秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

コルィマ物語

2360/J・グレイ2002年著でのコルィマ(Kolyma)②。

 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 =J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 上の英語著からのコルィマ、シャラモフ関係部分の試訳。
 邦訳書p.104-5を参照しつつ、原文を見ながら、秋月なりに訳している。
 以下は、J・グレイの文章(日本語訳)で、V・シャラモフの文章ではない。前回に記したように、シャラモフによる<物語>の全部の英訳書はまだ存在しなかった時期に、J・グレイがその一部(または重要部分)を読んで、おそらくは言及する価値があると判断したのだろう、この著(<わらの犬>)にしてはかなり長く叙述したのだと思われる。
 「」を外し、一行ごとに改行する。○と//は段落の区切り。
 **
 (つづき)
 (この欄での便宜的な数字)
 シャラモフは、こう書いた。
 「知ってはならないこと、見てはならないこと、かりに見たとすれば死んだ方がよいことは、いくらでもある」。
 収容所から戻った後、彼はその残りの人生を、見たことを忘れるのを拒みつづけて生きた。
 モスクワに帰る旅を叙述して、こう書いた。
 「まるで何年もつづいた夢から醒めたばかりのようだった。
 すると突然に、怯えて、自分の身体から冷や汗が出ているのを感じた。
 人間の恐るべき強さに、忘れようとする願望と能力に、畏れ慄いたのだ。
 自分は全てを忘れ、私の人生の20年間を抹消する気持ちでいると、私は気づいた。
 このことを理解したとき、私自身に打ち克った。私が見た全てのことを忘却するのを、私の記憶に許すつもりはない、と悟った。
 そして、私は落ち着きを取り戻して、眠りに入った。」//
 最悪のときには、人生は悲劇ではなく、ただ無意味なだけだ。
 精神(soul)は破壊されていても、人生は細々とつづく。
 意思が挫けるとき、悲劇の仮面は剥がれ落ちる。
 残るのは、ただ苦しみだ。
 最後の悲しみが語られることは、あり得ない。
 かりに死者が語れるとしても、我々はそれを理解しようとしない。
 悲劇に似たものにすがりつくのは賢明だ。
 剥ぎ取られて露わになる真実は、我々を盲目にさせるにすぎない。
 Czeslaw Milosz がこう書いたように。
 「無事でいる人間は誰も、神の目をもってはいない」。//
 シャラモフは1951年にコルィマから釈放された。但し、その地域を離れるのは許されなかった。
 1953年にシベリアを離れることは認められたが、大都市に居住することは禁止された。
 1956年にモスクワに戻って知ったのは、妻は彼の元を去っていて、娘は自分を拒絶していたことだつた。
 75歳の誕生日、彼は、独りで老人施設に住んでいた。目が見えず、ほとんど耳も聞こえず、大変な面倒をしながら、ときたま彼を訪れる一人の友人にいくつかの短い詩を口述した。その詩は、外国で出版された。
 その出版の結果として、彼は老人施設から追い出された。そして、—おそらくはコルィマに連れ戻されると信じ込んで—しつこく抵抗したが、ある精神病院に収容された。
 その3日後、1982年1月17日、シャラモフは「窓に鉄格子が付いた小さな部屋で」死んだ。「その窓の反対側には、円い監視用の穴が付いた、緩衝材入りのドアがあった」。//
 **
 ——
 終わり。

2359/J・グレイ2002年著でのコルィマ(Kolyma)①。

 一 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 =J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 上の邦訳書からの要約・抜粋または一部引用を掲載してきたが、外国語の翻訳ではなく、邦訳書の日本語文の要約・抜粋等にすぎないにもかかわらず、全部を了えていない。邦訳書の本文計6章、計209頁のうち、第4章の途中のp.139までにとどまっている。最後は→No.2122/2020.01.15.
 とどまってている理由は自分の事ながら今の時点で推測するに、一つは、J・グレイのこの本の文章は綿密で長々としたものではなく、要約・抜粋するのがかなり困難な、アフォリズムにかなり接近するものにますますなっていること、だ。
 二つは、同じJ・グレイの、Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)<邦訳書なし>を入手して、L. Kolakowski 、Eagleton & Hobsbawm、Tismaneanu の人や書物に関する論評を同じこの欄で試訳してしてきたことだ。L・コワコフスキにつき→No.2126/2020.01.19。
 なお、L・コワコフスキの文章は多くは原語から英訳されているので、まだ読解しやくすいように英語訳されているが、J・グレイの英語文は、現役のイギリス人の英語だけあって、はなはだ読み(理解し)難いところがある。
 J・グレイは好き・嫌いをわりあいと明確にしていて、前者にKolakowski、後者にHobsbawm が入る。Richard Dawkins に対しては批判的なのだが(理由の一つを勝手に推測すると、きっと、自信満々に書き過ぎることだろう)、そのドーキンス部分の翻訳=試訳を開始したが、読解と実際の試訳に難渋して、今のところ挫折している。
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  コルィマまたはコリマ(Kolyma)という場所(シベリアの東北の極北部)に旧ソ連の収容所があったことを知ったのは、たぶん、上の<わらの犬>によってだ。そしてJ・グレイは、V・Shalamov の<コルィマ物語>に依拠して、コルィマに言及していると見られる(但し、この欄で最近に試訳した書物によると、シャラモフによるコルィマの<物語>の全文ないし完全版ではないようだ)。
 すでに邦訳書の要約・抜粋等として掲載したところだが、あらためて、邦訳書を参照しつつ、J・グレイの原書にほぼ即したかたちで、より長く試訳して紹介しておく。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 まず、第3章第5節(邦訳書p.103-)あたり。
 <邦訳書要約→No.2121/2020.01.14>。以下は、これよりも長い。
 「」をはずし、原文の一行ごとに改行する。段落の区切りには○と//を付す。
 **
 (ここでの便宜的な数字)
 今日ではキリスト教徒と人間中心主義者(humanists)は、一緒になって、悲劇を不可能なものにしている。
 キリスト教徒にとって、悲劇とは偽装した天恵以外の何ものでもない。すなわち、世界は—ダンテが述べたように—、神聖な喜劇なのだ。そして、全ての涙がすっすり拭われてしまう来世がある。 
 人間中心主義者にとっては、全ての者が幸福な人生を送る可能性をもつときを、心待ちにすることができる、ということになる。
 そのうちに悲劇は、我々は逆境のもとでも生き抜けることを教訓として記憶させるものになるのだ。
 しかし、極限状態の苦痛によって人間は高貴になる、というのは、お説教または舞台上のセリフだけにすぎない。//
 収容所を生き延びたGustaw Herling によると、ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)の前で、「Solzhenitsyn も含む全ての収容所文学者は、頭を垂れなければならない」。この作家は、わずか22歳でまだモスクワ大学の学生だった1929年に最初に逮捕された。
 彼は、Solovki での3年間の重労働の判決を宣告された。そこは、正教の男子修道院がソヴィエトの強制集中収容所へと改造された、一つの島だった。
 1937年に再び逮捕されて、シベリア東北部のコルィマでの5年間の判決を受けた。
 控えめの推計でも、この極北の収容所でおよそ300万人が絶命した。毎年、受刑者の3分の1かそれ以上が死んだ。//
 シャラモフは、コルィマで17年間を過ごした。
 彼の書物の<コルィマ物語(Kolyma Tales)>は簡潔なChekhov 的文体で書かれ、Solzhenitsyn の作品がもつ教訓臭は全くない。
 だがなお、ときおりの素っ気なく離れている行の間に、一つのメッセージが示されている。
 すなわち、「違って行動することができると考える者は誰もみな、人生の本当のどん底に触れたことがない。そう考える者はみな、『英雄のいない世界』で最後の息を吐かなければならなかったということが決してない」。//
 コルィマは、道徳が存在しなくなる場所だった。
 シャラモフが冷ややかに「文学的おとぎ話(fairly tales)」と呼んだ状況では、人間の深い結びつきが、悲劇と窮乏の圧力のもとでやむなく作り上げられる。
 しかし、実際には、どんな友情や同情の絆も、コルィマで生き延びるに十分なほど強くはなり得ない。すなわち、シャラモフはこう書いた。
 「悲劇と窮乏が人々を一緒にさせて、人々の間に友情を生んだのだとすれば、その場合には、窮乏は極限状態ではなく、悲劇は大きくなかったのだ」。
 人生から生きる全ての意味を奪われて、受刑者たちには生き続ける理由が存在しないように思えたかもしれない。
 だが、ほとんどの者は体力が弱くて、自分たちが選択した方法で自らの生命を断つ機会がときおり訪れたとしても、その機会を利用することができなかった。
 「死ぬという気持ち(will)を失わないように、〔自殺を〕急がなければならない場合もあった」。
 飢えと寒さに痛めつけられて、受刑者たちは、無感覚のままで、無意識の死に向かって動いていった。//
 **
 ——
 以降の試訳も含めて、次回以降へ。

2357/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文⑤。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ——
 第3節。
 (1)ようやく2013年、かなり完全なシャラモフの作品集がロシアで(7巻本で)出版された。
 彼は外国ではドイツで最もよく知られていて、6冊のうち4冊が翻訳されており、近刊の書物として出版された。
 コルィマ・ストーリィの一部分の信頼できる英訳書は1980年に、John Glad の翻訳で<コルィマ物語(Tales)>として出版された。
 1994年に、のちの書物からのその他の物語の一部が、<コルィマ物語>に追加された。
 現在の総巻とその姉妹篇は、英語で読めるシャラモフの作品の量の、二倍以上になるだろう。
 不幸なことだが、英語によるシャラモフの伝記や彼の作品の研究書は、まだない。
 ドイツ語を読める人々は、Winfried F. Scholler の<生きるか書くか—語り手・Warlam Schalamov>を利用できるだろう。//
 (2)一方で、シャラモフを翻訳するのはむつかしくない。
 彼は、一切の文体による効果を避けている。ほとんどの物語は故意に「粗っぽく」書かれ、同じ形容詞を繰り返すのを恐れておらず、隠喩も最小限にとどめている。
 しかしながら、ある面では翻訳者を苦しめるに違いない。これが、悪漢たち、つまり政治的受刑者をもっと地獄に追い込んだ、親譲りで職業的な泥棒や殺人者たちの言葉遣い、<fenia>または<blatnoi yazyk>の言葉遣いだ。 
 <fenia>は、オデッサ・イディッシュ、多様なスラヴ語由来の、トルコ語起源すらもつ方言だ。そして、たぶんこの200年の間に定着してきた。
 しかしながら、英語での犯罪者用語は、数年ごとかつ全ての都市で変わっている。
 ただ18世紀のロンドンでは安定した犯罪者用語があったが、今日にそれを理解できるのは数人の専門家だけだ。
 このような理由で、この英語版では、シャラモフが登場させる犯罪者たちは、僅かばかりのよく知られた俗語とともに、誰とも似たように語る。
 興味深いことだが、シャラモフは、コルィマにいた間はわずか一つの散文しか書いていない。化学実験室の責任者だった収監技術者のPodosinov のための、犯罪者用語に関する600語の辞書だ(近刊の「Galina Pavlovna Zybalova」の物語を見よ)。 
 Podosinov は通過するトラックに轢かれて死に、この辞書の原稿は失われた。—ロシアで犯罪者俗語の辞書類が増加しているにもかかわらず、このことが犯罪者用語の解釈を容易にしなかった。//
 (3)妻のAnna がこの訳書の初版を読んでくれて、間違いや不適切表現、遺漏から救ってくれたことに大いに感謝している。
 その仕事は、彼女の父親のDmitri Vitkovsky がシャラモフのように収容所で人生の半分を過ごしたことを考えると、彼女にはとくに困難だった。
 Susan Barba の如才がなくて綿密な編集についても感謝したい。また、ロシア国立人文資料館のNatalia Efimova に対しても、公刊されている文章に誤植があると(間違って)疑ったときにシャラモフの草稿を点検してくれたことに、感謝する。//
 (4)「私が収容所で見て理解したこと」の最後の項目での主張にもかかわらず、シャラモフは、自分の素材を完全に分かっていた。そして、誰もが理解することができるように、書いた。
  —Donald Rayfield
 **
 序文、終わり。シャラモフの本文(の英語訳)を試訳する予定はない。

2346/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文④。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ——
 第2節②。
 (4)シャラモフは、荷積み一輪車の運転方法以外には何も、コルィマから学ばなかった、と言った。
 しかし、彼の著作物の断片の一つは、我々にもっと多くのことを語ってくれる。/
 「<収容所で見て理解したこと
 01. 人間の文化や文明の極端な脆弱さ。重労働、寒さ、飢え、殴打があれば、人間は三週間で野獣になる。
 02. 精神を奪う主要な方法は、寒さだ。思うに中央アジアの収容所ではより長く生きる。より暖かいからだ。
 03. 友情や同志愛は、本当に過酷な、生命を脅かす条件のもとでは決して生まれない、と悟った。
 04. 人間が最も長く維持する感情は怒りだ、と悟った。怒りに燃える人間には、肉片で十分だ。他の全てに、その人間は無関心だ。
 05. スターリンの「勝利」は、無実の者を殺したことによる、と悟った。—十倍の規模の組織があれば、二日以内に彼を一掃できただろう。
 06. 人間は他のどの動物よりも強くて生により執着するがゆえに人間だ、と悟った。どの馬も、極北で働いて生き延びることはできない。
 07. 飢餓と酷使の条件の中で最小限度の人間性を維持することのできる唯一の人間集団は、宗教信仰者、宗徒(この者たちのほとんど)、たいていの聖職者だ、と知った。
 08. 党従事者と軍人は、最初に崩れ始め、かつ最も容易に崩れる。
 09. 知識人に対する最も手厳しい論述は、その顔を最もふつうに平手打ちすることだ、と知った。
 10. ふつうの人々は、監督者たちがどの程度強く自分たちを叩くか、どの程度熱心に殴打するかによって、自分の監督者を識別する。
 11. 殴打は、一つの議論と同じくほとんど全面的に有効だ(方法・第三)。
 12. 見せ物裁判(show trial)がどのように不可思議に設定されているかを、専門家から教えられた。
 13. 受刑者はなぜ、外部世界が聴くよりも前に政治報道を聴くのかを、理解した。
 14. 刑務所(と収容所)の「風聞(grapevine)」は決して「風聞」にすぎないのではない、と気づいた。
 15. 人は怒りを糧として生きることができる、と悟った。
 16. 人は無関心を糧として生きることができる、と悟った。
 17. なぜ人々は希望によって生きないかを、理解した。—希望は全くない。また、なぜ自由(free)な意思によっては生き残ることができないかも。—どんな自由な意思があるのか?
 人々は本能により、自己保存の感情により、木や石や獣と同じ基盤の上で、生きる。
 18. 1937年に最初に正しく、私の自由(freedom)により他人の死に導くことができるなら、私の自由が私自身のような受刑者である他の人々を抑圧することで監督者に奉仕しなければならないなら、決して職場長にならないと決めたことを、私は誇りに思っている。
 19. 私の肉体的強さと精神的強さはいずれも、この大実験で想定していた以上に強いことが判明した。
 誰をも売らなかった、誰をも死刑またはその他の判決へと追いやらなかった、そしてだれをも告発しなかった、ということを誇りに思う。
 20. 1955年まで公式の請願書を書かなかったことを、誇りに思う。
 21. 私は、いわゆるベリア恩赦が行われたところを見た。見るに値する光景だった。
 22. 女性の方が男性よりも慎み深く自己犠牲的だ、と知った。コルィマでは、妻に従う夫の事例はなかった。しかし、妻たちの多くは、やって来た(Krivoshei の妻のFaina Rabinovich)。
 23.「夫と妻を合法化する」手紙を携行する等の、北方の素晴らしい家族(自由契約労働者と従前の受刑者)を見た。
 24. 「最初のロックフェラー」、地下世界の百億長者たちを見た。私は彼らの告白を聞いた。
 25. 制裁労働をする人々を見た。「割当量」D、B等、「Berlag」の多数の人はもちろん。
 26. 大量のことを達成できる—移籍した病院の時間で—ことを悟った。だが、生命を危うくし、殴打をされ、氷の中の独居牢を耐え忍ぶことによってだ。
 27. 氷の中の、岩に刻まれた独房を見た。そこで私自身が一晩を過ごした。
 28. 権力への、意のままに人を殺すことができることへの熱情は、強い。—監督者の長から階層内にある監視員まで(Seroshapka と似たような男たち)。
 29. ロシア人の、非難し不満を告げることに駆りたたれる、統御できない気持ち。
 30. 世界は善良な人々と悪徳な人々に分けられるのではなく、群衆とそれ以外に分けられることに気づいた。
 群衆の95パーセントは、不愉快きわまること、死に直結することを、最も穏やかな脅迫があれば、行うことができる。
 31. 収容所は—その全てが—否定的な学校だと確信している。あなたは、堕落することなくして、その一つで一時間なりとも過ごすことはできない。
 収容所は誰にも何の積極的なものをも与えなかったし、与えることができない。
 収容所は全員を、受刑者と自由契約労働者のいずれをも同様に、堕落させることで運営される。
 32. どの地方にも、その地方の収容所があり、どの建設場所にもある。数百万人の、いや数千万人の受刑者がいる。
 33. 抑圧は社会の上位層にだけ向けられているのではなく、あらゆる階層に及んでいる。—どの村にも、どの工場にも、どの家族にも。全ての家族に、抑圧されている親戚か友人かがいる。
 34. 私の人生の最良の時期は、Butyrki 刑務所の小部屋で過ごした数ヶ月だったと思う。そこで私は何とかして弱い者の精神を鍛えた。また、そこでは誰もが自由に話した。
 35. 一日先の生活を「計画」することを学んだ。それ以上先ではない。
 36. 泥棒は人間ではない、と悟った。
 37. 収容所には犯罪者はいない、隣にいる人々は(また明日に隣人になるだろう人々は)法の範囲内にいて、法に抵触していない、と悟った。
 38. 何とも恐ろしきことは少年または若者の自己肯定心だ、と悟った。彼らにとって、頼むよりも盗む方がよい。
 そうした自己肯定と傲慢さは、少年たちを底辺に沈ませている。
 39. 私の人生で、女性は大きな意味を持たなかった。収容所がその理由だ。
 40. 教養ある人々は、役に立たない。なぜなら、どのようなならず者に対しても自分の態度を変更するのは、私にはできないからだ。
 41. 誰もが—監視兵であれ、仲間の受刑者であれ—嫌悪する人々は、ぐずぐずし、病気で弱い、気温がゼロ度以下のときは走ることのできない、党階階層の新入たちだ。
 42. 権力とはどういうもので、銃砲をもつ男がどういうものか、私は理解した。
 43. 規準は変わってくる、その変わりようは収容所の最も典型的なものだ、と私は理解した。
 44. 受刑者の生活条件から自由人のそれへと移ることはきわめて困難だ、長い償還期間なくしてはほとんど不可能だ、と理解した。
 45. 作家は叙述している問題については外国人でなければならない、そして、素材を十分に知っているならば誰も自分を理解できないだろうようなやり方で作家は執筆するのだろう、と理解した。」//
 ——
 第2節、終わり。

2345/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文③。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ①・②で掲載した部分を「第1節」とし、以下を「第2節」とする。大きな区切りがあるためで、数字や表題は原書にはない。
 ——
 第2節。
 (1)1988-89年にペレストロイカがしっかりと確立されると、Sirotinskaya はシャラモフの原稿を準備して—彼は能筆で、解読に問題はなかった—、それの出版に取りかかった。
 しかしながら、編集は加えらなかった。そして読者は、後半に主題、出来事、登場人物が何度も出てきていて、別々の章の中の名前に矛盾点や類似点すらあることに、気づくことになっただろう。
 それにもかかわらず、この作品のもつ容赦なき力強さは、ナツィとソヴィエトのいずれであれ、20世紀の恐怖の記録としてこの作品を独特なものにしている。著者は、自分の誤った判断を含めていかなる緩和または穏和化も拒否しており、見た光景であれ聞いた言葉であれ、類稀な記憶力を示していた。
 収容所で彼はたまには親切にされたにもかかわらず、そこには、慰安となるものはなく、神または人間性に対する信頼もない。
 ただ動物たちだけが、礼節をもって振る舞う。—仲間が逃げられるように狩人の銃弾を受ける雄熊やアトリ鳥、受刑者を信頼して監視兵に対して怒って唸るハスキー犬、あるいは、受刑者が魚を掴むのを助ける猫。//
 (2)作品がもつ芸術的な力はさて措き、シャラモフの物語は、衝撃的な証言書だ。
 多数の例のうちの一つは、1942年から1945年にかけて、アメリカの不動産業者がコルィマに、大量の墓所を掘り返すためにブルドーザーを、金鉱石を運ぶためにトラックを、奴隷たちが使う用に鋤とつるはしを、監視兵たち用に食糧と衣服を送った、というものだ。
 シャラモフの仲間の一人が述べるように、コルィマは、「オーヴンのないアウシュヴィッツ」だった。//
 (3)シャラモフは、何らかの形態で、共謀罪で訴追されることがあり得た。彼自身が、スターリン主義の継承者として、容赦なく残虐なことを犯した、内戦中の赤軍の英雄たちに対する敬愛の念を示していた。
 彼の長編の一つである<金メダル>は、社会革命党〔エスエル〕のテロリストのNadia Klimova を、ほとんど神格化している。
 シャラモフが被った苦しみにもかかわらず、彼は、理想に燃えて、自分の死をもって償う心構えで行なったものである場合は、革命の殺人者たちを決して非難しなかった。
 また、強制労働のシステムに協力する職を決して引き受けない、と公言したけれども、救急医療員にいったんなるや、<永久凍土>で彼が詳述しているように、彼が病院の床磨きに行くのを許さず、鉱山での重労働へと送り出した青年の自殺について責任を感じた。//
 ——
 第2節がつづく。

2330/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文②。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 **
 (07) シャラモフは当初は、著作活動をした経歴によって、高い望みを持った。
 Boris Pasternak は、彼の詩作の才能を大いに誉めた。また、Aleksandr Solzhenitsyn は<One Day in the Life of Ivan Denisovich>で、収容所について書くのは可能だということを示した。
 しかし、ソヴィエト当局に外国での<ドクトル・ジバゴ>出版を責め立ててられていたPasternak は1960年に死亡した。また、Solzhenitsyn が出版することができるのは—かつほんの数年の間—今や党指導者であるNikita Khrushchev や影響力ある雑誌<新世界>の編集者のAleksandr Tvardovsky の好意があったからにすぎない、ということが明瞭になった。
 シャラモフが最初は抱いたSolzhenitsyn の偶像視は彼の友好的な反応を受け、<収容所群島>の編集を共同で行おうと誘われもした。
 しかし、シャラモフは明らかに、19世紀のキリスト教的価値のいくつかへのSolzhenitsyn の執着には、またソヴィエト社会のある範囲の道徳、とくに手労働の救世的力への忠誠さには、賛同しなかった。
 Solzhenitsyn は短い物語を書くことから大きい小説へと移ったけれども、シャラモフは、素材を偽ることとなる綿密な構成物だとして小説を評価しなかった。
 (ウラルでの矯正労働の回顧録は、<Visheara(反小説)>という表題だった。)
 シャラモフは、Yevgeniya Ginzburg のような、収容所の他の生き残りとは距離を置いた。そして、自分たちの苦しみの原因を作った悪党たちに対して優しすぎると批判した。
 彼は、最初はOsip Mandelstam の未亡人のNadezhda と親しかった。—最良の二つの物語を、彼女と詩人に捧げた。だが、賛美者と異端者たちに囲まれた女王蜂としての彼女の役割によつて、彼は遠ざかった。
 (08) こうした孤立やKGB が払った敵対的注意にもかかわらず、シャラモフは四作の詩集を何とか出版した。
 彼の詩は、革命前ロシアの象徴主義の技巧と主題をもった、強く回顧的なもので、公的に敵対心を掻き立てはしなかった。だが、彼の物語をソ連邦で出版するのは、最も論争的でない1965年の<The Dwarf Pine>の一冊を除いて、不可能だと判ることとなった。また、その例外ですら、<国の若者>の編集部から解雇される原因になった。
 1968年、—シャラモフが密かに意図してか、意思に反してかは確実には言えないが—個々の物語が、そして最初の書物の<Kolyma Stories>の全体が、西側へと漏れ出し、公表された。最初はエミグレ・ロシア人の雑誌で、次いでシャラモフの名によるドイツ語訳書、フランス語訳書として。
 シャラモフは私的に抗議した(出版物の提供と支払いを求めたけれども)。そしてついには、公式の<文学新聞>で、明らかに強いられて、抗議を表明した。
 彼が「反ソヴィエト」のエミグレや西側出版社を非難したことで、作家同盟に遅ればせながら入ることができるという報償が与えられた。作家同盟員でなければ、ソヴィエトの作家は生活していく望みを持てなかった。//
 (09) 1960年代の末、シャラモフはIrina Sirotinskaya の世話になった。彼女は、彼の原稿をロシア国立文学芸術資料館に預けていた。
 Sirotinskaya は、お互いの愛情と尊敬にもとづく関係に関する詳細な説明を付していた。
 Sirotinskaya の介入がなかったならば、確実に、シャラモフラモフの作品は、その他の異端の作家たちの作品のように消滅の運命に遭っただろう。
 シャラモフに懐疑的な友人たちは、とくに異端者または元受刑者あるいはそのいずれもの友人たちは、自分たちの友情を疑っていた。USSR(ソヴェト社会主義共和国連邦)の全ての国立資料館はKGB に服従しており、著作者の作品を存命中に資料館に移すことは、保存のためとともに、隔離の結果だと見なすこともできた。
 しかし、私はソヴィエト資料館にある私自身の著書に関して気づいたのだが、「保安のための除去」だったにもかかわらず、利用を統制できる文学作品に対して、純粋に貢献したいという資料管理者がいた。
 シャラモフの少なくとも詩集の出版について、Sirotinskaya がそれを助ける大きな役割を果たした、ということに疑いはない。//
 (10) 1970年代遅く、家を失って病気がひどくなったシャラモフは、姿を消して老人施設へと入った。
 その施設の条件は本当にひどいものだった。—皮肉にも、収容所の最悪の施設と同じほどにひどかった。
 コルィマで衛生兵としてシャラモフを教えた収監中の教授だった人の孫も含めて、友人たちが彼を発見して、彼の条件を少しでも良くしようとした。しかし、その働きかけはKGB と「医療スタッフ」に妨害された。
 Sirotinskaya はシャラモフとの関係を感じていたが、家族の利益を優先しなければなかった、結婚している女性だった。それでようやく、冬の頃からシャラモフとは距離を置いたように見える。
 1982年1月、精神医の委員会はシャラモフの状態を認知症と診断した。—ひどい難聴、筋肉統御力の喪失、見知らぬ者に対する激しい嫌疑。そして、凍えるような寒さの中をほとんど裸で、ほとんど誰も訪問することのできない「精神病院」へと移された。
 数日のうちに、シャラモフは急性肺炎で死んだ。
 Sirotinskaya はその回想録の中で、彼の死の直前に訪れたとき、シャラモフによって詩集の語句を口述されたと述べている。
 シャラモフはまた、彼女を相続人に指名する遺書を残し、出版されていない物語集を彼女に捧げた。
 この最後の措置の真実性は、シャラモフの異端派の仲間、とくにSergei Grigoriants によって争われた。
 シャラモフは第三者が存命の場合に語るのを嫌ったため(収容所についての古い習慣)、ここでも再び、伝えられる彼の会話が確証されることはなかった。//
 (11) シャラモフは、聖職者の子息として、洗礼を施されているという理由で、友人たちやソヴィエトの文学分野の人々は組織立って、教会式の葬儀と埋葬を行なった。//
 **
 ③むへとつづく。

2319/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文①。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者による序文の試訳。
 なお、<コルィマ物語>には、別に、以下の英訳書もある。
 Varlam Shalamov, Kolyma Tales, translated by John Glad(Penguin, 1980〜)。
 少なくとも翻訳の仕方は異なっているだろう。内容(対象範囲)にも違いがあるかもしれない。
 邦訳書はないと見られる。シベリア北東部の極北の<コルィマ>強制収容所のかつての存在自体が、日本ではほとんど知られていないだろう。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に原文にはない数字番号を付す。
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 序文(Introduction)—Donald Rayfield。
 (01) ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)は、スターリンの最悪の収容所での15年の稀少な生存者で、最も寒くて居住に最も適さない場所の一つであるコルィマの金鉱で、奴隷として6年間を過ごした。そのあとで、受刑者収容所の医療従事者として少しは耐えられる生活を送った。
 彼はこの収監の前に、若干の散文といくつかの詩文を書いていた。しかし、彼の七巻の散文、詩文、戯曲概要はほとんど全て、1953年のスターリンの死から1970年代後半のシャラモフ自身の身体および精神の不調の中で書かれた。//
 (02) 我々が収集して翻訳したのは短い物語から成る六冊の書物で、三冊ずつ合わせて二巻本として出版される予定だ。ほとんどは彼がコルィマにいた時期に関するものだが、北部ウラルの収容所で「矯正労働」をした1929年から1931年の初期に関する若干を含み、Vologda での青年期を思い出す一、二を含んでいる。
 自伝と虚構の間の境界はきわめて曖昧だ。つまり、これらの物語の事実上は全てを、シャラモフは体験するか、目撃した。
 彼の作品は、受刑者やその抑圧者たちの多数の実名で溢れている。
 彼自身はたんに『I』または『シャラモフ』として、ときにはAndreyev とかKrist とかの仮名で登場する。
 かくして諸物語は、彼の人生の最初の50年間の自叙伝となっている。//
 (03) シャラモフは、中世以来政治犯用の流刑地だった北部の町であるVologda で生まれた。そして、幼い少年の頃、天敵となるJoseph Stalin と一緒に小径を横切ったかもしれなかった。スターリンは、1911年と1912年に定期的に、Vologda にある宿泊所から立派な公共図書館へと歩いて通っていた。
 聖職者の子息であるシャラモフは(Anton Chekhov のように)宗教の形象と言語で充たされていたが、若いときから全ての信仰を拒否した。
 彼の父親から継承したのは、不屈の頑固さと権威に対する抵抗心だった(父親は、アリューシャン列島の宣教師を務めた非凡な人物で、政治的リベラリズムに共感し、他宗教への寛容さを説いたが、家族員に対しては専制的だった)。
 シャラモフの父親は、単純な手術を拒んだのちに盲目になった。
 父親はシャラモフにも、費用のかかる鼻腔手術を受けさせなかった。それによって、息子は嗅覚を失った。また、老年になってメニエール症にかかった原因になったかもしれない。//
 (04) Vologda は、ロシアの内戦中、とくに1918年には、ぞっとするような残虐行為が行われた舞台だった。その年に、サイコパスのMikhail Kedrov が、シャラモフの化学の教師を含む民間人の人質を射殺した。
 それにもかかわらず、シャラモフは革命に、とくにトロツキスト派に共鳴した。共産主義者によって、聖職者の子息だとして、高次の教育から排除されたとしても。
 そのとき教会から追放されていた彼の両親は、極貧の中で生活していた(『The Cross』物語を見よ)。シャラモフのときたまの稼ぎでは、生活は楽にならなかった。
 彼は皮革工場で働き、数学と物理で良い成績を挙げて、やがて(ソヴィエト法を勉強するために)モスクワ大学に入るのを許された。しかし、一人の仲間が『社会的出自を隠している』と彼を非難したことにより、追放された。
 彼は報道業界に入って不安定な収入を獲得し、レーニンの遺書の公表を(多数のトロツキストと同様に)要求する学生運動に関与したとして、初めて逮捕された。その遺書とは、スターリンを名指しして、粗雑で権力妄者だから党の総書記には任命できないとした文書だった。//
 (05) シャラモフは、コルィマと比較してのみ緩やかだと思えるような条件で、化学工場建設場で3年を過ごした。
 1931年、秘密警察の呼称だったOGPU の意向に反して釈放された。だが、嫌がらせを受けずに、モスクワで生活し、働くことができた。
 1934年、Galina Gudz と結婚した。
 1935年、娘のElena が生まれた。 
 Galina の兄のBoris Gudz はOGPU の工作員で、この結びつきに戦慄した。
 彼はシャラモフに、今ではNKVD(内務人民委員部)と称されている秘密警察に文書を書くよう圧力をかけた。
 その結果は最悪だった。シャラモフは逮捕され、反革命のトロツキスト活動をしたとして、最初はコルィマでの5年の判決を受けた。ちょうどその頃、大テロルがあり、ほとんどのトロツキストは射殺されるべきものとされていた。
 (Gudz の家族も弾圧を逃れることができなかった。シャラモフの妻と娘はトゥルクメニスタンへと追放された。Boris Gudz は秘密警察を解職され、バス運転手になった。その一番上の姉のAleksandra も抑圧された。)//
 (06) シャラモフはその散文で、結婚に伴う諸問題について言及するのを完全に避けた。
 コルィマでの体験と生存という奇跡は、諸物語の中で絵を見るように報告されている。
 解放と「名誉回復」(当局による無実の承認と二ヶ月分の俸給支払い)後に関する彼の自伝叙述は、しかしながら、会話や残っている若干の手紙類の記録によって、再構成される必要がある。
 彼の婚姻関係は、すみやかに崩壊した。
 娘は、月並みに育て上げられたスターリン主義者として、父親は死んでいるか犯罪者だと好んで考えた。
 2年後、彼はOlga Nekliudova と結婚した。
 この結婚関係は1966年まで続いたが、決して幸せなものではなかった。
 シャラモフは、多数のかつての収容所受刑者と同様に、可能な限り語らないという原則を維持した。第三者(情報提供者である可能性があった)が現存しているときには、決して語らなかった。
 いずれにせよ、自分の父親に似て、彼は女性についての父権的見方を持っていた。//
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 ②へとつづく。
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