秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

全体主義

1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1769/三全体主義の共通性⑦-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.272~p.274。
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 Ⅲ〔第三款〕・党と社会①。
 民衆を独裁者の手中にある本当に黙従する素材にするためには、政治に関する意見発表を剥奪するのでは十分でない。 
 彼らの公民的自由-法による保護、集会・結社の自由そして財産権の保障-を剥奪することも必要だ。
 この「権威主義」(authoritarianism)を「全体主義」と分かつ線上にある途へと、独裁制は進んだ。
 合衆国で1980年にジーン・カークパトリック(Jean Kirkpatrick)が最初に広めたのだが、また、彼女から引用してレーガン政権がよく使う、それゆえにある者は冷戦のための修辞だとして拒否する用語法になったのだが、この区別の先行例は、1930年代の初期にさかのぼる。
 ナツィによる権力奪取の直前だった1932年に、一人のドイツ人政治学者が<権威主義国家か全体主義国家か?>というタイトルの本を書いた。そこで彼は、この区別を明瞭にした。(96)
 ドイツの亡命学者のカール・レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein)は、1957年に、このように二つの体制を区別した。
 『「権威主義的」(authoritarian)という語は、単一の権力保持者-一人の個人または「独裁者」、集団、委員会、軍事政権(junta)、あるいは党-が政治権力を独占する政治組織を意味する。
 しかしながら、「権威主義的」という語はむしろ、社会の構造よりも統治の構造に関連する。
 通常は、権威主義体制は、共同体の社会経済生活を完全に支配しようとする欲求を持たないで、国家を政治的に統制することに自らを限定する。…
 これと対照的に、「全体主義的」という語は、社会の社会経済上の活力、生活の態様に関連する。
 全体主義体制の統治技法は、必ずや、権威主義的だ。
 しかし、この体制は、国家意思の形成に正当に関与する権能を相手方たる民衆から剥奪すること以上のはるかに多くのことをする。
 この体制は、私的な生活、精神、感情、そして市民の習俗を鋳型に入れて、支配的イデオロギーに合うように作り上げようとする。…
 公式に宣明されたイデオロギーは、社会の隅々と裂け目の全てに浸透する。
 そのもつ野望は、「全体的」(total)だ。』(*)//
 二つの類型の反民主主義体制の区別は、20世紀の政治を理解するためには基礎的なものだ。
 見込みなくマルクス主義-レーニン主義の用語法の陥穽に嵌まった者だけが、ナツィのドイツと、まぁ言ってみると、サラザール(Salazar)のポルトガルまたはピルズドスキ(Pilsudski)のポーランドとの違いを理解することができないだろう。
 権威主義体制は、現存する社会を過激に変えて人間自体を作り直そうとすら懸命に努める全体主義体制とは異なり、防衛的なもので、その意味では保守的だ。
 権威主義体制は、調整のつかない政治的社会的利害に翻弄されて、民主主義諸制度がもはや適切に機能を果たすことができなくなったときに、出現する。
 それは、基本的には、政治的な意思決定を容易にするための手段だ。
 統治するにあたって、それは、支えてくれる伝統的な淵源に依拠する。そして、社会を「設計して構築する」(engineer)よう努めるのでは全くなくて、現状を維持しようと努める。
 知られるほとんど全ての場合で、権威主義的独裁者が死亡するか追放されたのがいつであっても、それらの国々は民主政体を再建する困難さをほとんど経験しなかった。(**)//
 このような基準で判断すると、スターリニズムを最頂点とするボルシェヴィキ・ロシアだけが、完全に発展した全体主義国家だと性質づけられる。
 なぜなら、イタリアとドイツは、社会を原子化するのを意図するボルシェヴィキの方法を摸倣したが、最もひどいとき(戦争中のナツィ・ドイツ)ですら、レーニンが意図しスターリンが実現したものには及ばなかった。  
 ボルシェヴィキの指導者たちはほとんどもっぱら強制力に頼ったのに対して、ムッソリーニは、そしてヒトラーですら、強制を合意と結合すべきとのパレート(Pareto)の助言に従った。
 彼らは命令が疑いなく遵守されている間は、社会とその諸制度を無傷なままで残そうとした。
 この場合には、歴史的伝統の相違が決定的だった。
 ボルシェヴィキは、数世紀にわたる絶対主義体制のもとで政府を専制的な権力と同一視することに慣れていた社会で活動した。そして、社会を奪い取ってそれを管理しなければならなかっただけではなく、責任を果たしていると示すために厳密には必要だった以上の抑圧を行った。
 ファシストもナツィスも、それぞれの国の社会構造を破壊しはしなかった。それが理由で、第二次大戦で敗北した後に、それらの国は速やかに正常状態に戻ることができた。
 ソヴィエト連邦では、1985年と1991年の間のレーニン主義-スターリン主義体制の全ての改革の試行は、社会的であれ経済的であれ、全ての非政府諸制度が最初から建設されなければならなかったために、行き着くところがなかった。
 その結果は、共産主義体制の改革でも民主政体の確立でもなく、組織的な生活の継続的な瓦解だった。//
 ロシアで自立した非政府諸制度の破壊が容易だったのは、形成されつつあった社会制度の全てが1917年のアナーキー(無政府状態)によって分解されたことによっていた。
 いくつかの(例えば、労働組合、大学および正教教会の)場合には、ボルシェヴィキは既存の管理者を自分たちの党員で置き換えた。それ以外では、単純に解体させた。
 レーニンが死亡する頃までには、共産党の直接の支配のもとにないいかなる組織も、ロシアには事実上は存在していなかった。
 生活に必要な一時的な借地が認められた農村共同体を例外として、個々の公民と政府との間を取り持つことのできるものは何も存在しなかった。//
 ファシスト・イタリアとナツィ・ドイツでは、私的団体ははるかによく活動できた。とくに、党の統制のもとに置かれてはいたけれども、労働組合は、民主主義社会の市民には取るに足らないと思われるほどのものでもソヴィエト同盟では労働者の届く範囲から完全に除外された、ある程度の自治と影響力とを享受し続けた。//
 ムッソリーニは、イタリア社会に対する自分の個人的な権威を強く主張しつつ、政治組織に関して示したのと同じ用心深さをもって、ことを進めた。
 ムッソリーニの革命は、二つの段階を経て進展した。
 1922年から1927年まで、彼は典型的な権威主義的独裁者だった。
 彼の全体主義への動きが始まったのは、私的団体の自立性を奪った1927年だった。
 その年に彼は、全ての私的団体に対して、その規約と構成員名簿を政府に提出することを要求した。
 この方法は、それらの団体を隊列に取り込むことに寄与した。それ以降にファシスト党に順応しようとしない諸組織の構成員は、個人的なリスクを冒すことになったのだから。
 これと同じ年に、イタリアの労働組合は伝統的な諸権利を剥奪され、ストライキが禁止された。
 そうであってすら、ムッソリーニが私的企業への対抗機構として利用したので、労働組合はある程度の力を維持した。ファシストの法制のもとでは、企業は、党による全般的な指導のもとで、労働組合の代表者たちに意思決定に関与する同等の権利を与えなければならなかったのだ。//
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 (96) H. O. Ziegler, Autoritaeter oder totaler Staat ? (Tübingen, 1932).
 (*) Loewenstein, Political Power and the Government Process (Chicago, 1957), p.55-p.56, p.58.
 不適切なことだが、レーヴェンシュタインは、1942年にファシスト後のブラジルの独裁者、ジェトリオ・ヴァルガス(Getulio Vargas)に関する本でこの区別を導入したという名誉を求めた(同上、p.392、注3)。
 (**) その例は、フランコ(Franco)のスペイン、サラザールのポルトガル、軍事政権排除後のギリシャ、ケマル・アタテュルク(Kemal Atatürk)のトルコ、そしてピノチェト(Pinochet)のチリだ。
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 党と社会②へとつづく。

1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。p.269~p.271。
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 Ⅱ・支配党と国家③。
 〔目次上の見出し-「群衆の操作とイデオロギーの役割」〕
 「人々を全ての政治領域から排除すること」、およびその帰結である政治的生活の廃絶は、ある種の代用物を要求する。
 民衆のために語るふりをする独裁制は、単純に前民主政的な権威主義モデルに変えるというわけにはいかない。
 全体主義体制は、アメリカのおよびフランスの革命以降に投票者の10分の9またはそれ以上だと広く承認されている、民衆の意思を反映していると主張する意味では、「民衆的」(demotic)だ。 そして、大衆の積極的関与という幻想を生み出す、荘大な見せ物だ。//
 政治ドラマの必要はすでにジャコバン派によって感じ取られていて、彼らは、「至高存在」を讃えたり、7月14日を祝ったりする、手の込んだ祝祭でもって独裁制を偽装した。
 全権をもつ指導者たちと力なき庶民たちが一緒に世俗的儀式を行うことで、ジャコバン派は、その臣民たちとともにあるのだという意識を伝えようとした。
 ボルシェヴィキ党は内戦の間に、その乏しい資源をパレードを実施することや、バルコニーから数千の支持者に呼びかけることに使った。そして、近時の出来事にもとづいて、青空下の舞台で演劇を上演すること。
 このような見せ物の演出者は、観衆から役者を、そして民衆から指導者を、隔てる障壁を、かなりの程度まで壊した。
 大衆は、フランスの社会学者のギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)が19世紀後半に定式化した原理に合致して、動かされた。ル・ボンは、群衆とは、心霊的(psychic)な操作を喜んで受ける客体に自分たちをする、まるで異なる集団的人格体だと述べた。(*)
 ファシスト党は最初に、1919-20年のフューメ(Fiume)占領の間にこうした方法を使って実験した。そのときこの都市を支配したのは、詩人政治家のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio)だった。
 『ダヌンツィオが主役を演じた祭典の成功は、指導者と指導される者の境界を廃棄するものと想定された。そして、公会堂のバルコニーから下にいる群衆に向けた演説は(トランペット演奏が付いて)、同じ目的を達成することとなった。』(94)
 ムッソリーニと他の現代の独裁者は、このような方法は必須のものだと考えた-娯楽としてではなく、支配者と支配される者の間の分かち難い結びつきに似る印象を反対者や懐疑者に対して伝えるために考案された儀式として。//
 このような演出については、ナツィスを上回る者はいなかった。
 映画や演劇の最新の技巧を使い、ナツィスは止まることを知らない根本的な力に似た印象を参加者や見物者たちに伝える集会や無宗教儀礼でもってドイツ人を魅了した。
 総統とその人民との一体性は、大群の幹部兵士のごとき制服姿の男たち、群衆のリズミカルな叫び声、照明および炎や旗によって象徴された。
 きわめて自立した精神の持ち主だけが、このような見せ物の目的を認識できる心性を保持することができた。
 多くのドイツ人にとって、このような生き生きとした見せ物は、投票数を機械的に算定することよりもはるかによく、民族の精神を写し出すものだった。
 ロシア社会主義者の亡命者だったエカテリーナ・クスコワ(Ekaterina Kuskova)は、ボルシェヴィキと「ファシスト」両方による大衆操作の実際を観察する機会をもった。そして、強い類似性を1925年に記した。//
 『レーニンの方法は、<強制を通じて納得させること>だった。
 催眠術師、煽動者は、相手の意思を自分自身の意思に従わせる-ここに強制がある。
 しかし、その相手たる主体は、自分の自由な意思で行動していると確信している。
 レーニンと大衆の間の紐帯というのは、文字通りに、同一の性質をもつものだ。…
 まさしく同じ様相が、イタリア・ファシズムによって示されている。』(95)
 大衆はこのような方法に従い、実際には自分たちを非人間的なものにした。//
 これとの関係で、全体主義イデオロギーに関して何ほどかを書いておく必要がある。
 全体主義体制は、私的および公的な生活上の全ての問題への回答を与えると偽称する考え方を体系化したものを定式化し、かつ押しつけるものだ。
 このような性格の世俗的イデオロギーは、党が統御する学校やメディアによって履行されたもので、ボルシェヴィキとそれを摸倣したファシストとナツィスが導入した新しい考案物(innovation)だ。
 これは、ボルシェヴィキ革命の主要な遺産の一つだ。
 現在のある観察者は、その新基軸さに驚いて、これのうちに全体主義の最も際立つ特質を見た。そして、それは人々をロボットに変えるだろうと考えた。(**) //
 経験が教えたのは、このような怖れには根拠がない、ということだ。
 当局にとって関心がある何らかの主題に関して公共に語られ印刷される言葉の画一性は、三つの体制のもとで、じつにほとんど完璧だった。
 しかしながら、いずれも、思考(thought)を統制することはできなかった。
 イデオロギーの機能は、大衆的見せ物のそれと類似していた。すなわち、個人の共同体への全体的な没入(total immersion)という印象を生み出すこと。
 独裁者自身はいかなる幻想も持たず、服従者たちが考える一つの表面体の背後に隠れている私的な思考について、ひどくではないが多くの注意を向けた。
 ヒトラーが認めるところだが、かりに彼がアルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の<20世紀の神話>をわざわざ読まなければ、そしてそれが国家社会主義の理論的な根拠だと公式に宣言しなかったとすれば、我々はいかほど真面目にナツィの「イデオロギー」を受け止めるだろうか?
 そしてまた、いかほど多くのロシア人に、難解で瑣末なマルクスとエンゲルスの経済学を修得することが、本当に期待されていたのか?
 毛沢東のチャイナでは、洗脳(indoctrination)はかつて知られた最も苛酷な形態をとり、十億の民衆が教育を受ける機会や僭政者の言葉を収集したもの以外の書物を読む機会を奪われた。
 しかしなお、瞬時のムッソリーニ、ヒトラーおよび毛沢東は舞台から過ぎ去り、彼らの教えは薄い空気の中へと消失した。
 イデオロギーは、結局は、新しい見せ物であることが分かった。同じように、はかない見せ物だった。(+)
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 (*) La Psychologie des foules (Paris, 1895). 〔群衆の心理学〕リチャード・パイプス・ロシア革命、p.398 を見よ。
 ヒトラーと同じくムッソリーニがル・ボンの本を読んでいたことは知られている。A. James Gregor, The Ideology of Fascism (New York, 1969), p.112-3. および George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.24, No.1 (1989), p.14.
 レーニンはこれをつねに彼の机の上に置いていたと言われる。Boris Bazhanov, Vospominaniia byvshego sekretia Stahna (Paris & New York, 1983), p.117.
 (94) George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.14, No.1 (1989), p.15. さらに、George Mosse, Masses and Man (New York, 1980), p.87-p.103 を見よ。
 (95) Carl Laudauer and Hans Honegger, eds., Internationaler faschismus (Karlsruhe, 1928), p.112.
 (**) 全体主義に関する研究者はしばしば、このイデオロギーを押しつけることを全体主義体制の決定的な性質だとして強調する。
 しかしながら、イデオロギーは、三つの体制において、大衆操作に役立つ大きな道具の役割を果たす。
 (ナチズムについて、ラウシュニングはこう書いた。
 『綱領、公式の哲学、献身と忠誠は、大衆のためのものではない。
 エリートは何にも関与していない。哲学にも、倫理規準にも。
 それらは一つの義務にすぎない。同志、秘伝を伝授されたエリートである党員にとっての絶対的な忠誠の義務だ。』(Revolution of Nihilism, p.20.)
 同じことは、適用については限りなき融通性をもつ共産主義イデオロギーについて語られてよい。
 いずれにしても、民主政体もまた、そのイデオロギーを持つ。
 フランスの革命家たちが1789年に『人間の権利の宣言』を発表したとき、バーク(Burke)やドゥ・パン(de Pan)のような保守的な同時代人は、それを危険な実験だと考えた。
 「自明のこと」では全くなくて、不可侵の権利という考えは、その当時に新しく考案された、革命的なものだった。
 伝統的なアンシャン・レジームだけは、イデオロギーを必要としなかった。
 (+) ハンナ・アレント(Hannah Arendt)やヤコブ・タルモン(Jacob Talmon)のような知識人歴史家は、全体主義の起源を思想(ideas)へと跡づける。
 しかしながら、全体主義独裁者は、思想を吟味することに熱心な知識人ではなく、人々に対する権力を強く渇望する者たちだった。
 彼らは、目的を達成するために思想を利用した。彼らの規準は、いずれが実際に働くか、だった。
 彼らに対するボルシェヴィズムの強い影響は、彼らに適したものを借用するそのプログラムにあるのではなく、ボルシェヴィキが従前には試みられなかった手段を用いて絶対的な権威を確立するのに成功したという事実にある。
 こうした手段は、世界的な革命に対してと同様に、国家の(national)革命にもまさしく適用できるものだった。
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 ⑦/Ⅲ・党と社会、へとつづく。
 下は、R・パイプスの上掲著。
rpipes02-01

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
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 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
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 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1676/ファシズム-岩波書店「検閲済」邦訳書(2016)②。

 ケヴィン・パスモア=福井憲彦訳・ファシズムとは何か(岩波書店、2016.04)。
 4.この著者が書いていることも、イギリスの学者にしては「左翼的」だ。
 第8章の表題は、<ファシズム、女性そしてジェンダー>。通常の?ファシズム関連書に比べて、なかなかユニークだ。
 また、この章名にも見られるかもしれないが、歴史書というよりも、執筆時点でのこの著者の政治的見解・主張をかなり強く出すものになっている。 
 むろん同一視はしていないが、ファシズムの歴史と現在の欧州の「極右」・<民族主義者または人種主義者>とを関連づけて、後者に対する警戒または批判の主張を明確に述べている。
 日本でもよく知られたフランスの国民戦線(FN、ルペン)をはじめ、イタリアの「社会運動」(MSI)、イギリスにもあるという国民戦線(NF)等の「極右政党同士」の絡み合う関係を批判的に叙述している。p.158など。
 これでは、かつてのファシズムを冷静に把握するという書物になっていないのも当然だろう。ドイツ・ファシズムあるいはナチズム・国家社会主義や戦後ドイツの「歴史家論争」に立ち入ることができないのも、無理はない。
 さすがに岩波書店が邦訳書を刊行し、訳者・福井憲彦が前回紹介のようなことを訳者として自分で書いている、そういう書物だ。
 5.著者も訳者も<ファシズム>研究を一生の仕事?とはしていない、少なくとも第一の専門研究分野としてはしていない。
 そして、著者の文献案内や訳者の日本語文献についての案内を通覧すると、興味深いことにも気づく。
 もっぱら英語文献に限ってケヴィン・パスモアは原書に32文献(アレントは一つ)を最後に挙げているようだ。
 そのうち、日本語訳書があるのは、ハンナ・アレントの三巻本を一つとして、4つだけ。
 もともと原著者の参考文献提示の数も少ないと思われるが、邦訳書の少なさもまた、驚くべきことだ。
 ファシズム、ファシズムとよく言う日本人だが、あるいは日本の「左翼」だが、いかほどにきちんとした知識があるのか、これから見てもきわめて疑わしい。
 訳者・福井憲彦が挙げる日本語文献案内(邦訳書を当然に除く)も、きわめて少ない。
 まともな単著らしきものは、山口定・ファシズム(岩波現代文庫)だけで、もう一つの複数著者の本は「旧聞に属するが」と福井自身が書く1978年刊行のもの。
 あとは論文少しと各国についての通史もの。
 ドイツ・ヒトラーに関するものも数冊挙げられているが、ナチス時代の歴史叙述であり、<<ファシズム>に焦点を絞ったものではなさそうにみえる。
 福井はまた、こう書く。
 「一連のファシズム現象のなかでもナチ・ドイツに関する研究は、翻訳書も含めて日本ではきわめて層が厚い」。
 これは、趣旨やや不明だが、ほとんど信じられない。フランスが専門対象の福井憲彦にはそう思えるのかもしれない。しかし、かりにヒトラー時代あるいはその前のワイマール期も含めてのナチス党等を研究しているからといって、<ファシズム>を研究していることには全くならないだろう。言うまでもないことだ。
 2016年に日本で刊行された時点での、訳者・福井の叙述だ。
 6.2016年から今年にかけて、アメリカ大統領選、フランス大統領選等々、関心を集めた選挙があり「右派」あるいは「保守派」台頭も話題になった。日本ではずっと安倍晋三内閣だった。 
 こういう時機に合わせての、岩波書店によるこの邦訳書刊行ではないだろうか。
 じつに「商売」上手な、そしてきわめて「政治的な」出版物だろう。
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 少しは立ち入る用意をしていたが、できなくなった。
 一つの英語文献、二つの独語文献の名前だけ記す。
 Paul E. Gottfried, Fascism -The Carter of a Concept (USA, Northern Illinois Uni. 2016).〔ファシズム。2016〕
 Siegfried Gerlich, Ernst Nolte -Portrait eines Geschichtsdenkers (2009). 〔Siegfried Gerlich, エルンスト・ノルテ-ある歴史哲学者の肖像。 2009〕
 Vincent Sboron, Die Rezeption der Thesen Ernst Noltes ueber Nationalsozialismus und Holocaust seit 1980 (Grin, 2015). 〔Vincent Sboron, 国家社会主義とホロコーストに関する1980年以来のエルンスト・ノルテの諸命題の受容。 2015〕

1675/ファシズム-岩波書店「検閲済」邦訳書(2016)①。

 邦訳書として翻訳されて出版されているからといって、信頼が措けると思ってきたわけではない。
 しかし、最近はむしろ、邦訳書があること自体が、日本共産党や日本の<容共・左翼>にとって危険ではないことの証拠ではないかと、とりあえずは疑問視できるのではないか、とすら思うようになった。
 とくに、岩波書店が出版している邦訳書は、おそらくほとんどこのように判断して間違いない、つまり日本の<左翼>にとっては危険ではない(むしろ推奨される)から出版されているのだ、と推測される。
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 ここで<容共=容共産主義>の意味で「左翼」という言葉を使っている。そのような狭義の意味での「左翼」に加えて、共産主義(者)を含めて「左翼」ということもある。日本共産党は当然に後者に入る。しかし日本の共産主義者=日本共産党ではない。反・非日本共産党のマルクス主義者あるいはレーニン主義者もいる。
 <容共・左翼>と上で書いたが、したがって、どちらでも同じこと。
 「反共左翼」という言葉をネット上で見たことがあるが、秋月の用語法には、こういう概念はない。
 「反共左翼」という語の使用者はおそらく日本共産党員で、日本共産党に従わない、日本共産党を支持・擁護しようとはいない「左翼」のことを「反共左翼」と称していたと思われる。日本共産党から見て、批判・糾弾的な言葉になっていた。  
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 ケヴィン・パスモア=福井憲彦訳・ファシズムとは何か(岩波書店、2016.04)。
 1.訳者の福井は、「訳者あとがき」でこう書く。
 「…、そういうファシズム的な状況の再来に対する警戒を解いてはならない」。p.241。
 「ファシズムないしファシスト」が「世界のあちこちをも席巻し」、「…大いなる魅了と反発とを喚起し」、「そして悲惨な戦争を引き起こした時代」を忘れてしまってはいけない。「もちろん」、「大日本帝国が陥った超帝国主義やミリタリズム」についても忘れてはいけない。p.242。
 これは、翻訳ではなく、訳者・福井憲彦自身の文章
 最初の文などは、消滅しているはずのファシズムを何度でも呼び覚まそうとするのが「左翼」>共産主義者だという、フランソワ・フュレの言葉を思い出させる。
 安倍晋三や橋下徹を簡単に「ファシスト」とレッテル貼りする者、反トランプのデモで、Anti-Fascism とか Refuse-Fascist とかを書いた胸板を掲げて行進していたアメリカ人も思い出す。
 二つ目の文のように、先の「悲惨な」大戦は「ファシズム(・ファシスト)」が「引き起こした」と断定的に叙述してしまってよいのだろうか。
 もちろん、以上のように簡単に言える人ではないと、岩波書店の邦訳書の訳者にはならないのだろう。
 2.表面的な紹介等からしても、この著が欧米でのファシズム研究の現在を示しているとは、とても思えない。
 ①著者はイギリスの歴史学者で、第一の専攻は「フランス現代史」。ドイツ語文献はたぶんいっさい出てこない。
 訳者(1946-)は「フランス近現代史」が専門。たぶん、ドイツ語を使って仕事はしていない。
 ②二人とも、ドイツでの議論状況を全くかほとんど知らない。
 ドイツのエルンスト・ノルテへの言及が本文に二カ所ほどあるが、これでは何のことか判らない。 
 3.なぜ岩波書店はこの本の邦訳書を刊行したのか。
 別に述べる叙述内容を理由としているからだろう。これが決定的だ。
 しかし、形式的・表面的にも疑問視できる。
 この書物の原書は、Kevin Passmore, Fascism : A Very Short Introduction (2版加筆訂正、2014/1版2002)で、オクスフォード大学が出版している人文社会系の新書的なシリーズものの一つ。
 この全てまたはほとんどについて岩波書店から邦訳書が出版されていればまだよいが、例えばつぎの二つについては、岩波書店は邦訳書を出していない(他の日本の出版社からも出ていない)。
 Steven A. Smith, The Russian Revolution: A Very Short Introduction。〔ロシア革命〕
 Leslie Holms, Communism: A Very Short Introduction。〔共産主義〕
 この二つとも所持している。熟読はしていないが(前者にはこの欄で一度触れた)、いずれも日本の「左翼」・日本共産党にとって「危険な」部分を含んでいる。とくに前者は。といっても、欧米ではごく普通レベルだろう。
 なぜこれらの邦訳書は刊行しないで、シリーズものの一つの〔ファシズム〕についてだけは刊行するのか。
 岩波書店の、政治的判断によるとみられる
 つまり、あえて言えば、岩波書店による<検閲済み>の書物だ。むろん、社内や編集部等だけの判断ではなく、誰か研究者・学者が関与している可能性もある(訳者となった福井自身かもしれない)。
 続ける。 

1392/共産主義とファシズムに関する「強迫観念」。

 市販本・新しい歴史教科書/中学社会(自由社、2015)の通算項目番号74は「共産主義とファシズムの台頭」というタイトルのもとに、さらに「2つの全体主義」との小項を立て、「欧州で生まれた二つの政治思想」、すなわち「共産主義」と「ファシズム」の二つは「国家や民族全体の目的の実現を最優先し、個人の自由を否定する思想を核心としているので、全体主義とよばれた」と書く。そして、「全体主義は…、…、20世紀の人類の歴史に大きな悲劇をもたらした」と続ける(p.226)。
 また、同書は、「2つの全体主義の犠牲者数」は「2つの世界大戦の戦死者数」を「はるかに上回り、…」とも書いている(p.271)。
 しかし、同教科書の採択率等からして、上のような世界歴史観がどの程度の中学生たちの意識に影響を与えているのかは、疑わしいところがある。立ち入らないが、ファシズム(またはヒトラー・ナチズム)の残虐さを強調しつつ、社会主義・共産主義を(例えばロシア革命を)美化して描き、ソ連の崩壊を最大級の事件としては全く扱っていない、山川出版社の高校・世界史教科書を一瞥したことがある。
 日本にはかつて民社党という政党があり、「左右の全体主義を排する」ことを綱領に掲げていた。共産主義とファシズムを「全体主義」で括るという歴史観だったとみられ、鋭くかつ正しいものを含んでいた、というべきだろう。
 しかし、同党の歴史観、考え方は、日本人全体や、政治にかかわる多くの人々に受容されていたかというと、疑わしいと思われる。
 つまり、圧倒的に、または大勢としては、ファシズムとコミュニズム(共産主義)は、対立するものとして、あるいは真反対の対極にある ものとしてすら、理解されたし、理解されているのだ。
 二 この欄で、エルンスト・ノルテが歴史把握についての「イデオロギーの障壁」について語っている部分を邦訳した。
 分かりやすい文章ではないが、ノルテのいう<二つのイデオロギーの障壁>とは、秋月の理解では、つぎの二つをいう。
 ①関心と警戒を、ファシズム(ナツィス)に集中させなければならない。
 ②共産主義(コミュニズム)を批判してはならず、それとファシズムとを比較して(例えば類似性を語って)はならない。
 ドイツでは、②のようなことをすれば、大切な①を没却してしまう、という考えが少なくとも有力にあるようだ。
上のような状況は日本にもあるのであり、日本共産党や「左翼」はしきりと<反ファシズム>または<反軍国主義>を主張する。
 日本の軍国主義・ファシズムに関心と警戒を集中させる。そして、「共産主義」の脅威・危険性にはできるかぎり触れない。
 戦時中の日本を「ファシズム」(の一種)と規定するのが一般的かどうかは不分明だが(丸山真男や上の山川教科書は日本の「ファシズム」を語る)、中国と中国共産党が日本について「軍国主義(者)」という語を使っているためか、反「軍国主義」、「反軍」の「左翼的」意識・主張はかなり一般化しているだろう。
 最近にフュレの著書(幻想の終わり)の一部を紹介して書いたように、また次回に「敵対的近接」を訳出する際のフュレも語っているが、ファシズム・ナチィスはとっくに消滅しているはずなのに、「左翼」は、日本共産党も、「ファシズム」のあるいは「軍国主義」の再来をしきりと警戒し、ファシズム・軍国主義の体現者を「ファシスト」とか「ヒトラー」とか「好戦者」とレッテルづける。
 昨年の「戦争法案」というレッテル貼りもそうだが、安倍晋三がヒトラー呼ばわりされたり(鼻の下にヒゲのあるヒトラーの似顔絵を模して描かれたり)、橋下徹が「ハシスト」と呼ばれたりする。大阪府の共産党委員会幹部は、対「維新の会」の、自民党を含む共闘を「反ファッショ統一戦線」だと述べたことがあった。
 彼ら「左翼」にとっては、反ファシズム、反軍国主義と主張しておけば自らの立場を正当化でき、有権者多数の維持を獲得できる(かもしれない)、のだ。
 その際の彼ら「左翼」、日本共産党を含む、の<標語>は、「平和」であり、「民主主義」だ。また、ファシズムによる人権抑圧に着目して「自由」も用いられる。ファシズム・独裁に対する、個人的「自由」ということになる。
 かつてこの欄で<民主主義とは、「左翼」の標語だ>と書いたことがあるのは、このような脈絡による。
 しかし、上のような論法、思考方法、思考図式は「誤り」だ、少なくとも日本共産党という日本の共産主義者たちが「戦略」的に採用しているものだ、と言わなければならない。
 日本共産党は当面は「民主主義革命」を目指しているのであり、それを達成するための論法・戦略として、「民主主義・平和・自由」を語っている。これは1935年のコミンテルンも、その後のアメリカ共産党も採用した戦略であって、社会主義・共産主義を明確に支持する者ではなくとも(そんな日本人は少ないに決まっている)、当面、「民主主義(の徹底)」とか「平和(・九条2項の維持)」とか「自由(侵害の防止)」で一致する者たちを、緩やかにでも日本共産党の支持者にして、党勢を拡大して、「民主主義革命」に一歩でも近づけようとしているわけだ(国民連合政府とかはその一里塚)。その目的だけではなく、ともかく政権・政治・政情を混乱させたい、という本能にもよっているが。
 ファシズム(・軍国主義)対民主主義。この思考図式で世界・国家・社会を見ている者は少なくない。それこそが、日本の「左翼」だ。その背後には、日本共産党がいる。
 この図式によるとかつての社会主義諸国は「民主主義」の側になつてしまう。何と、ドイツ「民主」共和国(東ドイツ)という国があったし、朝鮮「民主主義」人民共和国という国が現在でもある。
 ソ連崩壊後は、日本共産党も「左翼」も、表向きは現実にあった「社会主義」と「民主主義」との関係について、口を少しは噤んでいるようだ。しかし、「真の民主主義」、「民主主義の徹底」を主張し、現在の政権与党・安倍政権を<反民主主義>と見なしている点では、教条的な図式に乗っかったままだ。
 上の二つの「障壁」は歴史認識にも大きな影響を与えている。ファシズムあるいは日本軍国主義に「悪」があったのであり、その再来を防止するためには、その「罪業」を繰り返し暴き出し、記憶にとどめ、かつつねに覚醒させなければならないのだ。
 ここに産経新聞のいう「歴史戦」があったはずだ。しかし、昨年の安倍70年談話は「過去の歴代の内閣の立場〔村山談話を含む〕を踏襲する」、<事変、侵略、戦争>は<もはや決して行わない>と明言することによって(主語は明らかだ)、少なくとも数十年間、日本国家としての歴史認識を固定してしまった(むろん個々の国民の歴史観・歴史認識がそれに拘束されるいわれはない)。
 産経新聞も、おそらくは月刊正論編集部も、この談話を基本的に擁護することによって、自らが掲げていた「歴史戦」に敗北したことを自白したに等しく、<骨が抜かれた> 報道・出版媒体であることを明らかにした。
 三 Richard Pipes, Drei Fragen der Russischen Revolution (Passagen Verlag、1995/ドイツ語版1999、ドイツ語訳者・Udo Rennert、たぶん未邦訳ー「ロシア革命の三つの問題」)は冒頭で、<ロシア革命がなければ、きわめて高い蓋然性で、国家社会主義(ナツィス)はなかった、おそらく第二次大戦はなかった、たぶん冷戦もなかった>と言っている(p.11。この本はウィーンでの講演記録)。
 エルンスト・ノルテもロシア革命とドイツ・ファシズムとの関係に注目していて、基本的に同意するF・フュレも、前者の結果が後者だとする単純な理解を疑問しつつ、両者の間に関係があることを率直に認めている。
 アメリカ人のリチャード・パイプスも似たようなことを言っているので、やや驚いた。
 国は変わって日本では、共産主義一般でなくとも少なくともロシア「革命」を成功させたロシア・共産主義(ボルシェヴィズム)とドイツ・ファシズム(なお、ノルテは、「ファシズム」はイタリアについてのみ、「ナツィズム」をドイツについて使うことがある)の関係・「近接性」について考察することがほとんどないように見える。
 ファシズムと共産主義を比較してはいけないという「タブー(禁忌)」がまだ強く生きているようだ。反ファシズム論がもつ「強迫観念」かもしれない。
 なお、上のノルテの①に対して、いや日本の軍部は「よいことを(も)した」、日本の戦争は「正義」の戦争だった(そういう面もあった)とだけ<保守>の側が反発するのは、最近感じることだが、日本共産党・「左翼」の土俵に乗っかっている面がないではないと思われる。かつての歴史を同じ次元で、反対から見ているだけではないか、という気がしないでもない。つまり、②の視点、つまり「共産主義」という観点からもかつての歴史を理解しようとしなければならないのではないか。この観点からの歴史研究が必要だ。
 もっとも、南京事件、中国共産党の動きなど、「共産主義」という観点を含めないと理解できない事象、歴史問題があり、すでに研究されてはいるのだが。
 元に戻っていうと、ロシア革命は1917年(大正6年)でヒトラー・ナツィスの政権掌握は1933年という時期的差違はあるが、いずれも第一次大戦の影響を受けたものであることに変わりはない。ロシア革命は第一次大戦の途中で厭戦気分とともに起きており、その10月革命は第一次大戦の当事者・ドイツ帝国がレーニンの国内通過を許容しなければ起こらなかっただろう。ドイツは対ロシアの戦争を有利にするためにレーニンを利用した、そのレーニンは大戦後にドイツを敵視し、ワイマール・ドイツを怯えさせるようなソ連を作ってしまった、というわけだ(但し、ラパッロ秘密条約、独ソ不可侵条約など、両国の関係は複雑だ)。
 ボルシェヴィズム(ロシア・共産主義)とヒトラー・ナツィスの「暴虐」は、世界大戦による「殺戮」の日常化の記憶と無関係ではないともいわれることがある。その当否は別として、ヨーロッパ文明の行き着いた先、その二つの鬼子だとロシア共産主義とナツィズムが言われることもあるように、第一次大戦やそれを生んだ「ヨーロッパ」という母胎をもつことですでに、両者には共通性・類似性があるのではないか。
 また、ノルテらも言及しているように、ロシア革命の成功とレーニン・スターリンの「ボルシェヴィキ」帝国の存在なくして、ヒトラー・ナツィスは誕生しなかったにも見える。詳しくは知らないが、ヒトラーがある程度は「共産主義」の脅威・恐怖を利用したのはたしかだろうし、一方では「国家社会主義労働者党」というナツィス党の名称にも見られるように、反現状・反西欧資本主義気分によって支えられていたかにも見える。ここで、ヒトラー・ナツィスの政権奪取を社会主義者(社会民主党)と手を組んで断固阻止しようとはしなかったドイツ共産党も、視野に入れる必要がある。
 書くのに疲れてきた。さらに「勉強」はしよう。いずれにせよ、共産主義(コミュニズム)とファシズムの関係は、日本共産党や日本の「左翼」が図式的かつ単純に理解しているようなものではない、と断言することができる。それはまた、日本の戦前あるいは昭和戦前の北一輝等々の「思想」の性格づけ・位置づけがたやすくはないことと同様だと思われる。
 <イデオロギーの障壁を超えて>、<強迫観念から自由に>、歴史は総合的にかつ多面的に把握されなければならない。

1385/共産主義・全体主義…、トラヴェルソ・平凡社新書。

 日本共産党関係の文献は100冊近く、同党と無関係ではないがレーニン、ロシア革命、共産主義等々に関する文献は間違いなく100冊以上、この一年間に入手した。
 かつては購入・入手図書のリストをパソコン内に記録していたのだが-二重購入の回避のためにも-、その習慣を失ったので、上の大きな二分野だけでも、所持文献リストをこの欄に残しておこうかとも思っていた。但し、これも入力の手間が大変だ。
 このようにとりあえずの大関心であるレーニン/スターリン関係文献だけでも多数にのぼり、スターリンから過ったという日本共産党の大ウソ、可哀想なほどに貧弱で皮相的な謬論という結論はとっくにはっきりしていても、日本・外国の文献にこれまでいちいちこの欄で言及しているわけではない。
 フュレとノルテの本を和訳したりしているのも、リチャード・パイプスに言及したりしているのも、もともとは<共産主義>への関心にもとづく付随的なものだ。
 したがって、以下の叙述もたまたま新たに手にとってみた本に興味を惹いたというだけのことで、このレベルの本は(日本共産党・レーニン関連でも早く紹介・言及したいのだが)他にも少なからずある。
 9/06に初めて、エンツォ・トラヴェルソ(柱本元彦訳)・全体主義(平凡社新書、2010/原著2002)を一瞥した。
 平凡社新書というだけで少しは抵抗があったのだろう。また、このイタリア人歴史家は、感覚的な印象では「左翼」的だ。
 だが、そのような学者ですら、「共産主義」をいかなる意味でも擁護しようとはしていない。反・反共主義者ではない。これが第一点。
 最後の方に目を通しただけだが、この書の結論は「全体主義」概念を安易に用いるな、ボルシェヴィズム・共産主義とファシズム・ナチズムの違いをわきまえよ、ということだろう。
 これはこれでよく分かる。重要なことは、「全体主義」という、この著者が強調するように、曖昧な概念で括られることがあるような、上の両者の共通性・類似性を、この著者もまた否定はしていないことだ。これが第二点め。
 なお、「ボルシェヴィズム」と「共産主義」、「ファシズム」と「ナチズム」は、それぞれ厳密に区別されていない、と見られる。前者について「スターリニズム」という概念も用いられているが、それが(日本共産党・不破哲三らが期待するように ?)レーニンを排除するものではないことは読んでいて明らかだ。
 なお、上の著から離れるが、ハンナ・アレントの著において「全体主義」とはほとんどナチズムと「スターリニズム」の両者を意味させている、と見られる(すでに一読しているし、原著もドイツ語版と英語版の二つ持っている。確認しないが、communism ではなくstalinismという語が使われているはずだ)。だが、彼女にとって現実的だったのはヒトラー・ナチズムと「スターリン」だったからだと見られ、レーニンを「スターリニズム」と無縁なものと理解しているわけではないはずだ。 
 第三に、フュレとノルテに論及がある。
 フランソワ・フュレは「自由主義の大歴史家」とされ(p.160)、その大著「幻想の過去(終わり)」への言及と一部引用等がある。
 エルンスト・ノルテは「ドイツの保守的歴史家」とされ、「1917年のロシア革命にはじまる圧政の時代の内に全体主義を位置づける「歴史的・発生学的」解釈」を提案する、とされる(p.177)。
 立ち入った紹介は避けるが、著者はこの二人に全面的に同意しているわけでは、むろんない。フュレとノルテに見解の差違があることも述べている。
 それよりも、フュレとノルテについての欧米( ?)歴史家内での評価が参考にはなる。この秋月の感覚は誤ってはいない、ということだろう。この二人は「共産主義」を正面から論じていることからも明らかなことだが。
 第四に、「左翼的」かもしれないが、トラヴェルソというイタリア人は日本の「左翼」歴史学者に比べれば、はるかに普通の学者だろう。印象に残る文章もある。
 オーウェルの著は「記憶の空虚」を発掘する特殊な機械で「歴史を書き換えようとする全体主義体制が、懸命になって過去を管理する姿」を描いた。
 「歴史学の目的は、閉じた知識の蓄積ではなく、-、現在の指針となるような過去を構築することだ」。以上、p.188-9。
 全体主義、自由主義・リベラリズム、共産主義、民主主義等の観念・概念の利用には慎重でなければならないところは確かにある。ついでながら、不破哲三は「市場経済を通じて社会主義へ」というとき、「市場経済」という語で何を意味させているだろう。
 それはともかく、「記憶の空虚」を無理やり作られ、「過去を管理」されてはたまらない。それぞれの国民は、みずから「過去を構築」できなければならないだろう。
 日本の歴史に関して、2015年の8月に安倍晋三は、いずれ禍根と災厄が明らかになるだろう「犯罪」的談話を発した、と思っている。それを渡部昇一は「戦後体制を脱却」する名宰相の談話だと評するのだから、ほとんど発狂している。

1384/試訳-共産主義とファシズム・「敵対的近接」03。

  F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)の試訳03
 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)の「試訳」の3回目。
 この往復書簡には、英語版もある。Francoir Furet = Ernst Nolte, Fascism & Communism (Uni. of Nebraska Press、2004/Katherine Golsan 英訳)だ。
 この英語訳書は計8通の二人の書簡を収載している点ではドイツ語版と同じだが、Tzvetan Todorovによる序言(「英語版へのPreface」)および雑誌Commentaire編集者によるはしがき(Foreword)が付いていること、および「ノルテのファシズム解釈について」と題するフュレの文章が第1節にあること(したがって、書簡を含めて第9節までの数字が振られている)で異なる。但し、この第1節のフュレの文章は、フュレの大著〔幻想の終わり-〕の中のノルテに関する「長い注釈」の前に1頁余りを追加したものだ。雑誌編集者による上記は、フュレの突然の死についても触れている。
 また、英語訳書には、ドイツ語版とは違って、各節に表題と中見出しがある。
 番号数字すらなく素っ気ないドイツ語版と比べて分かりやすいとは言えるが、そうした表題をつけて手紙は書かれたわけではないと思われるので、ドイツ語版のシンプルさも捨て難い。だが、せっかくの表題、中見出しなので、以下では、その部分だけは英語版から和訳しておく。
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p.17-p.25.
 イデオロギーの障壁を超えて
 エルンスト・ノルテ <第一信> 1996年02月20日  
 敬愛する同僚氏へ
 貴方の著書、Le passe d'une illusion につい若干の感想をお伝えしたい。ピエール・ノラの申し出により雑誌 Debate で述べた意見よりも個人的で、かつ詳細ではありませんが。
 この本のことを、私はほぼ一年前にフランクフルト・アルゲマイネ新聞の記事で知りました。その記事は貴著の意義を述べているほか、貴方が私の本に論及していた195-6頁の長い注釈にもはっきりと言及していました。ふつうの〔健康〕状態であれば、もっと早く気づいていたでしょう。 
 私は貴方の本のすべてを、一行、一行と、強い関心と、さらには魅惑される愉しみとともに、読みました。
 貴方の本は二つの障害または妨害から自由だ、とすぐに分かりました。
 この障害または妨害によって、ドイツの〔歴史家の〕20世紀に関するすべての考察は狭い空間に閉じ込められており、個々には優れた業績はあっても無力です。
 ドイツではこの20世紀に関する考察は、最初からもっぱら国家社会主義に向けられました。また、その破滅的な結末は明白でしたので、思索の代わりをしたのは、「妄想」、「ドイツの特別の途」あるいは「犯罪国民」のごとき公式的言辞でした。
 ドイツの歴史を概観する、二つの思考方法がありました。
 一つは、全体主義理論です。これは、1960年代半ば以降、すべての「進歩主義者」にとっては旧くなっているか、あるいは冷戦を闘うための手段だと考えられました。
 もう一つは、マルクス主義思考方法です。これの結論は、第三帝国は、偉大でかつそのゆえに罪責ある全体のたんなる一部だ、例えば西洋帝国主義あるいは資本主義的世界市場経済の一部だ、というものでした。
 ドイツとフランスの左翼
ドイツの左翼は、彼ら自身の歴史についての一義的に明白な観点を持ちませんでした。その歴史自体が一義的ではなかったのですから。ナポレオン・フランスに対する自由主義戦争は「反動的な」動機を持ったとされ、1848年の革命は「挫折」でしたから、彼らが何らの留保を付けることなく自らを一体化できるような事象は存在しなかったのです。
 ドイツ左翼の小さな一派のみは、ロシア革命と自らを一体化したでしょう。大部分の左翼は、つまり多数派の社会民主主義者は、実際にも理論的にも〔ロシア革命を〕ドイツへと拡張する試みに断固として反対しました。
 左翼内部の狂熱と忠誠心を定量化できるとすれば、ドイツ共産党は十分に過半に達していたでしょう。なぜなら、社会民主主義者は、いわば「拙劣な社会主義者の確信」でもって共産主義者と闘い、国家社会主義者が大きな敗北を喫した1932年10月の選挙においてすら、ドイツ共産党は選挙のたびに勢力を増大させていたドイツでの唯一の政党でした。
 しかし、1970年代の初期のネオ・マルクス主義においてすら、1932-33年での共産主義者の勝利は可能だったと考えたり、社会民主主義者を「裏切り者」と非難したりする見解は、さほど多数ではありませんでした。
 反対意見もありましたが、まさにこのような見解が、「右派」反共産主義のテーゼ、すなわち、共産主義は現実的危険であり、「そのゆえにこそ」国家社会主義は多数派を獲得したのだ、というテーゼだったのです。
 だが、1945年以降にボンで再興された「ヴァイマール民主主義」の諸大政党にとっても、このような見解は誤りでありかつ危険であると思えたに違いありません。なぜなら、その見解は「ボルシェヴィズムからドイツを救う」という国家社会主義のテーゼときわめて似ていましたので。また、アメリカ合衆国との同盟によって「全体主義的スターリニズム」や東ベルリンにいるそのドイツ人支持者による攻撃を排斥する、というつもりでしたので。
 全体主義理論はたしかに、「全体的」反共産主義と区別される「民主主義的」反共産主義を際立たせる逃げ道を示しました。
 しかし、全体主義理論が優勢だった時期は長くは続かず、のちには右から左まで、かつ出版界から学界まで、ほとんど全ての発言者はつぎの点で一致しました。
 すなわち、注目のすべてを国家社会主義(ナツィス)に集中させなければならない。「スターリニズム」については副次的に言及するので足り、かつ決して「国際共産主義運動」について語ってはならない。
 まさにこの点にこそ、私が先に語った二つの「障壁」があったのです。
 貴方は著書において、「共産主義という理想」から出発し、それに今世紀の最大のイデオロギー的現実を見ています。急速に実際上の外交政策にとって重要になったロシアに限定しないで、フランスでもかつそこでこそ多くの知識人を熱狂させた「10月革命の普遍的な魅力(charme universal d'Octobre)」を語っています。
 貴方がそれをできるのは、ドイツの相手方[私=ノルテ]とは違って、フランス左翼の出身だからです。フランスの左翼は、つねに参照される大きな事象、すなわちフランス革命を国民の歴史としてもっています。フランスの左翼はさらに、ロシア革命を徹底したものおよび相応したものと理解することができ、つねに熱狂的に同一視することなく、ロシア革命に、何らのやましさなく少なくとも共感を覚えることができるからです。
 したがって、つぎのことは全くの偶然ではありませんでした。社会党のほとんどが1920年のトゥールズでの党大会で第三インターナショナルに移行したこと、Aulard やMathies のようなフランス革命についての著名な歴史家がこの世界運動に共感を示し、支持者にすらなったこと。
 貴方が特記している他の人たち、 Pierre Pascal、Boris Souvarine、あるいはGeorge Lukas のような人たちもまた、狂信者であり確信者でした。そして、貴方自身も明らかに、この熱狂に対する関心と共感を否定していません。
 歴史の現実はたしかに、Pierre Pascal、Boris Souvarine およびその他の多くの人々の信仰を打ち砕きました。貴方自身もこの離宗の流れに従っています。しかし、距離を置いたにもかかわらず、貴方は依然として、20世紀の基礎的な政治事象を、ロシア10月革命およびその世界中への拡張に見ています。
 貴方はこの拡張を検証し、それが多様な現実との格闘に消耗して内的な力を喪失し、ついには最初からユートピアたる性格をもつもの、つまり「幻想」であったことが今や決定的になるまでを、追跡しています。
 私から見ると重要でなくはないさらなる一歩を、貴方は進みました。
 今世紀の基礎的事象が結局は幻想だったことが判明してしまったとすれば、それが惹起した好戦的な反応は全く理解できませんし、完全に歴史的な正当性を欠いたものでしょう。また、「犯罪にすぎないものとしてのみ今世紀のもう一つの魅惑的な力」を認識するのは、共産主義者の見解の不当な残滓でなければなりません。
 「今世紀のもう一つの大きな神話」、すなわちファシズムという神話をこのように評価することによって、貴方はフランスですら多くの異論に出くわすでしょう。今日のドイツでは、すぐに「人でなし」になってしまうでしょう。
 しかしながら、私の意見では、貴方は完全に正しい。共産主義思想とファシズムという抵抗思想の対立は、1917年から1989-91年までの今世紀の歴史の「唯一の」内容だった、そして「その」ファシズムは、歴史的現実と共産主義運動の現実とを決定した雑多な差違や前提条件を無視して言えば、一種のプラトン思想だと考えられるべきだ、という貴方の考察を、誰も合理的には疑問視することができないのですから。
 私は貴方とは全く別の途を通って、先の二つの「障壁」を乗り越え、イデオロギーの世界内戦という(概略はずっと以前にあった)考え方に辿り着きました。
 若きムッソリーニ、彼の社会主義思想に対するマルクスやニーチェの影響に偶然の事情によって遭遇していなかったならば、国家社会主義やその「ドイツ的根源」に集中する思考は、私にも付着したままだったでしょう。
 そのゆえにこそ、「ファシズム」は私の1963年の本の対象になりえたのであり、反マルクス主義の好戦的な形態だとする一般的なファシズムの規定や、「過激なファシズム」だとする国家社会主義の特殊な定義は、私がそれ以降に思考し記述したすべてのものを潜在的に含んでいます。
 貴方の出発点である「共産主義思想」は、私には長い間顕在化していない背景のようなものでした。しかし、その状況は、1983年の「マルクス主義と産業革命」によって初めて、1987年の「1917-1945の欧州内戦」でもって顕著に、変わりました。
 全体主義の発生学的・歴史的範型
 そうして我々は、私に誤解がなければ、異なる出発点と異なる途を経て、同じ考え方に到達しています。それは、全体主義理論の歴史・発生学的範型(Version)と私が名づけたもので、ハンナ・アレントやカール・F・フリートリヒの政治・構造的範型とは、マルクス主義・共産主義理論と区別されるのとほとんど同じように区別されます。
 我々の間にはきわめて重大な違いがあるかのように見える可能性があります。貴方は上記の注釈で、私が解釈をおし進めすぎてヒトラーの「反ユダヤ人パラノイア」に「一種の理性的な根拠」を与えたのは遺憾だ、と書いています。
 つぎのことを貴方に強調する必要はないでしょう。すなわち、「ユダヤ人問題の最終解決」としてなされた大量虐殺の個別事象に、ドイツ人〔の歴史家〕が国家社会主義に集中した重大な理由があります。
 歴史において個別性は「絶対性」ではなく、そのように論じられてはならないことに、貴方もきっと同意するでしょう。
 付記します。個別の大量犯罪は、それに理性的で理解可能な根拠を与えうるということでもって悪質でなくなったり非難すべきものでなくなったりはしません。むしろ、逆です。
 貴方は1978年の論文でフランス左翼によるほとんど素朴なシオニズムの解釈を批判し、現象の本質はユダヤ人のメシア主義〔救世主信仰〕と分離されるべきではないと述べた、ということを思い出して下さい。貴方は引用記号を用いていません。そして、当然に、「ロシア的」とか「シーア派メシア主義的」とかと述べることができることをよく知っているにもかかわらず、そのような用語法を正当なものと見なしています。
 「ユダヤ人のメシア主義」なるもの自体への言及なくして、またアドルフ・ヒトラーや少なくはない彼の支持者たちが作り上げた観念にもとづいては、「最終解決」なるものも、-「了解できる(verstaendlich)」とは異なる意味で-理解できる(verstehbar)ものにはならない、と考えます。
 したがって、我々の間にある差違は除去できないものではない、と思います。むろん、引用された、フランスに出自をもつドイツの作家、テオドア・フォンターニュの言葉によれば、「広い畑」があります。
 適切な方法で耕すためには、多くの言葉と熟慮が必要でしょう。
 推測するに、ドイツでは、私が貴方の書物の出版について祝辞を述べると言えば、蔑視されるか、あるいは犯罪視すらされるでしょう。だが、貴方の国は、予断や神経過敏症の程度が、私の国よりも大きくない、と信じます。
  エルンスト・ノルテ
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1381/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」02。

 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismud im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡の「試訳」の2回目。p.11~16.
 大きな段落の区切り後の表題は「(一つの)長い注釈」で、これは、書簡の交換の契機となったフュレの大著・Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)の第6章に付せられた、もっぱらノルテに言及している長い注釈のことだ。
 この著には邦訳書・楠瀬正浩訳/幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)があり、上の注釈部分も訳出されている(p.253-4)。したがって、この邦訳書の一部を読めば、この注釈の内容も分かるので、これを参照すれば足りる。フランス語原文にもとづく翻訳書は、いわば「正訳」書のようなものだろう。
 但し、フランス語文からドイツ語に訳された冒頭掲記の本に少し立ち入り、上記邦訳書と少しばかり対照させてみて、私なりの(ドイツ語文からの)訳も掲載しておこうと考えた。楠瀬正浩訳は一部にせよ間違っている、という理由では全くない。ドイツ人訳者の判断又は思い入れらしきものもあるのだろうか、同じ趣旨だとしても(それは当然だろう)、選択された言葉のニュアンスや意味の理解に、微妙な違いがあるように感じられたからだ。また、文章の構造自体が違っている場合があることも歴然としている。
 なお、英語訳書である、The Passing of an Illsion, The Idea of Communism in the Twentieth Century(Univ. Chicago、1999)ものちに入手したが、これまたかりに直訳すれば同じような感想を抱きそうだったので、これの参照は、ほとんどしていない。
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 <(一つの)長い注釈>
 この20年、とくに1987年にドイツの歴史家が議論した国家社会主義(ナツィス)の解釈に関する論争(歴史家論争〔注12/秋月注、フュレの原本の数字〕)以来、エルンスト・ノルテの見解はドイツおよび全西欧で異口同音に批判されたので、特別の注釈を施しておく価値があると思われる。
 エルンスト・ノルテの功績は、とりわけ、きわめて早い時期にコミュニズムとファシズムを比較してはいけないという禁止を打ち破ったことにある。この禁止は西欧では多かれ少なかれ一般的であり、理解しうるまだきわめて生々しい理由でとくにイタリアとフランスで、またドイツでは特別に厳しく遵守された。
 エルンスト・ノルテはすでに1963年にその著「ファシズムとその時代(Der Faschismus in einer Epoche 〔秋月注-in seiner が正しいと見られる〕)で、新ヘーゲル派とともにハイデガー(Heidegger)の影響を受けた、彼の歴史哲学的な20世紀の解釈を、概述した。
 自由主義の制度(liberales System)はそれがもつ矛盾性と将来に対する開放性によって、コミュニズムとファシズムという二つの大イデオロギーを生んだ。マルクスが道を拓いたコミュニズムは、近代社会の「超越性」を極端にまで狩り立てた。著者はそれを、人間の思考と行動から本性と伝統の領域を奪い去る、民主政的な普遍性の抽象化と理解する。
 ファシズムは、これに対して、予め決定されていない自由な存在に対する不安を除去して安心を与えようと意図した。それは遠くは、ニーチェおよび「生」と「文化」を「超越性」から守ろうとする彼の「意思」に着想を得ていた。
 こうして導き出される帰結は、二つのイデオロギーを別々に切り離して考察することはできない、ということだ。これらは、一緒になって、ラディカルな方法で自由主義の矛盾を明らかにする。そして、我々の世紀全体が、これらの相互補完性・対立性の影響のもとにあった。
 年代史的な時系列でもって、それらを整序することもできる。レーニンの勝利はムッソリーニのそれに先行し、言うまでもなくヒトラーのそれに先行した。
 ノルテの見解によれば、最初のものが後続の二つの誘発原因になった。そしてノルテは後続の諸著作で、このような関係を強調している(1966年「ファシズム運動」、1974年「ドイツと冷戦」、中でも1987年「欧州の内戦 1917-1945」)。
 イデオロギーの面から見れば、ボルシェヴィズムという普遍主義的な過激主義は、ナツィズムにおける特殊性の増大を誘発した。実際の面から見ると、レーニンによって行われた階級なき社会という抽象化を掲げてのブルジョア階層の抹殺は、ヨーロッパはコミュニズムの脅威に対して最も弱いので、忽ちのうちにパニックをもたらした。これは、ヒトラーの、およびナショナリストによる逆テロルの勝利を導いた。
 ヒトラーですら彼の敵に対して、最初から敗北するはずの闘争を遂行した。彼も「技術」の普遍的な魅力に惹かれ、同じ方法を彼の敵対者に対しても適用した。スターリンと全く同様に彼は工業化を好み、社会的「超越性」をもつ、ユダヤ・ボルシェヴィキという双頭体の怪物と闘う、と彼は称した。だが実は、ゲルマン種族の支配のもとに人類を一つにするつもりだった。このようにして準備された戦争には、勝利できる根拠は何もなかった。
 ナツィズムは、その発展とともにその元来の論理に忠実ではなくなる。この観点からノルテは、彼の最近の著書(1992年「ハイデガー-人生と思索における政治と歴史」)で、ナツィズムに味方したハイデガーの短い活動家時代を擁護しかつ釈明している。
 ノルテによれば、のちに彼の師となった哲学者には、国家社会主義に対して初めに熱狂しのちに速やかに幻滅するだけの理由があった。
 以上のように見ると、贖罪意識に囚われている者であれ、ファシズムを理解しようとすることでそれへの嫌悪感を弱めるのではないかと怖れる者であれ、あるいはたんに時代の空気に順応しているにすぎない者であれ、戦後世代の人々にとって、ノルテの著作がきわめて衝撃的だったことが十分に理解できる。
 上の前の二つのような振る舞い方は少なくとも高貴な動機によるもので、歴史家はそれを尊重できるし、しなければならない。だが、そのような態度を歴史家がとるならば、ソヴィエトのテロルは1920年代と1930年代にファシズムとナツィズムが大衆性を獲得した重要な要因であることを考察することができなくなってしまうだろう。また、ヒトラーの権力奪取が、先行するボルシェヴィズムの勝利に、およびレーニンが統治のシステムにまで高めた裸の暴力という悪い実例に、いかに条件づけられていたかを、さらには、コミンテルンが共産主義革命をドイツへと拡張しようとしているとの強い印象づけよっていかに条件づけられていたかも、無視してしまうに違いない。
 実際のところ、このような出発点から考察することの禁止は、ファシズムの歴史の徹底的な研究を妨げている。歴史の世界でのこの禁止は、政治の世界でソヴィエトの影響を受けた反ファシズムが発揮しているのと同じ効果を持った。
 反ファシズムに対する批判を禁止することによって、この種の歴史資料編纂的な反ファシズムは、ファシズムを理解することも妨げる。
 ノルテの功績は、何よりも、このタブーを打ち破ったことにある。
 残念なことにノルテは、 ナツィズムに関するドイツの歴史家論争の過程で、彼のテーゼを強調しすぎて、彼の立場の解釈を弱めている。すなわち、彼はユダヤ人について、ヒトラーの組織化された対抗者で、敵と結びついた、と説明しようとした。
 ノルテを「アウシュヴィッツ否認者」[秋月ー邦訳書および英訳書では「ネガ・シオニスト」]と称することはできない。彼は、繰り返しナツィスによるユダヤ人虐殺への嫌悪感を強く表明しているし、一つの人種のかつてない工業的な抹殺だとして、ユダヤ人ジェノサイドの異常性も承認する。
 彼が維持する考え方は、だが、ボルシェヴィキによるブルジョア階級の廃絶がそうしたものへの道を開いた、強制収容所(Gulag)はアウシュヴィッツよりも前にすでに存在した、というものだ。
 しかし、ノルテの眼からすればユダヤ人ジェノサイドは時代風潮を構成する要素だったとしても、勝利のためのたんなる手段だと見なされてはいない。彼は恐るべき特異性を認める。その特異性とは、目標それ自体が目標で、さらに優位する目標が「最終的解決」という勝利の産物だ、というものだ。
 さらにノルテは、彼の最近の文書が示すように、ヒトラーの反ユダヤ主義というパラノイアを考察しようとするに際して、ハイム・ヴァイツマン(Chaim Weizmann)が世界ユダヤ人会議の名前で1939年9月に世界中のユダヤ人に対してイギリス人の側に立って闘うことを呼びかけた宣言に、一種の「理性的な」根拠を見い出したようだ。
 このような議論は、衝撃的であると同時に、誤りだ。
 疑いなく、ノルテは、潜在意識下にある辱められたドイツ・ナショナリズムと関係している。それについて、ノルテの論敵はこの二十年の間、彼を非難してきた。また、それは、彼の諸著作の主要なモティーフだ。
 しかし、ある観点からはこのような批判が適切だとしてすら、彼の全業績と解釈の価値を失わせることはできない。それは、最近の50年間において最も洞察力に富むものの一つだ。
 参照、〔以下、ノルテに関するフランス人の二つの論考が挙げられており、邦訳書にもあるが、省略〕。 
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1376/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」/01

 フランソワ・フュレエルンスト・ノルテの交換書簡である、以下の著を試みに訳しておく。その著は、Francoir Furet = Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)で、仮訳すれば、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(ヘルビッヒ出版社(ミュンヒェン)、1998年)だ。
 フュレのフランス語文章は、Klaus Joeken とKonrad Dietzfelbinger によってドイツ語に訳されている。
 フーバー大統領回顧録の一部を試みに和訳した際と同様のことを記しておかなければならない。筆者・秋月は共産主義・ファシズムあるいは政治思想史・欧州史等の専門家ではないし、ドイツ語の専門家でもない(ましてや翻訳を業とはしていない)。
 だが、この本の邦訳書は未公刊のようであるので、多少の関心を惹くことができれば幸いだ。
 本文は全体で118頁しかないので、全文を訳出する予定で、かつ(フーバー大統領回顧録の場合とは違って)最初から頁数どおりに訳していく。
 以下の第一回めの「序言」でノルテが書いているように、この本には各章または各節のタイトル・見出しはなく、数字番号すらない。
 全体・概要を把握する一助になるだろうと思って、あえて「第1節」というような見出し(表題)を付け、かつ各冒頭の1-2行めの言葉だけを記しておくと、つぎのようになる。
 第1節/序言〔ノルテ〕 p.05-
 第2節/「一つの長い注釈」〔フュレ〕 p.11-
 第3節/エルンスト・ノルテ 1996年02月20日 p.17-
 第4節/フランソワ・フュレ 1996年04月03日 p.27-
 第5節/エルンスト・ノルテ 1996年05月09日 p.39-
 第6節/フランソワ・フュレ 1996年08月 p.49-
 第7節/エルンスト・ノルテ 1996年09月05日 p.61
 第8節/フランソワ・フュレ 1996年09月30日 p.85-
 第9節/エルンスト・ノルテ 1996年12月11日 p.97-
 第10節/フランソワ・フュレ 1997年01月05日 p.109-p.122
 このように4往復の「交換書簡」が主内容だ。「序言」はテーマに直接に論及しているわけではないが、交換書簡に至る経緯等が記されているので、訳しておいた方がよいと判断した。「一つの長い注釈」(フュレ・幻想の終わり第6章の注13)については、その部分の「訳」の際に説明する(「序言」でも何度か触れられている)。
 全体を3~4回程度に分けて掲載するのが元来の予定だったが、それではこのブログサイトの1回分の掲載容量を超えてしまうだろうと思い直して、試訳作業の途中ではあるが、<第1回・「序説」>部分だけを、まずは紹介する(上記のように、数字番号すら、この書の全体を通じて付されていない)。
 なお、読みやすいように、段落の途中でも改行していることが多い。0
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 F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)01
 序言 <p.5-p.10>
 この交換書簡の特徴を述べることはしない。これの成立と公刊の事情を記しておこう。
 フランソワ・フュレについては、以前からフランス革命に関する指導的な歴史叙述者であることを知っていた。だが、一人の歴史家が自分の専門分野からすれば「資格」がない他の歴史家の仕事を知っている程度においてにすぎなかった。
 彼の側では事情は少しばかり異なっていたことは、1995年末に二十世紀のコミュニズムに関する彼の大著が公刊されたときに初めて明らかになった。彼の大著とは、Le passe d'une illusion, Essai sur l'idee communiste au XXe" siecle 〔秋月訳-幻想の終わり/20世紀の共産主義者の思想に関する省察〕だ。
 この彼の著作についてフランクフルター・アルゲマイネ新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ)はすぐに詳しい書評を掲載した。その記事が明らかにしたのは、フュレのテーマはコミュニズムのみではなく、少なくとも含意するところでは、今世紀の第二の「大きなイデオロギー」、すなわちファシスムだ、ということだった。また、その記事には、私の著書が彼の著作の195-196頁にある際立って長い注釈〔秋月-次節「一つの長い注釈」)の中で論及されていると、明確に書かれていた。
 1996年の秋にドイツ語訳書がパイパー出版社(Piper Verlag)から出版されたので、その著書を取り寄せた。見てすぐに分かったのは、私のいくつかの著作が一頁半の長さで、ドイツでは長い間読まなかったほどに、力強く論評されていることだった。
 フュレはむろん、つぎの「悲しい事実」を指摘しなければならないと考えていた。私はユダヤ人をヒトラーの「組織された対抗者」だとし、国家社会主義(ナツィス)の反ユダヤ主義(nationalsozialistisches Antisemitismus)を「理性的核心」だと見なした、という事実をだ。
 この注釈では、同じ程度ではなかったが、同意と批判とが一緒になっていた。
 ほどなくして、ピエール・ノラ(Pierre Nora)が、彼の雑誌「討議」(Debat)が企画するフュレの本についての討論に出席して欲しいと言ってきた。そして、その雑誌の1996年3=4月号、第89号が公刊され、そこには、「20世紀のコミュニズムとファシズム」というタイトルのもとで、Renzo De Felice、Eric J. Hobsbawn、Richard Pipes〔リチャード・パイプス〕、Giuliano Procacci、Ian Kershaw そして私の意見表明とフュレの答えが掲載されていた。
 これと比較できるような討論会は、ドイツでは、私の知る限りでは、構造的な範型による全体主義理解〔秋月-とくにハンナ・アレント〕や1963年の「ファシズムとその時代(Der Faschismus in seiner Epoche)」〔秋月-エルンスト・ノルテの著書〕についてはすでに十分に議論されていたにもかかわらず、催されたことがなかった。
 だが今や、個々に見ると多くの意見の違いはあっても、問題設定自体の正当性は、このきわめて国際的な公開討論の場(Forum)で承認された。
 そのすぐ前に、イタリアの雑誌「リベラル(liberal)」が、フュレと私が手紙を交換して、諸問題についてもっと詳細に意見を述べたい、という気持ちを刺激するような提案を二人にしてきていた。
 我々はお互いにまだ個人的な知り合いではなかったので、ミラノ(Mailand)で出逢うことが計画された。そこで、編集部と考え方を相談することになっていた。
 だが、私は健康上の理由で決まっていた時期を守ることができなかったので、心臓手術の期日がすでに決められていた時点の1996年2月に、第一の手紙を書いた。
 私の手紙とフュレの返書は、「リベラル」の5月号に掲載された。そのとき私はまだ、リハビリテーション施設にいた。
 同じ月にもう私は十分に回復することができたので、第二の手紙を書いた。そして1997年4月に、最後の二つの-二人にとって第四の-手紙が、私には適切では全くない「エルンスト・ノルテがフランソワ・フュレと闘う(… a confronto con …)」というタイトルのもとで、その雑誌上に公刊された。
 1996年の末頃にミラノでのある学会で、フュレと個人的に親しくなっており、1997年の6月に、「リベラル」によってナポリ(Neapel)で開催された「20世紀のリベラリズム」というテーマの会議で、我々は再び逢った。そこで、二人で協力して、古く有名な哲学研究所での夜の催し(Abendveranstaltung)を引き受けた。
 そうしている間に、我々の交換書簡集のイタリアでの書物が発行された。
 上の会議のあとで我々が交換していた私的な手紙では、お互いを「Cher ami(親愛なる友!)」あるいは「親愛なる友よ(Lieber Freund)」と話しかけていた。
 7月11日に、「シュタンパ(Stampa)」から電話があった。きわめて不運なことにフュレがテニスをしているときに転倒し、昏睡状態にある、望みはない、追悼文を書いてほしい、と。
 その報せは、私には青天の霹靂だった〔落雷のごとく私に命中した〕。ようやく70歳になったばかりで、ごく最近に「フランス学士院(Academie francaise)」の会員になっていた。ナポリでは、全く健康な様子だった。
 だがしかし、我々はともに8回めの人生10年間を迎えていた。手紙の交換を始めたとき、一方〔私、ノルテ〕には生命の危険があった。他方、彼の最後には、死があった。
 1920年代に生まれた世代は、1991年〔秋月-ソ連崩壊年〕以降に初めてではなく、最初に、20世紀の基本的特徴を包括的に解釈しようと試みることができたが、その世代の者たちは今や別れをを告げている。
 Renzo De Felice は1996年に逝去し、Thomas Nipperdey〔トーマス・ニッパーダイ〕、Martin Broszat そしてAndreas Hillgruber〔アンドレアス・ヒルグルーバー〕 はもう数年前に逝去している。
 この交換書簡は、ひょっとすれば、この世代の者の、最後の非個人的な証言書の一つだ。
 ナポリ(Neapel)で会話していたとき、フュレは、交換書簡は次はパリの雑誌「批評(Commentaire)」で発表される、と語った。そのとおりに、1997年の秋=冬号、第79-80号が公刊された。
 ドイツ語版は、フュレの私あて第一信が、私の「ヨーロッパの内戦(Europaeisches Buergerkrieg)1917-1945」の新版の付録として、1997年の秋に公刊された(ヘルビッヒ出版社、ミュンヒェン)。同じ出版社から、この完全な交換書簡集が出版される。
 パイパー出版社(Piper Verlag)の厚意により、手紙の交換が始まったきっかけになった彼の脚注〔秋月-次節「一つの長い注釈」〕の文章をこの本に収載することが可能になった。
 一つ一つの手紙に表題を付すこと-イタリア語版のように-はやめることにし、中見出しを挿入すること-「批評(Commentaire)」のように-もやめた。その代わり、本文の後に、人名索引の他に事項索引がある。結びの言葉は、すべての手紙について省略した。フランソワ・フュレやエルンスト・ノルテという名前は、人名索引に載せていない。
 どの読者も、この交換書簡には、とくにフュレには、同意と不同意とが密接に一緒になっているという印象を受けるだろう。どの読者も自分で、彼の見解のどこに最も強調したい点があると理解すべきなのか、決定しなければならない。
 しかし、誰もが決して疑ってはいけないのは、先行業績からすれば非常に異なる二人の歴史家の間のこの交換書簡が、論争的にかつお互いを尊敬する精神でもって交わされた、ということだ。これと類似のことは、残念ながらドイツでは、いわゆる歴史家論争の期間でもなされなかった。
   1998年1月、ベルリン(Berlin)にて、エルンスト・ノルテ。 
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1373/F・フュレ・幻想の終わり(1995)等-その2。

 一 フランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)を読んでも、フュレ=ノルテの"Feindliche Naehe" Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert〔敵対的近接-20世紀のコミュニズムとファシズム〕を読んでも、まずは感じることが二つある(「近似」は「近接」へと少し訳し変えておく)。
 第一は、異論はむろん国内や国外にあれ、フランスとドイツの歴史学の大家がいずれも「コミュニズム」(共産主義)という言葉を平気で用い、これにかかわる諸論点を正面から叙述したり議論したりしていることだ。
 このような知的雰囲気は、残念ながら日本にはほとんどないように見える。ましてや、「日本共産党」を俎上に載せての批判的な学問的研究は、皆無なのではないか。
 実質的に日本共産党の現在の見地を批判しているような場合であっても、「一部には」とか「という説」とか、あるいは共産主義者一般の話として、直接には日本共産党を名指ししていないことも少なくないようだ。
 第二に、フュレのぶ厚い本の題について、幻想の「終わり(終焉)」と「過去」のいずれが適訳かという話題を前回に出したが(英語版のタイトルは、The Passing of an Illusion , The Idea of Communism in the Twentieth Century だった)、共産主義という幻想が日本において「終焉」しているとは、まったく思っていない。
 つまり、もともとフュレの大著は叙述対象を「欧州」に限定しているのだが、フランスやドイツという欧州の学者・知識人にとって(おそらくは一般公衆にとっても)、ソ連の崩壊は同時に「冷戦の終わり」であり欧州人にとっての「コミュニズムの終焉」なのだろう、ということがよく分かる。
 彼らにとっては、中国(・北朝鮮)におけるコミュニズム(共産主義)などは知的関心の対象ではなく、日本にまだあることを知っているのかどうかすら分からない、日本のコミュニズム政党(日本共産党)の存在とその主張(あるいはなぜ今だに存続しているのか)もまた知的興味の対象ではないように見える。
 欧米の文献だけを読んで、日本のことを論じてはならない。
 日本共産党も含めて、日本のことは日本人こそが議論し、研究しなければならない。
 二 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)p.131は、「民主主義=反・反共主義=反ファシズム」という「現代リベラルの公式」は、ソ連崩壊以降に「むしろ純化された」、と書く。
 日本人のほとんどにとって、先の戦争で日本(・日本軍国主義)は<悪い>ことをした、少なくとも<過ち>をした。ほとんどの日本人の意識にとってこの出発点はきわめて強固だと見られ、これが日本に対する勝利者の中にソ連も加わっていた、という紛れもない歴史的事実が結びついて、1990年までは大づかみに言って<反民主主義>の日本・ドイツ等と<民主主義>のアメリカ・ソ連等という対置を基本とする<歴史認識>が(少なくとも「左翼」・日本共産党には)形成されていた。
 この「日本軍国主義」は「ファシズム」に少なくとも近似のものと理解されたので、上の公式・図式は、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=ソ連擁護」ということにつながった。この「ソ連擁護」を「社会主義」に置換すると、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=社会主義」ということになり、「民主主義」者は「反・反共」で親「社会主義」者であるはずだ、あるいは「民主主義」と「社会主義」は対立物ではないはずだ、という倒錯が生まれた。
 朝日新聞岩波書店も、青木理斉藤貴男も、大江健三郎も、鳥越俊太郎も、日本の<左翼>は、<何となく左翼>も含めて、かつての、この大きくて単純な<図式>の意識構造のもとで、かかる観念世界の中で、生きている。
 かくして、ファシズムも日本軍国主義もすでに存在しないのだが、つねにそれらの<再来>を警戒し、<戦後が戦前にならないように>とか<再びきな臭くなってきた>などとじつに教条的な批判・攻撃をし始めるのが、日本共産党を中核とする日本の「左翼」だ。そして、安倍晋三は攻撃しやすい「ネオ・ファシスト」となる
 三 上の後半で述べたのた似た事情が、欧州にもあったことを、フュレの大著は述べている。邦訳書(楠瀬正浩訳)のp.244-5は、「コミュニズムとファシズム」と題する第6章のはじめに、つぎのように書く。
 ・歴史家は19世紀の眼鏡を通して20世紀を見たため、「民主主義対反民主主義」という図式を繰り返し、「ファシズム対反ファシズムという対立に固執した」。この傾向は第二次大戦後「殆ど神聖にして犯すべからざる思想上の観点」とさえ見なされるようになった。
 ・この「精神的束縛」はきわめて強く、フランスとイタリアでは「コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示す」ものと考えられて、「コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる」ことになり、かつまた「ファシズムの歴史を語る」ことも困難になった。
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには<ファシズム>が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ!」
 ・「ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかったヨーロッパの政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上。ここでの「ファシズム」をそのままか又は「日本軍国主義」または「軍国(好戦)主義者」に置き換えて、ほとんど同じことが、日本でも起きてきたし、起きていることが分かる。
 共産主義という「幻想」が生み出した別の「幻想」・「妄想」の図式からまずは脱出し、別の図式を打ち立てる必要がある。
 それはどのようなもので、どのようにして達成されるのか? 長い闘いが知的・意識のうえでも必要であり、この欄も、少しはこれに役立つことを願って記しつづける。

0774/ルソーとフランス革命と「全体主義」。

 1.ルソーは将来の「フランス革命」の具体的戦略・戦術を論じてはいない。マルクスも、将来の「ロシア革命」の具体的戦略・戦術を論じてはいない(それをしたのはレーニンだ)。
 だが、ルソーが「フランス革命」の理論的・理念的ないし<思想的>根拠を、マルクスが「ロシア革命」の理論的・理念的ないし<思想的>根拠を提供したからこそ、ルソーとマルクスは後世にまで名を知られ、影響を与えたのだろう。言うまでもなく、「フランス革命」と「ロシア革命」は現実に(とりあえずは)<成功した>革命だったからだ。「フランス革命」と「ロシア革命」が現実に生起していなければ、ルソーもマルクスも、現実に持ったような「思想」的影響力を持たなかったように思われる。
 2.ルソーのいう「社会契約」等が内容的・思想的にフランス革命に影響を与えただろうことは推測がつく。また、『人間不平等起原論』が人間の「本来的平等」論につながるだろうことも判る。だが、ルソーとフランス革命の関係、前者の後者への具体的影響関係は必ずしも(私には)よく分からないところがある。
 前回言及の小林善彦ら訳の本(中公クラシックス)のルソーの年譜に、1778年に死去してパリの「エルムノンヴィル邸」(城館)に面する池の中の「ポプラの島」の埋葬されたが、1794年10月11日に遺骸が「ポプラの島」から「パンテオン」に移されて葬られた、とある。中心部の南又は東南にある「パンテオン」はフランス又はパリの<偉人>たちの墓でもあるらしいので、ロベスピエールの失脚(斬首)のあとの、1794年10月段階の穏健「革命」政府によって積極的に評価された一人だったことは確かだ。
 詳細な人物伝ではないが、中里良二・ルソー(人と思想)(清水書院、1969)という本があり、次のような文章を載せる。
 ・「ルソーの『社会契約論』は、その存命中にはあまり広くは読まれなかったが、かれの死後、革命家たちの福音書になり、デモクラシーの精神を発達させるのに役立った。そして、一七九三年には、ロベスピエールとサン=ジュストは、『社会契約論』を典拠として国民公会憲法をつくったという」(p.24)。この「国民公会憲法」は1793年制定だとすると、これは<プープル(人民)主権>を謳った、しかし施行されなかった、辻村みよ子お気に入りのフランス1793年憲法のことだ。
 ・「ルソーがフランス革命において、ただ一人の先駆者」ではないが、「その一人であるということはできよう」。「一七九一年一二月二九日、デュマールは国民議会でルソーの像を建てることを提案する演説の中で、『諸君はジャン=ジャック=ルソーの中に、この大革命の先駆者をみるだろう』といっている」。
 ・「マラは一七八八年に公共の広場で『社会契約論』を読んでそれを注解し、それを熱心に読んだ聴衆が拍手喝采したという」。
 ・「一七九一年には、モンモランシーに建てられたルソー像には『われわれの憲法の基礎をつくった』と刻まれている」(以上、p.25)。
 このあと、中里良二はこうまとめる。
 「このような例だけによってみても、ルソーのフランス革命への影響がいかに大きかったかがうかがい知られる…」。
 ロベスピエールを<ルソーの子>又はこれと類似に表現する文献を読んだような気がする(中川八洋の本だったかもしれないが、確認の手間を省く)。
 ともあれ、ルソーのとくに『社会契約論』は(他に所謂<啓蒙思想>等もあるが)「フランス革命」の現実の生起に<思想的>影響を与えたことは間違いないようだ。
 なお、松浦義弘「ロベスピエール現象とは何か」世界歴史17・環大西洋革命(岩波講座、1997)p.200によると、ロベスピエールは「ルソーの霊への献辞」と題する文章の中で、「同胞たちの幸福」を求めたという自らの意識が「有徳の士にあたえられる報酬」だ、と書いたらしい。
 3.もっとも、以上は、松浦義弘(1952~)のものを除いて、フランス革命を<進歩的>な<良い>現象と捉えたうえで、ルソーにも当然に肯定的な評価を与えるものなので、その点は割り引いて読む必要がある。
 中里良二(1933~)の本の「はしがき」は次の文章から始まる。
 「ルソーは、今日にもっとも影響を及ぼした一八世紀の思想家の一人である」。
 その「影響」が人類にとって「よい」ものだったか否かはまだ結論を出してはいけないのではなかろうか。
 しかし、小林善彦(1927~)はこうも書いている。
 『社会契約論』は理解困難だった歴史をもつ。「二〇世紀の後半になると、ルソーこそは全体主義の源流だと見なす研究者さえ出てきている。時代背景も著者の生涯も無視して、たんにテクストだけを切り離して読むならば、そう読めないこともないとはいえるが、それならばルソーが二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした影響をどう説明するのだろうか。やはり素直に読めば、主権者たる市民による民主主義の主張の書として読むのが正しいのではないかと思う」(中公クラシックス・ルソーp.18)。
 ここでは、①「たんにテクストだけを切り離して読むならば」、「ルソーこそは全体主義の源流だ」と「読めないこともないとはいえる」、と認めていることが興味深い。そして、フランス革命時の革命家たちは「テクストだけを切り離して」読んでいたのではないか、と想像できなくもないので、彼らは実質的には<全体主義>者になったと言うことも不可能ではない、ということになりそうなことも興味深い。
 ②疑いなく、「主権者たる市民による民主主義」を、肯定的に理解している。全世界に、少なくとも日本とっても<普遍的に正しい>思想だと理解している。かかる、小林善彦が当然視しているドグマこそ疑ってかかる必要があるのではないか、と特段の理由づけを示すことなく、言えるだろう。佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)という本もあった。
 もっとも、日本の中学や高校の社会系教科書では、圧倒的に、ルソーは小林善彦らの(従来の)通説に従って評価され、叙述されてはいるのだが。
 ③「ルソーが二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした影響をどう説明するのだろうか」との指摘は<全体主義の源流>論に対する、何の反論にもならない。<二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした「悪い」影響>の可能性を否定できない。ルソー(・フランス革命)はマルクスに影響を与え、従って「ロシア革命」にも影響を与えた。共産主義(コミュニズム)による一億人以上の殺戮に、ルソーは全く無関係なのかどうか。

0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。

 週刊金曜日6/19号、p.47。
 長いタイトルの、高嶋伸欣「看過できないTV番組介入の議員連盟発足/厳しさが足りない身分を保障された者への監視姿勢」。
 高嶋伸欣は琉球大学名誉教授との肩書きで、いつぞやの日曜午後のTV番組「…言って委員会」で<左翼教条>発言をしていた。
 上の文章も面白く読ませる。嗤ってしまうのだが。
 NHK4/05の台湾統治に関する「NHKスペシャル」を契機に「公共放送のあり方に関する議員連盟」が発足したことにつき、「明らかに政治家による番組内容への介入」、「組織的にやろうというのは悪質」と批判。
 また、産経・朝日がこの議連発足をベタ記事でしか報道しなかったことにつき、「本来ならば社説で厳しく批判して当然な程の言論界の大問題」だと批判。
 さらに、読売がNHKは「政治家の介入を招くスキを自ら」作った等の識者コメントをのせたことを「NHK批判」だとし、「スキがあろうとなかろうと、政治家の介入は不当とするのが、メディアの立場だろう」と批判。
 高嶋によると、メディアは「憲法感覚から迫る姿勢を失って久し」い。そして、「違憲違法の議員連盟を客観視の名目で黙認するのか」と最後を締め括る。
 さて、第一に、古屋圭司・安倍晋三らの「公共放送のあり方に関する議員連盟」の発足のどこに<違憲・違法>性があるのか。「憲法感覚」を語るわりには、高嶋は何も解っていないのだろう。具体的にどの憲法条項違反かを高嶋は語らない。
 放送法というNHKの設立根拠法でもある法律が適正に執行されているかを監視することは、むしろ国会議員の義務・責務だ。
 第二に、高嶋の頭の中には、NHKの<表現の自由>対自民党国会議員(政治家)・<権力>の介入という構図が描かれているのかもしれない。この構図に立たないで後者を「社説」で「厳しく批判」しないのは怪しからんと怒っているわけだ。
 上の構図しか描けないことこそ「左翼教条」の高嶋らしい。<表現の自由>はNHKのみならず、国会議員・政治家にもある。特定の番組についてであれ、国会議員・政治家が批判的にコメントすれば<不当な政治家による介入>と捉えられるのだとすると、国会議員・政治家はマスメディアについて何も発言できなくなる。
 第三にそもそも、高嶋はNHKの番組の内容とそれ問題視する側の見解についてほとんど何も語っていないし(「日本の台湾支配を悪く描きすぎているとのバッシング」というだけ)、かつそれらに関する自らの見解は何も語っていない
 問題は、<表現の自由と「権力」>ではない。NHKが行使した「表現の自由」の結果・具体的内容の当否なのだ。それについて、種々の議論があることこそが、「表現の自由」の保障のもとでは当然のことなのだ。NHKが放送法等による規制を受ける、一般の民間放送会社とも異なる「公共放送」だとすれば、一方の「表現の自由」を国会議員が行使するのはますます当然のことだ。
 高嶋伸欣においては、おそらく明瞭なダブル・スタンダード=「ご都合主義」があるのだろう。
 すなわち、かりにNHKが高嶋の気にくわない<保守・反動的>番組を作り、それを例えば日本共産党(社民党でもよい)が問題視する質問を国会(・委員会)で行ったとする場合、高嶋は上の文章の如く、<政治家による不当な介入>と批判するだろうか。
 国民の代表者・国会議員は国民主権のもと、NHK(の「保守反動」性)を厳しく監視すべきだ、とでも主張するのではないか
 高嶋伸欣にとっては、自分に都合のよい(自分の思想・歴史認識・考え方と同じか近い)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>として「憲法」上守られなければならず、自分に都合の悪い(自分の思想・歴史認識・考え方と異なるか対立する)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>の保障に値せず、封殺されるべきものなのだ
 そういう本音を隠したまま、あるいはそういう矛盾が自らのうちにあるのを(「左翼教条」のゆえに)自覚すらしないままで、上のような文章を高嶋は書いたのだろう。
 隔週刊・サピオ7/08号(小学館)で小林よしのりは、月刊・世界6月号(岩波)で古木杜恵(男性)が結局は「小林よしのりは差別者だ!」「こんな奴に発言させるな!」とだけ主張していることを捉えて、「全体主義」と称している。
 この回のタイトルは「『世界』に暗躍する全体主義者」で(p.55)で、「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう!」、「左翼の本質・本能をなめてはいけない! 彼らは言論の自由が大っ嫌いなのだ!」とも書いている(p.62)。

 週刊金曜日6/19号を読んだのが先だったが、高嶋伸欣の文章・主張に私は「(左翼)全体主義」を感じた。
 <表現の自由>どおしの闘い=議論・討論をしようとする姿勢を全く示さず(=NHKの番組の内容的評価には何も触れず)、一方の側(国会議員)の<言論の自由>(「政治活動の自由」でもあるかもしれない)を封殺しようとし、そうしようとしない新聞を批判しているからだ。
 さらに言えば、まだ<言論の自由>(「政治活動の自由」)の行使には至っていない段階かもしれない。「議員連盟」が設立されただけ、なのかもしれない。それでも、その「議員連盟」の言論・諸活動を、高嶋伸欣は事前に封殺しようとしているのだ。
 これは考え方の出発点において、「全体主義」だ。<言論>・<思想・信条>の中身いかんによって保護したり抑圧したりするのは、「全体主義」だ。
 高嶋伸欣よ。よく自覚するがよい。小林よしのりが対象としているのは別の人物だが、あなたも「全体主義」者だ。「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう」のだろう。また、ここ
にも、マルクス主義の痛ましい犠牲者がいるのかもしれない。
 なお、週刊新潮7/02号(新潮社)p.163は、水島総らが上に言及のNHK番組を理由に民事の「大訴訟」を検討中と伝える。この問題関係の訴訟の法的な勝算・コストパフォーマンスには疑問全くなしとしないが、同じ週刊誌でも週刊金曜日とは大きな違いがある。

0737/自由社・日本人の歴史教科書(2009)を一瞥-「市民革命」・「全体主義」。

 藤岡信勝編集代表・日本人の歴史教科書(自由社、2009.05)に収録されている最新版<新しい歴史教科書>(中学校用)の近現代部分を概読して、とりあえず印象に残ったことが二つあった。
 一つは、「市民革命」に関する叙述が、従来のもの、つまり私が学習した頃と何ら異ならないようであることだ。
 上の教科書では、17世紀後半から約100年間に欧州政治に新しい動きが起こったとし、イギリス、アメリカ、フランスについて述べたあとこう書く。「これら国々の政治の動きは、王や貴族の政治独占を認めず、人々が平等な市民(国民)として活動する社会をめざし、近代国家を生み出したので、市民革命とよばれている」(p.130、太字はママ。執筆者不明)。
 ここには「フランス革命」は「革命」ではなく支配層の中での権力の移動だった等々の<修正主義>の影響はない。のちのロシア革命(暴力革命)と共産党独裁につながるような「フランス革命」の一時期の<怖さ>、「フランス革命」の<影>の部分への言及又は示唆もない(のちのロシア革命についてはある)。
 アメリカの独立と合邦との間の理念の違いへの言及もなく、アメリカ「革命」とフランス「革命」が異なる性質のものだったとの言及・示唆もない。
 「市民革命」の「市民」の意味の詳しい説明はない。また、上の三国にのみ「市民革命」は起こったのか(そうだとすれば何故か)、他の国々も「市民革命」はあったのか=普遍的なのか(そうだとすれば、例えばドイツ・イタリア・日本はいつが「市民革命」だったのか)、といった疑問に答えてくれるところはなさそうだ。
 中学生用の簡潔な叙述なので、やむをえない、と言えるのだろうか。少なくとも、イギリス、アメリカ、フランスを例として「市民革命」を語るのは、何ら「新しい」ものではなく、かつ従来のマルクス主義的歴史学による理解・叙述と何ら矛盾していない。
 もう一つは、欧州で生まれた二つの政治思想が1920~30年代に台頭して世界に広まったとし、その二つとして①「共産主義」と②「ファシズム」を挙げて、「どちらも全体主義の一種」だと明記していることだ。その部分の項の見出しは「二つの全体主義」で、左欄には「20世紀の歴史を動かした共産主義とファシズムにはどのような特徴と共通点があったのだろうか」という文章もある(p.192)。
 このように①「共産主義」と②「ファシズム」が同種のものとして明記されていることに、よい意味で驚いた。かかる理解は、必ずしも日本人の「通念」になっているとは思えないからだ。
 かつて民社党は左翼全体主義(=共産主義)・右翼全体主義(=ファシズム)という言い方をしていたと思われる。だが、日本の戦後「思想」界・「歴史学」界等々で、かかる理解は少数派ではなかったかと思われる。
 外国では、ハイエクやハンナ・アレントなど、「共産主義」と「ファシズム(とくにナチズム)」を同列のものと扱う傾向が日本におけるよりも強かっただろう。
 日本では、例えば丸山真男は(あるいは「戦後民主主義」者のほとんど全てが)「民主主義」と「ファシズム(・日本軍国主義)」を対置させたが、その際、「民主主義」の中に、「人民民主主義」という言葉が今でも残るように、「民主主義」の徹底した形態又は発展形態としての「社会主義(・共産主義)」を含めていたように解される。
 そのような日本の戦後<進歩的文化人>にとって、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」が「どちらも全体主義の一種」などという理解は耐えられるものではなく、「全体主義」という語を使うとしても、「ファシズム(・日本軍国主義)」のみを意味させたものと思われる。
 そして、彼らにとっては、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」は両極にあって対立しているものであった。後者の<復活の阻止>こそが最大目標だった(そして「民主主義」の擁護・徹底による日本の「社会主義(・共産主義)」化こそが<隠された>目標だった)のだ。
 丸山真男に対して、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」のどちらを選ぶかという<究極の>選択を要求すれば、丸山真男は間違いなく後者ではなく前者を選んだと思われる。丸山には、「社会主義(・共産主義)」も「ファシズム(・日本軍国主義)」も<同じ全体主義>などという考えは、露も浮かばなかったのではないか。
 「民主主義」対「ファシズム(・日本軍国主義)」というあの戦争の把握の仕方はアメリカ・GHQのものであり、丸山真男および戦後<進歩的文化人>は占領期当初のアメリカ・GHQの「歴史認識」あるいは<パラダイム>に少なくとも客観的には<迎合>していたと考えられるが、この点は別の回でもあらためて触れる。
 ともあれ、「二つの全体主義」とかつて学習した記憶はなく、「新し」さを感じさせた。これで教科書検定を合格するのだから、決して悪い方向にばかり動いてはいない、という感もする。
 ところで、上掲書には教科書部分のほか、寛仁親王殿下のほかに、櫻井よしこ・加瀬英明・高山正之・黄文雄・西尾幹二・中西輝政・石平等々の15名の2頁ずつの文章を収載している。
 <新しい教科書をつくる会>分裂騒ぎに関する知識も大きな関心もないが、「自由社」版の他に産経新聞社グループの「扶桑社」の子会社「育鵬社」版の、殆んどか全くか同じの教科書も刊行されているらしい。
 上の15名の名前を見ていると、八木秀次、渡部昇一、岡崎久彦あたりの名前がないことに気づく。西尾幹二と八木秀次の間に確執があるのは知っているので、どうやら八木秀次らが「育鵬社」グループらしい(屋山太郎は?)。
 だが、15名の名前の連なりはなかなか重厚だ。いわゆる<保守派>というのがあるとすれば、八木秀次らのグループはその中の少数派なのではないか。そうだとすると、八木秀次と渡部昇一の二人への信頼度は私には相対的には上の15名の平均よりずっと低いので、悪い印象ではない。些末なことながら。

0723/カール・ポランニー「ファシズムの本質」等、佐伯啓思。

 〇 週刊エコノミスト5/5・12合併号(毎日新聞社)で、佐伯啓思がインタビューに答えて、同・大転換-脱成長社会へ(NTT出版)の要旨のようなことを述べている。最近に言及した読売新聞の記事より詳しい。
 全く余計だが、同誌同号の巻頭の斉藤貴男のコラムは東京都の五輪誘致活動につき石原都政が「切り捨てた福祉や教育、小児医療等」の予算を財源とする「許されざるカネ儲けの典型」と批判。さらに、石原慎太郎は「何かと言えば戦争だ戦争だと喚き立て、女性や在日外国人や障害者や、社会的弱者に罵詈雑言を浴びせては居直った」等とそれこそ<罵詈雑言>を浴びせている。九条2項護持派・「左翼」は石原慎太郎のやることはみんな憎いのだろう。毎日新聞は朝日新聞の亜流、第二朝日新聞なのかもしれないが、その発行する雑誌の巻頭には、もう少しはまともな神経の持ち主の、上品な文章を掲載してほしいものだ。
 〇 佐伯啓思・大転換(NTT出版)の書名が、カール・ポランニー(1886~1964)の『大転換』に倣っている又はヒントを得ていることは、佐伯も記している。
 その『大転換』ではなくカール・ポランニー・経済の文明史(ちくま学芸文庫、2003。初出単行本は1975)の訳者・平野健一郎「あとがき」によると、ポランニーは「社会主義者」だっともされるが大学卒業後にハンガリー急進党書記長を務めたほかは「非政治的」だった(p.416)。但し、ソ連のフシチョフに「人間的社会主義」を見い出して「平和共存」のための理論誌の創刊を複数の者とともに企図した(没後刊行)とされる(p.418)。『大転換』の刊行は在米中の1944年。
 上掲書の解説者・佐藤光「解説/ポランニー思想の今日的意義」によると、ポランニーは「社会主義者であった」ともされるが(p.432)、彼へのマルクスの影響は「元来限定的なもので」、『大転換』における資本主義批判は「マルクス主義的」というよりも「ユダヤ=キリスト教的」なものだった(p.434)。また、晩年の著作には、「人間的自由の全面的な実現を過激に求めて失敗したロシアのボルシェビズムをはじめとする思想や運動への、そして、それを支持したかつての自分自身への、苦い反省の思いが込められている」、という(p.440)。そして、上掲書所収の一論文は、「キリスト教にまで行き着く」、「西欧世界に伝統的な個人主義
」を基調として、ファシズムはそれを「踏みにじり」、「社会主義こそがその理想を…実現する」と強調するが、晩年にはそのような「個人主義的理想の事実上の放棄」を説くはずだった、しかし、「愚かさ」を自他に語りつつ「近代的個人主義の理想」は「理想」であり続けたのではないか、とされる(p.440-1)。
 単純ではないポランニーの「思想」が、ある程度は、何となく、わかるような気もする。
 〇 上の上掲書所収の一論文とは「ファシズムの本質」(1935)で、少なくともその一部には、興味深い叙述がある。以下は、翻訳を通じてだが、ポランニーの一部の文章のかなり思い切った(従って厳密さを欠く)要旨又は抜粋。
 ファシズムの「哲学大系」をウィーンのオトマール・シュパンはある程度は作りだしており、その体系の基礎には「反個人主義の観念」がある。「普遍主義」を採るシュパンによると、ボルシェヴィズム(共産主義)は「個人主義」の理念を政治から経済領域へと拡張したもので、マルクスは「完全に個人主義者」・「無政府主義的ユートピアニズムとさえいえるまでに、個人主義的」だ。「歴史的にみれば、民主主義と自由主義を経過して、個人主義はボルシェヴィズムへと到達する」(p.172-3)。
 エルンスト・クリークも、「社会主義」への諸力は「個人主義」的性格をもつとしつつ、一八世紀の個人主義と「社会主義に具現される」個人主義の二段階を語る。クリークによると、社会主義においては個人主義にかかる「重点の移動」が生じるだけだ。そして、「社会主義」は「民主主義」の中で用意されており、「個人主義にほかならない」(p.174-5)。
 ヒトラーも、「西欧民主主義はマルクス主義の先駆」
で、前者なくして後者はない、と言った。ローゼンベルクによっても、「民主主義運動もマルクス主義運動」も「個人の幸福」に立脚する(p.176)。
 ボルシェヴィズムは個人主義の封殺、「個性の終末」とするのがこれまでの社会主義(・共産主義)に対する批判の仕方だったが、ファシズムはかかる「単純な批判派」との連合を拒否し、「社会主義は個人主義を継ぐもの」、「個人主義の実質を保存しうる唯一の経済体制」だと主張して批判する(p.176)。
 「社会主義と資本主義」はいずれも「個人主義の共通の所産」だと非難して、ファシズムはこれら二つの「不倶戴天の敵の姿を装う」(p.179)。
 だが、「社会主義」が拠り所とする「個人主義」と、シュパンが実際に議論の対象とした「個人主義」は全く異なったものだ。そしてたまたま、彼のおかげで、「社会主義とキリスト教が共通にもつ個人主義の意味」が明晰になってくる(p.180)。
 シュパンが主観的には批判しようとするのは「社会主義の内容としての個人主義」で、これは「本質的にキリスト教的」だ。だが、彼が実際に批判しているのは「無神論的な個人主義」だ。「絶対者」との関係を前者は肯定し、後者は否定する。これらを混同すると「有効な」結論には達しない(p.181)。
 「キリスト教的個人主義」と「無神論的個人主義」はまったく反対だ。前者は「神」の存在のゆえに「個々の人格は無限の価値」をもつ、「人間みな同胞」という考え方で、「共同体」の外では「個人の人格」は現実化しない、とする。これ(キリスト教的個人主義)は<社会主義(・共産主義)>と親和的であるのに対して、ファシズムが闘っているのは「人間と社会に関するキリスト教の観念全体」で、「キリスト教とファシズムはまったく両立しない」(p.183-4)。
 以上の程度にしておく。
 ドイツ・ファシズム(ナチス)がまだ敗北していない(そしてソ連「社会主義」は現存した)時代の論文だけに、理解し難い面もある。
 だが、骨格だけを抜き出せば、①ファシズム(ファシスト)は、より一般的な批判の仕方とは違って、「社会主義」は「個人主義」の発展型だと批判する、②たしかに「社会主義」は「個人主義」と親和的だ。③しかし、その場合の「個人主義」は「キリスト教的個人主義」であって、その反対の、ファシズムに親和的な「無神論的個人主義」ではない、ということになろう。
 上記の解説等によるとポランニーは親社会主義的で、ここではファシズムによる批判から社会主義(「ボルシェヴィズム」)を守ろうとしているようだ。その際の決め手は「キリスト教的個人主義」であり、ファシズムはこれに敵対的だとみている。
 さてさて、種々の議論があったものだと、人間の知的営為の蓄積にあらためて感心する。
 そして、まだソ連「社会主義」の実態が明らかになっていない段階で、反資本主義意識のあったポランニーはその「理想」を「社会主義」に求めたかにも見える。だが実際の「社会主義」はキリスト教を含む「宗教」に対して苛酷な態度をとり、かつ実質的には「個人主義」あるいは「個人の尊重」の理念を無視するものだったのではないか。
 また、ファシズムの側が、「近代」への幻滅・批判を前提としてだが、「社会主義」を「近代」個人主義・民主主義を継承するものとして捉えた(そして批判した)という点も、マルクスやレーニンによるルソーやロベスピエールへの肯定的評価を併せ
観ると、一面では的確な見方をしていると考えられ(じつはさらに奥底ではルソー・ロベスピエールの「全体主義」性を継承し発展させたのが「社会主義」だと捉えていたとも理解できる)、この点も興味深いところがある。ポランニー自身も、この1935年の論文では、「社会主義」は近代の「(キリスト教的)個人主義」を継承するものと見ていたのだ。
 「キリスト教」が理解できていないと、欧米の、こうした(社会・政治・経済の)文献は理解し難い面があることもあらためて感じる。

0624/<左翼ファシズム(左翼全体主義)>の支配と中西輝政に感じられる諦念・覚悟。

 一 この1カ月の間に浮かんできた言葉は、<左翼ファシズム>(又は<左翼全体主義>)だった。
 おそらく前航空自衛隊幕僚長・田母神俊雄論文をきっかけとする「事件」がきっかけだったのだろう。
 <戦後民主主義>という体制的・支配的「空気」は<左翼ファシズム(全体主義)>と化して、本当の「個人」を否定し本当の「自由」を剥奪し、日本の歴史・文化とともに日本「国家」を解体しようとしているようだ。
 憂う。懸念する。危惧する。
 二 月刊WiLL1月号(2008.11末発売、ワック)の中西輝政「田母神論文の歴史的意義」(p.60~p.89、計30頁!)等々、関係新聞記事も含めていちおうはきちんと読んではいる。
 具体的・個別的なことは今回は(も)書かない。
 中西輝政の上の論文で印象深い一つは、次のことだ。
 中西によると、英国のチャーチルは日本の敗戦間近に<日本は百年立てなくなる>、<国がボロボロになるような敗戦をしたら、その国では百年間、人の心は戻らない>という旨を言ったらしい。国民は敗戦をもたらした自分の国家を「呪い、厭い続け」、そのような国民を(「自分を呪い続ける」国民を)抱える国家は「いずれ立ちゆかなくなる」、と中西は続けている。
 中西輝政には(も?)一種の諦念と覚悟があるようだ。
 敗戦後まだ60年余しか経過しておらず、「百年」経過するにはあと37年が必要だ。それまで、日本は立ち直れないのではないか。いったん落ちるところまで落ちてはじめて復活できるのではないか。
 中西も私も37年後に(おそらく間違いなく)生きてはいない。中西は書く。
 「『苦難の百年』の中で、立ち上がろうと『戦い続ける系譜』の中に自分がいれば、それで十分なのではないか」。
 「生きている間に生まれ変わった日本を見たいという気持ち」を個人的にはもつが、「事はそう簡単ではない」。我々は「大きな流れの中」の「ただ一点に立っているだけ」だが、「それでよい」。「戦い続けること、それ自体が誇りであるからだ」(以上、p.89)。
 一年ほど前に中西輝政は総選挙→日本共産党が全区立候補しないことにもよる民主党勝利・民主党中心政権誕生を予想しつつ<政界再編>に望みをかけていたように見えたが、現在はどう考えているのだろうか。
 目下の政治情勢では、自主的な憲法を日本人が持つことができる具体的な展望は出てこない。
 むろん自民党にも責任があることだが、ヒドい「政治」状況だ。そして、安倍晋三内閣退陣の大きな遠因になった2007参院選の前に見られたように、朝日新聞が「右派」と称した者たち(政治家・グループ等々)に対する<執拗な>、存在意義を賭しての攻撃・非難は今後も継続するだろうし、その準備もしているだろう。
 日本は<侵略>されなくとも、すでに親中派・親北派等の朝日新聞・岩波書店等のマスコミ・出版社や政治家・評論家等々によってとっくに<間接侵略>され、崩壊しつつあるのではないか。
 憂い、危惧する。明るい気分になれない。
 三 たまたま気づいたのだが、撃論ムック・「慰安婦・南京」の真実(オークラ出版、2007.07)の巻頭で西村幸祐は、「反日ファシズム」という語を用いている。
 「ファシズム」・「軍国主義」の再来・復活を警戒してきた者たち(この性向のあらゆる政党・組織・個人を含む)は、自分たちこそが特定の「空気」に洗脳され染まっていることに気づかず、その「空気」から見て異端の人々を執拗に排除し抹殺しようとするファシストになっているように思える。

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  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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