秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

櫻井よしこ

2082/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①。

 櫻井よしこは2017年初頭にこう書いていた。週刊新潮2017年2月9日号。つぎの二文は、連続したものだ。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた
 その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」 本欄№1620-2017/07/03も、参照。
 櫻井よしこは、今年・2019年初頭に、実際の執筆は昨年末だろうが、こう書いた。 週刊新潮2019年1月3=10日号。
 「日本の国柄の核は皇室である。皇室の伝統は神話の時代に遡り、それは神道と重なる
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた」。
 光格天皇についても神道についてもロクに勉強せず上のようなことを書いているのだから、真剣にとり上げるに値しないことははっきりしている。
 しかし、著名な?日本の週刊誌の一つに活字となって述べられているので、少しコメントし、さらにいくつかのことを書き記そう。
 上の二つの論考?から感じ取れるのは、あるいは上の二つを単純に結びつけると読み取れるのは、こういうことだろう。
 「日本の国柄の核」は「その伝統」が「神道と重なる」「皇室」であり、「光格天皇」は「皇室の権威を蘇らせ、高めた」。
 こう要約するのは、決して誤りではないだろう。実際に櫻井よしこは、こう「認識」している可能性が高い。
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 光格天皇と神道または仏教との関係について、素人でも簡単に分かることをまずいくつか記す。
 なお、光格天皇の在位は1779年~1817年、没は1840年。つまり、仁孝天皇(追号)に「譲位」をした。それから200年ほど後の現上皇による「譲位」まで、生前退位(譲位)の最後の例だった。
  既述のように、光格天皇の陵墓はいまは宮内庁管理地だがかつては明確に泉涌寺の境内にあり、現在でも泉涌寺の本堂(仏殿)近くを通らないと参拝できない、東山後月輪陵の中にある。先代の後桃園天皇(まで)の陵墓は東山月輪陵の中にあっていちおうは別だが接している。光格天皇(・上皇)の薨去後に、狭くなっていたので、新しく区画を造成?したのだろう。
 神道式の墓地はあるようだが、どのようなものかよく知らない。しかし、光格天皇の陵墓が「仏教式」であることははっきりしている。のちに改めて触れるが<九重仏塔>が用いられている。
  櫻井よしこ(ら日本会議派諸氏)は天皇はまるでずっと神道式の葬礼を受けてきたと勘違いをしているのかもしれない。少なくとも、日本書記・古事記の編纂の時代から1300年ほどはそうだ、と思い間違いをしているのかもしれない。
 天武天皇皇后だった持統天皇が天皇で最初に「火葬」されたことはよく知られている。
 光格天皇も、その陵墓の規模からしても、「火葬」されたことは明確だ。
 これらは、持統天皇以降ずっと連続していたとは書かないが、「仏教」の影響だった、または「仏教」式そのものだった、と考えられる。
  ついでに書いておけば、古事記が成立し日本書記も完成した後の聖武天皇・同妃光明子(光明皇后)が<篤い>仏教徒だったこともよく知られている。
 東大寺正倉院には聖武天皇・皇室の所持品だったものが国宝も含めて多数ある。正倉院は東大寺内にあるのであって、神社である春日大社ではない。
 同じ時代に、いわば国営・国立の仏教施設である国分寺や国分尼寺の設置・建設も始まった。奈良市内に現在もある法華寺は門跡寺院の一つだが、光明皇后による開設で国分尼寺のいわば総本山とされ、代々女性僧侶が住職であるらしい。
 この時代、元明天皇時代に日本書記も編纂・提出されていたが、<神道>は何だったのか?
 こんな<教科書>的なことを櫻井よしこに教えても無駄だろうが、櫻井のために書いているのではないので、続けよう。
  京都市内の京都御苑すぐ東(寺町通東側)、梨木神社(寺町通西側、祭神は三条実美)の真東辺りに、廬山寺〔ろざんじ〕という寺院がある。
 この寺による小冊子によると、この寺院の場所に平安時代にあった邸宅で紫式部が「一生の大部分」を過ごし、「結婚生活」を送ったとされる。当然に<源氏物語>の執筆地ということになる。但し、石山寺(大津市)で一時期にせよ<源氏物語>を執筆したとされていて、石山寺本堂には「源氏物語の間」だったか「紫式部の間」だったかがある。
 上は余計な話題だ。
 光格天皇に戻すと、光格天皇と廬山寺は関係が深い。
 同寺仏殿(本堂)内の掲示等々によると、光格天皇の「愛用の品々」が現在でも廬山寺に残されており、同天皇とゆかりがあるという「茶室」もある。また、上皇となってのちの仙洞御所(上皇用の住居)の建物の少なくとも一部が廬山寺に「下賜」された。
 どこかの神社ではない。蘆山寺は、れっきとした仏教寺院だ。
 廬山寺による小冊子によると、明治維新まで京都に「宮中の仏事を司る」寺院が四つあって、廬山寺はその一つだった(ほかは二尊院等だとされる)。
 明治維新後の1873年=明治5年に(小冊子によるとおそらく)自立性が剥奪されて比叡山延暦寺の一部となり、1948年に再び独立した(天台圓浄宗)。
 光格天皇が「皇室の権威を蘇らせ、高めた」のは確かなようなのだが、しかし、櫻井よしこは、上のような仏教との関係の深さを全く知らないのだろう。<神仏習合>の時代が長くつづいたのだとすると、自然なことだと感じられもするが、櫻井ら日本会議派諸氏は「知りたくない」、「知っても書きたくない」ことかもしれない。
 ***
 さらに続ける。

1847/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ③。

 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのだろうか。
 櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。
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 以上は、この欄の2017/04/05付、<1485/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ②>の最後の部分。
 上にいう根拠文献を見つけたので、以下に記して、関連したことを書く。
  櫻井よしこ編・あなたの個人情報が危ない!(小学館文庫、2002.11)。
 これは、住民基本台帳法の改正(・個人情報保護法の制定等)による住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の導入に反対するための「書き下ろし」の文庫本だ。
 櫻井よしこが編者として一人だけ名前を出し、櫻井よしこが「ジャーナリスト」という肩書きで「はじめに」を書いている。
 この「住基ネット」反対運動の書物に櫻井以外に21名が執筆している。そして、近年のいわゆる<保守系月刊三誌>に(しばしば)登場するするような論者は一人もいない。
 むしろ、私から見ると、「左翼」または「左派系リベラル」と感じる者の方が多い。
 例えば、澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信
 名前を現時点でも知らない人が8名いるので、21-8=13名のうちのこれら7名は、れっきとした「左翼」または「左派系リベラル」だと思われる。
 残る6名は、田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一、鈴木邦男、山田宏
 内容への細かな言及はしない。冒頭に記したように「住基ネット」導入に反対するもので、かつ実際にこのときは、上を含む関連法律の改正等はなされず、導入はされなかった、とだけ述べておく。
 気になるのは、櫻井よしこなる人物は、この頃いったい何をしていたかだ。
 現在も一貫しているようだが<自衛隊は違憲だ>から出発すべきだ、とも書いていた(憲法学者の大半と同じ?。だからこそ<九条2項存置自衛隊明記>論は「法理論的にはともかく」「現実的だ」という議論の仕方になる-2017年5月頃)。また2001年施行予定の情報公開法に対してもかなり技術的な点を指摘して批判をしていた。
 要するに、「澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信」といった人々のいわば代表者となり、「田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一」等の人々と共通する目的で仕事をすることを全く疎んじていなかった人物だ。
 2000年前後から2005-2007年頃の間に、櫻井よしこは<転身>した。それも、日本会議または日本会議関係者の「働きかけ」あるいは「引き抜き」によって、というのが秋月瑛二の拙い推測だ。
 なお、「左翼」・「左派系リベラル」から日本会議や櫻井よしこがいう意味での「保守」へと基本的立場を変えること自体を批判しているのではない。
 ①そのような<転身>を櫻井よしこ自身はいかほどに自覚・意識しているのか。
 ②そのような<転身>の理由・背景・原因をこの人自身はこれまでどのように説明しているのか。
 ③現在に櫻井よしこを「長」として又は「論壇の代表者」のごとく仰ぐ又は「かついで」いる人々は、櫻井よしこのこれまでの姿をいかほどに知っているのか。
 これらが気になり、危うい、と感じるだけだ。

1620/明治維新考①-天皇・神道と櫻井よしこ・井沢元彦。

 明治維新につき、考える。
 古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.85。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号
 しかし、井沢元彦のこんな文章もある。
 「ここに、江戸時代を通じて徐々に形成された朱子学(外国思想)プラス神道(国内思想)の合体が生んだ、『天皇教』というべきものの完成形がある」。
 井沢元彦・逆説の日本史20/幕末年代史編Ⅲ(小学館文庫、2017.04)p.350。
 =<単行本>同・同/<西郷隆盛と薩英戦争の謎>(小学館、2013)p.318。
 「ここに」というのは、真木和泉、平野国臣、そして久坂玄瑞に至る考え方で、天皇(この時期は孝明天皇)が実際に・現実に何を考えていようと、天皇の考え=「大御心」は絶対に正しく「絶対の正義」である<はずだ>という考え方だ。実際・現実ではなく、自分たちで作り出すことができ、その「大御心」に従うことこそが正義になる。
 井沢元彦は続ける。
 「長州閥によって作られた帝国陸軍」、「長州の遺伝子を受け継ぐ青年将校たち」の二・二六事件で、彼らは「昭和維新断行、尊皇討奸」を叫び「大御心に沿って君側の奸を排除した」と称した。/彼らは、「あるべき姿の『天皇』に天皇自身が従うべきだ」と考えた。
 明治維新、天皇、神道。櫻井よしこと井沢元彦と、どちらがより適切に理解しているだろうか。いや、どちらが、少なくともよく<思考>しているだろうか。
 こんな文章を書いていて、こんな文章を簡単に書いてしまって、ああ恥ずかしい、ああ気の毒だ、後世に残るというのに、ああ恥ずかしい、気の毒なことに、と感じることが、櫻井よしこの文章について頻繁にある。
 追記。櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一、八木秀次らは、譲位に関して「あるべき」天皇像を勝手に作り、今上天皇もそれに「従うべきだ」と考えた。特定の狂信にもとづく、「天皇教」だと言えるだろう。


1599/読売新聞6/22朝刊と櫻井よしこの<革命>容認論。

 読売新聞6月22日朝刊13面。「調査研究本部主任研究員・舟槻格致」による憲法改正論議に関する解説は、穏当だ。
 基礎知識に誤りはないと思うし、今後について特定の方向へと偏ってもいない。
 憲法現九条1・2項を残したままでの自衛隊明記は、あり得る。
 これはこの上記の読売記事で大石眞(京都大学名誉教授)が「あり得る選択肢」と語っている(らしい)ことと同旨で、憲法・法的に見て疑いはない。
 くり返せば、2015年成立の平和安全法制が合憲であるならば、自衛隊の存在を前提とするその法制の基礎的解釈部分を憲法上に明記しても、2015年時点で合憲だったのだから、憲法現九条1・2項と矛盾するはずはない。
 櫻井よしこらの愚見・無知、かつ多大の危険性は、のちに触れる。
 憲法九条に関する議論を少しでも熟知しているならば、当然に、上の大石眞のようなコメントになる。
 むろん、どういう内容の条文にするのかの問題は、大きく残る。
 また、九条3項、九条の二、のいずれにするか、という問題も残る。
 上の読売解説記事は、「法的に大きな差違は生じないとみられるが、政治的には後者の方が」現九条には一切触れなかった「と説明できる長所がある」と、ほとんど適切に記述している。
 安倍晋三発言の内容を正確には知らないままでこの欄ですでに数度言及したが、安倍晋三はこの点にまで言及したのではなかったようだ(たしかに、読売が伝えていたように、橋下徹は後者を支持していた)。
 上の選択にかかわる<メッセージ性>についても、すでにこの欄で記した。
 上記解説記事が正確なのは、いわゆる<芦田修正>、または九条二項冒頭の「前項の目的」うんぬんの追加に関して、つぎのようにしっかりと書いていることだ。
 「政府は、自衛隊が認められてきた根拠は『芦田修正論』ではないとの立場だ」。
 これが政府・実務解釈だ。
 この冒頭の文言を使い、<文民>条項の追加導入等を根拠にして、あるいは九条の立案・制定過程を調べて<自衛>目的の「軍その他戦力」は二項によって禁止されていないと解釈する<保守派>憲法学者もいるが、それは成り立ちうる解釈ではあるものの、政府・実務解釈ではない(私的解釈にすぎない)。
 産経新聞関係者、月刊正論関係者あるいは「特定保守」論者には無知による混乱があるかもしれないが、上の点はきちんと理解しておく必要がある。
 自衛隊は、そもそも、「軍その他戦力」ではないがゆえに、設立当初から、九条二項違反=憲法違反ではない、と政府・法制局実務によって解釈されてきたのだ。
 すでに月刊Hanada7月上の櫻井よしこ冒頭論考について呆れてコメントした。
 櫻井よしこは、週刊ダイヤモンド2017年5月27日号でも「アホ」を繰り返している。また、きわめて危険なこともじつは述べている。
 いわく、「『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』と定めた2項を維持したままで、いかにして軍隊としての自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問を、誰しもが抱くだろう」。
 この部分は、月刊Hanada7月号と同じ。文章・原稿の<使い回し>だと思われる。
 また安倍晋三についていわく、「少々の矛盾は大目的の前には呑み込むのが政治家であり、大目的を達成することが何よりも大事なのだという現実主義が際立つ」。
 「少々の矛盾」が現九条と安倍晋三発言内容との間にあったのでは、憲法上または法的には、絶対にいけない。安倍晋三も、法論理上の矛盾はないことを理解している。
 しかし、この櫻井よしこの文章は、「少々」は憲法上問題があっても、つまり違憲でも(「2項を維持したままでいかにして…自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問を誰しもが抱く」)、「大目的を達成する」ための「現実主義」を優先させようとするものだ。
 また最後に櫻井よしこいわく、「自衛隊を違憲の存在として放置し続けるのは決して国民の安全に資することではない。今、改正に取り組みたいものだ」。
 こうして読むと、既に記したことだが、櫻井よしこは今のままでは「自衛隊を違憲の存在として放置し続ける」ことになる、と考えている。これは、長谷部恭男らも採用していないところの、日本共産党および同党員憲法学者の憲法九条二項の解釈と全く同じだ。その根拠は、たぶん、<自衛隊って、軍隊でしょ>という中学生のような単純な理解だ。
 そのうえで、つまり現二項と自衛隊は矛盾している(自衛隊は二項違反)との前提のうえで、現二項と「少々の矛盾」があっても、「自衛隊の存在」を肯定するという「大目的」のために、「現実主義」を優先して、「改正に取り組みたい」、と櫻井は主張している。
 強固かつ執拗な、安倍晋三擁護の姿勢はさておく。
 このような主張がきわめて危険であるのは、<多少の憲法違反>よりも<現実主義>を優先させてよい、としていることだ。
 これは、安倍晋三の考えでもない。
 危険な、<憲法否定>、<立憲主義否定>の論理だ。
 憲法よりも国家、憲法よりも歴史、法よりも現実、これはすでに一つの<思想>であって、いちおうは日本国憲法のもとでの法的枠内で憲法改正運動を含む諸活動をしているはずの者たちが採るべきものではない。
 これは、法的非連続性を承認する、または前提とする<革命>を容認する思想だ
 <櫻井よしこによると憲法違反の存在である自衛隊の存在>を、憲法上の「少々の矛盾」を無視して、いわば超憲法的な<現実主義>に立って正当化しようとするもので、<極右または極左>または<極右かつ極左>の<革命>擁護論を胚胎させている。
 きわめて危険な発想だ。こんなことを主張する者がいるから、それこそ<反立憲主義>という主張が、<保守>派に対して投げかけられる。
 決して安倍晋三は、そんなことを主張してはいない。
 繰り返すが、自衛隊設置を前提とする限定的集団的自衛権行使は現憲法九条(一項・二項)に違反していない、とするのが、現在の国会議員が構成する国会の憲法解釈だ。
 自衛隊そのものが現憲法九条二項に違反すると現国会が憲法解釈しているはずはない。
 上のような<危険>思想にたどりつこうとするのも、ひとえに櫻井よしこの無知と無恥によるものと、(まだ好意的に)せめては理解しておきたいものだ。
 なお、以下、念のために追記する。
 現九条二項を削除して、新二項以下でまたは新九条の二以降で、自衛軍・国防軍・国軍の設置等を明記する憲法改正も、当然に「あり得る」。
 憲法改正の限界内の憲法改正は現憲法も許容しており、このような憲法改正が憲法に違反することにならないのは当然のことだ。このような意見が自民党内にあることも、各種報道は伝えている。 

1594/三谷博・明治維新を考える(2012)と櫻井よしこ。

 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
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 全部を読んだわけではないが、ふと印象に残る叙述を見つけることがある。
 仲正昌樹(1963~)のつぎの二つも、そうだ。なお、この人の書物はたいていは所持している。
 仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014.05)。
 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・B選書、2006.02)。
 三谷博(1950~)のつぎの本も、きわめて興味深い。この人の書物も、かなり所持している。
 三谷博・明治維新を考える(岩波現代文庫、2012.11/原書・有志舎、2006)。
 櫻井よしこのように、明治維新・明治天皇・五箇条の御誓文を単純素朴に「讃える」悲痛な人もいて、何とも嘆かわしい。櫻井よしこが旧幕府を<因循固陋>・<非開明>とイメージし、「機能停止」に陥っていた(週刊新潮2013年10月10日号)と理解するのも、何とも嘆かわしい。
 この人は<明治維新>についてきちんとその関連歴史を<勉強>してみようという気がたぶん全くない。だから、「無知」をさらす。あるいはそもそも、そうイメージするのが「保守」だと思い込んでいる。
 三谷・上掲書p.219-220は、日本共産党員だったとみられる遠山茂樹の明治維新に関する書物に論及したあとで、最後の方で、自分の論として、つぎのような旨を言う。
 ①明治維新における「復古」とは、現状の「全面否定」で、「保守」とは正反対の、「進歩」・「革命」の発想に近い
 ②「復古」の行き先が「神話的伝承の世界」だったことは、明治維新の「復古」・改革に「かなりの自由度」を与えた。明治政府が「文明開化」・「ヨーロッパ化」を「臆面もなく」追求できた条件の一つは、この「空虚さ」にあった
 別途の議論が必要だろうが、櫻井よしこや「日本会議」が追求しているらしい「日本の国柄」らしきもの、「天皇を戴く日本」というものには、じつは何の<価値>もない、と秋月瑛二は考えている。
 すなわち、<日本の天皇・皇室>は、いざとなれば、共産主義とも両立しうる。あるいは、逆の言い方をすると、日本の共産主義者たちは、いざ必要とあれば、<日本の天皇・皇室>の存在をも利用する。
 <天皇・愛国>の主張だけでは決して、反共産主義の主張にはならない。
 かくして、三谷博の上記に関連させると、明治維新の「復古」対象としての「神話的伝承の世界」が、何の<価値>もない「空虚」だった、ということもじつによく分かる。
 神話世界・天皇中心政治の中に、いかなる「価値」をも取り込むことができたわけだ。
 つい数年前まで尊皇と「攘夷」を唱えた者たちが、「臆面もなく」、開国・文明開化の政治路線を歩んだ。
 明治維新を主導したともされる薩長(土肥)勢力とは、いったい何だったのか。
 櫻井よしこが高く評価する光格天皇も、天皇・皇室と幕府に関する基本的考え方については、孫の孝明天皇と変わらなかったと思われる。
 孝明天皇は対幕府協調・「公武合体」路線、あるいは世俗政治・行政は原則的に幕府に任せるという「大政委任」の考え方で、幕府を潰そうとは考えていなかった。
 幕府内にも優秀な官僚たちはいた。井伊直弼もそうだっただろう。彼らこそが「開国派」(通商条約締結・施行)で、これに天皇・皇室側が注文をつけた最初は、岩倉具視を含む「一部の公卿たち」の働きかけによっていた。井伊直弼は、水戸藩士らの「テロル」に遭った。理由は<違勅>だったのだろう。
 「開国」的動きを掣肘し、それを「反幕府」の運動へと変形させようとしたのは、-旧幕府側にも善良な?ミスはあったが-長州藩や「一部過激公卿」だった。のちの著名人物、「元勲」たちがいっぱい出てくる(薩摩藩は最後の局面で幕府をつき離す。そしてここにも「元勲」たちがたくさん生まれる)。
 その結果として、<暴力>・大きな「内戦」を伴う政権体制の基本的な変化=「革命」的なものになってしまった。
 徳川時代の最初・家康に「復古」したのでは、江戸幕藩体制を否定できない。鎌倉時代戻っても武家政権になるし、平安時代も<藤原摂関政治>だった。となると、奈良・飛鳥の<律令制度>をさらに遡って、「純粋な」日本の往古にたち戻らなければならない。神武天皇時代の初心・初業への「復古」なのだ。
 かくして、体制否定の論理または「イデオロギー」が、<天皇>親政、<神武天皇創業という日本の古代に立ち返る>ことだった、と思われる。だがこれはおそらく、元々は一部の者のみが考えていたことで-長州にある程度の「信者」はいたが-、孝明天皇没後の1867年くらいから「公」になり、多くは<後づけ>で用いられたのではないかと想定している。旧時代とは異質という意味での「新しい」ものである必要があった。
 今から見ての当時の最終盤の現実的な争点は、幕府機構または「徳川家」を残すか否かだった。
 幕府機構は解体しても、旧幕臣や徳川氏も協力する新体制、というのも、想定しえただろう。
 それをすら、つまり「徳川氏」の政治関与すら絶対に許せない、と考えた者たち・集団がいた。彼らには、<天皇第一>(これは反幕府・幕府解体につながる)の「原理」は必要だったかもしれないが、攘夷も、開国も、「基本政策」問題は全て、おそらく関係がなかった。権力奪取の後で、種々の重要な政策問題に付け焼き刃的に対処せざるを得なかった。
 だから、より漸進的な変革はありえた、と考えられるが、現実は、より血が流れる、より多くの人が殺戮される「革命」的なものになった。当初の<理念宣告>を貫くために、神仏分離・廃仏毀釈等々の「無理」もしなければならなくなった。
 明治維新の「復古」とは「革命」に近い、という三谷博の理解も、十分に納得できる。
 現在の日本の「特定」の「保守」派らしき人々が、明治維新をかつての日本の素晴らしい事象のごとく描くのは、どこかおかしいのではないか。エドマンド・バーク的な「保守主義」の立場にたてば、むしろ批判的立場にいても不思議ではないのではないか。
 あるいは、彼らは<保守革命>という、劇的な変化を夢想しているのではないか、とも思われる。それは、日本共産党的「左翼」・共産主義者たちと、発想は変わらない。
 いずれにせよ、明治維新に関する「歴史認識」いかんもまた、鋭く問われている、と言えるだろう。明治維新に関する上の簡単な秋月の叙述は、粗雑な、思いつきの文章にすぎない。



1573/読売新聞6/4の奇妙と櫻井よしこの無知・悲惨-憲法九条。

 ○読売新聞6/4付日曜朝刊一面に、「自衛隊根拠・9条と別に/憲法改正・橋下氏が条項新設案」という見出しがある。
 第4面の橋下徹インタビュー(聞き手・十郎浩史)と関連記事も読んだが、報道の仕方が奇妙だ。
 とくに一面の見出しと、4面の隣接記事の上の「イメージ」および「『9条の2』追加」という文字は、十郎浩史だけではないし、また十郎浩史と関係はないのかもしれないが、事実・事態の本質を、まるで理解していない可能性が高い。
 ひとことでいえば、現行の自由民主党(自民党)憲法改正案もまた、「9条と別」の、「9条の2」を追加又は挿入する条項を用意している。
 読売新聞関係者(政治部)は、じつに恥ずかしいミスをしていると思われる。
 一度、自民党ウェブサイトで、同党の改憲案を見てもらいたい。
 おそらくは、要するに、この記事関係者は、「9条」と「9条の2」が全く別の条項であることを認識していない。
 また、5/3の安倍晋三自民党総裁の発言の基本趣旨も、きちんと理解していない。
 すなわち、読売新聞の見出しに即していうと、①「9条と別に/条項新設案」をすでにとっくに自民党憲法改正案は用意している。②「『9条の2』追加」することを、自民党憲法改正案はすでに用意している。
 くり返すが、読売新聞関係者(政治部)は、とっくに公表されている自民党の改憲案を見てもらいたい。
 もちろん、その改憲案と、安倍晋三談話の趣旨は、同じではない。安倍晋三の趣旨を支持する、というのが橋下徹見解の趣旨で、読売新聞の見出しつけは、厳密にいえば、完全に<誤報>だ。自民党既成案と今回の安倍案それぞれの内容と違いは、後記する。
 4面の隣接記事が「~の2」という条項を追加することの必要性について長々と改正民法の例を挙げて「教えて?」いるが、不十分だ。「国民生活に支障が出る」からということの意味を、おそらくは理解していない。
 現9条の1項・2項をそのまま残して「自衛隊」の合憲性を根拠づける条項を新設する場合(これは現自民党改憲案ではない)、考えられるのは、9条に3項を追加することと、「9条の2」などの新設の「条」を設けることだ。論理的につねに「9条の-」になるとは限らない。憲法(の総合的)解釈に委ねて、地方自治に関する条項の前に、または内閣に関する条項の最後に挿入することも不可能ではない。
 しかし、内容的関連性からして、かりに新「条」項を挿入するのが妥当だとすれば、現9条と10条の間に挿入するのがおそらく最も妥当だろう。
 なぜ新10条にして、現10条以降を一つずつずらして10→11、11→12、…、としないのか。改正民法の場合は「国民生活に支障が出る」からでよいのかもしれないが、憲法を含めて全ての法典・法律類についていうと(読売新聞記者は手元の六法で一度<地方自治法>という法律を見てみたまえ。<~条の2の2>もある(これは~条2項2号のことでは全くない))、例えばこれまで簡単に<憲法20条の問題>で政教分離の問題であると理解することができたのを、それができなくなることだ。
 また、憲法および法律について各条または各項ごとに多数または場合によっては少ない判決例が蓄積されていて電子データ化されているというのに、新10条の挿入によって20条1項が21条1項になってしまえば、電子情報蓄積者も利用者も新10条挿入の発効日前後によって数字を区別しなければならず、法務省も裁判所も訴訟関係当事者も(ひいては国民一般)も、また国会自体が、きわめて混乱するし、きわめて不便で、現実的ではないからだ。
 電子情報だとしたが、紙ベースであっても変わりはない。新条を増やすたびに1つずつずらしていたのでは、立法作業、審議作業、訴訟審理、弁護士や国民一般の情報検索・収集が大変なことになる。読売新聞に例えば憲法25条に関する訴訟が提起されたとか新判決が出たと見出しで報道されている場合、その条文=25条が<生存権>に関する内容のものではなくなっていれば、「憲法25条」と略記したことの意味はほとんどなくなる。
 4面の隣接記事の執筆者は、これを理解しているのか、疑わしい。
 さて、自民党改憲案と安倍晋三総裁発言案の違いは何か。
 法技術的な差違の問題で趣旨は同じ、というわけではない。
 決定的な差違は、現9条二項を削除するのか、しないのか、だ。
 現9条以外に「新条項を追加」するか否か、ではない。
 現自民党改憲案は、現9条二項を実質的に全面削除する、そのうえで自衛隊関連の若干の言葉に代え、そのうえで「9条の2」を追加・挿入して、「国防軍」の設置を明記する。おそらくは、現在の自衛隊を「国防軍」に発展吸収させること(もちろん自衛「戦力」の保持の合憲性が前提)を意図しているのだと思われる。
 安倍晋三の案の正確な内容(条文案)は定かではないが、安倍案では、現9条はその一項も二項も、そのまま存置される。そのうえで、「自衛隊」を明示的に合憲化する条項を置く。
 この案を貫くと、「9条の2」が追加・挿入されることになるのかもしれない。
 しかし、自民党改憲案ではその内容は、①現9条二項削除を前提としての、②「国防軍」設置である(設置以外のことにも多々触れる)のに対して、安倍案では、その内容は、①現9条二項存置を前提としての、②「自衛隊」の設置・合憲化だ。
 新条項の追加であることに、変わりはない。読売新聞は、この点を誤解しているのではないか。
 つぎに、かなり立法技術的には、現9条一項・二項を全面存置したうえでも、<9条三項>にするか、<9条の2>にするか、という問題がある。
 前者も追加・新条「項」の挿入・新設であることに変わりはない。
 安倍発言が現9条は両項ともにそのまま残すことを前提にしていることは明らかだが、<三項>追記なのか、<9条の2>追記なのかは私自身は安倍発言の正確な内容を確認していないので、定かではない。安倍の、「読売新聞で読んでもらいたい」という国会答弁にも、従っていない。
 橋下徹は、これを後者だと理解したうえで、賛成しているようだ。
 法的意味は上の二つで、変わりはない(くどいようだが、自民党改憲案と安倍晋三案の法的意味は異なる。ここで言っているのは、現9条一項・二項の存置のうえでの、<三項>追記と<9条の2>追記の間の違いだ)。
 但し、<9条の2>とする方が、<現在の9条には全く触らない>というメーセッージ性は、あるだろう。くどいが、<9条の2>と<9条>は、別の、異なる「条」だ。
 <三項>追記にしても<9条の2>追記にしても従来とは異なる憲法解釈の必要性が生じてくるのは、間違いない。いずれにせよ、憲法自体が「自衛隊」は「軍その他の戦力」(現二項)に該当しない、と(解釈するだけでなく)明記していることになるからだ。
 この明記によって、現9条二項が保有を禁止する「軍その他の戦力」に該当する等々を理由とする自衛隊違憲論、自衛隊憲法違反論は、憲法上の「自衛隊」とその実態に乖離がなければ、払拭できる=阻止できる。
 しかし、日本国家は自衛のためならば「軍その他の戦力」を有しうる、という見解が発生する余地を、憲法解釈上はなくしてしまう、又は長く否定してしまう危険性は、あるだろう。
 秋月瑛二は、安倍発言が報道された5/3の翌々日に、この欄ですでにこう書いた。
 「先日に安倍晋三・自民党総裁(首相)が、憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化を提唱したようだ。/
 現在の自民党改憲案では現九条二項を削除し、新たに『九条の二』」を設ける(これは『九条二項』の意味ではない)こととしているので、同じではない。
 総裁が党の案と違うことを明言するのも自民党らしいし、また現改憲案とはその程度の位置づけなのかとも思う。が、ともあれ、たった一人で思いついたわけではないだろうし、かつまた、法技術的に見て、上のような案も成立しうる。想定していなかった解釈問題が多少は、生じるだろうが。/
 法技術的な議論の検討を別とすれば、憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する。
 /憲法改正のためにも、橋下徹・維新の会を大切にすべきとの、秋月のこの欄でのだいぶ前での主張・予見は、適切だったことが証されそうな気もする。」
 橋下徹がどう反応するかなど、このときに予測などしていない(ただ、9条を含む改憲論者だと知っていただけだ)。
 また、上の時点で『憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化』と理解しているようなのは、『憲法九条三項の追加』の部分は正確ではないかもしれない。但し、<9条の2>新設(くどいが自衛隊設置のもので、自民党改憲案のこれではない)との間の法的意味の中味は、メッセージ性は別として異ならない。
 「憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する」と書いたのは、ほぼ1ヶ月のちの今日でも変わりはない。
 橋下徹が言うように(言ったとされるように)、「2項を削除して自衛隊を軍と認め、軍法会議も規定すべきとの指摘」があるのは「百も承知」だ。
 理想・理念と戦略ないし現実をどう調整し、どう優先させるのか?
 改憲派、<保守>派もまた、問われる。
 ○ どうやら、憲法九条をめぐる解釈論議をまるで知らないことを、あらためてポロリと示してしまったのが、櫻井よしこの以下の論考のようだ。
 櫻井よしこ「安倍総理は憲法の本丸に斬り込んだ」月刊Hanada7月号p.34以下。
 もともと2000年刊行の本で櫻井よしこは、自衛隊は「違憲」であることから出発すべきだ、と主張していた。その点で、<左翼>と同じだった。その根拠は、あらためて確認しないが、<自衛隊って「戦力」じゃないの?>という素朴かつ幼稚なものだった。自衛隊の制度化・合憲視のための苦労も闘いも、まるで知らないように見えた。
 上の最近のものでも、つぎのように書く。
 「注目すべきは二項である。『前項の目的のため』、つまり侵略戦争をしないためとはいえ、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。<一文略-秋月>』と定めた二項を維持したままで、如何にして軍隊としての、戦力としての自衛隊を憲法上正当化し得るのかという疑問は誰しもが抱くだろう。/現に、民進党をはじめ野党は早速、反発した。自民党内からも異論が出た。」p.37。
 櫻井よしこは、安倍発言自体を批判しない。この人は安倍晋三を(近年は)批判しないと固く誓っているとみえる人物で、今回のタイトルも、「安倍総理は憲法の本丸に斬り込んだ」になっている。また、「なんと老獪な男か」とも書く。
 しかし、ここでも透けて見えるのは、櫻井よしこの九条に関する憲法解釈論についての無知だ。そして「無知」であることに気づかないままでいる、という<悲痛さ>も再び示している。悲痛だ。悲しくも痛々しい。ここまでくると、<無恥>とも、追記・挿入しなければならない。あるいは、これで月刊雑誌に載せられると思っていることの、<異様さ>・<異常さ>を指摘しなければならないのかもしれない。
 櫻井よしこは、「矛盾のボールを投げた理由」を小見出しの一つにしている。
 また、つぎのようにも書く。「首相の攻め方の根底にあるのは徹底した現実主義だ。/正しいことを言うのは無論大事だが、現実に即して結果を出せと説く。」
 すぐには意味が分からない読者もいるだろう。だが、櫻井よしこが安倍内閣戦後70年談話への<保守>派の対応を引き合いに出して、自分のそれへの立場を卑劣な詭弁で取り繕っているところを読むと、意味は判然とする。
 すなわち、櫻井よしこにおいて、現九条二項があるかぎりは「自衛隊」を正しく「合憲化」することはできないのだ。
 したがって、櫻井よしこにおいては、安倍晋三発言は「正しい」のではなく、「矛盾」を含んでいる。そのうえで、「徹底した現実主義」(小見出しの一つ)として擁護しようとする。
 間違っている。悲惨だ。私、秋月瑛二の方が、<正しい>。
 上の秋月瑛二のコメントですでに記したように、安倍晋三の「上のような案も成立しうる」。現九条二項を存置したうえでの安倍の議論は、法的に、憲法立法論として、成り立ちうる。
 「正しい」のではないが「現実的」といつた対比をしては、いけない。断じて、いけない。
 どこに櫻井よしこの誤り=無知があるのか。
 これまでの政府解釈はそもそも基本的には、自衛隊は九条二項にいう「戦力」には該当しない、自衛権(これは明文がなくとも国家はもつ)の行使のための実力組織・実力行使機構は、ここでの「戦力」ではない、というものだった(「最低限度の」とか「近代戦を遂行できるだけの」とかの限定もあったことや論理的には<核>保有も可能だったことに立ち入らない)。
 現在の自衛隊はそもそも二項にいう「軍その他の戦力」ではないがゆえに、合憲だとされたのだ。その上で、誤った?かつての(自衛権の中に理論上は入るが行使するのは容認されていないという)内閣法制局見解=解釈の遵守を改めて、同法制局も解釈を変えて<限定的な集団的自衛権の行使>も合憲だとし、2015年にいわゆる平和安全法制も法律化された。
 櫻井よしこは、おそらく間違いなく、自衛隊=「戦力」だと考えている。
 この櫻井の解釈を前提にすれば、やはり現自衛隊は違憲で、平和安全法制も違憲のはずのものだった。櫻井よしこは、二年前にどう主張していたのか。強く平和安全法制違憲論を唱えて反対していた、という記憶はない。
 かつまた、櫻井は、条文上の<明示(明記)>の問題と条文<解釈>の問題とを区別できていないのかもしれない。
 櫻井よしこの自衛隊=「戦力」だは、素人の<思い込み>だ。
 幼稚で素朴な過ちだ。憲法解釈は日本語・文章の文学的?解釈ではない。
 そう思い込んでもよろしいのだが、しかし、それは政府および自民党(政権中枢を支える派)が採ってきた憲法解釈ではないし、警察予備隊以降の長年の憲法解釈実務と、全く異なる
 この人は、櫻井よしこは、悲しいことに、何も知らないのだ。
 憲法九条に関する憲法概説書の少しでも読んでみたまえ。
 西修の本は、自らの憲法解釈として「前項の目的…」を使っているかもしれないが、政府解釈・内閣法制局解釈と同じでは全くない。西修や産経新聞に二年前に載った憲法九条に関する説明は、自説と政府・実務解釈との違いが明瞭でなかった。
 この人は、すなわち櫻井よしこは、基本的なところで間違っている。
 だから安倍晋三は「矛盾のボール」を投げた、「正しい」ことよりも「現実に即し」た結果を出そうとしている、などという論評が出てくる。
 櫻井よしこという人は、本当に無知で、悲惨だ。
 警察予備隊を発足させる直前からの、長年にわたる旧自民党、政府与党の、憲法解釈にかかわる苦しみも闘いも、まるで分かっていないのだ。
 もちろん、喫茶店での、少しは憲法のことを知っているらしき者たちの世間話程度ならばよい。
 しかし、こんな、基本から誤った人の文章が、なぜ堂々と月刊雑誌の冒頭を飾り、表紙でも右端に大きくタイトル・執筆者名が書かれるのか。
 月刊Hanadaおよび花田紀凱に対しても、<恥を知れ>と言いたい。
 いやその前に、<恥ずかしくないのか?>と問おう。
 読売新聞も奇妙だが、櫻井よしこと月刊Hanadaの無知の方がむしろおそろしい。
 いや、双方ともに、現在の日本の知的世界の堕落した状態、頽廃さを示しているのかもしれない。
 悲惨だ。
 本当は、櫻井よしこなどからは、早く遠ざかりたいのだが。


1567/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究①。

 「研究」というのは、おこがましい。感想、コメント程度を書く。
 今はやりの「日本会議」研究本?は、<民主主義対ファシズム>程度の感覚の単一層・単一面の素朴で単純な意識によるものが多いと見られ、どの程度に総合的で客観的な叙述になっているかは、相当に疑問だ(しかし、日本共産党中央からの「指令」にもとづいているものも間違いなくあると見られる)。
 「日本会議」自体を扱うつもりはないし、椛島有三「個人」を「研究」するのでもない。
 櫻井よしこの悲惨・悲痛の原因をつきとめてみたい、という気持ちが強い。
 きっと、「日本会議」事務総長の方の著書ならば、ヒントがあるだろう。
 少し迂回する。
 月刊正論(産経)の三年前の三冊の背表紙には、こう、目立つように書かれていた。この当時の「編集人」は、小島新一
 2014年4月号/激化する歴史戦争に立ち向かえ。
 2014年5月号/慰安婦・歴史戦争、我らの反撃。
 2014年6月号/歴史戦争、勝利への橋頭堡。
 名もなき多くの日本の<保守的>読者が、熱心に読んで頷き、心強く感じていたかもしれない。
 あれれ? しかし、この「歴史戦争」はいま、いったいどうなったのか?
 続いているのか、どのように続いているのか。それとも、勝ったのか、負けたのか?
 月刊正論編集部は「編集代表」・編集部が交替したなどと言わずに教えてほしいものだ(いや、この当時の編集部にちゃんと「菅原慎太郎」の名もある)。
 あるいはたかが月刊雑誌編集部では適切にな判断ができないなら、よく知らないが、産経新聞内の月刊正論等の雑誌統括部局の長、あるいは産経新聞社の社長でもよい、きちんと答えていただきたいものだ。
 それとも、上に書いたのは眼が悪くなった私の幻影なのか?
 そんなことはない。ちゃんと、書かれている。
 真面目に上のように月刊正論の背表紙に書いたのだから、それなりの意思・気持ちがあったのだろう。
 その後は、いったいどうなったのか? その年の夏に朝日新聞社が大騒ぎして、月刊正論も勝ち誇っているように見えたが、あれはいったい何だったのだろうか?。あれも幻像だったのか、はて?
 かつての一読者あるいは国民として、このような疑問を持って、当然なのではないか。
 このような疑問を発する「権利」が、我々にはあるのではないか。
 奇妙なことは、月刊正論(産経)にもよく登場する、同編集部が別冊<一冊まるごと…>をすら発行したらしい、櫻井よしこについてもある。
 立ち入らない。櫻井よしこの、時期の異なるつぎの三つの文章をきちんと比べて読んで見れば、この人の最初の感覚とその後の<ひどい(悲痛な)詭弁>がよく分かる。安倍内閣戦後70年談話についてだ。
 ①櫻井よしこ・週刊新潮2015年8/27号=同ウェブサイトにあり。
 ②櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)p.192の「追記」。
 ③櫻井よしこ「安倍総理は…」月刊Hanada2017年7月号(飛鳥新社、発行人・編集長/花田紀凱)p.38~p.39。
 さて、椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この2007年4月というのが、どういう時期だったかは別に触れるだろう。
 1997年5月30日が「日本会議」設立宣言日なので、事務総長としてほぼ10年経ったあとの書物になる。
 本人の「あとがき」を除くと第5章までと「補論」がある。タイトルは、つぎのとおり。
 第1章・昭和天皇のご見解-大東亜戦争の原因について。
 第2章・アメリカのアジア戦略について-アメリカのアジア戦略の原点は満州獲得だった。
 第3章・満州事変の背景-米ソによるアジアのヤルタ体制の第一歩は満州で始まった。
 第4章・アジアにおけるヤルタ体制の誕生-米ソがもたらした志那事変の勃発と泥沼化。
 第5章・大東亜戦争の真相に迫る-すでに戦争は始まっていた。
 補論・朝鮮戦争を通じ初めて日本の立場を理解した米国。
 全行にわたって熟読したわけではないが、対象・内容はおよそ満州事変以降の「大東亜戦争」で、この時期の日本国家の立場を擁護し、主としてアメリカを批判していることが明らかだ。つぎのような「節名」もある。
 「国際的に認められ、正当性をもった日本の中国大陸における権益」。p.46。
 「満州事変はなぜ起こったか-①日本人居留民の被害、②絶対絶命のなかで起きた満州事変」p.80。
 「日本は自衛戦争を戦った」p.117。
 「アメリカによる徹底した日本の封じ込め」p.172。
 「生存をかけた日本の戦い」p.181。
 重大な関心事は、このような内容の書物を「日本会議」事務総長名を明らかにして刊行していた椛島有三は、2015年夏の安倍内閣戦後70年談話における「満州事変」以降の日本に関する叙述を、どのように聞いたか、だ。
 安倍談話は必ずしも明瞭ではないところはあるが、根本趣旨を理解できないような日本語文ではない。また、1995年村山談話と同様に、内閣としての<政治文書・政治談話>であることは、あえて記すほどのことではない。これを「学究的、研究論文」ではないからよいなどと論評するのは(櫻井よしこ)、一部の厚顔無恥の、悲惨な「頭内」状態の人に限られるだろう。
 明らかに、椛島有三の歴史認識又は歴史叙述と安倍内閣の2015夏時点での歴史認識・歴史叙述は異なっている。かりに100%とはいわなくとも、きっと75%くらいは異なっている。
 椛島有三は、この談話に対して、どう反応したのだろうか。
 椛島有三は補論でジョージ・ケナン(George F. Kennan)等の言を持ち出して、朝鮮戦争を通じてアメリカは、かつての敵国までもが、かつての「日本の立場」を分かってくれた、と書いているが、その「日本の立場」を、安倍内閣戦後70年談話は、きちんと述べたのだろうか。
 そうでないとすれば、椛島有三は安倍談話を批判して当然だった。
 「日本会議」は、2017年夏の安倍内閣戦後70年談話について、どういう公式態度を表明したのだったのだろうか。よく知らない。少しは、調べてはみる。
 つづく。

1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。

1553/『自由と反共産主義』者の三つの闘い③-櫻井よしこ批判。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 上の三点の概略でも少しは語った方がよいのかもしれないが、三つは分かち難いところがあるので、順番に一つずつというわけにはいかない。
 <神道・天皇主義>は、上では<「日本主義」または…>辺りに関係しそうで、そうすると、3) の最も先端的な、または最も将来的な論点にすでに関係しているようにも見える。
 しかし、そんなことは全くない。
 櫻井よしこが主張・議論していることは、上の三点の違いはもちろん、どれを意識しているのかも、ほとんど感じさせない、率直に言って<無茶苦茶(むちゃくちゃ)>なものだ。 
 いずれは日本人は欧米的<liberal democracy>の基本的束縛から脱して、対等な<日本主義>を主張する必要がある。
 リチャード・パイプス、レシェク・コワコフスキらに感心し、アンジェイ・ワリツキの紹介がほとんどない(邦訳書はもちろんない)と不満は述べても、日本人が広い意味でのヨーロッパ化すればよいとは全く思っていない。
 彼ら欧米人の、「共産主義」に対してかつてもった切迫した現実感を思うととともに、対ソ連「冷戦」終結とともにまるで共産主義は消滅したかのごとき(日本の著名な論者にもしばしば見られる)欧米中心主義には賛同できないし、神道も仏教も知らないキリスト教世界での、ある意味では気楽さも看取できる。
 日本と日本人が欧米化してしまえばよい(自由・民主主義の点で欧米に追いつく ?)と考えている「左翼」がいるかもしれないし、<保守>派の中川八洋の英米中心主義らしき主張・立場(強い反共産主義はけっこうなことだが)もあるが、従えない。
 櫻井よしこが決して欧米的<liberal democracy>を克服しているわけではないことは、その安倍晋三支持論を読んでもすぐに分かる。
 櫻井よしこは(他にも同調する<天皇主義者>でかつ何としてもという安倍内閣支持者はいると思うが)、安倍晋三または安倍内閣の<価値観外交>を何の留保をつけることなく支持しているようだ。
 <自由・人権・法の支配>といった価値は、元来は欧米のもので、究極的には、日本国家と日本人は完全には、いわゆる欧米西側諸国や欧米人と同じ<価値観>に立つことはないし、その必要もない、と考える。
 「法」や「権利」に対する感覚は、欧米と同じだとは思えない(欧米でも例えばアメリカとドイツで同一ではないだろうが)。
 上に「日本的自由主義」と仮に書いているように、自由・民主主義等々といっても、日本的に変質させたものにきっとならざるを得ない、と考えられる。現に今でも、軋み(きしみ)があると、私は認識している。
 この辺りに注意を払わない、口先だけの<ナショナリスト>・<愛国主義者>あるいは<天皇主義者>を信用することができない。
 櫻井よしこもその一人で、この人には、例えば<戦後民主主義と日本人>という主題で深刻に(もちろん自分自身のこととして)苦悩した形跡はない、と見られる。
 だからこそ平然と、安倍<価値観外交>の支持を語れる。
 つぎに<神道・天皇主義>といっても、この立場の人々がどの程度に終始一貫しているのかは、はなはだ疑わしい。
 「日本の宗教」として神道だけを語るふうであることには、もう触れない。
 <天皇>については、議論がきわめてしにくい。たくさんの人が種々のことを論じてきた。この一年の間に何度か三島由紀夫をもう一度読もうとして、果たしていない。
 しかし、櫻井よしこの論旨一貫性のなさくらいは、簡単に指摘できる。
 櫻井は「立憲君主制」(とこの人が考えるもの)を諒としているらしく、昨年11月の政府リアリングでは、わざわざ昭和3年の田中義一首相関連のことを持ち出して明言している。要するに、<政治への介入>を慎んだ、又は反省したとして、誉め称えているのだ。
 こんな奇妙なことはない。
 明治憲法上の天皇の権力が単純に「権威」にとどまった、俗世間または「政治」と関係がないものとされた、とは私は全く理解していない。
 なぜなら、例えば二・二六事件の際の昭和天皇の言動、終戦の「ご聖断」という決意の表示、これらは完全に、側近の影響はむろんあったにせよ、<権力>の行使だった、と考える。
 そのような権力行使の余地を明治憲法自体が残していた、と法解釈せざるをえないと思われる。
 櫻井よしこに問いたいものだ。終戦「ご聖断」は立憲君主制の範疇にとどまっていたのか否か。
 目的あるいは結果がよければそれでよし、というならば、朝日新聞の<ご都合主義>と何ら異ならないだろう。
 また、ヒアリング発言ではとくに昭和天皇を称える旨を何点か述べているが、八木秀次や平川祐弘ほどではないにしても、暗に<それに比べて現在の天皇は…>と言いたいのが透けて見えて、じつに見苦しい。
 自分たちの考えと同じ言動をする天皇は「ご立派」で、そうではない天皇は「ご立派」ではないと櫻井は自分が語っていることになることに気づいていないのだろうか。これまた、<存在と祭祀>による評価という自分たちの根本的出発点を逸脱している。
 天皇・皇室中心主義などと言いつつ、じつに奇妙奇天烈なのだ。
 月刊正論の今年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)へと移ろう。
 櫻井よしこは簡単に、鎌倉・徳川幕府は、あるいは「俗世の権力」は「皇室の権威」に服し、あるいは「皇室の権威の下にあ」った、「究極の権威」は幕府や世俗にはなく「皇室」にあった、と書く(月刊正論1917年3月号p.86)。
 これは日本の歴史の「偽造」だ。「偽造」が厳しすぎれば、「極度の単純化」だ。
 時代によって異なるが、実質的な権力は完全になかったかときもあるかもしれないが(そのときはおそらく「権威」もなかった)、多くの時代は<権力>は<分有されてきた>、というのが私の理解で、日本史学界の多くとも、たいして異ならないのではないか、と考えている。
 西尾幹二は何かに「権権体制」という言葉を使って権力・権威の分離を語っていたが、これまたかなり単純化しすぎているだろう。
 櫻井よしこは、天皇が「征夷大将軍」を任命した(たしかに形式上はそうかもしれないが)という<絵空事>に欺されているのではないか。そしてまた、究極の権威はずっと天皇・皇室にあった、という歴史観は、明治新政府およびその後の政府が、そしてとりわけ大戦時の政府・文部省がかなりの程度作り上げたものだ、と私は思っている。
 マルクス主義・マルクスらの発展段階史観のごとき<単純な>ものこそが、受容されやすい。原始共産制-農奴制-封建制-絶対王政-資本主義-社会主義(・共産主義) ? ?
 やや飛ぶが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>または<天皇中心史観>は、日本のマルクス主義的史観の真反対であるようでいて、じつは発想がよく似ている。
 つまり一方は天皇に実質的な力(権威)があったことを肯定的に理解し、片方は、天皇にこそ実質的な最高権威があったとして否定的に理解する(そして打倒を叫ぶ。あるいは叫んだ)。
 対立していそうでいて、前提は同じなのではないか ?
 そうしてまた、立ち入ると手に負えなくなるが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>は、戦時中の「國體の本義」のレベルにすら達していないし、むろんそれを克服してもいない。  櫻井よしこらは「國體の本義」の要旨だけでなく、全文をきちんと読んで、もっと「勉強」すべきだろう。
 さらに、最近はあらためて北一輝に関心をもっているが、櫻井よしこと似ている(表面的には同じ)理解または主張を北一輝がしている部分があって面白い。
 北は「純正社会主義」・「社会民主主義」の標榜者だが、明治維新を、かつての政変・権力交替とは違って、国家・国民関係を作りだし、日本に「民主主義」をもたらしたものとして肯定的に評価する(その理念を当時の財閥・政治家等が壊したと言うのだ)。そして、確認しないまま書くが、櫻井よしこが近年にやたら肯定的に持ち出す(月刊正論上掲も同じ)「五箇条の御誓文」を「民主主義」宣言書としてこれまた肯定的に語る。
 櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか。
 もちろん同じではないのだが、櫻井よしこや一部の<保守>派は、北一輝あるいは「青年将校たち」の主張と自分たちの主張とどこが同じでどう違うかくらいはしっかりと理解したうえで、何らかの主張をしたり、「運動」をしたりする方がよいのではないか。
 最後の方は筆がいわば走っていて、きちんと文献提示ができない。だが、言いたいことは朧気にでも分かるだろう。

1546/櫻井よしこを取り巻く人々-月刊正論編集部とその仲間たち。

 月刊正論編集部が今年3月に、その別冊29号として、<一冊まるごと櫻井よしこさん>という雑誌(一冊の書物のような)を発行している。
 これを私が購入するはずがない。同誌の通常の6月号末尾によると、編集部を構成するのは、以下のとおり。
 (代表・編集人)菅原慎太郎、(編集部)安藤慶太・溝上健良・内藤慎二・八並朋晶
  <一冊まるごと櫻井よしこさん>を発行するくらいだから、よほど櫻井よしこに傾倒している(または「商売」のために最大限に利用している)人々なのだろう。
 菅原慎太郎は、編集人(編集長)としての最初の編集後記(「操舵室から」)に、月刊正論に異動することとなりE・バークを思い出して読もうと思ったが結局読めなかった、というようなことを書いていた。
 すでにこれだけでも、菅原慎太郎の「水準」が分かる。
 第一、エドマンド・バークという「保守」主義者の名前を知っている。しかし、「保守」的というだけでこれを思い出すというのは、それまではそんなことを感じずに済む産経新聞社内の部署にいたということを示す。
 第二に、読まなかったのにわざわざ上のことを書くというのは、私もE・バークの名くらいは知っているのですよ、と言いたかったに違いない。
 そうでなければ、わざわざ書かないはずだ。
 月刊正論の編集代表者が、かりに万が一事実でも、レーニン全集を全巻揃えて自宅に所持しています、とは書かないだろう。
 ネット上で分かる、櫻井よしこが「理事長」の国家基本問題研究所の「役員」名簿(「役員紹介」欄)を見ると、興味深い。 
 いろいろな人がいる。つぎの二人も、「評議員」だ。
 ・立林昭彦/月刊WiLL編集長。 ・花田紀凱/月刊Hanada編集長。
 あれあれ、今年になってたぶん1月に<保守系>三誌は「同人誌」のごとくになっていると書いたのだったが、月刊正論編集部は上記のとおりだとして、あとの二雑誌の編集長もまた、櫻井よしこを理事長として戴く「国家基本問題研究所」の「評議員」なのだった(2月頃に気づいていた)。
 こうなると、<保守系>三誌に繰り返して、頻繁に<櫻井よしことその仲間たち>が登場していることは、謎でも何でもない。
 興味深い氏名は、他にもある。副理事長の田久保忠衛の名前は、もう書いた。
 平川祐弘/理事、屋山太郎/理事、加地伸行/評議員。
 「研究顧問」4名のうち2名-加地伸行・平川祐弘
 ついでに、「客員研究員」の1人-藤井聡
 以上の人々を全くかほとんどか、あるいはひどくか、信用していない。
 屋山太郎、田久保忠衛について、何度か触れた。
 あえて記しておきたいのは、天皇譲位問題について<アホの4人組>とこの欄で称した4人のうち2人が(櫻井よしこを含めて)この研究所の役員であり、加地伸行を加えて(ヒアリング対象になれば平川祐弘らと似たことを言っただろうという意味で)<アホの5人組>と称した5人のうち3人が、この研究所の役員だ、ということだ。
 さらには何と、この研究所の「研究顧問」4名のうち2名は、<アホ>仲間(加地伸行・平川祐弘)だ
 以上に明記した人々は、もうどうしようもないだろう。
 一方、どうしてこの研究所の役員なのだろうかと感じる人々もいる。
 そのような人々には、とくに言いたい。
 国家基本問題研究所の「役員」をしていて、正確には櫻井よしこを「理事長」とするような「研究」所の「役員」の肩書きを付けていて、恥ずかしくないのですか、と。

1537/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤03。

 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 平川祐弘もそうだが、櫻井よしこは、天皇の役割として「祭祀」を強調し、天皇の「祭祀」行為の位置づけを高くせよ、と主張する。
 上の発言でも、実質的には冒頭で、こう言う。
 ・「長い歴史の中で、皇室の役割は、国家の安寧と国民の幸福を守る、そのために祈るという形で定着してきました。歴代天皇は、まず何よりも祭祀を最重要事と位置づけて、国家・国民のために神事を行い、その後に初めてほかのもろもろのことを行われました。穏やかな文明を育んできた日本の中心に大祭主としての天皇がおられました」。
 ・「しかし、戦後作られました現行憲法とその価値観の下で、祭祀は皇室の私的行為と位置づけられました。皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋である祭祀をこのように過小評価し続けて今日に至ったことは、戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・天皇陛下の「御負担を軽減するために、祭祀、次に国事行為、そのほかの御公務にそれぞれ優先順位を付けて、天皇様でなければ果たせないお役割を明確に」する必要がある。
 ・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています。この優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すのが大事だ。
 似たような文章が、櫻井よしこ・月刊ボイス2016年10月号p.46にもある。
 すでに触れたことだが、このような櫻井よしこの文章を読むと、不思議な、奇怪な感じを禁じえない。
 あるいは、ひどく無知だと思う。自分が無知であることに無知であるのは、はなはだしく怖ろしいことだ、と思わざるをえない。
 なぜか。
 つぎのことは、まだ些細なことだ。
 「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています」。
 憲法・皇室典範が「祭祀の位置づけ」を明記しているはずがない。あくまで現憲法の<解釈>でそうなっているのであり、皇室典範はそれを前提にして何も定めていないのだ。
 これだけでもすでに専門家ならば失格だが、他に致命的なことがあるので、まだ些細に感じてしまう。
 すなわち、櫻井よしこや平川祐弘は、「祭祀」をいかなる性格の行為だと、明確に記せば、<宗教>性を帯びている行為だと、とりわけ「神道」上の行為だと考えているのか、いないのか
 「祭祀」は宗教とは無関係だと理解しているならば、ある程度は筋がとおっている。
 しかし、本当に「祭祀」は無宗教の行為なのか。
 平川祐弘は天皇にとっての「まつりごと」とは「政」ではなく「祭」だと、さも知識ありげに書いていたが、「政治」が「まつりごと」ともされたことは多くの人が知っているだろう。
 さて、あらためて、櫻井よしこに問いたい
 自分の言う祭祀とは「宗教」、とくに「神道」と関係があるのか、ないのか。
 明治元年に(まだ安定・確定していない)新政府は「神武創業」期に<復古>しての「祭政一致」を謳ったのだったが、そこでの「祭政一致」が国家と「宗教」の関係にかかわるものだったことは明確で、だからこそその後に<神仏分離>の基本政策がとられた。実際にどの程度徹底したのかは別だったが。
 そうして逆説的に、 明治憲法の解釈上は(「皇室神道」を含むと解される)神社神道うんぬんは「信教の自由」の問題ではないとして、いわゆる<国家神道>制がとられたとされる。わずかに50年間程度だったと今からは感じるが、神社は国家機関又は準国家機関、神官は公務員又は準公務員だった。
 その(明治憲法後に)1900年頃に確立した時代が理想だと考えて、神社神道(・皇室神道)は「宗教」ではないと論じるのならば、まだ分かる。
 しかし、櫻井よしこは、この欄で批判的にすら取り上げているように、「神道は日本の宗教です」と明言しているのだ。
 天皇・皇室の「祭祀」が神道、正確には神社神道(なるもの)の性格を帯びていることはほとんど常識だろう(但し、<祭祀>の意味にもよるが、神仏の区別が必ずしも明瞭でない時代には「仏教」的なものも部分的にはあったに違いない。だがそれも今日的には<宗教>行為だ)。
 それを知ってあえて、「祭祀」を大切にとか、「祭祀」を最優先に、と主張する場合、そもそも日本国憲法上のつぎの条項は意識されているのか。とくに、第3項。
 この無意識、無知こそが、致命的だ。
 現憲法第20条「第1項第二文/いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
 同第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。
 これら条項との関係でも、天皇・皇室の「祭祀」行為は、現憲法7条が定める「国事行為」のうちの「10号/儀式を行ふこと。」にも含まれないと、官民挙げて ?解釈されている。
 憲法学界はほぼ一致しているだろうし、戦後の政治・行政の現実は、この解釈を前提として動いているし、動いてきた。
 この解釈とは、天皇・皇室の祭祀行為は「宗教」行為に該当する、という解釈だ。
 天皇・皇族は「国」あるいは「国家の機関」ではないと櫻井は思うかもしれないが、「国事行為」は内閣の「助言と承認により」行うもので(7条本文)、そこでの行為は「国」ないし「国家」(この二つのしばしばの混同があるが立ち入らない)の行為に他ならない。
 だからこそ「国事行為」なのであり、そこに「祭祀」を含めてしまうと、「祭祀」が国家の行為になる。少なくとも、現20条との関係を厳密に整理・解釈しなければならなくなる。
 憲法20条の規定があるからこそ、国家と「宗教」との関係は、明治憲法のもとでと全く同じには解釈されていないのであり、「祭祀」が神道によるものであるかぎりは、おそらく間違いなく「公的(象徴的)行為」と位置づけることもできず、天皇等の「私的」行為と憲法解釈せざるをえないのだ。これを前提に、皇室経済法(法律)も「内廷費」等々の区分けをしている。
 櫻井よしこは、こうしたことの知識をまるでもっていないようだ。
 だからこそ平気で、「祭祀」を国事行為等よりも優先せよ、と無知ゆえの主張をすることができている(平川祐弘もおそらく同じ)。
 唖然とせざるをえない。
 櫻井よしこの主張・見解を満足させて現実化するためには、現憲法上の国家・「宗教」関係条項の抜本的な改正(憲法改正)か、または<革命的な>憲法解釈の見直しが必要だ。
 これをくぐり抜けるレトリックは、神社神道は「宗教」ではないと法解釈することだが、知ってか知らずか、櫻井よしこは「神道は日本の宗教です」と、堂々と言い切っている。
 櫻井よしこは、昭和天皇の葬礼の際に、どこまでが「国」の行事で、どこからが天皇家の「私的」行事なのかというきわめて(現憲法の解釈・運用にとっては)重要な問題が生じていたことを、まるで知らないようだ。これについては、この欄で触れたことがある。
 怖ろしいことだ。無知も怖ろしいが、無知であることの無知も、輪をかけて怖ろしい。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)を見てみると、やはり、国家・「宗教」関係条項には、<保守>派にとっても重大な関心事のはずだが、いっさい言及していない。
 手元に、つぎの本もある。著者は「日本政策研究センター所長」。
 伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(日本政策研究センター、2000)。
 この本もまた、<政教分離>裁判は多数起きているにもかかわらず、憲法20条または国家・「宗教」関係、天皇・皇室の「祭祀」の憲法問題にはいっさい言及していない。
 櫻井よしこは、この伊藤の書物に影響を受けているのだろうか。
 ついでに書くと、この伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(2000)は、「五箇条の御誓文」擁護・解説にじつに40頁ほどを当てている。
 櫻井が最近に「五箇条の御誓文」にやたらと論及する、そのタネ本はこの伊藤著ではないか ?
 他人・第三者の文献・主張を参考文献の明記なくしても平気で援用・借用するのは櫻井よしこの「流儀」なので、同じ<保守派 ?>の伊藤哲夫著ならば、上のように「タネ本」にするのも十分にありうると思われる。
 さらに一つだけ、関連して指摘しておこう。櫻井は、こう発言した。他にも同旨のことを述べる者はいる。
 「天皇様は何をなさらずともいてくださるだけで有り難い存在であるということを強調したいと思います。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来ないのではないでしょうか」。
 <ご存在だけで有り難い>というのならば、「祭祀」も別になさらずともよろしいのでは ?
 揚げ足取りと言うなかれ。その隙を与えるような言辞を、大切な「国」の諮問・建議機関のメンバーの前で吐いてはいけない。
 国家・「宗教」との関係については、なおも基本的なことに触れたにすぎない。
 それでもなお、「所長」に代わって釈明・反論をしようというならば、どうぞ国家基本問題研究所の「役員」の方々はしていただきたい。櫻井よしこ「所長」では無理だから。
 時間があれば、所持している例えば以下の書物だけでもきちんと読み通してみたい。現憲法注釈書はたいてい持っている。
 ①山口輝臣・明治国家と宗教(東京大学出版会、1999)。
 ②平野武・宗教と法と裁判(晃洋書房、1996)。
 ③大石眞・憲法と宗教制度(有斐閣、1996)。
 あらためて、櫻井よしこという存在の悲惨さを感じつつ。

1534/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤02。

 今年4/07付・№1487からの続き。
 ○ 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>は、悲痛だ。
 悲痛というのは、悲しいほどに痛々しい、ということだ。
 また、櫻井よしこ自身はそう感じていないようであることも、さらに悲痛、つまり、悲しいほどに痛々しい。
 ○ 櫻井よしこの「気分」を典型的に示しているのは、つぎの一文だろう。
 「天皇は終身、天皇でいらっしゃいます」。
 議事録上では段落変わりの冒頭にある、いっさいの条件、前提、後続の帰結も付いていないこの文こそが、櫻井の「観念」であり、「思い込み」であり、揺るがしてはいけない「前提命題(テーゼ)」なのだ。
 なぜそうなのかと、問う姿勢がここにはない。
 もちろん、その根拠らしきものも別のところにある。そして、それはウソの歴史認識で成り立っている。
 櫻井よしこは言う。「当時の政府は機能せず、国家の命運が危うくなりました。そのとき天皇が政治、軍事、経済という世俗の権力の上位に立たれて、見事に国民の心を統合なされました。それが明治維新でありました。
 その折、先人たちは皇室と日本国の将来の安定のために、従来比較的頻繁に行われていた譲位の制度をやめました。日本国内の事情だけを見ていれば事はおさまった時代が去ってしまったのです。広く国際社会を見渡し、国民を守り続けることのできる堅固な国家基盤を築かなければならない時代では、皇室のありようについても異なる対応が必要だったことは明らかです。」  
 欺瞞に満ちている。前半の「明治維新」について、例えば「当時の政府は機能せず」といった評価・認識等については別に扱う。少なくとも、こんなに簡単にまとめてはいけない。
 大ウソは、「その折」、つまり「明治維新」の「折」に天皇譲位制度を廃止した、述べていることだ。
 明治維新の開始と終末の時期については議論があるだろう。しかし、天皇終身在位を定める旧皇室典範が制定される1889年までをも「明治維新」の時期ということはできないだろう。
 櫻井は巧妙に、自ら高く評価する「明治維新」の際に天皇終身制も定められた、というウソをついている。
 そして上記ではその理由を、「国内の事情」だけにかぎらず「広く国際社会」見渡して「堅固な国家基盤」を築く必要があったことに求める。
 これはいったい、誰が主張している、どの文献が書いていることなのか。
 櫻井よしこによる、デッチあげの類だろう。
 明治天皇は、明治元年に満16歳だった。1888年になっても満36歳だった。
 皇位承継の仕方について全く議論がなかったとは思えないが、それは切実・具体的な論争点ではなかっただろう。かりにあっても、生前譲位を否定する終身在位論が決定的だったとか有力だったとは全く言えないものと思われる。明治憲法の制定(1889年)の時期に、この問題を「家法」として明確にしたのだったが、その際にでも生前譲位の可能性の余地を残しておく主張がなお有力に存在した。
 櫻井は、日本の「開国」・「国際化」に終身在位制の理由を求めるようだが、この二つの間にどういう論理的関係があるのか ? もっと詳しく説明できるのか ?
 櫻井よしこは、その単純に理解する明治維新の「目的」に、天皇終身在位制のそれも重ねているのだ。
 櫻井は、悲痛なほどに<アホ>だろう。なぜ、国家基本問題研究所なるものの「所長」を名乗れるのか。
 ○ 摂政制度の利用は現行の皇室典範上の摂政制度を前提にするかぎりは不可能だが、それを正規に「改正」すれば、論理的には不可能ではないだろうと感じてきた。
 摂政制度利用の主張者すべてを<アホ>だと言ってきたわけではない。
 櫻井よしこがぎりぎり提案しているのは、現在の実体的要件に、「又は御高齢」を追加することだ。
 これは成り立ちうる提案だとは思われる。しかし、これに伴う種々の問題点とその対応・解決策をもきちんと考えたうえで、提案されるべきものだ。
 子細に立ち入らないで櫻井に内在している問題点だけを指摘すると、つぎのとおり。
 櫻井よしこは、「歴史を振り返れば、譲位はたびたび政治的に利用されてきました」、と言う。現在はかりにそうでなくとも「長い長い先までの安定を念頭に置いて、あらゆる可能性を考慮して、万全を期すことが大事です」とも言う。 
 しかし櫻井は、こう言うとき、摂政設置の活用にはこういう問題は全くない、と思っているのだろうか。
 そう見えないので、摂政利用論も、終身在位制をともかくも守りたいがための逃げ道として使われている観がある。
 つまり、摂政を置くことについても、とりわけまさに「御高齢」という要件を充たすとして摂政を置くことについては、「御高齢」だが国事行為等を自ら天皇として行いたいし行えると考える天皇またはその支持者と、天皇の地位はそのままにしたうえで国事行為・公的行為等を天皇とは別の「摂政」たる人物に任せたい人々との間で「たびたび政治的に利用されて」しまう可能性・危険性があるのだ。もちろん、櫻井も言うように「長い長い先まで」のことを考慮すれば、だ。
 太上天皇(・上皇)と天皇との間の権威の分裂を懸念する声があり、それは一般論としてもっともなことだが、天皇と(実際に天皇の行為を継続的に行う)摂政との間にも、<権威の分裂>が十分に起こりうる。
 終身在位・摂政制度活用ならば、「政治的に利用され」る可能性はないのか。
 櫻井よしこという人は、<アホ>ではないか。なぜこの人が国家基本問題研究所の「所長」を名乗れるのか。
 そもそもは、「御高齢」といった曖昧な要件だけでは、現実は動かない。いったい誰が、どのような手続でもって、摂政を置くべき又は置いてよい「御高齢」かどうかを判断するのか。そこまでは櫻井よしこは、まるで考えていないのだろう。
 また、上の過程ですでに、<政争>が生じてしまう可能性もある。
 櫻井よしこは、何も分かっていない。
 ○ まだまだ、櫻井よしこの天皇譲位論について、書き残しておきたいことはある。

1531/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④07。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と「仏教」・仏教寺院との長い関係を無視してはいけない。
 この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
 ○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。 
 目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
 陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
 そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
 そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
 崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
 なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
 つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
 薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。 
 天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
 神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
 ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
 若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
 ○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
 この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
 阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
 安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
 寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
 ○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
 天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
 さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
 この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
 山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
 また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
 さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
 これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
 ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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 聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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 後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
 順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
 土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
 後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
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 後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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 以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
 陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
 上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
 この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
 それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
 ○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
 そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
 しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。

1530/櫻井よしこ・憲法とはなにか(2000)批判のつづき。

 ○ 櫻井よしこは、前回に言及した2000年刊行の本で、日本の「憲法」の最初は聖徳太子の「十七条の憲法」だとし、その二条についてつぎのように述べる。
 原文は「二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。」で、<二に日す、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、法、僧なり。…>という現代語訳になる。
 櫻井いわく。これを仏教だけのことしか書いていないと批判する神道等他宗教の人もいるようだが、長谷川三千子の指摘等によると「仏法」とは「もっと普遍的な価値観」だったのかもしれない。/「太子自身も仏道に励み、斑鳩寺を私寺として建てたことや、天皇をも仏法に導いたことは、恐らく読者の皆さんも高校や中学の歴史で学んだことでしょう」。p.191-2。
 仏法の普遍的意味に立ちいらなくとも、なんと、ここでは櫻井は、聖徳太子と「仏教(仏法)」の密接な関係を認め、「高校や中学の歴史で学んだ」だろう、とまで言う。
 今年2017年に週刊新潮で聖徳太子に言及した場合の、櫻井よしことは大違いだ。
 一貫性のなさ。櫻井よしこはこれで一貫している。また、考え方、理解の仕方が変わったのならば、きちんと説明すべきだろう。
 ○ ところで、井沢元彦の逆説の日本史シリーズ(週刊ポスト連載)の内容は相当に「血肉」のようになっていて、だいぶ前に読んだのと該当巻・頁を特定するのが面倒で却ってこの欄で明記することが少ない。
 聖徳太子等に関する第二巻ではなく、第一巻に、興味深いことが書いてある。
 井沢元彦・逆説の日本史/古代黎明編・封印された「倭」の謎(小学館、1993/のち文庫化)
 <雲太、和二、京三>というのは平安時代にできた言葉(p.144)だ。
 そして、第一位・出雲(出雲大社)、第二位・大和(東大寺)、第三位・京(御所)と、建物の規模の大きいもの順の意味らしい(そのように理解するのが通常らしい)。
 井沢元彦p.149. によると、これはまた、聖徳太子・十七条の憲法の第一・第二・第三という各条の重要性の順序に合致する、という。
 これは、少しは意表を衝くのではないだろうか。(出雲大社がかつて本当に現在の二~三倍ほどの高さを持っていた、との考古学資料も出たことについては割愛)。
 第一・「和の精神」/出雲の平和的な「国譲り」伝説-跡地での出雲大社。
 第二・仏教/東大寺(大仏ではなく、それを包含する建物・大仏殿のとくに高さ)。
 第三・天皇/御所。「承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。」-<天皇の命令を受ければ必ず謹んで従いなさい。君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。> 
 そして井沢は、「和」の精神こそ、天皇よりも仏教よりも大切な「日本」の精神だと強調する。その是非はともかく、聖徳太子は「和」のつぎの第二として「仏教・仏法」を挙げていた、ということに注目せざるをえない。
 これは、櫻井の現在の感覚とは相当に異なるだろう。
 ○ 櫻井よしこの本に戻る。
 櫻井は明治憲法制定過程に言及する中で長谷川正安の本を使い(p.197-8)、それに間違いなく従って、「憲法思想」は「政府的立場」と「民間的立場」、憲法論議は「神勅にもとづいた神権国家説」と「天皇もまた法の下の支配者であるという法治国家説」の二つの大きな流れに収斂された、と書く(p.198)。
 憲法制定史を概観し整理しておくには、重要な二分であるような印象がある。しかし、櫻井よしこはこの二つの立場・国家観の対立がその後にどうなったかにいっさい言及しない。
 たぶんこの辺りの文章を書いていたときは長谷川正安の本を手元において見ていたが、そのうちに忘れたか、読みやすい又は理解しやすい別の文献を見つけて、そちらに関心が移ってしまったのだ。
 週刊誌二頁くらいだと分からないが、それをまとめて一冊にしたような場合には(櫻井・憲法とはなにか(小学館)も似たようなものだ)、そういった仕掛け・楽屋裏がバレてしまう。
 さらに、櫻井よしこは何のこだわりもなくいったん引用、言及したようだが、長谷川正安とは、憲法に関して岩波新書をいく冊も出版していた、著名な、日本共産党の党員学者だった(当時/名古屋大学)。
 日本共産党・同党員の本だからいっさい引用・言及してはいけない、とは言っていない。
 しかし、上のような<二分>自体にじつは、単純な<権力・民衆>や<神権・民権>の各対立という共産党学者的な見方がすでに出ている、ということに気づくべきだろう。
 櫻井よしこの「無知」は、たとえばこういった点にも見られる。
 また、いったん言及した根拠文献がいつのまにか消失してしまっている、ということもあるわけだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、こんな櫻井よしこが「所長」でいることを、恥ずかしいとは感じないのだろうか。

1529/憲法九条改正と櫻井よしこの「自衛隊・違憲」論。

 ○ 日本国憲法「改正」問題については、「改正」論を嘲笑し唾棄すべきものとする同廃棄論・同無効論についても含めて、この欄でたびたび触れた。
 憲法現九条の問題についても同じ。したがって、新たに述べたいことはほとんどない。
 ○ 先日に安倍晋三・自民党総裁(首相)が、憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化を提唱したようだ。
 現在の自民党改憲案では現九条二項を削除し、新たに「九条の二」を設ける(これは「九条二項」の意味ではない)こととしているので、同じではない。
 総裁が党の案と違うことを明言するのも自民党らしいし、また現改憲案とはその程度の位置づけなのかとも思う。が、ともあれ、たった一人で思いついたわけではないだろうし、かつまた、法技術的に見て、上のような案も成立しうる。想定していなかった解釈問題が多少は、生じるだろうが。
 それよりも、テレビ報道のかぎりでは、安倍晋三のビデオ・メッセージが伝えられたというその場で、その後なのか前なのか、櫻井よしこが<緊急事態条項の追加を!>という、安倍晋三のメッセージとは異なる、<あっち向いてホイ>ふうのことを大きく喋っていたのが記憶に残った。
 とくにビデオ放映の後だとすると、何とトンマな人だろうと思う。櫻井よしことは。
 むろん、自民党も含めた憲法改正賛成派の中で、改正の優先順位に関する議論にまるで一致がない、という問題がある。
 改正手続の改正(現96条。過半数でま発議を可とする改正)からという話も、安倍政権のもとであった。法技術的な議論の検討を別とすれば、憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する。憲法改正のためにも、橋下徹・維新の会を大切にすべきとの、秋月のこの欄でのだいぶ前での主張・予見は、適切だったことが証されそうな気もする(元月刊正論編集部・桑原聡や、橋下について<ロベスピエールの再来>の危険があるとした佐伯啓思大先生は、その後、どう思っているのか ?)。
 但し、重要なのは、憲法改正による自衛隊合憲化(又は自衛軍・国防軍の明記)は現憲法の一部、軍事問題についての一定の「改正」にすぎず、かりにそれが成されたからといって、<保守革命>が起きたかのごとく歓ぶことになるのでは全くない、ということだ。
 一部だけでも改正する実績ができることは、戦後史の大きな転換ではある。しかし、自衛隊合憲性明記がいかほどの<変革>になるかは、じつは相当に疑わしい。現憲法、現条項のもとでも(さらには「前文」を変えなくとも)、2015年の平和安全法制程度の諸法律等を制定するのは不可能ではなくなっていたのだから。この程度にしておく。
 ○ 櫻井よしこは、改憲民間団体の共同代表でもあるらしい。
 しかし、この人物はかつて2000年に、どう言っていたか。以下による。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)、p.226-。
 櫻井は、「『自衛隊は違憲』から出発しよう」と節の見出しをつけ、このとおりのことを述べている。p.228。
 現九条二項は「あまりにも明確に自衛隊の存在を違憲だとする文言です」。
 「自衛隊は現行憲法においてはもはや違憲の存在であるという視点でもう一回憲法を見て」みると「ストンと納得がいく」、「憲法がわかりやすくなって」くる。
 社会党は村山内閣で自衛隊合憲論へと変化したが、「皮肉なことに自衛隊は合憲か違憲かという点については」、「以前の社会党の主張が正しかったとも思えるのです」。
 この叙述の意味を再述しはしない。
 櫻井よしこの憲法論(あるとすれば)に特徴的なのは、形式的な「文言重視」主義で、不文憲法や不文法原理というものの存在を想定していないことだろう。
 したがって、じつに幼稚な、中学生・高校生レベルの認識・議論をしている(そのレベルのものは、他の論点にもこの人には多々ある)。
 そしてまた、自衛隊=「違憲」ということは、自衛隊法という法律を含めて、自衛隊の活動に関するすべての関連法律諸条項は「違憲=無効」となって<法的>には過去も現在もあってはならないことになる、という帰結となることも、おそらく櫻井よしこは理解していないと思われる。
 文章には<規範・希望・予測>等の<観念>を叙述するものと、<事実>を叙述する(少なくともそのつもりの)ものがある、という区別自体が、この人には存在していないのではないか、と強く疑っている。
 なお、二項の冒頭の「前項の目的を達するため」との文言に着目して政府側が合憲視していたかの理解は、誤り。
 日本側の幣原喜重郎による九条提言説を江藤淳の書のみを使って却下しているようなのも、きわめて不十分。
 この本も、他にもあるが、この人が「勉強」した(つまり情報収集に使った)本を引用したり、抜粋要約したりして、他者のものを結果として<なぞっている>だけだ。櫻井よしこの独自性はどこにあるのか ?
 ○ 櫻井よしこは、九条関係の諸議論を、おそらく全く分かっていない。
 近年は、九条一項は維持して九条二項を改正すべきと、櫻井は主張しているようだ。
 主張・見解を変更すること自体を批判できないだろう。
 だが、2000年時点で<自衛隊・違憲>論を明確に主張していたことは、上記のとおり間違いない。
 現在の立論へとどのように変化したのか、あるいは違憲のものを合憲にしたいだけで変わっていないと主張するのか(この立場だと2015年平和安全法制も違憲だ)。
 いずれにせよ、櫻井よしこはきちんと説明する責任があるだろう。民間憲法改正運動の代表者、国家基本問題研究所の所長という肩書きを付けていることを認めるのならば。

1527/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④06。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と仏教の関係について、あまりにも無知なのではないか。
 ○ 天皇・皇族の墓=陵墓のかなりの部分は、一定の長い間、仏教寺院によって維持・管理されてきた、と見られる。
 江戸時代の天皇の陵墓は、光格天皇、孝明天皇を含めて、全て泉涌寺(京都市東山区)の周辺(東から南)にある。このことは、先に書いた。
 つぎの本に、興味深いことが書かれている。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 そもそもは明治期の神仏分離令・神仏判然令から始める必要がある必要があるのだろうが、割愛してこの本のp.330あたりから読むと、当初の神祇官という重要官署の所管対象に、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだ。1868年(明治元年)に陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされたところ、陵墓事務(山陵)については別の官署・「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、1869年9月に「諸陵寮」が置かれた。
 同「寮」は、とくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について、注目していたようだ。江戸時代の全天皇の陵墓がそこにあったのだから、当然ではあろう。
 「諸陵寮」の1870年(明治3年)8月の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用を混ぜる。厳格な正確さはない可能性もある)。
 ・維新復古となり「神仏混淆不相成旨」を先般布告した。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(然処)、御陵に関係している「泉涌寺」その他(其外)が依然として「巨刹」を構えてそのままになっているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(恐入次第)。
 ・歴代皇室の「御祭典御陵之御取扱」方法は官民の「模範」で、仏教との「混淆」をしてはならない旨を神社に普く「布告」した。
 ・「泉涌寺」ら全ての「御陵ニ関係之寺院」は、一山残らず「還俗」することを、人選の上で「相当の職務」に就かせることを命じた。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 ・「僧徒」たちは「御陵ニ関係」しては全くなくとも、「九重石御塔」または「法華堂杯」をそのまま建て置いて「御祭典」をしているのは「浮屠混淆」の一端なので、少しずつ是正されるのは当然だ。
 ・「御陵」とは「御霊之所在」で、「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は下されなかったけれども、是正されるべきは「自然」だ。
 ・「肝要御陵之御取扱」が「浮屠混淆」であっては、じつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(不堪懸念殊更苦心)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を別紙のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 ・<別紙>-「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきところ、「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと奉り存じ候。 
 以上、終わり。
 泉涌寺に関連しなくても、いくつか興味深い。例えば、
 ①寺院での祭祀・法要類については、従来は「格別」の「勅諚」類がなかった。つまり、神社と同等の扱いだった。
 ②「寺院境内ニ御陵」という言葉があり、これは「御陵」が「寺院」の「境内」にある、という了解または認識を前提としている、と思われる。寺院の所有区画と陵墓の区域とは厳密には区別されていなかったようだ(近代的「所有権」観念のなさによるのかもしれない)。
 さて、皇族である聖徳太子らの合葬陵墓が大阪府太子町・叡福寺の中または直近にあること、多数の天皇陵墓が京都市東山区・泉涌寺の近くにあることは、すでに記した。
 これらは、現時点でのことだ。
 ○ いくつかの論点が、少なくともかつては、あった。
 第一は、陵墓自体の様式・築造法の問題だ。詳しい知識はないが、神道的または仏教的な仏具ないし神具が置かれたり、墓碑自体が神道式または仏教的ということもありうる。
 第二に、陵墓の維持・管理の問題だ。少なくともかつては実質的に寺院または神社がこれを行っていたことはあった、と見られる。
 神社についてはこの欄でまだ言及したことがないが、現在の姿・位置関係から推察して、それがありうるだろうという例をいくつか知っている。
 第三は、陵墓の前又は直近での慰霊行事の主体の問題だ。形式上は皇室または幕府等々による命令(又は委託)によることがあったかもしれないが、陵墓の維持・管理を実質的に寺院または神社が行っている場合には、これもまたそれぞれの寺院や神社が主体として行っていたのではないだろうか。
 第四は、周辺に陵墓がある場合にとくに、寺院(・神社)内部での上のような行為、つまり慰霊・法要や供養の祈祷の類が認められたかどうか、だ。これまた、陵墓の維持・管理が実質的に寺院(・神社)によっている場合には、大きな問題にならないと思われる。
 ◯ これらが明治期以降どうなって、そして現在に至っているのか。
 上の1870年(明治3年)の<建議書>について言うと、まず、つぎの点の解釈が問題になりうる。
 「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきで「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だ。=「御歴代御陵祭祀神典ニ被為依候上ハ、泉涌寺ヲモ被廃候儀当然ノ御儀と奉存候」。
 これは、泉涌寺という仏教寺院の廃絶までを意味しておらず、維持・管理をこの寺院に任さないことも含めて、上の第二、第三を明確に禁止し、かつ場合によっては第四も許さない、という厳しい趣旨だとも読める。
 だが、実際には、これよりも厳しい措置を想定していたようだ。
 外池昇(1957~)の上掲著は、<別紙>について、つぎのように注記している(p.344)。
 「泉涌寺にある総ての陵を泉涌寺から徹底的に分離して管理」する具体策を述べる。
 ①「総ての僧侶」の「復飾」、②その僧侶から人選して「御陵守護に当たらせる」、③「寺中の仏像・経典・梵鐘等の仏器類」の「撤却」、③「本堂を取り除く」、④「寺領」は「陵田」(陵墓の土地)とする。p.344。
 これは、泉涌寺という仏教寺院それ自体の廃止・廃絶を意味するだろう。
 さらには、上に触れた第一の点にかかわって、14の陵墓について、つぎのことすら提言されていた、とされる(同上、p.344)。同寺周辺の他陵については省略。
 ①「仏式の九重塔」を除去して「円丘」を築く、②崩御年号記載の「大石」を前面に設置、③「石垣、玉垣」、「鳥居」の造立、等々。
 ところが、重要なのは、こうした建議はそのままでは採用されたり、実施されたりすることがなかっつた、ということだ。つまり、<神仏分離>を徹底することはできなかった。
 おそらくは、上の第一の点での多少の造作、変更はあった。第二、第三で述べた管理・供養類への主体的関与は(仏教寺院には)なくなった。しかし、寺院それ自体が廃止・廃絶されたわけではなく、すぐ近くに陵墓はありつつ、かつ陵墓面前ではなくとも、当該天皇等に対する慰霊・供養・法要等は寺院内でずっと行われてきた。
 第二、第三は、戦前は国家と世俗宗教との分離、戦後は国家と「宗教」自体の分離の結果だ。陵墓維持・管理は国家の仕事(現在は国・宮内庁)であって、寺院等のすることではない、という法的建前があったし、現憲法のもとでは、寺院のみならず、神道神社についてもある(政教分離、国家と「宗教」との分離)。
 しかし第四については、戦前の実際はよく知らないが(たぶん戦後と同じでないか)、少なくとも戦後は、仏教寺院が天皇の位牌を置いて法要する等のことは、もちろん全ての寺院ではないが、特定範囲の寺院には許されてきた。遺族ともいえる天皇家もまた、それを迷惑に思って封じたりはしてこなかった。
 泉涌寺の「霊明殿」には、天武以降の奈良時代の天皇以外の全天皇(とされる。だが、特定の天皇以降だろう)の「位牌」があって、毎朝読経がされている、とこの寺院で聞いた。
 なお、陵墓それ自体は寺院の土地とは区別されつつ、特定の天皇(・上皇)ゆかりの寺院には、当該天皇(・上皇)の位牌が正面に一つまたは一~三程度置かれて法要を行う畳敷きの部屋が現在でもあることがある(例、仁和寺、青蓮院等々)。その室がある建物に向かう、唐破風であったりする「勅使門」が現在でもあることもある。
 ○ 結局のところ、櫻井よしこのように、天皇・皇室の<宗教>を神道に<純化>させて、仏教と切り離したい、または切り離すのが天皇家の歴史的伝統だと理解している人物が、なんと国家基本問題研究所理事長であっても、いるのかもしれないが、それは過っている、ということだ。
 櫻井よしこは、「無知」を自覚、自認しなければならない。

1523/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④05。

 ○ 櫻井よしこは、日本の一般国民の日常的な神仏の感覚を侮蔑してはいけない。
 神仏の区別の曖昧さ、または神仏混淆・習合、についてつづける。
 一回だけ、本堂か本殿かの前に立って、手を合わせ始めて、一瞬か数秒か、ここは神社だったか寺院だったかが分からなくなっていたことがあった。両掌で叩いてしまっては、仏教寺院ではたぶんいけない。
 それは奈良県桜井市の「談山神社」(中大兄皇子・中臣鎌足の「談」の地とされ、後者を神として祀る)で、こう書くと神道「神社」であることが明らかだが、山の斜面の広い境内や一三重の塔などには、仏教寺院であっても不思議ではない雰囲気がある。
 この神社の建築物もきっと、仏教の影響を受けているか、かつては仏教寺院そのものだったのだろう。
 神道神社の本殿・正殿であっても、千木や鰹木類は全くない、寺院の本堂だと言われても納得してしまうようなものは数多くあるのではないか。拝殿も同様だ。
 神仏の分かち難さは、いわゆる<七福神>信仰でも分かる。
 この七福神は、それぞれの一つずつについても、神と仏の区別が明確にはなされていないように見える。「えびす(恵比寿)」だけはどうやら神道上の神のような気がする。
 しかし、江ノ島神社について、江島「弁財天」と言ったりするが、「弁財天」は神道の神なのか。 
 また、混淆しているわけではないが、新しく10年ほど前から関西には寺院90・神社60の計150寺社からなる<神仏霊場会>なるものがあり、専用の朱印帳も販売している。神道神社と仏教寺院が同じ一列に並んでいる。
 <神道は日本の宗教です>と意を決したように( ?)語る櫻井よしこには、このような現実は見えているのだろうか。
 ○ ついでに言うと、仏教もさまざまだ。ほとんど表面的な外観のみでいうと、長崎市の崇福寺・興福寺は赤色が目立って異国の中国ふうに感じ、宇治市の万福寺(隠元・黄檗宗)もまた日本的でない厳しさと古さを感じる。
 これらの<異国>を感じる仏教寺院に比べれば、他の日本の寺院はすっかり日本化しているようだ。例えば、東京・浅草寺、成田・新勝寺や京都・清水寺は、あるいは奈良・興福寺は、すっかり日本の景色になってしまっているだろう。
 おそらく宗教・仏教の経典解釈も、昔のインドまたは中国のそれとは異なってきているに違いない。
 もっとも、巨大な仏像(東大寺、鎌倉・高徳院等)や大きな石仏は、少なくともかつての日本人には異国を感じさせたものではなかったかと想像する。
 また例えば、奈良県高取町・南法華寺(壺坂寺)の本尊仏の正面に向けた「眼」の大きさは、インドかまたはそれよりも西方の地域を想像させもする。日本の仏像のかなり多くは、正面向きであれ、斜め下向きであれ、眼は細長いように見えるからだ。
 そしてまた、仏教建築・仏教美術も、とっくに日本のものに、日本の「伝統」になっているだろう。鎌倉時代以降だっただろうか、運慶・快慶ら制作の仏像・金剛力士像等々の存在、その他今に残る仏教「絵画」等々、さらには<禅庭>、を抜きにして、日本の「文化」を語ることはできないだろう。
 神道・神社よりも仏教・寺院の方が大切だなどとは、一言も主張していない。
 櫻井よしこは、国民・一般庶民でも感知できる日本の歴史や文化にとっての仏教や寺院の存在の大きさを、いかほど認識しているのか、きわめて疑わしい、と指摘している。
 櫻井よしこは、国民一般の庶民感覚を侮蔑しているのではないか。
 ○ 天皇や皇族の<陵墓>のテーマに移る(戻る)。
 櫻井よしこは、聖徳太子に論及する際に、神道によって「寛容に」導入された、という意味でしか「仏教」に触れなかった。
 しかし、櫻井よしこは知っているだろうか。聖徳太子とその母親・(最後の)妻は、少なくとも明治期に入るまで、<仏教>式で祭事が行われ、その陵墓は仏教寺院によって管理されてきた。
 根拠文献は手元に一つもないが、大阪府・叡福寺の現地を訪れてみれば、すぐに分かる。
 石段を上がってこの寺の山門をくぐると、真正面の北方向に、聖徳太子らの陵墓はある。本堂や多宝塔はこの南北の中心線よりも西側にあり、寺務所は東側にある。陵墓へ直線で進めるように中心線部分は空いている。感覚としては、寺の境内の中、少なくとも中央の奥に、陵墓がある。
 現在の管理の仕方はのちに言及するが、江戸時代末期まで、法形式にはともあれ、この寺が聖徳太子のいわば菩提寺であり、法要や墓の維持・管理がこの寺によって行われてきたことはほとんど間違いがないだろう。
 それにまた、この寺のある町は、大阪府南河内郡「太子(たいし)町」という。
 なお、同じ町内には敏達天皇(即位572-)、父親の用明天皇(同585-)、孝徳天皇(同645-)の陵墓(とされるもの)もある。
 今回は以下を参照している。即位年は後者による(争いはあるのかもしれない)。
 藤井利章・天皇の御陵を知る辞典(日本文芸社、1990)。
 別冊歴史読本/図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 
聖徳太子については非実在説もあるし、(歴史教科書中への)厩戸皇子への名称変更説もあるらしいが、伝統的な理解によると、日本の初の仏教寺院だとされる大阪市・四天王寺は聖徳太子ゆかりだった。また、世界遺産・法隆寺(奈良・斑鳩町)もまた聖徳太子に最も関係がある。その西方にあって法隆寺とも縁があるかに思える古墳は、暗殺された、母方の叔父にあたる崇峻天皇の(本当の)墓ではないかとの説もある。
 梅原猛は以下の本で、法隆寺は聖徳太子の「怨霊」を封じ込めるための仏教施設ではないか、とした。たしかに、南大門の柱の本数は奇数で、真ん中は(中から外へも)出にくくなっている。
 梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972/新潮文庫1981)。
 ともあれ、聖徳太子といえば、すぐに<仏教>を連想させるほどの、仏教または寺院と関係の深い、日本最初の人物だ。
 櫻井よしこは、この点を、完全に無視しようとしている。
 「無知」であるか、何らかの<政治的動機>があるかのどちらかだろう。
 ○ R・パイプスと櫻井よしこを比べてしまって、恥ずかしいことをした。
 L・コラコフスキーと関連づけてしまうのは、狂気の沙汰だ。
 歴史と思想に関する豊かな知見、それらへの深い思索と洞察、かつ鋭く適確な政治的感覚をもった人物またはリーダーは、日本の<保守>界の中には、いないのだろうか。
 日本会議会長・田久保忠衛、国家基本問題研究所理事長・櫻井よしこ。
 
こう書いて、ぞっと戦慄が走る。

1521/L・コワコフスキのいうマルクス主義と櫻井よしこ。

 レシェク・コワコフスキ(Lesek Kolakowski)は、ネット情報によらず、1967年刊行の下掲書の「訳者あとがき」によると、こう紹介されている。
 L・コワコフスキ(小森潔=古田耕作訳)・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)
 1927年、ポーランド生まれ。
 第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。スターリン体制のもと。
 1954年以降、ワルシャワ大学などで教師。
 1955年、若い知識人党員(ポーランド統一労働者党)向け雑誌を編集。/28歳。
 1957年、ポーランド統一労働者党〔=共産党〔秋月〕〕の「官僚制を批判しすぎ」て、上の雑誌は廃刊。
 1957年~1年間、オランダとフランス・パリに留学。
 1964年、最初の出版(1957年完成、ワルシャワ「国立出版所」でおさえられていた。1965年、ドイツ語訳出版)。
 1966年、ポーランド統一労働者党から除名される。
 1967年の時点で、ポーランド・ワルシャワ大学教授(哲学)。/40歳。
 以上。
 Lesek Kolakowski, Main Currents of Marxism (初1976) -49歳に、この欄で少し言及した。
 この『マルクス主義の主要な潮流』には、なぜか、邦訳書がない。
 上掲邦訳書では自らを「マルクス主義者」の一人と位置づけている。例えば、p.228。
 しかしながら、上記の履歴でも一端は分かるが、この人は、現実にいた「マルクス主義者」-とくにスターリンだと思われる-を厳しく批判する。
 もちろん、スターリンからソ連・マルクス主義はダメになった、という(日本共産党・不破哲三的な)理解をしているわけでは全くないと思われる。W・ルーゲもそうだったように、レーニンについては実感がなくとも、この人もまた、スターリンが生きている間に、その同じソ連・モスクワで生きていたのだ。
 上掲邦訳書に収載されたコラコフスキーの満29歳のときの一論考(1957年1月)の一部は、つぎのように書いている。邦訳書から引用して紹介する。但し、一部、日本語の意味を変えないように、表現を変えた。/は本来の改行箇所ではない。
 ①「『マルクス主義』という概念は、その内容を知性が決定するのではなく機関が決定する概念となった-<略>。『マルクス主義』という言葉は、世界に関して、ある内容的に明確な見解を抱く人間を示さないで、特定の心構えの人間を示す。/
 この心構えの特徴は、最高決定機関の指示する見解を従順に受け入れることである。/ こういう視点に立てば、マルクス主義がどんな現実的内容を持っているかの問題は、意味がない。/
 最高決定機関が示す内容を、そのつどよろこんで受け入れます、と言明すればマルクス主義者になれる。//〔改行〕
 だから1956年2月〔フルシチョフによるスターリン批判・秘密報告。昭和31年-秋月〕までは実際に、社会主義を建設する手段は革命的暴力しかないという見解の持ち主だけがマルクス主義者(したがって改革主義者、形而上学論者、観念論者)であった。/
 ところが周知のように、1956年2月以来、話は逆になった。/
 つまり、いくつかの国における社会主義への平和的移行の可能性を認める人だけがマルクス主義者である。/
 こういう諸問題で誰が一年間マルクス主義者として通用し続けるのか-これを正確に予見するのはむつかしい。/
 とにかくー、それを決定するのは私たちの任務なのではなく、最高決定機関の任務なのである。//
 まさにこの理由から-これこそマルクス主義の機関決定的性格、その非知性的性格を示すものだが-、本物のマルクス主義者は、いろんな信条を公言しても、そういう見解の内容は理解しなくてもよい。<二文略>/
 マルクス主義の内容は、最高決定機関によって確定されていたのだから。」(p.5-6)
 ここまでの二倍以上の同旨が続いたのち、こうある。
 ②「科学の進歩によって、手元の諸概念と研究方法の数が、マルクスの著作で適用されているよりも、もっと増やす必要が生じただけでなく、マルクスの見解のいくつかを修正したり、疑ってみる必要も生じてきた。/
 ひところ『最高決定機関』みずからが、国家の発生に関するエンゲルスの幾つかのテーゼは誤りである、と告示した。/
 こういう修正の理由説明をこの機関は別段やろうとしなかったが、これはこの機関の活動の、一般原則どおりである。<一文略>/
 また最高決定機関は、孤立した一国における社会主義社会の建設は不可能だというマルクスのテーゼを否認した。/
 スターリンが『一国だけの社会主義』という国家観をもって登場したとき、トロツキーは正統な古典的マルクス主義者として、マルクス主義の根本原則からの逸脱だとして彼を非難し、その仕返しにスターリンから、反マルクス主義と宣告されたのである。//
 …、とにかく、こういうふうになされた論争のスコラ的不毛さは容易に認識できる。/
 国際状勢がマルクスの頃とは違ってきたし、マルクス自身が、社会主義の見通しを国際的規模での、そのつどの階級構造に依存させて考察するように奨めたのだと、-スターリンの言うがごとく-主張される場合、マルクスが用いた一つの思考方法がたしかに参照されてはいるが、あいにくこの一つの思考方法たるや、あまりにも一般論的であり、現実を合理的に考え抜こうとする人ならば誰でもしなければならないことなので、『マルクス主義的』思考の独特なところを少しも示していないのだ。」(p.9) 
 まだずっと続くが、この程度にする。
 1957年(昭和32年)初頭にこのように書いていた人が、ポーランドにはいた(ちなみに、Z・ブレジンスキーもR・パイプスも、もともとはポーランド人)。
 29歳のコワコフスキが「教条的」ではなく「自由」である(教条的でないという意味では)ことは明確だ。
 「最高決定機関」の歴史記述や理論・概念等を「従順に受け入れる」ことをしている日本共産党の党員がいるとすれば、そのような人々に読んでいただきたい。コラコフスキーの皮肉は相当に辛辣だ(反面、この程度の<自由>は、当時のポーランドにはあったとも言えるかもしれない)。
 また、マルクス主義者とは「特定の心構えの人間」を示す、という叙述は、日本の現在の<保守>の一部の人々・雑誌読者にも、読んでいただきたい。
 櫻井よしこのいう<保守の気概>をもち、<保守の真髄だ>という観念的主張部分を「従順に受け入れる」「心構え」をもった人たちが<保守>派なのでは全くない。むしろそういう、自分の主張する<保守>観念に従えふうの文章を書いている人物は、「教条的」共産主義者とともに(共産主義者とはたいてい観念主義者だが)、きわめて危険だ。

1519/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④04。

 ○ 櫻井よしこが日本文明や日本の宗教について語るときに、神仏混淆、神仏習合の歴史に言及しないでただ「神道は日本の宗教です」と言うのは、日本人一般の庶民感覚をも侮蔑している。
 神道と仏教の違いを不明確にしか了解していないままでか、かなり意識して両方ともか、は人によって異なるだろうが、日本人の多くは、神道と仏教のいわば<混在>を何となく感じて生きているのだと思われる。
 街角の小さな神か仏に自転車で近づいて、前で手を合わせて戻っていったまだ若い男性をいつぞや見かけた。あれは、神道の小さな祠だったのか、小さな石仏の地蔵だったのか。
 日本文明とか日本の宗教とか語りつつ、櫻井よしこはいかほどに、日本人の平均的な<宗教>観を知っているのか。神・仏の違いや関係がどう意識されているのかを知っているのか。
 櫻井よしこは、日本国民一般を侮蔑しているのではないか。
 以下では、神仏混淆について<感じ知っている>ことを書く。
 ○ いつの頃か、おそらく平安時代には生じていたのだろう神仏混淆・習合の痕跡は、現在でもあちこちで、つまり普遍的に認めることができる。
 毎日をただ忙しく過ごしている櫻井よしこは、例えば、浅草寺には行かないのかもしれない。また、かりにこの浅草の寺を訪れても、つぎのことに気づかないだろう。
 浅草寺(せんそう-)の本堂から東へと抜ける道(境内の道状の通路)に面して、浅草神社(あさくさ-)という神社がある。ときには仏教寺院の一塔頭のごとき位置づけで神社ふうの建物があることがあるかもしれないが、この神社は建前的にも寺院とは別で、別の独立の宗教法人だろうと思われる。寺とは別に「認証」を受けているだろうが、申請の場合に神道・仏教の別くらいを記載しないことはありえないだろう。寺とは別に、ご朱印もいただける。
 実質的にいえば、仏教寺院の境内の中に神社があるように見える。おそらくかつてから、寺と神社はほぼ一体のものとして、すぐ側で並立しながら、あの浅草の地に存在してきたものと思われる。それが今でも残っているわけだ。
 仏教寺院でありながら、神道的雰囲気を感じることもある。
 本堂の前で手を合わせるとき、すぐ上か、少しだけ後ろに「鳥居」が立っていることがある。ほとんどではないが、決してほんの一部というわけでもない。「聖天」との通称がある寺院に多いようだ。鳥居だけ「神道」というのではなく、かつての混淆・習合の痕跡が明らかに残っているのだと思われる。
 寺院敷地内の傾斜緑地(丘陵)に接して鳥居が立っていることがあった。たまたま通りかかった寺務所の方に尋ねると、「結界」(の印)だと答えてくれたが、質問の趣旨は、なぜ神道様式の鳥居が(「結界」表示のためであれ)使われているのか、だったのだが。
 前回あたりで神社神道の中の「稲荷」系というものに触れたが、仏教寺院としての「稲荷」もある。
 愛知県豊川市の「豊川稲荷」がそれで、仏教寺院(曹洞宗、妙厳寺)だ。
 ご朱印をいただくときに、「あれ?、稲荷って仏教ですか」という無邪気な驚きの言葉を発してしまった。「ここは、仏教です」(多くは神道ですという趣旨)で、少しは安心した。
 少しは雰囲気を思い出すと、神社建築物でも不思議ではないものとは別に、仏教的な(曹洞宗的な)建物もあった。
 しろうとの推測なのだが、おそらくは、かつては神社(稲荷)と寺院が隣り合わせで存在していたが、明治期に入ってどちらか一つへの選択(神仏分離)が要求されて、どちらかを廃止することなく、仏教の方を選んで、かつての「稲荷」を祀る施設もそちらの方に取り込んだのだろう。
 不動明王系なのか修験道・役行者系なのか、はっきり記憶しないが、境内にやはり鳥居が立っている仏教寺院があることがある。尋ねてみると、形が違って神社のものではないという答えだったのだが、日枝神社(東京、首相官邸近く)にある鳥居とよく似ていた。つまり、笠木の上に山の形をしたものがさらに付いていた。
 ○ こういうことを書いていると、半分は「美しい日本」の連載を続けるような、続けたいような気持ちがしてくる。
 明らかに日本的な、たぶんより正確には日本化した、または日本で初めて生まれた仏教の寺院というのも存在しているようだ。
 それらは、インドや中国にも、朝鮮半島にも見られないように思われる。
 かつてはインド・中国等にあったが、日本にだけ残った、というものでもないように思われる。
 つまり、伝来の仏教ではないが、日本のふつうの神社神道でもないような日本的宗教が(仏教と神道を混合させるような形で発生していて)、それらは無理やり、明治期以降に仏教の方に編別されたのではないか、と思われる種類の宗教や行事がある。
 ある仏教寺院で、本尊はないと言われて驚いたことがある。不動明王が本尊の場合には、崇拝対象の仏像はなく、紙に描かれているのを貼ってあるだけ、ということがある。
 修験道とは、そもそもいかなる宗教なのか。仏教の方に分類されているけれども。
 これとたぶん関係があるものに「役行者」信仰というのがある。
 「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは実在した人物・修行「僧」らしいが、その生誕地(奈良県御所市)だという寺(吉祥草寺)の本堂らしき建物に入って見ると、ふつうの寺院様式とはまるで違う。大きな仏像、仏壇というものの記憶ははなく、平たい台の上に仏具が置かれていて、むしろ素朴な神道神社の内部に似ているような気がした。
 こういうことを書いていくとキリがないだろう。
 ○ 櫻井よしこはいかほど知っているのか知らないが、おそらくは神道の影響も受けて、または日本の多様な自然によって育まれてきた、日本にしかないような<仏教>信仰もある、と考えられる。
 これらを無視して、日本の文明を、日本の歴史を語れるとは思えない。
 東照宮や豊国神社は神道形式だが、東照大権現、豊国大明神という場合の「権現」や「明神」は、仏教との関係を抜きにして説明することはできない。
 仏教宗派によって同じではないのだろうが、仏教の側の本地垂迹説による仏教と神道の一種の<統合>があった、という歴史事実を無視して、日本の神道をすら語ることはできないのではないか。
 ○ 櫻井よしこは、日本国民の日常的な神・仏の感覚を馬鹿にしてはいけない。そのような人物は、決して日本国家と日本国民を適切な方向に導かないだろう。
 国家基本問題研究所の役員たちは(一部のアホを除いて)、「長」の櫻井よしこの文章や発言をいちど「研究」してみたらどうか。その薄さ・浅さに驚くのではないだろうか。
 以上は専門書を見ないで、全くの<しろうと>の立場で<感じ知っている>ことを書いている。

1517/アメリカのR・パイプスと日本の保守・櫻井よしこ。

 ○ 櫻井よしこは相変わらず米大統領トランプに対する「ケチつけ」をしているようで、今年の最初の頃はサッター(David Satter)を使ってその対ロシア政策(らしきもの)にケチをつけているかと思ったら、週刊新潮の4/27号では、トランプの対中国・対北朝鮮政策にケチをつけている。
 そしていつものように ?、大半は自らの頭から出てきたものではなく、今週は、産経新聞外信部に属するらしき「矢板明夫」を情報源にしており、直接の「」引用だけでも20行を超える。
 そしてまた、上のDavid Satterもそうだったが、アメリカに関するこの人なりの情報源は、「保守」派だとはされるWall Street Journal にあるようで、この新聞の名がまた出てくる。
 いいかげんにしてほしい。
 それにまた、トランプにケチをつけるのならば、この大統領が Chemistry が合うといい、実際にもほとんどつねにこの米大統領を支持している日本の安倍晋三首相に対して、何らかのケチつけ、批判の矛先を向けてもよいと思うが、櫻井よしこは決して、安倍晋三を批判しない。
 安倍首相を批判しないからいけない、と言っているのではない。
 櫻井よしこの、論旨一貫性の全くの欠如を、非難している。
 そして、米大統領への批判的コメントのあとで、余行がある場合に必ずあるのは、<アメリカは信頼できない、ゆえに日本はしっかりしなければならない>、という呪文のような一文だ。
 <日本はしっかりせよ>。誰だって、こんなことくらい書ける。
 秋月瑛二はナショナリストのつもりなのだが、こんな櫻井よしこのような人物がどこかの「研究所」理事長として、ナショナル保守的な言辞を吐いて満足しているのかと思うと、本当にげんなりする。
 いいかげんにしてほしい。この人を「長」として戴いている人々は、もともとアホな人たちは別として、どうかしている。これはまた別に論及する。
 ○ ジャーナリストと言えば、下村満子という人物が、朝日新聞社にいた。
 つぎの書物は、内容はほとんど他人の言葉(インタビュー記事)で、それを(翻訳しつつ)要領よくまとめて少しコメントしているという点で、さすがにジャーナリストで、櫻井よしこによく似ている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988。原著は朝日新聞社・1984)
 下村満子は、1983年の夏(7-9月)に、アメリカのおそらくはハーバード大学の研究室で、リチャード・パイプス(Richard Pipes)と逢い、インタビューしている。その内容は、p.95-114。
 下村の、朝日新聞記者らしき質問や反応も興味深い。さすがに、朝日新聞だ。
 同時にまた、この年の初めまでソ連・東欧問題専門家としてワシントンにいてロナルド・レーガン政権に協力していた、R・パイプスの諸発言も、現下の諸軍事・外交問題を考えるにあたっても、すこぶる興味深い。
 すでにこの欄で少しは紹介したが、なるほど、研究者と同時に政策立案・提言者として、R・パイプスはこんなことを考えていたのか、と思わせる。
 次回以降に、より詳細は回す。
 ○ 当初の設定テーマと異なるが、再び櫻井よしこのことを考える。
 この人は「研究」者では全くなく、「評論家」としても三流だろう。ただし、反復するが、情報を収集して要領よくまとめて自分の言葉か文章のようにして発表するのは巧い。
 そしてまた、その際に、語っていない何らかの単純な<観念>・<前提命題>を持っている。例えば、D・トランプにケチをつけても、安倍晋三には絶対にケチつけせず、安倍首相を批判しない。
 もとより、櫻井よしこは政策提言家ではなく、それだけの思索も研究実績もなく、実際に日本政府等の政策提言的機関の一員だったことはないだろう。
 具体的な政策に関する意見が、けっこう揺らいでいる、変わっていることは、ある程度は述べたし、まだ根拠材料を持っている。
 こう書きたくなるのも、R・パイプスと比べているからだ。
 このR・パイプスの書物を見ても「研究者」であることは歴然としている(もっとも、いつか述べるが「情熱的」な部分はある。「研究」者であることと矛盾しているわけでもない)。
 しかし、同時に、かつてのレーガン政権の対ソ連政策の具体化に、実際に影響を与えた、具体的な<政策立案・提言家>でもあった。
 R・パイプスにすっかり惚れ込んだというわけではなく、この欄に書いていない種々のことも知っている。
 だが、櫻井よしことは、何という違いだろうか。この日本の人には、実際に現実に働きかける、強い執念も熱情もないだろう。それだけの知性も知識もないだろう。
 ただ毎日を、忙しく過ごしているだけだ。多数の書物を出版しているからといって、勘違いをしてはいけない。諸書物の内容のほとんどは、他人・第三者の考えだったり、文章だったり、あるいはとっくに公にされている事実だったりで、これらの寄せ集めなのだ。
 表面だけを見て、幻想を持ってはいけない。幻惑されてはいけない。この人物を何らかの目的でたんに<利用>しているだけ、という人々を除いては。

1514/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④03。

 ○ 桜の季節なので、ふと西行の作だとされる歌を思い出す。
 「願わくば、花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」。
 西行とされる歌にはこんなのもあった。
 「何ごとの、おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。
 これは伊勢神宮に関する歌だとされる。
 西行は(今の分け方でいうと)仏僧で、大阪・河南町の弘川寺(ひろかわ-)で没したとされ、そこに墓もある。訪れたことがあるので、知っている。
 弘川寺といえばむろん仏教寺院で、仏僧・西行は…、と考えると、伊勢神宮にかかわる歌というのが奇妙に思えてもくる。
 櫻井よしこ批判に、すでに入っているかもしれない。
 伊勢神宮は(たぶん当時も、仏教ではない)神道施設だったはずだが、神道は日本人にとって仏教の上に立つ、上位の包括的宗教なのだろうか。
 いや、神も仏も当時は明確に区別されておらず、それぞれが並立して、それぞれの役割を同時にともに果たしていたのではないだろうか。
 日本文明を「神道」に純化させようとするのは、はなはだ危険なことではないか。
 ○ 櫻井よしこの書いたものや語ったものを読むと、以下多少は誇張するが、まず、この人物自身の認識・見解・論評はどこまでなのか、どこが第三者・他人のそれらなのかが明確ではない、ということに気づく。
 週刊新潮や同ダイヤモンドとかの連載ものが典型だ。
 光格天皇に関する話題は、産経新聞にこの天皇の記事が載る-少し調べて藤田覚の書にも<皇威>高揚の旨が書いてあったのでこれをテーマとして選ぶ-さっそく藤田著にしたがって長々と紹介して、立派な天皇だった、と結ぶ。
 いささか簡潔化しすぎたかもしれないが、要するに、内容のほとんどは、藤田覚の(しかも一冊の)本に依存している。
 その本を見ていて、その孫の孝明天皇の存在にも気づいたに違いない。
 そこで、つぎの回に孝明天皇を取り上げたが、この天皇は<皇威>はともかくも、旧幕府側の天皇だったことを知って、単純には美化できない、と分かる。かくして、藤田著とは別の本も参照して、<譲位は最後の武器>という話にまとめ、現今に譲位問題があるので考えさせられる、と締め括る。孝明天皇は脅かし ?つつも、結局は譲位などしていないのだが。
 ざっと、こんな思考経路だろう。二回目も、ほとんど二つの本のみに拠っている。
 「」付き引用だと第三者の文章だと読者も分かるが、そうではなく抜粋的に要約すると(「パラフレイズ」すると)、第三者・他人の文献を参照していながらも、読者にはまるで著者自身が生み出した文章のように思えてしまう。
 これは「ジャーナリスト」が得意なトリックだ。情報を収集し(input)、要領よくまとめて発表する(output)。情報量の多寡とともに<要領よくまとめる>ことが彼ら・彼女らにとって重要で、決してその人たち自身が作り出した新鮮な情報(事実・思考・評価等々)では全くない。  
 週刊新潮の3/09の聖徳太子に関する文章もほぼ似たようなものだろう。
 聖徳太子といえば強く「仏教」に関連づけても不思議でないが、そうはしない、という結論めいたものが櫻井よしこにはある。あくまで神道の寛容性との関係でのみ仏教に言及する。
 そう決めれば、あとはほとんど、教科書的な説明と、情報として知った文部省の言い分や、「山田氏が語った」で始まる、国会議員・山田宏の言葉の長々とした引用または要約だ。
 簡単に5行程度で済ませることのできる主題を、オープンになっている情報によってあれこれと加工し、つなぎ合わせて、二頁ぶんにしているにすきないだろう。
 櫻井よしこの独創性はどこにあるのか。たんに「ジャーナリスト」ならばそれでよいのかもしれない。なぜならば、ジャーナリストの「心髄」は、上のような<技能>にあるからだ。
 ジャーナリストとはその程度のものだと思っている。筑紫哲也も、若宮啓文も、鳥越俊太郎も同じく「ジャーナリスト」だった。
 しかし、「研究」所理事長となると、そうはいかないだろう。
 櫻井よしこについて論及するたびに、<国家基本問題研究所>の(うちの「アホ」の先生方以外の)役員たちに対して、この人物を長とする団体の役員でいて「恥ずかしくないのですか」と問い質したく思っている。
 ○ もう一つ櫻井よしこの文章を読んで感じるのは、この人は、専門的研究者を侮蔑しているのではないか、多少は知識・教養のある読者を侮蔑しているのではないか、そして日本人一般の庶民感覚を侮蔑しているのではないか、ということだ。
 前後するが、昨年11月の天皇関連会議での櫻井よしこの発言内容は、あらためて読んでも<悲痛>だ。
 つまり、悲しくて、痛々しいほどだ。自分自身で情けないと感じないのだろうか。上記研究所の平川祐弘・加地伸行ら「アホ」以外の役員先生、いや「研究」者の方々は、自分たちの長として<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 戻る。つまり、櫻井よしこは、重要なことであっても、少しは厳密に語らなければならない主題であっても、あっけらかんと単純かつ観念的に書いたり、語ったりしている、と感じる。
 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この論考について、1/30のこの欄で、すでにこう書いた。
 「『観念保守/ナショナル』丸出し。櫻井よしこが保守論壇の(オピニオン・)リーダーだとされることがあるのは、恥ずかしく、情けない。かつまた、恐ろしい」。
 したがって無視してしまいたいが、この人物を<保守>の代表格と見ている者が<右にも左にも>多いような気もするので、あえて(本来は精神衛生上避けたいが)関与する。
 計6頁と短いからと釈明することはできない。日本文明について(あるいは「保守の真骨頂」について)語りながら、「仏教」にはいっさい言及しない。そして、古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」と書く(p.85)。
 恐るべき単純化だろう。
 もともとは天皇陵墓と関連させて天皇家と「仏教」との間の、明治維新時以降現在までの年月よりも長い関係について、叙述する予定だった。これは先に回す。
 それよりも、そもそも櫻井よしこは「神道」をどう、何と理解しているのか、という問題もあるのだった。
 上の文章や、読んだことのある櫻井のものからは、神道または日本の宗教に関する深い蘊蓄 ?、「研究」成果を感じたことはまるでない。
 ひょっとして櫻井よしこは、神道を、<単色・一定>のものと理解しているのではないか
 そうでなければ、<神道は日本の宗教です>という簡単な一文になぜなってしまうのだろうか。
 ここにも、櫻井よしこに対する、強い疑いがある。
 余計なことでなければよいが、秋月瑛二が「感じて知って」いることを以下に書いておこう。
 ○ 神道と言ってもさまざまだ。「八百万(やおろず)の神」とかいうが、全ての神社が無数の神々を祀っているわけではない。
 常識的に、神社本庁を包括法人とするいわゆる神社神道と、<教派神道>に分けられる。
 但し、前者に入るか否かはときによって異なりうる。靖国神社も梨木神社(京都、三条実美)もそうだ。
 前者のいわゆる<神社>としては、「八幡」(応神天皇)、「天神(天満)」(菅原道真)、「稲荷」系などが有名かつ多数で、決して、櫻井よしこが想定しているかもしれないような、天照大神(-天皇・皇室)系だけではない。これはむしろ、数の上では少数派だ。
 天皇・皇室系に、明治神宮、平安神宮、近江神宮(大津市、天智天皇)などがあって規模の大きいものもあるが、上に挙げたのは(古そうでも)全て、明治期以降に設置されている。
 意外に知られていないと思えるのは、一つは、素戔嗚尊-大国主命系の神社だ。
 この系列の神社が現存しているのは、日本国家または「大和朝廷」の成立にかかわる、古くかつ強い伝承が残ってきたからだと思われる。出雲大社が代表だが、祭神を多少とも気にして参拝しているかぎりでは、他にも少なくとも数十はあると思われる。この系列の神々は、日本書紀・古事記の上でも現在の天皇・皇室につながっていない(はずだ)。
 もう一つは、いわゆる<南朝>系、後醍醐天皇・楠木正成らを祭神とする神社だ。
 湊川神社(神戸市)がよく知られるかもしれないが、吉野神宮(奈良県)その他の吉野地域にある神社、その他いくつかある。
 ともかく、究極的にはすべて(菅原道真も含めて)天皇・皇室につながるのだ、と櫻井よしこは理解しているのかもしれないが、強引すぎるし、実態は決してそうではないと思われる。
 天照系でない神々や、徳川家康、豊臣秀吉を神として祀る神社もある。決して、これらは<教派神道>系ではない。
 櫻井よしこは、<教派神道>を除くとしても、それ以外の神道・神社を<単色>で見ているのではないだろうか。
 また、追記すれば、教義がないように一見感じるが(櫻井よしこもそんなことを書いていた)、しかし、<吉田神道(吉田神社、京都)>などのいくつかの<~神道>があり、理論 ?的にも、いくつかの分かれがあるように、<しろうと>には感じられる。
 ○ それにもう少し学問研究的な ?話をすれば、いわゆる<国家神道>の時代、神社神道は、制度的・行政的には「宗教」として取り扱われなかった、という、「宗教」概念にかかわる、根本問題がある。
 戦前の文部省は、神社神道以外の<教派神道、仏教、キリスト教>等を管轄していたとされる。そして、神社神道の「宗教」性はむしろ曖昧にされた、あるいは明治期又は明治憲法のもとでは、神社神道は「宗教」ではなかった、ないし少なくとも、上記のような平凡かつ世俗的な ?宗教とは区別される、それだけ「聖なる」ものだった、という指摘や研究もある。
 櫻井よしこは、平気でかつ単純に<神道は宗教だ>と語る。しかし、例えば、現憲法上の<国家と宗教>関係条項から見ると、神社神道(靖国神社も今は神社本庁下にある)は「宗教」ではないと理解・解釈した方が、天皇陛下ら皇族も内閣総理大臣も、安心して、靖国神社に参拝することができるのではないか ? なぜなら、靖国神社には「宗教」性はないことになるからだ
 論理的・概念的にはこのように帰結されることを知ったうえで、櫻井よしこは、<神道は宗教>だと書いているのだろうか。
 以上、①神道は、かりに神社神道に限っても多様、多彩であって<単色>ではない、②神道(神社神道)の「宗教」性自体について、日本のかつての歴史も含めての考察が必要だ。
 櫻井よしこは、前者をどう理解しているのか。上の後者の作業をしているのか、してきたのか ? きわめて疑わしい。
 櫻井よしこを念頭に置いてではなく、一般論として書いておくが、賢明な日本国民は、<狂信的扇動家>にダマされてはいけない。
 冷静な<理論的指導者(たち)>が必要だ。
 国家基本問題研究所の自称<研究>者たちは、本当に「国家基本問題」を<研究>しているのだろうか。理事長を見ていると、すこぶる疑わしい。

1510/日本の保守-宗教・神道と櫻井よしこの無知④02。

 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-89。
 この櫻井よしこの論考は、月刊正論3月号の<ポスト安倍・論壇は誰か ?>を主題とする、<保守>に関する特集の中にある。そして、この月刊正論3月号は、10人以上の論者に「保守」を語らせながら(その中にこの欄で紹介した小川榮太郎のものもあった)、前に八木秀次「保守とは何か」、最後に櫻井よしこ「これからの保守…」をもってきてそれらを挟むという編集スタイルをとっている。
 このように八木秀次と櫻井よしこを<保守>論者として重視するという編集姿勢そのものにすでに、産経新聞的または月刊正論的、または月刊正論編集部・菅原慎太郎的な<保守>の現況の悲惨さ、惨憺さが現れているだろう。
 上の櫻井論考は6頁あるが、神道・古事記等々は出てきても、「仏教」という語は一回も出てこない。
 櫻井よしこは「保守の特徴」の第一は「日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置」くことだとしている(そして「世界に広く心を開き続ける」ことだとする)。
 この程度のことは誰でも語ることができるし、場合によってはナショナル左翼もまた、この文章自体に反対することはないかもしれないレベルのものだ。
 問題はもちろん、「日本文明の価値観」として何を想定するかにさしあたりはなる。
 櫻井よしこが一切「仏教」に触れていないことは既に記した。櫻井が頻繁に言及しているのは、「十七条の憲法」と「五箇条のご誓文」で、後者は「ご誓文」だけの場合も含めて、(6頁に)7箇所も出てくる。
 「日本文明の価値観」を示したものとして櫻井が最初に挙げるのが「十七条の憲法」で、これと「五箇条のご誓文」は重なるとか似ているとかしきりに言っている。
 そして、聖徳太子・十七条の憲法-天武天皇・古事記-神道-天皇・皇室という流れの中で、「神道」を位置づける。
 明記はないが、「五箇条のご誓文」は(神道・)天皇・皇室中心の<明治>国家の最初の宣言文書という扱いだと理解して、まず間違いないだろう。
 ○ 「十七条の憲法」といえば聖徳太子だが、この人物名の問題は別として、聖徳太子は、仏教を日本で容認してよいかどうかの蘇我氏と物部氏の間の紛議・対立に際して前者を支持して仏教容認派勝利を決定的にした。これは、中学生の教科書にもあるだろう。
 櫻井は上の論考でも最近の別の文章でも聖徳太子を高く評価しているが、「仏教」とのかかわりはどう見ているのだろうか。週刊新潮2017年3/09号にこうある。
 「神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である」。
 この部分以外に「仏教」は出てこない。
 しかも、「異教」のそれを受容したことに日本文明または神道の「寛容」性を見る、という文脈の中で位置づけている。
 この頃からおよそ1400年経った。しかも150年ほど前にすぎない1800年代の後半までは、<神仏混淆>・<神仏習合>と言われる時代が長く続いた。かりに600年~1850年として、1250年も続いた。
 この歴史を、櫻井よしこは無視、または少なくとも軽視しているのではないか。
 天皇譲位問題に関するこの人の主張の基礎と同じく、ほとんど明治期以降にしか目を向けていないのではないか。あるいは、<明治日本>を最良・最高の日本だったと観念しているのではないか。
 別の観点から批判的にいえば、日本文明は「異教の仏教」を受け容れたが、基本的にいえば、キリスト教やイスラム教を受容しなかった。
 キリスト教・イスラム教と仏教は、日本人と日本国家にとって、明らかに違うだろう。
 しかし、櫻井よしこの文章には、そこに立ち入っていく姿勢・雰囲気はまるでない。
 聖徳太子以前の時代にだけ「日本文明」を限れば別だが、今や、あるいは飛鳥・奈良・平安等々という時代を通じてずっと、ある程度は日本化した、また日本で新登場した(新解釈された)と見てよい「仏教」を無視または軽視して、日本の伝統的な「文明」も「文化」も語ることはできない、と考えられる。
 櫻井よしこの視野は、偏狭だ。
 ○ 西尾幹二は「仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」と述べた(前回参照)。
 そのとおりだ。諸天皇・皇族は、<信教>のことなどを考える物質的・精神的余裕がなかった時代は別だが、おおむね神仏をともに崇敬していて、中には「仏教」により強く傾斜した天皇も少なくなかった、と思われる(逆に神道の方を重んじた時代・天皇もあったかもしれない)。
 キリがないだろうが、例えば西国三十三カ所巡拝(観音菩薩信仰)は平安時代の花山天皇に由来するともされる。
 また例えば、京都市には今でも無数に(正確には数多く)「門跡」寺院というのが残っていて、これは天皇・皇族が出家して法主等を務めた「仏教」寺院を意味する。
 北白川の曼殊院には秋篠宮殿下家族がご訪問の際の写真が掲示されている。有名寺院の中でも、他に、青蓮院、聖護院、三千院、仁和寺、大覚寺等々、数多く「門跡」である仏教寺院はある。
 櫻井よしこの蒙を啓くためにも、天皇・皇族の<墓陵/陵墓>について、以下に述べる。
 なお、秋月瑛二はこの問題についても<専門家>ではない。そうでなくとも、櫻井よしこがきっと知らないことを知っているし、櫻井よしこが関心を持たないことにも興味をもつのだ。
 ○ 櫻井よしこは、光格天皇を、天皇・皇室の<皇威>を高めた天皇として高く評価していたようだ。
 しかし、光格天皇は、櫻井よしこが本当は反対だったはずの<生前退位>を行なった天皇(最後の)であり、「院政」を敷いたかはこの概念の理解にもよるだろうが、現在のところ最後の<上皇>だった。
 天皇・皇室問題に関連して櫻井よしこがこの天皇に触れたとき(週刊新潮で取り上げたとき)、上のことはどの程度意識されていたのだろう。
 かつまた、光格天皇の死後どのように天皇の「墓陵」は造営されて管理された(管理されている)のか。
 いつぞや「美しい日本」との連載ものの中で下り参道の珍しい例として泉涌寺(京都)を挙げ、ほんの少し「御寺(みてら)」と呼ばれて天皇陵も周辺にあることを記した。
 明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇の墓陵は「後月輪陵」といって、泉涌寺の周辺にある。以下、地図も付いて分かりやすいので、つぎの書物を参照する。
 藤井利章・天皇と御陵を知る辞典(日本文芸社、1990年)。
 祖父の仁孝天皇も同じ「後月輪陵」、父親の孝明天皇はその東の「後月輪東山陵」で、-現地で確認したことはないが-泉涌寺の近くでいわば寄り添っている。
 さらに、17世紀最初の皇位継承者だった後水尾天皇から、明生、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、そして1770年即位の後桃園天皇まで、200年近くの各天皇の墓陵・御陵は全て「月輪陵」であり、泉涌寺の周辺に集中している。
 何となく「御寺(みてら)」という語を印象的に記憶していたが、こうして見ると、泉涌寺と天皇(家)の関係は、少なくとも日本近世ではきわめて密接だった。
 いや、場所的に近いだけで、寺院と墓陵は別だろう、という人が必ず出てくるので、さらに立ちいる。とりあえずは、上掲書の後水尾天皇の項にこうあるとだけ紹介する。
 「…崩御され、…泉涌寺において陵地を決定し、…夜入棺して、泉涌寺の僧徒がこれを手伝った」。p.243。
 つづける。

1508/日本の保守-「宗教観念」・櫻井よしこ批判④。

 ○ 西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)に、つぎの旨の叙述がある。p.41-70、p.78-、p.95-101、p.167など。(以下、必ずしも厳密でない再述がありうる。但し、大きくは誤っていない)
 水戸光圀・大日本史の編纂にあたって論争点になった三つの「難問」があった。
 ①南朝(後醍醐)は正統か-楠木正成は逆賊でないのか、のほか、
 ②大友皇子(天智の子)は天皇としてよいか、②神功皇后を皇統の一代に数えるべきか。
 これらは、明治維新後の新政府の「歴史」理解の問題ともなり、「水戸学」・大日本史と同じ結論が維持された。
 ①南北朝のうち南朝が正統、②大友皇子は天皇に即位していた(弘文天皇と追号)、③神功皇后(=応神天皇の母)は天皇と同様には扱わない(天皇のように一代とは数えない)。
 以下は、内容も秋月の文になる。
 日本書紀は天武天皇とそれ以降の天武系の天皇のもとで編纂されたので、天智の子・大友皇子(母は伊賀采女)を天皇扱いにしているはずがない(当然だと思うので、確認しない)。大友が天皇に即位していたことを認めてしまえば、<壬申の乱>で天武は天皇を弑逆したことになるからだ。天皇から皇位を奪い取ったことになるからだ。
 大友が即位していなければ、辛うじて、天智天皇の死のあとの弟と子(天武からいうと甥)の間の<皇位継承の争い>という説明ができる。
 明治になって公式に大友皇子=弘文天皇とされたので、当然だが、その一代だけとっても(天智より後は)、日本書紀と今日の理解での各天皇の代数は、少なくとも一つずつ異なる
 <保守>の人々はときに、例えば櫻井よしこも、平気で<~代までつづく>と今日までの代数を示すが、これは明治期以降に「確定」 ?したものだ。
 ○ 同じく、西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)は、西尾自身の言葉として、つぎのことを主張している。同旨は多々あるようだが、つぎの一箇所に限る。p.40。
 明治新政府の「廃仏毀釈というのは善い意味でも悪い意味でも非常に影響の大きい運動」でした。「『国家神道』が唱道され、仏教を廃し神道を重んじる」ことになった。「それが天皇家の復活に寄与したという一面がある」。
 「しかし長い目で見ると、仏教を否定したのは精神史上マイナスであったといわざるをえません。仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」。
 神道の重視は「天皇家の復活には役立った」。「しかし、その結果、日本人の宗教を痩せ衰えさせてしまったという面があるのです」。
 秋月瑛二も、この辺りの理解に賛同したい。私は、神社も寺院もたいていは好きで(レーニンやロシア革命にだけ関心があるのではない)、全国のかなり各地を回っているが、神社・神道と寺院・仏教の違いや類似性、日本化した(おそらく神道の影響を受けた、強いて今日的に分類すれば)仏教・寺院の存在を、肌感覚で感知することがある。
 ○ 櫻井よしこの、以下の論考は、その<保守(主義)宣言>と理解して、今後も複数回とり挙げる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この中に、つぎの一節がある。
 「古事記は」、「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる。
 「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。p.85。
 このあと段落すら変えないで(改行することなく)、櫻井は古事記の話に入り、「自然が神々であり、それらはやがて人間になり、天皇と皇室が生まれたわけです」と、段落を結ぶ。p.85-86。 
 先に最後の部分に触れると、櫻井よしこは竹田恒泰の著を参照文献のごとく括弧内で挙げている。しかし、竹田恒泰もさすがに自然・神々・人間・天皇の関係を(永遠の自然史の流れとしてはともあれ)「事実」として主張しているのではなく、あくまで古事記に記述された<物語>の内容を説明しているだけだと思われる。
 しかるに、この櫻井よしこの書き方では、まるで天皇とは「現人神」だ。
 そのように「観念」するのはまだよいが、「神」と「天皇」・人間を同一視するかの叙述を「事実」のごとく叙述すべきではないだろう。
 そもそもはこのあたりにすでに、<観念・意識・精神>と<現実・事実>の境界の不分明な櫻井よしこの叙述の特徴が出ている。
 ○ 本来言及したいのは、上の点ではない。
 神道は日本の宗教である、というとき、二つの基本的な論点がある。
 一つは、そもそも「宗教」とは何かだ。明治期には、むしろ特定の<宗教>もどきのものとは神道は扱われなかったという逆説的な理解も可能だ。
 つまり、日本の神道は「宗教」ではなく、「伝統的習俗」類であって、例えば現在の憲法がいう「宗教」とは異なる、という理解も不可能ではないのだ。
 二つは、では、「仏教」は、日本の宗教ではないのか、という問題だ。
 上の引用部分では明らかではないが、櫻井よしこは明らかに、仏教よりも神道を重視している。一つだけとすれば、間違いなく、躊躇することなく、神道を挙げるに違いない。
 一つだけ取り上げる、又は最重視する「宗教」を敢えて名指しする、という考え方は、日本の<保守>あるいは日本国家や日本人にとって、望ましいことなのだろうか。
 ここで再び、冒頭近くに紹介した西尾幹二の主張・叙述に、目を向けるべきではないだろうか。
 櫻井よしこの「頭」は、観念的・単純で、偏狭なのだ。もともと関心があるテーマなので、つづける。

1496/日本の保守-歴史認識の愚弄・櫻井よしこ③03。

 ○ 櫻井よしこ的「保守」にはいいかげんうんざりしていると、既にいく度か書いた。
 本当は読みたくもないし、それについて何か書きたくもない。精神衛生によくない。
 しかし、自分自身が始めてしまったから、誰にも強いられない立場ながら、やむをえない。櫻井による米大統領トランプ批判(ケチつけ)や、その「天皇」・「宗教」観について、ある程度すでに、書き記す用意ができてしまった。
 ○ 前回に2015年戦後70年安倍内閣談話についての、週刊新潮(同年8/27)誌上での高い評価を見た。
 ところが、櫻井よしこは、この週刊誌の連載ものをまとめた書物では、何と微妙に、あるいはほとんど逆方向にすら、論評内容を変える「追記」を付加している。
 櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)、p.192。
 毎週の週刊誌読者に対して失礼だろう。また、櫻井よしこにとっての「歴史認識」とは何か、櫻井にとっていったん活字にした自分自身の論評とは何か、を強く疑わざるをえない。要するに、この人にとっては、歴史認識も安倍談話も、じつはどうでもよいのではないか。そのときそのときで適当に書いて原稿を渡せればよいのではないか。
 上の本の8カ月ほど前に櫻井は書いて、活字にした。
 例えば、談話は「安倍晋三首相の真髄」、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示す。/談話は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」
 ○ それが何と、上掲書では変質してしまう。これを読んだとき、秋月は、すぐさま、<保守論壇の「八方美人」>と感じて、その旨を一行、一言だけだが、この欄に書いた。
 この変化は、戦後70年安倍談話に対して、(私には当然のことだが)厳しい批判が明言されたことにあるようだ。
 櫻井よしこは、中西輝政と伊藤隆の二人を明示しつつ、「少なからぬ専門家から厳しい批判が寄せられた」と書く。上記、p.192。
 このような反応に櫻井よしこは困ったようで、かつまた、中西輝政らの批判の正当性に(ようやく?)気づいたようで、何とか綻びを繕おうとしている。
 櫻井は何と、つぎのようにここでは言い切っている。
 「両氏の主張、つまり談話批判は全くそのとおりであると認める」。
 中西輝政の批判の中には当然ながら、有識者「21世紀構想懇談会」の報告書によって国家の歴史解釈を規定すべきでない、ということがあった。
 にもかかわらず、週刊新潮の段階では櫻井は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」ことを、安倍談話を高く評価する根拠の一つにしていた。
 中西・伊藤らの主張・談話批判を「全くそのとおりであると認める」ということは、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」というかつての自分の読み方が、完璧に誤りだったと正面から認めているのに他ならない
 しかし、ここが櫻井よしこのしぶとい( ?)ところで、中西輝政が一部で「政治文書」という言葉を使っていることに着目して、つぎのように書く。
 両氏の談話批判は「全くそのとおり」だが、私(櫻井)が安倍首相談話を「評価する理由はそれが政治文書であるという点だ」
 唖然とするとしか、言いようがない。
 中西輝政が「政治文書」と語ったのはおそらく、十分に皮肉を込めてだろう。安倍晋三氏よ、日本国家の歴史認識を「政治」的に操作してよいのか、という意味だろう。ついでに記すと、西尾幹二も「政治的文書」という語を用いて表向き褒めるような導入をしつつ、そのあとで、談話の歴史認識を実質的に批判している(西尾幹二・日本/この決然たる孤独(徳間書店、2016)-原論考・月刊正論2015年11月号「安倍総理へ『戦後75年談話』を要望します」)。
 中西の「政治文書として賞賛措く能わざるほど素晴らしいできだ」という文章が、そのまま安倍談話を「政治文書」として高く評価するものと理解するのは、幼稚すぎる。批判をこめた皮肉だろう。
 すなわち、これまた、日本語文章の意味を全文の中で、種々のレトリックをくぐり抜け、行間も推察しつつ理解する、ということを櫻井よしこができないことを示しているだろう。
 さらに、櫻井は、やや意味不明だが、つぎのようにも書く。
 「政治文書」として高く評価できるが、「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」。上記、同頁。
 この部分は、週刊新潮誌上での、安倍首相談話は「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示した、という無限定の高評価と真反対だ。
 平然とこのように書けるのが櫻井よしこであることを、多くの国民は、とりわけ「左翼」ではない人々は、知らなければならない。「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」というニュアンスなど、2015年夏の時点では何も語っていない。
 本来はかつての文章を全面的に取消し、単行本に収載するに際してはこれを含めない、削除する、というのが、良心的なかつ正義感のある、自己懐疑心のある、立派な「ジャーナリスト」・評論家だろう。
 では、後から持ち出した「政治文書」として評価する、という論じ方は適切なのか。
 中西輝政らの指摘を知ったあとでの後出しジャンケンのごとき論法を持ち出すな、と言いたいが、まともに取り上げてみよう。
 簡単に、論駁できる。
 首相、内閣、大臣等々の談話は、すべてが<政治的>だ。
 彼らが発表する談話、声明等々は、すべて「政治文書」だ。もともと学者の研究論文ではない。
 その「政治文書」の中に、日本国と日本人の<歴史認識>に大きく関係する内容を、しかも根幹的内容として含めてしまってよいのか、というのがそもそもの問題だったのだ。
 櫻井よしこの論法でいえば、村山富市談話も、慰安婦にかかる河野談話も、「政治文書」だからという理由で、免罪されてしまうことになりかねない。
 櫻井よしこは、村山談話や河野談話に対して、「政治文書」か「歴史認識」・「歴史理念」を示す文書かの区別をしたうえで批判してきたのか。
 そんな区別をしていないだろう。
 しかるになぜ、安倍首相2015年談話については、2016年になって「歴史理念」は「村山談話を超えるものではなかった」が、「政治文書」であるという理由で「評価する」と、ヌケヌケと語れるのか。
 ○ 2009年にはすでに、櫻井よしこは信用できない、と感じてきた。
 このような人物を「保守」的「研究」団体の理事長にまつり上げる、又はかつぎ上げることをしなければならない<日本の保守>というものは、本当に絶望的なのではないかと、本当に危ういのではないかと、むろん櫻井のような人物だけなのではないが、強く感じている。
 櫻井よしこ「研究」を、さらにつづける。


1494/日本の保守-歴史認識を愚弄する櫻井よしこ③02。

 ○ 前回書いたものを読み直して、気づいて苦笑した。
 田久保忠衛について、某「研究」所の副理事長に「おさまっている」ことを皮肉的に記した。
 しかし、田久保忠衛とは、今をときめく?<日本会議>の現会長なのだった。ワッハッハ。
 書き過ぎると櫻井よしこに戻れなくなりそうなので、短くする。
 田久保は櫻井よしこらとともに<美しい日本の憲法をつくる国民の会>の共同代表だ。
 しかるに、田久保が産経新聞社の新憲法案作成の委員長をしていたときの現九条に関する主張と、この会の九条に関する主張(と間違いなく考えられるもの)とは、一致していない。
 些細な問題ではない。九条にかかわる問題であり、かつ現九条一項をどうするのか、という問題についての重要な違いだ(2014冬~2015年春あたりのこの欄で指摘している)。
 この人物はどれほど首尾一貫性をもつ人なのか、それ以来とくに、疑わしく思っている。憲法に関する書物も熟読させていただいたが、深い思索や詳細な知識はない。
 どこかの「名誉教授」との肩書きだが、元「ジャーナリスト」。
 ジャーナリスト・かつ朝日新聞系となると最悪の予断を持ってしまうが、後者は違うようだ(しかし、共同通信や時事通信は?)。
 また、以下の櫻井よしこの文章の中にも出てきて、櫻井を誘導している。
 ○ 2015年末の日韓慰安婦最終決着両外務大臣文書について、櫻井よしこは何と論評していたか。すでにこの欄に記載のかぎりでは、渡部昇一×(西尾幹二+水島総+青山繁晴)、という対立があった。
 櫻井よしこは、産経新聞2016年2/16付「美しき勁き国へ」でこの問題に論及したが、つぎのような結論的評価を下している。
 「昨年暮れの日韓合意は確かに両国関係を改善し、日米韓の協力を容易にした。しかし、それは短期的外交勝利にすぎない」。消極的記述の中ではあるが、しかし、「短期的」な「外交勝利」だと論評していることに間違いはない。続けて言う。
 「『…安倍晋三首相さえも強制連行や性奴隷を認めた』と逆に解釈され、歴史問題に関する国際社会の日本批判の厳しさは変わっていない。」
 「逆に解釈され」?
 そんなことはない。あの文書は、明言はしていないが、河野談話と同じ表現で、「強制連行や性奴隷を認めた」と各国・国際世論素直に?解釈されても仕方がない文書になっている。
 櫻井は、日本語文章をきちんと読めていないし、河野談話を正確に記憶していないかにも見える。
 英訳公文の方がより明確だ。日本語文では「関与のもとに」だが、英語文では「関与した…の問題」になっている。
 つぎの論点も含めて言えるのは、櫻井よしこには、<安倍内閣、とくに安倍晋三を絶対に批判してはいけない、安倍内閣・安倍晋三を絶対に守らなければならない>という強い思い込み、あるいは確固たる?<政治戦略>がある、ということだろう
 したがって、この日韓問題についても、櫻井は決して安倍首相を批判することはない。批判の刃を向けているのは<外務省>だ(そして保守系月刊雑誌にも、安倍内閣ではなく「外務省」批判論考がしばらくして登場した)。
 安倍首相-岸田外相-外務省。岸田や安倍を、なぜ批判しないのだろうか。
 ○ こう書いて奇妙にも思うのは、結果として安倍内閣・自民党の方針には反することとなった今上天皇譲位反対・摂政制度活用論を、櫻井よしこは(渡部昇一らとともに)なぜ執拗に主張とたのか、だ。
 これ自体で一回の主題になりうる。
 憶測になるが、背景の一つは、今上陛下の「お言葉」の段階では、自民党・安倍内閣の基本方針はまだ形成されていない、と判断又は誤解していたことではないか。だからこそ渡部昇一は、安倍晋三が一言たしなめれば済む話だなどと傲慢にも語った、とも思われる。
 しかし、テレビ放送があることくらいは安倍晋三か菅義偉あたりの政権中枢は知っていた、と推察できる。それがなければ、つまり暗黙のうちにでも<了解>がなければ、NHKの放映にならないだろうと思われる。
 実際に、そののちの記者会見で陛下により、「内閣の助言にもとづいて」お言葉を発した旨が語られた。ふつうの国民ですら、それくらいには気づいている。
 ついでに言うと、この問題の各議院や各政党の調整結果についても、高村正彦・自民党副総裁は、同総裁・安倍晋三の了解を得て、事実上の最終決着にしている。ふつうの国民ですら、それに気づいている。
 特例法制定・少なくとも形式上の皇室典範改正に、安倍首相は何ら反対していない。
 櫻井よしこら一部の「日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか」。保守の一部の「言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」(西尾幹二2016年、前回から再引用)。
 ○ つぎに、2015年8月・戦後70年安倍内閣談話を、櫻井よしこはどう論評したか。
 櫻井よしこはまず、週刊ダイヤモンド2015年8月29日号で、「国内では『朝日新聞』社説が批判したが、世論はおおむね好意的だった」と世相・世論を眺めたうえで、「…談話は極めてバランスが取れており、私は高く評価する」と断じた。
 そのあとは例のごとく、鄭大均編・日韓併合期/…(ちくま文庫)の長々とした紹介がつづいて、推奨して終わり。
 読者は、櫻井がほとんどを自分の文章として書いていると理解してはいけない。他人の文章の、一部は「」つきのそのままの引用で、あとは抜粋的要約なのだ。
 これは、櫻井よしこの週刊誌連載ものを読んでいると、イヤでも感じる。この人のナマの思考、独自の論評はどこにあるのだろうとすぐに感じる。むろん、何らかの主張やコメントはあるが、他人が考えたこと、他人の文章のうち自分に合いそうなものを見つけて(その場合に広く調査・情報収集をしているというわけでもない)、適当にあるいは要領よく「ジャーナリスト」らしく<まとめて>いるのだ(基礎には「コピー・ペイスト」的作業があるに違いない)。
 つぎに、詳細に述べたのは、週刊新潮2015年8月27日号うちの連載ものの「私はこう読んだ終戦70年『安倍談話』」だった。
 櫻井よしこはいきなりこう書いていて、驚かせる。
 ・この談話には、「安倍晋三首相の真髄」が、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」が示されている。
 ここに、「ひたすら沈黙を守る」だけではなく「逆に称賛までして」しまう、「日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」(中西輝政2015、前回から再引用)、の典型がいる。
 より個別的に見ても、日本語文章の理解の仕方が無茶苦茶だ。よほどの「思い込み」または「政治的」偏向がないと、櫻井のようには解釈できない。
 ①有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」。
 そんなことは全くない。完全に逆だ。この懇談会の歴史見解をふまえているからこそ、委員だった中西輝政は<怒った>のだ。「さらば、安倍晋三」とまで言ったのだ。
 ②「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」との下りは、「田久保忠衛氏が喝破した」ように、「国際間の取り決めに込められた普遍的原理をわが国も守ると一般論として語っただけ」だ。
 そんなことは全くない。
 「二度と用いてはならない」と、なぜ「二度と」が挿入されているのだろう。
 日本を含む当時の戦争当事者諸国について言っているのだろうか。
 そのあとにやや離れて、つぎのようにある。
 「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました」
 「そう」の中には、上の「二度と用いてはならない」も含まれている。そのような「誓い」を述べたのは「我が国」なのだ。
 このように解釈するのが、ふつうの日本語文章の読み方だ。英語が得意らしい櫻井よしこは、英訳公文も見た方がよいだろう。
 ③「談話で最も重要な点」は「謝罪に終止符を打ったことだ」。
 はたしてそうだろうか。安倍の、以下にいうBの部分を評価しなくはないが、「最も重要な」とは言い過ぎで、何とか称賛したい気分が表れているように見える。
 安倍内閣談話ごときで、これからの日本国家(を代表するとする機関・者)の意思・見解が完全に固定されるわけでは全くないだろう。いろんな外国があるし、国際情勢もあり、こちらが拒んでも「謝罪」を要求する国はまだまだありそうだ。
 ④これは、櫻井よしこが無視している部分だ。
 談話-「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」、「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」。/「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」。
 櫻井はこの部分を、読みたくないのか、知りたくないのか、無視している。
 安倍談話は、安倍晋三内閣が1995年村山談話(も菅直人談話も)「揺るぎないもの」として継承することを明言するものであることは、明確なのだ。
 だからこそ、村山富市は当時、基本的には異論を唱えなかった、という現実があった。
 これくらいにしよう。じつに、異様きわまりない。「異形の」大?評論家だ。
 ○ 安倍内閣談話の文章は、日本文らしく主語が必ずしも明確ではない。安倍晋三、そして安倍内閣は、そこをうまく利用して?、櫻井よしこら<保守派>をトリックに嵌めたようなものだ、と秋月は思っている。
 その一種のレトリックにまんまと嵌まったのが、櫻井よしこや渡部昇一だっただろう。あるいは、嵌まったように装ったのか。
 先に記したように櫻井よしこは、「朝日新聞社説」だけは?反対した、と書いている。
 朝日新聞が反対したから私は賛成しなければならない、という問題では全くない。そのような単純素朴な、二項対立的発想をしているとすれば、相当に重病だ。
 この点は、当時は書くまでもないと思っていて、ようやく今年2月に書いておいた、以下も参照していただきたい。コピー・貼り付けをする(2/08付、№1427「月刊正論編集部(産経)の欺瞞」)。
 「レトリック的なものに救いを求めてはいけない。/上記安倍談話は本体Aと飾りBから成るが、朝日新聞らはBの部分を批判して、Aの部分も真意か否か疑わしい、という書き方をした。/産経新聞や月刊正論は、朝日新聞とは反対に、Bの部分を擁護し、かつAの部分を堂々と批判すべきだったのだ。/上の二つの違いは、容易にわかるだろう。批判したからといって、朝日新聞と同じ主張をするわけではない。また、産経新聞がそうしたからといって、安倍内閣が倒れたとも思わない。/安倍内閣をとにかく支持・擁護しなければならないという<政治的判断>を先行させたのが、産経新聞であり、月刊正論編集部だ。渡部昇一、櫻井よしこらも同じ」。
 ○ 安倍内閣・安倍晋三をとにかく擁護しなければならない、という「思い込み」、<政治>判断はいったいどこから来ているのか。
 <政治>判断が日本語文章の意味の曲解や無視につながっているとすると、まともな評論家ではないし、ましてや「研究」所理事長という、まるで「研究」者ばかりが集まっているかのごとき「研究機関」の代表者を名乗るのは、それこそ噴飯物だ、と思う。
 ○ 天皇譲位問題もすでにそうだから、2015年安倍談話に関する論評も、いわゆる時事問題ではとっくになくなっている。だからこれらにあらためて細々と立ち入るつもりは元々ない。
 きわめて関心をもつのは、櫻井よしこの思考方法、発想方法、拠って立つ「観念」の内容、だ。
 「観念保守」と称しているのは、今回に言及した点についても、的外れではないと思っている。

1492/日本の保守-歴史認識の欺瞞・櫻井よしこ③。

 ○ 「歴史認識」という日本の保守にとって譲れないはずの基本的な問題領域で、日本の保守は、大きく崩れてしまっている。正確にいえば、読売新聞系ではない産経新聞系「保守」あるいは自国の歴史について鋭敏なはずの<ナショナル・保守>の保守「論壇」人についてだ。
 おそらく、「観念保守」の人々の歴史認識は、ほとんど全ての人々において、狂っているだろう。あるいはそもそも、きちんと正確に日本の歴史を見つめる勇気がない。あるいは語る勇気がない。あるいは、関心自体がない。
 以上のことを、2015年8月の安倍内閣・戦後70年談話に対する論評の仕方で、残酷にも知ってしまった。
 秋月瑛二自身も、これによって、産経新聞や一部の<保守>をきわめて強く疑うようになった。そして、「観念保守」という概念も見出した。
 ○ もちろん、正気の、まともな<保守>の人たちもいる。
 水島総が月刊正論(産経)誌上の連載を中止しているのは、産経新聞や月刊正論編集部の基本的な<歴史認識>(日韓慰安婦最終決着文書も含む)に従えないという理由でかは、私は知らない。
 だが、安倍晋三とその内閣の<歴史認識>の表明内容を、水島総はきちんと批判している。
 但し、この人の発言等を全部信頼しているのではもちろんない。この人の天皇・皇室への崇敬の情は、私には及びもつかない。
 中西輝政は、歴史通(ワック)2016年5月号で、上記談話への反応に関して、つぎのように書いた。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。p.97。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 西尾幹二は、この欄に既に引用していることを上に続けてさらに掲載するが、月刊正論2016年3月号で、つぎのように書いた。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。
 西尾幹二と中西輝政の二人が、今年に入ってから読んだ雑誌で対談していたが、すぐには見当たらないので、関係する部分があるかもしれないが、省く。
 記憶に頼れば、戦後70年安倍談話を正面から批判したのは、われわれ二人だけだった、という旨を西尾が語っていた。
 二人だけではない。雑誌上でも、伊藤隆は批判派だったし、藤岡信勝や江崎道朗もおそらくそうだろう。他にも、渡部昇一、櫻井よしこ、田久保忠衛らの迎合的反応を苦々しく感じている人々が多数いると思われる(国家基本問題研究所の役員の中にも。しかし、全てではない。「アホ」もいるからだ)。
 小川榮太郎の見解は、知らない。
 ○ ふと気づいたが、櫻井よしこは、週刊新潮2016年12/8号で、朝日新聞社説を批判して、つぎのように言った。
 「朝日社説子は歴史認識について」某を批判した。「噴飯物である。如何なる人も、朝日にだけは歴史認識批判はされたくないだろう。慰安婦問題で朝日がどれだけの許されざる過ちを犯したか。その結果、日本のみならず、韓国、中国の世論がどれだけ負の影響を受け、日韓、日中関係がどれだけ損われたか。事は慰安婦問題に限らない。歴史となればおよそ全て、日本を悪と位置づけるかのような報道姿勢を、朝日は未だに反省しているとは思えない。」
 櫻井よしこは、2015年末日韓慰安婦最終決着を、2015年夏の戦後70年安倍内閣談話を、どう論評したのか。「噴飯物である」。
 歴史認識について、朝日新聞を、上のように批判する資格が、この人にあるのだろうか。
 ひどいものだ。日本語の文章の趣旨を理解できない人物が、「研究」所理事長になっており、田久保忠衛という同じく日本語の文章を素直にではなく自分に?都合良く解釈できる人物が、その研究所の<副理事長>におさまっている。
 いずれこの「研究」所の役員たちには言及するとして、櫻井よしこが戦後70年安倍内閣談話をどう読んだか等について、さらに回を重ねる。
 ○ ついでに、先走るが、櫻井よしこによる米大統領・トランプ批判の底にある、単純な<観念>的なものにも気づいた。
 櫻井よしこは、天皇や日本の歴史にかかわってのみ「狂信者」になるのではない。いや、正確には、「狂信」とまではいかないが、この人は、詳しい知識があるような印象を与えつつ、じつは単純・素朴な<観念>に支えられた、要領よく情報を収集・整理して、まるで自分のうちから出てきたかのように語ることのできる、賢い(狡猾な)「ジャーナリスト」だ。
 心ある、冷静な判断のできる人々は、例えば「国家基本問題研究所」の役員であることを、恥ずかしく思う必要があるだろう。

1489/「左」と「右」の観念論-日本共産党・不破哲三と「研究」所理事長・櫻井よしこ。

 ある種の「左」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「未来」に見る。
 ある種の「右」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「過去」に見る。
 「未来」のことは当然にまだ分からないので、文字通りに夢・理想・ユートピアであって、その内容も、達成方法も、将来についての<観念>でしかない。
 「過去」のことは過ぎ去ったことであり、今ある現実からは遠ざかっているので、その内容は、不可避的に抽象的な<観念>にならざるをえず、過去に一足飛びに戻れるわけではないので、その夢・理想・ユートピアの実現方法も<観念>的に語るしかない。
 今ある<現実>を唾棄すべきものとして正視せず、遠い未来か過去に理想社会・理想の時代を夢見るのは、いずれも<観念>論に陥る危険性がある。
 観念とは、脳内で作られる、かつ外部に表現されることもある、言葉、意識、考え(希望・反希望いずれであれ)、あるいはこれらの組み合せ又は体系だ。
 将来についての言葉・意識・考えは不可避的に、「観念」であるしかない。
 しかし、過去については膨大な歴史的事実が知られているはずであって、それを冷静に見つめれば「観念」論やその体系に嵌まるはずはない。
 しかし、今ある現実を忌避しすぎて、ある特定の時代・時期を単純に理想化して、その時代の過去に戻りたいという熱望が極端に大きくなりすぎると、歴史的現実(過ぎ去った現実)を冷静に、多様かつ総合的に視ることができなくなり、単純な「観念」的把握しかできなくなる。
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 ある種の「左」の人々の典型は、日本共産党だ。
 ある種の「右」の人々の典型は、さしあたり言えば、櫻井よしこだ。また、渡部昇一だ。
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 今年1月末頃に以下の象限表のようなものを提示した。番号を反時計廻りにに見る。
 ②リベラル保守 ①ナショナル保守
 ③リベラル左翼 ④ナショナル左翼
 上と下は、保守(反共産主義)と左翼(容共産主義)の対立。
 左と右は、近代普遍的(とされる、欧米的な)<自由・民主主義>とこれに懐疑的又は批判的なナショナリズムの対立。むろん、諸概念について種々の説明を要し、議論がありうることは承知している。
 それらを割愛していえば、ここでの(今回記しているテーマでの)要点は、①と④は、決して両極に離れたものではなく、すぐ上と下にあるように、存外に?近いものである、ということだ。
 ①が究極化して、ファシズム・ナチズムになったのかもしれない。
 ④が究極化して、レーニン・スターリンのコミュニズム(共産主義)になったのかもしれない。
 そしてまた、これらは<全体主義>として括られることがかなり多い。①の一部と④の一部は共通性がある。
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 日本の現在に即していうと、つぎのような印象がある。
 ④の中には、共産主義、そして日本共産党が入る。
 ①の中には、<観念保守>、日本にのみある「天皇」を至高の価値・存在と考え、「天皇」中心時代への復古を求める、現実(例、アメリカのトランプ)も、過去(例えば、明治維新)もまるで正視できない、冷静にかつ総合的に把握することのできない、一部の<保守>の人々又は団体・組織が入る。
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 日本共産党の不破哲三は、(かつて)<日本の共産主義者は…!>と党大会等で呼びかけて、煽動していた。
 某「研究」所理事長・櫻井よしこは、(日本の)「保守の気概」、「保守の真骨頂」なるものの保持・発揮を、<保守>系雑誌(この言葉は産経・月刊正論3月号上)で呼びかけ、あたかも読者を煽動しているふうだ。
 両者の「思い込み」ぶり、「観念」主義は、どこか似ていないか。

1487/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき⑤。

 ○ 櫻井よしこは昨年11月14日の有識者会議のヒアリングでつぎのように語った。
・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが、国事行為、公的行為の次に」にきているが、「優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」天皇陛下の日常日程を整理し直すのがよい。
・天皇像の形成に「求められる最重要のことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」。
 その他の最近の文章でも、上の趣旨を繰り返し、述べている。平川祐弘もしきりとまつりごと=政治と祭事を、「祈る」ことを語る。
 日本の歴史や天皇に関することになると、櫻井よしこはたんなる「ジャーナリスト・評論家」ではなく、<狂信家>に変わる。平川祐弘も似たようなものだろう。
 ゆっくりと上の点はこの欄で記していくことにして、まずは、おそらく櫻井よしこにはきわめて難しい問題を設定して、質問してみよう。平川祐弘に対しても同じ。
 神宮(伊勢神宮)の<式年遷宮>は、天皇の「祭祀」なのか否か、その理由は何で、これには憲法に関する問題は全くないのか。
 ○ 現代でもおそらく80歳を超えれば長寿だろうし、100歳まで生きる人は少数だろう。そういう時代ですら、20年に1回の遷宮を経験する、又は見聞きするのは、3-4回程度しかないだろう。
 上に20年に一度と書いたが、日本および天皇の歴史上は、そういう時代の方が短い。
 せっかくだから、できるだけ多くの遷宮の間の年数を、下記の文献によって、記しておこう。下記の、//と//内の数字。内宮と外宮が別の年のこともあったので、内宮の遷宮年を意味させる。有史以後のことだから、初期も、神話的伝説・伝承ではないと思われる。
 01回・690年//19年//02回・709年//20年//03回・729年//18年//04回・747年//19年//05回・766年//19年//06回・785年//25年//07回・810年。
 この最後から平安時代に入る。
 //19年//08回・829年//20年//09回・849年//19年//10回・868年//18年//11回・886年//19年//12回・905年//19年//13回・924年//19年//14回・943年//19年//15回・962年//19年//16回・981年//19年//17回・1000年。この最後は一条天皇のとき。
 //19年//18回・1019年//19年//19回・1038年//19年//20回・1057年//19年//21回・1076年//19年//22回・1095年//19年//23回・1114年//19年//24回・1133年。この最後は、崇徳天皇のとき。
 //19年//25回・1152年//19年//26回・1171年//19年//27回・1190年//19年//28回・1209年//19回//29回・1228年//19年//30回・1247年//19年//31回・1266年//19年//32回・1285年//19年//33回・1304年//19年//34回・1323年。ここまで、886年以降の遷宮は19年毎だ。これ以降、南北朝時代に入る。
 //20年//35回・1343年//21年//36回・1364年//27年//37回1391年//20年//38回・1411年//20年//39回・1431年//31年//40回・1462年。このあと、応仁の乱が始まり、じつに122年間中断した。
 //122年//41回・1585年(秀吉)//24年//42回・1609年(家康)。
 これ以降、江戸、明治、昭和前記まで、規則的・定期的に20年毎の遷宮がつづく。省略する。盛大に行われたのが、第58回・1929年(昭和4年)。そのあと変則的な挙行が1回だけあり、あとは復して20年毎になる。
 57回・1909年(明治42年)//20年//58回・1929年(昭和4年)//24年//59回・1953年(昭和28年)//20年//60回・1973年//20年//61回・1993年(平成5年)//20年//62回・2013年(平成25年)。
 以上、茂木貞純=前田孝和・遷宮をめぐる歴史(明成社、2012)、による。
 ○ こうした中断もありつつ長く続く遷宮の諸費用を誰がどうやって支弁したのかは、歴史学的にも重要だろう。122年間の中断は、そのコストを負える人物・組織等が存在しなかったことを意味すると思われる(伊勢神宮自身も含めて)。
 遷宮の祭主が旧皇族であることからも、この遷宮が神道関連行事・儀式であることのほかに、天皇・皇室に由縁のあることもかなり知られているだろう。
 では、これは天皇の「祭祀」なのか。いや、伊勢神宮の行事ではないのか。
 かりに「祭祀」だとしてすら、「宮中祭祀」ではないだろう。
 1949年(昭和24)年に予定されていた第59回遷宮について、「昭和天皇の思し召し」を受けて、当時の内務省・神祇院は、早々と1945年(昭和20年)12月14日に、とりあえず「中止」を決定した。上掲書、p.122。
 そのようなお役所は現在にはない。
 いや、宮内庁はある。だが、宮内庁は伊勢神宮と、何がしかの公的な関係があるのだろうか。
 いつかこの欄で記したように、戦後に限らないように思われるが、少なくとも形式上は、遷宮の最終に至るまでの諸行事は、日程も含めて、各天皇の「ご聴許」により決定される。少なくともそのかぎりで伊勢神宮よりも、天皇は「上」に立つ。
 遷宮自体が広義の?祭祀かどうかも興味ある(又は深刻な)問題だが、この「聴許」とは、天皇の、いかなる性格の行為なのだろうか。「祭祀」そのものではないが、「祭祀」の挙行とその詳細をいわば命令する、「祭祀」の一要素なのだろうか。
 そしてまた、櫻井よしこも触れている、憲法・皇室典範上の位置付け・性格は、遷宮自体とともに、この「聴許」は、どのように位置づけられるのだろうか。かつ、憲法に関係する問題・論点はないのだろうか。
 <保守>的団体の代表者として君臨し、天皇・皇室を敬愛し、天皇を戴く日本を保持しつづけることこそが<保守>だとの旨を述べ、そして「祭祀」の最優先を強く主張する櫻井よしこならば、このくらいのことは答えられるだろう。

1485/日本の保守-櫻井よしこの<危険性>②。

 ○ 国家基本問題研究所は公益財団法人だが、国又は公共団体の研究所ではないので、前回に「任意、私的」団体と秋月が記したことは何ら誤っていない。
 さて、この研究所なるものの役員たちは、あるいは櫻井よしこに好感を抱いてる日本の保守的な人々は、櫻井よしこの「政治感覚」はまっとうで正確な、又は鋭いものだと思っているのだろうか。そうは私は、全く感じていない。
 ○ 最近に櫻井よしこは産経新聞4/03付の「美しき勁き国へ」で、「小池百合子知事の姿が菅直人元首相とつい重なってしまう。豊洲移転の政治利用は許されない」との見出しの小論を書き、「左翼」菅直人と結びつけてまで、小池現東京都知事に対する警戒感を明らかにしている。
 また櫻井よしこは、たしか週刊新潮では「保護主義」を批判的にコメントしていたが、週刊ダイヤモンド2017年1月26日号には、D・トランプ米大統領について、希望・期待を述べるよりは、皮肉と警戒、懸念を優先した文章を載せた。
 さらに、櫻井は1月21日に「日本の進路と誇りある国づくり」という高尚な?テーマで講演して、ほとんどをトランプに関する話に終始させている(ネット上のBLOGSの情報による)。種々の見方はあるだろうが、そこで語られているのは、トランプに対する誹謗中傷だとも言える。
 小池百合子やトランプについての櫻井よしこの言及内容をここで詳しく紹介したり、議論するつもりはない。
 しかし、小池百合子に対する冷たさは、石原慎太郎を守りたい観のある一部「保守」系雑誌(面倒だから特定を省略する)や、小池ではなく別の候補者を支援した自民党中央や東京都連の側に立っているとの印象がある。このような立脚点または姿勢自体が適切なのか、「政治的」偏向はないかを疑わせると私は感じる。(なお、産経新聞も、かつての大阪の橋下徹に向けた冷たさや批判が適切だったかが問われる。)
 また、トランプについては、ではヒラリー・クリントンが新大統領になった方がよかったのか、という質問を、当然ながら投げつけたい。
 櫻井よしこが週刊ダイヤモンドで依拠している、Wallstreet Jounal のデイビッド・サッターの適切さの程度についてや、またどのようなソースによってトランプに関する上の諸文章・講演はなされているのか、について興味・関心がある。
 例えばだが、アメリカの「保守」又は「反左翼」論者として有名らしい(詳しくは知らない)アン・コールター(Ann Coulter)は、昨2016年8月に、<私はトランプを信じる>と題する書物を刊行している。
 また彼女は、邦訳書『リベラルたちの背信』(草思社、2004/原書名等省略)を書いてアメリカの「リベラル」派を批判しているが、日本語版の表紙に写真のある人物は、F・D・ルーズベルト、トルーマン、J・F・ケネディ、ジョンソン、カーターおよびビル・クリントンで、全て民主党出身の大統領だ。所持しているが読んでいない原書の表紙にはないが、批判の対象がこれらの民主党大統領でもあることを示しているだろう。
 また、読みかけたところだが、B・オバマを「左翼」と明記して、<共産主義者>を側近に任命した、と書いている本もある。
 もう一度問おう。あらためて遡って確認してはみるが、民主党・オバマの後継者の、ヒラリー・クリントンの方がよかったのか?
 もちろん、日本人と日本国家のための議論だから、アメリカ国内の民主党・共和党の対立にかかわる議論と同じに論じられないことは承知している。
 しかし、櫻井よしこは、本当に<保守>なのか、健全な<保守>なのか。トランプに対する憂慮・懸念だけ語るのは、アメリカ国民に対してもかなり失礼だろう。
 思い出したが、「アメリカのメディアによると」と簡単に櫻井が述べていた下りがあった。
 <アメリカのメディア>とは何なのか。日本と同等に、あるいはそれ以上に、明確な国論の対立がアメリカにあること、メディアにもあること、を知らなければならない。あるいは、櫻井よしこが接するような大?メディアだけが、アメリカの評論界や国民の意見を代表しているのではないことを知らなければならない。
 ○ 以上のような批判的コメントをしたくなるのも、櫻井よしこには、秋月瑛二に言わせれば、政治判断を誤った<前科>があるからだ。
 かつてのこの欄にすでに何回も書いた。詳細を繰り返しはしない。
 櫻井よしこは、2009年の日本の民主党・鳩山由紀夫内閣の成立前後に、つまり2009年8月末の総選挙前後に、民主党の危険性についてほとんど警戒感を表明せず、同政権誕生後には屋山太郎の言を借りて<安保・外交政策に懸念はないようだ>とも語り、当時の自民党総裁・谷垣禎一を「リベラル」派と称して自民党にも期待できないとしつつ、民主党政権成立の責任の多くを自民党の責任にし(この部分は少しは当たっているだろうが、言論界の櫻井よしこの責任ももちろんある)、翌年になってようやく民主党政権を「左翼」だと言い始めた。
 こんな人物の政治感覚など、信頼することができない。秋月でも、2009年8月に、鳩山由紀夫の<東アジア共同体>構想等を批判していたのだ[2009年の8/28、9/18]。
 ついでに言えば、櫻井よしこに影響を与えたとみられる、上に名前を出した屋山太郎は、<官僚内閣制からの脱皮>を主張して民主党政権成立を歓迎した人物であり、渡辺喜美が「みんなの党」を結成した際の記者会見では渡辺の隣に座っていた人物だ。
 屋山は、官僚主導内閣批判・行政改革を最優先したことによって、より重要な政治判断を誤った、と断言できる。
 さらには、櫻井よしこはかつて、道路公団<民営化>に反対して竹中平蔵〔23:50訂正-猪瀬直樹〕らと対立していたが、この問題を櫻井は、どのように総括しているのか。
 もう一つ挙げよう。
 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのか。
 ○ こうした過去の例から見ても、櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性・危険性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。

1484/日本の保守-櫻井よしこという「ジャーナリスト」①。

 ○ 櫻井よしこは「ジャーナリスト」を自分の肩書きにしているようだ。
 たしかに、歴史家でも思想家でもない(社会思想、経済思想、政治思想、法思想等々のいずれの意味でも思想家ではない)。
 また、学者・研究者だとも言えないだろう。少なくとも、そのような<世俗>の資格を持ってはいなさそうだ。
 もちろん、歴史家、思想家(・哲学者)、研究者などは自称すれば誰でもなりうるのだが、「ジャーナリスト」というのは謙虚であるかもしれない。
 いや、ジャーナリストの何らかの積極的な意味に、誇りを持っているのかもしれない。
 ジャーナリストにもいい意味はあるだろう。
 しかし、ジャーナリストは、多数の情報を入手し、整理し、要領よくまとめて、多くの又は一定範囲の人々に伝搬する者たち、という印象もある。
 櫻井よしこはまさにその印象どおりの人で、例えば週刊新潮の連載でも、「評論家屋山太郎氏によれば…」とか「百地章教授によれば…」とかのインタビー記事か問い合わせへの回答(又は親しい会話)で1/4ほどを埋めたり、何らかの雑誌・新聞記事の紹介で半分ほどを埋めたり、光格天皇や孝明天皇について特定の書物から長々と引用・紹介したりしたうえで、自分の感想・コメントを最後のあたりで(又は冒頭あたりで結論提示しつつ)ごく少なく述べる、ということをしてきている。きっと、週刊ダイアモンドでも同様なのだろう。
 もっとも、その引用・紹介やまとめ方が一見は要領よさそうでも奇妙なこともあるのは、例えば、光格天皇・孝明天皇についても見られる。
 のちに福地重孝・孝明天皇(秋田書店、1974)も入手して見てみたが、この本は「最後の闘いの武器は譲位」という趣旨を第一の主眼点にしているわけではない。また、当時に攘夷(・反幕府)を孝明天皇にも熱心に迫って動いた公家たちの中に岩倉具視がいたこと(福地は明記し、藤田覚は不確実だが推定されるとする)には、櫻井よしこは何ら触れていない。
 紙数、頁数に限りがある、という釈明はできない。限りあるなかで、なぜ一定の、限られた情報しか選択しなかったのか、と問われれば、答えに窮するのではないか。
 ○ 「国家」の「基本問題」を「研究」する国家基本問題研究所という(任意・私的)団体の理事長は、櫻井よしこだ。
 「ジャーナリスト」にすぎない、あるいは思想家・歴史家でも研究者でもない、あるいは常識的意味では「政治家」でもない櫻井よしこを、なぜ役員の方々は理事長に戴いているのだろうか。
 あるいはその人々はなぜ、櫻井よしこが呼びかけた団体に喜んで?加入して、役員として名を連ねているのだろうか。
 二つめの○の第一文の内容はすでに、日本の「保守」の現況がいかに悲惨なものであるかを、かつまた日本国民に、決して良い影響を(少なくとも長期的には)与えないだろうことを、十分に示唆している。
 さすがに、敬愛する?西尾幹二や中西輝政は、この団体と少なくとも形式上の関係はなさそうだ。
 しかし、役員の方々の名前を見ていると、じつに興味深いことも分かる。

1469/なぜ「アホの4人組」か。天皇譲位問題・「観念保守」、つづき③。

 たぶん年齢順に、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次。この人たち4人をなぜ「アホの4人組」と称するのか。
 第一に、もちろん、昨2016年11月に、天皇関連有識者会議での「有識者ヒアリング」で発言した者たちであり、今上天皇の譲位(いわゆる生前退位)に反対して摂政制度の利用を主張した点で共通性がある。だが、そのような者は、他にもいる。
 第二に、いずれも、天皇の歴史も含めた、天皇問題の専門家ではない。
 大原康男や今谷明は、それぞれの分野で「専門家」だとは言えるだろう。所功も、園部逸夫もそうだ。
 八木秀次は憲法学者・研究者として、天皇問題の専門家だと自分を思っているのかもしれない。天皇・皇室問題で発言してきてもいる。
 百地章も、大石眞も、また高橋和之も、憲法学者・研究者として「専門家」なのかもしれない。 
 しかし、八木秀次の憲法学「専門家」性は、相当に疑問がある。そういうためには、憲法学界または憲法アカデミズムの一員として受容されていなければならないと思われるが、八木はとっくにそれから離脱しているのではないか。そして、<教育>問題・分野へと「活動」の重心を移しているのではないか。
 2015年にいわゆる平和安保法制問題が政局化した際に産経新聞は西修、百地章、八木秀次の三人の文章を「正論」欄に掲載したが、最も拙劣だったのは八木の文章だった。この当時にはこの欄で触れなかったが、八木秀次は、<憲法体制と安保体制の矛盾>という、日本共産党員の長谷川正安(故人、名古屋大学・憲法学)が言っていたようなことを述べていた(秋月も、子どもたちにウソを教えてはいけない旨を書いたことはある)。戦後日本の法現象の認識としてそのようなことを指摘できる可能性はあるのだろうが、当時の憲法「解釈」論としては、平和安保法制違憲論を断固として排斥し、合憲論をもっと強く主張しなければならなかった。
 というわけで、大石眞や高橋和之、そして百地章と並ぶ「専門家」と性格づけるのは困難だと思われる。
 第三に、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)という保守系月刊雑誌に、人と雑誌によって多少は異なると思うが、頻繁に登場している。
 これが最も共通性の高い点だという印象もある。しかし、これだけではない。
 第四に、2015年8月の安倍晋三内閣によるいわゆる戦後70年談話を、いずれも支持した。
 渡部昇一と平川祐弘については、この点にこの欄でも触れて批判した。櫻井よしこがこの派に属することはとっくに確認している。 
 八木秀次について確認はしていないが、この安倍談話を批判していないことはおそらく間違いないだろう。今年になってからの、月刊正論3月号p.58でも、八木は「安倍晋三首相」と共通する立場にいることをとくに記している。
 第五に、これら4人はいずれも、秋月瑛二がこの欄で長らく批判的なコメントをし続けている人物だ。
 開設当初からというわけではない。漠然と思い出せば、八木秀次を信用できないと感じたのは早かったし、渡部昇一は現憲法無効論または廃棄論の主張者だと知って、これまた早々に(批判的コメントをするため以外は)読まなくなった。
 櫻井よしこを<保守>派のようだと明確に知ったのは遅かったかもしれないが、2009年の民主党内閣誕生前後の論考はひどいもので、とても<保守>派だとは思えなかった。
 屋山太郎とともに、この点で櫻井よしこは批判の俎上に載せた。2009-10年頃に秋月がコメントしたことは、間違っていないと今でも考えている。内容をいまここで繰り返しはしない。
 最後に、平川祐弘の名前は以前から知っていたが、積極的にせよ消極的にせよ読む価値のある人物だとの印象はなかった。
 にわかに関心を持ったのは、安倍戦後70年談話を、稚拙な文章でもって支持していたのを読んでからだ。そして、昨年以降のこの人の文章を読んでも、全く支持できない。
 以上のとおりで、たまたま「アホの4人組」と称したのではない。
 上智大学「名誉教授」、東京大学「名誉教授」、現役の某大学教授、そして「国家基本問題研究所」なるものの理事長を「アホ」だと言うのは、相当に勇気が必要なような気もする。
 しかし、「アホ」は「アホ」だから、仕方がないだろう。
 個人攻撃あるいは全面的な人格批判をしているのでは全くない。この人たちが何を、どのように書いているかを読んだうえでの、その内容についての批判だ。
 「アホ」は「アホ」だから仕方がない、と言うためには、もっと書かなければならないだろう。

1465/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」つづき②のD。

○ 櫻井よしこ・週刊新潮2/16号の見出しは、「4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位」だ。
 そして櫻井は、光格天皇の「社会的遺産」を継承した「孫帝の孝明天皇」との言い方もし、強い意思の天皇だった旨も書いている。
 しかし、光格天皇のようには称えず、福地重孝・孝明天皇(秋田書店)によりつつ、孝明天皇が「天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」「退位」を示唆したとし、「このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか」、とまとめている。
 櫻井よしこは、これでいったい何を言いたいのだろうか。のんびりと、歴史を振り返る必要を指摘することくらいは、誰でもできる。。
 あるいは、天皇の「譲位」・退位の意思表示は世の中を混乱させる大変なことだ、と示唆したいのだろうか。
 ○ 櫻井よしこの記述の仕方には、奇妙なあるいは面白い側面がある。つまり、自分の強い意思をもち、能動的に行動するだけでは、天皇を肯定的には評価しないのだ。
 孝明天皇については、「開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった」と断定し、「開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論」だと、(後から見ての)価値評価を下している。そして、たんに<譲位は最後の抵抗手段>だという、この稿のまとめへと進んでいる。
 このような歴史理解は、櫻井よしこらしく、単純すぎる。つまり、孝明天皇は最後まで<開国反対=攘夷>に執着していたのではない。
 また、<開国>が進歩的で、<攘夷>は遅れていたという、のちの<薩長史観>に嵌まったままであることも、櫻井は吐露している。
 孝明天皇にはのちには、すでに記したα・攘夷とβ・開国という政策判断よりもむしろ、C・幕府中心体制でもA・天皇中心体制でもなく、両者が意思疎通しながらB・天皇・幕府協力体制を築いていくことを志向していた、と思われる。軍事力の差が歴然となってからは、開国せざるをえないという判断に至ったものと思われる(長州派も、いつのまにか?、開国派へと変身している)。
 それが長州・薩摩派や「過激」公家たちの路線と違ったのはなぜか。
 それは、彼らは、のちに王政復古維新をした明治新政府から旧幕府側人材(当面は)、とりわけ徳川家を除外する、という強い意思をもっていたからだ(ex.倒幕の密勅、対幕府戦争)。
 この点にこそ、のちの新政府側と孝明天皇側の、決定的な違いがあった。幕府排除・解体しての天皇中心体制か、「公武合体」体制か。孝明天皇がもっと存命であれば、歴史の展開は相当に変わっていただろうことは、しばしば指摘されている。
 以上は簡単な叙述で意を尽くした十分なものではないが、少なくとも、<開国・正、開国反対・邪>、孝明天皇は後者という、櫻井よしこのより単純な理解よりは、より適確だと思われる(櫻井よしこはもっと関係文献を読む必要がある)。
 ○ 櫻井よしこは、後から見ての特定の<勝利者史観>にもとづいて、孝明天皇を高くは評価できないと考えていることが明らかだろう。
 では、櫻井が中心に置いている<闘いの最後の武器は譲位>というのは、孝徳天皇について語るときに、適切な取り上げ方なのだろうか。いや、違う。
 レーニンは、反対者が自分に賛成してくれない場合に賛成を余儀なくさせる最後の手段として、しばしば<オレは辞めるぞ>と言ったと、R・パイプスは書いていた。
 相手を屈服させる、あるいは自分に不本意ながらも同意させるために、そんなことを言うならば、俺は辞めるぞ、それでよいのか、というのは、時代や国を問わずして、今日の日本でも十分にありうる。櫻井よしこは、人間の心理・感情・精神状態というものに知悉した人物なのだろうか。
 櫻井が用いてるのと同じ筆者の書物、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)には、ずばり、つぎの文章がある。1858年、井伊直弼大老就任のあと、「安政の大獄」の直前のことだ。通商条約調印強行の「報告」だけ受けての、孝明天皇。
 6月28日、朝廷公家に対して<退位とのちの明治天皇への譲位>の意思表示をした。幕府の措置に怒り「抗議のために譲位」表明するのは後水尾天皇(1600年代前半在位、幕府による禁中・公家諸法度制定などがあった)以来のこと。
 「天皇は、難局から判断不能に陥り、天皇位を投げ出したともとれるが、譲位の意思表示によって決意のほどを示そうとしたのだろう。/
 ここで重要なことは、孝明天皇は、逆鱗したとはいえ、あくまでも幕府への政務委任と朝幕融和(公武合体)という原則、江戸時代の朝廷の幕府の枠組みを大事にしていることである」。p.315。
 どういう研究者かの詳細を知らない藤田覚の言述をすべて信頼しているわけでは全くない。しかし、櫻井よしこのように単純に歴史や歴史的人物を理解して評価してはいけないこと、<譲位表明は最後の武器>という認識自体が誤っていること、を示しているだろう。
 ○ このような、何かに<取り憑かれた>ような、歴史については中学生少女レベルの人物が、日本や天皇の歴史について何を書いても、言っても、信用することはできない。その天皇譲位問題についての見解の基礎にある歴史観もまた、単純で、「観念論」的な、誤ったものである可能性がすこぶる高いわけだ。

1457/歴史叙述とは。櫻井よしこら「観念保守」の悲惨と悪害。

 ○ 歴史、歴史認識、歴史叙述とは何か、ということを考える。西尾幹二、高坂正堯、山内昌之等々のかなり多くの歴史関係文献を通じて、考えてもきた。
 歴史(学)の専門家・研究者は誰でもきっと、程度の差はあれ、これを思考したに違いない。だが、歴史叙述も人間の知的営為の一つなので、素人である秋月瑛二が人間の一人として、これについて何かを語っても許されるだろう。
 いや、自らの言葉と文章で語るのはやはりむづかしい。すでに坂本多加雄らのこの問題についての記述に言及したような気もするが、あらためて、歴史家・歴史研究者である他人の言葉・文章のいくつかを手がかりにしてみよう。
 ○ 一つはすでに紹介、言及した(昨2016年10月16日、№1408)。
 西山克典の訳書を手がかりにすると、リチャード・パイプスはこんなことを書いていた。ロシア革命に関する叙述を念頭に置いているとみられる。パイプス・ロシア革命史 = A Concice History of the Russian Revolution (試訳している書物とは別の、簡潔版のもの)による。
 「激情のさなかに生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに理解することができるというのであろうか」。
 「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然なことであり、従って正しいという暗黙の前提であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明に帰すことになる」。
 櫻井よしこの歴史記述は「政治的」だという批判は、厳密にはあたらない、とも言える。
 つまり、R・パイプスも言うように、歴史は「感情」をもってこそ叙述できるとも言える。何らかの「思い込み」があってのみ歴史叙述は可能であるのかもしれない。おそらく究極的には、そうだろう。
 だが一方で、「生起したこと」は「正しい」という前提で歴史叙述をするのは、「勝利を得ることになった人々の弁明に帰す」る、というのも鋭い指摘だろう。
 つまり、「明治天皇を中心とし」た明治時代はよかった、という前提で歴史叙述をするのは、勝利者である「西南雄藩」、とくに「薩長」両藩のために<弁明>しているのであり、典型的な<勝利者史観>に嵌まっているのだ。
 「観念保守」の<隠されたイデオロギー>はここにある、ということに(ようやく ?)最近は気づいてきた。
 もちろん一方で、日本共産党ら共産主義者の歴史認識と歴史叙述が、<公然たるイデアロギー>にもとづく、きわめて政治的で、思い込みの激しい、観念的なものであることは、すでに明らかになている、ごく常識的なことだ。
 ○S・A・スミス(Smith)というイギリスの若い学者による、The Russian Revolution: A Very Short Introduction (2002)は簡単な紹介のような本だが、内容的には面白いものがあった。
 スターリンだけを貶めレーニンは救う、という日本共産党的なロシア革命史観に立たず、スターリンをレーニンの後にきちんとつなげているのは、ごく普通だ。、
 一方で、マルクス又はマルクス主義にソ連社会主義崩壊の根源を見つつ、いったいマルクス主義の又はマルクスの諸原理の具体的にはどこに、欠陥又は「誤り」があったのかと問う姿勢が興味深く、その部分だけでも邦訳しようかとも思った。
 だが、これを読んだ時点では、この人にロシア革命に関する本格的な書物はなかった。他のテーマが専門の研究者かとも思った。
 そのS・A・スミスが、S. A. Smith, RUSSIA in Revolution, -An Empire in Crisis- 1890-1928 (2017) という書物を刊行する(した)ようで、すでに Kindle を通じて読める。
 その序文(まえがき)に、じつに興味深い記述がある。フランスのF・フュレの名も出てくる。以下のとおり。
 「フュレは正しく、特有の熱情(passion)をよび起こす歴史的事件や歴史的人物がたしかにある。そのような場合には、歴史の記述(writing)は、独特に政治的な企て(enterprise)だ、と述べる。」
 これも、上のパイプスの言葉に似ている。そのあとにスミスは続ける。
 「ロシア革命は、100年経っても、なおそのような事件だ。/
 そのゆえにこそ、私はこの本でできるかぎり感情を抑えて(=非熱情的に)、皇帝専制体制の危機、1917年の議会制民主主義の失敗、ボルシェヴィキの権力への上昇に関して書くようにした。/
 私は、教訓を引き出すこと(道徳化すること=moralizing)を避けること、嫌悪や反駁を感じる者たちについて共感をもって記述すること、積極的に好感をもつ者たちに対して批判的に記述すること、をしようとした」。
 これに続く文章も、ある意味で刺激的なので、分けて引用する。以下のとおり。
 「しかし、私に最初にレッテルを貼りたい読者に対しては-読者にはたしかに著者の立場を知る権利がある-、その読者は、結論を出してから始めている、と言おう」。
 他にも興味深い文章はあるが、長くなるので、このくらいにする。
 ○ 秋月瑛二についても、どのような、どのグループの「保守」かと、あるいは櫻井よしこ・八木秀次らを批判するとは「左翼」ではないかとすぐに分類や「レッテル貼り」をしようとし、それが判ったつもりになれば簡単に立ち去っていく人々もいるかもしれない。(なお、このような発想法は容易に、「真正保守」は何で誰か、安倍内閣の味方か敵かといった関心、分類思考・二項対立思考につながるだろう。)
 いや、問題は「観念保守」の人々の歴史叙述の方法または<歴史観>だ。
 究極的には「政治的企て」なのかもしれないが(それは<実践>の一つだということでもある)、上のようなパイプスやスミスのような歴史記述についての思索あるいは煩悩 ?をきちんと経たうえで、つまりできるだけ非熱情的に、冷静に歴史を見たうえで、最後のところでギリギリの価値判断を結果として行う、という作業を彼らはしているのかどうか。
 最初から特定の価値観・特定の歴史評価にもとづいているとすれば、その歴史記述は信用できないし、悲惨なものになるだろう。
 もちろん、マルクス主義者、あるいは日本共産党の歴史叙述も、最初から特定の価値観・政治観・特定の歴史評価にもとづいているので、悲惨なものだ。
 <自虐史観>に反対し、これを批判するのはよいが、その<裏返し>の歴史記述をするのは、「左翼」のそれと同じ「観念」論による歴史叙述だ、ということを知らなければならない。

1454/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のC。

 ○ 司馬遼太郎は、もともとは観念的思考、イデオロギーといったものを忌避するタイプの人物だっただろう。産経新聞社で最初に赴任した京都で、担当範囲にあった当時の大学の「左翼」的雰囲気に<染まる>ことがなかったのは、そういう<気質>があったからだと思われる。
 彼は、のちにたしか「純度の高い」概念・観念という言い方をしていた。ともあれ、抽象化又は単純化の程度の高い思考にはついていけない旨も書いていた。
 三島由紀夫の自裁に際して、司馬がかなり冷静な又は冷淡な感想を寄せたのは、そのような<気質>によるものだっただろう。司馬は、「狂信」というものが好みではなかった。
 三島は一方、明らかに「観念」で生きていた、あるいは、ついには「観念」に生命を捧げてしまった。守るべきは日本だ、というとき、当然に「天皇」も含んでいたに違いないが、その「天皇」は日本国憲法下での「象徴天皇」ではなく、彼が思い描き、観念した「天皇」だっただろう。
 しかし一方で、三島が憲法・法制に関するきちんとした知識をもっていたことも間違いない。「継受法」という概念も知っていた。また、その見識によってもいるのだろうが、彼の日本の現状認識、将来予測は、じつに鋭く、適確なものだった。この点には、この欄でいく度か触れた。
 元に戻ると司馬遼太郎は、京都での担当範囲の中に寺社廻りもあったために関心を持ち始めたのか、『空海の風景』(1975)では抽象的な仏教思想・仏教教義にも踏み込み、晩年とものちには言える時期には、土地の価格の高騰の時代を背景にして、かなり観念的で単純な世相批判も行っていた(土地問題について)。また、彼の日本軍国主義批判は、皮膚感覚的体験にも由来する一面的でかつ観念的なものだった可能性もある。
 とりとめなく書いていて、三島や司馬について何らかの結論的示唆を述べようとするものではない。
 「右」の全体主義は、伝統を「純化」しようとする、とか仲正昌樹は述べていたが、「純化」の程度が高いということは、「純度が高い」ということだ。
 「純度が高い」思考者を一概に非難することはできない。三島由紀夫もまた、その思考・「観念」が現実の世界では採用されないことを知った上で、つまりその「観念」あるいは「理念」・「理想」が<現実化>することはないという確実なまたは決定的な見通しをもって、1970年11月の行動に出たのだろう。そのような残酷な予測と自らの生命はいずれ不可避的に消滅せざるをえないという個体としての人間の限界の意識、この二つが、狂気ともされた行動への衝動になったかと思われる。
 そして、そのような三島をとくに批判しようとは思わない。いろいろな人間がある。仲間の数人以外には三島は誰も殺さなかった。三島由紀夫は、テロリストではない。そして、「美しい観念」を抱いて、それに殉じることができた。なかなか幸福な人物だった、とすら思える。
 ○ このような三島の「観念」世界に比べると、最近の日本の「観念保守」には、日本を貫き通すような強度や凄みはなさそうだ。
 櫻井よしこの、昨年11月の「専門家」ヒアリングでの発言内容を、遅まきながら、読んだ。
 やはり、この人は(も)、アホだ。というよりも、日本の「保守」というものの、きわめて深刻な精神的頽廃を感じる。
 この点にさっそく入っていきたいが、予定どおり、週刊新潮誌上の、櫻井記述に、あらためて以下に、言及する。
 櫻井よしこ・週刊新潮2/9号を見てみると、つぎの一文が印象的だ。書いていないことに注目すべきとか前回に書いたが、はっきりと書いていることにも明らかな誤り・問題点がある。
 光格天皇の具体的な言動を肯定的に紹介するのはよいとしても、以下のような櫻井よしこのまとめには、反対せざるをえない。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 第一に、明治維新等に関する叙述を、こんな二文ほどで終えてしまっていることに唖然とする。以下で指摘することも含めてだが、櫻井よしこは、日本の中学生レベルの日本史知識・明治維新に関する知識しかない、と思われる。
 くり返すが、本当に唖然とする。このレベルの人が、「保守」論壇のリーダー ?、情けなくて、涙が出そうだ。
 第二に、天皇の権威のもとで団結して「明治維新の危機を乗り越え」、「列強の植民地」化を防げた、というのは、それが天皇・皇室の権威-明治維新-植民地化阻止、という趣旨であるなら、それは前回にも述べた<明治維新よかった>史観だ、あるいは<薩長・勝利者史観>だ。あるいはそこに天皇・皇室の権威を媒介させているので、明治維新の源に「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識」があったと明言しているように、<天皇のおかげ史観>だ。櫻井が明治天皇を高く評価するのも分かる。
 家近良樹・江戸幕府崩壊-孝明天皇と「一会桑」(講談社学術文庫、2014、原著2002)は、最初の方(第2章の冒頭あたり)で、櫻井よしこのような史観を、同じ趣旨で、「王政復古史観」、「西南諸藩倒幕派史観」、「天皇制維新史観」と呼んでいる。
 また、戦前におけるこの史観の誕生と国民的確定 ?には、明治政府が「王政復古(戊辰戦争)の意義を確定」すべく1889年に刊行した、<復古記>という書物・全15冊や、戦前昭和の政府が1939-41年に「官製維新史の集大成」として刊行した<維新史>があった、としている。
 子細には立ち入らない。櫻井よしこの明治維新史イメージは、この、明治期や戦前期に当時の、「西南雄藩倒幕派」(とくに薩長両藩)やその後裔者たちが中心の政府によって作られたものと同じだ、とほぼ断定できるだろう。
 ○ 学者・研究者になれ、とは言わない。しかし、素人の秋月ですら、櫻井よしこが抱く明治維新、そして当時の天皇に関するイメージには疑問をもつ。少なくとも、そんなに簡単には言えない、と批判することができる。
 素人の見方を、少し提示してみよう。
 認識・理解そして議論の対象は、大きく、体制・政治の基本的仕組みと、政策目標とに分けることができる。
 前者には、大きく、A・天皇(・皇室)中心体制、B・天皇/幕府協力体制、C・幕府(・将軍)中心体制の三つがある。
 後者には、大きく、α・攘夷=鎖国と、β・開国(・開港)とがある。
 江戸時代は長らく、Cかつαだった。
 光格天皇の力もあったのだろうか、孝明天皇の時代に、幕府は対米通商条約について「勅許」を求める(1856年、前回に天皇側が主張したとしたのは正確でない)。幕府はβへと政策変更し、かつ部分的にはBに近づいた。天皇の力=権威 ?を借りて政策変更を諸大名にも認めさせようとした。条約の法的実施が天皇の判断に依存しているとすると、この時点で、天皇は「権力」の一部をもつに至った。画期的なことだ。
 しかし、孝明天皇は1857年2月の時点で、「勅許」を出さない。許可・認可の申請を拒否したか、又は「お預かり」にしたようなものだ。天皇・朝廷の一存で、条約の現実化ができない事態となる。この時点で、天皇・皇室はれっきとした「権力」機構の一部になっている。たんなる「権威」ではない。
 以上は、A~Cやα・βの区別はむろん私の思いつきだが、櫻井よしこも引用していたのと同じ著者の、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)を見ながら書いた。
 とりあえずここで区切る。大切なのは、この時点で、あるいは1866年、1867年の途中までですら、旧幕府を除外した新政権、つまりAの天皇中心体制ができるとは、ほとんど誰も予想していなかったことだ。いくつかの時点で、この当時、さまざまな歴史の選択がありえた。B(いわば公武合体路線)による、緩やかな開国と変革(と「富国強兵」 ?)および植民地化阻止もありえた、と考えている。
 薩長両藩等が新天皇(明治天皇)を中心にしてまとまり勝利した、明治維新がなされた、頑迷・旧態依然たる幕府時代と訣別して新しくよき明治時代になったという、後から見ての評価を、櫻井よしこのように簡単に下してはならない。
 ○ 櫻井よしこのような、<明治はよかった>史観は、明治時代である1889年の旧皇室典範の内容、終身在位制は素晴らしかった、という単純な理解と主張につながっている可能性がすこぶる高い。だからこそ、孝明天皇、明治維新、明治国家等の検討を私なりに試みている。

1452/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のB。

 ○広く日本史について素人としての関心はある。明治維新とか明治憲法とか明治の「元勲」たちということになると、かつて、ソウル・南山の西側中腹あたりにあった、安重根記念館を訪れたことを思い出す(タクシーで一人で行き、帰りはソウル駅近くまで歩いて降りた)。
 安重根は伊藤博文射殺犯で(1909年)、若き「愛国」テロリストふうかと想像していたが、記念館での展示物を見ていて、教育者であり知識人の一人だったと知った(筆字も達筆だ)。
 おそらくそのときか、日本への帰国直後だが、安重根は伊藤に対する「斬奸状」(にあたるもの)を書いていて、その中に、日本の天皇を弑虐した「罪」を挙げていたことも知った。それは、伊藤が、当時の天皇(明治天皇)の「ご父君」、つまり孝明天皇を殺害した、というものだった。
 朝鮮の人からすれば伊藤という「元勲」と日本の天皇・皇室との関係など本来は関心はないはずだが(日本の天皇のことを気にかける必要はないはずだが)、と思ったりしたが、それ以上の追究は当時はしなかった。しかし、伊藤博文と天皇殺害という関連だけでも、印象に残りつづけたのは確かだ。
 ○あらためて近年に読書渉猟をしていると、孝明天皇は皇女和宮の兄で明治天皇の父親・先代(これらはかつての知識の中にあったと思う)、そしてその当時は傍流だった光格天皇の孫。幕末の天皇で、明治改元直前に死亡していることが確認できる。
 そして、これが上の安重根にも関連するが、孝明天皇の(突然の発症による)死には、徳川幕府に対抗する薩長一派側の意向が働いており、孝明天皇の(その時点で)対幕府融和的な姿勢(「公武合体」方針)を「邪魔」・「有害」だと判断した者たちが、最終的には(直接に手をかけた訳ではむろんないが)朝廷内に関係者がいた岩倉具視が、天皇殺害を命令した、という<噂>があったらしい。
 <噂>がそれらしく思われていたらしいことは、上の安重根の記憶又は認識でも明らかだろう。岩倉具視であれば、まだ若い伊藤(周旋屋だともされた)は明治維新前はさほどの接触はなかっおたかもしれないが、のちに何かを知った可能性はないではない。伊藤から見ればとんだヌレギヌかもしれないのだが、朝鮮半島の人までその少なくとも<噂>を知っていたというのは、驚きの事実だろう。
 一番最近に見たからこそ記せるが、歴史小説を三つ集めた松浦行真・激流百年(サンケイ新聞社、1969)の中の一篇「洛北の虹・岩倉具視」の最後・末尾には、あくまで歴史小説だが、つぎの趣旨の文章がある。
 明治天皇が危篤の岩倉具視を慌てて見舞った、その岩倉の国葬への参列公家衆の一部から、「お上(明治帝)は親のかたきの死に目を見にゆかれた」という「ささやきが聞かれた」。「あの孝明帝の死にまつわるくらい風貌…」。
p.174。
 他にも、歴史小説家・中村彰彦の、学者を超えるかもしれない<推理>(岩倉による暗殺の肯定の方向。小説ではない)を読み終えている。
 ○ところで、光格天皇は(本流の皇嗣ではなかったためもあってか)天皇・皇室・朝廷の「権威」の回復に努めた江戸期には珍しい人物であるらしい。
 櫻井よしこもまた、立派な天皇(の一人)だった旨を、とくに記している。すなわち、同・週刊新潮2017年2/9号のコラム欄は、全体を光格天皇を讃える内容で埋めている。引用はしない。今のところ生前譲位の最後の天皇らしいことと関連させて、皇室改革をし、天皇の権威=「皇威」を高めようとする「強い皇統意識」のもち主だった、という。
 ここでただちに疑問が生じる。孝明天皇は光格天皇の直系の孫で、櫻井よしこが<明治天皇を「中心にして」近代明治日本を建国した>、と褒め称える明治天皇の実の父親だ。
 なお、この「明治天皇を中心にして」という部分は、櫻井よしこ・日本の息吹2017年2月号(日本会議)の文章の中で使われているはずだ。
 そしてまた、孝明天皇は、天皇にしてはきわめて珍しく、武家政権(徳川・江戸幕府)に対してモノを言い、反抗もしている。
 条約(対米通商条約)締結には「勅許」が必要だと、主張したのだ。外交権の行使に天皇の同意がいるとすれば(形式的・儀礼的ならばともかく)、これは立派な「権力」(の一部)に他ならない。もはや「権威」なるものを超えすらしている。
 いや、これ自体が当時の朝廷内の<反幕府>一派が誘導した可能性はあるが、しかし、孝明天皇はどうやら個人としても<攘夷>を(少なくとも当初は)貫きたかったかに見える。
 変節が著しいともいえる薩長一派は、最初は<尊皇攘夷>を掲げて、<開国>方針の徳川・江戸幕府側(例えば井伊直弼)をイジメていたのだ。その返礼として、吉田松陰はタイミングが悪くて刑死になってもいる。この当時は、孝明天皇も<邪魔>ではなかったに違いない。
 孝明天皇とは、じつに、天皇の「権威」を体現しようとした人物だったのではないか。践祚の際に16歳だった明治天皇よりもはるかに、またその後の明治天皇と比べても、<意思>・<肉声>らしきものが感じられる。
 しかるに、櫻井よしこが、光格天皇と明治天皇に皇室の権威という観点から肯定的に言及はしても、孝明天皇に同様の趣旨で触れないのはなぜか。同様の趣旨で肯定的に評価しようとしないのはなぜか。
 櫻井よしこは、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)に依拠して、上の週刊新潮で多くのことを引用、紹介している。
 藤田覚の上の著は、しかし、孝明天皇についても多く触れている。半分ほどは孝明についての書物だ。
 そして藤田は冒頭で、つぎのようにも述べて導入している。
 「なかでも孝明天皇は、…国家の岐路に立ったとき、頑固なまでに通商条約に反対し、尊皇攘夷を主張しつづけた。それにより、尊皇攘夷、民族意識の膨大なエネルギー、を吸収し、政治的カリスマとなった」。p.9。
 櫻井よしこがとくに取り上げた光格天皇との関係についても、冒頭部で、つぎのように書く。
 光格天皇の「皇統意識、君主意識は、孫の孝明天皇に引きつがれ、それをバックボーンとして開国・開港という未曾有の危機にあたり、頑固なまでに…鎖国攘夷を主張した」。p.11。
 ちなみに、藤田作だという冒頭の川柳は、ゴロがよいように秋月が少し変えると、以下のようになる。
 <光格がこね、孝明がつきし王政餅、食らうは明治大天皇>。p.9参照。
 かくのごとく、櫻井が依拠し引用している藤田覚著には、たっぷりと孝明天皇も登場するのだ。
 そして、櫻井は、同・週刊新潮の2/16号では、藤田著等によりつつ、孝明天皇に論及している。
 しかし、その扱いは、光格の場合とまるで異なる。<皇威>という観点から孝明天皇を肯定的に紹介する論調では全くない。
 もう一度書こう。櫻井よしこが、光格天皇や明治天皇に皇室の権威を高めたという観点から肯定的に言及しながら、孝明天皇についてはその点はいっさい無視して、称賛していないのはなぜか。孝明天皇も、まさに<皇威>を実際に高めた立派な人物だったとなぜ肯定的に評価しないのか。
 結論は、はっきりしている。
 <薩長史観>を前提とした、戦前に主流の<史観>を持っているからだろう。
 光格はともかく、孝明天皇は、明治新政府登場までに亡くなった、薩長側に対する<敗者>の側の天皇だったのだ。
 歴史は勝者が作る、あるいは描く、ともいう。現在の日本で主流の<史観>も、戦争勝利者であるアメリカらの「連合国」が形成した、とおそらく言えるだろう(「東京裁判史観」という、渡部昇一が好んで用いているらしき概念は、狭すぎる)。
 戦後主流の<史観>を持ちたくないからといって、-「皇国史観」と言ってしまうのは語弊があるかもしれないが、-戦前の日本にあった<薩長中心史観>、つまり明治維新・開国・近代日本の建設をほとんど全面的に<良かった>ものと理解する史観に立つのは、既述のように、たんなる<裏返し>にすぎず、歴史を冷静には見ていない、と考えられる。
 要するに、櫻井よしこの歴史観・歴史認識も、最近の文章ではかなりの程度、「観念」論であり、「政治的」色彩を帯びているのだ。そしてまた、櫻井よしこの天皇譲位反対論も、この「政治的」・「観念的」歴史観に多分に依拠している、と言えるだろう。
 櫻井よしこのような歴史家・歴史研究者ではない者が(私・秋月ごときがこうした欄で何を書いても許されるかもしれないが)、活字となって広く読まれる可能性がある文章の中で、単純すぎる「政治的」・「観念」論を表明しないでいただきたい。読者は、櫻井よしこらが書いていないこと、言及していないことに、むしろ注目する必要がある。
 週刊新潮での櫻井よしこには、同じ趣旨でたぶんもう一回触れる。

1271/コミュニストにより作られたハル・ノート-櫻井よしこ・週刊誌連載。に関連して2。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)で、アメリカ・ルーズベルト政権は日本が呑めないことを見越して「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」、開戦に追い込んだ、という旨を記していたが、中川八洋の理解は大きく異なるようだ。
 中川八洋・近衛文麿とルーズヴェルト-大東亜戦争の真実(PHP、1995)p.39によれば、「米国側からの最後通牒『ハル・ノート』の故に、日本は敗戦を覚悟してやむなく窮鼠猫をかむ決断を強いられた、という俗説」が是正されなく今も通用しているのは「歴史の歪曲」、少なくとも「歴史の真実に対する怠慢」だ。
 中川八洋は「大東亜戦争…とは、…東アジア全体の共産化のための戦争であった」(p.34)、「大東亜戦争=日本とアジアの社会主義化」というのが「歴史の真実」だ(p.276)と捉えているので、出発点あるいは逆の結論自体が櫻井よしこらとは基本的に異なっているように見える。
 そして、同書の第二章「『ハル・ノート』とロシアの『積極工作』-財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト」でも、上のような「俗説」なるものとは異なる叙述を行っている(p.36-57)。以下、ハル・ノートやそれと日本の関係に限っての要約・抜粋的紹介。
 ・1941.07.28の日本軍の南部仏領進駐(ベトナム・サイゴン入場)は日本の英米蘭に対する実質的な開戦で、ハル・ノートが日米戦争の引き金ではない。同09.06の午前会議で10月上旬の開戦の想定(帝国国策遂行要領)が決定され、さらに11.05には12月上旬に定め直され、11.26午前には南雲中将らの機動部隊は真珠湾に出撃していた。ハル・ノート(のちに述べる最終案)が手交されたのは11.26午後で、日本の真珠湾攻撃はハル・ノートに対する反発によるものではない。日本の対米開戦は同年7月以降の既定路線だった。
 ・といって、ハル・ノートに重大性がないわけではない。ハル・ノートにはハルがまとめた「ハル試案」=暫定案と、時期的にはのちのホワイトが執筆してハルの名で手交されたより強硬な「ホワイト試案」=最終案とがあった。前者であれば日米講和の可能性があり、これによって敗戦・降伏していれば、ソ連の対日開戦はなく、満州の悲劇も千島の領土喪失もなかった。「強硬姿勢一本槍」の「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは日本の関係者すべてを憤激させ、日本を徹底抗戦へと誘導した。そして戦後には、ハル・ノートは日本国民の対米怨念形成の劇薬になり、戦後の日米関係に対して致命的悪影響をもたらした。なお、<最終案>・「最終的なハル・ノート」という語は、秋月が作った。 
 ・「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは、アメリカ内部で、どのようにして採択されたのか。暫定案→最終案への変化は1941.11.17-11.25の間に生じた。財務次官補・ホワイトは試案を11.17に財務長官・モーゲンソーに渡し、その翌日にモーゲンソーはルーズヴェルト大統領とハル国務長官に送付した。ハルは自らの暫定案に固執し続けたが、ルーズヴェルトはホワイト試案を気に入ったようで、11.25にそれの採用をハルに命じた。
 ・ルーズヴェルトが「ホワイト試案」を支持したのは、ソ連擁護のために対ドイツ開戦をしたくて、ドイツと同盟関係にある日本に対米開戦を決行させることにあっただろう。日本の対米開戦はドイツの対米開戦と見なしてよかった。ルーズヴェルトは「100%の確率で受諾拒否となる」「最後通牒」をどうしても日本に手交したかった。
 ・H・D・ホワイトとは何者か。彼の「別の顔」はKGBの前身組織の在米責任者バイコフ大佐指揮下の「ソ連工作員の一人」。のち1953年にブラウネル司法長官は、ホワイトを名指しして「ソ連のスパイであり、米国の機密文書を…他の秘密工作員に渡していた」と言明した。1948年にバイコフ機関に関する証言のために召喚されたホワイトは、喚問三日後の08.16に心臓麻痺で死亡し、ハル・ノートをめぐる歴史の謎は闇の奥にしまわれた。しかし、ハル・ノート(最終案)が「共産主義者」である「ソ連のスパイ」により執筆された、という事実は等閑視できない。「共産主義の心底には破壊主義」が強く潜み、ホワイトはソ連防衛のみならず、日米戦争による「日本の破壊」の目標も秘めていたただろう。
 以上に続いてルーズヴェルト政権内のホワイト以外の「共産主義者」である「ソ連のスパイ」についての叙述があるが省略する。
 中川八洋は「最後通牒」性を否定しているが、かりにハル・ノートが日本に対する「最後通牒」との<俗説>が正しいものであったとしても、そのハル・ノートを実質的に作成したのはソ連・コミンテルンのスバイだった、という指摘はすこぶる大きな意味があるはずだ。
 櫻井よしこはどの程度の知見を持っているのかは知らないが、少なくとも週刊誌上の簡単な叙述だけでは不十分であることは明らかだろう。
 それにしても、先の戦争、大東亜戦争、八年戦争、昭和の戦争(の時代)についての歴史「認識」は同じ<保守派>であっても決して一様ではないことに驚かされるところがある。中川八洋を<保守派>論者でない、と評する者はいないだろう。近く田久保忠衛の戦争(の時代)についての歴史「認識」にも触れる予定だが、<真正保守>の歴史観というものがあるのかは疑わしい。また、自ら<真正保守>と任じている者の歴史把握が<真正>なものである保障は決してない、ということも心得ておいてよいと感じられる。

1270/<保守>派の情報戦略-櫻井よしこ・週刊新潮連載コラムを読んで1。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)の連載コラム639回で「外交も戦争も全て情報戦が決める」と題して、「情報戦」の重要性を説いている。そのことにむろん異論はないが、書かれてあることには、不満が残る。
 櫻井はビーアド・ルーズベルトの責任/日米戦争はなぜ始まったか(開米淳監訳、藤原書店)を読んで、先の戦争時におけるルーズベルトや同政権の認識・言動等をおそらくは抜粋して紹介している。しかし、対ドイツ関係のグリアー事件(1941年)に関することを除いて、すでに何かで読んで知っていたようなことだ。
 また、ビーアドの書物がどこまで立ち入って書いているのかを知らないが、櫻井よしこがここで紹介しているかぎりでは、なおも突っ込みが足りないと感じる。まさかとは思うが、櫻井よしこはビアードのこの本によってここで書いてるようなことを知ったのではないだろう。そして、ビーアドの叙述による事実・現象のさらにその奥・背景が(も)重要なのだと思われる。
 例えば、ビーアドによると、大多数のアメリカ人には対日戦ではなく対ドイツ・ヒトラー戦争こそが重要だったにもかかわらず、ルーズベルトは1941年7月に「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込みつつ」対日戦争を準備していた、ということのようだが、「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込」んだ原因・背景がアメリカにも日本にもあったはずで、ルーズベルトの個人的な意思のみを問題にしても不十分だろう。
 また、「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」ながらも、日本政府がこれを受諾しないで開戦してくるという確信をルーズベルトは隠していた、という旨も書き、さらに、春日井邦夫・情報と戦略(国書刊行会)によりつつ、ルーズベルトはハル・ノートの手交当日にも戦争準備をしており、日本の真珠湾攻撃を「待ち望んでいた」「口実」として対日戦争・参戦を始めた、という旨も書いている。
 何で読んだかは忘れたが、上のようなことは私はおおむねすでに知っていたことだ。
 問題は、ハル・ノートの作成・手交や開戦前の日米交渉において、ルーズベルトだけではなく、同政権内部の誰々がどのような役割を果たしたか、同様に同時期の日本政府は、具体的には誰々が、どのように判断してどのように行動決定したかの詳細を明らかにすることだろう。別の機会に関係コメントは譲るが、コミンテルン(・ソ連)およびその工作員・スパイの役割に論及する必要があると思われる。櫻井は、コミンテルンにもコミュニズム(共産主義)にも何ら触れていない。
 最後に櫻井は、「情報戦の凄まじさ、恐ろしさを実感する。いま、日本は中国の情報戦略で深傷(ふかで)を負わされつつある」と書いて、「情報戦」を戦う強い意思を示している。このことに反対しないが、しかし、揚げ足取りまたはないものねだり的指摘になるかもしれないが、<情報戦略>をもって日本に対応・対抗しているのは、中国だけではない。アメリカも韓国も北朝鮮も、その他の諸国も、多かれ少なかれ、日本に対する<情報戦>を行っている。そして、それに応えるような、日本を謀略に自ら陥らせるような「報道」の仕方をするメディアが、それに巣くう日本人が、日本国内には存在する。
 「情報戦」は、朝日新聞等々の、日本国内の<左翼>・<容共>勢力との間でも断固として行わなければならない。歴史認識、「憲法改正」等々、戦線はいくらでもある。朝日新聞のいわばオウン・ゴール?で少しは助かっているようにも見えるが、日本国内の<左翼>・<容共>勢力の「情報戦略」は決して侮ってはいけないレベルにある。
 私が懸念しているのは、<保守>・<自由>・<反共>陣営にはどのような「情報戦略」があるのか、だ。

1189/櫻井よしこは民主党政権について当初は何と論評していたか。

 かつてのこの欄での記述の(各回のうちの)一部をそのまま再掲しておく。二つのいずれも、櫻井よしこに関するものだ。
 一 2010年5月14日

 「櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこは月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。」

 二 2010年12月31日 

 「「左翼」政権といえば、櫻井よしこは週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ <略>

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか?」

 なお、屋山太郎については再掲しないでおく。この人物が靖国神社の総代会か崇敬奉賛会の役員に名を出している筈であるのは異様であると、靖国神社のためにも言っておきたい。

 以上は、先月の<民主党政権成立を許したことについての保守派の責任をきちんと総括すべきだ>旨のエントリーの続きの意味ももっている。

1077/産経新聞と櫻井よしこと遠藤浩一。

 〇「保守」概念、「保守主義」なるものの意味について考えている。これまでここで取り上げていない文献に言及したいこともある。だが、やや重たいテーマだ。あまり間隔を空けるのも問題なので(と勝手に感じている)、以下の程度でお茶を濁しておこう。
 〇産経新聞1/12櫻井よしこ連載「首相にもの申す」は、かなり興味深い。というのは、櫻井はこの文章の9割ほどをかけて、野田内閣の実績を評価し(「…評価すべき実績が見えてくる」)、同内閣に対する「期待」を語っているからだ。
 前者は①TPP交渉参加表明、②金正日死去の際の哀悼の意の不表明、後者は内閣改造によって「首相が税と社会保障の一体改革に伴う消費税増税に命運をかけた攻勢に出る」ということで、「党内の反対を考慮せず信ずるところを実行に移すのがよい」と述べている。「集団的自衛権の行使を決断」することへの期待も語っている。
 野田佳彦は民主党内「保守」派とされているようで、なるほどイメージとしては鳩山由紀夫や菅直人よりはましのようにも感じる。
 だが、こんなに評価し、期待してよいのだろうか。評価すべきとする①は論者によって(「保守」派論者の中でも)異なるだろうし、②は「当然といえば当然」なのではないか。
 また、もともと、産経新聞上での「期待」を野田はどれほど意識するだろうか、(消費税増税についても議論があるところだが)かりに妥当な内容であったとしても、どれほどの「応援」になるのだろうか、という気もする。産経新聞のスタンスとしては、民主党内閣に対しては、少なくとも<やや辛口>程度ではいるべきだろう。勝手な期待?だが、そうした期待?からすると、櫻井よしこの文章は、産経に期待するレベルを超えて民主党内閣に「甘い」。
 産経新聞1/16の「正論」欄の遠藤浩一の文章は、櫻井よしことはだいぶ論調が異なる。
 遠藤は、内閣改造による「社会保障と税の一体改革」への「不退転の決意」表明に(櫻井よしこの上記文章もあるが-秋月)世論も市場も冷たく、それは「こうした重要にして困難な政策を進めていく当事者能力および適格性が野田・民主党政権にあるのかという不信が払拭されていないからだろう」等と述べる。
 そして一番最後の文章は、「野田氏に期待するのは空しいということである」、となっている。
 櫻井よしこによる「期待」を意識して書かれたのではないだろうが(あくまで推測)、遠藤浩一のスタンスは櫻井とはかなり異なる。
 こういう違いが同じ産経新聞紙上で見られるのは興味深いことだ。そして、遠藤浩一の感覚の方が、私はまっとうだと思っている。 

1044/石井聡と櫻井よしこ論考+政治部記者の法的感覚。

 〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
 「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
 以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
 この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
 産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
 だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
 ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
 〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
 「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
 菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
 さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
 ・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
 ・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
 このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
 首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
 むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
 菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。

1039/櫻井よしこの政治感覚は研ぎ澄まされているだろうか。

 一 月刊正論9月号(産経新聞社)の巻頭、櫻井よしこ「国家は誰のものか」(談)は主として菅直人批判に費しつつ、谷垣自民党批判と一定の議員グループへの期待をも語っている。
 7/15の民主党議員グループの行動に流れの変化を感じるとしつつ、櫻井は続ける。-「一方、不甲斐ないのは自民党現執行部」で、菅直人が延命できるのは「現在の自民党執行部の責任でも」ある。谷垣禎一を次期首相にとの世論が少ない「理由は明らか」で、「相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていないから」だ。「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の点について、「民主党の菅、鳩山政権と大差のない政策しか提示し得ていない…」(p.60-61)。
 このような叙述には、首を傾げざるをえない。
 自民党(谷垣自民党でもよい)の「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の「政策」は「民主党の菅、鳩山政権と大差のない」、という認識または評価は、いったいどこから、どのような実証的根拠をもって、出てくるのだろうか。谷垣「リベラル」自民党との距離感をずっと以前にも示していた櫻井よしこだが、櫻井もまた「相も変わらず」何らかの固定観念にとらわれてしまっているのではないか。
 自民党のしていることを無条件に擁護するわけではないが、親中・「左翼」の「菅、鳩山政権と大差のない」などと論評されたのでは(しかも上記のような基本的論点について)、さすがの自民党「現執行部」も文句の一つでも櫻井に言いたくなるだろう。
 この冷たい?自民党に対する態度は、2009年総選挙の前後にも櫻井よしこに見られたところだった。
 櫻井よしこが上の部分の後に書いているところによれば、彼女が期待するのは「谷垣自民党」ではなく、6/07に初会合があった憲法96条改正議員連盟に賛同しているような、「既成政党の枠を超えた」議員グループのようだ。
 櫻井よしこは、この議員連盟こそが「真に日本再生に向けた地殻変動の起爆剤になる」ことを期待し、「彼らの議論から党を超えた連帯意識が生まれ、真の意味で政界再編の機運が高まる」ことを願っている。その際、「民主党、自民党、そのほかどの政党に身を置」いていようと関係がない(p.61)。
 櫻井よしこが現自民党に対して<冷たい>のはこういう代替的選択肢を自らのうちに用意しているからだろう。
 しかし、思うのだが、かかる期待や願望を全面的に批判する気はないが、櫻井は見方が少し甘いのではないだろうか。
 2009年の時点でも、明言はなかったようでもあるが、自民党よりも<真の保守>に近いと感じていたのだろう、櫻井よしこには自民党ではなく「たちあがれ日本」や「創新党」に期待するような口吻があった。しかして、その結果はいったいどうだったのか?。
 反復にもなるが、当時に自民党への積極的な支持を明言しなかった保守論客は、客観的・結果的には、民主党への「政権交代」に手を貸している。現時点ではより鮮明になっただろう、民主党政権の誕生を断固として阻止すべきだったのだ。保守派は2009年に敗北したのだ。この二年前の教訓は、今年中にでも衆議院解散・総選挙がなされる可能性のある現時点で、生かされなければならないだろう。
 党派を超えた動き、それによる「真の政界再編」を夢見るのは結構だが、それらは次期総選挙までに間に合うのか??
 櫻井よしこは、とりあえずにでも現執行部の自民党を中心とした政権が成立するのがお好きではないようだ。そんな態度をとり続けていると、民主党「たらい回し」政権があと二年間も延々と(!)続いてしまうのではないか。
 二 櫻井よしこの週刊新潮8/25号の叙述の一部にも気になるところがある。
 民主党あるいは鳩山・菅政権の「政治主導」が失敗し、むしろ消極的で悪い効果をもたらしたことは、多言しないが、明らかだ、と思われる。政治主導あるいは官僚排除の姿勢によって、政治・行政運営に「行政官僚」をうまく活用することができなかったのだ。
 ところが、そういうより広い観点からではなく、櫻井よしこは「政治主導の確立と官僚主導の排除」を「公務員制度改革」の問題に矮小化し、「以前と比較にならない官僚の勝手を許す結果に陥った」と菅政権を総括している(p.139)。
 行政官僚をうまく使いこなせなかったことではなく、櫻井によると、<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、というのだ。
 このような事態の認識は、全体を見失っている。そして、このような認識と評価は、政官関係について「相も変わらず」屋山太郎から情報と意見を入手していることに原因があるようだ。
 「天下り禁止」の有名無実化を批判するのはとりあえず結構だが(なお、古賀利明の本にいつか言及する)、この問題に焦点を当てているようでは、議論の対象が「ちんまい」。問題把握のレベルが小さすぎ、視野狭窄があり、優先順位の序列化の誤りもある。
 すぐれた政治感覚と政治・行政実務に関するしっかりした知識をもった、信頼できる<保守>論客はいないものだろうか。憂うこと頻りだ。    

1008/櫻井よしこは不信任案の意味を知らない!

 日本国憲法69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。
 産経新聞6/09の櫻井よしこの文章(菅首相に申す)の第一文はこうだ。
 「菅直人首相への不信任決議案は、首相ひとりではなく、菅政権そのものに突きつけられたものだ」。
 櫻井よしこは何を言っているのか? ずっこけるほどの、目を剥く文章だ。
 6/02に衆議院で議決されたのは内閣不信任決議案であって首相不信任決議案ではないことは憲法条項からも明らかだ。かりに厳密には「内閣」<「政権」だとしても、まさに「首相ひとりではなく、菅政権そのものに突きつけられたものだ」。このことすら知らないで、新聞の一面を飾る?文章を書き、国家基本問題研究所なるものの理事長でもあるらしいのだから、恐れ入る。
 かつてこの欄に書いた文章を確認する手間を省くが、櫻井よしこは2009年夏に、①民主党の詳細な政策がよく分からないので早く具体的なマニフェストを公表してほしい旨を書き、民主党内閣成立後には、②<期待と不安が相半ば>する旨を書いた、そういう人物だ。
 民主党の少なくとも幹部連中のこれまでの政党遍歴・諸発言を知っていれば、民主党の詳細な政策など知らなくとも、櫻井よしこが批判していた自民党よりも<よりましな>政権になるはずはないだろう、ということくらいはすでに判るのが、優れた評論家であり国政ウォッチャーであり、「国家基本問題」の研究者だろう。情けなくも、早く具体的で詳細な政策を明らかにせよ(そうでないと評価できない)と櫻井よしこは書いていたのだ(①)。
 また、ある時期からは明確に民主党や同党内閣批判の姿勢に転じたようだが、上記研究所理事の屋山太郎の影響を受けてか、民主党政権の成立当初は、櫻井よしこのこれへの姿勢は曖昧なままだった、ということも忘れてはならないだろう(②)。

 また、櫻井よしこはその後も、「谷垣自民党」と民主党は<同根同類>だ旨も強調して、自民党も期待できないという雰囲気を撒き散らしてきた。このような櫻井の認識では説明できなかったのが、(詳細は省くが)この間の政界・政局の動向だっただろう。要するに、櫻井は、残念ながら、適確に政治状況を把握し切れているわけでは全くない。また、反中国専門家ではあるようだが、しかし、反フェミニズムの専門家では全くない。
 ついでに。櫻井よしこには今年初めに、正論大賞が贈られた。産経ニュースから引用すると、「櫻井氏はシンクタンク・国家基本問題研究所を設け『日本人の誇りと志』を取り戻そうと活動。ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調が評価され、正論大賞が贈られた」らしい。
 「ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調」とは少し?褒めすぎではないか?? 産経新聞社自体が、「ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調」では必ずしもないのだから、社の論調に近い原稿を寄せてくれる者に対する<内輪褒め>のようなものだろうか。
 と書きつつも、筆者の頭を離れないのは、(とりわけ憲法9条2項削除・自衛軍の正式設置のための)憲法改正に向けた<多数派>をいかに形成するか、という問題・課題だ。
 その目標に向けて櫻井よしこにも働いてもらわなければならず、櫻井を全面的に非難・批判しているわけではむろんない。但し、和服を着て母親とともに受賞式場に現れて、嬉しそうに微笑んで、<功成り名を遂げた>ような挙措をするのはやめてほしかったものだ。
 日本の全状況から見ると、櫻井よしこらは(私もだが)<反体制>派であり、<少数派>にすぎないことを、深刻に、悲痛な想いで、つねに自覚しておくべきだろう。ニコニコとしている場合では全くない。 

0983/「自由」は「民主主義」の根本か-櫻井よしこ・月刊正論3月号。

 屋山太郎の名も表紙に掲げる月刊正論3月号(産経新聞社)は、第26回正論大賞受賞記念論文と銘打って、櫻井よしこ「国家としての大戦略を確立せよ」を掲載する。

 内容に大きなまたは基本的な異論はないが、インドも同じ立場に立つ「価値観外交」をせよ、そのための「憲法、法制度の改正」を急げ、というのが確立すべき「国家としての大戦略」だとの基本的趣旨のようで、新味はない。

 また、気になる部分もある。以下はその例。

 第一に、「日本人として、中国や韓国では勿論のこと、米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違は、インドには存在しない」とある(p.61)。
 インドうんぬんを問題にしたいのではない。「米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違」とは、アメリカに対して相当に甘い見方ではなかろうか。

 同じ月刊正論3月号の書評欄にアーミテージ=ナイ・日米同盟vs.中国・北朝鮮(文春新書)が採り上げられているが(この新書は未読)、紹介(・書評)者の島田洋一はこの本の中で、J・S・ナイ(クリントン政権CIA国家情報会議議長・国防次官補、ハーバード大学教授)は「2010年は民主党政権の閣僚は1人も靖国参拝をしていませんね。それはとても良いステップであり、重要だと思います」と述べていると紹介して「余計な」「アドバイス」だ(アーミテージは賢明にも沈黙を保っている)とコメントしている。

 これは一例だと思うが、かの戦争や東京裁判、首相靖国参拝等にかかわる米国と日本の間の「歴史認識の相違」は、少なくとも日本の<ナショリスト派保守>(と中川八洋の「民族派」との語を意識して呼んでおく)にとっては、「米国においてさえも時に感じる」というようなものではなく、より根本的なものがあるのではなかろうか。

 櫻井よしこは民主党閣僚が誰一人として靖国参拝をしなかったことを諒とし、「良いステップ」だと評価する評論家だったのだろうか。アメリカを含む(非中国・反中国の)<価値観外交>の重要性を説きたいがために、ここではアメリカの主流派的「歴史認識」への批判・警戒を薄めすぎているように見える。

 第二に、「民主主義の根本は人間の自由である。言論、思想信条の自由、信教の自由を含む基本的人権の確立である」とある(p.52)。

 中国の「民主主義」の観点からの「異質さ」を語る中で述べられている文章だが、この簡単な叙述には、率直に言って、非常に驚いた。

 「基本的」がつく「基本的人権」という語は欧米にはない日本的なもので同じ<価値観>の欧米諸国に普遍的なものではない(「人権」や「基本権」はある)、田母神俊雄が事実上免職された際に櫻井よしこ(や国家基本問題研究所)は「言論、思想信条の自由」のためにいかなる論陣を張ったのか、「シビリアン・コントロール」という概念の使い方に文句をつけていたが田母神俊雄を擁護しはしなかったのではないか、といった点は細かなこととして、今回はさて措くこととしよう。

 驚いたのは、「民主主義」と「自由」の関係に関する簡単な叙述だ。<「民主主義」の根本は「自由」だ>というように簡単に両者を関係づけるのは、「民主主義」や「自由」というものに対する深い洞察・知見のないことを暴露していると思われる。

 この両概念をどのような意味で用いようと自由勝手だとも言えるが、この両者は別次元のもので、どちらかがどちらかの「根本」にある、というような関係にはないのではないか。正論大賞受賞者ならばいま少し慎重な用語法をもってしてもよかったのではないか。

 より詳しくは(といってもこの欄に書く程度の長さだろうが)、別の機会に述べる。

0969/中川八洋、撃論ムック・反日マスコミの真実2011、櫻井よしこ、産経、表現者。

 〇中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)の半分余、p.131まで読了。
 これはなかなか衝撃的な書だ。「悪の反省にあらず、失敗の反省なり」とは適確だと最近書いたが、この書によると「悪の反省」が必要だ。但し、日本軍国主義(あるいは軍部・戦争指導者等)の「悪」ではなく、近衛文麿、尾崎秀実や軍部の中枢に巣くった「共産主義」という「悪」に対する「反省」だ。共産主義(コミュニズム)との関係を抜きにして先の大戦の経緯・結果等を語れないのはもはや常識だろうが、ここまでの(中川の)指摘があるとは知らなかった。
 なお、オビに「『幻の奇書』待望の復刊!」とある。「奇書」なのか? あるいは「奇書」とはいかなる意味か。

 〇撃論ムック30号(西村幸祐責任編集)・反日マスコミの真実2011(オークラ出版、2011)のp.47まで読了。

 朝日新聞やNHKに幻想をもっている人(「反日マスコミの真実」に気づいていない人)には必読と言いたいところだが、そうした人のほとんどは、この本(雑誌?)を手にとらないのかもしれない。

 〇櫻井よしこは、産経新聞1/03の対談で、①「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜(ひょうぼう)する政党はどこにも存在しません。民主党は最初からそういう考えがありませんし、自民党も谷垣禎一総裁の下ではむしろ3つの論点から遠ざかる傾向にあります。同質性が高い」。②「今の自民党は55年体制以降の自民党の延長線上にありますので変わる見込みはないでしょう。おのずと第三の道に行かざるを得ないのではないでしょうか」、と発言している。

 民主党政権(菅政権?)と「谷垣自民党」は「同根同類」とつい最近書いていたのだが、ここでは「同質性が高い」になっている。これは変化(言い直し)なのか? いずれにせよ、「同質性が高い」とは、厳密にはいかなる意味なのだろう。

 また、「今の」自民党は「変わる見込みはない」ので「おのずと第三の道に行かざるを得ない」だろうと言っているが、ここでの「第三の道」とは、具体的には何なのか。おそらくはまるで違った意味でだが、菅直人ですら「第三の道」と言っている。
 櫻井は「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する政党はどこにも存在しません」と直前に語っている。

 では、「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する」、政党ではない政治家・政治グループはどのような人々なのか、明言してもらいたいものだ。

 それに、そのような(期待できる政党は今はどこにもないという)「第三の道」に期待する時間的余裕はあるのだろうか。

 対談相手の渡辺利夫は「政界が再編成されて、本物の第三極ができるかどうか。保守の新しい軸をつくっていく努力はかなり長い時間を要すると思います」などと語っているが、櫻井よしこらのいう「第三の道」・「本物の第三極」への道が明確になり、かつ勝利するまでに、外国人参政権付与(公選法改正)法、夫婦別姓(民法改正)法、人権擁護法等が成立し、施行されたら、いったいどうするのか??。

 ずいぶんとのんびりとした議論だ。

 気のついたことをあと二点。櫻井よしこは、①解散・総選挙の必要性に一言も触れていない。②中国につき、「帝国主義」・「植民地主義」という言葉は使うが、なぜか、「社会主義(・共産主義)」という語を使っていない。

 〇やや古いが、櫻井よしこと親和性(?)の高そうな産経新聞について、隔月刊・表現者33号(ジョルダン、2010.11)の巻頭コラムは次のように書いていた。無署名だが、編集委員代表の富岡幸一郎の文章だろうか(雑誌自体は西部邁グループ(?)のもの)。
 <民主党代表選で朝日新聞と全く同じく小沢一郎批判を繰り返した産経新聞は「日米同盟」保持・重視のために小沢ではなく菅を選択したのだろうが、これが「現在の日本の”保守”と呼ばれるマスコミの醜悪で貧しい実態」だ。日米「同盟」こそ日本の命綱だとする者に「保守思想など語る資格もない」。アメリカによるイラク平定を素晴らしい成果だと堂々と主張する「こんな新聞は、はっきり言ってリベラル左翼派よりも低レベル」だ。これが「今日の日本の思想レベルを象徴している」。>(p.8)

 どうやら、(主観的・自称)<保守>にも産経新聞派と非(・反)産経新聞派があるようだ。  

0966/櫻井よしこはいつから民主党政権を「左翼」と性格づけたのか?

 〇月刊正論2月号(産経新聞社)の中宮崇「保存版/政治家・テレビ人たちの尖閣・延坪仰天発言録―そんなに日本を中国の『自治区』にしたいですか」(p.184-191)に「仰天発言」をしたとされている者の名を資料的にメモしておく。

 田中康夫(新党日本)、福島瑞穂(社民党)、服部良一(社民党)、小林興起(民主党、元自民党)、田嶋陽子(元社民党)、大塚耕平仙石由人(民主党)、浅井信雄(TBSコメンテイター)、山口一臣(週刊朝日編集長)、三反園訓(テレビ朝日)、高野孟伊豆見元(静岡県立大学)、田岡俊次(朝日新聞)、金平茂紀(TBS)、NEWS23X(TBS)。
 なお、CNN(中国)東京支局は「テレビ朝日」と「提携関係」にあるが、この事実を記す「ウィキ」等のネット上の書き込みは「即座に削除隠ぺい」されてしまう、という(p.189)。
 〇隔月刊・表現者34号(ジョルダン、2011.01)の中で西部邁は、戦後日本人が「平和と民主」というイデオロギー(虚偽意識)で「隠蔽」した、その「自己瞞着の行き着く先」に「左翼のダラカン(堕落幹部)たち」による「民主党政権」が登場した、と書く(p.181)。
 戦後憲法体制の「行き着いた」果てが現民主党政権で、自民党→民主党への政権交代に戦後史上の大きな<断絶>はない、というのが私の理解で、西部邁もきっと同様だろう。だが、民主党政権は自民党のそれと異なり、明瞭な「左翼」政権だ。この旨も、西部邁は上で書いていると見られる。
 「左翼」政権といえば、櫻井よしこ週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1950116/

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1603319/

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか? 

 厳しい書き方をしているが、櫻井よしこを全体として批判しているのではない。例えば、憲法改正(とくに九条2項削除)のための運動・闘いの先頭に立ってもらわなければならない人物の一人だと承知している。

 佐伯啓思に対しても、西尾幹二に対しても、西部邁に対しても、盲目的に従うつもりは全くない(それにもともとこれら三人の論調は同じではない)。<保守教条>主義者・論者であってはならないとの基本的立場は、櫻井よしこ等の他の<保守>論客に対しても、変わりはない。
 さらには、<保守>論壇・論客の中に、ひょっとして中国あるいは米国の<謀略>として送り込まれた人物もいるのではないか、くらいの警戒心をもって、<保守>系雑誌等の執筆者の文章や発言は読まれるべきであろうとすら考えている。
 

0962/櫻井よしこと持丸博=佐藤松男と大熊信行。

 櫻井よしこが週刊新潮12/23号で肯定的に言及していたので、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)を入手して、読んで、いや全部を読もうとしてみた。

 だが、第二章の終わりあたりで、全体の3割くらいまで進んで、止めた。面白くない。
 三島由紀夫と福田恆存の「対決」は「たった一度」ではないのでないかと12/17に書いたが、この本のp.7によると、他に対談の機会はあったことには触れていないものの、「政治的、思想テーマについて」の「たった一度の対談」だとの趣旨のようだ。なおも誤解を招きうるとは思うが、12/17の批判的コメントは(全部ではなく)かなりの程度で撤回しておく。
 ともあれ、上の本は、最初に三島・福田の「対決」の「要旨」を掲載したうえで、あとは持丸博と佐藤松男の「対談」を内容とする。

 櫻井よしこは多くの三島論・福田論があったが「その中で、持丸、佐藤両氏が論じた本書は抜群に面白い」と評している(上記週刊誌p.138)。

 櫻井よしこは全部をきちんと読めた・読んだのだろうか。適当な(当事者たちに嫌われない)褒め方をしているにすぎないように思われる。

 この本の対談者二人は三島と福田にそれぞれに<私淑>した人物で、三島・福田の知られざる個人的言動がふんだんに語られていれば興味も湧くが、三島・福田の一つの「対談」を主たる材料にして、三島・福田と同レベルで、彼らの「思想」・「考え方」をあるときは代理してのようにあるときは独自の解釈を展開するように、語り合っている(全部を読んだわけではない)。持丸博と佐藤松男はそれぞれこれまでに三島や福田についての研究書なり評論書を刊行した実績はなく、どうやら初めての著書(対談書だが)のようだ。そのような二人が、いくらかつて三島・福田と物理的に「近い」場所にいたとしても、本格的な三島論・福田論を語るのは無理というものだろう。

 多少は具体的に述べれば、日本国憲法との関係で三島が使った「縄抜け派」という語を契機として示された二人の憲法感覚の違いは、持丸・佐藤のように説明または分析されるものなのか、疑問だ(p.32-37)。また、「国家(のエゴイズム)」と「天皇」の関係についての三島・福田の対論内容も、持丸・佐藤のように説明または分析されるものなのか、疑問だ(p.41-)。

 持丸博は<国家を超えた絶対的価値>の存否に関連して日本と西洋の違いや「キリスト教」に言及し、福田と三島の違いは「福田恆存は認識者」であることだ、「世界を認識」できるが、「絶対的な存在、そんな世界があるということを認識しているがゆえに…三島先生のような行為はできなかった」、「あの行為こそが三島由紀夫の限界」だとか語り、佐藤松男は福田は三島に「絶対的な価値は何か」を問うているのではなく「国家を超えた絶対的な何ものかを追い求めて」いく必要を語っているのだ、などと反応している(p.48-50)。

 このあたりのやりとりは(も)、対談の原文をきちんと読まず、かつ三島・福田について詳しくは知らないからかもしれないが、ほとんど理解できない。三島・福田が使った表面的な言葉・文章を手がかりにして、<空を掻く>ような議論をしている可能性を否定できない。

 もともと、「政治的、思想テーマについて」の唯一の「対談」として語られた中での、三島由紀夫と福田恆存の言葉・文章、相互の「やりとり」の関係のみをほとんど唯一の手がかりにして、三島・福田の「思想」・「考え方」の違い等を析出しようとするのは、無理があるのではないか。

 対談では、ふつうの単独執筆の文章・論考等と違って、概念・論理ともに厳密な議論が少なくとも十分にはできはしないだろうと思われる。

 三島由紀夫にしろ福田恆存にせよ長大な個人「全集」を遺しているわけで、それら全体から二人の「政治的、思想テーマ」に関する立脚点・発想・論理等々を(違いも含めて)明らかにすべきだろう。

 遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)はそのような試みで、この二人の書いた文献を相当に広く渉猟しかつかなり深く読んだ上で、両者を分析または対比させているようだ。だからこそ興味をもって(時間はかかったが)読み終えた。しかし、持丸博=佐藤松男の本は約70頁でもう厭きてしまった。

 櫻井よしこに尋ねたいものだ。持丸博=佐藤松男の本が「抜群に面白い」というならば、遠藤浩一の本はいったいどうなのだ。櫻井よしこは、遠藤浩一の上記著書は読んでいない可能性があるだろう。

 ついでに、再び、櫻井よしこの上掲の週刊新潮12/23号の文章に戻る。
 櫻井よしこは、持丸博=佐藤松男の本に触れる中で佐藤が言及する大熊信行・日本の虚妄―戦後民主主義批判(論創社、2009)にも触れて、「大熊の主張はもっともだ」と書いている(p.138)。

 そこで紹介されているごく一部の大熊の発言だけに限れば「もっとも」なのかもしれないが、大熊信行は決して<保守派>の論者ではなく、「護憲」(九条2項改正反対)論者だ。タイトル(書名)に惑わされてはいけない。大熊は「戦後民主主義」だけを批判しているのではない。

 櫻井よしこが不用意に名を出すことによって、不必要な誤解を招く可能性もある。一部を読んだだけで、とか、引用されているのを間接的に読んで、というだけで簡単に肯定的に(または逆に消極的に)評価するのは、産経新聞社から<正論大賞>を受けたらしい「コラムニスト」あるいは「評論家」にはふさわしくないだろう。

0955/週刊新潮12/23号の櫻井よしこ・連載コラムと福田恆存。

 週刊新潮12/23号櫻井よしこ・連載コラムは、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)に言及し、自らの文章として、「1960年の安保闘争から70年の安保闘争まで、左翼的思想で満ちていた日本で孤高の闘いを続けた福田恆存と三島由紀夫はたった一度、『論争ジャーナル』という雑誌で対談した」と書く(p.138)。
 持丸博らのミス(?)を引き継いでいるのだろうが、「たった一度」の対決・対談というのは、誤りだと思われる。
 決定版三島由紀夫全集39巻〔対談1〕(新潮社、2004)を見てみる。

 たしかに、論争ジャーナル1967年11月号で三島と福田は「文武両道と死の哲学」と題する対談をしている(全集39巻p.696-728)。

 だが、三島由紀夫・福田恆存・大岡昇平の三者は文芸1952年12月号で「僕たちの実体」ど題する対談をしている(同上p.111~127)。

 これは鼎談であって、対談でも「対決」でもないというならば、三島由紀夫と福田恆存の二人は、中央公論1964年7月号で、「歌舞伎滅亡論是非」と題する対談を行っている(同上p.415-424)。

 持丸らの上掲書を未読なのでどのような注記等がなされているのかは知らないが、「たった一度」の対決というのは事実に反しており、櫻井よしこもその瑕疵を継承しているようだ。

 つぎに、櫻井よしこは福田恆存「滅びゆく日本」(サンケイ新聞1969年02.01。福田恆存評論集第8巻p.261-264)の一部を紹介・言及して福田による「戦後」に対する警鐘・批判に同感する旨を書いている。

 たしかに福田恆存のこの一文からも福田の考えていたことの一端は分かる。しかし、この数頁しかない一文が福田恆存の代表的論文(・評論)とは思えない。いわゆる<進歩的文化人>と対決し、彼らを批判した1950年前後以降のものも含めて、福田恆存が「戦後」を批判的に分析し、批判し、憂慮した文章は、上記の評論集(麗澤大学出版会、刊行中)の中に多数見出すことができる。
 それに、遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)が今年に刊行され、全集に直接に当たらずとも、福田恆存が1950年代以前から反「左翼」の立場で評論活動も行い、1960年前後にはすでに<高度経済成長>の「影」を視ていたことも明らかにされている(この遠藤著に今回は立ち入らない)。

 というわけで、櫻井よしこによる福田恆存発言の紹介の仕方には、たんに紙数の制約によるとばかりは思えない、かなりの不備があると感じられる。ついでながら、おそらくは、福田恆存は櫻井よしこ以上の文筆活動をしたと歴史的に評価されるだろう(たんなる量の問題ではない)。

0949/櫻井よしこの「谷垣自民党」批判は民主党・菅政権を利する。

 櫻井よしこ週刊ダイヤモンド11/27号で、「谷垣自民党」を批判している。

 「谷垣自民党」にも「自民党」にも批判されるべき点はあると思うが、この櫻井よしこの文章・論理による批判は決して説得的ではない。

 櫻井によると、菅直人内閣の支持率の低下にもかかわらず、問題は「自民党がいっこうに国民の信頼を回復できないこと」、すなわち「次の選挙では民主党には入れたくないという有権者が急増しているのに、自民党も支持したくないと考える人びとは少なくない」ことで、その理由は、「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」。

 「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」と評価するまたは断じる理屈づけ・説明には、しかし、いくつかの論理飛躍がある。

 第一に、かつての「加藤の乱」の当事者である自民党・加藤紘一は、「乱」の当時、「民主党幹事長だった菅氏の支持と連携に自信があった」、加藤は「複数の人間に、菅氏の番号を登録している携帯電話を見せて、自慢げに語っていた」、加藤は「菅氏とは『同志の仲』『ツーカーの仲』だと自慢していたという」といった、加藤・菅の10年前!の友好?関係を、論拠の出発点にしている。

 10年前の加藤・菅の関係を、なぜ「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」ということの理由付けの出発点にできるのか、大いに疑問だ。推測・伝聞も含まれており、できるとしても、かなり弱いと言うべきだろう。

 第二に、加藤ではなく谷垣禎一を登場させる必要があるのだが、櫻井よしこは、次のように言うのみだ。

 「自民党現総裁の谷垣禎一氏は、加藤氏の側近中の側近だった。『乱』の失敗を認める記者会見の席で、大粒の涙をこぼし『あなたが大将なんだから!』と加藤氏の肩を抱くようにして励ましていたのが谷垣氏だった。氏が加藤氏同様、菅氏とも『ツーカーの仲』なのかは、私は知らない。だが、価値観が似通っていることは確かだ」。

 加藤紘一=谷垣禎一とは櫻井よしこもさすがに書いていない。谷垣は加藤の「側近中の側近だった」とするにすぎない。

 しかも、谷垣が菅直人と「『ツーカーの仲』なのかは、私は知らない。だが、価値観が似通っていることは確かだ」と自ら書いている。断定的な資料・根拠を何ら示すことなく、「価値観が似通っている」と推測しているにすぎない。「確かだ」と書くが、「確かだ」とする証拠・資料を示していない。

 第三に、かりに谷垣と菅直人の「価値観が似通っている」としても、そのことが、、「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類だ」とする十分な根拠になるのか? もともと菅直人と菅政権は全くの同じではなく、谷垣禎一と「谷垣自民党」を同一視することも厳密には誤っている。

 にもかかわらず、櫻井よしこは谷垣と菅直人とは「価値観が似通っていることは確かだ」ということから、上のことを導く。

 さらに上述のように、そのように判断している根拠は、谷垣はかつて菅と友好関係にあった加藤紘一の「側近中の側近だった」ということだけだけだ。

 そしてまた、そもそものかつての(!)菅と加藤紘一の友好・協力関係も確定的にそう断じることはできない。少なくとも、櫻井よしこはその旨を説得的に納得させうる材料をほとんど示していない。論理は二重・三重に破綻している。

 櫻井よしこはこうまとめる。-「つまり、谷垣自民党は、『加藤の乱』が、決起から10年後に巧まずして実現した姿であり、菅氏との協力が政治力の源泉と考える人が主導するのが自民党である」。
 ここで語られる一つ、現自民党は「加藤の乱」の遅れての実現形、という断定ににわかに納得することはできない。谷垣が総裁だという以上の理由を櫻井は示していない。

 もう一つ、「菅氏との協力が政治力の源泉と考える人が主導するのが自民党」だと書いているが、この旨はそれまでの文章のどこにも出てきていいない。万が一、加藤紘一がかつて自分の力の源泉をかつての菅直人(当時、民主党幹事長)に)求めていたとしても、そのことによって、谷垣禎一もまた「菅氏との協力が政治力の源泉と考える人」だなどと論定することはできないだろう。

 わりあいと丁寧で、けっこう細かく論理的な文章を書く櫻井よしこだが、この週刊ダイヤモンドの連載コラムでの文章・論理はかなりひどい。

 さらに自民党も変わるべきとの最末尾の文章の前に、櫻井よしこはこうも書いている。-「菅政権もダメ、谷垣自民党もダメ」という国民は、両者が同根同類であることを見抜いている点で、きわめて正鵠を射ている」。

 叙上のように、「両者が同根同類である」という論定には、説得力がない。それだけの論証がない。したがって、そのように判断する国民は「正鵠を射ている」と言ったところで、ほとんど意味がない。

 最後に、次のようにも書いておこう。

 かりに万が一、谷垣禎一と菅直人の「価値観が似通っている」としても(櫻井よしこも「同じ」と言わず「似通っている」と言うだけであることにも注意)、そのことを何故、現時点であえて指摘しておく必要があるのか??

 もともと、上記のように谷垣禎一と菅直人の関係を「谷垣自民党」と「菅政権」の関係を同一視するかのごとき論理は厳密には正しくない。

 かりに万が一、そのように大まかに言えるとしても、そのことが「同根同類」という論定につながるのは、どう考えても、著しい論理飛躍だ。あるいは、デフォルメのしすぎだ。

 それにそもそも、現時点で何故、こんなことをあえて指摘するのか。

 池に落ちた犬を打てとかの言葉もあるようだが、きちんとした民主党批判、菅直人政権批判を、レトリック上の多少の強調・誇張混じりであってもしておくべきなのが、現在という時期状況なのではないか。

 にもかかわらず、「菅政権もダメ、谷垣自民党もダメ」、「菅政権と谷垣自民党が同根同類」ということをコラム全体で書きまくる(?)のは、客観的には民主党・菅直人政権をむしろ助けるものだ。自民党もどうせダメだから、民主党をまだ支持せざるを得ない、という読者・国民を増やすまたはその数を維持する機能をもつだけだ。

 どうも櫻井よしこという人の<政治的感覚>には信用が措けない。

 なお、追記しておくが、「谷垣自民党」を全面的に支持しているわけではない。谷垣が加藤紘一にも似た自民党内(宮沢派の流れをひく)「リベラル」派に属しているらしいこと(但し、現在の時点での評価と必ずしも合致するとは限らないだろう)、尖閣事件で中国「船長」を逮捕しないですぐに追放しておけばよかったと間の抜けた発言をいったんはしたことも知っている。また、幹事長の石原伸晃や政調会長の石波茂は、かつての<田母神俊雄論文問題>発生のときに田母神俊雄を何ら守ろうとはせず<更迭>を容認した人物たちだ。さらに、前々回に書いたように、仙石「暴力装置」発言を「われわれの平和憲法」の立場から批判する、という皮肉な論法しか採れないというのもじつに情けないことだ。

 だが、「赤い」(またはピンクの)官房長官とともに例えばいわゆる国家解体三法案の上程を試みる可能性がある菅政権よりは、「谷垣自民党」の方が<まだまし>だろうことはほとんど明らかであるように見える。

 「菅政権と谷垣自民党が同根同類」であることを「見ぬく国民は正鵠を射ており」、「自民党も支持したくないと考える人びとは少なくない」のは当然だ、との論調には、とても同意することができない。

 そんなに現自民党が嫌いならば、その自民党を「変える」ために、あるいは<真の保守>政治勢力の統合・強化をするために、口先だけではなく、具体的な何らかの行動を起こしたらどうか。

0901/櫻井よしこは論理的に緻密か-外国人地方参政権問題。

 産経新聞に報道されていたかどうかは知らないが、週刊新潮7/29号(新潮社)の櫻井よしこの連載コラム(p.148-149)によると、外国人地方参政権問題につき、6/04の政府答弁書は(鳩山内閣時代のものではある)、最高裁1995(平成7年).02.28判決の<本論>のみを引用し、「政府も同様に考えている」と述べているらしい(質問者は山谷えり子)。
 鳩山由紀夫が昨年に上掲最高裁判決の<傍論>部分を援用して<(付与しても)違憲ではないと考えている>と答弁していたのを(ナマか録画のニュースでかは忘れたが)記憶しているので、櫻井よしこの紹介のとおりならば、大きな、重要な変化ではある。
 そして、この政府答弁書とは明確に矛盾した言動を閣僚等がしているとすれば、問題視する必要がある。
 だが、気になったのは、次の点だ。
 上掲最高裁判決の本論は<憲法は積極的には外国人地方政権を保障していない>旨を述べているのだが、櫻井よしこは、これを引用した答弁書を<「外国人参政権は禁止」と読める答弁書>と理解している。すなわち、<積極的に保障はしていない>=<禁止>、というふうに理解している。
 百地章も同様なのだろう。だが、論理的に見て、外国人地方参政権を<積極的に保障はしていない>=~の付与を<禁止している>、ということに単純になるのかどうか。単純にはならないという前提のもとで(裁判官全員一致で)いわゆる<傍論>も書かれたのだ。
 とくに強調してあげつらうつもりはないが、この問題に限らず、訴訟・判決にかかわっても歴史認識等にかかわっても、<保守>論者には概念・論理の明晰さが要求される。
 主題から離れて一般化すれば、具体的論点について、<保守>論者は、概念・論理の明晰さ・一貫性について<左翼>に負けてはいけない。<保守的>気分・情緒だけの表出では、<インテリ>たちを多数とり込んでいる<左翼>に敵わないのではないか。

0881/櫻井よしこと「国家基本問題研究所」。

 櫻井よしこによると鳩山由紀夫は「戦後教育の失敗例」らしい(産経新聞5/13付1・2面の見出し)。そのとおりだと思う。いや、正確には、戦後「左翼」教育、戦後「平和」教育、「戦後民主主義」教育の成果であり、立派な成功例だと言うべきだろう。
 その櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「
民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこ月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。 
 「国家基本問題研究所」の理事・屋山太郎も、相変わらず、2009総選挙の前から民主党支持気分を煽った一人なのに、そのことについての反省・自己批判の言葉を発してはいないようだ。
 そして、屋山太郎は、上掲の月刊WiLL6月号では、昨年に渡辺某の「みんなの党」の結成時に、渡辺某のすぐ近くに立つか座って一緒にテレビに映っていたときの気分と同じままで、そもそもこの党の結成自体に多少の関与をしたと見られることを隠して、「みんなの党」をヨイショする文章を書いている(p.23)。それによると、民主党に失望した票は、自民党ではなく、「第三党に躍り出てきた」「みんなの党」に流れそうだ、とのニュアンスだ。
 また、屋山太郎は、平沼赳夫・与謝野馨の「立ち上がれ日本」につき、「現下の国民の要求とは完全に外れている」と断言していることも、きちんと記憶しておく必要があろう。
 「国家基本問題研究所」といえば、その「評議員」・「企画委員」なるものを潮匡人が務めているらしい(同ウェブサイトによる)。
 その潮匡人の、月刊正論6月号(産経)のコラム「時効廃止は保守の敗北」(p.44-45)は、法学・法律に詳しいところを再び(?)見せたかったのかもしれないが、気持ちだけ焦っての<大きな空振り三振>というところ。
 ごく簡単に触れれば、権利(刑事罰の場合は公訴権)または義務の発生または消滅の原因となる一定の期間の経過=<時効>と、保守主義者・バークが使っている<時効>とは似ている所もあるだろうが、前者の比較的に法技術的な意味での<時効>概念と後者の比較的に思想的な意味での<時効>概念とを混同してはいけない
 結論的には(馬鹿馬鹿しいので長々とは書かない)、国家「刑罰権力」の行使の余地を広げる・時間的に長くする(公訴)「時効廃止」は、「左翼」論者・心情者は(被害者・遺族の心情を考慮して明確には語らない者もいるだろうが)<反対>のはすだ。潮匡人は、結論的にはそうした「左翼」と同じ主張をしている。殺人罪等についての「時効廃止は保守の敗北」とは、いったい誰が支持してくれている見解なのだろう。
 このような、屋山太郎や潮匡人を抱えたシンクタンク「国家基本問題研究所」とはいったいいかなる団体・組織なのか。
 上では省略したが、櫻井よしこらの自民党批判は理解することはできる。同意できるところ大きい、と言ってもよい。
 だが、選挙前からのかつての自民党批判は同党支持<保守>層の自民党離れを促進し、却って、民主党(中心)政権の誕生を後押しした、という面があることを否定できないように考えられる。
 それに、民主党も自民党もダメというならば、<シンク>することなどはもう止めて、自分たちが政治活動団体を立ち上げて、選挙に立候補したらどうか。国会議員になって言いたいことを国会・各委員会で発言し、国会議員として文章も書いたらどうなのか。その方が、影響力は大きいだろう。
 櫻井よしこをはじめ、年齢的にも国会議員としての活動はできそうにない、という者もいるだろう。だが、潮匡人などは、まだ若そうだ。
 そういう、現実的な政治的行動を採る気概を示すことなく、ただ<シンク(think)>して文章を書き「評論」しているだけでは、<湯だけ(言うだけ)>の「左翼」人士と基本的には何ら異ならないのではないか。この点では、上掲月刊WiLL6月号p.52以下に(自民党からの)<立候補宣言>文書を掲載している三橋貴明は偉い。「言うだけ」人士に対してよりは、敬意を表したい。
 正しいことは言った、しかし負けた、と言うのは、日本共産党だけにしてほしい。もっとも、日本共産党と同じく、「国家基本問題研究所」の面々が「正しい」ことを言っているか否かは吟味されなければならないのだが。
 <保守>的論者・団体の活発化・まっとう化を願って書いている。

ギャラリー
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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