秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

J・グレイ

2077/J・グレイ・わらの犬(2002)④-第2章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。<ー人間と他の諸動物に関する考察>。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕①。邦訳書、p.37~p.54。
 第1節・仮面舞踏会。
 カントが仮面舞踏会で恋慕した仮面の麗人は実妻だったというショーペンハウワーの寓話での妻はカント時代のキリスト教信仰で、ヒューマニズムが現代の信仰だ。哲学は200年の間にキリスト教を捨てたが、「人間は他の生き物と根本的に違うと考える教理の根幹をなす誤謬は温存した」。仮面を剥ぎ取るはずの哲学者の仕事は本格的には開始されていない。
 「動物はみな、この世に生まれ、番(つがい)の相手を求め、餌を漁り、死に果てる。それだけのことだ」。人間は「意識、自我、自由意思」があるから違うと言うが、誤りだ。
 「人の一生は意識の命じる主体的な行動よりも断片的な夢想の堆積である」。
 「死命を分ける重大な決断の多くを知らず知らずのうちに下す」。
 「自身の存在を意志の力で統御することはできない相談であるにもかかわらず、…できると考えるのは神に対する非合理な信仰を棄てて、非合理な人類信仰に乗り換えた思想家の教条主義である」。
 第2節・ショーペンハウアーの難題〔Crux〕。
 ショーペンハウワーは19世紀半ばの人間「全的解放」を批判し、「革命運動には恐怖と侮蔑」を抱き、主流哲学に「猛然と反発し」、「後にマルクスにも強い影響を与えたヘーゲルを国家権力の代弁人風情と扱き下ろした」。
 彼は規則正しく生活し、「人間存在の根底にある盲目的な意志」に従った。哲学は「キリスト教の偏見に毒されている」とし、18世紀の「啓蒙」の主潮だったカント哲学を「キリスト教信仰の世俗版」だと批判した。
 彼にとって「人間は本質において動物と何ら選ぶところがない」。人間も同じく「世界の根底にあって苦悩し、忍従しながらすべてを誘起する生命衝動-盲目的な意志の現れ」だ。
 カントはイギリス(スコットランド)のヒュームの「底知れぬ懐疑主義」に衝撃を受けた。ヒュームによれば「人間は外界の存在を知り得ず、…自分自身の存在すら知っていない」、「何も知らない以上、自然と慣習を標に生きるほかはない」。
 ヒューム説の「人間は事物をそれ自体として知ることはできず、ただ経験のかたちであたえられる現象を知るだけ」によると「経験の背後にあるリアリティ、カントのいわゆる物自体は不可知」だが、カントは「高鼾の熟睡」に再び戻り、ヒューム・懐疑論を拒否した。
 ショーペンハウワーは「世界は不可知」とのヒューム・カントを受容しつつ、「世界も、世界を知ったつもりでいる個別の主観も、リアリティの根拠を欠いた幻影だと論じた」。彼は「ベーダンタ哲学と仏教思想に共鳴している」。そして、カントを進めて、「表象」世界に生きる人間を捉え直した。
 ショーペンハウワーによると「欲情は種の保存を約束するが、個人の福祉や自律にはなんのかかわりもない。体験が人間に自由行為者たる確信を押しつけると考えるのはまちがいである」。また、「独立した個体は存在せず、数多性も差異もない」、ただ「<意志>と名付けた絶えざる衝動だけ」がある。「理知は否応もなく意志にしたがう下僕でしかない」。
 ショーペンハウワーは、「カント哲学を否定し、返す刀でキリスト教信仰とヒューマニズムの根底にある人間の唯我論を切り捨てた」。
 第3節・ニーチェの「楽天主義」〔Optimism〕。
 ニーチェはショーペンハウワーの「ペシミズム」を批判したが、後者は前者の「神の死」という結論をすでに道破していた。
 ニーチェは「キリスト教とその価値観を論難してやまなかった」が、それ自体が「信仰から脱しえなかったことの何よりの証拠」だ。父母に「キリスト教の血筋」もある。
 彼はショーペンハウワーを意識しかつ敬愛しつつも後者の「哀憐」は「至高の徳目ではなく、…生命力の減退の徴」だと弁じた。後者は<意志>に背いて=「自身の幸福や生存に対する執着を断って、はじめて他者を憐れむ心になる」と説いたのだが、ニーチェにとって、「憐れみ」は「反生命主義」で、<意志>を賛美する方が理に叶う。「苛酷な生をそっくりそのまま是認する」のが、ショーペンハウワー・悲観主義に対するニーチェの回答だった。
 しかし、ショーペンハウワーは「哀憐ゆえに蹉跌する」ことはなく、ニーチェの方が「錯乱」して「身を滅ぼした」。
 ニーチェと異ってショーペンハウワーは、キリスト教信仰・その根幹の「人類の歴史を重視する思想」を放棄した。
 「ほんとうにキリスト教と絶縁する気なら、人類は歴史に意味があるとする考えを棄てなければならない」。古来の異教世界と文化ではかかる認識の例はない。「ギリシア、ローマでは、歴史は栄枯盛衰の自然な循環であり、インドでは、ただ果てしなくくり返される共同幻想だった」。
 「人間は生き物で、他の動物と変わらないとわかってみれば、人類の歴史などというものはありえず、ただ個体の一生があるだけである。
 かりに種の歴史を語るとすれば、そうした個体の一生の、知りようもない総和に意味をさぐることでしかない。
 動物と同じで、幸せな生活もあれば、惨めな暮らしもある。
 だが、個体を超えたところに存在の意味はない。」
 ニーチェは「人類の歴史」の無意味を「知っていながら承服できなかった」。「最後まで信仰に囚われて」いたので「動物である人間もどうかなるという迷妄を断ち切れず」、「笑止千万な超人の思想を生み出した」。
 彼は「支離滅裂な人類の夢に、…悪夢を加えるだけで終わった」。
 第4節・ハイデガーのヒューマニズム〔Humanism〕。
 ハイデガーは西欧哲学を支配してきた「人間中心の思想」への決別を宣した。しかし、「人類は必然の存在だが、動物に正当な存在理由はないという」偏見をもち、「存在」に目を向けて「人類の特異な立場を肯定」した。ニーチェと同じく、「キリスト教の希望」を棄てきれなかった「不信仰者」だ。
 ハイデガーは「宗教に依存しない人間存在」を語るが、「現在性」・「無気味さ」・「罪」のいずれも「キリスト教の理念の世俗版」だ。キリスト教の「堕落」・「原罪」等に「実存主義的なひねりを加え」た「焼き直し」にすぎない。
 「存在」の意味は不明で「定義を拒むもの」と考えている節があるが、明らかに「独我論の根拠」になっている。
 ハイデガーは世界を「ただ人間との関係においてしか」見ない。「旧来の人間中心主義」と変わらず、「秘教的知恵」が救うとする「古代思想」や「グノーシス主義」の世俗化した「蒸し返し」だ。
 ニーチェは「放浪者」のために書いたが、ハイデガーは「終生、身の置きどころを求め」た。後者は次第にヒューマニズムから遠ざかったと公言したが、人間中心でない「古来の思想」への関心はなかった。「ギリシア語とドイツ語だけが真の哲学の言葉」だと断じて、「荘子、道元」等々の「深遠な思想も哲学ではありえない」と無視した。
 ハイデガーのごとく「哲学者がかくまで自己を主張し、妄想に取り憑かれることはきわめて稀である」
 晩年に「静謐」を語るが、ショーペンハウワーの「意志からの解放」にとどまるだろう。後者によると芸術・音楽への耽溺で「意志」形成の労苦を忘れて「没我の境」に入り、「無私無欲の観察者の視点」で世界を観察する。ハイデガーは晩年に「迂路をたどってショーペンハウアーに回帰した」。
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 つづける。

2071/J・グレイ・わらの犬(2002)③-第1章03。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの一部引用・要約のつづき。
 「各『小節』の見出しは原書にはないようで、…」とこれまで記してきたが、大間違いだった。
 例えば、第一章第2節「恣意的進化の蜃気楼」の原語は、The Mirage of Concious Evolution。
 同第6節の「反原理主義…」の原語は、Against Fundamentalism …。
 「」は邦訳書からの直接引用。太字化は秋月による。
 <わらの犬>の意味は、第12節で説明されている。
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 第一章・人間③。邦訳書、p.23~p.35。
 第8節・人間中心主義を矯正する科学。
 「科学」は「人間中心主義の要塞」で、他生物と違って「自然を意のままに服従させることも…可能であるという思い込み」を助長して身を守っている。
 しかし、「最先端の自然科学」は「因果律も古典論理」も本質からずれていると疑問視し、例えば「時間が外的世界の部分」ではないと示唆し、「一つの事象に複数の現実が存在する」ことを肯定する。「観測者の立場次第で世界は変わるとするのが量子力学の根幹」だ。
 「ほんとうは、人間が知覚するように組み立てられた世界は絵空事(ギメラ)であることを露呈するところに、科学ならではの意味がある」のではないか。
 第9節・真理をもたらすもの。
 ヒューマニストは「真理を知ることで人間は自由になる」と言うが、そうした「ヨーロッパ思想」はソクラテスからプラトンを経てキリスト教に伝わった。
 ソクラテスにとって「真理の本質」は問題にならず、「人間の知識と福利は別物」だ。「内省」を重んじ、真の「充足は不変のうちにある」とする立場には「原始宗教の名残」がある。「シャーマニズム」という「精霊との交感」を大切にした風習の影響で、彼は「内なる声」を「神の声」と呼ぶ。
  「ヨーロッパの合理主義は神秘体験が原点」だが、現代ヒューマニズムが異なるのは「その不合理な起源を自覚せず、大それた高望みを正当」とする点にある。
 ヒューマニストの一部は「真理が人間を自由にする」とするソクラテスを含む「ギリシア思想」とキリスト教の「解放の希望は万人のもの」とする信仰を混同している。
 「現代のヒューマニズムは、人間は科学を通じて真理を知り、自由を手にするという信仰である。
 しかし、ダーウィンの自然淘汰説が正しいとしたら、これはありえない。
 人間の頭脳は、…ひたすら真理を求めるようにはできていないからだ。」
 ダーウィン以前の誤りの一例は「ミーム論」=「模倣子」・「意伝子」論で、残念だが「ミームは仮想の主体であり、遺伝子とはちがう」。 
 「思想の対立が真理の勝ちで決着するとは思いもよらない」。「思想は対立し、反目するが、…権力と愚昧を味方につけた側が勝つことに相場が決まっている」。
 ダーウィン・進化論は「真理への関心が生存や繁殖のためには無用で」「むしろ少なからず有害である」ことを示す。
 「進化心理学」は「動物が擬態で外敵を欺く」ことを教えるが、「同じことは政治の場をはじめ、さまざまな人間関係について言える」。
 進化過程は、「真理」は「誤謬」より「優位」ではなく「その逆」で、「自己欺瞞の度合いで方向を選ぶ」ことを示す。
 「生存競争の修羅場で真理を求めるのは贅沢か、さもなければ無知の業である」。
  人間と同じく「科学」は「もっぱら真理の探究と人間の向上を目指す」ことはなく、「知識」は「むら気と曲がった心に妨げられる」。
 「日常生活の中で人間が一所懸命になるのは、損得の勘定である。<一文略>行動がただ感情を発散させるため」だけのこともある。これらは「改まる落ち度ではない」。
 第10節・啓蒙家パスカル。
 17世紀のパスカルは、「信仰」が「心の空白を満たす」と考えなかったが、「信仰を支える習慣」の力を知っていた。同様に現代人は「科学」に期待し、「理性を眠らせて、人類に対する信仰を深め」ている。
 第11節・人間主義対自然主義。
 「分子生物学」のジャック・モノー(J. Monod)によると、「生命は理論では説明できない偶然の産物だが、ひとたび発生すると突然変異と自然淘汰で進化する。人間は、宇宙が賽子を投げていい目が出た他の生き物と少しも変わらない」。
 この「なかなか容認しがたい事実」、「自身の存在がまったくの偶然であることを認めなくてはならない」。但し、モノー自身が「人類は特権に恵まれた孤高の種」だとしてじつは認めていない。 
 モノーは「人間主義と自然主義を折衷」した。ダーウィン・進化論は「自然主義の真理」を明らかにしたが、「逆説」的に、この論が「人間が獣性を超越して地球の支配者たりうるとするヒューマニズム信仰の要石となっている」。
 第12節・わらの犬。
 <ガイア説>は、「地球は一個の自動制御システムであり、その動作は少なからず生命体に似ている」とする。ラヴロックの<デイジー>モデルは「惑星温度は自動制御される」とする。
 <デイジー>モデルのごとく<ガイア説>は「狭義の科学信仰」にもとづくが、「科学原理主義者」はこれに反発する。「ガイア説と現代の正統派の対立は、科学的な論議」に由来せず、「その根底にあるのは、キリスト教信仰と、はるか以前か伝わる古い信仰の衝突」だ。
 <ガイア説>の「概念」は、「老荘哲学の原典」・「道徳経」に明記されている。
 「古代中国では、わらの犬を祭祀の捧げものにした。
 祭りのあいだ、わらの犬は丁寧に扱われたが、祭りがすんで用がなくなると踏みつけにされ、惜しみなく棄てられた」。
 「人間とても、地球の平穏を乱せばたちまちに踏みつけにされ、情け容赦なく棄てられる」。<ガイア説>批判者は「非科学的」だとこれを忌避する。
 しかし、「実を言えば、人間はわらの犬でしかないことを認める勇気がないばかりにそっぽを向いているのである」。
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 第2章以降につづく。

2070/J・グレイ・わらの犬(2002)②-第1章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの一部引用・要約のつづき。
 各章の中の「小節」の見出しは原書にはないようで、邦訳者が読者の便宜のために付したのではなかろうか。「」は邦訳書からの直接引用。太字化は秋月による。
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 第一章・人間②。邦訳書、p.15~p.23。
 第5節・グリーン・ヒューマニズム。
 環境保護のグリーン論者は「人間が地球の支配者たりえない」ことを知っているが、「ラッダイト運動にも似て、…地球を人間の目的にかなうものにすることができるという幻想」を引き摺っている。彼らは「人間主義-ヒューマニズムの焼き直し」を唱えているだけだ。
 「技術」は地球上の生命と同じ「長い歴史」をもつ。昆虫にも「技術」がある。
 人間自身が「原始バクテリア共同体が遺伝子保存の手段として工夫した機械的装置」であることを、マーギュリス(L. Margulis)とセーガン(D. Sagan)は、こう述べる。
 人間は「バクテリアが地球を席巻して以来の複雑なネットワークの一部である。
 生命力と知力は人類の占有ではなく、全生物が共有する財産である」。
 「ヒューマニズムは救済の教理であり、人類は自己の運命に責任を負うという思い込み」だ。グリーン論者は、地球の「資源を管理」する役を理想としているが、「人間の行動が自分たちや惑星を救う」とおめでたく考えている。
 有史以前から、人間は概して他の生物と「多少とも」違うとは考えてこなかった。
 「人間と動物を隔てる溝は越えがたいというヒューマニストの認識は誤りで、人間も動物も等しく自然の一員である」。希薄化しているかもしれないが、人間と生物を「運命共同体と見る感覚は人の心の深層に刷りこまれている」。
 人間はときに「意識の表層に浮かぶ倫理観には縛られず、利己心から行動」する。「いつの場合も、人間を駆り立てるのは、その時々の必要である」。
 「ずば抜けた破壊能力を持つ種に地球を託す以上の悲劇」はないだろう。
 第6節・反原理主義-宗教と科学。
 「科学」は「宗教」から権威を奪い、人間を「偶然の…取るに足らない」存在にした。「人間存在」の意味を復活させるなら「信仰」も復活させる必要がある。しかし、「現代社会」から意識的に「科学を排除することは不可能」だ。
 「科学は技術を介して社会に浸透する。人間の意志にはかかわりなく、科学技術は生活様式に変化を強いる。」//
 「宗教原理主義者」は現代社会の「医療師」だと自負するが、そうした存在自体が「病の兆候」で、その主張は「妄想」だ。彼らが「どれほど望もうとも、科学の網目に覆われて生きている人間が近代科学以前の視野に立ち戻ることはできない」。
 「科学原理主義者」の「公平無私な真理の探究」だとの主張は、「人間の現実を無視」している。「科学」がもつ一つは「希望」で、「進歩神話の根拠」となる。しかし、「無条件の信頼」からではなく「諦めた先に何があるかわからない不安」のためだ。「科学」の「進歩」的様相は「道徳律や政治」に求めることはできない。
 「科学」がもつもう一つは「異端を封じる力」で、「現在、権威を誇りうる唯一」のものだ。それは「浅薄な既成の世界像を俗受けのする幻影のままに温存する」ことでその「人気を根底で支えている」。大衆には「不確実から身を守る避難所」なのだ。
 「科学」の権威が由来するのは「人間がその力を借りて環境に影響をおよぼす」ことで、また「実際の必要を離れて純粋に真理の探究」に資するかもしれない。しかし、「その目的が達成される」と想定するのは「科学以前の発想」で、「実用の場から切り離」された「自然とは異質な超越論的思考に変容させること」、「世界を支配するのは真理であり、真理は神聖であるとする神秘主義の再現」が見られる。
 第7節・科学の不合理な起源。
 「科学原理主義者」によれば科学は「すべてに優る理性の表現」で、それは教会・国家・迷信等と闘って「合理の探究を実現した」。
  しかし、「科学の起源は合理の探究ではなく、信仰、魔術、知略」にある。ガリレオ・地動説が時代を画したのは「科学的」でない「条件が見方」したからだった。
 「20世紀をつうじて最も影響力のあった」カール・ポパーによると「理論は反論されてはじめて科学的」だが、ダーウィン・進化論もアインシュタイン・相対性理論も「発表当時は確たる証拠」がなく、「かなり後に」揃った。
 「現在では宗教、神話、魔術の領分とされている考え方が近代科学を開拓した先人たちの世界観を支える親柱だった」。「理性に背くこと」により、科学も進歩も生じた。
 例えば、「ガリレオは、自身、教会の敵ではなく、神学擁護の立場をもって任じていたし、…ニュートンは、自分の理論を森羅万象、神の定めた秩序にしたがおうとする教理と不可分であるように考えて、時にみられる自然界の異常を神の残した指紋と説明した」。
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 つづける。


2069/J・グレイ・わらの犬(2002)①-第1章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 以下、邦訳書から一部引用したり、要約したりする。
 各章の中の「小節」の見出しは原書にはないようで、邦訳者が読者の便宜のために付したのではなかろうか。「」は邦訳書からの直接引用。
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 第一章・人間。邦訳書、p.1~p.15。
 第1節・科学かヒューマニズムか。
 現代人の多くは自分たちで「運命を支配する」ことができるヒトという生物の種の一員だと考えているが、これは「信仰である。科学ではない」。
 ダーウィンをもう一度振り返る必要がある。
 「種とは遺伝子の集合であって、遺伝子は相互に、かつ変遷する環境と、無作為に関連し合っているにすぎない。
 種は自己の運命を制御できない。
 個々の遺伝子を取り出してみれば、種というものはない。
 生き物はすべて同属で、人間も例外ではない。」
 人間が「人類の進歩」を語るのは、「キリスト教の希望」に由来する「抽象概念」にとらわれているからだ。
 「人間とほかの生き物は同類」だが、人間を優越させるキリスト教を母胎としたために「進化論」は喧しい議論を発生させた。
 現在では、「人間主義者」と、「人間は動物と同じで運命の支配者たりえないことを理解している少数派」が対立する構図がある。
 「人間主義」とはここでは「進歩信仰」を指す。「人間は増しつづける科学知識を力として、ほかの動物〔の〕…限界を超え、自己を解放できるという思いこみ」だ。
 これには何の根拠もない。「知識を身につけたところで、生き物である人間はもとのままである」。
 他の動物と変わりがないとしたダーウィンに対し、「ヒューマニストは人間と動物をいっしょにするなと声高に言う」。それを裏付けるため、「人間は、みな救われる」というキリスト教の「いかがわしい約束」を担ぎ出したが、「ヒューマニストの進歩信仰はキリスト教信仰の世俗版でしかない」。
 ダーウィンの「世界に進歩と呼べるものはない」。
 ヒューマニストにこれは耐え難いことで、ダーウィン説を「逆手に取り」、「人間はいかなる動物とも異なる」とするキリスト教の根底にある「誤信」を永らえさせた。
 第2節・恣意的進化の蜃気楼。
 人間は「偶然にもてあそばれている-当てもなく進化の流れに身を任せてきた」。
 しかし、ウィルソン(E. O. Willson)は遺伝子工学を味方につけて、「人間進化の恣意的な操作」は可能である、と言う。しかし、この主張は「蜃気楼」だ。
 「人類が運命の管理責任を負うという考えは、種に目的意識があってはじめて意味をなす」。しかし、「種は遺伝子の流れに浮かぶ泡沫でしかない」。
 次世紀にかけて「科学の力で人間が変わることはありえよう」。しかし、変わるとしても「無計画な改造に終わる」。
 「人間が神の立場で運命をあやつったところでどうなるものでもない。
 もし人類が改良されるなら、それもまた運命の気紛れである」。
 第3節・人間がいっぱい。
 6500万年前に「全生物の4分の3に相当する種」が忽然と消滅した。その後も急速につづく「種の絶滅」の原因は、「地にはびこって」いる人間にある。
 1万2000年前に人間が登場した世界に生きていた動物の原産種のほとんどは、「狩猟によって絶滅した」。
 「自然破壊はグローバルな資本主義や産業化」や「人間の組織や習慣」の欠陥に起因するのではなく、「進化の過程で異様なまでに貪婪な霊長類が突出した結果」だ。有史以前から今日まで、「人類の隆盛と自然環境の荒廃は軌を一にしている」。
 地球規模で見ると、今後も人口は大幅に増加する。80億人ともなれば、「地球を荒らさずには維持できない」。
 遺伝子工学が「痩せこけた土壌からむりに豊かな収穫を上げる」のに成功すれば、「ほとんど何もなくなつた地球で、人間だけが人工的に欠乏を補った環境に細々と生きる」「孤愁の時代」がやって来る。
 実際には「地球の自動調節機構」によって、人間が住めなくなるか、人口の増加停止が生じるだろう。
 ラヴロック(J. Lovelock)の「筋書き」は、1.病原菌である人類の絶滅、2.慢性的地球汚染、3.宿主たる地球の破壊、4.地球(宿主)と人類(寄生動物)が「互恵関係を維持する共生」、だ。
 最もあり得るのは、1.に「いくぶんか脚色」を加えたものだ。「気候変動の副次的効果で、新しい病気が人口を抑制するとも考えられる」。「戦争の影響は計り知れない」。「生物化学兵器」、「遺伝子兵器」類が「人間社会の生命維持機構にあたえる打撃こそが深刻」だろう。
 モリソン(R. Morrison)はつぎのように言う。
「環境がもたらすストレスに、動物の多くはホルモンによって反応を制御し、栄養源が不足するとなれば新陳代謝をより効率のいい状態に切り替える。当然ながら、エネルギーを消耗する生殖行動は真っ先にその対象となる。<一文略>
 出産を打ち切って環境ストレスに対応する人間は動物一般と少しも変わらない。」
 「気候変動、新型の疾病、戦争の惨害、出生率の低下」等々の複合と「未知の要因」により、それ自体が「一過性の異常」である「人口爆発」は終息するだろう。
 「2150年までに生物圏は無事、ホモ・サピエンスがはびこる以前の状態に戻り、人口は5億から10億のあいだに落ち着くにちがいない」。
 第4節・人類はなぜ技術をもてあますのか。
 「『人類』は存在しない。ただ、矛盾する欲求と幻想に衝き動かされ、とかく不確かな意志と判断に左右される人間がいるだけである」。
 「技術」を手に負えなくしている原因は国家が多数に分かれていることではなく、「技術」を実現する「知識」それ自体は無償であることだ。「大量殺戮」目的の「新種ウイルス」開発に「莫大な資金、大規模な設備、最先端の機材」は必要がない。
 ビル・ジョイ(B. Joy)の言う「知識が招来する大量破壊の危険」という情況の責任の一端は国家にあるが、つまるところは「誤った政治の結果」ではなくて「知識の普及」による。
 「技術の管理は強制できない」。「遺伝子操作」は「戦争」に使われ得る。「政府の目が届かない…生物兵器」を防ぎようがない。「クローン人間」技術は「人間の理性や感情に乏しいか、まったく欠落した兵士」をいくらでも増殖させ得る。
 「ユダヤ人大虐殺」は「鉄道と、電信と、毒ガス」があって可能だった。スターリン・毛沢東の「強制労働収容所」には「近代的な輸送、通信手段」が必要だった。
 「そもそも技術は人類の手に負えない」。テレビ、インターネット…、「新しく登場した技術はとうてい人の理解がおよばないところまで生活様式を変える」。
 「道徳の深化が科学知識の発展に歩調を合わせられなかったこと」を嘆いても、無意味だ。
 「手段に罪はない。その手段をもてあそぶ人間にこそ問題がある」。
 「技術の進歩はひとつだけ未解決の問題を置き去りにする。すなわち、人間の弱さである。
 悲しいかな、こればかりはどうする術もない。」
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 第1章②へと、つづける。

2068/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)③。

 政治思想・政治哲学研究者のジョン・グレイ(John Gray)は1948年生まれ。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals は2002/2003年に刊行されている。原版は、54歳になる(なった)年だ。
 そして、2008年まではイギリスの大学教授(最後はロンドン大学)で、その年に引退するまでは講義や研究指導をしていたのだろう。
 それにしては、つまりそうした年齢や境遇からすれば、上記著書の内容は相当に驚くべきものだ。
 邦訳書に依拠すれば、巻末の最後の文章は、以下のとおり。一行ごとに改行する。
 「動物は、生きる目的を必要としない。
 ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。
 人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいではないか。
 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)、p.209。
 上の「見る」は、原文では see。
 最後の一文を直訳すると、<我々は、人生の目的について、たんに見ることだと、考えることはできないのか?>
 この「たんに見る」というのは、すでに「序」でも書かれているが、社会あるいは世界を「変革」しよう、「改善」しよう、「進歩」させよう、などと考える必要はない、あるいはそうしてはならない、ということを意味するだろうと思われる。
 静かに<見る>、<じっと黙想する>、それでよいではないか、と言いたいのだろう。
 こういう境地には、54歳くらいで、また現役の大学教授が、とくに「文科」系の研究者が、なかなかなれないのではないか。
 上に引用の文だけではなおも理解し難いようだが、脳科学者の茂木健一郎が標題を<生きて死ぬ私>とする書物を30歳代に刊行した、そのような心境に、政治・思想を扱う「文科」系人間でありながら、到達しているように見える。
 80歳を過ぎている日本の「知識人」らしき人物が、なおも<世俗感>・<現世感>丸出しの文章を雑誌に寄稿したり書物を出版しているのとは、大きく違っているだろう。
 もっとも、J・グレイには彼なりの<戦略>があったのかもしれず、そしてその意図どおりに、この著は種々の大きな<衝撃>を欧米の(少なくともイギリスの)「知的」世界に与えたらしい。
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 「序」は邦訳書で計6頁ほどしかなく、以下はこれまで紹介していない最後の部分を、ほとんど邦訳書に依らないで、抜粋的に「試訳」しておく。邦訳書ⅶ~ⅷ。
 「進歩という希望が幻想であるとすれば-つぎのように尋ねられるだろう-、我々はいかに生きるべきなのか?
 この疑問が前提にしているのは、世界を造り直す(remake)力を有していてのみ、人間は幸福に(well)生きることができる、ということだ。
 しかし、過去に生きたほとんどの人間はこれを信じ(believe)なかった。そして、大多数の人間は幸福(happy)に生きてきた。
 この疑問が前提にしているのはまた、人生の目的は行動だということだ。しかし、これは近現代(modern)の異端説だ。」
 プラトンは人間の最高の形態は「行動」だとしたが、同様の見方は「古代インド」にもあった。
 「人生の目的は世界を変革(change)することではない。世界を正しく見る(see rightly)ことだ」。//
 こうした考え方は「今日では破壊的な真実(subversive truth)」を示すものだ。「なぜならば、政治というものの空虚さをその意味に含んでいるからだ」。
 「優れた政治は卑劣であり当座凌ぎのものなので、21世紀の初めの世界には、失敗に終わったユートピアの瓦礫が山のように撒き散らされている。
 左翼は瀕死の状態にあり(moribund)、右翼がユートピア的空想の本拠になった。
 グローバルな共産主義のあとに続いたのは、グローバルな資本主義だった。。
 これら二つの未来像には、多くの共通するところがある。
 両者ともに醜怪で(hideous)、かつ幸いにして、荒唐無稽(chimerical)だ。」//
 「政治活動が救済(salvation)のための代用物になるに至っている。しかし、いかなる政策も、人間をその自然条件から救い上げる(deliver)ことはできない。
 いかに急進的であっても、政治的な諸方針はあくまで便宜的なものだ。-それらは、繰り返し出現する悪に対処するための穏健な方策にすぎない」。
 「人間は、世界を救済することができない。しかし、このことは絶望する理由にはならない。
 人間は、救済を必要としない。
 幸運にも(happily)、人間は決して、自分たちが造る世界に生きることはないだろう。
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 <わらの犬>の意味も含めて、別にこの書物の内容に論及したい。

2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。

 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
「序」のつづき。
 (1) ダーウィン・進化論(ガレリオ・地動説、ニュートン力学も?)がキリスト教世界・文化に対して与えた衝撃を実感として理解することはできない。
 ともあれ、J・グレイはダーウィニズムにこう言及しつつ、さらに、キリスト教→ヒューマニズムの歴史を語り、後者もまた「科学」ではなく「信仰」だと述べる。以下、邦訳書を参照しつつ、そのままには従っていない。
 ・本書は「新ダーウィニズムの思想(Neo-Darwinism orthodoxy)」が「人間という動物(human animal)に関する究極的な説明」だとはどこにも書いていない。支配的な「ヒューマニズムの世界観」を打破するために「戦略的」にダーウィニズムを使っているのだ。にもかかわらず、ヒューマニストたちは「進歩への信仰が今日に揺れ動いている」のを支えるためにダーウィンを用いている。しかしながら、彼が明らかにした世界には「進歩」はない。「真に自然主義の世界観は、世俗的な〔進歩という〕希望の余地を残していない」。
 ・19世紀初めに、Henri Saint-Simon とAuguste Comte が「人間中心教(Religion of Humanity)」を創始した。これが20世紀の「政治的宗教(political religion)」の原型となり、John Stuart Mill に強い影響を与え、「リベラリズムを今日の世俗的信条(secular creed)にした」。また、Karl Marx への影響を通じて「科学的社会主義」の形成を助けた。
 ・「ヒューマニズムは科学ではなく、宗教(religion)である。-人間はこれまでに生きてきたいずれよりも世界をより良く造ることができる、というキリスト教以降の信仰(faith)である。」
 (2) つぎにJ・グレイが言及するのは、ヒューマニズムという「進歩への信仰」のもう一つの淵源(source)としての「知」=「知識(knowledge)」だ。
 ・「科学では、知識の増大は蓄積していく。しかし、人間の生活全体は、蓄積していく活動ではない。ある一つの世代が獲得したものは、つぎの世代には失われるかもしれない。」
 ・「科学では、知識は純然たる善き(good)ものだ。しかし、倫理や政治では、知識は善であるとともに悪(bad)でもある。
 ・「進歩という観念が依拠するのは、知識の増大と種の進化は相伴っている、という信念(belief, 邦訳書では適切に「思い込み」)である」。
 ・「知識は、我々を自由にはしない。知識は我々を、これまでつねにそうだったような、あらゆる種類の愚行の餌食にしたままだ」。
 (3) このような「知識」論は、秋月瑛二の最近の関心を大きく刺激するところがある。
 「知識」は無条件に良いものではない。「知識の増大」=「進化」・「進歩」ではない。
 つまり「良い」必要な知識も「悪い」不要な知識もある。
 にもかかわらず、「知識」ないし「知」がほとんど無条件に良いものだと考えられているのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識人」それ自体で<えらい>わけでは全くない。良質の「知識人」もいれば、悪辣で犯罪的な「知識人」もいる。
 にもかかわらず、「知識人」というだけで<立派な>人間だというイメージ・「思い込み」が生じているようであるのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識」をほとんど対象とするのが、高校入学試験、大学入学試験、種々の国家試験類(公務員試験・司法試験等々)だ。これらに合格して特定の「大学」生等々の<資格>を得ること自体は、まだ善か悪か、<えらい>か否か、<立派>か否かを決するものでは全くない。
 にもかかわらず、「知識」の有無・多寡によって<全人格>までが決せられるようなイメージがある程度は相当に生じているようであるのは、いったい何故か。
 これは、<学歴>一般のほか<国家公務員最上級職>とか<弁護士>とかの資格の評価に関連する。
 「知」・「知識」の重視、これは少なくとも明治期日本以降には<伝統>になった、と思われる。
 日本国憲法もまた<リベラル・ヒューマニズム>の系列・流れの中にある。
 J・グレイによれば、憲法もまた一つの「宗教」・「信仰」あるいは「仮構」・「虚構」ではある。この点も、私にはよく分かる。
 そしてまた、<リベラル・ヒューマニズム>あるいは「近代啓蒙主義」は「知識」=「善」・「進歩(に役立つもの)」と理解したと考えられるが、これもまた「宗教」・「信仰」・「仮構」・「虚構」だろう。
 「知識」は生命体たる人間の、あるいは人間の脳内の一定部位や一定の仕組みが持つ、一定の側面にすぎない。
 「学歴」意識の虚妄と「学歴」意識の無惨・悲惨。
(つづく)
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2065/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)①。

 ジョン・グレイ(John Gray, 1948~)というイギリスの政治・社会思想家(・研究者)の文章を少し読み始めている。
 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 この中の「ペーパーバック版序」は2003年に書かれているが、なかなかに興味深い、刺激的な内容を含んでいる。
 本文を読まない、「序言」・「後記」のみ読者の弊害に陥らないで、全体を読んでみたいものだ。しかし、興味深いのでここで論及する。
 原書は2002年刊行で、邦訳書の対象であるPaperback 版は2003年に出たようだ。原書の原題は、つぎのとおり。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
 原書の英語(とくに単語)も参照しつつ、「序」に言及する。なお、Paperback 版の元の原書には「Foreword〔序〕」はなかったようだ。
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 J・グレイがこの著で主張したいことは、上の「序」によると、簡単には、以下に対する反抗、あるいは以下のものの「否定」、「消極視」だ。
 すなわち、「リベラル・ヒューマニズム」、あるいはたんに「ヒューマニズム」、「人間中心主義」。
 この文章には出てきていない言葉・概念ではあるが、グレイの意味する「リベラル・ヒューマニズム」、「ヒューマニズム」、「人間中心主義」とは、<近代>あるいは<(近代)啓蒙主義>あるいは<近現代の「科学」主義>であるように思える。
 あるいは、彼が反抗?しているのは「近代進歩主義」または「進歩」という観念自体だ。
 冒頭に、「思想家の不用意な謬見」を「論破」するのが本書の趣意だと明言したあと、つぎのように書いている。原文を参照して、一部またはかなり、邦訳書の訳を変更する。
 ・「リベラル・ヒューマニズム(liberal-humanism)」はかつての「啓示宗教」に劣らず「広く一般に浸透」し、ヒューマニストたち(Humanists)は「理性的(rational)な世界観」を「標榜」している。
 ・しかし、「その核心をなす進歩信仰(belief in progress)」は、いかなる宗教よりもなお、「人間という動物(human animal)の真実」〔邦訳書では、「生き物である人間の本然」〕から遠く離れた「迷信(superstition)」である。
 これと同じ主旨が繰り返し、かつより詳細にまたは具体的に語られている。しばらく追ってみよう。原文を参照して、一部は邦訳書の訳を変更する。
 ・「科学」の分野は別として「進歩とはたんに神話(myth)にすぎない」と原書が主張したので一部の読者は激高し、「リベラルな社会への忠誠という中心的項目を誰も疑問視することができない」、「それなくしては、我々は絶望的だろう」と言った。しかし、彼らは「進歩的希望(progressive hope)」という「虫の食った旗印」に縋りついている。
 ・「宗教界の思想家たち」はもっと自由に考えている。一方で「世俗の信仰者たち(believers)」は、「時流の在来的知識にとらわれて、検証されていないドグマの捕囚になっている」〔これは一般の思想家・哲学者のこと〕。
 つぎに、最近にこの欄に「自由」する西尾幹二著とも関連させて論及した<自由意思>に、J・グレイは説き及ぶ。
 ・現在の「主流の世俗的世界観は、当今の科学正統派と敬虔な希望を混合したもの」だ。ダーウィンは人間は動物だとしたが、「ヒューマニストたち」は「他のどの動物とも違って」、「我々は我々が選択するように生きる自由がある」と説教する。
 ・しかし、「自由意思(free will)という観念は、科学に由来するものではない」。「自由意思」の起源は、彼らが揃って罵倒する宗教・「キリスト教信仰」にある。「人間は、自由意思を持つことによって他の動物いっさいと区別される、という信念は、キリスト教から継承したものである」。
 ・ダーウィンの進化論はインド、中国、アフリカで唱道されたならば、欧米でのような「論議の的」(scandal)にならなかっただろう。「キリスト教以降(post-Christian)の文化でのみ」、「科学的決定論」と「自分の生き方を選ぶ人間に特有の能力」とを調和させようとする「哲学者たち」の努力が見られた。「確信的ダーウィニズムが皮肉であるのは、哲学者たちが宗教に由来する人間性という見方を支持するために、それ〔ダーウィニズム〕を援用している、ということだ」。
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 まだ「序」の1/3も終わっておらず、つづける。
 最後の方に、グレイのこんな文章がある(邦訳書による)。一文ずつ改行する。
 「21世紀を迎えた世界は、…失敗に終わったユートピアの瓦礫の山である。
 左翼は息も絶えだえで、右翼がユートピア思想の本家となり、世界資本主義が世界共産主義に取って代わった。
 この二つの未来像には共通するところ少なくない。
 ともに醜怪この上なく、幸いにして、荒唐無稽である。
 欧米または<キリスト教(を継承した)諸国・社会>との違いもやはり関心を惹くが、日本にも当てはまるだろうという意味で「普遍的な」テーマが提示されているだろう。
 近代・啓蒙・近代「科学」・近代「思想」-これらと現代日本・日本人。
 ヒト・人間と「科学」・思想・宗教。
 J・グレイが合理主義・理性主義(またはヒューマニズム・リベラル)に対して懐疑的・批判的であるのは、日本での本来の「保守」におそらく近いだろう。
 しかし、おそらくはという推測になるのだが、J・グレイは、日本の「いわゆる保守派」とは異なる。
 人間中心ではなく、「自然との共生」とか「環境の保護」とかくらいは(持続可能な社会等とともに)、<容共・左翼>でも主張しているだろう。
 また、日本の「いわゆる保守派」も、人間は「自然の一部」だとか「自然」を畏怖してきた日本人等々とか叙述しているかもしれない。
 しかし、これまた全体を読まないでの推測になるが、J・グレイが主張したいことは、人間が「自然」の一部であることは当然で、かつ犬・猫等々の他の動物・生物と<本質的に>変わるところはない、それらと十分に共通性がある、ということだろうと思われる。 そして、そのことを十分に意識して思考し、議論しなければならない、ということだろう。
 この欄で比較的最近に、私の理解として<ヒト・人間の本性>(の認識・重視)という言葉を使うことがある。上がJ・グレイの主張したいことなのだとすると、かなり共通性がある。
 そして、考える。例えば、<日本精神>、<日本人のこころ>が日本人に自然に「継承」されているかのごとき見解・主張は、<ヒト・人間の本性>に反している。
 なぜならば、人間の生後の獲得形質は「遺伝」の対象にはならないのであって、日本人だから<日本精神>、<日本人のこころ>を受け継いでいる、というのは、人間の本性と学問的にも反する、反科学の「迷信」ごときものにすぎない。
 江崎道朗が6世紀の「保守自由主義」なるものが19世紀に「受け継がれた」とか叙述するのも、荒唐無稽な、日本人を含む<ヒト・人間の本性>に全く反する血迷いごとだ。
 せいぜい<こうあってほしい>という願望で、正確には、<政治的プロパガンダ>の虚言だ。
 J・グレイは「右翼がユートピア思想の本家となり…」と語るが、日本の「右翼」はまともな「ユートピア」像すら示すことができていない。
 ともあれ、さらに次回へ。
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