秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マルクーゼ

2055/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)② 。
 (5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
 もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
 このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
 むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
 彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
 しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
 さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
 そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
 言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
 このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
 エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
 彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
 かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
 このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
 (6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
 スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
 マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
 これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
 (7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
 魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
 マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
 (8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
 手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
 科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
 ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
 (9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
 マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
 このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
 快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
 技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
 骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
 (10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
 これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
 しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
 人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
 この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
 マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
 (11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
 そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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 第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。

2052/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.415-。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)① 。
 (1)マルクーゼの初期の著作は、一種のマルクス主義を表明するものと見なし得るかもしれない(ヘーゲルに関する青年ヘーゲル派的な誤った解釈にもとづく、というのは本当のことだ)。一方で後期の著作は、マルクス主義の伝統を頻繁に呼び起こしてはいるが、ほとんどマルクス主義と関係がない。
 彼が提示するのは、(福祉社会によって回復不能なほどに腐敗した)プロレタリアートなきマルクス主義だ。また、(歴史変化の研究にではなく真の人間の本性に関する直観に由来する未来の見方としての)歴史なきマルクス主義だ。さらに、科学崇拝のないマルクス主義だ。
 解放された社会の価値が創造的活動にではなく愉楽のうちにある、そのような一つのマルクス主義だ。
 これらは全て、本来のマルクスのメッセージに関する、曲解し、歪曲した影像だ。
 マルクーゼは実際に、最も非理性的な形態での、半ロマン派的アナキズムの予言者だ。 確かに、マルクス主義はロマン派的特質を含んではいる。-前産業社会の失われた価値への、人間と自然との間の統合への、そして人間相互間の直接的意思疎通への思慕や憧憬。また、人間の経験上の生活はそれの真の本質と合致することができるし、合致すべきだ、という信念。
 しかし、マルクス主義はこうした要素以外のもの、つまり階級闘争の理論やそれがもつ科学的かつ科学主義的側面、を剥ぎ取られてしまえば、マルクス主義ではない。//
 (2)しかしながら、マルクーゼの著作の主要点は、逆のことを示す明白な証拠があるにもかかわらずマルクス主義者だと自称することにあるのではなく、我々の文明に現在すでにある趨勢のための哲学上の根拠を与えようとすることにある。その目標は、事物の本性によって描写することはできない、そのような幸福の新世界(the New World of Happiness)の啓示のために、内部からその文明を破壊することだ。
 さらに悪いことに、マルクーゼの著作から推論することのできる千年王国(millennium)の特徴は、社会は啓蒙された者たちの集団によって僭政的に支配されなければならないということだけだ。その集団の主たる資格は、ロゴスとエロスの統合を自分のうちに実現し、論理、数学および経験科学の忌々しい権威との関係を断っていることだろう。
 こうした叙述はマルクーゼの教理を戯画化したもののように見えるかもしれない。しかし、彼の著作の分析からこれ以外の何かを抽出することができる、というのは困難だ。//  
 (3)マルクーゼの思考は、技術、正確な科学および民主政体に対する封建主義的侮蔑意識に積極的内容のない漠然たる革命主義を加えた、奇妙な混合物だ。
 彼は、つぎのような文明の存在を嘆き悲しむ。
 (1) 倫理から科学を、価値から経験的数学的知識を、規範から事実を、規範的本質の洞察から普遍世界を、切り離す社会。
 (2) 「不毛な」論理と数学を生み出した社会。
 (3) エロスとロゴスの統合を破壊し、現実はそれ自体の感知されない「規準」を有することを理解しないために我々が直観でもって客観的規範それ自体と比較することができない、そのような社会。
 (4) 全てを技術的進歩に賭けてきた社会。
 こうした歪んだ社会は、知識と価値の「統合」を保持し、規範的本質を喚起することで現実を超越する弁証法によって、対抗されなければならない。
 論理や経験主義の困苦に染まっていない、この高次の知見を獲得した者たちは、この理由によって、共同社会の残余を形成する多数派に対して、暴力、非寛容および抑圧的手段を行使する資格がある。
 該当するエリートたちは、革命的学生たち、経済的後進国の識字能力のない農民層、およびアメリカ合衆国のルンペン・プロレタリアートによって構成される。//
 (4)根本的諸問題について、マルクーゼは、自分がいったい何を主張しているのかを示していない。
 例えば、人間性の真の本質は特定の直観によって明らかになる、そうではない直観によってではない、と我々はどのようにして語るのか?
 あるいは、どのモデルや規範的観念が正しい(right)ものだと、我々はどのようにして知るのか?
 これらの疑問については、答えがないし、かつあり得ない。つまりは、我々はマルクーゼとその支持者たちの恣意的な決定に、思うがままにされるのだ。
 同様に、解放された世界はどのようなものになるのか、我々には分からない。そして、マルクーゼは、あらかじめこれを描写することはできない、と明白に語る。
 我々が語られるのはのはただ、現存社会を完全に「超越」しなければならない、「グローバルな革命」を実行しなければならない、「質的に新しい」社会条件を生み出さなければならない、等々だけだ。
 抽出され得る唯一の積極的結論は、現存文明を破壊する傾向があるものは何でも全て、肯定的評価に値する、ということだ。
 例えば、つぎのように考えるべきいかなる根拠もない。アメリカ合衆国の多数の大学の中心で起こっている書籍の焼却は、プラトンやヘーゲルふうの高次の理性の名において腐敗した資本主義世界を「超越」する、そのような革命的過程を開始する良い方法ではない。//
 (5-1)科学と論理に対するマルクーゼの攻撃は、民主主義的諸制度と「抑圧的寛容」(「真の」寛容、すなわち、抑圧的非寛容の反対物)に対する攻撃と相携えて行われている。
 規範的行為や価値判断を論理的思考や経験的方法から明瞭に切り離す現代科学の基本的考え方は、実際には、寛容や自由な言論と密接に結びついたものだ。
 形式的であれ経験的であれ、科学的規準は、知識の領域を明確に画するのであり、その範囲内で、論争者は共有する諸原理を主張し、その自然の結果として、いずれの理論または仮説が受け入れられ得るものであるかの基礎について、同意することができる。
 言い換えれば、科学は思考のコード(code)を進化させ、演繹的および確率論的論理を構成してきた。そうした論理は、人間の精神に強制的に課され、承認し合う心づもりのある全ての者の間に、相互理解の領域を生み出している。
 この領域を超えたところにあるのは、価値の分野だ。そして、科学的思考の法則によっては証明不可能な一定の特有の価値が関与者たちの間で承認されているかぎりで、ここでも議論は可能だ。
 だが、科学的思考を支配する規準によっては、基本的な諸価値を有効なものにすることができない。
 こうした単純な基本的考え方をすることで、我々は、法則の適用が強いられる分野とそのような法則と相互寛容は存在しないために必要な分野を区別することができる。
 しかし、我々の思考が規範的「本質」に関する直観に従うということがかりに要求されるとすれば、そして、この条件のもとでのみ本当の思考だと称することができると宣告され、またそれが高次の理性の要求に適合するとされるだとすれば、非寛容と思考統制を宣言することに等しいことになる。特定の思想の唱道者たちは、論理的および経験的な規準についての共通する蓄積物を呼び起こせば、彼らの見解を防衛する必要がなくなるのだから。
 「不毛な」形式論理を痛罵すること(論理に関してマルクーゼの語るのはただ、不毛だということだけだ)、そして量的志向の自然科学を罵倒することは(科学についてマルクーゼは、経済学や技術について知っている以上には確実に何も知らない)、単直に無知を称揚することを意味する。
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 段落の途中だが、ここで区切る。

2049/L・コワコフスキ著第三巻第11章第4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.410-p.415。合冊版、p.1115-p.1119。 
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第4節・自由に反抗する革命(The revolution against freedom)。
 (1)インチキの必要を増大させてその必要を充足させる手段を提示する、そして虚偽の意識の呪文で多数の人々を縛る、このようなシステムから逃れる方途はあるのか?
 ある、とマルクーゼは言う。
 我々は、現存する世界を完全に「超越」し、「質的変化」を追求しなければならない。
 我々は、現実の「構造」そのものを破壊し、人々が自由のうちに要求を発展させるようしなければならない。
 我々は、(現在あるものを新しく適用するだけではない)新しい技術を持ち、芸術と科学、科学と倫理の統合を再び獲得しなければならない。
 我々は、自由な想像力を発揮し、科学を人類の解放のために用いなければならない。//
 (2)しかし、人々の多数が、とくに労働者階級が、システムに囚われて既存秩序の「世界的な超越」に関心をもたないとき、これら全てのことをいったい誰がすることができるのか?
 <一次元的人間>によると、答えはこうだ。
 「保守的な民衆的基盤のすぐ下には、浮浪者と外れ者の、異なる人種と異なる肌色の被搾取者と被迫害者の、失業者と雇用不能者の、下層界がある。
 彼らは、民主主義諸過程の外部に存在している。<中略>
 彼らがゲームをするのを拒むことから始めるということは、この時代の終わりの始まりを画しているということだ。」(p.256-p.257.)//
 (3)そして、アメリカ合衆国の人種的少数者のルンペン・プロレタリアートは、エロスとロゴスの統合を回復し、新しい科学技術を生み出し、そして形式論理、実証主義および経験論の僭政体制から人類を自由にするための、中でもとくに選ばれた人間たちの部門だ。
 しかしながら、マルクーゼは別の箇所でこう説明する。我々はまた、他の諸力を頼みにすることができる。すなわち、学生たちと経済的かつ技術的に後れた諸国の人々だ。
 これら三つのグループの同盟は、人間性の解放のための主要な希望だ。
 反乱する学生運動は、「変革のための決定的要素」だ。彼ら自体では完成させることはできないけれども(<五つの講義録>の中の「暴力の問題と急進的反対派」を見よ)。
 革命的勢力は暴力を用いなければならない。彼らは高次の正義を代表しており、現在のシステムはそれ自体が制度化された暴力の一つなのだから。
 合法的な範囲内に抵抗を制限することを語るのは馬鹿げている。いかなるシステムも、最も自由なシステムですら、自分に向かう暴力の行使を是認することができない。
 しかしながら、目的が解放であるならば、暴力は正当化される。
 さらに、学生たちの政治的反抗が性的な解放に向かう運動と結びついているのは、重要でかつ勇気を与える兆候だ。//
 (4)暴力を避けることはできない。現在のシステムは、虚偽の意識でもって多数民衆を苦しめており、僅かな者たちがそれから免れているにすぎないからだ。
 資本主義は、文化と思想の全てを同質化する手段を作り出してきた。その結果として、システムの一部に批判を変質させることで、批判を骨抜きにすることができている。すなわち、そのゆえにこそ、必要なのは暴力による批判なのであって、これはそのようにしては弱体化され得ない。
 言論と集会の自由、寛容および民主主義諸制度は全て、資本主義的価値による精神的支配を永続化する手段だ。
 従って、真の、惑わされていない意識をもつ者はみな、民主主義的自由と寛容からの解放を目指して闘わなければならない、ということになる。//
 (5)マルクーゼは、この結論を導くことを躊躇しない。彼はおそらく最も明確に、「抑圧的寛容」に関する小論でこれを述べている(Robert Paul Wolff 等による<純粋な寛容性への批判>(1964年)で)。
 彼は過去には、寛容は解放のための理想だ、と主張する。しかし今や、それは抑圧のための道具だ。多数派の同意を得て核兵器庫を建設し、帝国主義政策を追求する等々の社会を強化するために役立つとして。
 この種の寛容は、解放主義の理想に対する多数者の僭政だ。
 さらに、間違っていて悪であるがゆえに寛容であるべきではない教理や運動に対して寛容だ。
 全ての個別の事実と制度は、それらが帰属する「全体」の観点から判断されなければならない。そして、この場合の「全体」とは本来的に邪悪である資本主義システムであるので、このシステム内の自由と寛容は、それら自体が同様に悪(evil)だ。
 ゆえに、真の深い寛容は、虚偽の思想と運動に対する不寛容さを伴っていなければならない。
 「自由の範囲と内容を拡大する寛容は、つねに党派性がある(partisan)。-抑圧的な現状の唱道者に対しては不寛容だ」(p.99.)。
 「新しい社会(これは将来の事柄であるために現在とは反対のものとして以外には描写したり定義したりすることのできない)の建設が問題となっているときに、無限定の寛容を許容することはできない。
 真の寛容は、解放の可能性と矛盾したり反対したりする虚偽の言葉や間違った行為を擁護することができない」(p.102.)。
 「生存のための充足、自由と幸福自体が危うくなっている場合には、社会は無差別的であることができない。この場合には、寛容を隷従状態を継続するための道具にしないかぎりは、一定の事物を語ることぱできず、一定の思想を表現することはできず、一定の政策を提案することはできず、一定の行動を許容することができない」(同上)。
 言論の自由は肯定されるが、それは、客観的な真実を含むがゆえにではなく、そのような真実が存在し、かつそれを発見することができるからだ。
 従って、言論の自由は、真実でないものを永続ためのものであるならば、正当化することができない。
 このような自由が想定しているのは、全ての望ましい変化はシステム内部での理性的な議論を通じて達成される、ということだ。
 しかし、実際には、このようにして達成することのできるものは全て、システムを強化することに役立つ。
 「自由な社会はじつに、非現実的で叙述し難いほどに、現にある社会とは異なる。
 このような環境のもとでは、『事態の正常な行路を経て』、破壊されることなく生起するものは全て、全体を支配する特有の利益が支配する方向での改良になりがちだ」(p.107.)。
 多様な意見を表現する自由は、表現される意見は既得権益層(establishment)の利益を反映するということを意味する。既得権益層には意見を形成する力があるために。
 たしかに大衆メディアは現代世界の暴虐ぶりを描写する。しかし、無感動に、偏りを示すことなく、そうする。
 「かりに客観性が真実と何がしかの関係があるとすれば、またかりに真実は論理と科学の問題以上のものだとするならば、この種の客観性は虚偽であり、この種の寛容性は非人間的だ」(p.112.)。
 教理化されるのと闘い、解放の勢力を発展させるには、「表向き明らかに非民主主義的な手段が必要だろう。
 こうした手段は、つぎのような諸グループが行う言論や集会について寛容であることをやめる、ということを中に含んでいる。すなわち、攻撃的政策、武装、狂信的排他主義、人種や宗教を理由とする差別、を推進する者たち、あるいは、公共サービス、社会的安全、医療等々の拡大に反対する者たち。
 さらに、思想の自由の回復は、必ずや学校教育制度での教育や実務に新しく厳格な制限をもたらすかもしれない」(p.114.)。この制度の内部に囲い込まれて者たちは、本当の選択する自由を持っていないのだから。
 どの場合に不寛容と暴力が正当化されるのかを決定する資格をもつ者は誰なのか、と問われるとすれば、それに対する答えは、それをすることでどの根本教条に奉仕するか、にかかっている。
 「解放的寛容<中略>は、右(Right)からの運動に対する不寛容を意味し、左(Left)からの運動についての寛容を意味するだろう」(p.122-p.123.)。
 この単純な定式は、マルクーゼが主張する「寛容」の性格を典型的に示している。
 彼が明瞭に述べるところでは、彼の目的は独裁制を打ち立てることではなく、寛容という観念と闘うことで「真の民主主義」を達成することだ。巨大な多数派は、その心性が情報の民主主義的淵源によって歪められているために、正しい判断をすることができないのだから。//
 (6)マルクーゼは、共産主義者の見地から書いているのではなく、彼の思想が共有する「新左翼」のそれから書いている。
 共産主義の既存の形態に関するマルクーゼの態度は、批判と称賛の混合物の一つであり、きわめて曖昧で両義的な言葉で表現されている。
 彼は、アメリカ合衆国とともにソヴィエト連邦に適用されるように、「全体主義的」や「全体主義」という語を用いる。しかし一般的には、前者と比べると、後者を軽蔑している。
 マルクーゼは、あるシステムは多元主義的で、別のそれはテロルにもとづくことを承認する。しかし、この点を本質的な差違であるとは見なさない。
 すなわち、「ここでの『全体主義的』とは、テロルによってのみならず、定立された社会によって効果的な反対の全てを多元主義的に吸収することをも意味するよう、再定義される」(<五つの講義録>, p.48.)。
 「『全体主義的』とは、社会によるテロルを用いる政治的調整のみならず、与えられた利益による必要物の操作を通じて働く、非テロル的経済技術的な調整もそうだ」(<一次元的人間>, p.3.)。
 「文化の領域では、新しい全体主義は厳密には調和させる多元主義として出現するのであり、そこでは最も矛盾する労働と真実とが無関心なままで平和的に共存する」(同上, p.61.)。
 「今日では、先進的産業文明の活動過程の中に、権威主義体制のもとにはない社会は存在するのか?」(同上. p.102.)。//
 (7)要するに、テロルは、テロルとしても、民主政、多元主義および寛容によっても、いずれによっても行使される。
 しかし、テロルが解放のために用いられれば終焉に到達するだろう約束がそこにはあり、にもかかわらず、自由の形態で用いられるテロルは、永遠に続く。
 一方で、マルクーゼは、つぎの考えを繰り返して表明している。すなわち、ソヴィエトと資本主義体制は、産業化という同じ過程の類型として、ますます似たものになっている、との見方を。
 彼は<ソヴィエト・マルクス主義>で、マルクス主義の国家教理を鋭く批判し、それにもとづくシステムはプロレタリアートの独裁ではなく、プロレタリアートと農民に対する独裁の手段を用いた産業化の加速のための手段であり、マルクス主義はその目的のために歪曲されている、と主張する。
 マルクーゼは、マルクス主義のソヴィエト版が幼稚な知的水準にとどまることや、マルクス主義が純粋に実用主義的(pragmatic)な目的のために使われていることを、認識している。
 他方で彼は、西側資本主義とソヴィエトのシステムは、中央集中の増大、官僚制、経済合理化、教育の編成、情報サービス、労働の気風、生産等々の方向で、一つに収斂していく顕著な兆候を示している、と考える。
 しかしながら、一方で、彼がより大きい希望を認めるのは、資本主義よりもソヴィエトだ。ソヴィエトでは官僚制はその利益を完全には囲い込むまたは永続化することをしていないからだ。すなわちそれは、「究極的には」、抑圧による統治体制とは比較しようもない、全てに及ぶ技術的、経済的および政治的目標に対する第二次的地位を占めるに違いないからだ。
 階級を基礎とする国家では、合理的な技術的経済的発展は搾取者たちの利益と矛盾する。
 同じような状況はソヴィエト社会でも発生している。官僚制は、それ自体の目的のために進歩を利用しようとしているのだから。しかし、将来にこの矛盾は解消される可能性がある。それは、資本主義では生じないだろう。//
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 第4節、終わり。第5節・最終節の表題は<論評(Commentary)> 。

2046/L・コワコフスキ著第三巻第11章第3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.407-p.410。一部について、独訳書を参照した(文章の文法構造は、独文の方が分かり易い)。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第3節・「一次元的人間」。
 (1)しかしながら、マルクーゼはまた、必ずしもフロイトの歴史理論とは関係がなくてマルクーゼのヘーゲル研究の主題に立ち戻る用語法を使って、現代文明を、とくにアメリカのそれを批判する。ヘーゲル研究とはすなわち、人間の解放の問題に作用するものとしての、合理性に関する超越的規範だ。
 「一次元的人間」は、そのような性格の研究書だ。//
 (2)彼はこう論じる。支配的文明は、その全ての側面で一次元的だ。科学、芸術、哲学、日常の思考、政治制度、経済、および技術。
 喪失している「第二次元」は、否定的かつ批判的原理だ。-現にある世界を哲学の規範的諸観念が明らかにする真の世界と対照させるという習慣。これによって、我々は、自由、美、理性、生きる愉しみ等々の真の性質を理解することができる。//
 (3)弁証法的思考と「形式的」思考の哲学上の対立は、プラトンとアリストテレスにまで遡る。プラトンは、経験の諸客体を比較する、規範的観念の重要性を高く評価した。一方でアリストテレスは、「不毛な」形式論理を発展させ、「真実を現実から切り離した」。
 マルクーゼによると、我々にいま必要なのは、たんに諸前提の特徴ではなくて現実そのものとして存在する、真実という存在論的観念に立ち戻ることだ。この現実そのものというのは、経験的で直接に接近可能な現実ではなく、より高次の現実であり、我々が普遍的なもののうちに感知するものだ。
 普遍的なものを直観すると、我々は、非経験的だけれども、独自の態様で存在しており、かつ存在すべき世界へと到達することができる。
 「理性=真実=現実という等式において、<中略> 理性は破壊的な力、理論的かつ実践的理性として人々と事物に関する真実を措定する『否定的なものの力』だ。-つまり、人々と事物が本当にそうであるものになる諸条件だ。」
 (<一次元的人間>, p.123.)
 諸観念の真実は、「直観」(intuition)によって把握される。その直観は、「方法的知的媒介の結果」だ(同上, p.126.)。
 この真実はその性格において規範的なもので、ロゴスやエロスと合致する。
 これは、形式論理の射程を超えるものだ。形式論理は、「事物の本質」に関して何も語らず、「is」という言葉の意味を純粋に経験的な言述に限定する。
 しかし、我々が「美徳は知識だ」または「人間は自由だ」のような言述をするとき、「かりにこれらの命題が真実なのだとすれば、連結詞の『is』は、『あるべき』だという切実な要求を述べている。それは、美徳が知識『ではない』等の条件を判断しているのだ」(p.133)。
 かくして、「is」という言葉は、経験的と規範的の二重の意味をもつ。そして、この二義性は、全ての真正な哲学の主題だ。 
 あるいは、もう一度言えば、「本質的」でかつ「表面的に明らかな」真実を語ることができる。すなわち、弁証法は、本質的なものまたはこうあるべきものとそう見えるもの(つまり、事実)の間の緊張関係を維持することにある。
 従って、弁証法は、現実の条件への批判であり、社会的解放のための梃子なのだ。
 形式論理では、この緊張関係は消失しており、「思考はその客体に対して無関心だ」(p.136.)。そしてこれこそが、真の哲学はそれを超えて進展した理由だ。
 原理的に、弁証法を形式化することはできない。現実それ自体によって決定される、と考えられるものだからだ。
 弁証法は、直接的経験への批判だ。直接の経験は、事物をその偶然的な形象でもって感知し、より深くにある現実を貫きはしない。//
 (4)アリストテレスの思考様式は、直接的経験と推論の形式的規則に知識を限定するものだ。そして、全ての現代科学の基礎となって、意識的に、事物の規範的「本質」を無視し、主観的な選好の領域にとって「どうあるべきか」という問題を見逃している。
 科学とそれにもとづく技術は、人間の自然に対する支配が社会への隷属化と手を携えて進む世界を生み出した。
 この種の科学技術は、実際に生活水準を高めてきた。しかし、その過程において抑圧と破壊を発生させてきた。//
 「科学技術の合理性と操作性は、一緒になって社会統制の新しい形態へと融合した。
 この非科学的な結末は科学の社会的に特有の<適用>の結果だ、という想定に、誰が満足するだろうか?
 私は、適用された一般的方向は、実践的目的を何ら意図していない、純粋な科学に内在しているものだ、と考える。<中略>
 自然の数量化は数学的構造に関する用語によって説明を行うものだが、それは、全ての内在的目的から現実を切り離し、そしてその結果として、善から真実を、倫理から科学を、切り離した。<中略>
 ロゴスとエロスの間の用心深い存在論的連環は破壊され、科学的合理性が本質的に中立的なものとして出現する。<中略>
 この合理性の外側で、人々は価値の世界で生活するが、その価値は、客観的な現実とは切り離されて主観的なものになる。」
 (<一次元的人間>, p.146-7.)//
 (5)マルクーゼは、続ける。かくして、善、美および正義の諸観念は普遍的な有効性を剥奪され、個人的な趣味の領域へと格下げされる。
 科学は、測定可能で技術的目的に利用することができるものにのみ、関係をもとうとする。
 科学はもはや事物は何であるかを問わず、事物がどのように作動するかのみを問題にする。そして、事物が利用される目的には無関心だと宣明する。
 科学的世界像では、事物は一切の存在論的一貫性を喪失する。そして、物質ですら、ある程度は消失する。
 社会的には、科学の機能は根本的に保守的なものだ。科学は、社会的な異議申し立ての根拠を何ら提供しないのだから。
 「科学は、<それ自体の方法と観念に従って>、自然への支配が人間への支配と結びついたままの普遍世界を投射し、促進した」(同上, p.166.)。
 必要なのは、新しい、質的で規範的な科学だ。それは、「自然に関して本質的に異なる考え方に到達し、本質的に異なる事実を確立するだろう」(同上)。//
 (6)醜悪な科学は人間の隷従化をもたらすもので、その哲学的表現は実証主義、そしてとりわけ分析的哲学と操作主義(operationalism)だ。
 これらの教理は「機能的」意義を持たない、または事件を予見して影響を与えることを可能にすることのない、全ての観念を拒否する。
 しかしなお、このような諸観念は最も重要なものだ。それらは現にある世界を超越することを可能にするのだから。
 さらに悪いことには、実証主義は、全ての価値についての寛容さを説き、そうしてその反動的性格を露わにする。社会的実践や価値判断に関しては、いかなる種類の制限も許容しないのだから。//
 (7)思考に関するこのような機能的態度が支配的になるならば、社会は一次元的人間たちで構成されなければならないことになる。
 それは虚偽の意識の犠牲者となる。そして、ほとんどの人々がそのシステムを受容しているという事実は、そのことをより理性的なものにするわけでもない。
 このような社会(マルクーゼは主としてアメリカを意味させる)は、それ自体を害することなくして、全ての反抗の形態を吸収してしまうことができる。
 このような社会はまた、人間の必要(needs)という主人を満足させる包括能力がある。しかし、この必要物は、それ自体がインチキ(bogus)だ。すなわち、利益を受ける搾取者が諸個人に押しつけたものであり、不公正、貧困および攻撃を永続化するのに役立つものだ。
 「宣伝広告物に従って休憩し、愉しみ、振る舞い、身に纏うという、あるいは他人が好んだり嫌悪したりする物を嫌悪したり好んだりするという、支配的な必要物のほとんどは、この虚偽の必要という範疇に入る」(p.5.)。
 誰も、どの必要が「本当」のものでどれが虚偽であるのかを決定することができない。決定することができるのは関係個人だけであり、かつ操作や外部的圧力から免れている場合だけだ。
 しかし、現代の経済システムは、それ自体が支配の道具である自由という条件のもとで、人為的な必要を増大させるように仕組まれている。
 「諸個人に開かれている選択の余地の範囲は、人間の自由の程度を決定する重要な要素ではない。そうではなく、個人が<何を>選択するか、何が選択<されている>かを決定する」(p.7.)。//
 (8)この世界では、人々と事物は例外なく機能的役割へと還元され、「実体」と自律性を剥奪される。
 芸術も同様に、大勢順応主義という普遍的な退廃に巻き込まれる。それは、文化的価値を放棄するがゆえにではなく、現存する秩序をそのうちに取り込むからだ。
 高度のヨーロッパ文化は、かつては基本的に封建主義的で非技術的で、商業や産業から自立した領域で活動していた。
 将来の文明は、思考と感情の第二次元を生み出し、否定の精神を保持することによって、また、普遍的なエロスを元の王座に就けることによって、自立性を回復しなければならない。
 (この点でマルクーゼは、一度だけ「リビドー的文明」で何を意味させているかの実際的な例を示している。自動車の中やマンハッタンの通りででなく牧草地で愛し合う(make love)方がはるかに快適だと明記することによって。)
 新しい文明はまた、我々が知っている自由とは反対のものでなければならない。「自由の拡大は本能的な要求の拡大や発展よりもむしろ収縮を意味しているかぎりで、その自由は、一般的な抑圧という現状<に反対して>作動するというよりも、その<ために>作動するのだから」(p.74.)。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<自由に反抗する革命>(The revolution against freedom)。

2044/L・コワコフスキ著第三巻第11章第2節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.402-p.407。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第2節・現代文明批判。
 (1)経験的な人間の運命の反対物である超越的規範または規範的な「人間性」の観念を抱いているとして、マルクーゼは、我々の文明がなぜそしてどの点でこのモデルと合致できないのかを検討する。
 人類の真正な観念を根本的に決定づけるのは、「幸福(happiness)」だ。これは、自由を含み、マルクーゼがマルクスのうちに見出したと主張する観念だ。-マルクスは、実際にはこの言葉を用いなかったし、彼の著作からこの語の意味をどのようにして抽出するかは明瞭ではないのだけれども。
 我々は、人間存在は「幸福」を追求するという経験的事実に加えて、人間はそれを当然のこととして要求することができるということを承認することから、まずは始めなければならない。
 マルクーゼは、人間存在はそれを要求することができない理由を発見するために、文明に関するフロイトの哲学をその出発地点として採用する。
 彼は、過去の歴史の解釈に関するところまで広範囲にフロイト哲学を受容した。だが、未来に関しては疑問視した。
 実際のところ、フロイトは、人間存在は幸福を追い求める資格がある、または確実にそれを獲得することができる、と語るだけの法則は存在しない、と考察していた。
 本能や精神(psyche)の三段階に関するフロイト理論は-id、ego、超ego-「快楽原理」と「現実原理」の間の対立を説明するもので、文明発展全体を支配してきたものだった。
 マルクーゼは、<エロスと文明>やフロイトの歴史理論を分析して批判する三つの講義録で、この対立は必然的なのか否か、そしてどの程度にそうなのかを考究する。
 彼の議論は、つぎのように要約することができるだろう。//
 (2)フロイトによると、文明化した諸価値と人間の本能の要求との間には永遠の、避け難い衝突がある。
 全ての文明は、諸個人の本能的欲求を抑える社会の努力の結果として、発展してきた。
 エロスまたは生存本能は、生殖の意味での性的性質に限られるのではない。性的性質は人間という有機体全体の普遍的な特性だ。
 しかし、それ自体は愉楽を与えない生産的作業に従事するために、人間という種は性的経験の範囲を生殖の分野に限定し、この狭く制限された性的性質ですら最小限のものにするのが必要だと考えた。
 こうして、解放された活力の蓄積は、愉楽のためにではなく人間の環境と闘うことに向けられた。
 同じように生命上のその他の根本的に決定的な部分、Thanatos(死の本能)または死への本能も、外へと攻撃的な形態で向けられる活力が物理的性質を克服して労働の効率性を増大させることができるように、変形させられた。
 しかしながら、その結果として、文明は必然的に抑圧的な性格をもった。本能は、人間にとっては「自然な」ものではない仕事のために統制されたのだから。
 抑圧と昇華は、文化の発展の条件だった。しかし同時に、フロイトによれば、抑圧は悪意に満ちた円環の原因になった。
 労働はそれ自体が善と見なされ、「快楽原理」は労働の効率性を増大させるために完全に従属したので、人間存在は、そうした価値のために絶えずその本能と闘わなければならなかった。そして、抑圧の総量が、文明の発展とともに増大した。
 抑圧は自己推進のための機構であり、抑圧それ自体に由来する苦痛を減少させるために文明が生み出した装置は、さらに高次の程度の抑圧のための機関になった。
 このようにして、文明が生んだ利点と自由は、自由の喪失を増大させるために利用された。とりわけ疎外された労働の量が大きくなることによって。-疎外労働こそが、我々の文明が許容する唯一の種類の労働なのだ。//
 (3)マルクーゼはこの理論に着目したが、本質的な点でこれを修正した。そして、フロイトの悲観的予言に反駁するようになった。
 マルクーゼは、こう語る。文明は、抑圧された本能が発展させたものではある。しかし、それが永遠に続くことを要求する生物学や歴史学の法則は存在しない。
 抑圧の過程が「合理的」だったのは、基本的な生活必需品が稀少で、人間がその本能的活力を「不自然な」方向へと逸らすことでのみ条件を改善して生きることができる、という意味においてだった。
 しかし、抑圧なくして人間が技術によってその必要を満足させることがいったん可能になると、上のようなことは非合理な時代錯誤(anachronism)になった。
 不愉快な労働は最小限度に減らされ、生活必需品の窮乏という脅威が存在しなくなったので、文明は我々が本能に反対することをもはや要求していない。
 我々は、本能が適切な機能を果たすことを許容することができる。その機能は、人間の幸福のための一条件だ。
 「自由な時間は生活の内容になり、労働は人間の潜在能力を発揮する自由な仕業になることができる。
 このようにして、本能にかかる抑圧構造は急激に変革されるだろう。すなわち、もはや喜ばしくない労働に囚われることのない本能的活力は自由になり、エロスのように、普遍化されたリビドー的(libidinous)関係を駆動させ、リビドー的文明を発展させるだろう。」
 (<五つの講義>〔Five Lectures, Boston, 1970-試訳者〕, p.22.)
 生産は、価値そのものだと見なされるだろう。
 生産増大という悪意ある円環と抑圧の増大は、破壊されるだろう。
 快楽原理と愉楽のもつ固有の価値は実現され、疎外された労働は存在しなくなるだろう。//
 (4)しかしながら、マルクーゼは、「リビドー的文明」と本能的活力の適切な機能への回帰について語る際に、「汎性論」(pansexualism)または昇華(sublimation)の廃棄を意識してはいない。フロイトによれば、これによって、文化的創造活動で人間は、充たされない欲求を幻想的に満足させるのだった。
 自由になった活力は、それ自体が純粋に性的な形態をとるのではなく、全ての人間活動をエロス化(eroticize)するだろう。そうした活動の全ては愉楽であり、愉楽はそれ自体が目標であると承認されるだろう。
 「労働のための刺激は、もう必要がない。
 なぜならば、労働それ自体が人間の能力を示す自由な仕業になるとすれば、人々が『労働する』ように仕向ける苦痛はもはや必要とされないからだ。」
 (上掲, p.41.)
 一般的に言って、制度を通じてであれ内部化されたやり方であれ、諸個人を社会的に統制する必要は、もう存在しないだろう。-そして、制度や内部化された様式は、マルクーゼによれば、いずれも全体主義の特質だ。
 かくして、自我(ego)のいかなる集団化も、もはや存在しないだろう。生活は合理的になり、個人は再び完全に自立的になるだろう。//
 (5)マルクーゼのユートピアが示す、こうした「フロイト主義」の側面は、その全ての重要な点について不明確さを呈示している。
 フロイトの理論は、本能の抑圧は生産のために必要な活力を解放するためだけではなく、人間に特有の意味での全ての社会的生活の存在を可能にするためにも必要だ、というものだった。
 本能は、純粋に個人的な欲求の充足へと向かう。
 そして、フロイトによれば、死への本能は、自己破壊に向かって作動することもあるが、外部への攻撃へと変形されることもある。
 人間は自分が他者に対する敵となる場合に限って、自分自身に対する敵であるのをやめる。
 各人間とその仲間の人間たちとの間の永続的な敵対の根源となる死への本能をなくする唯一の方法は、その活力を別の方向へと強いて向かわせることだ。
 リビドーは、他者たる人間を性的な満足のあり得る対象としてのみ扱うので、同じように社会的なものだ。
 要するに、本能は人間社会を創出する力を、または共同体の基礎を形成する力を持っていないばかりではない。本能の自然の効果は、そのような共同社会を不可能にすることだ。
 その場合にいかにして社会は存在することができるのかという、困難な問題は別に措くとして、フロイトの見解では、既存の社会は多数の禁忌、命令および禁止でもってのみ維持することができる、ということなのだ。これらは、避け得ない苦痛を犠牲にして本能を統制下に置いたままにする。//
 (6)マルクーゼは、この問題について自説を明確にしていない。
 彼は、本能の抑圧は「現在まで」は必要だった、というフロイトに同意しているように見える。しかし、〔必需品の〕希少性の廃棄以降はそれは時代錯誤だ、と考えている。
 しかしながら、本能と文明の間の永続的対立に関するフロイト理論に反論する一方で、彼は、本能は本質的に諸個人の「快楽原理」を充足するために貢献している、という見方を、受容している。
 この見方では、「リビドー的文明」はどのようにして維持することができるのか、いったいどのような力が現在ある社会を保持することができるのか、が明瞭ではない。
 フロイトとは反対に、マルクーゼは、人間は自然的に善であって他者と調和して生活する性向をもつと、そして、攻撃は疎外労働とともに消失する、歴史上の偶然的な逸脱だと、考えているのか?
 マルクーゼはそのようには語らない。だが、フロイト主義による本能の観念や階層化を受容しているのではあるけれども、彼は明白に逆のことを示唆している。
 人類は「原理的に」十分に多数のものを有している、物質的な要求の充足について本質的な問題は何もない、と主張する点で彼は正当だとかりにしてすら、どのような力があれば、全ての本能が解放されて生来の方向へと向きを変えることが許容される、そのような新しい文明を維持することができるのか、に関しては、まだ全く明瞭でない。
 マルクーゼは、この問題については関心がなかったように見える。彼が社会に関心をもつのは、主として、社会は本能を、つまりは個人的な満足を、妨害するものだ、という限りにおいてなのだ。
 彼は、物質的な存在に関する全ての問題が解決されてきたので、道徳的な命令や禁止はもはや重要ではない、と考えているように見える。
 かくして、アメリカのヒッピー・イデオローグ、Jerry Rubin がその著の中で、今日以降は機械が全ての仕事をこなし、人々には好むときにいつでも好む場所でどこでもセックスをする(copulate)自由がある、と語るとき、彼はマルクーゼの夢想郷〔ユートピア〕の真の本質を、未熟で幼稚にではあっても、明確に述べている。
 マルクーゼによるエロチシズム(eroticism)の性質づけは、あまりに漠然としていて、何らかの感知することのできる意味を伝えていない。
 人間全体のエロチシズム化(eroticization)は、官能的快楽への彼の完璧な熱心さを除いて、何かを意味することができるのだろうか?
 ユートピア的標語には、中身が全くない。
 また、我々はつぎの点も、理解することができない。マルクーゼは、昇華を生んだ全ての要因がそれらの働きを止めた後で、フロイト主義のいう昇華行為が力を保ち続けると、どのように想像しているのか?
 フロイトによると、文化的創造活動で表現される昇華行為は、本能的欲望を幻想的にまたは代用的に充足させるものにすぎず、文明は我々が満足するのを許しはしない。
 この理論は批判することができるし、批判されもしてきた。しかし、マルクーゼはそうしようと試みはしない。
 彼は、過去の文化的創造活動はフロイトが述べるように代用物だ、だが、それにもかかわらず、そのような昇華行為を必要としなくなってもなお将来に残り続ける、と考えているように見える。//
 (7)フロイト理論に関するマルクーゼの完全な倒錯(inversion)は、前社会的実存への回帰以外には、いかなる感知し得る目的をも有していないように見える。
 むろん、マルクーゼはそのような結論を明言しはしない。しかし、彼はどのようにして、矛盾なくしてその結論を回避することができるのか、は明瞭でない。
 彼によるこの点でのマルクスへの信頼は、きわめて疑わしい。
 マルクスは、未来の完璧な社会は諸個人が自分の力や才能を直接的な社会的な力だととして扱うように構成されるだろう、と考えた。そうすることで、個人の願望と共同社会の要求の間の矛盾を除去することができるのだ。
 しかし、マルクスは他方で、本能の性質に関するフロイトの見解を支持しなかった。
 人間は本能的にかつ不可避的に相互に敵対する、しかしまた、人間の本能はお互いが平穏かつ調和してともに生きることができるように解放されなければならない、とは、誰も、矛盾することなくしては、主張することができない。//
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 第2節、終わり。次節の表題は<一次元的人間>(<One-dimensional man>)。

2040/L・コワコフスキ著第三巻第11章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進んでいる。分冊版、p.399-p.402。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義②。
 (5)実証主義というものは、哲学一般はもとより批判的弁証法哲学をさほど否定するものではないのだが(真の意味での哲学はつねに反実証主義的なのだから)、経験による事実を受容すること、そうして現実に生起する全ての状況の有効性を肯定すること、を基礎にしている。
 実証主義の観点からすると、どんな客体であれ、それを合理的に指し示す(designate)のは不可能だ。すなわち、客体は、恣意的な決定の結果であり、理性に基礎があるのではない。
 しかし、真実を探求するのが任務である哲学は、ユートピアを怖れない。なぜならば、真実は、現存する社会秩序では実現することができないかぎり、ユートピアであるのだから。
 批判的哲学は、未来へと訴えなければならない。ゆえに、事実にもとづくのではなく、理性の要求のみを基礎にしなければならない。批判的哲学は、人間の経験的状態ではなくて、人間がそうなることができるもの、人間の本質的な存在にこそ、関係しているのだ。
 実証主義は、対照的に、現存する秩序とのあらゆる妥協を是認し、社会的諸条件を判断する権利を投げ棄てる。//
 (6)実証主義の精神は、社会学によく例証されている。-特定の学派ではなくて、コントの規準に則る知識の一部門としての社会学それ自体だ。
 この種の社会学は、意識的に対象を何も限定せず、社会現象を描写する。そして、共同的生活の法則を考察するまでに進んだとすれば、現実に作動している法則を超えてさらに進むのを拒否する。
 このことから、社会学は、受動的な適応の道具だ。その一方で、批判的合理主義は、理性自体にその力の淵源をもつのであり、その力でもって、世界が理性に従うことを要求する。//
 (7)さらに、実証主義は順応主義と同じであるばかりか、全体主義的教理や社会運動の全てとの同盟者だ。その主要な原理は秩序の原理であり、権威主義的システムが提供する秩序のために自由を犠牲にする用意が、いつでもある。//
 (8)マルクーゼの主張全体が、我々は経験的データとは無関係に合理性がもつ先験的の要求を認識することができる、という信念に依拠していることは明らかだ。その合理性の要求に従って、世界は判断されなければならない。
 そしてまた、人間性の本質を我々は認識している、あるいは、「真の」人間存在は経験的なそれとは真反対のものだろう、という信念にも。
 マルクーゼの哲学は、理性の超越性にもとづいてのみ、理解することができる。但し、理性は歴史的過程のうちでのみ「明らかになる」。 
 しかしながら、この教理は、歴史的誤謬と論理的誤謬の、いずれにももとづいている。//
 (9)ヘーゲルに関するマルクーゼの解釈は、ほとんど正確に、マルクスが攻撃した青年ヘーゲル主義者たちと同じだ。
 ヘーゲルはたんに、事実をそれ自体の規準で評価する、超歴史的理性の主張者だとして提示されている。
 我々は、この点に関するヘーゲルの思考の曖昧さを、一度ならず叙述してきた。
 しかし、反ユートピア的特質を完全に無視して、ヘーゲルの教理を人間に「至福」(happiness)を達成する方途を語る超越的理性への信念へと還元してしまうのは、ヘーゲル思想のパロディだ。
 付け加えるに、マルクスをヘーゲル主義論理の範疇を政治の領域へと変換する哲学者だと叙述するのは、誤導的(misleading)どころではない。
 マルクーゼの議論は、マルクスのヘーゲル、そしてヘーゲル左派に対する批判の本質的特徴の全てを無視している。
 全ての種の権威主義的体制に対する自由の擁護者だとヘーゲルを描こうとマルクーゼは熱中して、マルクスによる、ヘーゲルの主体と叙述されたものの反転(reversal)に対する批判には全く言及していない。その反転によって、個人の生活の諸価値は、普遍的な理性の要件に依存するようになるのだ。
 だがなお、正しい解釈にどの程度に依拠しているかに関係なく、この批判は、マルクスのユートピアにとっての出発地点だった。そして、ヘーゲルからマルクスへの調和的移行を叙述するためにこの点を無視するのは、歴史を侮辱している。
 マルクーゼによる描写は、青年ヘーゲル主義やヘーゲルについての彼らのフィヒテ解釈に対するマルクスの批判を軽視することで、さらに歪んでいる。
 自分自身の哲学上の位置に関するマルクスの説明は、まず第一には、超歴史的理性の至高性への青年ヘーゲルの信念から解放されていることにもとづいていた。-これはまさに、マルクーゼがマルクスに帰そうとしている信念だ。//
 (10)このような歪曲にもとづいて、マルクーゼは、現代の全体主義的教理はヘーゲル的伝統とは何の関係もない、実証主義を具現化したものだ、と主張することができる。
 しかしながら、実証主義にいったい何があるのか?
 マルクーゼは、「事実崇拝」というラベルに同意し、その主要な構成者として、Comte、Friedrich Stahl、Lorenz von Stein、を、そしてSchelling すらも、挙げる。
 しかしながら、これは、恣意的で非歴史的な陳述を行うための、諸思想の混乱だ。
 Schelling の「実証主義哲学」は、「歴史的実証主義」と一致する名前以外には何もない。
 Stahl とvon Stein は実際に保守主義者で、ある意味ではComte だった。
 しかし、マルクーゼは所与の秩序の支持者の全てを「実証主義者」だと叙述し始める。そして、明白な事実に逆らって、全ての経験論者は、つまり理論を事実で吟味させようと望む全ての者は、自動的に保守論者だと、主張し始める。
 歴史的意味での実証主義は-Schelling とHume をほとんど区別することができないという意味とは反対に-、とりわけ、知識の認識上の価値はその経験的な背景に依存するという原理を具現化するものだ。したがって、科学はプラトンやヘーゲルのやり方で本質的なものと現象的なものの区別をすることができず、事物の所与の経験的状態はそれら事物の真の観念とは一致していないなどと我々は語ることもできない、ということになる。
 実証主義は「真の」人間存在または「真の」社会の規範を決定する方法を我々に提示してくれない、というのは本当のことだ。
 しかし、経験論は決して、現存する「事実」または社会的諸制度はたんにそれらが存在するという理由だけで支持されなければならない、と我々が結論づけることを強いはしない。それとは反対に、叙述的判断から規範的判断を帰結させるのを我々に禁止するのと同じ根拠でもって、そのような結論づけを論理的に馬鹿げたものだと見なして、明瞭に拒否するのだ。//
 (11)マルクーゼは実証主義と全体主義的制度との間の論理的連結関係を主張する点で間違っているのみならず、歴史的連環に関する彼の主張も、事実に全く反している。
 中世後半以降にイギリスで発展して人気を博した実証主義の思想は、それなくしては我々は現代科学、民主主義的法制あるいは人間の権利に関する考えを持ち得なかったもので、最初から、消極的自由や民主主義的諸制度の観念と分かち難く連結していた。
 経験主義の原理にもとづいて人間の平等という教理を設定して伝搬させたのは、また、法のもとでの個人の自由の価値という教理についてもそうしたのは、ヘーゲルではなく、ロック(Locke)やその継承者たちだった。
 20世紀の実証主義と経験論は、とくに分析学派といわゆる論理経験主義者は、ファシストという動向とは何の関係もないばかりか、例外はあるものの、全く明瞭な用語でもってその動向に反対している。
 かくして、実証主義と全体主義的政治の間には、いかなる論理的連結関係も歴史的連結関係もない。-マルクーゼの若干の言及が示唆するように、「全体主義的」という語が「実証主義」という語のもつ通常の意味とは離れた意味で理解されているのでないかぎりは。
 (12)他方で、論理的および歴史的論拠のいずれも、ヘーゲル主義と全体主義思想との間の積極的関係を、有力に示している。
 もちろん、ヘーゲルの教理は現代の全体主義国家を推奨することになる、と言うのは馬鹿げているだろう。しかし、同じことを実証主義について言うのと比べると、馬鹿さ加減は少ないだろう。
 このような推論は、ヘーゲル主義から多数の重要な特質を剥ぎ取ってこそ行うことができる。しかし、実証主義からは、このような推論を全く行うことができない。
 マルクーゼが行うように証拠を何ら示すことなく主張することができるのは、実証主義とは事実崇拝だ、ゆえにそれは保守的だ、ゆえにそれは全体主義的だ、ということなのだ。
 ヘーゲル主義の伝統が非共産主義的全体主義の哲学上の根拠としては何ら重要な役割を果たさなかった、というのは本当だ(マルクーゼは、この論脈では共産主義の多様さについては何も語らない)。
 しかし、マルクーゼがGiovanni Gentile 〔イタリア哲学者〕の事例に至るとき、彼は単直に、Gentile はヘーゲルの名前を用いたけれども、実際にはヘーゲルと一致するところは何もなく、実証主義者にきわめて近かった、と宣告している。
 ここで我々は、「正当性に関する疑問」と「事実に関する疑問」について混乱する。なぜならば、マルクーゼは、ヘーゲル主義は事実の問題としてファシズムを正当化するものとして利用された、というあり得る異論に対して反駁しようとしているのだから。
 ヘーゲル主義は不適切に利用されたと語るのは、この異論に対する回答になっていない。//
 (13)簡潔に言えば、実証主義に対するマルクーゼの批判全体は、そしてヘーゲルとマルクスに関する彼の解釈のほとんどは、論理的にも歴史的にも、恣意的な言明の寄せ集め(farrago)だ。
 さらに加えて、これらの言明は、人類の地球的解放に関するマルクーゼの明確な見解や至福、自由および革命に関する彼の思想と統合して、結び合わされている。
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 第1節は終わり。第2節の表題は、<現代文明批判>。

2039/L・コワコフスキ著第三巻第11章<マルクーゼ>①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進む。分冊版、p.396-。合冊版、p.1104-。
 第1節の前の見出しがない部分を「(序)」とする。
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 第11章・マルクーゼ-新左翼の全体主義ユートピアとしてのマルクス主義。
  (序)
 (1)マルクーゼは、1960年代遅くまでは学界の外部では著名にはなっていなかつた。その1960年代遅くに彼は、アメリカ合衆国、ドイツおよびフランスでの反乱する学生運動によってイデオロギー上の指導者として喝采を浴びた。
 マルクーゼが「学生革命」の精神的指導者になろうと追求したと想定する、いかなる根拠もない。しかし、その役割が自分に与えられたとき、彼は拒まなかった。
 彼のマルクス主義は、かりにマルクス主義の名に値するとすればだが、イデオロギー上の奇妙な混合物だった。
 合理主義的ユートピアの予言者としてのヘーゲルとマルクスを独自に解釈して、彼のマルクス主義は、「学生革命」の人気あるイデオロギーへと進化した。そのイデオロギーでは、性の自由化が大きな役割を担い、学生たち、過激な少数派およびルンペン・プロレタリアートに譲るために、労働者階級は注意が向かう中心から追い出された。
 マルクーゼの重要さは、1970年代には相当に弱まった。しかし、彼の哲学は、論議するになおも値する。その本来の長所が理由なのではなく、おそらくは一時的なものだけれども、重要な、我々の時代でのイデオロギーの変化の趨勢と合致しているからだ。
 マルクーゼの哲学は、マルクス主義の教理で成り立ち得る、驚くべき多様な用い方があることを例証することにも役立つ。//
 (2)マルクス主義の解釈に関するかぎりでは、マルクーゼは一般に、フランクフルト学派の一員だと見なされている。彼はその否定の弁証法でもってこの学派と連携し、合理性という超越的規範を信じていた。
 マルクーゼは1898年にベルリンで生まれ、1917-18年には社会民主党の党員だった。しかし、のちに彼が書いたように、Liebknecht とRosa Luxemburg の虐殺のあとで、社会民主党を離れた。それ以降、どの政党にも加入しなかった。
 彼はベルリンとフライブルク(im Breisgau〔南西部〕)で勉強して、ヘーゲルに関する論文で博士の学位を取った(ハイデガーが指導した)。
 その<ヘーゲル存在論と歴史性理論の綱要>は、は1931年に出版された。
 彼はまた、ドイツを出国する前に、その思考の将来の行く末を明らかに予兆する多数の論文を執筆した。
 彼は、それらを発表したあとですぐに、マルクスのパリ草稿の重要性に注意を喚起した最初の者たちの一人になった。
 ヒトラーの権力継承のあとで出国し、一年をスイスで過ごし、そのあとはアメリカ合衆国に移って、ずっとそこで生きた。
 ニューヨークのドイツ人<エミグレ>が設立した社会研究所で、1940年まで仕事をした。そして、戦争中は、国家戦略情報局(OSS)に勤務した。-のちに知られたこの事実は、学生運動での彼の人気を落とすのを助けた。
 マルクーゼは多数のアメリカの大学で教育し(Columbia、Harvard、Brandies、そして1965年からSan Diego)、1970年に引退した。
 1941年に<理性と革命>を刊行した。これは、実証主義批判にとくに着目してヘーゲルとマルクスを解釈するものだった。
 <エロスと文明>(1955年)は、フロイトの文明理論にもとづいて新しいユートピアを設定し、「内部から」精神分析学を論駁しようとする試みだった。
 1958年に<ソヴィエト・マルクス主義>を刊行したあと、1964年に、彼の書物のうちおそらく最も広く読まれた、<一次元的(One-Dimensional)人間>と題する技術文明に対する一般的批判書を出版した。
 他の短い諸著作のいくつかも、多くの注目を惹いた。とくに、1965年の「抑圧的寛容」、1950年代から60年代の日付で書かれてのちの1970年に<五つの講義-精神分析・政治・ユートピア>と題して刊行された一連の小考集だ。//
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 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義。
 (1)マルクーゼが継続的な攻撃対象としたのは、きわめて個人的な態様で定義する「実証主義」、(消費と贅沢への崇拝ではなく)労働と生産への崇拝にもとづく技術文明、アメリカ的中産階級の諸価値、(アメリカ合衆国をその顕著な例とするために定義される)「全体主義」、およびリベラル民主主義と寛容と結びつく全ての価値や制度だ。
 マルクーゼによれば、これら全ての攻撃対象は、統合された全体物を構成する。そして、彼は、この基礎的な統合状態を説明しようと努力する。//
 (2)マルクーゼは、実証主義を「事実を崇拝する」ものだとして攻撃する点で、ルカチに従う。実証主義は歴史の「否定性」を感知するのを妨げるのだ。
 しかし、ルカチのマルクス主義は主体と客体の間の弁証法や「理論と実践の統合」に集中していたが、そうしたルカチとは異なってマルクーゼは、理性の否定的、批判的な機能を最も強調する。理性は、社会的現実を判断することのできる規準を提供するのだ。
 マルクス主義とヘーゲルの伝統との間の連結関係を強調する点では、ルカチに同意する。
 しかし、その連結の性質に関しては、ルカチとは完全に異なっている。すなわち、マルクーゼによれば、ヘーゲルとマルクスの本質的な基礎は、主体と客体の一体化に向かう運動にではなく、理性の実現に向かう運動にある。理性の実現は同時に、自由と至福の実現でもある。//
 (3)マルクーゼは、1930年の論考で、理性(reason)は哲学と人間の宿命の間に連環を与える基礎的な範疇だ、という見方を採用していた。
 理性に関するこの考えは、現実は直接に「合理的」なのではなく合理性へと還元することができるものなのだ、という確信にもとづいて展開していた。
 ドイツ観念論哲学は、経験的現実を非経験的規準で判断することによって、理性を論証のための最高法廷にした。
 この意味での理性が前提とする自由は、人間が生きる世界を人々が完全に自由に判断することができないとすれば、それを宣明したところで無意味だろうような自由だ。
 しかしながら、カントは、現実を内部領域へと転位させ、それを道徳的な要求(imperative)にした。ヘーゲルは一方で、それを必然性という拘束の範囲内へと限定した。
 しかし、ヘーゲルの自由は、人間がその現実的宿命を自覚することのできる理性の働きの助けを借りてのみ可能だ。
 かくしてヘーゲルは、哲学の歴史上は、人間存在に自分たち自身の真実を明らかにする理性、換言すると真正な人間性の命令的要求、というものの正当性を戦闘的に擁護する者として立ち現れる。
 理性の自己変革的作用は、歴史の全ての段階に新しい地平を切り拓く否定の弁証法を生む。そして、経験的に知られるその段階の可能性をさらに超えて前進する。
 このようにして、ヘーゲルの著作は永続的な非妥協性を呼び起こすものであり、革命を擁護するものだ。//
 (4)しかしながら-そしてこれが<理性と革命>の主要な主張の一つだが-、理性は世界を支配しなければならないとする要求は、観念論の特権ではない。
 ドイツ観念論は、イギリス経験論と闘うことで文明に寄与した。その経験論は、「事実」を超えて進んだり<先験的に>合理的な観念に訴えかけることを禁止し、その結果として大勢順応主義や社会的保守主義を支持していた。
 しかし、批判的観念論は、理性は思考する主体のうちにだけ存在するものと考え、物質的で社会的な諸条件の領域へとそれを関係づけることに成功しなかった。そして、それを達成することが、マルクスに残された。
 マルクスのおかげで、理性の実現という命題は、「真の」観念または人間性の真の本質と合致する社会的諸条件の合理化という要求となった。
 理性の実現は、同時に、哲学の優越であり、その批判的機能が十分に発揮されることだ。//
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 ②へとつづく。 
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