秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

O・ファイジズ

2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第六節
 (01) NEP に関する議論は、時間の問題へと帰着した。
 ソヴィエト同盟が NEP が許容している機構を通じて工業化するのに、どのくらい長くかかるのだろうか? NEP が許容するのは、農場への課税と市場販売による資本蓄積、工業のための価格固定、新しい機械類の輸入支払いのための穀物の輸出だ。
 資本主義諸国家との戦争の勃発前にソヴィエト同盟が必要とする防衛産業を確立するのは、間に合うのだろうか?//
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 (02) 時間の問題は、体制の農民層との関係にかかるより広範な論点に関係していた。
 市場機構がいったん破綻し、穀物不足が発生したなら、とくに戦争の危険があるときにこれが起きたなら、どうなるのだろうか?
 農民たちはもっと多く納税しなければならなくなり、工業への投資はもっと減るのだろうか?
 あるいは、食料徴発が復活し、農民層との同盟関係は危うくなるのだろうか?//
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 (03) ブハーリンは、党の主要な支援者として、調達価格を高めることに賛成した。たとえ、工業化が農民の荷車の速さで進むことになるとしても。
 彼は、1926年の状況を判断したうえで、工業は何とか戦前の水準を再達成することができる、そしてNEP のもとで順調に推移するだろう、と主張した。
 彼は、ソヴィエト連邦は外国の脅威にも国内の脅威にも直面していない、と確信していた(前者につき、外国貿易は資本主義諸国との関係を落ち着かせている、後者につき、「クラク」や「私的利得者」は協同組合の急成長によって阻まれている)。//
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 (04) 1927年に、ボルシェヴィキの意見をNEP に反対にさせる二つの事件が起きた。
 第一は、都市部への穀物供給が再び途絶えたことだった。
 収穫不足が、消費用品不足と同時に起きた。そして、工業製品の価格が上がるにつれて農民たちは穀物売却を減らした。
 その秋の国家による農民からの調達量は、前年の半分になった。
 第二の事件は、戦争勃発の危惧だった。
 プレスが、イギリスがソヴィエト同盟に対する「帝国主義戦争」をしかけようとしている、という虚偽の風聞を報道した。
 スターリンは、この報告を、統合反対派を攻撃するために利用し、その指導者のトロツキーとジノヴィエフを、深刻な危機にあるソヴィエト国家の団結を破壊しているとして非難した。
 これら二つの問題—「クラク」の穀物ストライキと資本主義国家との戦争の脅威—は、スターリンの見方の中では結びついていた。//
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 (05) トロツキーとジノヴィエフは、調達価格を上げることに反対した。
 この二人は、消費用品生産の増加のために必要な食糧備蓄を確保するために、食料徴発を一時的に復活させることに賛成した。
 そのことは、農民たちの穀物を売却する動機をより大きくするだろう。
 この点で、スターリンは、ブハーリンの側に立ち、トロツキーとジノヴィエフに対抗した。後者の二人は、1927年12月の第15回党大会で敗北した。
 しかし、スターリンはそのあとで、ブハーリンとNEP への反対に転じた。
 彼のマキアヴェリスト的戦術は、権力の追求に際してのイデオロギーの完全な無視を示している。//
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 (06) 内戦時の乱暴な言葉遣いに戻って、スターリンは、五ヶ年計画でソヴィエト同盟を工業化すべく、穀物を求める新しい闘いを呼びかけた。
 戦争の危惧を彼は利用し、そのことで、NEP の放棄を推進することができた。NEP は工業の軍事化の手段としてはあまりに遅すぎ、戦争事態の際の食料確保手段としてはあまりに不確実だ、という理由を付けて、だった。//
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 (07) スターリンの五ヶ年計画は、革命は外国と国内の「敵」との絶えざる「階級闘争」だとする急進的な見方にもとづいていた。
 彼は乱暴な言葉遣いでもって、資本主義経済の最後の残滓(小取引と農民による耕作)を根絶することを語った。彼によるとそれは、社会主義的工業化へと国が進むのを妨げている。
 1928-29年のブハーリンとの間の政治闘争で、彼はブハーリンは「危険な」考えを持っていると責め立てた。その考えは、階級闘争は次第に少なくなっていくだろう、「資本主義的要素」は社会主義経済と調和し得る、というものだと。
 スターリンは言う。このような想定は、敵に対するソヴィエト国家の防衛力を弱め、敵がシステムに浸入し、内部からそれを転覆させるのを許すことになる、と。
 スターリンは、大テロル(Great Terror)へと至る国家の暴力の連鎖を合理化する歪んだ論理を用いる先駆者だったが、反対方向で、ブルジョアジーの抵抗は国家が社会主義へと接近するにつれて増大し、その結果として、活力が絶えず強くなることが「搾取者の反抗を粉砕して根絶する」には必要だ、と理由づけた。//
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 (08) 内戦時の階級闘争の再開を求めるスターリンの呼びかけは、一般党員の広範な部分を魅了した。彼らの中には、NEP は革命の目標からの退却を示している、という感覚が大きくなっていた。
 工業の発展についてのスターリンの弁舌は、青年期にイコン(聖像)とゴキブリの農民世界から飛び出して、こうした貧困の遺産を破壊するものと革命を見た下級のボルシェヴィキ党員全てに対して、力強い訴えとなった。
 彼らのほとんどは内戦時に入党し、スターリンのおかげで昇進してきた。
 彼らは実際的な人間で、マルクス主義理論の多くを理解しておらず、ボルシェヴィキに対する忠誠心は、「プロレタリア」という彼らのidentity と緊密につながっていた。
 彼らにとって、五ヶ年計画に関するスターリンの単純な見通しと、後進性を克服して国を世界の偉大な工業大国にするための新しい革命的攻勢とは、同じことを意味した。//
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 (09) スターリンの戦闘的な言葉はまた、まだ若すぎて内戦を闘えなかったが、それに関する物語にもとづく「闘争崇拝」の中で教育されてきた若い共産党員たち—今世紀の最初の20年間に生まれた者たち—に対して、特別の魅力があった。
 あるボルシェヴィキ(1909年生まれ)は、自分たち世代の戦闘的な世界観は、「ブルジョア的専門家」、「NEPmen」、「クラク」その他の「ブルジョアジーの雇われ者たち」との「新たな階級戦争」の必要についてのスターリンの主張を受け入れる心の準備をしていた」、と回想記の中で述べた。
 若い共産党員たちは、NEP に苛立つようになっていた。
 あるスターリン主義者は、こう説明した。
 「私の世代の共産青年同盟員たち—10歳またはそれ以下で十月革命に遭遇した—は、運命を呪った。
 我々の意識が形成され、青年共産同盟に加入したとき、そして工場へと働きに行ったとき、我々は、我々にはすべきことが何も残されていないだろうことを知った。
 革命は過ぎ去っていたからだ。内戦期の真剣だがロマンティックな年月は戻って来ないだろうからだ。そして、歳上の世代の者たちは、闘争や興奮のない退屈で平凡な生活だけを我々に残してくれたからだ。」(注08)//
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 (10) ここに、スターリンの「上からの革命」、革命の第二世代の段階、の先頭に立とうとする熱狂者の集団があった。//
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 (11) スターリンは、内戦期の手段を復活させることで、穀物危機に対応した。
 食料徴発制は、一連の「非常措置」によって支えられた。—その中には、徴発軍団が穀物提出を控えていると疑うならば、その農民を誰でも逮捕して、財産を没収することを認める、悪名高い刑法典第107条もあった。
 「ウラル・シベリア方式」として知られるものは、数万の零落した農民農場を犠牲にしてでも比較的にうまく行った1928年の運動だったが、スターリンはこれによって、「クラクの穀物ストライキ」を破壊して五ヶ年計画が約束した工業革命に必要な食料を確保するために、より強制的な手段を押し進める気になった。
 「穀物を目ざす闘い」は、スターリンや彼の支持者たちを全力をあげた集団化へと向かわせていた。//
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 第六節、終わり。第9章全体も、終わり


 Figes-REv

2563/O.ファイジズ・NEP/新経済政策③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第五節
 (01) NEP は、革命が排除することを約束したがなしで済ますことがまだできない「ブルジョア文化」の残滓にとっての一時的猶予だった。
 NEP は、社会主義経済が必要とした専門的能力をもつ職業人階層—「ブルジョア専門家」、技術者、エンジニア、科学者—との闘いを、停止させた。
 それが意味したのはまた、宗教に対する闘いの緩和だった。教会はもう閉鎖されず、聖職者たちは従前のようには(あるいはのちのようには)迫害されなかった。
 啓蒙人民委員のLunacharsky のもとで、ボルシェヴィキは、寛大な文化政策をとった。
 今世紀の最初の20年間、ロシアの「白銀の時代」の芸術上のavan-garde は、30年代も流行し続け、多数の芸術家が、新しい人間とより精神的な世界を創造するという革命の約束から刺激を得ていた。//
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 (02) しかしながら、NEP は、ブルジョア的習慣と心性(〈byt〉と呼んだ)との闘いの中止を意味しなかった。 
 内戦の終焉とともに、ボルシェヴィキは、この文化戦線での長期の闘いを準備した。
 彼らは、革命の到達点は高次の—より共同的で、公共生活により活発に参加する—人間の創造だと考えた。そして、こうした人格を社会の個人主義から解放することに着手した。
 共産主義ユートピアは、こうした新しいソヴィエト人間(New Soviet Man)を設計すること(engineering)によって建設されるだろう。//
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 (03) ボルシェヴィキはマルクスから、意識は環境によって形成されると学んだ。
 そして、思考と行動の様式を変更する社会政策を定式化することから、この人間の設計という課題を開始した。//
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 (04) 家族は、彼らが最初に取り組んだ舞台だった。
 彼らは、「ブルジョア的家族」は社会的に有害だと見た。—宗教という砦、家父長的抑圧、「利己主義的な愛」は、ソヴィエト・ロシアが国家の託児所、洗濯場、食堂のある完全に社会主義のシステムへと発展するに伴い消滅するだろう。
 〈共産主義のABC〉(1919年)は、未来の社会を予見した。そこでは、大人たちは一緒に、彼らの共同社会の子どもたち全員の世話をするだろう。//
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 (05) ボルシェヴィキはまた、家族の絆を弱める政策も採用した。
 結婚を教会による統制から切り離し、離婚を単純な登録の問題に変えた。その結果として、世界で最高の離婚率となった。
 住居不足と闘うために、典型的には一家族一部屋で、一つの台所とトイレが共用の共同アパート(kommuki)を編制した。
 ボルシェヴィキは、人々を共同して生活させることで、人々はより集団的な性格になるだろう、と考えた。
 私的空間と私的財産はなくなるだろう。
 家庭生活は、共産主義的な友愛と組織に置き換えられるだろう。
 そして、個人は、相互の監視と共同社会の統制のもとに置かれるだろう。//
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 (06) 新しい様式の住居が、こうしたことを念頭に置いて、1920年代半ばに設計された。
 構築主義的な建築家は、「共同住宅」を設計した。それによると、衣類すらも含む全ての財産は住民が共同で使用するものになり、料理や子どもの世話のような家事は、交替制で諸チームに割り当てられ、全員が一つの大きな共同寝室で、男女で区別され、性行為のための私室が付くが、眠ることになる。
 この種の住居は、ほとんど建設されなかった。—あまりに野心的で、構築主義思考が短期間で政治的に受容されるには至らなかった。
 しかし、考え方自体は、ユートピア的想像やZamyatin の小説〈We〉(1920年)の中で、大きな位置を占めた。//
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 (07) 教育は、ボルシェヴィキにとって、社会主義社会の創成のための鍵だった。
 学校と共産主義青年同盟を通じて、彼らは、青年に新しい生活様式を教え込もうとした。
 ある理論家は、「柔らかい蝋のような子どもたちは可塑性が高く、優れた共産主義者になるはずだ。我々は家庭生活の邪悪な影響から子どもたちを守らなければならない」と宣言した。(注05)
 社会主義的諸価値の涵養は、ソヴィエトの学校のカリキュラムの指導原理だった。
 実際の活動を通じて子どもたちに科学と経済を教育することが、強調された。
 学校は、ソヴィエト国家の小宇宙として編制された。学習計画と成績は、図表や円グラフで壁に掲示された。
 生徒たちには、生徒評議会と「反ソヴィエトの考え方」の教師を監視する委員会を設置することが奨励された。
 学校の規則を破った子どもたちの学級「裁判」すらがあった。
 服従の意識を注入するために、いくつかの学校は、政治的な教練を導入した。それには、行進、合唱、ソヴィエト指導部に対する忠誠の誓約が伴っていた。//
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 (08) 子どもたちは、「革命家」の真似事をした。
 1920年代に最も人気のあった校庭遊びは、赤軍と白軍、ソヴィエトのカウボーイ・インディアンだった。それらでは、子どもたちが内戦の諸事件を演じ、特別に遊び用に売られていた空気銃がしばしば用いられた。
 もう一つは探索・徴発で、その遊びでは、一グループが徴発部隊の役を演じ、別のグループは穀物を隠す「クラク」として振る舞った。
 このような遊びが子どもたちに奨励したのは、世界をソヴィエト的に「仲間」と「敵」に分けること、正しい目的のために暴力を用いることを受容すること、だった。//
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 (09) 教育制度は、政治的には、活動家の生産と連動していた。
 子どもたちは、ソヴィエト・システムの実践と儀礼を教え込まれて、献身的な共産党員になるよう成長した。
 党は、とくに農村地帯での党員数拡大を必要とした。ボルシェヴィキ活動家の数が、人口に比してきわめて少なかったからだ。
 この世代—ソヴィエト・システムで初めて学校教育を受けた—は、党員の補充に適していた。//
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 (10) ソヴィエトの子どもたちは10歳で、1922年にボーイ・スカウト運動を範として設立された共産主義少年団(Pioneer)に加入した。そこで彼らは、「われわれ共産党の教条を断固として支持する」と誓約した。
 1925年までに5人に一人がこの組織に入り、その数は年々と増えていった。
 共産主義少年団員は頻繁に、行進、合唱、体操、スポーツを行なった。
 特別の制服(白シャツと赤いスカーフ)、団旗、旗、歌があり、それらによって団員は強い帰属意識をもった。
 この少年団から排除された者(「ブルジョア」出自が理由とされたのとほぼ同数いた)は、劣等感をもたされた。//
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 (11) 15歳で子どもたちは、少年団からコムソモール(共産青年同盟)へと進むことができた。
 全員が進んだのではなかった。
 1925年、共産青年同盟には100万の同盟員がいた。—15歳から23歳までの者全体の約4パーセントだった。 
 青年同盟に加入することは、共産党員としての経歴の第一歩だった。
 この組織は、熱狂者の予備軍として機能し、腐敗や悪用を非難する心づもりのあるスパイや情報提供者とともに、党の仕事を自発的に行なう者を提供した。
 この組織が強い魅力を持ったのは、まだ幼くて内戦で闘えなかったが、1920年代と1930年代の記憶で喚起された積極的行動礼賛の中で育った世代に対してだった。
 多数の者が、共産主義者であるからではなく、社会的活力を発散する場が他にないがゆえに、共産青年同盟に加入した。//
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 (12) Walter Benjamin は、1927年にモスクワを訪問して、こう書いた。
 「 ボルシェヴィズムは私的な生活を廃絶させた。
 官僚機構、政治活動家、プレスが力強くて、利害関心のための時間はほとんどこれらに集まっている。
 そのための空間も、他にはない。」(注06)
 人々は多くの面で、完璧に公共的生活を送ることを余儀なくされていた。
 革命は、公共的詮索から自由な「私的な生活」に対して寛容ではなかった。
 存在したのは党の政策ではない。人々が私的に行なう全てのことが「政治的」だった。—何を読んだり考えたりするかから、家庭の中で暴力的か否かに至るまでが。そして、これらは集団による譴責の対象となった。
 革命の究極的な狙いは、人々が相互監視と「反ソヴィエト行動」批判によって互いに管理し合う透明な社会を生み出すことだった。//
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 (13) 一定範囲の歴史家たちは、以下のことが達成された、と考えている。—1930年代までに、国家の公的文化の中で自分自身のidentity と価値観を喪失した「非リベラルなソヴィエト的主体」を生み出すこと。
 この解釈に従えば、ボルシェヴィキの公的な論議(discourse)によって定義された用語法から離れて個人が考えたり感じたりすることは、実際上不可能だった。また、異論を唱える全ての思考や感情は「自己の危機」と感じられる可能性が高く、強烈な個人による粛清が求められることになる。(注07)
 おそらくこれは、ある程度の人々に—学校やクラブで吹き込まれた若者、感受性の強い者たちや恐怖からこのようなことを信じた大人たちに—当てはまることで、このような人々はきっと少数派だった。
 現実には、人々は全く反対のことを主張することができた。—継続的な公共的詮索によって、自分の中に閉じ籠もり、自分自身のidentity を維持するためにソヴィエトへの順応の仮面をかぶって生きることを強いられた。
 彼らは、異なる二つの生活をすることを学んだ。
 一つは、革命の用語を口ずさみ、忠実なソヴィエト市民の一人として行動する。
 もう一つは、自分の家庭のprivacy の中で生きる。あるいは、自由に疑問を語ったり冗談を言ったりすることのできる、頭の中の内部的逃亡地で生きる。//
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 (14) ボルシェヴィキは、この隠された自由の領域を恐れた。
 彼らは、人々がその仮面の下で何を考えているかを知ることができなかった。
 彼ら自身の同志ですら、反ソヴィエト思想を隠している、ということがあり得た。
 ここで、粛清(purges)が始まった。—潜在的な敵の仮面を剥ぐというボルシェヴィキの必要から。
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 第五節まで、終わり。つづく。

2562/O.ファイジズ・NEP/新経済政策②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第三節
 (01) NEP に対する都市部の反対は、市場メカニズムがときに機能しなくなって—革命と内戦の数年後では必然的だった—、国営商店での食料不足をもたらしたために、大きくなった。
 問題の根源は、農民たちと取引ができる消費用品がなかったことだった。
 内戦によって、工業は甚大な被害を受けていた。
 農村では1922年と1923年は非常に豊作だったが、工業が回復するのは、農業よりも遅れた。
 結果として、下落した農産物価格と消費者用品の急速に上昇している価格の間の隔たりが大きくなった(トロツキーは「鋏状の危機」と名づけた)。
 製造物品の価格が上がるにつれて、農民層は、国営倉庫への穀物販売を減らした。
 国家による支払いを受ける調達率はきわめて低かったので、農民たちは、必要とする家庭用物品を入手することができなかった。—その一部は、彼らが小屋の仕事場で自分たちで作ることができた(鋤、綱、靴、ろうそく、石鹸、単純な木製家具)。
 農民たちは、安い価格で穀物を販売しないで、家畜の飼料にしたり、納屋に貯蔵したりした。あるいは、私的な商人や袋運び屋(bagmen)に売った。//
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 (02) 食料供給の途絶を阻止すべく、政府は、内戦時スタイルの徴発の手段をとり、生産性を高めるために工業コストを削減した。そして、「NEPmen」への労働者階級の怒りに応じて、30万の店舗と市場施設を閉鎖した。
 1924年4月までに、当面する危機は回避された。
 しかし、市場の崩壊は、NEP にとっての潜在的問題のままだった。//
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 (03) この問題への対応の仕方について、ボルシェヴィキ内は分かれた。
 党の左翼たちは、農業価格を低いままにし続け、工業生産を増加させる必要があれば実力でもって穀物を奪うことを支持した。
 他方で党の右翼たちは、工業化のための資本蓄積の進度を遅らせても、国家と農民層の関係の基盤である〈smychka〉(労働者)と市場機構を守るために、調達価格を上げよと主張した。//
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 (04) 両派は、NEP の国際的背景に関しても一致しなかった。
 ボルシェヴィキが権力を奪取したときには、革命はすみやかに多くの先進工業国に拡大するだろうと想定されていた。
 彼らは、社会主義はロシアだけでは維持できない、なぜなら、「帝国主義」国家に対して防衛するに必要な産業をもたないからだ、と見ていた。
 1923年の末までに、革命がヨーロッパに拡大しそうにないことは明らかになった。
 戦後すぐの不安定期は過ぎていた。
 イタリアでは、秩序回復のためにファシストが権力を握っていた。
 ドイツでは、共産党が支援したストライキは、より大きな反乱へと発展することができなかった。
 スターリンは、即時の目標としての革命の輸出という考えを捨て去って、「一国社会主義」の政策を進めた。
 これは、党の革命戦略の劇的な転換だった。
 一般に想定されていたように工業国家からの支援が来るの待つのではなく、ソヴィエト同盟は今や、自己充足をし、自分の経済から抽出した資本でもって自らを防衛しなければならないだろう。
 西側から輸入する道具や機械の対価を支払うために、穀物や原料を輸出しなければならないだろう。
 ブハーリンが構想したこの考え方は、1926年に党の政策として採用された。
 しかし、左翼反対派は、マルクス主義イデオロギーからの根本的離脱だと批判した。マルクス主義は、世界から孤立した単一国家での社会主義建設を排除している、と。//
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 第四節
 (01) NEP は、国家と社会主義化した部門が私的部門と競い合う混合経済を許容した。 
 NEP のもとでの社会主義経済は、農民たちが集団農場や農業協同組合に加入するよう促す、国家による規制、財政措置、農学上の援助によって生まれることになる。//
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 (02) レーニンは、協同組合の役割を最も重要視した。
 彼は、協同組合がロシアのような農民国家での社会主義社会の建設の鍵だと考えた。協同組合は社会主義的配分と農民との交換のための「最も単純で、容易で、最も受容されやすい」様態だ、というのがその理由だった。
 国家に支援されて、協同組合は農民たちに、彼らの生産物と消費用品との間の交換比率の保障を提供することができた。
 道具を購入する際の信用を提供することができた。あるいは、肥料、灌漑で、または土地保有を合理化して共同体の狭い帯状区画の問題を解決する農学上の援助をして、彼らの土地を改良するのを助けることができた。
 協同組合は、こうして、農民たちを私的取引者から引き離し、国家が耕作実務に影響を与え得る社会主義部門へと統合するものと考えられていた。
 農場の半分が1927年までに農業協同組合に帰属したのは、NEP がうまく行った尺度となった。
 結果として、生産性の着実な上昇が見られた。農業生産の1913年時点での高さは、1926年に再び達成された。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント大きかった。いわゆるロシア農業の「黄金時代」だった。//
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 (03) レーニンが意図していたようにNEP が継続していれば、第三世界での社会主義的発展の例として役立ったかもしれなかった。
 ソヴィエト経済は、活気ある農業部門を基礎にして、1921年と1928年の間に急成長した。
 工業も順調で、1930年代よりも高い成長率だった、と主張されている。
 NEP が継続していれば、1928年以降のスターリンの経済政策の実際の結果よりも、はるかに強力に1941年のナツィの侵攻に対抗できていただろう。
 そうならずに、NEP は、ソヴィエト農業を永遠に損傷させ、数百万の農民の生命を奪った大量集団化によって覆された。//
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 (04) NEP はつねに、農業の集団化計画を伴うものだった。
 ボルシェヴィキはイデオロギー的に、全ての土地が共同で耕作され、生産が機械化され、国家がこれらの農場との固定契約でもって食料供給を保障することのできる、そのような大規模の集団農場(コルホーズ、kolkhozes)へと共同体を変革させるという長期目標を有していた。
 しかし、これは漸次的で自発的な過程であり、その過程で農民たちは国家による財政的、農学的援助を通じて集団農場へと奨励されるものとされていた。
 1927年の後で、徴税政策によって大きな圧力が加えられた。
 しかし、集団農場に加入するよう全ての農民を強制することに関しては、何の疑問もなかった。
 実際に、強制的実力は必要でなかった。
 農民たちは何はともあれ、TOZ として知られる小規模農場に執着していた。そこでは、耕作は共同で行われるが、家畜と道具は私有財産のままだった。 
 TOZ の数は、1927年の6000から1929年には3万5000へと増加した。
 もっと長い期間があれば、NEP の範囲内での重要な集団農場部門になっていたことだろう。
 協同組合からの農学上の助けを得て、最強の農民たち—「クラクたち」—が担う効率的な近代的農場になっていただろう。
 しかし、スターリンはこのいずれも、そうさせなかった。
  彼は、全ての土地、用具と家畜が集団化されたもっと大規模の集団農場を望み、それに農民たちが加入するよう強いた。
 結果は、national な大厄災だった。//
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 第四節まで、終わり。第五節以降へつづく。

2561/O. ファイジズ・NEP/新経済政策①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?①
 第一節
 (01) 市場の復活は、ソヴィエト経済に生命を吹き込んだ。
 私的取引は、7年間以上の革命と内戦が生んでいだ慢性的な不足に、すぐに反応した。
 1921年までは、誰もがつぎあての衣服と靴で生活し、壊れた台所用具で料理をしていた。
 人々は、小部屋と間仕切りを作った。
 小さく汚い市場が流行した。
 農民たちは、町の市場で食用品を売った。 
 田園地方を往復する「袋かつぎ屋」が大量の現象になった。
 私的なカフェ、店舗、レストラン、そして小規模の製造業者すらが、新しい法律によるライセンスを得て、雨後の筍のように出現した。
 外国の観察者は、この変化に驚いた。
 モスクワやペテログラード、内戦中に死んでいた諸都市は、再び生気を取り戻し、騒がしい商売人、忙しいタクシー運転者、華やかな店舗の看板が、1917年以前にそうだったように、街路を活性化した。
 「NEP はモスクワを巨大な市場に変えた」と、アメリカのアナキストのEmma Goldman は1924年に書いた。
 「一晩で小売店や雑貨店が生まれ、不思議なことに、数年間はロシアで見ることのなかった美品が積み重ねられた。
 大量のバター、チーズ、肉が、販売用に陳列された。
 塗り粉、珍しい果物、そしてあらゆる種類の甘菓子を、買うことができた。…
 男性、女性、子どもたちが、やつれた顔をして飢えた眼で、窓から覗き込み、大きな奇跡だと話した。
 昨日は極悪非道の犯罪だと考えられたものが、今は公然たる合法的な形態で、彼らの前に展示されていた。」(注01)//
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 (02) 空腹の人々はどうやって、そのような商品を買うことができたのか?
 私的取引の復活は、多くのボルシェヴィキにとって、革命への裏切りだった。
 それは富んだ者と貧しい者の格差の拡大につながるように思えた。
 あるボルシェヴィキはこう思い出した。
 「我々若い共産主義者はみな、金銭はただちにかつ永遠に捨て去られる、と信じて育ってきた。
 金銭が再び現れているのなら、金持ちの人間もまた再出現するのではないか?
 我々は、資本主義へと後戻りする滑りやすい斜面にいるのではないか?
 我々は、不安の感情をもって、こう自問した。」(注02)
 彼らの懸念は、NEP の最初の数年での失業者の増加によって強くなった。
 解雇された労働者は最低限度の生活をしていた一方で、彼らの推定では、農民たちは豊かになっていた。
 Goldman はある赤軍兵士がこう言うのを聞いた。「こうなるために、我々は革命を起こしたのか?」(注03)
 労働者たちのあいだには、NEP は農民層のために階級利益を犠牲にしている、NEP は「クラク(富農)」が復活するのを認めるだろう、クラクとともに資本主義システムも復活するだろう、という感情が大きく広がっていた。
 数万人のボルシェヴィキ労働者たちが、NEP を嫌悪して、彼らの党員証を引きちぎった。彼らは、NEP を「プロレタリアートの新しい搾取」(New Exploitation of the Proletariat)と名付けた。//
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 (03) この庶民的な怒りの多くは、「ネップマンたち」(NEPmen)に向けられた。私的取引の復活によって成長した事業者の新しい階級だ。
 ソヴィエトのプロパガンダや時事漫画が形成した一般民衆の想像では、
「NEPmen」は彼らの妻や愛人たちをダイアや毛皮で着飾らせ、大きな輸入車を運転し、高価なホテル・バーで金運を大声で自慢した。その金運は、新しく開催された競馬やカジノで使ったものだった。
 このような〈nouveaux riches〉(新富裕層)の伝説的な出費は、都市部の貧困の背景にあったもので、革命は不平等で終わると考えた者たちのあいだに苦々しい忿懣を生んだ。//
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 第二節
 (01) レーニンにとって、NEP は、国を立て直すための市場への暫定的譲歩以上のものだった
 大部分は彼自身の党による1917年のクー・デタの結果として、「ブルジョア革命」が完遂されていない農民ロシアでの社会主義の役割を再定義する、そのような努力が間違って定式化されたとすれば、NEP は過激だった。
 レーニンは第10回党大会で、「発展した資本主義諸国で」のみ、「社会主義への即時の移行」は可能だ、と言った。
 ソヴィエト・ロシアはかくして、「ブルジョアの手を借りて共産主義を建設する」という任務に直面していた。これがボルシェヴィキに意味したのは、農民たちに市場を通じて富を生み出させる、ということだった。//
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 (02) レーニンは、革命がそれにかかっている、〈smychka〉-労働者-と農民の同盟関係を救うための、農民層への必要な譲歩だと、NEP を見ていた。
 この同盟は、工場で製造された商品と食料の交換を基礎にして築かれるだろう。
 NEP は、農民たちに20パーセントの現物税を支払った後で余剰を自由に販売することを許すことによって、彼らの市場販売を刺激して奨励することを意図していた。
 これは都市部に食料を供給し、徴税を通じて、農民たちが穀物の代わりに求めている基本的な生活用品の製造に対する国家投資を増加させるだろう。
 この取引と食料輸出への課税によって、国家は、工業化するために必要な道具や機械を輸入する費用を調達できるだろう。//
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 (03) NEP は、戦略的な退却として提示された。
 レーニンは1921年に、多くの懐疑者に対して、「我々は、のちに二歩前進するために、一歩後退している」と保証した。
 しかし、あとどのくらい長く続くのかは。不明瞭だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、「10年程度またはたぶんそれ以上」と語った。—NEP は、民衆の反乱から革命を守るための「政治的策略の一方法としてではなく」、「真摯に」、「全体的な歴史の画期のために」採用された、とされていた。(注04)
 レーニンは、混合経済を通じて社会主義へと前進するための、長い期間の政策綱領だと、NEP を見ていた。
 資本主義への回帰を許すかもしれないとの危惧に対応して、彼は、国家が「経済の管制高地(例えば、鉄鋼、石炭、鉄道)を掌握しているあいだは、消費者の需要を充たす小規模の私的な農業、取引、手工芸品を許容しても危険はない」と主張した。//
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 (04) 内戦から出現した党にとって、これは、内戦が目指したものとは急進的に異なる革命の見方だった。
 戦時共産主義は、私的取引の兆候の全てを根絶することで、すみやかに共産主義に到達する、と約束していた。
 ロシアのような後進的な農民国家では、ボルシェヴィキが先進的な産業諸国家との間隙を埋める方策として、国家による強制—民衆の労働部隊加入への強要—に手を伸ばすのは簡単だった。
 しかし、NEP は、革命の目標地点まで—ブハーリンが述べたように「農民の荷車で」—ゆっくりと進むことを意味した。
 NEP の緩慢な速さは、深刻な関心を生み出した。
 革命が前進する勢いを全て失ったなら、いったいどうなるのだ?
 鈍化して、無気力が入り込むのを許したなら?
 まだ支配的で一般党員を誘い込む怖れのある、旧社会のブルジョア的習慣と心性に屈服させるのではないか?
 革命の基盤が、内部の敵—「クラク」とプチ資本家—によって、彼らが私的取引で富裕になるとき、掘り崩されるのではないか?
 資本主義諸国との戦争が勃発するとしたなら、国は自衛するに十分に早く工業化するのだろうか?//
 ——
 第一節・第二節、終わり。第三節以下に、つづく。

2559/O.ファイジズ・スターリンによる継承②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第8章の試訳の続き。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
 第二節。
 (01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
 遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
 三人組は、そのように取り計らった。
 トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
 彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
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 (02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
 10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
 1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
 だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
 彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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 (03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
 前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
 トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
 党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
 自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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 (04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
 総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
 いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
 トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
 左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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 (05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
 スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
 トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
 レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
 実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
 その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
 トロツキーは、抵抗することができなかった。
 敗北した人間として、党大会を去った。//
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 (06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
 彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
 彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
 このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
 二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
 分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
 しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
 Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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 (07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
 正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
 レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
 彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
 スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
 しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
 スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
 ——
 第三節
 (01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
 レーニン記念碑が、至るところに建立された。
 指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
 レーニンは人間として死に、神として生まれた。
 レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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 (02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
 「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
 三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
 このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
 レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
 その思想は、しばしば矛盾していた。
 聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
 スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
 しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
 党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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 (03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
 しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
 レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
 レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
 一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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 (04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
 脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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 (05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
 スターリンは権力を握っていただろうか?
 革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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 (06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
 党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
 レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
 政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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 (07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
 レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
 彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
 1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
 レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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 (08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
 レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
 NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
 さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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 第8章、終わり。

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
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 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
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 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
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 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
 ----
 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
 ----
 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
 ----
 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
 ——
 第8章第一節、終わり。

2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
 ——
 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
 ----
 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
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 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
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 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
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 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
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 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
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 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
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 第7章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
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 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
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 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
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 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
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 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
 ——
 第五節以下へ、つづく。

2539/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづきで、最終回。公刊邦訳書は、存在しない。
 —— 
 第20章・判決(Judgement)
 第二節②
 (08) ソヴィエト国家の創設者をどう取り扱うべきかに関する合意は、もはや得ることができなかった。
 Yeltsin とロシア正教会は、レーニンの聖廟を閉鎖して彼自身が望んだようにレーニンの遺体をSt. Petersburug のVolkov 墓地の母親の隣に埋葬しようとの呼びかけを支持した。
 しかし、共産党員たちは団結して、これに反対することを明瞭にした。それで、この問題は解決されないままになった。
 Putin は、レーニンを聖廟から移すことに反対だと言い、ソヴィエト国歌についての彼の考え方と同様の理由で、レーニンを聖廟から取り去ることは、ソヴィエト支配の70年のあいだ間違った理想を抱いていたと示唆することになって古い世代の者たちを傷つけるだろう、と言った。//
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 (09) Putin は、彼の体制の最初から、ソヴィエトの歴史における誇りを回復しようと意図した。
 ロシアを大国の一つとして再建設することは、彼の課題(agenda)の重要な一部だった。
 Putin の新政策は、とくにソヴィエト同盟への郷愁(nostalgia)に訴えるときに、人気を博した。
 ソヴィエト連邦の崩壊は、ほとんどのロシア人にとっては屈辱だった。
 数ヶ月のうちに、彼らは全てを失った。全て—安全と社会的保証を与えてくれた経済制度、超大国たる地位をもつ帝国、一つのイデオロギー、学校で教えられたソヴィエト的歴史の見方が形成したナショナルな一体性。
 ロシア人は、グラスノスチの時期に自分たちの国の歴史が泥を塗られたことに憤慨していた。
 彼らには、スターリン時代の自分たちの親族に関する諸問題を問うのを強いられたことが、不愉快だった。
 彼らは、自分たちの歴史がいかに「悪い」ものだったかを語る講釈を聞きたくなかった。
 Putin は、1917年以降の偉業を達成した「大国」の一つだとロシアを再び自己主張することによって、ロシア人がロシア人としてもう一度快い気持ちになることを助けた。//
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 (10) Putin の新政策は学校から始まった。ソヴィエト時代について否定的すぎると見られた教科書は、教育省の同意のもとで拒否され、実質的に教室から排除された。
 2007年、Putin は、歴史の教師たちの会合で、こう語った。
 「我々の歴史にあるいくつかの問題がある部分について言えば、そのとおり、存在した。
 しかし、どの国がそのような問題を持っていないのか?
 我々には、いくつかの他の国に比べて、問題は少なかった。
 我々にあった問題は、他のいくつかの国のようにはおぞましいものではなかった。
 そのとおり、我々にはおぞましい問題があった。1937年に始まった事態を思い出そう、それについて忘れないようにしよう。
 しかし、他の諸国も同様であって、より多くすらあった。
 いずれにせよ、我々は、アメリカ人がヴェトナムで行ったような、数千キロメートル以上にわたって化学薬品を撒いたり、小さな国に第二次大戦全体よりも7倍以上多い爆弾を落としたりすることをしなかった。
 また、ナツィズムのような、その他の暗黒の部分もなかった。
 この種の出来事は、全ての国家の歴史で起きている。
 そして、自分たちが罪を背負わされることを、我々は認めることができない。…」(後注5)
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 (11) Putin はスターリンの罪責を否定しなかった。
 しかし彼は、その点に思いとどまり続けることなく、国の「栄光のソヴィエトの過去」の達成者としてのスターリンの功績とそれのあいだの均衡を考える必要を語った。
 大統領から作成が委ねられ、ロシアの学校で圧倒的に奨励された歴史教育者用の手引書では、スターリンは、「国の近代化を確実にするためにテロル運動の指揮を理性的に行った、有能な管理者(effective manager)」だったと描かれた。(後注6)//
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 (12) 世論調査が示しているのは、ロシア人は革命的暴力に対して当惑させる考え方をもっている、ということだ。
 三都市(St. Petersburg, Kazan, Ulyanovsk)で2007年に実施された調査によると、住民の71パーセントは、チェカの創設者のDzerzhinsky は「公共の秩序と市民生活を守った」と考えていた。
 僅か7パーセントだけが、Dzerzhinsky を「犯罪者で、処刑者だ」と見なしていた。
 その調査が示すさらに当惑させることは、ほとんど全員がスターリンのもとでの大量弾圧について十分によく知っていながら—「1000万人から3000万人までの犠牲者」が被害を受けたとほとんどの者が知っていながら—、回答者の三分の二が、スターリンは国にとって積極的な役割をもった(positiv)と考えていることだった。
 多くの者が、スターリンのもとでの人々は「より優しくて思いやりがあった」とすら考えていた。(後注7)
 数百万人が殺害されたと知っていてすら、ロシア人は、大量の国家的暴力は革命という目標を目指すためには正当化され得る、というボルシェヴィキ思想を、受容し続けているように見える。
 別の調査によると、ロシア国民の42パーセントは「スターリンのような指導者」が再登場するのを望んでいる。(後注8) //
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 (13) 2011年の秋、数百万のロシア人が〈The Court of Time (Sud Vremeni)〉というテレビ番組を観た。そこでは、ロシアの歴史上の多様な人物や事件について、弁護人、証人および陪審員のいる模擬裁判によって判決が下された。陪審員は、電話で投票して評決に達した視聴者たちだった。
 これが下した諸判決は、ロシア人の考え方の変化について大きな希望を与えるものではない。
 農民に対するスターリンの戦争や農業集団化の影響の大惨害に関する証拠が提示されても、視聴者の78パーセントは、集団化はソヴィエトの工業化のために正当化される(「恐ろしい必要」だった)となおも考えており、僅か22パーセントだけがそれは「犯罪」だったと見なした。
 ヒトラー・スターリン協定〔1939年の独ソ不可侵条約—試訳者〕については、91パーセントが必要だったと考えた。僅か9パーセントだけは、それは第二次大戦の勃発に寄与した一要因だったと見なした。
 同じ投票数は、Brezhnev 時代についても記録された。91パーセントが「種々の可能性があったとき」だったと考えた。
 ソヴィエト同盟の瓦解についても、91パーセントが「national な大惨事」という評決に賛成した。//
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 (14) ロシア人が共産主義体制の社会的悪夢と病理から治癒されるには、数十年を要するだろう。
 革命は、政治的には死んでいるかもしれない。しかし革命は、100年の暴力的な一巡りで掃き集められた人々の精神性(mentalities)に余生を見出している。//
 ——
 第二節、終わり。第20章も、終わり。

2538/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 —— 
 第20章・判決(Judgement)。
 第二節①。
 (01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
 以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
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 (02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
 抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
 ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
 彼は、この機会を掴まなかった。
 そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
 KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
 そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
 しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
 ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
 革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
 南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
 しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
 多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
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 (03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
 しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
 彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
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 (04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
 西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
 ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
 しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
 1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
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 (05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
 彼らは、道徳的空虚を感じた。
 ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
 正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
 正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
 別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
 1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
 国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
 君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
 二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
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 (06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
 ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
 しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
 ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
 しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
 この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
 Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
 彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
 彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
 民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
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 (07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
 Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
 しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
 Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
 その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
 しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
 2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
 人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
 ——
 第二節②へと、つづく。
 

2537/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
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 第20章・判決(Judgement)。
 第一節②。
 (09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
 しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
 ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
 民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。) 
 Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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 (10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
 独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
 実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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 (11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
 おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
 東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
 これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
 彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
 しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
 革命は、ロシアの土壌から成長した。
 数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
 「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
 この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
 Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
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 第一節、終わり。

2536/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章はこの書全体の最終章で、「判決」(Judgemenrt)との表題のもとでソヴィエト連邦の歴史全体についての何らかの判断、評価、論評が書かれているのかとも、予想した。
 だが、そうではなく、主としては1991年崩壊後の(旧ソ連全体についてではなく)ロシアについて、人物としてはYeltsin やPutin らについて、書かれているようだ(当然に判断、評価、論評を含む)。
 この欄での表題を「ソ連崩壊のあと」に変えて、試訳を続ける。
 ロシアの民衆の多数が「社会主義・共産主義」またはソ連共産党支配を拒否したためにソ連が崩壊・解体したわけではない(O・ファイジズによると)、という指摘等は、今日のロシアやプーティン(Putin)について考えるにあたっても興味深い。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」(1997年、〈日本会議〉設立宣言)という宣明は、とくにロシア国民にとっては、どこか的はずれで幼稚だと、改めて思いもする。
 ——
 第20章・判決(Judgement)
 第一節①。
 (01) Yeltsin によるソ連共産党(CPSU)の禁止を、共産党員は争った。
 この事件は、新設されたロシア憲法裁判所の法廷によって1992年7月から審理され、五ヶ月間テレビで放映された。
 これは「ロシアのニュルンベルク」だと喧伝され、共産党に対する政治裁判と同然になったけれども、1945年のナツィス裁判とは違って、犯罪行為を追及される被告人はいなかった。8月の蜂起〔クー〕の指導者たちですら被告人ではなく、彼らは刑務所からすみやかに釈放され、恩赦を受けていた。//
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 (02) Gorbachev は、証人として出廷するのを拒んだ。見せ物裁判で全ての罪責を負わされる(made scaprgoat)のを恐れたのだ。
 彼は、ニュルンベルク裁判との対比を否定した。のちに、〈回想録〉でこう書いた。
 ニュルンベルクでは、「特定の者たちが特定の残虐行為を行ったとして裁かれた。
 しかし、本当に犯罪者として有罪であるソ連共産党の指導者たちはすでに死亡しており、歴史だけが彼らに対して判決を下すことができる。」(後注1)
 だとすれば、これはいかなる性格の裁判なのか?//
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 (03) Yeltsin の法的チームは、ソ連共産党は正当(proper)な政党ではなく犯罪組織だったと主張すべく、60人以上の専門家の宣誓証言に支えられて、十月革命の歴史の全体に及ぶ36巻の文書資料を作成した。
 スターリンのテロルの犠牲者の一人だったLav Razgon は、収容所で死亡した人々の数の正確な計算を嘆願した。
 他の者たちは、スターリン後の時代の反対派や僧職者を追及すべく証言した。
 共産党員たちは、党の歴史について自分たちの見方を述べ、ソヴィエトの工業化の達成、1945年の勝利、スプートニク宇宙計画を強調した。//
 ----
 (04) 法廷は、ソヴィエトの歴史について判断する権能を自分たちは有しないと声明し、妥協的な評決に達した。Yeltsin によるソ連共産党の禁止を肯認し、一方で共産党員がロシアで党を再建することを許容した。
 ロシア連邦共産党は、法廷での審理直後の1992年11月30日に設立された。
 1993年3月までに、ロシア連邦共産党は、50万人以上の登録党員をもち、ロシアの新しい「民主政」のもとで他をはるかに凌ぐ最大の政党になった。//
 ----
 (05) 党の歴史に関して、いかなる判決を下すことができたのか?
 党の「犯罪」の記録について、いったい誰が評決を下す法的または道徳的な権利を有したのか? 
 ニュルンベルクでは、罰せられるべき明らかな戦争犯罪があり、国際法のもとで裁判権をもつ軍事的勝利者がいた。
 しかし、以前のソヴィエト同盟を裁く司法権をもつ解放勢力は存在しなかった。
 憲法裁判所は、そのような高度の権能を担える立場にはなかった。
 13名の裁判官のうち12名は、かつては共産党員だった。
 彼らは誰に対して判決を下すことができたのか?
 新しいロシア憲法は、ようやく1993年2月に採択された。このことは、党にその政策を実施するほとんど無審査の権力を付与していたBrezhnev の憲法に従って、彼らは法的決定を下す必要があることを意味した。//
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 (06) いったい誰に、判決が下されなければならなかったのか?
 Gorbachev にか?
 党指導部にか? KGB にか?
 あるいは、ソヴィエト・システムを動かしてきた数百万の幹部党員、警察官、監視兵たちにか?
 Yeltsin は大統領布告で、個々の共産党員が党の犯罪について責任を取らされてはならない、と述べた(彼は疑いなく、1976年と1985年のあいだはSverdlovsk の共産党の長だった自分の経歴について、多くを回答できたはずだった)。
 裁判途中にあったテレビ・インタビューで、この穏健な考え方の意味がつぎのように明らかにされた。
 「おそらく我々は、1917年以降初めて、言ってみれば、復讐という過程を開始しなかった。
 そうするのをロシアが抑制した、ということが重要だ。分かるだろう。」(後注2)//
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 (07) 法廷もまた、妥協案に達したとき、ナショナルな統合と和解の必要を考えていた。
 座長が事情聴取の開始に際して述べたように、「当事者が法廷のどちらの側に座っていようとも、白軍と赤軍が行ったように互いに破壊し合うのではなく、のちには一緒に生きていかなければならない」のだった。(後注3)//
 ----
 (08) こうした宥和的な姿勢の結果として、ソヴィエト体制による人権侵害について、誰に対しても正義(justice)が行われなかった。
 従前のKGB やロシアの共産党の官僚に対しては、いかなる訴追も行われなかった。これは、以前のソヴィエト連邦のその他の諸国、とくにエストニアやラトヴィアと異なっていた。これら諸国では、1940年代に大量の逮捕やバルト諸国からソヴィエトの収容所への強制移送を実行した元NKVD職員に対して、明確な意思をもつ審判が行われた。
 東ヨーロッパやバルト諸国にあったような、犯罪に加担した者たちを暴き、上級官職から排除する、浄化(lustration)の法制も政策もロシアにはなかった。//
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 第一節②へと、つづく。

2535/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第六節。
 (01) ソヴィエト同盟の崩壊は、完全な革命ではなかった。
 Gorbachev の改革によって社会は活性化し、政治化したけれども、ソヴェト体制が瓦解したのは、Gorbachev の改革努力によってではなかった。
 かりに今後に歴史が何かを明らかにするとすれば、ロシアにおける長年にわたる民主主義の弱さだ。—民衆が現実的な変化を達成することができないこと。//
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 (02) Gorbachev は自分の挫折を導いた諸事態の鍵となる登場人物だった。
 改革を通じてソヴィエト同盟を救おうとする元来の計画から判断すると、彼は失敗する運命にあったに違いない。
 しかし、彼の意図は自分の見解が進展するにつれて変化し、この期間に多数のことを達成したと評価されるべきだ。とりわけ、ロシアに民主主義の基礎を築いたこと、ソヴィエトの支配からnationsを解放したこと、冷戦を終結させたことで。
 おそらく彼の主要な功績は、ボルシェヴィキが平和的に権力を放棄する舵取りをしたことだ。ボルシェヴィキの権力は、ほとんど4分の3世紀のあいだ、テロルと強制力に依拠していた。
 Gorbachev は、内戦や大きな暴力なくして、ボルシェヴィキの独裁を廃止することができた。これは容易ならない可能性しかなかったことで、これゆえにこそ、彼は現代史上の偉大な人物の一人だという、西側での彼の評価と地位に値する。
 出発したとき、革命を終わらせることは、彼の意図ではなかった。
 Gorbachev は、レーニン主義者として、ソヴィエト・システムを改革することで社会主義を建設するのは可能だと信じていた。
 彼は後年には、共産主義から民主政への行路を指揮するのがつねに自分の計画だという、異なる考えを抱くことになった。
 しかし、真実を言えば、彼は政治上のコロンブスだった。約束された土地を見出すべく出発したが、別の異なる土地を発見したのだ。//
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 (03) 成功した革命かに関しては、政治的エリートを交替させたかが本当の検査対象になる。
 大まかには、これは東欧の諸革命が実現したことだった。
 しかし、ロシアでは、1991年の事件の結果として多くの変化があったのではなかった。
 Yeltsin 政権は、共産主義体制の権力悪用に加担したり高位の職にとどまり続けたりした役人たちを暴いた東ヨーロッパの多くと比べると、浄化するための法制を何ら作らなかった。
 政治家や成功した事業家の大部分は、Yeltsin のロシアでは、ソヴィエト・ノメンクラトゥーラ(nomenklatura)(党指導者、議会議員、工場管理者、等々)の一部だった。 
 Yeltsin の大統領府の4分の3の職、ロシア政府のほとんど4分の3の職が、1999年時点での従前のノメンクラトゥーラ構成員でもって占められていた。
 地域政府では、その割合は80パーセントを超えた。半分以上が、Brezhnev のもとでのノメンクラトゥーラの一員だった。//
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 (04) 1990年代のビジネス・エリートたちも、以前のソヴィエトや党の官僚の出身だった。
 Gorbachev 時代の法的混乱によって、彼らは国有資産を私的な財産に変更することができた。
 1986年以降、コムソモール(Komsomols,共産主義青年同盟)は商業取引をすることを法的に認められ(輸出入業、店舗、そして銀行すら)、書類上の収益を流動的現金に変えた。
 これは、Mendeleev 化学・技術研究所にいるコムソモールの役員から最初の民間銀行の一つのMenamap の総裁になるという、Mikhail Khodorkovsky が歩んだ途だった。
 役員たちは、裕福になった。西側企業との共同事業を立ち上げることにより、またロシアでの銀行市場での現金取引から個人的利潤を得るべく外国債権を用いることにより。
 1987年から、ソヴィエトの公務員は国有資産を購入し始めた。これは、残りの民衆が国有資産から何がしかの分配を受け取ったときよりも、ずっと前のことだった。
 諸省庁は商業化し、一部は上級官僚が営む事業体として経営された。彼らは、自分たちが管理してきた資産を最低価格で自分たちに売った。 
 工場と銀行は、同じように売り払われた。//
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 (05) ソヴィエト・システムの崩壊は、ロシアの富や権力の配分を民主主義化しなかった。
 1991年のあと、ロシア人は、何も大きくは変わらなかったと考えるのを許されてきた。少なくとも、良い方向には変わらなかったと考えるのを。
 疑いなく、ロシア人の多くは、1917年の後と多くは同じことだと思っていた。//
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 第六節、終わり。第19章も終わり。第20章(書物全体の最終章。表題は<Judgement>)へと進むかは未定。

2534/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第五節。
 (01) Gorbachev は、党の一体性を維持することで、1991年のソヴィエト体制の崩壊とともに滅びることを自ら確実にした。
 その崩壊は、1989年に東ヨーロッパでの革命とともに、ソヴィエト帝国の外縁部で始まった。
 モスクワからの軍事的支援がないままで、東ヨーロッパの共産党体制は、民主主義運動に抵抗することができなかった。その運動は、共産党に権力から去ることを要求し、新しい指導者たちを選んだ/
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 (02) ポーランドでは、大衆ストライキと抗議運動によって共産主義者は連帯(Soridarity)との円卓会談を行うことを余儀なくされ、1989年6月に政府が確信を持てない議会での投票と自由選挙に準じたものが行われた。その選挙で連帯は、候補者を立てることが認められた全ての議席を総占めする勝利をかち得た。
 共産主義者の権威は傷ついた。
 Jaruzelski が大統領として返り咲き、連帯の活動家のTadeusz Mazowiecki が首相になった。これは1989年9月のことで、この40年間で東ヨーロッパでは最初の非共産党政権だった。//
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 (03) ハンガリーでは、共産党は自分たちの権力の放棄について民主主義フォーラムの活動家たちと交渉した。後者は新しい議会を構成する複数政党選挙で、最大多数の票を獲得した。
 ハンガリー革命は、ベルリンの壁の崩壊と東ドイツ(GDR)の共産主義体制の瓦解につながった。
 ハンガリーがその国境をオーストリアに開いて数千の東ドイツ人が西側に旅行することを認めたとき、危機が始まった。
 出国(exodus)を食い止めようとする試みは、とくにLeipzig〔当時、東ドイツ〕で大衆的抗議を生み、政府への圧力となった。
 アメリカ合衆国のテレビによって語って、市民は自由に出国しているという印象を政治局の報道官が与えた。—これは、東側で観られていた西ドイツのテレビ局が取り上げた物語だった。
 壁が開いていると考えて、東ドイツの数万の市民たちが、11月9日から国境に到着した。
 政府からの明確な指示がないまま、監視兵は、彼らを西側へと通過させた。
 壁は、壊れた。//
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 (04) チェコスロヴァキアでは、ベルリンの壁の崩壊は、Václav Havel その他の老練な反体制者たちが組織した市民フォーラム(the Civic Forum)が主導した広汎な抗議運動を呼び起こした。
 11月25日までに、80万人の抗議者がプラハの街頭に出現した。
 その二日後、ゼネ・ストに住民の4分の3が加わった。
 共産党体制は自由選挙について譲歩し、権力を手放した。そして、12月29日の連邦議会の満場一致の票決によって、Havel が大統領となった。//
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 (05) 東欧革命は、ソヴィエト同盟内部でのナショナリストの運動に油を注いだ。
 バルト諸nations は、最初に独立を求めた。それに、ジョージア、アルメニア、および実質的にはウクライナとモルダヴィアの地域が、続いた。
 より遅く反応したのは中央アジア諸共和国で、そこではエリート層はソヴィエト・システムに依存しており、民衆が選択するのはIslamic になりそうだった。//
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 (06) Gorbachev の改革は、二つの態様でナショナリスト運動が勃興する条件を生んだ。
 第一に、彼が1990年3月にソヴィエト大統領という新しく作った地位に就任したことは、共和国の指導者たちが自分たちの権力基盤を形成する先例となった。
 1991年6月にYeltsin がロシア共和国の大統領に選出されたことは、ロシア共和国内部では、選出されていないソヴィエト大統領よりも強い権威をYeltsin に与えた。
 第二に、各共和国の最高ソヴェトについての競争選挙の導入によって、ナショナリストはこの最高の議会を統制して、モスクワからの独立を宣言するために利用することができるようになった。
 バルト諸国では、ナショナリストが1990年の選挙で圧倒的な勝利を獲得した。
 この諸国では、共産党は圧力のもとで分裂し、主権をもつことに賛成する党派としてソ連共産党を脱退し、ナショナリストの票を求めて競い合った。//
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 (07) 警察による弾圧も、ジョージアとバルト諸国での独立運動を盛んにさせた。
 Tbilisi 〔ジョージアの首都〕では、ソヴィエトの警察によって1989年4月に、19人のデモ参加者が殺害され、数百人が重傷を負った。
 リトアニアとラトヴィアでは、1991年1月の弾圧によって、17人が殺害され、数百人が負傷した。
 こうした弾圧は大部分は、KGB や軍部にいる共産党の強硬派が主導していた。彼らは、ナショナリストの暴力的反応を挑発しようとしていた。そうなれば、ソヴィエト同盟の瓦解を阻止すべく非常事態宣告の議論をするために用いることができた。
 Gorbachev は、これに抵抗して党を分裂させる危険を冒さずに、強硬派に譲歩し、Boris Pugo を内務大臣に、Gennady Yanaev をソヴィエトの副大統領に任命した。//
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 (08) Gorbachev は、ソヴィエト同盟を再構築しようとする彼の計画のためには、彼らの支持を必要とした。
 彼は、各共和国が国民投票を経て合意するならば、新しい同盟条約について交渉しようと提案した。
 ソヴィエト同盟を一緒に守る連邦構造に合意したかったのだが、彼はそれを力でもって維持するのは間違っていると考えた。
 Gorbachev は、レーニンのように、ソヴィエト同盟は自発的な意思にもとづく同盟として存続し得ると信じた。//
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 (09) 六つの共和国は、完全にソヴィエト同盟から離脱する決意をもち、この国民投票を拒否した(ジョージア、アルメニア、モルダヴィア、バルト三国)。
 他の九共和国では、1991年3月17日の国民投票で、人口の76パーセントがソヴィエト同盟の連邦構造の維持に賛成する票を投じた。
 条約草案がソヴィエト政府と九共和国の指導者たちの間で交渉された(「9+1」合意)。そして、モスクワ近郊のNovo-Ogarevo で署名された。
 この交渉で、Yeltsin(ロシア大統領に選出されたあと、強い立場だった)とLeonid Kravchuk(ナショナリストに変身してウクライナの大統領になるのを狙っていた)は、ソヴィエト大統領から各共和国へと、従前はクレムリンにあった多数の権能を抜き出していた。//
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 (10) 8月までに、九のうち八共和国が、条約草案に同意した。—唯一の例外はウクライナで、1990年の国家主権の宣言を基礎にする同盟に投票した。
 この条約草案は、ソヴィエト連邦を、ヨーロッパ同盟に似ていなくはない、独立国家の連邦に転換していただろう。単一の大統領、単一の外交政策、単一の軍事兵力をもつけれども。
 条約は、ソヴィエト連邦をソヴェト主権共和国同盟と改称していただろう(「社会主義」の箇所が「主権」に変わる)。
 〔1991年〕8月4日、Gorbachev はクリミアのForos で休日を過ごすべくモスクワを発った。8月20日には、新しい同盟条約に署名するために首都に帰還するつもりだった。//
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 (11) 条約は同盟を救うことを意図していたけれども、強硬派は同盟の瓦解を促進することを恐れた。
 強硬派は、行動するときだと決断した。
 8月18日、陰謀者の派遣団がForosu へ急いで行って、非常事態の宣言をすることを要求した。そしてGorbachev が最後通告を拒んだとき、彼らはGorbachev を建物内に拘禁した。
 モスクワでは、自ら任じた国家非常事態委員会が、権力を掌握したと宣言した(これに加わっていたのは、ソヴィエト首相のValentin Pavlov、KGB 長官のVladimir Kruchkov、国防大臣のDmitry Yazov の他に、Yanaev、Pugo ら)。
 疲れていると見えたYanaev 〔Gorbachev 任命の副大統領〕は、両手をアルコール症的に震わせながら、世界のプレスに対して、自分が大統領職を奪取していると、不確かに発表した。//
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 (12) 国家転覆者たちは、ためらいが過ぎて、成功する現実的な可能性を持たなかった。
 おそらくは、最後までシステムを守るに必要な手段を奪うという意思を、彼らすら有していなかった。
 彼らはYeltsin を拘束することができなかった。Yeltsin はホワイト・ハウスへ、ロシア議会(最高ソヴェト)の所在地へ、向かった。そこで彼は。クー・デタに対抗する民主主義防衛隊を組織することになる。 
 国家転覆者たちは、クーへの抵抗を抑止するためにモスクワに持ち込んだ戦車部隊に対して、決定的な命令を発することができなかった。
 いずれにせよ、彼らの味方である上級の軍司令官たちの間にも分かれがあった。 
 ホワイト・ハウスの外側に駐留していたTamanskaya 分団は、Yeltsin に対する忠誠を宣言した。彼は、戦車の一つの上に登って、群衆に向かって呼びかけた。
 流血の事態は起こらないまま、この時点以降は、転覆者たちがホワイト・ハウス攻撃に成功するのは不可能になった。
 だが、彼らは、闘う気分をそもそも持っていなかった。//
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 (13) クーはすみやかに終わった。
 8月22日に、その指導者たちが逮捕された。
 Gorbachev は、首都に戻った。
 しかし、1917年8月のKornilov 陰謀事件の後のケレンスキーのように、Gorbachev は自分の地位が侵食されていることを知った。
 クーは共産党への信頼を大きく傷つけ、主導権を、ロシア共和国大統領で「民主主義の守り手」のYeltsin へ移した。 
 Yeltsin は、8月23日に、クーでのソ連共産党の役割を調査するあいだ同党の活動を停止する布令を発した。
 その日の夜半、群衆が、Lubianka のKGB本部建物の外側にある、チェカ創設者・Dzerzhinsky の立像を倒壊させた。
 翌日、Gorbachev は、ソ連共産党総書記を辞任した。
 8月25日、ソ連共産党の財産は、全ての文書資料と銀行口座も含めて、ロシア(共和国)政府が掌握した。//
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 (14) 〔1991年〕11月6日、Yeltsin は、ロシアでのソ連共産党を禁止した。
 その布令は、法技術的には、ロシアの大統領の権限を超えている点で違法だった。
 しかし、Yeltsin は、歴史的根拠を理由として正当化した。「ソヴィエト同盟の人民が追いやられた歴史的苦境(cul-de-sac)と、我々が到達している解体状態に対して」その党には責任がある、と宣告したのだ。(後注8)//
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 (15) Gorbachev は、同盟条約の交渉をなおも再開したかった。
 しかし、Yeltsin はそれに反対した。ソヴィエト同盟の解体はロシアにとっての勝利だと見たのだ。一方で、その他の共和国、とくにウクライナは、その潜在的な抑圧の力がクーによって暴露されたモスクワとの同盟には、どのようなものであれ警戒するようになっていた。
 Novo-Ogarevo 会談が11月に再び始まったとき、Yeltsin とKravchuk〔ウクライナ〕 は、ソヴィエト政府からのいっそうの譲歩を要求した。
 まるでソヴィエト連邦が主権国家同盟へと変わるように見えた。
 しかし、12月1日に、独立に賛成するウクライナの一票が、ソヴィエトという国家の船に巨大な穴を吹き込んだ。
 一週間後、Yeltsin、Kravchuk とべラルーシの指導者のStanilav Shushkevich は、ベラルーシで会って、ソヴィエト同盟の解体を発表した。
 独立国家共同体(Commomwealth of Independent States, CIS)がこれにとって代わることになる。//
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 (16) 実質的には、三つの共和国の指導者たち(Yeltsin、Kravchuk、Shushkevich)による、ソヴィエト連邦から離脱して自分たちのnational な政権を樹立しようとするクー・デタだった。
 クリスマスの日にクレムリンからテレビで放映された別れの演説で、Gorbachev は、ソヴィエト同盟の廃止を支持することはできない、なぜなら憲法上の手続でまたは民主主義的な民衆の投票で承認されていないのだから、と宣言した。
 世論は〔「共同体」ではなく〕同盟を支持していた。
 ソヴィエト同盟を終焉させたのは、指導者とエリートたちだった。//
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 第五節、終わり。

2533/O.ファイジズ・ソ連崩壊④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第四節。
 (01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
 社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
 Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
 ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
 彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。 
 Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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 (02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
 在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
 彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
 国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
 競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
 レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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 (03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
 政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
 彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
 何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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 (04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
 1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
 これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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 (05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
 5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
 議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
 Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
 彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
 彼は7月2日にテレビでこう表明した。
 「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
 政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
 ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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 (06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
 レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
 このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
 Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
 このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
 ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
 政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
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 第四節、終わり。

2532/O.ファイジズ・ソ連崩壊③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ
 第三節。
 (01) グラスノスチ(glasnost、情報公開)は、Gorbachev の改革の中の本当に革命的な要素で、システムをイデオロギー的に解体する手段だった。
 ソヴィエト指導者は政府に透明性を与え、改革に反対するBrezhnev 保守派たちの力を削ぐことを意図した。 
 グラスノスチの初期の呼びかけは、1986年4月のChernobyl 原発事故—史上最悪でヨーロッパの多くに影響を与えた—のはずべき隠蔽によって強化された。
 しかし、glasnost の影響は、Gorbachev の統制を超えて急速に大きくなった。//
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 (02) 検閲を緩和した glasnost は、党はマスメディアを掌握できないことを意味した。マスメディアは、従前は政府が隠していた社会的諸問題を暴露し(劣悪な住居、犯罪、生態学的破綻、等)。それによってソヴィエト・システムへの民衆の確信を掘り崩した。//
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 (03) ソヴィエト史に関する暴露も、同様の効果をもった。
 次から次に、システムを正当化する神話は、新たに公にされた文書や外国で翻訳されて出版された書物で明らかになった暗い事実だとして、攻撃に晒された。その神話とは、資本主義社会に対する物質的かつ道徳的優位、ナツィズムを打倒したという名誉、集団化と五ヵ年計画による国の近代化、大衆を基にした1917年10月の革命による創設、といったものだ。
 メディアは毎日、この国の暴力的歴史の「黒点」が多数つまった暴露を掲載した。大量テロル、集団化、飢饉、Katyn の虐殺の詳細。グラク(強制収容所)の恐怖、偉大な愛国戦争でのソヴィエト兵の生命の無謀な浪費の全容。
 これらは、ウソと半分真実が混じったものとして、こうした事件の公式の記録を暴露することによって、体制の信頼性と権威を揺るがせた。//
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 (04) 人々の信頼は政府から離反していった。—その多くは、こうした真実を暴露したメディアに原因があった。
 最も大胆な新聞や雑誌は、途方もなく売れた。
 〈Argumenty i fakty〉(論争と事実)の週間予約購読者数は、1886年から1990年のあいだに、200万から3300万に増えた。この週刊誌はプロパガンダ機関であることをやめ、かつて秘密だった事実やソヴィエトの生活についての批判的見解を伝えるソースになった。
 毎金曜日の夜に、数千万人の若者たちが、〈Vzglyad〉(View)という番組を観た。この番組は、ソヴィエトの検閲による制約はもちろん、個人的好みの限界をも無視して、今日的問題に関するテレビ編集、インタビュー、歴史の探索に突進した(やがて1991年1月に禁止された)。//
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 (05) Glasnost は、社会を政治化した。
 独立の公共的団体が結成された。
 1989年3月までに、ソヴィエト同盟には6万の「非公式の」グループやクラブがあった。
 これらは、街頭で集会を開き、デモ行進に参加した。多くは、政治改革、市民の権利、ソヴェト諸共和国や地域の民族的独立性、あるいは共産党による権力独占の廃止を呼びかけるものだった。
 大都市では、1917年の革命的雰囲気が蘇ってきていた。//
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 第三節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
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 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
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 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
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 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
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 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
 ----
 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
 ——
 第二節、終わり。
 

2530/O.ファイジズ・ソ連崩壊①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
 —— 
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
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 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
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 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
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 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
 ——
 第一節、終わり。

2406/O.ファイジズ・人民の悲劇(1996)第15章第2節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ——
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師⑤。
 (18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
 これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
 (19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
 地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
 あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
 婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
 1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
 1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
 彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
 これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
 (20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
 売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
 不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
 例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
 Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
 この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
 (21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
 性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
 レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
 レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
 地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
 女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
 多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
 彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
 統計も彼女たちを支持していた。
 1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
 労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
 彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
 (22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
 彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
 レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
 彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
 四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
 レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
 1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
 Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
 ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
 彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
 確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
 この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
 レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
 NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
 どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
 共産主義への近道などは存在しないのだ。//
 (23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
 彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
 文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
 Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
 〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
 レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
 ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
 (24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
 ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
 ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
 「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
 子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
 我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
 我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
 小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
 彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
 母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
 (25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
 この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
 しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
 1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
 彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
 Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
 彼はこう主張した。
 労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
 そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
 Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
 しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
 ——-
 ⑥へとつづく。

2398/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第一部・旧体制下のロシア…第1章〜第4章。
 第二部・権威の危機(1891-1917)…第5章〜第7章。
 第三部・革命のロシア(1917.2-1918.3)…第8章〜第11章。
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師④。
 (14)通常の「ブルジョア的」設定を取り払って街頭、工場、兵舎に舞台を移すことで劇場を大衆にとってより身近なものにする、類似の試みが行われた。
 劇場はこうして、アジプロ(agitprop、煽動的宣伝)の一形態になった。
 その意図は、演者と観客の間の障壁を破壊し、劇場を現実と分ける舞台と客席の境界線(proscenium)を消し去ることだった。
 これら全ては、のちにBrecht が好んだMax Reinhardt によって開拓された、ドイツの実験劇場の技巧を採用していた。
 Meyerhold やその他のソヴィエトの監督たちは、観衆が演劇に対する反応を声に出すよう勇気づけることによって、観衆の感情を革命の教訓的寓話へと引き込もうとした。
 新しい演劇は、国家的次元と私的な人間生活の局面の両方での革命的闘争に光を当てて、強調した。
 登場人物は粗雑で非現実的な徴標だった。—山高帽をかぶる貪欲な資本家、Rasputin 的鬚を生やした極悪な聖職者、そして誠実で簡素な労働者。 
 こうした演劇の主要な目的は、革命の「敵」に対する大衆の憎悪を掻き立てて、人々を体制のもとへと結集させることだった。
 1924年にEisenstein が上演した、そのような演劇の一つの<モスクワのことを聞いているか?>は、ドイツの労働者がファシストの牙城へと突撃する場面が演じられる最終幕で、観衆たち自身がそれに参加しようとする感情を掻き立てる、というものだった。
 殺害されるファシストたち全員が、激しい喝采で迎えられた。
 観衆の一人は、ファシストの愛人役の女優に向かって、銃砲を弾こうとすらした。隣席の者たちが彼を正気に戻らせたけれども。//
 (15)街角劇場の最も壮麗な例は、十月蜂起三周年を記念して1920年に上演された、<冬宮への突撃>だった。
 この大衆的な見せ物は、—いずれにせよつねに混同されていた—演劇と革命の区別を消滅させた。
 1917年の革命劇が演じられたペテログラードの街路は、今や劇場に変わった。
 重要な光景が、宮廷広場の巨大な舞台で再演された。
 冬宮の多数の窓には、内部の異なる場面を順番に明らかにできるように、照明が灯された。そして、冬宮自体が、舞台の一部となった。
 <オーロラ>〔戦艦・巡洋艦〕は主役を演じた。ネヴァ(河)から大砲弾が放たれて、宮廷急襲を開始する合図となった。あの歴史的な夜に、実際そうだったように。
 実際の蜂起に参加した数よりもおそらく多い、1万人の役者たちがいた。彼らは、古代ギリシャの劇場の合唱団のように、革命という偉大な考えを人民の一つの行為として具現化すべく登場した。
 概算で10万人の観衆は、宮廷広場から、繰り広げられる行動を見つめた。
 彼らはケレンスキーのおどけた人物を嘲笑し、宮廷への攻撃中は大いに喝采を浴びせた。
 これが、偉大なる十月の神話の始まりだった。—Eisenstein が「記録ドラマ」映画の<十月>(1927年)で見せかけの事実(pseudo-fact)へと変えた神話。
 この映画の中の諸映像は、今なおロシアと西側の両方で、革命の本当の写真だとして、書物の中で再生産されている。//
 (16)芸術もまた、街頭に持ち出された。
 構成主義者たちは、芸術を美術館から取り出して日常生活に送ることについて語った。
 Rodchenko やMalevich を含む彼らの多くは、衣類、家具、事務所、工場を彼らの言う「産業スタイル」を強調してデザインすることに努力を傾注した。—単純な意匠、原色、幾何学的模様、直線。彼らは、これら全てが人々を解放しかつより理性的にするだろうと考えた。
 「対象だけではなく家庭の生活様式全体を再建設する」ことが自分たちの狙いだ、と彼らは言った。
 Chagall 、Tatlin のような何人かの指導的なアヴァン-ギャルド絵画家、彫刻家は、「煽動芸術」(agitation art)へと手を伸ばした。—建物や電車の装飾、五月一日や革命記念日のような多数の革命的祝祭のためのボスターのデザイン。このような祝祭日に、人々は、集団的な喜びと感情を示す公開の展示物によって団結するものと想定されていた。
 街じゅうが文字通り赤く塗られた(ときには樹木すら)。
 彼らは、彫像や記念碑を通じて、街路を革命の美術館に、新体制の力とその威厳の生ける聖像に、変えようとした。それらは文字能力のない者にも感銘を与えるだろう。
 国家による自己神聖化のためのこのような行為には、何も新しさはなかった。つまり、帝制体制も全く同じことをした。
 ロマノフ家により1913年に王朝300年を記念して建設されたクレムリンの外側のオベリスクは、レーニンの指令にもとづいて維持された。これは、じつに見事に皮肉なことだった。
 ツァーリ体制の碑文は、16世紀にまで遡る「社会主義的」祖先たちの名前で書き換えられた。
 その中に含まれていた名前には、Thomas More、Campanella、Winstanley があった。(*23)//
 (17)言い得るかぎりで、こうしたアヴァン-ギャルド芸術の実験のいずれも、心性や精神を変えるには少しも有効でなかった。
 左翼芸術家たちは、例えば大衆のための新しい美意識を創出していると考えたかもしれない。しかし、自分たちのための新時代的な美的感覚を作り出していたにすぎなかった。たとえ、「大衆」のうちにある何かを、彼ら自身の理想の象徴として表現していたのだとしても。
 労働者や農民たちの芸術的嗜好は、本質的に保守的だった。
 実際に、芸術問題についての農民の保守性を過大評価するのはむつかしい。1920年にボリショイ・バレェ団が地方を巡回旅行したとき、「<コルフェイ(coryphee)>が剥き出しの腕と脚を見せていることに深い衝撃を受け、呆れて上演から歩き去った」と言われている。
 現代主義芸術のこの世のものでない印象は、芸術を見知るのは聖像(icon)に限られていた人々にとっては、疎遠なものだった。(原書注記+)
 (+1930年代の社会主義リアリズムは、明らかにアイコンの性質をもち、宣伝としてははるかにより有効だった。)
 最初の十月蜂起記念日にVitebsk の街頭が飾られていたとき、Chagall は、共産党の職員からこう尋ねられた。「なぜ雌牛は緑色をしていて、なぜ馬は空を飛んでいるのか、どうして?
 マルクスとエンゲルスの結合とはいったい何のことだ?」
 1920年代の民衆の読書習慣に関する調査によると、労働者や農民たちは、アヴァン-ギャルド文学よりも、革命以前から読んできた、探偵小説や恋愛小説を好みつづけた。
 新しい音楽もまた同様に、成功しはしなかった。
 ある「工場コンサート」でのことだが、全てのサイレンと警笛が生み出す不協和音の騒音がひどかったために、労働者たちは、インターナショナルの旋律を識別することができなかった。
 コンサート会館や劇場は、最近に豊かになった、ボルシェヴィキ体制のプロレタリアたちで満たされた。—モスクワのボリショイ劇場には毎晩、彼らが噛んだヒマワリの種の殻が散らばっていた。だがなお彼らは、Ginka やTchaikovsky を聴きにやって来ていたのだ。(*24)
 芸術的趣味の問題となると、半ばの教養しかない労働者たちが望んだものは、ブルジョアジーにとって物まね芸がそうだった以上のものは何もなかった。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2397/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ほとんど行ってきていない試訳者自身のコメントを例外的に付す。試聴してみた Dmitri Shostakovich, Symphony #2 in B op.14("To October")のCDのクライマックス以降に労働者らしき人々の(途中から女声も入る)合唱があるが、下記の記述にある「口笛」は聴き取れなかったた。原作者による操作・変更なのか等は不明だ。「皮肉」と言うのも、適訳かは自信がないが、著者の判断・解釈だと思われる。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師③。
 (9)1917年の革命は、ロシアのいわゆる銀色の時代の半ばに起こった。銀色の時代とは今世紀の最初の30年間で、全ての芸術でアヴァン-ギャルド(avant-garde、前衛)が人気を博した。
 この国のすぐれた作家と芸術家たちはProletkult に参加し、その他の文化活動家たちは、内戦中にまたはその後で加わった。
 Belyi、Gumilev、Mayakovsky、Khodasevich は、教室で詩を教えた。Stanislavsky、Meyerhold、Eisenstein は、劇場で「十月革命」を実践した。Tatlin、Rodchenko、El Lissitsky、Malevich は、視覚的芸術の先駆者となった。
 一方で、Chagall はVitebsk の郷里の町で芸術人民委員にすらなり、のちにはモスクワ近郊の孤児の区画で絵画を教えた。
 こうした人民委員と芸術家の連結は、部分的には共通する原理的考え方から生まれた。すなわち、芸術には社会的課題があり、大衆と気持ちを合わせる使命がある、という考えだ。古いブルジョア的芸術に対する新時代的(modernist)な拒否感もあった。
 しかし、便宜的な恋愛関係でもあった。
 というのは、文化的活動家たちは、最初はあった条件にもかからわらずほとんど自立性を失っていたので、味気ない近年にはひどく必要となった追加的な配給や作業素材の供給は言うまでもなく、アヴァン-ギャルドに対するボルシェヴィキの経済的支援を、好都合なものだと見なしたからだ。 
 Gorky は、ここでの中心人物だった。—彼は芸術家たちにはソヴィエトの人間として、ソヴィエトに対しては指導的芸術家として振る舞った。
 1918年9月、Gorky は、Lunacharsky が率いる人民委員部による芸術や科学の分野の処理に協力することに同意した。
 Lunacharsky の側では、「ロシアの文化を救う」ためのGorky の種々の取り組みに最大限の支援をした。レーニンは、多くの困窮した知識人を雇っていた世界文学出版所から、歴史的建造物や記念碑の保存に関する委員会についてまで、そのような「些細な問題」に苛立っていたけれども。
 Lunacharsky は、Gorkyは革命の突風によって貴重なものが破壊されるという見込みを信用も恐れもしないで、不満を言いつつ完全に知識人層の陣営の中にいることが判ったと、愚痴をこぼした。//
 (10)アヴァン-ギャルドの虚無主義的な部分は、とくにボルシェヴィキに魅せられた。
 彼らは喜んで、古い世界の破壊にいそしんだ。
 例えば、Mayakovsky のような未来主義(Futurist)詩人たちは、ボルシェヴィキに身を投じて、ボルシェヴィキを「ブルジョア芸術」に対する彼らの闘いの同盟者だと見た(イタリアの未来主義者は、同じ理由でファシストを支持した)。
 未来主義者は、Proletkult 運動の内部で急進的な因習打破の方向を追求し、レーニンを激怒させ(文化問題についての彼の保守性)、Bogdanov やLunacharsky を当惑させた。
 Mayakovsky は、こう書いた。「胡椒博物館に弾丸を打ち込むときだ」。
 彼は「古い美的な屑」だとしてクラシックを拒否し、Rastrelli は壁にぶつけなければならない(ロシア語のrastrelli は処刑を意味する)と駄洒落を言った。
 Proletkult の詩人であるKirillow は、こう書いた。
 「我々の明日の名前で 我々はラファエル(Raphael)を燃やす。
 美術館を破壊し、芸術の花を押しつぶす。」
 これはおおよそは、知識人の空威張りであり、自分たちの才能がはるかに乏しいことに衝撃を受ける第二級の作家たちの、ヴァンダル人的(vandalistic、破壊者的)素振りだった。//
 (11)スターリンは、作家のことを「人間の精神の技師」(engineer of human souls)と叙述したことがあった。
 アヴァン-ギャルド芸術家たちは、ボルシェヴィキ体制の最初の数年の間に人間の本性の偉大な変革者になるものと想定されていた。
 彼らの多くは、人間の精神をより集団主義的にするという社会主義の理想を共有していた。
 19世紀の「ブルジョア」芸術の個人主義的前提を彼らは拒否した。そして、芸術表現の現代的様式を通じた異なるやり方で世界を見るように、人間の心性を鍛えることが自分たちはできると考えたのだ。
 例えば、モンタージュ(montage、合成)は断片的だが結合した映像でコラージュ(collage、寄せ集め)の効果をもち、見物者に対してサブリミナルな(subliminal、潜在意識上の)教育的効果をもつものと考えられた。
 Eisenstein は1920年代の三大宣伝映画で—<ストライキ>、<戦艦ポチョムキン>、<十月>—この技巧を用い、その技巧の上にその映画理論の全体を築いた。
 映画が生み出すと想定された「心理(psychic)革命」が、大いにもてはやされた。<特に優れた>現代芸術の様式は、現代人についての心理学のように、「直線と直角」および「機械の力強さ」を基礎にしていた。(*21)//
 (12)アヴァン-ギャルド芸術家たちは、「心理革命」の先駆者として、多様な実験的形態を追求した。
 このときにはまだ芸術に対する検閲はなく—ボルシェヴィキには他に多くの切実な関心事があった—、芸術には相対的に自由な領域があった。
 そのゆえに、警察国家で芸術上の爆発が起きるという逆説が生じた。
 こうした初期のソヴィエト芸術の多くには、現実的で永続的な価値があった。
 とくにRodchenko、Malevich、Tatlin といった芸術家たちのような構成主義者(Constructivist)は、現代主義様式に大きな影響を与えた。
 このことは、ナツィの芸術については、あるいはスターリン時代の芸術に流行した、社会主義リアリズムのぞっとするほどに途方もない悪趣味については、言うことができない。
 だがしかし、ほとんど不可避的に、アヴァン-ギャルド芸術家たちが抱いた実験的精神をもつ青年たちの熱い感情があったので、彼らの製作物の多くは、今日ではむしろ滑稽に(comical)思われるかもしれない。//
 (13)例えば、音楽の分野では、指揮者のいない交響楽団があった(リハーサルでも本演奏でも)。そうした交響楽団は、自由な集団的作業を通じて平等と人間性を実現するという考え方による社会主義様式の先駆者だと自認していた。
 工場でサイレン、蒸気原動機(turbine)や汽笛を道具として使ったり、電気的手法での新しい音響を創り出したりする演奏会を催す運動があった。これらは、労働者に近い新しい音楽的美意識を生み出すだろう、と考えた人々がいたようだ。
 Shostakovich は、疑いなくいつものように皮肉でもって、彼の交響曲第二番(「十月に捧げる」)の絶頂部に工場での口笛の音を加えることをして、楽しんだ。
 同様の奇矯さ(eccentric)は、社会主義的にするために著名なオペラの名前を変えたり、オペラの台詞を作り直したりすることにも見られた。
 <Tosca>は<コミューンのための闘い>となり、舞台は1871年のパリへと移された。<Le Huguenots>は<十二月主義者(Decembrists)>となり、ロシアが舞台とされた。一方、Glinka の<ツァーリのための生活>は、<槌と鎌>として書き換えられた。//
 ——
 ④へとつづく。

2394/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
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 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師②。
 (6)Gorky、Bogdanov、Lunacharskyは1909年に、Capri 島の作家の別荘にロシアの労働者用の学校を設立した。
 13人の労働者(うち一人は警察のスパイ)が多大の費用を払ってロシアを密出国して、社会主義の歴史と西側文学に関する退屈な課程の講義を聴くべく座らされた。
 時間割以外の唯一の娯楽は、Naples(ナポリ)美術館へのLunacharskyの案内付旅行だった。
 1910年設立の二つめの労働者学校は、Bologna(ボローニャ)にあった。
 これらの教育の目的は、自覚のあるプロレタリア社会主義者のグループ—一種の「労働者階級知識人」—を作ることだった。このグループは、彼らの知識を労働者たちに普及し、革命運動が自分たちの文化革命を創出するのを確実にするだろう。
 学校の創始者たちはVpered(先進)グループを形成したが、ただちにレーニンと激しい対立をした。
 革命に関する先進グループ(Vperedists)の考え方は、労働者階級の文化の有機的発展に成功が依存する、という意味で本質的にメンシェヴィキだった。
 これに対して、レーニンは、独自の文化的勢力としての労働者の潜在的能力を無視していて、紀律を受けた党のための一員としての役割を強調した。
 先進グループは、知識は、とくに技術は、マルクスが予言した歴史の駆動力であり、社会階層の相違は資産ではなくむしろ所有する知識による、とも主張した。
 かくして、労働者階級は、生産、配分と交換の手段の統制によるのみならず、同時に生起する文化革命によって解放されるだろう。文化革命は、労働者階級に知識の力それ自体をも付与するのだ。
 だからこそ、自分たちは労働者階級の啓蒙を行う。
 先進グループは最後に、異端派の装いすらもって、マルクス主義は宗教の一形態だと見なさなければならない、とも論じた。—神聖な存在としての人間性と聖なる精神としての集団主義を伴う宗教だ。
 Gorky は、その小説の<告白>(1908年)で、この人間主義的(humanistic)主題を強調した。その小説では、主人公のMatvei は、仲間たちとの同志愛を通じて神を見出す。//
 (7)1917年の後、指導するボルシェヴィキは以前よりもプレス関係の権力を持っていたが、文化政策は、党内のこれらかつての先進グループに委ねられた。 
 Lunacharsky は、啓蒙〔Enlightenment,文部科学〕人民委員になった。—この名称は、目標として設定した文化革命の発想を反映していた。そして、教育と芸術の両方を所管した。
 Bogdanov は、プロレタリア文化を発展させるために1917年に設立されたProletkult 機構(プロレタリア文化機構)の長となった。
 1919年までには8万人の構成員をもった工場の同好会や工房を通じて、この機構は、素人の劇団、合唱団、楽団、美術教室、創造的文筆場、労働者のためのスポーツ大会を組織した。 
 モスクワのプロレタリア大学と<社会主義百科事典>とがあった。
 Bogdanov は後者の出版物を将来のプロレタリア文明を準備するものと見ていた。彼の見方では、Diderotの<百科事典>が18世紀のフランスの勃興するブルジョアジーが自分たちの文化革命を準備する試みだったのとちょうど同じように。(*19)//
 (8)Proletkult 知識人たちは、Capri やBologna の学校でと同様に、育てようとする労働者たちに対して経済的支援をする姿勢をときおり示した。
 Proletkult がもつ基本的前提は、労働者階級は自発的に自分たち自身の文化を発展させるべきだ、というものだった。この点に、彼らが労働者たちのためにする意味があった。
 加えて、彼らが促進する「プロレタリア文化」は、労働者たちはこうあるべきだと想定する彼らの理想と比べて、労働者の現実の嗜好とはあまり関係がなかった。—大部分は寄席演芸(vaudeville)やウォッカで、彼ら知識人は俗悪なものだとしてつねに軽蔑していた。 
 彼らの理想たる労働者は、ブルジョア個人主義に毒されていない。生活や思考の様式が集団主義だ。冷静かつ真剣で、自己啓発的だ。科学とスポーツに関心をもつ。要するに、知識人たちが自ら想像する社会主義的文化の先駆者でなければならない。//
 ——
 ③へとつづく。

2392/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第15章の第2節に入る。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
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 第15章第2節・人間の精神の技師①。
 (1)伝説によると、1919年の10月にレーニンは密かに偉大な物理学者のパプロフ(I. P. Pavlov)の実験室を訪れて、彼の仕事が脳の条件反射ならば、それはボルシェヴィキが人間の行動を統御するのを助けるかと尋ねた。
 レーニンはこう説明した。
 「私は、ロシアの大衆を共産主義的な思考と反応の様式に従わせたい。
 過去のロシアには個人主義が強すぎる。
 共産主義は、個人主義的傾向を甘受しない。
 個人主義的傾向は有害だ。我々の計画を阻害する。
 我々は、個人主義を廃絶しなければならない。」
 パプロフは、愕然とした。
 レーニンは、犬に対して彼が既にしたことを人間に対してさせたいと考えているように見えた。
 パプロフは尋ねた。「ロシアの民衆を均一化(standardize)させたい、と言いたいのか? 全員を同じように行動させる?」
 レーニンは答えた。「そのとおり。人を矯正することはできる。我々が人に対して望むようにその者をさせることができる」。(14)//
 (2)実際にこうだったかはともかく、この物語は、一般的な真実を例証している。すなわち、共産主義体制の究極的狙いは、人間の本性を変形させることだった。
 その狙いは、戦間期の別のいわゆる全体主義体制によっても共有されていた。
 結局のところ、これが象徴した時代とは、人間の生活(life)を変化させる科学の潜在的能力に対するユートピア的楽観主義の時代であり、かつ同時に逆説的に、第一次大戦による破壊の後での人間の生活の価値に対する深い疑念と不確実さの時代だつた。
 ナツィ・ドイツの優生学運動の先駆者の一人は、1920年に述べた。
 「まるで人間性(humanity)という観念の変化を目撃してきているようにほとんど思える。…
 戦争がひどく差し迫ってきているので、個人の生活には以前とは異なる価値があると考えざるを得ない。」(*15)
 しかし、共産主義者の人間改造計画と第三帝国による人間工学の間には、決定的な違いがあった。
 ボルシェヴィキの計画は—マルクスよりもカントに由来する—啓蒙(Enlightenment)の理想にもとづいていた。この啓蒙の理想は、このポスト・モダンの時代でも、西側のリベラルたちが共感したもので、あるいは少なくとも、かりに政治的な目標は同一ではなくとも、それを理解するよう迫られたものだった。
 これに対して、「人類を改良する」ナツィの試みは、優生学を通じてであれ大量殺戮によってであれ、啓蒙というものを唾棄し、我々に嫌悪感だけを抱かせるものだった。
 大衆の啓蒙を通じて新しい類型の人間を創り出そうという考えはずっと、19世紀ロシアの知識人たちの救世主的(messianic)使命を示していた。その中から、ボルシェヴィキは出現した。
 マルクス主義哲学も同様に、人間の本性は歴史的発展の産物であり、従って革命によって変造することができる、と教えた。
 レーニンの青年時代のロシア知識人たちの間で宗教たる地位を占めていた、ダーウィンとハクスリーの科学的唯物論は、人間は生きる世界によって決定される、という見方を教えていた。
 かくしてボルシェヴィキは、革命は科学の助けで新しい類型の人間を創り出す、という結論に至っていた。//
 (3)レーニンとパプロフの二人は、Ivan Sechenov (1829-1905)に敬意を払った。この人物は生理学者で、脳は外部の刺激に反応する電子工学的装置だと主張していた。
 彼の著の<脳の反射>(1863)は、Chernyshevsky に大きな影響を与え、そしてレーニンに対してもそうであり、かつ条件反射に関するパプロフ理論の出発点でもあった。
 ここで、科学と社会主義が遭遇した。
 パプロフは歯に衣を着せず革命を批判し、しばしば国外逃亡を迫られたが、ボルシェヴィキによる経済的保護を受けた。(*)
 (*原書注記—パブロフはBulgakov の風刺の対象だったと結論づけたくなる。彼の<犬の心臓>(1925年)では、世界に有名な実験科学者はボルシェヴィキを軽蔑したが、支援を受けており、犬の脳と性的器官を人間へと移植した。) 
 2年の経歴ののち、パプロフは手厚い配給を受け、モスクワに広いアパートを得た。
 慢性的な紙不足があったにもかかわらず、彼の講義録は1921年に出版された。
 レーニンはパプロフの著書について、革命にとって「きわめて有意義だ」と語った。
 ブハーリンは、「唯物論という鉄の兵器庫からの武器だ」と評した。
 トロツキーですら、彼は総じて文化政策を詮索しなかったものの精神医学には多大の関心があったのだが、人間の再建造の可能性を、つぎのように熱心に語った。
 「どんな人物か? 彼は決して、完成されたもしくは調和のとれた人ではない。
 いや、いまだに臆病な人だ。
 生物としては計画どおりにではなく自発的に進化していて、多数の矛盾を蓄積している。
 どのようにして人間の肉体的および精神的な構成を鍛錬して統御し、改善して完成させたかは、とてつもなく大きな問題であって、社会主義を基盤にしてのみ理解することができる。
 我々はサハラを横断することができ、エッフェル塔を建設することができ、ニューヨークと直接に会話することもできる。しかし、我々はきっと、人間を改良することはできない。
 いや、できる!
 人間の新しい『改良版』を作り出すこと。—これが、共産主義の将来の任務だ。
 そのために、我々は、人間について、その解剖学的構造、生理学、および心理学と呼ばれる人間生理学の一部について、全てを先ず、解明しなければならない。
 人は自分自身を生の素材(原料、raw material)だと、あるいはせいぜいのところ半ば製造された産物だと見つめ、かつそう理解しなければならない。
 そして、こう言うのだ。『ああついに、私の大切な<ホモ・サピエンス>よ、私はきみの上で働くだろう』」(*16)//
 (4)革命の時期頃に流行した未来小説やユートピア冊子で描かれた新しいソヴィエト人は、機械の時代のプロメテウスだった。
 新ソヴィエト人は理性的な、紀律のある集団的人間で、生きている有機体の一細胞のように、最大の善という利益のためにのみ生きる。
 個人的な「わたし」の語法ではなく、集団的な「我々」の語法で思考する。
 ボルシェヴィキ哲学者のAlexander Bogdanow は、彼の二冊の科学小説、<赤い星>(1908年)と<技師メンニ>(1913年)で、21世紀のいつかに火星(Mars)にあるユートピア社会について叙述した。
 個人のあらゆる痕跡は「マルクス主義火星社会」では除去される。全ての仕事は自動化され、コンピータで稼働する。全員が性差のない衣服を着て、同じそっくりの住居に住む。子どもたちは特別の区画で養育される。
 異なる民族はなく、誰もが一種のエスペラント語を話す。 
 <技師メンニ>のある箇所では、主要な主人公の火星物理学者は、個人たる人間を創出した地球のブルジョアジーの使命を、社会の「原子を集めて」、それらを「単一の、知的な人間有機体へと融合する」という火星上のプロレタリアートの任務に喩える。(*17)//
 (5)集団を通じての個人の解放という理想は、ロシアの革命的知識人層にとっては基礎的なことだった。
 Gorky は、1908年に書いた。
 「『わたし』ではなく『我々』。—これが、個人の解放の基盤だ。
 そして最後には、人は世界の全ての富の、世界の全ての美の、人類の全ての経験の化身だと、そして精神的に全ての兄弟たちと同等の者だと、感じるだろう。」
 Gorky にとって、集団的精神の覚醒は、本質的に人間中心主義者(humanist)の責務だった。彼はそれを、啓蒙の公民(civic)精神になぞらえた。
 「ロシアは、文化革命の機会を逃してしまった」。
 彼の見方では、数世紀もの隷従制と帝制支配は「卑屈で鈍感な民衆」を育てた。受動的で 、進歩の影響を受けたくなく、 突如として破壊的暴力を爆発させがちだが、国家による強制がなければ建設的な国民的作業を行うことができない、そういう民衆を。
 要するに、ロシア人は、<nekulturnyi>、つまり「公民となっていない(文明化していない, uncivilized)」。積極的な公民であろうとする文化に欠ける。
 政治的および社会的革命が依って立つ文化的革命の任務は、この公民たる意識を培養することだ。
 Gorky の言葉では、その任務は「ロシア人を西側に並ぶよう駆り立てること」であり、「アジア的野蛮と怠惰の長い歴史」から彼らを解放することだった。(*18)//
 ———— 
 ②へとつづく。

2388/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 この書に邦訳書はない。試訳のつづき。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道③。
 (14-02)農民たちの小規模農地では市場用のものはほとんど作られず、消費用の物品がなくて食料の余剰は全て国家が持っていくという状況では、彼らの農地はぎりぎりの生存のための生産と村落と国との連結のための役割へと落ち込んだ。
 ボルシェヴィキは農民と取引をする物品をもたず、「穀物のための闘い」で冷厳な実力を行使した。武装部隊を派遣して農民たちの食糧を奪い取り、国じゅうの農民反乱を蹴散らした。
 これは、もう一つの隠れた内戦だった。
 ボルシェヴィキは、注意深く、自分たちの土地布令が神聖化した農民の小規模農地所有制度について口先だけの賛意を示したけれども—これは結局は、白軍との内戦で多数の農民の支持を獲得した理由だった—、ソヴィエトの農業の将来は、国家のために直接に生産する巨大な集団農場とソヴィエト農場—<コルホーズ,kolkhozy>と<ソホーズ,sovkhozy>—だ、と考えていた。
 厄介な農民たち—小所有者たる本能、迷信、伝統への執着をもつ—は、これらの社会主義的農場によって廃棄されるだろう。自分たちのために働く全ての農民は、<コルホーズ>または<ソホーズ>の「労働者」へと再配置されるだろう。
 Miliutin は、穀物、肉、ミルク、飼料を生産する農業工場を夢見ていた。それは、社会主義秩序を小規模農場への経済的な依存から解放するだろう。//
 (15)ここでもまた、ボルシェヴィキは、布令によって社会主義を創出することができるという夢想(utopianism)に囚われていた。
 ロシアの農民たちは元来、用心深かった。
 近代的技術と集団的労働チームによる大規模農場は本当に彼らの利益iなるので父親や祖父が維持してきた伝統—家族農業、共同体と村落—と訣別する十分な理由になる、と農民たちを説得するには、農学上の証拠にもとづく穏やかな教育をして、数十年を要しただろう。
 だが、1919年2月、ボルシェヴィキは、社会主義的土地機構に関する法令を採択した。これは一挙に、全ての農民農業は「旧式だ」と宣告した。
 大地主が所有するが耕作されていない全ての土地は、これによって新しい集団農地に変わった。このことは、大地主の資産は革命の貴重な獲得物だという主張を知っていた農民たちを大いに戸惑わせた。  
 1920年までに、1万6000箇所以上の集団農場および国営農場があり、合計でほとんど数千万エイカーの土地の広さがあり、数百万の被用者(多くは移住した都市住民だった)がそこで働いていた。
 国家が設置した最大の国営農場(<sovkhozy>)は、10万エイカー以上の広さがあった。一方、地方農民の協同組合が設置した多様な集団農場(<kolkhozy>)のうちの最小のものは、50エイカー以下だった。//
 (16)大きな集団農場の多くは、実験的な共産主義的生活様式の縮図だった。
 複数の家族が所有物を提供し合い、宿舎で一緒に生活した。
 女性たちは男性たちと並んで重い農業仕事を行い、ときには子どもたちのために託児所が設置された。
 宗教的慣行は存在しなくなった。
 この本質的には都市的生活様式は、工場での在来の組合組織をモデルにしたもので、地方の農民たちには相当に馴染みのないものだった。彼らは集団農場では土地や用具だけではなく妻や娘たちも共有されている、と考えた。全員が一緒に、巨大な毛布の中で寝ていたのだ。//
 (17)農民たちにとって醜聞ですらあったのは、集団農場のほとんどは農業について何も知らない人々によって運営されている、ということだった。
 国営農場は、大部分は都市部から逃亡した失業労働者で構成された。
 一方、集団農場は、土地を所有しない労働者、地方の職人たち、および、
不運にも飲み過ぎて、あるいはたんなる怠惰で自分の農場をうまく経営できなかった、最も貧しい農民たちで成っていた。
 農民集会では、集団農場の拙劣な運営に関する不満が圧倒的に述べられた。
 タンボフ地方の農民たちは、「彼らは土地を手にしたが、農業の仕方を知らない」と不服を発言した。
 ボルシェヴィキですら、集団農場は「個人の農民たちから投げかけられる批判に耐えることのできない、怠け者の避難場所」になっていていることを、やむなく認めざるを得なかった。
 食料の徴発を免れ、用具や家畜について国家の寛大な譲渡があったにもかかわらず、きわめて僅かの集団農場しか利益を挙げられず、多くの集団農場は損失を計上した。
 全収入のうち集団農場自体が生んだものは3分の1未満で、残りは主に国家が与えていた。
 いくつかの集団農場は、経営状態がひどいために、その農場での労働義務を地方農民に課すという徴用をしなければならなかった。
 農民たちはこれを新しい形態の農奴制と見なし、集団農場に反抗して闘いを挑んだ。
 それらの半分は、1921年の農民戦争により鎮圧された。//
 (18)こうした共産主義の実験に反抗したのは、農民層だけではなかった。
 工業分野でも、軍事化政策は労働者のストライキ、抗議運動、懈怠による消極的抵抗を増加させた。
 紀律を強化すべく意図された政策は、いっそうの不紀律(indiscipline)を生んだだけだった。
 ロシアの全工場の4分の3が、1920年の前半6ヶ月の間に、ストライキに見舞われた。
 逮捕と処刑の脅かしにもかかわらず、全国の都市労働者たちは、抗議しながら行進し、こう呼号した。「人民委員よ、くたばれ!」
 一般にあった感覚は、内戦終結から長く経つが、ボルシェヴィキは労働者階級に対する戦争類似の政策を維持している、というものだった。
 まるで全産業システムが永遠の国家緊急事態の罠に嵌まったかのごとくだった。平時ですら戦時体制にあり、この状態が労働者階級を搾取し、弾圧するために用いられていた。//
 (19)トロツキーの政策は、党内でも、党員各層からの反対に遭遇していた。
 トロツキーは、鉄道の混乱の原因だとして非難する鉄道労働組合を破壊して、国家機構に従属する総運送労働組合(Tsektran)に変えようとした。その高圧的なやり方は、ボルシェヴィキの労働組合指導者たちを激怒させた。彼らは、トロツキーの政策は労働組合の自立の全権利を剥奪する作戦の一環だと見た。
 労働組合の役割に関する論争が、1919年の初めから巻き起こった。
 その年の党の基本方針は、労働組合は直接に産業経済を管理すべきであるという理想を設定した。—しかしこれは、労働者階級がそのための教育を受けていてのみ可能だった。従って、そのときまでは、労働組合の役割は仕事場での労働者の教育と紀律に制限されるべきだ、との見解があった。
 独任者による経営への趨勢が継続するにつれて、多数派へと増加していた労働組合指導者たちは、労働組合による直接の経営という約束は遠い将来へと先延ばしされるのではないかと懸念するようになった。
 彼らは、1920年1月の第3回労働組合大会で、独任制経営の原理を課そうとする党指導者たちの努力を何とか打ち負かした。
 同年4月の第9回党大会で、彼らは党指導部と妥協して、その原理を受け容れる代わりに、経営者の一部として自分たちを任用するよう提案した。//
 (20)—労働組合と党・国家の間の—微妙な均衡は、1920年夏にトロツキーが提示した、運送労働組合を国家官僚機構の一端とするという案によって、ひっくり返った。
 労働組合の自治という原理全体が、今や危うくなっていた。
 労働組合指導者たちだけがトロツキーに反対したのではなかった。
 党の指導層自体の多くが、労働組合側を支持した。
 トロツキーの個人的対抗者のジノヴィエフは、「労働者を整列させる警察的やり方」だとトロツキーの案を非難した。
 Shlianikov は、1月にKollontaiが加わったが、労働組合の権利を防衛するためにいわゆる労働者反対派を結成した。そして、より一般的に言えば、労働者階級の「自発的な自己創造性」を抑圧すると彼らが言う「官僚主義」の蔓延に抵抗した。
 労働者反対派への労働組合、とくに金属労働者、の支持は拡大した。労働組合の間には、階級的連帯の感情—労働者による統制という理想と「ブルジョア専門家」に対する嫌悪の両者で表現されていた—が、最も強く根づいていた。
 彼らは、工場管理者や官僚層に対する嫌悪の声をますます大きくし、それらは「新しい支配階級」、「新しいブルジョアジー」だと非難した。
 こうした感情の多くは、党の別の主要な反対派、すなわち民主主義的中央派によっても表明された。
 ほとんどは知識人のボルシェヴィキであるこのグループは、党の官僚主義的中央主義と、直接に労働者が支配する機関としてのソヴェトの解体に、反対していた。
 彼らの基盤が最も強かったモスクワのより急進的な党員の中には、地方行政での<グラスノスチ、glasnost>、公開性を促進するために、地区の党執行部を党員各層一般に開放すらする者もいた。
 この者たちが、最初にこの言葉〔glasnost〕を用いた。//
 (21)これら二つの異論派的論議—労働組合と党・国家に関する—は、1920年の秋の間に一般的な危機へと融合し、かつ発展していった。
 9月の臨時党大会で、二つの反対党派は結びついて、民主主義と<glasnost>の促進を意図する一連の決議を通過させた。すなわち、全ての党会合は党員各層に公開されるものとする。下級党機関は上級機関の官僚の任用につきより多くのことを発言できるものとする。上級機関は党員各層に対する説明責任を負うものとする。
 反対党派はこの勝利に勇気づけられて、労働組合をめぐる闘いの準備をした。
 11月の第5回労働組合大会で、トロツキーは、全ての労働組合役員は国家によって任命されると提案することによって、戦いに挑んだ。
 これは、党内に激しい対立を発生させた。トロツキーは、即時の、かつ必要ならば強制的な労働組合の国家機構との融合を強く主張し、反対党派は必死になって、労働組合の自立性のために闘った。
 レーニンは、トロツキーの目標を支持した。しかし、痛手となる体制内部の分裂を回避するために、より高圧的ではない実行手段を擁護した。
 レーニンは警告した。「労働組合問題で党が争論するならば、それは確実にソヴィエト権力に終止符を打つだろう」。
 党中央委員会は、見込みもなく、この問題で分裂した。そして、つづく3ヶ月の間、党のプレス内での対立は激しくなり、各党派は、つぎの3月の第10回党大会で確実に起きるだろう決定的な闘いに備えて、支持をかき集めようとした。(*13)
 政権は明らかに危機に陥っており、国じゅうが反乱の暴動とストライキに巻き込まれていた。そのため、ロシアは、新しい革命の瀬戸際にあった。//
 ——
 ③および第15章第1節、終わり。

2379/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。今回の最後の段落は二つに分ける。
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 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道②。
 (9)1920年のあいだに、強制労働の原理は他の分野にも適用された。
 数百万の農民たちが、材木を伐採して輸送する、道路や鉄道を建設する、収穫物を集める、といった目的の労働チームへと徴用された。
 トロツキーは、全国民が労働連隊へと動員されれば常備軍またはmilitia の二倍の働きをするだろうと見込んだ。
 これは、1820年代の軍事大臣だったArakcheyev の軍事封建主義に似ていた。この人物はかつて、農奴労働をロシア西部国境の軍隊の業務と結合させた集団居住区網を作った。
 トロツキーの計画は帝政時代に長くつづいた「管理ユートピア」の相続者で、それはピョートル大帝にさかのぼるものだった。この大帝は全てを、軍隊の方法で考えた。非合理的なロシア人を理性化し、無秩序の農民を連隊化し、彼らを整列させ、鍛えて絶対主義国家の必要に応えるよう強いるために。
 トロツキーのように、Os'kin は、つぎのような日が来るのを待ち望んだ。「いかなる外国も、ロシアを侵略しようとはしない。民衆全てが、ある者は前線で手に武器を持ち、ある者は工業や農業の分野で、祖国を防衛しようとする気構えがあるために。
 全国土が、一つの兵舎になるだろう。」
 これは全て、官僚的な夢想にすぎなかった。
 労働軍と同様に、農民の労働チームは絶望的に非効率だということが判った。
 一本の樹木を倒して枝を切り刻むのに、平均して、50人の徴用者と一日全部が必要だった。 
 労働チームが建設した道路は平らでなかったので、ある観察者の言葉によると、「氷結した大海の波のように見えた」。そこを通るのは「乗り物遊びよりもひどかった」。
 労働義務からの離脱はあまりにふつうの事だったので、多くの地区では義務の履行自体ではなく脱走者の追跡に従事する者たちの方が多かった。
 脱走者を匿ったと疑われると、村は占拠され、制裁金が課せられ、ソヴェトの指導者を含めて、人質は射殺された。
 数千の農民たちが、労働紀律を破ったとして有罪とされた労働者の「矯正施設」として全ての地方(province)に設置された労働収容所へと送られた。(*7)//
 (10)労働者や学生が土曜日に、社会主義者の崇高な義務として街路や広場のごみを「自発的に」掃除するよう強いられていた。だが、この「土曜労働の作戦運動」、<subbotniki>も、同じように非効率だった。
 1920年のメイ・デイ(May Day)週間のあいだ、モスクワの100万人を超える住民がこの「労働の祭日」にかかわった。
 そのとき以降、その祭りは、ソヴィエト的生活様式の永続的な特徴になった。その週のみならず、全ての週の土曜日が、人々が支払いなく働くよう求められる日として予定されるようになった。
 ボルシェヴィキは、<subbotniki>はソヴィエト集団主義の輝かしい達成物だとして称賛した。
 政治的にはおそらく、それは都市住民に、紀律、従順および服従の意識を植えつけるのを助けただろう。
 結局のところは、<subbotniki>へと「自発的に参加する」ことをしないことは、疑念を生じさせ、おそらくは「反革命者」として訴追されることを意味した。
 しかし、感情的には、ほとんど何も達成しなかった。
 教授のVodovozov は、5月1日にペテログラードで行われた大衆的<subbotniki>の印象を、こう記録している。/
 「冬宮と海軍本部の間の広場に、活動の中心があった。
 手作業が必要とする以上にはるかに、本当におそろしく大変な数の労働者がいた。彼らは、冬宮の垣根が壊れて以来ほぼ18ヶ月間残っていた鉄の柵と積み重なったレンガをすっかり除去した。
 Rosta〔ロシア電信電話庁〕は、最後には汚い塀がなくなつた、と明確に述べた。
 だが、全くそうでなかった。レンガは本当になくなったが、鉄の柵は広場の端に積み重ねられていた。
 そこに今日も残っている。
 広場全体には、まだ山のように積み重なったゴミがある。
 疑いなく、不完全にでも塀を解体してしまうには、同じ場所に建設するよりも10倍の費用がかかる。」(*8)//
 (11)内戦の影響の一つは、貨幣価値の下落だった。
 ボルシェヴィキは、1918-19年の間、二つのことに考え悩んでいた。
 ルーブルの価値を維持するか、それとも廃止するか?
 一方で、財物や業務の代金を支払う貨幣を印刷しつづける必要も、認識していた。
 彼らはまた、大衆住民は通貨の価値で体制を判断するだろうことも知っていた。
 他方で、自分たちの通貨を導入するためにインフレを促進すべきだと考える、極左のボルシェヴィキもある程度はいた。
 彼らは、通貨制度を、国家発行のクーポンにもとづく物品配布の一般的制度に置き換えようとした。
 (誤って)想定していたのは、通貨を排除すれば自動的に市場システムは、そして資本主義は破壊され、結果として社会主義となるだろう、ということだった。
 経済学者のPreobrazhensky は、著書の一つを捧げた。すなわち、『財務人民委員部の印刷所へ。—頓馬なブルジョア体制を撃つ機関銃、通貨システム』
 1920年までに、左翼派は方向を見出していた。通貨は、それを守るのがもはや無意味になるほどに猛烈な速さで印刷されている。
 造幣局は1万3000人の労働者を雇っており、全く馬鹿げたことに、紙幣を印刷するのに必要な紙と染料を輸入するために大量のロシア・ルーブルの準備金を使っている。
 ルーブルを印刷するには、ルーブルが実際にもつ価値以上が必要なのだ。
 郵便、通信、輸送、電気のような公共的業務は、ルーブル紙幣を印刷して費用として使うことで国家が金を失っているのだから、自由に行われなければならない。(*9)
 このような状況は、超現実的だった。—しかし、これがロシアなのだった。//
 (12)ボルシェヴィキ左翼派は、配給券を共産主義秩序を創り出す偉業だと見た。
 配給が示す階級が、新しい社会階層でのその人の位置を明確にした。
 人々は、国家にそれを使うことで分類された。
 かくして、赤軍の兵士、官僚、重大工場の労働者は、第二級の配給を受け取った(適切な程度より少なかった)。
 一方で、階層の最下辺にいる<burzboois>は、第三級の配給でやりくりしなければならなかった(ジノヴィエフの記憶に残る言葉では、それは「匂いを忘れない程度のパン」だった)。
 実際に1920年の末までに、国家の貯蔵倉庫にはほとんど食糧がなくなった。—多数の人々が配給制度で暮らしていた。そして、第一級の配給で生活している者たちすら、飢餓の割合を減らす程度のぎりぎりしか受け取れなかった。
 3000万の人々が、国家の制度により何とか食っていけた、あるいは、食っていけなかった。
 都市住民のほとんどは、小工場の食堂に大きく依存していた。そこでは薄粥や軟骨が毎日提供された。
 だが、開いている店を見つけ、粗末な食事のために行列をするという競い合いは大変なものだったので、おそらくは実際に食事によって得たそれよりも、食べるまでにすることで多くの労力を費やしただろう。
 これは、馬鹿げたことのただ一つではなかった。
 食料、タバコから衣服、燃料、書籍まで、配給が導入されていたほとんど全ての分野で、製品が実際にもった価値以上の時間と労力が、それらの配布のために費やされた。
 労働者たちが配給を受け取るために列をなして並んでいる間、工場や役所は、動きを止めた。
 人々は平均して、毎日数時間かけてソヴェトの複数の役所を渡り歩いた。そして、よく折られた配給券を約束された物品と交換しようとした。しかし、その物品はときにしか見つからなかった。
 疑いなく、彼らは、自分たちが願い出ている官僚機構の者たちが十分に食べて、よい衣服を着ている様子に気づいたに違いない。//
 (13)ペテログラードの教授で1900年代の指導的リベラル派、そしてレーニンの若い頃の友人だったVasilii Vodovozov は、その日記に、典型的なある一日を描写している。
 ソヴィエト同盟について知っていた読者は、彼と同様の観察をしたかもしれない。/
 「1920年12月3日
 この私の日々を、数人の幹部たちについてを除いて、叙述していく。—瑣末な詳細がそれ自体で興味深いからではなく、ほとんど全ての者の典型的な生活状態だからだ。/
 今日、午前9時に起床した。
 まだ暗くて家の光はまだ点いていなかったので、これより前に起きても無意味だ。
 燃料が足りない。
 使用人はおらず(何故かは別の話になる)、湯を沸かして病気の(スペイン風邪にかかった)妻の世話をし、独りでストーブ用の薪を取ってこなければならない。
 (オート麦の)コーヒーを、もちろんミルクや砂糖なしで飲んだ。そして、2週間前に1500ルーブルで買った一塊のパンから作った一片の食パンを食べた。
 小さなバターもあった。この点で私は、たいていの人よりもまだ状態が良かった。
 11時までに外出の準備をした。
 しかし、朝食の後でもまだ空腹で、野菜店へ行って食べることに決めた。
 恐ろしく高価だったが私がペテログラードで知っている唯一の場所で、そこは食べるのが比較的容易で、どこかの人民委員部の規制がなく、または許可を必要としなかった。
 この場所すら閉まっていて、あと数時間は開店しないことが判った。それで、ペテログラード第三大学まで行った。そこは大学としては実際には閉まっているのだが、私が食事を登録しているカフェテリアがあった。
 そこで、私と妻と、やはり登録している友人のVvedensky家が食べられるものを購入しようと望んだ。
 しかし、ここでも不運だった。食べたい人々の長い行列があり、うんざりとした気分と苛立ちが彼らの顔に浮かんでいた。 
 列は少しも動かなかった。 
 いったい何が問題だったのか?
 ボイラーが壊れていて、少なくとも1時間は遅れるだろう。/
 遠い将来にこれを読む者の中には、この人々は大宴会を待っていたと想う人がいるかもしれない。
 しかし、食事は全部で、一つの料理だけだった。—ふつうは、ジャガイモかキャベツの入った薄いスープ。
 肉などは、問題外だった。
 特権のあったほんの少しの人々だけが、肉を食べた。—つまり、台所の内側で仕事をした者。/
 私は、そこを去って仕事の後まで食べるのを延ばすことに決めた。
 午後1時まで路面電車がまだ来なかったので、野菜店に戻った。そこには食料はなく、少なくともあと30分はその見込みもなかった。
 空腹のままで仕事に行く以外の選択肢はなかった。/
 Nikolaev 橋で、ようやく電車4号線の車両をつかまえた。
 路線上に流れはなく、静止したままだった。
 私は何故かをまだ理解していない。
 路面電車は全て停まっていた。だが、運行し続けるだけの燃料がないと分かっていたなら、どうして進行しなかったのか?
 人々は座席にすわったままだった。—何人かがとうとう諦めて、目的地に向かって歩き始めた。残る者たちは、Sisyphus の辛抱強さで座っていた。
 2時間後に私は電車が動いているのを見たが、5時までに再び、路面電車は全て停まった。/
 午後2時頃、私は徒歩で文書館まで到着していた。30分そこにいて、その後に大学へと行った。大学では午後3時に、手渡されるキャベツの配給のあることが予定されていた。
 誰に対してか私はよく知らなかったが、たぶん、教授たちにだろうと思った。—だから機会を得る必要があった。
 しかし、私は再び、幸運から外れた。すなわち、キャベツは配布されず、翌日に与えられることが判った。
 しかも、教授たちにではなく、学生たちに対してだけだった。/
 私はまた、大学では先の1週間、パンの配給もないだろうということを知った。ある人々は、パンはすでに全部、全ての委員会を動かしている共産党員に提供された、と言っていた。/
 大学から家に帰り、妻を見守り、必要なことをし、食べられると希望して野菜店へと再び戻って行った。
 もう一度、運が悪かった。食料は全てなくなり、少なくとも先の1時間はもう何もなかった。
 待たないと決めて、Vvedensky の家へ行き、あとで順番を待つことができるかと頼んだ。
 5時に家に帰った。
 そして、その日の最初の幸運の一欠片にめぐり会った。我々の地区の電灯が点けられていた(ペテログラードは電気について二つの地区に分けられていた。電力不足のため、各地区は交代で夕方に灯りが点いた)。
 そのため、読書する貴重な時間ができた。—食事、パンやキャベツ、あるいは材木取りのための走り回りから自由になった最初だった。
 6時にVvedenskyの家へ食べに行った(やっと!)。そして帰ってきて、この文章を書いている。
 9時、もう暗かった。
 好運にも友人の一人がやって来て、その夜の数時間、妻の世話をしてくれた。私には再び貴重な時間だった。
 9時過ぎて、ろうそくを灯し、湯わかしの火をつけ、妻と一緒にお茶を飲んだ。そして、11時に就寝した。」(*10)//
 (14-01)共産主義ユートピアの鍵は、食糧供給の統制だった。それなくして、政府は経済と社会を支配する手段を持たない。
 ボルシェヴィキは痛々しく、彼らの体制が圧倒的多数の農民のおかげで存在していることを、知っていた。
 ——
 ③へとつづく。

2377/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節①。

 仕事(生業)で英語を使ったことはなく、大学生時代の英語の授業は高校のときよりも簡単でつまらなかったので、実質的には日本の公立高校卒業時の英語の力を基礎にして、<試訳>をつづけている。
 **
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 最終章の第16章の試訳を終え、その前の第15章へと移る。同じ章の中では、第一節→第二節→…と進む。
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道。
 (1)Dmitry Os'kin は、内戦での危険な経験のあと、1920年の第二労働軍の指揮官を引き受けた。
 この軍はDenikin の打倒のあとで第二赤軍の余剰兵団から形成され、南西部戦線の荒廃した鉄道を復旧させることを任務としていた。
 兵士たちは、ライフル銃の代わりに鋤をかついだ。
 Os'kin は、のちにこう書いた。
 「もうこれ以上戦闘にかかわりたくないという、気落ちした感情が一般にあった。
 鉄道の側での、気怠い生活だった。」
 指揮官の唯一の代償は、革命と内戦という惨事の後の経済の復興には知識がきわめて重要だったが、その知識を得られることだった。
 南部の諸鉄道は、北部の工業都市への穀物と油の供給という重要な役割を担っていた。
 内戦で、およそ3000マイルの線路が破壊されていた。
 破壊された機関車の残骸があちこちにあった。
 Os'kin は、Balashov からVoronezh へと移動しながら、一般的な惨状を記した。
 「駅には誰一人おらず、列車が稀に通過した。夜には照明がなく、電報局にはろうそくだけがあった。
 建築物は半分破壊され、窓は壊れ、汚物とゴミが高く積み重ねられていた。」
 これは、ロシアの荒廃の象徴だった。 
 Os'kin の兵士たちは、汚い散物を掃除し、線路と橋脚を作り直した。
 軍技術者たちは、列車を修理した。
 夏までに、鉄道は再び機能し始め、作戦は大成功したと宣言された。
 この兵団を経済の別部門を稼働させるために使うことが、語られた。//
 (2)トロツキーは、軍事化の最高の闘士だった。
 彼の命令によって1920年1月に、第三赤軍の残余兵を集めた第一労働軍が組織された。
 Kolchak 打倒のあと、兵士たちはそのまま戦闘部隊にとどめられ、「経済前線」へと再配置された。—鉄道の修繕の他に、食糧の手配、樹木の伐採、単純な物品の製造。
 計画は、ある部分は実践的だった。
 ボルシェヴィキは、経済危機の真っ最中に軍の動員解除をするのを恐れた。
 かりに数百万の失業した兵士たちが都市部に集まることが、あるいは覚醒した農民たちの隊列に加わることが許されたとすれば、(1921年に起きたように)全国土的な反乱が発生し得ただろう。
 さらに加えて、鉄道を復旧させるには断固たる措置を必要とすることは明瞭だった。トロツキーは鉄道を、内戦による荒廃後の国の回復の鍵だと見ていた。
 彼は1920年1月、輸送人民委員になった。それは彼が積極的に望んで得た最初の地位だった。
 鉄道は、慢性的な破損以外に、腐敗した役人たちによって悩まされていた。彼らは殺到する仲介者へと堰を切ったように向かい、システムに大混乱を生じさせていた。
 些細な地方主義も、鉄道を麻痺させていた。
 全ての離れた支線にはそれら用の委員会があり、稀少な車両を求めて相互に競争する数十の地区鉄道局があった。
 それらは、「自分たちの」機関車を隣接する局に譲って失うよりも、列車をまだ管理している間に車両を切り離そうとした。そうすると、列車は数時間、ときには数日間止められ、新しい機関車は次の車庫から出られなくなるのだった。
 鉄道職員は懸命に努力したにもかかわらず、トロツキー配下の上級官僚たちがOdessa からKromenchug まで300マイルを旅するのに、一週間全部を要した。(*2)//
 (3)しかし、トロツキーの胸中の計画には、軍事のごとく動く社会全体についての広大な展望があった。
 1920年の多数のボルシェヴィキのように、トロツキーは、参謀部が軍を指揮するのと全く同じく、国家が社会の指揮官だと見ていた。—計画に従って社会の諸資源を動員するのだ。
 彼は、軍事様式の紀律と厳密さでもって稼働する経済が欲しかった。
 全民衆は、労働する連隊や旅団へと徴用されなければならず、兵士たちと同様に、生産命令を達成するために(「戦い」、「作戦行動」(campaign)といった語が使われる)経済の前線へと派遣されなければならなかった。
 ここには、スターリン主義の命令経済の原初的形態がある。
 両者をいずれも駆り立てたのは、ロシアのような後進国では、国家による強制(coercion)を共産主義への近道として用いることができるという考えだった。したがって、市場を通じての資本蓄積のためにNEP類型の段階が長く継続する必要性は排除される。
 両者がともに基礎にしていたのは、布令によって共産主義を押しつけることができるという官僚主義的な幻想だった(どちらの場合も、結果はマルクスが見出したものとは異なる封建主義にむしろよく似たものとなったけれども)。
 メンシェヴィキがかつて警告したように、ピラミッドの建造に使われた方法を用いて社会主義経済への移行を完成させるのは不可能だった。//
 (4)内戦勝利後のボルシェヴィキにとっては、赤軍を社会の残余部分を組織するモデルだと見なすことは、疑いなく魅力的なことだった。
 <Po voennomy>—「軍隊のように」—は、ボルシェヴィキの語彙では効率性(efficiency)と同義となった。
 軍事手段が白軍を打倒したのだとすれば、それを社会主義建設のために用いることが、何故できないのだろうか?
 なすべきことはただ、経済前線へと行進するために軍の周りに結集することであり、そうすれば、全労働者が計画経済のための歩兵となる。
 トロツキーはつねに、工場は軍隊のごとく動かされなければならないと主張した。(原注+)
 〔(+)同じことは同時期に、Gastev やその他のロシアでのTaylor 運動の先駆者たちによっても表明された。〕
 彼は、このとき、1920年の春、この勇敢な新しい共産主義的労働を、こう概述した。計画経済の「司令官が労働前線に対して命令を発出し、毎夕に司令部の数千の電話が鳴り響き、労働前線での征圧が報告される」。
 トロツキーは、強制労働へと徴用する社会主義の能力は、資本主義に対する主要な優位点だ、と論じた。
 経済発展についてロシアに欠けているものを、国家の強制力でもって補充することができる。
 市場を通じて労働者を刺激するよりも、労働者を強制する方がより効率的だ。
 自由な労働はストライキと混乱をもたらすが、労働市場の国家的統制は規律と秩序を生み出すだろう。
 こうした議論は、トロツキーがレーニンと共有した見方にもとづくものだった。その見方とは、ロシア人は悪辣で怠惰な労働者だから、鞭でもって駆り立てなければ働こうとしない、というものだ。
 ソヴィエト体制と多くの点で共通性があった農奴制のもとでの大地主層も、同じ見方をしていた。
 トロツキーは、農奴労働の成果を称賛し、それを自分の経済計画を正当化するために使った。
 彼は、強制労働の利用は非生産的だという批判者からの警告を聞いても困らなかっただろう。
 1920年4月の労働組合大会で、こう言った。「かりにそうならば、きみたちは、社会主義を十字架に掛けることができる」。(*3)//
 (5)「兵営共産主義」の奥底にあったのは、独立した、いっそう反抗的になっている勢力としての、労働者階級に対するボルシェヴィキの恐怖だった。
 ボルシェヴィキはこの頃から顕著に、「労働者階級」(rabochii class)ではなく、「労働勢力」(rabochaia sila または短くrabsila)と語り始めた。
 この変化は、革命の積極的主体から党・国家の受動的な客体への労働者の変化をよく示唆していた。
 <rabsila>は階級ではなく、諸個人の集合体ですらなく、たんなる大衆(mass)でしかなかった。
 労働者の意味のこの言葉(<rabsila>)は、語源への回帰だった。すなわち、奴隷(slave)の意味の言葉(<rab>)への。
 ここに、収容所(Gulag)制度の根源があった。—建築現場や工場で強制的に働かせる(dragoon)、半ば飢えてぼろ布を着た農民たちの長い列、という意識(mentality)。
 労働軍は「農民という原料」(<muzhitskoe syr'te>)で作られると語ったとき、トロツキーは、この意識を典型的に示していた。
 人間の労働は、マルクスが賛えた創造的な力から全くかけ離れて、現実には、国家が「社会主義を建設する」ために使う材料にすぎなかった。
 このような倒錯は、出発時点から、システムに内在していた。
 Gorky は、彼が1917年に「労働者階級は、レーニンにとっては金属加工業者のための鉱石のようなものだ」と書いたとき、このことをすでに予見していた。(*4)//
 (6)内戦での経験によって、ボルシェヴィキ指導者たちの労働者階級との関係についての自信が増大する、ということは全くなかった。
 食糧不足のために、労働者たちは小取引者となり、一時的な農民になって、工場と農場の間を動き回った。
 労働者階級は、漂泊民になっていた。
 工業は、工場労働者が地方からの食糧を買いに旅行するために半分はいなくなって、混乱に陥った。
 工場にいる労働者たちは、農民たちと交換取引をするための単純製品を作って時間のほとんどを費やした。
 需要が大きい熟練の技術者たちは、より良い条件を求めて工場から工場へと渡り歩いた。
 生産高が、革命前の水準のごく一部にまで落ち込んだ。
 最重要の軍需品工場群ですら、事実上は休止状態になった。
 労働者の生活水準が悪化するにつれて、ストライキや意図的遅延が常態化してきた。
 1919年の春のあいだ、ストライキが全国的に勃発した。
 都市のほとんどもまた、無関係ではなかった。
 食糧を十分に供給できるところは全て、ストライキ実行者が要求する表の最上位を占めた。
 ボルシェヴィキは、弾圧でもって答えた。多くはメンシェヴィキ支持者だと嫌疑をかけた数千の実行者を逮捕し、射殺した。(*5)//
 (7)イデオロギー上の理由で市場を拒絶していたので(原注+)、ボルシェヴィキは、その刺激なくしては、実力による脅迫以外には労働者に影響力を行使する手段をもたなかった。
 〔原注+/トロツキーは1920年に、NEPに似た市場改革の暫定案を提示した。しかし、中央委員会はそれを却下した。彼はただちに軍事化政策へと立ち戻った。自由取引によるのであれ強制によるのであれ、経済の復興が必要だった。〕
 ボルシェヴィキは、高い賃金という報償を与えることで生産を高めようとした。その報償はしばしば出来高と連結していて、異なる賃金支払いを排除するという革命の平等主義的約束へと戻ることになった。
 しかし、労働者は紙幣で多くの物を購入することはできなかったので、これは大した誘因とはならなかった。
 労働者を工場にとどめておくために、ボルシェヴィキは、現物で支払うことを強いられた。—食糧そのものか、または農民との交換に使うことのできる工場の製品のいずれかで。
 地方ソヴェト、労働組合および工場委員会は、 このような方法で労働者に支払う許可を求めて、モスクワを攻めたてた。そして、自分の権限でそのように行った。
 1920年までに、工場労働者の大多数は、自分たちの生産物の分け前で、部分的には支払われていた。
 労働者たちは、紙幣ではなく、釘が入ったバッグ、一ヤードの布を家に持って帰り、食料と交換した。
 意図されないかたちで、計画経済の中心で、初期的な市場がゆつくりと再び出現していた。
 この自発的な動きが阻止されないままであったなら、中央行政は国の資源の統制権を失い、そして生産を支配する権力も失っていただろう。
 1918-19年にこの動きを止めようとしたが失敗して、1920年以降は、止めるのではなく、労働者が不可欠で重要な工業に従事することが確実であるかぎりで、この自然な支払いを組織化しようとした。
 これが、重工業の軍事化の土台となった。戦略上重要な工場は、戒厳令が布かれることになる。労働者は赤軍の配給を保障されることになるが、その代わりに、作業現場には軍事的紀律が導入され、「工業前線」での脱走により射殺された者がいたために常時欠勤者があった。
 その年の末までには、主として軍需と鉱山の3000の企業が、このようにして軍事化された。
 兵士は労働者へと変わっていき、労働者は兵士へと変わっていった。//
 (8)これと結びついていたのは、一部は労働者により選出された合議制の経営委員会から、党階層により任命されるのが増えていた独任制管理者による単独経営へという、権力の一般的な移行だった。
 トロツキーは、選挙される軍事司令官から任命されるそれへの変化を引き合いに出して、これを正当化した。この変化が、内戦での赤軍の勝利の根源だったのだ、と。
 新しい経営者たちは、自分たちは工業軍の司令官なのだと考えた。
 彼らは、労働組合の諸権利は、軍での兵士委員会がかつてそうだったのと同じく、工業の規律と効率性に対する煩わしくて不要な邪魔物だと見た。
 トロツキーは、労働組合の党・国家装置への完全な従属を主張するまでにすら至った。このとき以降、「労働者の国家」には、労働者が自分たちの自立した組織をもついかなる必要も、もはやなくなった。(*6)//
 ——
 ②へとつづく。

2373/O·ファイジズ・人民の悲劇(1996)第16章第3節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に、邦訳書はない。試訳のつづき。p.804-7。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い⑤。
 (27)レーニンが死にかけていることを、一般国民は知らされなかった。
 プレスは最後まで、レーニンは深刻な病気から回復しつつあると報告しつづけた。—深刻な病気ならば、死を免れない人間は死んでしまうだろう。
 体制は、この「奇跡の回復」を考え出すことで、レーニン崇拝(cult)を生き続けさせようとした。体制自体の正統性意識が、ますますこれに依存してきていたのだ。
 「レーニン主義」という語が、1923年に初めて使われた。
 三頭体制は、「反レーニン主義者」であるトロツキーに対抗する真の防衛者だと自己宣伝しようとした。
 その同じ年に、正統派の聖典であるレーニン全集の初版の刊行が始まり(<Leninskii sbornik>)、レーニン研究所が設立され、レーニンに関する資料館、図書館および博物館が完成した。
 洪水のごとく聖人伝が刊行されたが、その主な目的は神話と伝説を作り出すことだった。—貧しい農民または労働者だったレーニン、動物や子どもが好きなレーニン、人民の幸福を目指した勤勉な労働者としてのレーニン。それらは、体制をより民衆的なものにするのに役立ったかもしれない。
 莫大な数のレーニンの肖像写真が公共建築物の正面に現われ始めたのも、このときからだった。
 モスクワのある公園には、花壇用草花で作られたレーニンの「生きている肖像」すらがあった。一方で、多くの工場や役所の内部には、彼の偉業を解説する公認の写真や資料が置かれた。(*48)
 人間のレーニンは死んだ。そして、神のレーニンが生まれた。
 彼の個人的生涯は国有化された。
 それは、スターリン主義体制を神聖なものにするための、聖なる装置だつた。//
 (28)1924年1月21日、レーニンは死んだ。
 午後4時に大きな脳発作があり、昏睡に入って、午後7時すぐ前に死亡した。
 家族と付添医師を除けば、レーニンの死を看取った唯一の者は、ブハーリンだった。
 彼は1937年に、自分の生命を守ろうとして、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と主張した。(*49)
 (29)クレムリンは翌日、開会中の第11回ソヴェト大会の代議員たちに向けて、発表した。
 会場からは叫びと嗚咽の声が聞こえた。
 おそらくは予期していなかったのが理由だが、公衆は純粋な悲しみの表情を見せた。
 劇場や店舗は、一週間閉鎖した。
 赤と黒のリボンで飾られたレーニンの肖像写真が、多数の窓に掲示された。
 農民たちが、最後の敬意を示すべくGorki の家にやって来た。
 数千の弔問者たちが、北極地方の寒さを物ともせず、レーニンの遺体が運び込まれたthe Hall of Columns まで、Paveletsky 駅からモスクワの通りを並んだ。
 つぎの三日間、50万の人々が数時間かかって、棺台の側を通りすぎた。
 数千の花輪と哀悼の飾り物が、学校や工場、連隊や軍艦、ロシアじゅうの町や村から送られてきた。
 のちに葬礼のあとの数ヶ月、レーニンの記念碑や像を建立する狂ったような動きがあった(Volgograd のそれはレーニンを巨大なネジの上に立たせた)。街路や施設が、彼にちなんで改称されたのも同様だった。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場全体が、入党を誓約した。—ある煽動家は、それが「逝去した指導者に対する最大の花輪だ」と言った。そして、レーニン死後の数週間で、10万人のプロレタリアートが、いわゆる「レーニン登録」に署名した。
 西側の多数の報道記者たちは、この「全国民的な服喪」は体制に対する「信頼へのpost-modern な票決」だと見た。
 別の者は、多年の苦しみの後で集団的に悲しみを吐き出して解放するものだとした。
 説明し難いことだが、人々はヒステリックに嗚咽し、数百人が気絶した。
 おそらくは、レーニン崇拝がすでに始まっていたことを示している。どれほどレーニン体制を嫌悪していても、かつて支配階級(boyars)を侮蔑しつつも「父なるツァーリ」を愛したのとちょうど同じように、「神なるレーニン」をなおも愛したのだ。//
 (30)レーニンの葬儀は、つぎの日曜日に、摂氏零下35度の寒さの中で行われた。
 スターリンが、the Hall of Column から赤の広場まで、開いた棺を運ぶ儀礼兵たちを引き連れた。赤の広場にある木製の基台の上に、それは置かれることになつていた。
 ボリショイ劇場楽団がショパンの葬送行進曲を演奏し、古い革命歌の「You Fell Victim」とインターナショナルが続いた。
 そして、6時間のあいだ次から次への隊列が、約50万人とされる人々の中を、陰鬱な静けさの中で、幕を下げながら、棺とともに分列行進をした。
 午後4時ちょうど、棺が保管室へとゆっくりと下されたとき、サイレン、工場の時笛、機関砲、銃砲がロシアじゅうに鳴り響いた。それはまるで、巨大な国家的悲嘆を放出させるがごとくだった。
 ラジオではただ一つのメッセージだけが読み上げられた。「同志たちよ、起立せよ。Ilich が墓所へと下されている」。
 そして、静寂があり、全てが止まった。—列車、船、工場。ラジオが、「レーニンは死んだ。しかし、レーニン主義は生きている」ともう一度伝えるまで。//
 (31)レーニンはその遺書で、ペテログラードの母親の側に埋葬してほしいと表明していた。
 それは彼の家族の望みでもあった。
 しかし、スターリンは、レーニンの遺体を保存したかった。
 彼がレーニン崇拝を存続させつづけるべきだとすれば、「レーニン主義は生きている」ことを証明しなければならないとすれば、レーニンの遺体は展示されなければならなかった。聖人たちの遺物のように、腐敗することのないよう処理された遺体が。
 スターリンは、トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って、その案を政治局が承認するよう強いた。
 保存という考えが浮かんだ契機の一つは、1922年のツタンカーメンの墓の発見だった。
 <Izvestiia>で、レーニンの葬礼は、「古代の偉大な国家の創設者」のそれに喩えられた。
 しかし、おそらくは、ロシア正教の典礼についての、スターリンによるByzantine 式の解釈によるところが大きいだろう。
 スターリンの計画に恐れ慄いたトロツキーは、それを中世の宗教的狂信に喩えた。
 「中世には、Sergius of Radonezh やSeraphim of Sarov の聖跡があった。今は、これらをVladimir Ilicch の遺体に代えようとしている。」
 最初は、凍結の方法でレーニンの遺体を保存しようとした。
 だが、遺体はすぐに腐食し始めることが判った。
 2月26日、レーニンの死から5週間のちに、科学者の特別チーム(「不朽化委員会」として知られる)が任命された。その任務は、防腐用液体を見出すことだった。
 数週間を働きつづけて、科学者はついに、グリセリン、アルコールおよび他の化学物質を含むとされる解決方式にたどり着いた(正確な構造はいまもなお秘密のままにされている)。
 レーニンの塩漬けの遺体は、赤の広場のクレムリンの壁近くのクレムリン木造地下室に置かれた。—のちに、今日も現存する御影石の廟に移された。
 それが一般に公開されたのは、1924年8月だった。//
 (32)レーニンの脳は遺体から取り除かれ、レーニン研究所へと移された。
 その脳は、「天才の実体」を発見する責務を負った研究者たちの研究に供された。
 彼らは、レーニンの脳は「人間の進化の高い段階」を表現していることを示すことになっていた。
 3万の切片へと薄切りされて、慎重に検査できる状態でガラス板の間に保管された。そして、将来の世代の科学者たちは、それらを研究して本質的秘密を発見することになるだろう。
 その他の「明白な天才たち」—Kirov、Kalinin、Gorky、Mayakovsky、Einstein およびスターリン自身—の脳は、のちにこの大脳収集物の中に加えられた。
 これらが、今日もなおモスクワにある脳研究所を形成した。
 1994年に、レーニンについての最終的な検査結果が発表された。それは、レーニンの脳は完全に平均的な脳だ、というものだった。(*51)
 この結果は、ふつうの脳でもときには尋常でない行動を掻き立てることがある、ということを示していることになる。//
 (33)レーニンが死んでいなかったら、どうなっただろうか?
 NEP やレーニンの最後の文書は、異なる発展方向を提示しただろうか?
 歴史家は、まともには仮定の問題を扱うべきではない。ましてや、起こっただろうと(またはこの場合は、起こらなかっただろうと)予想してはならない。
 しかし、レーニンの後継者問題の帰結については、おそらく若干の考察を試みることが十分に許容されるだろう。
 結局のところ、革命の歴史のかなりの部分はスターリンのロシアで起きたことから遡って書かれてきたので、現実にはどのような選択肢があったのかとを問題にしてよい。//
 (34)第一に、スターリン主義体制の基本的な要素—一党国家、テロルのシステム、個人崇拝—は、すでに1924年までに全て存在した。
 党の諸機構は、その大部分が、スターリンの手中にある従順な道具だった。
 地方の幹部たちの大部分は、内戦中に組織局の長であるスターリンが任命していた。
 彼らは専門家や知識人に対する卑俗な嫌悪感を共有し、プロレタリアの連帯とロシア・ナショナリズムを説くスターリンのレトリックの影響を受けた。そして、イデオロギー上のほとんどの問題について、自分たちの偉大な指導者に従うつもりだった。
 結局、彼らはかつてのツァーリの臣民だったのであり、党の「民主主義的」改革を目指すレーニンの最後の闘いは、この基礎的な文化を変えることができそうになかった。
 彼が提起した改革は全く官僚制的なもので、独裁制の内部構造の改革にだけ関係があった。そして、そのようなものだったので、NEPの本当の問題に向かうことができなかった。つまり、体制と社会、とくに征圧されていない農村地帯、の間の緊張した関係。
 真の民主主義化がなく、ボルシェヴィキの支配する姿勢の根本的な変化がなく、NEP は必ずや失敗する運命にあった。
 経済的自由と独裁制は、長期的に見れば併立し難いものだ。//
 (35)第二に、他方で、レーニンの体制とスターリンのそれとの間には基礎的な違いがあった。
 初期の頃は、党員が殺戮されることはほとんどなかった。
 そして、分派が禁止されたにもかかわらず、党にはまだ同志的な論議をする余地があった。
 トロツキーとブハーリンは、NEP の戦略を情熱的に議論し合った。—前者のトロツキーは、市場システムの破綻が工業化の減速をもたらす畏れがある場合の農民からの食糧の搾取につねに賛成したが、後者のブハーリンは、市場を基礎にした農民との関係を維持するために工業化が減速するのを認める方を好んだ。
 しかし、これはまだ知識人的な論議であり、二人ともに、NEP の支持者だった。そして、このような違いがあっても、二人ともに、こうした議論を互いに殺戮し合い、論敵をシベリアへと追放するための口実に用いるなどとは、夢にも考えなかっただろう。
 スターリンだけが、これをすることができた。
 彼だけは、トロツキーとブハーリンが政治的な論議と対立に夢中になっているので、自分は片方を使ってもう片方を破壊することができる、と見た。//
 (36)この意味で、スターリンの役割は、それ自体がきわめて重大(crucial)だった。—彼がいなければ、レーニンの役割がそうだったように。
 もしも、レーニンが最後の脳発作で1923年の党大会で発言することができなくなる、ということがなかったなら、今日ではスターリンの名前は、ロシアの歴史書の、脚注にだけ現われていただろう。
 しかし、「もしも(if)」は、かりにお望みならば、神の摂理(providence)のうちにある。この書は歴史であって、神学ではない。//
 —— 
 第三節⑤、終わり。第16章(最終章)も、終わり。

2369/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 試訳のつづき。p.801-p.804。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い④。
 (21)レーニンを除外することは、まさにスターリンが必要としたことだった。
 スターリンは、スパイを通じて、第12回党大会に対するレーニンの秘密の手紙を知っていた。
 自分が生き残って仕事を続けるためには、党大会でそれが読み上げられるのを阻止しなければならなかった。
 3月9日、スターリンは書記長としての自分の権限を使って、党大会を3月半ばから4月半ばへと延期させた。
 トロツキーは、党大会でスターリンが転落すれば最も利益を得る立場にあったけれども、遅らせることに進んで同意した。
 彼は、自分は「実質的にレーニンと合意している」が(つまり、ジョージア問題と党改革について)、「現状を維持するのに賛成」で、政治の「急激な変化」がなされるならぱ「スターリンの排除に反対」だと言って、カーメネフを安心させすらした。 
 トロツキーは、「策略ではない誠実な協力関係があるべきだ」という望みをもって、そう決断していた。
 この「腐った妥協」—まさにレーニンがトロツキーにそうしないよう警告していたもの—の結果は、スターリンが党大会で敗北ではなく勝利を獲得した、ということだつた。
 民族問題や党改革に関するレーニンの覚書は、代議員たちに配布された。そして討議されたが、指導部によって却下された。
 いずれにせよ、代議員たちのほとんどは、他の全問題の中でもとくに党の統一が必要なときに、民主主義について論議して時間を費やす必要はない、というスターリンの見解を支持していた。
 トロツキーを沈黙させ、政治局に対する批判を抑え込む切迫した必要が、それ自体、スターリンが権力へと昇りつめる決定的な要因となった。(*43)
 後継者問題に関するレーニンの覚書は、スターリンは解職されるべきだとの要求も含めて、党大会では読み上げられず、1956年まで隠されたままだった。(+)
 (+原書注記)—遺書の内容は、1924年の第13回党大会の代議員に知らされた。スターリンは退任すると申し出たが、ジノヴィエフの「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと」という提案によって却下された。レーニンとの対立はレーニンは病気で精神状態が完全に健全ではないという含みとともに、個人的衝突として黙過された。最後の覚書のどれ一つとして、スターリンが生きている間はロシアで完全には公表されなかった。1920年代の党のプレスで、断片的には伝えられたけれども。しかし、トロツキーとその支持者たちは、彼らの論評を西側に十分に知らせた(Volkogonov, Stalin, ch. 11)。//
 (22)トロツキーの行動を説明するのは困難だ。
 大勝利を獲得し得た、その権力闘争の決定的瞬間に、彼はどういうわけか自分の敗北を画策した。
 党大会で選出された新しい中央委員会の40名の中で、トロツキーはわずか3名の支持者だけを計算することができた。
 おそらくは、とくにレーニンの脳発作のあとでは、孤立が深まっているのを感じて、トロツキーは、三人組との宥和を試みることに希望を見出すことに決意した。
 彼の回想録は、自分は三人の指導者の陰謀に敗れたという確信で充ちている。
 トロツキーが彼らを拒むのを選べば、本当に現実的な危険が、たしかにあった。
 トロツキーは「分派主義」だと追及されていただろう。—1921年以降では、これは政治的な死刑判決だった。
 しかし、トロツキーには闘う勇気がなかったという意見にも、ある程度の真実はある。
 彼の性格には内面的な弱さが、自分の誇りに由来する弱さがあった。
 敗北するという見込みに直面して、トロツキーは闘わないことを選んだ。
 彼の最も古い友人の一人は、ニューヨークでのチェス遊びの話を語る。
 トロツキーは「明らかに自分の方がチェスが上手いと考えて」、彼を試合に誘った。
 だが、自分が弱くて、負けてしまったと判ると、機嫌が悪くなり、もう一度ゲームをするのを拒んだ。(*44)
 この小さな逸話は、トロツキーの特徴をよく示していた。自分を出し抜くことのできる優位の対抗者に遭遇したとき、彼は、不利な条件を克服しようとして面目を失うよりは、退却して名誉ある孤立をする方を選んだ。
 (23)これはある意味では、トロツキーがつぎに行ったことだった。
 党の最上級機関でスターリンと闘うよりは、指導部の「警察体制」と闘う党内民主主義の旗手のふりをして、ボルシェヴィキの一般党員たる地位を選んだ。
 これは絶望的な賭けだった。—彼の民主主義的な習性はほとんど知られておらず、恐ろしい「分派主義」に陥る危険があった。しかし、絶望的な苦境に立ってもいた。
 トロツキーは10月8日、党中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の全ての民主主義を抑圧していると非難した。/
 「党組織の実際の編成に一般党員が関与することが、いっそう軽視されてきている。
 独特の書記局員心理がこの数年間に形成されてきており、その主要な特質は、基礎的な事実を知りすらしないで、党書記は全てのどんな問題でも決定する能力があるという信念だ。…
 政府と党機構のいずれにも、広範な階層の活動家党員がいる。その者たちは、党に関する自分たちの見解を、少なくとも公然と表明するかたちでは完全に抑制している。まるで、自分たちは党の見解と政策を形成する書記階層の装置にすぎないと見なしているかのごとくだ。
 意見を表明するのを抑制している広範な活動家階層の下には、多数の一般党員がいる。彼らにとっては、全ての決定は呼び出しか命令のかたちで、上から降りてくるのだ。」/
 いわゆる「46年グループ」は、トロツキーを支持した。—最もよく知られているのは、Antonov-Ovseenko、Piatakov、Preobrazhensky だ。
 彼らが主張するところでは、党にある恐怖の雰囲気は、昔からの同志ですら「お互いに気楽に会話するのを怖れる」ようになった、いうものだった。(*43)//
 (24)予想されたように、党指導部は、党内に非合法の「分派」を作り出すことになる危険な「基盤」形成に着手したと、トロツキーを非難した。
 10月19日、政治局は、トロツキーの批判に応答することなく、トロツキーに対する憎悪に満ちた個人攻撃文書を発表した。
 いわく、トロツキーは傲慢で、党の日々の仕事よりも自分自身を優先し、「全てか無か」(つまり「全てを与えよ、さもなくば何も与えない」)の原理でもって行動している。
 トロツキーは4日後に、党中央委員会幹部会に対して、「分派主義」批判への挑戦的な反論書を送った。
 10月26日、彼は、幹部会それ自体に現れた。//
 (25)最近まで、トロツキーはこの重要な会合に出席しなかった、と考えられていた。
 彼の伝記の二人の主要著作者、Deutscher とBroué はともに、風邪で欠席したとしていた。
 しかし、彼は出席しており、かつ実際に、スターリンの秘書でトロツキーの発言を書き写す責任があつたBazhanov は自分の書類簿にその発言書を封じ込めたと、力強く述べた。
 その書類簿は、1990年に発見された。
 トロツキーの発言は、かつて自分が反対した「ボナパルティズム」(Bonapartism)だという言い分を、情熱的に否定していた。
 彼がユダヤ出自の問題を持ち出したのは、この点でだった。
 野心を持たないことを証するために、彼は、反ユダヤ主義の問題があるためにユダヤ人が高い地位に就くのは賢明ではないという理由で、レーニンによる上級職の提示を固辞した二つの事例に論及した。—一つは、1917年10月(内務人民委員)、もう一つは1922年9月(ソヴナルコム副議長)。
 前者の場合は、レーニンが「些細だ」との理由で却下した。
 だが、後者の場合はレーニンは「私と一致した」。(*46)
 トロツキーの示唆の意味は明らかだった。
 党内での彼に対する反対は、—レーニンもこれを認めていたのだが—部分的には、彼がユダヤ人だということに由来している。
 生涯のこの分岐点で、非難されて党の前に立ちつつ、自分のユダヤ出自の問題に戻らなければならかったというのは、彼には悲劇的な時間だった。
 それは、自分をユダヤ人だと感じてこなかった人間にとって、今はいかにも孤独であることを示していた。//
 (26)トロツキーの感情的な発言は、委員たちにほとんど影響を与えなかった。—委員たちの多くは、スターリンが採用していた。
 102票対2票で、幹部会は、「分派主義」を行ったという理由でトロツキー譴責動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーは党から除名されるべきだと強く主張した。
 だが、つねに中庸者として立ち現れたいスターリンは、それは賢明ではないと考え、その提案を却下した。(*47)
 スターリンは、いずれにせよ、急ぐ必要はなかった。
 トロツキーは、有力な一つの勢力として終わった。そして、党からの彼の追放には、まだ月日があった。—最終的には、1927年にその日がやって来た。
 スターリンを阻止する力のある一人の男が、いまや排除された。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2364/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.798-p.801. 一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い③。
 (13)レーニンの最後の覚書は、三つの主要問題にかかわっていた。—いずれの点についてもスターリンが元凶だった。
 第一はジョージア案件で、ロシアは国境民族国との間のどのような統一条約に署名すべきかという問題だった。
 スターリンは、ジョージア出自であるにかかわらず、レーニンが内戦中に大ロシア民族排外主義だと批判したボルシェヴィキたちの先頭にいた。
 党内のスターリン支持者のほとんどは、同等に帝国主義的見方をもっていた。
 彼らは、国境地帯やとくにウクライナのロシア労働者による植民地化、原地の農民集団(小ブルジョア民族主義者)の抑圧を、共産主義権力の促進と同一視した。
 民族問題担当人民委員として、スターリンは9月遅くに、それまでに存在した三つの非ロシア共和国(ウクライナ、ベラルーシ、トランスコーカサス)は自治地域をもたず、中核的権限をモスクワの連邦政府に譲って、ロシアに加わらなければならないと提案していた。
 スターリンの提案は「自律化計画」と称されるようになったが、 ツァーリ帝国の「統一した唯一のロシア」を復元させるものだっただろう。
 それは、レーニンが連邦的統合計画の策定をスターリンの仕事として割り当てたとき、彼が想定していたものでは少しもなかった。
 レーニンは、ロシアに対する非ロシア人の歴史的な不満を正当なものと見ていた。そして、広範な文化的自由と同盟から離脱する正規の権利を(どのような意味であれ)もつ、(大きな民族集団には)「主権」共和国の地位を、(小さな民族集団には)「自治」共和国の地位を認めることで、これを宥和する必要があると強調した。//
 (14)スターリンの案は、ジョージアのボルシェヴィキたちによって激しく反対された。民族的権利を譲歩して、自分たちは脆弱な政治的基盤を樹立しようとしていることになる。
 スターリンとその仲間のジョージア人、モスクワのコーカサス局長のOrdzhonikidze はすでに1922年3月に、ジョージアの指導者たちの意見とは大きく異なり、ジョージアをアルメニアとアゼルバイジャンとともにトランスコーカサス連邦へと統合させていた。
 ジョージアの指導者たちは、スターリンとその子分はジョージアを彼らの領地のごとく扱い、自分たちの気持ちを踏みにじっていると感じた。
 彼らは自律化計画を拒否し、モスクワが押し通すならば脱退すると脅かした。(+)
 (+原書注記)—その他の共和国の反対は、より慎重なものだった。ウクライナはスターリンの提案に関する意見を提出するのを拒み、べラルーシはウクライナの決定に従うつもりだと言った。//
 (15)レーニンが介入したのは、この点だった。
 彼はまず初めに、スターリンの側に立った。
 スターリンの提案は望ましいものではなかったけれども—のちに1924年に批准されてソヴィエト同盟条約となる連邦的同盟のために諦めるよう、レーニンは強く主張した—、ジョージアが最後通告を発したのは間違いだった。彼はそのように、10月21日の電話で怒って告げた。
 その翌日、ジョージア共産党の中央委員会全員は、抗議して辞職した。
 このようなことは、党の歴史上かつてなかった。
 しかしながら、11月遅くから、レーニンが概してはスターリンに反対し始めていたとき、彼の見地が変わった。
 ジョージアからの新しい証拠資料によって、レーニンは再考した。
 レーニンは、Dzerzhinsky とRykov が率いる事実解明委員会を、Tiflis に派遣した。彼はその委員会から、論議の過程でOrdzhonikidze が、傑れたジョージアのボルシェヴィキたちをひどい目に遭わせたことをことを知った(彼らはOrdzhonikidzeを「スターリン主義者のくそったれ」と呼んだ)。
 レーニンは、激怒した。
 それはスターリンが粗暴さを増しているとの彼の印象を確認するもので、ジョージア問題を異なる観点から考えるようになった。
 レーニンは、12月30-31日の党大会に対する文書で、スターリンを旧式のロシア民族排外主義者、「ごろつきの暴君」に喩えた。そのような者は、ジョージアのような小さい民族を苛めて従属させることができるだけで、ロシアの支配者に必要なのは「奥深い慎重さ、感受性」であり、かつ正当な民族的要求に対して「譲歩をする心づもり」だ。
 レーニンはさらに、社会主義連邦では、「現実にはある不平等を埋め合わせる」ためには、ジョージアのような「被抑圧民族」の諸権利は「抑圧者たる民族」(すなわちロシア)のそれよりも大きくなければならない、とすら主張した。
 1月8日の、彼の生涯の最後になる手紙で、レーニンはジョージアの反対派たちに、「私の全ての心を込めて」彼らの主張を支持するだろう、と約束した。(*38)//
 (16)その遺書でのレーニンの第二の主要な関心は、今ではスターリンの統制下にある党の指導機関の権力増大を阻止することにあった。
 彼自身の命令が至高のものだった2年前、レーニンは、党内での一層の民主主義と<glasnost>〔情報公開〕を求める民主主義的中央派の提案を非難していた。
 しかし、スターリンが大きな独裁者となった今では、レーニンが類似の案を提出した。
 彼は、党の下部機関にいる一般の労働者や農民から募った50名ないし100名を加えて、中央委員会を民主化することを提案した。
 レーニンはまた、政治局に説明責任を負わせるため、中央委員会はすべての政治局会合に出席し、それらの文書を調査する権利をもつ必要がある、と提案した。
 さらには、中央統制委員会は、Rabkrin と統合し、300名ないし400名の意識ある労働者の組織へと簡素化して、政治局の権力を調査する権利をもたなければならない、とも。
 このような提案は、時機に遅れた努力だった(多くの点でGorbachev の<perestroika>と似ていた)。党幹部と一般党員の間の広がる溝を架橋しようとし、社会に対する党の全面的な支配力を失うことなく、指導部をより民主主義的に、より公開的でより効率的にしようするものだったが。//
 (17)レーニンの最後の文書の最後の論点は—そしてはるかにかつ最も爆弾を投じたような効果があったのは—、後継者の問題だった。
 レーニンは、12月24日の覚書で、トロツキーとスターリンの対立への懸念を漏らしていた。中央委員会の規模を拡大しようと提案していた理由の一つは、ここにあった。—そして、まるで集団的指導制の擁護を覆すかのごとく、多数の党指導者たちの欠陥を指摘し始めた。
 カーメネフとジノヴィエフは、十月にレーニンに反対の立場をとったことで、批判された。
 ブハーリンは、「全党のお気に入りだ。しかし、その理論的見地は、留保付きでのみマルクス主義者だと分類することができる」。
 トロツキーについては、彼は「現在の中央委員会の中では、個人的には最も有能な人間だ。しかし、過剰な自信を示してきており、仕事の純粋に管理的な側面に過剰に没頭してきている」。
 だが、レーニンの最も破壊的な批判が用意されていたのは、スターリンについてだった。
 書記長になって、彼は「無制限の権力を手中に積み重ねてきた。だが、私には、彼が十分に慎重にこの権力を用いる仕方をいつも分かっているのかどうか、確信がない」。
 1月4日にレーニンは、つぎの覚書を付け足した。/
 「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、我々の間では我慢することができ、共産主義者の中では何とかあしらうことができるけれども、書記長としては耐え難いものになる。
 この理由で、私は、同志諸君がスターリンをその地位から排除して、つぎのような別の者と交替させることを考えるよう、提案する。その者は、同志スターリンよりもただ一つでも優れた点を、すなわち、寛容さ、忠誠さ、丁重さ、同志諸君への配慮をもつ、そして気紛れではないこと、等。」(*39)/
 レーニンは、スターリンは去らなければなないことを明瞭にしていた。//
 (18)レーニンの決意は、3月の最初にさらに強くなった。彼には秘密のままにされていたが、その頃、数週間前にスターリンとKrupskaya の間で起きたことを知ったからだ。
 12月21日にレーニンはKrupskaya に、外国通商独占に関するスターリンとの闘いでの戦術が勝利したことを祝うトロツキーへの手紙を、口述した。
 スターリンの情報提供者が、この手紙について知らせた。スターリンは、この手紙は自分に対抗するレーニンとトロツキーの「連合」の証拠だ、と捉えた。
 その翌日、スターリンはKrupskaya に電話をした、そして、彼女自身が述べるところでは、彼女に向かってレーニンの健康に関する党規則を破ったと主張し、中央統制委員会で彼女の取調べを始めると脅かして、「嵐のような粗野な雑言」を浴びせた(医師たちは彼女が口述聴取をするのを認めていたけれども)。
 受話器を置いたとき、Krupskaya の顔は蒼白になっていた。異様に興奮して泣きじゃくりながら、部屋を歩き回った。
 スターリンによるテロルの支配が始まっていた。
 3月5日にレーニンがこの事件についてやっと知らされたとき、彼はスターリンに対して、「粗暴さ」を詫びよ、さもないと「我々の関係は壊れる」危険がある、と要求する手紙を書き送った。
 権力をもって完全に傲慢になっていたスターリンは、無礼な返書で、死にゆくレーニンに対する軽蔑の気持ちをほとんど隠そうとしなかった。(+)
 〔(+原書注記)—1989年まで公表されなかった。〕
 スターリンはレーニンに思い起こさせた。Krupskaya は「あなたの妻であるだけではなく、私の古くからの同志だ」。
 二人の「会話」の間、自分は「粗暴」ではなかった、事件の全体が「愚かな誤解にすぎない。…」
 「しかしながら、あなたが『関係』の留保について考えると言うなら、私は上の言葉を『撤回』する。
 この全体がどのように想定されているのか、あるいはどこに私の『落ち度』があるのか、いったい何が正確には私に求められているのか、を理解することができないけれども、私は撤回することができる。」(*40)//
 (19)レーニンは、この事件で打ちのめされた。
 彼は一夜で病気になった。
 医師の一人は3月6日に、状態をこう記した。
 「Vladimir Ilich は、狼狽し、怯えた表情を顔に浮かべて横たわっている。目は悲しげで尋ねる眼差しがあり、涙が顔をつたって落ちている。 
 Vladimir Ilich は、取り乱し、話そうとするが、言葉が出てこない。
 そして、『しまった、畜生。昔の病気がぶり返した』とだけ言う。」
 3日後、レーニンは3回めの大きな脳発作を起こした。
 話す力を奪われ、そして政治のために働く力も奪われた。
 10ヶ月後に死ぬまで、一音節を発することができるだけだった。—<vot-vot>(「ここ、ここ」)、<s'ezd-s'ezd>(「大会、大会」)。(*41)//
 (20)レーニンは5月に、Gorki に移された。そこには医師団が、彼の世話をするために配置された。
 晴れた日には、レーニンは外に座っていたものだ。
 ある日、甥の一人が彼を見た。
 レーニンは「開襟の白い夏シャツを着て車椅子に座っていた。
 かなり古い帽子を頭にかぶり、右腕はいくぶん不自然に膝の上に置かれていた。
 私は空地の真ん中にはっきりと立っていたけれども、そうしてすら彼はほとんど気づかなかった。」 
 Krupskaya は彼に読んで聞かせた。—Gorky とTolstoy が最も慰めとなった。そして虚しくも、彼に話し方を教えようと頑張った。
 9月までには、杖と整形外科用の靴の助けを借りて、彼は再び歩くことができた。
 彼はときどき、車椅子を自分で押して地上を回った。
 モスクワから送られる新聞を読み始め、Krupskaya の助けで、左手を使って少しだけ書くことを学んだ。
 ブハーリンは秋に、レーニンを訪問した。のちに彼がBoris Nikolaevsky に語ったところによると、レーニンは、自分の後継者は誰かと、執筆できなかった論文を深く気にかけていた。
 しかし、彼が政治の世界に戻ってくるかは、問題ではなかった。
 政治家としてのレーニンは、すでに死んでいた。(*42)//
 ——
 ④へとつづく

2363/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.795-8。一行ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い②。
 (8)レーニンは9月までに回復して、仕事に戻った。
 このときにはスターリンの野心を疑うようになっていて、その権力の増大に対する対抗策として、トロツキーを人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の議長代理(deputy)に任命することを提案した。
 トロツキーの支持者はつねに、このことによって自分たちの英雄がレーニンの後継者になるだろうと論じていた。
 だが、この地位は多くの者には小さいものと見られていた。—権力は政府機構にではなく、党機関に集中していた。そして疑いなく、スターリンはこの理由で、政治局でのレーニンの決定に全く不満でなかった。
 実際、最も抵抗したのはトロツキーで、自分の投票札に「断固として拒否する」と書いた。
 トロツキーは反対する理由として、先だっての5月に導入されたときにその職位を原理的に批判した、と主張した。
 のちに彼は、自分はユダヤ人だからその職位に就かない、そうなれば体制の敵による情報宣伝に油を注ぐだろう、とも主張した(803-4頁を見よ)。
 しかし、彼が拒んだのはおそらく、たんなる「議長代理」でいるのは自分にふさわしくないと考えたからだった。//
 (9)これは、レーニンがソヴナルコムの職務について曖昧な見方をしていた、ということを意味しない。
 また、トロツキーにその職位を提示したのは、レーニンの妹の言葉を借りると「Ilich〔レーニン〕がスターリンの側に立つ」見返りとしての「外交的な素振り」だったと、たんに意味しているのでもない。
 レーニンはつねに、党の仕事以上にソヴナルコムのそれにより高い価値を見ていた。
 ソヴナルコムはレーニンが生んだものであり、それへと彼の全活力を集中させてきた。驚くべきことに、党の活動を知らなくなるまでにすら至っていた。
 彼は1921年10月に、スターリンにこう告白した。
 「知ってのとおり、私は組織局の多大な『割当て』仕事に習熟していない」。
 これは、レーニンの悲劇だった。
 政治家として活動した最後の数ヶ月の間、指導的党組織の権力拡大の問題に取り組んでいたとき、レーニンはいっそう、党と国家の間の権力分離の手段としてソヴナルコムを見ていた。
 だが、レーニンの個人的な権力が所在するソヴナルコムは、彼が病気になり政治から撤退するにつれて、その力を衰退させた。
 彼の代わりにトロツキーが据わるとしても、スターリンの手中にある党組織への権力移行を止めるには、もう遅すぎた。そしてトロツキーは、このことを知っていたに違いない。(*34)//
 (10)レーニンのスターリンに対する疑念は、10月にスターリンがトロツキーを政治局から排除することを提案したときに深まった。それは、トロツキーがソヴナルコムでの地位を傲慢にも拒否したことに対する制裁だ、とされた。
 レーニンは三頭制の活動をよく知るにつれて、それが支配党派のごとく振る舞い、自分を権力から排除するのを意図している、ということが明瞭になった。
 このことが確認されたのは、レーニンは疲労のためにしばしば早めに退席せざるを得なかったのだが、ある政治局の会合から彼が引き上げるとすぐに、三人組が、レーニンは翌日に初めて知ることとなる重要な決定を行なったときだった。
 レーニンは、そのあと(12月8日に)政治局会合は3時間を超えて進行してはならないこと、決定されなかった案件は次回の会合に持ち越されるべきであることを、命令した。
 同時に、またはトロツキーがのちに主張したところでは、レーニンは、「官僚主義に反対する陣営」への参加を提示するためにトロツキーに接近した。これは、スターリンと組織局内の彼の権力基盤に対抗する〔レーニンとトロツキーの〕連合を意味した。
 トロツキーの主張は、信頼できる。
 これがなされたのはしかし、レーニンの遺言の直前だった。そしてこの遺言は主としては、スターリンとその官僚機構の掌握の問題にかかわっていた。
 トロツキーは、すでに党官僚機構、とくにRabkrin と組織局を批判していた。
 そして我々は、外国通商およびジョージア問題の両者について、レーニンはスターリンに反対するトロツキーと立場を共通にしていたことを、知っている。
 要するに、12月半ばにかけて、レーニンとトロツキーは、ともにスターリンに反対していた。
 そのとき突然に、12月15日の夜、レーニンは二回目の大きな脳発作を起こした。(*35)//
 (11)スターリンはすぐにレーニンの医師たちの管理を担当し、 回復を早めるという口実で、中央委員会から自分への命令を与えさせた。その命令は、訪問者や文書のやり取りを制限することで、レーニンを「政治から隔離」し続ける権限をスターリンに付与するものだった。
 12月24日の政治局のつぎの指令には、「友人も周囲の者も、Vladimir Ilich に政治ニュースを語ることはいっさい許されない。彼を反応させ、昂奮させる原因になり得るからだ」とある。
 レーニンは車椅子に閉じ込められ、「一日に5分ないし10分」だけの口述が認められ、スターリンの囚われ人となった。
 レーニンの二人の主な秘書、Nadezhda Alliiuyeva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンの言ったことを全てスターリンに報告した。
 のちの事態が示すことになるように、レーニンは明らかにこのことを知らなかった。
 スターリンは一方で、薬物に関する専門家を自認して、発送するよう教科書を注文した。
 スターリンは、レーニンはまもなく死ぬだろう、そして自分に対する公然たる侮蔑心をいっそう示すだろう、と確信した。
 スターリンは同僚に12月中に、「レーニンはだめだ(kaput)」と言った。
 スターリンの言葉は、Maria Ul'ianova を通じて、レーニンの耳に届いた。
 兄は妹に伝えた。「私はまだ死んでいない。だが彼らが、スターリンの指導で、私をもう埋めてしまった」。
 スターリンは、その評価の基盤をレーニンとの特別の関係に置いていたけれども、レーニンに対する本当の感情は、1924年に暴露された。レーニンが衰亡し、死ぬまでまる1年を待たなければならなかったとき、つぎのようにつぶやくのが聞かれたのだ。
 「<本当の>指導者らしく死ぬこともできないのか!」。
 実際に、レーニンはもっと早く死んでいたかもしれなかった。
 12月末にかけて彼は、自殺できるように毒を懇願した。
 Fotieva によると、スターリンは毒を与えるのを拒否した。
 しかし、彼は疑いなくそれを後悔することとなった。
 作業をするのが認められた短い間に、レーニンは、来たる党大会のための一連の文書を口述していたからだ。その中でレーニンは、スターリンの権力増大をを非難し、その解任を要求した。(*36)//
 (12)のちにレーニンの遺書として知られるようになったこれらの断片的な覚書は、12月23日と1月4日の間に短い文章で口述筆記された。—そのうちいくつかは、イアフォンを両耳にはめて隣室に座っている速記者に電話で伝られた。
 レーニンは、厳格に秘密にするように命じ、自分かKrupskaya だけが開封できるように、封筒を密閉した。
 しかし、彼の年配の秘書たちはスターリンのためのスパイでもあり、彼らはその覚書をスターリンに見せた。(*37)
 この最後に書いた文書全体に、革命が明らかにした現実に対する圧倒的な絶望意識が溢れている。
 レーニンの乱れた文体、誇張した執拗な反復は、麻痺によって悪化してはいないがやはり苦悩している彼の心裡(mind)を露わにしていた。—おそらくは、過去40年間ずっと設定してきた単一の目標が、今や奇怪なほどに大きな(monstrous)間違いだったと判明したことに気づいたがゆえの、苦悩だった。
 この最後の文書全体を通じて、レーニンは、ロシアの文化的後進性に苦しめられている。
 まるで彼は、そしてたぶん自分に対してだけ、メンシェヴィキは正しかったこと、ブルジョアジーに取って代われるだけの教育がロシア民衆にはないためにロシアはまだ社会主義へと進む段階ではないこと、そして、国家による介入によってこの過程の進展を速める試みは結局は必然的に専制体制を生んでしまうこと、を認めているがごとくだった。
 これは、ボルシェヴィキはまだ「統治の仕方を学ぶ」必要があると自身が警告したとき、レーニンが意図したことだったのか?//
 ——
 ③へとつづく。

2362/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.793-5。一文ずつ改行。
 ——
 第16章・死と離別。
 第三節・レーニンの最後の闘い①。
 (1)レーニンの体調が悪い兆候が明らかになったのは1921年で、その頃彼は、頭痛と疲労を訴え始めた。
 医師たちは診断することができなかった。—身体上の衰弱の結果であるとともに、精神的な支障のそれでもあった。
 過去4年間、レーニンは、事実上は休みなく、毎日16時間働いていた。
 本当に休んだ期間だったのは、ケレンスキー政府から逃げていた1917年の夏と、1918年8月のカプランの暗殺未遂からの回復に必要とした数週間だけだった。
 1920-21年の危機は、レーニンの健康に対して多大の負担を課した。
 「レーニンの憤激」による肉体的兆候は、つまりKrupskaya がかつて叙述したような不眠と苛立ち、頭痛と極度の疲労は、労働者反対派や国土全体での反乱との激烈な闘いの間に、レーニンを悩ませつづけた。
 クロンシュタットの反乱者、労働者と農民、メンシェヴィキ、エスエル、聖職者たちは逮捕され、多数の者が射殺され、レーニンの憤激の犠牲となった。
 1921年夏までに、レーニンはもう一度勝利者として立ち現れた。
 だが、彼の精神的な消耗は、誰が見ても明瞭だった。
 記憶の喪失、会話の困難、奇妙な行動が見られた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだあるカプランの二発の銃弾に毒性があったことに原因があると判断した(首の中の一つは1922年春に外科手術により除去された)。
 しかし、 別の医師たちは、脳性麻痺ではないかと疑った。
 この推測の正しさは、1922年5月25日にレーニンが最初の大きな脳発作に見舞われたことで、確認された。それによってレーニンは、右半身が事実上不随になり、しばらくの間は言葉を発せられなかった。
 その死まで世話をすることとなった妹のMaria Ul'ianova によると、兄のレーニンは、今や「自分の全てが終わった」と認識した。
 彼はスターリンに、自殺するために毒をくれ、と頼んだ。
 Krupskaya はスターリンにこう言った。「彼は生きたくない。これ以上生きることはできない」。
 彼女はレーニンにシアン化合物(cyanide)を与えようとしたのだったが、おじけづいた。それで二人で、「情緒の乏しい、しっかりして断固たる人物」であるスターリンに頼むことに決めた。
 スターリンはのちに死の床に同席することになるけれども、レーニンの死を助けるのを拒んだ。そして、政治局会議で、反対の一票を投じた。
 当分の間は、スターリンにとって、レーニンは生きている方が役に立った。//
 (2)レーニンが1922年夏に、Gorki にある国の家で回復している間、彼は自分の後継者問題に関心を寄せた。
 この問題の処理は、苦痛となる仕事に違いなかった。全ての独裁者がそうだろうように、自分自身がもつ権力に激しく執着し、明らかに他の誰も十分には継承できないと考えただろうからだ。
 レーニンが最後に記した文章は全て、自分を継承するのは集団的指導制がよいと考えた、ということを明らかにしている。
 彼はとくに、トロツキーとスターリンの間の個人的な対立を憂慮した。自分がいなくなればこの対立が党を分裂させかねない、ということが分かっていた。そして、両者の均衡をとることで、分裂を予防しようとした。//
 (3)レーニンの目から見ると、両者に長所があった。
 トロツキーは、輝かしい演説者であり、行政官だった。内戦に勝利する上で、彼ほどに力を発揮した者はいなかった。
 しかし、トロツキーの自負と傲慢さによって—過去にメンシェヴィキだった経歴やユダヤ人的な知的な風貌はもちろんのこと—、党内では人気がなかった(軍隊と労働者反対派の両方ともに、大部分は彼に個人的に反対だった)。
 トロツキーは、生来の「同志」ではなかった。
 彼はつねに、集団的指揮の場合の大佐であるよりも、自分の軍の将軍でありたかっただろう。
 党員各層内で彼を「外部者」たる地位の置いたのは、まさにこの点だった。
 トロツキーは、政治局の一員だったけれども、党の職位にあったことがなかった。
 彼は、稀にしか党の会合に出席しなかった。
 レーニンのトロツキーに対する気持ちを、Maria Ul'ianova はこう要約した。
 「彼はトロツキーに共感していなかった。—あまりに個性的すぎて、彼と集団的に仕事するのをきわめて困難にしている。
 しかし、彼は勤勉な働き手であり、才幹のある人物だ。V.I.〔レーニン〕にはそれが主要なことだったので、彼を候補に残そうとしつづけた。
 それが意味あることだったか否かは、別問題だ。」(*31)//
 (4)スターリンは、対照的に、最初は集団的指導制という必要性にははるかに適任であるように見えた。
 彼は内戦中は他の誰も望まない莫大な数の指令的業務をこなしていたので—彼は民族問題の人民委員、Rabkrin〔行政管理検査院〕の人民委員、革命軍事評議会の一員だった—、その結果として、すみやかに穏健で勤勉な中庸層の評価をかち得た。
 Sukhanov は1917年に、彼を「灰色でぼやりした」と描写した。
 全ての党指導層の者が、スターリンの潜在的な力とその力を行使したいという野心を、過少に評価するという間違いを冒した。そうした後援の結果として、彼は徐々に多くの地位を獲得するに至った。
 レーニンは、他の者たちとともに、スターリンの選抜について責任があった。
 なぜなら、レーニンは彼ほど不寛容な人物にしては、スターリンの多くの悪業については、党の統一を守るためにはスターリンが必要だと信じて、じつに顕著な寛容さを示したからだ。その悪業の中には、レーニン自身に対する粗暴さの増加もあった。
 このような理由で、スターリン自身が要求し、かつ明らかにカーメネフの支持を受けて、レーニンは1922年4月に、スターリンを初代の党総書記〔書記長〕に任命することに同意した。
 これはきわめて重大な指名だったと、のちに判ることになる。—まさにこれが、スターリンが権力を握るのを可能にした。
 だが、レーニンはこのことに気づくに至り、スターリンをその職から排除しようとした。しかし、そのときはもう遅すぎた。(*32)//
 (5)スターリンの権力の増大の鍵は、地方の党機構を彼が統御したことにあった。
 書記局の長および組織局での唯一の政治局員として、友人たちを昇進させ、対抗者たちを解任することができた。
 1922年だけの期間に、組織局と書記局によって1万人の地方官僚が任用された。これらのほとんどは、スターリンの推薦にもとづくものだった。
 この彼らは、1922-23年のトロツキーとの間の権力闘争の際に、スターリンの主要な支持者となる。
 スターリン自身と同様に、彼らの多くはきわめて貧しい出身基盤をもち、正規の教育をほとんど受けていなかった。
 彼らは、トロツキーのような知識人に不信を抱き、スターリンの知恵を信頼する方を選んだ。スターリンは、イデオロギーが問題であったときに、プロレタリアの団結とボルシェヴィキの紀律を単純に訴えかけたのだつた。//
 (6)レーニンは、モスクワによる「任用主義」によるスターリンの権力増大を、地方での反対派(例えば労働者反対派は1923年までウクライナとSamara に残っていた)の形成を抑止するものとして、受け入れた。
 スターリンは、書記長として、潜在的な悶着者を地方の党機構から根こそぎ排除することに多くの時間を使った。
 チェカ(1922年にGPUと改称)から毎月、地方の指導者たちの活動に関する報告書を受け取った。
 スターリンの個人的秘書のBoris Bazhanov は、パイプを吹かせながらクレムリンの広い仕事場を行ったり来たりする彼の癖を思い出す。スターリンはそして、あれこれの党書記を除外し、その者をあれこれの別の者に交替させよと、ぶっきらぼうに指示したものだった。
 政治局員を含めて、1922年の末までにスターリンの監視の下に置かれなかった党指導者はほとんど存在しなかった。
 レーニン主義正統を遵守するという外装をとりつつ、スターリンはこうして、自分の対抗者全員に関する情報を収集することができた。その中には、彼らが秘密のままにしておきたいだろう多くの事があり、スターリンはそれを自分に対する忠誠さを確保するために利用することができた。(*33)//
 (7)レーニンが脳発作から回復している間、ロシアは三頭制(triumvirate)で統治されていた—スターリン、カーメネフおよびジノヴィエフ。これは、1922年の夏の間に、反トロツキー連合として出現した。
 この三人は党の会合の前に集まって自分たちの戦略に合意し、票決の仕方を支持者たちに指令した。
 カーメネフは長い間、スターリンを好んでいた。二人は一緒にシベリアへの流刑に遭っていた。また、レーニンが十月のクー反対を理由としてカーメネフを党から追い出そうとしたとき、スターリンは彼の防御へと回った。
 カーメネフは党を指導したいとの野心があり、そのことで、より重大な脅威だと彼は見なしたトロツキーに対抗するスターリンの側に立つようになつた。
 トロツキーはカーメネフの義兄だったので、これは、親族よりも党派を優先することを意味した。
 ジノヴィエフについて言うと、彼はスターリンをほとんど好んではいなかった。
 しかし、トロツキーに対する嫌悪が大変なものだったので、敵を打倒するのに役立つかぎりで、悪魔と手を組んだのだろう。
 二人は、党の主導権の獲得に近づくために、凡庸な人間だと見なしたスターリンを利用していると思っていた。
 しかし、スターリンが彼らを利用していた。そして、いったんトロツキーを打倒すると、彼はこの二人の破滅に乗り出すことになる。//
 ——
 ②へつづく。

2356/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.791-3。一行ずつ改行。
 ——
 第二節・征圧されない国③。
 (14)共産青年同盟とともに、赤軍は、退屈している村落の青年たちを組織する手段だつた。
 軍から戻った青年たちはししばしば、地方ソヴェトや古い農村地帯の秩序に対する共産青年同盟という十字軍で、指導的な役割を担った。
 兵役経験者の一グループは、「暗黒、宗教、戯言その他の悪に対する闘争」を組織する方法について議論すべく、村落で「大会」を開いた。
 軍隊生活に慣れて成長したので、この青年退役者たちは、村落での生活にすぐに退屈するようになった。彼らの一人が述べたように、村落には「どんな種類の文化もなかった」。
 彼らは村落の田舎じみた古い生活様式を軽侮し、完全に村落を去れないとすれば、都市的で軍隊的な表むきの装いを採用することで、何とかして離れようとした。
 ある資料が語るところによると、全ての「元兵士、地方活動家、共産青年同盟員は—すなわち自分を進歩的な人間だと考えている者たちは—、軍服またはそれに準じた制服を着て、動き回った」。
 こうした青年たちの多数は、のちに、スターリンの集団化運動に積極的な役割を果たした。
 彼らの多くは穀物徴発隊に加わった。この部隊は、1927年以降は村落との内戦を再開することになる。
 また、集団的農場を組織する「主導的グループ」を設置した。
 教会に対する新たな攻撃に参加した。
 農民の抵抗を鎮圧するのを助けた。
 そしてのちには、役人または新しい集団的農場での機械操作者になった。(*27)//
 (15)だがなおも、村落にはボルシェヴィキの力が完全には及ばなかった。
 これが、NEP の失敗の根本原因だった。
 ボルシェヴィキは、平和的な手段では農村地帯を統治することができず、農村に対する暴力的支配(terrorizing)に訴えた。これは最終的には、集団化となる。
 1918-21年に起きたことは、農民と国家の関係に深い傷痕を残した。
 農民と国家の間の内戦は終わったけれども、両者は1920年代の不安な軌跡の過程で、深い疑念と不信でもってお互いに向かい合った。
 農民は、消極的で日常的なかたちをとる抵抗—故意の遅延、習慣的に指示内容を理解しないこと、無気力と怠惰—を通じて、ボルシェヴィキを寄せつけないようにした。
 Volost の街区部分で党がソヴェトの支配権を握ったとき、農民たちは、こぞって諸ソヴェトから撤退し、村落共同体で政治的に再結集した。
 絶対主義的国家が再生したことで、国家または大地主(gentry)権力層—ある農民が述べた「税を徴収することにだけ関心をもつ」ーが占めるものとしてのvolost と、農民が支配する領域としての村落の間の古い分離が再び作り出された。 
 Volost の街区の周囲では、ボルシェヴィキの権威がなかった。
 ボルシェヴィキ党員のほとんど全てが、volost の街区に集中した。そこでは、できたばかりの国家機関を運営するために彼らが必要だった。
 ボルシェヴィキの地方党員はほとんど村落に居住せず、農民層との何らかの現実的な紐帯をほとんど結ばなかった。
 地方党員の15パーセントだけが、農作に従事した。10パーセント以下は、割り当てられた地域の出身者だった。
 地方の党会合について言うと、それは主として国家政策、国際的事件に、そして性道徳にすらかかわっていた。—だが、農業問題を扱うのはきわめて稀れだった。//
 (16)地方ソヴェトは、きわめて無力だった。
 制度上はvolost 管理権限に従属したけれども、その主要部分を占める農民の議員は、村落共同体の利益に反することを行なう気がなかった。地方ソヴェトの財源は、その共同体からの税収に依存していた。
 村民たちは実際にしばしば、うすのろかアルコール中毒者を、あるいは村落の年配者に借金がある貧しい農民を、ソヴェトへと選出した。
 これは農民たちの計略であり、1917年以前のvolost 行政について用いられたものでもあった。
 ボルシェヴィキは、いつもの不器用なやり方で、権力の集中、地方ソヴェトの数の削減でもって対応した。しかし、これは事態をいっそう悪くした。ソヴェトを一つも有しない大多数の村落を生んだからだ。
 1929年までに、平均的な一つの地方ソヴェトは、1500人の住民数を併せることとなる9つの村落を支配するのを試みた。
 電話を持たず、ときには交通手段もないソヴェトの職員たちは、力を発揮することができなかった。
 税を適切に徴集することができず、ソヴィエト諸法律を実施することもできなかった。
 地方の警察はきわめて弱小で、一人の警察官が平均して、18ないし20の村落にいる2万の人々について職責を負った。(*28)
 1917年以降の10年間、田園地帯の圧倒的大部分には、ソヴェト権力がまだ存在しなかった。//
 (17)NEPに関して書くボルシェヴィキには—ブハーリン(Bukharin)がその古典的な例だが—、農村地帯では豊かさが増大し、文化が発展して、この政治的問題を解決するだろう、という共通する想定があった。
 これは、間違いだった。
 NEP の小規模自作農制のもとでは、村落の政治文化は、顕著に「農民的」にすらなった。これは、国家と基本的に対立するもので、大量の情報宣伝も教育も、国家と農民の間の溝を埋めることのできる見込みがなかった。
 つまるところ、教育を受けた農民たちは一体なぜ、共産主義による統制または共産主義思想の浸透について、ますます懐疑的になったのか?
 農民層と国家の間の媒介者たる役割を唯一果たすことができただろう地方の知識人は、農民という大海の中のちっぽけな島にすぎなかった。彼ら自身は本能的に都市的文化に馴染んでおり、どう見ても農民から信用されなかった。(*29)
 NEPが長くつづくにつれて、農村地帯でのソヴィエト体制の野望とその無能さの間の分裂は大きくなった。
 ボルシェヴィキ活動家は、村落を都市部に従属させるための新しい内戦を開始しなければ、革命が変質して退化するだろうと、「富農(kulak)の泥沼に入り込むだろう」と、ますます恐れた。
 ここに、スターリンによる村落に対する内戦、集団化という内戦の根源があった。
 村落を統治する手段を持たず、ましてや村落を社会主義の方向へと変化させる手段を持たず、ボルシェヴィキは、村落自体の廃絶を追求することになった。//
 ——
 第2節、終わり。つづく第3節の表題は、<レーニンの最後の闘い>。

2353/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.789-p.791。一行ずつ改行。
 ——
 第二節・征圧されない国②。
 (10)農村地帯の生活が全て暗黒だったのではない、というのは本当だ。
 NEP〔「新経済政策」〕のもとで、近代的世界の飾りつけが、ある程度は村落にも届き始めた。
 電気がやって来た。 
 Andreevskoe にすら1927年に初めて電線がつながり、Semelov の夢はついに実現した。
 レーニンは、ロシアの後進性に対する特効薬として、この新しい技術を激賞した。その有名な標語は、こうだった。
 「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国土の電化だ」。
 レーニンは電力を魔法の力と同一視したようだ。そして一度は、電灯は—またはその名を知られるようになった「小さなIlich灯」は—、農民小屋の聖像に取って代わるだろう、と予言した。
 ソヴィエトの情報宣伝活動では、電灯は近代化(enlightenment)のたいまつの象徴となった。暗黒が貧困と悪の暗喩であるように、電気の光は全ての良きものを喩えるものとなった。
 写真は、農民にとっては、光をもつ新しい電気の球体の、ほとんど宗教的不思議さをもつ驚愕物だった。
 レーニンが見たように、全国的な電気網は、離れた村落を都市の近代的文化へと統合するものだっただろう。
 後進国の農民ロシアは、工業の光によって暗黒から抜け出し、急速な経済成長、大衆的教育、手労働の退屈仕事からの解放、という輝かしい新しい未来を享有するだろう。
 これらの多くは、御伽噺(fantasy)だった。数世紀にわたる後進性は、たんに切り替えるだけでは克服できなかった。
 レーニンは、長い間夢想主義(utopianism)に批判的だったが、H. G. Wells が述べたように、「電気技師の夢想」の誘惑に屈して、ロシアに深く根ざして存在する社会問題を克服するために、技術を信頼した。(*23)//
 (11)1920年代には、農村地帯の文明化の別の兆候も見られた。
 病院、劇場、映画館、図書館が、田舎の地方に出現し始めた。
 NEP の時期には、広範囲で農業改良が見られ、農業革命と言えるまでに進んだ。
 地域共同体の農作を不効率にしていた狭い交雑した耕作〔帯状〕区画は、再整理されるか、または配分土地のほとんど1億ヘクタールにまで拡張された。
 西ヨーロッパで見られるような複数交替収穫が、全共同体土地のほぼ4分の1で導入された。
 化学肥料、選種、最新の道具類がますます農民に使われるようになった。
 日常の農作も近代化された。そして多くの農民が、野菜、亜麻、てん菜のような、市場向け栽培へと転換した。これらは、革命前には、もっぱら大土地所有者(gentry)の商業用農地でのみ栽培されていた。
 かつてこのような改革の先駆者だったSemenov は、地域の協同組合—都市部との商品交換用の組合と道具や家畜の購入時の信用供与目的の組合の双方—に喜んだことだろう。これらは、1920年代に、顕著に増加した。
 1927年までに、全ての農民保有土地の50パーセントが農業共同組合に帰属するものになった。
 このような改良の結果として、生産も着実に上昇した。
 1926年までに、農業生産は1913年の時点に再び達した。そしてつぎの2年間にそれを上回った。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント多かった。ロシア農業のいわゆる「黄金時代」だ。(*24)//
 (12)教育の点でも、現実に前進があった。1900年代の傾向を再び取り戻して、1920年代にはいっそう多くの村落の学校が建設された。
 1926年までに、ソヴィエトの全人口の51パーセントは読み書きの能力があったと考えられている(1917年の43パーセント、1907年の35パーセントと比較せよ)。
 村落の中で最も向上したのは、若者たちだった。農民の息子たちはその20歳代初期に、彼らの父親の世代よりも2倍以上の人数が、読み書きできたと見られる。
 また一方で、同じ年代の若い農村女性たちは、彼女たちの母親の世代よりも5倍以上、読み書き能力があったようだ。
 こうした世代間格差の拡大は、人口動態上のものでもあり、文化的なものでもあった。
 1926年までに、農村人口の半数以上が20歳代以下になり、3分の2以上が30歳代以下になった。
 この者たちはたいてい、読み書きができた。
 彼らの多くは、兵役を通じて村落の外の世界を知った。
 長老農民たちの権威に抵抗し、稀にしか教会へ行かず、強い個人主義的感情を示した。この感情が追い求めたのは保有土地の分割で、1920年代の間に急速に進んだ。農民の息子たちが父親から離れて独立し、自分たちの土地保有を開始したのだ。
 農民の息子たちはまた、一族の長としての父親の地位を弱めて、農場の経営についての発言権をいっそう強めるようになった。(*25)
 ロシアの村落は、ボルシェヴィキが間違って考えたように、富者と貧者にさほどに分裂していたのではなかった。むしろ、父親たちとその息子たちの間に分裂があった。//
 (13)世代間の対立があったがゆえに、ボルシェヴィキは、落ち着かない若者たちの組織化を通じて、田園地帯への影響力を築くことができた。
 共産青年同盟(Komsomol)は、田園地域で、党以上に急速に拡大した。—1922年の8万人から、1925年までに優に50万人以上、地方のボルシェヴィキ党員数の3倍までに。
 共産青年同盟は、退屈した十代の村落の若者たちの社交クラブだった。
 この同盟は、教会と古い長老支配秩序に反抗する十字軍へと若者を組織した。
 その中から党に加入させることを通じて、野心的な青年たちに、自らを上昇させ、遅れた村落から離れることのできる可能性をも提供した。彼らの多くは遅れた村落を侮蔑して、都市の世界の輝く光に憧れていた。
 1920年代半ばでのVoronezh の最も農業的な地区の一つの共産青年同盟に関する調査によると、その構成員の85パーセントは農民家庭の出身だった。
 そして、わずか3パーセントだけが農業に従事したいと言った。
 1923年に、民族文化学のある学生は、Semelov がいたAndreevskoe から遠くないVolokolamsk にある村の同世代の者の考え方を、つぎのように概括した。/
 これは、若者たちが年配者に関して語ったことだ。
 「古い人々は馬鹿だ。
 彼らは働いて疲れるだけで、何も得るものがない。
 鋤で耕すこと以外に何も知らない。—これは全てを知らないということだ。…
 農場を放棄する。農作は利益を生まず、それに費やす労働に値しない。…」
 (若者たちは、)逃げ出したい。できる限り早く逃げ出したい。
 逃亡できるだけで、どこへでもよい。—工場、軍隊、大学、あるいは役人になる。—どこであっても、問題ではない。(*26)/
 Semenov とKanatchikov は、30年前に同じ考え方を記していた。
 村落がそこにいる若者たちによって拒絶されていること、これはボルシェヴィキが党員を獲得する、恒常的な源泉的基盤となったように見える。//
 ——
 第2節②、終わり。

2352/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。次の章へ。p.786-9。一行ずつ改行。番号付き注記は箇所だけ記して、訳さない。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第二節・征圧されない国①。
 (1)革命の4年間は、Andreevskoe の村民たちを再統合しなかった。
 村民は、二つの古い対立陣営に分かれたままだった。
 一方は、進歩的農民で改革者のSergei Semenov の側に立った。この人物は、近代世界の装飾物を貧しくて惨めな農民たちにもたらすことを夢見ていた。
 他方は、体格が良くて大酒飲みの老農民のGrigorii Maliutin の側に立った。この人物は、古い信仰者であり、全ての変化に反対し、この30年間の最良部分のためにSemenov の改革に抵抗した。//
 (2)彼らの間の確執は、1890年代に始まった。Maliutin の娘のVera が私生児を死亡させ、近くの林に埋葬したときだった。
 警察が取調べのためにやって来た。金持ちのMaliutin は、彼らを買収せざるを得なかった。
 彼は、Semenov が警察に知らせたのだと非難し、村から排除すべく脅迫する運動を開始した。—Semenov の小屋を焼け放ち、家畜を殺戮し、黒魔術師だと非難した。
 Maliutin はついに1905年に、その狙いを達成した。その年にSemenov はAndreevskoe に農民同盟の支部を設立したのだが、その地方の司法部の目からすると、彼は危険な革命家となった。そして、Semenov は国外へ追放された。
 しかし、3年後に彼は、Stolypin の土地改革の先駆者としてAndreevskoe に戻って来た。 
 Semenov は、西欧で学んだ先進的な農業方法を、村落から分かれた私的区画に導入しようとした。
 何人かの若者や進歩的農民たちが、彼の囲い込み運動に加わった。
 だが、Maliutin は再び腹を立てて—彼は村落共同体の実力者だった—、村落の長老たちと一緒になって、首尾よく改革を阻止することができた。 
 Semenov は1916年に、友人の一人にこう書き送った。「より良い生活を求める私の夢は、頑固で嫉妬深い男によって壊された」。//
 (3)革命は、Semenov に決定的に有利に天秤を傾けた。
 Maliutin が依存していたかつての権力構造、つまりvolostの長老、地方警察、大地主たちの権力構造は、一夜にして崩れ落ちた。
 若者や進歩的農民たちの意見が、村落内でより強くなった。一方で、革命を良いものとは全く思わなかったMaliutin のような伝統的指導者の力は、ますます無視された。 
 Semenov は改革の旗手として、村落集会の支配的人物の一人となった。
 彼はつねに、かつての伝統的秩序や教会の影響力に反対して発言した。
 1917年に彼は、Andreevskoe での土地分割に協力し、Maliutin の農地の規模を半分に削減した。 
 Semenov は、地区ソヴェトの土地関係部署と地方協同組合の両方で活動した。最新の道具の購入、市場用野菜栽培のための諸組合を設立し、日常的な農業や亜麻栽培の方法を改良した。農学に関する小冊子を書き、研修を行った。また、アルコール中毒と闘う運動を展開し、村に学校と図書館を建てた。さらに、近くのBukholowo 街区に学校教師の友人と設置した「人民劇場」用の戯曲をも自ら執筆した。
 彼は、Volokolamsk の村々をモスクワ・ソヴェトに繋がる電信および電話線で覆いつくす計画を練り上げすらした。
 Semenov はTolstoy主義の信条を持っていたので村落やvolost ソヴェトでの役職を引き受けるのを固辞したけれども、ある地方人が述べたように、
「Andreevskoe のみならずその地方の農民たちは、彼を自分たちの指導者でかつ代表者だと見なした」。//
 (4)Maliutin とその仲間たちは、その間、Semenovの全ての動きに反対しつづけた。
 彼らは、Semenovは共産主義者だと断言した。—そして、村落での彼の改革は村落に新体制の全ての邪悪さを持ち込むたけだ、と主張した。
 地方の聖職者は、彼は黒魔術師だと非難し、彼の「無神論」は悪魔につながると警告した。
 Volokolamsk の正教執事(Archdeacon)Tsvetkov も非難に加わり、Semenov は反キリスト者だと主張した。
 Semenov が1919年に設立した村落の新しい学校は、とくに彼らを怒らせた。木材で建築されていたが、それらは国有化されるまではMaliutin と教会の所有物だった森林から伐採されたものだったからだ。
 さらに、その学校には宗教教育が全くなかった。
 教室の壁の上の十字の場所には、義務的に、レーニンの肖像画があった。
 ある夜に、Semenov の小屋が燃やされた。別の夜には、彼の農具は奪われ、湖に沈められた。
 名前を明かさないままの非難文書が地方チェカに送られたが、それらは、Semenov は「反革命」で「ドイツのスパイ」と主張するものだった。
 Semenov はしばしば、行動に関して答えるようにチェカに拘引された。彼が少しだけ知っているモスクワ・ソヴェトの議長のカーメネフにちょっと電話するだけで、彼を釈放するには十分だったけれども。
 ロシアに多種の畜牛伝染病が広がった1921年の間、Maliutin とその仲間たちは、村落の家畜の死の原因はSemenov の「悪魔の改革」にあると追及した。
 彼は「黒魔術で畜牛を病気に罹らせた」とすらも、主張された。
 ロシアじゅうで同じ病気で畜牛が死んでいるのを知っていたけれども、非難者たちは自分たちの損失に関する説明を欲しがった。そして、Semenov に対してますます疑念を抱いた者がいた。//
 (5)Maliutin は最終的には、古くからの対抗相手の殺害を組織した。
 1922年12月15日の夜、Semenov がBukholovo へと歩いていたとき、彼はMaliutin の2人の息子を含む数人の男たちに襲撃された。男たちは、村落の端にある姉のVeraの家から突然に現れた。
 彼らの一人が、Semenov の背中を銃撃した。
 Semenov が振り向いて攻撃者を見たとき、男たちはさらに数発を発射した。彼が死んで地上に横たわったとき、男たちは、彼の顔に息を吹きかけた。
 彼らは、Semenov の胸に、赤い血で十字の印を切った。//
 (6)これは、卑劣な殺人だった。
 Semenov は対抗相手につねに公正に向かい合ってきて、その立場について公平だった。
 しかし、対抗相手たちは彼に対して悪意をもち、背中を射撃した。
 殺害者たちがのちに逮捕されたとき、彼らは、Semenov は「悪魔のために働いていた」、畜牛伝染病を呪文で呼び出した、と主張した。
 彼らはまた、Grigorii Maliutin とArchdeaconのTsvetkov にSemelov を殺すように命じられた、とも告白した。—後者が言ったように、「神の名において」殺した、と。
 彼らは全員が共謀殺人で有罪となり、各々が極北での重労働10年の判決を受けた。//
 (7)Semenov は、Andreevskoe にある愛した自分の土地区画に埋葬された。彼が生き、この数年間をそのために闘った土の一部になった。
 周囲の諸村落から数千の人々が、葬礼に参加した。その中には、彼が個人的にも教えた、数百人の生徒たちもいた。
 友人のBelousov は、弔辞でこう語った。「その働きと教えを人々が甚だしく必要とするようになった、まさにそのときに、こんなに貴重な生命を失うのは悲劇だ」。
 Semelov の功績を追悼して、村の学校には彼の名が付けられた。また、彼の農場は国家によって維持され、彼の子息が経営した。それはモデル農場として、農民たちに最新の農業革新による利益を示すものとなった。
 Semelov は大いに感動したことだろう。彼が生涯をかけて夢見たものだったのだから。(*21)//
 (8)党のプロパガンダに利用する機会が見逃されるはずはなく、<プラウダ>は、この小さな地方的物語に焦点を当てた。 
 Maliutin は悪の「kulak(富農)」として、Semelovは貧しいが政治的意識のある農民として描かれた。
 これはもちろん全て馬鹿げていた。—Semelov は「kulak」のMaliutinより決して貧しくなく、いずれにせよ、二人を分かつのは階級ではなかった。
 殺人事件が本当に示したのは、モスクワから100マイルも離れていない所に、Andreevskoe のような近代文明がまだ到達していない村落が存在した、ということだ。
 人々は魔術を信じ、まるで中世に閉じ込められているような生活をしていた。
 ボルシェヴィキはまだ、この見知らぬ国を征圧していなかった。
 外国にいる軍隊のように、誤解してその国に見入った。
 アマゾンの森林の探検者のごとくモスクワの周辺へと向かった初期の民族文化学者たち(ethnography)は、つぎのことに気づいた。ロシア人たちの多くは、地球は平らだと、天使たちは雲の中で生活していると、太陽は地球を回っていると、まだ信じている。
 彼らは、時代遅れの長老支配様式に浸された不思議な村落を発見した。それは、月とは異なる宗教祭日や季節をまだ規準として時間が区切られる世界であり、異宗派的儀礼と迷信、妻叩き、リンチ、拳骨での決闘と数日間続く飲酒、といったもので充ちた世界だった。//
 (9)ボルシェヴィキは、このような世界を理解することができなかった。—マルクスは、黒魔術について何も語らなかった。ましてや、統治することなど。
 ボルシェヴィキによる社会基盤作り(infrastructure)が及んだのは、volost の町部分にまでだった。
 村落のほとんどは、依然として自分たちの共同体によって統治された。共同体の小土地所有(smallholding)の「農民」体質は、革命と内戦によってむしろ大きく強化された。
 実際には、この数年間にロシアは全体として、はるかに「農民」的になった。
 革命によって、大都市の住民は大きく解体し、工業は事実上破壊され、地方的文明の表層は剥ぎ取られた。
 小土地所有農民層が、残されたものの全てだった。
 多くのボルシェヴィキが、農民大衆によって威嚇されていると感じたのは、何ら不思議ではない。
 「野蛮な農民たち」に反抗心をもっていたGorky は、ボルシェヴィキの恐怖心を表現した。ベルリンへと発つ直前に、外国からの訪問者にこう言った。
 「農民は、全くもってその数の力によって、ロシアの主人になるだろう。
 そしてそれは、我々の将来にとっての大厄災だろう。」(*22)
 農民に対するこの恐怖は、1920年代の、解消されない緊張の原因だった。—これが、否応なく、集団化という悲劇へとつながった。//
 ——
 第二節①、終わり。

2339/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑧。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.784-5。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑧。
 (21)ロシアの偉大な二人の詩人、Alexander Blok とNikolai Gumilev が死んだことは、Gorky にとって最後のとどめになった。
 Blok は、1920年にリューマチ熱に襲われた。それは、暖房のない居所と飢えの中で内戦を経験した結果だった。
 しかし、彼の本当の苦悩は、革命の結果についての絶望と幻滅だった。
 彼は最初は、腐敗した旧ヨーロッパ世界を浄化するものとして、革命のもつ破壊的暴力を歓迎した。腐った旧世界から、新しく純粋なアジア的世界—the Scythians—が出現するだろう、と。
 彼の1918年の叙事詩<十二>は、旧世界を壊して新世界を創ろうと、前の見えない吹雪をくぐり抜けて「革命と足並みをそろえて」行進する12人の赤衛隊員を描写していた。
 先頭には、白薔薇で縁取られた赤旗を掲げ、雪上を軽やかに歩む、イエス・キリストがいた。
 Blok はのちにこう記した。この劇的な詩を作っている間、「私は大きな物音を周りに聞きつづけた。—文字通り、私の耳で聞いたことを意味する。多数の音からなる物音をだ(たぶん旧世界が粉々に崩れていく物音だった)」。
 Blok はしばらくの間は、ボルシェヴィキのメシア的性格を信じつづけた。
 しかし、1921年までには、幻滅するに至った。
 三年間、詩作をしなかった。
 親友であるGorky は、彼を「迷子」に喩えた。
 Blok は、Gorky に死に関する質問をして閉口させ、「人間の叡智への信頼」を全て捨て去った、と言った。
 Kornei Chukovsky は、1921年5月の詩作朗読会でのBlok の様子を、こう思い出す。
 「私は彼と一緒に、舞台裏に座っていた。
 舞台上で『弁士』か誰かが…聴衆に向かって、陽気に叫んだ、詩人としてのBlok はもう死んでいる、と。…
 彼は私に寄りかかって、言った。『本当だ。彼は真実を語っている。私は死んでいる』」。 
 Chukovsky が、なぜあれから詩を書かなかったのかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「全ての音が止まった。きみは、もはやどんな音もないことを知らないのか?」
 その月に、Blok は死の床に就いた。
 彼の医師は、外国に運んで特別の療養所に入れる必要があると強く主張した。
 5月29日にGorky は、彼に代わってLunacharsky に手紙を書いた。
 「Blok は、ロシアの現存する最も優れた詩人だ。
 彼が外国に行くのをきみが禁止するならば、彼は死ぬ。そして、きみとその仲間たちには、彼の死についての責任があるだろう。」
 数週の間、Gorky は、旅券の発行を懇願しつづけた。
 Lunacharsky は同意して、7月11日に、党中央委員会に書き送った。
 しかし、何もなされなかった。
 そしてようやく8月10日に、旅券が下りた。
 一日遅かった。一夜前に、詩人は死んでいた。(*18)//
 (22)Blok が絶望と遺棄によって死んだとすれば、わずか2週間後のGumilev の死の原因は、はるかに分かりやすいものだった。 
 Gumilev はペトログラード・チェカに逮捕され、数日間拘禁され、そして、審判なくして射殺された。
 彼は、君主主義者の陰謀に加担したとして訴追されていた。—彼は情緒的には君主主義だったけれども、ほとんど確実に虚偽の嫌疑。
 Blok の葬儀の際に形成された知識人の一委員会は、彼の釈放を訴えた。
 科学アカデミーは、審判法廷に彼が出頭するのを保証すると申し出た。
 Gorky は間に入って、レーニンと会いにモスクワへと急いで行くよう求められた。
 しかし、釈放せよとの命令書を持ってGorky がペテログラードに帰る前に、Gumilev はすでに射殺されていた。
 Gorky は動転して、せきをして吐血した。
 Zamyatin は、「Gumilev が射殺された夜ほどに怒って」いた彼を見たことがなかった、と語った。(*19)//
 (23)Gumilev は、ボルシェヴィキによって処刑された最初の著名なロシアの詩人となった。
 彼とBlok の二人の死は、Gorky にとって、そして知識人層全体にとって、革命の死を象徴していた。
 数百の人々が—Zamyatin の言葉では「ペテログラードの著作界に残っていた全員」が—、Blok の葬儀に参列した。
 そのとき少女にすぎなかったNina Berberowa は、思い出す。Blok の死が伝えられたとき、「一度も経験したことがなかった、自分が突如として明瞭に孤児になった、…最後がやって来た、喪失した」という感情に襲われた、と。
 Gumilev の最初の妻だったAnna Akhmatova は、Blok の葬儀の際に、詩人のためばかりではなく、一つの時代の理想のために、同じように死を悼んだ。
 「銀色の棺に入れて、彼を運ぶ。
  Alexander、われわれの純真な白鳥よ。
  私たちの太陽が、苦悩のうちに消え失せた。」(*20)/
 二ヶ月のち、自分の病気に苦しみながら、Gorky はロシアを去った。見たところでは、永遠に。//
 ——
 第一節⑧、そして第一節全体が終わり。

2338/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑦。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.782-4。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑦。
 (18)Nina Berberova によると、Gorky がヨーロッパに来たのは、ロシアで起きたことに怒ったのが原因ではなく、彼がロシアで見て体験したことで深く動揺したからだった。
 彼女は、夫である詩人のKhodasevichとGorky が交わした会話を、こう思い出す。
 「二人は1920年(の異なるとき)に、子どもたちの家へ、たぶん十代前半者用の矯正施設へ行った。
 ほとんんどが12歳から15歳の少女で、梅毒に感染しており、自分の家がなかった。
 10人のうち9人は窃盗者で、半分は妊娠していた。 
 Khodasevich は、…憐憫と嫌悪をもって思い出していた。ぼろ布とシラミの少女たちが自分にまとわりつき、階段で自分の服を脱がそうとし、彼女たちの破れたスカートを頭の上にまでまくり上げて、自分に向かって卑猥な言葉を叫んだ、と。
 彼はやっとのことで、彼女たちから引き離れた。
 Gorky も類似の体験をしていた。彼がそれを語り始めたとき、恐怖が彼の顔に現れ、彼は顎をしっかりと握って、突然に黙り込んだ。
 その施設の訪問が彼に衝撃を与えたことは明瞭だった。—おそらく、その前に受けていた浮浪児の印象以上のもので、彼の初期の作品が主題を得ていた奥深い所での恐怖だった。
 おそらくいまヨーロッパで、彼はそれを受け入れるのを怖れている心の傷を、ある程度は癒している。…彼は自分に訊ねている、自分自身だけに。すなわち、意味があったのか?」/
 Gorky は、自分自身が革命の孤児だった。
 革命への彼の希望の全ては—自分が立場を明確にしていた希望は—、この4年間に捨て去られた。
 建設的な文化の力が生まれるのではなく、革命は、ロシアの文明全体を事実上破壊した。
 人間を自由にしたのではなく、革命は人間の隷従化をもたらしたにすぎなかった。
 人間を精神的に改革したのではなく、革命は精神的な退廃を生み出した。
 Gorky は、深く幻滅するようになった。
 彼は1921年に、自分について「厭世的だ」と叙述した。
 彼は、レーニンのロシアの現実と、自分の人間中心主義的で民主主義的な社会主義とを調和させることができなかった。
 善をなし、改良していくという望みをもって、体制のしくじりに「聴こえない耳を向ける」ということは、もはやできなかった。
 彼の努力は全て、無に帰した。
 自分の理想がロシアで捨て去られたとすれば、彼に残されたのは、ロシアを捨て去ること以外になかった。(*15)//
 (19)ロシアを出て国外に移住しようとGorky が決心する前には、山のようなボルシェヴィキとの対立があった。
 過去4年間の愚かなテロル、知識人の破壊、メンシェヴィキとエスエルに対する迫害、クロンシュタット反乱の粉砕、飢饉に対するボルシェヴィキの冷酷な態度。—これら全てが、Gorky を新体制に対する痛烈な敵に変えた。
 Gorky の憤怒の多くは、自分が住むペテログラードの党指導者であるジノヴィエフに向けられた。
 ジノヴィエフはGorky を好まず、彼の住まいを「反革命の巣」と見ていた。そして、彼を継続的な監視のもとに置いた。Gorky の手紙類は開封され、彼の家は絶えず捜索された。また、彼の親しい友人たちは逮捕すると脅かされた。
 赤色テロルの時期のGorky の最も激しい怒りの手紙は、ジノヴィエフに宛てられていた。
 彼はその一つで、ジノヴィエフが絶えず逮捕していることで、「人々はソヴィエト権力のみならず、—とくに—個人としてのきみを憎悪するようになってきた」、と主張した。
 だが、ジノヴィエフの背後にはレーニン自身が立っていることが、すみやかに明瞭になった。
 ボルシェヴィキ指導者は、Gorky の非難に関して手厳しかった。
 1919年7月の脅迫的手紙で、彼〔レーニン〕は、こう書いた。「作家の『精神状態』の全体が、ペトログラードで彼を『取り囲んでいる』『敵愾心をもつブルジョア知識人たち』によって『完全な病気』になっている」。
 レーニンはこう威嚇した。「私の助言をきみに押しつけたくはない。だが、きみの環境を、きみの周り、きみの住まい、きみの職業を、すみやかに変えよ、さもないと人生はきみを永遠に失望させるだろう、と言わざるをえない」。(*16)//
 (20)Gorky のレーニンに対する幻滅は、1920年の間に深さを増した。
 ボルシェヴィキ指導者はGorky の出版所の<世界文学>編集の独立性に反対し、財政的支援を打ち切ると脅かした。
 Gorky は、Lunacharsky に激しく抗議した。
 彼は正しく、レーニンは全ての出版を国家の統制のもとに置こうとしているのではないかと疑っていた。—彼がひどく嫌悪したこと。そして、進行中の企画を続ける唯一の方法は外国で編集を行うことだと主張(または威嚇)した。
 しかし、容赦ないレーニンの監視が続いて、人民委員〔Lunacharsky〕はほとんど何もすることができなかった。
 Gorky の戯曲<Don Quixote>で、Lunacharskyは、彼自身(Don Baltazar)、Gorky(Don Quixote)とレーニン(Don Rodrigo)の間の三人の確執関係を演じた。
 これには、Don Baltazar のDon Quixote に対する別れの言葉がある。
 Gorky とレーニンの間の衝突を要約してもいる。—革命の理想と残酷な「必然性」との間の衝突。/
 「背後にある陰謀を打ち破っていなければ、我々は軍を破滅させていただろう。
 おお、ドン・キホーテよ!! おまえの罪を重くするのを望んでいない。だがここで、おまえは致命的な役割を果たした。
 つぎのことを隠そうとは思わない。容赦なきRodrigo の脳裡に、でしゃばって出てきて、厳格かつ複雑で責任で充ち溢れた生活の中に人類愛を持ち込む全てのお人好しに対する教訓として、おまえの上に威嚇の法の手を振りおろす、という考えが浮かんだのだ。」(*17)//
 ——
 ⑧へとつづく。

2337/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑥。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.781-2。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑥。
 (15)革命の孤児たちは、彼らが失った幼年時代のおぞましい風刺画だった。
 路上で生き残る闘いをするため、彼らはやむなく成人のように生活した。
 彼らには独自の用語群、社会集団、道徳規準があった。
 子どもたちは12歳ほどの若さで「結婚し」、自分たちの子どもをもった。
 彼らは積年のアルコール、ヘロインまたはコカインの中毒者だった。
 乞食、密売、小さな犯罪や売春は、彼らが生き残る手段だった。
 彼らは駅に蠅のように群がり、列車から投げ捨てられる食料の切れ端をめがけて突進した。
 多くの子ども乞食は、公衆の前で自らを苛み、辱めて、僅かばかりの褒美を得た。
 Omsk 駅に住んでいたある少年は、5コペイカを貰えるならば自分の糞便を顔に塗りつけたものだ。
 彼らと犯罪者の地下世界の間には、緊密な関係があった。
 子ども暴力団は市場の屋台から盗み、歩行者を襲い、人々のポケットから掏摸をし、店舗や家屋に侵入した。
 捕まえられた者たちは、孤児たちにほとんど同情していない公衆に路上で殴られそうになった。だが、こうしても、彼らの行為をやめさせられなかっただろう。
 市場広場でのつぎのような光景が、ある観察者によって目撃されている。/
 「私は、およそ10歳から12歳くらいの少年が、鞭で打たれながら、手を伸ばして、すでに汚れまみれの一枚のパンを欲しがってがつがつと口の中に詰め込んでいるのを見た。
 背中が、止むことなく打たれた。しかし、その少年は四つん這いになって、パンをなくさないように、急いで一欠片ずつ噛みちぎり続けた。
 これは、パン売場の行列のそばで起きたことだった。
 大人たち—女性—が周りに集まって、叫んだ。
 『悪党そのものだ。もっと、鞭を打て!! こんなシラミがいては安心できない。』」/
 このような孤児たちのほとんど全員は、簡略に売春行為を行なっていた。
 1920年の調査では、少女たちの88パーセントが一時的には売春行為に従事しており、一方、少年たちの中でも同様の数字が出ていた。
 少女の中には、7歳という幼い者もいた。
 性的行為のほとんどは、路上、市場広場、駅のホール、公園で行われた。
 少女たちには、<ひも>がいた。—彼ら自体が通常は10歳代の少年にすぎなかった。そしてしばしば、客から物品を強奪するために少女たちを利用した。
 しかし、いわゆる「おばちゃん」が経営する小児愛的売春宿もあった。彼女たちは子供に食べ物と部屋の一角を提供した。働かせて、その稼ぎで生計を立てた。
 数百万の子どもたちにとっては、これはかつて得たことのない母親的な世話を受ける、親密な事柄だった。//
 (16)1920年4月、Gorky はレーニンに、「すでに3回の殺人を犯した12歳の子どもたちがいる」と書き送った。
 かつて彼自身が路上の孤児だったが、Gorky は、「未成年者の非行」と闘った最初の一人だった。
 その年の夏、彼はその問題に取り組む特別委員会を設置し、居住区画を与えて子どもたちを守り、彼らに読み書きを教えた。
 Kuskova とKorolenko によって1919年に設立された青少年救済同盟も、同様の活動を行った。
 しかし、全部で50万箇所しかなく、路上には700万の孤児がいたので、そうしたことは、問題の表面を引っ掻くことができたにすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、1918年の自分たちが宣言した原理では「子ども用の法廷や刑務所はあってはならない」とあったにもかかわらず、ますます刑罰による対処へと移っていった。
 刑務所や労働収容所には数千人の子どもたちがいた。その多くは刑事上の責任能力のある14歳以下の者たちだった。
 この問題を処理するもう一つの方法は、工場が低賃金労働者として子どもたちを雇用するのを認めることだった。
 数千人の労働者が解雇された内戦時ですら、青少年の雇用が増大していた。そうして雇用された者の中には、とくに搾取的実務が消え去っていない小さな工場には、6歳の子どももいた。
 青少年については6時間に労働時間を制限し、雇用者に2時間の教育を義務づけるべきだ、という広範な呼びかけにもかかわらず、当局は介入しないことを選び、「路上での犯罪で生活させるよりは、働かせる方がよい」と主張した。その結果として、未成年者の多くが毎日12時間ないし14時間働くこととなった。(*14)//
 (17)子どもたちは、立派な兵士になった。
 赤軍の中には、多数の十歳代の若者がいた。
 物心ついてからの人生全てを戦争と革命の暴力に包まれて過ごしてきたため、彼らの多くは、間違いなく、人を殺すのはふつうの生活の一部だと考えるようになっていた。
 この小さな兵士たちは、言われたとおりに行う気持ちをもつ、という点が顕著だった。—上官たちはしばしば威厳ある父親の役割を果たした。また、とくに両親の殺害者に対して復讐をしていると信じるに至ったときには、敵を容赦なく殺戮する能力をもつ、という点についても。
 皮肉なことだが、路上でそのまま生活していただろうときよりも、この子どもたちは、軍の中にいる方がはるかに恵まれていた。—軍は彼らを自分の子どものように扱い、衣服、食べ物を与え、読み方を教えすらした。
 ——
 ⑦へとつづく。

2336/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.779-p.781。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑤。
 (13)活動が最もさかんだった1922年夏頃まで、ARAは毎日1000万人の人々に食事を供給した。 
 ARAはまた、医薬品、衣料、道具、種子を大量に送った。この活動によって、1922年と1923年の連続した大豊作が可能になり、ロシアはやっと飢饉から脱することができた。
 ARAが使った全費用は、6100万ドルだった。
 この援助を受けたボルシェヴィキには、感謝の気持ちが驚くべきほどになかった。そのような寛大な贈り物に対して、恥ずかしくも難癖がつけられてはならなかったにもかかわらず。
 ボルシェヴィキはARAを、スパイ行為をした、ソヴィエト体制の評判を落とし、打倒しようとしたと非難した。(+)
 (+原書注記—Hoover の動機は完全には明瞭でない。彼は実際には、ソヴィエト体制に対する敵愾心を強くして、外交的効果とロシアでの政治的影響を狙って飢饉救済を利用しようとしたのかもしれない。しかし、Hoover の側にある純粋に人道的な関心を否定することはできない。また、ボルシェヴィキによる非難に値するものでもない。Weissmam,<Herbert>第2章を見よ。)
 ボルシェヴィキはまた、運搬車を捜索し、列車を利用させず、供給物を奪い、さらには救援労働者たちを逮捕すらして、ARAの活動を妨害した。
 Hoover が提示していた二条件—干渉されない自由とアメリカ人全員の牢獄からの解放—は、こうしていずれも、厚かましくもボルシェヴィキによって破られた。
 さらにアメリカで憤激が起きたのは、西側からの食糧援助を受け取っていたのと同時に、ソヴィエト政府は、数百万トンの自分たちが持つ穀物を、外国に売るために輸出していることが明らかになったときだった。
 ソヴィエト政府は、質問されて、外国から工業用および農業用備品を購入するためには輸出が必要だと主張した。
 しかし、この醜聞によって、ARAはロシアで追加のアメリカ合衆国基金を募るのは不可能になり、1923年6月に、その活動を停止した。(*11)//
 (14)Gorky にとって、ソヴィエト政府が飢饉を処理したやり方は、恥ずかしい、かつ同時に当惑させるものだった。
 これが大きな要因となって、彼はロシアを去ろうと決心した。
 飢饉の最悪の事態が過ぎたとき、ボルシェヴィキは、アメリカ人に対して形式的な謝意を示す短い文書を送った。
 しかし、Gorky は、自分の謝意をもっと大っぴらに表現した。/
 「人間の苦悩の歴史の中で、ロシア人が体験している事態ほどに人間の魂にとって辛いものを、私は知らない。また、実際の人道主義の歴史の中で、大きさと寛容さの点であなた方が現実に成し遂げた援助と比較できるものを、私は思いつかない。
 あなた方の助けは、比類なく巨大な功績であり、最高の栄誉に値するものとして、歴史に残るだろう。それはあなた方が死から救った数百万のロシア人民の記憶に長くとどまり続けるだろう。
 アメリカの人々は、慈愛と憐れみを人類が大きく必要としているときに、人々の間に友愛の夢を蘇生させてくれた。」(*12)
 革命の最も悲しい遺産の一つは、全ての都市の路上に放浪していた、膨大な数の孤児たちだった。
 1922年頃、700万の子どもたちが、駅舎、放棄された家屋、建築現場、ごみ捨て場、地下室、下水溝その他の汚い穴蔵に、雑多に住んでいた。
 ぼろ布を着た裸足のこうした子どもたちの両親は、ともに死んでいたか、彼らを遺棄していた。この子どもたちは、ロシアの社会的な破壊の象徴だった。
 家庭すらが、破滅していた。//
 ——
 ⑥へとつづく。

2335/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.778-9。注記は箇所だけ記す。
 ——
 第一節・革命の孤児。
 (9)このような行為はたんに道徳の退廃か精神異常の兆候だ、と言うのはたやすい。
 しかし、人々を人肉喰いへと駆り立てたのは、しばしば哀れみの気持ちだった。
 自分の子どもたちがゆつくりと死んでいくのを見守るという激しい苦悩によって、人々は何でもすることができると思った。そして、そののような異常な環境のもとでは、正邪に関する規範的指針などはどうでもよいように思えた。
 実際にインタビューを受けたとき、人肉を食べた者は全く理性的に見え、しばしば彼らの行為を正当化する新しい道徳規準を作っていた。
 彼らの多くは、こう主張した。「土壌の虫けらたちの食料としてのみ」残っている彼らの肉体から、生きている魂はすでに分離しているのだから、彼らの肉を食べることは罪ではありえない、と。
 また、人肉は飢えている人々が食べれば容易に生き延びることができるもので、それを欲しがることは、いずれかの社会階層に特有なことではない、と。
 飢えた医師たちは、飢饉地域での長期間の救助の仕事のあとで、しばしば人肉を食べるという欲求に屈服した。そして彼らもまた、経験した中での最悪の部分は、人肉を求める「打ち克ち難い、かつ心地よくない切望感」だった、と述べた。(*7)//
 (10)1921年7月まで、ソヴィエト政府は飢饉が存在すること自体の承認を拒否していた。
 これは、大きな厄介事だった。
 1891年の危機のときと同じく、プレスは「飢饉」という言葉を用いることを禁止された。
 NEP〔ネップ。1921年3月党大会決定による『新経済政策』〕の導入後の田園地帯は順調だ、という報道が続いた。
 無視するという意図的政策は、ウクライナでより明確に公言された。そこで飢饉が起きているという噂は1921年秋までにはあったけれども、モスクワは翌年の夏まで、大量の穀物をヴォルガへと移出し続けた。
 もちろんこれは、飢えている地方から奪って、より飢えている別の地方に与えることだった。
 しかし、Robert Conquest が1930-32年の飢饉について説得的に論じているように、ボルシェヴィキ体制に反抗していることを理由としてモスクワはウクライナの農民に罰を与えようとした、ということだったかもしれない。(*8)//
 (11)1891年のように、公的団体や外国の団体が救援運動する余地はあった。
 Gorky は、先頭に立った。
 7月13日、彼は、『全ての誠実な人々へ』との訴えを発した。それは以下の文章で、のちに西側の諸新聞に掲載された。
 「Tolstoy、Dostoevsky、Mendeleev、Pavlov、Mussorgsky、Glinka その他の世界的に称賛される人々の国に、悲劇がやって来ている。
 人道的(humanitarian)な考えと感情を、—悲惨な戦争と敗者に対する勝者の無慈悲さによって、その社会的重要性への信頼はぐらついているが—こうした考えや感情の創造的な力への信頼を、 復活しなければならず、復活することができるとすれば、私は言いたい、ロシアの不幸は、人道主義の力を示すことのできる、またとない素晴らしい機会を提供している、と。
 私は全ての善良なヨーロッパとアメリカの人々に、ロシアの人々に対する援助を要請する。
 パンと医薬品を与えよ。
  Maxim Gorky」/
 Gorky は、その他の著名な人物たちのグループとともに、飢饉からの救済のための自発的団体を組織するのを許すよう、レーニンに訴えた。 
 その結果として7月21日に設立された飢餓援助全ロシア公共委員会、略してPomgol は、共産主義体制のもとで設置された、最初で最後の自立した公的団体だった。
 レーニンがこの組織の設立に同意したのは、一つはGolky に対する譲歩からであり、また一つは、外国からの援助を確保するためだった。
 73名のメンバーの中には、指導的的文化人(Gorky、Korolenko、Stanislavsky)、リベラル派政治家(Kishkin、Prokopovich、Kuskova)、帝制時代の大臣(N. N. Kutler)、老練の人民の意思主義者(Vera Figner)、著名な農学者(Chayanov、Krondatev)や工学者(P. I. Palchinsky)、医師、そしてトルストイ主義者、がいた。 
 トルストイの娘のTolstaya すらもいた。彼女は、この4年の間を、チェカの牢獄や労働収容所を入ったり出たりして過ごしていた。
 Pomgol は、1891年に国を救った公共精神を蘇生させようとした。すなわち、国内外の公衆に対して、救援運動に寄付をするよう訴えた。
 30年前に救援活動に参加したLvov 公は寄付金を集めて、パリのZemgor 組織を通じて食糧を送った(国外追放中でも、彼はzemstvo の仕事を継続していた)。
 ボルシェヴィキは、Pomgol が政治に介入しないように、カーメネフが率いる12人の有名な共産党員をそれに配属させた。
 レーニンは断固として、1891年の飢饉のときと同じような公的反対派を発生させてはならない、と考えていた。(*9)//
 (12)Gorky の訴えに応えて、Herbert Hoover〔1929-33年の米国大統領(共和党)—試訳者〕はロシアに、アメリカ救援本部(ARA, American Relief Administration)を派遣した。
 Hoover は、戦後のヨーロッパに食糧と医薬品を送るためにARA を設立していた。
 Hoover は二条件を提示した。第一に、共産主義当局の介入なしに独立して活動することが許されること、第二に、全てのアメリカ合衆国市民がソヴィエトの牢獄から解放されること、だった。
 レーニンは、激怒した。—「フーヴァーを制裁しなければならない。全世界が見れるように、あいつの顔を平手打ちしなければならない」と毒づいた。
 だが、乞う者はみなそうであるように、えり好みはできなかった。
 Pomgol がアメリカの援助を獲得するや、レーニンは、カーメネフやGorky の激しい反対にもかかわらず、終了を命じた。
 8月27日、全ての公的メンバーは—Gorky とKorolenko を除いて—チェカに逮捕され、あらゆる態様の「反革命活動」をしたとして訴追された。そしてのちに、国外に追放されるか、国内の限定された区域に送られた。
 Gorky ですら、レーニンによって「健康のために」国外へ行くように説得された。(*10)//
 ——
 ⑤へとつづく。

2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.776-8。注記は箇所だけ記す。
 ——
 第一節・革命の孤児。
 (7)1921年春までに、ソヴェト・ロシアの農民の4分の1が飢えていた。飢饉はヴォルガ地帯だけを襲ったのではなく、ウラルやKama盆地、ドン、Bashkiria、カザフスタン、西シベリア、南部ウクライナをも襲った。
 飢饉に伴ったのはチフスとコレラで、これらは空腹ですでに弱っていた数十万の人々を殺した。
 最も酷かったのは、ヴォルガ平原だった。
 Samara 地方ではほとんど200万人(人口の4分の3)が1921年の秋までに飢餓で死にかけていた、と言われている。彼らのうち70万人は実際に、その危機が終わるまでに死んだ。
 典型的な行政区画のBulgatovaには1921年1月に1万6000人の人口があったが、1000人が死亡し、2200人が自分たちの家を捨てた。そして6500人が、その年の11月までには植えと病気で動けなくなつた。
 ヴォルガ地帯全体で、飢えた農民たちは、草葉、雑草、木の葉、苔、樹皮、屋根の葺き藁、どんぐりで作られた床、おが屑、粘土、馬の肥料を食べ始めた。
 彼らは、家畜を殺戮し、ねずみ類や猫、犬を捜し求めた。
 村落には、死の静寂があった。
 ほとんど骨だけになって腹をふくらませた人々、子どもたちは、犬が死ぬときのように静かに横たわった。 
 Saratov のある救援労働者は、こう記録した。
 「村民は、生きることを諦めていた。疲れ果てて、不平を言うことすらできなかった。」
 強さを残す者は荒れ果てた農場を板で囲い、荷車の上に僅かの持ち物を包んで乗せて、食糧を求めて町へと逃げ去った。
 町の市場では、数塊のパンを、一頭の馬と交換することができただろう。
 多数の人々はそうできずに、消耗して、道端で死んだ。
 膨大な数の群衆が、他地方へ行く列車に乗ろうという虚しい望みをもって、鉄道駅に集中した。—他地方とは、モスクワ、ドン地域、シベリア、そして食糧があると噂されていればほとんど全ての地方。
 彼らは、疫病蔓延を制限せよとのモスクワの命令によって、飢饉の地帯からの輸送は全部止められていたことを、知らなかった。
 以下は、1921年夏の、Simbirsk 駅での光景だ。
 「汚いぼろ服の一団の民衆を、想像してみよ。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
 とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
 待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
 近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
 チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
 育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
 20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
 ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。/
 一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
 その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
 その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
 そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
 子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
 彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
 拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
 戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
 子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
 母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
 母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。」(*6)
 〔試訳者注記—Richard Pipes, Russia under the Bolshevik regime (1993) のp.412-3 (第8章第10節)に、上と全く同じ長い文章が引用されている。試訳済み→No.1516/2017.04.25。
 (8)ある人々は、飢えによって人肉喰い(cannibals)に変わった。
 これは、歴史家がこれまでに推測してきた、きわめてふつうの現象だった。
 飢饉が最悪だったBashkir 地方、Pugachov やBuzuluk の平原地帯では、数千の事例が報告されている。
 人肉喰いのほとんどは、報告されないままでもある。
 数人の子どもを食べて有罪とされたある男は、例として、こう告白した。
 「我々の村では、全員が人肉を食べ、それを隠した。
 村には、カフェテリアがいくつかあった。—それらはみな、幼い子どもたちを提供していた。」
 このような現象は、冬が始まるとともに、およそ1921年の11月頃にはなくなった。その頃には、地上にある食糧の代用物を初雪が覆い、食べるものが何もなくなった。
 子どもたちを育てるのに絶望した母親たちは、死体から四肢部分を切り取り、生肉をポットで茹でた。
 人々はみな、自分の縁戚者だった。—しばしば幼い子どもたち。子どもたちはふつうは最初に死に、その生肉はとくに美味かった。
 いくつかの村では、農民は死者を埋葬するのを拒んで、獣肉であるかのように、納屋や牛小屋に貯えた。
 彼らは救援労働者に対してしばしば、死体を持っていかず、食べさせてくれ、と頼んだ。
 Pugachev 近くのIvanovka の村では、死んだ夫を食べたとしてある女性がその子どもと一緒に逮捕された。そして、警察が夫の遺体を取り去ろうとしたとき、彼女は叫んだ。
 「私は彼を捨てない。我々には食料として彼が必要だ。彼は我々の家族だ。だから、誰にも我々から彼を取り去る権利はない。」
 墓地から死体を盗むのがありふれたことになったので、多くの地域で武装監視兵が墓地の入口を監視するために配置された。
 生肉を求めて人々を探したり殺したりすることもまた、ふつうの現象だった。
 Pugachev の町では、暗くなってから子どもたちが外出するのは危険だった。そこには人喰い者の盗賊と商売人がいて、子どもたちを殺し、柔らかい人肉を売っている、と知られていたからだ。
 Novouzensk 地方では、人肉を求めて成人を殺害する子どもたちの盗賊団もあった。
 そのような理由で、救援労働者たちは武装していた。
 自分たちの赤ん坊—たいていは女児—を殺す親たちの事例すらがあった。その肉を自分たちが食べる、または他の自分の子どもたちに食べさせるために。//
 ——
 ④へとつづく。
 左は2017年版、右は1996年版の各表紙。本文の頁番号、各頁の内容は同じ。


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2331/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・第16章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.774-6。注記の箇所だけ記して、その内容(ほとんど参照文献の指示)は省略する。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。 
 (4) 死はありふれたことだったので、人々はそれに慣れてきた。
 路上の死体を見ても、もう注意を惹かなかった。
 殺人はほんの僅かの動機から起きた。—数ルーブルの窃盗、行列飛ばしを原因として。さらには、たんに殺人者の娯楽のために。
 7年間の戦争によって、人々は残虐になり、他人の苦痛に対して無感覚になった。
 1921年、Gorky は、赤軍出身の兵士たちに尋ねた。「人を殺すときには落ち着かないのでないか?」
 「いや、そんなことはない。『相手は武器をもち、自分も持っている。そして、喧嘩になったとする。お互いに殺し合って、土地が広くなるなら、いったいそれがどうだというのだ。』」
 第一次大戦中にヨーロッパでやはり戦ったある兵士は、Gorky に、外国人を殺すよりはロシア人を殺す方が簡単だ、とすら言った。
 「我々は民衆の数が多く、経済は貧しい。村が一つ焼かれるとして、なんの損失か?
 放っておいても、村は自然に崩れ落ちるだろう。」
 生命の価値は安くなり、人々は互いに殺し合うことについて、ほとんど何とも思わなかった。あるいは、その者たちの名で数百万人を殺している他人についてすら。
 ある農民が、1921年にウラルで仕事をしていた科学的調査団に対して尋ねた。
 「きみたちは教養がある。おれに何が起こるのか、教えてくれ。
 Bashkir 人がおれの雌牛を殺した。それで、<もちろん>、そのBashkir 人を殺し、彼の家族から雌牛を奪ってやった。
 教えてくれ。雌牛を盗んだとして、おれは罰せられるのか?」
 調査団が、その男を殺したことで罰せられるとは思わなかったのか、と尋ねた。農民はこう答えた。
 「全く。今では人間は安い。」//
 (5)別の物語が伝えられている。—何の明白な理由もなく自分の妻を殺した夫についての話だ。
 その殺人者の説明は、「彼女に飽きた。それで終わりだ」というものだった。
 まるでこの数年間の暴力が、人間関係を覆っていた薄い膜を引き剥がして、人間の原始的な動物的本能を曝け出したごとくだった。
 人々は血の匂いを好み始めた。
 サディスティックな殺戮方法の嗜好が発展した。—これは、Gorky が専門とする主題だった。/
 「シベリアの農民は穴を掘って、赤軍受刑者を逆さまに入れて、膝から上を地上に出した。そして、その穴を土で埋めて、犠牲者の足が痙攣してなおも抵抗しているのを観察した。生きていた者は最後には死んだだろう。/
 タンボフ地方では、共産党員たちが、地上1メートルの木に鉄道用の大釘で左手と左足を釘づけにされた。人々は、わざと奇妙な形で磔にした者が苦しむのを眺めた。/
 人々はある受刑者の腹を割いて小腸を取り出し、それを木か電柱に釘で打ちつけ、その男を殴打して木の周りを回らせ、腸がその負傷した男の身体から解かれていくのを、観察した。/
 人々はまた、捕えた将校を衣類を剥ぎ取って裸にし、肩の皮膚の一片を肩紋の形に引き裂いて、〔肩章の〕星の場所に押し込んだ。そして、剣帯とズボンの線に沿って皮膚を剥ぎ取ることになる。—この作業は「制服を着せる」と称された。
 疑いなく、長い時間と相当の技巧を必要とするものだった。(*4)
  (6)この時期の単一の最大の殺人者は—約500万人の生命を奪ったと算定されている—、1921-22年の飢饉だった。
 どの飢饉でも同じだが、ヴォルガ大飢饉は人と神によって惹き起こされた。
 ヴォルガ地帯はその自然条件によって収穫が十分でないことが多かった。—そして近年では1891-92年に凶作が多く、1906年と1911年に数回の凶作があった。
 夏の旱魃と極端な冷気は、平原地帯の気候では定期的に起きることだった。
 春の突風は砂の表土を吹き飛ばし、収穫を減少させた。
 1921年のヴォルガ飢饉には基礎的条件があった。1920年の凶作は、一年にわたる厳しい冷気と灼熱の夏の旱魃によって、平原地帯に巨大な黄塵が発生したことで起きた。
 春頃には、農民たちが前年に続いて二回めの凶作の被害を受けることが明確になった。
 種の多くは霜が降る寒気で駄目になった。また、現れていた新しい収穫の兆しは、見たところでも草のようにひ弱くて、バッタと野ねずみに食われてしまった。
 悪くはあったが、こうした自然環境の中での異常は、まだ飢饉の原因となるものとは言えなかった。
 農民たちは凶作に慣れていて、つねに穀物を大量に貯蔵していた。しばしば、非常時に備えて、共同集落の貯蔵小屋に。
 内戦時の穀物徴発(requisitioning)によって、自然が災害をもたらす以前に、農民経済が破綻の縁に達していたことが、1921年の危機を大災難に変えた。
 農民たちは徴発を回避するために、生活を維持するだけの生産へと逃げ込んだ。—自分たちや家畜が生きていき、種を保存するのに十分なだけの栽培しかしなくなっていた。
 言い換えると、ボルシェヴィキが奪ってしまうことを怖れたがゆえに、彼らは、安全のための余裕を、つまり過去の悪天候の際には守ってくれたような保留分を残さなかった。
 1920年に、ヴォルガ地帯の種撒き面積は1917年以降の4分の1に減少していた。
 だが、ボルシェヴィキは、さらに—余剰のみならず、生命にまでかかわる食糧貯蔵分や種子まで—奪い(徴発し)つづけた。その結果として、凶作の場合には農民の破滅という結果になることが必然的である程度にまで。(*5)
 **
 ③につづく。
 

2329/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・目次。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 この書物は(Richard Pipes の二つの大著より新しく)1996年に原書(英語)が出版された。
 しかし、これにも、邦訳書がない。2017年にロシア革命100年記念の新装版が出版されたが、日本の出版業界・関係学者たちは無視した。
 目次を見ると、つぎのような構成になっている。試訳してみる。章・節等の言葉は元々はない。第一部(PART ONE)については「節」を省略。
 **
 第一部/旧体制のロシア。
  第一章・専制王朝。
  第二章・不安定な支柱。
  第三章・聖像とゴキブリ。
  第四章・赤いインク。
 第二部/権威の危機(1891〜1917)。
  第五章・最初の流血。
   第一節—愛国者と自由派。
   第二節—「ツァーリはいない」。
   第三節—路線の分岐。
  第六章・最後の希望。
   第一節—議会と農民。
   第二節—政治家。
   第三節—強者への賭け。
   第四節—神よ、王よ、祖国よ。
  第七章・三つの前線での戦争。
   第一節—人に対する鉄。
   第二節—狂ったお抱え運転手。
   第三節—塹壕からバリケードへ。
 第三部/革命のロシア(1917年二月〜1918年三月)。
  第八章・栄光の二月。
   第一節—路上の権力。
   第二節—気乗りしない革命家たち。
   第三節—ニコライ・最後の皇帝。
  第九章・世界で最も自由な国。
   第一節—遠くの自由主義国家。
   第二節—期待。
   第三節—レーニンの激怒。
   第四節—ゴールキの絶望。
  第一〇章・臨時政府の苦悩。
   第一節—一つの国という幻想。
   第二節—赤の暗い側面。
   第三節—白馬に乗る男。
   第四節—民主主義的社会主義のハムレット。
  第一一章・レーニンの革命。
   第一節—蜂起の態様。
   第二節—スモルニュイの独裁者たち。
   第三節—強奪者から強奪する。
   第四節—一国社会主義。
 第四部/内戦とソヴェト・システムの形成(1918〜1924)。
  第一二章・旧世界の最後の夢。
   第一節—草原の上のサンクト・ペテルブルク。
   第二節—憲制会議という亡霊。
  第一三章・戦争に向かう革命。
   第一節—革命の軍事化。
   第二節—「富農」: 販売人と煙草ライター。
   第三節—血の色。
  第一四章・勝利する新体制。
   第一節—三つの決定的戦い。
   第二節—同志たちと人民委員たち。
   第三節—社会主義の祖国。
  第一五章・勝利の中の敗北。
   第一節—共産主義への近道。
   第二節—人間の精神の操縦者。
   第三節—退却するボルシェヴィキ。
  第一六章・死と離別。
   第一節—革命の孤児。
   第二節—征服されていない国。
   第三節—レーニンの最後の闘い。
 **
 以上

2328/Orlando Figes, 人民の悲劇-ロシア革命(1996) 第16章第1節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution(Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 一番最後の章(第16章)から試訳。一行ごとに改行。段落の冒頭に原書にはない番号を付す。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。
 (1)Gorky はベルリンに着いて、Roman Rolland に手紙を出した。
 「元気でない。結核がぶり返してきた。でも、私の年齢では危険ではない。
 もっと耐えられないのは、魂の悲しい病気だ。—ロシアでの過去7年間でとても疲れたと感じている。その間、たくさんの悲しい劇的事件を見、体験してきた。
 より悲しさが募るのは、そうした事件が、熱情の論理や自由な意思によってではなく、狂熱と卑劣さによる盲目的なかつ冷酷な計算によって、起こされてきたことだ。…
 人類の未来の幸福を、私はまだ熱烈に信じる。しかし、輝かしい未来のために人々が払わなければならなかった大量の悲痛に、私は失望し、心が掻き乱されている。」(*1)
 1921年秋にロシアから離れたGorky の背後には、死と幻滅があった。
 これまでの4年間であまりに多数の人々が殺されたため、彼ですらもはや、革命の希望と理想にしがみつくことができなかった。
 あれだけの人間の苦しみに値するものは、何もなかった。//
 (2)革命による人間の犠牲者全体数については、誰にも分からない。
 内戦、テロル、飢饉、病気による死だけを計算しても、数千万人台のいずれかだった。
 しかし、国外脱出者(約数百万人)、—この恐ろしい時代に誰も子どもを欲しくなかったので—大きく減少した出生率の人口統計上の影響—統計学者はさらに数千万人を加えることになると言う(++)—は、上の数字から除外されている。
 最も高い死亡率になるのは成人男性だった。—1920年だけでペテログラードには6万5000人の寡婦がいた。しかし、死はありふれたことで、全ての者が関係した。
 友人や親戚を一人も失わないで革命期を生き延びた者はいなかった。
 Sergei Semenov は、1921年1月に旧友にこう書き送った。
 「神よ、何と多数の死か !! 老人の男のほとんどが死んだ。—Boborykin、Leniv、Vengerov、Vorontsov、等々。
 Grigory Petrov ですらいなくなった。—どのように死んだのか知られておらず、たぶん社会主義の進展に喜びながらではない、とだけは言うことができる。
 とくに心が痛めつけられるのは、友人がどこに埋葬されているかすら分からないことだ。」
 一つの家庭に対して死がいかほどに影響を与えるかは、Tereshchenkov 家の例がよく示している。
 赤軍の医師のNikitin Tereshchenkov は、1919年のチフス伝染病で娘と妹の二人を失った。上の息子と兄は、南部前線で赤軍のために戦闘をして同年に殺された。義理の弟は、不思議な殺され方をした。Nikitin の妻は、彼がチフスに罹っている間に、結核で死んだ。
 (地方の多数の知識人たちのように)彼らは地方チェカから非難され、Smolensk の自分たちの家を失い、1920年に、二人の残っている息子たちが働く小さな農場へと移った。—15歳のVolodya と、13歳のMisha。(*2)//
 (3)この時期にロシアで死ぬのは容易だったが、埋葬されるのはきわめて困難だった。
 葬儀業務は国有化され、その結果として埋葬には際限のない書類仕事が必要だった。
 当時、棺用の木材が不足していた。
 愛する人の遺体をマットで包み、または棺—「要返却」という刻印つき—を借りて、墓地にまで運ぶだけの人々もいた。
 ある老教授は借りた棺に入れるには背丈が大きすぎて、何本かの骨を折って詰め込まれなければならなかった。
 説明することのできない理由で、墓地すらが足りなかった。—これがロシアでなければ、信じられるだろうか? 人々は墓地が見つかるのを数ヶ月待った。
 モスクワの遺体安置所には、地下室で埋葬を待つ、腐りかけの死体が数百あった。
 ボルシェヴィキは自由な葬儀を促進することで、この問題を緩和しようとした。
 彼らは1919年に、世界で最大の葬礼場を建設すると約束した。
 しかし、ロシア人は正教での埋葬儀礼に愛着をもちつづけたので、このような提議は無視された。(*3)//
 ——
 〔注(*1) -(*3)の内容(参照文献の提示)は省略する。〕
 (++) 除外されているのは他に、生き延びたが栄養失調や病気で減少したと見込まれる人々の数だ。この時期に生まれて育てられた子どもたちは、年上の者たちよりも顕著に小さく、新生児の5パーセントには梅毒があった。Sorokin, Souvemennoe, p.16, p.67.)
 **

2325/レフとスヴェトラーナ29—第7章⑤。

 レフとスヴェトラーナ、No.29。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.168〜p.174。省略した箇所がある。
 ——
 第7章⑤。
 (51) レフに逢うと決意して、かつ非合法に収容所に立ちいることで逮捕される危険を冒したくなくて、スヴェータは、レフを訪れる公式の許可を得るべく、収容所管理本部へ行った。その白い古典的建造物は、前年にLev Izrailevich と二人で木材工場へ行く途中で通り過ぎたところだった。
 こうするのは、勇気ある行為だった。なぜなら、MVDはほとんど確実に、1947年の彼女の非合法の収容所への侵入を知っており、今は彼女の逮捕を命じるかもしれなかった。
 スヴェータは階段を昇り、収容所所長のA. I. Borovitsky の執務室のドアを見つけた。そこは、木の床の広い廊下の端にあり、廊下には彼女が木材工場の発電施設の煙突を眺めることのできる大きな窓があった。 
 Borovitsky の執務室の大きな広間には受刑者が作った浮き彫りの石膏があった。それは北方の森の風景、建物地区、鉄道線路を表現していた。
 着いたとき、Borovitsky は不在だった。
 彼が現れるのを待った。 
 彼女は長旅の後で、とても疲れていた。
 スヴェータは、こう思い出す。「管理本部長を一日いっぱい待ちました。夜遅くまでずっと待っていました」。
 (52) 他の幹部たちと同じく、またスターリンがそうだったように、彼は、夜に仕事をした。
 どの執務室の時計もモスクワ時間に合わせられていた。
 首都にあるMDV から電話がある場合に備えて、幹部は誰も眠ろうとはしなかった。
 Borovitsky がやっと現れて、執務室に入らせた。机と大きな金庫の間に、彼は座った。 
 Borovitsky は丁重かつ慇懃に、スヴェータの願いにすぐに応じて、命令書に署名した。そして、内容が見えるように示してスヴェータの手の中に入れた。
 スヴェータは思い出す。「彼にとても感謝しました」。
 通りにいったん出て、手の中の書類をもっと近寄せて見た。
 「明るい街路灯か、たぶん探索灯かがあり、その光で私は文書を読みました。
 『軍人監視員の同席のもとで、20分の面会を許す』。」//
 (53) 面会は翌日に、第二入植区の受刑者用営舎への入口にある小さな監視員小屋で行われた。
 執務中だった監視員は、その上司よりも親切であることが判明した。
 その監視員は、テーブルと長椅子のある主な部屋から離れた私的な休憩室で二人が逢うことを認めてくれた。
 休憩室のドアは開けられたままだったが、監視員は入って来なかった。
 テーブルの上には、監視員が訪問者の記録を付けるための帳面があった。
 スヴェータに与えられていたのは20分だった。しかし、その監視員は彼女が到着した時間を記帳しなかった。
 もし誰かが尋ねたら、彼女はいま到着したばかりでまだ帳面に記録していない、と答えただろう。
 このようにして、レフとスヴェータは、その日に数時間、一緒にいることができた。
 監視員の執務時間が終わる前に、彼は、翌日の正午に来るように二人に言った。それは、彼のつぎの執務時間だった。
 スヴェータは、指定された時間に戻って行った。
 そのとき、レフも現れた。そして二人は、その日の午後全部を、休憩室にある長椅子に座って過ごした。
 その間じゅうずっと、ドアの後ろから外を見ると、収監者たちや監視員が監視員小屋に出入りしていた。
 そうした時間は、二人が期待した以上に長いもので、かつ同時に、救いようもなく不適切なものだった。//
 (54) 8月30日、スヴェータはペチョラを発った。
 彼女はレフの忠実な友人のStanislav Yakhivich と一緒に駅まで行き、彼が切符を買い、モスクワ行きの列車に乗せてくれた。
  Kotlas までの途中の車内で、スヴェータは書いた。
 「私の大切なレフ、あなたがいない二日めが来て、もう過ぎていきます。/
 私の車両は組合せ型(上で寝て、下で座る)で、人々は(寝台車よりも)頻繁に出入りします。
 でも私のいる仕切り部屋は全員がKotlas へ旅行していて、Kotlas で列車は5時間停車する予定です。
 Kotlas は恐ろしい場所です。—全行程中であんなに不潔なところはありません。
 眠ります。
 寒い夜ですが、綿入りの下着を身に付けています。
 その上に毛布をかぶりますから、凍えないでしょう。…
 森林にはもう湿り気がありませんが、秋らしい様子が美しい。…
 私の下の段には子どもたちがいます。—10歳の女の子、女の子と5歳の男の子、また別の3歳の女の子。
 この子どもたちは三人の姉妹の子で、三人姉妹の夫は全員が殺されました。—そして、一家族としてみんな一緒に生活してます。
 子どもたちは可愛い。
 さて、レヴィ、今はこれで全て。
 気をつけて。みなさまによろしく。」//
 (55) 9月4日にようやく、彼女は家に帰った。そして、両親が心配して具合が悪いことを知った(両親はスヴェータから一通の電報も受け取っていなかった)。
 その夕方、彼女はレフに書き送った。
 「私の大切な、大切なレフ、やっと家にに着きました。
 Gorky からもう一通の手紙を送りたかったのだけど、時間がなかった。
 旅行中にどこかの駅から二度、そしてKirov から手紙を出しました。
 雨のためにKirov では横道はどこも抜けられませんでした。でも泥土で、Kotlas のようなぬかるみではなかった。
 Kirov からGorky までの列車は非常な旧式でしたが、寝床は好くて、人々も素敵でした。それで、よい気持ちで到着しました。
 下の寝台には、まだ歩かず、話しもしない3歳の男の子を連れた母親とお婆ちゃんがいました。
 医師たちは、治療する必要はない、ふつうに静かに気をつけて育てれば6歳になるまでには良くなる、と言うそうです。
 その男の子は見つめるととても可愛くて—長くて厚い丸まったまつげのある大きな眼だった—、とても人懐こかった。…
 私とともに旅行しているやはりモスクワ市民の別の女性もいました。彼女は、夫を(夫が労働収容所から帰るのを)10年間待っていて、一緒になろうとKirov へと引っ越しましたが、その夫は誰か別の女性と結婚していたそうです。
 彼女にとって、世界は空虚な場所になりました。/
 ほとんど3時間遅れて、モスクワに入りました。
 家には8時頃に帰り、ママが階段の上で私を迎えてくれました。…
 今9時で、外は急に暗くなっています。
 はい、私の大切な人、とりあえずさようならと言います。
 全てを覚えていて。
 あなたの気持ちが平穏であるよう、考え過ぎてあなたの心がかき乱されないよう、願っています。
 でも、あなたの頭に何か好くないことが起きたときには、ただちに私に手紙を下さい。私が治療法を見つけます。
 ごきげんよう。みなさまによろしく。」//
 (56) スヴェータはいつも、誰かを失った人々に惹き付けられた。しかし、労働収容所で別の女性のために夫を失った女性には初めて遭遇した。
 そのモスクワ女性のような話は、決して異常ではなかった。
 多数の夫婦が、10年の判決によって引き裂かれた。
 —妻たち、諦める、収容所にいる夫を待つことができない、あるいは死んでいると思う、そうして他の誰かと新しい人生を始める。
 —夫たち、妻や子どもたちが「人民の敵の縁戚」として差別されるのから救おうとして離婚する気になる、あるいは妻に見切りをつけて、自分が体験したことをよく理解できるかもしれない収容所出身の女性たちと結婚する。//
 (57) スヴェータは、ペチョラへの旅行によって、今度は元気になった。
 帰ったあとで彼女はレフにこう書いた。
 「今日鏡で、自分の姿を見ました。
 Pereslavl'(-Zalessky) から帰ったときよりも、はるかに良いように見えます。」
 3日後、彼女は「この上ない幸福感を感じ、誰に対しても親切だった」。
 3週間後でも、旅の効果を感じていた。
 彼女は書いた。
 「幸せでいっぱいです。
 もう泣かなくなっただけではなく、先日は電車に乗っていて微笑んでいる自分に気づきました。」//
 (58) 一方レフは、スヴェータ以外のことを考えることができなかった。
 9月4日、彼女が安全に帰宅したという知らせをまだ待っているときに、彼は書き送った。
 「僕の大切な、美しいスヴェータ、僕の状態をどう描写すればよいかわかりません。
 『切望している』は正しくない。—とても心配してもいるのです。
 考えたり見たりしているのは、きみだけだ。きみの全部ではなくて、きみの眼、眉毛、そしてきみの灰色の衣服だけを見ている。」/
 5日後、まだスヴェータからの手紙を受け取っていないとき、10日の彼女の幸福な誕生日を祝って書いた。しかし、悲しい気分だった。
 「僕の大切なスヴェータ、明日はきみの誕生日だ。
 僕の大切な人、僕がきみに何かを望むのはむつかしい。—僕がきみに望むことと今そして将来に可能なことの間には、大きな違いがあります。
 僕が望んでいることの全ては、誰も信じない、狂人のたわ言のように聞こえるに違いない。
 明日までに僕の手紙がきみに届くのなら、手紙を書かないでしょう。
 我々の状況を無意味に思い出させて、きみを困惑させることは今日はしたくない。
 スヴェータ、スヴェータ、もしも運命がもっと寛大だったなら、運命が我々に微笑んでくれるなら。…
 将来に何が起きるか、それがどのようなものか、分からない。でも、我々には共通する一つのものがあると、僕は信じたい。
 本当に多すぎて、信じることはできない? …
 スヴェト、気をつけて。スヴェティンカ、健康でいて。」//
 (59) 9月22日、スヴェータが発ってから3週間後にも、知らせの言葉はまだなかった。
 他の収監者たちは、わずか数日前にモスクワから送られた手紙を受け取っていた。だが、レフには、何も来なかった。
 彼は心配して、我を忘れた。
 「僕の大切なスヴェータ、きみから手紙がまだ来ていない。
 書いているように、僕が考えていることを神は知っている。
 いま、きみに書きます。
 こっけいで感傷的な16歳の少年と心配している年老いたママのいずれのようにも見える32歳の薄のろだと、自分を恥じてはいません。ただ、僕がきみを苦しめていて、僕の嘆きによって悩んでいるのではないかと、恐れています。もしも全てがうまくいっていれば、郵便で何かするだけではないかと。
 これが、理由ですか?」/
 23日、ついに一通の手紙が届いた。
 「僕は最悪のことを想像していて、最も耐えられない状態でした。そのとき突然に全く知りもしない男がやって来て、手紙を手渡してくれました。きみの手書き文字を認めるや否や、その人に感謝するのを忘れました。
 スヴェーティク、きみは僕のものだ、僕の大切な人、輝かしいスヴェトラニンスカだ。
 ただ困るのは、手紙を読んでもきみを思い描けないことです。
 二人のスヴェータがいる。—一人は目で見ている。もう一人は、きみの手紙から現れてくる。
 この後の方のスヴェータを望むなら、きみが書いた手紙の文章を思い出す。でも、声がないままでやって来るし、きみの姿と結びついてもいない。
 きみを見たいなら、僕には手紙がない方が簡単だ。
 気をつけて。このことから僕は、きみの手紙がなくとも人生は容易だなどと言いたいのではありません。スヴェータ、僕の大切な人。」//
 (60) レフは徐々に、日常の仕事に戻っていった。
 冬が再びやって来た。
 労働収容所は準備をしていなかった。壊れた窓、建物の多くの屋根にある穴、そして、第二入植区の十分でない暖房や電灯。
 管理部では、木材工場全体にもう一度鉄条網を張ることを話し合った。しかし、何もなされなかった。
 11月、河が凍ると、氷の上に木屑で作った大きなかがり火を焚きながら、労働収容所の手作業での清掃が始まった。//
 (61) レフは発電施設で、忙しく修繕作業をした。
 <以下、略>
 (62) レフは、極北の「特殊体制」収容所へと運ぶ移送車についての新しい風聞で困惑していた。
 その移送車に乗せられる受刑者の名簿が最終的に発表されたとき、彼の最も親しい友人で寝台仲間のLiubka Terletsky の名もそこに載っていた。
 11月2日、Terletsky は、最も過酷な鉱山収容所の一つで、Vortukaへの鉄道路上にある、ペチョラの180キロメートル北にあるInta へ送られた。
 それはレフにとって厄災事だった。彼はLiubka を弟のように好み、その若さと肉体的脆弱さのゆえに、彼をいつも心配していた。
 <以下、略>
 (63) レフは友人〔Liubka Terletsky〕は移送を生き延びることができるだろうかと怖れた。
 10月3日、レフはスヴェータに書き送った。
 「Liubka は懸命の労働でひどい病気になり、神経を消耗し、体重を落としている。
 今の凍える寒さの中での旅行は身体的に強い者にとってすら困難なものなので、僕は最悪のことを恐れている。…
 誰かにこれほどに親密に感じることができるとは、思っていなかった。
 あと11ヶ月*、彼は耐えることができると思う?」
 〔*原書注記—Inta へ送られたとき、Terletsky に対する10年の判決で残っていた期間〕//
 (64) 友人たちの支えに大きく依存してこそ、収容所で生き延びることができた。そしてレフはLiubka を、労働収容所でのただ一人の本当に親しい友人だと思ってきた。
 <中略>
 12月3日、レフはLiubka に一通の手紙を書いた。 
 「さぁ、僕の友よ、きみに手紙を送ることを怒らないでほしい。
 この手紙が配達されるのかどうか、そしていつかすら、僕は知らない。
 もちろん、僕の側の惨めな利己心から書いた。—生きている魂に対して、若干の言葉を告げたいという望みに打ち克つことができない。手紙を通じてだけであっても。こちらには、生きている魂はいないのだから。
 きみは手紙を受け取らない方が良いのだろう。—僕はきみを知っている。だが、耐えられるなら、この手紙はきみには何の害悪にもならないだろう。/ 
 Liubka 、そこがどんなに悪い条件であっても、一つのことだけ考えよう。
 8年半辛抱して、9年目で諦めるのは愚かなことだ。9年めの後がきみにとってより良いかどうか、どちらであっても。」/
 レフは、Liubka が去って以降その月に発電施設で起きた全てのことを詳細に書いた。
 <中略>
 その手紙は、配達されなかった。レフはInta のTerletsky にどのようにして届けられるのかを知らなかったからだ。
 彼には、Terletsky がそこにいるのかどうか自体が確かではなかった。//
 ——
 第7章、終わり。第8章〜第12章がまだある。

2321/レフとスヴェトラーナ28−第7章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.28。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.162〜p.168。
 **
 第7章④。
 (43) 〔1948年〕7月31日、スヴェータの母親が、三通の手紙を持って、モスクワから到着した。
 スヴェータは手紙を開くとき、昂奮をほとんど抑えられなかった。
 しかし、三つのうち最後の短い手紙を読んで、希望は失望に変わった。
 レフはその年の出逢いの可能性を全て排除し、賢明に観察していたが、ほとんど無頓着に「たぶん1949年はより良い年でしょう」と書いていた。
 スヴェータは立腹した—全てに。そして、レフにぶちまけた。
 自分が必死の思いで彼を訪れようとしているのに、その一年全体を待とうとしているのが、理解できなかった。
 絶望的になって、彼女は彼を叱った。何の確実さもなく、あなたと逢える
のを待ちつづけることができると考えているのか。
 8月2日、スヴェータは書いた。
 「レヴィ、気になる。分かっているの?
 たくさんの『もしも、だけでも』がなかったならば、私にはどんなに良かったか、ということを。
 あなたはこれに答えることができない。—質問ではなく、叱責です。」
 8月9日になってようやく、彼女はレフに多数の言葉を使って書くことができた。
 「私の気持ち(soul)が平穏で静かでなかったので(今でもそうでないけれど)、一週間、書かなかった。 
 ママがPereslavl' にいる私たちに会いに来て、あなたの手紙を持ってきたとき、再び、完全に、くずれ落ちました。
 (これは、あなたは手紙を書くべきではなかった、と言っているのではない。)
 私が早くペチョラに行かないようにする全ての分別ある大人に対して、休みをとるよう強く言うママに対して(全く正しいけれど)、腹を立てました。
 でも、もちろん、ほとんどは私自身に対してです。30歳になって、自分で物事を決定しているべきなのです。
 もっと早く急いであなたに逢わなかったことに、すぐに家に戻って研究所へ行って、仕事の旅行の手筈を整えなかったことに、怒りました。仕事旅行がまだ可能であればだったけど、今ではもう遅すぎます。
 そして私は、煮えくり返っている。どうすべきか、分からない。」/ 
 先の「叱責」が残酷と思われることを懸念して、スヴェータは、今はその意味を明確にした。
 「前の手紙で、自分がいなければ私の人生はもっと良くなる、とあなたが決して考えないようにと、私はあなたを叱りました。
 あの手紙を受け取っていない場合は、大事をとって、このことを繰り返します。」//
 (44) スヴェータは、激しく、レフに逢いたかった。
 彼の助言に従っていれば、さらにもう一年が、もう一度彼に逢わないままで過ぎてしまうだろう。
 1949年、自分は32歳になる。
 人生を開始するために、あとどのくらい長く待つことができるのか?
 子どもをもつまで、どのくらい長い時間が必要なのか?
 彼女は、レフと結びついていることの対価(cost)を分かっていた(彼は何度もこのことについて彼女に警告していた)。つまり、子どもをもてない可能性が大きくなっていた。
 そしてときたま、とても耐えられない、と感じた。//
 (45) スヴェータは、二通の「叱責」の手紙で、子どもの問題を提起していた。
 彼女はレフに、叔父のNikita と行った会話について書いた。その会話で叔父は、誰も「生命を生む権利」を有しない、「人々は自分たちだけのことを考えて、利己的な理由で子どもをもつ」と語っていた。
 スヴェータは「新しい生命は、世界により多くの良いことを生む可能性をもたらす」と答えた。
 彼女は、Nikita は気の毒だと思った。なぜなら、「彼の息子に対してより安楽でより愉快な人生を保障することができなかったのに、息子に生を与えたという、罪悪感をもっている」。
 答えは一人以上の子どもをもつことだ、スヴェータはそう結論づけた。
 かりにNikitaに子どもがもう一人いれば、「年下の子ども、あるいはもっと良いけど年上の子どもがいれば、今頃は彼にはすでに、何人かの孫がいたでしょう。その孫たちは彼を見守り、彼の人生に意味を与えてくれたでしょう。そうであれば、あのような考えが彼の頭に入り込みはしなかったのです。
 たぶん性別(gender)が違いの理由なのでしょう。
 女性にとっては、愛して子どもをもてば、人生はすでに達成されている。
 全ての(またはほとんど全ての)女性にとって、それは人生の中心目標なのです。公的生活や仕事等でいかほどにたくさんの様々な利益を得るかもしれないとしても。」
 (46) スヴェータは、モスクワに戻ってもう一度、ペチョラへ旅しようと決意した。—それも、夏が終わる前に。
 Natalia Arkadevna は、息子のGleb に逢うため、8月18日にペチョラに向かって出発することになつていた。 
 Nataliaとの間にはつぎの合意があった。スヴェータは、Natalia がペチョラのすぐ後でKirov への調査旅行へ行く費用を出すよう研究所を説得する。Natalia は、スヴェータの二回めの収容所訪問ができそうか否かを彼女に知らせるために、Kirov の郵便局へと電報を打つ。
 時間は経っていったが、十分な準備なしで旅行することの危険は大きかった。
 8月13日、スヴェータはレフに書き送った。
 「一方では、可能性は毎日少なくなっています。
 他方では、必要な取り決めを行っていないで旅行するのは不可能です。—そして、この取り決めの調整がとてもむつかしい。/
 それで、N. A. が到着するのを待つこと—そうすると彼女が私に電報を打つことができる—が最も賢明な選択肢のように思えます。…
 彼女は18日に出発する予定です。だから、19日より以前に電報を打つことができそうにありません。従って、私は20日までにKirov に行っている必要があります。
 これ以上待つのは恐ろしい。
 最良の手段を見つけることはできない。
 たぶん、彼女と一緒に旅行するのが良かったのでしょう。でもその場合は、切符入手の問題が生じたかもしれません。
 彼女から知らされていなければ、自分で危険を冒すだろうし、その場合は22日か23日に着くことになったでしょう。
 もちろん、Kirov から電報を打ちます。でも、それでは時間的に間に合ってあなたに届かないかもしれません。
 こんな計画を一切しないで、いつかお互いにもう一度逢うことができれば素敵です。
 新しい時刻表(今年用)によると、列車は夜にはもう着かず、午前の10時と11時の間に着きます(I(Ivan Lileev—Nikolai の父親)によるとです)。でも、たぶんひどく困難ではないでしょう。
 迎えにくる人がいなければ、直接に住居に行かずに、仕事中の人(軽い鞄を持っていて、今着いたばかりという明らかな兆候のない人)を探します*。
 〔*原書注記—スヴェータは名を隠した自発的労働者との接触について書いている。その人物は工業地帯内部の住居区画に彼女を泊らせることになる。実名は、Boris Arvanitopulo(木材工場の発電施設の長)とその妻のVera。〕
 これが最善だと思う。—間違った動き方をしないかと神経質になっています。
 私の愚かな頭で、その人(Arvanitopulo)の名前と休日中の姓を何とかして忘れました(イニシャルは憶えているけど)。そして、手紙のいずれからも必要な情報を探し出すことはできません。失くしたからです。
 最も重要な詳細が書いてある手紙は、手渡すためにどこかに片付けたことを憶えている。でも、『どこか』とはどこ?
 手紙類を、もう一度全部読み通さなければなりません。
 同名の人(Lev Izrailevich)への希望をまだ持ちつづけています。
 予定の日々と期間にはどこにも行かないことを確かめたくて、彼に手紙を書き送りました。 
 結局のところ、彼は私の行き方をほとんど知っていません。
 運命が私に逆らうのがとても怖いので、旅行の日程と戸惑ったときの時間を誰にも言っていません。
 閏年なのですが、だまし通して、こっそりと接近したいと思います。
 恐くて、何かを携行して運ぼうとは全く計画していません。…
 お願いが三つ。1. すぐに私に電報を打つ。2. 私の考えを理解する。3. 逢う。」
 (47) 5日後、スヴェータはまだモスクワにいた。
 列車の切符を入手するのに手間取ったからだ(人々が切符売場で行列を作るソヴィエト同盟では、珍しくなかった)。
 8月18日に、彼女はこう書いた。
 「いつ出発できるのか、神だけが知っている。
 三ヶ月の間に業務旅行をする人々のための特別の売場はありませんでした。
 運が好いと、事前予約所で一日以内に切符を買うことができます。または、翌日に並び順を変えないで始められるように人名が記帳されているので、二日以内に。…
 でも、自分が愚かなため、もう二日も使って何も得ていません。
 行列の中に私の場所をとり、Yara と一緒に仕事に出かけ、ママが私を引き継ぎましたが、ママが窓口に着くまでに切符は売り切れました。そして、ママは行列の中の位置を確保しておかなければならないことを知らずに、家に帰りました。
 ママは自身に腹を立てて、翌朝早くに行列の中に立ちました。でも、私が交替しようと到着したときに判ったのは、Gorky 方面行きの列車の切符は別の窓口だと言った警察官の話をママが信用してしまっていた、ということでした。
 短く言うと、ママは私がいた行列の中に立ってはいなかったのです。そして私には、もう一度最初から並び直す時間がありませんでした。研究所に行かなければならなかったので。…」/
 結局、あれこれの混乱があった後、スヴェータの母親は、21日付の片道切符を何とか購入することができた。
 その切符の有効期間は6日で、スヴェータがKirov の工場で仕事をし、ペチョラまで旅をするのに、際どいながら、ちょうど十分だった。
 彼女はKirov へ先に寄るかそれとも帰路にするかを決めなければならなかつた。
 先にKirov で降りることにした。
 このことによって、郵便局へ行って、Natalia Arkadevna からの電報が着いているかを調べ、帰りを延長するTsydzik に連絡することができることとなる。
 また、帰りの直通切符を買うことができることも、意味しただろう。
 彼女はレフに、「Kirov で停車するのは悲しいけれど、そこが済むと不安は少なくなるでしょう」と書いた。//
 (48) 8月21日、スヴェータはモスクワを出発した。
 Kirov に着いて電報を打った。それをレフが受け取ったのは、その翌日だった。
 しかし、彼女の指示に反して、彼は返答しなかった。彼女に届くにはもう遅すぎると考えたからだった。
 その代わりに、レフは彼女が到着するのを待ち受けていた。
 スヴェータを迎え、彼女が宿泊するのに同意していた彼の友人かつ上司のBoris Arvanitopulo は、23日に〔ペチョラ〕駅へ行った。
 列車が到着したのを見守り、駅のホールへと通り過ぎていく乗客たちの中にお下げ髪でリュックを背負った細くて若い女性を探した。
 乗客たちの中に、スヴェータはいなかった。
 24日、彼はまた駅へ行ったが、彼女はその日の列車のいずれにも乗っていなかった。
 そのつど、Boris はスヴェータを伴わずに収容所に帰ってきた。そしてそのたびに、レフは、心配して気が狂いそうになった。
 24日付で、彼はこう書いた。
 「僕の大切なスヴェータ、ここに座って考えている。来るのか、来ないのか?
 来ないのなら、全てが、N. A. に耳を傾けて**、K.(Kirov)へ電報を打たなかった僕の過ちだろう。
 他に何も考えることができない。
 たぶん、きみに何かが起きたのだ。」
 〔**原書注記—Natalia Arkadevna はレフに電報を発しないよう助言したに違いない。〕
 (49) スヴェータは実際に、苦しい状態にあった。
 Kirov とKotlas の間の線路上で、列車の後方の客車のいくつかが切り離された。検査官がそれらの車両に欠陥を見つけたからだった。
 前方の車両に座席を確保しようとする乗客が、前へと激しく突進した。
 スヴェータは持ち物をさっと掴んで、列車が動き始めるまでに、やっと前方の端の車両に座席を見つけた。
 さほど早くなかった他の乗客たちはどうなったのか、彼女には分からなかつた。
 もっと大きい危険が、やって来ることになった。
 彼女は、Kotlas 駅の庭でリュックの上に座っていた。ペチョラ行きの列車を待ち、かつ注目を避けることを期待したからだった。
 そのとき、一人の警察官が近づいてきた。
 彼女は、最初の旅の際に助けとなったカーキ色の礼服ではなく民間人の衣装だったので、おそらくは駅のホールの中で待たないのが良いと考えていた。
 警察官は彼女に書類を見せるように求め、どこへ旅行しているのかと尋ねることができただろう。
 しかし、その警察官は友好的であることが判った。ただ彼女の安全を気に掛けたのだった。
 彼は、この辺りには泥棒が徘徊している、列車を待つのならホールの中の方が安全だ、と告げた。//
 (50) 〔1948年8月〕25日、スヴェータはついにペチョラに着いた。
 Arvanitopulo は駅で彼女を迎え、木材工場を周る塀のすぐ外にある自分の家へ連れていった。
 Arvanitopulo 家には電話があった。
 Boris は発電施設での火災に備えていつも電話での呼び出しに応じる状態にあった。発電施設にも電話があり、レフが交替執務中は利用することができた。
 スヴェータは、レフに電話をかけた。
 その呼び出しは、電話交換所のMaria Aleksandrovskaya を経た。この女性は、前年に二人を自分の家に泊らせた人だ。
 レフはスヴェータに、非合法に労働収容所に入る彼女の計画を監視員に知らせた者がいる、「彼らは彼女を逮捕する機会を躍起になって待っている」と言った。
 しかしながら、全ての監視員が敵対的ではなかったように見える。彼らの一人が、その危険性をレフに警告していたのだから。
 レフは、発電施設の地下にある貯蔵室を「密議(conspiratorial)の部屋」に改造していた。首尾よくやって来れば、スヴェータはそこで彼と一緒に過ごすことができる。//
 **
 第7章⑤へとつづく。

2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.27。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.156〜p.162。一部省略している。
 ——
 第7章③
 (31) 移送車に乗せられるという危険は、1948年には現実的だった。その頃、第四入植区が開発中で、木材工場の受刑者たちがそこへ運ばれていた。
 <以下、略>
 (32) レフは6月24日にスヴェータに書き送った。「収監者たちの大部隊」が不穏状態に対処するために北シベリアの収容所へと移されるという噂がある、と。
 彼は状況を明らかにできるまではどんな小荷物も送らないように、スヴェータに警告した。自分自身を含む政治犯が最初に、可能性としては「つぎの数日以内に」、移送車へと選抜されるのではないかと予期していたからだ。
 6月25日にもう一度書いて、今度はペチョラへの旅を計画しないように助言し、自分が移送された場合に備えて、Aleksandrovich 経由で手紙を送るように頼んだ。/
 「スヴェティッシェ(Svetische)、来ることを考えているきみへの助言です。旅をするために休暇をとってはいけない。
 仕事の旅行に特別の努力が何も要らないとき、本当にそのときだけ、ここに来ることを考えて。
 うまくいく可能性は、あさっての段階では実際には無きに等しくなるだろう。
 最も重い条項(58条)による者はみんな、仕事をやめさせられているように見える—『一般的』業務をしている者以外は。そして彼らは、「増強体制」〔原書注記—省略(試訳者)〕と再定義されている第三入植区(川そば)へと再配置されている。
 きみがたとえ短時間でも、工業地帯(僕たちが今働いている所)に滞在するのは完全に不可能だろう。
 ただ個人的な例外があるときにだけ、可能だろう。
 でも、もう一度言うけど、その可能性は実際にはゼロです。—今度は、とても困難になりそうだ。…
 一番良いのは、訪れようとしないことだ。
 スヴェト、聴いていますか?
 僕が言うようにして下さい。
 これが僕の最終決定だと受け入れて下さい。… 
 スヴェト、分かった?
 これが今の状態です。
 先のことは、後で話し合いましょう。今の時点では何が起きるのか推測すらできないのだから。…
 必要なときには、'Zh(aba)'(Aleksadrovich)が新しい仕事を得たときに数日以内に、新しい宛先の住所を伝えます。
 でも、その住所は、頻繁には使わないで。
 当面かぎりのものです。 
 スヴェティッシェ、もう一つだけ。
 この手紙を保管してはならない。—番号を振っていないのは、そのためです。
 受け取ったことを僕に知らせるよう、手紙を下さい。—念のため、25日付で配達されたもの。」/
 スヴェータは、レフが望んだようにはしなかった。
 彼の手紙は貴重だった。スヴェータは、全てを残し続けた。
 レフと逢うという計画を断念することも、しなかった。//
 (33) レフとスヴェータは、4月以降、二度目の旅について語り合ってきた。
 スヴェータは今度は、前よりはるかに不安がった。
 元々の計画は、夏に行くことだった。
 彼女の上司のTsydzik は、前年よりも多く時間をとるように助言して、その考えを励ました。 
 4月16日、スヴェータは、レフにこう書き送った。
 「昨日、M. A.(Tsydzik)が、いつKirov へ行こうと計画しているのかと尋ねました。
 8月の休暇を申請した、その月のKirov のタイヤ工場の定期検査のために名前を登録した、と彼に告げました。
 でも、彼は言いました。『7月に行きなさい。その方が暖かい。また『sit』〔原書注記—刑務所に「座っている」人々をこう呼んだ〕でしばらくの間は、きみは去年と全く同じように全てのことをする必要がないから』。
 そして、今はそうなっています。
 でも、今度は前回よりもはるかに恐ろしい。
 どういう訳か、うまく行かない結末への覚悟を、前よりもしています。そして、ほんの少し無感情です。
 でも今は、考えることすらできない。」//
 (34) 5月の末、Kirov への業務旅行の終わりに北へ旅するというスヴェータの計画は、危うくなった。
 研究所が、協力組織から予定されている支払いがまだ行われていないので、科学者による検査は延期すべきだと警告していた。
 スヴェータはレフに書いた。
 「仕事の旅行を夏の間にすることになれば、7月の休日を利用します。
 望んでいることではありません。
 私が不在であると研究所で目立つので、必ず気づかれます。そして、みんながどこにいたの、何を見たの、と訊き始めるのです。」
 レフは同意しなかった。 
 Tsydzik の助言に従った方がよいと感じた。彼女の旅を隠す彼の助けに依存しているのだから、と。
 レフはまた、7月よりも後に旅行するのは「困難なことになるかもしれない」と怖れた。
 7月8日、スヴェータに手紙を出して、かつてペチョラに来たときに出逢いを提供したTamara Aleksandrovich に旅行の詳細について書き送るように言った。
 (35) しかし、今ではシベリアへの移送の噂が広まった。レフは、自分は第三入植区へと移動されようとしていると考えて、6月25日にスヴェータに、全ての計画を廃棄するように促す言葉を送った。
 このメッセージを送った後で、6月27日に判明したように、状況は再び変化した。
 レフは書いた。
 「気まぐれな地方の(または地方のでない)権力の最新の決定で、全ては現状のままに、またはほとんどそのままに、残ります。少なくとも来月の間は。提起された改革(6月25日の僕の手紙を憶えている?)が実施されないと、計画の達成がひどく困難になるからです。」
 受刑者たちの移送車が、シベリアから第二入植区に到着したばかりだった。
 レフは「シベリアは、第三入植区の後に我々を動かすと計画されていた場所だ」と説明した。そして彼は、これは受刑者たちを送るのを遅らせる決定が下されたことに「ある程度の信憑性」を与える。と考えた。
 彼はこう思った。
 当局は「最も重い条項による『信頼できない者たち』を集中させる場所にしようとしている、というのはあり得る。
 スヴェータ、25日の僕の手紙の助言は生きたままだ。
 この手紙の紙切れは、速読のためのものにすぎない。
 すみやかにもう一度書きます。でも、これを今すぐ送らなければならない。」//
 (36) 7月1日、レフは、第二入植区が政治犯たちの「増強体制」になろうとしていること、より軽い判決の者たち、いわゆる「ふつうの条項」(窃盗、殺人、ごろつき、労働放棄等々)による者たちは生活条件がまだましな第三入植区で維持されようとしていること、を確認した。 
 レフはこう付け加えた。
 「見るところ、我々(第二入植区にいる政治犯)に特別の制限を加えようとしているのではない。でも、いま工業地帯の内部で生活している自由労働者たちは、立ち退かされようとしている。自由労働者と専門的被追放者が雇用されていた小さな生産単位とともに」。
 自由労働者たちが工業地帯から離れることは、スヴェータがAleksandrovsky の家でレフと逢った、前年のような取り決めを反復するのを全て排除することになるだろう。//
 (37) 工業地帯内部での治安確保措置が強化されたことについて、レフは正しかった。自由労働者たちの排除が切迫しているという風聞は、全体としては正確ではなかったけれども。
 木材工場の収容所幹部たちは実際に、自由労働者と受刑者の間の接触を撲滅するためにより警戒することを決定していた。
 5月12日の秘密の党会合で、彼らは、手紙類の密送(smuggling)、ウォッカの黒市場、収監収容所への権限なき訪問者による悲合法の立ち入り、等の多数の治安違反について、こうした〔自由労働者と受刑者の間の〕接触が原因となっている、ということに合意していた。
 彼らは、自由労働者を工業地帯から外に移動させることについて考えた。しかし結局は、地帯の外での新しい家屋の建築が必要になるので実際的ではないという理由で、その案を却下した。
 その代わりに幹部たちが決定したのは、自由労働者が生活する居住区画と残余の工業地帯の間の分離を、監視員小屋付きの新しい鉄条網の塀を立ち上げることで強化する、ということだった。//
 (38) スヴェータはその夏にペチョラへ旅するという計画を進行させていた。
 6月25日、まさにレフが彼女にまだ届いていない手紙を書いていた日に、レフに書き送った。
 「問題は解消されました。
 Kirov へ行き、そして昨年のようにすぐに向かうつもりです。
 休暇期間を延長して、私が本当にいたいところで、できるだけ長く過ごします。」
 4日後、研究所の会計主任が、早くても8月末まで業務旅行用の金がない、と彼女に告げた。それでスヴェータは、休日の日程を7月へと変更することを申し出た。
 そのときにペチョラへと旅するつもりだった。
 彼女は、7月10日頃に出発する予定にした。そして、Lev Izrailevich〔レフの同名人—秋月〕に手紙をすでに出して、自分の到着予定を知らせた。 
 Tsydzik は休日について同意したが、スヴェータの本当の計画を隠す手段として、ともかくもKirov へ行くように彼女に助言した。//
 (39) 7月8日、スヴェータは、レフの手紙を受け取った。治安が強化されたこと、彼女が来るのは勧められないこと、が書いてあった。
 彼から新しい知らせを受け取るまでは何もしようとはしなかった、とスヴェータは〔後年に?—試訳者〕語った。
 夏の期間の実験所について責任をもつ、誰かがいる必要があった。
 それで8月中ずっと、Tsydzik が休暇で過ごしている間、モスクワにとどまろうとした。そして9月には出発して、ペチョラへか、またはそこはまだ可能でなけれぱ、モスクワから北東に100キロメートル離れたPereslavl'-Zalessky へ行くつもりだった。Pereslavl'-Zalessky では兄のYaroslav が一週か二週の間別荘を借りていたので、そこに滞在することになるだろう。//
 (40) レフはこの頃、治安強化の影響を感じていた。
 7月7日付でスヴェータにこう書いた。
 「彼らはゆっくりと、あらゆる種類の新しい厳しい規則をここに導入している。今のところは重大な不快さを被ってはいないけれども。」
 彼は10日間、スヴェータからの手紙を受け取っていなかった。そして、これが新しい体制〔「増強体制」〕の結果なのかどうかを知らなかった。
 「全てのものは変化し得る。一振りで色は変わる。カレイドスコープのように」。//
 (41) 翌日、レフはLev Izrailevich と連絡をとった。
 発電施設から電話をかけた。そこには工場ので火災が起きた場合に備えて一台の電話器があった。そして彼から、スヴェータはなおも旅行を計画していることを知らされた。
 治安確保措置が、順調に稼働していた。
 7月半ば、政治的受刑者用の新しい移送車が到着する準備として「特別追放者」が工業地帯から移動させられた。このことは、木材工場は特殊な体制の収容所になるだろうとのレフの考えを強めた。
 7月21日、レフはスヴェータに対して、この夏に出逢いを計画するのはきわめて困難だと、再び警告した。
 彼は書いた。
 「たぶん1949年はより良い年だろう。
 いわゆる増強体制が、来週を待たずに実施されようとしている。」//
 (42) 休暇を遅らせると決めたにもかかわらず、スヴェータの母親は、休みをとって、Pereslavl'-Zalesskyにいる兄の家族に7月半ばから加わるよう説得した。
 彼らの木造の夏の家には果樹園があり、松林に囲まれた静穏な湖を見渡せた。
 美しくて、閑静だった。
 彼らは湖上にボートを浮かべ、きのこ狩りをした。
 スヴェータは、たくさん寝た。
 しかし、レフなしでは精神的な安らぎを見出すことができない、と感じた。
 7月23日に、こう書いた。
 「私の大切なレフ、一週間がもう過ぎ去り、私は何も書かなかった。
 睡眠を取り戻し、日光浴をしました。
 みんなが、私は少し明るくなったと言います。
 私は自分らしく、分別をもって振る舞っています。泣いてはいません。
 あなたについて考えないようにしていますが、朦朧とした中であなたに逢っているところの夢を見ました。
 あなたの手紙、そこに書かれていること、何が可能で何が可能でないかについて考えないように、きつい皮ひもで自分を縛りつづけています。
 ここでひどく悪いということは決してありません。でも、これは私の頭が語っていることで、心(heart)の言葉ではありません。
 湖、森林、あるいは私の存在とともにある空気を、楽しむことはできません。
 私の身体は休んでいますが、心(soul)はそうではありません。」//
 ——
 第7章③、終わり。
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 下は、原書の巻末にある地図・図面の一つ。
 青緑で囲まれた(鉄条網つき)区域がWood-Combine=「木材工場」と試訳。この中に〔下で記載はないが、斜め下半分弱?〕、Industrial Zone =「工業地帯」があり、その端(工場全体では中心に近い所)に<発電施設>がある。
 木材工場地区の中に「2nd Colony 」=「第二入植区」がある。第三入植区と診療所は外。
 右上からの赤色の線は、1947年にスヴェータが来るときはLev Izrailevich と二人で、帰りは一人で歩いた道〔ほとんどが「ソヴィエト通り」で、角から正門までだけをSchool Street と言うようだ)。


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2311/レフとスヴェトラーナ26—第7章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.26。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.148〜p.156。一部省略している。
 ——
 第7章②。
 (16) スキーとスケートは、スヴェータの気分を高めた。
 3月10日、彼女はレフに書いた。
 「いま躊躇なく楽しめるのは、スキーをすることです。—文学、演奏会よりも、人々さえよりも。
 日光が隙間から入り込む森林はとても美しく、とても(言葉の全ての意味で)純粋だから、生きるのはよいことだと思い(そしてふと大声を上げて)わが身を感じます。
 なぜか分からないけれど、辛くはありません。
 ある種の幸福の生理学(psysiology)なのでしょう。」/
 スヴェータは、冬のスポーツをもっとして過ごしたかった。彼女の母親は、スヴェータは体調がまだ良くないと思って、家に閉じ込めようとしたけれども。
 レフだけが、彼女自身の生活をして抑鬱に打ち克つために、もっと外出するよう励ました。
 4月15日に、彼は書き送った。
 「どこかへ行って下さい。
 身体に良いうえに、きみの内面状態にとって重要なことです。外部的側面と同様にきみの心に大きな効果があり、ときには感情の根源になるかもしれない。」
 彼は、スヴェータの健康を心配して、叔父のNikita に手紙を出して、彼女を見守ってくれるように頼んだ。
 4月にNikita にこう書いた。
 「彼女は直接にはそう言わないけれども、いろいろな点でとても辛い状態なのです」。
 (17) スヴェータには、信頼できる女性友達の小さな仲間があった。
 Irina Krause とAleksandra Chernomoldik は別として、とくに長い時間をともにした三人の女性たちだった。
 それぞれみな、夫と子どもを失っていたが、それでも苦しみと共に生きる術を見つけていた。スヴェータは、彼女たちの苦しみに同情し、自分もその仲間だと考えるようになった。
 まず、Lydia Arkadevna という同じ研究所出身の女性がいた。この人はスポーツと登山がとても好きで、スヴェータがスキーに熱心になるのを促した。/
 <以下、略>
 (18) つぎに、Klara という若い女性もいた。この人は研究所の技術助手の一人で、その家族は戦争中に抑圧された。
 Klara 自身も、研究の最初の年にKharkov 化学技術研究所から追放され、その後に数年間の流刑に遭った。スヴェータの手紙の一つでの論評から判断すると、「地理の知識が多すぎたこと」が彼女の問題の根にあった。
 <中略>
 Klara も子どもを亡くしていた。
 夫はペチョラにいる受刑者で、そこへと複数回旅をしてその夫と逢っていた。その際、Tamara Aleksandrovich の所に滞在した。
 <以下、略>
 (19) 最後に、物理学部以来のレフとスヴェータの友人である、Nina Semashko がいた。この人は戦争で夫のAndrei を失い、その後に赤ん坊の男の子を亡くした。
 Nina の子どもの死についてレフに書き記しながら、スヴェータは自分自身の苦しみに触れた。/
 「誰かを埋葬するのはいつも辛いことですが、小さくて幼い子の場合は全く違います。
 外部者は子どもの現在だけを知るでしょうが、その母親にとって現在は過去にさかのぼり、また未来へと展開します。
 9ヶ月待って、11ヶ月間育てただけではなく、その前に長く、願望と失望(あるいは可能かどうかすらについての不安)があったのです。
 私が詳細を知っているかは分からないけれど、この未来は全てであり、直前まではたくさんの計画と夢です。これには、孫をもつという望みも含まれます。
  そして、それ(子どもの死)はこの全てを剥ぎ取ってしまい、これを満たすものは何も残されていないように見えます。
 幸いにもこの世界では、苦痛が時間が経つにつれて和らぐものです。…
 Nina はまだ十分に若くて、自由があります。—新しい子どもで空虚を充たすことを決意する自由。でも今は、そんなことについて彼女と話題にするときではありません。
 彼女は今は、人が不運であれば何かを追い求めたり、幸せを探したりする所はない、と言うだけです。」//
 (20) スヴェータは、子どもをもつことを強く望んだ。
 彼女は、30歳だった。
 レフが釈放されるまで、少なくともあと8年間待たなければならないだろうことを、知っていた。あるいはそもそも、彼が戻ってくることはないかも知れなかった。
 彼女が「人生が始まる」のを待っていると書いたときに意味させていたのは、おそらくこのことだつた。
 ペチョラへと旅したあとで、スヴェータは、自分の未来—彼女の「全て」—はレフと結びついている、と確信した。
 しかし、レフが収監者であるぎりは子どもを持つことはしない、と二人は決めていた。
 レフは、後年になって、この自分たちの決定について想起する。
 「私は、彼女の将来を自分の現在や将来と妥協させたくなかった。
 私への愛を理由として、彼女の運命を犠牲にするのを望まなかった。
 だから、子どもたちに縛られるのを私は望まなかった。
 スターリンが生きているかぎり、何が将来に起きるか、誰にも分からない。
 私は、良いことを何も期待できなかった。
 そのような状況で—私は彼女を助けられず、彼女と子どもは恐ろしい生活条件のもとに置かれるかもしれない—、スヴェータに子どもという負担を課すのは、私にはできなかった。
 スターリン時代には、労働収容所から釈放された元受刑者は、つまり私のような「人民の敵」は、ふつうの生活をすることが不可能だった。
 しばしば再逮捕され、あるいは流刑〔国外追放〕に遭った。…
 私は、スヴェータと彼女の家族に恐ろしい困難と不幸を負わせることができなかった。二人が子どもを持てば、彼らはきっと苦しむことになっただろう。
 しかし、スヴェータは、子どもが欲しかった。」//
 (21) スヴェータは全ての母性的愛情を、Yara〔実兄〕の子どものAlik に注いだ。
 彼女の手紙類は、明らかに熱愛した、甥の男の子に関する定期的な報告を含んでいる。
 彼女は、こう書いた。
 「レーヴァ、Alik は8歳ではなく、7歳になりました。日曜日にわれわれは彼の誕生日を祝いました。
 <中略>
 すでに書いたように、Alik は7分の1は5分の1よりも小さいことを理解します。Lera が(学校から来て)全数字から一部を減じる仕方(とてもむつかしくはない)を教えました。
 彼はいま、工作に興味をもつようになりました。
 何かを分解し、もぐり込み、すっかり逆にして戻します。
 まだ自分の綺麗好きに気がついていません。
 でも、私には、子どもを『教育する』方法が全く分かりません。」//
 (22) 実際に、スヴェータの母親のAnastasia は、保育園の教師として働くことを考えるよう彼女に提案していた。
 スヴェータは自分の科学者としての能力を疑っていて、母親は、小さな子どもたちと一緒にもっと過ごせば彼女は幸せになるかもしれない、と考えた。
 レフは、その考えを勧めた。
 しかし、スヴェータは結局は、それに反対することに決めた。母親となる経験がなく、「子どもたちがどのようにして成長するか」について知らないのが、その理由だった。//
 (23) その間、Alik が来て彼女と一緒にいるのをスヴェータが好んだ。
 その子のやんちゃぶりは、自分の子ども時代を彼女に思い出させるものだった。
 <以下、略>
 (24) 偶然に一致して、レフも、「相談者、兼子ども世話係」の役割を果たしていた。
 〔1947年〕10月5日、スヴェータがペチョラからモスクワに到着したその日、レフに訪問者があった。
 「一人の女の子が発電施設にやって来て、僕が『われわれに会うために来たの?』と尋ねた。『そう』、『じゃあ、こっちにおいで』。
 <中略>
 われわれはすぐに親しくなった。僕は、彼女の名前がTamara Kovalenko で、Vinnytsa 出身、そして父親は厩舎で働いていることを知った。」/
 Tamara は11歳だった。
 彼女にはLida という姉、Tolik(Anatoly)という弟がいた。
 彼らは、洗濯所で働いていた母親に遺棄された子どもたちで、ぼろ服を着て、靴を履いていなかった。そして、父親が家計のほとんどをウォッカに使っていたため、いつも腹を空かしていた。 
 Kovalenko 家は木材工場の中の500の「特殊流刑房」の一つにあった。彼らの多くは刑務所地帯のすぐ外の第一入植地区の営舎に住んでいたが、Tamara のような子どもたちは、自由に労働収容所の周りを歩き回った。
 子どもたちは停止を求められず、監視員に探索されることもなかった。それで、収監者たちのために使い走りをし、収監者は彼らに甘菓子や金銭を与えたり、作業場で木材の玩具を作ってやったりした。
 町の子どもたちは、刑務所地帯の近くの周囲で、玩具を探したものだ。収監者はときどきそこへと、塀越しに木製玩具を投げていた。
 この何ということのない贈り物は、労働収容所の周囲の多くの家庭にあった。木製玩具は、収監者たち自らの子どもたちへの恋しさを思い出させるものとして、また、彼らへの人間的同情を得るものとして、役立っていた。//
 (25) Tamara は、毎日レフを訪問するためにやって来た。
 彼はTamara を好み、食料を与え、読み方と計算の仕方を教えることを始めた。
 10月25日に、スヴェータに書き送った。
 「僕は、今日再び、父親のリストに載りました。
 <以下、略>」/
 まもなく、Lida もやって来た。
 「彼女は年上で、…成長した振る舞いをした。
 二人の姉妹は、三人の電気技師と一人の機械操作者の娘たちになった。
 でも、二人は僕を第一の『パパ』と思っているように見える。」
 <以下、略>
 (26) レフは、懸命に勉強した。見つけた全ての本で電気技術について読み、発電施設の機能を改良するよう努めた。発電施設の容量が乏しいことは、木材工場での生産を妨げることを意味した。
 <以下、略>
 (27) レフは、木材工場の気まぐれな作業文化に対して、きわめて批判的だった。
 この場所は「まぬけたち」が運営していてると思い、上司たちが冒している「愚かさ」についてしばしば書いた。生産を高めようとする彼らの全ての決定が、頻繁な機械の故障、事故、火災その他の混乱につながった。—これで、計画を達成するのが困難にすらなった。
 <以下、略>
 (28) レフが発電施設の働きを改善しようと努力したのは、完全に自発的なものだった。
 彼の動機は政治的なものではなく、言ってみれば、システムを信じて発電施設を稼働させようとしている古参ボルシェヴィキのStrelkov のためだった。 
 レフはその本性からして真面目で、仕事に誇りと関心を持っていた。
 スヴェータにあてて書いた。
 「時計の音が何か奇妙だと、部屋で平穏に座っていることができません。
 『チクタク』と『タクチク』の間の時間が一定していないと、落ち着けないのです。
 われわれの電気技師たちの仕事を見ると、最良の者でも、もし僕が管理者であれば、彼らに対する非難はどんなものになるだろうか、と思います。」
 これに、当の技術者たちも同意しただろう。/
 「ここの操作者の一人が、僕はいつも何かすることを探している、と言った。
 『レフ、きみは頭脳(smack)のない馬鹿のようだ』。
 これは、ぞんざいだが、適確な比較だ。
 ある人間は、歩き回って何か建設的なことを得るために探し、それを見つけると安心する。
 別の人間は手間取って、余計なことに口を出し、みんなを邪魔し、ついにはそのために頭をぶたれる。そして、教訓を得るが、何にもならない。」//
 (29) しかし、工場でのレフの努力には、真面目さ以上のものがあった。
 それは、自負心、収監者でいる間に何か肯定的なものを達成したいという情熱、だった。おそらくは、こう認識してのことだろう。すなわち、もし時間をすっかり無駄に費やして収容所から出ために、精神の適切な枠組みをもって自分の人生を再構築しなければならないのだとすれば、この数年のうちに何らかの新しい技能を少なくとも学んでおく必要がある、と。
 (レフは収容所時代を振り返って、木材工場を稼働させるために発電施設の能力の改良によって達成したことを、いつも誇りとした。)
 彼にはまた、消極的で自己破壊的な考えが生じて、仕事して日々が過ぎていくうちに自分自身を見失わないように、気晴らしをする必要もあった。これは多くの受刑者が採用した生き残りの方法だった。〔原書注記—これは、Aleksandr Solzhenitsyn(A・ソルジェニーツィン)の小説、'One Day in the Life of Ivan Denisovich' の主要なテーマの一つだ。〕//
 (30) 自己防衛もまた、一つの役割を果たした。
 電力施設での有能性を示すことで、彼は特権的な地位を維持し続け、移送車で別の場所に送られる—レフの最大の恐怖—または材木引き揚げ部員に戻される、という危険を減少させることができた。
 1948年5月、木材工場の「補助活動部署」(発電施設を含む)のための新たな賞揚(credit)制度が導入れた。
 これ以来、受刑者がその生産割当の100から150パーセントを達成した日々について、一日あたり1.25が加算される。
 150から200パーセントの場合は、一日につき1.5。
 200から275パーセントの場合は、一日につき2。
 そして、275パーセント以上の場合は、一日に3。
 レフは、スヴェータに、こう書き送った。
 「それで、一日について〔プラスが〕4分の1だとすると、一月あたり6.5日と同じを意味し〔0.25x26日=6.5—試訳者〕、あるいは一年あたり2.5ヶ月と同じを意味する〔6.5x12月=78—試訳者〕。
 組織の長がとくに優秀と評価した場合に賞揚が付加される可能性もある。また、成果が少ない場合には賞揚を全て失うこともある。…
 一種の賭けだ。」//
 ——
 第7章②、終わり。

2310/レフとスヴェトラーナ25—第7章①。

 レフとスヴェトラーナ、No.25。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.139〜p.148。一部省略している。
 ——
 第7章①。
 (01) スヴェータが離れた後すぐに、ペチョラに冬が来た。
 レフには、この二つの出来事は結びついていると思えた。
 10月13日に、スヴェータにこう書いた。/
 「今夜、初雪が降りました。
 2日間地面は凍ったままで、全てが突然に冬になりました。
 書くことができなかった。…
 冬自体のせいではなく、スヴェータ〔「光」〕がいないためで、これは冬と一緒に生じました。
 冬は無感情です。
 思考は、明敏さ、活発さ、刺激を失い、衰退しています。
 時間すらゆっくりと進み、白い広がりの中で凍っています。」/
 レフの気持ちはスヴェータの訪問で高まった。
 しかし、彼女と別れて、以前よりも悲しくなった。
 どれほど孤独だったのかが明らかだった。—彼女なしで今はどう生きなければならないのか。
 別れて6日後に、スヴェータに書き送った。
 「スヴェティンカ(Svetinka)、きみについて考えるほど、きみの顔をますます忘れる。
 僕の想像の中できみを想い描くことができない。ーきみをほんの少しだけ見る。
 涙を流して泣きたいと思う。」
 自己憐憫はレフにはないものだったが、彼は明らかに苦しんでいた。
 書き続けた。
 「さあ、これで十分だ。
 もうめそめそして泣くのはやめる。本当は、僕のしたいことは、スヴェータ、形式的な方法や親密な方法などの全ての書き方で、きみの名前を書くことなのだけれど。
 何とかして、生き抜こう。」
 (02) 3週間後、レフはなお、解放されるという希望を諦めた自分の運命を受容していた。
 「きみはかつて、希望をもって生きるのと希望なしで生きるのとどちらが易しいかと訊ねた。
 どんな希望も呼び起こすことができない。でも、希望なしでも静穏に感じている。
 少しばかりの論理と観察では、幻想の余地は生まれない。
 こんなことを書いた訳が分からないけど、こう書いたのだから、幻想の余地を生もう。
 これは、僕が正確に何を、どのように感じているかではない。でも、今ここでは、何も伝えることができない。ー考えるのは必要だが、考えない方がはるかによい。」/
 しかしそのあと彼は、別の手紙で、幸福についての思い、スヴェータが彼とともにいたときに再発見した感情を示した。
 彼の考えを促進したのは、叔父のNikita とその妻のElizaveta は軍事休暇中の息子のAndrei が訪問して失望した、という報せだった。
 「人々は稀にしか利用できず、それ以上に稀にしか自分たち自身の幸福に気づくことができない、というのは自明のことだ。
 きみ自身を外から見て、ー直感的にではなく自覚的にー自分に報告するのがときには必要だ。
 今僕にあるのは幸福だ、と言おう。かつてなかったほどで、これからのどんな変化も、たぶん悪い方向にだろう。…
 運命と自然に、感謝している。きみに、僕自身に。与えられた幸福を感じることができたのだから。過ぎてしまっていたときだけではなくて、あのときに。」
 (03) レフは、労働収容所の日常の仕事へと落ち着いた。
 12月初め、人員の変化が発電施設であった。
 古い主任で元受刑者のVladimir Aleksandrovich が、町の中央発電所へと移動した。
 代わりに配置されたのはBoris Arvanitopulo で、やはり元受刑者だった。
 レフは二人ともに、うまくやってきた。
 1938年に逮捕される前は有望な経歴をもつ電気技師だったAleksandrovich は、大酒飲み、感傷的タイプで、一人娘の死を嘆き悲しみ、経歴を失ったために自分を憐れむ傾向があった。しかし、レフの見方では、「善良」で、「教養があった」。 
 Aleksandrovich は、妻のTamara と一緒に、工業地帯内部の居住区画に住んでいた。
 彼は、レフのために手紙を密送(smuggle)した、自由労働者たちの一人だった。
 また、衣類やスヴェータがモスクワから送るその他の家庭用具と交換に、レフに金を与えることにもなる。
 Aleksandrovich が町の発電所に移ったとき、彼は加わるようにレフを説得しようとしたが、レフは申し出を断った。スヴェータに説明したように、「僕はここにいる方が安全だ」というのが理由だった。
 レフは、新しい上司のArvanitopulo を好んだ。この人物は「聡明で、素敵で、教養があり過ぎでなく、分別がある」。
 収容所当局は、北の森に新しく開設された第四入植地区へと収監者たちを送っていた。
 レフは、この移送に全く選ばれたくなかった。今の仕事にとどまれるならば、配置換えされたくなかった。
 (04) 彼はスヴェータに書いた。
 「工場に少し変化があった。
 第四入植地に送る者が選ばれている。そこ(15キロ)の途上に木材を運び建設するためだ。そして、彼らの代わりに、女性たちがここに到着していて、その数は増えるばかりだ。
 彼女たちは第三入植地区に入れられいる。
 そのうちある程度は、もう作業場で働いている。」
 レフがこんなに多数の女性を見るのは久しぶりだった。—戦争中にいた収容所には、別に女性収容地区があった。そして、手作業を強いられているのを見て、彼は「不安な感情」を持った。
 彼の女性観の中には、今なお、戦前の尊敬を示す態度やロマンティックな礼節さが混じっていた。
 こうした女性たちに話しかけることは、さらに面倒なことだった。
 レフは、スヴェータにこう報告した。
 「ここに着いた女性たちの多くは、どこ(の労働収容所や流刑入植地)から来たかを、恐れながら話題にしている。
 恐怖なしでそれらの場所を思い出せる少数の人たちは、観察者の気持ちを掻き立てる力を持っている。恐怖でないとしても、本能的に不安な感情をだ。
 見るのは、とても痛ましい。」//
 (05) スヴェータは、ペチョラから戻って、しぼんだような気持ちだった。
 たぶん彼女は、レフと逢ったことの情緒的影響を感じていた。—レフが警告していたような結果だった。「他の人々は幸せでいるときに」、逢うことで「そこで幸せでいるのがより困難になるのではないか」、とレフは懸念したのだった。
 (06) スヴェータは、忙しくし続けることで、別離に対処した。
 仕事に集中した。心はそこになかったとしても。
 彼女は、Tobilisi とErevan の工場を検査した。モスクワ・ソヴェトの地区選挙の運動をした。労働組合の会合で講演した。研究所の壁新聞を編集した。新人研究員の研修をした。博士論文を執筆した。論文を翻訳した。フランス語と英語のレッスンに出た。合唱で歌った。ピアノを練習した。そして、数学クラブを組織した。
 レフには、こうした彼女の姿を思い描くのは困難だった。
 1948年2月3日、彼はこう書いた。
 「きみのことを考えるとき、自由になっていつもきみのことを思うとき、ある状況でだけきみを明瞭に見ることができる。
 何かをじっくり考えた後、きみが目を向けて突然に答える姿。
 誰かに話しかけながら座っている様子。
 寝ている姿(おおよそにしても、きみは想像できないだろう !!)。
 す早く自分の髪を結んでいる様子(僕には理解できない技術だ)。
 でも、きみの声をほとんど思い出すことができない。—ときたまの笑い、ある語句、そしてきみの口調だけだ。
 恐怖があって、想像しても、よく知らない環境にいるきみを思い描くことができない。悪くなる以外にはない、全く良くない何かが起きるのではないか、という恐怖からだ。
 (07) スヴェータには、レフのための多数の知らせがあった。
 政府はルーブルの価値を10分の9に切り下げ、配給制を廃止した。
 <以下、略>
 (08) スヴェータはこの新しい報賞〔給料の上昇—試訳者〕を、小包をもっと定期的に送ることで、レフや彼の仲間の収監者たちと分かち合いたかった。
 レフが抗議しても、聞く耳を持たなかった。
 〔1948年〕3月30日に こう書き送った。
 「私の大切な人、お馬鹿なレフ、来年まで何も必要がないと、あなたは言えるの? 乾いたパン皮と同じ。…
 私がジャム付きのおいしいお茶を飲みながらここに座っておれると、あるいはミルクを飲みながらビスケットを齧っておれると、そしてあなたに何かを送ることを全く考えていないと、本当に思っているの?」//
 (09) レフは食料を送ってくれることに抗議し続けたが、病気の友人や収監者たちのために医薬品を求めた。
 Strelkov はまだ胃痛で苦しんでいた。スヴェータが医師の友人であるShura から診断を受け、適切な医薬品を送れるように、レフはこのことを彼女に詳細に説明していた。/
 「患者は49歳で、概して陽気な気質をもち、若く見える。…
 1939年以降、ヘルニアに罹った(ガチョウの卵の大きさ)。
 1920年に胸部を撃たれた。見れば分かるように、5センチの射撃口の傷痕が右の乳首下にあり、出た際の4センチの傷痕が同じ右の肋骨の間の脊柱近くにある。
 1947年10月、胃やその周りの鋭い痛みで、定期的に苦しみ始めた。— 七番と八番の肋骨の間の平らな所に二、三本の指の幅のバンドを着けている。それは中央からだいたい手のひらの幅の右腕横から始まり、中央から左に二、三本の指の長さの所までつづいている。…
 痛みは強烈で、鋭く、しつこいもので、休みなく8〜14時間つづく。
 痛みがあるとき背中を下にして横たわっていると、痛みが増す。
 膝を胸部にまで握り寄せると、痛みが和らぐ。
 彼のふつうの食事は、(最近の数年間は)つぎのようだ。新しい黒パン、良質大麦から取った薄いスープ、精白大麦かオートミールと塩、水付き。全く同じ「成分」だがはるかに薄いカーシャ。茶と砂糖付きかなしのいずれかのコーヒー。
 こうした食物の中で、新しいパンだけが痛みをもたらす。…
 彼の食事を変える機会は、ほとんどない。」/
 スヴェータは、Shura からの診断書を付けて返書を送った。Shura はモスクワ第一病院の医師たちに相談し、最も高い可能性としては彼の肝臓に問題がある、ということに同意していた。 
 彼女はまた、一揃いの薬品、肝汁の標本を採取するための検査具、および食べ物に関する助言を送り、かつ乾いた白パンを送ることを約束した。//
 (10) レフの寝台仲間のLiubomir Terletsky も、病気だった。
 彼は壊血病に罹っていた。それは、労働収容所での8年間の結果だった。そして、精神的にも弱っていた。
 <以下、略>
 (11) 1948年5月、やはり体調の悪かった、Aleksandovich の妻のTamara が、医師に会うためにモスクワにやって来た。
 スヴェータは首都で、そしてペチョラへの帰りについて、Tamara を助けた。また、レフの友人たち用に集めた薬箱を渡した。
 (12) スヴェータ自身の体調が、良くなかった。
 体重が減り、よく眠れず、苛立つ感情をもち、涙もろかった。—これらは全て、抑鬱状態の徴候だった。ソヴィエト同盟ではそんなことについて、誰も語らなかったけれども。この国では楽観主義に立つのが義務的で、問題を抱えた人々は、自分で頑張って、その問題と折り合いを付けるのが求められていた。
 Ivanov 一家〔スヴェータの家ー試訳者〕は知り合いの中に多数の医師があり、スヴェータはその医師たちの多くに会いに行った。
 医師たちはみな、問題は身体的なものだと推測した。
 血液検査をし、甲状腺肥大を見つけたと考えた。そして、内分泌科にスヴェータを送った。そこの医師は、ヨードとBarbiphen(フェノバルビタール)を与えた。
 しかし、誰も、彼女の感情の状態について訊かなかった。
 スヴェータは、医師たちが言ったことをどう理解すればよいか、分からなかった。
 身体上に何か悪いものがあるのか否かは、不確かだと思った。
 分かることはただ、体調が良くないと感じ、またそう見える、ということだった。
 レフに、こう書き送った。/
 「内分泌科の医師は、疑いなく甲状腺の活動の増加が見られる、と言いました(頭痛、発熱、心臓痛、体重減少、神経過敏、等々。私の眼の、ある種独特な輝きを含む。—私の見方ではたんに発熱が理由なのだけど)。
 こんな診断で、私は幸せなのでしょう。—本当に、不明確なのは嫌いです。
 純粋なヨード錠剤を処方してくれました。ヨード・カリウム、Barbiphen、ブロム・カンフル、そしてカノコ草抽出剤と一緒に服用するように。
 私は20日間それらを飲まなければならず、そのあと10日間は休み、またつぎの20日間は服用しなければなりません。そして、また行きます。
 今はカノコ草抽出剤がなくて治療を始められないことを除けば、全ては順調です。
 今日また医師に会いに行って、検査結果を渡し、内分泌科医師への訪問についてその医師に告げました。
 彼は私のSed 率に、本当に驚いていました。〔原書注記—Sed 率とは赤血球の沈降(sedimentation)割合。〕
 その医師はたぶん、私の疾患の全ての原因は神経にあると考えたでしょう。でも、神経だけではSed 率は増加しません。
 彼は、見下すように、内分泌科の処方箋に言及しました。「それらを服用するのがあなたには良い。だが、私の意見では最も重要なものではない」(何が最重要なものなのか、言わなかった)。
 「私の助言は、夏まできちんと鱈油を摂ることだ」(それでも助けにならなければ?)。
 私は体重を測る目盛りが分かりません。それで、私は現実に体重を減らしているのか、それとも体重減少は結局は他人の主観的意見なのかを、客観的に確認することができません。
 前よりも痩せていないと、私には思えます。去年の夏にはもっと痩せていました。でも、私の顔がやつれていると見えるのは本当です。これは実際、私に似つかわしくなくて、みんなが嘆息して驚きます。
 『どうしたの?』
 Khromnik 〔原書注記—1943年に彼女が働いていたSverdlovsk 近くの研究所〕に通っていた頃はどうだったかと(魅力的な女の子)、そして今はどうなっているかと、前でも後ろでも話しています(明らかに、今は年とってぼろぼろだ、醜い老女になったと示唆している)。」//
 (13) レフは、スヴェータがどう感じているかを語ることのできる唯一の人物だった。
 1948年2月、ペチョラから帰って数週間後に、スヴェータは彼にあててこう書いた。
 「私の大切なレヴィ、とてもあなたと一緒にいたい。でも、手紙すらもらっていない。
 水面に向かって浮き上がろうと、そして怒るのはやめようと努めています。
 『できない』という言葉が、私の語彙の中に再び出現しました。
 幸福であるために必要なものを客観的には持っているのに幸福ではない、そういう人々を見るのに耐えることができない。
 そんな人々に共感することはできない。
 辛辣だったり苛立ったりするのを、やめることができない。
 Irina が土曜日に電話をかけてきて、その日にLosinka へ行こうと誘いました。でも、断りました。
 友人たちが提供する慰みを受け入れることができない。
 私には必要か、必要でないか、のどちらかです。
 再びもう一度、全ては白か黒かです。
 でも、『できない』は、『したい』の一語だけで説明することができます。
 私の内にある全てが固くなっていて、それを止める術がありません。
 こんな訳で、Irina に厳しく対応しました。そして、受話器を掛けて、泣き始めました。」//
 (14) レフに手紙を書くことは、スヴェータの抑鬱状態からの捌け口だった。
 彼は、彼女の気分を理解した。
 3月2日、スヴェータは彼にあてて書いた。
 「N. A.(Gleb の母)が先日電話をかけてきて、元気かと尋ねました。私は悲しみを隠して、元気よと言いました。
 でも、本当は、この落胆した気分で自分をどう処理すればよいのかすら分かりません。
 レヴィ、私の大切な人、ときどき乱暴な手紙を書くことがあっても、自分には何の正しさもないことは分かっている。
 でも、あなた以外に、他の誰が一緒に泣いてくれますか?
 あなたに宛てて書いていると、緊張が和らぎます。
 そう、もう一度言う。レヴィ、こんな手紙を受け取っても、怒らないで。
 ともあれ、あなたがこの手紙を受け取るまでには、私は今の気分ではもうなくなって、愉しみに向かって跳び上がっているでしょう。
 私の大切な人、これでいい?
 あなたを怒らせたり、苦しみを大きくするようなことは決してしません。
 この数日間続けて、嘆き悲しんでいました。就寝するときだけではなく、朝早く目覚めるとすぐに、また昼食前も、午後も。
 レヴィ、最も重要なことは、最も重要なこと。そう、あなたは、それが何か自分で分かっている。/
 レヴィ、私たちは互いに悪いことをしているとは感じないようにしたい。また、重要なことのためには互いに許し合いたい。重要なことでなければ、怒らないようにしましょう(矢面に立つのはいつも最も親しい人たちだけれども)。」//
 (15) スヴェータは、自分の抑鬱が彼が収監されていることと関係があるという考えを、レフに抱かせたくなかった。
 彼は、そうだとして十分に対処していた。
 将来にわたって彼を助けるよう強くなければならないことを、スヴェータは分かっていた。
 彼女はその手紙の多くで、気持ちが落ち込んでいる別の原因について語った。
 レフに対してこう書いた。
 「抑鬱状態になると、それが終わるのを待ちます。
 なぜ一月がとても辛いのか、分からない。
 たぶん一月は一度に幸せな月だからでしょう。ママの誕生日、クリスマス、そして新年。
 たぶん新年の前だから、体調が悪いと感じています。」
 しかし、スヴェータの抑鬱状態は、彼女の母親の誕生日とは何も関係がなかった。関係があったのは、彼女とレフが切り離されているという事実こそだった。ときに彼女は、そのことを行間で明らかにした。/
 「全種の薬を飲み込んで(比喩的な意味でなく、本当の薬)、泣き方を忘れました(比喩的意味のものを飲む必要があれば、その用意はあります)。
 最近は、あまりよく眠っていません。たぶん、私たちの部屋は換気が悪いからです。—夜は外が寒くて、パパが隙間風を嫌がるので、窓を閉めたままにしています。
 私の小さな窓は、どんなにしても広くは開きません。
 あなたを夢の中で、少なくとも5回見ました。
 たぶん、あなたの判決期間が終わるのが現実的になって、近づいているからでしょう。
 私が今はあなたに逢いに行こうとしないのは、たぶん迷信です。でも、何らかの理由で秋まで待たなければならないでしょう。ともかく、その方がよいかもしれない。」//
 ——
 第7章①、終わり。

2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.24。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。ごく一部、原文のままにしている。p.132-p.138。
 ——
 第6章④。 
 (33) スヴェータが監視員に自分は居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げたとき、その監視員は夫が迎えに来なければならないと言って、彼女が入るのを拒否した。
 通行証をもつIzrailvich は、この地帯にいる彼女の「夫」を見つけて、監視小屋まで連れて来る、と言った。 
 Izrailvich は、長い間行ったままだった。
 監視員がスヴェータに対して粗雑に話しかけ始めた。その際彼は、彼女の策略だと推測していることを示唆するふうに、「北方の奥さん」(収容所の受刑者である夫と一緒にいる女性)と悪態をついた。
 ようやくIzrailvich が、「夫」とともに現れた。—濡れて雫を落とし、明らかに酔っ払っていた。この人物は居住区画の自由労働者で、スヴェータの配偶者役を割り当てられていたが、端役を演じるときになって酔っ払って寝てしまい、Izrailvich がバケツ一杯の冷たい水をかけて覚醒させなければならなかった。
 スヴェータは、こう思い出す。
 「その人は、ばつが悪い思いをしているようだった。
 キスをするのを避けて、身体を彼に向かって投げ出して、悪罵の言葉を発し始めた。
 『手紙を出したでしょう !! それなのに、迎えにくる手間さえかけなかった。』
 すると彼は、恥ずかしそうにしながら、『行こう、行こう』とだけ言った。」
 監視員が質問する時間をもつ前に、スヴェータとその「夫」は、刑務所地帯へと入り込んだ。//
 (34) 二人は、「夫」が住んでいる家屋に着いた。
 彼には妻がいることが判明した。その妻は、そこでレフをスヴェータと逢わせる約束を夫がしていることを聞いていなかった。
 息がひどくアルコール臭い夫に対して妻が叫ぶ、怒り狂った場面が見られた。
 スヴェータはこう思い出す。〔その妻の振舞いは〕「嫉妬からではなく」、発覚して、レフとスヴェータの犯罪を「助けて支援した咎で刑務所に入れられるかもしれない、という恐怖から」だった。
 レフはその家に早くに着いていて、スヴェータが到着するのを待って、外で隠れていた。
 この場面の真っ最中に姿を現して、心配になって怒り狂った妻からスヴェータを守ろうとした。
 これは、彼らが夢見た再会の仕方ではあるはずがなかった。—叫ぶ女と酔っ払った男が住む見すぼらしい家屋で再会するとは。しかし、それが現実だった。
 二人は6年間、この瞬間を待ち望んできた。だが、思い描いていたに違いないものとは大きく違つていた。二人は何ものにも邪魔されずに逢うはずだった。
 緊迫した、危険な状況だった。—妻はひどく怯えて、激怒していたので、自分の無実を証明しようとして監視員を呼ぶかもしれなかった。二人はとりあえずは、部屋の反対側に目を向けるしかなかった。
 レフはこう思い出す。
 「われわれは、感情を抑えなければならなかった。
 お互いに身を投げ出して、抱擁し合うような状況ではなかった。
 われわれがしていることは高度に非合法だったので、警戒していなければならなかった。」//
 (35) その夫婦は、居住区画にある木造家屋の一つの上階に2部屋で生活していた。一つには家具があり、もう一つは完全に何もなかった。
 スヴェータは思い出す。
 「彼らは、私たちのために2個の椅子を持って来た。
 そして私たちは、レフの友人が二人が隠れる別の場所を探しに離れている間、空の部屋にともに座っていた。
 そのうちに、Aleksandrovsky の所で泊まることができるという伝言が届いた。」
 (36) Aleksandrovsky 家は居住区画の近くの家屋に住んでいたが、電話部員のMaria は、自分用家屋にして2人の小さな男の子たちと生活していた。
 彼女の夫のAleksandrovsky は、ペチョラ拘置所にいた(鉄道駅の喫茶室で彼から盗もうとした者と喧嘩をして、「フーリガン主義」だとして訴追されていた)。
 Maria は、ソヴィエト通りの電話交換局で夜間勤務をすることになっていた。
 彼女は午後に監視員とその妻の訪問を待っていたが、その二人が立ち去るや否や、灯りを全て消して、レフとスヴェータが自分の家に来ても安全だ、という合図を送ることになっていた。//
 (37) 暗くなると、すみやかにレフとスヴェータは外に這い出し、可能なかぎりす早く、Maria の家へと移動した。
 Maria の窓の反対側にある積み重なった丸太の背後に隠れて、二人は監視員が離れるのを待った。
 身を潜めている間、もう一人の監視員が二人のいる所へと向かって来た。
 発見されたと思い、最悪のことを恐れた。すなわち、スヴェータは逮捕され、国家反逆罪で訴追されるだろう。レフは数年間の刑を追加され、移送車でさらに北へと送られるだろう。
 しかし、そのとき、積み丸太の反対側で放尿する音を二人は聞いた。
 それが終わると、その監視員は立ち去って行った。//
 (38) やがてMaria の家への訪問者は出て行った。
 彼女の家の明かりが全部消えた。
 レフとスヴェータは隠れ場所から姿を現して、内部へと入った。
 そこには二つの狭い部屋しかなかった。一つには通常はMaria が寝ている一人用寝台、テーブル、椅子があり、もう一つの床には男の子たち用の寝具があった。
 レフとスヴェータが入って来たとき、二人の男の子はMaria の部屋で眠っていた。それで、レフとスヴェータはもう一つの部屋を使った。
 スヴェータは思い出す。「その夜、少しも眠らなかった」。
 レフが付け加えた。
 「二人だけ、二人一緒に残され、怖れるものはもう何もなくなって、二人の少年は寝入っていたときです。そのとき初めて、われわれは自由に行動し、思うかぎりにキスをし、互いに抱き締め合いました。
 でも、…。これ以上言うつもりはありません。」
 レフが言い淀んだことを、のちにスヴェータが明らかにした。
 「私は彼に尋ねました。『Do you want to ?』」
 すると彼は考えて、こう答えました。『でも、後でどうなるのだろうか?』(what would happen afterwards ?)」//
 (39) レフとスヴェータはMaria の家で、一緒に二晩を過ごした。
 レフが昼間に発電施設で働いている間、彼女は中にいてMaria の子どもたちと遊んだ。
 二日めの夕方、レフとスヴェータは、実験室のStrelkov にあえて逢いに行くという冒険をした。
 何人かのレフの友人たちが、挨拶するためにやって来た。—彼らはみな、自分たちを訪れるという大きな危険を冒している若い女性に対して、多大の称賛の気持ちを示した。
 また、持っていき、自分たちに送るように、手紙類を彼女に渡した。
 (40) その翌日、スヴェータを密かに送り出すために誰かがやって来た。彼女はその人物が誰かを憶えていなかった。
 自分で鉄道駅まで歩き、切符売場のそばの広間で待った。切符売場は列車が到着する直前にだけ開くからだった。
 手枕をしてスーツケースに座っているうちに、疲労で寝入ってしまった。列車が到着して他の全員が乗車した後で目醒めた。
 持ち物をさっと掴み、切符を買って、彼女は、列車に向かって走った。
 切符を買った乗客用車両はすでに満員だった。しかし、「ガラ空きの、一種の衛生車両」に入ることが許された。
 彼女は、長椅子に横たわり、再び眠り込んだ。
 (41) Kozhva で目が覚めた。
 夜はもう遅かった。
 スヴェータはLev Izrailvich の家へ行き、そこで朝まで眠った。
 彼女が出発する前に、Lev Izrailvich は、レフへのお土産として、彼女の写真を2枚撮影した。
 一枚では、写真スタジオのように幕として吊り下げた布を背景にして、スヴェータが枝編み細工の籐椅子に座っている。もう一枚では、Izrailvichの家を出発するときに、コートを着て鞄を持って立っている。//
 ---------------------
 下は、その2枚。1947年9月の末日頃だと見られる。スヴェータ、誕生日がすぐ前にあって、30歳。原書p.137(下左)、p.136(下右)。後者の背後に見えるのが「土地に掘り込まれた」Izrailvichの家だろう。—試訳者。


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 (42) スヴェータはこれを、レフのためにKozhva で投函した。
 「私の大切なレフ、まだKozhva にいます。
 昨晩は直通列車がなかったのですが、今日はそのための切符を得ようとするでしょう。
 L. Ia.(Izrailvich)が明日、私の出立についてあなたに話すでしょう。
 とても素敵でした。…
 (ペチョラの)駅で、そして(Kozhva までの )移動中に、眠りました。
  I(Izrailvich)の家に深夜に着いて、そっと彼を揺り起こしました。
 そうして私は、また朝まで寝て、一度も目醒めませんでした。」
 「今のところ、私は元気です。調べ抜いた小さな穴から、一滴の水も流していません。
 そのためか、全てがまだ夢のようです。
 レヴェンカ、Askaya(Aleksandrov Maria)を家で見なかつたと、昨日 G. Ia(Strelkov)に言うのを忘れました。—そう彼に言っておくのを忘れないで。…
 レフ、私のためにしてくれたみんなに、もう一度感謝します。
 言葉では気持ちを言い尽くせません。でもたぶん、みんな理解してくれるでしょう。」
 「私の大切な人、ごきげんよう。もう一度キスをしてお別れにします。
 L. Ia.(Izrailvich)が、あなたにびっくり(surprise)を用意しています。—今は内緒です。」//
 レフは同じ日に、スヴェータにあてて書いた。
 「僕だけの素敵なスヴェータ、今日は天気も乱れています。
 風が強くて、今朝はひょうが降りました。全てが陰鬱で、悲しい。
 僕の同名人が来るのを待っています。—たぶん、明日来るでしょう。
 もちろん、心配しています。…
 今朝、9時まで、Gleb(Vasil'ev)と少ししゃべりました。
 我々は、お茶を飲みました。
 みんなStrelkov の所にいて、僕は出るとき、ガラス枠の下の<秋の日>を見せて、Strelkov の寝床の上に架けました〔原書注記—Isaac Levitan の有名な風景画の複製で、スヴェータが贈り物として持ってきたもの〕。そして、「幸運」のためにその下に座りました。…
 Nikolai(Lileev)は今日の夕方に来たがっていて、Oleg(Popov)は少しあとで立ち寄るでしょう。でも、僕はひとりでいたい。」//
 レフは、スヴェータが安全に帰ったという知らせを待ち望んだ。
 帰る途中で逮捕される危険が、彼女には相当にあった。
 彼は2日後に書いた。
 「僕だけの素敵な、輝かしいスヴェータ、今日、10月3日まで、きみから手紙をまだ受けとっていません。
 怖ろしい。そして僕は、他に何も考えることができません。」
 (43) ついに、Kotlas から送られた手紙が届いた。それには彼女の2枚の写真が付いていた。—Lev Izrailvichが用意した「びっくり」だった。
 「僕の素敵な、美しい(lovely)スヴェータ、…、やっと !!
 良かった。全てがうまくいっている。
 みんなに、僕の最も真摯な感謝を捧げます。
 きみのメモを読んで、僕はすぐに、いったいどんな驚きのことを書いているのかと思いました。でも、写真が少し見えたとき、こんなに欲しくて愉しいものだとは、全く思わなかった。
 きみはこの10年間、今と全く同じだったのだろう(肘掛け椅子)。
 でも、きみはいつも、あらゆる意味で美しい。…/
 僕の、本当に信じ難いほど美しいスヴェータ、誰もがきみに会釈を送るだろうが、僕は何を送ればよいか分からない。
 ただきみのことを考え、きみについて書きたい。
 Liubka(Terletsky)と少し話したのを除いて、僕はどんな会話も避けています。読書も興味を惹きません。…
 しきりと<秋の日>に見入って、なかなか離れる(tear myself away)ことができません。…
 僕の素敵で優しい人よ、きみの分身をしっかりと抱き締めています(squeeze your paws)。」//
 (44) 10月5日までに、スヴェータはモスクワに戻った。
 計画していたようには、Lev Izrailvich に電報を打たなかった。前のそれがKozhva の郵便局の誰かに盗み見られており、「ただちに全ての人民の所有物になった」(意味は、その内容がMDVに伝達され得ること)からだった。
 しかし、2日後、スヴェータはレフに手紙を書いて、帰路について説明した。//
 「250ルーブル払って、直通列車の座席を得ることができました。
 あなたの同名者が切符を私に渡し、列車に乗せてくれました。
 三晩過ごした、あなたの同名者の小さい家で、記念に私の写真を撮りました。
 車掌は最初はほとんど空いている仕切り付き車両に私を乗せたのですが、ほとんど眠れませんでした。そのとき、女性たちと一緒になってしまった男性と座席を交換するのをその車掌が提案し、私は喜んで同意しました。
 三人の素敵な若い女性がいて、彼女たちは航空写真撮影の旅行をしている写真技術者でした。
 彼女たちは末端(Vorkuta)から旅をしてきていて、はるばるとモスクワへ向かっていました。
 本当に何もすることがありませんでした。—帰り旅用に本を持ってくることなど思いつきませんでしたから。そして、ずっと寝ていました。…
 列車が着いたとき、私は目覚めすらしませんでした。」/
 「〔10月〕5日の朝(4時30分)に家に着き、うたた寝をした後、しばらくの間 Alikと遊びました。
 そして、蒸し風呂(banya)へ行った後、昼食を調理しました。
 ママの体温は、その日また39度でした。」/
 「モスクワは、陰鬱でした。—寒くて、雨模様です(でも全く絶望的ではない)。頭を惑わせる日常事は、今はジャガイモです。店で見つけるのが困難で、市場ではもう7ルーブルもします(以前は3ルーブルでした)。
 誰もが、貯蔵をしています。…
 砂糖は消え失せました。ペーストやロールパンも。
 憂鬱です。
 木々は葉っぱをほとんど落とし、市場の区画には花がありません。
 さて、レヴィ、大切な人、とりあえずさよならと言います。
 大きな、大きな愛を込めて。
 こちらで私が訪問した人々はみんな、あなたによろしくと言うでしょう。
 スヴェータ。
 そちらにいる全ての方々に、私の敬意と感謝の念を送ります。」//
 ——
 第6章④、終わり。第6章全体も終わって、第7章がつづく。

2304/レフとスヴェトラーナ23—第6章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.23。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.123-p.132。
 ——
 第6章③。
 (18) その間に、ペチョラの夏は終わろうとしていた。
 9月4日、レフはスヴェータにあてて書いた。
 「秋が近づいて来ました。
 一昨日は、早朝に凍った最初でした。我々のもの以外は、野菜畑の地方ジャガイモは全部凍りました。畑の半分は夜間に霜で覆われ、あとの半分は霜の降りない乾燥機の近くにあって免れたからです。
 どちらもやはり、使いものにほとんどならないでしょう。
 夏は本当に短かすぎます。
 夜はもう完全に本当のものになって、暗闇が9時から2時半まで続きます。」//
 (19) スヴェータが予告したとおり、彼女の8月20日の手紙を、レフは9月5日に受け取った。
 今や彼女が来ることが明確になったので、彼女を迎え、秘密裡に木材工場に出入りさせる計画を練る必要があつた。
 9月7日までに、彼女にこう書き送るまで進んだ。
 「スヴェト、きみが想定したとおり、9月5日に手紙が届いた。…
 でも、きみの計画についてまだ明瞭にする必要なことがあったので、率直には返事しなかった。
 この手紙は、きみが出発する前に配達されないかもしれない。
 僕はまだ、何か具体的なことを書くことができない。少なくとも、今日の夕方までは。でも、きみが受け取れる可能性があるなら、今書く必要がある。
 きみは、Kirov での電報で(電信局で。郵便局留め)、きみの従兄弟〔原書注記—工業地帯に彼女を隠すことに同意した自由労働者の暗号〕の正確な住所を、知るだろう。—この人とともに、きみは数日間を過ごすだろう。
 きみの出発の詳細について、僕の同名者に電報を打って下さい。
 さらに指示を受け、かつ余分な荷物を置いていくために、きみは彼の家に行く必要がある。
 きみの最終的目標と同じく、これをずっと覚えていて下さい。
 時間が近づいて、つぎに何が起きるか、我々は心配するでしょう。
 書物については、自分に立腹しています。
 きみに余計な困難さを生じさせたのではないかと、恐れている。—書物は小包で僕あてに送ってもらうのが最も良かった。あるいは、同名人が承知しないなら、きみが元々望んでいたように、写真用資材と一緒に彼あてに。」//
 (20) この手紙を彼が書いていたその日、9月7日、モスクワはその800周年を祝っていたので、スヴェータは家にいた。
 彼女はレフにあてて、自分の部屋から書き送った。//
 「歓声が起きたばかりです。
 ママは街を散歩しようと外出しましたが、パパと私はもう、昨日に長く歩きました。
 我々の窓を通して、全部が本当によく見えます。二つの大きな、光を放つ(スターリンとレーニンの)肖像画があり、赤の広場の上の気球から吊り下げられています。市全体の上にある空は、赤く輝く旗でいっぱいです(やはり気球から下げられている)。A.とB.リング〔大通りとGarden環状道路〕に沿って投光証明があり、青色と薄紫色の影の中の巨大な網が、花火の色彩豊かな爆発と一緒に空(多くの気球)を通過しています。
 歓声が大好きです。
 河川の小型艦船は、…みんな飾り付けをしています。
 モスクワの発電所は、完全に彩飾されています。…
 パパと私は昨日、10時に外に出ました。…
 詰めかけた群衆の中を戦闘のようになって通り抜けて、中心部へ行かなければなりませんでした。
 野外の演奏会場がある全ての広場に、楽団がいました。120の移動用投光機、至る所に生姜焼き菓子の店がある市場。…
 こんなものはどこでも、どの人もかつて見たことがないと思います。…
 モスクワの全部が、路上にありました。」//
 3日後の9月10日は、スヴェータの30歳の誕生日だった。
 レフには、より多くの知らせはなかった。
 彼は彼女の近づく旅を心配し、当惑して苛立ち、彼女の途上にある危険への遭遇から助けることのできない無力さを感じていた。
 レフは本当に彼女が来るとは、あえてほとんど希望しないようにした。//
 「きみが期待するようには、何も明らかになっていない。
 しばらくの間は、僕はまだ何も見出さないだろう。
 I(Izrailvich)と逢うことすらできていない。
 できるときに—およそ2日のうちに—電報を打つでしょう。
 今日は、きみの誕生日です。
 この日、僕はいつも一人でしばらくの時間を過ごすのが好きで、いま自分の仕事場に座っています。…
 そして、きみのことを考えます。
 僕の思いは必ずしも明瞭または幸福ではなく、ときどきは訳の分からないものです。—そう、そのはずだと想像します。
 ただ一つだけは明白です。こうした思いは、僕の人生の重要な全てだということ。そうした思いを何か役立つものにしたり、行動へと変えることができないのは、好くありません。」//
 (21) スヴェータには、よい誕生日だった。9月12日に、レフにこう書いたように。//
 「研究所では、二つの大きな束の花を貰いました(グラジオラス、ダリアや菊科のアスター)。ママが三つ目をくれました(カーネーション)。
 みんな、花は良いことの前兆だと言います。
 私は実験室のフラスコに私用に若干のアスターを残し、若干はMikh.(Mikhail)Al.(Aleksandrovich)のビーカーに入れました。
 残りは、家にあります。
 Irina とShura は、北方旅行のためにお願いしていた特別の一点の服をくれました。 
 Shura は誕生日にはいませんでした。…。でもIrina はいて、研究所のLinda もいました。
 ママは素敵なキャベツ・パイを焼いてくれ、われわれは二個のケーキを食べました(砂糖の代わりに配給券で入手したもの)。」//
 (22) 悪い知らせは、レフにそうするつもりだと告げたようには、15日にKirov へと出立しそうでないことだった。
 研究所に、遅れがあった。
 スヴェータは、レフに書き送った。「私の書類カバンに仕事旅行の詳細を入れているのですが、20世紀の間はいかなる金銭も約束しようとしてくれません」。
 友人たちと親戚は、スヴェータのために金を集め始めて、彼女の月額給料よりも多い約1000ルーブルに達した。
 その間にスヴェータは、「賃金と支払い率の不均衡について」と題する報告書を書くことで彼女の研究所から「別に300ないし400ルーブル」を受け取った(この金は、Tsydzik が不在の間に実験室の管理を引き受けた責任を負ったことによるものだった)。この報告書は、理事長がまともに読まないで署名たけする山積みの書類の中に綴じ込められた。
 かりに自分のために金を求めていれば、彼女はきっと断られていただろう(研究所は現金が不足していて、所員への未払いの言い訳をいつも探していた)。そして、研究チームの指導者に必要な公共精神が足りないと責められていただろう。
 なぜスヴェータは突如として金を必要としているのか、という厄介な疑問すら生まれたかもしれなかった。
 スヴェータはこのような方法で理事長を欺くのは愉快でなかった。このことは、旅をすることで負う大きな危険についての一般的にな懸念に、さらに加わったことだった。
 彼女はレフにこう書いた。
 「準備することについて、とても神経質になっています。
 用意が出来たら完了することはない(または、完了しても悪いことが起こる)のと同じ、迷信じみた感情に落ち込んでしまいます。」//
 (23) レフは、同名人物とまだ接触しておらず、スヴェータの到着についての計画を最終のものにすることができなかった。 
 9月5日以降はLev Izrailvich から何も聞いておらず、逢ってすらいなかった。
 彼はスヴェータにこう説明した。「それで、きみの手紙が書いていたことを知らせ、前もって教え、あるいは何かを頼むことができない」。
 スヴェータの訪問のためにしておくべき重要な準備がまだあった。すなわち、Izrailvich と接触すれば、Kirov にいるスヴェータに電報を打って意思疎通を図ろうと今は計画していた。
 9月17日にスヴェータにあてて、「概して言うと、この10日間ほどは本当に何も進んでいない」と書いた。
 最近に発生した主要な難事は、レフが以前よりも頻繁に営舎に閉じ込められるということだった。—第二入植地域で保安警告があったからだ。これによって、彼が工業地帯でスヴェータと出会うのはより困難になった。//
 (24) 5日後の9月22日、レフはまだ同名者からの連絡を受けていなかった。 
 Izrailvich は病気なのに違いない、と彼は考えた。
 レフは、9月5日以降のスヴェータからの手紙も、受け取っていなかった。
 自由労働者の一人が、彼女はすでにモスクワを出発したと推測して、レフに代わって、Kozha のLev Izrailvich の住所にあてて郵便局留めで電報を打った。Kozha へとスヴェータは行き、そこで新しい指示を待たなければならなかった。//
 (25) スヴェータの旅の詳細は、完全には明らかでない。
 これについて、後年に彼女は、困惑するようになった。
 彼女は9月20日直後のいつかに、モスクワを出発したように思われる。
 スヴェータの父親と兄弟がYaroslvi 駅まで彼女を連れていき、Kirov 行きの列車に乗せた。彼女はそのKirov で、タイヤ工場での仕事を履行するため、少なくとも3日間を過ごしたに違いなかった。
 スヴェータは計画どおり、Kirov からTsydzik (この人物も計略の中にいた)へと電報を送り、「数日遅れるだろう」と伝えた。
 そして彼女は、非合法に入手していた切符を使って、Kozhva 行きの列車に乗った。その切符は父親が軍の将校から購入したもので、その人物は、Kozhva に着けば自分に返すという条件で、彼の「個人的助手」として彼女を同行させることに同意していた。
 スヴェータは、寝台車の上段にいた。「未知の豪華さ」だったと、彼女は後年に振り返った。//
 (26) 北方に旅をし、Kotlas で乗り換えてKozhva へと旅をし続けているとき、スヴェータは何を感じていたのか?
 監視塔と鉄道線路沿いの鉄条網の塀を最初に見たとき、彼女は恐くなかったのか?
 非合法に収容所地帯に入り込む企てをすることの危険性を、どう考えていたのか?
 数ヶ月後に旅を思い出して、スヴェータは1948年4月に、「首尾よくいかない結末を覚悟していたし、少し感情を失っていた」ので恐くなかった、と書いた。
 半分は失敗を予期して、彼女は自分の情緒の全てを成功の見込みに注ぎはしなかった。このことが、彼女の神経を安定させ続けるのに役立った。
 しかし、ときが経つにつれて、彼女は自分の勇猛果敢さについて、大きな驚嘆の気持ちをもって振り返った。
 70年以上の自分の台所に腰掛けながら、スヴェータは当時に自分が旅をするのは「自然(natural)」なことだったと思い出すことになる。
 しかし、そのときこう付け加えた。
 「いろいろな危険に巻き込まれることを想定すらしないで、どうすれば私は進むことができたのですか?
 分かりません。
 愚かななことをしました。
 きっと悪魔が私の頭の中に入り込んでいたのです !! 」/
 (27) この旅の非合法な部分のゆえにだが、逮捕される危険に陥ったことがあった。
 スヴェータは友人のShura から衣服を貰っていた。Shura は自分のカーキ色をした古い軍服の綿素材で、それをこしらえていた。
 のちに、スヴェータは書いた。
 「この制服が、私を救った。
 私は検札官を避けようと努めていた。彼らは乗客全員の切符と書類を点検しながら車両をわたって来ていた。
 私は何とか頭を下に向けたままにし、制服を身につけていた。その間ずつと、検札官の視線に合わせないようにした。
 しかし、彼らの一人が私の所にやって来て、切符が奇妙だ、合法のものではない、と言った。そして、尋問するために私を列車から降ろそうとした。
 にせの切符について、どのように説明できるだろう?
 私は、その切符が誰のものかすら知らなかった。—切符の上にはたぶん男性の名前があつた。しかし、私は女性で、しかもどこへ旅行することになっているかすら知らなかった。
 もちろん、私が本当はどこへ行くのかを言うことはできなかつた。
 さらに加えて、その切符を軍の将校に返すように言われていた。
 しかし、そのとき、明らかに軍人と思われる別の乗客が私を彼らの仲間だと見てとって、私を守る側になって、友好的に検札官と議論し始めた。
 彼らはこう言った !! 何か間違いがあるしても、彼女が原因ではない。
 すると、検札官は私をそのままにして去った。」//
 (28) スヴェータは、ペチョラから数キロメートルだけ離れたKozhvaまではるばると旅をした。そこで彼女は、土地に掘られたLev Izrailvichの家を見つけた。その家に彼の「ちっぽけな(tiny)部屋」があった。〔参考—次回に掲載する当時のスヴェータの写真の背後にこの家が写っている—試訳者〕
 レニングラード出身の彼の父親が一緒に滞在していた。—たぶんその理由は、木材工場でレフと会ったことがないということ。それで、睡眠の仕方はとても窮屈だった。
 翌日、Izrailvich とスヴェータは一緒に、木材工場へ行った。
 ペチョラにある駅からソヴィエト通りの距離を歩いた。その通りは汚れた車跡のある、両側に8住戸のある木造家屋が並ぶ、そして「側道」は地上に置いた厚板で造られている大通り(avenue)だった。
 二人は曲がってモスクワ通りに入り、町の最初の石製建物である、新古典派様式の構造物を過ぎた。その建物は、最近にAbez から移転してきた北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部用に建てられたばかりだった。
 建物の外側に監視員はおらず、誰もスヴェータを止めたり、書類を調べるために質問したりしなかった。彼女は見かけない人物として印象に残ったに違いないとしても。 
 Izrailvich とスヴェータはモスクワ通りから、第一入植地区の住居群やGarazhnaia(ガレージ)通りの自動車修理場を過ぎて、木材工場の正門へと着いた。そこで二人は監視員に、スヴェータは居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げる予定だった。//
 (29) 木材工場の治安確保は、混乱した状態にあった。
 およそ数百人の監視員がいて、刑務所地帯を巡視した。
 監視員のほとんどは軍に従事した元農民で、戦争末期に家に帰って集団農場に行くのを避けて、監視員として就業契約をしていた。
 多くのものは読み書きの能力がなく、たいていの者はひどい酒飲みだった。そして、彼らはほとんど賄賂を受け取り、受刑者から盗んだ。
 彼らはまた、木材工場の店舗や、とくに産業地帯にある馬小屋、産業地帯の外の第一入植地区に近い風車で強奪した。第一入植地区では少なくとも12人の監視員がオート麦を盗み、収監者や自由労働者に売るウォトカに変造する、大きな恐喝団に関与していた。
 このようにして1946年には、数トンのオート麦が所在不明になつていた。
 (30) ほとんど恒常的な酔っ払いは、監視員に関する主要な問題だった。
 木材工場の党資料には、懲戒のため聴取に関するものが多数ある。それには、「勤務時間での酔っ払い」、「監視小屋での仕事中の飲酒による意識不明」、「酔っ払っての数日間の消失」等々が記録されている。
 党指導者たちはみな、監視員の間にある酒乱は治安確保に対する最大の危険だ、ということに同意した。
 収監者たちは、酔っ払った監視員が主要監視小屋で寝ている間に収容所から歩いて外へ出ていた。
 別の収監者たちは、賄賂を監視員に渡して町の女性を訪問させ、さらに賄賂を提供して、営舎地帯に帰らせ、光が消えているときは「いる」者の中に算定させた。
 ペチョラの遠隔さ—他の労働収容所以外のどこからも1000キロメートル—によつて、ペチョラ自体が刑務所になった。
 (31) 監視員が賄賂を受け取って、外部者が刑務所地帯に入るのを認める場合ももあった。
 1947年の木材工場での党の会合は、「不審者(strangers)」が通行証なしで居住区画の自由労働者を訪問するのが許されているいくつかの事件を報告した。
 工業地帯の内部では一度、侵入者が探索を逃れていた。
 小さな街路照明灯しかなかったこと—およそ7台の電灯—は、治安確保よりも生産目的を優先することを意味した。
 探索照明灯のある8つの監視塔が鉄条網の塀の周りにあったが、そのうち3塔の照明灯は電球を失くしていた。//
 (32) Lev Izrailvich とスヴェータは、邪魔されることなく木材工場の正門に到達した。
 正門は今にも壊れそうな代物だった。両側にある木と鉄条網でできている塀よりもほんの僅かだけ強固で、宣伝標語(propaganda slogan)が描かれた四角い枠のベニヤ板が付いていて、最上部には労働収容所の槌・鎌の標識があった。
 通路の右に監視小屋があった。木材工場を出入りする者は全員がそこで、執務中の武装監視員に通行証を呈示することが意図されていた。
 受刑者用の移送車も、出入りが数えられた。//
 ——
 第6章③、終わり。
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