こんな計画のどれも、首尾よくいく現実的な見込みは全くなかった。
 レーニンは結果として、パリにいるマルトフ(Martov)がある社会主義者の難民団体に3月6日/19日に提案した計画を利用した。それによると、ドイツ人とオーストリア人の捕虜と交換に、その領土を通ってスウェーデンへと縦断することをロシア人がドイツ政府にスイスの媒介者を通じて依頼する、ということだった。(5)//
 レーニンは、トロツキーの言葉によれば檻の中の野獣のごとく怒り狂っていたが、ロシアの政治状況の見通しを失ってはいなかった。
 ロシアの支持者たちが自分が舞台に登場するまで適切な政治路線を採用することに、彼の関心はあった。
 とくに懸念したのは、支持者たちがメンシェヴィキの『日和見主義』戦術やエスエル〔社会主義革命党〕の『ブルジョア』議会政府への支持を真似ようとしないかどうかだった。
 レーニンは、3月6日/19日にストックホルム経由でペテログラードにあてて送信した電報で、彼の基本方針をつぎのように概述した。//
 『我々の戦術-新政府の完全な不信任と不支持。
 とくに、ケレンスキーを疑う。
 プロレタリアートの武装だけが唯一の保障だ。
 ペテログラード(市の)ドゥーマ選挙の即時実施。
 <他諸政党との友好関係を持たない。>』//
 レーニンが支持者たちにこの指令を電報で伝えたとき、一週間しか仕事をしていない臨時政府には、政治的な基本的考え方を明らかにする機会はほとんどなかった。
 舞台から遠く離れたところにいて西側報道機関による二次的または三次的な情報に依存していたので、レーニンが新政府の意図や行動について知っているはずは決してなかった。
 『完全な不信任』とか支持しないという彼の主張は、したがって、新政府の政策によるものではありえなかった。
 そうではなく、新政府の権力を奪おうとするア・プリオリな(a priori、先験的な)決定を反映していた。
 ボルシェヴィキは他諸政党と協力しないとのレーニンの主張は、権力の空白をボルシェヴィキ党だけが排他的に奪い占めるという、充ち満ちた決心をしていることを意味した。
 上掲の簡潔な文書は、二月革命を知ってほんの僅か4日後に、レーニンがボルシェヴィキによるクー・デタを考えていたことを意味するだろう。
 また、『プロレタリアートの武装』の指示は、軍事暴動としてのクー(政権転覆)を想定していたことを示唆する。
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  (*) これはおそらく、1915年のレーニンとの会合の際になされたパルヴス(Parvus)の提案に関係している。
  (5) W. Hahlweg, Lenins Rueckkehr nach Russland 1917 (1957)〔レーニンのロシアへの帰還〕, p.15-16。
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 第1節②へとつづく。

1539/B・パステルナークとドクトル・ジバゴの「レーニン時代」。

 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
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 ボリス・パステルナークの小説・ドクトル・ジバゴで、パステルナークは、パルチザン(親ボルシェヴィキ=親レーニン政権)の捕虜となって医師として働いている主人公(ユリイ・ジバゴ)に、上のように語らせている。あるパルチザンのリーダーに対して、「人民軍兵士のあの態度」は、「…とほとんど全く同じ」で「ぼくの少年期全体の、あの尊き時代の憧れだった」、と語らせたあとでだ。
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, Thomas Resche 訳, 2011/初版ロシア語1957) p.422.
 江川卓訳・ドクトル・ジバゴ/下巻(新潮文庫, 1989/原版・時事通信社1980)p.113-4も大いに参考にした。第11章(編)の第5節。/は原文には改行はない。//にはある。
 ボリス・パステルナーク(Boris Pasternak)、1890年~1960年。
 ずっと、シベリア・ウラルを含む意味でのロシアで生きて、死んだ。
 小説・ドクトル・ジバゴは第二次大戦後すみやかに書かれ始めたようで(1946年に第1章の「読書会」)、1956年(昭和31年)に完成した。
 1958年(昭和33年)にノーベル文学賞授賞が決定され発表されたが、ソヴィエト政府(フルシチョフ)によって受賞辞退を迫られた。
 この小説は1905年「革命」以前のユリイやラーラの生い立ちから始まっているが、とくに新潮文庫の下巻の時代背景は、大戦勃発、1917年10月政変と、それ以降の「内戦」、飢饉・飢餓だ。つまり、<レーニン時代>の物語だ。
 ただの<小説>にすぎないとはいえ、ソヴィエト政府がこの小説を国内では発表させず、ノーベル文学賞も辞退させて、その後はパステルナークを批判し続けたのは、よほど<ソヴィエト体制>には危険な内容が含まれていたからに他ならないだろう。
 答えは、まさに推測だが、レーニンとロシア10月「革命」を美化してこそ、スターリンを含むその後のソ連指導部の正当性をも肯定する(国民には肯定させる)ことのできる後継政権にとって、パステルナーク(Boris Pasternak)のとくにレーニン時代の「内戦」・飢餓の状況を描き方が(あまりにも真実に近すぎて)きわめて<危険>だったことにあるだろう。
 パステルナーク、1890~1960。レーニン、1870~1924。スターリン、1978-1953。
 ついでに、カール・コルシュ(Karl Korsch)、1886~1961。
 ロシアのとくに知識人、詩人・作家、あるいは経済力があったり国外に近縁者がいる人々だと、①意思による亡命もありえた。②意思によらざる国外追放もありえた。しかし、いずれでもなく、パステルナークは、レーニン・スターリン時代を生き延びた。
 対ドイツ「大祖国戦争」が勝利した際には、喜んだともされる。
 奇妙に ?「政治」の世界に入ってしまうと、粛清(暗殺すら)される危険がある。
 「共産主義」思想とその体制に完全に馴染んでいたわけではないが、パステルナークは、ロシアの大地とロシアの言葉を愛するナショナリストでもあったのだろう。
 この人が、戦後も含めてどのような思いでソヴェト体制下の日々を過ごしていたのだろうと、複雑な感慨が生じる。一人の人間としての宿命や悲しさや美しさを感じる。
 もうたぶん50年も経っているのだ! 映画・ドクトル・ジバゴを観てから。
 この小説は、小説だが、<レーニン時代>がどんなだったかを、詩人・作家が思い出して書いている、<レーニン時代>に関する貴重な史料でもあると思われる。
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 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。 
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago, p.521. 江川卓訳・上掲書p.252。
 パステルナークについて、以下を参照した。
 前木祥子・パステルナーク/人と思想(清水書院、1998)。
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