秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2007参院選

0327/朝日新聞の「狂気」。

 別に珍しい話題ではない。
 9月の16-22日の週の発売の週刊誌だと、政界・政治の関心を自民党総裁選挙(福田か麻生か)あるいはその後の国会の動向に置きそうなものだが、表紙だけを見たにすぎないものの、週刊朝日の同週号の表紙には、大きく「安倍逃亡」とだけあった。
 かかる編集・見出しつけ方針をとって、国家・公益よりも安倍への「私怨」を晴らすことを優先しているのが、朝日新聞社のようだ。
 かかる新聞社がなぜ、まだ新聞を発行でき、雑誌等を出版できるのか。消滅するか、「朝日」関係で働いていることが対社会的、対世間的に<恥ずかしい>ことだと感じさせるような、そんな時代にならないと、日本は蝕まれていってしまう。
 「ジャーナリズムに名を借りた良識のない安倍殲滅作戦が展開された」(週刊新潮9/27の高山正之コラム)ことを忘れてはならない。

0324/安倍晋三に全責任があるのか-無責任な古賀誠ら。

 政治家の言動は、マスコミ・評論家・コメンテイター類の無責任さと比べて、寛恕の余地はある。選挙で当選して、その現実の世界に生きていかなければならないからだ。
 安全な立場を維持したまま適当なことを適当に言ったり書いたりしている多くのマスコミ・評論家・コメンテイター類とは、やはり違うだろう。
 だが、政治家の無責任を指弾することはできる。佐伯啓思は安倍首相への「逆風」の一つは自民党自体だったと指摘しており(今月既言及の佐伯・産経コメント)、適切と思うが、産経9/15の酒井充記者の署名記事(コラム)は古賀誠らの派閥領袖に対する皮肉と批判が適切で、引用しないが、読まれてよい。
 安倍を総裁に選出しておきながら、とりわけそのときは安倍に投票しておきながら、参院選敗北の責任のすべてを、あるいは自民党支持の低下のすべてを、安倍一人に押しつけて済まそうとするがごとき一部の自民党議員(後藤田正純を含む)の言動には虫酸が走る。
 上の酒井充記者は、産経9/13で安倍を「政治的死者」と切って捨てた産経新聞政治部長・乾正人よりもだいぶマシだろう。

0323/朝日の安倍叩きは歴史的「汚点」-花田紀凱は真っ当。

 産経9/15のコラムで花田紀凱は書く。
 「朝日に総力挙げてあれだけ叩かれたら並の神経ではもつまい。朝日の安倍叩きはジャーナリズム史に残る汚点だ」。
 私はマスコミの「腐敗」・「犯罪」として後世に記録されるだろうと書いたのだったが、私の感想・意見はたった一人の感想・意見ではなさそうだ。
 (安倍には「並の神経」ではないことを示して欲しかったが。健康への支障まで生じていては…。一般論として、「言葉」は、意識・精神を通じて人の(肉体的)健康、ときには生命に対してすら影響を与える。)
 産経9/17の曽野綾子コラムの中にも勇気ある(私には「ふつう」のはずなのだが)言葉がある。
 「マスコミとその無責任な読者には、次なる人間喜劇が展開される楽しみが待っている…」。
 先の参院選を西部邁は「民主喜劇」とか皮肉っていたが、それはともかく、「無責任な読者」(無責任な有権者にほぼ等しいだろう)とは、よく書けた。そのとおりだ。

0322/御厨貴さん、遠藤弦さん、よくも簡単に言えますね。

 御厨貴という東京大学所属の政治学者は、失礼ながら、頭がよさそうではない。又は、特定の偏った<主義>のもち主のように見える。この人は読売9/13にこんなことを書いている。
 「安倍さんは選挙期間中、『私を選ぶか、小沢代表を選ぶか』と演説した」、「安倍首相は、本来ならば参院選惨敗の直後に辞めておくべきだった」。
 安倍(まだ現首相)が上のように発言したのは事実だ。このことを朝日新聞の社説は、安倍退陣を強く要求する理由の一つとして明記した。産経新聞の一部の記者も同旨のことを述べた。
 古い話題だが、しっかりと思い出しておく必要がある。安倍の発言・演説内容は事実で、それは首相選択選挙としての安倍対小沢という闘いならば自分に有利だろうとの安倍氏の判断があったからだろう。しかし、この点を安倍は最後まで又は一貫して強調したわけでは全くなかった。それはもともと参院選(第二院のかつ半数の改選)が首相・政権選択選挙では全くない、ということを彼が意識または知悉しているがゆえだっただろう。
 マスコミ論調もまた、安倍首相かそれとも小沢首相かという選択の選挙、少なくとも自民党政権か民主党政権かという選択の選挙として位置づけて報道したのか。全くちがっていた。朝日新聞を中心とする「サヨク」メディアは<逆風三点セット>を煽ったのであり、安倍の基本的理念(憲法改正等々)の是非すら、重要な争点または対立軸としてはとり挙げなかったのだ。
 従って、選挙後も、安倍の目指す基本的方向が否定されたわけではないとの論評・分析があったし、それは「民意」の適切な認識だっただろう。
 しかるに、選挙に自民党が大敗してみれば、まるで<安倍政治>全体が否定されたかのムードを朝日新聞等々は作りだした(憲法改正反対を明言し主要な争点とした社民党・共産党が議席を減らしたことは大きな話題とはされなかった)。その一つとして、この「サヨク」新聞が利用したのが、上記の安倍発言だったのだが、このいわば情報<策略>に、意識的にか、無意識でか、御厨貴という人は加担するか、屈服している(産経の一部の記者も同様)。
 本当に首相として「安倍を選ぶか、小沢を選ぶか」を最大の争点とした選挙だったなら、安倍・自民党は勝利していただろう。確かなデータは手元にないが、(わからない・無回答が第一位だったかもしれないが)首相として誰がふさわしいかの世論調査において、安倍は小沢を一貫して上回っていた。安倍対小沢なら、安倍は確実に勝っていた。
 自民党を大敗させた「民意」は、安倍・自民党与党内閣ではなく小沢・民主党内閣を作れ、というものでは全くなかった、と考えて、まず間違いはない。多くの人が、民主党に投票した者も含めて、民主党が勝てば、小沢・民主党政権ができる、などとは考えていなかったはずだ。
 読売新聞9/14一面に、同政治部記者・遠藤弦は書いている。-「安倍路線は、参院選で『ノー』を突きつけられた」。ここでの「安倍路線」の意味内容にもよるが、読売の記者が一面でこんなに簡単にサラッと書いてしまうのだから、怖ろしいものだ。
 読売新聞の多数の政治部記者もまた<戦後体制>にどっぷりと浸っているのだろう。朝日新聞記者と同じ(朝日の場合は意図的に誤っているのだが)認識に結果として立っている。
 「安倍路線」が否定されたと自民党員・議員たちが理解して、安倍カラーとは異なる、加藤紘一が支持するような人物が自民党総裁・首相になれば、自民党はますます弱体化し(本来の保守層は離れ)、日本国家も(中国や北朝鮮とは仲良くなるかもしれないが)ますます衰亡の道、「自立」性喪失の道を歩むだろう。
 何かに櫻井よしこは書いていた-自民党は、左にブレれば負ける。一時的に民主党から浮動層の支持を奪い返してもほとんど無意味だ。大衆=衆愚の人気とり政党が二つもできるようでは、日本は本当に「危ない」。

0321/朝日新聞の若宮啓文よ、喜べ。

 安倍首相辞職記者会見。生まれて初めて支持したいと考えた首相と内閣だっただけに残念だ。親共産主義・社会主義でないことはもちろん、親中国・親北朝鮮ではないことの明瞭な(つまり谷垣・加藤らではない)後継者が、安倍晋三の基本的理念を引き継ぐことを期待したい。また、安倍はまだ若いので、一有力政治家としての活躍と再起に期待する。
 朝日新聞の若宮啓文ら、そして北朝鮮・金正日は、勝利の雄叫びをあげているのではないか。朝日社内では今頃、祝杯を飲んでいるのだろう。
 今日に至ったのも、もともとは参院選の結果にあり、その結果をもたらした不可欠の要因は、<異様な>朝日新聞等の報道ぶりにあった。8月以降も<安倍憎し>で凝り固まった<安倍降ろし>の報道を続けたのは朝日だった。
 週刊朝日は、ふつうなら、「自民党惨敗(大敗)」との見出しでよさそうなところを、表紙に、安倍首相の顔の写真にかぶせて「安倍惨敗」と大きな見出しを打ったのだった。異様な反安倍報道は(政治家はこれを口が裂けても言わないようであるし、同業者も、花田紀凱等々の一部の勇気ある-といっても私にはふつうに思えるが-人々を除いては言及しない)後世の歴史に、マスコミの<腐敗>あるいは<犯罪>として記録されるだろう。
 朝日新聞が進めたい方向に進んだら、日本はおかしくなる。参院選の結果がすでにそうだったのだが、真剣に考えると、きわめて憂慮すべき事態だ。「日本」ははたして存続し得るのか?
 文明には、あるいは国家には、全世界史的に見ても、栄枯盛衰がある。日本は、1990年前後に国際・国内環境が質的に変化したことに気づかないままの視野狭窄症の者ばかりが政界や言論界・マスコミ界をリードしたために、<衰亡>の過程を着実にに歩んでいるのではないか。これを阻止することを安倍政権には期待したのだったが…。
 「日本」なんて、「(国民)国家」なんてどうでもよい、個人の尊厳と「地球市民」であることの方が大切だ、と考えている朝日新聞の要職にあるような人々には、何も言うことはない。<マスコミはナショナリズムの道具ではないのだ>と叫びながら、「日本」と「日本国家」が弱体化し消失していくのを、喜んで眺めていたまえ。
 ところで、コミュニズムを支持しているわけではないが、自民党の(これまでの基本的な)安倍政権の方向・理念にも反対する、という塊として存在する潮流を、何と称し、どう性格づければいいのだろう。
 八木秀次・日本を愛する者が自覚すべきこと(PHP、2007)は「フランクフルト学派」と言っている。又は、これの強い影響を指摘している。産経9/03の正論欄で渡辺利夫は「ポストモダン思想」と称している。
 素人ながら筆者には、上の後者は広すぎ、前者は狭すぎるような気がする。だが、どちらにせよ、戦後レジームこそが、あるいは「日本国憲法」体制こそが生んだ思想・思潮・心性であることに間違いないだろう(単純ではないが、これに外国のポスト・マルクス主義思想が影響を与えているのだろう)。
 長くは書かない。産経9/01の正論欄で佐伯啓思は、参院選での安倍首相への逆風三つのうち一つを「サヨク的勢力」と称していた。正確には、「憲法改正論や教育改革論を回避して、問題を年金記録に矮小化しようとした『サヨク的勢力』。これにはサヨク的メディアだけではなく、民主党も含まれる」と書いていた。
 この「サヨク」を甘く見ていた、勢力減退気味の「サヨク」が反安倍の総抵抗をした、等々の分析を私はひととおりは読んでいる(逐一は紹介しない)。
 この「サヨク」あるいは「サヨク的勢力」はいったい、いかなる(たんに反-ではない、積極的な)主義・思想・理念を、いま、掲げているのか?。民主党のそれも含めて、私にはさっぱりわからないのである。

0320/日本国民はマスコミの影響をうけずクールに判断したって?

 マスコミ人ならずとも一般にも広く知られている言葉に、マスコミは「第四権力」、というのがある。
 マスコミの影響力は実質的に国家の三権に等しく、場合によってはそれ以上でありうるし、むろん「人権」侵害も行うことがある。
 ところで、ある選挙区でA党(A党の候補でもよい)支持者が60%、B党(同前)支持者が40%だったとかりにすると、もともとはA党はB党の1.5倍の支持者がいた筈なのに、10%のA党支持者がB党支持者へと<乗り移る>ことによって、A党対B党は50:50となり、ごく僅差の勝負となる。もともとが59%対41%だったとすると、10%が上の<動き>をすれば、49%対51%となり、明確にB党が勝利する。
 選挙民又は有権者に影響を与えるためには、彼らの過半数に影響を及ぼす必要は全くない。上の例でいうと、10%、つまり10人に1人さえ<変心>させれば足りる。
 従前が59-60%対41-40%だった場合を想定したが、上のような計算は簡単にできる筈だ。もっと開きがあれば10%以上の有権者が、もっと差が小さければ10%未満の有権者が何らかの影響をうけて支持政党を変更すれば、同様の結果となる。
 じつは上のような場合も想定したとしても、10%は多すぎる。つまり、有権者は全員が投票しないからだ。そして、投票率が7月末参院選挙程度の60%(実際には58%)だったとかりにすると、10%の60%、すなわち有権者全体の6%に<変心>をさせることに成功すれば、元来はA党・59-60%対B党・41-40%の差があったとしても、B党は勝利するか、僅差の接戦にもち込める。
 投票率60%、二つの政党が1.5対1以下の範囲内にあるとすると、有権者の6%に対して、特定の方向への投票行動を誘発する影響力が働けば、従来の第二位政党・少数派政党は勝利するか、接戦となる。
 この有権者の6%に対する特定方向への影響力を、日本のマスコミ(新聞・テレビ)は有していないだろうか?
 常識的なマスコミ人なら<有している>と答えるだろう。あるいは、「国民の判断の結果です」などと言って体裁を取り繕って、表面的には明言しなくとも、腹の底ではそう考えているだろう。
 若干のくり返しになるが、過半数以上の、あるいは「多くの」選挙民がマスコミの報道の内容・仕方に影響をうけず、<冷静>に判断したとしても、マスコミが選挙民の6%(あるいは多くても10%程度)に影響を与えてしまえば、叙上のとおり、選挙結果は大きく変わるのだ。それだけでも大きな「風」又は「逆風」を作り出せるのだ。
 じつに単純なことを書いたにすぎない。以上のことを肯定することのできないマスコミ人は、よほど頭が悪いか、そもそもマスコミで働く資格がないものと思われる。 

0319/泥棒の巣-社会保険庁。

 社保庁職員による着服あるいは横領は、たまたま公務員としての不適格者が多かった、では済ませられない。また、「たまたま」でもないだろう。
 「犯罪者」のすべてが少なくともかつて、上部団体を自治労とする組合員だったとは言わないが、組合員もいたに違いなく、かつ組合の幹部がおそるべき実態をいっさい知らなかったとは考え難い。
 反(資本主義的)権力・反「保守」権力者たちにとっては、政治と行政が円滑に効率よく、国民のために機能してもらっては困る。年金制度が問題なく、あるいは問題ができるだけ少ないままで運営されては困る。自由主義・「保守」主義の政治・行政を混乱させ、麻痺させ、自由主義・「保守」主義では困るとの印象を国民大衆に与える必要があるのだ。そうした<社会主義>幻想の尻尾を残した反権力・反資本主義国家「主義」のためならば、総計数億円が国庫から消えたところで、何の痛痒も感じない。そうした確信犯的「犯罪者」や知らぬ振りをした組合幹部がいたはずだ。
 国家組織内に巣くう「白蟻」。当然にすみやかに駆除し、かつ刑罰という制裁を課す必要がある。金額が微少だとかの理由で告発もされずまだ公務員の身分を持っている者がいるだろうと思うが、将来の日本年金機構に採用されてはならないのは当然のことだ。  --------  メモ-サピオ8/22・9/05合併号の共産党特集を読んだ。

0318/産経・山本雄史記者について・5-呆然とするほどの論理欠如。

 もはや新鮮味のないテーマになってきたが、産経の山本雄史記者が<安倍首相は空気を読めていない>→<空気を読んで退陣すべきだ>と主張した、その根拠は一体何だったのだろう。
 単純には、参院選挙で与党が過半数を取れなかったから、あるいは自民党が惨敗(大敗)したから、ということなのだろう。しかし、もはや論じないでおくが、政治的に安倍退陣はありえたとしても、安倍退陣という論理的帰結が不可避的に出てくるわけではない。このことは、現実の政治・政界の動き、現実の各新聞や識者の論調からもすでに明らかだ。
 にもかかわらず、7/30の段階で山本雄史は上のような主張を簡単に行ったのだろう。
 できるだけ、この人の書いていることをフォローしてみる。とは言っても、論理・理論・論拠・理屈らしきものが見あたらないので困る。
 冒頭の<>→<>が何の論理的裏付けもないことは言うまでもない。
 8/01の山本氏のブログに書いてあることが、結局この人の言いたいことを簡潔に示していると思われる。いわく、自民党活動家たちに「共通しているのは、国民の声を受け止めようという、真摯な姿勢である」、「現場の自民党関係者も皆、今回の結果を深刻に受け止め、…」、「
国民の審判を真摯に受け止めることが、今の自民党に最も必要だと思う」。
 このブログは7/30ブログへの大きな反発に対して、あらためて、自民党関係者の<現場の声>を素材にして反論しているかのようだ。
 だが、自民党活動家たった3人の声では迫力がないし、「現場の自民党関係者も皆」と書かれてもそうかな?と感じてしまうのだが、何よりも、この人たちは「国民の声を受け止めようという、真摯な姿勢」をもち、「今回の結果を深刻に受け止め」ているのであって、これらのことは安倍首相退陣を決して意味していない、ということが重要だ。自民党関係者は「国民の審判を真摯に受け止める」ことが必要だろう。そのとおりだ。だが、なぜ、そのことが安倍退陣の必要性を意味するのか。
 
<真摯に受けとめること>と<安倍退陣>との間にはどのような論理的関係があるのか。前者の一つが後者かもしれないが、他の可能性は全くないのか。両者はなぜ=で結ばれなくてはならないのか。書くのがバカバカしくなってきる。耐えられないほどの幼稚さだ。
 この両者の媒介項が、山本雄史の頭の中には全くないのだ。
 同旨のことは諸コメントへの対応コメントの中でも延々と反復されている。以下で、できるだけ多数の引用を試みるが、別のコメント者に対する返信内の文の一部だ。
 ①選挙民が「ノー」を言っていることを、もう少し真剣に受け止めないと本当にマズイですよ、という意味…」。選挙民がノーと言っている、とは具体的にいかなる意味なのか。なぜそれが、安倍首相は退陣せよ、という意味になる又はつながるのか? ここでも「真剣に受け止め…」という語がある。これが何故、安倍退陣とイコールになるのか。
 ②「国民の審判という事実を、メディアも政治家ももっと真摯に受け止めないといけないな、という気も…」。そもそも「国民の審判という事実」を「真摯に受け止め」る、とは一体どういう具体的意味なのか? このことの具体的意味を全く明示しないで、どうやら安倍首相退陣のことと理解しているようなのが山本雄史なのだ。致命的な説明不足、「思い込み」による単純な結論づけ。
 国民をナメてはいけないと思います。なぜ「美しい国」が届かないのか。そこのところをきちんと考えないと今後、傷は深まるとのは必至ではないか」。やや別の論点だが、のちに論じる点と関係があるので引用しておいた。
 ④首相が簡単に辞任すれば国益に反しないかとのコメントへの、「
そういう側面もあるかと思いますが、国民は「ノー」を突きつけているのも事実です」。①と同じ。選挙民がノーと言っている、とは具体的にいかなる意味なのか。なぜそれが、安倍首相は退陣せよ、という意味になる又はつながるのか? バカバカしい。
 ⑤「不信任とみられても仕方がない負け方だと思う」。「不信任」ということが首相退陣要求という意味だとすれば、何故、参院選の結果をそう「みる」のかどうか。見解・分析の相違だろう。そして、山本のそれは朝日新聞と全く同じ。
 ⑥マスコミが「仮に強引に空気をつくっていたとしても、国民の審判、判断は尊重するべきだと思いますが
…」。「国民の審判、判断は尊重するべきだ」とは、具体的にどういう意味なのか。なぜ、これが安倍退陣の必要性に論理的につながるのか。本当にバカバカしい。それとここでは、「仮に」と条件付きながら、「強引に作り上げられた空気」であっても<国民の審判、判断は尊重するべき>と主張している部分に、別の論点との関係で注意しておきたい。
 ⑦「王道を行っているのであれば、惨敗結果をもう少し真摯に受け止めた気もする
」。「惨敗結果をもう少し真摯に受け止め」るとは具体的にどういう意味なのか。なぜ、これが安倍退陣の必要性に論理的につながるのか。既述。
 ⑧「国民の審判を尊重するのは基本だと思います。無党派層はマスコミに踊らされるほど、無知ではない」。前半については
、「国民の審判を尊重する」とは具体的にどういう意味なのか。なぜ、これが安倍退陣の必要性に論理的につながるのか。既述。後半は、マスコミ信仰・国民信仰で別の論点に関係する。
 ⑨「昨今の国民のメディアリテラシーは高いと感じています。ネットの登場で、賢明な国民はさらに自分の頭で考えていると思うのですが…」。他マスコミ(とくに朝日)批判をしないこの人の特徴として便宜的に引用しておいた。
 ⑩「国民がノーを突きつけているという事実をこの人はわかっているのかなあ?と思わせるような発言が多かったので…」。①・④と同じ。
 ⑪「国民の審判が下ったにもかかわらず、会見などの受け答えをみていると、安倍首相自身が現在の状況を把握されていないのではないか?という疑問を私は持ち…」。⑥・⑧と同じ。バカバカしい。
 ⑫「国民の審判を安倍首相は本当に受け止めているのか、会見の受け答えをみていて、シンプルにそう思った」。上と同じ。「シンプルに」=単純に思った、と<自白>している
 ⑬「安倍首相自身が、自身の置かれている状況を正確に把握しているように思えなかった」。これはいかなる意味か。まさか<退陣(辞任)すべき状況>の意味ではないと思うが。ちなみに私も、安倍首相の続投記者会見をテレビで観ていた。
 ⑭「国民に伝わらなかった、という事実をもう少し安倍首相は理解した方がいいのでは…」。問題は「理解した」上でどうするかで、むろん退陣につながりはしない。
 ⑮「国民の審判が仮に間違っていても、それを重く受け止めるというのは民主主義の基本だ」、「「民意」はきまぐれですが、それでも安倍首相の理念がなぜ国民に伝わらなかったのか、メディアだけの責任ではない…」。私の簡単なコメントへの返答の一部。前半は別の論点に関係するので引用した。後半は、⑧・⑨と同趣旨の反復。
 ⑯「論理的には政権選択選挙ではありませんが、3年に1度行われ、さらに過去に政局を動かしてきた例の多い国政選挙ということで、「現政権に対する評価を見る選挙」的な位置づけにあります…」。いちおう肯定しておこう。だが、かりに
「現政権に対する評価を見る選挙的」なものだったとしても、そのことが何故不可避的又は論理的に安倍首相退陣の必要性とつながるのか、さっぱり分からない。
 以上、少し余計なところも引用したが、安倍首相が空気を読めず退陣しないことを批判する論理として山本雄史という新聞記者が持ち出しているのは、参院選挙における<国民の審判の結果>を<尊重すべき>・<真摯に受けとめるべき>という、冒頭にすでに書いたことに尽きる。同じことを何度もオウムのように繰り返すだけだ。
 これでは話にならない。返信ではなく、山本ではないコメント者の方にむしろ、引用したい・聞くべきものが多かった。
 <国民の審判の結果>を<尊重>し<真摯に受けとめる>ということは安倍首相も語っていることで、こんなことが同首相が辞任すべき理由にならないことは明らかだ。
 今回はいささか無駄足を踏んだ感もあるが、この人が前提としている「民主主義」観も問題があると思われるので、さらに別の回に扱う。
 なお、選挙結果を真摯に受けとめる気持ちがあろうとなかろうと、選挙結果によって各政党の議席配分が決まり、参院では野党が多数となったために、衆院を通過した法律案も参院では通過せず法律として成立しない可能性が制度的に出てきた。このことこそがまさに、<国民の審判の結果>の制度的効果なのだ(他にも参院議長職等々があるが)。それ以外のことは、すべて、<政治>の世界のこと。参院選敗北で首相が退陣した(そして同じ自民党による別の政権ができた-見方によれば自民党内での「たらい回し」だった-)例がこれまでに二度あったが、今回の事例は、「大敗」と言われる敗北だったにもかかわらず首相が退陣しなかった新しい先例ができたにすぎない。
 山本雄史よ、どこに法的又は政治的な問題があるというのか。
 立ち入らないが、山本の8/01ブログに対する「自民党下野論」の方が山本氏の論よりは筋が通っている。自民党(総裁は安倍だが)が敗北したのであって、山本の言うように<国民の審判の結果>を<尊重すべき>・<真摯に受けとめるべき>ならば、山本の言うように今回の選挙が「現政権に対する評価を見る選挙的」なものだったとすれば、<民意>は民主党を選択していることになり、自民党は野党になって、第一党の民主党に政権を譲らなければならないのではないか。内閣の組成を民主党はしなければならないのではないか。
 <国民の審判>が下った対象、<国民がノーとつきつけた>対象をなぜ山本雄史氏は安倍内閣・安倍首相に限定するのだろう。それらの対象は自民党それ自体とも十分に解釈できる。とすると、山本は、<民意>を尊重して自民党は下野して民主党に政権を明け渡せ、と主張しなければならない筈なのに、何故しないのか。一年半前の衆院選時よりも今回の方が<新しい(従ってより正確な現在の)民意>だという論拠で補強することすらできるではないか。
 じつはここにも私は、とくに朝日新聞の主張(策略)の影響を山本雄史にも見る。4月の都知事選挙の前、それもおそらくは安倍内閣成立直後から、朝日新聞は7月参院選・自民党敗北→安倍退陣を企図していた。4月の都知事選挙の前に民主党は菅直人を立てよと朝日新聞が主張した際、はっきりと、<参院選に向けて勢いをつけるためにも>という旨を社説で書いていた。朝日新聞の狙いは自民党下野ではなく(これは政治的にはじつは困難なことを朝日新聞も分かっている)、安倍首相退陣だったのだ。だからこそ、今でもそうだろうと思うが(もう諦めた?)、安倍・自民党敗北のための<政治ビラ>をまき続けたのち、<安倍辞めよ>と大キャンペーンを張っているのだ。その影響が山本にも現れて、<安倍は辞めるか>・<安倍首相は辞めるべきか>というとくに朝日新聞によって意図的に作られた争点問題への強い関心をこの人に持たせたのだと思われる。前々回に書いたが、山本自身が多数派の他マスコミの起こした「風」に巻き込まれてしまったのではないか。

0317/産経・山本雄史記者への質問と助言・4。

 一 産経・山本雄史のブログ上にはまだ、<秋月氏に答える>、<…に反論する>というタイトル又は内容の文章は掲載されていない。但し、コメントに対して8/06付で「返信」はしているようだ(私の質問等1は8/4夜)。私もこれまでのものも含めて「コメント」欄に記述してみようか? そうすれば「返信」を頂戴できるだろうか?
 二 山本自身の発言(記述)内容を補足しておく。
 安倍首相につき-⑧会見のやりとりを見て「安倍首相はあまりにもズレているように思」った、⑨「国民の審判を安倍首相は本当に受け止めているのか、会見の受け答えをみていて…そう思った」。⑩「地位と権力にしがみついている印象、安倍首相の一連の発言や態度などから十分に感じられると思う」。
 他マスコミの報道および産経新聞の紙面につき-⑤「産経紙面は、赤城大臣の事務所費問題、発覚2~3日は驚くほど報道量は少なかった…。選挙前にこういう問題が発覚すること自体は、十分ニュースであると私は思っていたので、もう少し産経も報道した方が良かったのでは」と感じた、⑥「安倍首相の理念がなぜ国民に伝わらなかったのか、メディアだけの責任ではない」。
 前回小沢一郎について触れた部分を①として、小沢につき-②「小沢氏のどぶ板っぷりは見事だったと思います」。
 三 ところで、山本はまだ入社6年余りの20歳代の記者らしい。経験も経験の抽象化・理論化も基礎的な文献等による勉強も不十分であるに違いない。
 大学を卒業して就職した人々の中の一部にありがちなのは、大学を卒業したくらいでは、そして就職試験に合格したくらいでは社会人として実際に生活し仕事をするいかほどの能力も資格もないにもかかかわらず、<一人前>の社会人になったように<錯覚>してしまうことだ。この<錯覚>がマスコミ人の中に出てくると、大変なことになる。
 山本のブログ文やコメントへの返答を読んでいても感じる。この人は、大きな錯覚をしているのではないか?、政治(も)担当の記者になって一般人・平均的国民よりも適切に<政治>を語れる資格・能力があると、<傲慢>にも<錯覚>しているのではないか?、と。入社6年余程度で一体何が語れるというのだ。そして既に質問もした中に含意させたつもりだが、<政治>に関して、いかほどの知識・見識があり批判・分析能力(を生んだ経験・勉強の蓄積)があるというのだ
 そもそもの問題は、大した力量もない「若造の」政治(も)担当記者が、首相の出所進退という大きな政治問題について、<感覚>または<思いつき>程度で、諸問題を十分に考慮することなく、結論的なことを書いてしまった(少なくとも示唆した)ということにある、と思われる。今回のような内容の<感想>程度のものは本来はいくら個人的に感じたことでも<記者ブログ>に適当に書くのは適切ではなかった(少なくとも、まだ山本には早すぎた)、と私は思う。そのことによって、この私の一文もその一つだが、かなり多くの人に余計な(反発を含む)エネルギーをかけさせている。
 叙述の内容・結論自体よりも前に、日本政治上の重要なかつ現実的だった争点について、<感想>程度のものを<適当に>書いてしまったこと自体にまず問題があり、そのことを職業人・山本雄史はまず反省すべきだろう。
 書いたときは産経読者やイザ!読者はともかく、一般国民レベルでは圧倒的に支持される筈の思い・感想・主張だと感じていたかもしれないが、その後の反応を知ってこの人はようやく自らの軽率ぶりを少しは反省しているのではなかろうか(と期待する)。自民党敗戦の責任は安倍首相にはないとの意見の方が多いという世論調査結果を示している新聞もあるのだ。(山本の本意とは異なる主張らしい)産経のみならず、読売も日経も続投を明瞭に支持したのだ。ネット上で、この人は一種の「ピエロ」になっている。恥ずかしく感じているだろう(と期待する)。
 四 以上のように書くとやや筆致も鈍るが、予定どおり、前回につづく第四点に入る。
 第四に、山本雄史記者は7/30のブログ文で(安倍政権が?)「労働組合批判を繰り返すのは得策ではない」との「見解も示してきた」、と簡単に書いている。この「労働組合」とは社会保険庁の労働組合のことだろう。
 さて、まず瑣末で技術的な知識の問題かもしれないが、1.非現業公務員らには労組法上の「労働組合」はなく職員団体しかない、2.社会保険庁の職員はかつて都道府県に置かれた機構に勤務しながらも身分は「国家公務員」とされた(所謂「地方事務官」制度)、3.分権改革関連法令によって同制度は廃止されたにもかかわらず、職員団体(世間で不正確にいう労組)は2007年4月までは都道府県のそれに属するとされ、上部団体は所謂「自治労」(かつては日本社会党系。今は民主党系らしい)だった。
 上の3.に関して、読売8/06朝刊には興味深い記事がある。すなわち、2000年の分権改革法令施行後も2007年まで国の機関である筈の社会保険庁職員1万人を都道府県職員と同じく自治労傘下にすることを2000年の分権改革関連法令で認めたことについて、1999年に当時の社民党・村山富市元首相から「自治労が困っている…」と言われたので自民党・自由党に働きかけた結果だ、と公明党の草川昭三(今回、比例区で落選)が明らかにし、「内心忸怩たるものがある」と「悔や」んでいる、という。
 私も書いたことがあるのだが、社会保険庁職員(団体)の労働慣行のヒドさは、「地方事務官」制度とその廃止(=正規の国家公務員化)にもかかわらず職員団体は「自治労」加入を認めたことと無関係ではないだろう、と理解している。
 さて、今日の草川昭三のコメントはともあれ、その上の段に1.2.3.と記述したようなことを、「労働組合批判を繰り返すのは得策ではない」と何気なく書いた山本雄史は知っていたのだろうか。そんな知識はなかっただろうと想像するのだが、いちおう質問しておく。イェスかノーかで答えていただきたい。
 こういう細かな?ことよりも問題にしたいのは、山本雄史は、労働組合というもの、その上部団体の「自治労」、そしてそうした上部連合組織を指導した<労働運動>理論について、山本氏はどの程度理解し、どのように評価しているのか、ということだ。
 現在は民主党支持の労組・労組全国組織の幹部は今はもはや、内心でも日本をソ連のような社会主義国にしようとは思っていないだろう。ソ連はもはや存在しないからだ。また、存在する社会主義国(中国・ベトナム等)のように…ともさすがに公言はできなくなっているだろう。
 だが、詳細は知らないが、かつて「自治労」等が支持した、逆にいえば「自治労」等が<指導>を受けた日本社会党には(欧州の社会民主主義政党とは異なり)マルクス主義者(・社会主義者)が有力なグループとして存在しており、一時期は明瞭に日本の「社会主義」化を本気で狙っていた。むろんそうした社会党左派をさらに理論指導する知識人・大学教授もいた。
 かかるかつての時代と現在はむろんだいぶ異なっているだろう。だが、「社会主義」化を公然と標榜しないにせよ、反「資本主義」感覚、反「自由主義」感覚さらには-適当な言葉がないので困るのだが-<反日・自虐的>感覚は、一部の職員団体・労働組合やその上部団体の幹部には脈々とまだ受け継がれている、と私は考えている。自治労とは関係ないかもしれないが、今回も当選した民主党の岡崎トミ子の行動、かつて社民党にいた田嶋陽子のアホらしい(ピエロ役の)発言内容等を思い起こせばわかるだろう。
 そこで、憲法九条改正には賛成らしい山本雄史に質問する。労組の一部をかつて決定的に支配し、かつ現在もその可能性のあるコミュニズム(マルクス主義・社会主義)の<問題点と怖さ>をどのように認識しているのか。たんにもはや古い、支持しない、という回答だけでは困る。<問題点と怖さ>をできるだけ長く叙述してご回答いただきたい。
 この質問は、前回に述べた第二点とも関係している。
 山本雄史は安倍首相や安倍内閣にはなぜか厳しく、朝日新聞等や労組にはなぜか「甘い」のだ。簡単に表現すれば-再び適当な概念がないので困るのだが-この人はなぜか、<左に甘い>のだ。
 こういう心情は珍しくもないが、産経の記者としては珍しいのではなかろうか。だからこそ関心が涌く、何故にこんな心情が形成されたのだろうか、<左翼>の核心に(亜流・亜種も含めれば現在も)あるマルクス主義の<問題点と怖さ>をこの人はきちんと理解しているのだろうか、という関心が。
 ぜひ、質問に答えていただきたく、せつにお願い申しあげる。まだ触れていない重要なテーマは次回に。

0316/産経・山本雄史記者への質問・3。

 再述すれば、産経・山本雄史は自らのブログ7/30上で、最後に「安倍首相は引き続き政権を維持する決意を固めている。政権にとどまることで、さらなる国民の反発が予想されるのだが、…。安倍首相は空気を読めているのだろうか」と結ぶ一文を書いたコメントに対して「「退陣しろ」とまでは書いてません。におわせるような部分はありますが…」と逃げている文章もあるが、退陣すべきだった(続投すべきでなかった)と考えており、そう主張したのは実質的に明瞭なことだ。
 なお、以下はすべて、同氏の書いたものの引用だ。①「国民に「首相が居座っている」という印象を持たれても仕方がないような発言が多い」、②「不信任とみられても仕方がない負け方だ」、③「国民がノーを突きつけているという事実をこの人〔首相〕にはわかっているのかなあ?と思わせるような発言が多かった」、④「国民の審判が下ったにもかかわらず、…現在の状況を把握されていないのではないか?という疑問」を持った、⑤「自民党の最高責任者は安倍首相なので、責任が問われるのは筋としておかしくない」、⑥「首相自身が、自身の置かれている状況を正確に把握しているように思えなかった」、⑦首相発言は「民意なるものを軽視しているとしか思えない」。
 上のブログ本文を中心にして、いくつかの疑問も湧き、質問もし批判もしているのだが、山本雄史のブログ上にはまだ、<秋月氏に答える>、<…に反論する>というタイトル又は内容の文章は掲載されていない。
 ネット上に新しい言論空間の可能性があるというなら、頬かむりしないで何らかの反応をネット上で示したらどうだろうか。私は一個人としての山本氏ではなく、産経新聞記者としての山本雄史氏に向かって発言している。
 さて、依然として、この人はなぜこんな皮相で単純なことしか書けず、主張できないのだろうか、とその理由・背景について思いめぐらしている。いくつかそれらを推測するとともに、あらためて質問をしておこう。
 第一に、山本は安倍首相は退陣すべき旨を主張したとき、内閣総理大臣の地位に関する衆議院と参議院の位置づけの違いを少しでも考慮しただろうか。
 政治(も)担当する新聞記者ならば、国会法・公職選挙法・政治資金規正法等の基本的概要を熟知しておく(少なくとも簡単に確認・調査できる状態にしておく)べきなのは当然だが、現憲法上の関係規定を知っておくべきことは当然のこと、言わずもがな、のことだろう。
 安倍首相は憲法の定めにもとづき衆院・参院両院の議決によって内閣総理大臣の地位に就いた。これ以上は既述のことでもあるので反復しない。
 山本は、衆院の内閣不信任議決→総辞職か解散、に対して参院にはかかる手段又は制度はない、ということくらいはきちんと理解した上で問題の一文を書いたのだろうか。
 むろん参院選の結果について党首に<政治的責任>の問題が発生しうることは一般論として否定しない。だが、かりに、こうしたあたり(憲法制度・憲法諸規定)について何の知識もなく、何の考慮することもなく、安倍首相は退陣すべきとの一文を書いたのだとすれば、もうそれだけで政治(も)担当記者として失格だと思われる。
 質問したい。山本雄史記者は、内閣総理大臣の選任、内閣総理大臣の地位に対する参議院の権限に関する憲法上の諸規定を知ったうえで、又は考慮したうえで上のような主張をしたのかどうか。
 なお、参院選挙の位置づけに関する参考となる論述を含み、かつ安倍首相続投を支持するものとして、以下がある。<リンク削除>
 第二に、朝日新聞等のマスコミの選挙報道の仕方についての認識が、少なくとも私とは異なっている。少なくとも私、と書いたが、同様の認識・理解は決して少なくはない。例えば、それぞれ私のブログで取り上げたのだが、産経の古森義久は7/11ブログ「朝日新聞の倒閣キャンペーンの異様さ」で、このタイトルどおりのことを批判的に指摘・主張していた。
 週刊新潮7/26号も「「安倍憎し」に燃える朝日の「異様すぎる選挙報道」」との見出しの特集的記事を書いた。
 また、稲垣武は8/02に「今回の参院選での選挙報道は疑問だらけ」とし、選挙結果について「戦後レジームからの脱却を唱えた安倍首相と対立する朝日新聞の「反安倍キャンペーン」が功を奏した」と簡潔に言い切っている。
 さらに、そもそも山本雄史が所属する産経新聞自体が「何たる選挙戦」という他マスコミ批判をかなり含む特集記事を投票日直前に連載したのだ。 
 ところが山本は、驚くべきことに、産経新聞、古森、稲垣(そして私等)のような認識を全く又は殆ど持っておらず、むしろ他マスコミを擁護する言葉を発している。
 例えば、①「安倍氏の志も業績もなにひとつ伝えず、すべて悪意に解釈する報道を日々執拗に繰り返して強引に作り出された空気ではないか」との山本ブログ文へのコメント(発信者の名は省略させていただく)に対する、「うーん、少なくとも産経新聞は安倍政権の良さ、魅力を徹底的に報道していたと思いますが…」。ここでは、他マスコミには言及しないで逃げている。
 ②「産経は一貫して、安倍政権支持を明確にしてきました。公平さの面で言うと、首相サイドの記事が選挙期間中も多かったです。産経が公平な報道をしてきたか、というと何ともいえません」。ここでは何と、安倍首相支持を明確にしてきた(という)産経新聞の「公平さ」を問題にしている(!)。安倍首相を批判した朝日新聞等の方が「公平」だったと主張していると理解されてもやむをえない文章だ。
 ③「野党の失言や不祥事について、マスコミは意図的に無視していた…。うーん、そういう印象はあまりない」。
 ④「確かに、一部メディアは「安倍叩き」に奔走してました。ただ、軽薄かどうかは、国民は意外にシビアに見ていると思います」。ここでは一部メディアの「安倍叩き」奔走の事実は承認しながら、それを「軽薄」だとは言っていない。むしろ、「安倍叩き」奔走は決して「軽薄」ではなかった、と擁護しているニュアンスの方が強いことは明らかだ。
 以上の言葉は、一般の人が書いているならば読み流す類のものかもしれないが、新聞記者、しかも産経の記者の言葉となると、驚かざるをえない。
 山本雄史氏は、自らが帰属する産経新聞の主張・判断よりも他マスコミのそれらをむしろ支持しているようだ。産経の記者が産経新聞の「公平さ」を疑問視した部分は、歴史的にも記録、記憶されてよいものになるだろう。
 さて、推測になるが、山本は産経以外の各紙を読み(例えば私と違って全紙に容易にアクセスでき容易に読めるに違いない)、諸テレビ局の報道ぶりを見て、数の上では多かったかもしれない<反安倍>ムードの方の影響を受けてしまったのではなかろうか。あるいは朝日等の他紙の記者と接して語り合ったりしているうちにその影響を受けて、自社(産経)よりも他紙の主張の方に魅力?を感じたのではあるまいか。稲垣のいう朝日新聞の「反安倍キャンペーン」の効果は、あるいは同氏のいうマスコミの「狂風」は、マスコミ内にいる産経・山本の心理・考え方にまですら及び、巻き込んだのではなかろうか。
 あらためて質問したい。朝日新聞に便宜的に又は代表させて限定しておくが、朝日新聞の今回の選挙報道ぶりに問題(批判されるべき点)はなかったのかどうか。かりにあったとすれば、それはどの程度のもので、貴氏はそれをどう批判するのか(「問題はなかった」と言うなら、その旨答えてほしい)。
 関連して言及するが、山本雄史ははたして、朝日新聞という新聞社がどういう主張をし又はどういう虚報(捏造報道)を発してきたか等についての十分な知識を持っているのだろうか。昨年末の若宮啓文論説主幹の(私には滑稽至極な)コラムを読んだことがあるのだろうか。読んだとして、どういう感想を持ったのだろうか。あるいは、朝日新聞のみを批判する単行本、朝日新聞批判を含む単行本は何冊も出版されているのだが、この人はいったい、どの程度読んでいるのだろうか。
 そこで端的に質問する。1.最近10年間についてでもよいが、朝日新聞の論説・主張の「傾向」をどのように評価しているか。2.上のような単行本のうち何冊、かついずれの本を読んだことがあるのか(全くないなら、その旨答えてほしい)。
 なお、質問ではないが、北朝鮮当局は安倍首相の辞任を要求した、という。
別の国家の人事に介入してくるとは噴飯ものだが、北朝鮮は朝日新聞と同じ主張をしたことになる。いや、朝日新聞が先立って北朝鮮と同じ主張をしていた、と見るべきものだろう。
 第三に、山本雄史は安倍首相よりも小沢一郎を積極的に評価しているようだ。例えば言う-「小沢一郎が地味に地方や事務所回りに精を出した。一部メディアは小沢の作戦を冷ややかに受けとめていたが、小沢のやっていることは選挙の王道で、何ら奇をてらったものではない。そもそも、遊説で票が取れると思ってはいけない」。
 上の「一部メディア」とはどのメディアを指すのかよく分からないが(産経新聞だとしたら、再び驚愕だ。ネット上で自社の報道ぶりを再び公然と批判していることになる)、上の記述内容自体を問題にしようとは思わない。適切な指摘だと思われる部分があるからだ。
 だが、山本のかなり固い<安倍嫌い>を読まされると、小沢一郎についての、この山本という人の知識・認識の程度・内容を知りたくなる。
 90年代の政界の中心にいて<掻き混ぜた>のは小沢一郎その人だった。細川連立政権を生んだのは実質的に小沢一郎だったと言ってよいが、日本社会党を政権内に入れさせ、官僚を<社会党(社会民主主義)>に慣れさせ(例えば、文部官僚と日教組の接近→「ゆとり教育」)、細川首相の先の戦争は<侵略戦争だった>との単純な歴史認識の表明も生んだ。その後の村山・自社さ連立政権も、小沢一郎(新生党)と社会党・さきがけの自衛隊国際貢献等に関する対立と細川政権下での小沢の露骨な社会党外しにそもそもの原因あったのだとすると、小沢こそが社会党を自民党の方に追いやり(社民主義に甘かった当時の)自民党が受け入れたことによって成立した、ということもできる。そして村山政権は戦後50年国会議決(当時の安倍晋三議員は退席したと記憶する)や同村山談話をも生んだ。とくに後者は「自虐的」と評しうるものだった。小沢一郎が生んだともいえる一連の細川・(羽田)・村山政権は、―呼称はむつかしいが―親中国(・北朝鮮)「自虐的」政権だった、と言えなくもない(そのように論評する人もいる)。
 一方、新進党瓦解後、小沢一郎は自由党を結成していて、一時期自民党と連立与党を構成した。過半数獲得のために自民党が自由党を必要とした事情があったが、小沢は政権与党内での自らの地位の向上を狙っていただろう。公明党の連立参加により自由党がいなくとも与党は過半数を取れるようになり、自由党は小沢自由党と保守党に分裂して前者は野党に転じた。その直前に小沢・小渕首相会談があり、会談後に小渕首相は脳梗塞で倒れたのだが、会談において小沢一郎は、小渕首相に対して、自己の政府内要職(首相を含む)の地位の保障を要求したのではないか、と私は想像している。
 前後するが、小沢一郎らが新生党を結成して自民党を離党したとき、立花隆は<何が改革派だ、ちゃんちゃらおかしい>旨述べて朝日新聞紙上で酷評した(とっくに朝日読者でなかったので当日は読んでいないが、のちに有名になって別の本で読んだ)。小沢一郎は田中角栄-金丸信の直系の「金権」政治家(新しそうでじつは古い政治家)だという少なくともイメージはあったのだ。
 余計なことを私の推測も交えて長々と書いたが、問題にしたいのは、山本雄史記者が上に一端を示したような90年以降の政界改編の状況・歴史、小沢一郎という政治家について、どの程度の知識・見識を持っているのか、ということだ。20年もまだ経っていない近年の日本の政治状況・歴史や重要な政治家の一人について、十分な知識と見識なくして、小沢氏等について十分に適確な記述・論評ができるのだろうか。政治(も)担当の新聞記者なら、書物を通じてであれ、基本的な概要は知り、理解して何らかの見識は持っておくべきだろう。
 はたして、山本雄史記者は、上のような十分な知識と見識を持っているのかどうか。
 そこで、質問したい。90年以降の政界(政党改編等)の状況・歴史、小沢一郎という政治家について、何という書物を読んで知識・見識を得たのか(小沢一郎の著書を含む)。これらに関する知識・見識が不十分のままでは政治(も)担当の新聞記者の資格はないと考えるので、あえて問う。
 なお、私がすでに書いた以下も参照。<リンク削除>
 もう一つ、第四点を予定していたが、長くなったので、「民主主義」・「民意」論とともに次回に回す。
 いくら何でも<完全沈黙>はないだろう。

0315/産経・山本雄史記者への質問と助言・2。

 一 産経山本雄史記者は安倍首相は辞職すべきであったと主張している。この点は、政治的見解・主張の分かれで、結論の当否のみを一般的に論じるのは必ずしも適切ではないかもしれない。
 私は開票前から、退陣すべきではないと主張してきたし、結果判明後も続投支持、退陣不要の旨をこのブログでも書いてきたので繰り返さない。一つの政治的主張だ。
 そして重要なのは、私のような見解・主張はごく一部のものではない、逆にいうと山本雄史のような見解・主張が国民の大多数のそれと同じであるということはない、ということだ。
 たまたま気づいたのだが、他ならぬ山本が所属する産経新聞上の<週刊誌ウォッチング>で花田紀凱は、「朝日新聞の異常な安倍叩きがまだ続いている。朝日自身による参院選後の緊急調査でも「首相は辞任を」47%、「続けてほしい」40%とそれほど差がないし、自民大敗については「原因が安倍首相にある」34%、「そうは思わない」59%という数字なのに「首相の続投 国民はあぜんとしている」(7月31日社説)」と安倍退陣を狙う朝日新聞を皮肉っている。
 山本も、自分の(朝日新聞と結果としては同じ)感覚が決して国民大多数にも共通するするものとは思ってはならない。
 二 問題は、又は関心をもつのは、前回の繰り返しだが、なぜ山本記者は「私は安倍政権について、距離を置いてきた」と書いているのだろうか、ということだ。
 そうした<心情>からは、安倍首相に対して厳しい見方が生まれても不思議ではない。
 そして論点を変えると、じつは上の部分にも、この人が「悪しき戦後教育の影響」を受けてきたことの証左といえるものが潜在していると思われる。
 やや強引な論理づけになるかもしれないが、安倍内閣は教育基本法を改正させ教育再生関連法案も成立させたが、それは「悪しき戦後教育」を是正する・改めるという目的のためだった。戦後教育が100%否定されるべきだとは私も思わないが問題点が多々あったことはたしかだと思われる。そして、そのような問題意識を持っていた人々は、八木秀次をはじめとして安倍内閣を高く評価している。
 しかるに、山本は<安倍政権から距離を置いた>、という。ここの意味はむろん厳密には把握できないが、上記のような<教育改革>にも特段の賛意を持たなかった、ということをも含んでいると理解できる。とすると、まさに山本は従前の<戦後教育>のままでよかった、と考えていることになる。そして、それが<悪しき>部分を含むとすれば、<悪しき戦後教育の影響>をモロに受けているからこそ、安倍内閣の教育改革を評価できないのだろう。
 上記のとおり、やや強引な論理づけであることは自覚しているが、平然と<安倍政権から距離を置いた>旨を書く山本が、<悪しき戦後教育の影響>を受けていない筈はない。また、<悪しき戦後教育>を伴っていたのが<戦後レジーム>だったが、<戦後レジームの権化>と称しうる朝日新聞の主張と同じ又は類似の叙述や主張を山本がしている部分があることも看取でき、その意味でも、山本は<悪しき戦後教育の影響>を受けているのだ。
 上の部分は、<悪しき>の意味を明瞭にさせないと適切な議論にならないかもしれない。
 具体的に<悪しき戦後教育の影響>が見られると考えられるのは、その選挙観・民主主義観だ。殆ど<民意を尊重すべき>としか理由づけることのできない幼稚さ・単純さは、私には<悪しき戦後教育の影響>そのものだと思える。次回に書き続ける。
 三 今回も山本雄史記者に対して、質問をしておこう。
 何故<安倍政権から距離を置いた>かを知りたいためであり、何故少なくとも結果としては朝日新聞と同じ主張をしているかの背景を知りたいためだ。
 ①2005年の朝日新聞対NHK・安倍氏問題についてどう認識、評価しているのかを書いてお教えいただきたい。もしすでにどこかに書かれていれば、その所在を教示いただきたい。
 ②2000年の松井やより等の<国際女性戦犯法廷>という行事そのものをどう認識し、評価しているのかを書いてお教えいただきたい。もしすでにどこかに書かれていれば、その所在を教示いただきたい。
 ③「慰安婦」問題についてどういう認識・評価をされているのか、を書いてお教えいただきたい。もしすでにどこかに書かれていれば、その所在を教示いただきたい。
 産経新聞の主張の基調ならば理解できるが、山本の認識・見解はどうやら産経新聞の論調とは必ずしも同じではないようなので、是非伺ってみたい。
 四 山本は、今回の選挙結果についてこうも言っている-「国民は、安倍首相のやろうとしていることに自民大敗という結果で、ブレーキをかけた気がします」。そしてそれを肯定的に見ている。彼のいう「民意」だからだ。ということはもちろん、<ブレーキがかかってよかった>又は少なくとも<ブレーキがかかってもやむをえない>ということを意味するだろう。この人は、選挙で示された「民意」を「重く受けとめて」尊重する人だからだ。
 かかる考え方は選挙結果=安倍内閣不信任と捉える朝日新聞と同じだ。
 あるいは、朝日は<反自民3点セット>(年金・カネ・失言)を選挙の争点にして煽ったのであり、私自身が既述のように、じつは今回の選挙結果によって安倍改革・安倍路線が否定されたことにはならない、と分析することは十分にできる(櫻井よしこ、岡崎久彦等、同旨の論調も少なくない。上記の花田コラムの中の安倍首相に責任34%・なし59%との数字も参照)。そして、朝日新聞の論説委員たちはこのことに気づいている可能性も十分にある、と思っている。
 とすれば、産経の山本雄史は能天気にも、朝日新聞以上に今回の選挙結果を安倍首相・安倍内閣に不利に理解していることになる。産経新聞の記者様は、上のようなことを世間一般が読める媒体に平気で書いてしまわない方がよろしいのではないか。

0314/産経・山本雄史記者への質問と忠告・1。

 産経山本雄史という記者はなかなか面白い人だ。面白い、というのは関心を惹く、という意味で、積極的・肯定的に評価する言葉として用いてはいない。
 この人はこのイザ!内に記者ブログを持ち、7/30に「安倍首相はなぜ空気が読めないのか」という一文を書いている。やや遅れて読んですぐに、やや感情混じりのコメントを書いてしまったのだが、本文はもちろんその私に対する反コメントやその他の多くの対応コメントをあらためて読んでみると、その皮相さ・単純さには呆れる(多数の対応コメントの内容は殆ど同じことの繰り返しだ)。
 山本は「安倍首相は空気を読めているのだろうか」と本文を終えているが、上のタイトル自体も含めて、<安倍首相は空気を読めていない>と理解又は主張していることは、対応コメント等を読んでも明らかだ。
 また、<空気を読めていない>とはどうやら次の意味のようだ。すなわち、<参院選で自民党大敗という「国民の審判」結果が下ったのに、続投しようとするとは、敗因の理解も含めて、「空気を読めていない」>ということだ。つまり、彼は、安倍首相は退陣すべきだった、と主張していることになる。
 見解の相違ということになってしまう部分もあるので、まずは大きな又は基本的な問題・論点から叙述してみよう。
 私は「貴氏の書いていることが全部誤っているとは言わない。/しかし、些細・瑣末な問題に関心を持ちすぎている」とまずコメントしたのだったが、じつは山本氏はこの部分には何らの反論も対応コメントも書いていない(そのことを批判するつもりはない。自由だ)。
 上の私の言葉は瞬時に感じた印象だったのだが、この人の精神構造・発想・考え方といったものに直接関係していると思われる。
 話を大きくさせる。この人の学歴を一切知らないで書くが、新聞社に入社し政治関係の(少なくともこれも扱う)部署・支局にいるとすれば、政治・政治史・政治思想(民主主義を含む)・政治思想史・政治学・選挙・日本政治・現代政治等に関する書物を少しは読み、関係する月刊誌や週刊誌も読んで、一般人又は平均的国民以上の知識・見識を持っていると、すなわち私のような政治又は政治学の「しろうと」とは違って、基礎的な素養を十分に身に付けている(または年齢からみて少なくともその過程にある)ものと推測して当然だろう。何しろ「プロ」の政治(も)担当の新聞記者という文章の書き手なのだから。
 しかし、見事にそのことを感じることができないのが山本雄史という人の文章とその内容だ。
 山本記者よ。上の指摘に反論したいならば、学生時代以降現在までに読了している上に列挙した学問分野に関する書物のリストをブログ上で明らかにしていただきたい。また、近年定期的に講読し(精読とはいかなくとも普通程度に)読んでいる月刊雑誌のリストもブログ上で明らかにしていただきたい。
 こんなことを書くのも、この人の考え方の幼稚さ・単純さに新聞記者としての「ただならぬ」ものを感じるからだ。
 関連して書くと、この人が社員である産経新聞社は正論エクストラをたしか8号まで出し、正論という月刊雑誌も出しているのだが、この山本雄史という人は、自社のこれらの出版物をどの程度読んでいるのだろうか(上の質問と一部重なる)。
 むろん社員だからといって自社の出版物を全て読む義務はない。だが、「政治」(も)担当なら、これに関係する論稿等々が掲載されている月刊正論(や正論エクストラ)等を他新聞社の出版物よりも少しは多く読んでいても不思議ではないのではないか、と世間の通常人の一人と思っている私は想像する。
 しかるに、こうした出版物(むろん執筆者・論者によって論調等が一様ではないが)が基本的なところでは一致しているのではないか、と私は感じるところのある、<時代認識>、<歴史認識>そして<政治認識>と、この山本雄史という人の持っているこれらは異なっている、と断言できる。
 また、産経新聞の基本的な論調(古森義久や阿比留瑠比の書く内容はこの中に含まれているだろう)とこの人の考えは違っているようだ。
 このことは山本自らが認めている。例えばいわく-
 「私は安倍政権について、距離を置いてきた。労働組合批判を繰り返すのは得策ではない、などと産経の論調とは異なる見解も示してきた」、「私のような記者は存在そのものが許されないようです・(苦笑)」。
 あるいは、「本日の朝刊各紙のメーン見出しをみると、「自民歴史的大敗」「自民歴史的惨敗」といった見出しが踊っている。私も「歴史的惨敗」という要素こそが、最も大きなニュースと思うのだが、産経だけは「安倍首相 改革へ続投表明」の見出しが目立つようになっていた。」等。
 私が関心をもつのは、なぜかかる意識・見解が形成されたのか、という点だ。少し言い換えれば、産経発行の出版物や産経新聞をきちんと読んでいれば、かかる<反安倍>心情は生まれなかったのではないか、ということだ。
 山本記者よ。ほぼ繰り返しだが、月刊正論や正論エクストラをどの程度<真摯に>読んでいるか、貴氏のブログ上で明らかに又は説明していただきたい。
 さて、山本はおそらくは業務命令によってイザ!上にブログを開いているのであり、自由意思にもとづくものではないと思われる。しかるに明確に産経新聞の記者と名乗りつつ、産経新聞の基調と反する主張をしている。「産経がより支持を得るためにも、多様な見方は必要だ」と明記して現在とは異なる「多様な見方」も紙面化するべき旨をも述べている。勇気はあるのだろうが、しかし、個人的に上の如く考えるのとブログ上でそれを公にするのとは質・性格が全く異なる。
 産経新聞社内部の問題を話題にしようとしているのではない。私は、なぜそこまでの、自社の新聞の基本的論調と矛盾する考え方・認識を公に示すことができるだけの<基本的な歴史観>・<基本的な時代観>そして<基本的な安倍政権観>ができあがっているのだろう、と不思議に感じているのだ。
 また、全く余計だろうが、この人は帰属会社との同一性感覚が乏しいか失われているために何らかのストレス又は抑圧的心理を持っているのではないか、と心配しもする。
 ここまでで第一回としたい。
 次回に書きたいことを少しだけ。第一、「産経新聞を10代のころから愛読している」ことが「悪しき戦後教育の影響」がないことの根拠・論拠になる筈がない。コメントとはいえ、新聞記者なら、もう少し論理的に考えたらどうか。
 第二、「国民を信じることから民主主義は始まる」「私は日本人の民意を愚直に信じ」る-同旨で反復されているこのような部分にこそ、基本的な誤謬がある。民主主義(多数者の勝利)とその結果の<正しさ・合理性>は別の次元の問題だと、いつぞやすでに書いた。
 また、この人の言う「国民の審判」という言葉の意味は不明確だ。かつ、その「国民の審判」結果から特定の結論(具体的には、退陣すべき)を導く論理も杜撰だ。新聞記者なら、より緻密に論理的に書いたらどうか。
 さらに、「国民の審判」=選挙結果を「重く受け止める」ことは当然で、私も肯定するし、安倍首相も明言している。問題は、「重く受け止め」て、どうするか、だ。この二つの問題の論理的区別が、山本氏にはきちんとついているのだろうか。
 反論したければ、とりあえずにでもどうぞ。また、とりあえずにでも、質問に答えていてただきたい。
 一般ブロガーの書いていることに逐一反応しようとは思わないし、例えば朝日新聞記者のプログ内容がやはり朝日らしく奇妙であっても逐一はとりあげないだろう(朝日記者のブログがあるか否かは知らないが)。産経の記者のブログだからこそ、多少の関心をもつのだ。

0312/安倍首相続投と世論-朝日新聞の策略は完遂ならず。

 安倍首相続投に関する各社の世論調査の結果を、産経・阿比留瑠比の8/01ブログが紹介しており、全紙を読まない(読めない)者にとっては有り難く、有益だ。
 それによると、支持(評価)する・支持(評価)しないの順での%は次のとおり。
 読売-44%・45%。
 東京-44%・50%(コンマ以下四捨五入)。
 朝日-40%・47%。
 日経-36%・50%。
 自民党支持者に限っての続投支持率は、読売で74%、朝日で77%、日経73%
 テレビでは続投疑問視のコメントが完全な多数派の印象だったし、朝日新聞の社説は「安倍続投・国民はあぜんとしている」とのタイトルまで打ったのだが、阿比留も指摘するように、世論は続投批判が多数派では必ずしもない。少なくとも大多数派ではない。
 朝日新聞は上の数字に関しては特段の見出しをつけなかったようだが、きっとガッカリしているだろう。30%対70%、悪くても40%対60%くらいの数字が出るだろうと想定(期待)していたのではないか。不支持が47%では、「過半数が…」との大きな見出しをつけるわけにもいかない。残念ながら、朝日新聞・若宮啓文らの<策略>は、最終的には挫折した。彼らは最終目的を達成することはできなかった。
 そして朝日には、野党が過半数取っても国会は混乱せず大丈夫、むしろ「正常化」だ、などと社説でいったん書いた重みが今後のしかかることになるだろう。
 自民党支持者の数字もほぼ3/4が支持で、自民党支持者が安倍首相を決定的に見離しているわけでもない。
 これらの数字は、民主党に勝たせ過ぎたという感想にもよるのかもしれないが、自民党支持者に限らず、(朝日新聞にとっては極めて残念なことだろうが)もともと安倍首相に自民党敗北の責任の過半があるとほぼ一致しては考えられていない、そういう印象は大多数にはもたれていない、ということを示しているのではなかろうか。
 だが、上の数字のような世論の「空気」を自分は「読め」ず、安倍首相は空気を読めるか>と問題にしている新聞記者がいる。産経の、山本雄史という、政治部所属らしい記者だ。この人の書いていることはかなりの問題点を含むので、別に(本格的に)扱う。

0309/産経8/01の岡崎久彦・「正論」はズバリ適切だ。

 先週日曜午後のたかじん委員会(読売系)で、1993年の総選挙の際、テレビ朝日が自民党を敗北させ反自民の連立政権成立の手助けとなる報道をしようと話し合った旨を同局の椿貞良報道局長があとで述べた、という「歴史的に名を残す大事件」があったとし、マスコミの<公平・公正とイデオロギー>の問題の一つとして説明していた(但し、批判又は反省のみの素材として取り上げてはいなかった)。マスコミによる意図的な誘導をマスコミ関係者自身が認めたことがあったのだ。
 今回の参院選につき、捏造番組放送等に対応して放送法上の総務大臣の権限を強化して行政処分権限などを盛り込む放送法改正案に「放送業界」(テレビ局)等のマスコミ業界が反対していたため、マスコミ業界はこの放送法改正案を潰すために自民党に不利な報道をした、との情報又は主張がある。
 これが全面的にではなくとも、一部にしても正しいのだとすると、マスコミ、とくに「放送業界」は自分たちの<業界利益>を守るために(も)歪んだ選挙関係放送・報道を選挙戦期間中にしたことになる。
 いずれにせよ、マスコミの報道ぶりをそのまま信用するあるいは鵜呑みにしてはならないことは確かだ。
 さて、産経8/1の正論欄の岡崎久彦の論稿はほとんど私が書いたこと、書いていないが考えたこと・感じたことと同じで、心強い。
 岡崎久彦は安倍首相続投表明でとりあえず「安堵した」と述べたのち、次のように書く。
 1.「専門外」だが、冷戦後の日本の選挙は政策等の選挙でなく「一種のイメージ選挙」で、その「イメージ」は「風」により「振り子のように揺れる」。
 2.専門の外交安保について、安倍政権に「いかなる失点もない」し「選挙戦中これが問題にされたこともない」。
 3.内政は年金問題だというが、これは「行政と労組の共同責任」だ。「増税と老人負担の増加は小泉内閣の遺産」で安倍内閣は踏襲せざるを得なかった。
 4.上のことは「イメージの振り子が揺れもどる」中で選挙に「大きな影響を与えたらしい」が、「私の直感では、別の理由もあった」。
 5.すなわち、今回の選挙は新自民党と「古い自民党」(小沢一郎)の争いだった。安倍内閣の諸施策推進(教育基本法改正・国民投票法等々)は「古い自民党体質を持つ人々に違和感を与えた」。安倍政権は「古い自民党の体質を打ち破った」ので「古い人々の間に…陰湿な反感を生んだ」。また、安倍首相が「大新聞との対決」〔対朝日新聞だろう-秋月〕を避けなかったのは、かつての佐藤栄作首相以来だ。
 6.だとすれば、「ここで引いてはいけない」。「旧自民党の体質-…旧社会党の体質でもある-に戻って安住したい」人々が「盛り返して」くる。ここで頑張れば、そういう人々は「過去の人となっていく」。安倍首相は「所信をまげず、党派を超えて、新しい日本を担う人々の希望の星となればよい」。
 7.外交安保のほか、「憲法も幸か不幸か選挙の争点にならなかった」。集団自衛権問題等日米同盟を盤石にし、「懸案に正面から立ち向かって、初期の目的を追求して」ほしい。
 対米国関係の問題なと私にはまだ分からない問題もあるが(その意味で岡崎久彦の諸論議に全面的に賛成しているわけではないが)、上のような分析・主張はきわめて真っ当だ。
 確かに自民党の支持基盤が弱くなっている現象はあるのだろうが、策略的な「イメージ」の利用に加えて「古い体質」どおりの選挙戦をしたのは、元来はそれに反対して脱党した筈の小沢・民主党だった、と思われる。地域・業界・公務員界の利益(利権)のための「古い」集票構造を彼は民主党のために利用したのだ。
 また、安倍・自民党に反対し、厳しく安倍首相を罵倒している山崎行太郎という無名の?文芸評論家のような人々で、かつ日本共産党(・共産主義)や社会民主党を支持しているわけでもないという人々は、安倍改革・安倍政治による<変化>を懼れる守旧的・保守的・既得権墨守的な人々であることが多いような気がする。
 いつかも書いたが、<戦後体制からの脱却>は、私自身も含めて、何らかの<痛み>あるいは<自己否定>を伴わざるを得ないものであると思われる。その<体制>のもとでほとんどの国民が現に生きてきたのだから、こんなものだと「慣れて」しまっているからだ。
 その点に気づかず、相変わらずそこそこの平等となぁなぁの意思決定に慣れてしまった人々が、日本の将来のためには必要な安倍<改革>を、国家主義的とか反動的とか強権的とかのレッテルを貼って妨げているような気がする。
 表立ってこんな批判はしなかったが、マスコミ「業界」もまた、既得権的利益や新しい電波・放送法制の下での従来と同様の「利権」を守り又は獲得したいのだ。
 そのようなマスメディアに曝されている日本国民は-他人事のような表現になってしまうが-本当に気の毒だ。単純にマスメディアを信用したり、彼らが醸成したイメージに追従したりしてはいけない、とまた再び、今回の初めに書いたことに戻ってしまう。

0308/民主主義はつねに「正しい」結論を出すか-読売7/31河野博子コラムに寄せて。

 7/29の夜から翌日未明にかけてのテレビ放送を観ていると、安倍首相が続投表明をしたあとで、それを疑問視する発言・コメントが多かったように思う。
 それもいちおう<政治評論家>を名乗っている者がそういう発言をすることは別に不思議ではないのだが、奇妙に思ったのは、番組のキャスター類(要するに司会進行役が基本のはずだ)やさらにはあろうことか番組のふつうのアナウンサーまでもが、何か喋らないと時間が潰れなかったのか、平気で安倍首相の行動・判断を批判又は疑問視する発言をしていたことだ。翌日の彼らの発言・コメントも含めておいてよい。
 日本のテレビ局のキャスターやアナウンサーはいつからそんなに<エラく>なったのか。いつから<政治>を論評できる資格を実質的にでも身に付けたのか。
 <しろうと>が生意気にあるいはエラそうに電波を使って多数視聴者に<したり顔>で語っているのだから、じつに滑稽であるととともに怖ろしい、日本のマスコミの姿だと感じた。それも政権側を、あるいは敗戦した側を批判しておけば<多数大衆に受けて>無難と考えたのか、政権側を批判するのが<進歩的・良心的・知的>で、そのようなコメントの方が格好良い又は自分をエラく見せられると考えたのか、上述のような内容の発言・コメントなのだから、度し難いバカバカしさを感じた。
 ヘンなのは民放各局だけではない。30日に入ってからの島田敏夫というNHKの解説委員の発言・解説的コメントは、録画していないので正確に再現できないが、少なくとも私から見れば、相当に<偏り>のあるものだった。視聴率が低くてあまり注目されていないが、日付が変わってからのNHKの政治がらみのニュース解説には??と感じさせる奇妙なものがあると感じていたが、島田敏夫なる人物のコメントも奇妙だった。
 また、島田および上で触れた民放各局のキャスター類にも共通することだが、そして今に始まったことでもないが、内閣総理大臣という国家機関を担当している者に対する慰労の念などこれっぽっちもなく、内閣総理大臣担当者に対する儀礼的でもいい敬意すらなどこれっぽっちも示さず(むろん首相への直接の質問者は最低限の丁寧さはあったとは思うが)、安倍と呼び捨てているような雰囲気で、あれこれと批判・疑問視しているのも奇妙に感じた。
 そのような人たちは内閣総理大臣たる職務の重要性・大変さを理解したうえで発言しているのか疑問に思ったものだ。大衆注視の舞台の上で何かを<演技している>のが政治家ではない。演技かゲームプレイの巧さ・下手さをヤジウマのような感覚でプレイヤーと対等な感覚で論評する、というのが国政選挙にかかる発言・コメントではないだろう。
 元に戻れば、7/31午後7時半からのNHK・クローズアップ現代国谷裕子の言葉・雰囲気もヒドいものだった。
 安倍続投が気に入らない、問題にしなければならない、何故自民党内で続投批判が大きくならないのか、という関心に立脚して彼女は喋っていた。原稿が別の政治記者によって書かれているとすれば、その政治記者の気分をそのまま画面上で伝えたのかもしれないが、明らかに公平さを欠く報道の仕方だった。画面に登場した政治記者の方がまだ冷静又はより客観的だったのが救いだったが、ともあれ、NHKの報道等の仕方・内容は決して安心して観れるものだけではないことは十分な注意を要する。政治記者クラブの世界の意識・雰囲気は一般国民又は心ある国民のそれらとは相当に異なっている可能性がある、と想像しておくべきだろう。
 最後にもう一点指摘したいのだが、次のことをあらかじめ一般論として述べておきたい。
 民主主義理念にもとづく有権者国民の投票の結果は、<正しい>または<合理的>なものだろうか? 答えは勿論、一概には言えない、だ。選挙結果は歴史的に見て<正しい>または<合理的>とは言えなかった、と評価されることは当然にありうる。
 民主主義はつねに正しい又は合理的な決定を生み出す、というのは幻想だ(だから私は直接民主主義的制度にはどちらかと言うと反対だし、限られた範囲での住民投票制度の導入にも政策論として消極的だ)。多数の者が<参加>したからより<正しく>又はより<合理的に>決定できる(た)、と考えるのは一種の<幻想>にすぎない。
 民主主義はあくまで手続又は方法なのであって、生み出される結果の正しさ・合理性を保障するものではない。ここで民主主義を「選挙」と言い換えてもよい。くどいが、「民意」がつねに<正しく><合理的だ>と理解すれば基本的な誤りに陥る。
 このような観点から、読売新聞7/31夕刊編集委員・河野博子の「行動を起こす」と題するコラムを読むと、なかなか興味深いし、素朴な誤りに取り憑かれていると感じる。
 この人は次のように書く。「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。
 これは読売新聞に載っていたのであり、朝日新聞ではない。この河野博子が何を分担担当している編集委員なのか知らないが、上の文章はヒドい。
 第一に、「有権者の投票」という「アクション」とその結果を100%肯定的に評価している。読売社内にいて、一部マスコミ(つまり朝日新聞等)の<異常な反安倍報道ぶり>に何も気づかなかったのだろうか。また、読売は社説で選挙結果に伴う衆参のねじれ等から生じる混乱等に<憂慮>も示していたのだが、そんな心配は、上の河野コラムには微塵もうかがうことができない。
 第二に、今回の結果をもたらしたような「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」と結んでいる。ここでも言うまでもなく、選挙結果の肯定的評価が前提とされている。
 さて、この河野という人物は、選挙の結果=「民意」はつねに<正しい>又は<合理的>なものだ、という素朴な考え方にとどまっいるのではないか。このような考え方が<正しい>又は<合理的>なものではないことは上に述べた。
 上で書くべきだったが、ヒトラーは合法的に・民主主義的に政権を獲得し、合法的に・民主主義的に実質的<独裁>政権を樹立した。民主主義は結果の正当性を保障しない。
 朝日新聞と同様に今回の選挙結果を、投票までの種々の要素をヌキにして結果としてはそのまま<正しい>ものと判断しているなら、読売から朝日に移籍したらどうか。
 第二に、「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」などというのは、失礼ながら、少女の描く政治幻想とでもいうべきものではないか。
 問題は「アクション」の中身なのであり、いくらつまらない、あるいは有害な<アクション>が積み重なっても「世の中」は良くならないのだ。「世の中を、一つ、一つ変えていく」とは、文脈・論旨からすると<良い方向に変えていく>という意味だろう。
 こんなふうには、絶対に言えない。何かのアクションの積み重ねによって世の中が良い方向に変わるのなら、こんなに簡単なことはない。改良・改善の方向への動きを阻止・妨害する「アクション」も生じうることは、一般論としても明らかではないか。多言はもうしないが、この筆者は単純素朴な<進歩主義者>なのかもしれない。
 読売新聞の解説委員までもが(と言っておく)上に簡単に紹介したような文章を書いて活字にしてしまうところに、日本のマスメディアの大きな恐ろしさがある。
 読売新聞の解説委員はなんと、要するに、今回の投票のような国民のアクションの積み重ねで世の中は良くなる、と書いたのだ。朝日新聞等のおかげで論じられるべき争点は論じられず、結果として「安倍改革」・「安倍政治」の進行を滞らせることになったのが、今回の選挙結果なのではないか、読売新聞自体もこのことをある程度は理解し、憂慮し、警告を発しているのではないのか。河野博子コラムは読売全体の論調からも外れている。

0307/安倍首相は朝日新聞に絶対に屈してはならない。

 産経によると、一部マスコミで「安倍バッシング」が厳しくなっているようで、朝日新聞だけではなく毎日新聞等の名も挙がっていた。
 このような結果にかりになればと予想していたとおり、朝日新聞はここぞとばかり<安倍退陣>の主張をして、世論を煽るだろう。「政治団体」なので、当然のことだ。
 朝日7/31朝刊を見ると一面に星浩・編集委員の「民意読めぬ自民」との大きな見出しの文章。安倍首相続投もこの「民意」と「大きく隔たって」いて「対照的」らしい。
 4面には、内容を読んでいないが、「「安倍不信任」そのもの」との大きな文字の見出し。7面には「国民の不信感噴出」とのこれまた大きなゴチ文字のもとで「左翼」・護憲派で知られる朝日好みの作家等・辻井喬等の座談会。39面には「格差軽視不満の渦」と再び大きなゴチ文字。
 政治ビラ・アジビラのような大きな文字と大袈裟な記述・表現ぶりは朝日に珍しくはなく、いつものことだ。何よりもやはり社説がスゴい。若宮啓文が執筆しているか、少なくとも了解はしている筈だ。
 社説のタイトルは「首相の続投・国民はあぜんとしている」。ここで「国民」という言葉を使われると困る。私には「朝日新聞記者のような一部の国民はあぜんとしている」のだろうと思われる。少なくとも私は「あぜんとして」いないので、このタイトルには違和感をもつし、厳密ではない。
 制度的にみて、安倍晋三は衆院・参院の両院で内閣総理大臣として指名された。また、憲法上、両院の意思に合致がない場合は衆院の議決が優先するとされている(憲法67条)。参院選の結果が首相の地位を左右するとの法制度的根拠は全くない。
 あとはすべて政治的な問題だ。やはり朝日社説は44だった橋本内閣、36だった宇野内閣の先例を持ち出しているが、たんなる先例の若干で、こういった数字が政治的慣行・ルールになっているわけではない
 安倍後継者がまだ固まっていないとかの理由付けもされているようだが、私見では、安倍首相が退陣する必要がない決定的な理由は、自民党は(朝日も同様と思うが前回言及の読売の見出しを利用すれば)「年金」・「格差」・「政治とカネ」を最大の又は主要な争点とする選挙に敗北したのであって、<安倍政治>・<安倍改革>が基本的な所で否定されたわけではない、ということだ。
 「年金」問題の本質は公務員労働問題で安倍首相・同内閣の責任は殆ど形式的なものだ。実質的責任を問えば、民主党にだってとばっちりは向かう問題だ。
 「政治とカネ」問題も安倍首相自身の問題ではない。むろん閣僚任命責任はあろうが、事務所経費問題自体がじつはさして本質的な問題ではない。
 「格差」問題は、例えば四国で自民全敗の如く地方の疲弊が自民党離れを起こしていて小沢民主党に巧妙に衝かれたという面があるのはたしかだろうが、9ケ月ほどの安倍内閣の責任がどれほどあるだろうか。「小泉改革」の後始末をするのは安倍内閣の歴史的課題というのが先日言及した中西輝政氏の理解だった。少なくとも、安倍内閣自体の失政によるとは言えないだろう。それにそもそも、格差=不平等は一切いけないのか、という基本的問題もある(格差ゼロは一部特権エリートを除いてみんな平等に貧しい社会主義社会ではないか)。
 大きな争点にならなかったこともあって、改憲路線あるいは<戦後体制からの脱却>という基本路線が今回の選挙によって国民に信任されなかった、ということはできない憲法問題についていえば、9条護持を強く主張した日本共産党・社会民主党は逆に議席・得票率ともに減らした。繰り返せば<安倍政治>・<安倍改革>が否定されたわけでは全くない。
 朝日新聞もディレンマを感じてはいるだろう。「年金」・「格差」・「政治とカネ」を争点として煽り立てて自民党の議席を大きく減らすことはできたのはよいが、じつはこれらは<安倍政治>・<安倍改革>の骨格とは関係がないのだ。「年金」・「格差」・「政治とカネ」にかかわる<イメージ>・<印象>によって安倍自民党を「大敗させる」ことに成功はしたが、本質的な所で、安倍首相に打撃を与えることはできていないのだ。
 安倍首相個人の思いはむろんよく分からないが、<改革路線が否定されとは思わない>(あるいは<支持されていると思っている>)旨の発言は、上のような脈絡の中で理解されるべきだろう。
 朝日社説は、「派閥全盛期の自民党を懐かしむわけではないが」としつつ、自民党内で安倍首相の責任を問い退陣を求める声が強くは出てきていないのを歯がゆく感じているようだ。
 別の報道によれば、加藤紘一は勿論だが、谷垣禎一も続投に疑問を呈したようだ(但し、彼の発言もさほど厳しいものではない)。古賀誠、山崎拓、麻生太郎は続投支持・安倍首相信任で一致している。
 自民党有力者もまた、加藤紘一のような口舌だけの徒・異端者を除いて、今回の敗戦の原因を安倍首相に大きく負わせることはできない、と判断しているものと思われる。そしてそれは、決して政治的なものではなく、客観的にも妥当なところではないか。
 朝日社説もまた参院選の結果だけでは安倍不信任にはならないことを理解しているようでもある。最後の文で、「続投するというなら、できるだけ早く衆院の解散・総選挙で」民意を問えと主張している。決定的なのは参院選ではなく衆院選であることを認めている文章ではなかろうか。
 だが、しかし、朝日新聞は今後も執拗に安倍退陣に導く方向での記事を書き、紙面づくりをするに違いない。あくまで<反安倍・左翼政治団体>だからだ。
 そのために、自民党内の安倍批判派・批判者の声を大きく取り上げ、逆に温和しい者に対して何故続投を容認するのかと批判し皮肉る記事を書くだろう。公明党批判も続けるだろう。
 また、選挙前にすでに書いたように、世論調査を最大限に利用するだろう。<参院選で自民党が大敗したにもかかわらず安倍首相が退陣しない(続投する)のをどう思いますか>というアンケートをし、望むような結果を得て、<国民多数も辞任を要求>・<多数が続投を疑問視>といった大きな見出しをつけるだろう。
 むろん、すでに表れているが、朝日に有利な<識者コメント>を今後も多用するに違いない。
 これらは目に見えている。自民党が37でなくったって、与党が過半数割れをすれば=ともかくも自民党が<敗北>すれば、かかる<政略>が基本的<政治>方針だったことは明瞭だろう。
 安倍首相は、当然に、朝日新聞に負けてはならない。安倍自身も含む捏造記事を書いて訂正も謝罪もしない朝日新聞に、自分の虚報で火をつけておいて虚報と判明するや別の論点にすり替え、米国で慰安婦決議問題が発生すればまさしく他人事の如く白々しい社説を書くような朝日新聞に(他にも多々あるが)、絶対に屈してはならない。
 私は安倍首相をめぐる動向は、一面では、安倍晋三対朝日新聞の闘いだ、とも考えている。<戦後レジームの権化>・朝日新聞に負けてはならず、朝日新聞の策略に陥ることなく、逆に朝日の本質を全国民的に暴露しなければならない。
 朝日の本質といえば、ついでに書いておくが、7/31朝刊社説はのもう一本は「小田実氏死去・市民参加の道を示した」だ。社説でもって、逝去を機に小田実程度の人物を肯定的に評価するとは、死者に失礼ながら、私は呆れる。
 小田は反米・反ベトナム戦争の「市民」運動をしたようだが、1968年の(プラハの春後の)ソ連のチェコ侵攻に抗議したのか、中国のベトナム等への<侵略>に抗議したのか、北朝鮮の反人道的行為・核実験・ミサイル発射に<平和>主義者として抗議したのか。<戦後レジーム>の中で、なぜか「社会主義」国には論及せず、安全な所にいて、批判しても潰れそうにはない米国を口舌のみで罵っていただけではないのか。
 もう一点。朝日7/31は2面の「ひと」欄で、当選した新人議員のうちとくに川田龍平のみを取り上げて紹介している。川田の「イデオロギー」にはもう立ち入らないが、<朝日好み>の議員が1人は増えたようだ。

0306/朝日等マスコミにより操作された投票行動-参院選結果をうけて。

 2007年7月の参議院選挙は、「安倍改革」と日本の国家的自立を妨害し、遅らせ、どの程度になるかは今は解らないが、日本の政治に大きな混乱をもたらした結果を生んだものとして、歴史に残るだろう。
 一年半前に自民党に衆院で300以上/480の議席を与えたのと(ほとんど)同じ有権者が今度は自民党を「大敗」させる。大衆民主主義とは、そして「衆愚政治」とは、かくも<気まぐれな>有権者を主人公にしているのだ。
 <無党派層>といえば少しは格好がよいが、要するに<浮動層>であり、<定見がない>層だ、と言ってもよい。もっとも、<定見>を持てないのは有権者にのみ責任があるのではなく、<政治の対立軸>を明瞭に示すことのできない政党・政治家の責任も大きい。
 自民党もある程度はそうだが、民主党とはそもそも基本的にいかなる理念をもつ政党なのか。この<寄せ集め>政党は統一的に何を目ざしているのかがさっぱり分からない政党だ。この党の勝利は自民党>安倍政権への<不満・怒り>の受け皿になったということだけが理由で、民主党の何かの基本的政策が積極的に国民多数の承認を受けた、などと今回の選挙結果を理解することは大間違いだろう。
 次の衆院選で民主党は政権交代を目指すのだという。開票時にテレビに出てこれない健康状態の小沢一郎がそのときまで代表を務めていることはおそらくないだろう。それどころか、この政党はそれまでに、分裂・瓦解するように思われる。たんに<反自民党>という性格だけでは、長く維持・継続できる政党だとは思われない。安保防衛・憲法問題で全体が一致できる基本的政策を立てられる筈がない。ということは、いずれ、内部に種々の亀裂が走り始める、ということだ。それなくして、万が一にでもたんに<反自民党>というだけの政権ができてしまえば1993年の細川護煕政権の二の舞で、再び<空白の~年>を経験しなければならなくなる。日本にそんな時間的余裕はない。
 さて、とりわけ<気まぐれな無党派層>による投票をプラスして民主党が勝利した原因は、<気まぐれな無党派層>を対象とした周到な<策略>にあった、と思われる。
 それは簡単には、朝日新聞+民主党・小沢一郎+社会保険庁労組(2007.04前後で名称は異なる)による策略だ。
 朝日新聞が、自民党というだけではなく安倍晋三率いる内閣だからこそ<私怨>をもって、安倍退陣に追い込むほどに自民党を大敗させてやろうと考えていたのは明瞭なことだ(この点はこれまで何度も書いた)。これに、安倍氏個人への<私怨>はないものの、仲間の毎日・日経や東京新聞、地方の県紙を支配する共同通信も結果として協力したものと思われる。
 小沢一郎は見事に<年金問題>を最大の争点化した。これに呼応して「消えた年金」という不正確なフレーズを用いて有権者大衆を惑わせたのは朝日新聞を筆頭とするマスコミだった。消えたのは年金そのものではなく、年金関係文書(記録)だった。
 また、民主党は社会保険庁労組から情報が入手できるという有利な立場にあった。民主党の長妻某議員が熱心に調査してうんぬん…という記事又は主張もあるようだが、社会保険庁労組内部の民主党を支持する活動家民主党員そのものである可能性も高い)から、政府・厚労省・社会保険庁上層部も知らないような具体的・詳細な情報が入手できたのだ。だからこそ、細かい数字に関する国会質問も可能で、政府側の方が遅れをとっている印象(事実そうだったかもしれない)を与えることができた。
 そのような情報を民主党に流した社会保険庁労組から見れば、屋山太郎が指摘していたように、選挙結果までの一連のできごとは(但し、安倍首相は退陣しないだろうが)、社保庁労組による<自爆>と表現してよい面がある。より正確には<安倍内閣道連れ自爆>であり、<安倍内閣との無理心中>の試みだ。
 所謂<年金問題>の発生前に、すでに安倍内閣は社会保険庁解体・職員非公務員化「日本年金機構」法案を国会に提出していた。昨年までにとっくに社会保険庁の金の使い方・仕事ぶりには<すこぶる>付きのヒドさがあることが明らかになっていたからだ。
 いったん解体され、新機構に再雇用される可能性が疑わしい労組活動家は焦ったに違いない。どうせ解体され、あるいは少なくとも公務員としての「甘い」仕事ぶりを続けられなくなることが必至と悟った彼らは、自分たちの仕事ぶりのヒドさをさらに暴露すると共に(あれほどとは殆どの人が気づいていなかった)、それと引き替えに国民の批判を行政権の長=安倍首相→自民党に集中させることを策略したのだ。
 この策略に朝日新聞が飛びついたのは言うまでもない。
 むろん、安倍内閣の側にもつつかれてよい問題はあった。閣僚の諸失言、事務所経費問題などだ。だが、こうした(本質的でない些細な)問題を大きく取り上げたのは朝日新聞等のマスコミだ。閣僚の講演会・演説会には、問題発言が出ないかと待ち受けている朝日新聞の記者又は朝日新聞に頼まれた者が<常在>していたのではなかろうか。
 税金が出所でもない事務所経費の問題は異常な取扱い方だった。政治家の活動の中には公にはしたくない形でかつて地方公務員について問題になったような食糧費・交際費支出にあたるものを伴うものもあると思われる。一円以上の領収書を全て公開することにして、いつどこの店にいた、場所にいた、ということが分かってしまえば政治家としての活動はしにくくなるのは目に見えているのではないか。この後援団体代表等(政策・情報提供者でもよい)にはこれだけの金銭を、別の後援団体代表等(政策・情報提供者でもよい)には異なるこれだけの金銭を使った、ということがすべて明らかになって、政治家・国会議員として円滑に仕事ができるのだろうか。地方自治体の行政公務員について以上に、そうした側面があることに留意すべきだろう。
 朝日新聞は、橋本五郎のいる読売新聞でもよいが、自社の記者の情報収集のための経費支出について、一円以上の領収書をすべて国民に開示することによって、すべて明らかにしてみせることができるだろうか。
 一方で、民主党に不利になるような情報は大きくは取り上げられなかったと思われる。某議員への朝鮮総連からの献金問題小沢一郎の政治資金による不動産保有問題小沢一郎の国会出席(記名投票参加の程度)の少なさ問題等々だ。この最後の問題は、かりに朝日新聞が反小沢の立場・政略を採っていれば、第一面に大きく載せて批判的に取り上げたのは間違いないのではないか。
 かくして年金・政治とカネ・格差等の民主党が争点としたいテーマがそのまま新聞に大きく取り上げられ、テレビニュースで語られるようになった。
 朝日新聞は選挙前の少なくとも二ケ月間、反安倍の<政治ビラ>を毎朝・毎夕、700万枚も蒔き続けた。毎日・東京等、共同通信支配の地方紙も合わせれば、その倍はあっただろう。毎日千数百万枚である。これにテレビ報道が加わる。
 産経新聞は他マスコミの報道ぶりの異様さを感じたのだろう。終盤で<何たる選挙戦>との連載記事を1面上に持ってきた。
 読売新聞はどうだったか。投票日7/29の1面左には橋本五郎・特別編集委員の「拝啓有権者の皆さんへ」を載せていちおうまともなことを言わせている。社説も朝日に比べればはるかに良い。だが、1面右を見て唖然とする。大きく「参院選きょう投開票」とあるのは当然だろうが、そのすぐ右に白ヌキで大きく「年金」「格差」「政治とカネ」と謳っているのだ。これをこの三つが(最大の)争点なのだと(読売は考えている)と理解しない読者がいるだろうか
 橋本五郎が何を書こうと、社説で何を主張しようと、文章をじっくりと読む読者と、1面は見出しを眺めた程度の読者とどちらが多かっただろうか。少なくとも過半は、「参院選きょう投開票」のすぐ右に白ヌキの「年金」「格差」「政治とカネ」の三つの言葉のみを見たかそれの方に影響を受けたのではないかと思われる。そして、読売新聞の読者でも民主党に投票した者は相当数に上るだろう。
 読売7/30社説で「国政の混迷は許されない」と主張している。読売の社説子や論説委員に尋ねてみたいものだが、読売新聞自体が「国政の混迷」を生み出すような、少なくともそれを阻止する意図のない、紙面づくりをしたのではないか。もう一度書くが、投票日の読売の1面最右端の見出し文字は白ヌキの「年金」「格差」「政治とカネ」の三つの言葉だったのだ。
 よくもまぁ翌日になって、「国政の混迷は許されない」などと説教を垂れることができるものだ、という気がする。
 読売は、いったい何を考えているのか。官僚界・一部知識人を通じて<反安倍>気分が少しは入っているのではなかろうか。何と言っても1000万部を誇る新聞紙だ、その影響力は大きいと思うが、結果としては、朝日新聞と似たような役割を(少なくともかなりの程度は)果たしてしまったのではないか。この新聞社が安倍内閣をどう位置づけ・評価し、日本国家・社会をどういう方向に持って行きたいと考えているのか、私には、少なくとも極めて分かりにくかった。まっとうな<保守>路線と<大衆迎合>路線とが奇妙に同居しているのではないか。
 昨夜の開票作業に伴う各放送局・マスメディアの報道・コメントぶりを一部ずつ観ながら、ある種の滑稽さを感じざるをえなかった。自分たちこそが醸成した雰囲気によって大まかなところでは予想していた結果を、たんに確認し、なぞっているだけではないか。まるで、シナリオ・脚本のある芝居のようだった
 事実はマスコミによって大きくも小さくも伝えられ、場合によっては全く報道されず、あるいは歪曲して伝えられる
 朝日新聞が報道している<事実>を<朝日新聞的事実>と称するならば、<朝日新聞的事実>の報道が全くなされなくなるか、又は<朝日新聞的事実>を無視し信用しない有権者が大多数を占めるようにならないと、似たようなことが繰り返される可能性がある。
 そもそも国政選挙とは<タレントの好感度(「イメージ」の良さの順位による)投票のようなもの>なのか。そのような投票行動に国民を煽り立てたのは誰なのか。
 とりあえず、選挙後第一回はこのくらいに。

0305/投票日当日の「政治団体」朝日新聞の社説など。

 昨日28日の夕方のTBS/毎日系のローカルニュースを偶々観ていたら、「年金問題と政治とカネを最大の争点とする参議院選挙が…」とアナウンサーが語りはじめた。
 「年金問題と政治とカネを最大の争点」とは、いったい誰が決めたのだろう。原稿を書いた放送記者は、何を根拠にこんなことを書けるのだろう。
 世論調査によると、国民の関心あるテーマは…と回答するかもしれない。しかし、<年金問題>や<政治とカネ>に国民の関心が向くように誘導する記事を書き放送をして、これらが<最大の争点>であるかのごとく感じさせたのは新聞社・放送局というマスコミそのものではないか(正確にはたぶん一部を除く)。
 自分たちで煽っておいて、平然と「年金問題と政治とカネを最大の争点とする…」とさも客観的な報道であるかの如く装う。ほとんどのマスコミは<犯罪的>で、国家・国民に対して<弊害>を撒き散らしている。
 今日29日の朝日新聞社説をウェブ上で読んだ。むろん、ひどいものだ。朝日新聞は、投票前の最後の戦術として、若者たちに投票させる、という主張をすることにしたようだ。見出しは、「若者たちへ―その1票に未来がかかる」。
 若者たちに投票を呼びかけることは悪いことではない。問題は、その投票の際に「二つの視点」から考えてほしいとする、その二つの視点だ。
 朝日社説によれば、第一は、「世の中に広がる格差社会の波を、若い世代こそが大きくかぶっている」こと、第二は「年金問題」だ。
 自民党に投票するな、民主党に投票しろ、とはどこにも書いていない。しかし、<年金>問題や<格差>問題を最も取り上げて自民党を批判していたのはどの政党だったのか。
 この社説は、民主党への投票を「若者たち」に呼びかけているにほとんど等しい。自民党の劣勢ぶりをさらに決定的にするためには、前回は30%台にとどまった20歳代の投票率を上げる必要がある、と<政略会議>で決めたのだろうか。
 年金問題についてもうあえて触れないが、「世の中に広がる格差社会の波」という現象の存在の客観さとそれが社会・歴史全体から見て消極的に評価されるべきであるとの価値判断の正しさ、およびその現象がかりにあるとして、それが安倍晋三・自民党与党内閣の政策に原因があるということの根拠づけ、を朝日はきちんと報道してきたのか。あるいは、社説子は自信を持って説明できるのか
 「若者たち」むけとはいえ、投票当日の社説に、基本的な安全保障問題、憲法問題、経済・財政問題に何ら触れることができない朝日新聞。日本国民を安易で適当な思考へと導いて自分たちの<政略>に利用しようとしているマスコミの筆頭が、じつはマスコミではなく候補者を立てない「政治団体」に他ならない朝日新聞だ。恥を知れ、と何度も言いたい
 大嶽秀夫・日本政治の対立軸(中公新書)p.30によると、日本国民にはかつて既成の政治(家)に反発する非・反政治性と<政治を「あそび」の一つとみなす…無責任な態度>があった。こうした風潮は現在でもなくなっていないだろう。
 そしてこのような風潮を醸成したのは、既成の政治(家)を批判し、ときどきの<ジャーナリスティックな>国民多数の関心を惹きそうな話題ばかりを選んで報道してきた日本のマスコミだった、と考えられる。若者たちに限られない、先進国では異例の投票率の低さは、そもそも日本のマスコミの政治に対するスタンス、政治に関する報道ぶりによるところが大きい、というのが私見だ。
 そのいいかげんさ、無責任ぶりを、今朝の朝日新聞もまごうことなく示している。

0303/参院選投票1日前-伊藤哲夫発言に寄せて。

 日本政策研究センター(「歴史と国益の視点から日本再生を目指す、戦うシンクタンク)」のサイトの7/11上に、「安倍晋三か?小沢一郎か? これが参議院選挙の焦点だ①~③」が掲載されている。発言者は所長の伊藤哲夫(よくは知らない)のようだ。
 私の理解に近いと思われるので、私自身の頭の整理も兼ねて要約しておく。
 1.「今度の選挙が本当に「政権選択」の性格を帯び」ているなら、争点は<安倍か小沢か>になるはずだ。「農水相の事務所費問題や、防衛相の不適切発言」、「政治とカネ」の問題は「本質的な問題なのだろうか」。「年金問題は本質的問題だと言う人がいるかもしれない。だが、政権を選ぶということは「日本の将来を選ぶ」ということで、「小沢民主党に日本の将来を任せて大丈夫なのか。小沢民主党が安倍自民党のしていることよりも間違いなく日本を良くできる保証があるのか。そういうことをもっと議論しなくてはならない」。
 2.「
少なくない人々が「自民党にお灸をすえてやらなきゃいかん」と感情的になっているのかもしれない」が、「「将来の日本」ということを考えた場合に、感情にまかせて「今度は民主党だ」ということで本当にいいのか」。
 3.「安倍政権の評価については、評論家の宮崎哲弥氏が…朝日新聞にコメントを寄せている」。彼は「要するに、今は非常に不評判だけれども、後になって振り返ってみると安倍政権の評価の方が高くなるに違いない。実際それだけのことをしている」と言っている。
 4.「9カ月、客観的に安倍政権が何をやってきたのか」をみると、「改正教育基本法を成立させ、防衛庁を防衛省に昇格させ」、「海洋基本法国民投票法教育改革関連3法を成立させ」、「社会保険庁改革関連法年金時効停止特別措置法公務員制度改革関連法を成立させた」。
 「
これら一連の重要法案はいずれも歴代政権が先送りにしてきたものだ。まず教育基本法は、昔からずっと改正が言われてきたが六十年間棚上げされたままだった。国民投票法も、憲法制定以来六十年、必要な法整備を完全に怠ってきた。防衛省への昇格は、昭和30年代から言われてきたことだがこれも先送りにされてきた。海洋基本法にしても、他国は94年に国連海洋法条約が発効したのを契機に国内法を整備したにもかかわらず、日本は必要な法整備を怠って完全に後れをとっていた。このように、安倍政権は歴代政権が先送りしてきた課題に真正面から取り組み、必要な法整備を成し遂げた」。
 5.「年金問題は、直接的には安倍政権が引き起こした問題ではない」。「一番の問題はずさんな事務を生み出してきた社会保険庁の体質」だ〔このテーマについては別に<年金騒動の本質は改革潰しにある>との特集が組まれている-秋月〕。
 「民主党は、この年金問題で具体的提案をするよりも、とにかく抵抗して法案〔「社会保険庁解体」法案・公務員制度改革関連法案-秋月〕を葬り去ろうとした」。これは「「改革潰し」で、その裏には改革に反対する自治労という労働組合(民主党の有力な支持団体)の意を迎えようとして、そういう行動をとったとしか思えない部分がある」。
 7.外交面では、「拉致問題を最重要課題と位置付けて北朝鮮に圧力をかけ」、「就任直後中国を訪問」して「「主張する外交」を積極的に展開」した。
 「より重要なのは、…「自由・人権・民主主義・法の支配」という価値観を前面に押し立てた「価値観外交」を展開していることだ」。
 8.安倍首相は、「ハイリゲンダム・サミットの時も、一月の欧州歴訪の時も、欧州各国の首脳に対して」、中国に自由・民主主義・人権はあるのかと問うた。「そのような国が、本当にアジアの中心的な指導国家になれるのか、いったい何を指導するのか」というふうに問い掛けた。「首脳たちは…アジアで最も重んじなければならないのは日本であるということに気付いたのだ」。また、安倍首相は「EUの対中武器禁輸の緩和に釘を刺し」、「拉致問題の解決に、より一層の協力を訴え、支持を取り付けた」。
 9.「価値観外交の二番目の眼目」は、麻生外相がの言う「自由と繁栄の弧」だ。この「「自由と繁栄」のモデルは日本であって、中国ではないという意味も」込められている。また、「オーストラリアやインドとの関係強化にも積極的に乗り出している」(「日豪安保共同宣言」締結、初の「日米印の海軍共同演習」)。
 10.三番目に、「価値観外交は」、「13億の中国人民全体を視野に入れた関係でなければならない」という認識にもとづく「中国共産党一党独裁政治の下で悲惨な状況に置かれている中国人民に対するメッセージであり、中国共産党政権に対する無言の圧力」なのだ。
 「謝罪していればそれで事が済むとしてきた日本外交にとって、これは革命的転換」だ。
 11.「安倍政権の内政の特徴は、二つある」。「
一つは「古い自民党をぶっ壊す」と言った「小泉構造改革路線」の継承・発展」だ。
 「もう一つは、これはより重要なことだが、…価値観を基礎に置いた政治、価値観を基軸とした国造りをやろうとしているということだ。…
そのことが一番はっきりと現れているのが、憲法改正を堂々と打ち出したことだ」。「何よりも重要なのは、教育改革を重要政策と位置付けていることだ」。さらに安倍首相は、「「国益を重視する」…「官僚制民主主義」から本来の「議会制民主主義」へ。さらに官邸がリーダーシップを発揮する民主主義に変えようとしている」。「安倍改革は価値観のない改革ではなく、国益を柱に据えた改革を指向している」。
 12.マスコミはある時期まで安倍政権を「タカ派政権」「危険な安倍政権」というイメージで伝えていたが、「昨秋の訪中以降は」、「経験不足の無力な政権」「指導力のない安倍首相」という「イメージで伝えるようにシフトしてきた」。「マスコミは、そういう形でアピールした方が政権の弱体化に効果的だとして、戦略的にそういうイメージを伝えていると思う。これまではそれが一応の成功を収めている」。
 しかし、「安倍首相は指導力を発揮している」。「普通の政権ならば、教育基本法を通したところでもうヤレヤレ」だが、「教育改革関連3法」を「間髪入れず」に提出・成立させた。また、「公務員制度改革にあたって安倍首相は、事務次官会議を飛び越して〔=この会議での全員合意なくして-秋月〕この案件を閣議決定してしまった」。「屋山太郎氏は「ここを打破したことは歴史的な重大事。官僚たちは真っ青になっている」と評価している」。
 安倍首相は「官僚内閣制」を破り、「有権者に選ばれた政治家主導の政治、真の民主主義政治の実現に向かって、首相はリーダーシップを発揮している」。「指導力がない」というイメージは、「所詮マスコミが作り上げた虚像」だ。
 13.「拉致問題」につき「手詰まり感」とか「目に見える成果がない」とかの評価もあるが、「じゃあ、どうすればいいのか」、「またコメを送ればいいのか」。
 「昨年7月、北朝鮮のミサイル発射を受けて、日本政府は当時の安倍官房長官の主導で、万景峰号の入港禁止という独自の経済制裁を発動した。また安倍政権発足直後の昨年10月には、北朝鮮の核爆発実験を受けて経済制裁を強化し、万景峰号だけでなく北朝鮮籍船舶の入港禁止措置をとった。これらの措置により、ミサイル部品などの持ち出しの大半は阻止できるようになった。また、…昨年11月からは、ぜいたく品24品目の禁輸措置をとっている。それと同時に、安倍首相が官房長官の時代から始めた厳格な法執行により、朝鮮総連の脱税行為をはじめとした不正行為を厳しく取り締まっている」。
 14.「ここで安倍改革をストップさせ、小沢民主党に交代して何かいいことがあるのか」。「小沢民主党は改革の方向性すら決められない。憲法改正にしても、教育改革にしても、本気で議論したら民主党そのものが壊れてしまう」。
 「参議院副議長を務めていた民主党議員は朝鮮総連傘下団体からヤミ献金を受けていた。また、民主党の参議院議員会長は日教組に強制カンパをさせて当選している。さらに、ナンバー2の代表代行は「南京大虐殺」を積極的に認めているし、女性議員たちは「従軍慰安婦」への国家賠償を先頭に立って要求し、朝鮮総連を議員会館に招き入れ抗議集会を開かせていたこともある。こういう政党に、果たして日本の国益を担うことができるのか」。
 15.「保守層の中には、慰安婦問題、歴史認識問題、拉致問題等々について、安倍首相の対応が気に入らないと批判する人がいる」。「けれども、そういう人たち聞いてみたいことがある。「じゃあ、あなたは小沢さんでいいんですか。小沢さんが政権を握った方が日本がよくなる。慰安婦問題でも前進する、拉致問題も解決する、歴史認識も小沢さんの歴史認識の方がいい。そういう保証があるんだったら示していただきたい」と」。
 16.「日本は…一夜にして変わることはない。現に自民党の中は抵抗勢力の方が未だに多い。それが表面化していないのは、参議院選挙が終わるまでは抵抗を止めておこうというだけ…。また、官僚の世界は自民党内よりももっとひどい。…社保庁は自治労に牛耳られてきた。それに象徴されるように、霞ヶ関や地方自治体といった日本の行政実働部隊を握っているのは、いまだ共産主義・社会主義勢力だ。その現実に目を開いて、…「日本のための構造改革」を進めなければならない」。
 以上。少しは解らないところもあるが、あらためて安倍内閣は<ただものではない>内閣であることが解る。これらをきちんと報道していないマスコミは、何らかの政治的意図・謀略をもっているか、安倍内閣の政治的意義・価値を理解できない<無知蒙昧>かのいずれかだろう。
 ただ、私は100%安倍内閣の政策を理解できているわけではない。とくに、米国下院での慰安婦決議問題についての政府の対応はあれでよかったのかとの疑問を今も持っている。
 だが、小沢・民主党よりも遙かに優れていることは明々白々だ。これだけは100%明瞭だ。
 民主主義(民主制)とは大衆政治であり「衆愚」政治だと言うが、思い出すと、記者クラブでの立派な会場での7党党首討論会における、記者たちの質問はひどかった。
 読売新聞橋本五郎は最初の質問で何と赤城農相の事務所経費問題を話題にしたのだ。その他、「ニュース性」に重点を置いた質問を3-4人がしていたが、誰一人、日本国家を基本的にどのようにしたいのか、どういう基本的方向に導きたいのか、という質問をしなかった。「大きな政府」か「小さな政府」かも問題にしなかった。憲法問題を重要視した質問もなかった。
 小沢民主党代表に対して、かつて所属した政党かつかつて連立した政党と対決する気持ちはどのようなものかと尋ねた記者はいなかった。
 すでにマスコミ、この場合は新聞社の記者クラブの記者自体が、<衆愚>の一部になり下がっているのだ。
 こうしたマスコミを見ると日本の未来は決して明るくない。だが、絶望する必要もない。心ある国民、「日本」を守り抜こうとする国民が多数いることを信じる

0302/参院選投票2日前-産経・櫻井よしこ談を手がかりに。

 産経7/27一面の<何たる選挙戦4>は「首相の理念・継続が大事」との櫻井よしこ氏の「談」。3までは産経の記者執筆だったので、体裁・形式にはやや違和感もある(櫻井氏は産経の記者扱いか?というような…)。
 櫻井氏の談には、いつものとおり殆ど異論はない。安倍首相の欠点もこう率直に書かれるとそうだっただろうな、と思える所もある。
 しかし、「私は、安倍政権が続いてほしいと考えるが…」という氏の、次の最後の言葉は余計又は早すぎはしないか。
 「安倍首相の継続を好ましいと思いつつも、万一の場合、まだ52歳なのだから、一度、退陣し、強靱なる精神を身につけてから再チャレンジするというほどの余裕を持ってほしい」。
 まだ参院選の投票は行われず、開票も行われず、結果も明らかになっていない。種々のよく似た予測が報道されているが、20-40%がまだ最終決定していないということも附加されており、本当のところは当日29日の夜の開票を待たないと分からないのではないか。各選挙区で接戦が続いているようだが、一つの選挙区の予測が違えば他も揃って違ってくる可能性があることはまだ否定できない。そもそもいずれかの新聞の予測どおりの結果になったことはこれまでの選挙で一度としてあったのだろうか。予測の範囲すらはみ出たこともあったのではないだろうか。
 従って、万一の場合」を語るのはまだ早すぎる。焦らなくてよい。
 そもそも、今回の選挙で安倍首相率いる自民党以外の政党に投票してはいけないことは、100%明瞭なことだ。それは、4月の東京都知事選において石原慎太郎候補以外の者に投票してはいけなかったのと全く同じことだ。
 多少の後退はやむを得ないとしても大幅な議席減少は、安倍氏が企図している政策推進を大きく阻害してしまう。「万が一」の場合は後継者が誰かにもよるが、よりスムーズに政権運営・政策実現がなされる保障は全くない。
 安倍首相が続投の意思を明確化しているのは正しい。
 選挙後の内閣改造で、守旧派組又は年寄り組を排除し、人心を一新する清新な内閣を作って、再スタートしてほしい(麻生太郎は幹事長。尾身・伊吹・柳沢らの頭の切れが悪くなっている老人組は壮年・若手と交替していただく)。
 基本方針バラバラ、多様といいつつレズビアン公表者・元在日韓国人、労組・労連代表者等の寄せ集めの民主党が伸張して、なぜ日本が良くなるのか。
 <安倍政権にお灸を>なんて言って遊んでいる余裕は日本にはない。
 安倍晋三政権を継続させるべきなのは当然だ。「安倍政権は歴代政権で唯一、北朝鮮が恐れた政権だ」(上掲・櫻井談)。日本を弱体化させてはならない。北朝鮮や中国を喜ばせてはならない(憲法改正=自衛軍正規認知を最も懼れているのは中国だろう)。
 民主党投票者のほとんどは北朝鮮や中国の怖さ・脅威を深刻には受け取っていない「甘さ」があるのだろう。理念的・主義的に親中国・親北朝鮮の者はやむをえないが、そうでない者はこぞって安倍・自民党にこそ投票すべきだ。

0298/参院選前の新聞・テレビの一部。

 産経の7/24と7/25の1面は<何たる選挙戦1・2>、大きな見出しは「誰を利する「国家」なき迷走」(北朝鮮が安倍退陣希望を明瞭に等)、「醜聞・年金だけの争点は恥だ」ときた。
 そのとおりだと思うが、産経が朝日新聞と同数程度の読者を擁していればなぁと、歯がゆい想いが強い。
 一方、読売は社説ではきちんとした主張をしているとは思うが、一般紙面では決して親安倍・親自民党ではない。少なくとも安倍首相に対して<温かい>とは思えない。朝日新聞の減紙のあとを狙って、この新聞は<左にウィングを伸ばして>いるのかとも勘ぐってしまう。
 諸予測・諸情報の中には楽しい又は興味深いものとそれらの逆のものとが当然にある。
 産経の選挙結果予測(7/23)によると、日本共産党は現有(非改選を含む)9で7~9、社会民主党は現有6で5~6。両党合わせて現有15で予測は12~15。要するに、両党ともに増加はなく、減少の可能性あり、ということだ。
 両党国会議員は確実に憲法九条二項の改正に反対するので、なかなか楽しい予測だ。共産党は消滅へとさらに一歩近づいてもらいたい。
 政治・政党の対立軸は、最も基本的なのが共産主義対自由主義だ。アジアで冷戦が終わっておらず、北朝鮮や中国が近隣にあるかぎり、まず第一には、この対立軸で選択をしなければならない。日本共産党はもちろんだが、同党支持者・同調者のほか、共産主義(>日本共産党)と闘う姿勢が弱い政党や人びともまた警戒し、場合によっては<敵視>する必要がある
 上の点さえしっかりしておけば、民主党議席の増大もさほど怖れる必要はないともいえる。民主党は、外交・防衛、憲法問題について統一した政策を打ち出せないで、代表・小沢一郎が「憲法改正は喫緊の課題とは認識していない」などと言って曖昧にしている<選挙互助組合>政党で、外交・防衛、憲法問題が対立軸として明瞭に設定された場合、不可避的に分裂する政党だ。松原仁・西村真悟(元)と岡崎トミ子・平岡秀夫が同じ党員だという(西村は元)信じ難い政党だ。憲法改正等に関して分裂、一方の自民党への合流又は連立、はかなり現実的な予測だろう。
 だが、民主党の中にも、そして今回の候補者の中にも、日本共産党・社会民主党と同様に九条絶対護持の者がいる。はたして、参院でも改憲派が2/3を超えて発議に賛成できるかどうかは、そうした者たちの数によることになる。
 前後するが、共産党につき、朝日新聞によると大阪選挙区で共産党は自民党と最後の三番目の議席をめぐって「接戦」を演じている。産経によると共産党は4位で「追って」いる。どちらが正しいだろうか。複数立てている訳でもない自民党がここでも負ければ、全国的な趨勢も最悪かもしれない。
 一方、東京選挙区でも朝日新聞によると共産党は最後の議席をめぐって、自民党(新人)や無所属(川田某)と「接戦」。産経によると、定員5で自・民・公が優位で残る2議席を民・自(新人)・無(川田某)の3人が争う(ということは共産党は圏外)。どちらが正しいだろうか。ここは6年前は共産党が1を獲得したので、今回当選しないと、自動的に現有からマイナス1となる。定員が5もある大都市選挙区で共産党1の当選が少なくとも確実視されていないとは、かつてを知っている者としては隔世の感がある。共産党は減少、消滅へと確実に歩んでいるのだ。
 昨夕の朝日新聞系のテレビ放送局のニュースをたまたま観ていたら、与党過半数割れの場合の安倍首相の進退を話題にしていて、自民党支持者(どの範囲か、どの程度の人数かは忘れた)のアンケート結果を図示し、「自民党支持者でも30数%の人が退陣すべきとしています」とのみコメントした。だが、その図には53%の者が「退陣する必要はない」との意見であることも示されていた。こちらの方はコメントしないで、<退陣すべき>という声のみ紹介したわけだ。
 選挙結果がまだ確定していないのに、まるで結果が出たあとのような、この<前のめりの>報道姿勢は一体何だろう。読んでいないが、きっと、朝日新聞は<退陣>に焦点をあてた同様の報道・紙面づくりをしているのだろう。
 昨夕のテレビニュースを観て、なるほど、世論調査をしてそれを<客観的に報道する>という実質的<倒閣運動>があるな、と感じた。<全体で何%が、自民党支持者でも何%が安倍首相は退陣すべきだと考えています>と報道しまくって(「何」の数字が低いと使えないだろうが)、<辞めろ>イメージ・雰囲気を醸成していくわけだ。
 さっそくすでに加藤紘一のような自民党内異分子が、<潔く投げ出すものだ>などとコメントしているようだ。この人は自分を何様と思っているのだろう。朝日新聞だけは持ち上げてくれるので、その<虚像>のために自分の客観的姿を誤解しているのではないか。
 まだ、山崎拓の方がマシそうで、彼は<憲法改正で大連立>との将来予測を述べたらしい。安倍首相の進退よりも、じつはそのような将来の国家のあり方・憲法のあり方の方が重要な問題だ。むろん、安倍退陣は将来の国家・憲法のあり方に大きな(消極的)影響を与えるからこそ、退陣すべきではない、と私は考えているのだが。以上、気軽な雑文。

0294/安倍首相を退陣させるな。朝日新聞を喜ばせるな。

 7/22日曜日午前中の二つの番組の一部を録画で観た。とくに午前10時30分(?)から始まる田原総一朗の番組で、大きくは二つのことが印象に残った。
 第一に、野党各党首へのインタビューの後の政治記者等(+議員・学者)の座談会で、安倍首相退陣の可能性が話題になっていた。午前8時台のもう一つの番組の座談会では櫻井よしこ、三宅久之両氏が(自民党の数字による可能性を全否定はしていないようだったが)安倍にはどんな数字であっても辞任(退陣)する意向はない、とおそらくは安倍の主観的気持ちの忖度としては正確と思われることを述べていた。
 一方、田原司会の番組では、安倍首相の意向については同様のことが語られつつも、(以下、正確に観ながらではなく記憶によるが)参加者の一人・朝日新聞の星浩だけは、これこれの数字以下では他の自民党議員が黙っていないだろうとか、数字の責任はやはり<大将>の責任なのだからなどと、<安倍退陣>に未練を残した発言をしていた。これがまず、印象的だった。
 朝日新聞はやはり、安倍退陣(総理辞任)を本気で狙っているのだ。自民党の獲得議席数にもよるが、44程度だと、橋本龍太郎首相は参院選44で責任をとった、36程度だと宇野首相は36で責任をとった、と大きく報道するに違いない。そして、どの数字にせよ、民主党を下回った場合には、加藤紘一山崎拓古賀某らの安倍首相に批判的な(退陣が望ましいと示唆するような)コメントを載せて大きく扱うに違いない。自民党内の動きの報道というかたちを表面的にとりながら、じつは<政治的な>倒閣運動をこの新聞社はきっと行うだろう
 心ある自民党員、自民党議員は、安倍内閣のもとでのせっかくの前進を<逆行>させてはならない。朝日新聞の報道ぶりなど、<デマ新聞>・<政治ビラ>の一つと思って無視しなければならない。
 第二に、志位和夫日本共産党(幹部会)委員長の発言に興味深いものがあった。一つは、田原総一朗が「共産」という名をやめたらどうかと質問したのに対して、<いつまでもずっと資本主義社会が続くとお考えですか?>旨を述べ、明瞭に社会主義(・共産主義)社会を展望していることを述べていた。これではむろん「共産」の名称の変更はできない。そして、さすがに、日本共産教の信徒総代だと思った。社会主義(・共産主義)社会の<到来>をやはりこの人は本当に<信仰>しているのだ。合理的・理知的?(という程でもないか)な顔をして、<宗教>に嵌り込んでいるのだ(東京大学出身ながら、じつは莫迦なのだろう。そもそもこんな問題に学歴は無関係なのだが)。
 二つは、志位としては当然だろうが、マルクスを棄てていない、と明言した。マルクス主義は19世紀前半の社会系諸科学を統一した・凝縮し発展させたとかも言われるが、「共産党宣言」出版は1948年だ。今から150年以上前の(当然に外国産の)「理論」が今の日本共産党の基礎にはまだあるのだ。古色蒼然。古ければいい、というものではない。
 三つは、北朝鮮に対する立場はよく知らなかったが、現在の北朝鮮を中国・ベトナム・キューバのような「社会主義」国とは見ていないことを明言した。
 それはそれでよいが、しかし、例えば1961年の綱領制定時点では、北朝鮮もまた(ソ連と同様に)「社会主義」国、少なくとも「社会主義へと進んでいる国」だと認識していた筈で、いずれかの時点(正日への権力世襲時?)以降になってようやく「社会主義」国のリストから除外した筈なのだ。もっと突っ込んだ質問が北朝鮮についてあれば、ソ連はレーニンとスターリンのいずれの時期から誤ったのか?との質問とともに、面白い場面が見られただろう。
 日本共産党とその追随者に未来はない。憲法九条護持を明確にしている日本共産党(と社会民主党)の、今後6年も任期のある参議院議員を、一人でも増やしてはいけない。一人でも、二人でも、憲法改正発議の障碍になることは明瞭だからだ。
 (なお、上の番組での民主党・小沢の発言内容はきちんと聞いていない。)

 

0293/朝日新聞-「安倍憎し」に燃える「異様すぎる選挙報道」。

 文藝春秋と新潮社ではどちらかというと文藝春秋の方が(文春新書の執筆者を見ても)より「保守的」とのイメージがあるが、週刊誌となると逆になって、週刊文春よりも週刊新潮の方が「保守的」又は親与党的だ。正確には、週刊文春よりも週刊新潮の方が朝日新聞をはじめとする「左翼」に対して<厳しい>、と言った方がよいかもしれない。
 その週刊新潮7/26号はかなり大きく「「安倍憎し」に燃える朝日の「異様すぎる選挙報道」」との見出しを立てて、殆ど巻頭特集のような扱いをしている。以下、言葉・フレーズだけの引用(カッコ内は記者とは別の評論家等)。
 「これでもかという安倍打倒参院選キャンペーン」、「よほど宿敵・安倍首相の支持率が下がったことがうれしかったに違いない」、「…との手前勝手な解説まで入っている」、「この程度で驚いてはいけない。…では…を強調し、…と露骨な投票行動をおこなっている」、「さながら野党機関紙の様相」、「さらに…も凄まじい。…安倍首相に…とケチをつけ、…と畳みかけている」、「年金問題…民主党の支持基盤である自治労…オクビにも出さず、ひたすら安倍攻撃に邁進する」、「極めつきは…と一国の総理の発言を”ヘ理屈”とまで言ってのけた」、「ここまで”政治党派性”を露骨にしての政権攻撃は異様…。ジャーナリズム史に残る事態…」(古森義久)、「普段使わないような情緒的な言葉を多用して安倍攻撃をおこなっている」(古森)、「朝日は、安倍政権にマイナスになることだけを書きつづけていますから」(屋山太郎)、「自分の価値観だけをひたすら押しつけてくる、ただのビラ。”反政権ビラ”…」(屋山)、7/09記事では安倍内閣・自民党支持率回復につき「見出しを打たず、前回の参院選より低いと…」、「まさに世論操作そのもの」、「とにかく安倍憎しという一心で記事をつくっている」(稲垣武)、「昔は…オブラートにくるんで政権批判をしたのに、今は感情むきだし。…新聞以下のイエローペイパー、デマ新聞のレベル…」(稲垣)、「朝日自身が”戦後レジーム”そのもの」(稲垣)、「朝日は、昔のコミンテルン…。…自分たちの思想を宣伝し、ずっと嘘を言いつづけることで、白を黒にしてしまう」(本郷美則)。
 いやはや、この記事を読んでも、<読売新聞や産経新聞も逆の立場で朝日新聞と似たようなことを…>などとの呑気なことを言える人はいるのだろうか。いるとすれば、その人はまともな神経の持ち主ではないか朝日新聞の記者自身ではないか。
 この週刊誌記事の最後の文はこうだ。
 「日本と日本人をひたすら貶めて生きてきた朝日新聞。その常軌を逸した報道は、…朝日ジャーナリズムの断末魔の叫びなのかもしれない」。
 近い将来、上の「なのかもしれない」を「だった」に替えて読み直したいものだ。
 産経新聞7/21花田紀凱の連載コラムで、同氏は上の週刊新潮の記事についてこう書いている。
 「まさにその通り。朝日の反安倍偏向報道、目に余る。どこが不偏不党だ。朝日も恥を知った方がいい」。
 朝日新聞自身も自らの<異常>・<偏向>ぶりを自覚しているのではなかろうか。そして、それが「ジャーナリズム史に残る事態」かもしれないことを意識しているのではなかろうか。
 しかし、そんなことにかまっている余裕がこの新聞社にはないのだ。自民党を敗北させ、安倍晋三を首相の座から引き摺り下ろすことができるかもしれない絶好のチャンスが訪れている(と判断している)のだ。この機会を絶対に逃すまいと、必死の、「常軌を逸した」紙面づくりをしているのだ。
 自民党のある程度の敗北はやむをえないとしても(むろん民主党よりも多数議席の方が望ましい)、安倍晋三を絶対に内閣総理大臣の地位から下りさせてはならない
 朝日新聞の意向・主張に添うことは日本の国益にならず、その主張と反対の方向を選択することこそ日本の戦後の教訓であり指針だった。朝日の考える方向に誘導されず、それをきっぱりと拒否しなければならない。

0291/古森義久「朝日新聞の倒閣キャンペーンの異様さ」に寄せて。

 産経古森義久が氏のブログで7/11に、「朝日新聞の倒閣キャンペーンの異様さ」というタイトルで、その題のとおりのことを批判的に指摘している。
 朝日新聞の記事を全て読んでいないが、古森の感想・考えが正しいだろうことは容易に想像がつく。
 安倍内閣を支持している読売又は産経自体はどうなのかと問題をずらしている、又は公平に論じろとの旨の意見もあるようだが(読売は安倍内閣支持で明確なのか私には分からない)、それは、安倍晋三と朝日新聞の長い<敵対>関係を知らない無邪気な人だからこそ言えることだ。
 朝日新聞は、安倍が中川昭一等とともに若手の「保守派」の会である日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会の要職・事務局長を務めて以来(中川昭一が代表)、警戒すべき政治家だと注意を向け、事あらば批判し、政治的に打撃を与え、うまくいけば失墜させてやろう(政治生命を奪ってやろう)と考えてきた「左翼政治団体」だ。
 2005年になって4~5年前のできごとについて<政治家がNHKに圧力>という本田雅和ら執筆の虚報(捏造記事)を放ったのも、そうした<戦略>の一環だった。この件につき、安倍、中川およびNHK幹部にも毅然と反論されて窮地に陥ったのは、朝日新聞だった。
 その後この件について朝日新聞は訂正も謝罪もせずに勝手に<幕を引いて>いるが、朝日新聞の<挑戦>を堂々と受けて立ち、活字によっても朝日新聞を名指しで批判した安倍晋三は、朝日新聞の<私怨>の対象とすらなったのだ。 
 思い出すがよい。一年前、朝日新聞は安倍以外の者、例えば、福田康夫が自民党総裁→内閣総理大臣になるように必死の紙面づくりをし、福田の氏名を挙げて<さぁ、立て>とまでけしかけたのだった。今でもそうだが、当時も、加藤紘一のコメントを「愛用」したのは朝日新聞だった。(それにしても、加藤紘一は自分が属する政党の党首を「危ない」とか等々々々よくもまぁマスコミ上で批判できるものだ。いつも呆れている。日本共産党なら、即刻除名)。 
 その安倍は、今や内閣総理大臣になった。彼が朝日新聞発行の週刊誌(週刊朝日)の記事にでも敏感に反応するのは当然のことだ。一方、現在の朝日新聞が何とか<安倍退陣>まで持っていこうとの<戦略>を立て、個々の<戦術>を繰り出しているのも分かる。安倍関係になるととりわけ、朝日新聞は報道機関ではなく<政治団体>に姿を変える。
 朝日新聞には2000万人の読者がいるから影響は大きいだろう。また、もともと今回の選挙は自民党が議席を減少させることが容易に想定された選挙だった(6年前が勝ち過ぎだった)。だが、安倍首相が退陣を余儀なくさせられるほどに自民党を大敗させてはならない。朝日新聞の本田雅和、若宮啓文、元朝日の本多勝一、さらには週刊金曜日の佐高信、石坂啓らに<勝利の哄笑>をさせてはなせらない
 朝日新聞の紙面に問題があるなら(そうだと思うが)、産経新聞はその旨を紙面で堂々と批判すべきだ。一般常識のほか新聞倫理綱領等々に朝日新聞も拘束されているはずで、同業だから批判できないというのでは情けない。古森のブログのみでお茶を濁すような情けないことを産経新聞はするな、とむしろ言いたい。


0290/朝日新聞7/18社説を嘲笑する。

 朝日新聞7/18社説「政府の役割―年金解決に市場の知恵を」を読んで、奇異な思いに駆られた。
 第一に、今頃何を寝ぼけたことを言っているのか、ということだ。
 「社会の中で政府が果たす役割を、根本的に考え直す必要があるのではないか」。
 →今更言われなくとも19世紀以降、いろいろな人(傑出した者は「思想家」とも言われる)が、日本人も含めて発言し、議論してきたことだ。今頃になって発見した<大論点>だというつもりだろうか。こんな文章を大新聞の社説で読むとは想像もしていなかった。
 「
今回あらためて明らかになったことは、市場の失敗を正すはずの政府もまた大失敗をする、ということだ。
 →これまた今更指摘されなくとも常識的なことではないか。「市場の失敗を正す」ことのできない政府が、(社会主義国のように)自ら経済運営を<計画>的に行おうとすれば大失敗することもまた常識的なことではないか。大新聞の社説が今頃何を言っているのだろう。
 上の文章の前の、「19世紀から20世紀にかけてできた社会保障制度の発想は「市場の失敗を政府が是正する」というものだ。資本主義経済は暴力的で、競争に負けた人々の生活を破壊する。政府は市場経済の外側にあって市場経済という巨象が暴れないよう外からオリをつくる、という発想だ」は、少しは議論する余地があり、逆に、こんなに簡単にまとめてもらっては困る、と思われる。
 というのは、「
資本主義経済は暴力的で、競争に負けた人々の生活を破壊する」と理解の仕方はまさしく(資本主義社会を憎悪した)マルクス主義のそれであり、また(今世紀の意味での)社会民主主義やひょっとして一部はケインズ主義もこう理解する傾向があるが、「資本主義経済」を無条件・無前提に「暴力的で、競争に負けた人々の生活を破壊する」と表現するのは、暴力的」・「競争に負けた」・「生活を破壊」の各意味の問題にもなるが、誤りだと思われる。大新聞の社説が、こんな一般化した叙述をしてよいのか。
 
「「政府は市場よりもすぐれた能力や善い意図を持っている、あるいは持つべきだ」という
20世紀の発想から抜け出さなければならないのではないか。
 →これまた、朝日新聞様に指摘されなくとも常識的なことではないか。ひょっとして朝日新聞様は今までは、典型的には社会主義理論・マルクス主義のように、政府は市場よりもすぐれた能力や善い意図を持っている、あるいは持つべきだ
」と理解してきたのだろうか。だとすれば、あまりに幼稚で、かつあまりにも怖ろしい。
 そのあとに示されている、「大企業中心の経済」から自由な個人や中小企業がグ
ローバルに活躍できる」「市場経済」へという時代認識が適切かどうかは、私には的確に判断できない。但し、少なくともこうは簡単に言えないのではなかろうか。
 それに、この朝日新聞社説子は「大企業」という言葉で厳密には何を意味させているつもりだろうか。日本共産党がしょっちゅう使って批判しているいる「大企業に奉仕する…」とか「大企業中心の…」とかの意味が不鮮明なのと同様の曖昧さを感じる。
 第二に、自らのこの主張を、朝日新聞も含まれる(同社が市場に参加している)新聞業界にもきちんと適用せよ、ということだ。
 例えば、第一に、<記者クラブ制度>は情報収集への新規参入を拒んで、一部マスメディアの寡占体制化・特権化に寄与しているのではないか。
 朝日社説は「
官僚や「有識者」に丸投げせず、オープンな市場の知恵をもっと信頼する。それが21世紀に市場と国家の役割を仕切
り直すうえで必要ではないか。市場とは結局、私たち自身のことなのだから」と結ぶ。
 「
オープンな市場の知恵をもっと信頼する」ということと、<記者クラブ制度>は矛盾しないのか。
 第二に、「オープンな市場の知恵をもっと信頼する
」価格設定が新聞紙についてはできているのか。朝日に限らないが、いくつかの大新聞の定期購読価格が同じというのは、<自由な市場>を信頼すれば、異常な事態ではないのか。この社説の書き手は自らが属する新聞業界も視野に入れているのだろうか。
 第三に、定価販売のみを許す、いわゆる<再販制度(再販売価格維持制度)>は、「オープンな市場の知恵をもっと信頼する」という主張と矛盾していないのか。
 新聞に特殊性が全くないとは言わないが、この社説の書き手は自らが属する新聞業界も視野に入れて主張しているのだろうか。
 自らの属する業界のことはケロッと忘れて何やら主張しているのだとすれば、<エラそうなことを言うな!>と言ってやりたい。
 補足しておけば、この社説は経済学部出身の記者が書いたものではなく、若宮啓文もそのようだが、法学部出身者が書いたのではなかろうか。そうでないと、こんな幼稚で、かつ一部は簡潔すぎる社説はできない、と思う。
 また、法学部出身者であっても、上級官僚や良質企業の幹部候補生社員はとくにそうだと思うが、入省・入社してから経済学もかなり勉強するはずで、「社会の中で政府が果たす役割を、根本的に考え直す必要があるのではないか。」などという幼稚な文章は、20歳代でも恥ずかしくて書けないのではないか。
 私はこの7/18社説「政府の役割―年金解決に市場の知恵を」を書いた朝日新聞記者を嘲笑する。

0289/日本のマスメディアは「まとも」か-野口悠紀夫コラム。

 安倍首相・自民党の憲法改正に反対して、憲法学界および憲法学者の多くと同様の教科書で同様の教師たちから憲法を学んだ他の分野の法学者たちの多くは、日本共産党か社会民主党に、又は自民党を敗北(議席減少)させるために民主党に投票するのかもしれない。
 しかし、日本共産党員でもマルクス主義者でもない経済学者や政治学者の多くから見ると、参院選前の政策論議とそれを伝えるマスコミ自体がまともなものではない、と映っているのではなかろうか。
 週刊ダイヤモンド野口悠紀夫の連載コラム7/21号の「政策論議を歪めるマスメディアの構造」は、こんなことを書く。
 「テレビの政策論議は単純な二分法」、「善玉と悪玉の戦い」になる、「富者と貧者、大企業と零細企業、都市と地方」等。そして「官僚は常に悪く、民営化は常に望ましい。…扇情的な言葉に影響されやすく、水に落ちたイヌは徹底的にたたかれる(その半面で、鳴き声の大きなイヌには手が出せない)」、「大事件が起きると、右往左往して意見がぶれる」。日本のテレビ界の政策論議は基本的にこのようなレベルで、「床屋談義」・「井戸端会議」だ。「新聞はテレビに比べれば多様な意見が登場しうる」が「全国紙、一般紙という制約から逃れることはでき」ず、「テレビとの差は程度の差でしかない」(p.118-9)。
 私のそれはきっと野口の経済学から見る社会認識と一致しているわけではないと思うが(そもそも野口の議論を殆ど知らない)、経済学の著名な碩学もまた、日本のテレビ・新聞上の「政策論議」は異常だと言っているわけで、同感だ。「大衆」民主主義社会の代表者が「大衆」に媚びるテレビ・新聞だ、とも言える。
 こんな現象はどこの(自由主義)国もそうかと思っていたら、野口は、マスメディアの「多様性」が「アメリカと日本にはかなりの差がある」と言う。
 野口によれば、「アメリカには全国紙はないに等しい」。日本では戦時中の政策により「全国紙の地位が高ま」り、その「全国紙がテレビをも支配する構造になっているため、日本の主要なマスメディアは極端な寡占体制になっている」。日本のテレビはチャンネル数が「ごく少数に制約され」、「それが新聞社とほぼ一対一対応で経営されるため、多様な意見の報道はきわめて難しい」。
 日本のテレビ・新聞等のマスメディアはもともと「歪んだ」ものになりやすい構造をもっている、日本に独特の欠陥がある、ということだろう。私にとって完全な新知見ではないような気もするが、改めて読むと、やはり日本のマスメディアはどこか奇妙だ、と感じる。
 上の野口の文章は政党間対立からは中立と思われる。だが、現時点のマスメディアを一瞥していると、どうやら反安倍首相・反自民党のムード醸成で殆どが一致しているようでもある。少なくとも、安倍首相にとって<暖かい>雰囲気ではない。<年金記録消失問題選挙>といったい誰が決めたのか。<消えた年金>とかのフレーズを誰が作ったのか。自民党が<逆風>にある、と誰が決めつけたのか。
 「日本の主要なマスメディア」ではないネットやブログの世界は、では、多様な意見を反映しているだろうか。少なくとも表面的には、私にはそうにも思わない。<政治的に>ネットやブログを利用してやろうという者のサイトも少なくない、という印象がある(無意味に多いと感じるのは日本共産党員のブログだ。同党のビラと同じことを書くなと言いたい)。但し、一般のテレビ・新聞には出てこない情報や意見を知ることができるのは、選挙とも無関係に、ネットやブログの重要な存在意義だとは感じているが。そして<表現の自由>にとってネットの世界が重要なフォーラムであることも否定はしないのだが。

0282/朝日7/12社説-「左翼政治団体」日刊機関紙の如く、ひどい。

 朝日新聞は、参院選の投票を前にして、いよいよ<狂気>じみてきているようだ。公示日7/12の社説については、すでに産経・古森義久が詳しい紹介・分析を掲載している。
 それによると(私も朝日の当該社説を見ているのだが)、朝日は今回の参院選を、1.<「宙に浮いたり、消えたり」の年金不信>、2.<閣僚に相次いて発覚した「政治とカネ」のスキャンダル>、3.<無神経な失言の連発>という、「逆風3点セット選挙」(又はたんに「年金選挙」・「年金記録信任選挙」)と理解しており、また国民にも理解してほしいようだ。
 なぜなら、そのように選挙を性格づければ安倍首相率いる自民党にマイナスになることは必至だからだ。上のような点の強調又は反復には、朝日新聞の<必死の想い・願望>が込められている、と言ってよいだろう。
 古森が前提としているように、また前回言及の佐伯啓思のコラムが述べていたように、争点はこんなところにはない筈だ。
 とはいえ、朝日社説はアリバイ的に他のことにも言及している。いわく、<同時に、この9か月に安倍政治がやったこと、やらなかったことを、その手法も含めて有権者がしっかりと評価するのが、この選挙の重要な目的であることを忘れてはならない>、<これからの日本の政治のあり方をめぐって重要な選択が問われていることを心にとめておこう。/安倍政治がめざす「戦後レジームからの脱却」か、小沢民主党がめざす政権交代可能な二大政党制か――。投票日までの18日間、しっかりと目を凝らしたい>。
 しかし、古森も指摘するように、「この9か月に安倍政治がやったこと、やらなかったこと」や「安倍政治がめざす「戦後レジームからの脱却」」については、まるで殆ど言及がないのだ。言及する場合には、「国民投票法など対決色の強い法律を、採決強行を連発しながらどんどん通していった。/教育再生や集団的自衛権の解釈などでいくつもの有識者会議をつくり、提言を急がせたりもしている」と、批判的・否定的にのみ言及する。
 古森指摘のとおり、「「安倍政治」を語るならば、当然、教育基本法の改正、憲法改正を目指しての国民投票法の成立、天下りを規制する公務員制度改革法の成立、防衛庁の省昇格、そして中国や韓国との関係改善、さらにはNATOとの初の首相レベルでの接触、インドやオーストラリアとの「民主主義の共通価値観」に基づく新連携などなどが、少なくとも言及されるべき」だ。
 朝日社説はまた、アリバイ的言辞を挿入していることもあって、論理をたどることがかなり困難だ。
 重要な選挙の告示日に、朝日新聞はこのような、安倍内閣に打撃を与えてほしいとの魂胆だけがミえみえの、論旨のわかりにくい、勿論格調の低い社説しか書けないのか。
 もちろん<左翼政治団体>の日刊機関紙だと公言してくれていればそれでよい。安倍批判をしたいがために<前のめり>になるのも分かる。しかし、報道機関たる天下の「新聞」の社説として、若宮啓文らは恥ずかしくないのだろうか。
 今、あらためてこの朝日社説を読んでみた。ひどい。これで700万部発行され、2000万人の眼に触れているとは、怖ろしい。心ある多数の国民の良識に期待するほかはない。

0270/日本の社会民主党の友党は世界に存在しない。

 西尾幹二・江戸のダイナミズム(文藝春秋、2007)によると、ドイツにもキリスト教とは別の「ゲルマン神話」というものがあるらしい。「日本神話」があるのと似たようなものだ。だが、そもそも生徒・学生時代の勉強不足なのか、「ゲルマン神話」なるものをもつ基本的には同じ民族なのに(中世にはすでに「ドイツ」との語はあったと何かで読んだか実際にドイツのどこかの古い教会で見たが)、ドイツは何故普仏戦争後1871年まで「統一国家」を形成しなかったのだろう、隣のフランスはとっくに一つの中央集権的国家になっていたのに、と不思議に感じる。フランスのような強力な王権が形成されず、最大の邦でも北・東独の一部の プロイセンだった。ミュンヘンのバイエルン、ドレスデンのザクセン等々に分かれていた。日本ほどではないが、フランスよりは丘陵が多くかつ複雑な地形だったことも関係しているだろうか。
 どの週刊誌か忘れたが、福田和也がたぶん明治天皇(昭和天皇?)か明治時代の政府高官の渡仏に関連させて、恐らくは短期間のパリ滞在記を書いていた(この数ケ月以内に読んだ)。そこにアンバリッド(廃兵院)の建物の前の広い空地の話も出てきて、彼が書いている道路幅か長さが私の記憶よりは小さいと感じたのだか、それはともかく、アンバリッドの奥にナポレオンの墓があり、入らなかったが軍事博物館もあるらしい。そのアンバリッドとやらは議会下院(ブルボン宮)の建物よりも大きく、前庭も広い。ナポレオンを軍人として記憶しようとしているであろう建物をまっすぐ北に進むと大きな橋(アレキサンドル3世橋)があり、さらに少し進むと軍服姿のドゴールの細身の銅像が交差点付近(左=西がシャンゼリゼ)に立っている。
 何が言いたいかというと、要するに、「軍事」的なものに対するフランス人又はパリ人の抵抗のなさだ。
  フランスは核保有国だ(この点、ドイツと異なる)。仏社会党出身のミッテラン大統領が日本に来て国会で演説したとき、自国(フランス)が核を保有する意味・正当性も述べたらしい。だが、社会党好き?のさすがの朝日新聞もその部分は報道しなかった、とこれは昨年だと思うが、何かで読んだ。
 フランス社会党は自国の核保有に反対しておらず、米国を含むNATO加盟にも反対していない。むろん、フランスは自国の正規軍を有しており、フランス社会党がこれに反対しているわけがない。これらは英国労働党についても同じで、核保有の点を除けば、ドイツ社会民主党も全く同様だ。
 こうした、安全保障面で安心できる政党があるなら、日本でも社会民主主義系の政党をたまには応援してもよいという気持ちになるかもしれないが、日本の社会民主党ではダメだ。この党は、社会民主主義系だろうが、むしろ憲法九条絶対保守の土井たか子的<護憲>政党としての性格の方が強く、欧州の社会民主主義諸政党や米国の民主党とは安全保障政策が全く異質だ。
 日本共産党は論外。できるだけ早く、日本共産党と社会民主党を消滅させるか国会議員数0~2の泡沫政党化してはじめて、建設的な第二党の形成を語りうることになるだろう。
 現在の民主党は一部では日本共産党と同じ候補者を推薦しており、小沢代表が<全野党…>という時、日本共産党まで含めている。旧日本社会党で社会民主党に行けなかった(行かなかった)者が民主党内に残っていることは言うまでもない。建設的な、政権を任せられるような政党ではありえない。
 基本的な問題であるはずの憲法の将来のあり方について<検討します、論じます>としか言えない政党が、政党として一つにまとまっていること自体が不思議だ。
 ゲルマン神話からフランス・パリ・アンバリッドを経て日本の民主党までの、幅広い??文章になった。

0268/朝日新聞の情報操作・世論誘導に騙されてはいけない。

 松岡前農水相自殺の翌朝の朝日新聞には、<安倍政権に打撃>という文字が一面中央下あたりにしっかりと刻まれていた。それも含めて、この事件が、<安倍政権に打撃になってほしい>という気持ちがありありと感じられる紙面の作り方だった。読売・産経を読んだあとだったので、新聞によってこうも違うのかと、改めて感じ入った記憶がある。
 久間防衛相辞任後の朝日新聞7/04朝刊の一面右上見出しは「参院選 首相に打撃」で前農水相自殺の際の<安倍政権に打撃>よりも大きいフォントだ。かつ今度は<安倍政権>ではなく、ずばり「首相」になっている。安倍首相にとっての打撃になれ、なってほしいとの気分が溢れ出ている。二面も同じで、大きく「身内かばい政権危機」とある他、「甘い認識対応後手」「「反転攻勢」狙った矢先」とタタミかけている(いささか品が悪いほどだ)。
 批判的な指摘もあった産経・読売と比べても、明らかに紙面作り、その結果としての紙面から生じる印象・雰囲気が異なる。
 朝日新聞は自民党の大幅減は必至と予想し、何とか安倍首相の退陣にもっていきたい、と考えている、と容易に想像がつく。そうなるまでの自民党の大敗北を期待し、かつ世論を誘導しようとしているのだ。
 安倍首相と朝日新聞はふつうの政治家・マスコミの関係とは異なる。安倍首相に関係すると、報道機関性など忘れた露骨な政治団体と化すのが朝日新聞だ。
 定期購読していないのでただちには気づかないだろうが、朝日新聞は、今後ますます、安倍首相率いる自民党大敗北に寄与する記事を書き、紙面を作るだろう。明瞭な捏造・虚報記事は発しないかもしれないが、これまでのいきさつ・事件も含めて、安倍首相攻撃は止むことがないだろう。
 <地球貢献国家へ>などと寝ぼけたことを言い、7/04の社説では1945年9月の同紙上の鳩山一郎の原爆投下批判により「占領軍により発行停止になった」と自慢げに書きつつ、その後は占領軍にべったりの迎合記事しか書けなかったことには一言も触れていない。さらに、主権回復後に<米国は原爆投下を謝罪せよ>との旨の社説を掲載したことは一度もない筈であるにもかかわらず、「原爆投下が誤りであり、原爆の被害が悲惨なことを、日本から粘り強く発信し、米国に伝えていく」などと、「粘り強く発信」という独特の朝日用語も用いつつ、<偽善者>的に主張している。
 政界の、そして参院選の最も大きな対立・争点は、やはり、あくまでも親共産主義か親自由主義かにある。朝日新聞は親共産主義陣営に入る代表的なマスコミだ。
 この対立点さえ忘れられていなければ、選挙結果が日本を悪い方向には向かわせないだろう、と信じる。
 左翼又は<進歩的・良心的>リベラル対安倍首相が代表だとする<強権的><国家主義的>右翼の対立では、ない。
 前者を支持して投票行動をとろうと思っている人々は、無意識に、意図せずにであれ、共産主義者(中国・北朝鮮を含む)に手を貸すことになることを知るべきだ。
 むろん、日本国憲法が有効かどうかなどいう<法学上の神学的議論>は些細な争点ですらない。

0257/再び参院議員選挙について。

 前々回に「参院選の基本的争点」などという大口を叩いた。産経6/26の正論欄では、村田晃嗣が「選挙への思惑を超えて、取り組むべき長期的な課題し山積している」として、第一に地球環境(温暖化)問題-安倍首相の「美しい星」構想、第二に集団自衛権問題を挙げている。そして、与野党ともに選挙にかまけて「日本外交にとっての長期的な戦略的課題」をなおざりにするなと結んでいる。
 異論はないが、こうした課題に関する議論は選挙の争点又はテーマのいくつかの一つにしても何ら差し支えないものだろう。
 月刊正論8月号(産経)の中西輝政「「年金」を政争の具にする愚かさ」は、政治家の事務所経費問題は「本当は小さな問題」で、これが大きくなったのは「瑣末民主主義」という「日本政治の病理の更なる昂進」の証左であり、政治とカネの問題を軽視するのは怪しからんという「小児病的正論」が歴史的に何をもたらしたのか「マスコミや世論はじっくり考え」るべき旨を述べている(p.78)。まことに正論、と私は感じる。
 中西においてはタイトルどおり、「年金」もまた「政争の具」にされてはならない。同感だ。自民党は街頭演説会等でこの問題に殆どの時間を費やすような愚かなことはしなくてよいのではないか。他の問題も含めて、安倍内閣のこれまでの成果を堂々と訴え、今後の方向を年金問題も含めてこれまた堂々と自信をもって訴えたらよいのではないか。
 中西によれば、年金記録漏れ5000万件の事実は日経が2月に報道し、民主党も認識していたが、5/23の会合で、つまり参院選の時期が近づいてから、小沢一郎・民主党代表は「年金問題を参院選の最大の争点にせよ」と檄を飛ばした、という(p.81)。国家の理念も国益も忘れてもっぱら<選挙に勝つ>ことしか考えていない小沢一郎の戦術は果たして成功するのかどうか。
 再び中西によれば、年金制度は重たい問題で、その変革は超党派で取り組むことが求められるのがスエーデン、ドイツ、イギリスなどの例であり、教訓らしい。戦前のドイツで時の与党を年金問題で攻撃して大躍進したのがヒトラー・ナチスだという。中西によれば、にもかかわらず、日本では「与野党、特に野党の側に自己抑制が働いていない」。
 中西は言う-「ポピュリズムを煽ることしか念頭にないマスコミに煽動された国民の多くはあのずさんな社保庁を放置してきた責任は「与党にある」としかとらえない。マスコミは「政争の具にしてはならない」との声を、単なるレトリックとしてしか見ない。そこにこそ年金問題の本質がある」(p.82)。
 代表者(立法議会議員)を選出する自由な投票こそが「民主主義」の根幹だが、民主主義又は民主制はもともと<衆愚政治>の意味を内包している。「衆愚」というと印象の悪い言葉なので、「大衆民主主義」には弊害又は消極的側面がある、と言った方がよいかもしれない。
 「大衆民主主義」とは現代を表現する学問上の概念だ。阪本昌成の本によると、オルテガやオークショットは「大衆民主主義の影」を気遣い、懸念した、という(同・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.93)。
 日々の生業・生活に忙しい国民(有権者)の全てが必要な全情報を得たうえで適切かつ合理的に政治的な判断・選択ができる訳がない(これは憲法改正以外の案件に関する国民投票制度や自治体レベルでの住民投票制度の設置や利用に私が消極的で、「代議制」=間接民主主義の方が優れていると考える理由でもある。この点はまた別の機会に)。
 もともとそういう限界があるところに、現代の選挙は「マスコミ」が作るイメージにかなり左右されてしまうという面もある。
 ということもあり、年金問題がなくとも自民党は敗北する(議席減少)予定の選挙だったのだから、敗北(議席減少)はやむをえない。
 だが、安倍首相の退陣だけは是非、何としても避けたいものだ。朝日新聞と日本共産党・社会民主党がこれまでの首相に対するのと比べても安倍首相攻撃・批判を強めてきたのは、安倍が彼らと正面から闘う人物だからだ。彼らにとっては、安倍は怖いのだ。安倍退陣は朝日新聞の若宮某を含む彼らを小躍りさせて喜ばせてしまうだろう。北朝鮮が喜ぶのも目に見えている。
 そのような首相を変えてはいけない。共社両党と妥協したり朝日新聞の主張に部分的にせよ<迎合>するような首相に変われば、近年の数年間の努力は無に帰してしまう。
 保守派からの不満は残ったのだろうが、内閣総理大臣による靖国神社への参拝をともかくも復活させたのは、小泉前首相だった。
 教育基本法も改正され、憲法改正手続法も制定されて、大きな変化の時代を乗り越える準備が現に着々となされ(社保庁解体・公務員制度改革もその一つ)、たんなる準備ではない成果も挙げてきているのだ。首相在任まだ10ケ月の安倍晋三を辞めさせるのは早すぎるし、日本のためにも絶対にならない

0255/参院選の基本的な争点は何か。

 今月末の参院議員選挙では、いつの選挙でもそうだが、現時点の日本がどういう国際環境に置かれ、国内的にどういう経済的・社会的状況にあるのかをふまえたうえで、どの政党又は候補者に「政治」を任せるかが判断されなければならない。
 その場合、どうしても、巨視的かつ歴史的な今日という時代の位置づけ、そして安倍晋三政権の意味、に考えをめぐらすことも必要だ。
 巨視的かつ歴史的に見た場合、私は次のような変化の真っ只中にあるのが今日の状況だと考えている。
 第一は、経済政策的にみて、ケインズ主義的な国家介入とともに「社会民主主義」的とすら言えるような国家による経済(市場)への介入および「福祉」政策を展開してきた、かつそれが財政的にまだ可能であった時代から、国家の一種の「放漫」経営をやめた、「自由主義」的経済政策、スリムな国家づくり、国家の<役割・分限>をわきまえた政策運営へと舵を切りつつある重要な時代の転換点にある。
 こういう傾向、動向は不可避であり、進めるべきものと私は考える。
 米国にレーガン、英国にサッチャーという、「自由主義」者(「保守主義」復活者)が現れ、欧州における<冷戦>も終わったのだったが、日本は90年代に逆に、細川連立政権・村山連立政権という「社会民主主義者(+一部の本当の社会主義者)」が加わった政権ができたために、「自由主義」への回帰が決定的に遅れた。小泉内閣以降の<構造改革>とはこうした遅れを回復しようとするもので、ケインズ主義的又は社会民主主義的な国家の介入、言い換えれば国家への依存、に慣れた者にとっては<弱者に冷たい>・<格差が拡大する>等の批判になっているのだろうが、国家も<無い袖は振れない>場合があるという現実をまともに直視すべきだ。
 いったいいくらわが国家は国民から借金しているのか。国家の赤字は結局は国民の負担となる。できるだけ早く借金漬け国家財政から脱却しなければならない。
 国家財政を圧迫しているのが国家の被用者=公務員の人件費だとすれば、これも削らなければならない。余計な事務・仕事を国家(公務員)が引き受ける必要はないし、まじめに仕事せず、ましてや意識的・組織的にサボりミスをして国家運営をしている政権与党に不利になるようにと考えていたような公務員は、まず第一に放逐する必要がある。
 第二に、1980年以降だと思うが、特定アジア諸国に対しては、過去の贖罪意識からか、弱腰で、言いたいことも言えない、逆に相手の意向に合わせて、事実でないことも事実であるかの如く認めてしまうような<卑屈な>外交が行われてきたが、これを改めて真に対等に、堂々と是々非々を発言し、議論する外交等を毅然として特定アジア諸国に対して行うように変わりつつあるように思われる。
 明瞭に変化していない論点・問題もまだあるが、こうした方向は正しく、一層進めていかなければならない、と考える。北朝鮮の金正日が拉致犯罪を自ら認めたのは大きかった。<媚中>・<屈中>外交はいいかげんにやめるべきだ。歴史認識も、相手国のそれに追随する必要はもちろん全くない。
 教科書検定に<特定アジア考慮条項>を持ち込んだ当時の内閣総理大臣、<従軍慰安婦国家関与>を認めた官房大臣談話のときの内閣総理大臣、の責任ははなはだ大きい、と私は思っている。
 第一、第二の点のいずれについても、私は、宮沢喜一首相の責任は小さくない、と思っている。彼は、首相をやめた後で再度小淵内閣の蔵相だったとき、最高額の国債を発行したようだし、所謂河野談話のときの内閣総理大臣は宮沢喜一その人だった。
 いずれの点にも関係しているだろう、現在の内閣を「危ない」と言い、「リベラル」派の結集が必要などと自民党内で主張している旧宮沢派の加藤紘一は、巨視的な時代の流れを理解していない。<国家ができるだけいろいろなことに面倒を見てくれた>戦後体制のシッポを加藤紘一は引き摺っている。そして、朝日新聞には気に入られるようなことを発言して報道してもらって、とっくに政治生命は終わっているのに、それが分からないまま、自己満足しているようだ(自民党から脱党して貰って結構だ。ついでに谷垣某、曖昧な古賀某も)。
 日本共産党や社民党は主義として<弱者保護>・<格差是正>等と主張して<大きな国家><大きな財政>の維持を客観的には望んでいるに違いないが、その他の党派や国民はそう考えるべきではない。再述すれば、国家も<無い袖は振れない>のだ。何となく、国家はずっと存続するだろう、と考えていたら、甘い。
 第三に、まだ明瞭になっていないかもしれないが、日米関係が微妙に変化していく端緒的時代にいるような気がする。
 むろん両国の緊密な同盟関係は今後も(少なくとも表向きは)続くだろうし、続けるべきだとも思うが、しかし、日本の安全保障に関して本当に米国は信頼できるのか、という問題はでてくるだろう。いや、すでに一部では論じられているかもしれない。
 米国の日本に対する態度がどうであれ、ある程度は米国に頼ることなく自国だけで安全保障を達成するように少なくとも努力することは考えられてよい、と思う(日本の軍事的自立に、米国は自国は楽になったとは思わず、日本を警戒して反対するだろうと予想するのだが)。ちなみに、憲法九条二項の削除はそのための重要な手段だ。
 以上のいずれをとっても、重大な問題ばかりだ。だが、大まかにせよ、上のような基本的問題について各政党の基本的スタンスを知ったうえで選択し、投票すべきだ。
 日本共産党や社民党は勿論、民主党の中にも「社会民主主義」・<特定アジア諸国シンパ>の議員はいる。余計ながら、政党として、自民党が上の三点の方向に最も近いことは確かだ。
 ところで、上のように政治に素人の私でも一国民として考えるのだが、月刊・諸君!8月号(文藝春秋)の座談会、国正武重・田勢康弘・伊藤惇夫「安倍政権、墜落す!」は何だろう。
 巨視的・歴史的な今回の選挙の位置づけなどまるでない。政治家に対する政治屋という言葉があるようだが、この三人は、政治評論屋であり、「政治」に関する適当な雑談や雑文書きを生業としている政治屋だ。
 この三人全員に尋ねたいが、貴方たちは日本がいったいどのような国家・社会になれば望ましいと考えているのか。そのようなマクロな歴史観・国家観なくして、近視眼的にのみ「政局」を論じて(いや雑談して)もらっては困る。
 国正某は元朝日政治部次長等、田勢某は元日経編集局長等、伊藤某は元民主党事務局長。すべて、真摯に日本国家のことを考えてきた人たちとは思えない(私は日経も含めて新聞社の人を基本的に信頼しない、朝日新聞となれば尚更だ)。
 文藝春秋の月刊・諸君!編集部(編集人・内田博人)は、安倍政権を見放すような記事をメーンに持ってきた。これは編集方針の大きな変更とも感じられる。文藝春秋もつまるところは<世論迎合>の<儲け主義>の出版社だった、というところだろうか。
 むろん私は絶対的に信用できる出版社があるとは思っていない。すべて相対的な話なのだが、文藝春秋の月刊・諸君!は今後、販売部数を減らすだろう。

 

0254/マスコミに問う、政治家の事務所経費問題はどうなったのか。

 日々の生活や表面的なマスメディアの動向に追われていると、肝心なことが見えなくなる。十分に警戒しなければならない。
 松岡農水相の自殺について、マスコミの扱い方にも原因の一端はあったのではないかとやや遠慮気味に書いたのは自死後1週間の6/04だった。
 その頃から以降、一所懸命に彼のそれを含む政治家の事務所経費の問題に一般国民、読者・視聴者の関心を向けさせていたマスコミや政治家は、この問題をいったいどう扱ってきたのか??
 松岡の死によって、「野党もマスコミもピタリと取り上げなくなった」ではないか。
 本当に重要な問題ならば、政治家の一人の死とは関係なく、その後も究明が続けられて当然だろう。しかるに、なぜ問題については静かになってしまったのか。
 それは、まさしく松岡の事務所経費使途問題が<政争の道具>とされていたこと、安倍内閣および与党(とくに自民党)を攻撃・批判したい朝日新聞を筆頭とするマスコミの(報道に名を借りた)<政治運動>のタネに他ならなかったことを明瞭に示していると思う。「要するに「松岡追及」は全く政争の手段に過ぎなかった」。
 カネ問題に不透明で厚顔きわまる松岡ということでマスコミは安心して「いじめた」ところ、実は繊細だった彼は自殺してしまった。
 マスコミ関係者に自責の念・良心の呵責は少しは生じたのだろうか。自死自体は本人の責任に決まっているが、マスコミの「いじめ」がなければその死もなかった、という因果関係だけは語れるだろう。
 もとはといえば、事務所経費問題を揚げ足取り的に取り上げた最初の政党は日本共産党だった。同党の小池某等は、自党の方針と松岡という一人の人間の死に因果関係など認めたくないか、そもそもそういう問題意識自体を持っていないだろう。
 同党が事務所経費問題を取り上げたとき、対中国、対北朝鮮、対米国、年金・社会保険庁問題、公務員天下り規制問題、改憲問題等々、松岡という一政治家が事務所経費を本当は何に使ったのかという瑣末で些細な問題よりははるかに重要な問題はいくつもあった。共産党が最初に話題ににし、<面白がった>マスコミが追随した
 今やマスコミの関心と煽りは<年金>問題に移った。殆どのマスコミの報道の<仕方>を疑うべきだ。とりわけ、朝日新聞社は、安倍晋三に対して<私怨>をもっており、その<私怨>という感情をもって紙面を作っている。とりわけ朝日新聞の誘導的論調に騙されてはならない。
 以上のうち、一部引用は、月刊正論8月号(産経新聞社)の中西輝政「「年金」を政争の具にする愚かさ」による。

0253/日本年金機構は独立行政法人か「特殊法人」か。

 昨夜というより今朝の「朝まで生テレビ」を見ていたら、社会保険庁解体後の日本年金機構の性格について、与党系議員は非公務員型の独立行政法人だといい、野党議員(とくに民主党)は厚生労働大臣は<特殊法人>だと答弁した、と対立していた。
 この議論はあまり生産的でない。6/26に私は非公務員型の「独立行政法人だろう」と既に書いたが、与党系議員(片山さつきら)の発言を聞いていると、これでたぶん間違いない(成立した法律全文を見れば容易に分かる筈だが容易に電子情報で発見できなかった)。
 この「独立行政法人」は独立行政法人通則法にもとづくもので概念と範囲が形式的に明瞭だが、一方の「特殊法人」となると、これは(総務省の所掌事務に関する定めに出てくるが)明確な法制上の概念ではない。独立行政法人という新しい特別の行政法人形態ができたために、これを除いて用いることもあるだろうが、独立行政法人も国・地方公共団体や純然たる民商法上の法人とは異なる「特殊な」法人であることに変わらない。
 従って、大臣答弁は含めていれば誤りとはいえない(含めていないものとして答弁したとすれば与党系議員の発言を前提とするかぎり誤りで、訂正が必要だ)。
 というわけで、それぞれの意味・範囲を明確にしないと「独立行政法人」か「特殊法人」かの議論は殆ど無意味だ。
 新聞の朝刊では「公法人」とのみ記している(たしか読売と産経はこうだった)。この「公法人」概念も曖昧又は広すぎる概念だ。純然たる民商法上の法人以外のものは全て入ってしまう可能性が高い。
 どちらにせよ、政治家もマスコミも、法制又は制度に関する基礎概念についての十分な理解のないまま発言し、記事を書いているきらいがあるのではないか。
 社会保険庁職員に関するかつての「地方事務官」制度について、きちんと説明していた新聞記事はあったのだろうか。
 さらにいえば、戦後2000年4月まで続いた「機関委任事務」制度について、新聞を含むマスコミの記者たちはいかほどの基礎知識をもっていたのだろうか。
 表面的な<政争>ばかりに目を奪われて、制度の実質的内容にかかわる記事が書かれないようだと、本当は与党(又は内閣)・野党どちらがよりよい法案を提出しているかを国民が判断することができない。
 むつかしいことを書いても一般国民に理解できないと考えているとすれば一般国民を馬鹿にしているし、自分たちの勉強不足の言い訳をしているにすぎないとも言えるだろう。
 珍しく見た今朝の番組(日テレ/読売)で、竹中平蔵が年金問題はじつは<労働問題>だと発言していた。
 社会保険庁の職員全員をいったん解雇し、新しく上記機構に採用する過程で、意識的・組織的にサボタージュやミスをしたような者は排除していく必要がある。今般成立した社会保険庁→年金機構法は、そのような意図を明瞭にもつ、安倍内閣らしい法律だ。

0247/社保庁職員の自爆戦術-屋山太郎の二つの文。

 屋山太郎産経新聞6/22「正論」欄「社保庁問題は国鉄問題にそっくり」月刊WiLL8月号「旧国鉄解体よりひどい社保庁労使国賊論」を読むと、いろいろと確認できるとともに、いろいろと想像したくなる。
 まず、6/13に社会保険庁職員は国家公務員だが都道府県知事の指揮監督をうける「地方事務官」でなくなった2000年4月以降も今年2007年4月までは自治労に所属していた旨を示唆したが、現在は「全国社会保険職員労働組合」(1万1千人)として自治労から離れたこと(他に日本共産党系「全厚生労働組合」に社会保険庁職員二千人がいること)が明記されている(後者のp.34)。いずれにせよ、今年4月までは国家公務員でありながら自治労傘下の組合(「自治労国費協議会」)員だったわけだ。
 屋山の前者によると、1973年に国労の富塚三夫書記長(のち日本社会党国会議員)はストをうつ覚悟について「国鉄が円滑に機能しないことは国の力を弱め、資本主義を崩壊させるのに役立つ」と述べたらしい。
 屋山が言うように、「社保庁自治労が同じ動機で仕事をサボっていたのは想像に難くない」。
 つまり、仕事をまともにしないことによって国家や政府に打撃を与えること、社会保険事務を「円滑に機能させないことによって国の力を弱め」ることくらいは、旧日本社会党系の労組幹部なら考えていて不思議ではないと思われる。
 しかも、仕事をたんに遅らせるだけではなく、間違って事務処理をした例やその結果が多数報道されているが、それらには、公務員もミスをすることがある、というだけでは絶対に済まない、<組織的>な動きがあったのではないか、と私は想像してしまう。
 社会保険庁の職員の仕事が完全に多数の個々の職員の責任に任されていたわけではなく、職制の詳細はよく知らないが、係長、課長等がいて、遅れや間違いがあることはある程度は職場内で公然の秘密になっていたのではなかろうか。そうした不正を糺さなかった中間「管理」職は、むしろ意識的に<見逃して>きたのではなかろうか。
 地方事務官時代は職務の指揮監督権は都道府県知事にあっても任免・懲戒権は厚生大臣又は各地方の局長にあったものと推測している。所謂キャリアとして本庁と地方を頻繁に往復している公務員は殆ど?(あまり?)知らないところで、<反国家=(当然に)反国民>の、サボタージュと意識的なミスの運動が「しずかに」行われていたのではなかろうか。怖ろしいことだが、そんな想像をしてしまう。
 社会主義神話・幻想がまだ残っていれば、あるいは残っていなくとも反国家・反政府・反資本主義の気分が残っている組合であれば、また、社会保険事務所では懲戒権を伴う上司・上級行政機関の適切な監視と督励が十分に働きにくかったとすれば(←地方事務官制度の問題点)、上のような「組織的」サボタージュとミスもありえたのではないか。
 屋山の上の後者はまた、次のようなことを書いている。
 三年前の参院選前に社会保険庁のポスターに江角マキコが起用されたが彼女が年金掛金を払っていないとの情報が出て、自民党政治家の未払いが問題になり、小泉首相自身も問題にされて「人生いろいろ」とか言い、民主党・菅直人が<未納三兄弟>と揶揄したが、のち菅自身の未納が明らかになって菅は代表を辞任した。そして、「民主党応援のために未納を暴いたのが自治労系菅を暴いたのが共産党系ではないかといわれた」(p.35)。
 最後の部分に確証はないようだが、いろいろな<情報>の流出が、三年前と同様に?(今後も参院選投票日まで)政治的意図をもってなされてきたし、なされるだろう、と見ておいてよいだろう。屋山によれば、「選挙や国会審議をにらんで事件が作為的に、政治的に起こされているとしかいいようがない」ということになる。
 社会保険庁を与党は「日本年金機構」という非公務員型の組織(独立行政法人の一つだろう)にして六分割し、いったん全員を免職したのちにその一部(又は多数?)の「良質の人材」を新たに採用しようとしている。
 屋山の後者は言う、「こういう組織の存亡に直面して社保庁職員が繰り出した手段が、自爆戦術ともいうべき五千万件の記録漏れを暴くという手段だったのではないか」、と(p.36)。
 本当にそうだったとすれば(可能性はむろんある)、表向きはいちおうどちらかといえば平穏な日本でも、<政治>が、<権謀術策>が渦巻いている。いや、改めて言うほどのものではないか…。

0221/年金記録紛失問題の浮上は今なぜ?

 年金記録紛失問題がなぜ今頃になって、参議院議員選挙の前に出てくるのか、という疑問は当然に出てくる。
 産経の客員編集委員・花岡信昭の6/06のコラムは、上の問題は「安倍政権の「失政」による」のではない、「社会保険庁という、なんともいかがわしい役所の親方日の丸体質が生んだものだ」、「まじめに働かず、ずさんな仕事を続けてきた体質の根源は職員組合にあった。日教組と並んで批判の的となってきた自治労である。民主党の有力な支援母体だ」などと書いている。
 つづけて同氏の6/13のコラムは経緯についてより詳しく、民主党の要求により社会保険庁の調査で<5000万件未処理>が判明した旨を日経新聞の2/17記事が報道したが当時は殆ど問題にされなかった、5月の国会審議で再浮上し、5/23に小沢一郎・民主党代表は「参院選の最大の争点にするよう指示」、翌5/24にも党会議で「一丸となって取り組む姿勢」をアピールした、等と書いている。
 6/10の「~委員会」と題するテレビ・トーク番組でも話題になっていた。録画から書き写そうかと思ったが、すでに他のブログサイト(「ぼやきくっくり」)に掲載されているので、無断だが利用させていただく(抜粋、一部省略の部分あり)。

 <花田紀凱年金問題は、年金の記録消失というのがなぜ出てきたかといえば、結局、社保庁を解体しようとしてる、それに対して社保庁の職員、自治労の連中が一番現場でああいうことを知ってる。もう昔からああいうふうになってることを、彼らは知ってるわけです。その情報を民主党に流した。」
 社保庁つぶしに対する抵抗なんですよ、あれ。しかも、別に記録が消失したからといって、年金がなくなるわけじゃない。記録を照らし合わせればいい、時間をかけて。だから、民主党のデマゴーグなんです。それが争点になるってこと自体がおかしいんです。そりゃ慌てて安倍さんが対策ねるのはしょうがないけども」。
 宮崎哲弥転記洩れとかね、いろんな記載漏れってのは、わざとやったところがあって、自治労は反合理化闘争の一つとして、オンライン化したりコンピューターが電算化したりすることに反対したわけです。それの闘争の一環としてやられたところもあるから、私は決して自治労がこの問題に対して、えらそうなことは言えないと思う」。
 森本敏今の総理に全部の責任を押し付けるっていうのはどうかしてる」。
 宮崎哲弥自治労にも責任があるわけ」。
 
花田紀凱自治労だよ、一番悪いのは」。>
 社保庁の職員(→自治労)に一番の責任があるようだが、しかし、今年の2月に新聞報道されていたという<年金記録紛失>の事実は、現場の職員ならば、5年前でも、3年前でも、昨年でも、とっくに知っていたことではなかろうか
 にもかかわらず今の時期に大問題化したというのは、職員(自治労?)の側から正確なデータが民主党に渡ったこと、又は朝日新聞等の<思惑のある>マスコミに同じデータが渡ったことに加えて、当該マスコミや民主党が<政治問題化>・<政治争点化>しようとしたことによる、と十分に推測できる。
 ところで、社保庁の職員を問題にするとき、忘れられてならないのは、同じことだが是非指摘されるべきなのは、彼らは1947年以来2000年4月まで、「地方事務官」という特別の(風変わりな)身分の公務員だった、ということだ。
 地方事務官というのは地方自治法施行規程旧69条2号等に根拠をもつもので、「健康保険法、厚生年金保険法、船員保険法、厚生保険特別会計法及び船員保険特別会計法並びに国民年金法及び国民年金特別会計法の施行に関する事務」を担当する職員は都道府県知事の指揮監督を受けて職務を遂行するが、身分上は「国家公務員」というものだった(3号は旧労働省所管の職業安定所関係事務)。事務自体は旧法上のいわゆる機関委任事務(国の事務だが、都道府県知事等が大臣等の指揮監督を受けつつ国の省庁の下級機関として事務処理をするもの)だったようだが、同様に機関委任事務を担当している都道府県等の職員と同様に実質的には都道府県等職員の意識の方が強かった、とも言われる。
 そして、彼らの職員団体は「国家公務員」ならば加入できない筈の自治労に属していたようだ。しかし、推測になるが、もともと「地方公務員」から成る都道府県の職員組合(職員団体)とは同一の職員団体を構成せず、独自の職員団体を作り、自治労という上部組織だけを共通にしていたのではないかと推察される。
 地方自治法施行規程旧69条2号が定める事務が現在どのように整理されているかは複雑だが、国の(直轄又は直接執行)事務と都道府県の自治事務さらに市町村の「法定受託事務」に分かれているようだ(厳密な検討をしておらず、分類の詳細にも立ち入らない)。
 多くの職員が2000年4月以降は本来の法制どおりに国家公務員となった。本省・本庁を除けば都道府県の機関ではない国の地方出先機関としての社会保険事務局又はその下級機構の社会保険事務所で仕事をしていると見られる。
 そして所属の職員団体は国家公務員としてのそれになった筈だ。しかし、1999年6月14日の全 厚生職員労働組合書記長の
「地方事務官制度廃止法案の衆議院通過をめぐっての談話」は、6月9日の自民・自由・民主・公明・社民各党の国会対策委員長会議で自治労の要請を受け入れる形で、「地方事務官から厚生事務官への身分の切替えに当たって、各都道府県の職員団体へ7年間に限って加入を認める」という共同修正が確認されたことを明記している。
 ということは2007年=今年の4月まではなお自治労(全日本自治団体労働組合)に属する職員が多かったものと思われる(その後はどうなっているのか、「7年間」はさらに延長されているのかは私には不明だ)。
 なお、上の厚生労組書記長談話によると、「自治労(国費評議会)は、「国の直接執行事務」とすることは、①地方分権に逆行する。②行政改革に逆行する。③年金制度の崩壊、無年金者の増大につながる。とし、事務処理は都道府県への法定受託事務とし、地方事務官は地方公務員とすべきと主張してきた」。すなわち、2000年以前の、国・地方関係に関する制度設計の段階で、自治労は現在のような仕組みには反対だったのだ。
 もっとも、1999年7月9日の「全厚生職員労働組合」
地方事務官制度廃止にあたっての声明は、 地方分権一括法には「今後の制度改正時に社会保険の事務処理体制、従事する職員の在り方等について、被保険者等の利便性等の視点に立って、検討し必要があると認められるときは、所要の措置を講ずる」との附則が加えられたことを明らかにしているとともに、殊勝にも、私たちは、1980年以来、被保険者等の利便性を確保するために築き上げてきたオンラインシステムをさらに発展させ、民主的な行政運営と事務処理の効率化を通じて、より確かな国民サービスが提供できるよう奮闘するものである」と宣言?している。
 やや長々と無関係なことを記したようでもあるが、上に一部に触れたような複雑な公務員法制・国-地方関係法制の狭間にあって、旧「地方事務官」(地方で知事等の指揮の下で働く国家公務員)が、どの程度、職場倫理、公務員意識、仕事をする志気を涵養していたかは疑わしい、というのが私の推測だ。
 職員団体(又は労組)の役員ならば当然なのかもしれないが、職員の勤務条件を良くし(「楽さ」の確保)、職員団体の結束・維持に心を配り、上のように「…奮闘する」と表向きは言うとしても、仕事・業務の遂行自体が疎かになっていることは殆ど無視してきたのではないか。どの公務員職場にもあるそのような問題が、旧「地方事務官」の職場では複雑な法制をも背景としてさらに大きくなった、というのが私の推測なわけだ。
 それにしても、自分たちの仕事の怠慢を棚に上げて、現在の安倍内閣や自民党等の与党を政治的な窮地に立たせるために、社保庁関係の情報(年金記録紛失)を民主党や朝日新聞に<流した>社保庁関係の職員(職員団体役員?)がいる筈だ。恥を知れ、と言いたい。

0220/参院選と中西輝政「潮流を見誤るな!世界は保守化している」。

 6/10の15:30のエントリーの中で、読売新聞上の某書評者が「戦後教育の欠陥は「行き過ぎた自由」などではない。集団主義による「個人の尊厳」の抑圧こそが問題だった」と書いていたのに対して、私は、「戦後教育の欠陥」は「行き過ぎた自由」というよりも「行き過ぎた個人主義」ではなかったか、と思っている。ということは、「個人の尊厳」が尊重され過ぎた、ということでもあり、書評者の理解とは正反対になる」と書いた。
 6/09にも言及した櫻井よしこ月刊正論7月号(産経)誌上の論稿を改めて見てみると、こんな文があった(順序を少し変えている)。
 現憲法三章が示すのは「自分だけよければそれでいいという考え方」、「権利と自由を強調し、責任も義務も放棄したに等しい価値観だ」。これは「戦後日本の、自分さえ良ければよいという価値観」でもある。「自分が傷つかなければよい。自分が非難の的にならなければよい。…個人の安寧が至上の価値である。個人の豊かさを求め、自分さえ問題に直面しなければいい」。
 櫻井はむろん、上のことを批判的に指摘している。
 現憲法13条のいう「個人として」の「尊重が行き過ぎた、というのが私の理解だ。この行き過ぎは、「自分さえ良ければよい」、「個人の安寧が至上の価値である。個人の豊かさを求め、自分さえ問題に直面しなければいい
」との考え方を生み出したのであり、私の感覚は櫻井とほぼ一致している。
 同じようなことを反復すれば、自分さえよければ、自分と恋人さえよければ、自分と家族さえよければ、自分と自分が勤める会社さえよければ…というのが、戦後を覆っていた価値観だったと思える。そこには、日本社会全体も日本国家もなかった。
 こうした<ミーイズム>が戦後の精神的雰囲気の特徴だったことを、寺島実郎・われら戦後世代の「坂の上の雲」(PHP新書、2006)も指摘していた。
 さて、もともと言及したかったのは、月刊正論7月号の中西輝政「潮流を見誤るな!世界は保守化している」だった。
 松岡農水相自殺・年金記録不備問題が生じる前の文章だが、中西は7月の参院選挙を「「日本の再生」「戦後レジームからの脱却」が、さらに進むか否か、今後数十年にわたる日本の進路にかかわる非常に大きな意味をもった選挙」と捉えている。
 そして、<歴史の岐路>を思わせるのは日本だけではなく、今年から来年にかけての韓国、台湾、ロシア、アメリカの大統領(総統)選挙もそうだとする。また、<さらなる保守化>が世界を覆っている潮流だとし、今年のフランス、一昨年のドイツ、保守党人気向上のイギリスなどを挙げる。
 アメリカはイラク戦争問題という特殊要因はあるが民主党が次期大統領選挙で勝つとは限らず、また民主党自体が従来よりも「保守化」している、という。
 そのうえで改めて日本の参院選を「戦後レジームから脱却」し「世界に一歩、大きく踏み出す選挙」にする必要があると説く。
 このあたりから、中西の「保守」観が出てくるので、私には興味深い。中西氏は言う。
 「自らの文明的特質に依拠して、啓蒙主義的な近代思想を相対化しうる視座こそ保守の本領」、「自民党は反共ではあったが、保守ではなかった」、「冷戦終焉後…古いリベラル気運にさえ惑わされていたこともあった」、その後も「まだ「原始的な保守」に過ぎず」、「日本の保守は世界から見れば「二周遅れ」、「だから、安倍首相は、「理念の保守」と「戦略の保守」の二本足を目指すしかなかった」、等々。
 阪本昌成の本を読んでいるおかげで「
啓蒙主義的な近代思想」なるものの意味はほぼ解り、「それを相対化しうる視座こそ保守の本領」という表現もほぼ理解できる。但し、理念の保守」と「戦略の保守
」の二本足、ということの意味はよく判らない。
 それにしても、「保守化」している世界的風潮の中で、「日本の保守は…二周遅れ」とは厳しいが、きっとそうなのだろう。日本には日本の社民党や日本共産党という<夾雑物>がまだ残っており、保守対リベラル、あるいは自由主義対(現実的)社会民主主義という、多くの先進国が至っている政治の対決構図には全くなっていないのだ。
 かりに自民党が「保守(自由)」だとしても、そもそもわが国の民主党とは何なのだろう。いくら何でもこの党全体を「リベラル」とか「左派リベラル」とは言えないだろう。日本共産党と同質の如き議員も存在する一方で、自民党議員であっておかしくない(河野洋平加藤紘一に比べてより「保守的」な)議員もいる。
 そういう政党が仕掛けてくる自民党批判・自民党攻撃は、そもそもいかなる積極的な意味があるのだろう。
 <ともかく政権交代、そのための一歩を>という主張には眉に唾した方がよい。1993年に政権交代が現実に起こったのだったが、まさに現民主党代表の小沢一郎が中心的役割を果たしたあの政権交代(細川連立政権誕生)は日本の政治史上、いかほどの肯定的評価を受け得るのか。
 しかし、自民党が敗北し(議席数を減少させ)民主党等の野党が勝つ(議席数を増やす)方が日本のためになると「何となく」考えている人も多いのだろう。そういう人には尋ねてみたいものだ、民主党等の野党が勝利又は躍進することがなぜ日本のためになり、日本の発展・進歩に寄与するのか?、と。
 ともかくも安倍首相が嫌い、というだけでは、何と志が低いことだろう。反自民=進歩的・良心的という「思い込み」によるのだとしたら、これまた戦後に「進歩的知識人・文化人」によって<刷り込まれた>単純・幼稚な発想だ。

0197/松岡勝利前農水相自殺から一週間後のつぶやき。

 数日前だが、4/22午前のテレビ朝日・サンデープロジェクトの録画済みのもの(ディスクへのムーヴ版)を観ていると、画面手前に大きく松岡勝利氏の顔写真を大きなパネルにしたようなものが登場し、そのあとで画面は6党の政策担当者に移ったが、ときどきは松岡氏の顔写真も見せていた。司会者は言うまでもなく田原総一朗で、<松岡農水相の「ナントカ還元水」をきっかけにして問題は大きくなり…>と発言したのを皮切りに、6党関係者の政治資金規正法改正に関する議論がなされた。
 そのテーマのたぶん殆ど最後だったが、田原氏はこう言った(以下は正確な紹介)。-「なんで松岡を守んなきゃいけないんだよ、自民党は」。
 内容を問題にしたいのではない。田原が松岡農水相をこのとき「松岡を」と呼び捨てにしたのが引っかかった
 田原総一朗は現職大臣を上の名前のみで呼び捨てにする習慣をもっているだろうか。私の知るかぎりでは、そのような発言の仕方を聞いたことはない。田原には松岡を<軽侮する気分>があったのであり、一部マスコミもそのような気分を共有していたのではないか。
 また、番組のそのテーマ自体が松岡の大きなパネル写真から始まったことは上記のとおりだ。
 ちなみに、このテレビ朝日の番組は、民主党の角田義一議員への朝鮮総連関係団体からの違法献金問題、小沢一郎の政治資金による不動産取得問題を取り上げたことがあるのだろうか? 取り上げていないのなら、それは何故なのか?
 さて、今日で、松岡前農水相の衝撃的な自殺から一週間になる。
 3月の参院予算委員会での「ナントカ還元水」発言以降のマスコミや野党の報道・主張・発言を詳細には知らないが、松岡氏が自殺した<原因>の一つは、マスコミの報道の仕方ではないか、と上のような田原氏が司会の番組を観ていて、ふと思った。
 むろん、マスコミに第一の責任があるなどとは言わない。
 第一の<責任>者は松岡本人で、<原因>も彼にあるだろう。但し、いかなる理由で彼が死を選んだかについては決定的なことは分からない。
 いろいろと推測又は憶測することは可能だ。しかし、先週の週刊文春と週刊新潮は私も見たが、産経6/02の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」が指摘するように「なにしろ校了まで時間がないから内容的には迫力不足」、「…この程度では弱い」。つまり、緑資源機構又は林野関係事業に関連して、松岡にいかなる具体的な「疑惑」があったのか自体がまだ不明だ。そのうち明確になるかもしれないが、政治献金を受けること自体は違法でも犯罪でもない。職務関連の「収賄」となってはじめて犯罪となる。
 松岡が自殺したことをもって、そうした疑惑、さらには「犯罪」性を自ら肯定したと理解する向きもあるようだが、それは違うだろう。
 6/03の某番組で田島陽子が<悪いことをしていた自覚があったから死んだのよ>という旨を相変わらず無責任に発言していたが、<悪いことをした>とはまだ誰も決定できないことに留意すべきだ。
 私もまた推測することしかできないが、事務所費問題でマスコミ・野党の攻撃・批判の対象になり、安倍首相と安倍内閣に迷惑をかけているという「申し訳ない」気持ちが強かったところ、緑資源機構又は林野関係事業の問題もマスコミに報道され、国会後半で野党に質問され、追及され、マスコミが輪をかけて騒ぐということが予想されるに至って、その「申し訳ない」、「迷惑をかけている」との気持ちが極まったのではないか。
 自殺したのは国会出席当日の午前中だった。当日の朝刊記事を材料に野党議員が質問してくるのは目に見えていた。むろん強い心臓と気力があれば、犯罪者との明確な自覚がないかぎりは、応答できる筈だろう。しかし、疑惑をかけられ、それに釈明すること自体が彼には<イヤになった>のではないか。答えること自体に<疲れ>を感じた、のではないだろうか。また、少なくとも一部マスコミによって<軽侮>されているという意識はそうした気分を強くしたようにも思える。
 むろん、簡単な説明・釈明で野党議員やマスコミが納得するはずはなく、自分のことが話題になり続けて参院選を前にしている自民党、そして安倍首相と安倍内閣にさらに<迷惑をかける>という思いがそれらに重なったように、私は推測又は想像している(むろん、推測・想像で自信があるわけでない)。
 第二に、安倍晋三首相の「責任」はむろん問われる。私は安倍首相を支持するし、また安倍内閣も支持するが、安倍が松岡を農水大臣に任命していなければ今回のようなことはありえず(安倍内閣を構成する大臣だからこそマスコミの一部や野党もターゲットにしたに違いないと思われる)、首相自身が認めているとおり、安倍首相に「責任」はある。
 むろんそれは<任命責任>又は<結果責任>で、松岡氏をめぐって具体的に3月以降のような状況になることを安倍首相が予見できた筈はない。ましてや自殺を予見できる筈がない。
 また、事務所費の問題は、現行政治資金規正法上は違法でも「犯罪」でもなかったのだから、<ナントカ還元水>問題だけで罷免する、又は辞表の提出を求めるのは困難だっただろう、と考えられる。そうした先例を作ってしまえば、違法行為・「犯罪」行為の疑惑ですらない場合にすべて罷免・辞表提出要求をしなければならなくなるからだ。
 むろんもっと早い段階で辞めさせていたら、ということを今なら言えるが、どの段階で、となるとなかなか困難だったのではなかろうか。
 第三に、最初に触れたマスコミ(正確には一部のマスコミ)だ。少なくとも「原因」の一つにはなったのではないか、と感じている。
 最初にとり上げたテレビ番組を松岡氏が観ていたかは知らないが、録画したものも含めて観ていたとすれば、きわめて<不愉快>に感じ、ある程度は<自分がイヤになる>という想いを持ったとも想像できなくもない。
 繰り返すが、松岡は政治資金規正法に違反したわけではない。また、事務所費用等は政治献金等で賄われていたのであり、税金が不透明に使用されていたわけでもない。
 しかし、上述のように詳細は承知しないが、水に落ちた犬は叩け、とばかりの報道の仕方もあったのではないか。「松岡を」と著名なキャスターが呼びつけにするくらいだから、マスコミがこぞって(一部のマスコミは意図的に)ある程度は<面白がって>いたのではないのか。
 政治(家)とカネの問題、政治資金規正法にもとづく報告内容の問題が重要ではないとは言わない。しかし、そんな問題よりも日本の国家と社会にとって重要な問題はいくらでもあったように思う。貴重な国会での質疑時間を、民主党等の野党は政略的に使った、という疑念を私は強く持っているのだが…。
 なお、事務所費の問題を最初にとり上げたのは日本共産党の筈だ。それは、議員宿舎に事務所を置いているにもかかわらず、事務所経費が多すぎる国会議員がいるとの政治資金報告書をタネにしたものだった。だが、議員宿舎以外にも地元等に複数の事務所を持っている等と反論されて、要らぬ<揚げ足とり>だったことが明らかになったように記憶している。確認していないままだが、かりにこの日本共産党の<揚げ足とり>が松岡議員の事務所経費問題にまでつながったとすれば、日本共産党と松岡氏の死の間には少なくとも所謂<条件関係>はある。
 それにしても、人というのは、自分の意思で、自分の精神で、自分の生命を消滅させることができる生物なのだ、とつくづく思う。
 松岡は死(又は意識喪失)に至るまで少なくとも何分間かをじっと耐えたと推察されるが、その何分間の苦痛の時間に彼の頭に去来したのは一体何だったのだろう。
 三島由紀夫の場合は自殺ではなく厳密には「嘱託殺人」とでも言うべきなのだろうが、腹に小刀を刺し込み、自分の頸が傷つけられ、切り取り落とされるまでのいずれかの瞬間までは意識を保っていた筈だ。進行する肉体的苦痛の中で、彼の精神はいったい何を考え又は感じていたのだろうか。
 むろん決して遠くはないだろう私自身の「死」も考えてしまう。どんな「死に方」になるかはさっぱり分からないが。
 追記-伊丹十三の死も自殺だったことを思い出した。何らかの疑惑をかけられたのが原因だったと記憶するが、その疑惑とは警察・検察官が介入するような問題ではなく、芸能マスコミの報道によるものだった(ウィキペディアによると写真週刊誌・フラッシュによる<不倫疑惑>)。報道に対する抗議の自殺ともされたが、この伊丹の場合も自殺の原因を断定はできないのだろう。だが、あくまで一般論としていえば、<(社会・世間一般に情報・論評を提供する)マスコミは、人を自殺にまで追い込むことがありうる>という叙述は、決して誤りではない、と思われる。

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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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