秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・Engelstein

2242/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第5節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第5節②。
 (7)〔1921年〕7月までに、労働農民同盟の組織は破壊され、その指導者たちは殺されるか、または逮捕された。
 チェカはその地帯に残っている社会革命党の中心地を一掃し、周辺の地域もまた駆除した。
 捕えられた数人の反乱者は、故郷に帰って残余グループの中に〔スパイとして〕浸透するよう説得された。
 10月までに、占拠-駆除の運動は徐々に収まった。
 しかしながら、アントーノフと彼の弟のドミトリ(Dmitrii)が最終的に捕獲されて殺戮されたのは、6月になる前のことだった。
 この二人はある村落に隠れ、女性二人の世話を受けていた。ところが、そのうちの一人が薬を求めて薬局に行ったとき、何気なく場所を漏らしてしまった。
 チェカの狙撃兵の一グループに包囲され、彼らは手榴弾をもって家屋から飛び出して来た。そのとき、銃弾に撃たれて倒れた。
 二人はタンボフの以前の修道院に埋葬された。そのときそこは、地方チェカの建物になっていた。
 二人の死体の写真は、彼らが解体していることの証拠として、新聞に公表された。(85)//
 (8)タンボフ反乱を絶滅させる際、共産党支配者は、自分たちのために本来は協力する必要がある住民たちを破壊する意欲を示した。
 殺戮の方法は、ある次元ではうまくいくものだった。
 軍隊とテロルによって、組織的な抵抗は終焉した。
 別の次元では、その方法は彼ら自身の教条に反するものだった。
 穀物生産地域と民衆の力を強制的徴発や軍事的征圧によって破壊することは、経済全体に対して、大厄災となる影響をもたらした。
 ソヴナルコムは、悪循環に陥っていた。
 ソヴナルコムはまず、国家の存在自体を守る軍隊を建設するために必要な、農業地域の人々や馬を穀物を使ってそれらを消耗させた。 
 この取り立てによって、その忠誠さと協力が体制の存続にとって軍隊が重要であるのと同じく重要な民衆の間には、激しい反応が巻き起こった。
 取り立てられた資源にもとづいて建設された軍隊は、次いで、騒擾を鎮圧するために用いられた。しかし、継続的に略奪行為にいそしむ多数の兵士を有する兵団がたんに存在すること自体が、その地域に対して甚大な物理的かつ経済的な損害を与えた。そして、その結果生じたのは、継続する社会不安といっそうの超過支出だつた。(86)//
 (9)1921年、ロシアの農村地帯は、軍事力と政策変化の連携によって静かになった。政策変更とは、強制食料徴発からの離脱のみならず、取引と商業に対する統制の緩和のことだった。後者は、かつては脆弱で危険の多い生活必需品供給手段だったもの、つまり闇市場(black market)を承認することとなつた。
 しかし、損害はすでに発生しており、1921年春の危機は深かった。
 飢饉が、決定的な要因だった。
 ソヴィエト・ロシアでの1918年と1919年の収穫高は、1913年の帝制時代で戦争前の最後の収穫高の4分の3だった。
 1920年の収穫高は、半分をわずかに上回る程度で、1921年のそれは半分もなかった。
 1920年の最初の干魃の兆候を見て、農民たちは、配送する仕事からの解放を求めた。
 アメリカ救済委員会(Ammerican Relief Administration, ARA)のハロルド・H・フイッシャーは、「春は暑くて、ほとんど雨が降らなかった。そして、その春の時期の土地は固くて乾いていた」と書いた。
 夏と秋もまた、渇いていた。しかし、1920年に用いられた圧力は、従来よりも寛容ではなかった。(88)
 以前の富裕なドイツ人定住者の入植地にはカテリーヌ大帝の御代以来のタンボフ地方の住民がいて、50万人を数えるになっていた。この者たちへも、攻撃の矛先が向かった。
 武装労働者たちが、テュラ(Tula)から急襲した。彼らの無慈悲さは、「鉄のほうき」という通称を生じさせた。
 ドイツ人牧師は、こう思い出す。「唸りを上げるライオンのように、彼らは居留地にやって来た。家屋、家畜小屋、地下貯蔵室、屋根裏は全て探索されて、彼らが包み込める物はみな、乾いたりんごや卵まで一つも残さず、文字通りに一掃して行った。」
 抵抗する者はみな、叩きのめされるか、笞打たれた。
 組織的抵抗をしようとの無駄な試みに対しては、数百人がまとめて射殺された。
 最後には、定住者の10パーセントは死に、多くの者が逃亡した。そして、その共同体は以前の規模の4分の1にまで解体した。(89)
 (10)1921年夏に最悪に達した干魃はヴォルガ低地、南ウクライナ、クリミアを覆い、ウラルまで進行し、そして災難が終わった。
 フィッシャーは、こう報告した。「夏の初め、膨大な数の農民たちにはもう食糧がなかった。そして農民たちは、ヴォルガの至る所で、東のウラルまで、穀物に麦藁、雑草、樹皮を混ぜ始めた。
 食糧がなく自分たちの食べ物について見極めをつけた農民たちは、パニックを起こして、焦げ付いた土地から逃亡する、膨れ上がっている多数者の中に入り込んだ。」(90)
 飢饉は、総人口5710万の36地方の190地区を襲った。(91)
 クリミアとカザンを先に支配していたトルコ語を話すムスリムは、とくに厳しい被害に遭い、ある地域では人口の半分を失った。
 カザン自体は、絶望的になっている避難民で溢れた。
 水道供給と下水道の施設は壊れており、人間のぼろ屑と死体とが、街路に積み重ねられていた。
 遺棄された子どもたちが市内をさまよい歩き、病気が蔓延した。犯罪も、売春も行われた。(92)
 (11)アメリカや他の外国の救済組織の助けがあったために、飢饉による総被害者数は、それがなかったよりもまだ少なかった。
 飢餓や病気による飢饉関連死者数は、ソヴィエトと訪問中の外国の救済執務者によって種々に計算されている。
 見積もりは、150万人から1000万人にまで及ぶ。
 ソヴィエトの1922年の公式の数字は、500万人だった。(93)
 飢饉の規模はまた、死者率という観点からも叙述することができる。
 1913年の通常年と比較して、ペトログラード、モスクワおよびヴォルガのサラトフ市の1919年の死亡率は、2倍から3倍、高かった。
 1919年についての欧州ロシア全体の死亡率は1000分の39、ペトログラードとサハロフで約1000分の70だった。
 飢饉の地域全体での死亡率は、1920年が1000分の50-60、1921年が1000分の80、だった。(94)//
 (12)飢饉はソヴィエト体制の政策決定によってのみ悪化したのではなく、反応がきわめて政治的だったことにもよる。
 アメリカ救済委員会(ARA)はのちの大統領のH・フーヴァー(Herbert Hoover)の指揮のもとで1919年に設立され、戦後ヨーロッパの空腹の子どもたちに食料を提供した。
 ソヴィエトの場合、ARA は、食料は必要に応じて、社会主義的な階級範疇とは無関係に配分されるべきだ、と主張した。
 1921年に妥協が成立して、ヨーロッパに基盤を置く組織を含む外国の救済作業者は現地へと旅行することが許され、一方でソヴィエト当局が地理的な配分の権限をもつ、ということとなった。
 この協定が締結される直前に、ソヴィエトは自らの飢餓救済委員会(Committee for Aid to the Starving, Komitet pomoshchi golodaiushchim)を設立した。これはM・ゴールキを含む43人の著名人で構成されていたが、書類に署名がなされるやただちに、ゴールキを除く全員が逮捕された。(95)
 (13)外国による救済が、全体の姿を変えることはなかった。
 農民たちは結局のところ、軍隊の力によってのみならず、飢饉の絶望によって征圧された。(96)
 1917年8月に引き合いに出された、工業主義者のP・リャブシンスキ(Pavel Riabushinskii)の言葉である「飢えた骨ばった手」は、騒擾を抑圧するための究極的な武器だった。
 1921年飢饉は、ソヴィエト体制が自分たちの民衆との間にもつ人肉喰い主義的(cannibalistic)関係の初期の例だった。これは、スターリン時代に増大するという代償を払うこととなる。
 人口統計上および人的被害という観点から見てソヴィエト社会がどの程度大きい損失を被ったかは、顕著なものがある。その多くは自己による被害だが、一方ではイデオロギー的傾倒という強い気風も生み出した。
 内戦期に実践された包括的な対破壊行動は、スターリン時代の欺瞞的な反破壊活動へと成長した。そのときじつに、「民衆は、階級敵となった」。//
 (14)たがしかし、専門的で創造的な知識人階層の多くは、彼らをとり囲む恐怖があったにもかかわらず、新しい体制に賭けた。
 ある者たちは、とどまることを許されなかった。
 ソヴィエトの意図に批判的な200人以上の知識人たちは、あらかじめ1922年に国から排除された。その多数がペトログラードから乗るドイツ船舶は、「哲学者船」として知られるようになった。(97)
 未来主義者がこぞって乗り込む近代の船ではなく、失われた価値の航行船だった。
 多数の職業人と知識人が-一般庶民はもちろんのこと-、自分の意思で国外に脱出した。
 他の者たちは、離れたくなかったか、または何とかそうすることができなかった。
 とどまった者たちの中には、敵対的なまたは愛憎相半ばする感情の者もいた。
 E・ザミアチン(Evgenii Zamiatin)は、自分の原理的考え方と皮肉精神を維持した。スターリンは1931年に、国外に去るのを許した。
 マヤコフスキ(Mayakovsky)は、未来への偉大な跳躍のために金切り声をあげたが、絶望して、自殺した。
 にもかかわらず、無数の芸術家や文筆家たちが自分たちの才能を用いる機会を見つけ、ある者はソヴィエトの実験は創造的刺激を与えると感じた。
 自分たち自身の信条から芸術家や文筆家たちが追求した文化に関する原理をめぐって、イデオロギー上の戦いが行われた。
 他の者たちにとっては、ソヴィエトの実験とは、美学上および精神上の死刑判決だつた。
 多くの者が死に、あるいは殺戮された。それは、内戦が終焉して15年後に始まった狂乱の中で起きた。
 1930年代の犠牲者たちのある程度は、初期の抑圧に模範的な情熱を示しつつ協力していた者たちだった。//
 (15)期待に充ちた大きな昂揚感の中で1917年に始まったものの結末にもかかわらず、何か新しい展望、市民が-権利と権力をもつ責任とをもつ-市民であるような政治システムへの展望は、古い帝国の以前の臣民の多数の想像力を掴んだままだった。
 この夢は、1980代に復活したように見えた。そして、1991年にレーニンの国家主義的(statist)野望がその疲れ切ったイデオロギーの旅を終えた後では、新しい状況のもとで、少なからぬユーラシアと中東の諸社会が同様の希望を抱いた。
 しかし、より近年の世界は、我々にこう思い起こさせながら進展しているように見える。すなわち、民主主義の希望と民主主義の諸制度は、つねに何と脆弱(fragile)であることか。//
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 第5節②、終わり。第6部第2章(p.606-p.624)も終わり。あとに続くのは、<結語>(Conclusion)のみ(原書、p.625-p.632)。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
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 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
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 第5節②へとつづく。

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
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 第3節、終わり。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
 章の下位に「節」はないが、一行空けよりも明確に、各章の中に横線を挿入している箇所がある。その部分までを、便宜的に「節」と見なすこととする。
 一行ごとに改行する。段落の最後に//を付し、段落に原文にはない番号を頭書する。
 注番号は記すが、注記の内容そのものは、省略する。
 第6部・第2章は、<結語>直前の最終の章だ。
 章は省略して各部の表題(とp.の範囲)だけ記しておくと、以下のとおり。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。     **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。      **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。      **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第1節
 (1)赤色テロルが前提にしていたのは、つぎのことだ。すなわち、裏切りはつねに隠れている。体制による統制を免れるいかなる集団行動も、体制の存在に対する潜在的な脅威だ。全ての社会的主体は見かけ上のものではない。色を変更することができないグループまたは個人はどこにも存在しない。ゆえに、抑圧は前もってのみならず、専断的に行われなければならない。
 内戦時代を終わらせた1921年2月から3月の事態は、革命を出発させた民衆動員の力学を再びくり返したものだった。
 この事態によって、前線がないような戦争では安全な前線はない、ということが分かった。//
 (2)ペトログラードのプロレタリアート〔工業労働者〕とバルト艦隊は、ボルシェヴィキがもつ草の根の戦闘性の聖像(icon)だった。
 1917年2月、ペトログラードのストライキと街頭示威行動が、事態の懸崖を打ち破った。そこには、海兵と兵士の反乱も含まれていて、それらが、君主制の崩壊の原因となった。
 4年後の1921年2月、ストライキと抗議運動が、再び、ペトログラードを振動させた。
 首都は、モスクワに移っていた。レーニンが、ニコライに取って代わっていた。
 旧体制の終焉を歓迎しソヴェト権力から利益を得ようと期待していた大工業プラントの労働者たちは、今ではその指導者たちに反抗した。自分たちの名のもとで統治すると主張しているが、その政策は社会的経済的危機をもたらし、彼らの生存自体を脅かしている、として。
 工場地区での騒擾は、クロンシュタット要塞近くにいる海兵たちを、彼ら自身の抗議の声を上げるように喚起させた。
 1917年10月の熱心なボルシェヴィキ軍団が、今ではその憤激を、「共産党独裁」に対して向けた。//
 (3)クロンシュタットは、ペトログラードから約20マイル離れた、フィン湾の中の島だ。
 18世紀初頭にピョートル大帝が、彼の新首都の防衛のために要塞を構築した。
 島の東端に都市があり、その中央広場は、2万5000人の兵士たちが整列することのできる広さがあった。
 夏には、ペトログラードから船が着いた。11月遅くから3月初めまでは、湾が凍っていた。
 島は全体でおよそ5万の人口をもっており、半分は軍事関係者で、半分は民間人だった。(1)//
 (4)バルト艦隊の海兵たちはずっと、革命の最も急進的部分を代表してきた。
 彼らは1917年2月には、50人以上の自分たちの将校を半殺しにした。その中には4人の大将(admiral)も含まれていた。
 七月事件のときにはペトログラードにやって来て、動員されたペトログラードの労働者を支援し、ほとんどエスエル〔社会革命党〕の指導者のV・チェルノフ(Viktor Chernov)を殺害するところだった。
 メンシェヴィキのF・ダン(Fedor Dan)が回想するように、「あの記念すべき日々に、彼らは、自発的に射撃をし続け、かつほんの数名しか負傷させなかった」。(2)
 8月、将軍コルニロフに反対するよう世論に訴え、彼の逮捕と処刑を要求した。
 クロンシュタットの将校たちの多くもまた、コルニロフに反対した。しかし、うちの4名は、処刑の呼びかけを拒んだ。
 海兵たちは、この4人の身柄を拘束し、射殺した。(3)
 カデットのA・シンガレフ(Andrei Shingarev)とF・ココシキン(Fedor Kokoshkin)は、1918年2月、病院のベッドで、赤衛兵とクロンシュタット海兵たちによって殺害された。(4)
 彼らは、怒れば危険な男たちだった。//
 (5)1921年2月頃までには、元々いた海兵たちのある程度は、新補充兵に代わっていた。
 最近に加わった者たちはおそらくより熱心でなく、より職業的でなかったけれども、以前と同様に暴力を好む傾向と権威に対する敵意をもっていた。たぶん、いく分かは別の理由からだったが。(5)
 かつてボルシェヴィキの力の淵源だった者たちが、今では脅威だった。しかし、忠誠心をもつ前衛部隊だという神話は、放棄されていなかった。
 党は、クロンシュタットの反乱を白軍の反革命陰謀の傀儡だと非難した。-これは、ソヴィエトの時代を通じて、公式の解釈であり続けた。(6)
 十月以後の他の反乱の場合と同様に、反乱兵士には旧体制を復活させようとする意図は実際になかった。
 今度は、革命の名において、彼らは戦時共産主義と関連する諸政策に異議を唱えた。-強制労働、徴発、多数の者が食料について依存している小規模取引の抑圧、村落からの略奪。
 彼らは不平等の復活に憤激した。-食糧配給量は地位によって異なり、新体制の役人たちが特権を享受していた。
 「共産党(共産主義者)」を彼らが非難するとき、それは反動的白軍に取り憑かれたのが理由ではなかった。
 彼らはこのときにはボルシェヴィキを、かつて歓迎したのと同じ理由で、拒否したのであり、革命的でなくなったのが理由ではなかった。(7)//
 (6)ある者には、まるで1917年二月が再び「空中にある(in the air)」ように見えた。(8)
 1917年2月のように、抽象的な原理ではなく、飢えと貧困が、示威行進者を極端へと走らせた。
 1921年初めには、体制に対する民衆の抵抗が、ロシアの中核部全体に蔓延していた。
 都市部、すなわちボルシェヴィキを支持する中心部で、食糧が稀少になり、工場は燃料と原資材不足で閉鎖し、労働者は街頭へと出た。-飢餓が迫っていた。
 1月下旬、当局は食料配給量を削減した。(9) 
 ペトログラード連隊ですら、食糧が不足した。兵士たちは、飢えで気を失っていると言われた。
 ある者は、物乞いに出かけた。
 モスクワの兵士と労働者たちも、不安だった。彼らは、相次いで集会に集まった。(10)//
 (7)2月11日、体制は、ほとんど100のペトログラードの工場を近く閉鎖する、と発表した。その中には、プティロフ(Putilov)作業場、セストロレツク(Sestroretsk)武器工場、巨大なレンガ造りのTreugolnik 地区のような、急進派運動の温床だったところもあった。総計で2万7000人の労働者が、仕事を失うことになる。
 10日後のトルボシニュイ(Trubochnui)・プラントでの集会から、抗議運動が始まった。この集会は、非ボルシェヴィキ左翼反対派の標語である、純粋な民衆支配(<narodovlastie>)を支持することを宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、その集会を中止させた。
 工場から閉め出されることにより、労働者たちは賃金だけではなく、食料配給も失った。
 2月24日、街頭はトルボシニュイその他の工場から来た労働者で埋め尽くされ、ヴァシリェフスキ(Vasilevskii)島の工業地区では2万5000人に膨れ上がった。(11)//
 (8)ペトログラード当局は、緊急防衛委員会を設立し、戒厳令を敷いた。(12)
 2月27日、バルト艦隊の人民委員は、2万6000のクロンシュタットの海兵たちの中にある騒乱について報告した。(13)
 その翌日、運動は戦闘的なプティロフ作業場へと拡がった。従前の規模からすると影のようなものだが、なおも6000人の強さがあつた。
 抗議者たちは、工場からの共産主義者〔共産党・ボルシェヴィキ〕軍団の撤退、過剰人員の廃止、政治的権利の回復、を要求した。(14)//
 (9)こうした政治的要求は、メンシェヴィキと社会革命党の煽動活動家の影響を反映していたかもしれない。彼らは工場に、ビラを撒いてきていた。
 社会革命党〔エスエル〕は、反乱(revolt)を呼びかけていた。一方、メンシェヴィキは、忠誠心ある反対派のままだった。
 彼らは政策の変更を求めたのであり、この騒擾の時期が1917年の再演だとは考えていなかった。
 今では労働者は疲れ、組織から離れ、数自体が減っていた。
 彼らは、政治的理想ではなく、肉体的な生存を気にかけた。
 工場が燃料や原資材の不足で閉鎖される場合に、作業が止まるのは何ら脅威ではなかった。
 当局はある程度の譲歩を行い(特別の配給、糧食探しの許可、食糧没収の中止)、メンシェヴィキ中央委員会の委員を逮捕した。(15)
 3月3日頃までに、抗議運動は消滅した。//
 (10)F・ダンは、自分自身が逮捕された状況を思い出した。
 2月26日、抗議運動が始まったばかりのとき、彼はマリインスキ劇場へ行った。そこで、有名なバス歌手のF・シャリアピン(Feodor Chaliapin)がニコライ・リムスキ=コルサコフのオペラ<プスコフの娘>で歌うのを聴くためだった。
 つぎの細部が、語られている。
 ダンはそのようなときでも、劇場に関心があった。入場券はもう売られていなかった。だが、諸関係を通じて入手することができた。上演は早めに終わった。
 家に帰っているとき、夜の10時に、チェカの機関員に迎えられた。
 「シャリアピンが歌うのを楽しく聴くことのできる最後となった運命に感謝」したのだったが、ダンは、暗くて誰もいない街路を通って連れ去られた。(16)//
 (11)かつては帝制秘密警察のオフラーナ(Okhrana)が所在した建物、ダン自身が社会民主党の運動の初期だった25年前に拘禁された建物の中で、彼は服の上から調べられ、衣服を脱がされ、尋問を受けた。
 彼の捕獲者たちは冷酷な職業官ではなかったが、教育をほとんど受けていない者たちで、自分たちの新しい権力に誇りをもち、臆面もなく党のスローガンを捲し立てた。
 彼らは、ストライキをする者は社会主義の根本に対する裏切り者だと非難した。
 本当の労働者ならば、自発的に進んで前線へ行くか、または食糧旅団に加わるべきだ、と。
 あいつらは「くずで、利己主義者で、小商人で、戦争中に徴兵を免れようと工場へと逃げ込んだのだ」。(17)
 メンシェヴィキもまた、裏切り者だ。
 ダンは、このような、「プロレタリアートをくずと呼び、社会主義を海兵たちに押しつけてあてにする共産主義者(共産党員)たち」に、絶望した。//
 (12)一年の拘禁のあと、ダンは国から追放され、最終的にはニューヨークに落ち着いた。(18)
 1905年以降ずっと自分は革命の友人だと考えてきたシャリアピンは、1922年に自分の力でロシアを離れ、最後にパリで死んだ。//
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 第1節、終わり。


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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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