秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

茂木健一郎

2268/「わたし」とは何か(5)。

 (つづき)
 茂木健一郎はヒト・人間という「種」を超えた「生きとし生けるもの」の「意識」の同一性を語ろうとする。ヘッケル(Ernst Haeckel)の生物発生系統図に見られるような、「生物」・「生命」への根源に至る「共通の幹」があるというわけだ。すべては、我々も、「一つの意識」が<連続変換>したものだ、というわけだ。変換=transformation。
 しかし、ここまで来ると、地球上に「生命」を誕生させた地球環境条件の生成、地球の誕生、大爆発が連続したのちの?太陽系宇宙の誕生にまで行き着くのではなかろうか。
 茂木が示唆を得ているようである<One Electron Universe >のいう<一つの電子>論に、<一つの意識>仮説も逢着するのではないか。
 こうなると、問題は「自己意識」とは何か、「わたし」とは何か、という最初の問題へと還元してしまいそうだ。茂木は、モジャモジャの髪の毛も「私」の構成要素だとし、構成要素である「記憶」と同様に変化するものだ、と言ったりしているけれども。
 そして、茂木の言う<自己意識のセントラルドグマ>をなお維持しておいてよさそうに見える。
 きちんとした論文に書いているのではなく、ネット上で語っていることでもあり、議論?はこの程度にしよう。
 但し、追記すると、茂木は興味深いことも別に語っている。
 一つは、(私は感想を書き込んで投稿したりしたことはないが)視聴者の質問・疑問等にある程度は答えたようにも感じるが、<対応する認知構造がないと理解できない>ことだ、などと論理必然性なく?語っていることだ。
 問題・主題が何であれ、たしかに、<対応する認知構造>がないと何らかの主張・見解の意味を理解することはできない。余計ながら、<意識の次元や構造>が全く異なると、そもそも議論が成立しない、意味交換をすることができない。これは世俗的にも、現実的にも、日本人どおしであっても、あり得ることだ。
 二つは、茂木が<クオリア>と<志向性(intentionality)>に目覚めたとき、と語っていることだ。なぜ気を引いたかと言うと、後者の<志向性>とは、数回前に言及したつぎの書のW・フリーマンが用いる中心概念または基礎概念らしいからだ。茂木はフリーマンの名を出していないけれども。
 ウォルター•J•フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志(産業図書、2011)。
 浅野孝雄自身の「複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性」を副題とする書物以外に、つぎの書物も入手して、少しだけ目を通した。8-9割は浅野が執筆している。2021年に、少しでも論及したい。
 浅野孝雄=藤田哲也・プシューケーの脳科学—心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。
 「プシューケー」は人名ではなくpsycho,Psycho (サイコ,プスィヒョ)のたぶん原語のようなもの、「グリア」細胞とはニューロン(神経細胞)を取り囲んでいる細胞。

2267/「わたし」とは何か(4)。

 前回(No.2265)に茂木健一郎がYouTube上の「別の回」にも述べていて、と書いた「別の回」とは(日付不明になった)一週間ほど前の<「一つの意識」仮説>というタイトルの語りのことだ。私がすでに言及した内容では分かりにくいという反応があったためか、「一つの意識」仮説(One Conciousnss Hypothesis)をあらためて明瞭にしようとしている。
 但し、さほどに明確になっているわけでもなく、すでに「私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする」と記した(No.2264)域を出るものにはほとんどなっていない。その、私の理解する趣旨を以下に書こうと思うが、概念・言葉の整理・確認しておこう。
 上にたんに「意識」という場合の「意識」とはそれ一般ではなくおそらく「自己意識」のことだ。そして、この「自己意識」について茂木が self-conciousness という語を使い、<「この「私」が「私」であるという意識>等と言い換えているように、「自己意識」=「私(わたし)」と理解しておいて、ほぼ間違いないだろう。だからこそこの欄で「わたし」に関係させて言及している。
 第三。茂木の前提は、<情報の同一性・類似性は自己・「私」の同一性>を担保せず、根拠にならない>、ということだ。脳内をコピーした別の物体?は、かりに有する情報が同一・類似であっても「私」ではない。自己に関する記憶を有していることも、根拠にならない。なぜなら、記憶は消滅し、変遷し、日々「作られて」いる。
 上の二点に異論はない。朝目覚めて「自分」だと感じるとしても、就寝前と同一の「私」ではない。茂木が言うように、寝ている間に(レム睡眠の間に)「神経結合」はたぶん変化している(Synapse Connect という語も茂木は使ったようだ)。
 しかし、上のことからロボット人間や就寝前の自分が「私」だと言えるなら、<他人>の自己意識とも同一だ、という結論は簡単には出てこない(説明不足だろう)。但し、結論的には、そのとおりだと思える。
 これを長々と叙述するのはむつかしいが、第一に、特定の「私」=自分自身の子ども・孫・曾孫に「私」が一部にせよ継承されているなら、特定の「私」もまた、父親や母親の「私」が変化・発展する可能性があった無限数の中の一つにすぎず、同じことは、祖父母、曽祖父母、…の「私」にいついても言える。つまり、遠く遡る先祖と「私」は共通性がある。とすると、現在の<他人>についても同じことが言え、結局のところ、今の<他人>とも共通する「一つの意識」を今の自分は持っていることになる。
 こういう「血」・遺伝子レベルでの「私」の継続は、ふつうは「家系」とか「一族」とか、広げても「日本人」程度の範囲でしか語られないだろうが、理屈は、日本人・日本民族以外の人間についても当てはまる。
 第二に、「血」・遺伝子に着目しなくとも、つぎのようなことが言えるだろう。
 数百億以上にのぼるだろう過去のヒト・人間は個々の個体・個人がそれぞれおそらく数千万回の可能性の中で、数千万回の選択をして(意識的か否かは別として)生涯を終えてきた。適当に数を挙げたが、かりにこれを前提とすると、今生きている我々個人のそれぞれが、数百億以上✖️数千万の可能性と何らかの選択の結果として存在している。地球上のヒト・人間の全ての、無限と言ってよい変化可能性の結果として、現在のヒト・人間も存在している。「一つの意識」のもとに我々もあるのだ。
 こんなことを茂木は考えているのではなかろうか。しかし、当たり前のようなことでもあり、凡人の拙い理解なのかもしれない。
 茂木健一郎は、ヒト・人間を超えた、つまり<種の境界・壁>(specie border )を超えた<一つの意識>を語り、犬・猫どころか、「単細胞のアメーバ」もまた<自己意識>をもちうる旨を(仮説として)語る。
 長くなったので、別の回にしよう。

2264/「わたし」とは何か(2)。

  茂木健一郎はいつからなのかYouTube上に頻繁に「語り」をupしていて、きっと全て面白いだろうが、全部には従いていけない。最近にときどき話題にして指摘している、日本の学校教育や入試制度の欠陥・問題点には、歴史的、大雑把には「人間史」的に見ても、共感するところが大だ。
 その点も重大だが、「私」なるものとの関係でも、興味深い発言が目立つ。言うまでもなく、その<脳科学>という専門分野からきている。
 12月6日のタイトルは「自己意識のセントラルドグマは正しいのか?」。
 その下に、「「私」の自己意識は、宇宙の歴史でたった一回生まれ、死んだらその後は「無」であるという考え方は正しいのでしょうか? 私のコピー人間は私と同じ自己意識? 私と他人の意識の関係は? 生まれ変わりや前世は?」とある。
 茂木健一郎は、要約を試みると、こういうことを言う。
 ——
 僕を含む人間は生まれて、死ぬ。僕の「自己意識」も一度かぎりだ。前世も後世もない。「生まれ変わり」はなく、たった一度だけの「人生」だ。
 このような理解を<自己意識のセントラルドグマ>と言うことにしよう。セントラルドグマとはある分野で疑いないものとして絶対視されているもののこと。
 僕はこれに疑問をもつが、従来にいう<前世>・<生まれ変わり>を信じるからではなく、<私は私であるという自己意識の成り立ちに関する原理的考察>をしたとき、それが<正しい科学的・論理的立場>なのかを疑問視している。
 現在の脳科学によれば脳内の神経細胞の結合パターンによって<私の自己意識>も生まれる。<外部記憶装置>はなく、その(一個人の)結合パターンの中に全てが含まれる。これをコピーするとするとその瞬間に<コピー人間>ができるが、そのコピーもまた不断に変遷していく。その<コピー人間>によって「私」も抽象的には影響を受けるだろうが、<私の自己意識>に影響するとは思えない。
 私は私であるという秘私性・自己意識に関係はない。自己意識(Self Conciousness)とは脳内の前頭葉・大脳皮質?等によるメタ認知で閉じており、<情報的な同一性・類似性>により担保されたり、影響されたりはしない。<コピー>もまた別の「自己意識」をもっていく。
 情報論としては、いっときの<情報を他にコピー>しても、<私の自己意識>を変えない。
 人生の過程の分岐点、可能性は多数あり、実際とは別の「私」が生成した可能性があるが、その「私」は今の「私」とは異なる。
 <脳の自己意識の距離(非同一性)は絶対的>だ。「壁」を越えることはできない。
 <僕の自己意識を形成している情報内容>はつねに変わっていく。自然的か、他律的にかは別として。その(神経細胞の結合パターンの変化による)情報内容の変化、「意識状態」の変化は、かつての「私」との関係では連続していて、「自己意識」と言えるだろう。
 だが、そうすると、「コピー人間」の自己意識と現実の「私」の自己意識の関係は、一定時期の「私」の自己意識が連続的に変化したものだという点では共通する。「私」と全く無関係だ、とは言えない。
 とすると、極論すれば、その関係は、現実の「私」の自己意識と今いる数百億の「人間」の自己意識、かつて歴史上にいた無数の「人間」の自己意識の関係と、原理的には同じなのではないか。
 そうだとすると、元に戻ると、「死」によって私の自己意識が消滅するとは論理的には言えず、「意識」は一個なのではないか。時空・物質も「一個の電子」だという議論と同様に。
 世界中には「一つの意識しかない」。現れ方が異なるだけだ。とすると、<自己意識のセントラルドグマ>を疑問視することができる。
 ——
 茂木にとっては不満が残る要約かもしれないが、少なくともおおよそは、こんなことを語っている。
  茂木が言及している自著を(所持はしていても)読んでいないので、どこまで理解できているかは疑問だが、私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする。これを契機として、いくつかのことを述べる。
 第一。「私」、あるいは(それぞれの人間の)「自己意識」はつねに変化している。これは、茂木健一郎が当然の前提としていることだ。
 しかし、この点が一般にどの程度共有されているかは疑わしいようにも見える。つまり、いろいろと「変化」はしたが、「私の根本」は変わっていない、「自己」の同一性は保たれている、と何となく感じている人の方が多いのではないか。
 あるいはそのように観念しないと、現実に生きていくことはできない、とも言える。
 茂木が考えているのと比べると世俗的で卑近なことだが、秋月瑛二がときどき感じる疑問の一つに以下がある。
 ある人がある年に「殺人」をしたとして、その人は(公訴時効内の)10年後に逮捕され、起訴されて、死刑判決を受けた、とする。
 被告人は、こう主張することができないのだろうか ??
 10年前の自分は今の自分ではない。別の、とっくに消滅した「私」がしたことで、今の「私」と同一ではない。なぜ異なる「私」の<責任>をとらされ、今の「私」が制裁を受けなければならないのか。
 厳密に言えば、論理的には、茂木の理解するとおり、10年前の彼と今の彼とは同一ではない。「変化」しており、上の被告人の主張は正しいと考えられる。
 しかし、現実の世俗世界で通用しないだろうのは、立ち入らないが、<そういう約束事になっている>からだ、というしかないだろう。あるいは、<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマが、世俗世界では貫かれている、と言えるのかもしれない。
 第二。いや、YouTubeの聴き取りとその要約作業があって、疲れた。別の回にしよう。

2048/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)③。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 <第10章・私は「自由」なのか?>の後半、「認識論的自由意思論」。p.302-。
 「自然法則の基本的性質」からする自由意思論に加えて、「認識論的自由意思論」なるものが提示される。この部分の方が、<哲学者>の思考にまだ近い。
 茂木によると、「自由意思」概念は、「時間」の認識と深い関係がある。
 そして相対性理論のもとでの「相対的時空観」では四次元の中に「空間」と結びついて「時間」が最初から「そこに存在」するので、「自由意思」なるものは成立し得ない。
 この「相対的時空観」は、私たちの「直感」上の「時間」とは異なり、アインシュタインの過去・現在・未来の区別は「幻想」だとの言明は「正しい」としても、この「幻想」は強固であって、この「幻想」が「自由意思」と深くかかわる。
 どのようにか。これは、つぎのように論述される。
 ・「現在」が生成して「過去」が消滅する。「現在」時点でには「未来」は存在しない。「未来」が作成されたときに「現在」は消滅する。
 上のことが意味するのは、「未来」は「現在」には存在しないからこそ、つまり「未来」は不分明だからこそ、「自由意思」が作動して「未来」の私たちの行動が決定される、ということだ。
 ・「相対的時空観」では「幻想」ではあっても、私たちの一定の「やり方」の「認識」構造がある限り、「幻想」下での「自由意思」の存在を正当化できる可能性がある。
 さらに、つぎのように展開されもする。これによると、「幻想」を前提としなくても済むことになる。
 すなわち、「相対的時空観」が最終的真理ではなく、「時間の流れ」を記述する「未来の自然法則」が存在する可能性がある。
 やや中途半端な感もあるが、これでこの辺りを終えて、茂木はさらに、①<「自己」と「非自己」の区別>、②<自由意思と「選択肢」の認識>の問題に論及する。
 ①では例えば、飛んできたボールを避けるのと「飛んできたボール」を頭に浮かべて避ける練習?をする際の「自己」の内部・外部が語られる。
 ②では、「自由意思」といってもそれによる選択肢の数や範囲は限られる、として、つきの(私には)重要なことが叙述される。
 ・「どのような選択肢が認識に上るかは、私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素にかかっている」。
 重要なのは、「どのような選択肢が認識に上るか自体を決めるのは、私たちの自由意思ではないということだ」。p.309。
 さて、適切な<要約>をしている、または<要旨>を叙述しているつもりはないが、以下が、この章での「議論」の茂木による「まとめ」のようなので、省略するわけにはいかない。p.309-p.310。
 前回に述べた大きな論脈の第一と今回の第二のそれぞれに対応して、こうなるだろう。
 第一。自由意思が存在するとしても、「アンサンブル限定」の下にある。但し、宇宙の全歴史の時間的空間的限定を考慮すると、「有限アンサンブル効果」を通して、「事実上の自由意思が実現される可能性がある」。
 第二。「認識論的自由意思論」の箇所では「自由意思」の条件を検討したが、未熟で検討課題が多い。
 以上のうえで、さらにこう書いている。p.310。
 ・「私の現時点での結論」は、現在知られている「自然法則が正しい」とすると、「自由意思」が存在しても「かなり限定的なものになる」、ということだ。
 ・「アンサンブル限定」という制約のつかない「本当の意味で自由な」「自由意思」は「存在しないと考える方」が、「量子力学の非決定性の性質、相対論的な時空観から見て、自然なように思われる」。
 さて、このように「現時点での結論」を記されても、特段の驚きはないだろう。
 「本当」のであれ、「事実上」のであれ、「自由意思」は存在する、と考える、そう観念する、ということができなくはないだろうからだ。
 それに、この書での茂木健一郎の論述は1997年時点での彼が30歳代のときのもので、体系的には(江崎道朗著などと比べてはるかに)しっかりしているが、現時点での彼や脳科学上の学問状況を反映しているとは言えないと思われる。もともとが、仮説・試論の提示なのだと思われる。
 むろん、仮説・試論の提示であっても、こうした分野に疎い「文科」系人間にとっては、脳科学の一端らしきものを知るだけでも意味があった。
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 なお、立ち入るならば、上のp.309の論述には、素人ながら疑問をもつ。
 「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」によって「どのような選択肢が認識に上るか」を決めるのは、「私たちの自由意思ではない」、と茂木健一郎は叙述している。
 的外れかもしれない。しかし、決定する時点で「自由意思」は働いていないとしても、「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」は、簡単には自分たちの「経験」等々自体が、自分たちの「自由意思」の介在が100%なくして発生したのではない、のではないだろうか。
 <自由意思>を働かせる選択肢の数・範囲が(残念ながら宿命的にも)限られているのは、おそらく間違いはない。
 しかし、その限られて発生する選択肢の範囲や内容自体の中に、なおもほんの少しは「自由意思」が介在しているものがあると思われるのだが。
 さらに、第9章<生と死と私>も、この欄で紹介・コメントする予定だ。
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 なお、茂木の原書では「自由意思」は全て「自由意志」と表記されている。はなはだ勝手ながら、「自由意志」では何となく?落ち着かないので、全て「自由意思」に変更させていただいている。

2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 9/12に全読了。計313頁。出版担当者は、松尾義之。
 <第10章・私は「自由」なのか?>、p.282~。
 まえがき的部分によると、「万能の神」のもとでも人間に自由意思があることは自明のことだったが、いわゆる「人間機械論」がこの「幻想」を打ち砕き、<人間的価値>の危機感からニーチェやサルトルの哲学も生まれた。
 ここで「人間機械論」とは、茂木によると、人間の肉体は脳を含めて「自然法則に従って動く機械」にすぎないとする論で、彼によるとさらに、「私たち人間が、タンパク質や核酸、それに脂質などでできた精巧な分子機械であるという考えは、現在では常識と言えるだろう」とされる。
 「心」も「自由意思」も、「自然法則の一部であるということを前提として」、茂木は論述する。
 単純な「文科」系人間、あるいは人間(とくに自分の?)の「精神」を物質・外界とは区別される最高位に置きたい「文学的」人間にとって、回答は上でもう十分かもしれず、以降を読んでも意味がないのかもしれない。茂木健一郎とは<考えていることがまるで違う>のだ。
 しかし、同じ人間の(しかも同じ日本人の)思考作業だ。
 読んで悪いことはない。かつまた、その<発想方法>の、「人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ」と喚いていた小川榮太郎とはまるで異質な発想と思考の方法の存在を知るだけでも、新鮮なことだ。
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 茂木健一郎の設定する最初の問いはこうだ。p.285。
 「果たして、自然法則は、自由意思を許容するか?」
 この問題は、「自然法則が、決定論的か、非決定論的か」と同じだ。
とすると、「私たちの意思決定のプロセスを制御している神経生理学的な過程、すなわちニューロンの発火の時間発展を支配する自然法則が、決定論的か、非決定論的か」ということになる。
 「ニューロンの時間発展を支配」する自然法則が「決定論的」であれば、「自由意思」はなく、「非決定論的」であれば、「自由意思」はある。p.286。
 なお、「自然法則が決定論的」であるということは、その自然法則にもとづいて私たちが将来を「知る」ことができることを必ずしも意味しない。p.287。
 現在の状態を完全に「知る」のは不可能なので、将来の状態の予測にも誤差が生じる。「カオス」だ。しかし、「カオスの見られる力学系は、時間発展としては、あくまでも決定論的」なのだ。p.288。
 このあと茂木は、「量子力学」への参照に移る。
 量子力学上は、「ある系の現在の状態から、次の瞬間の状態を完全に予測することはできない」。計算可能なのは「確率」だけで、この「不確定性」は「系自体の持つ、本来的な性質」であって、「量子力学は、本質的な非決定性を含んでいる」。
 しかし、「電子、光子」などの「ミクロな世界」について意味がある量子力学の「非決定性」を、ニューロン発火過程に適用できるのか?
 このあとの論述は「文科」系人間には専門的すぎるが、第一に「シナプスの開口放出に含まれる量子力学的な不確定性」が「自由意思」形成に関係するとする学者もいるとしつつ、茂木はそれに賛同はせず、かつ量子力学の参照の必要性は肯定したままにする。
 第二に、量子力学にいう「非決定性」というものの「性質」が問題にされる。p.292-。
 そして、茂木健一郎が導くとりあえずの、大きな論脈の一つでの結論らしきものは、つぎのとおりだ。
 ・量子力学の「非決定性」といっても、それには「アンサンブル〔集合〕のレベルでは決定論的」だ、という制限がつく。
 ・「量子力学が、自由意思の起源にはなり得たとしても、その自由意思は、本当の意味では『自由』ではない。なぜならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。」p.294。
 ・「アンサンブル限定=個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、…全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。」
・「個々の選択機会」について「その結果を完全には予測できない」という意味で、「自由意思」が存在するように「見える」が、同じような「選択機会の集合」を考えると、「決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できる。」
 ・「現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想するのは不可能」だ、というのが量子力学の「非決定性」だ。しかし、「あなた」のコピーから成る集合〔アンサンブル)全体としての挙措は、「完全に決定論的な法則で予測することができる。」p.295。
 というわけで、分かったような、そうではないような。
 「個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由ではない」(p.296.)と再度まとめられても、「自由」や「決定」ということの意味の問題なのではないか、という気もしてくる。
 もっとも、茂木健一郎は、より厳密に、つぎのようにも語る。
 ・選択機会の集合(アンサンブル)に関していうと、「現実の宇宙においては、可能なアンサンブルがすべては実現しないことが、事実上の自由意思が実現する余地をもたらすという可能性」がある。p.297。
 ・「宇宙の全歴史の中で」、「まったく同じ遺伝子配列と、まったく同じ経験」をもつ人間が「二度現れる確率は、極めて少ない」。このような「個性」ある人間による選択なのだから、ある「選択機会が宇宙の歴史の中で再び繰り返される確率は低い」。こうして、私たちの「選択」は生涯一度のみならず「宇宙の歴史の中でただ一回という性質を持つ」。とすれば、選択機会のアンサンブルの結果は「厳密に決定論的な法則」で決定されるとしても、その「選択機会が宇宙の全歴史の中でたった一回しか実現しない」のでその結果は「偏り」をもつ。しかもこれは「量子力学が許容する偏り」であり、この「偏り」を通じて、「事実上の自由意思が実現される可能性」がある。
 このあと、茂木は、現在の(1997年の)量子力学の不完全さを指摘し、今後さらに解明されていく余地がある、とする。
 さらに、もう一つの大きな論脈、<認識論的自由意思論>が続く。p.302-。
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 ここで区切る。小川榮太郎はもちろんのこと、西尾幹二とも全く異なる、人間の「自由」に関する考察があるだろう。
 1997年の著だから茂木自身の考えも、脳科学も、さらに進展しているかもしれない。
 まだ、紹介途上ではあるものの、しかし、秋月瑛二の想定する方向と矛盾するものではない。
 簡単に言えば、自然科学、生物科学、脳科学等によって、人間の「心」、「感情」、「(自由)意思」についてさらに詳細な解明が進んでいくことだろうが、人間一人一人の脳内の「自由」はなお残る、ということだ。あるいは少なくとも、いかに科学が進展しても、生存する数十億の人間の全員について、その「思考」している内容とその生成過程を完璧に把握しトレースすることは、「誰も」することができない、ということだ。
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2037/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)①。

  茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 これを10章(+終章)まで、計p.313までのうち、第3章のp.112 まで読み終えている。他にも同人の著はあるようだが、これが最初に公刊した書物らしいので、読み了えるつもりでいる。この人の、30歳代半ばくらいまでの思考・研究を相当に「理論的」・体系的にまとめたもののようだ。出版担当者は、日本経済新聞社・松尾義之。
 なお、未読の第10章の表題は<私は「自由」なのか?>、第9章の表題は<生と死と私>。
 ついでに余計な記述をすると、西尾幹二・あなたは自由か (ちくま新書、2018)、という人文社会系の書物が、上の茂木の本より20年以上あとに出版されている。佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書、2004)という書物もある。仲正昌樹・「不自由」論(ちくま新書、2003)も。
  上の著の、「認識におけるマッハの原理」の論述のあとのつぎを(叙述に沿って)おそらくはほとんど「理解する」ことができた、または、そのような気分になったので、メモしておく。
 この書には「心」の正確で厳密な定義は、施されていない。
 但し、「意識」については、G・トノーニとおそらくは同じ概念使用法によって、この概念を使っていると見られる。これを第一点としよう。詳細は、第6章<「意識」を定義する>で叙述する、とされる。
 第一。p.96(意識)。
 ・「覚醒」時には「十分な数のニューロンが発火している」から「『心』というシステムが成立する」。
 ・「一方、眠っている時(特に長波睡眠と呼ばれる深い眠りの状態)にも、低い頻度での自発的な発火は見られる。/しかし、…意識を支えるのに十分な数の相互作用連結なニューロンの発火は見られない。したがって、〔深い〕睡眠中には、システムとしての『心』が成立しないと考えられるのである」。
 これ以外に、以下の五点を挙げて、第一回のメモとする。
 第二。p.86〔第1章・2章のまとめ〕。
 ・「私たちの一部」である「認識」は、つまり「私たちの心の中で、どのような表象が生じるか」は、「私たちの脳の中のニューロンの発火の間の相互作用によってのみ説明されなければならない」。
 ・「ここにニューロンの間の相互作用」とは、「アクション・ポテンシャルの伝搬、シナプスにおける神経伝達物質の放出、その神経伝達物質とレセプターの結合、…シナプス後側ニューロンにおけるEPSP(興奮性シナプス後側膜電位)あるいはIPSP(抑制性シナプス後側膜電位)の発生である」。
 第三。p.100〔ニューロン相互作用連結・クラスター〕。
 ・「相互作用連結なニューロンの発火を『クラスター』と呼ぶことにしよう」。
 ・A(薔薇)の「像が網膜上に投影された時、網膜神経節細胞から、…を経てITに至る、一連の相互作用連結なニューロンの発火のクラスターが生じる」。
 ・「このITのニューロンの発火に至る、相互作用連結なニューロンの発火のクラスター全体」こそが、A(薔薇)という「認識を支えている」。すなわち、「最も高次の」「ニューロンの発火」が単独でA(薔薇)という「認識を支えている」のではない。
 第四。p.90-〔ニューロンの相互作用連結〕。
 ・二つのニューロンの「相互作用」とはニューロン間の「シナプス」の前後が「連結」することで発生し、これには、つぎの二つの態様がある。
 ・「シナプス後側ニューロンの膜電位が脱分解する場合(興奮性結合)と過分解する場合(抑制的結合)」である。
 ・「シナプスが興奮性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは発火しやすくなるし、シナプスが抑制性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは、発火しにくくなる」。
 ・簡単には、「興奮性結合=正の相互作用連結性、抑制的結合=負の正の相互作用連結性」。
 第五。p.102-〔「抑制性結合」の存在意味〕。
 ・「少し哲学的に言えば、不存在は存在しないことを通して存在に貢献するけれども、存在の一部にはならない」。
 ・「抑制性の投射をしているニューロンは、あまり発火しないという形で、いわば消極的に単純型細胞の発火に貢献」する。
 第六。p.104-〔クラスター全体による「認識」の意味=「末端」ニューロンと「最高次」ニューロンの発火の「時間」と「空間」、「相互作用同時性の原理」)。
 ・「物理的」な「時間」・「空間」は異なっていても、<認識>上の「時間」は「同時」で、「空間」は「局所」的である。
 ・「認識の準拠枠となる時間を『固有時』と呼ぶ」こととすると、「ある二つのニューロンが相互作用連結な時、相互作用の伝搬の間、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、…同時である」。
 ・「末端のニューロンから、ITのニューロンまで時間がかかるからといって」、私たちのA(薔薇)という「認識が、『じわじわ』と時間をかけて成立するわけではない」。
 ・「物理的空間の中で、離れた点に存在するニューロンの発火」が生じて「認識の内容が決まってくる」という意味では、「物理的空間の中では非局所的だ」。
 ・「物理的空間の中では…離れたところにあるニューロンの発火が、相互作用連結性によって一つに結びつきあって、…一つの認識の要素を構成する」。
 ・「つまり、相互作用連結によって結びあったニューロンの発火は、認識の時空の中では、局所的に表現されている」。
 ***
 注記ー秋月。
 ①「ニューロン」とは「神経細胞」のことで、細胞体、軸索、樹状突起の三つに分けられる。軸索,axon, の先端から「シナプス」,synapse, という空間を接して、別のニューロンと「連結する」ことがある。(化学的)電気信号が発生すると、軸索の先端に接するシナプス空間に「伝達化学物質」が生じて、別のニューロンと連結する=信号が伝達される(同時には単一方向)。
 ②ニューロンは「神経」のある人間の身体全身にあるが、脳内には約1000億個があり、それぞれの一つずつが約1000個のシナプス部分と接して、一定の場合に別のニューロンと「連結」するとされる。G・トノーニらの2013年著によると、約1000億個のうち「意識」を生み出す<視床-大脳皮質>部位には約200億個だけがあり、生存にとっては重要だが「意識」とは無関係の<小脳・基底核>等に残りの約800億個がある。なお、人間一人の「脳」は、重さ1.3-1.5kgだという。

2022/茂木健一郎・生きて死ぬ私(1998年)。

 茂木健一郎・生きて死ぬ私(徳間書店・1998年/ちくま文庫・2006年)
 全て読了した。文庫版で計223頁(文庫版あとがきを除く)。
 著者が33歳のときに、原書は出版されたらしい。原書の編集者は石井健資、文庫の担当編集者は増田健史。
 きわめて失礼ながら、現在70歳を超えていると思われる櫻井よしこの書物・文章や60歳近い江崎道朗の書物や文章よりも、はるかに面白い。むしろ、比較という対象・次元の問題にならない。
 面白い、というだけでは適切ではなく、「論理」があり「筋」がある。
 「論理」、「筋」や「基調」がある、というだけでは適切ではなく、ヒト・人間(そして歴史・社会)の<本質>に迫ろうとする<深さ>があり<洞察>があるだろう。
 櫻井よしこや江崎道朗等々の「作文」・「レポート」類のひどさ(・無惨さ)についてはこれからも触れる。要するにこの人たちは、例えば、「観念」・「言葉」と「現実」(・その総体としての「歴史」)の関係についての基礎的な教養に全く欠けているのだ。江崎道朗については、基礎的な<論理展開力>すらないことが歴然としている。
 ***
 脳科学者に近いところにいなくとも、専門書ではないので、現在の私には、相当に理解できる。しかし、33歳くらいのときであれば、知っても書名に関心を持たないことから、間違いなく、読もうとすらしなかっただろう。
 人文社会科学と脳科学・精神科学・生物学等に重なるところがあることは、すでに知っている。
 だからこそ、例えば、福岡伸一や養老孟司の本も捲ってきたし、池田信夫ブログの<進化・淘汰>・<遺伝>等に関する文章にも関心を持ってきた。
 「人間の心は、脳内現象にすぎない」。
 「脳内現象である人間の心とは、いったい何なのか?」
 「物質である脳に、どうして心という精神現象が宿るのか?」
 上の問いは「人間とは何か?」という「普遍的な問い」に「脳科学者として切り込んでいく」ことを意味する。
 以上はp.23までに出てくる。
 目次のうち章名だけをそのまま書き写すと、つぎのとおり。
 第一章/人生のすべては、脳の中にある
 第二章/存在と時間
 第三章/オルタード・ステイツ
 第四章/もの言わぬものへの思い
 第五章/救済と癒し
 第六章/素晴らしすぎるからといって
 以上
 下記を除いて、要約・引用等を避ける。
 要するに、ヒト・人間、こころ・精神・意識・「質感」、物質・外部、世俗・宗教、生・死等々に関係している。
 L・コワコフスキの哲学・マルクス主義等に関する書にしばしば「観念」・「意識」とか「外部」・「客体」、「主体」・「主観」等が出てくる。唯物論・観念論の対立らしきものも、勿論関係する。
 上の目次の中にある「存在と時間」はM・ハイデガーの主著の表題と同じ。「存在と無」はJ=P・サルトルの代表的書物のタイトルだ。
 「ある」、「現に存在している」とは、あるいはそのことを「感知する」・「認識する」(理解・把握等々…)とはそもそも、いったいいかなる意味のものなのか?
 あるいは「知覚」し、「認識」・「理解」・「把握」等々をするヒト・人間とは、そして究極的にはその一部である「私」・「自己」とは、いったい何なのか?
 ****
 面白いと感じた<論理展開>を一つだけ紹介しておこう。p.197あたり以降。
 ・「神が本当にいる」のなら、なぜ神は、現世の「社会的不正」、「暴力や矛盾」等を放置し、「沈黙しているのか」?
 ・「神」の存在を否認する者にはこの問いはほとんど無意味かもしれない。
 しかし、「信仰者」には「いつか神が沈黙を破るだろうという思いがある」。
 私(茂木)のような「外部」者にも「神が沈黙を破ることを望む気持ちが心の奥底にある」。
 この問題は「神の存在、不存在」に関係するというよりも「人間という存在のもつ精神性」とそれに無頓着な「宇宙の成り立ち」の間のずれに「その本質があるように思う」。
 ・「神」から啓示・メッセージを受け取ったとして、それが「悪魔」ではなくて「神」からのものであることは「どのように保証される」のか?
 「神が沈黙を破った」としても、それを受け取る人間にとつて「それが神の行為だと確実にわかる方法がない限り、意味がない」。
 上を「完全に保証することが不可能である以上、神は沈黙せざるをえない」-「そのように考えることもできるのではないか?」
 以上。
 こうした論述は、ここでもL・コワコフスキに関連させると、彼の<神は幸せか?>という小論を想起させる(この欄で試訳紹介済み。茂木はキリスト教を念頭に置いているようだが、このコワコフスキ論考は「シッダールタ」から始まる)。
 内容の類似性というよりも、<論理>の組み立て方・<思考の深さ>の程度だ(L・コワコフスキは「神の沈黙」の問題を直接には扱っていない(はずだ))。
 ----
 茂木健一郎や福岡伸一といった人々は現実・世俗世界(歴史を含む)を、とくに日本の<政治・社会>をどう見るのだろうか、という関心がある。
 本来は、あまりこうした問題に立ち入らない方が「科学」者である著者にはよいのではないかと思うが、あるいは出版社・編集者には少しは触れてもらって読者の関心を惹きたいという気分が少しはあるのではないか、という気もする(茂木著・福岡著について語っているのではない)。
 したがって、本筋からすると瑣末な問題だが、つぎの叙述があった。
 「原爆、ナチス、環境破壊、このような厄災を経験した20世紀の人々は…」。
 「…後の大江健三郎の作品は、一貫して『癒し』をテーマにしている。…20世紀を象徴するような文学的テーマを追い掛けているのだ」。p.177。
 以上は、「科学」の限界またはその行き着き先と「人間の魂の問題、広くいえば、宗教的な問題」への関心(例えばp.162)を語る中で記されている。
 1960年代後半にWe Shall Overcome で歌われたような理想社会の実現については、「今世紀のさまざまな国家、地域でのコミュニズムの失敗を見る時」、その「可能性に対して皮肉屋にならざるをえない」。だが、「不可能性が証明されていない以上、私たちは革命の可能性について希望を持ち続ける権利を持っていることになるだろう」。p.222-3。
 この辺りは多分に読者への(なくてもよい)「サービス」なのではないか、との印象もあるが…。
 この最後の段落は本当に余計かもしれない。

2019/茂木健一郎・生命と偶有性(2010年)。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書1978年、独訳書1977-79年)は、全体に関するPreface、第一巻(・創生者たち)のIntroduction に続いて、第一章(・弁証法の起源)の、見出しのない序説らしきものの後の第一節(数字つき大段落)の見出しを「人間存在の偶然性(contingency of human existence, Zufälligkeit des menschlichen Daseins)」としていた。
 <マルクス主義の歴史>に関する長い叙述の本文を、人間の、又は人間にとっての<偶然性と必然性>という主題から開始していたわけだ。
 ちなみに、その最初の段落の文章は、つぎのとおりだった。合冊版、p.12.
 「存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、現在でもそうだが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)に関する知覚だった。
 哲学的思考を刺激して作動させたこの人間の不完全さという感覚、および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。」
 ---
 茂木健一郎・生命と偶有性(新潮選書、2015年/原書2010年)。
 この書の「目次」をそのまま書き写すと、以下のとおり。
 **
 まえがき
 第一章/偶有性の自然誌
 第二章/何も死ぬことはない
 第三章/新しき人
 第四章/偶有性の運動学
 第五章/バブル賛歌
 第六章/サンタクロース再び
 第七章/かくも長い孤独
 第八章/遊びの至上
 第九章/スピノザの神学
 第十章/無私を得る道
 あとがき
 **
 茂木健一郎とは「脳科学者」として知られる人物だが(1962~)、この書の構成・見出しだけからしても、「生命と偶有性」をタイトルとするこの書は「哲学書」でもあるのではないか。
 「まえがき」の中にはこんな一文がある。
 偶有性とはまた、「現在置かれている状況に、何の必然性もないということ」だ。「たまたま、このような姿をして、このような素質をもち、このような両親のもとに生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた」。
 「そのような『偶有的』な存在として、私たちはこの世に投げ出されている」。
 わざわざ引用するほどの珍しい感覚または認識では全くないだろうが、上のようなことを忘れてしまって、当面・直面する、とりあえずの<自分の役割>を果たそうとするだけに終始している人々も多いだろう。
 また、自分がヒト・人間であり、「偶有性」があることも完全に忘却して、当面・直面する<文字のつながる文章作成>作業、つまりは「言葉」世界での加工業にいそしんでいる、とりわけ<文学>畑の評論家類もいるに違いない。 
 やや唐突だろうが、「論壇」人であり、あるいは思想家・哲学者であるためには、「論ずる」こと、思考することも<脳内作業>であること、各人の神経細胞(ニューロン)の連続的「発火」作業であることを、深いレベルで知覚しておく必要があると思われる。
 ----
 L・コワコフスキに戻ると、この人はときどき<人間のMisery>という句を用いている。
 勝手な読み方だが、このMisery=悲惨さ、というのは、特定の地域・時代でヒト・人間として生まれることは「偶然」であり、いつか「必然」的に「死」があること、そしてそれまで生きて「意識」をもち続ける間は<食って>、脳・心臓等々を動かしていかざるを得ないこと、といった意味を含んでいるのではないか、と思われる。
 ちなみに、上の「目次」の中にある「スピノザ」は、L・コワコフスキの最初の研究論文(・研究書)の対象人物だった。
 精神医学者(精神病理学者)と「哲学」研究者の対談が成立していることは、この欄の№1856(2018年10月14日)の精神医学者かつ「臨床哲学」者・木村敏に関する項で言及している。

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