秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

立花隆

0277/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その6。

 10番目ということにしておくが、立花隆という人は、内容のない罵詈雑言的言辞を好む品性の物書きのようだ。
 私自身もかなり批判的な言葉を使うこともあるので完全に他人事にすることはできないが、立花の表現技術?もなかなかのものである。
 月刊現代8月号p.44によれば、彼のいう「自明の理が見えない政治家は愚か」で、「自明の理が見えずに改憲を叫ぶ政治家は最大限に愚か」で、「金の卵を産む鵞鳥の腹を裂いて殺してしまう農夫と同じように愚か」である。この「愚か」というのは、立花隆お得意の批判の言葉のようだ。相手を見下して、<莫迦>と言っているわけだ。
 こうも言う-「いまの改憲論者のほとんど」は「安倍首相も含めて」、「憲法に関して基本的知識をちゃんと持ち、深くものを考えた上での改憲論者というよりは、頭の中が軽くて浅いだけの軽佻浮薄な改憲論者か、時の勢いに安易に乗るだけの付和雷同型の改憲論者と思われる」。
 本人は気持ちよく書いているのかもしれないが、論理も内容もないこうした殆ど罵倒だけの文章は、改憲論者に対して何の影響も与えないだろう。少なくとも私に対してはそうだ。
 私から見れば、立花隆こそが、「憲法に関して基本的知識をちゃんと持ち、深くものを考えた上での」護憲論者ではない。彼が「頭の中が軽くて浅いだけの軽佻浮薄な、「時の勢いに安易に乗るだけの付和雷同型の」護憲論者である可能性も十分にある。護憲論、とくに九条護持論は巷に溢れており、その中には「軽佻浮薄」あるいは「付和雷同」的なものも多いからだ。
 ところで立花隆は「いずれ軽佻浮薄派と付和雷同型が多数を占めて、憲法改正が実現してしまう日がくると私は見ている」とやや唐突に書いている(p.45)。
 これは一体何だろう。この人が「私の護憲論」を書いているのは憲法改正を阻止したいからではないのか。だとすれば、かりに内心思っていても、こんな予想を書くべきではないのではないか。
 この文を見て、立花隆という人は、歴史又は政治の当事者では全くなく、安全な場所に身を置いて社会を論評する、無責任な評論家だとあらためて感じた。結局は、現実がどうなってもよい、あれこれと自由に論評でき、駄文を綴れる自由があればよいとだけ考えている、歴史という舞台の鑑賞者にすぎないのではないか。
 第一一に、立花隆は憲法九条が「占領軍の押しつけではなく、日本側の発案でできたものだということを明らか」にする、という。
 ここでの「日本側」とは幣原喜重郎のことで、マッカーサーと二人での密室の会談において幣原が提案したという、これまでも語られた又は主張された歴史上の理解の一つだ。但し、支配的見解ではない。
 さて、幣原がかりに提案したのだとしてもそれを「日本側」の発案と表現するのは厳密にはおかしい。内閣の承認を受けた内閣総意の発案ではないし、国会の多数派の意見でも(天皇の意見でも)ないからだ。
 そんなことよりも、そもそも、憲法九条が「占領軍の押しつけではなく、日本側の発案でできたものだということを明らか」にすることによって、立花隆は何が言いたいのだろうか。
 <押しつけ>られたのではなく「日本側の発案」によるものだから、現在及び今後いっさい改正してはならない、ということなはならないことは明らかではないか。
 このことをじつは立花隆も認めている。日経BPのサイト上の連載コラム「改憲狙う国民投票法案の愚・憲法9条のリアルな価値問え」において、立花自身がこう書いていたのだ(今年4月)。
 「
憲法9条を誰が発案したかについては、いまだに多くの議論があり、いずれとも決しがたい。参照すべき資料はすでに出尽くした感があり、いまつづいている議論は、どの資料をどう解釈するかという議論である。同じ人物の同じ発言記録をめぐって、そのときその人がそう発言していたとしても、その真意はこうだった(にちがいない)というような形で、いまだに延々と生産的でない議論がつづいている。
 
私はそのような議論にそれほど価値があるとは思わない」。
 「いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく(究極の解明は不可能だし、ほとんど無意味)、9条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである」。
 立花隆は月刊現代誌上で、自らつい最近に「生産的でない」とか「それほど価値があるとは思わない」と書いた議論を展開するつもりのようだ(まだ終わっておらず、9月号へと続く)。
 私は幣原発案説は採用し難いと考えている。だが、そんなことよりも、幣原発案説の正しさを論証しようとし、かつかりに論証し得たとして、一体何に役立つのか。立花隆自身が4月に述べていたように、「大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく」、9条の現在・今後の存在意義ではないか。
 立花隆は月刊現代の誌面を無駄に費しそうだ。
 なお、このブログでも既述だが、憲法<押しつけ>論に対しては、国民主権原理の明記や基本的人権条項のいくつかは「日本側」の私的な研究会(鈴木安蔵らの「憲法研究会」)の案がかなりの影響を与えた、あるいは採用されたとの議論があり、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006)がほぼ全面的にこのテーマを扱っており、実教出版の高校「政治経済」教科書にまで書かれている(執筆はおそらく浦部法穂。6/14参照)。
 立花隆はなぜか、こちらの方には関心はないようで、「憲法全体は基本的に押しつけだったのに、どうも問題の憲法九条だけは…」(p.49)という書き方をしている。
 立花の議論は、どうやら、かなりムラがありそうな気もがする。せっかくの「日本側」の鈴木安蔵らの「憲法研究会」案には一切の言及がないのだから。
 月刊現代9月号発売は先のことになる。とりあえず「嗤う」シリーズはこれで終えておこう。
 立花隆、老いたり、の感が強い。

0276/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その5。

 立花隆「私の護憲論」を嗤う、を続ける。対象は月刊現代7月号から8月号(講談社)に移る。
 すでに書いた(批判した)ことなので新しい番号は振らないが、立花隆はこの号でも「日本を世界一の成功国家にした「戦後レジームの国体」とは何であるか。それは、昭和憲法そのものである。なかんずく憲法九条がもたらした国家的リソースの配分のゆとりが、戦後国家日本を成功にみちびいた最大要因」と反復している。
 戦後レジームと日本国憲法の同一視という論理的誤謬をも含むこのような信仰又は<迷信>に嵌ってはいけない。
 「憲法九条がもたらした国家的リソースの配分のゆとり」という部分には、二重の欺瞞が隠されている。
 一つは、正規の軍隊を持った(西)ドイツも韓国も戦後に「成功」した国家の一つと言えるからだ。
 二つは、憲法九条にもかかわらず、立花自身ものちに触れている自衛隊(←保安隊←警察予備隊)が存在し、それに一定のリソースを割かざるを得なかったという事実、及び米軍の駐留経費も相当部分を負担してきたという事実だ。これらを全く無視して立花は論を進めている。
 そして、上に引用した部分のことを<自明の理>とまで言い切っている。失礼ながら、上品ではないが、アホか、と言いたくなる。
 日本の<繁栄>・<成功>の原因は、前回に書いたとおりだ。立花隆の文章を借りれば、前回に私が書いたような「自明の理が見えない立花隆は愚かである。この自明の理が見えずに改憲反対を叫ぶ立花隆は最大限に愚かである」。この<立花隆>の部分に、憲法九条(二項)のおかげで平和と繁栄を達成できたという理由で九条(とくに二項)絶対護持を主張しているどなたを入れても構わない。
 さて、嗤いたい点の第八はつぎのことだ。立花隆は、改憲論の中に「環境権」や「知る権利」を加えたらよいとの加憲論があるが「「環境権」も「知る権利」も、いまさら憲法を改正しなくても、すでにとっくに現行憲法の枠内で十分に認められている」と書く。
 私は大いに嗤いたい。
 立花隆なら知人に弁護士(又は裁判官)も多数いるだろう。その法律専門家に尋ねていただきたい、「環境権」も「知る権利」も、現行憲法の枠内で十分に認められている>か、と。ふつうの専門家であれば、否、と答えるに違いないのだ。
 民事上の「環境権」存在の主張・学説はあるかもしれないが、裁判例は民事上の「環境権」などは一度も認めてはいない(公法上も)。「知る権利」も同様で、憲法によってではなく、情報公開法(法律)や情報公開条例によってはじめて情報開示請求権が認められた、と解されているのだ。憲法(たぶん13条)から直接に導かれる権利とは、せいぜい<私事権(プライバシーの権利)>くらいではないか。
 抽象的・理念的に憲法が援用される程度では「権利」性を語るには十分ではない。
 この上の記述によって、立花隆は自分では憲法・法律に詳しいと思っているのかもしれないが、じつは<法律の素人>であることがよく分かる。
 第九に、立花隆は、憲法を改正しなくても、「自衛隊は憲法違反の存在ではない」と明言する。そして、自衛隊法という「組織法」がちゃんとあり、「毎年約五兆円にも及ぶその存在を支える資金も、毎年の国会審議を経た上で、国家財政から出ている」、「自衛隊は堂々たる合法存在である」と言ってくれている。
 上の方で引用した成功の原因としての「国家的リソースの配分のゆとり」とここで言う「毎年約五兆円
」がどういう関係に立つのか気になるところだが、そして「毎年約五兆円」くらいならまだ「ゆとり」はある(あった)とでも説明しておいてほしいところだが、この問題には言及はない。
 それはともかく、立花隆が「法制局」まで持ち出して言っていることは、要するに、政府解釈と同じく、自衛隊は、憲法九条二項でいう「陸海空軍その他の戦力」に該当しない、ということだ。立花隆においては、今日までの政府の言い分と同じく、自衛隊は「軍」又は「戦力」ではない(それ以外の)「実力」組織なのだ。
 私は、自衛隊は「軍」・「戦力」ではないというのは、きちんと憲法改正されて正規に自衛軍が持てるまでの、<戦後レジーム>の<大ウソ>の最たるものだと考えている。
 世界で有数の上位国となる「毎年約五兆円」の国費が支出され、20万人以上の隊員がおり、迎撃ミサイルも保有している「実力」組織は、常識的にみれば、疑いなく「軍」・「戦力」だろう。
 立花隆は改憲=九条二項の削除による「自衛軍」の認知に反対するために、これまではむしろ政府側がついてきた<大ウソ>に乗っかっているとしか思えない。
 1960年に20歳になった立花隆は、学生としておそらく所謂60年安保反対のデモに参加しただろう。その頃、彼は自衛隊は憲法九条に違反する違憲の組織と考えていなかっただろうか(旧日本社会党は、日本共産党もだが、違憲と主張していた)。その立花隆は考え方を改めたように思われる。いつの頃からかは興味の湧くところだ。
 自衛隊を自衛軍として正規に「軍」・「戦力」と認知するためには、姑息な解釈(「大ウソ」つき)によるのではなく、憲法改正>現九条二項の抹消が必要だ。従って、少なくともこの部分についての改憲は、立花隆がいう「「必要性の誤信」にもとづく」「軽々の変更」(p.44)にはあたらない。<つづく>

0273/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その4。

 立花隆月刊現代7月号上の「護憲論」批判を続ける。
 前回からの続きで第五に、立花は、1962年に南原繁が憲法制定過程への不信の発生を予言していた等と高く評価している(p.43)。
 具体的な問題はさておき、立花隆による南原繁の肯定的評価は、同じ彼による<戦後レジーム>の肯定的評価と両立できない、矛盾するものだ。
 南原繁は、1950年5月に吉田茂首相によって「曲学阿世の徒」と揶揄されたが、それは南原が所謂<全面講和>論を唱えた一人だったからだ。<全面講和>論とはソ連や中国との国交回復を伴う、これらの社会主義国をも含めて<講和>すべきとする論で、多数の自由主義国との<講和>による再独立を急いだ吉田茂内閣の方針に反対するものだった。
 しかして、<戦後レジーム>とは何か。立花隆はこの語について詳細な又は厳密な意味づけをしていないので分かりにくいが、日本の<戦後レジーム>の基礎にあるのは、あるいは日本の<戦後レジーム>の前提条件は、日本が自由主義諸国の一員となり、資本主義経済の国として生きていく、ということだろう。
 南原繁が真に日本が社会主義国になることを願っていたかどうかは分からない。しかし、彼を含む<左翼>的又は<進歩的>知識人は、<全面講和>論を主張して、客観的にはソ連や中国の利益になる、少なくともこれらの国に対して<媚び>を売ることをしたのだ。
 ということは、南原繁は、日本の再独立後のそもそもの<戦後>のスタートに際して、現実に築かれた<戦後レジーム>には反対していたのだ。
 一方で南原繁を高く評価し、他方で<戦後レジーム>も肯定的に評価する。これは、大いなる矛盾だ。論理的にも、決定的に破綻している。立花隆が<戦後レジーム>を肯定的に評価するのならば、少なくとも南原繁らの<全面講和>論を厳しく批判しておくべきだ。こうした批判の欠片も語らない立花隆が、知的に誠実な人物とは思えない。<戦後レジーム>を基本的な点で担ったのは、南原繁らとは異なる、別のグループの、現実的かつ良識的な人びとだったのだ。
 ちなみに、岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP文庫、2003。初出2002)p.366はこう書く-「日本のいわゆる進歩的文化人のあいだでは中ソを含む全面講和論が高まっていた。…振り返ってみると、やはりソ連共産党-日本共産党-共産党前衛組織-進歩的文化人というつながりによって、日米講和反対というクレムリンの政策が日本の言論に反映される仕組みになっていたのであろう。…当時の共産主義勢力としては当然やるべきことはやっていただろうことは推察にあまりある。…全面講和論というのは、日本を自由主義陣営の一員として安全に保つという吉田構想による平和条約をつぶすということである」。
 
第六に、これは批判ではなく検討課題として残したい点だが、立花隆は新憲法下の最初の国会開会直後にマッカーサー司令部は憲法「修正」の必要性を「日本政府側に確認して」いるが、「衆議院も参議院も再改正の必要はないとちゃんと回答しているんです」と記述している。
 いったん成立し施行された日本国憲法の改正をGHQも認めていたのに、従って、改正の機会はあったのに、日本側が放棄したのだ、と言いたいように読める。
 上の事実について立花が何を典拠にしているかは分からない。しかし、<再改正の必要なし>との回答は十分にありうるし、非難されるべきものではない。
 なぜなら、GHQの占領が継続している限りはその政策の範囲内でしか憲法改正ができなかっただろうことはほぼ明らかなことで、講和=主権回復を待ってから<自主>的に憲法を改正しようと政府あるいは両議院は考えていたとすれば、それは適切なものだったと思える(現に1955年結成の自由民主党は「自主」憲法制定を謳った)。
 なお、岡崎久彦の上の著p.218-9によると、日本国憲法公布後の1947年1月3日にマッカーサーは吉田茂宛書簡で「憲法施行後一、二年ののち、憲法は公式に再検討されるべきであると連合国は決定した」と通告した、という。また、芦部信喜・憲法第三版(東京大学出版会、2002)p.29にも「極東委員会からの指示で、憲法施行後一年後二年以内に改正の要否につき検討する機会が与えられながら、政府はまったく改正の要なしという態度をとった」との記述がある。
 立花隆が上に書く憲法施行後初の国会開会直後の話は、岡崎の著や芦部の著には出てこない。さらには、 芦部信喜・憲法学Ⅰ(有斐閣、1992)にも、大石眞・日本憲法史〔第二版〕(有斐閣、2005)にも、立花隆が上に書いたような新国会開会直後の話は記載されていない。
 いずれにせよ、1947年1月の段階で将来の憲法改正の可能性を語られても、その時に占領が解除されているかどうかが分からない状況では、岡崎も示唆しているように、吉田茂はいかんとも反応しようがなかっただろう。
 第七に、立花隆は南原繁が国民投票の提案をしていたとし、「そのとき国民投票を行って日本国民の意思を確認していたら、文句なしに、当時は新憲法支持者が圧倒的という結果が出たでしょう」と書いている。
 問題なのは「そのとき」とはいつか、だ。立花はその前に1962年の南原繁の論文から一部引用しているので1962年だとすると、上のように「文句なしに」という結果が出たとは全く考えられない。自主憲法制定(九条改正)を党是とする自民党が第一党だったのであり、国民投票は過半数で決するのだとすると、「確認」ではなく「否認」決定が出た可能性だって十分にある。
 国民投票については上に岡崎久彦著に関して触れた1947年1月3日のマッカーサー書簡も、連合国が必要と考えれば「国民投票の手続を要求するかもしれない」と書いていたようだが(岡崎p.219)、国民投票で「文句なしに」新憲法支持が「圧倒的」に示され得たのは、占領期間中か、法的な疑念を回避するためという目的をもって政府が主導した場合の主権回復直後すみやかな時期(1952年秋くらいまで)ではなかろうか
 その後はとくに鳩山一郎内閣成立以降、憲法改正をめぐっての対立が続き、改憲派が過半数ではなく発議に必要な2/3の議席を獲得できない状況が続いて数十年間は終熄したのだ。
 立花隆は「そのとき」がいつかを明確にしないまま、国民投票をすれば「新憲法支持者が圧倒的」だっただろう、などと書くべきではない。時期によれば、これはとんでもない誤りである可能性が十分にあるというべだ。

0272/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その3。

 立花隆の月刊現代7月号上の「護憲論」批判を続ける。
 第三に、立花隆は現憲法が「押しつけ」られたものであることは簡単に肯定し、「押しつけられた」おかげで「歴史上最良の憲法」を持っている、とする。そして、「この憲法のおかげで」「戦後日本というレジームは、日本歴史上最大の成功をおさめ」た、「安倍首相は、戦後レジームをネガティブに捉え、これを根本的に変革」しようとしているが、「戦後レジームこそ、数千年に及ぶ日本の歴史の中で最もポジティブら捉えられてしかるべきレジームだ」とする(p.40-41)。別の箇所から同趣旨を反復すれば、「日本国憲法、とくに憲法九条がつくりだした戦後レジームをなぜそれほどまでに高く評価するかというと、それはこの憲法が、…歴史上最も繁栄させてきたからです。戦後レジームこそ、日本の繁栄の基礎だったからです」。
 さて、ここでの立花の議論の特徴は、<戦後の繁栄>←日本国憲法←とくに九条という単純な思考によっていることだ。九条関係は次に触れることとして、次のような疑問がある。
 第一に、歴史を全面的に又は100%、是か非に評価することはできない。安倍首相もまた、立花が上に言うようには<戦後レジーム>を全面的に又は100%否定しようとしているとは思われない。立花隆には<戦後レジーム>がもたらした日本国家・日本社会・日本人に対する問題点・課題等々が一切見えていない(少なくとも一切記述がない)。彼は全面的に又は100%、<戦後レジーム>を肯定しているのだ。こんな大まかな議論をして、よくぞ評論家・文筆業と名乗っていられるものだと感じる。
 第二に、戦後レジームと日本国憲法をほとんど同一視しているのも特徴だ。憲法の定めに関係なく、又は憲法に制約されない範囲内で、人びとの生活や国家活動がなされうることをこの人は看過している。
 万が一<戦後レジーム>を全面的に又は100%肯定するとしても、そのことは日本国憲法(とくに九条)を全面的に肯定的に評価することには、論理的にも、ならない。憲法外的に又は憲法の範囲で形成されてきた<戦後レジーム>もあるのだ。
 第三に、かりに戦後日本が日本の歴史の中で最も「繁栄」していた(この「繁栄」の意味を立花は詳細には述べていない)ということを認めるとしても(かりに、である)、そのことは<戦後レジーム>を維持すべきであるとの結論には、論理的にも、全くつながらない。
 なぜなら、<戦後レジーム>が今日までで「最もポジティブ」に捉えられるべきレジームだったとしても、そのことは、より高い又はより大きな「繁栄」を将来において導く、<よりよいレジーム>の存在を否定することには全くならないからだ。
 一般的に言って、いかなるレジームにも<賞味期限>があるだろうし、<制度疲労>も生じているだろう。<戦後レジーム>の悪しき部分又は問題点を改めて、新しい時代に対応する<よりよい21世紀レジーム>づくりを目指すべきだ
 立花隆の文章に横溢しているのは、見事な「保守的」気分だ。<戦後>は良かった、今後も維持したい、という、それだけの気分だ。
 現在の日本が抱える国際・国内の具体的問題・課題を忘れて、きわめて大雑把な、きわめて大まかな議論を展開しているにすぎない。
 第四に、立花隆は憲法九条のおかげで軍事費を少なくすることができ諸リソースを民生用に回せたことが、戦後の「未曾有の経済復興と経済成長による国家的繁栄をつくった」、とよく見かける議論を展開している。
 この俗論が誤りであることは、すでに何回か触れたことがある。この議論によるならば、憲法九条二項のような条文を憲法に持たず正規軍を有しているドイツや韓国や、さらにはアメリカもフランスも<経済的繁栄>をしていない筈だが、立派に<繁栄>しているのではないか。軍隊をもつドイツも韓国も、「未曾有の経済復興と経済成長」を遂げた、と言いうるのだ。
 経済的繁栄と軍事費の間には、ほとんどの場合は有意の関係はない。但し、旧を含む社会主義国においては、軍事費の負担が大きすぎて崩壊した国もあったし、崩壊寸前である国家もある。
 立花隆は「この憲法のおかげで…平和のうちに繁栄を続けている」と述べている。但し、立花は、自衛隊という<軍隊まがい>のものがあり、それに世界各国中で上位の費用支出がなされていることには全く言及していない。まるで<実質的軍事費>が戦後一貫してゼロだったかの如き書き方だ。防衛省・自衛隊の存在を考慮せずして、軍事費のなさを経済的繁栄を簡単に結びつけることのできるとは、すばらしく大胆な論理展開だ。
 上の自衛隊の点は別としても、立花隆は、日本人であるなら、次のことくらいは常識として知っておいてほしい。
 戦後日本の平和は、憲法九条(とくに二項)によるのではなく、核兵器を保有してにらみ合った両大国間の冷戦体制、そして日米安保体制のおかげだった。日米安保がなかったならば、日本国憲法の条文がどう書いていても、ソ連軍又は中国軍による<侵略>を受けただろう。あるいは<間接侵略>、すなわち、ソ連共産党や中国共産党と意を通じた勢力が日本の政権を握って、<日本人民共和国>ができ、社会主義的な憲法に変わっていた可能性もある。
 経済的繁栄もまた憲法九条(とくに二項)とは関係がない。ドイツ・韓国の例による反証は上に既に書いたが、「繁栄」という言葉を使うなら、日本が所謂「西側」、自由主義陣営に属して、同じ自由主義諸国に大量に良質の製品を輸出できたからこそ、経済的に「繁栄」できたのだ。むろん日本人(民族)の誠実な努力、独特の技術力や会社経営の仕方等も「繁栄」に寄与しただろう。
 立花隆には戦後の歴史がきちんと「見えて」いるのだろうか。憲法(とくに九条二項)のおかげで「繁栄」した、などという謬論、いや<大ウソ>をつかないで欲しい。自らの声価を将来において決定的に落とし、侮蔑の対象となる原因になるだけだろう。

0271/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その2。

 立花隆による月刊現代7月号(講談社)の「護憲論」の嗤うべき点の指摘を続ける。
 前回に続けていうと第二に、立花隆は「たしかに、最終案を煮詰める過程は二週間ほど」だが、「その過程に入る前に、実は数年間にわたる先行研究があるんです」と書く(p.38-39)。
 まるで憲法草案の作成作業が数年間にわたって行われた如くだが、彼の表現を使えば、数年間にわたる先行研究の対象は、戦後の「日本の体制をどう変えればいいか」、「戦争が終わったらどうするか」なのだ。その中に、新しい憲法草案の起草が含まれている筈がない。立花自身がそのように理解されるのを注意深く避けつつ、しかし、そのように誤解されてもよいようにも書いてあり、かなり巧妙な文章になっている。わずか一週間(立花のいう二週間ですらない)で条文原案作りがなされたということを立花隆すら、隠したいのだろう。
 GHQ側の憲法改正の内容に関する考え方が明瞭に示されたのは、松本蒸治委員会案が新聞で報道されたあと、1946年2/03のマッカーサー・ノートによる「三原則」だろう。それは、1.天皇制度の存置、2.戦争放棄、3.封建遺制の排除だった。この時点までは、GHQはこれらの基本的考え方以上の具体的な草案などは全く用意していなかった。立花隆の上の文章はこの点を誤魔化すものだ。
 なお、立花は現憲法三章の「基本的人権の部分は、非常によくできた部分であって、国際的にも評価が高い」としし、さらに現憲法97条を特筆して重要な条文だと言っている。
 考え方の違いになるが、初めて日本国憲法の内容を知ったとき(小学生高学年か中学生だっただろう)、私が一番違和感を持ったのは97条だった(「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」)。というのは、他の条項はそれぞれ何らかの内容を持っているのに、この97条は「基本的人権」一般の性格を述べているだけで、かつ国民の<心構え>をお節介にも述べているように感じたからだ。今の時点で言えば、これは<美しい作文>であるとの疑問を持ち、自然法による、又は自然権としての基本的人権という考え方にも違和感を持った、ということかもしれない。
 この条文の内容を「人類の共有財産」・「人類共通の遺産」等と高く評価する立花隆は、「人類」の中に全アジア・全アフリカ、イスラム圏の人びとも含めているはずだが、その点は措くとしても、多くの憲法学者とともに、<美しいイデオロギーに嵌っている>。

0269/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その1。

 立花隆とは、2年前の中国での反日デモが、日本での1964年東京五輪を前にした1960年安保改定反対の国民的盛り上がりに相当するものと<直感的に>捉え、北京五輪を前にした中国の経済成長段階が日本の1960年頃に達していることの表れとも書いた、その程度の評論家に少なくとも現在は堕落している。
 日本の過去と共産党支配の中国の経済成長段階とを単純に比較しようとする立花隆の感覚は、私の<直感>からして、まともな、冷静なあるいは論理的な評論家・文筆業者ではない(又は、なくなっている)ことを明瞭に示している。
 その立花隆が、月刊現代7月号(講談社)以降に「私の護憲論」なるものを連載している。大いに嗤わせてくれる論文?だ
 立花隆は安倍内閣成立時にも昨年8/15の南原繁関係のシンポジウムの原稿をほとんどそのまま用いて、大部分を南原繁のことに費し、最後にその南原繁の基本的考え方と異なるとする安倍首相を批判するという、タイトルと中身が相当に異なる「安倍晋三「改憲政権」への宣戦布告」と題する論文?を月刊現代の昨年10月号に載せていた。
 今回の護憲論も5/6の講演「現代日本の原点を見つめ直す・南原繁と戦後レジーム」を加筆・修正したもののようだ(p.43の注記参照)。元々はタイトルに<憲法>も<護憲>も入っていないのに、立花隆も出版元の講談社も、講演記録の焼き直しを「護憲論」と銘打ってよくぞ書き、書かせると思うが、昨年のものよりは内容が憲法に相当に関係しているので、まぁ許せる。
 だが、月刊現代のために書き下ろした文章ではないことは確かで、立花隆という人は、こういうふうに一つの原稿をタネにして二度も三度も同じようなことを喋り、執筆して、儲けているわけだ。
 さて、最初の10頁は私には退屈だったというだけだが、妙な記述が10頁めを過ぎると出てくる。以下、嗤いたい点を列挙する。
 第一に、安倍首相が4/24に「現行憲法を起草したのは、憲法に素人のGHQの人たちだった。基本法である以上、成立過程にこだわらざるを得ない」と発言したのを<安倍首相「素人」発言の不見識>との見出しののちに紹介し、「それは全然違うんです。あの草案を作ったのは、全部法律の専門家です。それこそハーバード大学の法科大学院を出て、法曹資格をとり、プロの弁護士をしてきたような連中が陸軍の内部にちゃんと法務官として在職していたわけです」と反論している。
 安倍首相の発言は適切だ。
 立花隆よ、ウソをつくな
 私は4/09にこう書いた。<古関〔彰一〕・新憲法の誕生〔1995、中公文庫〕によれば、民政局行政部内の作業班の運営委員4名のうちケーディス、ハッシー、ラウエルの3名は「弁護士経験を持つ法律家」だった。/小西〔豊治〕の著〔憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006)〕p.101はホイットニー局長と上の3名は「実務経験を持つ法律家」でかつ「会社法専門の弁護士」という点で共通する、ともいう。「会社法専門」でも米国では問題は広く(州)憲法に関係するとの説明も挿入されている。
 九条護持論者のこの二人の本に依っても、あの草案を作ったのは、全部法律の専門家」などとはとても言えない。運営委員4名のうち3名が「弁護士経験を持つ法律家」だったのであり、1名は異なる。
 さらに、<米国では問題は広く(州)憲法に関係する>とされつつも3人ともに「会社法専門の弁護士」だったと小西著は明記している。そして私はこう書いた。
 <上の二冊を見ても、GHQ案の作成者は法律実務家(当時は軍人)で、米国憲法の基礎にある憲法思想・憲法理論の専門家・研究者でなかったことは間違いない。ましてや基本的にはドイツ又はその中のプロイセン(プロシア)の憲法理論を基礎にした当時までの日本の憲法「思想・理論」を熟知していたとはとても言えない。そしてもちろん、日本の歴史・伝統、天皇制度や神道等々の日本に独自のものに対する十分な知識と理解などおそらくは全くないままに、草案は作られたのだ。米国の!弁護士資格をもつ者が草案作成に関与していたことをもって「まともな」憲法だと言うための根拠にするのは、いじましい、嗤われてよい努力だろう。
 あらためて別の本を参照してみると、百地章・憲法の常識/常識の憲法〔文春新書、2005)p.にはこう書かれてある。
 「草案の起草にあたった民政局のスタッフは、総勢二十一名、アメリカのロ-スクールを出たエリート弁護士等はいたものの、憲法の専門家は含まれていなかった」。
 これによると、民政局行政部の憲法担当幹部の中にはたしかに米国のロ-スクール出身者はいたが、憲法の専門家ではない。また、彼ら以外には、上の「総勢二十一名」の中にロ-スクール出身者はいなかった、というのが実態だ。草案作りの最初の作業をしたのはまさに「法律の素人」の者たちであり、幹部又は上司の中にいたのも、
「会社法専門の弁護士」ではあっても<憲法の専門家>でなかった。「法律の専門家」と<憲法の専門家>とはむろん同じではない。「法律の専門家」であれば<憲法>に関しても専門家だろうというのは、それこそ<素人>判断だ。
 それに、上のかつての私の文章でも指摘しているように、米国の法律等を勉強した米国の法律家が、どれほど的確に又は適切に、歴史も文化も異なる日本の憲法草案を起草することのできる資格があったのか、極めて疑わしい、と言うべきだろう。
 また、中川八洋・正統の憲法/バークの哲学(中公叢書、2001)p.204にはこう書かれてある。
 現憲法の第三章の基本的人権等の諸規定と第十章の97条(これは元来は第三章の一部だった)の「原案は、憲法の素人ばかりのたった三名が書いた。主任がロストウ中佐〔秋月注-法律家とされる上記の三名に入っていない〕、次が…H・E・ワイルズ博士、三人目がベアテ・シロタ嬢であった」。
 重要な<国民の権利及び義務>(現在の章名)について草案諸規定を起草したのは「法律の専門家」では全くない。なお、ベアテ・シロタは百地著によると当時22歳、中川著によると5歳~15歳の間日本に滞在していて語学力が買われ、タイピストとして雇われていた(という程度の)人物だ。
 立花隆よ、<あの草案を作ったのは、全部法律の専門家ですという大ウソをつくな。この辺りの見出しは<立花隆「素人」記述の不見識>が適切だ。
 なお、メモ書きをしておくが、日本政府内に憲法問題調査委員会が作られ(委員長は松本蒸治国務大臣・商法学者)、1945年12/08に松本四原則を発表ののち1946年2/08に改正案を
GHQに提出したが、拒否された。松本改正案の内容を事前に察知していたGHQは1946年2/03にホイットニーに対して草案起草を命じ、一週間後!の2/10に草案(マッカーサー草案)を完成させ、2/13に日本政府に<突きつけた>。  *つづく* 

0227/竹内洋による立花隆批判-「レッテル貼り」だけ。

 月刊・諸君!7月号佐藤優=竹内洋「いまなぜ蓑田胸喜なのか-封印された昭和思想」という対談がある。佐藤優は名前はよく知っているがその本を読んだことはない。一方、竹内洋(京都大学教育学部→関西大学文学部)は、精読とまではいかないだろうが何冊か読んだことがあり、この人は<信用できる>と感じている。
 そういう先入観もあるからだろう、蓑田胸喜の評価又は読み方について、竹内洋が(佐藤優も)実質的に立花隆を批判しているのが興味深かった。
 立花隆・天皇と東大(文藝春秋)は簑田のパンフの文章を見て「真正の狂人」と書いているらしい。
 竹内洋はいわく-「たしかに簑田の文章は過剰で過激かもしれないけれど「狂人」とは思えませんね。だったらアジビラ作成者やアジ演説者はなべて「狂人」となります」。
 立花隆は上の本で蓑田を「精神障害者」と「断定」して「非常に低レベルの知識人であると断じている」らしい(竹内による)。
 竹内洋はいわく-「理論の方向はたしかに問題があるかもしれませんが、彼の知的水準はかなり高い」。
 これに佐藤優も応援して言う-「立花さんのように蓑田を「狂人」としてしまうと、すべての議論はそこで終わってしまう
」。
 
竹内洋が重ねていわく-「立花さんのやっていることは、蓑田はとんでもない奴だと言っているだけです。それだけでは、蓑田と蓑田的なるものにレッテルを貼って封印するだけになってしまう」。
 最後に、立花隆は蓑田の終戦直後の「自殺」は「精神がおかしくなったからだという書き方をしている」らしい(竹内による)。
 竹内洋はいわく-「私が思うに彼は縊死するかたちで責任を取ったんだと思います」(p.133)。
 立花隆・天皇と東大は文藝春秋に連載中に一部は読んだだろうが、本を買う気はないし、読む気もない。
 4/27に書いたが、同氏は
日経BPのサイト内の4/14付けコラムを、「9条を捨てて『普通の国』になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである」と結んでいる。
 立花隆という人は気にくわない人や論調をかかる簡単な言葉で<切り捨てる>趣味があるようだ。それが進めば、<レッテル貼り>、しかも「精神障害者」・
「狂人」との<レッテル貼り>で済ませることにもなってくるのだろう。
 いずれにせよ、少なくとも近年の立花隆の議論の仕方は正常ではない。竹内洋等を通じて間接的に知ったのみだが、上の本もどうやら、冷静な分析・考察の本ではなさそうだ。
 立花隆なら、こう書いてもきっと許すだろう。-立花隆の大脳の中の知性・理性・論理を掌る脳細胞は、急速に劣化し、腐食してきているのではないか。

0187/立花隆は社会主義中国・北京大学で特別講義ができる。

 やや古いが、立花隆イラク戦争・日本の運命・小泉の運命(講談社、2004.06)という長い題名の本の目次を見て、中身を概観すると、奇妙な気分になる。この本は当時から約1年間前までに月刊現代(講談社)に彼が書いたものを中心にまとめたものだが、「日本の運命・小泉の運命」と題するにもかかわらず、北朝鮮問題には一切の言及がない。また、中国の脅威・危険性への言及もない
 中国については「躍動する中国経済」との見出しで、むしろこの国の経済成長を肯定的に語っている。かつ、その部分を含む論稿は北京大学での特別講義を元にしているようだ。中国の北京大学で講義ができるということは、立花隆は中国当局=中国共産党に信頼されている人物であることを明瞭に示している。
 この人には中国の現状を客観的に直視する資格・能力はないのでないか。従ってまた、中国問題でもある北朝鮮問題への関心を彼は全く示さないのだろう。講談社や月刊現代編集者は立花に日本を軸とした社会時評を期待しているとすれば、再検討した方がよいだろう。
 殆ど同じ頃に出た櫻井よしこ・このまま滅ぶな、日本-論戦2004(ダイヤモンド社、2004.07)は当時から約1年半前までに週刊ダイヤモンド・週刊新潮に彼女が書いたものをまとめたものだが、北朝鮮問題は勿論、中国に関係するSARS問題や台湾問題に言及があり、教育・国立大学法人化・道路公団問題等々も広く扱っている。立花の本とどちらが優れているかは、歴然としている。

0157/立花隆は「厚顔無恥」にも詫び・訂正を明示せず<こっそり>修正した。

 これまた些か古い話題だが、私にはきわめて興味深かったことなので、記録に残しておきたい。立花隆という人物がいかほどの人物なのかを、ある程度は示しているように思う。
 昨年の11/23のことだが、日経BPのサイト内の立花隆のエッセイ連載記事に入ってみると、「踏みにじられた教育基本法審議」という11/17付のコラムが掲載されていた。
 残念ながら保存しなかったが、そこには、明らかに、<教育基本法改正案につき衆院で与党が単独採決したのは参院が審議・議決しなくても30日経てば(衆院議決のままで)自然成立するのを待つためだ>、との旨が書いてあった。
 この記述内容の中核、すなわち、<参院が審議・議決しなくても(衆議院議決から)30日経てば衆院議決のままで法律は自然成立する>、というのは、明確な誤りだ。憲法59条~61条を見て確認すれば、すぐに分かる。
 おそらく立花隆には、60年安保の際の記憶が鮮明すぎて、条約と法律の区別がついておらず、衆議院が議決すれば条約は参議院がなくとも衆議院議決後30日経てば批准される、という条約の場合と混同していたのだ。
 cf.「61条 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。」
 「60条第二項 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。」
 さすがに、日経BPの編集部は誤りに気づいていたようで、「編集部注」として正しい内容が11/23の時点で記されてあった。
 cf.「59条第二項 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。」
 ところが何と、11/25に再び同じ立花隆の同じエッセイ欄を見てみたら、「よく知られているように、…参院の審議内容がどうあれ、それが審議時間切れで衆院に戻されても、法案は再び衆院の3分の2以上の賛成があれば可決してしまうからである」と、本人の訂正の言葉は一片もなく、日付を変えることもなく、憲法規定の正しい内容通りに実質的に修正されていた。
 細かな憲法規定の知識に関することだが、上のような訂正を<こっそり?>としておいて、「よく知られているように」とはよく書けたものだ、と思った。「よく知って」いなかったのは、立花隆自身ではないか。これが他人の場合なら、立花隆は、<厚顔無恥>という批判の言葉を浴びせかけたのではないか。

0098/立花隆の現憲法論(つづき)と国民投票法反対姿勢。

 立花隆の現憲法九条に関する考えは前回に紹介したところだが、同じコラムの中で、憲法全体については、「押しつけ」られたことを肯定しつつ、こんなことを書いている。
 「押し付けの事実と、押し付けられた憲法の中身の評価は自ずから全く別である。押し付けられた憲法は、グローバルスタンダードから見ても立派な憲法であり、グローバルスタンダードからみて全くの“落第憲法”である松本草案などとは全く比較にならない。
 松本(蒸治)草案について立ち入ることはしない。立花が「グローバルスタンダードから見ても立派な憲法」と内容を評価していることが(九条も含めて)憲法改正反対の理由とされていることが窺える。
 だが、実証的資料の紹介は省くが、自衛「戦力」・自衛「交戦権」を否定する(と解釈される場合の)九条二項は、当時のグローバルスタンダードでは決してなかった筈だ。そして、立花は、グローバルスタンダードよりも「進んだ」又は「理想に近づいた
」条項と理解しているものと推察される。
 ここで対立が生じる。そもそもそのように肯定的に評価してよいか、という基本問題だ。例えば、二日前に入手した小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)は、「無効」とする12の理由(成立過程、内容、成立後の政治・教育に三分される)のうちの10番め(内容面の二つめ)の理由として、九条二項は国家の「自然権」を剥奪しており「自然法または条理に違反していること」を挙げている(p.128)。
 私は後者の<自然法論>を単純に支持はしないが(それに、上の理由は九条二項の「無効」理由でありえても現憲法全体の「無効」理由になるか、という問題もある)、いずれにせよ、この九条二項の評価が、それも現時点の現実をリアルに見たうえでの評価が(「現実」を規範より優先させよとの趣旨ではない)、憲法(とくに九条二項)の改正に関する賛成と反対を分けることになるのだろう。
 さらに追記すれば、立花隆のコラムのタイトルは「改憲狙う国民投票法案の愚/憲法9条のリアルな価値問え」だ。
 前半に見られるように、彼は国民投票法案にも「改憲狙う」ものとして反対しているわけで、与党案の内容を問題にして反対した民主党とは異なる立場に立っている。そして、現在まで60年間不存在のままの憲法改正国民投票(手続)に関する法律の制定それ自体に反対している共産党・社民党と同じ見解の持ち主だ。
 立花隆という人物を評価するとき、上の点も看過すべきではなかろう。

0097/立花隆は主題と無関係点を長々と書いて突如として結論に向かう。

 私の憲法に関する「立ち位置」は、今のところという留保を慎重に付けてはおくが、安倍晋三首相と同じだ。
 自民党案に全面的に賛成するわけではなく、「9条の2」というような<枝番号>付きの条項を挿入しないで、新たに条数は振り直すべきだと思うし、その他にも気になる改正条文案はある。
 しかし、今の日本国憲法を有効な憲法と見つつ、その改正(とくに九条)を希望し、主張する点では、安倍首相と何ら異ならない。
 改憲に賛成するのは、現在の国際状況も理由の一つだが、また現憲法の「成り立ち」にはかなり胡散臭いところがあるからでもある。安倍首相はしばしば、現憲法は「占領下」に作られた、憲法を「自分たちの手で書きあげる」といったフレーズを用いているが、推測するに、主権が大きく制限されていた時期に作られた憲法には(無効とまでは言わないにしても)そのこと自体に大きな問題があることを示唆しているように思う。
 このような基本的考え方は、おそらく、(勝手に名を出して恐縮だが)八木秀次、百地章らの(少数の?)憲法学者とも共通しているだろう。本を読んだことがないのだが、西修も挙げてよいかもしれない。それに、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の多数の方とも同様だろう。
 というわけで、私はとりあえずは自分の「立ち位置」を全く疑っていない(かかる「立ち位置」を「日本国憲法」無効論の立場から批判したい者は、私などよりも、八木秀次、百地章、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の各氏、さらには現憲法の有効性を前提として改正案をとりまとめた自民党、憲法改正国民投票法案に賛成している自民党等の国会議員全員、そして安倍晋三首相・安倍内閣閣僚全員を「攻撃」していただきたい)。
 かかる「立ち位置」に反対で、九条を護持しようとするのが日本共産党が重視している「九条の会」等だが、立花隆も九条護持論者だ。
 立花隆は、日経BPのサイト内に4/14付の「改憲狙う国民投票法案の愚/憲法9条のリアルな価値問え」と題するやや長い論稿を掲載している。
 もっとも7分されているうちの6までは、九条発案者は幣原喜重郎かマッカーサーかという問題にあてられ、幣原発案説に傾斜したかの如き感想を述べつつ、自ら長々と書いたくせに「私はそのような議論にそれほど価値があるとは思わない」、「いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく…」と肩すかしを食わせている。
 そして最後の7/7になってようやく「憲法9条のリアルな価値問え」という本論が出てくるのだが、その全文はこうだ。
 「条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである。/そして、9条をもちつづけたほうが日本という国家の未来にとって有利なのか、それともそれをいま捨ててしまうほうが有利なのかを冷静に判断することである。/私は9条があったればこそ、日本というひ弱な国がこのような苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた根本条件だったと思っている。/9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。あるいは、かつてのソ連ないし、かつての中国ないし、北朝鮮といった日本を敵視してきた国家の侵略を受けていただろう。/9条を捨てることは、国家の繁栄を捨てることである。国家の誇りを捨てることである。9条を堅持するかぎり、日本は国際社会の中で、独自のリスペクトを集め、独自の歩みをつづけることができる。/9条を捨てて「普通の国」になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである。
 この文章は一体何だろう。最後の最後になって、結論だけを羅列し、その根拠、論拠は一切述べていないではないか。これでよく「評論家」などと自称できるものだ(「知の巨人」なんてとんでもない。末尾の、異見者への「ただのオロカモノ」との蔑言も下品だ)。
 過日、九条のおかげで平和と繁栄を享受した旨の呉智英の産経上のコラムを、中西輝政の議論を参照・紹介して批判したことがあるが、かつて「知の巨人」だったらしい立花隆も、平然と(かつ根拠・論拠を何ら示すことなく)「9条があったればこそ」、「苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた…」と書いている。かかる九条崇拝?はどこから出てくるのだろう。
 かつて書いたことを繰り返さないが、カッコつきの「平和」と「繁栄」は憲法九条ではなく、日米安保条約、それも米軍が持つ核兵器によって生じ得た、というのが「リアルな」認識だと思われる。
 立花氏はまた奇妙な文も挿入している。-「9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。」
 この文の意味と根拠を、どこかで詳論して欲しいものだ。私にはさっぱり理解できない。
 ともあれ、九条二項の削除を含む憲法改正を実現するためには、立花隆氏のこのような議論?を克服していく必要がある。また、影響力のある論者が書いていることには注意を向けていなければならない。
 毎日新聞の4/26付社説は、集団自衛権行使不可との憲法九条解釈によってこそ「戦後、日本は戦争に巻き込まれず平和を守ることができたという主張は根強い」と書いている。これは憲法九条自体ではなくその「解釈」にかかわることだから、立花隆の論よりはまだマシだ。
 それに同社説は、「一方でこの制約は日米安保体制や国際貢献活動の上で、阻害要因になっているという指摘がある」と続けていて、立花隆の論調よりもはるかに冷静で公平だ。
 「首脳会談で集団的自衛権の解釈変更や憲法改正が対米公約になるような踏み込んだ発言は慎んでもらいたい」とも書いているが、かかる指摘自体に大きな問題があるとは思われず、某朝日新聞の社説に漂う「やや狂気じみた」、又は「奇矯で、感情的な」雰囲気と比べれば、少なくともこの社説は、遙かに良い。
 朝日新聞がこの程度まで「冷静に」又は「大人に」なってくれればいいのだが(…だが、無理だろう)。

0091/立花隆とは何者か。知の巨人では全くない、「戦後民主主義」の凡人。

 1980代には、立花隆(1940-)の本をよく読んだ。文庫本になっていたものはたぶん全て読み、いくつか単行本も買っていた(田中角栄裁判関係等)。その後、彼が脳死やら臨死体験とかについて書き出してからはほとんど読まなくなっていった。時評的なものは何冊か買ったし、一時期は彼のサイトを「お気に入り」に登録してときどきは覗いていたような気もする。
 しかし、昨年に立花隆・滅びゆく国家(講談社、2006)を一瞥(正確には一部を熟読)して、驚きつつ、<これはいけない>と思った。
 この人の問題点は、基本的には、第一に、共産党および同党が支配する中国についての認識が甘すぎる、第二に、かつての日本についての、彼が大方の日本人に欠けている(そして自分こそ正しくもっている)とする「歴史認識」があまりに単純すぎる、ということだろう。もう少し具体的に書いてみる。
 第一に、立花の上の本173-7頁はいう。2005年年05月の中国の「反日」デモを知って、日本の「60年安保から70年安保にかけて」の日本の世相と「そっくり」だと「直感的に感じた」、中国人青年の「反日」デモを見て「基本的に反米」だった当時の日本の青年たちを思い出す。ある程度「生活にゆとり」ができてこそデモあるいは「民族的大爆発」が生じやすいのだが、日本の「60年安保」はそれで、最近の中国も「大まかな状況」としては「似ている」。また、中国でも?「学生運動」が歴史的に重要な役割を果たした旨もいう(p.188-9)。
 中国の「反日」デモを知って、こんな馬鹿な印象を記述するのが立花隆という人物なのだった。バカも休み休み…と言いたい気持ちになる。
 まず、今の日本ですらそうだが、中国のデモに届出又は許可が要るのは当然で、かつ中国においてこそ厳しく事前に取り締まられていることは殆ど常識だろう。そして中国の「反日」デモの発生が自然的なものでなく当局の積極的許容があったことは疑いなく、さらには証拠は出にくいだろうが、「唆し」があった、要するに「官製」だった(だからこそあれだけの大規模になった)とも十分に推測できる。この点ですでに、日本政府が積極的に許容又は動員したのではない「60年安保から70年安保」のデモとは違うのだ。
 一昨年秋の小泉靖国参拝の際に一つも「反日」デモはなかったようだし、安倍内閣発足以降も「反日」デモの報道はない。これは、デモ自体が中国政府当局に「管理」されている証左だろう。
 第二に、あとの叙述もふまえると、立花は中国が現在経済成長又は発展期にあって日本の60年代あたりの段階に相当しているという印象を持っているように読める。
 しかし、資本主義国・日本と中国共産党支配の中国とをそうやって比較すること自体が間違っている。市場経済を導入した社会主義と言っても社会主義国でなくなったわけでも、自由・民主主義等の理念を共有できる国になったわけでもない。この、基本的・根本的な社会体制の差違を無視して、一時的・表面的な経済の動向でもってのみ両国の時代的発展の段階を比較しようとする試み自体が馬鹿げている。
 また、そもそも中国の「経済発展」は幻で、いずれ中国共産党の支配は終了する、との予測も少なくなし、私もそう予測している。ソ連型社会主義と同じく中国型社会主義もまた失敗するのではないかとの予想は十分に成り立つが、立花は今の調子?で「成功した」社会主義国が実現するとでも考えているのだろうか。
 立花隆は戦時中の中国で生まれたらしく、平均的知識人以上に中国のことを知っているつもりなのかもしれないが、それは幻想にすぎないようだ。また、何らかの「愛着」を中国に対して感じるのは自由だが、それによって、現実を見る目を曇らせてはならないだろう。
 第三に、1940年05月生まれの立花はおそらく大学生として「60年安保」のデモや集会に参加したことがあるのだろう。それはそれでよいが、「60年安保」闘争は学生・市民も参加していたとはいえ、社会党・共産党等の、「革命」を目指していた、親ソ連・親社会主義の団体を中核とした「闘争」だった。樺美智子もまた、共産主義者同盟=ブントという政治団体の積極的構成員(もともとは日本共産党員でのちに離党)だった。
 民主主義擁護という側面も最終盤では出てきたし、反米民族主義という側面もむろんあったのだが、中核的運動家にとっては「反米」は親ソ連・親社会主義を意味し、社会主義へとつながる「革命」への一歩として「60年安保」闘争は位置づけられていたはずなのだ。そのような闘争と昨年の中国の「反日」デモの、どこに類似性・相似性があるというのか。
 いずれも親社会主義的という点で共通しているかもしれない。だが、日本のかつてのそれは、資本主義国内での、経済成長が始まった時期の安全保障政策をめぐる、基本的には資本主義ではなく社会主義を目指す方針をもつ団体を中核とする運動だったのに対し、中国のそれは社会主義国内の、安全保障政策とは無関係の、政権党=共産党の主張に沿った特定の資本主義国・日本を攻撃しておく運動だ。繰り返すが、どこに類似性・相似性があるというのか。
 また、今振り返ってみて、親ソ連・親社会主義を中核理念としていた60年の闘争又は運動は<善>あるいは<正義>だった、と総括してよいのか、という基本的疑問がある。立ち入らないが、あの「60年安保」闘争はその後の日本に<悪い>影響を与えた、と私は考えている。
 第四に、188-9頁に国共合作に踏み切らさせたのは「学生運動だった」と書いてある。反論できる資料は手元にはないが、はなはだ眉唾ものだ。冷徹な毛沢東の判断、そしてコミンテルン又はコミンフォルムの強い働きかけ又は勧告があったというのが、より正しいだろう。
 第五に、立花は小泉首相(当時)に対して、中国・韓国へのひざまずいての「ドイツ」式謝罪も要求している(p.204等)。杜撰にも中・韓の区別もしていないが、この人は、戦後補償・「謝罪」に関する日独比較の基本文献を読んでいないのでないか。
 第六に、皇室問題では愛子様、女系・女性天皇を支持する(p.112-)。執筆時期から見て宥恕の余地はあるが、しかし、皇太子夫妻が第二・第三子を望まれるなら「高度生殖医療技術の利用に正々堂々と踏み切るべきだ」、「不妊治療に踏み切れば、対外受精で…妊娠することはほとんど約束されているとほとんど知人夫妻にでも言うがごとく「助言」するに至っては、どこかおかしいと私は感じた。
 立花がわざわざ書かなくても必要な検討は夫妻ご本人たちこそが考えておられるのでないのか。上のように活字で明記してしまう感覚は、国家・国民統合の「象徴」に対する敬意の欠落の表れだろう。さらに言えば、おそらくは天皇・皇室という「非合理」なものを「国民の総意」で廃止したいというのが彼の本音だろうと推測される(大江健三郎と同じだ)。
 最後に、立花は教育基本法の改正にも憲法の改正にも反対の旨を明言している。勝手に推測するに、「戦後民主主義」のもとで立花(橘隆志)は十分に「成功した」、今のままでよい、という「保守的」気分があるのでないか。現教育基本法の条文を抜き出してこれで何故いけないのかと問う姿勢からは、(中国には存在しない)表現の自由、「個人主義」、反体制的風潮の存在の容認といった「戦後」の恩恵を彼は十分に受けたと感じていることを示しているように思われる。
 以上のような点は、この本と同様に月刊誌・週刊誌等への連載寄稿をまとめた、櫻井よしこの『この国を、なぜ愛せないのか』(ダイアモンド社、2006.06)と比べてみるとよく分かる。
 北朝鮮・拉致問題への言及が立花本には一切なく!、櫻井本には当然にある。精読していないが、立花本には(小泉は靖国参拝で中国を「挑発」するな旨言うくらいだから)中国批判、将来の中国への憂慮を示すフレーズは全くないのでないか。
 某書籍ネット販売サイトのこの本に関するカスタマーレビュー」の見出しだけをいくつか挙げてみても、「立花隆にしてこれか」、「真に滅びゆくのは誰?」、「知の巨人?」などがあった。それぞれ私も同感する。
 立花隆はまた、月刊現代2006年10月号に、「安倍晋三に告ぐ、「改憲政権」への宣戦布告」と題する一文を巻頭に掲載している。
 殆ど読まないこの雑誌を珍しく買ったのも、この立花隆論稿があったからだが、一読して、幻滅した。
 こんなのを巻頭にするとは月刊現代も落ちぶれた。全体としてもかつてはもっと賑やかで興味を惹く記事が多かった気がする。講談社は最近ヘンになっているのではないか。
 講談社のことはともかく、立花論文?は昨年08月15日の東京大学での南原繁関係の集会にかかる原稿が元にあるようで、羊頭狗肉著しい。
 特定の政権への「宣戦布告」と公言するためには、現在の日本を取り巻く国際又は東 アジアの政治環境の認識は不可欠だろうが、異常にも、アメリカも北朝鮮も中国も、言葉としてすら出てこない。そして基本は、岸信介のDNAを受け継ぐ安倍首相を、精神的には「DNA」を引くと彼は「思うくらい」の南原繁を援用しながら立花が批判するというものだ。これを読んでほとんどすべてにノーと感じた。
 「安倍の政治的見解は、ほとんど戦後民主主義社会の根幹をなす枠組みを全否定しようとするもので、いわば南原繁が作ったものをすべてぶちこわしたがっている…」。
 南原繁が「あの時期にあったればこそ、我が日本国はいまこのようにあることができるのだ」。
  もっとも、「戦後の金権腐敗政治、対米追随路線」は南原のではなく、岸信介のDNAを引く人々によるというから、立花によれば、現在の日本のよい(と彼が考える)点は南原繁DNA悪い点(同前)は岸信介DNAによる、とキレイに(アホらしく単純に)説明できるわけだ。
 だがそもそも、南原繁ってそんなに偉かったのか。南原繁とはそれほど立派な人物だったのか。彼は1946年03月に貴族院議員に勅選されているが、手元に資料がないが、日本国憲法案に反対の発言をした旨の文章を読んだ記憶がある。また、Wikipediaによれば、1946年02月11日にはあえて「日章旗をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化創造」を説」いた、らしい。これらが正しいとすれば、なかなか立派な面があるとしても、南原は立花がいう「戦後民主主義社会の根幹」を作った人物などでは全くないことになる。
 また、歴史的に俯瞰してみると、全面講和論は間違いだったし、60年安保闘争も決して日本国民の「成果」といえるようなものではない。1950年05月の吉田茂の「曲学阿世」との南原批判は適切なものだった。
 全面講和論は客観的には社会主義諸国に迎合し追随するものだった(岡崎久雄・吉田茂とその時代p.287-8(PHP、2002)参照)。立花隆は、世間の一部におもねているという意味で言うと、「曲学阿一世」ではないか。
 「60年安保闘争」を当時「煽った」大学人・知識人たち(主観的には共産党や共産同のように「革命」への一里塚と見ていなくとも)の氏名をいつかすべて記録しておきたいものだ。
 直後の総選挙で社会党等が政権を取れずかつ1/3以上の議席を得たことはその後の日本政治に決定的影響を与えた。自主憲法棚上げについても、経済至上主義選択についても。「永世中立」論の主張者・南原繁の肯定的な歴史的評価は早すぎ、かつ誤っているだろう。
 ところで、元日本共産党党員・有田芳生氏は立花隆への特別の敬愛心でもあるのだろうか、上の月刊現代が出た後の彼のブログの中で、「安倍晋三への宣戦布告」と題して、「安倍が総理となり戦後民主主義の枠組みを破壊するために闘うというなら、わたしもまたその安倍的「思想」と闘うしかない」と書いている。日本共産党を離党することは反共産主義者になることを意味しない。ましてや「戦後民主主義」の色濃き残映を、有田氏もまた、依然として背負っているわけだ。

-0039/戦後教育の最優等生・「保守的」立花隆。

 古いが読売新聞9月5日25面-「8月末、米紙の中国人助手が懲役3年を宣告され、シンガポ-ル紙の香港駐在記者にも懲役5年の判決が下された」。
 本日読売3面-「自由主義社会の『有害』なサイトを遮断し、検索語句を制限しているほか、膨大な数のサイバ-警察が…不穏な動きを検索、追跡しているという」、「公安当局は今月6日から8日にかけて、…320以上の違法サイトとネットコラムを閉鎖、1万5000の『有害』情報を削除した」。
 いずれも中華人民共和国に関する報道だ。
 かかる中国の現在を日本の1960年~1964年あたりの時期に相応していると「直感」したのが、あの「大評論家」・立花隆だった。2~5歳に北京にいたとはいえ、荒唐無稽・抱腹絶倒等々と表現できるスゴい分析だ。
 立花は、小泉に対して、中・韓へのひざまずいての「ドイツ」式謝罪も要求する(同・滅びゆく国家p.204等、2006)。杜撰にも中・韓の区別もしていないが、戦後補償・「謝罪」に関する日独比較の基本文献をこの人は読んでいないのでないか。
 この人は、皇室問題では愛子様、女系・女性天皇を支持する(p.112~)。執筆時期から見て宥恕の余地はあるが、しかし、皇太子夫妻が第二・第三子を望まれるなら「高度生殖医療技術の利用に正々堂々と踏み切るべきだ」、「不妊治療に踏み切れば、対外受精で…妊娠することはほとんど約束されている」とほとんど知人夫妻にでも言うがごとく「助言」するに至っては、どこかおかしいと私は感じた。
 上のように活字で明記してしまう感覚は国家・国民統合の「象徴」に対する敬意の欠落の表れで、さらにおそらくは天皇・皇室という「非合理」なものを「国民の総意」で廃止したいというのが彼の本音だろうと推測される。
 立花は教育基本法の改正にも憲法の改正にも反対の旨を明言している。
 勝手に推測するに、「戦後民主主義」のもとで立花(橘隆志)は十分に「成功した」、今のままでよい、という「保守的」気分があるのでないか。現教育基本法の条文を抜き出してこれで何故いけないのかと問う姿勢からは、(中国には存在しない)表現の自由、「個人主義」、反体制的風潮の存在の容認といった「戦後」の恩恵を彼は十分に受けたと感じていることを示しているように思う。

-0030/田原総一朗は立花隆よりもマシそう。

 くどいようだが、日本共産党を軽視してはならない。8月25日に機関紙読者数の減少に触れたが、それでも同資料によれば、赤旗本紙30万、日曜版138万の読者がいる(筆坂・日本共産党(新潮新書、2006)p.54によれば、合計で164万)。
 この数字は、一般の書籍が10万も売れればヘストセラ-扱いされるのを考えると、ある種、恐ろしい数字だ。
 毎週1回は100万人以上がコミュニズムを支持する政党の見解を読んでいる。
 先進資本主義国日本で共産党が存在し活動しているのは異常であり、かつそこに日本社会・日本人の意識に独特の問題点又は特徴があるといういうのが私見だ。異常であること、そして異常さをさして意識していないのも異常である、ということを強調したい。
 日本共産党の存在は日本社会党のそれとともに60年安保や70年安保頃の闘争又は国民運動をどのように総括するかともかかわる。デモに参加したことを無邪気に書き、「60年安保」をおそらくは反米民族・民主主義闘争として肯定的に評価することを疑っていないようである立花隆・滅びゆく国家(2006)に比べて、同じくデモに参加していた田原総一朗・日本の戦後―上・私たちは間違っていなかったか(講談社、2003.09)は、「あの国民運動ともいうべきエネルギ-はなんだったのか」と問うているだけでも(p.32)-全部は未読だが-立花よりも良心的だ。
 私見では、日本の軍事力の弱小さを前提とすると、対等性の向上、有事のアメリカの防衛義務の明記等を図る60年安保改訂を当時の国民は反対すべきではなかった。だが、社会主義「革命」をめざす政党と「進歩的・良心的」知識人の「煽動」があったからこそ(マスコミも当然に入る)、大「国民運動」にまでになった。
 南原繁をはじめとする「知識人」たちの責任は頗る大きい、と思う。むろん日本社会党は欧州社民主義政党と異なり容共・反米の立場だったのであり、日本社会党のブレインたちの責任は極めて大きく、歴史的に誹られても仕方がない、と考える。
 このあたりの点はさらに勉強して、いずれまた、70年安保や「全共闘」問題とともに、触れるだろう。
 どのような時代を生きてき、どう当該時代を評価するかは、今後の私の重要な、形式的には趣味としか言い様がないが、作業なのだ。
 ドイツは統一に際してナチス前の帝国の領土回復を国家としては諦念した。が、個人次元では複雑な想いをもつ人もいることが判る-今朝の読売6面を参照。

-0028/視野の狭い立花隆は「曲学阿一世」ではないか。

 月刊現代を買う。立花隆「安倍晋三に告ぐ、『改憲政権』への宣戦布告」が載っていたからだ。一読して、幻滅。
 こんなのを巻頭にするとは月刊現代も落ちぶれた。全体としてもかつてはもっと賑やかで興味を惹く記事が多かった気がする。
 立花論文?は8月15日の南原繁関係の集会にかかる原稿が元にあるようで、羊頭狗肉著しい。特定の政権への「宣戦布告」とワメくためには現在の日本を取り巻く国際又は東アジアの政治環境の認識は不可欠だろうが、異常にも、アメリカも北朝鮮も中国も、言葉としてすら出てこない。そして基本は岸信介のDNAを受け継ぐ安倍を立花が精神的には「DNA」を引くと「思うくらい」の南原繁を援用しながら批判するというもの。これを読んでほとんどすべてにノ-と感じた。
 「安倍の政治的見解は、ほとんど戦後民主主義社会の根幹をなす枠組みを全否定しようとするもので、いわば南原繁が作ったものをすべてぶちこわしたがっている…」。??? 南原繁が「あの時期にあったればこそ、我が日本国はいまこのようにあることができるのだ」。??
 もっとも、「戦後の金権腐敗政治、対米追随路線」は南原のではなく、岸信介のDNAを引く人々によるというから、立花によれば、現在の日本のよい(と彼が考える)点は南原DNA、悪い点(同前)は岸信介DNAによる、とキレイに(アホらしく単純に)説明できるわけだ。
 だがそもそも、南原繁とはそれほど立派な人物だったのか。東大学長だからそれなりの見識と能力はあり「人格的」魅力もあったのだろうが、歴史的に俯瞰してみると、全面講和論は間違いだったし、60年安保闘争も決して日本国民の「成果」ではない。吉田茂の「曲学阿世」との批評は結果として適切なものだった、と考える。
 全面講和論は客観的にはコミュニズム諸国に迎合し追随するものだった。立花隆は、世間の一部におもねているという意味で言うと、「曲学阿一世」ではないか。60年安保闘争は又書くとして、当時これを「煽った」大学人・知識人たち(主観的には共産党や共産同のように「革命」への一里塚と見ていなくとも)の氏名をいつかすべて記録しておきたい。直後の総選挙で社会党等が政権を取れずかつ1/3以上の議席を得たことはその後の日本政治に決定的影響を与えた。自主憲法棚上げについても、経済至上主義選択についても。「永世中立」論の主張者・南原繁の肯定的な歴史的評価は早すぎ、かつ誤っているだろう。
ギャラリー
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