秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア・ソ連史

2254/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第16節・第17節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第16節・ボルシェヴィキに対するアメリカの反応。
 (1)批准という形式的手続が、まだ残っていた。
 トロツキーが連合諸国代表者たちに打ち明けた間違った懸念にもかかわらず、事態は疑問の余地が決してないものだった。
 ソヴェト大会は、民主主義的に選出された機関ではなく、信仰者たちの集会だった。すなわち、3月14日に集まった1100名ないし1200名の代議員のうち、3分の2はボルシェヴィキ党員だった。
 レーニンは、長々と続く散漫な演説を行って、ブレスト=リトフスク条約を模範的に擁護し、現実主義に立つことを求めた。-完全に疲れ切った人物の演説だった。//
 (2)レーニンは、アメリカやイギリスへの経済的および軍事的援助の要請に対する反応を待っていた。彼にはじれったくも待ち遠しいものだったが、条約が批准された瞬間にそれを得る機会は皆無になることを、十分によく知っていた。//
 (3)ボルシェヴィキ権力の初期の時期には、ロシアに関する知識やロシア事情への関心の大きさは、ロシアに対するその国の地政学的近接性に直接に比例していた。
 最も近いところにいたドイツは、ボルシェヴィキと交渉しているときですら、彼らを軽蔑しかつ怖れた。
 フランスとイギリスは、戦争を継続しているかぎりで、ボルシェヴィキの行動やその意図に大した関心がなかった。
 大洋を離れたアメリカ合衆国は、ボルシェヴィキ体制を積極的に歓迎しているように見えた。そして、十月のクーの後の数カ月は、大規模なビジネスの機会という幻想に誘引されて、ボルシェヴィキの指導者たちに気に入られようと努めた。//
 (4)ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)は、ボルシェヴィキは本当に人民のために語っていると信じていたように見える。(93)そして、普遍的な民主主義と永遠の平和に向かって前進していると想定した大国際軍の分遣部隊を設立した。
 彼は、ボルシェヴィキの「人民」に対する訴えに対しては回答が必要だ、と感じた。
 ウィルソンはこの回答を、1918年1月8日の演説で行った。そこで彼は、有名な14項目を提示したのだ。
 彼は、ブレストでのボルシェヴィキの行動を称賛するまでに至っていた。
 「私にはこう思えるのだが、世界中の困惑した空気の中に充ちているどの感動的な声よりも身震いさせて心を掴む、そのような原理的考え方と目的を明確に示す声が、そこにはある。
 ボルシェヴィキの訴えは、これまでに何の同情も憐憫もないと知られるようになったドイツの容赦なき権力の前では、よるべなく、ほとんど無力だと見えるだろう。
 ボルシェヴィキの権力は、明らかに痛めつけられている。
 しかしなお、彼らの精神は屈服していない。
 彼らは、原理においても行動においても、屈従しないだろう。
 正義、人間性、そして彼らが受容する高潔性に関する彼らの考え方は、率直に語られてきた。それらには、見方の広さ、精神の寛容性、そして人間的共感があり、人類のこれまでの全ての友情に対する賞賛に挑戦するものであるに違いない。
 彼らはその考え方を混ぜ合わせて、彼ら自身には安全かもしれないものを放棄するのを、拒んできた。
 彼らは、我々が望むものは何か、かりにあるならば、彼らのものとは異なる我々の目的や精神はいつたい何にあるのか、を語ることを我々に迫っている。
 そして私は、合衆国の人民は完全な簡潔さと率直さをもって私が回答することを望むだろう、と信じる。
 現在の彼らの指導者たちが信じようと、信じまいと、ロシアの人民が自由(liberty)と秩序ある平和という最大の希望を獲得できるよう援助する特権を我々がもつかもしれない、そのような方途が我々には開かれている、ということは、我々の心からの願望であり、希望だ。」(94)//
 (5)ボルシェヴィキと連合諸国の関係には潜在的には重大な一つの障害があった。それは、ロシアの負債の問題だった。
 すでに記したように、1月にボルシェヴィキ政府は、ロシア国家の国内および国外の貸主に対する債務に関して債務不履行を宣言(default)した。(95)
 ボルシェヴィキは、かなりの懸念をもってこの措置を執った。このような数十億ドルに上る国際法侵犯は「資本主義者十字軍」を誘発するのではないか、と怖れたのだ。
 しかし、西側で革命が切迫しているという予想の拡がりによって警戒が逸らされ、この措置が執られた。//
 (6)西側に革命は起こらず、反ボルシェヴィキ十字軍もなかった。
 西側諸国は、この新しい国際法違反を驚くべき沈着さで迎えた。
 アメリカはボルシェヴィキに対して、何も怖れる必要はないと保証するまでした。
 レーニンの親密な経済助言者のI・ラリン(Iurii Larin)は、アメリカ領事の訪問をペトログラードで受けたが、その領事は、合衆国は国際的借款の無効宣告を「原理的に」受け入れることはできないが、としつつ、こう語った。
 「合衆国は、支払いを要求しないこと、ロシアが世界に登場したばかりの国家であるかのごとく関係を開くことを、事実上受諾するだろう。
 合衆国はとくに、ロシアがアメリカから全ゆる種類の機械や原料をムルマンスク、アルハンゲルまたはウラジオストークへの配送を通じて輸入するために、我々(ソヴェト・ロシア)に大規模の商業上の貸付(credit)を提供することができるだろう。」
 返済を確保すべく、合衆国領事は、ソヴェト・ロシアが中立国スウェーデンに若干の金貨を預託し、アメリカ合衆国にカムチャツカの割譲をすることを考慮するよう、提案した。(96)//
 (7)自分たちの国民を革命へと煽動しているときですら「帝国主義的強奪者たち」とのビジネスをすることができる、ということについて、これ以上の証拠が必要だろうか?
 そして、ある一国との取引関係を別の国とのそれが競争し合うようけしかけるだろう。あるいは、資本主義的産業家や銀行家を軍事と対抗させるだろう。
 このような<対立させて政治をせよ(divide et impera)>の政策を用いる可能性は、無限にあった。
 そして実際に、ボルシェヴィキは、自分たちの呆れるほどの弱さを埋め合わせるための機会としてこれを最大限に利用することとなる。つまり、自国の民衆が飢えて凍えているときですら、諸外国が持たない食料や原料と交換して工業製品を輸入するという餌で諸外国を釣ることによって。//
 (8)アメリカ合衆国政府がボルシェヴィキ当局に1918年初期に伝えた全ての意向は、ワシントンが表向きはボルシェヴィキの民主主義的および平和的意図の宣告をそのまま受け取り、世界革命の呼びかけを無視する、ということを示した。  
そのことによってレーニンとトロツキーは、ワシントンへの救援の訴えに対する積極的な反応を十分に期待することができたのだった。//
 (9)待ちに待った、3月5日の問い合わせに対するアメリカの回答は、ソヴェト第四回大会の開会日(3月14日)に届いた。
 ロビンスはそれをレーニンに手渡した。レーニンはたたちに、その回答書を<プラウダ>で公表した。
 それは当たり障りのない内容で、ソヴィエト政府ではなくソヴェト大会が宛先となっていた。おそらくは、このソヴェト大会がアメリカの議会と同等のものだと考えたからだろう。
 その回答は、当面はソヴィエト・ロシアを援助するのを拒否しつつ、非公式の承認にほとんど近いものをソヴィエト体制に認めるものだった。
 アメリカ合衆国大統領は、こう書いていた。//
 「今ここに、ソヴェト大会が開催される機会を利用して、ドイツ軍が自由を求める闘い全体を妨害しそれに逆行し、ドイツの願望のためにロシア国民の目的を犠牲にしているこの瞬間に、アメリカ合衆国国民がロシア国民に対して感じている真摯な共感を表明させて下さい。//
 合衆国政府は現在は不幸にも、本来は望んでいる直接的で有効な援助を行う立場にはありませんけれども、私は貴大会を通じてロシア国民に対して、ロシアがもう一度完全な主権と自己に関係する問題に関する自立性を確保するための、かつまたロシアがヨーロッパと現代世界の生活上のその偉大な役割を完全に回復するための、全ての機会を利用するつもりである、と保証させて下さい。//
 合衆国国民の全ての心は、専制的政治から永遠に自由になろうと、そして自分たちの生活の主人になろうとしているロシア国民とともにあります。
 ウッドロウ・ウィルソン
 ワシントン、1918年3月11日。」(97)
 イギリス政府も、同様の趣旨の反応をした。(98)//
 (10)この回答は、ボルシェヴィキが期待したものではなかった。ボルシェヴィキは、「帝国主義」陣営が互いに競い合う能力を過大評価していたのだ。
 ウィルソンの電信回答はたぶん最初の提示にすぎないと期待して、レーニンはロビンスに、追加の伝言を乞い続けた。
 その追加回答はもうないということが明らかになったとき、レーニンは、(大統領ではなく)アメリカ「人民」を侮蔑する回答書を執筆した。そこで彼は、アメリカ合衆国での革命は遠からずやって来る、とつぎのように確約した。//
 「大会は、アメリカ国民に、とりわけ合衆国の全ての労働、被搾取階級に対して、厳しい試練の中にいるソヴェト大会を通じてウィルソン大統領がロシア国民に表明した共感に対して謝意を表する。//
 ソヴェト・ロシア社会主義連邦共和国は、ウィルソン大統領が意向表明した機会を利用して、帝国主義戦争の恐怖によって死滅し苦痛を被っている全ての人民に対して、心からの共感と、全ての諸国の労働大衆が資本主義の軛を断ち切って、社会主義国家を建設する幸福なときが来るのは遠くないという堅い信念を、表明する。社会主義社会のみが、全ての労働人民の文化と福利はもとより、公正で永続する平和を達成することができる。」(99)//
 ソヴェト大会は、嘲弄の轟きの中で、この決議を満場一致で可決した(二箇所の小さな修正はあった)。ジノヴィエフはこの決議を、アメリカ資本主義を面前にしての「痛烈な非難」だったと叙述した。(100)//
 (11)大会は予定通り、ブレスト=リトフスク条約を批准した。
 この趣旨での提案は、724票の賛成を得た。この数は出席したボルシェヴィキ党員よりも10パーセント少なかったが、それでも3分の2の多数を超えていた。
 276名の代議員、あるいは4分の1は、ほとんど全員が左翼エスエルでおそらくは左翼共産主義者のうちの若干が加わっていたが、反対票を投じた。
 118名の代議員は、保留した。
 結果が発表された後、左翼エスエルはソヴナルコムから離脱することを宣言した。
 これによって、「連立政権」という虚構は終わった。左翼エスエルはなおも当分は、チェカを含む下級のソヴェト機関で職務を継続したけれども。//
 (12)ソヴェト大会は、秘密投票によって、政府にブレスト条約を破棄し、その裁量でもって宣戦を布告する権限を付与するボルシェヴィキ中央委員会の決議を承認した。//
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 (93) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N.J., 1956), p.255.
 (94) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.70.
 (95) Dekrety, I, p.386-7.; これにつき、以下の第15章を参照。
 (96) NKh, No.11(1918年), p.19-p.20.
 (97) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.87-p.88.
 (98) 同上, p.91-p.92.
 (99) 同上, p.89.; ロシア語原文は、Lenin, PSS, XXXVI, p.91.
 (100) Noulens, Mon Ambassade, II, p.34-p.35.
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 第17節・ボルシェヴィキの外交政策の原理。
 (1)レーニンは、屈辱的な条約を受諾するという先見ある見方でもって、必要とする時間を稼ぎ、事態を自然に崩壊させたとして、ボルシェヴィキ党員から広く、高い評価と信頼を得た。
 ドイツが西側連合諸国に降伏したあとの1918年11月13日にボルシェヴィキがブレスト条約をを破棄したとき、ボルシェヴィキ運動でのレーニンの資産は、これまでになかった高さにまで達した。
 無謬だという彼の評価を、これ以上に高めたものはなかった。レーニンは、その生涯で二度と、辞任するという脅かしをする必要がなかった。//
 (2)だがしかし、レーニンが同僚たちにドイツの要求に従うよう説得している際に、彼は中央諸国の降伏が差し迫っていると予見していた、ということを示すものは何もない。
 反対派を説得しようと考えられ得る全ての論拠を使っていた1917年12月から1918年3月までの彼の演説や文章の中で、公的であれ私的であれ、レーニンは、時勢はドイツから離れており、ソヴェト・ロシアは放棄しなければならなかったもの全てを再びすぐに取り戻すだろう、とは何ら主張しなかった。
 全くの反対だった。
 1918年の春と夏、連合諸国に破壊的な敗北を与えそうだというドイツ最高司令部の楽観的見方を、レーニンは共有しているように見えた。
 L・クラージン(Leonid Krasin)は、1918年9月早くにドイツから帰ったときに<イズヴェスチア>の読者に対して、優秀な組織と紀律の力でドイツは困難なく戦争をさらにもう5年間継続するだろう、と保障した。(101)これは確実に、自分のためだけに語ったのではなかった。
 ドイツは勝利するとのボルシェヴィキの信頼は、つぎの綿密な協定によって証されている。それはモスクワがベルリンと1918年8月に締結したもので、両国が公式の同盟関係国に至る初めにあるという見方を前提にして同意している。(102)
 ドイツの敗北がモスクワにとってはいかに想定し難く考えられていたかは、ドイツ帝国が死の発作に陥っていた1918年9月30日になっても、レーニンは3億1250万ドイツ・マルクの価値のある資産をベルリンに移し替えることを許可しいる、という事実によって証明されている。そのような移し替えについては、8月27日のブレスト条約の付属協定によって定められいたのだが、レーニンは、安全にその支払いを遅延させて、放棄することもできたのだった。
 ドイツが休戦を求める一週間前、ソヴィエト政府は、ドイツ市民はソヴィエトの銀行から預金を引き出して、それを自国にもち出すことができる、ということを再確認した。(103)
 こうした証拠から見て引き出される疑い得ない結論は、レーニンはドイツの<命令(Diktat)>〔ブレスト=リトフスク条約〕に屈従していた、ということだ。その理由はドイツが相当に長くはその条約を履行することができないと考えたからではなく、反対に、ドイツが勝利するだろうと予期し、勝者の側に立ちたかったからだ。//
 (3)ブレスト=リトフスク条約をめぐる状況は、ソヴィエトの外交政策になることとなるものの古典的なモデルを提供している。
 ソヴィエト外交政策の原理的考え方は、つぎにように要約することができるだろう。//
 1) いつ何時でも最高の優先順位をもつのは、政治権力の維持だ。-つまり、一つの国家領域のある部分に対する主権的権能と国家機構の統制。
 これはこれ以上小さくすることのできない、最少限度だ。
 これを確保するための対価で高すぎる事物は存在し得ない。
 このためには、何でもかつ全てを犠牲にすることができる。人命でも、土地や資源でも、民族的名誉でも。
 2) ロシアが十月革命を経て世界の社会主義の中心(「オアシス」)となって以降、ロシアの安全確保と利益は他の全ての諸国、闘争、あるいは党、のそれらに優先する。後者には、「国際プロレタリアート」のそれらも含まれる。
 ソヴェト・ロシアは、国際社会主義運動を具現化したものであり、社会主義運動を推進するための基地だ。
 3) 一時的な利益を得るためめに、「帝国主義」諸国と講和することは許され得る。しかし、その講和は軍事休戦と見なされなければならず、利益となる情勢の変化があれば破棄されるべきものだ。
 レーニンは1918年5月に、資本主義が存在するかぎりで、国際的取り決めは「紙の屑だ」と語った。(104)
 表向きは平和の時期ですら、協定に調印した政府を打倒するという見地から、敵対行動が、因習にとらわれない手法によって、追求されなければならない。//
 4) 福利を求める政策、国内政策と同様に外交政策は、つねに非感情的に実施されなければならない。その際には、「力の相関関係」への考慮に対してくきわめて綿密な注意が払われなければならない。以下のとおり。
 「我々は偉大な革命的経験をした。そしてその経験から、我々は客観的条件が許すならばいつでも絶えざる前進をする戦術をとる必要があることを学んだ。<中略>
 しかし、我々は、客観的条件が一般的に絶えざる前進を呼びかけることのできる可能性を示していないならば、力をゆっくりと結集して、遅らせる戦術を採用しなければならない。」(105)。
 (4)だが、ボルシェヴィキの外交政策にはもう一つの基本的な原理があることが、ブレスト条約の施行後に明らかになった。すなわち、外国の共産主義者の利益は<分割統治(divide et impera)>原則の適用によって促進されなければならないという原理的考え方だ。あるいは、レーニンの言葉によると、こうだ。
 「敵の間にある最も小さな『裂け目(crack)』であってもそれら全てを、多様な諸国のブルジョアジーの間や、産業国家内部のブルジョアジーの多様な集団や分野の間にある全ての利害対立を、慎重に、用心深く、警戒して、かつ巧妙に利用することによって」、促進されなければならない。(106)
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 (101) Izvestiia, No.190/454(1918月9月4日), p.3.
 (102) 後述、第14章を見よ。
 (103) Izvestiia, No.242/506(1918月11月5日), p.4.
 (104) Lenin, PSS, XXXVI, p.331.
 (105) 同上, p.340.
 (106) 同上, XLI, p.55.
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 第16節・第17節、終わり。第13章も終わり。次章・第14章の表題は、<国際化する革命>。

2253/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第15節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
 毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
 (1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
 彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
 そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
 (2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
 「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
 これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
 1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
 2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
 3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
 4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
 アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
 イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
 これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
 この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
 (3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
 トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
 しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
 日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
 ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
 アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
 (4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
 ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
 フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
 (5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
 1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
 連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
 連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
 (6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
 当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
 トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
 こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
 レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
 (7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
 その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
 両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
 のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
 「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
 彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
 (8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
 緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
 口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
 (9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
 彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
 権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
 レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
 しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
 全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
 (10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
 目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
 レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
 まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
 中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
 平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
 別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
 レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
 彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
 (11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
 条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
 レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
 ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
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 (82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
 (83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
 (84) 同上, p.85-6.
 (85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
 Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
 (86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
 Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
 (87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
 (89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
 ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
 (91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
 (92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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 第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
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 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
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 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
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 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
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 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
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 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
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 第12節・第13節・第14節、終わり。

2246/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第10節・第11節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第10節・ボルシェヴィキに勝とうと連合国は努力する。
 (1)レーニンは同僚たちに、ドイツが軍事行動を再開すれば、ボルシェヴィキはフランスとイギリスの助けを求めなければならないだろうと警告していた。それこそが、今行うべきことだった。
 (2)ドイツは何を最優先するかを決定していなかったけれども、少なくとも、戦争と結びついているロシアでの短期的利益と、ドイツにとってのロシアの長期的な地政学的意味とを、区別していた。
 連合諸国には、ロシアにはただ一つの関心しかなかった。それは、ロシアを戦争にとどまらせることだった。
 ロシアの崩壊と分離講和の見込みは連合諸国にとっては最大級の惨事であり、ドイツに勝利をもたらしそうだった。ドイツ軍は、十数の分団が西部前線へと移動して、アメリカ軍が相当の規模の兵団でもって到着する前に、消耗しているフランスとイギリス各軍を粉砕するだろう。
 したがって、連合諸国にとってロシアに関して最大に優先されるべきことは、可能ならばボルシェヴィキの協力によって、それが可能でなければ利用し得る何らかの別の勢力によって、東部戦線を再び活性化させることだった。別の勢力とは、ロシアの強制収容所にいる反ボルシェヴィキのロシア人、日本人、チェコ人、あるいは最終的には、これら自体の軍団のことだ。
 ボルシェヴィキとはどういう者たちで、何を目ざしているかは、連合諸国には関心がなかった。この諸国は、ボルシェヴィキ体制の国内政策にも国際的な目標にも、関心を示さなかった。そうしたことは、ドイツの注意をますます惹いていたものだった。 
 ボルシェヴィキの「友好」政策や、労働者にストライキを、兵士たちに反乱を呼びかけていることは、連合諸国にはまだ何の反応を生じさせておらず、ゆえに警戒心を呼び起こすこともなかった。
 連合諸国の態度は、明確で単純だった。すなわち、ボルシェヴィキ体制は中央諸国と講和をするならば敵であり、戦闘し続けるならば味方であり同盟者だ。
 イギリスの外務大臣(Foreign Secretary)の A・バルフォア(Arthur Balfour)の言葉では、ロシアがドイツと戦っているかぎりはロシアの信条は「我々の信条(cause)」だった。(58)
 アメリカの在ロシア大使のD・フランシス(David Francis)は1918年1月2日の教書でこれと同じ感情を表現しており、レーニン政府に伝わることが意図されたが、送信されなかった。
 「ロシア軍が人民委員部の指揮のもとで戦闘を開始して真摯にドイツ軍とその同盟軍に対する敵意を行動に移すならば、私は私の政府に対して、人民委員部の事実上の政権を正式に承認するよう働きかけるつもりだ」。(59)
 (3)対象に関心がなかったために、ボルシェヴィキ・ロシアの国内状況に関して連合諸国にはきわめて不適切な情報しかなかった。
 各国の外交使節は、ロシアでとくに好遇されたわけでもなかった。
 イギリス大使のG・ブキャナン(George Buchanan)は、有能だが在来的な外交官だった。一方、セントルイスの銀行家のフランシス〔アメリカ大使〕は、イギリスのある外交官の言葉によると「魅力的な老紳士」だった。だけれども、推測するにそれだけのことだった。
 この二人ともに、彼らがその渦中にあった事態の歴史的な重要性に気づいていなかったように見える。
 元戦時大臣でかつ社会主義者のフランス公使のJ・ヌーラン(Joseph Noulens)は、仕事の準備をより十分にしていたが、ロシアを嫌悪していたのとその無愛想で権威的な流儀のために、影響力を発揮できなかった。
 さらに悪いことに、連合諸国の外交団は1918年3月に、ボルシェヴィキ指導者たちと直接に接触しなかった。彼らはボルシェヴィキ指導者に従ってモスクワに行こうとしなかったからだ。ペトログラードからまずヴォログダ(Vologda)へと、そしてそこから7月にアルハンゲル(Archangel)へと移った。(*)
 このことによって、彼らは、モスクワにいる代理人がくれる間接的な報告に頼らざるを得なくなった。
 (4)その代理人たちは、心身ともにロシアのドラマに入り込んでいた若い男たちだった。
 B・ロックハート(Bruce Lockhart)はモスクワのかつてのイギリス領事で、ロンドンとソヴナルコム間の連絡役として仕事した。R・ロビンス(Raymond Robins)はアメリカ赤十字使節団の代表で、ワシントンのために上と同じ仕事をした。そして、J・サドゥール(Jacques Sadoul)はパリのために。
 ボルシェヴィキはこれら媒介者たちをとくに真摯に待遇したというわけではないが、有用性をよく理解していた。親交を築き、お世辞を言い、信頼の措ける者として扱った。
 そのようにして、ロックハード、ロビンス、サドゥールを、彼ら諸国がロシア軍に軍事的および経済的な援助を提供すれば、ロシアはドイツと決裂しておそらくは再び戦争するとまで、まんまと説得した。
 利用されていることに気づかないで、三人は、この見方を自分のものに変え、元気よく自国政府に主張した。
 (5)サドゥールは母親がパリ・コミューンに参加した社会主義者で、ボルシェヴィキに対して強いイデオロギー的魅力を感じていた。彼は1918年8月に、ボルシェヴィキへと寝返り、そのことで逃亡者かつ反逆者として欠席のまま死刑判決を受けることになる。(+)
 ロビンスは風変わりな人物で、レーニンやトロツキーとの会話でボルシェヴィキへの情熱を表明したが、アメリカ合衆国に帰国するとボルシェヴィキに反対しているふりをした。
 社会主義に傾斜した裕福な社会的労働者かつ労働組合組織者であり、また自分の様式をもつ大佐は、ロシアを出立する前夜に、レーニンに、別れの言葉を送った。その中で、彼はこう書いた。
 「あなたの予言的見解と指導の天才性は、ソヴィエト権力をロシア全域で確固たるものにしました。そして私は、人類の民主主義の新しい創造的な体制が世界中の自由(liberty)のための事業を活発にし、前進させるだろうと、確信をもっています。」(**)
 彼は帰還する際にさらに、「新しい民主主義」をアメリカ人民に対して解釈し説明する「継続的な努力」を行うと約束した。
 しかしながら、のちにすぐにソヴィエト・ロシアの状況に関する上院の委員会で証言したとき、ロビンスは、「ボルシェヴィキ権力を混乱させる」方法だといううその理由で、モスクワへの経済的援助を強く主張した。
 (6)ロックハードは三人の中では最もイデオロギー的関心がなかったが、彼もまた、ボルシェヴィキの政策追求の道具に自分がなることに甘んじていた。(+++)
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 (58) R. Ullman, Intervention and the War(Princeton, NJ., 1961),p.74.
 (59) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.65.
 (*) 三国の各大使は回想録を残した。George Buchanan, My Mission to Russia, 2 vols.(London, 1923).; David Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1921).; およびJoseph Noulens, Mon Ambassaade en Russie Sovietique, 2 vols.(Paris, 1933).  
 (+) サドゥールが帰国後、この判決は執行されなかった。そして彼は、フランス共産党に加入した。
 彼の革命的経験は面白い書物に記録され、Albert Thoma への手紙という形式で、最初にモスクワで出版された。Sadoul, Note sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920)。これは、Quarante Letters de Jacques Sadoul(Paris, 1922)により補充されている。
 (**) 1918年4月25日付手紙。つぎに所収。The Raymond Robins Collection, State Historical Society of Wisconsin, Madison, Wisconsin.
 レーニンは返答して、「プロレタリア民主主義は、…、新旧両世界の帝国主義的資本主義体制を粉砕するだろう」と自信を表明した。
 (++)George F. Kennan, The Decision to Intervene(Proinceton, NJ., 1958), p.238-9.
 上記の証拠に照らすと、ロビンスの「ソヴィエト政府への敬意にみちた感情は教義としての社会主義に対する特別の愛着があったのではなかった」とか、ロビンスは「共産主義への先入的愛好心をもっていなかった」とかのKennan には同意するのは困難だ。同上, p.240-1.
 ロビンスはのちにスターリンを賛美し、1933年にスターリンに受け入れられた。
 Anne Vincent Meiburger, Efforts of Raymond Robins Toward the Recognition of Soviet Russia and the Outlawry of War, 1917-1933(Washington, D.C., 1958), p.193-9. を見よ。
 (+++) 彼の回想録である、Memoirs of a British Agent(London, 1935)とThe Two Revolutions: An Eyewittness Account(London, 1967)を見よ。
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 第11節・モスクワが連合国の助けを乞う。
 (1)サドゥールとロビンスはボルシェヴィキ・クーの後で、ときおりレーニン、トロツキー、その他の共産党指導者たちと逢った。
 1918年2月の後半には、逢う回数が増えた。それは、ボルシェヴィキによるドイツの最後通牒の受諾(2月17日)とブレスト=リトフスク条約の批准(3月4日)の間の時期だった。
 この二週間、ボルシェヴィキはドイツが自分たちを権力から排除するのを怖れて、連合諸国に対して、助力を求める切実な要請を訴えていた。
 連合諸国は、肯定的に反応した。
 フランスはとくに、その意欲があった。
 フランスは今では、ドン地方に形成されていた反ボルシェヴィキの義勇軍を放棄した。これは、ヌーランがその反ドイツの立場を理由として財政的に支援していた軍だった。
 彼の推奨意見にもとづいて、フランス政府はこれまでに将軍アレクセイエフに対して5000万ループルを、新しいロシア軍を組織するのを助けるべく拠出していた。
 1918年1月の初め、ロシアでのフランスの軍事使節の新しい代表であるH・ニゼール(Henri Niessel)は、アレクセイエフは「反革命」軍を率いているとの理由で、彼との関係を断つよう進言した。
 この助言は、採用された。アレクセイエフへの支援は終わり、ニゼールにはボルシェヴィキとの交渉を始める権限が与えられた。(*)
 ロックハルトも同様に、義勇軍への支援に反対した。彼もまた外務省への連絡文書で、義勇軍は反革命だと叙述した。
 彼の判断では、ボルシェヴィキこそがロシアの最も信頼できる反ドイツ勢力だった。(60)
 (2)ドイツの攻撃作戦が再開したあとの忙しい期間に、ボルシェヴィキの最高司令部は、連合諸国に助けを求めると決定した。
 2月21日、トロツキーは、サドゥールを通じて、ニゼールとともに、フランスはドイツの攻撃をソヴィエト・ロシアが抑えるのを助けるつもりがあるかどうかを問い合わせる通信を発した。
 ニゼールはフランス大使と接触し、肯定的な反応を得た。
 ヌーランはその日、ヴォログダからトロツキーに電報を打った。「あなたたちがドイツに抵抗する場合、フランスの軍事的および財政的協力を頼りにしてよい」。(61)
 ニゼールは、トロツキーにソヴィエト・ロシアがドイツ軍を妨害する方法を助言し、軍事顧問になることを約束した。
 (3)2月22日の夕方遅くの中央委員会で、フランスの反応の件が議論された。
 トロツキーはこのときまでに、フランスがロシアを助けようとする手段を概略するニゼールの覚え書を持っていた。(62)
 喪失したと言われているこの文書は、フランスによる金銭的および軍事的助力の具体的な諸提案を含むものだった。
 トロツキーはこれを受諾するよう強く主張し、その趣旨での方針を提案した。
 出席することができなかったレーニンは、簡潔な注記をつけて不在投票をした。「アングロ・サクソン帝国主義者の強盗どもから喇叭や兵器を奪うことに賛成する私の一票を加えてほしい」。(63)
 ブハーリンやその他の「革命戦争」の主張者が反対の立場をとったために、この動議は辛うじて、賛成6票、反対5票で採択された。
 ブハーリンは票決に敗北したあとで中央委員会と<プラウダ>編集局からの辞任を申し出たが、結局はそうならなかった。//
 (4)中央委員会が検討を終えるや否や-2月22-23日の夜間のことだった-、問題はソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕に移された。
 トロツキーの動議はここでも、左翼エスエルの反対を押し切って、通過した。//
 (5)翌日、トロツキーはサドゥールに、ロシア政府がフランスの助けを受け入れる気のあることを伝えた。
 彼はニゼールをスモルニュイに招いて、ポドゥヴォイスキ、ボンチ=ブリュエヴィチ将軍やボルシェヴィキのその他の軍事専門家たちと反ドイツ作戦に関して協議させた。
 ニゼールは、ソヴィエト・ロシアは、愛国主義に訴えることのできる帝制時代の従前の将校の助けを借りて、新しい軍隊を建設しなければならない、という意見だった。(64)
 (6)ボルシェヴィキは今や、ドイツが自分たちを転覆しようとしている事態の中で態度を変更した。
 連合諸国はボルシェヴィキの国内および対外政策にほとんど関心がなく、東部前線での戦闘の再活性化の見返りとして寛大に助けてくれるのだと分かっていた。
 かりにドイツがルーデンドルフとヒンデンブルクの意見を最後まで貫いたとすれば、ボルシェヴィキは権力にとどまり続けるために、連合諸国と共闘し、中央諸国に対抗する軍事行動のために連合諸国がロシア領土を使うことを許しただろう、ということをほとんど疑うことはできない。
 (7)ロシア・連合国関係がいかほどにまで進展していたかは、2月遅くにレーニンがカーメネフをソヴィエトの「外交代表」としてパリに派遣したことで、分かる。
 カーメネフはロンドン経由で到着したが、それは彼の政府がブレスト=リトフスク条約をすでに裁可してしまっていた後でだった。
 彼は、冷淡な対応を受けた。
 フランスは、カーメネフが入国するのを拒否した。それに従って、彼は母国へと向かった。
 彼はロシアへの途上で、ドイツに取り押さえられた。ドイツはカーメネフを、4カ月間拘留した。(65)//
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 (*) A. Hogenhius-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.53.
 ニゼールは、その回想録でこうした事実に言及していない。Les Triomphe des Bolsheviks.
 (60) Ullman, Intervention, p.137-8.
 (61) Lenin, Sochineniia, XXII, p.607.; Gen.[Henri A.] Niessel, Les Triomphe des Bolsheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs(Paris, 1940), p.277-8.
 (62) J. Sadoul, Notes sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920), p.244-5.
 (63) Lenin, PSS, XXXV, p.489.
 (64) Niessel, Triomphe, p.279-280.
 (65) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.284-5.; Sadoul, Notes, p.262-3.; Ullman, Intervention, p.81.
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 第10節・第11節、終わり。

2243/R・パイプス・ロシア革命第13章第8節・第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原著、p.584-8。
 今回部分の最後のRichard Pipes によると、<共産主義テロル(Communist terror)>は1918年2月に始まる(<テロル>と「暴力(violence)」の違いも何となく理解できる)。レーニン時代からなのであり、間違ってもスターリン以降なのではない。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 第8節・ドイツの堅い決意(Germans decide to be firm)。
 (1)トロツキーの異様な行動は、ドイツ関係者たちを全くの混乱に落とし込んだ。
 今では誰も、ロシアは講和交渉を注意を逸らす方策として利用していることを疑わなかった。
 しかし、この点はその通りだとしても、ドイツがどう反応すべきかは決して明瞭ではなかった。
 無意味な交渉を継続する?
 最後通告を受諾するよう、軍事行動によってボルシェヴィキに迫る?
 あるいは、ボルシェヴィキを権力から排除して、受け入れやすい体制に変える?
 (2)ドイツの外交官たちは、耐え忍んだ。
 キュールマンは、ドイツの労働者たちは東部前線で敵対行動を再開するのを理解できず、面倒なことが起きるだろう、と怖れた。
 彼はさらに、オーストリア=ハンガリーが戦争から離脱するのではないかと憂慮した。(44)//
 (3)しかし、1917-18年の政策を支配していた軍部は、別の考えだった。
 決定的な行動として西部に大量の戦力を注ぐことを3月半ばに予定していたので、東部前線が安全であるか兵団を西部前線に転換させ続けることはできないことが軍部には完全に確実でなければならなかった。
 軍部はまた、ロシアの食糧や原料を利用する必要があった。
 ロシアからの軍事諜報が示すところでは、ボルシェヴィキはドイツに対して最悪の意図をもつが、きわめて不安定な立場にあった。
 海軍付作戦長官でミルバッハ使節団とともにペトログラードに行ったW・v・カイザリンク(Walter von Kaiserlingk)は、警告する報告を返してきた。(45)
 間近でボルシェヴィキ体制を観察して、彼は、「権力をもつ狂気(insanity in power)」(<regierender Wahnsinn〔統治する狂気〕>)だと結論づけた。
 ユダヤ人に動かされているボルシェヴィキ体制は、ドイツのみならず文明世界全体に対する、致命的な脅威だ。
 彼は、ドイツをこのペスト菌から遮蔽するためには自国のロシアとの前線をさらに東へと移さなければならない、と力説した。
 カイザリンクはさらに、ドイツの企業上の利益でロシアを貫通することを提案した。
 その歴史上二度目のことだが(ノルマン人のことを示唆する)、ロシアは植民地化される用意がある。
 別の直接的報告書は、ボルシェヴィキ体制は弱体で軽蔑されていると述べていた。
 レーニンはきわめて不人気で、これまでのツァーリ以上に手厚く暗殺者から守られている、と言われていた。
 キュールマンが依拠した報告類によると、ボルシェヴィキを唯一支持しているのはラトヴィア人ライフル部隊だった。かりに彼らが金銭を使って追い払われれば、体制は崩壊するだろう。(46)
 このような証言者の説明は、皇帝に強い印象を与えた。そして、皇帝を将軍たちの見方へと接近させることとなった。//
 (4)ルーデンドルフは、ボルシェヴィキ体制の不安定さについて受け取った情報をドイツ軍の意気を削ごうとするボルシェヴィキの系統的な運動という証拠と結びつけた。そして、ヒンデンブルクの支持を得て、ブレストでの交渉は決裂されるべきだ、そのあとでドイツ軍はロシアに侵入してボルシェヴィキを打倒し、ペトログラードに受容し得る政府を樹立する、と強く主張した。(47)//
 (5)外務省と幕僚たちの意見は、2月13日のバート・ホンブルク(Bad Homburg)で皇帝が主宰した会合で、衝突した。(48)
 キュールマンは、宥和的方針を強調した。
 彼は、刀剣は「革命的熱狂(plague)の中心」を切り取ることはできない、と論じた。
 かりにドイツ軍がペトログラードを占拠したとしても、問題はなくならないだろう。フランス革命が雄弁に示すように、外国の干渉は民族主義と革命的熱情を燃え立たせるだけだ。
 最良の解決方策は、ドイツの助力のもとでロシア人が実行する反ボルシェヴィキのクーだろう。しかし、キュールマンがこのような政策を支持していても、彼は明確には語らなかった。
 外務大臣は、副首相のF・v・パイア(Friesrich von Payer)から支持された。この人物は、ドイツ国民の中に広がっている平和願望と軍事力によってボルシェヴィキを打倒することの不可能性について話していた。//
 (6)ヒンデンブルクは、同意しなかった。
 東方で決定的な行動をしなければ、西部戦線での戦闘が長期にわたって引き続くだろう。
 彼は、「ロシアを粉砕し、その政府を転覆させる」のを欲した。//
 (7)皇帝は、将軍たちの側についた。
 彼はこう言った。トロツキーは、講和するためにではなく、革命を促進するためにブレストに来ている。そして、連合諸国の支援を得て、そうしている。
 ロシアにいるイギリス公使は、ボルシェヴィキは敵だと告げられるべきだ。
 「イギリスはドイツと一緒に、ボルシェヴィキと戦うべきだ。
 ボルシェヴィキは野獣(tigrers)だ。何としてでも、絶滅しなければならない。」(49)
 ともあれ、ドイツは行動しなければならない。さもないと、イギリスとアメリカ(合衆国)がロシアを奪い取るだろう。
 ゆえに、ボルシェヴィキは「去らなければなない」。
 「ロシア人民は、世界中の全ユダヤ人-そう、フリーメイソンたち-と結びついているユダヤ人の報償品として引き渡されている」。(*)//
 (8)この会議は、停戦は2月17日に終了し、その後でドイツ軍はロシアに対する攻撃を再開する、と決定した。
 ドイツ軍の使命は、明確には示されなかった。
 ボルシェヴィキを打倒するという軍事作戦は、すみやかに放棄された。それは、しかしながら、文民の当局者が異議を唱えたからだった。//
 (9)この決定に従って、ブレストにいるドイツの幕僚たちはロシア人たちに、ドイツは東部前線での軍事行動を、2月17日正午にやり直す、と知らせた。
 ペトログラードのミルバッハ使節団は、帰国するよう命じられた。//
 (10)ドイツ人は虚勢を張っていたにもかかわらず、このときにドイツが何を欲していたかは明瞭ではない。つまり、ドイツの講和条件を受諾するようボルシェヴィキに強いるためか、それとも、ボルシェヴィキを権力から排除するためか。
 その当時ものちにも、ドイツは自分の最優先事項を決定することができなかった。最初はロシアの領土をより広く獲得することに関心があった。だが、それとも、ロシアにもっと普通の政権を樹立することに関心は移ったのか。
 結局は、領土への渇望が優ることとなった。//
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 (44) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.314-5.
 (45) VZ, XV, No.1(1967年1月), p.87-p.104.に再掲されている。
 (46) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (47) 同上, p.289-p.290, p.318-9.
 (48) 議事録は、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.322-9. Baumgart, Ostpolitik, p.23-p.26.も見よ。
 (49) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.326-7. ドイツ語では、Baumgart, Ostpolitik, p.25.
 (*) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, ot peregovo v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skogo degovora, I(Moscow, 1968), p.328.
 カイザリンクをペトログラードから派遣したことで喚起されたけれども、この反ユダヤの論及は、いわゆる<シオン賢者の議定書>からの影響が大きい。無邪気で単純な人々は世界大戦と共産主義に関する「説明」を求めていたが、この書物はすみやかに、そのような人々に人気のある読み物になることになる。
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 第9節・ソヴィエト・ロシアへの進軍。
 (1)ドイツによる軍事行動の切迫の通知は、2月17日の午後にペトログラードに届いた。
 直後に開かれた中央委員会の会合で、レーニンはあらためて、ブレストに戻って降伏することを申し立てた。しかし、5対6で、再び際どい敗北を喫した。(50)
 多数派は、ドイツが威嚇を実施するか否かを、待って見ていたかった。かりにドイツが本当にロシアへと侵入して来て、かつドイツとオーストリアで革命が勃発しないとしても、必然的な流れに従う時間はまだあるだろう。//
 (2)ドイツ人は、自分たちの言葉に忠実だった。
 2月17日、ドイツ兵団は前進して、抵抗に何ら遭うことなくドヴィンスク(Dvinsk)を占領した。
 将軍ホフマンは、この作戦行動を、つぎのように描写した。//
 「いまだ経験したことのない、漫画的(comic)な戦争だった。-ほとんどもっぱら、列車と自動車で行われた。
 機関銃をもつ若干の歩兵部隊と大砲一台が列車に乗り、次の鉄道駅へと進み、そこを掌握し、ボルシェヴィキを拘束し、別の部隊を乗せ、さらに進んだ。
 この手順は、いずれにしても、物珍しくて魅惑的だった。」(51)//
 (3)レーニンには、これが我慢の限界だった。
 全く予期していなかったわけではないが、ロシア軍団の抵抗のなさに、彼は唖然とした。
 戦闘する気がまるでなかったので、ロシアは敵の前進に身をさらしたままだった。
 レーニンは、ドイツ政府の決定に関する最も機密的な情報を持っていたと思われる。それはたぶん、ドイツの同調者からスイスまたはスウェーデンにいるボルシェヴィキ工作員を通じてもたらされたものだった。
 彼はこの情報にもとづいて、ドイツはペトログラードを、そしてモスクワもすら、奪取しようと考えている、と結論づけた。
 レーニンは、同僚たちの自己満足気分に激高した。
 彼が判断したように、ドイツがウクライナでのクーを再現するのを阻止できるものは何もなかった。-そのクーはつまり、レーニンを右翼の傀儡に代えて、革命を鎮圧することだ。//
 (4)しかし、2月18日に中央委員会が再度開催されたとき、レーニンはまたもや多数派となることができなかった。
 ドイツへの降伏を支持する彼の提案は6票を得たが、7人の反対票が、トロツキーとブハーリンが共同して提案した動議に投じられた。
 党指導部は、救いようもなく暗礁に乗り上げた。
 対立によって、党全体が分裂する危険があった。それは、党の強さの根源である紀律ある統一を破壊するものだった。//
 (5)この決定的に重大な時点で、トロツキーがレーニンの側に回った。立場を変え、自分の意見を主張しないで、レーニンの提案に賛成票を与えた。
 トロツキーの伝記作者によると、彼がこうした理由は、一つは、ドイツがロシアに侵入した場合にレーニンに約束していたことを履行すること、もう一つは、党に生じる大きな亀裂を回避すること、にあった。(52)
 あらためて票決が行われたとき、7名がレーニンの提案に賛成し、6名が反対した。(53)
 この辛うじての多数派獲得にもとづき、レーニンは、ロシア代表団はブレストに戻っているとドイツに知らせる電報文を起草した。<+>
 何人かの左翼エスエルが文案を示された。そして、彼ら左翼エスエルが同意したあと、無線通信でその内容が伝えられた。//
 (6)衝撃が訪れた。
 ドイツとオーストリアの両軍は、すみやかに攻撃を中止することをしないで、ロシア内部へと侵入し続けた。
 北部ではドイツ軍団はリヴォニア(Livonia)〔エストニア〕に入り、中央部では、依然として抵抗されることなく、ミンスクとプスコフへと進軍した。
 南部ではオーストリア軍とハンガリー軍が、こちらも前進し続けた。
 このような外面はあるけれども、ロシアがドイツの条件を受諾する意向を伝えた後で行われたこのような作戦行動は、一つの意味だけを持っていただろう。すなわち、ベルリンは、ロシアの首都を奪取して、ボルシェヴィキ政権を転覆させる決意だった。
 これはレーニンが想定していたことだった。I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、レーニンは2月18日に、ドイツが自分に権力を放棄するよう要求する場合にのみ自分は戦うつもりだ、と言った。(55)
 (7)数日が経ったが、前進するドイツ軍からの反応はまだなかった。
 この時点で、ボルシェヴィキ指導者たちにパニックが襲った。彼らは緊急措置を決定した。そのうちの一つは、とくに重大な意味をもっていた。
 2月21-22日、ドイツから一言の反応もまだないときに、レーニンは、「社会主義祖国が危機にある」と題する布令を執筆して、署名した。(56)
 その前文には、ドイツ軍の行動はドイツがロシアの社会主義政府を弾圧して君主制を再建しようとしていることを示す、と書かれていた。
 「社会主義祖国」を防衛するために、「非常の措置が必要だ」。
 このうちの二つは、永続的な意味をもつこととなった。
 第一に求めたのは、塹壕を掘るために「労働能力のあるブルジョア階級の全ての者から成る」強制労働大隊(battalions of forced labor)を設置すること。
 抵抗する者は、射殺されるものとされた。
 これは強制労働(forced labor)を実際に導入したもので、やがて数百万の市民に影響を与えることとなる。
 第二を定める条項は、こうだった。「敵の工作員、相場師、窃盗犯、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイは、その場で処刑されるものとする」。
 この条項は、取り返しのつかない刑罰〔=死刑〕を導入した。これは明確には定義されてもおらず、また、その当時までに全ての法令が失効していたために、制定法上の根拠もないものだった。(57)
 裁判については、何も語られなかった。また、極刑(capital punishment =死刑)になりそうな被追及者からの意見聴取の手続についてすら、同じだった。
 この布令は事実上、チェカに殺人許可証を付与した。チェカはすみやかに、これを全面的に活用した。
 これら二つは、共産主義テロルの時代が幕を開けたことを明確に示した。//
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 (50) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677.
 (51) K. F. Nowak, ed., Die Aufzeichnungen des General Majors Max Hoffmann, I(Berlin, 1929), p.187.
 (52) Deutscher, Prophet Armed, p.383, p.390.
 <+> 秋月注記-日本語版レーニン全集26巻541頁「ドイツ帝国政府あての無線電話の最初の草案」1918年18-19日夜執筆、<イズヴェスチヤ>同20日付発表。
 (53) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677. およびPSS, XXXV, p.486-7.
 (54) Dekrety, I, p.487-8.; Lenin, PSS, XXXV, p.339.
 (55) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.206-7.
 (56) Dekrety, I, p.490-1.
 =日本語版レーニン全集27巻16-17頁「社会主義の祖国は危険にさらされている!」。<プラウダ>2018年2月22日付。
 (57) 後述、第18章〔<赤色テロル>〕を見よ。
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 第8節・第9節、終わり。この章は16節まである。

2242/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第5節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第5節②。
 (7)〔1921年〕7月までに、労働農民同盟の組織は破壊され、その指導者たちは殺されるか、または逮捕された。
 チェカはその地帯に残っている社会革命党の中心地を一掃し、周辺の地域もまた駆除した。
 捕えられた数人の反乱者は、故郷に帰って残余グループの中に〔スパイとして〕浸透するよう説得された。
 10月までに、占拠-駆除の運動は徐々に収まった。
 しかしながら、アントーノフと彼の弟のドミトリ(Dmitrii)が最終的に捕獲されて殺戮されたのは、6月になる前のことだった。
 この二人はある村落に隠れ、女性二人の世話を受けていた。ところが、そのうちの一人が薬を求めて薬局に行ったとき、何気なく場所を漏らしてしまった。
 チェカの狙撃兵の一グループに包囲され、彼らは手榴弾をもって家屋から飛び出して来た。そのとき、銃弾に撃たれて倒れた。
 二人はタンボフの以前の修道院に埋葬された。そのときそこは、地方チェカの建物になっていた。
 二人の死体の写真は、彼らが解体していることの証拠として、新聞に公表された。(85)//
 (8)タンボフ反乱を絶滅させる際、共産党支配者は、自分たちのために本来は協力する必要がある住民たちを破壊する意欲を示した。
 殺戮の方法は、ある次元ではうまくいくものだった。
 軍隊とテロルによって、組織的な抵抗は終焉した。
 別の次元では、その方法は彼ら自身の教条に反するものだった。
 穀物生産地域と民衆の力を強制的徴発や軍事的征圧によって破壊することは、経済全体に対して、大厄災となる影響をもたらした。
 ソヴナルコムは、悪循環に陥っていた。
 ソヴナルコムはまず、国家の存在自体を守る軍隊を建設するために必要な、農業地域の人々や馬を穀物を使ってそれらを消耗させた。 
 この取り立てによって、その忠誠さと協力が体制の存続にとって軍隊が重要であるのと同じく重要な民衆の間には、激しい反応が巻き起こった。
 取り立てられた資源にもとづいて建設された軍隊は、次いで、騒擾を鎮圧するために用いられた。しかし、継続的に略奪行為にいそしむ多数の兵士を有する兵団がたんに存在すること自体が、その地域に対して甚大な物理的かつ経済的な損害を与えた。そして、その結果生じたのは、継続する社会不安といっそうの超過支出だつた。(86)//
 (9)1921年、ロシアの農村地帯は、軍事力と政策変化の連携によって静かになった。政策変更とは、強制食料徴発からの離脱のみならず、取引と商業に対する統制の緩和のことだった。後者は、かつては脆弱で危険の多い生活必需品供給手段だったもの、つまり闇市場(black market)を承認することとなつた。
 しかし、損害はすでに発生しており、1921年春の危機は深かった。
 飢饉が、決定的な要因だった。
 ソヴィエト・ロシアでの1918年と1919年の収穫高は、1913年の帝制時代で戦争前の最後の収穫高の4分の3だった。
 1920年の収穫高は、半分をわずかに上回る程度で、1921年のそれは半分もなかった。
 1920年の最初の干魃の兆候を見て、農民たちは、配送する仕事からの解放を求めた。
 アメリカ救済委員会(Ammerican Relief Administration, ARA)のハロルド・H・フイッシャーは、「春は暑くて、ほとんど雨が降らなかった。そして、その春の時期の土地は固くて乾いていた」と書いた。
 夏と秋もまた、渇いていた。しかし、1920年に用いられた圧力は、従来よりも寛容ではなかった。(88)
 以前の富裕なドイツ人定住者の入植地にはカテリーヌ大帝の御代以来のタンボフ地方の住民がいて、50万人を数えるになっていた。この者たちへも、攻撃の矛先が向かった。
 武装労働者たちが、テュラ(Tula)から急襲した。彼らの無慈悲さは、「鉄のほうき」という通称を生じさせた。
 ドイツ人牧師は、こう思い出す。「唸りを上げるライオンのように、彼らは居留地にやって来た。家屋、家畜小屋、地下貯蔵室、屋根裏は全て探索されて、彼らが包み込める物はみな、乾いたりんごや卵まで一つも残さず、文字通りに一掃して行った。」
 抵抗する者はみな、叩きのめされるか、笞打たれた。
 組織的抵抗をしようとの無駄な試みに対しては、数百人がまとめて射殺された。
 最後には、定住者の10パーセントは死に、多くの者が逃亡した。そして、その共同体は以前の規模の4分の1にまで解体した。(89)
 (10)1921年夏に最悪に達した干魃はヴォルガ低地、南ウクライナ、クリミアを覆い、ウラルまで進行し、そして災難が終わった。
 フィッシャーは、こう報告した。「夏の初め、膨大な数の農民たちにはもう食糧がなかった。そして農民たちは、ヴォルガの至る所で、東のウラルまで、穀物に麦藁、雑草、樹皮を混ぜ始めた。
 食糧がなく自分たちの食べ物について見極めをつけた農民たちは、パニックを起こして、焦げ付いた土地から逃亡する、膨れ上がっている多数者の中に入り込んだ。」(90)
 飢饉は、総人口5710万の36地方の190地区を襲った。(91)
 クリミアとカザンを先に支配していたトルコ語を話すムスリムは、とくに厳しい被害に遭い、ある地域では人口の半分を失った。
 カザン自体は、絶望的になっている避難民で溢れた。
 水道供給と下水道の施設は壊れており、人間のぼろ屑と死体とが、街路に積み重ねられていた。
 遺棄された子どもたちが市内をさまよい歩き、病気が蔓延した。犯罪も、売春も行われた。(92)
 (11)アメリカや他の外国の救済組織の助けがあったために、飢饉による総被害者数は、それがなかったよりもまだ少なかった。
 飢餓や病気による飢饉関連死者数は、ソヴィエトと訪問中の外国の救済執務者によって種々に計算されている。
 見積もりは、150万人から1000万人にまで及ぶ。
 ソヴィエトの1922年の公式の数字は、500万人だった。(93)
 飢饉の規模はまた、死者率という観点からも叙述することができる。
 1913年の通常年と比較して、ペトログラード、モスクワおよびヴォルガのサラトフ市の1919年の死亡率は、2倍から3倍、高かった。
 1919年についての欧州ロシア全体の死亡率は1000分の39、ペトログラードとサハロフで約1000分の70だった。
 飢饉の地域全体での死亡率は、1920年が1000分の50-60、1921年が1000分の80、だった。(94)//
 (12)飢饉はソヴィエト体制の政策決定によってのみ悪化したのではなく、反応がきわめて政治的だったことにもよる。
 アメリカ救済委員会(ARA)はのちの大統領のH・フーヴァー(Herbert Hoover)の指揮のもとで1919年に設立され、戦後ヨーロッパの空腹の子どもたちに食料を提供した。
 ソヴィエトの場合、ARA は、食料は必要に応じて、社会主義的な階級範疇とは無関係に配分されるべきだ、と主張した。
 1921年に妥協が成立して、ヨーロッパに基盤を置く組織を含む外国の救済作業者は現地へと旅行することが許され、一方でソヴィエト当局が地理的な配分の権限をもつ、ということとなった。
 この協定が締結される直前に、ソヴィエトは自らの飢餓救済委員会(Committee for Aid to the Starving, Komitet pomoshchi golodaiushchim)を設立した。これはM・ゴールキを含む43人の著名人で構成されていたが、書類に署名がなされるやただちに、ゴールキを除く全員が逮捕された。(95)
 (13)外国による救済が、全体の姿を変えることはなかった。
 農民たちは結局のところ、軍隊の力によってのみならず、飢饉の絶望によって征圧された。(96)
 1917年8月に引き合いに出された、工業主義者のP・リャブシンスキ(Pavel Riabushinskii)の言葉である「飢えた骨ばった手」は、騒擾を抑圧するための究極的な武器だった。
 1921年飢饉は、ソヴィエト体制が自分たちの民衆との間にもつ人肉喰い主義的(cannibalistic)関係の初期の例だった。これは、スターリン時代に増大するという代償を払うこととなる。
 人口統計上および人的被害という観点から見てソヴィエト社会がどの程度大きい損失を被ったかは、顕著なものがある。その多くは自己による被害だが、一方ではイデオロギー的傾倒という強い気風も生み出した。
 内戦期に実践された包括的な対破壊行動は、スターリン時代の欺瞞的な反破壊活動へと成長した。そのときじつに、「民衆は、階級敵となった」。//
 (14)たがしかし、専門的で創造的な知識人階層の多くは、彼らをとり囲む恐怖があったにもかかわらず、新しい体制に賭けた。
 ある者たちは、とどまることを許されなかった。
 ソヴィエトの意図に批判的な200人以上の知識人たちは、あらかじめ1922年に国から排除された。その多数がペトログラードから乗るドイツ船舶は、「哲学者船」として知られるようになった。(97)
 未来主義者がこぞって乗り込む近代の船ではなく、失われた価値の航行船だった。
 多数の職業人と知識人が-一般庶民はもちろんのこと-、自分の意思で国外に脱出した。
 他の者たちは、離れたくなかったか、または何とかそうすることができなかった。
 とどまった者たちの中には、敵対的なまたは愛憎相半ばする感情の者もいた。
 E・ザミアチン(Evgenii Zamiatin)は、自分の原理的考え方と皮肉精神を維持した。スターリンは1931年に、国外に去るのを許した。
 マヤコフスキ(Mayakovsky)は、未来への偉大な跳躍のために金切り声をあげたが、絶望して、自殺した。
 にもかかわらず、無数の芸術家や文筆家たちが自分たちの才能を用いる機会を見つけ、ある者はソヴィエトの実験は創造的刺激を与えると感じた。
 自分たち自身の信条から芸術家や文筆家たちが追求した文化に関する原理をめぐって、イデオロギー上の戦いが行われた。
 他の者たちにとっては、ソヴィエトの実験とは、美学上および精神上の死刑判決だつた。
 多くの者が死に、あるいは殺戮された。それは、内戦が終焉して15年後に始まった狂乱の中で起きた。
 1930年代の犠牲者たちのある程度は、初期の抑圧に模範的な情熱を示しつつ協力していた者たちだった。//
 (15)期待に充ちた大きな昂揚感の中で1917年に始まったものの結末にもかかわらず、何か新しい展望、市民が-権利と権力をもつ責任とをもつ-市民であるような政治システムへの展望は、古い帝国の以前の臣民の多数の想像力を掴んだままだった。
 この夢は、1980代に復活したように見えた。そして、1991年にレーニンの国家主義的(statist)野望がその疲れ切ったイデオロギーの旅を終えた後では、新しい状況のもとで、少なからぬユーラシアと中東の諸社会が同様の希望を抱いた。
 しかし、より近年の世界は、我々にこう思い起こさせながら進展しているように見える。すなわち、民主主義の希望と民主主義の諸制度は、つねに何と脆弱(fragile)であることか。//
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 第5節②、終わり。第6部第2章(p.606-p.624)も終わり。あとに続くのは、<結語>(Conclusion)のみ(原書、p.625-p.632)。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
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 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
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 第5節②へとつづく。

2236/R・パイプス・ロシア革命第13章第6節・第7節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第6節・ブレストでのトロツキー。
 (1)ブレストでの交渉は、12月27日/1月9日に再開した。
 ロシア代表団を率いたのは、今度はトロツキーだった。
 彼は、時間稼ぎを継続してプロパガンダを拡散しようと考えて、やって来ていた。
 レーニンは、この戦術にしぶしぶ同意していた。
 トロツキーは、かりにドイツがそれを見越して最後通牒を発すれば、ロシア代表団は屈従する、と約束しなければならなかった。(28)
 (2)トロツキーは到着し、交渉の休止の間にドイツがウクライナの民族主義者たちと別の連絡手段を確立していることを知って、不愉快な驚きをもった。
 12月19日/1月1日、若い知識人たちから成るウクライナ代表団は、公開の分離交渉を行おうとのドイツの招きで、ブレストに着いていた。(29)
 ドイツの目標は、ウクライナを切り離して、ドイツの保護国にすることだった。
 1917年12月に、ウクライナ評議会(Council)、あるいはRada は、ウクライナの独立を宣言した。
 ボルシェヴィキはこの承認を拒み、自分たちが公式に宣言した「民族の自己決定権」の権利を侵害して、その地域を再征服するために軍隊を派遣した。(30)
 ドイツの見積もりでは、ロシアは、食糧の3分の1、石炭と鉄の70パーセントをウクライナから受け取っていた。ウクライナが分離することは明らかに、ボルシェヴィキを弱体化し、ドイツへの依存をさらに高めることを意味した。同時に、ドイツ自身の逼迫する経済的必要を、徐々に充足させるものだった。
 トロツキーは、伝統的外交官の役割を演じて、ドイツの行動はロシアに対する内政干渉だ、と宣告した。しかし、彼に可能だったのは、それだけだった。
 12月30日/1月12日、中央諸国は、ウクライナのRada を国の正統な政府だと承認した。
 これによって、ウクライナとの分離講和条約の締結への歩みが始まった。//
 (3)そのとき、ドイツによる領土要求の提示があった。
 キュールマンはトロツキーに対して、我々はロシアの「併合と賠償金なし」の講和要求は受け入れ難いと考えており、ドイツが占領している領土をロシアから引き離すつもりだ、と知らせた。
 全ての征圧地を譲ろうというチェルニンの提案について言うと、この提案は、連合諸国が講和交渉に加わることを条件としており、かつその参加は行われなかったので、有効性を失っていた。
 1月5日/18日、マックス・ホフマン将軍は地図を開いて、不審がるロシア人に対して、両国の間の新しい国境線を示した。(31)
 それによると、ポーランドの分離と、リトアニアおよび南部ラトヴィアを含むロシア西部の広大な領域のドイツへの併合が、求められていた。
 トロツキーは、我が政府はこのような要求を絶対に受け入れることができない、と答えた。
 その1月5日/18日はたまたまボルシェヴィキが立憲会議を解散させたまさにその日だった。その日、トロツキーは無謀にも、こう言った。ソヴィエト政府は、「最も肝要なのは新しく形成される国家の運命だ、住民投票(referendom)が人民の意思を表明する最良の手段だ、という考え方になお執着する」、と。(32)
 (4)トロツキーは、ドイツが提示した条件をレーニンに伝え、その後で、政治的交渉を12日間延期することを要請した。
 彼は同日にペトログラードへと出立し、ヨッフェは残された。
 この延期についてドイツがいかに神経質だったかは、つぎのことからも知られる。すなわち、キュールマンはベルリンに情報を伝えて、ボルシェヴィキによる延期要請を交渉の決裂だと理解してはいけない、と強く要望した。(33)
 ドイツには、講和交渉の破綻は同国の産業中心地域での市民の騒擾を巻き起こすのではないかと怖れる、十分な理由があった。
 1月28日、社会主義運動の左翼が組織し、100万人以上の労働者が加わった政治的ストライキの波が、勃発した。ドイツの多数の都市で、すなわちベルリン、ハンブルク、ブレーメン、キール、ライプツィヒ、ミュンヘン、そしてエッセンで起こった。
 あちこちで、「労働者評議会」が設立された。
 ストライキ活動家たちは、併合と賠償金なしの講和と東ヨーロッパ諸民族の自己決定を要求した。-これは、ロシアの講和条件の受容を意味した。(34)
 ボルシェヴィキが直接に関与していたとの証拠資料は存在していないが、ストライキに対するボルシェヴィキのプロパガンダの影響は明白だつた。
 ドイツ当局は、強い、ときには残虐な弾圧でもって対処した。そして、2月3日までには、ドイツ政府は状況を統制下に置いた。
 しかし、ストライキは厄介なことを示す証拠となった。前線で何が起きていようとも、国内での状況を当然のこととは考えることができなかったのだ。
 人々は、平和を切望していた。そして、ロシアがそのための鍵を握っているように見えた。//
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 (28) Lenin, PSS, XXXVI, p.30.
 (29) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.183, p.190.; Fischer, Germny's Aims, p.487.
 (30) 私の Formation of the Soviet Union: Communism and Nationalism, 1917-23(Cambridge, Mass., 1954), p.114-p.126 を見よ。
 (31) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229.; J. Weeler-Bennet, Brest-Litovsk: The Forgotten Peace(London-New York, 1956), p.173-4.
 (32) W. Hahlweg, Der Diktatfrieden von Brest-Litovsk(Münster, 1960), p.375.
 (33) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229-p.230.
 (34) 1918年1月ストライキにつき、G. Rosenfeld, Sowjet-Russland und Deutschland 1917-1922(Köln, 1984), p.46-p.55.; Weeler-Bennet, Forgotten Peace, p.196.
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 第7節・ボルシェヴィキ内の激しい対立とドイツの最後通牒〔bitter divisions among Bolsheviks and the Geman ultimatum〕。
 (1)ドイツの要求によって、ボルシェヴィキ指導部は相争う3分派に分裂した。これらは、のちの経緯で、2分派へと融合した。
 (2)ブハーリン派は、交渉をやめて、ドイツ革命の炎を煽りつつ主として遊撃部隊的戦闘によって軍事作戦を継続させることを望んだ。
 この立場は、ボルシェヴィキ党員たちの大多数派の支持を受けた。ペトログラードとモスクワのいずれの党官僚たちも、この趣旨での決議を採択した。(35)
 ブハーリンの伝記著作者たちは、のちに「左翼共産主義」と称された彼の政策方針はボルシェヴィキの多数派の意向を反映していた、と考えている。(36) 
 ブハーリンとその支持者たちは、西ヨーロッパは社会革命の瀬戸際にあると見ていた。その革命こそがボルシェヴィキ体制の存続にとって不可欠だと認められているのだから、「帝国主義者」ドイツとの講和は、彼らには反道徳的のみならず、自己欺瞞に他ならなかった。
 (3)トロツキーは、第二の派の代表だった。この派は左翼共産主義者とは、戦術上の微妙な違いだけがあった。
 トロツキーは、ブハーリンのようにドイツの最後通告を拒みたかったが、それは「戦争でも講和でもない」という耳慣れないスローガンのもとでだった。
 ロシアはブレストでの交渉をやめ、一方的に(unilaterally)戦争の終止を宣言する。
 そうすればドイツは、したいこと、つまりロシアが何をしても抑止できないことを自由に行うだろう-西部および南西前線部の広大な領土の併合。しかし、ロシアの承諾なくしてそれを行わなければならない。
 トロツキーが主張するには、こう進展することで、人気のない戦争を遂行するという重荷からボルシェヴィキは解放され、自由になるだろう。そして、ドイツ帝国主義の残虐性を暴露することとなり、ドイツの労働者を反乱へと鼓舞して立ち上がらせるだろう。//
 (4)レーニンはカーメネフとジノヴィエフに支持されて、ブハーリンとトロツキーに反対した。
 彼の切迫感覚およびロシアは取引できる立場にはないという考えは、戦争大臣のクルィレンコ(Krylenko)が12月31日/1月13日にソヴナルコムに提出した報告によって強化された。
 動員解除(復員)に関する全軍会議の代表者たちに配布されたアンケート回答書にもとづいて、クルィレンコは、ロシア軍は、あるいはそれだとして残っているものは、戦闘能力をもっていない、と結論づけていた。(37)
 レーニンは、こう思考した。紀律と十分な装備のある敵に抵抗することはできない、と。
 (5)レーニンは1月7日/20日に、「併合主義的分離講和の即時締結問題に関するテーゼ」で、彼の考え方を定式化した。(38)
 これによると、彼はつぎの諸点を挙げている。
 (1) 最終的な勝利の前に、ソヴィエト体制はアナーキーと内戦の時期に直面する。これは「社会主義革命」のために必要な時期だ。
 (2) ロシアは少なくとも数カ月の余裕が必要だ。その過程で「体制は、まずは自分の国で始めてブルジョアジーに対して勝利する」、そして自分たちの諸勢力を再組織する、「完全に自由な時間的余裕を獲得しなければならない」。
 (3) ソヴィエトの政策は、国内事情を考慮して決定されなければならない。外国で革命が勃発するか否かは不確実だからだ。
 (4) ドイツでは、「軍事党」が上層部を握った。ロシアは、領土割譲と財政的制裁金を要求する最後通告を提示されるだろう。
 政府は、交渉を長引かせるべく全力を尽くしたが、この戦術は自然消滅した。
 (5) ドイツの条件での即時講和に反対する者たちは、このような講和は「プロレタリア国際主義」の精神を侵犯すると、間違って論じている。
 彼らが望むように政府がドイツとの戦闘継続を決定するならば、別の「帝国主義陣営(Bloc)」からの助力を求める以外に選択の余地はないだろう。その協商諸国(Entente)は、フランスとイギリスの代理人へと変わるだろう。
 かくして、戦争の継続は「反帝国主義」の動きではない。二つの「帝国主義」陣営の間での選択を呼びかけるものだからだ。
 しかしながら、体制がいま果たすべき責務は、「帝国主義諸国」の間で選択することではなく、権力を確固たるものにすることだ。
 (6) ロシアは実際に外国の革命を推進しなければならない。しかし、「諸勢力の相関関係」を考慮することなくしてこれを行うことはできない。
 現時点でのロシア軍は、ドイツ軍の前進を食い止めるには無力だ。
 さらに言えば、ロシアの「農民」軍隊の大多数は、ドイツが要求する「併合主義」講和を支持している。
 (7) ロシアが現在のドイツの講和条件の受け入れ拒否に固執するならば、いずれもっと負担の大きい条件を受諾せざるを得なくなるだろう。
 しかし、これはボルシェヴィキではなくその継承者たちが行うことだ。その間にボルシェヴィキは、権力を剥奪されているだろうから。
 (8) 政府は小休止によって、経済(銀行と重工業の国有化)を組織する機会をもつだろう。経済の組織化は、「社会主義をロシアと全世界でで揺るぎないものにし、そして同時に、強力な労働者・農民赤軍を築く堅固な経済的基礎を生み出すだろう」。
 (6)レーニンには、彼の異議にもかかわらず本当は世界大戦が継続することを望んでいることを暴露してしまうだろうがゆえに明言することのできない、別の理由があった。
 レーニンは、中央諸国と協商諸国の「ブルジョアジー」が講和をすればすぐに、彼らは勢力を合体してソヴィエト・ロシアを攻撃するのは確実だと感じていた。
 彼は、ブレスト条約に関する討議の間に、この危険性を暗示した。
 「我々の革命は、戦争から産まれた。
 戦争がなかったならば、全世界の資本主義者たちの統合を目撃していただろう。この統合は、我々に対する闘いを基礎とするものだ。」(39)
 レーニンは、彼自身の政治的闘志を反映して、「敵たち」の巧妙さや果断さをきわめて高く評価していた。
 実際には、1918年11月の停戦以降に、このような「統合」は発生しなかった。
 しかし、彼は危険が本当にあると考えたので、想定される「資本主義者」の攻撃に抵抗することのできる軍隊を建設するための時間を稼ぐために、戦争を長引かせなければならなかった。
 (7)1918年1月8日/21日、ボルシェヴィキは、三つの本拠地で、党指導者たちの会議を開いた。ペトログラード、モスクワ、そしてウラル地域。
 レーニンは、ドイツの最後通告の受諾を求める決議を提案した。
 この提案は、全63票のうち僅か15票の支持しか受けなかった。
 トロツキーの「講和でも戦争でもない」妥協的決議は、16票を獲得した。
 多数派(32代表者)は、左翼共産主義者の決議に賛成投票をし、妥協なき「革命」戦争を要求した。(*)//
 (8)議論はつぎに、中央委員会に移った。
 トロツキーはここで、敵対行動の即時かつ一方的な停止およびロシア軍の一斉の動員解除の動議を提出した。
 この動議は、9対7の過半数で辛うじて通過した。
 レーニンは、ドイツの条件での即時講和を支持する情熱的な演説でこれに反応した。(40)
 しかし、レーニンは少数派のままだった。そして、翌日にボルシェヴィキ中央委員会が左翼エスエルの中央委員会と合同の会合をもったときには、さらに支持者数を減少させた。左翼エスエルは、レーニンの講和提案に激しく反対していたのだ。
 この日、ここでも再び、トロツキーの決議が通過した。
 (9)この信任を受けたトロツキーは、ブレストに戻った。
 交渉は、1月15日/28日に再開した。
 トロツキーは、意味の乏しい発言やプロパガンダ的演説を行って、時間稼ぎを継続した。
 これには、さすがの自制心のあるキュールマンですら、苛立ち始めた。//
 (10)ロシア・ドイツ間交渉が修辞学的言葉の遣り取りにはまり込んでいた一方で、ドイツとオーストリアは、ウクライナと合意に達した。
 2月9日、中央諸国はウクライナ共和国との間に分離講和条約を締結した。これはウクライナを事実上はドイツの保護国とするものだった。(41)
 ドイツとオーストリアの兵団は、ウクライナへと移動した。そこで彼らは、ある程度の法と自由を回復した。
 この歓迎されるべき行為の対価は、船によってウクライナの食糧が西方へと大量に輸送されたことだった。//
 (11)ロシア・ドイツ間政治交渉の膠着状態を破ったのは、ドイツ皇帝からの電報だった。皇帝は、将軍たちの影響をうけて、2月9日にブレストに電報を発した。
 彼はその中で、最終通告書をロシアに与えるよう命じていた。//
 「本日、ボルシェヴィキ政府はラジオで私の兵団に en clair を伝え、立ち上がって軍部上官に公然と反抗するように迫った。
 私もフォン・ヒンデンブルク元帥閣下も、このような事態をこれ以上受け入れたり、甘受したりすることはできない!
 可能なかぎり迅速に、このようなことを終わらせなければならない!
 トロツキーは、明日、(2月)10日の午後8時までに、…<遅滞なく、我々の条件での講和>に署名しなければならない。…。
 拒否する場合または遅滞その他の釈明を企てる場合には、10日夜の8時に、交渉は決裂し、停戦は終わる。
 そうなれば、東部前線部隊は、事前に定められた線へと前進するだろう。」(42)
 (12)翌日、キュールマンはトロツキーに対し、ドイツ政府の最終通告を伝えた。
 トロツキーはそれ以上の議論をすることなくまたはその他の遅延を行うことなく、講和条約のドイツ語文に署名すべきものとされた。
 トロツキーは、ソヴィエト・ロシアは戦争から離れており、軍隊の動員解除を進めていると言って、そうするのを拒んだ。(43)
 しかしながら、ペトログラードへとその間に移った経済的、法的な議論は、そう望まれていたとすれば、継続することができただろう。
 トロツキーは列車に乗り込み、ペトログラードへと向かった。//
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 (38) Lenin, PSS, XXXV, p.243-p.252.
 =レーニン全集第26巻「併合主義的単独講和の問題についてのテーゼ」452頁~460頁(大月書店、1958)。
 (39) 同上, p.324.; Hahlweg, Diktatfrieden, p.48.
 (*) Lenin, PSS, XXXV, p.478.; LS, XI, p.41.; Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.22.
 レーニンを支持したスターリンは、西側での革命は見えていない、と語った。
 この会議の議事録は消失したと言われている。Isaac Steinberg は、左翼エスエルは「戦争でも講和でもない」定式を好み、それを定式化したものを手にしていた、と語る。
 Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.190-2.
 (40) Lenin, PSS, XXXV, p.255-8.
 (41) ロシア語文、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.298-p.308.
 英語訳文、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.392-p.402.
 (42) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.311-2.
 (43) Soviet Declaration in Lenin, Sochineniia, XXII, p.555-8.
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 第13章第6節・第7節、終わり。

2235/R・パイプス・ロシア革命第13章第4節・第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第4節・ボルシェヴィキ上層部の分裂。
 (1)ベルリンとウィーンがロシアとすみやかに合意するのは望ましくないと一致していたとすると、ペテログラードでは、意見は真っ二つに分かれていた。
 細かな差違を別にすると、ボルシェヴィキ内部に、ほとんどどんな条件であっても即時の講和を望む者たちと、ヨーロッパ革命を引き起こす手段として講和交渉を用いたいという者たちの対立があった。
 (2)第一の見解の主導者であるレーニンは、しばしば少数派に属することがあり、ときには一人だけの少数派だった。
 彼は、国際的な「諸勢力の相関関係」に関する悲観的な評価から出発した。
 レーニンもまた西側での革命を期待していたが、反対者たちよりも、「ブルジョア」政府が革命を粉砕する能力を高く想定していた。
 彼は同時に、ボルシェヴィキが権力を掌握し続けることについて、同僚たちほどには楽観的でなかった。
 レーニンは、講和交渉に付随した議論の間に、ヨーロッパではまだ内乱が発生していないが、ロシアではすでに起きている、と注意深く観察していた。
 この時期に関する見通しの点では、彼は、中央諸大国にある国内事情の困難さやすみやかに妥協する必要性を低く評価するという過ちを冒していたかもしれない。つまり、こうした点でのロシアの立場は、彼が思っていた以上に強かったのだ。
 しかし、ロシアの内部情勢に関する彼の見方は、完璧に適切だった。
 レーニンは、戦争を継続すれば国内の対抗者たちかドイツかのいずれかによって権力を奪われる危険がある、と分かっていた。
 また、権力を保持し続ける欲求を現実のものにするために、小休止が切実に必要であることも、分かっていた。
 そのためには、政治的、経済的、軍事的な組織的努力が必要だったが、いかほど負担が大きくて屈辱的であろうとも、平和という条件のもとでのみそれは可能だった。
 これが当面は西側「プロレタリアート」を犠牲にすることは、たしかに本当だ。しかし、レーニンの見方では、ロシアでの革命が完全に成功するまでは、ロシアの利益こそが最優先だ。//
 (3)レーニンに反対する多数派は、ブハーリンが先頭にいて、トロツキーが続いて加わった。この多数派の見地は、つぎのように要約された。//
 「中央諸国は、レーニンが小休止するのを許そうとしないだろう。
 彼らはウクライナの穀物と石炭、コーカサスの石油をロシアと遮断するだろう。
 ロシア住民の半分を支配下に置くだろう。
 反革命運動を財政支援し、革命を転覆させるだろう。
 ソヴィエトも、小休止の間に新しい軍を建設することはできないだろう。
 ソヴィエトは、まさに戦闘中に、軍事力を強化しなければならない。そうしてのみ、新しい軍隊を誕生させることができるのだ。
 確かに、ソヴィエトはペトログラードを、ひょっとすればモスクワをすら、放棄せざるを得ないかもしれない。だが、退却して再結集するだけの区域は十分にまだある。
 人民がかつて旧体制と闘うことができたほどには革命のために戦う意欲がないと分かったとしても-そして戦争派の指導者たちがこれを承認するのを拒むとしても-、全ゆるテロルと略奪を行って進出してくる全ドイツ軍によって、人民は疲労と無気力から呼び覚まされ、抵抗へと駆り立てられ、ついには広範で真に民衆的な革命戦争の熱狂が発生するだろう。
 この熱狂の流れに乗って、新しく畏怖すべき軍隊が立ち上がるだろう。
 下劣な屈服という恥を知らぬ革命は、復興を達成するだろう。
 革命は、世界の労働者階級の精神を掻き立てるだろう。
 そして最後には、帝国主義という悪魔を放逐するだろう。」(20)//
 このような意見の対立によって、1918年初めに、ボルシェヴィキ党の歴史上最大の危機が生じた。//
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 (20) Isaac, Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
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 第5節・初期の交渉(initial negotiations)。
 (1)1917年11月15日/28日、ボルシェヴィキは再び、交戦諸国に対して交渉を行うことを呼びかけた。
 この訴えは、連合諸国の「支配階級」が平和布令に反応しなかったために、ロシアは積極的に反応したドイツやオーストリアと停戦にかかる即時の交渉を行う用意がある、と述べた。
 ドイツは、ボルシェヴィキの提案をすみやかに受諾した。
 11月18日/12月1日、ロシアの代表団が、ドイツの東部戦線最高司令部があるブレスト=リトフスクに向けて出発した。
 この代表団を率いたのは、元メンシェヴィキでトロツキーの親密な友人の一人である、A・A・ヨッフェ(Ioffe)だった。
 カーメネフも含まれていた。これは、兵士、海兵、労働者、農民および女性という「勤労大衆」の代表という象徴的表現だった。
 ロシアの代表団を運ぶ列車がブレストに向かっている途中ですら、ペトログラードは、ドイツ兵団に対して反乱を呼びかけた。
 (2)停戦交渉は、11月20日/12月3日に、以前はロシアの将校用クラブだった建物で始まった。
 ドイツの代表団の長はキュールマン(Kühlmann)で、この人物はロシア事情の専門家だと自認しており、1917年にレーニンと協定するに際して最も重要な役割を果たしていた。
 両当事者は11月23日/12月6日に停戦を開始すること、11日間は有効とすることに合意した。
 しかしながら、この期限が満了する前に、相互の合意にもとづいて、1918年1月1日/14日まで延長するものとされた。
 この延長の表向きの目的は、連合諸国に対して再考慮して交渉に加わる機会を与えることだった。
 しかしながら、双方ともに、連合諸国がこれに応じる危険はない、と踏んでいた。キュールマンが首相に対して助言したように、ドイツが提示した停戦条件は重たいものなので、連合諸国がそれを受け入れるとは考えられなかった。(21)
 延長の本当の目的は、双方の側に対して、講和交渉へと至るそれぞれの立場を考え出す時間を与えることだった。
 このことが進行している以前にすでに、ドイツ軍は6分団を西部前線へと配置換えし、これにより停戦条件に違反していた。(*)//
 (3)ボルシェヴィキがいかにドイツとの関係の正常化を熱心に求めていたかは、停戦後すぐにヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(W. v. Mirbach)候が率いるドイツ代表団をペトログラードで歓迎したという事実でも、分かる。
 その代表団は、民間人の戦争捕虜の交換や経済的、文化的交流の再開について調整することとされていた。
 レーニンは、12月15日/28日に、ミルバッハを接受した。
 ベルリンがソヴィエト・ロシアの状態に関する目撃証言を初めて得たのは、この代表団からによってだった。(+)
 ドイツはミルバッハから伝えられて初めて、ボルシェヴィキはロシアの外国債務を放棄しようとしてることを知った。
 この情報を受けてドイツ国有銀行は、ドイツの利益には最小限度の負担で、連合諸国の利益は最大限度となるように処理する覚書の草案を作成した。
 この趣旨での提案は、レーニンの古い仲間で今はストックホルムのソヴィエト外交代表者のV・V・ヴォロフスキ(Volovskii)によって概略が描かれていた。この人物は、ロシア政府は1905年以降に発生した負債だけを消滅させる、と提案していた。ロシアに対するドイツの貸付はほとんどが1905年以前に行われていたので、債務不履行(default)の大部分は、連合諸国の側の負担になるものだった。(22)(**)
 (4)ブレストでの会談は、12月9日/22日に再開した。
 キュールマンが、ドイツ代表団を再び率いた。
 オーストリア使節団の代表は、外務大臣のチェルニン(Czernin)候だった。
 トルコとブルガリアの外務大臣も、同席した。
 ドイツの講和提案は、コートランド(Courland)とリトアニアとともにポーランドのロシアからの分離も要求した。これらの地域はこのとき、ドイツの軍事占領のもとにあった。
 ドイツ側はこれらの条件は合理的だと考えていたに違いない。なぜなら、彼らは希望に充ちた宥和的な気分でブレストに来ていて、クリスマスまでには原則的な合意に達するだろうと予想していたからだ。
 しかし、彼らはすぐに失望した。
 訓令にもとづいて交渉を長引かせていたヨッフェは、曖昧で非現実的な(レーニンが起草した)対案を提示し、「併合と賠償金のない」講和と植民地と同様のヨーロッパ諸民族の「民族の自己決定」を求めた。(23)
 ロシア代表団は、事実上はまるでロシアが戦争に勝利したかのごとく振る舞い、中央諸国に対して、戦争中の全ての征圧地を放棄するよう求めた。
 この態度によって、ドイツに初めて、ロシアの意図に関する疑念が生じた。//
 (5)講和交渉は、非現実的な雰囲気の中で進められた。つぎのとおりだ。
 「ブレスト=リトフスクの会議室の情景は、誰か偉大な絵画家が描く芸術に値するものだった。
 一方には、落ち着いて警戒心を怠らない中央諸国の代表たちがいた。彼らは黒い上着を着て相当にリボンで飾っていて、輝いていてかつきわめて丁重だった。…。
 その中で注目されたのは、まずキュールマンの細い顔と油断のない眼だった。この人物の議論中の礼儀正しさはいつも変わりがなかった。
 堂々とした風格のチェルニンは、彼の無邪気な温良さのために、観測気球を上げさせらていた。また、小太りの風貌のホフマン将軍がいて、軍事上の問題に関する発言が求められたときは、しばしば顔を紅くして意気高く発言した。
 ゲルマン系(Teutonic)の代表者たちの背後には、多数の一群をなした幕僚たち、文民公務員たち、眼鏡をかけた職業的専門家たちがいた。
 各代表団は母国語を話した。そして、そのゆえに討議は長くなりがちだった。
 ゲルマン系諸代表団の反対側に、ロシア人が座っていた。ロシア人のほとんどは汚らしく、衣服が粗末で、討議の間じゅう長いパイプで煙草を吸っていた。
 討議のほとんどは、彼らの興味を惹いていないように見えた。そして、政治に関する精神の問題に入ってとりとめのない形而上学的発言を洪水のごとく行う場合を除いて、ぶっきらぼうに討議に割って入った。
 会議の雰囲気は、ある程度は、品のよい使用者たちが特別に鈍感な労働者たちの代表と交渉をしている集会のごとくだった。ある程度は、村の学校の遠足に付き添う上品な主催者が開く会合のごとくだった。」(24)
 (6)会場の雰囲気が乗ってきたクリスマスの日、ドイツ人たちを大いに当惑させたことに、チェルニン候が、連合諸国が講和交渉に加わらないならば、オーストリアが戦争内に征圧した全領土を譲渡しようと申し出た。彼は、停戦合意の決裂を何としてでも回避し、必要ならば分離した講和条約に署名する用意があることを示すよう、訓令を受けていた。(25)
 ドイツ人たちは、より強い立場にいると感じた。迫り来る春の西部攻勢によつて勝利することができると期待していたからだ。
 中央諸国は占領したポーランドやその他のロシア領域の定住者に自己決定権を認めよというロシアの要求に対して反応して、キュールマンは、その地域はすでにロシアから分離することでその権利を行使していると辛辣に答えた。//
 (7)手詰まり感に陥って、交渉は12月15日/28日まで延長された。しかし、大きくは報道されなかったが、法的、経済的な委員会の「専門家たち」の間での交渉は続いた。
 (8)ドイツは結果を評価して、ロシアは平和を望んでいるのか、それともたんに西ヨーロッパに社会不安を発生させるために時間を稼いでいるのかと、ある程度は不思議に思い始めた。
一定のロシアの行動は、こうした疑念を支えるものだった。
 ドイツの諜報機関は、トロツキーからスウェーデンの協力者に宛てた手紙を途中で盗み見した。そこには、外務人民委員〔トロツキー〕が「ロシアを含む分離講和は考え難い。最も重要なのは、一般的平和を促進する国際的社会民主主義勢力が結集するのを覆い隠すために交渉を長引かせることだ」と書いていた。(26)
 まるでこのようなことを意図しているのを示すがごとく、12月26日に、ソヴィエト政府は、国際関係では先行例のないことを行った。ツィンマーヴァルト・キーンタール政綱を支持している外国のグループに対して、公式に200万ルーブルの予算を計上したのだ。(*)
 ブレストでの政治的会談の速記録を出版してドイツ政府はロシア政府に見倣うべきだというヨッフェの主張でもって、ドイツ側の懐疑が緩和することはなかった。その速記録は、ロシアの側で、ドイツの労働者にボルシェヴィキのプロパガンダを伝えるために意図的に作られたものだった。//
 (9)この時点で、ドイツの軍部が介入した。
 ヒンデンブルク(Hindenburg)は、皇帝宛ての1月7日(12月25日)付の手紙で、ドイツ外交部がブレストで採っている「弱気の」、「宥和的な」戦術はドイツが強く講和を必要としているという印象をロシアに与えている、と不満を述べた。この手紙は、皇帝に対して、大きな影響力をもつこととなった。
 ドイツの戦術は、軍部の士気には悪い効果を持った。
 心の裡を明確に語ることをしないで、ヒンデンブルクは、ボルシェヴィキが停戦中の前線で推進している、ロシアとドイツの両兵団の「友好(fraternization)」政策がもつ驚くべき効果について示唆した。
 強力に行動するときだ。ドイツが東部で強い決意を示さないならば、ドイツの世界的地位を獲得するのに必要な講和を、どのようにして西側連合諸国に対して押しつけることを期待することができようか?
 ドイツは、将来の戦争を抑止することができるように、東部の国境線を引き直すべきだ。(27)//
 (10)ブレストでの優柔不断な外交を我慢できなかった皇帝は、同意した。
 その結果として、ドイツの態度は、明瞭に察知できるほどに硬化した。
 交渉による平和を追求する「見せかけ」は、口述されたものに従って放棄された。//
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 (21) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.153-4.
 (*) J. Buchan, A Hiatory of the Great War, IV(Boston, 1922), p.135.
 停戦協定は、その有効期間中にロシア前線から兵団を「大規模に」移動させることを禁止していた。
 (+) フランスの将軍のアンリ・A・ニーセル(Niessel)によると、連合諸国は、ペトログラードからブレストへのドイツの電信を傍聴していた。そしてそれから、ドイツが切実に講和を望んでいることを知った。
 General (Henri A.)Niessel, Le Triomphe des Bolcheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs, 1917-1918(Paris, 1940), p.187-8.
 (22) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.66-p.67.
 (**) ソヴィエト政府の国内および外国に対する全ての国家債務の不履行は、1918年1月28日に発表された。
 これによって消滅した外国負債の総額は、130億ルーブルまたは65億ドルと見積もられた。
 G. G. Shvittau, Revoliutsiia i Narodnoe Khoziaistvo v Rossi(1917-1921)(Leipzig, 1922), p.337.
 (23) 同上, p.59-p.60.; Fischer, Germany's Aims, p.487は、6項を挙げる。
 (24) Buchan, A History of the Great War, IV(Boston, 1922), p.137.
 (25) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.148-p.150.; Fischer, Germany's Aims, p.487-p.490.
 (26) Gerald Freund, Unholy Alliance(New York, 1957), p.4.
 (27) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-7, p.208.
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 第4節・第5節、終わり。

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
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 第3節、終わり。

2226/R・パイプス・ロシア革命第13章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第3節・ドイツとボルシェヴィキが講和交渉へ。
 (1)既述のように、レーニンには、中央諸国が要求する条件を受け入れる心づもりがあった。しかし、レーニンはドイツの工作員だとする疑いが広がっていたために、慎重に事を進める必要があった。
 したがって、ただちにドイツやオーストリアとの交渉に入るのではなく、あらかじめ考えていただろうように、全交戦諸国に対して、会合して講和しようとの訴えを発した。
 実際には、ヨーロッパの一般的平和は、彼が最も望んでいないことだった。
 述べてきたように、十月での権力奪取を急いだ一つの理由は、そのような平和がまさに訪れるのを怖れたからだった。そうなってしまえば、ヨーロッパに内乱を発生させる機会を永遠に封じてしまうからだ。
 明らかに、これまでのいくつかの訴えが聞く耳を持たれなかったために、レーニンは平和を呼びかけることに怖れを感じなかったと思われる。従前の訴えには、1916年12月のウィルソン大統領の提案、1917年7月のドイツ帝国議会の講和決議、1917年8月の書面上の諸提案が含まれる。
 想定したとおりにレーニンの提案が連合諸国に拒否されれば、彼は自由に手筈を整えることができるだろう。//
 (2)レーニンが起草して第二回ソヴェト大会が採択した、奇妙な名前の「平和に関する布令」は、交戦諸国に対して3ヶ月の停戦を提案した。
 この提案は、イギリス、フランスおよびドイツの労働者に対する訴えと一対のものだった。後者は各国労働者について、こう言う。
 「その多方面からする決定的で、無私の旺盛な活動は、平和の任務を、同時に、各人民の勤労被搾取大衆を全ての奴隷化と搾取から解放する任務を、我々が成功裡に達成するのを、助けている」。(7)
 G・ケナン(George Kennan)は、この「布令」を「示威的(demonstrative)外交」と名付けた。彼によると、「諸政府間の、自由に受容されかつ相互の利益となる合意達成を促進するのでなく、他政府を当惑させかつ各国の国民内部での対立を掻き立てることを意図する」外交だ。(*)
 ボルシェヴィキは、同じ趣旨の諸宣言を発して、交戦諸国の国民に対して、反乱を起こすよう強く訴えた。(8)
 レーニンは国家の長として、今やツィンマーヴァルト(Zimmerwald)左翼の綱領を推進することができた。//
 (3)ボルシェヴィキは、11月9日/22日に、平和布令を連合諸国外務部局に伝えた。
 連合諸国政府はただちに、これを拒否した。トロツキーはこのあと、中央諸国に対して、停戦交渉を開始する用意があることを知らせた。
 (4)ボルシェヴィキの取り込み政策は、ドイツにとって相当の利益となるものだった。
 ロシアの分離講和の提案がドイツのある範囲の者たちに思い出させたのは、1763年の「奇跡」だった。その年、親フランスのエリザベトの死と親プロイセンのピョートル三世の即位によって、ロシアは七年戦争から撤退した。そのことがフリートリヒ大帝を敗北から、プロイセンを解体から救ったのだった。
 ロシアの連合諸国からの離脱意欲は、ドイツには二つの利益があった。すなわち、①数十万人の兵団を西へと移動させる、②イギリスの海上封鎖を突破する。
 このような見込みは、ドイツが再び勝利を手元に引き寄せるように思わせた。
 ペトログラードでのボルシェヴィキの権力掌握を知って、ルーデンドルフ(Ludendorff)は、1918年春に、東側前線から移ってくる分団の助力でもって西側前線で決定的な攻撃を行う作戦を練り上げた。
 皇帝は、その計画を承認した。(9)
 この段階でルーデンドルフは、親ボルシェヴィキ志向の設計者であるR・v・キュールマン(Richard von Kühlmann)が追求している外務当局の、ロシアとすみやかに停戦して、講和へと進む、という政策方針にすっかり同意していた。//
 (5)ボルシェヴィキと中央諸国の間の知恵比べでは、後者の側が圧倒的に有利であるように見えた。一方には数百万人の紀律ある軍をもつ安定した政府があり、これと比べると他方には、解体過程にある寄せ集めの軍をもつ、ほとんどの外国が承認していない素人と簒奪者の政治体制があったのだ。
 しかしながら、現実には、力の均衡はさほどに一方的ではなかった。
 1917年末頃、中央諸国の経済状況は絶望的になっていて、戦争継続を行うことができそうでなかった。
 オーストリア=ハンガリーはとくに、心許ない状態だった。その外務大臣のO・チェルニン侯(Count Ottokar Czernin)は、ブレスト交渉での間にドイツに対して、自分の国はたぶん次の収穫期まで持ちこたえることができない、と語った。(10)
 ドイツは好かったが、辛うじてにぎなかった。ある範囲のドイツの政治家たちは、 1918年4月半ばまでに食糧を使い果たすだろうと考えていた。(11)//
 (6)ドイツとオーストリアは、民間人の戦意という問題を抱えていた。ボルシェヴィキによる平和の訴えが民衆の間に大きな希望を掻き立てていたからだ。
 ドイツの宰相は皇帝に対して、ロシアとの交渉が決裂すればオーストリア=ハンガリーはおそらく戦争から離脱し、ドイツは国内騒擾に巻き込まれるだろう、と助言した。
 ドイツの(戦争を支持した)社会主義多数派の指導者であるP・シャイデマン(Philipp Scheidemann)は、ロシアとの講和交渉が失敗すれば「ドイツ帝国の終焉となる」だろうと、予見した。(12)
 こうした全ての-軍事、経済、および心理上の-理由で、中央諸国は、ボルシェヴィキが必要とするのとほとんど同じ程度にロシアとの講和を必要とした。
 ロシア側が十分には知っていなかったこの事実は、ドイツとオーストリアに接近するレーニンの降伏主義政策に反対する者たちは、ふつうは言われているほどには非現実的ではなかった、ということを示している。
 敵もまた、自分の頭に銃砲を向けて交渉していたのだ。//
 (7)ボルシェヴィキにはまた、別の有利さもあった。すなわち、相手側に関する詳細な知識があった。
 西側で数年間生活していたので、ドイツの国内問題、政治上および取引上の人々の性格、党派的配列状態等によく通じていた。
 彼らのほとんど全員が、西側の言語の一つまたはそれ以上を話した。
 ドイツは社会主義の理論と実践の第一の中心地だったために、自国以上ではなくとも同等に、ドイツのことを知っていた。そしてかりに必要とあれば、ソヴナルコムは喜んでそこで権力を掌握しただろう。
 知識がこのようにあったことで、事業家を将軍たちと、左翼を右翼社会主義者と競わせたり、ドイツの労働者たちを容易に理解可能な言語で革命へと喚起させたりすることによって、彼らは、敵側陣営内部にある不和を利用することができた。
 対照的に、ドイツは、交渉に入ろうとしている相手方について、ほとんど何も知らなかった。
 脚光を浴びてきたばかりのボルシェヴィキは、ドイツにとっては、無骨かつ饒舌で実用的でない知識人の一群だった。
 ドイツ人は一貫してボルシェヴィキの行動を誤解し、その狡猾さを過少評価した。
 ある日、ボルシェヴィキは性急な革命家たちで、意のままに操作できるように見えた。
 次の日、ボルシェヴィキは、自分自身のスローガンを信じないで実務的(businesslike)な取引をする用意のある、現実主義者だった。
 1917-18年の両者の関係では、ボルシェヴィキは、ドイツ人を当惑させ、その欲求を刺激する保護色を纏うことによって、何度もドイツを出し抜いた。//
 (8)ドイツのソヴィエト政策を理解するために、そのいわゆる<ロシア政策(Russlandpolitik)>について、少しばかり述べておこう。
 しばらくの間、ロシアと講和をする直接の利益は、軍事的な考慮にもとづくものだった。ドイツもロシアについて、長期的な地政学的企図を有していた。
 ドイツの戦略家たちは伝統的に、ロシアに強い関心を示してきた。第一次大戦以前にドイツほどにロシア研究の伝統を積み重ねていた国がなかったのは、偶然ではなかった。
 保守派は、自国〔ドイツ〕の国家的安全保障には弱いロシアが必要だ、ということを自明のことと考えていた。
 第一に、ロシアが第二戦線でドイツを脅かすことができない場合にのみ、ドイツ軍は自信をもって、世界の覇権をめぐる戦いでフランスや「アングロ=サクソン」に立ち向かうことができる。
 第二に、<世界政治(Weltpolitik)>での重要な競争国となるためには、ドイツは、食糧を含むロシアの自然資源を利用することができることが必要だ。ドイツはこの自然資源を、ロシアがドイツの服属者になってのみ、満足できる条件で獲得することができる。
 ドイツはきわめて遅くに国民国家として確立したがゆえに、帝国主義略奪競争に入らなかった。
 競争相手諸国の経済的力量に対抗するドイツの唯一の現実的機会は、東方へと、広大なユーラシアへと、膨張することにあった。
 ドイツの銀行家や産業家は、ロシアに、潜在的な植民地を、アフリカの代用物を見た。
 彼らはドイツ政府の文書の草稿を書いて、その中で、ドイツが無関税でロシアの良質な鉄鉱石とマンカン鉱石を輸入すること、そしてロシアの農業と炭鉱を利用すること、の重要性を強調した。(13)//
 (9)ロシアを服属国家に変えるためには、二つのことがなされなければならなかった。
 ロシア帝国は解体して、大ロシア人が居住する領域へと縮小されなければならない。
 このことの意味の一つは、ドイツがバルト地方を併合して、表向きは主権をもつが実際にはドイツが支配する保護領である<防疫線(cordon sanitaire)を生み出す、ということだった。保護領とは、ポーランド、ウクライナ、およびジョージア。
 大戦前および戦争間に政治評論家のP・ロールバハ(Paul Rohrbach)が主張していたこの基本方針は(14)、とくに軍部に対して、強い訴求力をもった。
 1918年2月、ヒンデンブルクは皇帝に対して、ドイツの利益のために必要なのは、ロシアの国境線を東に移し、人口が多くて経済的力のあるロシアの西部地方を併合することだ、と書き送った。(15)
 これが本質的に意味したのは、ロシアを大陸ヨーロッパから追放することだった。
 ロールバハの言葉によれば、問題は「我々の将来の安全が確保されるべきだとすれば、ロシアは今日までにそうだったのと同じ意味でのヨーロッパの大国にとどまるのが許容されるのか、<それとも、そうであることが許容されないのか?>」だった。(16)//
 (10)第二に、ロシアはドイツに、全ての経済的な権利や特権をドイツに譲りわたして、ドイツの浸透を、究極的にはドイツの覇権を認めなければならなかった。
 ドイツの企業家たちは戦争中に政府に対して、ロシアの西部地方を併合し、ロシアを経済的に利用することを強く要望していた。(17)//
 (11)こうした観点からすると、ロシアにボルシェヴィキ政府があること以上に好都合のものはなかった。
 1918年からのドイツ国内の情報通信は、つぎの理由でボルシェヴィキが権力ある地位にとどまるのを助けるべきだ、という議論で充ちていた。すなわち、ボルシェヴィキは、膨大な領土的経済的な譲歩を行う用意がある、またその無能力さと不人気のゆえにロシアが永続的な危機にあるのを続けさせる、ロシアの唯一の政党だ。
 国家補佐官だった大将P・v・ヒンツェ(Paul von Hintze)は、つぎのような合意を表明した。それは、1918年秋に、信頼できない危険な相棒だと見てボルシェヴィキを拒絶しようとしていた者たちに立ち向かっていたときのことだった。
 ボルシェヴィキを排除することは、「ロシの軍事的弱体化を目指していた、東方領域での我々の戦争指導力と我々の政策のこれまでの全作業を覆してしまうだろう」。(18)
 P・ロールバハも、類似の調子で、こう論じた。//
 「ボルシェヴィキは、大ロシアを破滅させている。ロシアが潜在的にもつ将来の危険の根源を、根こそぎ破壊している。
 ボルシェヴィキは、大ロシアについて我々が感じてきた不安のほとんどを、すでに解消した。
 そして我々は、彼らが可能なかぎり長くその仕事を継続することができるよう、全てのことを行うべきだ。それは我々に有益だ。」(19)//
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 (7) Dekrety, I, p.16.
 (*) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N. J., 1956), p.75-p.76.
 11月早くに、ボルシェヴィキは、外務省の書類から、ロシアと連合諸国間の秘密条約を公表し始めた。
 ボルシェヴィキは、訴えを発することで、1792年11月に自由の「再獲得」を熱望する全ての国民に対して「兄弟愛と助力」を誓約したフランスの革命家たちに見倣った。
 (8) E. G. Revoliutsiia, V, p.285-6.
 (9) Fritz Fischer, Germany's Aims in the First World War(New York, 1967), p.477.
 (10) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (11) 同上, p.108.
 (12) 同上, p.184.
 (13) 一例は、同上, p.68-p.75。Fischer, Germany's Aims, p.483-4.も見よ。
 (14) 例えば、Paul Rohrbach's Russland und Wir(Stuttgart, 1955)を見よ。
 (15) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-6.
 (16) Paul Rohrbach, Russland und Wir, p.3.
 (17) Fritz Fischer, Griff nach den Weltmacht(Düsseldorf, 1967), passim〔多数箇所〕.
 (18) Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.245-6.
 (19) Isaac Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
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 第3節、終わり。

2224/R・パイプス・ロシア革命第13章第1・第2節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 試訳をつづける。第13章に入る。第1節に当たる部分に目次上の表題がないので、たんに「序」とする。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 「党の煽動活動家は、わが党はドイツとの分離講和を支持している、という資本主義者が投げつける汚い中傷に対して、何度も、何度も、抗議しなければならない」。
 レーニン、1917年4月21日。(1)
 **
 第1節・序。
 (1)十月以降のボルシェヴィキの主要な関心は、その権力を確固たるものにし、全国土へと拡張することだった。
 彼らはこの困難な任務を、現実的な外交政策の枠組みの中で行わなければならず、その中心に位置したのは、対ドイツ関係だった。
 レーニンの判断では、ロシアがすみやかにドイツとの停戦に署名しなければ、自分が権力を維持することのできる機会は皆無に近い。
 逆に言えば、停戦とそれに続く講和は、ボルシェヴィキが世界制圧を始めるドアを開けるだろう。
 1917年12月、ほとんどの支持者がドイツが提示した条件を拒否していたとき、レーニンは、ドイツの言うがままにする以外の選択の余地は党にはない、と論じた。
 問題は、きわめて単純だ。ボルシェヴィキが講和をしなければ、「戦争に耐えられないほど消耗している農民軍は、…社会主義労働者政権を打倒するだろう」。(2)
 ボルシェヴィキには、権力を堅固にし、行政運営を管理し、自分たち独自の軍隊を建設するために、<peredyshka>あるいは休息時間(breathing spell)が必要だ。
 (2)このような想定から進めて、レーニンには、自分に権力基盤が残されるかぎりはどんな条件でも中央諸国と講和を締結する心づもりがあった。
 党員たちの抵抗は、ボルシェヴィキ政府は西ヨーロッパで革命が勃発する場合にだけ生存し続けることができるという考え(レーニンも同じ)や、 それは今にも発生するに違いないとの確信(レーニンは完全には同じでない)によっていた。
 「帝国主義」中央諸国との講和、とくに屈辱的な条件でのそれは、レーニンの反対者たちからすると国際社会主義に対する裏切りだった。
 講和は、長期的には革命ロシアの死を意味するだろう。
 彼らの見方では、国際プロレタリアートの利益よりも、ソヴェト・ロシアの短期的でナショナルな利益を優先させてはならない。
 レーニンは、これに同意しなかった。
 「我々の戦術は、どうすれば、自らを強固にし、あるいは他諸国が加わるまで<一国で>あっても生き抜く可能性を、社会主義革命に関して、より信頼できより希望がある方途で確実なものにすることができるか、という基本的な考えにもとづいている。」(3)
 ボルシェヴィキ党は、1917-1918年の冬、この問題で、真っ二つに分かれた。
 (3)ボルシェヴィキ・ロシアの中央諸国との関係の歴史、とりわけ十月のクー以降の12ヶ月間のドイツとの関係の歴史は、そのときに共産主義者がその外交政策の戦術と戦略を理論上定式化し、実務で作り上げていくものだったため、きわめて興味深いものだ。
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 (1) Lenin, PSS, XXXI, p.310.
 (2) 同上, XXXV, p.250.
 (3) 同上, p.247. <>は挿入した。
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 第2節・ボルシェヴィキと伝統的外交。
 (1)西側諸国の外交の起源は、15世紀のイタリア都市国家に遡る。
 そこから外交実務が残りのヨーロッパに拡がり、17世紀には国際法の編纂が見られた。
 外交は主権国家間の関係を調整し、紛争を平和的に解決することを意図するものとされた。
 外交が失敗して武力行使に訴えられれた場合には、国際法の任務は暴力の程度を可能な限り小さいものにし続け、敵対関係をすみやかに終わらせることだった。
 国際法が成功するか否かは、全ての当事者が一定の原理を受け容れているかによる。
 1.主権国家は、生存の権利を疑いの余地なく有することが承認される。どんな見解の差異が諸国家にあろうとも、それぞれの存在自体は決して問題になり得ない。
 この原理が1648年のウェストファリア条約を支えた。
 この原理は18世紀の終わりにポーランドの第三次分割によって侵犯され、国の消滅をもたらしたが、例外的な場合とされた。
 2.国際関係は、政府間の接触に限定される。ある政府が別の政府の頭越しにその国民に対して直接に訴えるのは、外交上の規範を侵犯する。
 19世紀の実務では、国家は通常は外務省を通じて意思や情報を連絡し合う。
 3.外務当局間の関係は、正式合意の尊重も含めた、一定レベルの誠実さと善意を前提とする。これらなくして相互信頼はなく、信頼がなければ、外交は無意味な活動となるからだ。
 (2)15世紀から19世紀の間に発展したこうした原理と実務は、キリスト教諸国の超国家的共同社会の存在はむろんのこと、自然法の存在を想定している。
 自然法に関するストア派の観念は永遠で普遍的な正義の規準を想定しているが、H・グロティウス(Hugo Grotius)以降のその国際法の理論家たちが、国家間関係にその観念を適用した。
 キリスト教徒の共同社会という観念は、どんな差異があってもヨーロッパ諸国とその海外地は一つの家族の一員だ、ということを意味した。
 20世紀以前に、国際法の観念は、ヨーロッパ共同社会の外にいる人々に適用されるとは考えられていなかった。-この姿勢が植民地征服を正当化した。
 (3)明らかに、こうした「ブルジョア」概念の全複合体が、ボルシェヴィキには不快だった。
 革命家は既存の秩序を転覆しようと決意しているので、国際的国家システムの神聖さを承認するとはほとんど期待されていなかっただろう。
 政府の頭越しにその国民に訴えることは、革命戦略のまさに根本だった。
 かつまた、国際関係での誠実さと善意について言えば、ボルシェヴィキは、その他のロシア急進派と共通して、道徳という規準は運動内部でのみ、同志間の関係についてのみ義務的なものになると見なしていた。すなわち、階級敵との関係には、道徳ではなく戦争の規則が当てはまる。
 戦争の場合と同じく革命では、重要な原理はただ一つ、<kto kogo>、誰が誰を喰うか、だった。//
 (4)十月のクー以後の数週間、ほとんどのボルシェヴィキは、ロシアの例がヨーロッパ全域に革命を始動させると期待していた。
 産業ストライキや暴動に関する外国からの全ての報告が、「始まり」だと歓迎された。
 1917-1918年の冬、ボルシェヴィキの<Krasnaia gazeta>やこれと類似の党機関紙は、毎日のごとく、横大見出しで、西ヨーロッパでの革命的爆発を報告した。
 ある日はドイツ、つぎはフィンランド、そして再びフランス。
 このような期待が生き続けているかぎりは、ボルシェヴィキには、外交政策を作り上げる必要がなかった。
 しなければならないのは、いつもやってきたことの繰り返しだった。つまり、革命の炎を燃え立たせること。//
 (5)しかし、この希望は、1918年春に、いくぶんか衰えた。
 ロシア革命にはまだ、競争する仲間相手がいなかった。
 西ヨーロッパでの反乱やストライキはどこでも弾圧され、「大衆」は「支配階級」を攻撃しないで、お互いに殺戮し合った。
 このような事態を認識しはじめたとき、革命的な外交政策を作り出すことが喫緊となった。
 この点で、ボルシェヴィキには指針がなかった。マルクスの書物も、パリ・コミューンの経験も、大した助けにならなかったからだ。
 この困難さは、主権国家の支配者としての利益と世界革命の自認の指導者としての利益と、これら二つの矛盾する条件があることからも生じていた。
この後者の点での理解では、ボルシェヴィキは他の(「非・社会主義的」)政府の存在する権利を否定し、外交関係を国家の長や閣僚たちに限定する伝統を拒否した。
 ボルシェヴィキは、ナショナルな「ブルジョア」国家の構造全体を完膚なきまで破壊するのを欲した。そうすることで彼らは、外国の「大衆」が反抗するように激励しなければならなかった。
 だが、しかし、彼ら自身が主権国家を今では率いているために、他の政府との関係を避けることはできなかった。-少なくともその政府が世界革命によって打倒されるまでは。
 そして、他政府と関係をもつには、「ブルジョア」国際法の伝統的基準に合致して行動しなければならなかった。
 彼らはまた、自分たちの内部問題に外国が干渉することを排除するため、こうした基準による保護を必要とした。//
 (6)共産主義国家の二重性(dual nature)、つまり党と国家の形式的分離、が有用だと分かるのは、まさにこの点だ。
 ボルシェヴィキは、二つのレベルの外交政策を構築することで、問題を解決した。一つは、伝統的。二つは、革命的。
 「ブルジョア」諸政府と交渉する目的で、外務人民委員部を設立した。部員は全員が信頼できるボルシェヴィキで、党中央委員会からの指令に服従した。
 この機関は、少なくとも表面的には、外交に関する受容された規範に合致して、機能した。
 相手国で許されるかぎりで、ソヴィエトの外交使節団の長は「大使」や「公使」ではなく「政治代表者」(polpredy)と呼ばれ、旧ロシアの大使館の建物を受け継ぎ、cutawayを着用し、シルク・ハットを被り、「ブルジョア」大使館の仲間たちとよく似た振る舞いをした。(*)
 革命的外交-厳密に言えば、用語法上の矛盾がある-は、コミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)のような、党が自らまたは特殊機関の工作員を通じて行う場所になった。
 工作員たちは革命を刺激し、外務人民委員部が適切な関係を維持している、まさにその外国政府に反対する地下活動を支援した。//
 (7)このような機能の分離はソヴェト・ロシア内部での党と国家の類似の二重性(duality)を反映しており、スヴェルドロフ(Sverdlov)はボルシェヴィキ第七回党大会で、ブレスト=リトフスク条約の方向に関して述べた。
 署名国が敵対的な煽動活動やプロパガンダを行うことを禁じる条項に言及して、こう言う。
 「我々が署名した、そしてすみやかにソヴェト大会で批准させなければならない条約から、つぎのことが完全に明確になる。すなわち、政府、ソヴェト権力の権能者として、我々は今まで行ってきた広範な国際的煽動活動をすることができなくなるだろう。
 しかし、これは、我々が煽動活動を微小なりとも削減しなければならないことを意味していない。
 今からはたんに、ほとんどつねに、人民委員会議の名前によってではなく、党中央委員会の名前によって行わなければならない。…」(4)
 党を私的組織と見なすというこの戦術によって、悪辣な行動については「ソヴィエト」政府には責任がなく、ボルシェヴィキは、むしろ興味深い決定を着実に押しすすめた。
 例えば、1918年9月にベルリンがロシアの新聞(その頃まで完全にボルシェヴィキが統制していた)による反ドイツ・プロパガンダについて抗議したとき、外務人民委員部は、いたずら気に、こう回答した。
 「ロシア政府は、ドイツの検閲部とドイツの警察が、ロシアの政治的組織-つまりソヴェト制度-について悪意ある煽動活動をしているとして…ドイツの新聞を訴追していないことを、遺憾には思っていない。…
 ソヴィエト諸制度についての政治的社会的な反対意見を自由に表現しているドイツのプレスに対して、ドイツ政府の側がいかなる抑圧的な措置もとっていないことを、十分に許容し得るものだと考えるならば、ドイツの制度に関するロシアの私人や非公式新聞の同様の行動も、同等に許容し得るものだ。…
 最も断固として抗議する必要があるのは、ドイツ総領事館が、つぎのように提示していることだ。すなわち、ロシア政府は警察的手段によってロシアの革命的プレスをあれこれの方向へと指揮することができ、官僚機構の影響でもってその中にあれこれの見方を注入することができる、と頻繁に述べている。」(5) //
 (8)ボルシェヴィキ政府は、外国がロシアの内部問題に干渉したとき、きわめて多様に反応した。
 早くも1917年11月、外務人民委員のトロツキーは、同盟国の大使たちがロシアの正統な政府の所在に確信がなくて軍最高司令官のN・N・ドゥホーニン(Dukhonin)に外交書簡を送ったあとで、ロシアの問題に関する同盟国の「干渉」に抗議した。(6)
 ソヴナルコムは、機会があるごとに、内政不干渉の原則を侵犯していると諸外国に対して抗議した。まさにその原則を自らがくり返して侵犯しているときにあってすら。//
 -------------
 (*) 最も早いロシアの<polpredy>は、中立国に配置された。ストックホルムにV. V. Vorovskii、ベルンにIa. A. Berzin。
 ブレスト条約が批准された後、A. A. Loffe がベルリンでの任務を受け継いだ。
 ボルシェヴィキは、先ずリトヴィノフを、次いでカーメネフをイギリス(The Court of St. James)に任命しようとしたが、いずれも拒否された。
 フランスもまた、内戦の後まで、ソヴィエトの代表を受け入れようとしなかった。
 (4) Sed'moi Ekstrennyi S"ezd RKP(b)(Moscow, 1962), p.171.
 (5) Sovetsko-Germanskie Otnoshennia ot peregovorov v Brest-Litvske do podpisaniia Rapall'skogo dokovora, I(Moscow, 1968), p.647-9.
 (6) C. K Cumming & W. W. Pettit, eds., Russian-American Relations 1917年3月-1920年3月(New York, 1920), p.53-p.54.
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 第1節・第2節、終了。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
 章の下位に「節」はないが、一行空けよりも明確に、各章の中に横線を挿入している箇所がある。その部分までを、便宜的に「節」と見なすこととする。
 一行ごとに改行する。段落の最後に//を付し、段落に原文にはない番号を頭書する。
 注番号は記すが、注記の内容そのものは、省略する。
 第6部・第2章は、<結語>直前の最終の章だ。
 章は省略して各部の表題(とp.の範囲)だけ記しておくと、以下のとおり。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。     **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。      **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。      **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第1節
 (1)赤色テロルが前提にしていたのは、つぎのことだ。すなわち、裏切りはつねに隠れている。体制による統制を免れるいかなる集団行動も、体制の存在に対する潜在的な脅威だ。全ての社会的主体は見かけ上のものではない。色を変更することができないグループまたは個人はどこにも存在しない。ゆえに、抑圧は前もってのみならず、専断的に行われなければならない。
 内戦時代を終わらせた1921年2月から3月の事態は、革命を出発させた民衆動員の力学を再びくり返したものだった。
 この事態によって、前線がないような戦争では安全な前線はない、ということが分かった。//
 (2)ペトログラードのプロレタリアート〔工業労働者〕とバルト艦隊は、ボルシェヴィキがもつ草の根の戦闘性の聖像(icon)だった。
 1917年2月、ペトログラードのストライキと街頭示威行動が、事態の懸崖を打ち破った。そこには、海兵と兵士の反乱も含まれていて、それらが、君主制の崩壊の原因となった。
 4年後の1921年2月、ストライキと抗議運動が、再び、ペトログラードを振動させた。
 首都は、モスクワに移っていた。レーニンが、ニコライに取って代わっていた。
 旧体制の終焉を歓迎しソヴェト権力から利益を得ようと期待していた大工業プラントの労働者たちは、今ではその指導者たちに反抗した。自分たちの名のもとで統治すると主張しているが、その政策は社会的経済的危機をもたらし、彼らの生存自体を脅かしている、として。
 工場地区での騒擾は、クロンシュタット要塞近くにいる海兵たちを、彼ら自身の抗議の声を上げるように喚起させた。
 1917年10月の熱心なボルシェヴィキ軍団が、今ではその憤激を、「共産党独裁」に対して向けた。//
 (3)クロンシュタットは、ペトログラードから約20マイル離れた、フィン湾の中の島だ。
 18世紀初頭にピョートル大帝が、彼の新首都の防衛のために要塞を構築した。
 島の東端に都市があり、その中央広場は、2万5000人の兵士たちが整列することのできる広さがあった。
 夏には、ペトログラードから船が着いた。11月遅くから3月初めまでは、湾が凍っていた。
 島は全体でおよそ5万の人口をもっており、半分は軍事関係者で、半分は民間人だった。(1)//
 (4)バルト艦隊の海兵たちはずっと、革命の最も急進的部分を代表してきた。
 彼らは1917年2月には、50人以上の自分たちの将校を半殺しにした。その中には4人の大将(admiral)も含まれていた。
 七月事件のときにはペトログラードにやって来て、動員されたペトログラードの労働者を支援し、ほとんどエスエル〔社会革命党〕の指導者のV・チェルノフ(Viktor Chernov)を殺害するところだった。
 メンシェヴィキのF・ダン(Fedor Dan)が回想するように、「あの記念すべき日々に、彼らは、自発的に射撃をし続け、かつほんの数名しか負傷させなかった」。(2)
 8月、将軍コルニロフに反対するよう世論に訴え、彼の逮捕と処刑を要求した。
 クロンシュタットの将校たちの多くもまた、コルニロフに反対した。しかし、うちの4名は、処刑の呼びかけを拒んだ。
 海兵たちは、この4人の身柄を拘束し、射殺した。(3)
 カデットのA・シンガレフ(Andrei Shingarev)とF・ココシキン(Fedor Kokoshkin)は、1918年2月、病院のベッドで、赤衛兵とクロンシュタット海兵たちによって殺害された。(4)
 彼らは、怒れば危険な男たちだった。//
 (5)1921年2月頃までには、元々いた海兵たちのある程度は、新補充兵に代わっていた。
 最近に加わった者たちはおそらくより熱心でなく、より職業的でなかったけれども、以前と同様に暴力を好む傾向と権威に対する敵意をもっていた。たぶん、いく分かは別の理由からだったが。(5)
 かつてボルシェヴィキの力の淵源だった者たちが、今では脅威だった。しかし、忠誠心をもつ前衛部隊だという神話は、放棄されていなかった。
 党は、クロンシュタットの反乱を白軍の反革命陰謀の傀儡だと非難した。-これは、ソヴィエトの時代を通じて、公式の解釈であり続けた。(6)
 十月以後の他の反乱の場合と同様に、反乱兵士には旧体制を復活させようとする意図は実際になかった。
 今度は、革命の名において、彼らは戦時共産主義と関連する諸政策に異議を唱えた。-強制労働、徴発、多数の者が食料について依存している小規模取引の抑圧、村落からの略奪。
 彼らは不平等の復活に憤激した。-食糧配給量は地位によって異なり、新体制の役人たちが特権を享受していた。
 「共産党(共産主義者)」を彼らが非難するとき、それは反動的白軍に取り憑かれたのが理由ではなかった。
 彼らはこのときにはボルシェヴィキを、かつて歓迎したのと同じ理由で、拒否したのであり、革命的でなくなったのが理由ではなかった。(7)//
 (6)ある者には、まるで1917年二月が再び「空中にある(in the air)」ように見えた。(8)
 1917年2月のように、抽象的な原理ではなく、飢えと貧困が、示威行進者を極端へと走らせた。
 1921年初めには、体制に対する民衆の抵抗が、ロシアの中核部全体に蔓延していた。
 都市部、すなわちボルシェヴィキを支持する中心部で、食糧が稀少になり、工場は燃料と原資材不足で閉鎖し、労働者は街頭へと出た。-飢餓が迫っていた。
 1月下旬、当局は食料配給量を削減した。(9) 
 ペトログラード連隊ですら、食糧が不足した。兵士たちは、飢えで気を失っていると言われた。
 ある者は、物乞いに出かけた。
 モスクワの兵士と労働者たちも、不安だった。彼らは、相次いで集会に集まった。(10)//
 (7)2月11日、体制は、ほとんど100のペトログラードの工場を近く閉鎖する、と発表した。その中には、プティロフ(Putilov)作業場、セストロレツク(Sestroretsk)武器工場、巨大なレンガ造りのTreugolnik 地区のような、急進派運動の温床だったところもあった。総計で2万7000人の労働者が、仕事を失うことになる。
 10日後のトルボシニュイ(Trubochnui)・プラントでの集会から、抗議運動が始まった。この集会は、非ボルシェヴィキ左翼反対派の標語である、純粋な民衆支配(<narodovlastie>)を支持することを宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、その集会を中止させた。
 工場から閉め出されることにより、労働者たちは賃金だけではなく、食料配給も失った。
 2月24日、街頭はトルボシニュイその他の工場から来た労働者で埋め尽くされ、ヴァシリェフスキ(Vasilevskii)島の工業地区では2万5000人に膨れ上がった。(11)//
 (8)ペトログラード当局は、緊急防衛委員会を設立し、戒厳令を敷いた。(12)
 2月27日、バルト艦隊の人民委員は、2万6000のクロンシュタットの海兵たちの中にある騒乱について報告した。(13)
 その翌日、運動は戦闘的なプティロフ作業場へと拡がった。従前の規模からすると影のようなものだが、なおも6000人の強さがあつた。
 抗議者たちは、工場からの共産主義者〔共産党・ボルシェヴィキ〕軍団の撤退、過剰人員の廃止、政治的権利の回復、を要求した。(14)//
 (9)こうした政治的要求は、メンシェヴィキと社会革命党の煽動活動家の影響を反映していたかもしれない。彼らは工場に、ビラを撒いてきていた。
 社会革命党〔エスエル〕は、反乱(revolt)を呼びかけていた。一方、メンシェヴィキは、忠誠心ある反対派のままだった。
 彼らは政策の変更を求めたのであり、この騒擾の時期が1917年の再演だとは考えていなかった。
 今では労働者は疲れ、組織から離れ、数自体が減っていた。
 彼らは、政治的理想ではなく、肉体的な生存を気にかけた。
 工場が燃料や原資材の不足で閉鎖される場合に、作業が止まるのは何ら脅威ではなかった。
 当局はある程度の譲歩を行い(特別の配給、糧食探しの許可、食糧没収の中止)、メンシェヴィキ中央委員会の委員を逮捕した。(15)
 3月3日頃までに、抗議運動は消滅した。//
 (10)F・ダンは、自分自身が逮捕された状況を思い出した。
 2月26日、抗議運動が始まったばかりのとき、彼はマリインスキ劇場へ行った。そこで、有名なバス歌手のF・シャリアピン(Feodor Chaliapin)がニコライ・リムスキ=コルサコフのオペラ<プスコフの娘>で歌うのを聴くためだった。
 つぎの細部が、語られている。
 ダンはそのようなときでも、劇場に関心があった。入場券はもう売られていなかった。だが、諸関係を通じて入手することができた。上演は早めに終わった。
 家に帰っているとき、夜の10時に、チェカの機関員に迎えられた。
 「シャリアピンが歌うのを楽しく聴くことのできる最後となった運命に感謝」したのだったが、ダンは、暗くて誰もいない街路を通って連れ去られた。(16)//
 (11)かつては帝制秘密警察のオフラーナ(Okhrana)が所在した建物、ダン自身が社会民主党の運動の初期だった25年前に拘禁された建物の中で、彼は服の上から調べられ、衣服を脱がされ、尋問を受けた。
 彼の捕獲者たちは冷酷な職業官ではなかったが、教育をほとんど受けていない者たちで、自分たちの新しい権力に誇りをもち、臆面もなく党のスローガンを捲し立てた。
 彼らは、ストライキをする者は社会主義の根本に対する裏切り者だと非難した。
 本当の労働者ならば、自発的に進んで前線へ行くか、または食糧旅団に加わるべきだ、と。
 あいつらは「くずで、利己主義者で、小商人で、戦争中に徴兵を免れようと工場へと逃げ込んだのだ」。(17)
 メンシェヴィキもまた、裏切り者だ。
 ダンは、このような、「プロレタリアートをくずと呼び、社会主義を海兵たちに押しつけてあてにする共産主義者(共産党員)たち」に、絶望した。//
 (12)一年の拘禁のあと、ダンは国から追放され、最終的にはニューヨークに落ち着いた。(18)
 1905年以降ずっと自分は革命の友人だと考えてきたシャリアピンは、1922年に自分の力でロシアを離れ、最後にパリで死んだ。//
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 第1節、終わり。


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2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
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 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
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 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
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 第10節②へとつづく。

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
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 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
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 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

2215/Laura Engelstein のロシア革命通史 (2018年)。

 Laura Engelstein, Russia in Flames: War, Revolution, Civil War, 1914-1921 (2018年).という書物がある。
 著者(ローラ・エンゲルシュタイン)はアメリカの大学のロシア史専門の教授(名誉教授?)。
 書名を訳すのはむつかしいが、燃えるロシア、燃えさかるロシア、炎の中のロシア、炎上するロシア、といつた意味だろう。
 書名よりも、2018年出版のこの書は<ロシア革命>の通史を叙述している、ということが重要だろう。
 巻末に参考文献または参照文献に言及する<Biographic Essay>というのがあって、たんなる文献列挙に終わってはいない。
 ロシア語に習熟しているようで、先にロシア語文献に言及がある。
 そのあと英米語文献に移っている。ドイツ語・フランス語文献は出てこない。
 英米語文献として、個別事件・特定時期・特定主題のものが多数挙げられている。
 <ロシア革命>通史と言えそうなもので、かつ1990年以降の刊行の、ある程度長い単著としては、つぎの4つだけが挙げられている。
 ①Richard Pipes, Russian Revolution(New York, 1990)。
 ②Orlando Figes, A People's Tragedy: Russian Revolution: 1891-1924 (London, 1996)。
 ③Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, 3rd ed.(Oxford, 2008)。
 ④S. A. Smith, The Russian Revolution: An Empire in Crisis, 1890-1928(Oxford, 2017).
 このうち①のパイプス著の一部はこの欄に試訳中で、③のフィツパトリク著は第4版のものを、この欄でいちおう全て、試訳した。
 ②は長く所持だけはして、ときに眺めている。この②の著者はこの欄で言う<レフとスヴェトラーナ>の執筆者でもある。
 ④には、一度か二度この欄で言及したが、まとまった試訳を始めてはいない。
 2017年(ロシア革命100年)という近著のためもあってか、上の書の④への評価は高いようで、「…諸問題と…その解釈に関するおそらく最良の入門書」と記している。
 これら以外の通史ものとして列挙されている単著は、つきの3つで、いずれも戦前のものだ(1997年の編著=複数の者の共著が1つ挙げられているが、単著でないので省略)。
 ①John Reed, Ten Days that Shook the World(1919)。
 ②Leon Trotzky, History of the Russian Revolution(1932)。
 ③William H. Chamberlin, The Russian Revolution, 1917-1921(1935, 再1965)。
 これらの中に、E. H. Carr のものがないのが興味深い。
 今日では、かつてのようには、E. H. Carr の<ロシア革命>本は基本書では全くなくなっている、ということなのだろう。
 **
 ロシア革命といっても-日本の「明治維新」も同様だろうが-、その始期と終期の捉え方は論者、執筆者によって一様ではない。
 ③S・Fitzpatrickはその著で「二月革命」が始期であることには一致があるとたしか書いていたが、<ロシア革命>概念に含まれるか否かを問わず、それ以前から書き起こすことは少なくないだろう。
 L・Engelstein の著は書名に「1914-1921」と付けているので、第一次大戦辺りから始めている。
 ①Richard Pipes の著はのちの別の大著(1994年)の刊行後に「1899-1919」と書名に追記したようで、この記載のとおり、もっと早くから始めている(元々は十月「革命」以前のStruve あたりが彼の最初の研究主題だった)。
 ②Orlando Figesの著も書名の副題に「1891-1924」とあるように、やはり旧帝制時代から始める。
 上に挙げられていないが、岩波書店刊行の邦訳書(2005年)がある、Robert Service, The Russian Revolution 1900-1927(3rd ed., 1999) は(初版は1986)は、書名のとおりで大戦前の1900年辺りからのようだ。
 なお、このRobert Service 著はレーニン・ボルシェヴィキらにまだ寛容だ。岩波が邦訳書を発行するような内容のためか、他のものよりも分量が少ないためか、L. Engelstein がこの著に言及していない理由ははっきりしない。
 終期も上のとおりで、S・Fitzpatrickは1936-37年辺りの「大テロル」までを叙述するが、Richard Pipes の著は別著にかなり譲って、1919年までとしている。したがって、ネップ(新経済政策)は前者・Fitzpatrickの対象に含まれ、後者・ Pipes には含まれない。
 ②・④のOrlando Figes、S. A. Smith の著もN.E.Pも含めて、前者と同じだ。
 1921年の「新経済政策」導入決定からスターリンへの権力移行までを<レーニン時代>とすると、1921-24年あたりまで、従って内戦・戦時共産主義の時代(+対独講和・コミンテルン結成・飢饉)を含めるのが、当欄の執筆者のような者には分かりやすい気もする。
 但し、一般の歴史書ではないが、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第二巻・第三巻(1976、英訳1978)では、ネップ(新経済政策)は<スターリン時代>の最初の方に出てくる。
 以上、この機会に追記しておいた。 
 

2214/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散②。
 (9)ボルシェヴィキは、単純な戦術をとった。
 実質的には立憲会議の正統性を否定する決議によって、会議に対決しようとする。
 ほとんど確実にそれがうまく行かなければ、退出する。そして、正式には解体することなく、立憲会議がそれ以上議事を進めるのを不可能にする。
 クロンシュタット選出のボルシェヴィキ軍人、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)は、この戦術に従って、動議を提出した。
 「勤労被搾取大衆の権利の宣言」と呼ばれたが、1789年の先例とは違って、権利よりも義務について多くを語るものだった。
 ボルシェヴィキが普遍的な労働の義務(obligation)を提示したのは、これだった。
 ロシアは「ソヴェトの共和国」だと宣言される。また、ボルシェヴィキがそれまでに通過させた多数の措置があらためて確認される。とりわけ、土地に関する布令、生産に対する労働者による統制、銀行の国有化。
 立憲会議に求められた重大な条項は、その立法(legislate)する権限を放棄することだった。-この権能のためにこそ、立憲会議は選出されていたのだが。
 こういう文章だ。「立憲会議は、社会主義にもとづく社会の再組織化のための基礎的な原理(fundamental base)を一般的に策定することに、その任務が限定されることを、承認する」。
 立憲会議は、ソヴナルコムが以前に発した全ての布令類を採択し、それらの効力を延長させるものとされた。(125)
 (10)ラスコルニコフの動議は、136対237で却下された。
 この票決が示すのは、ボルシェヴィキ代議員の全員が、そして彼らだけが賛成し、左翼エスエルは保留したと見られることだ。
 この時点でボルシェヴィキ議員団は、会議は「反革命者たち」に支配されていると宣告し、退出した。
 左翼エスエル代議員たちは、当分の間は座席にとどまっていた。//
 (11)レーニンは、午後10時までは彼の「政府席」にいたが、そのときに彼も退出した。
 彼は、いかなる正統性の外装も与えないように、会議に対して発言をしなかった。
 ボルシェヴィキ中央委員会がタウリダ宮の別の部屋で開かれ、立憲会議を解散する決議が採択された。
 しかしながら、左翼エスエルに敬意を表して、レーニンは、タウリダ宮護衛兵に対して、暴力を行使しないよう指令した。
 タウリダ宮から離れようとする代議員たちは全員が立ち去らされ、戻ってくるのを許されなかった。(126)
 午前2時、状況が統制されていることに満足して、レーニンはスモルニュイに帰った。//
 (12)ボルシェヴィキが立ち去ったあと、タウリダ宮には際限のない発言が飛び交った。それらを中断させたのはしばしば護衛兵たちで、彼らは、バルコニーから降りてきて、ボルシェヴィキが空にした座席を占めていた。
 彼ら護衛兵の多くは、酔っ払っていた。
 何人かの兵士たちは、発言者に銃砲の照準を定めて愉しんでいた。
 午前2時30分、左翼エスエルが退出した。そのときに、安全を保つ責任がある人民委員のP・E・ドゥィベンコは、護衛兵の指揮官である海兵でアナキストのA・G・ジェレズニャコフ(Zhelezniakov)に、会議を閉鎖(close)するよう命令した。
 午前4時少し過ぎ、議長のV・チェルノフが土地の私的所有権の廃棄を宣言しているとき、ジェレズニャコフは舞台の上に昇って、彼の背中を軽く叩いた。(*)
 つづく光景は、議事録につぎのように記録されている。
 「海兵、『護衛兵が疲れているので、今ここにいる者はみな会議ホールを去らなければならない、と指令されました』。
 議長、『どんな指令? 誰からの?』
 海兵、『私はタウリダ宮護衛兵の指揮官です。人民委員から指令を受けました』。
 議長、『立憲会議代議員たちも疲れている。だが、疲労があるからといって、ロシアの全てが待っている法を我々が宣言するのを、中断することはできない』。
 (騒がしい声。『もういい、もういい!』)
 議長、『立憲会議は、実力行使の脅迫のもとでのみ解散することができる』。
 (騒音。)
 議長、『貴方たちは宣言する』。
 (騒がしい声。『チェルノフ、降りろ!』)
 海兵、『会議ホールからただちに立ち退く(vocate)よう、要請します』。」(**)
 (13)このようなやり取りが行われている間に、多数のボルシェヴィキ兵団が群をなして、きわめて威嚇的に、会議ホールに入ってきた。
 チェルノフは何とか、もう20分間、会議を続行しつづけた。そして、その日(1月6日)の午後5時までの延会(adjourn)を宣言した。
 しかし、会議は二度と開かれなかった。午前中にスヴェルドロフが、ボルシェヴィキが提案した立憲会議を解散させる決議を、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕に採択させたからだった。(127)
 その日の<プラウダ>は、つぎの大きな見出しつきで発行された。
 「銀行家、資本家、そして地主、カレーディンとドゥトフ一派、アメリカ・ドルの奴隷たち、裏切り者たち-右翼社会革命党-が、立憲会議で自分たちとその主人-人民の敵-のために全ての権力を要求する。
 土地、平和、(労働者による)統制という人民の要求に口先だけで好意を示しつつ、しかし、彼らは実際には、社会主義権力と革命の首の周りを、縄で縛ろうとしている。
 しかし、労働者、農民、兵士たちは、社会主義の最も邪悪な敵がつくウソの罠に落ち入りはしない。
 社会主義革命と社会主義ソヴェト共和国の名のもとに、彼らは公然たるまたは隠然たる殺し屋どもを全て一掃するだろう。」(128)//
 (14)ボルシェヴィキは従前から、ロシアの民主主義勢力を「資本家」、「地主」および「反革命者」と結びつけてきた。だが、この見出しで、彼らは初めて、外国資本とも連結させた。
 (15)ボルシェヴィキは2日後に彼らの対抗集会を開き、「第三回ソヴェト大会」との名称を付けた。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルで94パーセントの議席を占めたのだから、この名称に反対することのできる者はいなかっただろう。(129) この割合は、立憲会議選挙の結果で判断すれば、しかるべき資格者数よりも3倍の人数にあたる。
 残り僅かは、左翼反対派に割り当てた。-悪態をついて馬鹿にするにはちょうどよい数だった。
 その会議は予定通りに、政府代理人が提出した全ての議案を採択した。その中には、「権利の宣言」もあった。
 ロシアは、「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」として知られる、「ソヴェト共和国連邦」になった。この名称は1924年まで維持されたが、その年に「ソヴェト社会主義共和国同盟」と改称された。
 会議はソヴナルコムを国の正統な政府として承認し、その名前から「臨時の」という形容詞を削除した。
 また、普遍的な労働の義務という基本的考え方(principle)も是認した。//
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 (125) Dekrety, I, p.321-3.
 (126) Lenin, Khronika, V, p.180-1.; Malcevskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.217.
 (*) ジェレズニャコフは前年にPeter Dunomovo 邸を占拠し、この人物の逮捕が1917年6月のクロンシュタット海兵たちの反乱を引き起こしていた。
 Revoliutiia, III, p.108.
 (**) I. S. Malchevskii, Vserossiiskoe Uchreditel'noe Sobranie(Moscow-Leningrad, 1930).
 ジェレズニャコフは翌年に、赤軍と戦闘をして、殺された。
 (127) Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.384-6.
 (128) Pravda, No. 4/232(1918年1月6日/19日), p.1.
 (129) NV, No. 7(1918年1月12日/25日), p.3. in Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.389.
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 第8節、終わり。次節の目次上の表題は、<影響と意義>。

2213/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
 (1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
 社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
 「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
 代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
 タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
 近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
 彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
 舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
 誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
 「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
 機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
 タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
 武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
 左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
 監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
 至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
 彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
 武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
 (2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
 レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
 会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
 ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
 「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
 顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
 じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
 (3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
 示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
 しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
 示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
 社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
 (4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
 正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
 タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
 (5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
 兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
 ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
 (6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
 弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
 示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
 「立憲会議、万歳!」
 このとき、兵団の火が噴いた。
 何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
 しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
 Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
 そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
 ここで混乱が発生した。
 ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
 ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
 もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
 (7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
 暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
 それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
 このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
 犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
 労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
 「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
 ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
 (8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
 選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
 開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
 通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
 この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
 「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
 『同志たち、もう午後4時だ。
 最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
 (左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
 左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
 立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
 ミハイロフ、鐘を鳴らす。
 (左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
 騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
 ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
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 (116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
 (117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
 (118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
 (119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
 (120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
 (121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
 (122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
 (123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
 (*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
 ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
 リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
 調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
 (+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
 出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
 同上のp.340では410名とされているようだ。 
 (124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
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 第8節②へとつづく。

2212/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
 (9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
 その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
 そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
 オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
 レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
 オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
 行動は、クリスマスの日に予定された。
 しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
 オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
 彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
 オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
 その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
 レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
 (10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
 立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
 彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
 主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
 (11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
 同党中央委員会は、再び拒絶した。
 中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
 誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
 ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
 危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
 (12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
 同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
 しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
 「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
 『同志よ、我々を愚弄しているのか?
 貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
 では、ボルシェヴィキは?
 彼らは小さな子どもたちか?
 ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
 そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
 そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
 兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
 この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
 レーニンが、個人的な指揮を執った。
 (13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
 兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
 その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
 彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
 ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
 これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
 どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
 そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
 しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
 彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
 このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
 (14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
 ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
 この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
 ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
 (15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
 そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
 最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
 (16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
 1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
 同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
 <プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
 「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
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 (108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
 (109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
 (110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
 (111) 同上, p.61.
 (112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
 (113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
 (114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
 (*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
 (*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
 (115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
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 第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
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 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
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 第7節②へとつづく。

2208/レフとスヴェトラーナ13-第4章①。

 レフとスヴェータ、No.13。
 (New York, 2012)

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 第4章①。
 (01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
 この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
 受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
 (02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
 これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
 1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
 「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
 検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
 書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
 おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
 (03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
 彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
 実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
 しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
 検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
 しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
 (04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
 これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
 8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
 収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
 木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
 食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
 そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
 「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
 安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
 外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
 (05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
 「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
 受け取った?」
 レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
 スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
 スヴェータは、その日の午後に書き送った。
 「私もまた、運命論者になりました。
 私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
 でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
 そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
 -<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
 レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
 レフはその夕方にスヴェータに書いた。
 「私にはプレゼントでした。
 この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
 (06) こうして、二人の会話が始まった。
 しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
 スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
 「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
 そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
 でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
 レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
 私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
 (07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
 検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
 どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
 レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
 「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
 だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
 頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
 レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
 営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
 (08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
 友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
 (09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
 スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
 スヴェータは回答した。
 「局留めにする必要は全くありません。
 私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
 のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
 しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
 (10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
 草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
 スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
 彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
 スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
 彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
 「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
 これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
 (11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
 彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
 スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
 これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
 スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
 実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
 「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
 私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
 それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
 心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
 『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
 感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
 彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。 
 「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
 脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
 空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
 魂のすべてが解き放たれる
 兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
 医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
 自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
 これが、心を全て開くためには不可欠だ」
 (12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
 自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
 「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
 工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
 冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
 灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
 まだ他にどうなっているか、知っていますか?
 買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
 私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
 -あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
 (13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
 スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
 彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
 ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
 「今日は、灰色で、一面に曇っています。
 秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
 モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
 全てが、何と遠く感じることでしょうか。
 でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
 そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
 そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
 ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
 これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
 スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
 9月10日に、こう書いた。
 「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
 モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
 人々の数が、多すぎます。
 街路電車では、それは愉快ではありません。
 人々は、苛立っています。
 人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
 メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
 あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
 (14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
 研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
 これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
 スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
 彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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 第4章②につづく。

2207/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
 (11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
 さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
 可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
 (12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
 社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
 選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
 しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
 いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
 いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
 ***〔各1000票単位〕
 ロシア・社会主義諸政党        68.9%
  社会革命党〔エスエル〕   17,943 (40.4%)
  ボルシェヴィキ       10,661 (24.0%)
  メンシェヴィキ        1,144 ( 2.6%)
  左翼エスエル          451 ( 1.0%)
  その他             401 ( 0.9%)
 ロシア・リベラルほか=非社会主義政党  7.5%
  カデツト〔立憲民主党〕    2,088 ( 4.7%)
  その他            1,261 ( 2.8%)
 少数民族諸政党            13.4%
  ウクライナ社会革命党     3,433 ( 7.7%)
  ジョージア・メンシェヴィキ   662 ( 1.5%)
  Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
  Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
  Alash Orda(カザフスタン)  262 ( 0.6%)
  その他             407 ( 0.9%)
 不明              4,543 10.2%
 ***
 ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
 これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
 (13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
 カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
 カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
 彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
 そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
 カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
 選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
 だがこれは、表面的な結論だろう。
 全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
 ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
 ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
 さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
 こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
 結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
 レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
 そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
 勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
 レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
 (14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
 この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
 全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
 ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
 ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
 反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
 レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
 しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
 選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
 ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
 (15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
 いくつかの重要な決定が下された。(92)
 立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
 その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
 本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
 地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
 その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
 海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
 そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
 このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
 (16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
 11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
 (17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
 ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
 それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
 のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
 (18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
 11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
 ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
 立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
 ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
 ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
 ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
 タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
 (18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
 彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
 夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
 その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
 この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
 (19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
 すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
 同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
 11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
 カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
 その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
 これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
 カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
 彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
 このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
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 (83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
 (84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
 (*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
 左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
 (85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
 (86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
 (87) Lenin, PSS, XL, p.7.
 (88) Radkey, Election, p.38.
 (89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
 (90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
 (91) Lenin, PSS, XL, p.10.
 (92) Fraiman, Forpost, p.163.
 (93) Dekrety, I, p.159.
 (94) Revoliutiia, VI, p.187.
 (95) Fraiman, Forpost, p.163.
 (96) Revoliutiia, VI, p.192.
 (97) 同上, p.199.
 (98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
 (99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
 (100) Dekrety, I, p.162.
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 終わり。次節へとつづく。

2206/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙①。
 (1)ボルシェヴィキが民主主義的統制から自由になるためには、もう一つ越えなければならないハードルがあった。すなわち、立憲会議(the Constituent Assembly)。当時のある論者によれば、立憲会議は、喉に「突き刺さった骨のような」ものだった。//
 (2)12月初めまでに、ボルシェヴィキは以下のことに成功した。
 (1) 正統な全ロシア・ソヴェト大会を無力にし、その執行委員会を奪い取る。
 (2) ソヴェトの執行諸機関から立法や上級官僚任命の権限を剥奪する。
 (3) 正統な農民大会を分裂させ、自ら選んだ兵士や海兵で置き代える。
 ボルシェヴィキは、このような破壊的行為を隠して逃げ去ることができなかった。国全体は容易には情報を得られず理解することもできない、そのようなペトログラードの遠く離れた諸組織を操作することに自分たちは打ち込んでいた、という理由では。
 立憲会議は、また一つ別の問題だったのだ。
 全国から選出されてくるこの会議は、ロシアの歴史上初めての真に代表者の集まりになるはずだった。
 開催を妨害したり解散したりすることは最も悪辣なクー・デタであり、全国民の意思に直接に挑戦して、数千万人の権利を剥脱することになるだろう。
 だがしかし、これがなされるまでは、またこれがなされないかぎり、ボルシェヴィキは自分たちは安全だと感じることができなかった。なぜなら、第二回ソヴェト大会の決議にもとづけば、ボルシェヴィキの正統性は立憲会議の是認という条件づきのものだったからだ。-この是認を、立憲会議は確実に拒否するだろう。
 (3)さらに悪いことに、ボルシェヴィキは何度も、立憲会議の招集に関与してきた。
 立憲会議は歴史的にみると社会革命党と一体化したもので、社会革命党はその政治綱領の中心に、これを掲げていた。そして、農民層の支持を獲得しつづけるならば、自分たちが立憲会議で圧倒的な多数派になるだろう、という自信をもっていた。
 社会革命党はこの立憲会議を、ロシアを「勤労者(toilers)」の共和国にするために用いるつもりだった。
 彼らがもっと政治的に明敏だったならば、可能なかぎり早く選挙を実施するよう、臨時政府に圧力を加えただろう。
 しかし、他の者たちと同様に、ぐずぐずと引き延ばした。このことが、立憲会議の擁護者だというふりをボルシェヴィキがする機会を与えることとなった。
 1917年の夏遅くから、ボルシェヴィキは、時が経てば民衆の革命的熱望は冷えるだろうと期待して選挙を故意に遅延させていると、臨時政府を非難した。
 「全ての権力をソヴェトへ!」というスローガンを打ち出すことで、ボルシェヴィキは、ソヴェトだけが立憲会議の開催を保障することができる、と主張した。
 1917年の9月と10月、ボルシェヴィキのプロパガンダは、ソヴェトへの権力移行だけが立憲会議を救出するだろうと、大々的にかつ明確に叫んだ。(75)
 権力を掌握しようと準備していたのだったが、このようなプロパガンダはしばしば、まるでボルシェヴィキの主要な目標は「ブルジョアジー」その他の「反革命」から立憲会議を守ることであるかのごとく聞こえた。
 10月27日、<プラウダ>は読者に対して、こう書いた。
 「新しい革命的権力は、ためらいを許しはしない。すなわち、広範な人民大衆の利益という社会的優越性がある条件のもとで、この権力だけが、この国を立憲会議へと導く力を有している。」(76)
 (4)したがって、レーニンとその党が選挙を実施し、招集し、そして立憲会議の意思に従うと明言していたことに、何ら疑問はあり得ない。
 しかし、この立憲会議はほとんど確実にボルシェヴィキを権力から排除するだろうがゆえに、ボルシェヴィキにはきわめて厄介な問題だった。
 結局は、彼らは勝負の賭けに出て、勝った。そして、立憲会議が廃墟となったこの勝利のあとでようやく、彼らは決して二度と民主主義勢力から挑戦されることはない、という自信を得ることができた。//
 (5)立憲会議を攻撃するにあたって、ボルシェヴィキは、社会民主党の理論に正当化を見出すことができた。
 1903年に採択された社会民主党綱領は、普遍的で平等な直接投票で選出された立法会議(Legislative Assembly)の開催を訴えていた。
 しかし、ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、自由選挙を盲信してはいなかった。
 彼らは革命前には長らく、投票箱は人民の「真の」利益を示す最良の指針であるとは限らない、と主張する心構えだった。
 ロシア社会民主党の創立者であるプレハノフは1903年の第二回党大会で演説して、この問題について若干のことに論及した。のちにボルシェヴィキはこれに依拠して、反対派を嘲弄することになる。
 「全ての民主主義原理は、それ自体の長短について、抽象的にではなく、民主主義の根本原理を呼び起こす諸原理とそれとの関係において、評価されなければならない。<salus populi suprema lex>(人民の安寧が至高の法だ)。
 革命家の言葉に翻訳すると、これの意味は、革命の成功こそが、至高の法だ、ということになる。
 そして、革命のためにあれこれの民主主義原理による行動を制限する一時的な必要が生じたとすれば、制限しないのは犯罪的だ。
 個人的見解としては、普通選挙の原理ですら、民主主義に関する上述の基本的な観点から評価しなければならない、と言うべきだろう。 
 仮定としては、我々社会民主主義者が普通選挙に反対する状況を想定することはできる。<中略>
 革命的熱狂の嵐の中で人民がきわめて良い議会を選出するならば、…、我々はそれを永続的な議会にしようとすべきだ。
 そして、選挙が非革命的だということが分かれば、我々はそれを解散しようとすべきだ。二年以内にではなく、可能ならば、二週間以内に。」(*)
 レーニンはこのような感覚を共有しており、1918年には、明らかに気に入って、これを引用することになる。
 (6)臨時政府は、立憲会議選挙の予定を1917年11月12日と定めていた。その日はたまたま、臨時政府が権力から陥落した2週間後のことだった。
 ボルシェヴィキは最初はこの日程をそのまま維持するかどうかを躊躇したが、最終的にはそのように決定し、その趣旨の布令を発した。(78)
 しかし、つぎは何をするのか?
 ボルシェヴィキ内部でこの問題を議論する一方で、彼らは、対抗派たちの運動能力に干渉した。
 これはおそらく、プレス布令や軍事革命委員会が発したペトログラードを包囲された状態におく命令の背後にある、主要な意図だった。その条項の一つは、屋外での集会を禁止していた。(79)
 (7)ペトログラードでは、立憲会議選挙の投票は11月12日に始まり、3日間つづいた。
 モスクワでは11月19日~21日に、投票が実施された。
 残りの地方では、11月の後半だった。
 臨時政府が定めていた規準によれば、有権者は、20歳以上の男女市民だった。
 投票は、敵が占領している地域-すなわち、ポーランドと西側および北西の前線地帯-を除いて、かつてはロシア帝国だった全土で行われた。
 中央アジアでは、投票結果が算出されなかった。
 同様の間違いが、若干の遠方の地域で発生した。
 投票者数は、印象的な数字であることが分かった。
 ペトログラードとモスクワでは、有権者のおよそ70パーセントが投票所へ行き、いくつかの農村地域では、投票率が100パーセントに達した。農民たちはしばしば、単一の候補者名簿のために、通常は社会革命党に、一団となって投票した。
 最も信頼できる計算によると、総計4440万票が投じられた。
 観察者はあちこちで、少数の不正行為に気づいた。即時講和の公約のためにボルシェヴィキを支持する連隊兵士たちが、ときどきは他政党の候補者たちを脅かしたのだ。
 しかし、全体としては、国民がおかれている困難な条件を考慮するならば、選挙は期待を正当視するものだった。
 選挙を称賛することに関心がなかったレーニンは、12月1日にこう述べた。
 「内戦の縁にある階級闘争とは別個に立憲会議を評価するならば、今のところは、人民の意思を表現する手段としてもっと完全な仕組みを知らない。」(80)
 (8)投票はきわめて複雑だった。多数の細片政党が、ときには他政党と連合して、候補者を擁立していた。状況は地域ごとに異なっていて、とくにウクライナのような境界地帯では複雑になっていた。ウクライナには、ロシア諸政党と並んで、地方少数民族を代表する諸政党があったからだ。
 (9)社会主義政党のなかでボルシェヴィキだけは、公式の政策要綱をもたないままで選挙運動をした。
 ボルシェヴィキは、投票で勝利すると計算しているように見えた。彼らは、①「全ての権力をソヴェトへ」のスローガン、②即時停戦の約束、および③地主所有の土地の没収を中心に、労働者、兵士および農民に対して幅広く訴えた。
 ボルシェヴィキが選挙期間に追求したのは、自分たちを支持する有権者の階級的基盤を、社会革命党の非マルクス主義的言葉を借用すれば「勤労大衆」(the toiling mass)を、拡大することだった。
 したがって、選挙結果を評価するにあたっては、つぎのことにとくに留意しなければならない。すなわち、多数の国民は、あるいはおそらくボルシェヴィキに投票した者たちのほとんどですら、存在しないがゆえに何も知り得なかったボルシェヴィキの政策要綱を是認したのでは全くない、ということだ。ましてや、ボルシェヴィキの公表文書では決して言及されなかった一党独裁というボルシェヴィキの隠された目標(agenda)を是認したのではない。
 是認されたのは、ソヴェトによる統治、戦争の中止、および共同体への再配分のために行う私的土地所有の廃棄だった。これらのいずれの中にも、ボルシェヴィキの究極的な目標は含まれていない。//
 (10)レーニンは、しばらくの間は万が一の希望から、ボルシェヴィキが勝利するに至る程度にまで、左翼エスエルが社会革命党を分裂させるだろうと、勘違いをしていた。(81)
 左翼エスエルが11月にペトログラードで行ったことの強い印象が、この希望にある程度の内実を与えていた。(82)
 しかし、最終的には、根拠のないものだったことが分かった。ボルシェヴィキはとくに都市部や軍隊内で気を吐いたけれども、社会革命党の後を追いかける二番手となった。
 この選挙結果が、立憲会議〔憲法制定会議〕の運命を封じた。
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 (74) Steinberg, Als ich Volkskommissar war, p. 42.
 (75) 例えば、ペトログラード・ソヴェトでのトロツキーの演説を見よ。NZh, No.138/132(1917年9月27)日で報告されている。
 (76) Pravda, No. 170/101(1917年10月27日), p. 1.
 (*) Vtoroi S'ezd RSDSRP: Protokoly(Moscow, 1959), p.181-2.
 トロツキーは1903年に、これに似たことを言った。-「全ての民主主義諸原理は、もっぱら党の利益に従属しなければならない」(M. Vishniak, Bolshevism and Democracy, New York, 1914, p.67.)。
 (77) N. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1957), p. 74.; Lenin, PSS, XXXV, p.185.
 (78) Dekrety, I, p. 25-p. 26.
 (79) Izvestiia, No. 213(1917年11月1日), p. 2.
 (80) Lenin, PSS, XXXV, p.135.
 (81) 同上, XXXIV, p.266.
 (82) Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p.418.
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 試訳者注記。
 上の注(80)部分は、日本語版レーニン全集26巻(大月書店、1958)p.361によると、つぎのとおり。一段落をそのまま書き写す。-<全ロシア中央執行委員会の会議/1917年12月1日(14日)>の第一項「憲法制定会議の問題についての演説」の冒頭。一文ごとに改行。注(81)部分は、日付の特定がないこともあり今のところ探し出せない。
 「階級闘争が内乱に発展した情勢を度外視して、憲法制定会議をとってみるならば、われわれは、いまのところ人民の意志を表明するため、これ以上完全な機関を知らない。
 だが、幻想の世界に住むわけにはいかない。
 憲法制定会議は、内乱の情勢のもとで行動しなければならない。
 内乱を始めたのは、ブルジョア=カレージン派の分子である。」
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 第6節②へとつづく。


2205/R・パイプス・ロシア革命第12章第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第5節・左翼エスエルとの協定と農民大会の破壊。
 (1)レーニンとトロツキーは、政府加入に関する左翼エスエルとの交渉を継続すること、およびメンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕と調整する努力はもうしないことに同意した。これは中央委員会に生じていた危機を緩和するためだった、ということが想起されるだろう(既述)。
 彼らはメンシェヴィキ等にかかる後者を、真面目には追求しなかった。
 レーニンには、それら対抗する社会主義諸党と連携するのを受け容れる気持ちは全くなかった。
 しかし、左翼エスエルは、取り込みたかった。
 レーニンは、左翼エスエルの存在価値を知っていた。言葉に酔っていて、大衆の「自発性」という信条をもつがゆえに一致団結した行動をすることのできない、革命的な性急者たちが緩やかに組織した一団。
 左翼エスエルは脅威ではなく、利用すべきものだった。
 内閣に彼らが入っていれば、ボルシェヴィキが政府を独占しているという非難を回避できるだろう。また、「十月-ボルシェヴィキのクー-を受容する」全ての党は歓迎される、という主張が実証されるだろう。
 さらに価値があるのは、左翼エスエルの資質のおかげで、ボルシェヴィキ組織はこれまで接触をもってきていない農民層に入っていくことができる、ということだった。
 農民の代表者がいないままで「労働者と農民」の政府という地位を偽装するのは、馬鹿げていた。左翼エスエルが農民層と関係をもっていることは、彼らの相当大きい資産だったのだ。
 レーニンは、左翼エスエルが立憲会議選挙に際しての農民票を分裂させて、できうればボルシェヴィキとその同盟者たちに多数派を形成させることになる、という壮大な(のちの事態が示したように、非現実的な)希望を抱いていた。//
 (2)両政党は、秘密に交渉した。
 11月18日、<イズベスチア>が-早まっていたことがのちに判ったが-、ソヴナルコム加入について左翼エスエルとの間の合意が成立した、と発表した。
 しかし、会談はさらに3週間つづいた。その過程で両党は、緊密な作業をする関係を確立するに至った。
 今や左翼エスエルは、ボルシェヴィキ勢力に加わり、社会革命党が支配している自立した農民運動を破壊する助けをすることとなつた。//
 (3)ロシア民衆の5分の4を代表する農民代表者大会は、十月のクーを拒絶していた。
 第二回ソヴェト大会には代議員を派遣せず、その代わりに、祖国と革命救済委員会に加入した。
 この反対は、ボルシェヴィキにとつてはきわめて厄介なことだった。
 ボルシェヴィキは農民大会で勝利しなければならず、あるいはそれができないならば、ボルシェヴィキに友好的な別の団体で置き換える必要があった。
 この戦術は、続いてのちに立憲会議や他の民主主義的反ボルシェヴィキの代表団体に関しても繰り返された。そして、三段階を踏むものだった。
 第一には、出席者を決定するその団体の指名委員会(Mandate -)を支配しょうとした。
 これができれば、自由選挙で獲得するだろうよりは多数のボルシェヴィキや親ボルシェヴィキの代議員を送り込むことができる。
 〔第二に、〕ボルシェヴィキ支持者で充ちたこのような団体が、それでもボルシェヴィキが提案する決議を採択しなければ、騒ぎと暴力の脅かしでもって、その団体を混乱させる。
 〔第三に、〕これもまたできなければ、大会を非合法だと宣言し、退出し、自分たちの反対会合を設立する。//
 (4)11月後半に行われる立憲会議選挙が明確に示すことになるように、ボルシェヴィキには、農村地域での支持がなかった。
 このことは、11月末に予定されていた農民代表者大会の見込みを悪くするものだった。その大会では、社会革命党は確実に、ボルシェヴィキ独裁を非難する決議を通過させるだろう。
 これを阻止するためにボルシェヴィキは、左翼エスエルに助けられて、指名委員会を操作しようとした。すなわち、通常は地方と地区のソヴェトごとに選出される大会代議員たちが軍事部隊からの代議員よりも多くなるように、指名委員会に要求させようとした。
 軍隊はすでにソヴェトの兵士部門で代表されているのだから、これには正当性がなかった。
 しかし、指名委員会にいる社会革命党は、ボルシェヴィキを懐柔しようとして、これに同意した。結果として、社会革命党は農民大会を完全には支配することができず、辛うじて過半数を獲得した。
 農民大会に出席する代議員の最終的な人数は、総数789名のうち489名が、農村地帯で選出された善意の(bona fide)農民代表者たちで、294名がボルシェヴィキと左翼エスエルが選んだ制服を着た、ペトログラードとその周辺の連隊の男たちだった。
 党への帰属者数から言うと、社会革命党307名、ボルシェヴィキ91名だった。残りの391名については、明確にされていない。だが、その後の投票結果から判断すると、それらのうち最大の割合を、左翼エスエルが占めていた。(*)//
 (5)だがなお、もう一つ懐柔をする装いとして、社会革命党指導部は、左翼エスエルの指導者であるM・スピリドノーワ(Maria Spiridonova)を大会の議長とすることに、同意した。
 農民たちは実際に、革命前のテロリストたる偉業によって彼女を偶像視していたけれども、ボルシェヴィキが直情的なスピリドノーワを完全に操っていたために、これは全く考えの足りない譲歩だった。
 (6)11月26日、ペトログラード市議会のアレクサンダー大広間で、第二回農民代議員大会が開かれた。
 ボルシェヴィキ代議員たちは最初から、左翼エスエルの応援を受けて、破壊をする戦術を採った。野次り、鋭く叫び、反対党派の演説者を大声を上げて黙らせた。
 しばらくの間は、彼らが演壇を物理的に占拠した。
 こうした妨害によって、スピリドノーワは休会宣告をすることを余儀なくされた。//
 (7)重大な会議が、12月2日に行われた。
 その日、社会革命党の演説者は、立憲会議代議員たちの逮捕や嫌がらせに抗議した。立憲会議の代議員たちのある程度は、農民大会に選出された代議員でもあった。
 こうした演説の一つが行われている間に、レーニンが姿を現した。
 レーニンを指さして、ある社会革命党員がボルシェヴィキに対して叫んだ。
 「きみたちがロシアを連れて行こうとしているのは、レーニンがニコライに取って代わるという国家だ。
 我々は、僭政的な権力を必要としない。
 我々に必要なのは、『ソヴェトによる支配だ』!」
 レーニンは、国家の長としての資格で演説することを求めた。だが、誰もレーニンを選出していないのだから、ボルシェヴィキ党の長としてフロアにおれるにすぎない、と言われた。
 彼は挨拶して立憲会議を中傷し、その代議員に対するボルシェヴィキによる嫌がらせという抗議を斥けた。
 しかしながら、定足数の400名の代議員がペトログラードに集合すれば立憲会議が開催される、と約束した。//
 (8)レーニンが去ったとき、チェルノフが、立憲会議の権威を承認することはソヴェトを拒絶することと同じだ、というボルシェヴィキの主張を拒否する決議を下すよう、動議を提出した。
 「大会は、つぎのように考える。
 労働者、兵士および農民の代表ソヴェトは、大衆をイデオロギー的かつ政治的に指導するものとして、革命の強い戦闘力でなければならず、農民および労働者による征圧を監視して護衛しなければならない。
 立憲会議は、それがもつ立法的権能でもって、ソヴェトに表現されている大衆の要求を、現実のものに変えなければならない。
 よって、ソヴェトと立憲会議を相互に対抗させようとする、個別グループの試みに、断固として抗議する。」(+)
 (9)ボルシェヴィキと左翼エスエルは、反対動議を提出して、立憲会議は議員特権(parliamentary immunity)を享有していないという理由で、カデットやその他の立憲会議代議員に対するボルシェヴィキの措置を承認するよう大会に求めた。(69)
 (10)チェルノフが提案した決議は、360対321で通過した。
 ボルシェヴィキは議長のスピリドノーワに対して、この票決を無視するよう説得した。
 翌日に彼女は、この票決は拘束力がなく、たんに票決のための「基礎」にすぎない、と宣言した。
 この問題がこう処理される前に、トロツキーが姿を見せて、ブレスク=リトフスクでの講和交渉の進展について報告したいと、出席者たちに求めた。
 これに反対する動議が歓迎され、それに応じてトロツキーは立ち去り、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員がつづいた。//
 (11)翌日の12月4日、ボルシェヴィキと左翼エスエルはアレクサンダー大広間に戻ってきて、再び破壊工作を始めた。
 騒ぎ声で、演説者の声は聞き取れなかった。この事態に反応して、社会革命党とその支持者たちは、「マルセイエーズ」を歌いながら、退出した。
 彼らは、農民大会の中央執行委員会が所在するFontanka の農業博物館で協議を行った。
 このときから、大会の「右翼」と「左翼」が分裂した。
 ボルシェヴィキが立憲会議の12月2日の票決の有効性を承認するのを拒んだために、再統一の試みは失敗した。
 12月6日、ボルシェヴィキ党と左翼エスエルは、市議会での会議が農民ソヴェトの唯一の合法的代表者だと宣言した。実際には、そこには農民ソヴェトの代議員たちはいなかったのだけれども。
 彼らは、農民大会中央執行委員会の全ての権能を否定し、中央執行委員会から技術的用具や人員を奪い取り、政府による農民大会代議員への日当の支払いを停止した。
 ついに12月8日、ボルシェヴィキと左翼エスエルの残留派会議は、ボルシェヴィキが支配する全ロシア〔農民大会〕中央執行委員会と同一視されるものになった。//
 (12)たしかに、ボルシェヴィキは農民大会を奪い取った。先ずは、自分たちが選んだ、農民でない代議員を送り込むことによって。次には、その代議員たちが農民層の正統な唯一の代表者だと宣言することによって。
 ボルシェヴィキは、左翼エスエルの協力なくしては、これを達成できなかっただろう。
 このような貢献、および予想される一層の貢献の褒賞として、ボルシェヴィキは、左翼エスエルを年下の同僚として政府に加入させるに際して、大きな譲歩を行った。//
 (13)両政党は、一緒に農民大会を破壊した直後の12月9-10日の夜に、合意に達した。(70)
 合意内容は一度も公表されなかった。そのため、のちに起こった事態から再構成されなければならない。
 左翼エスエルは、いくつかの条件を提示した。①プレス布令を解除(lift)すること、②政府に他の社会主義諸党を加えること、③チェカの廃止、④立憲会議のすみやかな招集。
 第一の要求について、ボルシェヴィキは、公式にプレス布令を廃止することなく、全ての敵対新聞紙の発行を許容することで、事実上はこれを認めた。
 第二の問題について、レーニンは宥和的だった。すなわち、左翼エスエルの例に他の社会主義諸党も倣つて十月の革命を承認することををたんに求めた。
 どの党もそうする気がなかったために、この譲歩はレーニンには、何の苦痛でもなかった。
 チェカについては、ボルシェヴィキは頑固だった。形式的に廃止しようとも、その権限を制限しようともしなかった-反革命が存在するために、そんな贅沢はできない-。
 しかし、左翼エスエルは、不必要なテロルが行われないという満足感を得るため、代表者をチェカに送り込むことができた。
 立憲会議については、しぶしぶながら、左翼エスエルの要求を受け入れた。
 ボルシェヴィキに立憲会議選挙を取消すという考えを放棄させ、立憲会議の開催を、短期間だけにしても、認めさせたのは左翼エスエルだ、というのは、事実上確実なことだ。
 トロツキーは、レーニンがこう言ったのを憶えている。
 「もちろん、立憲会議は解散させなければならない。だが、左翼エスエルについてはどうすべきだったのかね?」。(71)
 (14)このような妥協を基礎にして、左翼エスエルはソヴナルコムに加わった。5名の閣僚が与えられた。農業、司法、郵便通信、内務、および地方自治。
 また、チェカを含めて、他の国家組織のより下層の官署に入ることも認められた。左翼エスエルのA・ドミトリエフスキ(Aleksandrovich Dmitrievski)(アレクサンドロヴィチ)が、チェカの副長官となった。
 左翼エスエルは、このような配置に満足した。彼らは、ボルシェヴィキを少し短気だと思っていたとしても、ボルシェヴィキが好きで、その目標を是認した。
 左翼エスエルのV・ A・カレーリン(Karelin)は、「ボルシェヴィキの過剰な熱望を緩和させる調整者」だと自らの党を定義した。(72)//
 (15)ボルシェヴィキと左翼エスエルの共同行動による農民大会の分解は、ロシアの自立的農民組織の終焉を意味した。
 1918年1月半ば、ボルシェヴィキ=左翼エスエルの自称農民大会執行委員会は、完全な統制のもとで、農民代議員大会を招集した。
 それに合わせて、労働者兵士代議員ソヴェトの第三回大会を行うことが予定されていた。
 ここでこそ、これまでは別々だった二つの組織が「融合」して、労働者兵士ソヴェトの大会の構成の中に「農民」代議員が加えられた。
 ボルシェヴィキ歴史家によれば、この事態は、「ソヴェトという権威をもつ単一で至高の機関を創立する過程を完成させ」るもので、かつ「労働者兵士代議員の大会とは別に農民大会を活動させるという、右翼社会革命党の政策に終止符を打つ」ものだった。(73)
 しかしながら、つぎのように語る方が、より正確だろう。強引な〔二党の〕結合(shotgun marriage)が農民の自立的統治を終わらせ、農民層の権利剥奪(disenfranchisement)の過程を完成させたのだ。//
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 (*) DN, No.222(1917年12月2日), p.3.
 この大会の議事次第は、公刊されていない。社会革命党の日刊紙のDelo naroda, 1917年12月13日/第20号に、手続の完全な説明が掲載されており、以下の叙述がはこれをもとにしている。
 (+) DN, No.223(1917年12月3日/16日), p.3.
 共産主義者の革命編年史(Revoliutsiia, VI, p. 258)は、社会革命党はソヴェトから権力を奪い取って立憲会議に渡そうと主張したと書いて、この決議の意味を歪曲している。
 社会革命党は実際には、立憲会議とソヴェトが協力するのを望んでいた。
 (69) Izvestiia, No. 244(1917年12月6日), p. 6-p. 7.
 (70) 同上, No. 249(1917年12月12日), p. 6.
 (71) Pravda, No. 91(1924年4月28日), p. 3.
 (72) NZh, No. 206/200(1917年12月20日/1918年1月2日).Revoliutsiia, VI, p. 377が引用している。
 (73) Kh. A. Eritsian, Sovety krest'ianskikh deputatov v oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1960), p. 143.
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 第5節、終わり。次節の目次上の表題は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。

 レフとスヴェトラーナ。

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   (1936年)
 ***
 第3章④。
 (30) レフにあてて、スヴェータは書いた。
 「1946年7月12日。(1)
 レヴィ(Levi)、人の行為は結果ではなくて動機で判断されるべきだと私が知らなかったら、私には黙っていたことであなたを責めたでしょう。//
 あなたがこのようには逢いたくないと言ったあの九月を、憶えているでしょう。
 ところが私は、二人に与えられたその週の間、喜んでいました。
 レフ、今でも同じ。それ以外になかったとすると、これが何よりもよかったのです。
 私たちは、ともに29歳です。二人は11年前に出逢い、お互いに5年間も逢わないままでした。
 これらの数字について詳しく話すのは、恐ろしい。でも、レフ、時間は過ぎてゆきます。
 そして私は、もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くすでしょう。//
 レフ、私は逞しくなっています。
 いったい何度、あなたの腕の中に身体をうずめたいと望み、でも前にある空っぽの壁に向き合うしかなかったことでしょうか?
 息ができないと、感じました。
 でも時は経ち、そして気を取り直したことでした。
 レフ、私たちはこの事態を乗り越えるでしょう。//
 大学を卒業すると、あなたに約束しました。そして、その約束を守りました。
 我々は1942年夏に(課程の4年目のあとに)卒業しましたが、その後ほとんど6ヶ月間、移り住みました。-モスクワからアシュハバート、スヴェルドロフスクへと…。//
 『パパ』の研究所(タイア産業科学研究所)の物理工学試験実験室に勤め出してから、まもなく4年になります(1942年の私の誕生日以降)。
 どれだけゴムを避けようとしたことか。でも、やはり戻ってきました。嬉しい?
 私の仕事は、新しくてもっと良い試験方法を考案することです(多くありすぎて一つの手紙で詳細を書くことはできません。だから、ほんの少しずつ書きます)。
 私の上司はとてもいい人ですが、本当の管理者ではなく、私たち二人が、あまりうまくいきませんが、42人の若い女性たちを監督しています。
 研究所に新しい卒業後課程ができ、最初の志望者は-スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ(Svetlana Aleksandrovna)!
 私はものの見事に、試験に合格ました(5月と6月)。大学の誰よりもよい成績で(その主な理由は、私の才能ではなくて科学についての素養です)。…。
 レヴィ、嬉しい?//
 7月1日からの休日に居続けなければなりません。でも、私たちの学術秘書が、雑誌のための論文を手渡すまで、自由にさせてくれないのです。
 どうすれば実行できるかを描写しようと、苦闘しています(ゴムの可塑性と成分に関する実験についてのものです)。
 ママとアリカ〔スヴェータの甥〕は、もう1ヶ月間、別荘に行っています。-やはりイストラ河畔ですが、今度は少しだけモスクワに近い。
 アリカは、もう6歳です。
 読み方を知って、大文字に夢中です。
 ヤラの器用さと才能を、受け継いでいるのでしょう。
 引っ張って、『実験』を始めます。話し方や書き方を喋ります。そしてもう、たくさんの詩を知っています。
 標本箱を作って、カブト虫、ハエ、芋虫を集めています。
 うたを歌います。-きっと、彼の叔母さん譲りです!
 可愛い頭はボタンのように丸くて、髪の毛はブロンド、大きくて黒い瞳、でも虹彩は青色(これも彼の叔母と同じ)。
 ヤラは、前の11月に家に来ました。
 彼については、3年以上何も知っていませんでした。
 そのとき彼は、とてもやつれていました。
 ターニャは軍にいて(1942年5月から)、1943年9月2日に、虫垂炎で病院で死にました。
 いつも、あなたのことを想うように、ターニャのことを考えます。でも、その中身は書けない。
 母も父も、もちろん、年老いました。
 父はいま、ゴム産業省で働いていて、母は家で忙しくしています。-ブルセラ症で、痩せている。…。//
 レヴィ、手紙を書いて、どんな小包を送れるかを知らせて下さい。
 私に可能なら、何が欲しいかも。
 小説、それとも物理の本?
 この手紙ができるだけ早くあなたに届いたら、それだけ早く返事を書けるでしょう。
 これで、終えます。
 ごきげんよう。
  スヴェト(Svet.)」//
 (31) 8月8日木曜日、夕方に仕事の後で郵便物を取りに営舎へ行ったとき、レフは手紙を受け取った。
 封筒に、スヴェータの手書き文字を認めた。
 それを開くと、中に彼女の写真も入っていた。
 レフはその夜、何度も、何度も、手紙を読み返した。
 寝台には行かないで、早足で外を回った。北極圏の白夜が、読めるだけの光を与えてくれた。
 レフが翌朝の5時半に手紙を書き始めたときには、太陽はすでに2時間も地上にあった。//
 「ペチョラ、1946年8月9日。第1番め。
 スヴェータ、スヴェト、いま何を感じているか、想像できますか?
 感じている幸福感がどんなもので、どんなに大きいか、書くことができません。
 8日は、私の人生ではいつも重要な日付です(運命論者になりました。分かる?)。
 手紙類を取りに行ったのですが、手紙を受け取る者たちには少しも嫉妬を感じていませんでした。自分あてのものは何も期待していませんでしたから。
 31日〔7月-試訳者〕にオルガ叔母から手紙を貰い、9月が始まるまでは、他に何も望んでいませんでした。
 そのとき、突然、-私の個人名!
 そして、まるで生きているような、きみの文字!
 3年間、私は何とか、きみの手書き文字で書かれた、紙の小片をきちんと持ち続けていました。-きみについて私が持つ全てでした。
 でも、1944年7月3日にブーヒェンヴァルトで全部調べ上げられて、没収されました。
 きみがまだ生きていて、もう一度二人は逢えるという希望をもって生活しました。
 しかし、きみの最後の誕生日、取調べを受けて辛いときに祝ったその日に、きみに別れの言葉を告げようと観念しました。…。
 もう一度きみと逢えるという望みだけではなく、きみについて何かを知るという望みすら拒んで、生きつづけました。//
 スヴェータ、少しでも想像できるなら、取調べ(interrogation)が実際にどんなものだったか、分かって下さい。
 肉体的苦痛の問題だけではないのです。-苦痛を私は一度も経験しませんでした。そうではなく、魂(soul)のような感じのする問題なのです!
 死よりも悪辣なものがあると、知っていましたか?
 それは、不信(mistrust)です。
 しかし、この点には触れません。
 そう、ともかくも、私はきみに、さよならと告げました。
 しかし、きみなくしては、頑張ることができなかった。
 8ヶ月のち、オーリャ叔母さんに手紙を書きました。-ごく僅かの僥倖を祈って、大した期待もしないで。
 そして、きみのことを尋ねました。
 そうすると、あの馬鹿な1936年7月31日と同じ月日のことでした。かつてのその日、私はボリスコヴォにいたきみに逢いに行く途中で、ほとんど溺れかけてイストラ河から救い上げられたのでした。
 あんな愛情溢れた、暖かい、母性的な手紙を、少しも期待してはいませんでした。
 本当に一通の手紙すら、少しも期待していませんでした。…。
 オーリャ叔母さんは、きみについて全部書いてくれた!
 きみは、-元気だ(alive)!
 そして、きみが彼女を訪れたことも分かる。これが意味しているのは、きみが私の記憶を消し去ろうとは、決心することができていない、ということでしょう。
 それ以上のことのいったい何を、私は望むでしょう!
 ただ私は、きみの人生に干渉しないで、きみの今について知りたいと思っていた。
 そして突然、昨日のことだ。いや、今8月9日の朝6時だから、今日だ。
 私はまだベッドに行っていません。だから、私には今日です。-ともあれ、北極圏には夜はありません。今日、突然に手紙が届きました。
 手書きだというだけでなく、きみが書いた文章だというだけでなく、何と言う言葉だ、何という手紙だ!
 そして、写真も。
 みんな、私のため?
 私のため?
 スヴェトカ(Svetka)、スヴェトカ!、これ以上何も書けません。…。//
 別のことに移りましょう。
 逢うことについて、きみは尋ねている。…。
 スヴェトカ、これはほとんど不可能です。
 58-1(b)は、恐ろしい数字です。〔原書注-刑法典第58条第1項(b)にもとづき、レフは判決を受けた。〕
 これについて、いかなる幻想も持っていません。
 でも、判決を訂正させるよう、できる限りのことをすることを、きみに約束します。//
 自律した生活をやはりきちんと送っていることを知って、嬉しい。スヴェータ!、きみは強くて、たしかな精神(spirit)がある。
 重要な仕事をし、きみが評価されているのも、嬉しい。
 スヴェータ、きみには素晴らしい知性(mind)があって、とても賢い(intelligent)! でも、でも、鼻を引張り上げないで下さい。-無知の者の褒め言葉ですから。
 スヴェータ、スヴェータ、きみが近くにいる。-5年間に何も起きなかったごとくに感じる。今は距離も二人を分かれさせているけれども。2,170キロメートルの距離が。
 私には、きみは実際にかつて同じだと見えます。-何かをほんの少しだけ感じるけれど。写真ではほとんど何も気づかない。心は年老いたときみは言うかもしれない。でも、本当だ。…。//
 本について尋ねている。
 恐ろしくも数年間、本がないのを寂しく思いませんでした。
 本を手に入れるのはとてもむつかしくて、だから、恥ずかしくもほとんど読んでいません。…。
 アフマトーヴァ(Akhmatova)やブロク(Blok)のものを憶えていますか?
 ブーシキンのものが欲しい。そして、君の好みのもの。
 「石の客(Stone Guest)」-Tver 大通りの街頭の下を二人で腕を組んで歩いていたとき、きみが私に少し諳んじてくれたのを思い出します。
 もう一つ、<La Traviata>〔椿姫〕。誰かが口ずさんだり、ラジオから聞こえてきたりすると、感慨なくしてこれを聴くことはできません。…。
 スヴェータ、きみが書くように、二人はこの事態を何とか乗り越えるでしょう。…。
 もう止めなければならない。
 きみの最良の幸運を願って。
 手紙以外は、何も送らないで下さい。手紙、-手紙! …。
  レフ。」
 ----
 第3章、終わり。

2202/レフとスヴェトラーナ11-第3章③。

 レフとスヴェトラーナ。
 ***
 第3章③。
 (23) ペチョラに来てから初めて、レフは、靴と衣類を乾いた状態に保つことができた。
 彼は、一日じゅう、暖かかった。
 攻撃的な監視者に煩わされることもなかった。
 彼の意欲にとっておそらくもっと重要だったのは、蒸気室で仕事をしていないとき、実験室のストレルコフを訪れたことだった。
 そこにストレルコフは30メートル四方の余裕のある居間をこしらえていて、ネコを飼っていた(「ワシリィ・トリフォニュチ(Vasily Trifonych)」)。また、その居間で、楽しい会話、カードやチェスをし、彼が製作したラジオから流れる音楽を聴き、彼が科学用フラスコで醸造したウォッカを飲み、野菜を食べながら友人たちをもてなした。その野菜は、とくにそのために作った木製暖房器で温めた窓際の箱で、栽培したものだった。
 温められた葉の下では、花も生え育っていた。-これを見た木材工場群の長は感情を動かされ、花畑を作るというストレルコフの最も新しい夢を、承認した。//
 (24) レフは、木材乾燥所に移動して、初めて手紙を書く機会を得た。
 手紙を書くのは、以前は不可能だった。
 引揚げチームで働いていた間は、遅くに営舎に戻ったものだ。-彼は、お腹が空いて、汚れていて、濡れていて、そして寒かった。全てに力尽きていて、夕食後照灯が消える前に手紙を書くことのできる状態ではなかった。
 いずれにせよ、用紙も、ペンも持っていなかった。
 しかし、乾燥所で働いた後で、レフには、手紙を書く時間ができた。また、ストレルコフから、手紙を書くのに必要なものを貰った。
 (25) レフは、スヴェータやオルガにはもう手紙を書かないと決めていた。
 スヴェータの最後の誕生日に、彼女と再び逢うことはないと望みを絶った。
 十年の判決とペチョラへの護送によって、絶望感は強くなったに違いなかった。
 5年間知らせがなかった女性に手紙を書くことの意味は、いったい何だったのか?
 その女性は死んでいるかもしれなかった。
 彼のことなど諦めて、誰か別の男と結婚しているかもしれなかった。
 彼女が受刑者から手紙を受け取るのは、厄介なことかもしれなかった。
 レフが最も望まないことは、自分が彼女に接触することによって彼女を危険に晒すことだった。
 レフは、スヴェータの人生には立ち入らない、と考えていた。
 おそらくは、受刑者である長い年月によって生じた無情の感覚の、犠牲者になっていたのだろう。彼は、自分には彼女に愛を求める権利はない、と感じていた。
 (26) いくつかの理由で、その当時に、レフは考えを変えた。
 おそらくは、ストレルコフやその友人たちとの友好的な交際が、レフの精神を再びもち上げたのだ。
 おそらくは、のちに彼自身が説明したように、スヴェータに何が生じているかを知りたいという欲求に、「弱っているときに、屈服した」のだ。
 レフは敢えて、スヴェータに直接には手紙を書かなかった。代わりに、オルガ(「オーリャ」)に手紙を書いて、彼女の安否を尋ねた。
 「1946年6月2日。
 親愛なる叔母さん、オーリャ!//
 このような手紙を受け取るとは、きっと思っていなかったでしょう。
 あなたが元気で生きているのかどうかすら、知っていません。
 この5年間に、たくさんの事が起こりました。
 あなたに手紙を出すのを、どうか許して下さい。でもあなたは、私にはいつも大切な人です。-いま私は、あなたの助けがほしい。
 カーチャ叔母さんにも、手紙を書きたかった。でも、彼女のアパートの住所番号を思い出すことができません。//
 私は、MVDの矯正労働収容所にいます。ここで、10年の判決に服しています。
 1945年に、祖国に対する大逆だとして有罪になりました。
 どのようにして、何が、なぜ-。一回の手紙で書くのは長くなるし、困難でしょう。…。//
 北方の気候のことを考えないとすれば、ここの条件は良いです。
 困難なただ一つは、この5年間、私と親しかった人々、私がいつも愛してきた人々について、何も知ってこなかった、ということです。
 返事を下さるのなら、カーチャ叔母、ヴェラ〔オルガの義妹〕、Mikh. Iv.〔オルガの夫〕について、書いて下さい。
 ニキータはどうしている?、S〔原文ママ-試訳者〕の家族は?
 私については、彼らに何も教えないで下さい。でも、彼らについてあなたが知っていることを、私に書き送って下さい。//
 あなたは元気だと思いたい。
 心から、あなた方の最善をお祈りします。-あなた、カーチャ叔母、Mikh. Iv. そして他の全ての皆さんの。
 この長い年月の間ずっと、いつもあなた方のことを思ってきました。//
 では、ごきげんよう。
 L〔レフ〕・ミシュチェンコ。
 私のアドレス-Komi ASSR、 ペチョラ駅、木材工場群、郵便箱 274/11、L. G. Mishchenko。」
 (27) レフがオルガからの返書を受け取ったのは、7月31日だった。
 それは、彼が離れた世界の人々との、最初の接触になった。
 その手紙は、動転させるほどのものだった。
 (28) オルガが彼に書いていたのは、スヴェータの妹のターニャを含む、戦時中の多数の友人や縁戚者の死だった。
 しかし、彼女はまた、スヴェータが元気で生きていることも、書いていた。
 翌日に、レフはオルガに書き送った。
 「第2信。
 ペチョラ、1946年8月1日。
 親愛なるオルガ叔母さん、昨日、1946年7月31日に、あなたの最初の手紙を受け取りました。
 31日というのは、しばしば、私には楽しい日付になりました。
 〔原書注-レフは、1936年7月31日に、イストラ河で溺れて救われている。〕
 あなたの手紙は、どれだけ私の感情を掻き乱したことでしょう。
 どれだけの幸福を、どれほどの気持ちの温かさを、私に伝えてくれたことでしょう。-表現する言葉が見つかりません。
 あなたからは何も予想していませんでした。今度のような手紙を望むことはできませんでした。
 あなたが生きているのを知って幸せです。でも、体調が良くなくて、一人でいるのを知って悲しい。
 我々の人生には、何と多く、苦しい喪失があるのでしょう。…。
 ターニャのことは、とても痛ましい。
 他のSの家族はみんな元気でいるのは、とても有難いことです。
 Sが生きている、彼女の生活は十分で意味がある、と知ってどれだけ幸せなのか、あなたに表現することができません。
 心の奥底から、彼女の全ての幸せを願っています。
 あなたが彼女と今でも関係があるのは、嬉しい。
 彼女について、あなたが分かることは何でも、書き送って下さい。
 どの研究所で彼女は仕事をしているのか? そして、誰と一緒に?
 彼女の専門は? 博士課程を修了したのか?
 彼女への私の気持ちは、時間と距離が二人を分かちましたが、同じままです。//
 負担をかけたくないので、この手紙は彼女にではなくあなたに書いています。
 私によって面倒がかかることがないよう、過去の想い出と現在私が生きているという想いで彼女の心に影が投げかけられるようなことにならないよう、彼女の生活を静穏なままにさせておいて下さい。」//
 (29) 1946年の初めまで、スヴェータは、レフにもう一度逢うという望みを、全て投げ棄てていた。
 他の者たちはみな、戦争から帰ってきていた。そして彼女は、レフは死んだか永遠に行方不明になったと、想定せざるを得なかった。
 長い年月、彼女は「眠れなかった」、「食べようとしなかった」、そして、「彼女の両親を絶望に追い立てた」。
 スヴェータはレフに、「一言でいいから、と切望した」。
 そうならば、「全てが変わっていたでしょう」。
 しかし、時が経つにつれて、彼女はますます落胆し、希望を失った。
 そしてそのとき、オルガから聞いた。//
 すぐに、レフにあてて、スヴェータは書いた。
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 第3章④につづく。

2201/レフとスヴェトラーナ10-第3章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 ***
 第3章②。
 (16) レフは、木を河岸から木材工場群まで引き摺り上げる、一般労働チームに配属された。
 その仕事の意味は、重い材木を、丸太コンベヤにまで引き摺り上げることだった。そのコンベヤには巻き揚げ機と鋼索がついていて、材木の丸太が製材所(saw-mill)まで引き揚げられた。
 仕事はきつくて、一度に数時間も、凍えるような水の中に立ち続けた。
 夜のあいだずっと明るい夏には、たくさんの蚊が我慢できないものだった。
 仕事に出かける前に、受刑者たちは、手と顔を僅かばかりの布で覆った。//
 (17) チームの他の者たちと同様に、レフは、標準服を受け取っていた。耳垂れの付いた帽子、綿入りのエンドウ豆色の上衣、重い綿入りズボン、上衣と同じ素材で作られた手袋、冬季用の靴。
 靴には、毛皮もなく、裏張りもなかった。また、湿っぽくて風通しの悪い営舎では、乾かす手段がなかった。そのために、彼の足はいつも湿っていた。//
 (18) 夜明け前に、24時間交替制が始まった。
 受刑者たちは、割り当て分を達成すれば、一日あたり600グラムのパンという糧食を受け取った。達成しなければ、わずか400グラムだった。
レフが毎日の割り当て量を達成するには、最低で60立方メートルの材木(小さな車庫を充たす量)を河から木材工場群まで引き揚げなればならなかった。
 もし彼がこの割り当て量を超えて労働すれば、800グラムのパンが貰え、そしてボーナスとして、詰め物入りのライ麦パイが貰えた。彼が思い出すに、詰め物は特別の味がなく、また少しも詰め物に値するものではなかった。
 受刑者たちには毎朝、一椀のポリッジ(粥)、一杯の茶、15グラムの角砂糖(これは注意深く測られた)、および一片のニシンが与えられた。
 昼食では、通常はわずかに肉または魚が中に入っている一椀のキャベツ・スープ、別の一椀のポリッジ(粥)、より多い茶を受け取った。
 これらは、木材引き揚げチームの者たちの身体を長く維持するには、十分でなかった。
 病気や死亡の割合は、きわめて高かった。
 1945-46年に、収容所の1600人の受刑者の三分の一以上が、病気で診療所、つまり木材工場群の主要な受刑者地区の外にある分離された建物、にいた。そこには当時、ただ一人の医師しかいなかった。
 墓地掘りチームで当時働いていたある受刑者によると、彼らは毎日、一ダースの受刑者たちを、診療所の後ろにある墓地に埋葬していた。
 引揚げチームの労働条件は非人間的だったので、監視兵のうちの何人かは不安になった。
 ある者は木材工場群の党会議で、「我々は、彼らが生きているかどうかを気にかけているようには思えない」、と愚痴をこぼした。
 「我々は、病気になるまで、彼らを凍えんばかりの水の中に立たせている。そして、彼らがもう働けなくなれば、診療所で死なせている」。
 (19) 引揚げチームで三ヶ月経って、レフの身体は疲労困憊した。
 精神的にも壊れてしまった。
 テレツキーはのちに、初めてを見たときレフは、「トラクターにひかれた農民のように見えた」と語った。
 10年前にイストラ河に飛び込んだ元気な少年の痕跡は、何も残っていなかった。//
 (20) テレツキーに励まされて、労働が終わったあとでレフは木材乾燥所に行き、身体を温めることになる。
 産業区域には監視付きの護送車はなかった-受刑者たちは、仕事場まで自分で行くように放っておかれた。したがって、レフが材木コンベアでまたは製材所の近くで働いていると、毎日の最後に第二入植地区へと帰る途中で、乾燥所のそばに止まることのできる時間があった。なお、第二入植地区に入る際は、監視用建物を通って、人数を数えられた。
 レフは、乾燥所を訪れたことによって、殺されそうになる労働から救われた。//
 (21) 乾燥所に付属している研究実験室の長は、G・ストレルコフ(Georgii Strelkov)という名の、内戦を闘った年配ボルシェヴィキで、ソヴィエトの年長の実業家だった。この人物は、1937年に逮捕されるまで、重工業人民委員部の一部署であるクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)のMinusazoloto 金鉱トラストの長だった。
 彼は、シベリアの遠く北東にあるコルィマ(Kolyma)金鉱にいた飢えていく受刑者たちの報告に関心をもって、食糧を載せた二隻の船を派遣した。しかしそれは、NKVDによって妨害され、全ての食糧が奪い去られて、その代わりに新しい受刑者たちが船に乗せられた。
 NKVDは、どれだけ多数の人々が死のうと気にかけず、食糧を無駄にしたとストレルコフを責めた。
 ストレルコフは、「反革命的活動」で訴追された。
 銃殺刑の判決を受けたが、執行は猶予された。そして20年間、ペチョラ労働強制収容所で、手紙をやり取りする権利を奪われたままだった。
 彼の専門技術をペチョラのグラク当局が高く評価したので、彼は木材工場群で実験的な仕事に就くこととなった。但し、25年の判決を受けた受刑者として、困難な手作業に従事しなければならなかった。
 グラク当局は、ストレルコフが営舎ではなく実験室で生活するのを認めた。それは、いくつかの技術的問題や産業区域内のその他の問題を解決するために、彼の存在がばしば必要になったからだった。
 ストレルコフは、標準服ではなく、スーツを着ることすら認められていた。//
 (22) ストレルコフは厳格で頑固だったが、親切でもあった。
 彼の木材工場群での権威のおかげで、彼は引揚げチームで完全に疲労消耗した多数の受刑者たちを、乾燥所または工場へと移すことによって、救うことができた。こうした介入がしばしば、収容所当局との間に悶着をもたらしたのだったとしても。
 ストレルコフは、怖れなかった。
 自分がグラクの幹部たちに必要とされていることを、知っていた。そして、数年間にわたって、彼の意向に沿って何とかシステムを動かそうとした。
 1946年、乾燥所は専門技術をもつ新しい技術者をはなはだしく必要とするようになった。
 高圧蒸気暖房機が十分に速く材木を乾燥させなかったので、設定された目標を達成しようとする工場に、必要な量の材木を供給することができなくなった。そして、内務省または(1946年3月にグラクの運営をNKVDから引き継いだ)MVDからの、業績達成能力を改善せよという圧力が、日増しに強くなった。
 ストレルコフはレフが科学者であることを知って、技術者として乾燥所に加わるようレフを誘った。そして、蒸気室で作業させた。
 レフの仕事は、材木の外皮部分を乾燥する状態にさせることだった。
 蒸気室は最低でも摂氏70度で維持されており、また手と顔を覆って入ったため、一度に数分間以上はそこにとどまることができなかった。
 苛酷な肉体的労働だったが、河から材木を引き揚げるのに比較すると、レにとっては「楽園」だった。//
 ----
 第3章③へとつづく。

2200/レフとスヴェトラーナ09-第3章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 今回の試訳には、適宜省略している部分がある。
 ***
 第3章①。
 (01) 列車による護送は北に向かってゆっくり、ミンスクから、ヴォログダ(Vologda)、コトラス(Kotlas)そしてペチョラ(Pechora)へ、北極圏に近い森林奥深くへとつづいた。レフはペチョラで、長期刑に服することになっていた。
 <中略>
 (02) 受刑者は、一日あたり200グラムのパンと塩漬けの魚類を食事として供された。水はほとんど与えられなかった。
 彼らのうちの多数は、病気になり、渇きで死にすらした。
 死んだ者および死にそうな者は、列車から投げ落とされた。
 <中略>
 (03) コトラスを超えても、列車はゆっくりと走るような速さで進み、新しい死者や瀕死者を投げ棄てるために、頻繁に停止した。
 <中略>
 (04) 三ヶ月の旅をして、レフの護送団は、1946年3月にペチョラに到着した。
 春ではまだなかった。
 北極の暗い冬は、ここよりも北では9ヶ月続いた。
 河はまだ凍ったままで、地上には雪があった。
 <中略>
 (05) 受刑者たちは、通過収容所に連れて行かれた。そこが労働強制収容所への到着地点で、有刺鉄線で囲まれた鉄道駅舎の近くの区域にあった。受刑者用の三つの仮設小屋、分離ブロック(懲戒のため)、墓地が付属している診療所、そして狭い作業場があった。
 男たちはシャワーをかけられ、頭を剃られ、シラミを駆除された。そして、いくつかのグループに分けられた。
 病人(主としてペラグラと壊血病)はまっすぐ診療所へと進み、残りの者には、それぞれの身体的条件に応じて、多様な労働と器具が割り当てられた。
 レフには、木材工場群(wood-combine, <Lesokombinat>)が選ばれた。
 <中略>
 (06) 鉄道はペチョラの何よりも大切なもので、鉄道こそがグラクの設置と入植、北部の経済開拓の鍵だった。
 <中略>
 (07) ソヴィエトはしばらくの間は、河をヴォルクタ(Vorkuta)からの石炭輸送に利用しようと考えていたが、ルートが長く間接的で、またペチョラ河とウスト・ウラ河は一年のうち9ヶ月は凍ったままだった。
 そこで1934年に、ソヴィエトは、レニングラードをコトラス、ウフタ(Ukhta)、ペチョラおよびヴォルクタと結ぶ鉄道の建設に取りかかった。
 1939年までには、労働収容所や小さなグラク入植地が、計画路線の全長に沿って設立されていった。
 その年の統計調査によれば、これら労働収容所や入植地に、13万1930人の受刑者がいた(うち1万8647人は女性)。 
<中略>
 (08) ドイツ軍の侵攻によって、鉄道路線の建設はますます緊急を要するものになった。
 1941年末までにドイツは、ソヴィエト同盟の石炭の55パーセントを生産していたドンバス(Donbass)のほとんどを占領した。1942年には、コーカサスにまで着実に前進して、ソヴィエトの石油供給を脅かした。
 ヴォルクタまでの鉄道建設を完了させることは最優先事項、国の生存にかかわる問題になった。そして、この路線を完成させるよう、グラク〔強制収容所〕の幹部たちには多大な圧力が加えられた。
 1942年ころ、15万7000人の受刑者が休みなく鉄道工事に働いていた。彼らは、暖房のないテントで、あるいは外の凍える温度の中で、寝ていた。
 <中略>
 (09) ペチョラは、この地域の主要な経済的中核として発展していた。
 鉄道とペチョラ河とが交差する場所に位置しており、ペチョラは、グラクの木材加工、鉄道事業、および造船産業の中心だった。
 1937年にグラクの施設が建設され、1946年にレフが来た頃まで、1万の受刑者と自由市民がいる、小さな田舎町だつた。
<中略>
 建物の中にトイレはなかった(労働強制収容所の指揮官の家屋を除く)。
 また、どの家屋にも上水がなく、井戸だけがあった。井戸は、長い冬に水が凍らないように、小さな仮設の建築物で覆われていた。冬の気温は、常時摂氏マイナス45度に落ちた。
 ほとんど店舗はなく、シャンハイ地区に小さな郵便局があった(ウォッカを売った)。//
 (10) レフは、木材工場群の入口門を通って、つぎの10年間の刑務所がある産業区域(industrial zone)に入った。
 それは一つの村落の規模の、大きな長方形の区画で、広さが52ヘクタールあり、高い有刺鉄線付きの塀と探照灯のある監視塔で囲まれていた。
 その区画内にはおよそ50の建物があり、それらは主には、計画なしの成り行きで建設されたように見える臨時の木造建築物だった。
 <中略>
 (11) レフとともに護送された男たちは、鉄道荷積み地帯で人数を数えられた。その荷積み地帯では、木材工場群(家具、プレハブ家屋用分区)の最終製品が列車に荷積みされた。
 そして彼らは、第二入植地区(Colony)または労働旅団(work brigade, <kolonna>)の営舎(barrack)へと進んだ。その営舎は、固有の有刺鉄線の塀と衛兵舎を産業地区内にもつ、特別の部門の中にあった。//
 (12) 第二入植地区には、およそ800人の受刑者を収容する、計10の営舎があった。
 全ての営舎は同一だった。つまり、長い一階建ての木造建築物で、各段に二人を収容する、二列の寝台棚(bunk)が中にあった(グラクの専門用語では、<vagonki>として知られていた。旅客用の寝台列車の棚に似ていたからだ)。
 寝台棚の列の間の通路には、テーブル、ベンチ、そして木をくべる暖房器具があった。
 天井からぶら下がる40ワットの白熱灯が、ぼんやりした黄色の光を放っていた。
 マットレスと枕には、木の切り屑が詰め込められていた。
 レフの営舎は、監視兵が暖房具用の木片を持ち込むのを認めてくれたために、つねに暖かくおれるという利点をもっていた。
 営舎は夜にも鍵がかけられず、受刑者たちは、有刺鉄線に近づかないという条件のもとで(違反すれば射殺されただろう)、自由に行き来することができた(外にトイレがあった)。
 (13) レフは、営舎の一方の端の窓側にある下段の寝台棚に場所を占めた。その営舎は、第二入植地区の最も古い建物だった。
 隣人の一人は、西ウクライナのルヴォフ(Lvov)出身の若い「政治犯」だった。彼は小さくて痩せていて、表情豊かな顔と生き生きとした瞳をもっていて、リュボミール(Liubomir)(または「リュブカ」(Liubka))と呼ばれていた。
 彼は、レフのきわめて貴重な友人になることになる。優れた知性、詩的な感性、英知と繊細さで、大いに親しまれた。
 テレツキー(Terletsky)は、ペチョラにすでに6年おり、レフが入営する際にいろいろと助けてくれた。
 彼は、ソヴィエトがルヴォフに侵攻した直後、18歳だった1939年に逮捕された。
 NKVDの部員が彼の家で、地図、磁石、リュックザックを見つけ(テレツキーは大の散歩好きだった)、それらをドイツ軍のための諜報活動の証拠だとしたのだった。
 自白に追い込まれ、彼は銃殺刑の判決を受けた。
 キエフの刑務所で2ヶ月間、処刑を待っていたが、収容所での10年の重労働に判決が変更された。
<中略>
 (14) レフのとなりの寝台棚にいたのは、A・アニシモフ(Aleksei Anisimov)だった(「リョーサ」(Lyosha))。レフとは同じモスクワ仲間で、モスクワ運送技師研究所の学生だった。
 無口で静かな人物で、レフはとても好きだった。レフは彼のことを「とてもよい仲間」(wonderful fellow)だと、スヴェータ宛の手紙でのちに表現した。
 アニシモフは、1937年に逮捕され、「反ソヴィエト活動」の罪で15年の判決を受けていた。
 第二入植地区の受刑者たちのほとんどは、レフ、テレツキ、アニシモフのような「政治犯」だった。
 多数の者(正確には83人)は、ドイツ占領地域で捕らえられ、ソヴィエト同盟に帰還する途中で「スパイ」または「協力者」だとして逮捕された。または、その地域をソヴィエトが1944-45年に再侵攻した際の大量逮捕によつてこぞって摘発された。//
 (15) 木材工場群の他の入植地区には、異なる範疇の受刑者たちがいた。
 第一入植地区(産業区域の外の別の部門に位置していた)は、「特別追放者」(<spetspereselensky>)、行政指令によってグラクに送られた労働者たち、で構成されていた。そこには1946年に、そうした労働者たちのうち約500人がいた。
 第三入植地区(河のそばにあった)は、一般の犯罪者および制裁すべく選び抜かれたその他の受刑者たちで成っていた。
 <以下略>
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 第3章②へとづく。

2196/R・パイプス・ロシア革命第12章第4節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第4節・人民委員会議(ソヴナルコム)。
 (1)最初の三週間、ソヴナルコムは紙上の存在でしかなかった。その命令を実施するスタッフはおらず、自分たちに支払うべき金もなかったからだ。
 役所に行くことを阻止された人民委員たちは、スモルニュイの第67号室で仕事をした。そこに、レーニンの最高司令部があった。
 暗殺の企てをつねに怖れているレーニンは、その部屋に、人民委員たち以外は誰も入らせなかった。
 彼は稀にしかスモルニュイを離れなかった。スモルニュイで、ラトヴィア人に厳重に護衛されながら、生活し、仕事をした。(*)(62)
 彼がソヴナルコムの事務局長として選んだのは、25歳の、N. P. ゴルブノフ(Gorbunov)だった。
 新しい事務局長は行政経験がなかったが、タイプライターとテーブルを自分のものにして、二本指で二つの布令文を打ち始めた。(63)
 V・ボンチ=ブリュエヴィチは、献身的ボルシェヴィキ党員かつ宗教反対者で、レーニンの私的助手に任じられた。
 これら二人は、書記職員を雇った。
 その年〔1917年〕の終わりまでに、ソヴナルコムには、48人の事務被用者がいた。
 つぎの二ヶ月のうちに、さらに17人増えた。
 1918年10月に撮影された集合写真から判断すると、これらのうち最も高い割合を占めるのは、身だしなみの良い、ブルジョア的な若い女性だ。〔試訳者-原書にはその写真が付いている。〕
 (2)1917年11月15日まで、ソヴナルコムは定期的な会議を開かなかった。ゴルブノフによると、11月3日に一度会議が行われたが、その唯一の議事は、モスクワで戦闘しているノギンから報告を聞くことだった。
 この時期には、発布された布令や命令類は、ボルシェヴィキ活動家の仕事だった。この者たちは、しばしばレーニンと相談することなく、自由に振る舞った。
 ラリンによれば、ソヴナルコムが発した最初の15の布令のうち二つだけが、ソヴナルコムで議論された。プレスに関する布令はルナチャャルスキが起草し、立憲会議選挙に関する布令は、彼自身が用意した。
 ゴルブノフが語るには、レーニンは彼が自分で地方に電信指令を発する権限を与えた。そして、およそ10の電報のうち1つだけをレーニンに見せた。(64)
 (3)ソヴナルコムの最初の定例会議は、20項目の議題付きで、11月15日に開催された。
 人民委員たちは可能なかぎり迅速にスモルニュイから退出すること、それぞれに対応する人民委員部を奪い取ること、が合意された。彼らはこれを、武装派遣隊の助けで、数週間のうちに成し遂げた。
 その11月15日以降、ソヴナルコムはほとんど毎日、通常は夕方に、スモルニュイの三階で、会議をした。ときには、深夜にまで及んだ。
 出席者は大して制限されておらず、多数の下級職員や、必要に応じて呼ばれた非ボルシェヴィキの専門技術者も同席した。
 生まれながらの革命家だった人民委員たちは、ぎこちなさを感じていた。
 メンシェヴィキの森林専門家でときどきソヴナルコムに出席したS・リバーマン(Simon Liberman)は、1918年10月の人民委員会議をつぎのように思い出している。//
 「レーニンが議長をするソヴィエト・ロシアの最高の行政部署の会議には、特有の雰囲気があった。
 各会議に厳粛な閣議たる性格を与えようと事務職員は努力していたが、我々は、地下の革命活動家の別の会議(!)に座っているという感覚を禁じ得なかった。
 長い間、我々は、多様な地下組織の一員だった。
 ここでの全てが、ありふれたものに思えた。
 人民委員の多くは、コートや外套を着ていた。ほとんどが、厳しさを感じさせる皮のジャケットを身に付けていた。
 冬季には、フェルトの靴を履き、厚いセーターを着ている者もいた。
 彼らは会議中ずっと、そのような装いのままだった。//
 人民委員の一人のA・ツリゥパ(Alexander Tsuriupa)は、ほとんどいつも病気だった。
 彼は半分横になって会議に出席していた。脚を、ほとんど椅子の上に伸ばしていた。
 レーニンがしきりと助けても、委員たちは会議用テープルの椅子に簡単に座ることができなかっただろう。部屋じゅうを慌てふためいて、椅子を目ざして突進していた。
 レーニンだけは変わらず、その場の司会役として、テーブルの同じ椅子に座った。
 彼は、手際よくなく、ほとんど礼儀正しくもなく、そのようにした。
 彼の個人的な秘書のフォティエヴァが、レーニンの隣に座った。」(65)
 (4)同僚たちの時間不遵守と冗長な発言にいらいらしたレーニンは、厳格な規則を編み出した。
 雑談を阻止すべく、議事にきちんと執心することを強く要求した。(*)
 人民委員たちが時間どおりに現れるのを確実にすべく、遅刻に対しては制裁金を課した。30分以下なら5ルーブル、それ以上の遅刻なら10ルーブル。(66)
 (5)リバーマンによると、彼が出席したソヴナルコムの会議では、政策方針は一度も決定されず、たんにその実施だけが議論された。
 「原理的な問題に関する議論を、私は聴かなかった。
 議論はつねに、すでにある規準を実行する可能で最良の方法を見出すという問題をめぐって行われていた。
 原理的な問題は、すでに別の場所で決定されていた。-共産党の政治局で。<中略>
 私が知る二つの政府最高機関-労働と防衛の各人民委員会議-は、すでに党内の神聖な機関-政治局-で決定されていた基準を達成するための、実際的方法を議論していた。」(+)
 (6)議題を過大なものにしてしまう些細な問題からソヴナルコムを解放するために、1917年12月18日に、小ソヴナルコムが設置された。
 (7)レーニンの署名によって、通常は人民委員の一人の連署によって、政府の決定は法(law)になった。そして、公式の<Gazette>に掲載された。これが最初に出版されたのは、〔1917年〕10月28日だった。
 そのときに決定は「布令」(decree, <dekret>)たる地位を獲得した。
 人民委員がそれぞれに提案して発する命令は、通常は「決定」(resolutions, <postanovleniia>)と称された。
 しかしながら、理論が必ずや実践によって遵守されるわけではなかった。
 一定の場合には-それは確実に不人気となる法令についてとくに生じたのだが-、レーニンは、CEC によって発せられ、その議長のスヴェルドロフによつて署名されていることを好んだ。
 こうした手続は、ボルシェヴィキに対する非難をソヴェトに転化するという効果をもった。
 いくかの重要な法令は、制定されなかった。-チェカの設立に関する法令のように。
 他の手段-例えば、人質をとるという実務の導入(1918年9月)-は、内務人民委員の名前で制定された。それは、<イズヴェスチア>に掲載された。だが、ソヴィエトの法令や布令の全部がそれに掲載されたわけではなかった。
 やがて、ボルシェヴィキは、非公開の通達(secret circulars)という手段でもって立法(legislate)するという、ツァーリ時代の実務へと逆戻りした。秘密通達はつねに公にされず、その多くは今日まで出版されていないままだ。
 旧体制のもとでのように、政府は、国家安全保障の問題についてはこの手段を最終的には用いた。//
 (8)ボルシェヴィキによる支配が始まった数カ月の間は、布令は、その実際的な効果を目的とするというよりも、プロパガンダを目的として発せられた。(67)
 法令を実施する手段がなく、また新体制がいつまで生き残れるかが不確かなままだったので、レーニンは法令を、将来の世代が革命のやり方を学ぶことのできるモデルだと見なしていた。
 実施されることが期待されていなかったために、初期の布令は、調子において訓戒的であり、用語法において不注意が目立った。
 レーニンは、権力掌握後三ヶ月のちに、ようやくこの問題を深刻だと受け止めた。
 1918年1月30日、彼は、立法の草案は訓練を受けた法律家のいる法務人民委員部の事前審査を受けるように、命じた。(68)
 1918年春以降に発布された法令は相当に綿密なもので、当時は多数の規模でソヴィエトの職務に就いていた、旧体制からの経験ある官僚層のみによって事前審査されているのではない、ということが明らかだ。//
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 (*) J・キープ(John Keep)教授によると、権力をもった最初の18週間-つまりモスクワに首都を移した1918年3月初めまで-、レーニンは、21回しかスモルニュイを離れなかった。Hebrew University, Jerusalem, 1988年1月のロシア革命に関する会議で提示された報告による。
 (62) Lenin, XXXV, p.7.
 (63) N. Gorbunov, in Prauda, No. 255/3,787(1927年11月6/7), p.9.
 (64) 同上.; Larin in NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (65) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 (*) BK, No. 1(1934年), p.107. アメリカ共産党の創設者の一人のJ・ラブストーン(Jay Lovestone)は著者に、かつて一度レーニンと話したとき、自分は3×5インチ・カードを用いた、と語った。レーニンはそのカードの目的を知りたがった。ラブストーンがレーニンの時間を節約するために話したいことをカードに書いておいたと説明すると、3×5インチ・カードを使えるようきちんと学ぶとロシアは共産主義になるだろう、とレーニンは言った。
 (66) D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti, Pt. 1(Moscow, 1963), p.140.
 (+) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 ボルシェヴィキ中央委員会の原決定に次いで、初期のボルシェヴィキの政策に関する最も重要な資料源であるソヴナルコムの詳細な文書は、マルクス=レーニン主義研究所の中央党文書庫(TsPA)に、「Fond 19」という棚の印のもとに、保管されている。
 それを利用できるのは、最も信頼されている共産主義歴史研究者だけだ。
 他の研究者たちは、つぎのようなレーニンの生涯に関する伝記的年代史文献に(きわめて不完全な形で)含まれている、二次的な参考史料に頼らなければならない。
 Institut Marksizma-Leninizma pri TsK KPSS, Vladimir Il'ich Lenin: Biografisheskaia Khronika, 1870-1924, V-XII(Moscow, 1974-82).
 E. B. Genkina, Protokoly Sovnarkoma RSFSR(Moscow, 1982)もさらに見よ。
 (67) L・トロツキー, Moia zhizn', II(Berlin, 1930), p.65.; レーニン, PSS, XXXVIII, p.198. ; Liberman, Building, p.8.
 (68) SUiR, I, No.309, p.296-7.
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 第4節、終わり。次節の目次上の表題は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。

2195/R・パイプス・ロシア革命第12章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第3節・事務就労者たちのストライキ。
 (1)知識人は、全国にわたる<duvan>に参加せず、掏摸たち等が使う「音のする鞄」に注意を逸らされはしない一つのグループだった。
 彼らは、かつてきわめて熱狂的に、二月革命を歓迎した。
 しかし、十月のクーは拒否した。
 何人かの共産主義歴史研究者ですら、学生、教授、作家、芸術家、および反帝制へと誘導したその他の者たちは、ボルシェヴィキによる権力奪取に圧倒的に反対した、と認めるに至っている。
 その研究者の一人は、「ほとんど」の知識人が「妨害行為(sabotage)」をした、と述べる。(47)
 ボルシェヴィキがこの抵抗に打ち勝つには、数カ月にわたる強要と甘言が必要だった。
 知識人たちは、体制が落ち着いて、それを拒否すれば却って事態を悪くするという結論に達した後でようやく、ボルシェヴィキと協力し始めた。
 (2)ロシアの教育を受けた層が十月のクーを拒否していることを最も劇的に表現したのは、事務系(white-collar)の人々による総罷業(ゼネ・スト, general strike, sluzhashchie)だった。
 当時とその後のボルシェヴィキは、この行動は「妨害行為(sabotage)」だとして否定した。しかし、それは実際には、国の公務員や民間企業の就労者が民主主義の破壊に反対する、巨大で非暴力的な抗議運動だった。(48)
 ボルシェヴィキに人気のなさを知らしめ、統治するのを不可能にさせるのを意図したストライキが、自発的に勃発した。
 そのストライキはすぐに、組織的な構造を形成し始めた。まず初めは、各省庁、国有銀行その他の公的組織のストライキ委員会の形態をとり、次いで祖国と革命の救済委員会(Komitet Spaseniia Rodiny i Revoliutsii)と呼ばれる組織となった。
 この委員会は最初は、都市や町の議会(Duma)の職員、ボルシェヴィキが解散させたソヴェト中央執行委員会の委員たち、全ロシア農民ソヴェトの代表者たち、政府職員組合総同盟、および郵便事業就労者を含むいくつかの労務職員組合で構成された。
 徐々に、左翼エスエルを除くロシアの社会主義諸政党の代表者たちも、これに加わっていった。
 委員会は全国民に対して、強奪者(usurpers)に協力しないこと、民主主義の復活のためにともに闘うことを訴えた。(49)
 〔1917年〕10月28日、委員会はボルシェヴィキに対して、権力を手放すことを要求した。(50)
 (3)10月29日、ペトログラードの政府職員組合総同盟は、この(ストを財政支援すると見られる)委員会と協同して、組合員に対して、業務を止めるよう求めた。
 「ペトログラード政府職員組合総同盟執行委員会は、立憲会議招集の一ヶ月前のボルシェヴィキ一派による権力強奪にかかる問題について全ロシア政府職員組合の代議員と討議したうえで、またこの犯罪的行為がロシアと革命の全成果を破壊せんとしていることを考慮し、かつ祖国と革命救済全ロシア委員会と一致して、つぎのとおり決議する。
 1.政府の全行政部署の業務は、ただちに停止されるべきこと。
 2.軍および国民への食糧供給の問題は、公安秩序維持関係組織の活動の問題とともに、組合総同盟執行委員会との協力のもとで、(祖国と革命)救済委員会によって決定されるものとする。
 3.すでにその業務を停止した行政部署のその行為は、是認される。」(51)
 (4)この訴えは、広範囲の注目を受けた。
 すぐに、ペトログラードの全省庁の業務が止まった。
 伝達員や若干の書記職員を除いて、各省庁の職員たちは、仕事に来なくなったか、やって来ても座って何もしなかった。
 新たに任命されていたボルシェヴィキの人民委員たちは、行き場所がなくて、スモルニュイのレーニンの周りにたたずんだ。そして、誰も注意を払わない命令を発した。
 彼らが担当省庁に入ることは阻止された。
 「10月〔のクー〕初めの後、以前の省庁にやって来た人民委員たちは、山のように積まれた書類やファイルのほか、伝達員、清掃人および門衛の姿だけを見た。
 課長や課員から始まりタイピストや複写担当者まで、全ての職員が、人民委員を認めるのを拒み、仕事から離れることが自分たちの義務だと考えていた。」(52)
 トロツキーは、11月9日-任命されたのち二週間後-に外務省を敢えて訪れたとき、バツの悪い体験をした。
 「昨日、新『大臣』のトロツキーが、外務省にやって来た。
 全職員が集合するよう呼びかけた後で、彼は『私が新しい外務大臣、トロツキーだ』と言った。
 彼は、皮肉な笑いで迎えられた。
 そのことにトロツキーは注意を向けず、仕事に戻るよう職員たちに言った。
 職員たちは去った。…、しかし、自分たちの家へだった。トロツキーが省のトップにとどまっているかぎり、役所には帰って来ないつもりだった。」(53)
 労働人民委員のシュリャプニコフは、自分の省の指揮を執ろうとしたとき、似たような受けとめ方をされた。(54)
 ボルシェヴィキ政府はかくして、権限を掌握した数週間あとで、国の公務員が仕事をするように説得することができない、そのような馬鹿げた状況にいることに気づいた。
 したがって、ボルシェヴィキ政府が機能していたとは、ほとんど言い難い。
 (5)ストライキは、非政府系の組織へも広がった。
 民間銀行は11月1日に早くも入口を閉めており、全ロシア郵便通信従業員同盟は、ボルシェヴィキ政府が連立内閣に道を譲らなければ、業務を停止するよう命令する、との声明を発表した。(55)
 すぐに、電信電話従業員たちが、ペトログラード、モスクワ、および若干の地方都市で、業務をやめた。
 11月2日、ペトログラードの薬剤師たちがストライキに加わった。
 11月7日、水輸送業者たちが、学校の教師たちに追随した。
 11月8日、ペトログラードの印刷業者たちが、かりにボルシェヴィキがプレス布令を実施すれば、やはりストライキをする、と発表した。//
 (6)ボルシェヴィキにとって最も痛かったのは、政府の財務部局、つまり国有銀行と国有財産局の業務が停止したことだった。
 ボルシェヴィキは当面の間は、外務省または労働省の職員がいないままでも何とかやって行けた。しかし、金銭は、持たなければならなかった。
 国有銀行と国有財産局は、ボルシェヴィキは正統な政府ではないという理由で、資金を求めるソヴナルコムの要請を拒否した。
 人民委員の署名付きの小切手をもってスモルニュイから伝達員が派遣されたが、彼らは手ぶらのままで戻って来た。
 銀行と財産局の幹部職員たちは前の臨時政府を承認しており、その代表者にだけ支払いをした。
 彼らはまた、正統な公的組織や軍隊からの要請には応じて支払いをした。
 11月4日、彼らの行動が一般国民の困難をもたらしているとするボルシェヴィキの責任追及に答えて、国有銀行は、その前の一週間に国民と軍隊の需要のために6億1000万ループルを支払った、と宣告した。
 その総額のうち4000万ルーブルは、前の臨時政府に渡っていた。(56)//
 (7)10月30日、ソヴナルコムは国有と民間の全ての銀行に対して、翌日には業務を再開するように命令した。
 政府からの小切手や為替手形の支払いを拒めば、専務理事を逮捕することになる、と警告した。(57)
 この脅かしによって、若干の民間銀行は再開したが、ソヴナルコムが発行した小切手を現金化する銀行はなかっただろう。//
 (8)金が絶対的に必要になって、ボルシェヴィキは苛酷な手段を用いた。
 11月7日、新しい財務人民委員のV. R. メンジンスキー(Menzhinskii)が、武装海兵と一軍団を引き連れて国有銀行に現れた。
 彼は、1000万ルーブルを要求した。
 銀行は、断わった。
 メンジンスキーは、さらに多い兵団と一緒に4日後に姿を見せて、最後通告を発した。現金を20分以内に貰えなければ、国有銀行幹部職員は仕事と地位を失うのみならず、兵役年齢にあるとして徴兵されるだろう。
 しかし、国有銀行は、動じなかった。
 ソヴナルコムは銀行幹部の何人かを馘首した。しかし、政府が責任を引き受けたのち2週間以上の間、現金を手にすることができなかった。//
 (9)11月14日、ペトログラードにある諸銀行の書記従業員たちは、つぎに何をするかの会合をもった。
 国有銀行の従業員は、ソヴナルコムの承認を圧倒的に拒否する票決を行い、ストライキを継続した。
 民間銀行の事務職員たちも、同じ結論を下した。
 国有財産局の職員たちは、142対14の票決を行って、政府の基金をボルシェヴィキが用いるのを拒んだ。彼らもまた、2500万ループルの「短期前渡」の要請を拒絶したのだ。(58)
 (10)このような抵抗に遭遇したボルシェヴィキは、実力行使(force)に訴えた。
 11月17日に、メンジンスキーが国有銀行に再び現れた。伝達人と門衛を除いて、銀行には人けがなかった。
 国有銀行の幹部たちは、武装衛兵によって拘引されていた。
 彼らが金を手渡すのを拒んだとき、武装衛兵たちは金庫を開けるように強いて、メンジンスキーは、そこから500万ルーブルを取り出した。
彼はビロード製鞄でそれを運び、勝ち誇ってレーニンの机の上に置いた。(59)
 こうした活動は全体が、銀行強盗に似ていた。//
 (11)ボルシェヴィキはようやく、国有財産局の現金を利用できるに至った。しかし、逮捕をしていったにもかかわらず、国有銀行職員のストライキは、続いた。
 ほとんど全ての銀行が、業務を止めたままだった。
 ボルシェヴィキ兵団が国有銀行を占拠したが、同銀行は活動しなかった、
 レーニンが1917年12月に、彼の秘密警察、すなわちチェカ(Cheka)を設置したのは、もともとはこの財政担当職員らの抵抗を排除するためだった。//
 (12)当時の調査によると、12月半ばには、外務、教育、法務および供給の各省(人民委員部と改称されている)では業務が静止しており、国有銀行は完全に混乱の中にあった。(60)
 地方諸都市でも、事務系就労者のストライキが起きた。
 11月半ばにモスクワ市庁の職員が、ストを始めた。12月3日には、ペトログラード市の彼らの仲間たちがそれに従った。
 彼らが仕事を中止したことには、共通の目的があった。それは、1905年10月のゼネ・ストを模範として、政府が専制的支配をするのを断念させることだった。
 カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、および若干のその他のレーニンの同僚たちを動かしたのは、この力強い示威運動だった。その他の社会主義諸党と権力を分かち合わなければならない、そうでないと政府は機能することができない、と彼らは考えたのだ。//
 (13)しかしながら、レーニンは、自己の基礎を揺るがすことなく、11月半ばに、反対攻撃をすることを指令した。
 ボルシェヴィキは今や次から次へと、ペトログラードの公的組織の全てを物理的に占拠し、厳しい制裁でもって脅かして、被用者たちが自分たちのために仕事をするように強いた。
 当時の新聞が報告するつぎのような事件が、多くの場所で繰り返された。
 「10月28日(旧暦)、ボルシェヴィキは関税(costoms)関係部署を掌握した。
 占拠した関税部署の指揮官として、ファデネフ(Fadenev)という名の官僚が着任した。
 クリスマス祝日の前夜に、その部署の合同会議に従って、彼は、全員が12月28日に仕事に復帰するよう命令した。登庁しない者は仕事を失い、訴追される可能性がある、と脅かしもした。
 12月28日、その部署の建物は、監察官により占拠された。
 ボルシェヴィキは、「人民委員会議」に完全に服従するとの宣明書に署名する、という意向をもつ職員だけが建物に入るのを許した。」(61)
 関税部署の指揮官は、すぐそのあとで解任され、下級の書記的職員に代わった。
 ボルシェヴィキが中央政府機構を言葉の字義どおりに征圧(conquer)するたびに、同じことが繰り返された。その征圧にはしばしば、早く昇進させるという約束を獲得した若い職員が協力していた。
 ボルシェヴィキは、1918年1月になってようやく、事務系就労者たちのストライキを打ち破った。それは、立憲会議を解散させ、ボルシェヴィキが自発的に譲歩するという望み、あるいは権力を分かち合うという望みすら、全ての希望をボルシェヴィキが断ち切った後でのことだった。//
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 (47) S. A. Fesdiukin, Velikii Oktiabr' i intelligenzia(Moscow, 1972); E. Ignatov in PR, No. 4/75(Moscow, 1928),p.34.
 (48) この事件の物語は、きわめて不適切に隠されている。D. Antoshkin, Professonal'noe dvizhenie sluzhashchikh, 1917-1924 gg.(Moscow, 1927), およびZ. A. Miretskii in A. Anskii, ed., Professional'noe dvizhenie v Petrograde g.: Ocherkib i materialy(Leningrad, 1928), p.231-p.241.を見よ。
 (49) DN, Nos. 191 &192(1917年10月28日); NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.3.
 (50) Revoliutsiia, VI, p.14.
 (51) Volia naroda, No.156(1917年10月29日). Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.225.が引用する。
 (52) VS, No.11(1919年), p.5.
 (53) DN, No. 191 (1917年11月10日), p.3. Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.226.が引用する。
 (54) Protokoly II'go Vserossiskogo S"ezda Kommissarov Truda(1918), p.9 & p.17. M. Dewar, Labour Policy in the USSR(London, 1956), p.17-p.18.
 (55) Revoliutsiia, VI, p.50.
 (56) NZh, No. 178/172(1917年11月11/24), p.3; B. M. Morozov, Sozdanie i ukreplenie sovetskogo gosudarstvennogo apparata(Moscow, 1957),p.52.
 (57) Dekrety, I, p.27-p.28.
 (58) NZh, No. 182/176(1917年11月16/29).
 (59) N. Osinskii in EZh, No.1(1918年11月6日), p.2-p.3. A. M. Gindin, Kak bol'sheviki ovladeki Gosundarstvennym Bankom(Moscow, 1961).も見よ。
 (60) NV, No.6(1917年12月6/18), p.3.
 (61) 同上, No.25(1917年12月30日), p.3.
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 第3節、終わり。第4節の目次上の表題は、<人民委員会議>。第5節は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。第6節は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2193/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節④。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる④。
 (44)このような、またはこれに類似の、とくに経済に関する批判が、ソヴェト大会またはCEC の強い反対派から生じるだろうと予期して、ボルシェヴィキはさらにもう一つの法令を発した。それは、政府とソヴェトの関係の問題に関連していた。
 「法令(laws)の裁可と公布の手続に関して」、その布令は、ソヴナルコムが立法する(legislative)機関として行動する権利を主張した。CEC の権限は、布令(decree)がすでに施行された後で裁可するか廃止するかに、限定される。 
 この布令は、ソヴェト大会がほんの数日前にボルシェヴィキが政府を形成することを権威づけた、その条件を完全に覆すものだった。この布令文書には、レーニンの署名があった。
 しかし、元はメンシェヴィキで9月にレーニン側に移って彼に最も影響を与える経済助言者となったI・ラリンの回想録では、草案を書いてレーニンに知らせることなく自分の権限で発布したのは彼自身だ、と主張されている。また、レーニンは、公式の<官報(Gazette)>で読んで初めて知った、とされている。(36) //
 (45)ラリン=レーニン布令は、立憲会議が招集されるまで効力をもつと主張していた。
 そのときまでは、諸法令は労働者と農民の臨時政府(ソヴナルコム)が立案し、公布される、と宣言されていた。
 ソヴェト中央執行委員会(CEC )は、そのような法令(laws)を遡及して「停止し、変更し、廃止する」権限を維持した。(*)
 ボルシェヴィキは、この布令を根拠として、ボルシェヴィキは、1906年の基本法第87条と同等のものにもとづいて立法(legislate)する権利がある、と主張した。//
 (46)議会という「妨害主義者」から政府を免れされる、この簡素化された手続によって、ゴレムィキン(Goremykin)あるいは旧体制のどの保守的官僚たちも、警戒する気持ちになっただろう。だが、社会主義者たちが「ソヴェト」政権に期待したものでもなかった。
 CEC は、増大する警戒心をもちつつ、このような展開に付いていった。
 ソヴナルコムが行っている、統制がきかない「主人化(bossing)」(<khoziaistvovanie>)による自分の権威への侵害と、その同意がないままでの布令の公布に対して、CEC は異を唱えた。(37)
 (47)この問題は、11月4日の会議の際に頂点に達した。これが、「ソヴェト民主主義」の運命を決めた。
 レーニンとトロツキーは、革命前の帝制時代の大臣たちがそれらの活動の正当性についてドゥーマ〔帝制議会〕からの説明要求に応じていたように、説明するようにCEC に招かれた。
 左翼エスエルは、なぜ政府は第二回ソヴェト大会の意思を何度も侵犯するのかを、知りたかった。その意思によれば、政府は中央執行委員会に対して責任をもつ。
 彼ら左翼エスエルは、布令による統治をやめるよう強く主張した。(38)
 (48)レーニンはこれを、「ブルジョア形式主義」だと見なした。
 彼は長い間、共産主義体制は立法権と執行権をともに結合させなければならない、と考えていた。(39)
 よって、質問がいくらあっても答えることができないし答えようともしなかっただろう。レーニンは、ただちに攻勢に回って、逆襲の空気を醸成した。
 ソヴィエト政府は、「形式的なこと」には拘束され得ない。
 ケレンスキーの怠惰が致命的だったと分かった。
 ケレンスキーの行動に疑問を呈する者は、「議会による妨害主義の弁明者」だった。
 ボルシェヴィキ権力は、「広範な大衆の信頼」に依拠している。(40)
 このいずれも、なぜわずか一週間前に自分が掌握した政府が服すべき条件をレーニンが侵犯しているのか、の説明にはなっていなかった。
 トロツキーは、もう少し実質的な答え方をした。
 ソヴェト議会(ソヴェト大会とその執行委員会の意味)には「ブルジョア」議会とは違って、敵対する階級がない、そのゆえに、「伝統的な議会機構」を必要としない。
 こういう議論が示すのは、階級の差異が存在しなければ見解の違いも存在しない、ということだ。そして、ここから推論することができるのは、見解の違いが意味するのは実際には(ipso facto)「反革命」だ、ということだ。
 トロツキーは続ける。「政府と大衆」は形式的な制度や手続によってではなく、「活力のある、かつ直接的な紐帯」で結びついている。
 ファシストの実務を正当化するために類似の論拠を用いることとなるムッソリーニの先鞭を付けて、彼はこう言った。「我々の布令が穏やかではないのは本当かもしれない。<中略> しかし、活力ある創造性を求める権利は、形式的な完全性よりも優先する」。(41)
 (49)レーニンやトロツキーの見当違いと首尾一貫性のなさにより、CEC の多数派は納得することができなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキですら、動揺しているのを感じた。
 左翼エスエルは、鋭く反応した。V. A. カレーリンはこう述べた。
 「『ブルジョア』という語の濫用には異議がある。
 責任(accountability)と詳細にわたる厳格な秩序は、ブルジョア的政府だけの義務なのではない。
 言葉をもて遊び、過ちを粉飾し、ばらばらの不愉快な言葉に迷い込むのは、やめて貰いたい。
 本質的に人民的であるプロレタリア政権は、自己に対する全ての統制を許容するものでなければならない。
 要するに、ある企業を奪い取った労働者たちも、記帳と会計を廃止するまでには至らない。
 頻繁かつ多数の法的な遺漏があるだけではなくしばしば文法的誤りもある布令を急いでこしらえることは、状況をさらに大きく混乱させる。上から付与されるように法令を受容することに慣れている地方では、とくにそうだ。」(42)
 もう一人の左翼エスエルのP. P. プロシアン(Proshian)は、ボルシェヴィキのプレスに関する布令について、「政治的テロルのシステムを明確かつ決定的に表現するものであり、内戦を誘発するものだ」と、叙述した。(43)//
 (50)ボルシェヴィキは、プレス布令の票決で、簡単に勝利した。
 ラリンが提案したその布令を廃止する動議は、24対34、保留1で敗北した。(*)
 このような是認があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、1918年8月までは、諸新聞を沈黙させることができなかった。その8月に彼らは、全ての自立新聞紙と雑誌を排除したのだ。
 そのときまで、ソヴィエト・ロシアには、驚くべきほど多彩な新聞や雑誌があった。その中には、リベラル志向のものもあり、保守的な方向のものもあった。
 重い罰金が課され、その他の方法のために疲れ切っていたが、何とか生き長らえてきたのだった。
 (51)ソヴナルコムのCEC に対する責任については、まだ重要な問題が残っていた。
 ボルシェヴィキ政府はこの問題については、最初から最後まで、信任投票にかけられた。
 左翼エスエルのV. B. スピロ(Spiro)の動議は、こうだ。
 「人民委員会議長の説明を聞いたが、中央執行委員会は、不満足だと見なす」。
 ボルシェヴィキのM. S. ウリツキ(Uritzkii)は、レーニン政権を信任する反対動議で応えた。
 「説明要求に関して、中央執行委員会は、つぎのとおり決議する。
 1.労働者大衆のソヴェト議会は、その手続につき、ブルジョア議会と何ら共通性をもたない。ブルジョア議会には対立する利害をもつ多様な階級が代表されており、支配階級は規約や指示書を立法による妨害物という武器に変えている。
 2.ソヴェト議会は、人民委員会議が中央執行委員会による先行する議論なくして、全ロシア・ソヴェト大会の一般的な基本方針の枠の範囲内で、緊急の布令を発する権利を有することを、拒むことはできない。
 3.中央執行委員会は、人民委員会議の活動に対して一般的な統制を及ぼし、自由に政府とその構成人員を変更するものとする。<以下略>」(44)
 (52)スピロによる不信任動議は、20対25で敗れた。この少ない投票数は、9人のボルシェヴィキの離脱の結果だった。そのうち何人かは人民委員で、この会合で辞任を発表した(上述)。
 この消極的な勝利は、レーニンには十分でなかった。
 彼は、ウリツキの動議の票決で、自分の政府は立法権をもつことが、公式にかつ議論の余地なく、確認されることを望んだ。
 しかし、ボルシェヴィキ幹部たちが突然に躊躇し始めたために、その見込みは疑わしく見えた。
 事前の票読みでは、ウリツキの動議への賛否は、同数だった(23対23)。
 レーニンとトロツキーは、この事態を避けるべく、投票に自分たちも参加する、と発表した。-大臣が立法府の一員となって、承認を求めて提出した法令に賛成を投票するのと同等の行為だ。
 かりにロシアの「議会政治人」にもっと経験があったならば、この茶番劇に参加するのを拒んだだろう。
 しかし、全員がそのままとどまり、投票が行われた。
 ウリツキの動議は、25対23で採択された。決定的な2票は、レーニンとトロツキーによって投じられた。
 二人のボルシェヴィキ指導者は、この単純な手続でもって、立法権限を盗み取り、代表者であるはずのCEC とソヴェト大会を立法機関からたんなる諮問機関へと変えた。
 これは、ソヴィエトの国制(constitution)史上の、大きな分岐点だった。//
 (53)その日遅く、ソヴナルコムは、法令は公式の官報(<労働者と農民の臨時政府公報>)(<Gazeta Vremennogo Rabochego i Krest'ianskogo Pravitel'stva>)に登載されたときに、発効する、という声明文を発表した。//
 (54)ソヴナルコムは今や、事実上は最初からそうだったものに、つまり執行権と立法権を併せもつ機関に、理論上もなった。
 CEC にはしばらくの間は、政府の活動について議論する権利、現実の政策には何の影響も及ぼさなくとも、少なくとも批判する機会があるという権利が、認められた。
 しかし、全ての非ボルシェヴィキが排除された1918年6月-7月以降、CEC は、共鳴機構(echo chamber)に変えられた。ボルシェヴィキ代議員たちが機械的な作業としてボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可」した。かつまた、そのソヴナルコムの決定は、ボルシェヴィキ党中央委員会の決定を実施するものだった。(*)
 (55)この日から、ロシアは、布令(decree)によって統治された。
 レーニンは、1905年以前にツァーリが享有した特権を握ることになった。
 レーニンの意思が、法(law)だった。
 トロツキーの言葉によると、「臨時政府は打倒されたと宣言したそのときから、レーニンは、問題が大であれ小であれ、政府として行動した」。(+)
 ソヴナルコムが発する「布令」は、フランス革命期から借用した名称であってロシアの国法上は従前は知られていないものだったけれども、十分に皇帝の<ukazy>に匹敵するものだった。皇帝のそれは、「布令」と同様に、きわめて瑣末な問題からきわめて重大な問題を扱い、専制君主が署名を付した瞬間に効力をもつに至った。
 (I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、「レーニンはふつうに、自分の署名は政府の全ての行為を十分なものにしなければならない、と考えていた。)(45)
 レーニンの幹部秘書のボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、レーニンが署名するだけで布令は法令たる効力をもった、人民委員の一人が提案して発せられたものであってすら、と書いている。(46)(++)
 このような実務は、ニコライ一世またはアレクサンドル三世にとっては、全く理解可能なものだっただろう。
 ボルシェヴィキが十月のクーから数週間以内に設定した統治のシステムは、1905年以前にロシアを支配した専制体制への逆戻り(reversion)を画するものだった。そしてそれは、間に介在した12年間の立憲主義体制(constitutionalism)を完全に一掃した。 //
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 (36) Iu. Larin, in NKH, No.11(1918年), p.16-p.17.
 (*) Dekrety, I, p.29-p.30. この布令が発布された日付を確定することはできない。ボルシェヴィキの新聞1917年10月1日と11月1日付には掲載されている。
 (37) M. P. Iroshnikov, Sozdanie sovetskoe tsentral'nogo gosudarstvennogo apparata, 2nd. ed.(Leningrad, 1967), p.115. L. H. Keep, ed., The Debate on Soviet Power(Oxford, 1979), p.78-p.79.
 (38) Protokoly zasedanii Vserossiiskogo Tsentral'nogo Ispolnitel'nogo Komitera Rabochikh, Soldatskikh, Krest'ianskikh i KazachHkh Deputatov II Sozyva(Moscow, 1917), p.28.
 (39) レーニン, PSS, XXXIX, p.304-5.
 (40) 同上, XXXV, p.58.
 (41) Protokoly zasedanii, p.31.
 (42) 同上, p.32.
 (43) Revoliutsiia, VI, P.73.
 (*) A. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Leningrad, 1969), p.169-p.170.
 ボルシェヴィキは、5名の信頼できる党員でCEC への反映が増加することに対する事前の対抗措置をとった。
 (44) Protokoly zasedanii, p.31-p.32.
 (*) 1919年12月に、CEC に名目上はまだ残っていた若干の権限は、その議長に移された。議長はそれによって、「国家の長」となった。
 元々は継続的なものと考えられていたCEC の会議は、それ以来ほとんど開催されなかった。1921年には、CEC は3回だけ催されている。
 E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, I (New York, 1951), p.220-p.230.を見よ。 
 (+) "kak pravitel'stvo": L. トロツキー, O Lenin(Moscow, 1924),p.102. 英語翻訳者はこの文章を間違って、レーニンは「政府がすべきように行動した」と読んだ。: L. トロツキー, Lenin(New York, 1971), p.121.
 (45) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.148.
 (46) S. Piontkovskii, in BK, No.1(1934年), p.112.
 (++) 以下で述べるように、これには例外があった。
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 第2節、終わり。第3節の目次上の表題は、<事務系(white collar)労働者のストライキ>。

2192/レフとスヴェトラーナ-第2章④。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章④。
 (33) もっと恐ろしいことすら、やって来ることになった。
 1945年4月、西側連合軍がドイツに突入したとき、ナツィスは、ブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン(Buchenwald-Wansleben)収容所を退避させた。
 4月12日午後5時、長い行進が始まった。
 生き残っている収監者たちは、護送車に乗せられて収容所を離れた。その車は無蓋トラックに脇を挟まれ、それぞれに6人の武装したSS護衛兵が乗っていた。
 彼らは原野を北東に歩いて、デッサウへの道に入った。但し、レフや彼の周囲の者たちは、そのときどこに向かっているのかを知らなかった。
 彼らには、(反対方向の)ブーヒェンブァルトに戻っているように思えた。つまりは、ナツィスが虐殺した数万の犠牲者が以前に焼却された、火葬場を目ざしているのではないかと。
 ぼろ布を身にまとっている収監者たちは、疲労困憊して道から離れて倒れ始めた。-ドイツ兵が射殺して、全てが終わった。
 フランス人収監者は思い出している。
 「午後8時だと覚えている。突然に前方に、隊列の端から、多数の射撃音が聞こえた。
 SSが、疲れて歩けないか、求められる速さで歩けない仲間たち全員を、射殺していた」。//
 (34) レフは、逃げることに決めた。
 並んで歩いていた、ピトラー・グループの一人の、アレクセイ・アンドレーエフ(Aleksei)Andreev)に言った。
 レフは思い出す。
 「我々の前方の右側に、何かが燃えているのを見た。
 爆撃されたドイツの大型トラックが、火の中にあった。
 あそこを通過するときに、走ってあのトラックの後ろの茂みに逃げ込めば、我々の後方にいる監視兵たちは炎で気がつかないだろう、と私は言った。
 アンドレーエフは肯いた。」
 隊列から離れて走って、二人は、燃えている大型トラックの後ろの叢林に飛び込み、長い隊列の残りが通り過ぎるのを待った。
 そして、田畑を這って進み、溝の中へと身体を引き摺り込んで、縞模様の囚人服を隠せるように、干し草で身体を覆った。
 レフは、恐怖に打ち震えていた。
 彼が想起するように、戦時中の全期間の中で、これが最も恐怖に圧倒されたときだった。
 (35) 二人は、夜間に、森の中へと動いた。
 前方に、銃砲が火を吹く音が聞こえた。
 森の大部分は、爆撃ですでに破壊されていた。
 樹林を通して、光の輝き-探照灯-を見た。そしてその光のそばに、何台かの戦車の影があるのが分かってきた。
 アメリカ(US)の戦車だった。
 暗闇の中から、一人のアメリカ兵が現れた。
 二人に叫んだ。「武器を離せ!」
 レフは英語で叫び返した。「武器など持っていない」。
 「きみたちは誰だ?」
 「我々はロシア軍の将校だ。強制収容所から逃げてきた。」
 (36) レフは、ブーヒェンブァルトにいたこと、今はソヴィエト同盟に戻りたいこと、を説明した。
 アメリカ兵は、二人を近くの家屋に連れて行った。
 そこには、5人の戦車運転兵がいた。
 彼らは、ロシア人を自分たちと一緒に床で眠らせ、食料を与えてくれた。レフはパンと粥で生き返りながら、「レストランの食事のように旨い」と思った。
 翌朝、彼らはレフとアレクセイエフを自分たちでアイスレーベン(Eisleben)に送り、そこで離れたが、その際にアメリカ軍当局が助けてくれるだろうと告げた。//
 (37) 二人はアイスレーベンで、アメリカ軍少佐から取調べを受けた。その人物はレフに、ドイツ語で話しかけた。
 レフが核物理学者だと知ると、彼は、アメリカに亡命するようにレフを説得しようとした。そして、レフが断ると、それを理解できなかった。
 彼は言った。「どうして? ロシアは共産主義だ。共産主義には民主主義がない」。
 レフが戦争でどの程度自分の政治的見解を変えたかが分かるが、レフはこう答えた。
 「ロシアは共産主義ではない。賢い人々が得ることのできる自由が、十分にある」。
 レフは、政治的な議論にかかわろうとはしなかった。
 彼がアメリカでより良い生活を追求するのを拒否した本当の理由は、政治とは関係がなかった。要するに、故郷に、彼が愛した人々のいる所へ、帰りたかったのだ。
 世界の中で彼がもつ全員は、そこにいた。
 -彼は思い出した。「スヴェトラーナとその家族、オルガ叔母、カーチャ叔母、ニキータ叔父。こうした人々が、私には大切だった」。
 スヴェータが生きているかどうか、彼女がいつも自分を待ってくれているかどうか、レフは考えなかった。しかし、自分の気持ちに従わなければならないことを知っていた。
 「彼女が生きている可能性がほんの少しでもあるなら、どうして私がそれに背を向けて、アメリカに行くことができるのか?」
 (38) アメリカの少佐は、自由になった捕虜たちが使えるホテル用のクーポン券をくれた。
 その町の町長は元共産主義者で、二人をにコートと帽子を買わせるために店に連れて行き、新しいスーツを注文し、全額をその町が支払った。
 レフとアレクセイエフは、つぎの二ヶ月の間、アイスレーベンに滞在した。
 彼らの部屋の窓からは、マルティン・ルターが生まれた家が見えた。
 その二ヶ月間は、休暇のようなものだった。
 アイスレーベンには、アメリカ軍員と解放された捕虜たちのための自由食堂が4つあった。強制収容所で飢えていた年月の後だったので、レフは、それら食堂のどこでも、全ての食事をきちんと完食した。
 「我々は、一日に、12回食べた!」
 レフがこの当時に抱えた唯一の問題は、食事ごとに4つの自由食堂のいずれにも時間に間に合って着くことだった。
 この狂ったような食事ぶりは、レフに飢えるという恐怖感がなくなるまで、数日間は続いた。//
 (39) 〔1945年〕5月初頭、アイスレーベンで、アメリカ軍による勝利パレードがあった。
 そのすぐ後に、ソヴェト軍兵士の帰還を組織すべく、赤軍の代表者たちが到着した。
 ソヴェト軍が出発する6月8日、アメリカ軍は、ソヴィエトとアメリカの国旗を付けて「帰還おめでう!」と書いた幕で飾られたオープン・トラックを用意した。
 ソヴィエト軍兵士たちはそのトラックでトルガウ(Torgau)のエルベ河まで行き、そこで、ソヴィエト占領地帯へと渡った。
 彼らは、ソヴィエト軍当局には、同じ友好的な態度では受け入れられなかった。ソヴィエトは彼らを、収監者だとして扱った。
 帰還する兵士たちはソヴィエト軍護衛兵によって30のグループに分けられ、大型トラックでヴァイマル(Weimar)まで連れて行かれた。そこで、第8護衛軍司令部に付属する囚人地区へと入れられた。
 監獄は、SMERSH (「スパイに死を!」の頭字語)として知られる、NKVD の特殊部門によって管理されていた。その任務は、ドイツ軍に協力したソヴィエト兵士を根こそぎ殺戮することだった。//
 (40) レフの好運は、消え去った。
 彼は、他の8人とともに一つの部屋に投獄された。
 全員が衣類を脱がされ、身体を調査された。
 彼らの持ち物は全て、奪い取られた。
 レフは、過去の4年間ずっとポケットに入れて最も大切にしていたものを、失った。スヴェータの父親から貰った住所録だ。
 それは紙の一片にすぎなかったが、スヴェータと自分を結びつけるただ一つの物だった。//
 (41) 昼間は、床に座って、横になったり寝入ったりすることを禁止された。
 尋問は、夜に行われた。
 各人は順番に尋問に連れ出され、3ないし4時間あとで戻されたが、それは朝の起床の合図までの睡眠を剥ぎ取るものだった。
 レフは、一ヶ月以上にわたって、取調べを受けた。
 SMERSH の調査官は、ドイツ軍のためにスパイしているとレフを責めた。
 彼らがもつ唯一の証拠はレフの仲間から得たもので、カティンでドイツの少佐と会話しているのを聞いた、というものだった。
 レフは、それは本当のことだと認めた。
 彼は通訳者として働いていたことは承認したが、スパイでは決してなかったと強く主張した。ドイツに反対して働いていたのであって、ドイツ軍のためにではない。
 純粋無垢にも、真実を語れば郷土に帰ることが許されるだろう、という考えが彼には固着していた。
 彼は、ソヴィエトには正義があると信じていた。
 彼が闘ったのは、そのためにではなかったのか?
 つぎに起こったことで、彼の想いは粉々になった。
 数日後に、尋問官が、自白書に署名するのに同意しなければ射殺する、と脅迫した。
 レフは、打ちのめされた。
 彼は思い出す。
 「私は、死ぬことを怖れなかった。
 しかし、何度も、私が愛した人々が自分に罪があったと考えるかもしれない、と怖れた。」//
 (42) レフは、頻繁に、スヴェータのことを想った。
 生きて彼女のそばにおれそうにない、という気がした。
 1945年9月10日、スヴェータの28歳の誕生日、尋問が弱くなっていたとき、レフは、彼女と再び逢うことを諦めて、観念して彼女に「さよなら」を告げた。//
 (43) 質問がとくに連続した夜のあとの朝早くに、レフは生き生きとした夢を見ながら、軽い眠りに入っていた。
 「私は、取調べの後で、まどろんでいた。ほとんど夜が明けていた。夢を見た。
 自国のどこかを歩いているがごとく、きわめて鮮明で明確だった。
 振り返って、後ろにいるスヴェータを見た。
 スヴェータは白く身なりを整えて、やはり白い服を着ている小さな女の子の側で、地上に跪いていた。そして、何かを自分の服に合わせていた。
 とても輝いていて、とても明瞭で、そして目が覚めた。」
 (44) 自白書に署名させることができなかったので、尋問官たちは、有罪を認めて署名するよう、策略をレフに仕掛けた。
 軍事裁判所が無罪と認定するだろうと保障したうえで、彼らは、レフはがきちんと検証しなかった尋問調書に署名させた。
 レフは尋問将校たちを信頼した。文書を彼に提示し、レフが主張したものとされる言葉を使っていたからだ。
 将校は尋問調書の文章を読み上げ、レフは簡単にそれに署名した。
 頁の下にある小さな文字のこの署名は、彼のその後の人生を変えることになる。
 おそらくは、彼は疲れていた。
 おそらくは、彼は純粋無垢だった。
 レフは知らなかったけれども、将校は調書の一部だけを彼に読み聞かせ-大逆の罪を認める部分は全くそうしないで-、それに彼は署名した。
 レフが間違いだったと気づいたのは、ようやく裁判になってからだった。//
 (45) 1945年11月19日、三人で構成される第八護衛軍のヴァイマル軍事裁判所は、祖国に対する大逆の罪で、ソヴィエト公務員に用意されている刑法典第58条第1項(b)にもとづいて、レフに、死刑を言い渡した。
 この判決は即座に、グラク(Gulag)の矯正労働収容所への10年間の服役に減刑された。-奴隷労働にもとづくシステムの利益を考慮して、ソヴィエト裁判官がしばしば行う譲歩だった。
 裁判は、全てで20分つづいた。//
 (46) 〔1945年〕12月、レフは、フランクフルト・アン・デア・オーデル(Frankfurt an der Oder)の軍事監獄へと移された。
 彼は、ソヴィエト同盟の監視のもとで護送車で送り還された。そこから、北方のペチョラ(Pechora) 労働収容所への三ヶ月の長い旅が始まった。//
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 第2章の全部、終わり。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。

2188/レフとスヴェトラーナ-第2章③。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章③。
 (26) スヴェータは、Kazarmennyi Pereulok にある家族用共同住宅から、長い道程を路面電車でHighway of Enthusiasts にある研究所に通った。その中の三階にある古い実験室で仕事をしたが、窓からはモスクワ東部の工場の煙突群が見えた。
 そうした場所だったので、彼女は陰鬱になった。
 何度もそこを去ってどこか別の町で、別の都市であっても、研究職を見つけたいと考えたが、「レフとの連絡を失う怖れ」を感じた。
 モスクワは二人が接触した唯一の都市であり、またレフが帰って来ると望んだ場所だった。
 (27) レフに関する新しい知らせは何もなかったが、スヴェータには彼はまだ生きていると考える十分な根拠があった。
 NKVD(内務人民委員部〔ほぼ秘密警察〕)が1942年に叔母のオルガを訪れて、レフから便りはないかと尋ねた。
 彼らは、軍に勤務している者のために残されていたレフの部屋の持ち物を全部調査していた。
 カティンのドイツ軍に選ばれたスパイのうち何人かは、ソヴィエト領域に明らかに入って来ていて、逮捕された。
 それらスパイたちの一人が尋問を受けて、レフのことを言い、レフがドイツで大尉と会話していたことを思い出したに違いなかった。
 NKVD は、レフはモスクワに入っていてドイツのためにスパイ活動をしているとの想定のもとで、おそらくは動いていた。
 彼らは、スヴェータがモスクワに戻った後で、彼女を召喚して毎晩のように質問した。
 レフがすでにモスクワにいるならスヴェータと逢うだろう、と思っていたのだ。
 彼らはレフはスパイだと言い張って、彼を逮捕するのに協力するようスヴェータに迫った。その際に、拒否するなら重大なことになる、と脅かした。
 NKVD の司令部があるルビヤンカ(Lubianka)への出頭を命じられるのは、ぞっとすることだった。大テロルの記憶が、人々の心に鮮明に残っていた。
 スヴェータは、しかし、簡単には恐がらなかった。
 レフとの関係を守るために、ソヴィエト当局に従わないつもりだった。
 彼らの要請についには嫌気がさし、性格上の勇敢さと頑固な無分別さをとっさに示して、NKVD の男たちに、独りにさせてほしいと言った。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「同一の親戚たち(NKVD 部員の暗号語)が私を困らせ続けたので少しばかり怒って、私はまだ貴方の妻ではない、我々が-一時間だけではなく十分な時間を使って-逢えば、問題は明瞭になる、と言いました。」
 (28) スヴェータはその間に、レフに関する情報はないかと尋ねる手紙を軍当局に書き送っていた。
 彼女が26歳の誕生日を迎えた直後、1943年9月10日に、知らせが届いた。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「私の縁戚たちがみんな、私の誕生日のためにやって来ました。
 モスクワの父親の兄とその家族がいました。レニングラードの弟とその奥さん、従兄姉のニーナとその夫、彼らの子ども、なども。
 全てが素晴らしくて、いい時間を過ごしました。
 もちろん、そこにいない人たち全員の健康を祈って乾杯しました。
 すると全く突然に、大変なことが起こりました。-ターニャが死んだという連絡書が来たのです(ケーシャ叔父はそれを遮って取って、長い時間ママに見せませんでした)。」
 ターニャは、スターリングラードの軍事病院で、急性虫垂炎で死んでいた。
 のちに、もっと悪い知らせが飛び込んだ。
 叔母のオルガが、軍当局から公式に、レフが前線で「行方不明になった」という報告を受けた。
 きわめて多数の人々が「行方不明になった」1930年代のテロルの記憶から依然としてまだ回復しようとしている数百万の家族にとって、これは恐ろしい告知だった。
 この言葉(「propal bez vesti」)は、ほとんど特別の意味を持っていた。
 敵の捕虜となること(ソヴィエトの戦時法では「反逆罪」と同じ)。
 さらに悪いと、敵方への「逃亡」(「人民の敵」という犯罪)。
 あるいは、遺体が発見されないままでの死。
 多数の兵士たちが殺されたので、スヴェータはレフについて最悪のことを怖れたに違いなかった。
 「つらくて苦しい。だから、貴方がいなければ、もう誕生日をお祝いしない。
 知ってるように、矮星の存在は絶望的に痛ましい。電子シェル全体を失っていて、核だけしかないのだから。
 私の胸も空虚で、痛くて、心は消え失せそうだった。
 息をすることができない。
 何カ月もずっと、誰とも話すことができず、どこにも行けず、何も読まなかった。
 家にもどるとすぐに、壁に顔を向けたことだ。そして、いったいどれほど泣き続けたことだろう。夕方に、夜の間に、また朝に、苦しみは癒えない。」
 (29) スヴェータは、レフへの思慕や不安に懸命に耐えつつ、感情を詩に注ぎ込んだ。
 二つの彼女の詩が残っている。
 最初のものは「1943年冬」と記されていて、レフが行方不明になったと知った9月の「あの恐ろしい日」からさして離れていない頃のものだ。
 彼女はのちに詩について、「私に必要なのは誰かに話しかけることだ」と書くことになる。
 その詩は、レフを失うことについてのスヴェータの悲しみを表現している。
 「長いあいだ とば口に立っていた
  でも今は 心を決めて出発する
  道で 砕けた石の真ん中で
  平和と幸福の 徴しを見つけた
  あなたの扉に 架かっていた蹄鉄
  それを持って愉しみを あなたと分かち合う
  でも戦争が 二人を別々にして
  別々の道を それぞれが彷徨う
  どの森の中を通らなければならなかったの?
  どの石が あなたの血を吸っているの?
  ここには 孤独な年寄りの幽霊がいる
  脅かすように わたしの頭にかぶさる
  どんな形見を わたしに残してくれるの?
  長くつづいた夢の 苦い想い出なの?
  それとも別の女性が あなたの心を掴んでいるの
  九月のような情熱的な言葉で?
  あなたを信頼してよいの? あなた以外に誰を
  今は 私の知らない若い人なの?
  友達仲間は ますます少なくなった
  そのうちのどの人で 私は終わりになるの?」
 第二の詩は、短かった。
 これも、その冬に書かれた。
 最初のものよりも、レフの帰還への彼女の祈りが絶望的であることが記されている。
 「私は あなたを裁かない
  戦火の下にいるあなたを
  誰と 死はすでに
  一度ならず語り合ったのか
  でも 昼も夜も お祈りする
  聖母よ わたしのために あなたを守ってと
  こう 祈るだろう しかし
  お祈りの仕方を
  母も父も 教えてくれなかった
  だからわたしには 神への道が分からない
  愉しみ、悲しみ、あるいは嘆きの中で」
 (30) しかし、レフは、死んでいなかった。
 ヒトラーの最も苛酷な労働強制収容所の一つに、収監されていた。ソヴィエトの捕虜たちが厳しい監視のもとで毎日ピトラー軍需工場で働くために行進させられている、ライプツィヒの収容所にだった。
 レフは、ミュールベルクの監獄から送られてきた。ミュールベルクには、ポーランド国境で1943年7月に捕まったあとで、来ていたのだった。
 ピトラー工場での管理体制は、懲罰的だった。
 武装監視兵が作業場の全てのドアのそばに立ち、ドイツの作業長はいつでも使えるようにリボルバーを持っていた。
 1943-44年の冬の間、東部戦線で新たに敗北する度にドイツ軍の兵器需要が増え、労働者管理の体制はますます厳格になった。
 捕虜労働収容所が消耗しかつ紀律を失って生産力が落ちたことを理由として、ゲシュタポ(Gestapo)は、奴隷(slave)反乱の潜在的な指導者を探し出して根絶しようとした。
 (31) レフは、何度も尋問された。
 1944年5月のある日、26人の収監者グループとともにレフは拘束され、ライプツィヒの中央監獄へと送られた。そこでは全員が、ドアそばに便器と洗面器がある独房に閉じ込められた。
 一ヶ月の間、独房から出してもらえないまま監禁された。
 〔1944年〕7月4日、彼らは、ヴァイマル近郊の名高い強制収容所であるブーヒェンブァルト(Buchenwald)へと移された。そして、四層の寝棚のある、長くつづく隔離獄舎に入れられた。
 多様な国籍の収監者がいた。-フランス、ポーランド、ロシア、ユーゴスラヴ。それぞれについて、縞模様の制服に、異なる図案のバッジが付けられた。
 レフのバッジには、他のロシア人のと同じく、赤い三角形の上に「R」の文字があった。
 (32) その兵舎で一ヶ月経ったあと、ピトラー収容所出身グループは、ブーヒェンブァルトと関連する多様な補助収容所へと散っていった。
 レフは、ライプツィヒ近くのマンスフェルト(Mansfeld)軍需工場の作業旅団に送られ、そのあと、ヴァンスレーベン(Wansleben)・アム・ゼーの放棄された岩塩鉱山そばのブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン収容所に送られた。そこにレフは、9月の第一週に着いた。
 その岩塩鉱は、400メートル地下にある、連合国による空爆からも安全な一連の作業場へと転換されていた。そしてその作業場では、収監者たちによって、空軍用航空機のエンジンの一部が組み立てられることになっていた。
 岩塩鉱へのトンネルを掘ることに従事したあるフランス人収監者は、「それらの部屋ごとに、12人ほどの収監者が死んだ」、と想起する。
 レフは、そこで、つぎの七ヶ月間を働いた。
 管理体制は厳しく、11時間交替制で、苛酷な規制があった。
 「どんな非行や作業能率の低下に対しても、収監者は、ゴム製棍棒で20回鞭打たれた。それは身を切られるように痛かったが、身体に痕跡を残さない制裁の方法だった。//
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 ④につづく。

2186/レフとスヴェトラーナ-第2章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
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 第2章②。
 (15) オーシャッツの生活条件は、その冬に劇的に悪くなった。
 労働時間は増えたし、監視員が疲れ果てた収監者をもっと労働させて搾り取るために、鞭打ちを行った。
 1943年の1-2月には、新しい捕虜の一群が労働旅団に入って来た。
 彼らの多くはウクライナ出身だった。ウクライナでは、1930年代のテロルと飢饉によってソヴィエト制度から多くの民衆が離れていて、このときはドイツ軍が占領していた。
 彼らが到着したすぐ後で、収容所体制が柔軟になった。それは、捕虜たちから募って、A・ウラソフ(Andrei Vlasov)が組織している反ソヴィエトのロシア解放軍に加入させようとするドイツ軍の努力の一つだった。
 ウラソフは、赤軍の前の将軍だったが、1942年7月にドイツ軍に捕らえられ、ナツィスに対して、自分を解放運動の長に任命するよう説得した。共産主義体制を一掃することを目指してのことだ。
 ウラソフがオーシャッツで募った者たちのグループがあり、そのほとんどは戦前の「明確ではないがドイツ製のではない制服を着ている」ロシア人エミグレだった。そうレフは思い出した。また、彼らは多数ではない、ソヴィエトの青年将校たちだった。
 その将校たちはロシア解放軍に入っていた。但し、主としては捕虜強制収容所の恐るべき条件から逃れるためにそうしたようにレフには思えた。というのは、その収容所で、ソヴィエトの収監者たちは「きわめて苛酷に扱われ、他のどの国の収監者よりも自己防衛の権利または手段を持たなかった」。//
 (16) レフは何度も呼び出されて、ドイツ軍とウラソフ募兵員から、ロシア解放軍に将校として加わるよう圧力を受けた。
 そのたびごとに、レフは拒絶した。
 ドイツは彼を疑うようになった。
 彼らはレフに、HASAG 収容所での通訳としての活動について尋ね始めた。
 こうした尋問の一つがあったときのタバコ休憩の間に、ドイツ人用の通訳者がレフを廊下の端まで連れて行って、ウラソフの徴兵の失敗はレフに責任があるとドイツ側は考えている、と警告した。
 収容所内のレフの作業チームは、その中で一人すらもウラソフ軍に応募しないチームだった。その作業チームの唯一のソヴィエト将校だったレフに、疑いが向けられていた。//
 (17) レフは、逃亡する必要がある、と認識した。
 旅団の中の他の三人の収監者も、同じことを考えた。
 彼らは、〔1943年〕6月に企てを実行することに決めた。そのときには収穫物は大きくなっていて、150キロ離れたポーランドへの行路で食糧を恵んでくれるだろう。ポーランドでは、その民衆たちが彼らに同情して、食糧をくれるだろう。
 彼らの計画は、ベラルーシにいるソヴィエト・パルチザンに合流することだった。
 準備のために、彼らは、乾パンと砂糖を節約して貯めた。
 レフはコンパスを作り、ドイツ監視員の一人から借りた地図を写し取った。そのドイツ人は自分の家族についてレフに話したり、週末にどこへ行ったかを語るのが好きだった。
 彼らは何とかして、薬すらも手に入れた。レフが注意深く自分の指を切り、ロシア人捕虜の医師がいる収容所の診療室に送った。
 その医師は何も訊かないで、消毒薬、アスピリンとバンドエイドが欲しいというレフの求めに応じた。//
 (18) レフたちは、1943年6月22日の夜に逃亡した。その日は、ドイツによる侵攻二周年の日だった。
 外衣をすでに少しは脱いで、彼らは兵舎の窓から上に昇り、中庭の壁を目測した。そして、頂上部の有刺鉄線を、レフが作業場で作った二つの尖った金属片を使って通り抜けた。
 収容所の外の野原に飛び降りて、暗闇の中を森へと走り込んだ。
 四人は、北に向かった。ドイツ軍は先ず東の方を探索するだろうと想定したからだ。
 夜は歩き、日中は隠れた。
 彼らがもつ地図は、きわめて粗いものだった。-写し取った原図は小学校の教科書に掲載のものだった。そのために、道路標識を手がかりにして進まなければならなかった。
 エルベ河に到達したとき、レフが泳いで横切るのをひどく怖がったので、河に沿って東に向かった。そして、ドレスデンの南を回って、ポーランドへと東に歩き続けた。
 レフは思い出す。
 「乾燥させた食べ物を持ってはいた。だがすぐに、それを予備に残して、農家の屋外の小屋から盗んで食べることに決めた。<中略>
 間違っていると私は最初は思ったが、それに同意した。」
 途上の三週間後に、ポーランド国境のゲルリッツ(Görlitz)の近くで、二人のドイツ兵に見つかった。
 自転車で自分たちに向かってくる兵士たちに気づき、銃砲を携帯しているだろうと想定して、彼らは、溝の中に逃げ込んだ。しかし、その兵士たちはそこで、光を照らして探そうとした。
 「我々の旅の馬鹿げた終わりだった。兵士たちは、武装すらしていなかった。」//
 (19) レフは何も分かっていなかった。ポーランドに着いたら、あるいはドイツの戦線を越えたら、そしてモスクワまでたどり着いたとしたら、いったいどうなるのだろうか。
 ソヴィエト同盟の状況について、あるいはスヴェータとその家族にもう一度逢う機会について、彼には現実的な考えがなかった。
 最初に捕まった瞬間から、ロシアから信頼できる情報を得る手段がなかった。
 オーシャッツでは、収監者にペンと用紙がドイツ軍によって与えられたが、ドイツが占領している地域の者たちにだけ手紙を書くことができた。
 レフは一度、行方不明になった収監者仲間の妻がいるプラハに手紙を出して、その夫である彼についての報せがあるかを尋ねた。
 その妻はレフに返事を書いてきて、小包すら送ってきたが、自分の夫の運命については自分よりもレフの方がよく知っていそうだ、と告げた。//
 ++
 (20) スヴェータもまた、暗闇の中にいた。
 1941年9月の末にレフがモスクワを去った後、彼に関する知らせは何も受け取っていなかった。
 そのとき、何もかもが、不確かだった。
 モスクワは生き残れるのかどうか、誰にも分からなかった。
 モスクワは、7月以降のドイツ空軍の爆撃で大きな被害を受けていた。
 一日に頻繁に、サイレンが鳴り響いた。
 発電所が攻撃され、アパート地区には熱や光がなくなった。燃えるビルだけが、夜空を照らしていた。
 人々は、地下の防空壕で生活した。
 膨大な数の人々が、死んだ。
 10月1日、スターリンは、政府をヴォルガのクイビシェフ(Kuibyshev)〔=サマラ〕に避難させることを命じた。
 市内への爆撃が激しくなるにつれて、パニックが広がった。
 全ての店に、巨大な人の列ができた。食糧をめぐって喧嘩が発生し、略奪が増えた。大量に逮捕しても、ほとんど統制することができなかった。
 ドイツ軍がヴャジマ〔Viazma〕を突破したとの報せが、10月16日に、ついにモスクワに届いた。
 どの鉄道駅でも、東に向かう列車に乗り込もうと競い合う群衆による、醜い光景が見られた。
 人々は、工場や共産党の幹部たちがすでに去ってしまっていることを知って、彼らを呪った。
 どの家族も、荷物を詰め込んで、利用できる手段を何でも使って、モスクワから外へ出た。
 タクシー運転手は、モスクワからカザンまでの料金として2万ルーブルを請求した。//
 (21) モスクワ大学は、10月に避難した。
 スヴェータは、家族と一緒に旅をした。
 列車に乗っていた学生たちの中に、のちのノーベル賞受賞者、A・サハロフ(Andrei Sakharov)がいた。サハロフは、レフやスヴェータの一年後に同じ学部に入学したのだったが、スヴェータは休学していたので、このときは同じ学年だった。
 彼らが最初に停車したのは、モスクワ東方300キロの古い地方都市、ムロム(Murom)だった。ここにサハロフはその母親と娘とともに滞在し、戦時中の混乱を有益なことに利用した。昼間には娘が、働いている店から砂糖を盗み、夜間には母親が、「一つなぎの兵士たちを」愉しませた。
 その市街は、東方への避難を待っている負傷兵たちで溢れていた。
 多くの兵士が駅のホールで担架の上に横たわり、鉄道路線そばの雪の中にいる者すらいた。
 近隣の村落から来た女性たちが、食べ物やタバコを売っていた。
 また別の女性たちは、息子や夫たちを探していた。そして、行方を知っているかもしれないと負傷兵に尋ねたり、病院で誰かが遭遇するかもしれない場合にと手紙を渡したりしていた。//
 (22) 学生たちはムロムからウラルまでは東へと旅をしつづけ、そして、南へと凍ったカザフ高原を縦断して、アシュハバート(Ashkhabad)に向かった。この都市はトゥルクメン共和国の埃っぽい首都で、ソヴィエトとイランの国境から大して遠くなかった。
 ここで、モスクワ大学物理学部は、その機能を再開することになる。
 旅行には、一ヶ月を要した。
 列車の各車両には一台のストーブと40人用の寝台があった。サハロフは各車両について、こう思い出している。
 「指導者、話し好きと寡黙な者、パニック煽り立て屋、敏腕家、大食漢、怠け者と勤勉家、そうした者たちがいる、別々の共同体になった」。
 スヴェータは、静かで勤勉な者の一人だったに違いない。
 アシュハバートで12月に始まった講義では、スヴェータは、戦争前の学習中断を埋め合わせるべく、懸命に勉強する必要があった。
 彼女は化学と振動物理学のクラスに出席した。これは実習のないむつかしい理論的な科目だったので、長時間を図書館に入り浸りで過ごした。
 彼女はまた、自分と両親の生活を支えるために、カフェテリアの皿洗いとして働いた。
 その冬とそれに続く春に多くのことがあったため、スヴェータは当時の中央アジアに共通する病気であるマラリアに罹患した。
 のちにスヴェータは、こう書いた。
 「疲れすぎて、飲むことすらむつかしい。
 高熱と闘って、消耗して、『完全に僻んだ』」。
 彼女は生きるべく藻掻いた。そして、何とか切り抜けた。
 (23) 卒業してのち、スヴェータは、軍用品人民委員部に配属された。
 しかし、彼女の父親の助力で、当時は化学合成以外でも活動していたが、スヴェルドロフスク近くのフロムニク(Khromnik)にあった合成樹脂産業科学研究所へと移った。スヴェータは1942年8月から、工業物理学者として「物理機械的検査実験室」に勤務した。
 この研究所は一日11時間活動しており、彼女は最初は自分のすることを見つける必要がある、と感じた。つぎのように書いたとおりだ。
 「不思議で馴染みのない実験室にいた。何から始めればよいか、どこに落ち着けばよいか、分からなかった。
 機械が怖かったし、ゴムについては何も知らなかった。
 それで図書館へと逃げた。<中略>
 私は図書館でロシアの論文や報告書を読んで一日の半分を過ごし、あとの半分は英語に取り組んだ。
 英会話クラブに入った。アシュハバートで英語を勉強したのではなかったけれども。
 総じては、気持ちがとても高揚した時期だった。
 アシュハバートの煙霧、アフガンの風のあとで、沙漠から粉塵のように細かい砂粒が吹いてきた。
 8月には、黄金の秋の予兆が全くないままに、葉っぱが落ちた。
 ウラルは地上の楽園のように思えた。-松の木、樺の木、キノコ、雨。
 世界じゅうの人々と、手紙をやりとりした。<中略>
 毎日2-3通の手紙を受け取った。そして、まもなく家に戻れると知った。」
 (24) 研究所はすでに、モスクワに帰る準備をしていた。モスクワでは、ソヴェト軍の反攻のあとで、ドイツ軍の脅威はもう過ぎ去っていた。
 赤軍が切実に必要としていたのは、タイヤ産業を支援するための、研究所の専門研究者だった。
 1943年1月頃に、スヴェータは家に戻った。
 学生としてレフとスヴェータが知っていた市街の多くは、戦争で破壊されるか損傷していた。
 ビルの多数が暖房のないままで残り、電力不足が原因で光は暗くなったり、しばしば完全に消えたりした。下水管は漏れており、食料店は空だった。
 スヴェータはのちに書くことになる。
 「我々はみな寒くて、飢えており、暗闇の中で生きていた」。//
 (25) 1942年4月に、スヴェータの両親は妹のターニャとともにモスクワに帰っていた。
 両親は、明らかに年老いていた。
 アナスタシアはしばしばブルセラ病に罹り、痛みを伴う胃腸病が彼女を消耗させた。そして、アレクサンドルは60歳のときに、急に衰えていく兆候を見せた。
 スヴェータが帰ったとき、彼らが神経質であるのに気づいた。
 両親には心配することが多数あった。スヴェータの兄は前線に行ったのだったが、それ以来彼からは連絡がなかった(彼はドイツ軍に捕らえられ、バルト海のウゼドーム島の強制収容所に収監されていた)。一方で妹のターニャは、1942年9月に学生「義勇兵」としてスターリングラードへと赴かされていた。
 アレクサンドルの弟のイノケンティ(「ケーシャ叔父さん」)とその妻が、両親の厄介になっていた。このレニングラードの二人は、戦争が始まって以降はモスクワにいて、1943年にレニングラードの包囲が解かれるまでは家に戻ろうとはしなかったのだ。
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 ③につづく。

2185/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる②。 
 (12)1917-18年の冬、かつてのロシア帝国の住民大衆は、物的資財だけを分け合ったのではなかった。  
 彼らは、600年の歴史発展の所産であるロシア国家をも分裂させた。国家主権それ自体が、<duvan>の対象となった。
 1918年の春までに、世界最大の国家は、数え切れないほどの重なり合う団体に分離した。大小はあれ、それぞれが自らの領域を支配する権威をもつことを主張し、制度的な結びつきによっては、さらには共通する運命の意識ですらによっても、他者と連結することがなかった。
 数カ月のうちに、ロシアは政治的には、中世初期に戻った。当時のロシアは自己統治をする公国の集合体だったのだ。//
 (13)最初に分離したのは、国境諸国の非ロシア人たちだった。
 ボルシェヴィキ・クーの後、少数民族が次から次へと、ロシアからの独立を宣言した。一つに民族の熱望に気づいたことによって、二つにボルシェヴィズムと差し迫る内戦から逃れるために。
 彼らは、それを正当化するために、「ロシアの諸民族の権利の宣言」を指し示すことができた。この宣言は、ボルシェヴィキがレーニンとスターリンの署名にもとづいて、1917年11月2日に発したものだった。
 全てのソヴェト制度を前もって承認することなしに公にされたもので、ロシアの人民に対して、「独立国家を分離させ形成する権利を含む、自由な自己決定」を認めていた。
 フィンランドが、独立を宣言する最初の国家となった(1917年12月6日/新暦)。
 それに続いたのは、リトアニア(12月11日)、ラトヴィア(1918年1月12日)、ウクライナ(1月22日)、エストニア(2月24日)、トランス・コーカサス(4月22日)そしてポーランド(11月3日)(日付は全て新暦)だった。
 これらの分離によって、大ロシア人が居住する地域に対する共産主義の支配は減少した。-すなわち、17世紀半ばのロシアに戻った。
 (14)離脱の過程が進んだのは、国境諸国に限られなかった。遠心力的な力は、大ロシア内部でも発生した。
 州(province)は相次いで独自の道を進み、中央権力からの自立を要求した。
 こうした過程は、「全ての権力をソヴェトへ」という公式のスローガンによって促進された。これは、多様なレベルでの地域的なソヴェトが主権を要求するのを許容するものだった。-地域(oblast')、州(guberniia)、地区(uezd)、そしてvolost' や<selo> においてすら。
 その結果は、混沌だった。
 「市ソヴェト、村ソヴェト、selo ソヴェト、そして郊外区ソヴェトがあった。
 これらソヴェトを自分たち以外の誰も承認しなかった。そして、承認したとするならば、自分たちに有利なことがたまたま生じた『地点にまで』達したからだった。
 各ソヴェトは、直接的な周囲の条件が命じるとおりに、そしてそれが行うことができ望むとおりに、活動し、闘争した。
 それらには、全く、または事実上は全く…ソヴェト的官僚機構がなかった。」(16)
  (15)何がしかの秩序を生み出す試みとして、ボルシェヴィキ政府は、1918年春に、<oblasti>と呼ばれる領域的機構を設立した。
 これらは、いくつかの州で構成され、準主権的地位を享有するもので、つぎの6つがあった。(*)
 ①付属の9州をもつモスクワ、②エカテリンブルクを中心とするウラル、③首都ペトログラードを含む7州を包括する「北部労働者コミューン」、④スモレンスクを中心とする北西部、⑤中心にオムスクがある西シベリア、⑥イルクーツクを基地とする中央シベリア。
 各oblasti は自らの行政府をもち、ソヴェト大会を開催した。
 その中には、自分たちの人民委員会議をもつものもあった。
 1918年2月に開催された中央シベリア地域のソヴェト大会は、ソヴィエト政府がドイツとの間に締結しようとしていた講和条約を拒否し、独立性を主張して、自らの外務人民委員を任命した。(17)
 (16)あちこちの<gubernii>は「共和国」だと宣言した。
 そうしたのは、カザン、カルガ、リャザン、ウファ、およびオレンブルクだった。
 バシュキールやヴォルガ・タタールのような、ロシア人の中で生活している非ロシア人たちのいくつかも、民族共和国を設立した。
 ある集計では、消滅したロシア帝国の領域に、少なくとも33の「政府」が存在した。(18)
 中央の政府はしばしば、布令や規則を施行するために、これら短命の機構の助力を求めなければならなかった。
 (17)地域や州は、それに代わって次々と、下位組織へと分解した。その中では、volost' が最も重要だった。
 volost' の活力は、農民たちにはこれが利用地が配分される最大の区域だった、ということにもとづく。
 原則として、一つのvolost' の農民たちは、奪い取った資産を隣のvolosti 〔複数〕と共有するのを拒否しただろう。その結果として、この小さな数百の地域は、事実上は、自治的な領地となった。
 マルトフは、つぎのように観察した。
 「我々はつねにこう指摘してきた。『全ての権力をソヴェトへ』のスローガンが農民たちや労働者階級の後れた階層に人気があるのは、かなりの程度で、付与された領域についての地方労働者や地方農民の優先権という原始的な考えとこのスローガンを結びつけている、ということで説明することができる。
 彼らはほとんど、労働者支配というスローガンを、付与された工場の奪取という考えと同一視しているし、農業革命というスローガンを、付与された土地を既存の村落が排他的に利用するという考えと同一視している。」
 (18)ボルシェヴィキは分離した国境諸国を元に戻すべく軍事攻撃を行ったが、何度かは成功しなかった。
 しかし、全体としてさしあたりは、大ロシア内部での遠心力的趨勢に干渉しなかった。それは、そうすれば直接的な反抗を促進させ、旧来の政治的かつ経済的なシステムを完全に破壊することになったからだ。
 この趨勢はまた、共産党がその権力を確固たるものにする以前に、その共産党に立ち向かう強い国家装置が出現することをも、妨げた。
 (19)1918年3月、政府は、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国(RSFSR)憲法を承認した。
 レーニンはこの文書の起草を、スヴルドロフを長とする、法的専門家たちの委員会に任せていた。最も熱心な委員たちは左翼エスエルで、彼らは、1871年のフランス・コミューンをモデルにして、中央集権的国家をソヴェトの連邦に変えようと望んでいた。
 レーニンは、彼らの考えは中央指向という自分の目標とは全く逆ではあったが、邪魔しないで放任した。
 彼は、行政に関する詳細なことについて、どの兵士たちがスモルニュイの自分の役所を護衛するかを決定することに至るまで、綿密な注意を払った。しかし、憲法委員会の議論には外部者であり続け、その作業の結果を概読したのみだった。
 ここには、成文憲法に対するレーニンの蔑視が示されていた。彼の目的にとってふさわしいのは、党による統制という秘密の心棒を隠すために、国家構造が緩やかで準アナーキーな外面をもつことだった。(20)
 (20)1918年憲法は、ナポレオンの規準に合致していた。ナポレオンはこう言った。良い憲法は、短くて、紛らわしい、と。
 ロシア憲法の最初の条項は、ロシアは「労働者、兵士および農民代表ソヴェトの共和国」だと宣言した。
 「中央および地方の全ての権力」はソヴェトに帰属する。(21)
 こうした条項の定めは、解答のない疑問を惹起させる。これらに続く条項は、中央と地方の間の、あるいは各ソヴェトの間の権力の分割を明確には規定していないからだ。
 第56条によると、「管轄区域の範囲内で、各ソヴェト(地方、州、地区およびvolost' )の大会は、最高の権威である」。
 しかしながら、各地方はいくつかの州を包含し、各州は多数の地区とvolosti をもつのだから、この原理は、無意味だった。
 さらに複雑にしていることだが、第61条はソヴェト大会が最高の権威だとする原理と矛盾していた。同条は、地方ソヴェトは地方問題にだけ権能を限定し、「ソヴィエト政府の最高機関」の命令を実施することを要求していたからだ。
 (21)1918年憲法の欠陥を異なる領域的段階でのソヴェト当局の権能の問題に特殊化してしまえば、それは、ボルシェヴィキは深刻な禁止の問題として把握していなかったことを強調するにすぎないだろう。
 そうであったとしてすら、ボルシェヴィキは、遠心力的趨勢を憲法上是認することによって、その趨勢を強めたのだ。(*)
 (22)完全な行動の自由を得るために、レーニンはすみやかに〔ソヴェト〕中央執行委員会(CEC)〔イスパルコム〕に対する責任(accountability)から逃れなければならなかった。
 (23)ボルシェヴィキが提案して、第二回ソヴェト大会は、古いイスパルコムを解任し、新しくそれを選出した。そのうちボルシェヴィキは、58パーセントの議席を占めた。
 この編制によって、一団として投票するボルシェヴィキ派がどんな提案に対しても採択したり却下したりすることができることとなった。しかし、ボルシェヴィキは依然として、左翼エスエルおよびメンシェヴィキという騒々しい少数派と競い合う必要があった。
 エスエルとメンシェヴィキは十月のクーの正統性を承認するのを拒否し、ボルシェヴィキが政府を形成する権利を持つことを否定した。
 左翼エスエルは、十月クーを受け容れた。しかし、彼らはあらゆる種類の民主主義的幻想に嵌まっていて、その一つは、ソヴェトに代表される全ての政党から成る連立政権だった。
 (24)ボルシェヴィキが口先でだけ呟いていた原理を、ボルシェヴィキ以外の少数派は真面目に考えていた。それは、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕は内閣の構成やその活動に関して最終的な拒否権をもつ社会主義的立法府だ、という原理的考えだった。
 この権能をCECが有するのは、ソヴェト第二回大会のつぎの決議によっている。それは、レーニン自身が草案を書いたものだった。
 「全ロシア労働者、兵士および農民代議員ソヴェト大会は、こう決議する。
 立憲会議以前の国の行政を行うために、労働者および農民の臨時政府を設立し、それを人民委員会議と称する。<中略>
 人民委員会議の活動を統制(controll)することおよび人民委員会議を交替(replace)させる権利は、全ロシア労働者、兵士および農民代議員大会およびその中央執行委員会に授与される。」(22)
 これほどに明確なものはない。
 それにもかかわらず、レーニンは、この原理をすっかり放擲して、CEC からまたはその他のいかなる外部機関からも独立した内閣を作ると、堅く決めていた。
 彼が国家の長になってから10日以内に、これは達成された。
 (25)ボルシェヴィキとCEC の間に歴史的な対立が起きたのは、後者が他の社会主義諸政党も含めるようにソヴナルコムを広げるべきだとボルシェヴィキに対して強く主張したことによってだった。
 全政党が、ボルシェヴィキが閣僚ポストを全て独占することに反対した。要するに、ソヴェトを代表すべくソヴェト大会で選出されたのであって、自分たちだけの代表ではない。
 この反対論はボルシェヴィキ・クーの3日後には表面化し、危険な様相を帯びた。その日、ロシア最大の労働組合である鉄道被用者同盟が、社会主義政党の連立を要求する最後通告書を提出したのだ。
 1905年10月に記憶を辿らせた者は誰もが、鉄道ストライキがツァーリ体制の崩壊について果たした決定的役割を思い出しただろう。
 (26)全国に数十万の組合員を有する鉄道同盟は、輸送を麻痺させる力を持っていた。
 同盟は、1917年8月にはケレンスキーを支持し、コルニロフに反対した。
 10月には、最初は「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンに賛成した。しかし、幹部たちがボルシェヴィキが利用しているこの語の使い方に気づくや否や、反対に回り、ソヴナルコムは連立内閣に譲れと主張した。(23)
 10月29日、同盟は、政府がすみやかに社会主義諸党を含めるように拡張されなければ、ストライキを命じる、と宣言した。
 これは、ボルシェヴィキにとって重大な脅威だった。ケレンスキーの反攻に備えていたボルシェヴィキには、兵団を前線に送るためには鉄道列車が必要だったのだから。
 (27)ボルシェヴィキは、中央委員会を開いた。
 ケレンスキーに対する防衛を組織化するのに忙しかったレーニンとトロツキーは、出席できなかった。
 二人のいない中央委員会は、一種のパニック状態にあり、同盟の要求に屈服し、「他の社会主義諸党を含めることによって政府の基盤を拡張する」必要性を認めた。
 ボルシェヴィキ中央委員会はまた、ソヴナルコムはCEC が作り出すものであり、CEC に対して責任を負うことを、再確認した。
 その中央委員会は、新しい臨時政府の設立について同盟や他党との交渉をさせるべく、カーメネフとG. Ia. ソコルニコフを代表として派遣した。(24)
 この決定は、本質的には、十月のクーで獲得した権力を譲り渡すことを意味した。//
 (28)その日おそく(10月29日)、カーメネフとソコルニコフは、鉄道被用者同盟が招請していた、8政党と若干の党内組織との会合に出席した。
 ボルシェヴィキ中央委員会決定に従って、彼らは、第二回ソヴェト大会を受容することを条件として、エスエルとメンシェヴィキがソヴナルコムに入ることに同意した。
 その会合は、ソヴナルコムの再構成の時期等を検討する委員会を任命した。
 同盟による最後通告に合致したので、その夜に同盟は、ストライキの中止と警戒しつづけることを各支部に命令した。(25)
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 (16)V. Tikhomirnov in VS, No.27(1918年), p.12.
 (*)Eltsin in VS, No. 6/7(1917年5月), p.9-p.10.
 この著者は、中央委員会と政府の指令にもとづいて作成されたこの文書は「ロシア諸国を集合させる」過程を開始するものだ、と主張する。この言葉は伝統的には近代初期のモスクワに当てはまるものだ。
 (17)Pietsch, Revolution, p.77.
 (18)J. Bunyan & H. H. Fischer, The Bolshevik Revolution, 1917-18: Documents and Materials(Stanford, Calif., 1934), p.277.
 (19)L. Martov in Novyi luch, No. 10/34(1918年1月18日), p.1.
 (20)Pietsch, Revolution, p.80.
 (21)S. Studenikin, ed., Istoria sovetskoi konstitutsii v dekretakh i postanovleniiakh sovetskogo pravitel'stva 1917-1936(Moscow, 1936), p.66.
 (*)こうした趨勢は、政府が地方ソヴェトへの財政援助を拒否したことで弱くなった。
 ペトログラード〔中央政府〕は1918年2月、地方ソヴェトからの財源要請に答えて、富裕階級への「仮借なき」課税によって財源は獲得すべきだ、と伝えた。これにつき、PR, No. 3/38(1925年), p.161-2.
 この指令によって地方政府は、それぞれの地域の「ブルジョアジー」に対して恣意的に「寄付金」を課すこととなった。
 (22)Dekrety, I, p.20.
 (23)A. Taniaev, Ocherki po istorii dvizheniia zheleznodorozhnikov v revoliutsii 1917 goda (Fevral'-Oktiabr')(Moscow-Leningrad, 1925), p.137-9.
 (24)Protokoly Tsentral'nogo Komitera RSDRP(b): August 1917-Fevral'1918(Moscow, 1958), p.272. およびRevoliutsiia, VI, p.21.
 (25)Revoliutsiia, VI, p.22-23. P. Vompe's Dni oktiabrskoi revoliutsii izheleznodorozhniki(Moscow, 1924). これは、鉄道被用者と労働者の会合の詳細を内容としていると言われているが、私には利用できなかった。
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 ③へとつづく。

2184/レフとスヴェトラーナ-第2章①。

 レフとスヴェータ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
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 第2章①。
 (01) レフは3台のトラックとともにモスクワを出発した。その車は、クラスノプレスネンスカヤ義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
 数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
 〔ドイツの〕第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
 驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
 レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
 何が進行しているのか、誰も知らなかった。
 至るところに、混乱があった。
 (02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、ヴャジマの方向に運転した。
 暗くなり、地図もなかった。
 トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
 深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
 朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツの戦車は森林から出て路上に現れていたのだ。
 まもなくソヴィエトの砲兵たちは砲台を捨て(弾薬を残さなかった)、戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
 レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
 オー・デ・コロンの香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷の殺菌剤を彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が銃弾で壊れたのだ。幸いにも、彼には傷がなかった。
 (03) レフは、森深く入り込んだ。
 部隊を見失った数百のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
 レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
 持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用のナップザックだけだった。
 昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
 夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わろうと期待して。
 (04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
 暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
 森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
 膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
 小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
 レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
 弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
 二人の兵士がいた。彼の頭を殴った男は銃剣で彼を刺して、生きているか死んでいるかを確かめていた。
 レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。//
 (05) レフは一人ではなかった。
 10月の第一週に、ドイツのヴャジマ包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
 レフは、スモレンスク外郊にある通過収容所、Dulag〔Durch-gangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
 他の者たちと同様に、そこでレフは、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
 数百人が寒さと飢え、あるいはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。//
 (06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の収監者団の一人となった。
 その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
 彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
 廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
 収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
 第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
 酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練されたと口をすべらした。
 彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
 数日後に、カティンへと出立した。//
 (07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、カティンのスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
 その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り還す。
 レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないかと怖れた。
 それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
 ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。//
 (08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
 「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
 大尉は何も言わなかった。
 レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
 そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
 かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されたかもしれない。//
 (09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってスモレンスクに連れて行かれた。
 運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
 トラックは、曲がって森に入っていった。
 レフは、射殺される、と思った。
 彼は、思い出す。
 「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
 我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
 射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
 十分に自己抑制できるだろうか?
 自殺した方がよくはないか?
 トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃しても、その方がましではないか。」
 レフは飛び降りる準備をした。
 だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
 ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
 大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
 そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れようと、一緒になって努めた。
 (10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク・アム・オーデル近くにあった。
 病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
 死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
 レフは、所長と二人の将校から尋問を受けた。
 ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを尋ねた。
 レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、ようやく彼らはユダヤ人ではないと納得した。//
 (11) 4月、レフは小グループのソヴィエト将校とともにベルリン郊外の「教育収容所」〔Ausbildungslager〕へと送られた。
 「教育」(training)の意味は、ナツィ・イデオロギーとヨーロッパのためのドイツ新秩序に関する講義を受けることだった。そうした思想を、他の強制収容所にいる彼らの仲間のソヴィエト人捕虜に伝えることが想定されていた。
 6週間、教師たちの講義を聴いた。教師たちのほとんどはロシアからのエミグレで、授業用原稿に忠実にゆっくりと読んだ。
 そして5月、将校たちは多様な収容所へと散って行った。
 レフは、オーシャッツ(Oschatz)のコップ・ガーベルラント(Kopp and Gaberland)軍需工場に付属した作業旅団(work brigade)に組み入れられた。//
 (12) オーシャッツは、ライプツィヒとドレスデンの間の、捕虜強制労働収容所(Stammlager、又は略してStalag)がある巨大な工業地域の中心地だった。
 レフは、軍監察部隊の通訳として働かされ、そのあと8月に、ライプツィヒのHASAG(フーゴ・シュナイダー株式会社)工場に移された。
 HASAGは、ドイツ陸空軍の兵器を製造している大きな金属工場群だった。
 1942年夏頃には、このHASAGに、多様な民族(ユダヤ、ポーランド、ロシア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、フランス)の約1万5000人の捕虜がいるいくつかの捕虜強制収容所があった。二つの地区があって、一つは「ロシア」、もう一つは「フランス」と名付けられていた。
 レフはフランス地区に自分だけの箱部屋を与えられて住み、E・ラディク(Eduard Hladik)というチェコ人付きの通訳を割り当てられた。この人物の役目は、捕虜強制収容所内部での紛争を処理することだった。
 ラディクの母親はドイツ人だったが、彼は自分をチェコ人だと思っていた。
 彼は、ドイツによる1938年のチェコ併合の後に、HASAG 収容所の護衛兵としてドイツに徴用された。
 ラディクは、捕虜強制収容所に対して気の毒さを感じた。そして、捕虜たちがドイツの勝利のために働いているとき、彼らをひどく扱うという感覚を理解することができなかった。
 レフは収監者として、ライプツィヒの街路でラディクに付き添っているとき、落ち込みつつ歩かなければならなかった。
 かりに通りすがりの者がレフを侮辱すれば、ラディクはこう言ってレフを守っただろう。「答え返すことのできない人間に悪態をつくのは簡単だよ」。//
 (13) ラディクは、レフを信頼できる人物だと見ていた。
 レフの性格には、彼について責任がある人々を魅惑する何かがあった。-彼の誠実さはたぶん又はきっと、同じ言語で人々と話すことができる、ということだけによって感じたのかもしれないが。
 チェコ人のラディクはレフの助けとなり、彼にドイツの新聞を与えた。捕虜強制収容所の者へのこのような行為は、軍事情勢に関する正確な報告を示してしまうがゆえに禁じられていた。また、-強制収容所で見せられるプロパガンダ用の紙と異なり-スラヴ人は「二級人間だ(sub-human)」と書いてあったからだ。
 感染防止を名目にしてラディクはレフを兵舎区域の外に連れ出して、自分の友人を訪れる際に連れて行きすらした。その友人はE・レーデル(Eric Rödel)という社会主義者で、ロシア語を少し話し、ソヴィエトの放送局を受信して聴くことのできるラジオを持っていた。
 レーデルは元SA(突撃隊)将校の上の階に住んでいたので、そうした聴取はきわめて危険なことだった。
 レーデルとその家族は、レフを貴重な客として受け入れた。
 レフは、思い出す。
 「我々は長い間歩いた。<中略>すると、エリック〔レーデル〕はラジオを合わせ、私はモスクワからの『最新ニース』を聴いた。それはソヴィエト情報局からの軍事速報だった。
 今では番組の内容を記憶していない。しかし、-奇妙なことに十分に-放送上の一つの文章が私の心を捉えた。『ジョージアでは、茶葉の収穫が行われた。』」
 (14) やがてドイツは、ラディクを疑うようになった。
 別の護衛兵の一人が彼を非難して、反ドイツ活動をしていると追及した。ラディクは尋問を受けるために召喚された。
 彼は、ノルウェイの前線へと送られた。
 通訳として働き続けたくなくなって、レフは、収容所当局に対して、自分のドイツ語は不正確である可能性が十分にあるという理由で、義務を免じてくれるよう申し込んだ。
 「プロパガンダの仕事をする能力がない。なぜなら、私には説得の技巧がない-科学者にすぎないのだから、とも私は述べた」。
 11月〔1942年〕に、レフは、オーシャッツのコップ・ガーベルラント軍需工場に付属の作業旅団へと送り還された。//
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 第2章②へとつづく。

2182/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
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 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
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 ②へとつづく。

2180/レフとスヴェトラーナ-第1章④。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章④。

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 (34) 1940年1月、レフの祖母が死んだ。
 スヴェータは、レフがヴァガンコフスコエ墓地に彼女を埋葬しているとき、彼のそばにいた。
 (35) その翌月、レフは、(ロシア語でFIANとして知られる)レベデフ物理学研究所の技術助手になった。
 彼はまだ大学の最終学年にいたが、FIANで仕事を始めたばかりの物理学部時代の友人のナウム・グリゴロフから推薦されたのだった。これは、研究の途に入るよい機会だった。
 FIANという名は、ロシアの物理学者で物体に反射されるか吸収される光が与える圧力を最初に測定したピョートル・レベデフに因んでいた。そのFIANは、原子物理学研究の世界的中心の一つで、その研究計画の先端には宇宙線研究があり、レフはそれに参加するようになった。
 レフは昼間は勉強していたため、実験所では夕方勤務で仕事をした。
 スヴェータは、遅くまで図書館にとどまり、物理学部からミウスキ広場のFIANまで3キロを歩くことになる。
 彼女は中庭のベンチに座って、レフを待った。レフはいつもだいたい8時に姿を見せて、彼女の家まで一緒に歩いた。
 あるとき、レフは疲れていて実験所で眠り込んでしまい、9時過ぎまで目覚めなかった。
 スヴェータはベンチで、じっと彼を待った。
 寝入ってしまったと彼が言ったとき、スヴェータは笑った。
 (36) その夏、レフは、コーカサスのエルブルス山に科学調査旅行に出かけた。
 FIANは高山の中に研究基地をもっていて、レフのグループはそこで、宇宙線が地球の大気圏に入ってくる間際のその効果を研究することができた。
 レフはその基地に3カ月いた。
 スヴェータに書き送った。
 「山を登って、昨日に早くも我々の小屋に入った。雄大だ。恐ろしく強い願望が出てきて、忘れられない思い出になる。」
 その間のスヴェータは大学の夏季休暇で、クレムリン近くにコンクリート造りで建設されていたレーニン図書館で働いていた。そして、レフに手紙を書いた。
 「図書館の前には可愛らしい広場がある。知ってますか?
 そこには灌木や花が、いっぱい植えられている。
 わたしの誕生日には、誰が花束を贈ってくれるつもりかしら?」
 レフの予定では、9月1日にコーカサスから帰ってくることになっていた。その日はスヴェータが23歳になる10日前で、彼は誕生日にはいつも花を贈っていた。
 その日までは、スヴェータは手紙を読んで済ますしかなかっただろう。
 「1940年8月3日
 レヴェンカ!
 今日家に帰って最初にしたかった事は、自分宛ての手紙が来ていないかと尋ねることだった。
 でも、きみに関して、みんなが僕を慰め始めた。それで僕は、待っているのはイリーナのハガキだというふりをした。
 しかしそのときにターニャが-とても強調して-、イリーナからのハガキはないけど、きみからのものがあるに違いないと知ってる、と言った。
 それでターニャにくっついて部屋から部屋を回り(きみが好きなように部屋を回れるように、扉はみんなまだ開けられていた)、ターニャに、きみからの手紙をおくれよと頼んだ。
 きみのママは最後には僕を憐んで、きみの手紙を僕に渡してくれた。」
 スヴェータは、自分についての新しいニュースを彼に書いた。
 彼女は、図書館での常勤の仕事を提示されていた。
 「私よりいい人物を、彼らは見つけないでしょう。
 部屋のレイアウト、部屋の押入、戸棚、みんな私は知っている。<中略>
 内外の定期刊行物を知っていて、ローマン・アルファベットの知識でもって、中国語以外のどの言語で書かれていても、雑誌の月、年、名前と価格を、私は探し出すことができる。<中略>
 私には肩の上に頭があって、最優秀の脳でいっぱいではなくとも、綿毛が詰まっているわけではない。<中略>
 ヴェラ・イワノーヴァは、一年後にはグループ主任になれる、と言いました。
 一生ずっと図書館に居続けるのを望むのなら、これは経歴としてはよいスタートでしょう。
 でも、私は一生全部を図書館で過ごしたくはない。<中略> 月曜日に、断わるつもりです。
 レフ、私の健康のこと、心配しないで。
 私の気分が私の身体状態によっているか、身体状態が気分によっているかのどちらかだと、貴方に言いました。
 ともかく、貴方は私が手書きしたものから、私は冷静で困難を抱えていないと分かるでしょう。私には痛みも、病気のような何も、ないのです。
 ママは、私には肺炎がある、と言います。
 その理由-私が痩せたこと。
 でも、知っているでしょう。何よりも困難だと考えていたダイエットのおかげです。そして他には、どんな兆候もありません。」//
 (37) 1941年6月、レフは、FIANの同僚たちとエルブルス山への第二次調査旅行に行くことになっていた。
 6月22日の日曜日の朝、彼のチームは研究所にいて、旅行の準備を終えようとしていた。
 レフはよい気分だった。
 大学での最終試験に合格したばかりで、学部委員会からこう告げられていた。卒業生のうち4人だけを選んで、宇宙線研究の計画のためにFIANに進むよう仕事を割り当てた、と。
 レフは、そのうちの一人だつた。
 彼は、6月6日の集合場所から、スヴェータの家族に手紙を書いた。
 「いまここは、かなり混乱しています。
 それで、我々の見通しについて、正確なことは何もお知らせできません。
 多少とも分かっているのはただ一つ、徴兵委員会が軍事業務に我々を召喚するままでは、ここで生活して研究をするだろう、ということです。」//
 (38) レフは、戦争の勃発に動揺していた。
 数日の間、これが何を意味するのか考え及ぶことができなかった。
 モスクワでの研究と生活、スヴェータとの関係。-全てが今や空中に消え失せた。
 「我々は、戦時にいる」。彼は不安げに内心で語りつづけた。//
 (39) レフは前線へと自発的に志願していたけれども、責任ある地位に就くのを怖れていた。
 スターリンのテロルによってソヴィエト軍は絶望的に将校の数に不足しており、レフのような新参者は、戦闘をする兵士たちを指揮すべく召喚された。
 わずか2年の軍事教練の後で、レフは、青年少尉の階位に達していた。これが意味したのは、30人の兵士から成る小隊の責任者に配置される可能性がある、ということだった。だが、彼には、戦術上の自信がなかった。
 レフは最終的には、6人の学生と2人の大学卒業生から成る小さな補給〔兵站〕部隊の指揮者に任命された。
 自分のように経験がなくも彼が失策を冒しても労働者階級出身の兵士たちよりは自分を許してくれるだろうと考えて、彼は、学生たちの小隊であることを幸運だと感じた。//
 (40) レフの部隊は、モスクワの兵站基地から前線の通信大隊へと補給物品を移すこととされていた。
 彼の指揮のもとに、2人のトラック運転手、2人の作業員、料理人、会計官および在庫管理者がいた。
 前線に向かう途中で、彼らは、ソヴィエトのプレス報道によるプロパガンダが伝えない混沌とした状況を見た。
 モスクワでは、ソヴィエト軍はドイツ軍を撃退していると報道されていた。しかし、レフは、ソヴィエト軍が混乱しつつ撤退していることを知った。森の中は兵士や民間人でいっぱいで、多数の道路が、モスクワ方面の東へと逃亡する避難者で塞がれていた。
 莫大な数の人々が、殺されていた。
 7月13日までにレフは、ドイツ軍によって包囲された都市、スモレンスク近くの森に到達した。
 「スヴェティーク、我々は森の中にいて、日常的な仕事をしている。<中略>
 私はここで、全員に食糧を与えるものと考えられている。全員とは、たんに喚くだけで食べたいものを求めてこない、ほとんどが高級の将校たちも含めて、だ。<中略>
 ある程度はよい点もある。-食料庫までの旅の間は、比較的に自由だ。
 スヴェータ、きみが僕に手紙を書き送ることのできる場所は、絶対にない。-みんな、ある日からその翌日まで、自分たちがどこにいるのかを知らない。
 きみから報せを聞く唯一の方法は、旅の間に立ち寄ってきみの家で逢うことだ。
 それがいつになるのかは、分からない。」
 (41) モスクワと前線の間の何回かの旅で、レフは、兵士たちとその縁戚者のために手紙を運ぶことになる。
 彼はまた、陸軍倉庫を訪れている間に、スヴェータと家族に逢っただろう。
 スヴェータには逢えなかったが両親に逢えたのは、7月中の旅の1回だった。二人はレフに「食べ物と水を与え」てくれた。そのとき彼は、スヴェータ用に、手紙を残した。
 9月初めの2回めの訪問のときは、スヴェータは大学に戻っていた。
 レフが彼女の家族と連絡を取っておくのは、彼女と過ごすのとほとんど同様に重要なことだった。自分がどこかに属している、と感じさせたからだ。
 最後の訪問の一つのとき、スヴェータの父親は、彼に一枚の紙を渡した。それにレフは、4人の親しい友人とソヴィエト同盟の多くの都市にいる親戚の者たちの住所を記した。これらの住所にいるのは、レフが前線にいて不在の間にスヴェータとその家族がモスクワから避難する場合に、彼が助けを求めるはずの人々だった。
 レフは、多くを語らなかった。しかし、スヴェータの父親が、レフを息子だと考えていることは明瞭だった。
 (42) 最後にモスクワを訪れたことがあった。
 レフには、これがスヴェータと逢う最後の機会だと分かっていた。前線の大隊に送る補給物品の貯蔵はもう何もない、と聞かされていたからだ。
 運転手にあとで会おうと言って、レフは貯蔵庫からスヴェータの家へと走った。
 彼女は家にいそうではなかった-一日のど真ん中だった。しかしともあれ、誰かに別れを告げるために行く必要があった。
 たぶん、スヴェータの母親か妹なら、家にいるだろう。
 レフは、ドアをノックした。扉を開けたのは、スヴェータの母親のアナスタシアだった。
 レフは玄関廊下に入り込んで、モスクワにあと数時間だけいる、その後で離れて前線へと出発する、と説明した。
 彼は、感謝と別れの言葉を告げたかった。
 レフは、母親にキスをすべきかどうか分からなかった。
 アナスタシアは、大して温かみや感情を示さなかった。
 彼はお辞儀をして、玄関ドアへと向かった。
 しかし、母親が彼を止めた。「待って。貴方にキスをさせて」と彼女は言った。
 彼女は、レフをしっかりと抱き締めた。
 彼は、母親の手に接吻をし、そして去った。
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 第1章、終わり。もともと、各章に表題はない。

2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。


 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第1節・権力掌握後のレーニンの戦略。
 (1)1917年10月26日、ボルシェヴィキは、達成したとして主張するほどにはロシアに対する権力を掌握してはいなかった。
 その日に非合法に召集して支持者だけを詰め込んだソヴェトの残留派大会で勝利したのだが、限られた、一時的な権威しか持たなかった。
 政府はソヴェト中央執行委員会に責任を負い、立憲会議の招集を待って一カ月以内に退任するものとされていた。
 ボルシェヴィキがこれを実現するのには、三年間の内戦が必要だった。
 不安定な立場にあったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、ほとんど直ちに、歴史に知られていない類型の体制、つまり一党独裁制の基礎を築いた。//
 (2)10月26日、ボルシェヴィキには三つの選択肢があった。
 まず、党が政府だと宣言することができただろう。
 ついで、党を政府へと解消することもできた。
 さらに、党と政府を別々の装置として維持し、外部から国家を指揮するか、または接合させる人員を通じて執行の段階で国家と融合するか(1)、のいずれかを行うことができた。
 以下に述べる理由で、レーニンは上の第一と第二の選択肢を採るのを拒絶した。
 彼は、第三の選択肢のうちの二つの間で、少しばかりは躊躇した。
 もともとは、前者に傾いていた。すなわち、国家の長であるよりも、党の長として統治するのを選んだ。それは全世界のプロレタリアートの、最初の政府だった。
 しかし、見てきたように、彼の同僚たちはレーニンが十月のクーの責任を避けようとしていると考え、多くの者が反対して、レーニンに諦めるように迫った。(2)
 その結果として、クー・デタの数時間以内に発生した政治システムでは、党と国家は別の独立した一体のままで存続し、組織としてではなく人員によって執行の段階で融合する、ということとなった。執行段階で融合したものは、とりわけ内閣だった(人民委員会議ないしソヴナルコム)。この内閣で、党の指導者たちが全ての閣僚ポストを占めた。
 こうした組織編制のもとで、党官僚としてのボルシェヴィキは、政策決定を行い、国家部署の長としてそれを執行した。その目的のために、一般官僚機構や保安警察も利用した。
 (3)このような仕組みは、ヨーロッパやその他の世界の左翼や右翼による一党独裁制形態の多様な後裔を育むこととなる、そのような統治類型の起源だった。そしてそれは、議会制民主主義に対する主要な敵または代替選択肢として出現することとなった。
 それの際立つ特徴は、執行権と立法権の集中だった。もちろん、権力は、立法、執行および司法の各権能の全てが、「支配党」という私的組織の手に委ねられる。
 かりにボルシェヴィキがすみやかに他の全ての政党を非合法にしたとすると、「党」という名称をそれらの組織に用いることはほとんどできない。
 「党(the Party)」-これはラテン語のpars または〔英語の〕一部(part)に由来する-は、部分は全体ではあり得ないがゆえに、その定義上は排他的なものであることができない。
 従って、「一党国家」は、用語上は矛盾している。(3)
 それよりも幾分かは良く適合するのは「二重国家」で、この語は、のちにヒトラーが確立したものと類似した体制を叙述するために、新しく作られた。(4)
 (4)この統治類型には、ただ一つだけ、先行例があった。不完全で部分的に実現されたのみだが、いく分かモデルになったものがある。すなわち、フランス革命期のジャコバン体制だ。
 フランス全体にいた数百人のジャコバン・クラブは、厳密な意味では政党ではなかったが、ジャコバン派が権力に到達する前にすでに、その特徴の多くを身につけていた。
 すなわち、クラブ構成員は厳格に統制され、投票の際はもちろんのこと綱領への忠誠さが要求され、パリのジャコバン・クラブはナショナル・センターとして行動した。
 1793年秋から、1年のちのテルミドール・クーまで、ジャコバン・クラブは、公式には行政部と混合することなしに、全ての執行部署を独占することによって統治の支配権を掌握し、政府の政策に対する拒否権までもつと呼号した。(5)
 ジャコバン派がもう少し長く権力の位置にいたならば、純粋な一党国家を生み出したかもしれない。
 実際に、ジャコバン派は、ロシアの専制的伝統に依りかかりながらボルシェヴィキが完成形を作るための、模範的原型を提供した。//
 (5)ボルシェヴィキは、革命を起こした後に発生すべき国家について、大して多くは思索してこなかった。自分たちの革命は即座に全世界を無視し、ナショナルな政府を一掃することを当然のことと考えていたからだ。
 ボルシェヴィキは、進む過程で一党国家を改良した。そして、それに理論的な基礎を与えてみようとは何ら試みなかったけれども、一党国家制は、彼らが実現した成果のうちで最も長続きのする、影響力が最も大きいものとなった。//
 (6)レーニンは自分が無制限の権力を行使するだろうことを何ら疑わなかったが、彼が「ソヴェト民主主義」の名前のもとで権力を奪取したことを考慮せざるを得なかった。
 ボルシェヴィキは、自分のためにではなくソヴェトのためにクーを実行した。-彼らの党の名は、〔ペトログラード〕軍事革命委員会のどの声明文にも出てこなかった。
 彼らのスローガンは、「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 彼らの権威は、条件つきで一時的なものだった。
 虚構がしばらくの間は、維持されなければならなかった。この国はいかなる政党に対してであれ、権力を独占することを許さなかっただろうからだ。//
 (7)ボルシェヴィキが支持者と共感者を詰め込んだ第二回ソヴェト大会の代議員たちですら、ボルシェヴィキに独裁的な大権を与えるつもりはなかった。
 ボルシェヴィキが正統性の根源だと主張してきた大会の代議員たちは、彼らが代表するソヴェトはどのようにして政治的権威を再構築しようと意図しているかについて意見を求められたとき、つぎのように回答した。(6)
  ①全ての権力をソヴェトへ/        505(75%)
  ②全ての権力を民主主義派へ/        86(13%)
  ③全ての権力をカデット以外の民主主義派へ/ 21( 3%)
  ④連立政権/                58(8.6%)
  ⑤無回答/                 3(0.4%) 
 この反応は、多かれ少なかれ、同じことを語っていた。すなわち、親ボルシェヴィキ・ソヴェトがどのような政府を意図しているかを正確に知らないとすると、誰も単一の政党が独占的権力を持つとは予想していなかった、ということだ。
 実際に、レーニン直近の同僚たちの多数も、他の社会主義諸党をソヴェト政府から排除することに反対した。そして、レーニンとその一握りの最も献身的な支持者(トロツキー、スターリン、F・ジェルジンスキー)がそのような方向に固執したとすれば、それを理由として、抗議して辞任しただろう。
 これが、レーニンが直面していた政治的現実だった。
 やむを得ず彼は、一党独裁制を導入しているときですら、「ソヴェト権力」という外装の背後に隠れつづけた。
 民衆の中にある圧倒的に民主主義かつ社会主義の感情は、不確かに分散していたがなおも強く感じられたものだった。レーニンはそれによって、新しい名目上の「主権者」であるソヴェトの外皮を纏う国家構造には手をかけないように強いられた。一方では、権力の全ての網を、自らの手中に収めていっていたのだけれども。//
 (8)しかし、国の雰囲気によってレーニンがこの欺瞞を永続化させるのを強いられなかったとしてすら、彼が国家を通じて統治するのを選んで国家から党を切り離しただろうことには、十分な根拠がある。
 一つの要因は、ボルシェヴィキの人員不足だ。
 普通の状態でロシアを統治するには、公的なおよび私的な、数十万人の働き手が必要だった。
 あらゆる形態の地方自治が消滅して経済が国有化された国家を経営するには、その数の何倍もの人員数が必要だった。
 1917-18年のボルシェヴィキ党は、この仕事をやり抜くにはあまりに小さすぎた。
 いずれにしても、信奉者がきわめて少なく、かつそのほとんどは生涯にわたる職業的革命家だったので、行政についての専門知識がなかった。
 そのゆえに、ボルシェヴィキには、直接に行政をするのではなく、旧来の官僚機構とその他の「ブルジョア専門家」に依存し、行政官僚を統制すること以外には、選択肢がなかった。
 彼らはジャコバン派を模倣して、例外なく、全ての機関と組織にボルシェヴィキの人員を投入した。-その人員たちは国家にではなく党に対して、忠誠し服従する心構えがあった。
 信頼できる党員たちの必要性は切実だったので、党は、指導者たちが望んだ以上に急速に膨張し、出世主義の者たちを、純粋で使いやすいならば、入党させなければならなかった。//
 (9)党を国家とは別のものにした第三の考慮は、国家とは、国内または外国からの批判から党を守る手続のごときものだったことだ。
 ボルシェヴィキには、民衆が圧倒的に自分たちを拒否するときですら、権力を譲り渡す気持ちが全くなかったので、彼らは身代わり(scapegoat)を必要とした。
 これが国家官僚機構となるはずなのであり、党は無謬であるふりをしている間に、この官僚機構が失態について責められるだろう。
 ボルシェヴィキは、外国で破壊工作をしつつも、ロシア共産党という「私的組織」の仕業であってソヴィエト政府は責任を負うことができないと主張して、外国からの抗議をかわすことができることになる。//
 (10)一党国家のロシアでの確立は、建設的なまた破壊的な、多様な手段を必要とした。
 その過程は実質的には、1918年の秋までには完了した(そのときに、ボルシェヴィキが全ての中央ロシアを制圧した)。
 その後でボルシェヴィキは、この仕組みと実務を国境諸国に移植した。//
 (11)まず真っ先に、「ブルジョア」的なものはむろんのこと帝制時代的なものを含めて、全ての旧体制の残滓を根こそぎ廃絶しなければならなかった。地方自治の諸機関、政党とそれらの機関紙、軍隊、司法制度、および私的所有の制度。
 革命のこの純然たる破壊的段階は、奪い取るのではなく旧秩序を「粉砕する」のだとの1871年のマルクスの指示を実行するものだった。そして、諸布令がそれを定式化していた。だがそれは、主としては自然発生的アナキズムによってなし遂げられたもので、そのアナキズムは二月革命によって生まれ、ボルシェヴィキが強く燃え上がったものだった。
 当時の者たちは、こうした破壊的作業は愚かなニヒリズムによるものと見ていた。しかし、新しい支配者にとっては、新しい政治的および社会的秩序が建設されていく道を掃き清めることを意味した。//
 (12)一党国家体制の建設が困難だった一つの理由は、ボルシェヴィキが民衆のアナキズム的本能を抑制して、人々が革命によって永遠に解放されると考えたはずの紀律を再び課す必要があった、ということにあった。
 その必要があって、民衆的「ソヴェト」民主主義が出現する新しい権威(vlast')の構築が呼びかけられたが、実際に復活したのは、新しいイデオロギーと技術を備えたモスクワ絶対主義体制だった。
 ボルシェヴィキ支配者たちは、彼らの名目上の主人であるソヴェトに対する責任から免れることが、最も切迫している課題だと考えた。
 次いで、立憲会議から逃れる必要があった。彼らは自分たちでその招集を行っていたが、その立憲会議は確実に、ボルシェヴィキを権力から排除する可能性があったからだ。
 そして最後に、ソヴェトを党の従順な道具に変形させなければならなかった。//
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 (1)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.140.
 (2)N. Sukhanov, Zapinski o revoliusii, VII(Berlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.266.
 (3)R. M. Maclver, The Web of Government(New York, 1947), p.123.
 (4)E. Frankel, The Dual State(London-New York, 1941).
 (5)C. C. Brinton, The Jacobins(New York, 1961).
 (6)K. G. Kotelnikov, ed., Vtoroi Vserossiiskii S"ezd Sovetev R. iS.D.(Moscow-Leningrad, 1928), p.107.
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 第2節につづく。第2節の目次上の表題は、<レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を逃れる>。
 R・パイプス著1990年の初版。これには、「1899-1919」は付いていない。


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2177/レフとスヴェトラーナ-第1章③。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章③。
 (23) 大学生生活を始めたとき、レフは祖母(当時82歳)と一緒に、モスクワ北西のレニングラード・プロスペクト通りの共同アパートに住んでいた。
 彼の少し変わった「オルガ叔母さん」もそのアパートに一室をもち、彼女の夫と住んでいた。
 レフと祖母が生活していたのは、狭くて暗い部屋だった。一方の端に彼用のシングル・ベッドがあり、一方の端にはトランクがあって、その上に祖母が間に合わせのベッドを作っていた。踏み台に脚を乗せていたのだ。
 突先の窓のそばには机があった。レフのベッドの上には、ガラスが前面にある小さな飾り棚があって、集めた化学器具や本を保管していた。ロシア文学の古典作品もあったが、主としては数学と物理の本だった。
 スヴェータが訪れたとき、彼女はレフのベッドに腰掛けて、話をしたものだ。
 オルガ叔母さんはアパートの廊下にいて、二人の動きに注意深い目を向けた。
 教会にきちんと行く厳格な叔母さんはスヴェータがやって来るのに同意せず、レフに対して、何かが進行していると思っているとはっきり言った。
 レフはこう言ったものだ。「彼女は大学での友人にすぎない」。
 しかし、オルガは、レフの部屋のドアの側に立って、「証拠」を求めて耳を澄ませていた。//
 (24) レフとスヴェータが本当に自由になれる場所は、田舎にあった。
 毎年夏に、スヴェータの家はボリスノコブォにある大きな別荘を借りていた。そこは、モスクワ西北70キロの所にある、イストラ河岸の新開地だった。
 レフは彼らを訪れることになる。ときにはモスクワから自転車で、ときにはマニヒノまで列車に乗ったあとでボリスノコブォから一時間歩いて。
 レフとスヴェータは、一日全部を林の中で過ごすことになる。河岸に横たわり、詩を読む。夕闇が近づくと、レフは最終列車に乗るために別れるか、長い自転車旅行で戻って行く。//
 (25)1936年7月31日、レフは列車でやって来た。
 ひどい暑さで、マニヒノから歩いた後には汗まみれだった。それで、スヴェータの家に姿を見せる前にボリスコヴォ近くの川で少し泳ごうと決めた。
 下の肌着だけになって、レフは飛び込んだ。
 泳ぎは上手でなかったので、河岸沿いに進んだが、強くて大きな流れが来て彼を運び去り、レフは水中に入り始めた。
 河岸に釣り人がいるのをちらりと見て、レフはその男に向かって叫んだ。「溺れる、助けて!」。
 釣り人は、何もしてくれなかった。
 レフはまた水中に潜って、二度目に浮上したとき、もう一度助けを求めた。-そしてまた水中に沈んだ。
 か弱な自分では助からない。スヴェータの家のすぐ近くで死ぬとは、何と愚かなことだろう!
 そして彼は、気を失った。
 覚醒したとき、河岸に横になっていて、そばに釣り人がいた。
 呼吸を整えようともがきながら、後ろに立っている、助けてくれた釣り人を一瞥した。そして、どうして飛び込んで助けてくれなかったのかと小言を言った。
 その男が誰かを知ってきちんと感謝を言う前に、その男は離れて行った。
 レフはその日を、スヴェータとその家族と過ごした。
 スヴェータと妹のターニャがレフと歩いて村の端まで行って、別れを告げ、駅まで行く彼を見送った。
 その村で、レフは自分を救ってくれた人物を知った。
 その人物は、一人のもっと年配の紳士と二人の女性と一緒にいた。
 レフは彼に感謝を述べ、名前を尋ねた。
 年配の人が答えた。「私は教授のシンツォフで、これは義理の息子で技師のベスパロフ。そして、それぞれの妻だ」。
 もう一度彼らに感謝して、レフは駅に向かった。その駅では、公共ラジオ放送局がサン=サーンスの<序奏とロンド・カプリチオーソ>を流していた。
 D・オイストラフが美しいバイオリン・ソロを弾くのを聞きながら、彼は、生きている、という強い感覚に包まれた。
 彼の周りにあるものは全て、前よりも力強くて生き生きしていると感じた。
 助かった!
 スヴェトラーナが好きだ!
 音楽を聴いている間ずっと、彼は喜んでいた。//
 (26) 人生は、心もとない喜びで溢れている。
 1935年、スターリンは、生活は良くなり、明るくなっている、と発表した。
 以前よりも購買できる消費物品が、ウォッカ、キャビアも、増えている。、ダンス・ホールや楽しい映画も増えた。だから、人々は笑いつづけることができ、共産主義社会が樹立されれば到来する明るい燦然とした未来への確信を抱きつづけることができる。
 その間に、逮捕者リストがスターリンの政治警察、NKVD によって準備されていた。
 (27) 少なくとも130万人の「人民の敵」が1937-38年の大テロル(Great Terror)の間に逮捕された。-そしてその半数は、のちに射殺された。
 この計算された大量殺戮とはいったい何だったのか、誰にも分からなかった。-被害妄想症のスターリンによる潜在的な敵の殺戮で「社会的異物」に対する戦争なのか、それとも、こちらの方がありそうだが、国際的緊張が高度に達したときの戦争の事態に備えた「信頼できない者たち」の予防的な選抜的間引きだったのか。
 テロルは、社会全体を揺るがせた。
 生活の全分野が、影響を受けた。
 隣人、同僚、そして縁戚者が、一夜にして突然に「スパイ」のレッテルが貼られることが起きた。//
 (28)ソヴィエト物理学の世界は、とくに傷つきやすかった。理由の一つは、軍事にとっての実際的な重要性であり、また一つは、イデオロギー的に分かれていたからだ。
 モスクワ大学物理学部は、そうした精神状況の中心だった。
 一方には、ユリ・ルメルやボリス・ゲッセンのような若い研究者のグループがあった。彼らは、アンイシュタイン、ボールおよびハイゼンベルクの物理学の擁護者だった。
 他方には年配の教授たちがいて、この者たちは、相対性理論や量子力学は「観念論」で、弁証法的唯物論、マルクス=レーニン主義の「科学的」基礎とは合致しない、と非難した。
 イデオロギー上の分裂は政治的にも強化され、唯物論者たちは、量子力学の支持者は、外国に旅行して西側科学の影響を受けているがゆえに「非愛国的だ」(つまり潜在的な「スパイ」だ)、と責め立てた。
 1936年8月、レフとスヴェータが第二年次を始める直前に、ゲッセンが、「反革命テロリスト組織」の一員だという嫌疑を受けて逮捕された。
 ゲッセンは、のちに射殺された。
 ルメルは1937年に、大学から追放された。//
 (29) 学生たちは、警戒するように求められた。
 コムソモルの学生たちは、縁戚者が逮捕された学生仲間と対立した。そして、彼らが縁戚者を非難できないならば大学から追放されるべきだ、と主張した。
 他学部では多くの学生が追放されたが、物理学部ではより少なかった。物理学部には、強い学友団体意識があったのだ。
 1937年の事件のあとでレフを救ったのは、この共同体意識だった。//
 (30) モスクワ大学では、軍事教練は昼間部学生たちの義務だった。
 その学生たちは、戦争の際には動員される予備将校軍団に入るよう義務づけられていた。
 物理学部の学生たちには、歩兵隊の司令部のポストが用意されていた。
 軍事教練の中には、ウラジミルの近くで二回の夏を野営する、というものもあった。
 1937年の第一回の野営での主要な指示者は、大学の学生で構成されていない連隊の若い司令官へと、最近に昇格した人物だった。
 その人物は、エリート物理学者を200メートル走らせ、次いで同じ距離を行進させる、ということを際限なく繰り返して、彼らを訓練するのを愉しんだ。
 権威をもつ人間が少しばかり苛めるのを見たときに口を閉ざすのは、レフの性格ではなかった。
 ついには、レフは抗議して叫んだ。「我々の指揮官は、馬鹿だ!」。
 その声は指揮官の耳に十分に達した。彼はレフについて、当局に報告した。
 問題は、モスクワ軍事地区の党地区委員会にまで上げられた。党委員会は、「労働者農民赤軍の司令武官に対する反革命的トロツキスト的煽動」を行ったとしてレフをコムソモルから除籍した。
 翌9月、レフは、大学に戻った。
 レフはこの事件の結果がさらに大きくなるのを怖れて、自分のコムソモルからの除籍を取消すよう、党地区委員会に訴えた。
 軍事地区の司令部は彼を召喚し、事件に関する彼の見解を聴取し、除籍を撤回して、その代わりに、「非コムソモル行動」があったとして「厳重な譴責」(strogii vygovor)をした。
 これは幸運な逃げ道だった。
 レフはのちに、この措置は大部分は委員会への訴願書を書いて自分の名前を署名した物理学部の3人の勇気によるものだ、と知ることになる。
 レフは物理学部の学生たちにとても好かれていたので、彼らはレフを守るために危険を冒したのだった。
 彼らが連帯を明らかにすることは容易に裏目に出て、彼らの逮捕につながり得ることだった。三人のグループは当局の目からすると、すでに「組織」と性格づけられるものだったのだから。
 (31) このエピソードは、レフとスヴェータの二人を一緒にさせた。
 二人の関係は大学の第二年次の中頃に冷たくなっていて、しばらくはお互いに逢わなかった。
 中断して、突然に友人たちのグループから離れたのは、スヴェータだった。
 レフは、理解できなかった。
 前の夏には二人は毎日出逢い、彼女は彼の写真を欲しがりすらした。
 彼らの多くの友人たちは結婚していった。そして、レフも、二人もまもなく結婚するのではないかと望んだに違いなかった。
 そのときに、何の予告もなく、スヴェータは離れて行った。
 スヴェータはこの時期を振り返って、陰鬱な気分のせいだったとする。-彼女が一生のうち長くを苦しんだ抑鬱状態だ。
 彼女はのちに、レフに宛てて書くことになる。「私は私たちの関係をダメにして、-神はその理由を知っていますが-貴方をひどく苦しめていると、何度も自分を責めました」。
 (32) レフが困難に陥っていると知って、スヴェータはすぐに彼に戻った。
 つづく3年間、二人は離れなかった。
 レフは朝に、スヴェータの大学への通学路で彼女と逢うことになる。
 彼は講義の終わり時間に彼女を待ち、レニングラード・プロスペクト通りまで連れて帰って、彼女のために料理したり、あるいは二人で劇場や映画館へ行き、歩いて彼女の家に戻った。
 二人の関係にとって、詩は重要な要素だった。
 二人は一緒に詩を誦み、お互いに詩を交換し、新しい詩を紹介したりした。
 アフマトーヴァとブロクはスヴェータが好きな詩人だったが、彼女はエレナ・ルィヴィナの詩も好きだった。ある夕方にモスクワの通りをずっと歩きながら、彼女はルィヴィナの詩をレフに朗誦して聞かせた。
 「あなたのタバコの輝き
  最初は消えそうになって、また燃え上がる
  私たちはロッシの通りを通り過ぎていく
  街頭のランプが空しく光っているところを」
 「私たちの出逢いは 短い
  一歩、一瞬、一息よりも短い
  親愛なる建築屋さん、どうして
  あなたの通りはこんなに短いの」
 (33) レフが遅くまで仕事しなければならず、スヴェータと逢えないときは、ときどき彼は、夜中に彼女の家の脇を通ったものだ。
 このような場合、レフはこんなノートを残した。
 「スヴェトカ!
 どうしているか知りたくて、明日のことを思い出させるためにやって来た。
 明日は29日だ。あの場所で、逢おう。
 もう遅いし-11時半だ-、きみの二つの窓はもう暗くて、他の二つもうす暗いから、アパートに入り込むだけするのはやめると決めた。
 入り込んだら、みんなを起こして、怖がらせるだろう。
 自由だったら、僕に逢いに来て下さい。
 お母さんと妹さんによろしく。」
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 ④へとつづける。

2175/R・パイプス著第11章第14節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 (1)当時のロシア住民の圧倒的大多数は、何が起こっているかを少しも知らなかった。
 二月革命以降は共立執行部として行動してきたソヴェトが、名目上は、完全な権力を掌握した。
 このことは、革命的な事件だとはほとんど思えなかった。すなわち、二月革命の最初に導入された「二重権力」の原理を、論理的に拡張したものだった。
 トロツキーがソヴェトへの権力移行だとボルシェヴィキによる権力奪取を誤認させたことは、素晴らしい成功だった。
 民主主義的社会主義者たちが二月と三月に導入した実務を、ボルシェヴィキの目的のために巧妙に利用したのだ。トロツキーは十月の事態をふり返って、こう自慢した。
 欺瞞がもたらした結末は、事実上何ら気づかれることなく、見かけ上は、新しい政府の危機をたんに「合法的」に解決したにすぎない、ということだった。
 (2)トロツキーは、つぎのように書く。(230)//
 「我々はこの蜂起を『合法的』だと称する。それは、二重権力という『正常な』状態から発展した、という意味でだ。
 宥和主義者たち〔エスエルとメンシェヴィキ〕がペトログラード・ソヴェトを支配していたとき、一度ならずソヴェトは、政府の決定を阻止し、あるいは訂正させた。
 こうした実務が、いわば歴史的には『ケレンスキー主義』として知られる体制の基本的構造の一部のごとくになった。
 ペトログラード・ソヴェトで権力を奪った我々ボルシェヴィキは、この二重権力の方法を拡張させ、深化させたにすぎない。
 我々は、(前線に対する)連隊の派遣に関する命令を抑止する権限をもった。
 我々はこのようにして、二重権力の伝統と実践の背後に、ペトログラー連隊の事実上の反乱を隠蔽した。
 それに加えて、権力の問題に関する我々の煽動を第二回ソヴェト大会のタイミングに合わせることによって、我々は二重権力の確立された伝統を発展させ、深化させたのだ。そして、ボルシェヴィキの蜂起のソヴェトによる『合法化』という枠組みを、全ロシア的規模で用意した。」
 (3)十月クーの社会主義という目標を隠したままにしたのも、欺瞞(deception)だった。
 まだ不確かだと感じられていた新体制が最初の週に発した公式文書は、「社会主義」という語を使わなかった。
 これが考え抜かれたもので見落としではないことは、つぎのことで分かるだろう。すなわち、レーニンは、臨時政府は廃止されたと宣言する10月25日の元々の草案では、「社会主義、万歳〔Long Live〕!」と書いていた。だが、宣言時には考え直して、その部分に線を引いて消した。(231)
 最も早い「社会主義」の語の公式な使用は、レーニンが書いた11月2日の日付のある文書に見られる。その文書は、「中央委員会は、社会主義革命の勝利を完全に確信する」と述べていた。(232)
 (4)こうしたこと全てによって、劇的な事件が起きたという意識が発生するのを抑え、公共の不安を和らげ、そして活発な抵抗を全て阻止する、という効果が生じた。
 十月のクーの意味に関する無知ががいかに広がっていたかは、ペトログラード株式取引所の反応が、よく例証しているだろう。
 当時のプレスによると、体制変化によって株取引は「まったく影響されなかった」。あるいはまた、ロシアに社会主義革命が起きたという、すぐそのあとの発表によってすら同じだった。
 クーの直後の日々には有価証券の取引はほとんどなかったけれども、価格は安定していた。
 神経質さを示したのはただ一つ、ルーブルの価値の急落だった。
 10月23日と11月4日の間に、ルーブルは外国での交換価値の二分の一を失い、アメリカ・ドルに対して、6.2から12~14へと安くなった。(233)
 (5)ほとんど誰も、臨時政府の崩壊を慨嘆しなかった。
 一般民衆はそのことに完全に無関心に反応した、と目撃者は報告している。
 ボルシェヴィキが頑固な抵抗を打ち破らなければならなかったモスクワについてすら、同じことが言えた。
 モスクワでは、政府が消失したことは気づかれなかった、と言われる。
 街頭を歩いている人々は、事態はたぶん少しも悪くはならないだろうと考えたために、誰が政権に就いても違いはない、と感じていたように見える。(234)//
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 (230)L.トロツキー, Sochineniia, III, Pt. 1(Moscow, n.d.), L.
 (231)Dekrety, I, p.2.
 (232)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.68; Lenin, PSS, XXXV, p.46.
 (233)NZh, No. 173/167(1917年11月5日), p.1.
 (234)NZh, No. 171/165(1917年11月3日), p.3. French CounsulのE. Grenard はペトログラードでの同様の反応を報告する。La Revolution Russea (Paris, 1933), p.285. 地方については、Keep in Pipes, Revolutionary Russia, p.211 を見よ。
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 第14節終わり。そして、第11章も終わり。

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
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 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
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 最終第14節へ。

2173/レフとスヴェトラーナー第1章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章②。
 (12) ボルシェヴィキは、1919年の秋に、ベリョゾボにやって来た。
 彼らは、白軍と協力していると見なされた「ブルジョア」の人質を逮捕し始めた。白軍は反革命軍で、内戦の間はこの地域を占拠していた。
 ある日、ボルシェヴィキは、レフの両親を連れて行った。
 4歳のレフは、祖母と一緒に行って、両親が地方の監獄にいるのを見た。
 父親のグレブは他の9人の収監者と一緒に、大きな獄房に入れられていた。
 レフはそこに入るのを許され、父親の側に座った。その間じゅう、看守がライフルを持って入口の傍らにいた。
 「あのおじさんは、狩猟家なの?」
 レフが尋ねると、父は、「あのおじさんは我々を守ってくれている」と答えた。
 レフの母親は、独房にいた。
 彼は母親に、二度会いに行った。
 その最後のとき、母親は一椀のサワー・クリームと砂糖をレフに与えた。それらは、彼の訪問が記憶に残るように、収監者への配給金で買ったものだった。
 (13) ほどないうちに、レフは病院に連れていかれた。母親は死にかけていた。
 彼女は、たぶん看守に、胸部を狙撃されていた。
 レフが病室の入り口にいたとき、看護婦が、不思議な赤い拍動する物体を手にして彼の側を通りすぎた。
 それを見て怯えて、祖母が別れを告げるように彼に言ったとき、レフは病室内に入るのを拒んだ。だが、入口辺りから、祖母がベッドの上に行って、母親の額に接吻するのを見ていた。
 (14) 葬儀は、町の大きな教会で行われた。
 レフは、祖母と一緒に行った。
 開いた棺の正面にある椅子に座ったが、彼は小さくて中をのぞき込んで母親の顔を見ることができなかった。
 だが、棺の後ろから、色彩に富むイコノスタスで描かれた表面を見ることができた。そして、蝋燭の光で、レフは、棺の頭部の真上に神の御母のイコンがあるのに気づいた。
 彼は、神の御母の顔は自分自身の母親とよく似ていると思った、と記憶している。
 レフの父親は、葬儀のために監獄から一時釈放され、護衛に付き添われて、彼の傍らに姿を見せた。
 「別れを言いに来た」とある婦人が語るのを、レフは聞いた。
 しばらくの間、棺の側に立ったのち、父親は去っていった。
 レフはのちに、教会の外の共同墓地にある、母親の墓を訪れた。
 新しく掘り上げられた土塚は雪とは反対に黒く、その頂上には誰かが木の十字架を置いていた。
 (15) 数日のちに、祖母は彼を、同じ教会での第二の葬礼に連れて行った。
 今度は、イコノスタスの正面に低く並べられた10の棺があった。全て、ボルシェヴィキによって殺害された犠牲者たちだった。
 そのうちの一つが、レフの父親だった。
 父親の獄房の収監者たちはみな、同時に射殺された。
 彼らがどこに埋葬されているのかは、知られていない。
 (16) 1921年の雨が少ない夏、飢饉がロシアの農村地帯を襲った。そのとき、レフは祖母と一緒にモスクワに戻った。
 ボルシェヴィキは、「ブルジョアジー」に対する階級戦争を一時的に中止した。その結果、モスクワの残存中間階層がもう一度生活することが可能になった。
 彼の祖母は、小取引者と商店主が住む地区であるレフォルトヴォで20年間、助産婦として働いていた。そして、彼女とレフはこのときにその地区に引っ越して、遠い親戚と一緒に生活した。
 彼らは1年間、祖母が奇妙な看護婦の仕事をしている間、一室の角を-カーテンの裏のふつうのベッドと簡易ベッドで-占有した。
 1922年、レフは、「カーチャおばさん」(ヴァレンティナの妹)に引き取られた。彼女は、クレムリンから石を投げれば届く距離のグラノフスキ通りの共同住宅で、二番目の夫と暮らしていた。
 レフはそこに1924年まで滞在し、そのあと母親の叔母のエリザヴェータのアパートに転居した。この人は以前は女子高校の学校長で、その住居はマライア・ニキツカヤ通りにあった。
 レフは思い出す。「ほとんど毎日、カーチャおばさんが我々を訪れてくれた。そうして、私は、女性たちの影響と世話がつねにある状況の中で成長しました」。
 (17) 三人の女性たちの愛情は-三人ともに自分の子どもがなかった-母親を失ったことの埋め合わせにはならなかっただろう。
 だが、それによってレフには、女性一般に対する尊敬が、あるいは畏敬の念すらが、生まれた。
 女性たちの愛情に付け加えられたのは、彼の両親の親しい友人たちのうちの三人による、精神的かつ物質的な支援だった。彼らはみな、一定の金額を定期的にレフの祖母に送ってきた。三人とは、アルメニアの首都のエレヴァンにいる名付け親の医師、モスクワ大学の音響学教授のセルゲイ・ルジェフキン(「ゼリョザ叔父さん」)、年配のメンシェヴィキで言語学者、技師および学校教師のニキータ・メルニコフ(「ニキータ叔父さん」)で、レフはニキータを「二番めのお父さん」と呼んだ。
 (18) レフは、ボルシャヤ・ニキツカヤ通りにある、以前は女子ギムナジウムだった男女共学の学校へ通った(男子または女子だけの学校は、ロシアでは1918年に廃止されていた)。
 両翼をもつ古典的19世紀の邸宅が使用されていて、レフが通い始めた頃の学校はまだ、その時代の知識人たちの雰囲気を保っていた。
 多数の教師たちは1917年以前も、その学校で教えていた。
 レフのドイツ語の教師は、以前の校長だった。
 幼年組の教師は有名なウクライナの作曲家の従兄弟で、彼のロシア語の教師は作家のミハイル・ブルガコフに縁戚があった。
 しかし、レフが10歳代の1930年代初頭には、学校教育は工業技術を中心とする教科課程に移行していて、工学の勉強はモスクワの工場と連結していた。
 工業技術者が、実際的な指示や実験をして学校で授業をし、子どもたちが工場での実習生になるよう準備させることになる。
 (19) ヴゾフスキ小路にあったスヴェータの学校は、レフの学校から大して遠くはなかった。
 二人がこの当時に出会っていたならば、二人はどうなっていただろうか?
 彼らの出自は、かなり異なっていた。-レフはモスクワの中流階級の出身で、彼の祖母の正教の価値観はレフの躾け方にも反映されていた。一方、スヴェータは、技術系知識人たちのもっと進歩的な世界で育ってきた。
 だが二人には、多くの共通する基本的な価値と関心があった。
 二人ともに、年齢にしては成熟しており、真面目で、賢く、考え方に自主性があった。そして、プロパガンダや社会的因習からというよりも自分たちの経験で形成した、開放的な探求心のある知性を持っていた。
 この自立性は、のちの彼らに大きく役立つことになる。
 (20) スヴェータは1949年の手紙で、自分は11歳のときどんな少女だったかを思い出している。反宗教の運動が、ソヴィエトの諸学校で頂点に達していた頃のことだ。
 「学校の他の子どもたちより、私は大人びていたように思える。<中略>
 その頃、私は神や宗教の問題について、とても悩んだ。
 隣人たちは信仰者で、ヤラは彼らの子どもたちをいつもからかっていた。
 でも、私は割って入って、信仰の自由を擁護した。
 そして、神に関する問題を、自分で解決した。
 -神なくして、我々は永遠のことも創造のことも、理解することができないだろう。私が神の肝心な所を見ることができないのは、神が必要とされていないということだ(神を信じる他の人々には神が必要かもしれないが、私は必要としていない)。こう、結論づけた。」
 (21) レフとスヴェータはともに、その年齢の頃までに、真面目に働いて責任感をもつという気風が生んだ人間という、巧妙な作品に育っていた。
 スヴェータの場合は、イワノフ家の教育の結果だった。家の多数の雑用をこなすとともに、妹のターニャの面倒を見る責任もあった。レフの場合は、必要をもたらしたのは、彼の経済的境遇だった。
 レフは学校に通っていた間ずっと、祖母の少ない年金を埋め合わせるために、働かなければならなかった。
 (22) まだ15歳にすぎなかった1932年、レフは夜間の仕事をしていた。それは、ゴールキ公園とソコルニキ間の、モスクワで最初の地下鉄路線の建築工事の作業だった。
 彼は街路を横切るルートを測定したのち、大部分は農民移住者で成る掘削チームに加わった。彼らは、ボルシェヴィキによって強制的に集団農場に入れられるのを避けて、モスクワに溢れるほどにやって来ていたのだ。
 レフは、集団化が引き起こした、次の夏の恐るべき結果を知った。
 急に増えた集団農場から離れ出た人物として、彼は、ウクライナの農村地帯出身の同僚作業員と知り合いになった。その農村地帯は、ひどい飢饉に見舞わられていた。
 その男は「放擲された郷土の村落、死んでいく人々、囲いの中に積み重なった死体」について、悲しい詩を書いた。
 詩がもつ、感情に訴える力にレフは強い印象を受けたが、驚くべき主題にたじろいでしまった。
 「なぜ、そんな恐ろしい情景を作るのですか?」と尋ねると、答えはこうだった。
 「作ってなどしていない」。
 飢饉が存在している。誰にも、死んだ者を埋める体力がない。
 レフは衝撃を受けた。
 それまで、ソヴェト権力とその政策を本当に疑ったことは一度もなかった。
 彼は共産主義青年同盟であるコムソモールの一員だったし、党を信じてきた。
 しかし、その作業員の言葉で、疑いの種子が撒かれた。
 その年ののち、レフは生物教師が組織した校内小旅行で、モスクワ近郊の集団農場へと行った。その教師は熱心なボルシェヴィキ支持者で、「害虫に対する闘争」を演じるふりをして、農場にある遺棄された家屋を使っていた。
 その家屋内には、聖職者が持っていた書物を燃やした残り滓があって、その中には、レフの祖父がかつて読んだがソヴェト体制のもとではもはや用無しの言語である、ギリシア語で書かれた聖書も含まれていた。
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 ③へとつづける。

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
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 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2067/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義②。
 (9)修正主義者たちは、これら全ての問題について、民衆一般のそれと合致するように要求した。
 しかしながら、彼らは、民族主義的または宗教的議論ではなく社会主義やマルクス主義の論拠を用いた。そして、党生活やマルクス主義研究に関連する要求も提示した。
 この点では、歴史上の異端者たちと同様に、「根源への回帰」を訴えた。すなわち、システムに対する批判論の基礎にしたのは、マルクス主義の伝統だった。
 とくに初期の段階では、一度ならず、レーニンの権威が持ち出された。彼らはレーニンの著作の中に、党内民主主義、統治への「広範な大衆」の参加、等々に関する文章を探し求めた。
 要するに、修正主義者たちは、しばらくの間は、この運動の残存者たちが今でもときどき行っているように、レーニンをスターリニズムに対抗させた。
 しかし、知的な面での多くの成果はなかった。スターリニズムとは、レーニンの基本的考え方を自然かつ正当に継承するものであることが、議論を通じてますます明確になったからだ。
 もっとも、政治的に見れば、彼らの論拠は、自分たちのステレオタイプに訴えかけることで、すでに述べたように共産主義イデオロギーが壊れていくのを助けた、という重要な意味があった。
 状況が特有だったのは、マルクス主義とレーニン主義はいずれも、人間的で民主主義的なスローガンに充ちたものとして語られた、ということだ。それらは、権力システムに関するかぎりでは空虚な修辞用語だったが、当時のシステムに反対するために呼び起こされた。
 修正主義者たちは、マルクス=レーニン主義が語ったことと現実の生活との間のグロテスクな対照を指摘することで、教理自体に内在する矛盾を暴露した。
 イデオロギーは、いわば政治的運動から切り離されるようになった。イデオロギーは運動のたんなる表面にすぎなかったのだが、しかし、独自の歩みをとり始めた。//
 (10)しかしながら、レーニン主義にしがみ付く試みはほとんどの修正主義者たちによってすみやかに放棄されたが、他方で、「真の(authentic)」マルクス主義に回帰するという望みは、より長く継続した。//
 (11)修正主義者たちを党の仲間たちから分かつ主要な論点は、彼らはスターリニズムを批判したということではなかった。
 当時、とくに20回党大会の後では、党員たちのほとんど誰も、異様な力をもってスターリニズムを防衛する、ということがなかった。
 主に批判論の範囲についてすら、違いはなかった。そうではなく、違いは、スターリニズムは「誤り」または「歪曲」だった、あるいは一続きの「誤りと歪曲」だった、という公式の見解を拒否した、ということにあった。
 彼らのほとんどは、スターリン主義システムはその社会的機能の観点からはほとんど誤っておらず、ゆえに悪の根源はスターリンの個人的な性格または共産主義権力の性質以外の「誤り」に求められなければならない、と考えていた。
 しかしながら、彼らがある範囲の時期の間に信じていたのは、共産主義をその基盤を疑問視することなく再建する、または「脱民主主義化」することができる、という意味で、スターリニズムは治癒可能だ、ということだった(その特質のうち基本的なのはは何で偶然的なのは何かはほとんど分かっていなかったけれども)。
 しかし、ときが経つにつれ、このような立場は成り立たないことがますます明瞭になった。すなわち、かりに一党システムが共産主義の不可欠の前提条件であるならば、共産主義システムを改良することはできない。//
 (12)しかしながら、しばらくの間は、マルクス主義の社会主義はレーニン主義改革がなくとも可能であるように、そして共産主義は「マルクス主義の枠組みの内部で」攻撃することが可能であるように見えた。
 このゆえに、反レーニン主義の意味でのマルクス主義の伝統を再解釈する試みが行われた。//
 (13)修正主義者たちは、マルクス主義は検閲、警察や特権といった一元的権力に依拠するのではなく、科学的な合理性という規範的規準に従うべきだ、と要求することから始めた。
 そのような特権的地位は不可避的にマルクス主義の頽廃をもたらし、マルクス主義から生命力を奪う、と論じた。
 マルクス主義は、科学が普遍的に受容する経験的かつ論理的な方法でもって、その存在を防衛することが可能でなければならない。かつまた、マルクス主義研究は、批判から免れる国家イデオロギーへと制度化されてきたがゆえに廃絶されなければならない。
 こうしたことは、理性的論拠でもってこそ各人の地位を守らなければならない、そのような自由な議論があってのみ、一般化することができただろう。
 批判論は、マルクス主義諸著作の未熟さと不毛さを、今ある時代の主要諸問題について適切さを欠くことを、図式性と硬直性を、そしてその教理の主要な構成員だと見なされている者たちの無知を、攻撃した。
 レーニン=スターリン主義的マルクス主義の観念的範疇の貧困さを、全ての文化を階級闘争の用語法で説明し、全ての哲学を「唯物論と観念論の間の闘い」へと還元し、全ての道徳性を「社会主義の建設」の手段に変える、等々の単純な企てを、攻撃した。//
 (14)哲学に関するかぎりは、修正主義者たちの主要な目標は、レーニン主義教理とは対立する、人間の主体性(human subjectivity)の擁護だった、と定式化することができるかもしれない。
 彼らによる攻撃の主要点は、つぎのとおりだった。//
 (15)第一に、レーニンの「反射の理論」を批判した。マルクスの認識論(epistemology)の意味とは全体として異なっている、と論じることによって。
 認識(cognition)とは客体が心(mind)に反射されることではなく、主体と客体の相互作用であり、社会的および生物的要因に規定されているこの相互作用を、世界を複写したものと見なすことはできない。
 人間の精神(mind)は、存在と関係し合う態様を超越することができない。
 我々の知る世界は、部分的には人間によって造られた。//
 (16)第二に、決定論(determinism)を批判した。
 マルクス理論も事実に関するいかなる考察も、とくに歴史に関する決定論的形而上学を正当化しない。
 不変の「歴史の法則」があり、社会主義は歴史的に不可避だという考えは、共産主義に対する熱望を掻き立てるのに一定の役割を果たしたかもしれない、しかしなおそれ以上のものをもった神話的迷信だった。
 偶然と不確実さを過去の歴史から排除することはできない。未来の予言については、なおさらのことだ。//
 (17)第三に、不確定な歴史編纂の定式から道徳的価値を帰結させようとする企てを、批判した。
 かりに間違って、社会主義の将来はあれこれの歴史的必然性によって保障されている、ということが支持されたとしても、そのような必然性を支持するのが我々の義務だ、ということにはならない。
 必要なことは、その貴重な理由のためにあるのではない。社会主義は、「歴史的法則」の結果だと主張されるものの基盤の上に、それを超えたところに、なおも道徳的基礎づけを必要としている。
 社会主義という観念を回復するためには、価値のシステムが先ずは歴史編纂上の教理からは別個に再建されなければならない。//
 (18)こうした批判論は全て、歴史過程および認識過程での主体の役割を回復するという共通の目的を持っていた。
 それらは、官僚制的体制への批判と結びついた。また、党装置は「歴史的法則」に関する優れた見解と知識をもっており、この力の強さにもとづいて無制限の権力と特権をもつのだ、という馬鹿げた偽装に対する批判とも。
 哲学の観点からは、修正主義はすみやかに、レーニン主義と完全に決裂した。//
 (19)修正主義者たちは、批判論を展開する過程で、当然のこととして、さまざまの根拠に訴えた。そのうちある範囲はマルクス主義で、別のある範囲はマルクス主義ではなかった。
 東ヨーロッパでは、一定の役割を実存主義(existentialism)が、とくにSartre の著作が、果たした。多くの修正主義者たちは、Sartre の理論、主体は事物たる地位に還元できないこと、に惹き付けられたのだ。
 別の多数の者たちは、ヘーゲルに着想を求めた。一方では、エンゲルスの科学理論に関心をもった者たちは、分析的(analytical)哲学をエンゲルスとレーニンの「自然弁証法」へと適用しようとした。
 修正主義者たちは、マルクス主義と共産主義に関する西側の批判論や哲学上の文献を読んだ。すなわち、Camu、Merleu-Ponty、Koesler、Orwell。
 過去のマルクス主義の権威は、彼らの議論と批判では二次的な役割しか果たさなかった。
 トロツキーへの言及は、ごく稀れだった。
 ある程度の関心はRosa Luxemburg に向けられたが、それは彼女のレーニンおよびロシア革命に対する攻撃のゆえだった(しかし、この点に関する彼女の書物をポーランドで出版する試みは、成功しなかった)。
 哲学者たちの中では、一時的にはLukács に人気があった。それは主として、主体と客体は統一へと向かうという歴史過程に関する彼の理論に理由があった。
 いくぶんか後に、Gramsci が関心の対象になった。彼の著作は完全にレーニンのそれとは反対する認識(knowledge)に関する理論の概略を含んでおり、それはまた、共産主義官僚制、先進的前衛という党に関する理論、歴史的決定論および社会主義革命への「操作的」接近方法、に関する批判的考察を伴っていた。//
 (20)このときにさらに補強する力を与えたのは、イタリア共産党だった。
 そのときまで生え抜きのスターリン主義者という、それに値する評価を受けていたPalmiro Togliatti は、第20回党大会の後では、ソヴィエトの指導者たちを批判した者として記録に残された。彼の言葉遣いは穏やかだったが、重要なのはその結論だった。
 彼はソヴィエト指導者たちを、スターリニズムの責任の全てをスターリンに負わせ、官僚機構の退廃の原因を分析できなかったとして非難した。そして、世界共産主義運動の「多極化(polycentrism)、すなわち他諸国共産党に対するモスクワの覇権を終焉させること、を訴えるに至った。//
 (21)1950年代の批判運動が東ヨーロッパの他国よりもはるかに進んだポーランドの修正主義は、党知識人から成る多数のグループの作業だった。-哲学者、社会学者、ジャーナリスト、文筆家、歴史家および経済学者。
 彼らは特別のプレスや文学、政治の週刊誌(とくに<Po prostu>と<Nowa Kultura>)に表現の場を見出し、それらは当局に抑圧されるまでは重要な役割を果たした。
 修正主義者だとして頻繁に攻撃された哲学者および社会学者の中には、B. Baczko、K. Pomian、R. Zimand、Z. Bauman、M. Bielińska および、主犯者として抜き出されたこの書物の執筆者がいた。
 修正主義理論を前進させた経済学者は、M. Kalecki、O. Lange、W. Brus、E. Lipinski およびT. Kowalik だった。//
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 ③へとつづく。

2064/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。 
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義①。
 (1)1950年代の後半以降、共産主義諸国の党当局と公式イデオロギストたちは、党員またはマルクス主義者であり続けつつ多様な共産主義教条を攻撃する者たちを非難するために、「修正主義」という語を用いた。
 この言葉には、厳密に正確な意味はなかった。あるいは実際には、スターリン後の改革に反対する党「保守派」に対して、「教条主義」という語が用いられた。
 しかし、原則としては、「修正主義」という語が示唆していたのは、民主主義的かつ合理主義的な傾向だった。
 従来はこの語はマルクス主義に対するBernstein の批判について用いられてきたので、党活動家たちは新しい「修正主義」をBernstein の考え方と連結させようとした。しかし、これら両者の関係は隔たっていて、そうした関係づけは馬鹿らしいものだった。
 積極的な「修正主義者」のほとんど誰も、Bernstein に関心を持たなかった。
 1900年頃のイデオロギー論議の中心にあったものは、もはや話題にならなかった。
 当時に激しい憤懣を掻き立てたBernstein の考えのいくつかは、今では正統派マルクス主義者たちに受容されていた。社会主義は合法的手段で達成し得る、という原則的考え方のように。-全くの戦術上の変化だけれども、イデオロギー的には重要でなくはない。
 「修正主義」はBernstein の読解に因っていたのではなく、スターリンのもとにあった時代に由来していた。
 しかしながら、党指導者がこの用語をいかに曖昧に用いたとしても、1950年代と1960年代には、本当の、能動的な政治的および知的な運動が存在した。その運動は、当面の間はマルクス主義の範囲内で、あるいは少なくともマルクス主義の語彙を使って活動しはしたれども、共産主義の教理に対してきわめて破壊的な効果を持った。//
 (2)1955-57年に共産主義イデオロギーが解体するにつれて、システムに対する攻撃が広がった。
 この時期の典型的な特質は、現存する条件の批判にとどまらず、きわめて活発で目立っていて、全体としてきわめて有効だった、ということだ。
 このような優勢的な力には、いくつかの理由があった。
 第一に、修正主義者たちは「既得権益層」に帰属していたので、大衆メディアや非公開の情報に接近することが十分に容易だった。
 第二に、事柄の性質上、彼らは他のグループよりも、共産主義イデオロギーとマルクス主義について、また国家と党機構について、多くのことを知っていた。
 第三に、共産主義者たちは全ての問題について指導すべき考え方に慣れ親しんでおり、結局のところは党が、活力と主導性をもつ多数の党員たちを取り込んでいた。
 第四に、そしてこれが主要な理由だが、修正主義者たちは、少なくとも相当の期間、マルクス主義の語彙を用いた。すなわち、彼らは共産主義のイデオロギー的ステレオタイプとマルクス主義の権威に訴えかけ、社会主義の現実と「古典」に見出し得る価値と約束の間の差違について、驚かせるほどの比較を行った。
 このようにして、修正主義者は、民族主義または宗教の観点からシステムに反抗した他の者たちとは違って、党内見解について訴えかけたのみならず、党の周囲に反響を与え、覚醒させた。
 彼らの意見には党機構員も耳を澄まし、そしてこれが政治的変化の主たる条件だったのだが、その結果として党機構のイデオロギー的混乱を招くこととなった。
 彼らは、ある程度は共産主義ステレオタイプをまだ信じているがゆえに、またある程度はそれが有効だと知っているがゆえに、党の用語を用いた。
信仰と慎重な偽装(camouflage)の割合がどうだったかは、現在の時点では査定するのが困難だ。//
 (3)生活の全分野に影響を与え、共産主義の全ての神聖さを徐々に掘り崩した批判論の大波の中で、一定の要求や観点は修正主義に特有のものだったが、片方で、一定のそれらは非共産党または非マルクス主義の体制反対者と共通していた。
 提示された主要な要求は、つぎのようなものだった。//
 (4)第一に、批判論の全ては、公共生活の一般的な非中央化、抑圧と秘密警察の廃止、あるいは少なくとも、法に従い、政治的圧力から自立して行動する司法部に警察が従属すること、を求めた。
 プレスの自由、科学と芸術の自由、事前検閲の廃止も、要求した。
 修正主義者たちは党内民主主義も求め、ある範囲の者たちは党内に「分派」を形成する権利も要求した。 
 これらの点で、彼らの間には最初から違いがあった。
 ある者たちは、一般的要求にまで進めることなく党員のための民主主義を要求した。彼らは、党は非民主主義的社会の中にある孤立した民主主義的な島であり得ると考えているように見えた。
 彼らはそうして、明示的にであれ暗黙にであれ、「プロレタリアートの独裁」原理、すなわち党の独裁の原理を受容し、支配党は内部的な民主主義という贅沢物を提供できると想定していた。
 しかしながら、そのうちに、修正主義者のほとんどは、エリートたちだけのための民主主義は存在することができない、ということを理解するに至った。
 つまり、かりに党内グループが許容されれば、そのグループは、そうでなければ発言を否定される社会的勢力のための発言者となり、党内部の「分派」制度は多元的政党制度の代わりになるだろう、ということをだ。
 したがって、政治的諸党の自由な形成とそれに伴う全ての結果か、それとも党内部での独裁を含む一党による独裁か、を選択する必要があった。//
 (5)民主主義的要求の中でも重要なのは、労働組合と労働者評議会の自立性だった。
 「全ての権力を評議会へ」との叫びすら聞こえてきた。-たしかに声高ではなかったが、賃金や労働条件の問題のみならず産業管理にも重要な役割を果たす、労働者評議会の党からの独立という考えは、ポーランドとハンガリーの両国で頻繁に提示された。のちには、ユーゴスラヴィアの例が引用された。
 労働者の自己統治は、当然に経済計画の非中央化につながるものだった。//
 (6)非政党界隈で望まれた重要な改革は、宗教の自由と教会への迫害の中止だった。
 ほとんどが反宗教的である修正主義者たちは、この問題を傍観していた。
 彼らは教会と国家の分離を信じており、その間に拡大していた、宗教教育の学校への再導入という要求を支援しなかった。//
 (7)一般的に提示された要求の第二の範疇は、国家主権と「社会主義ブロック」諸国の間の平等に関係していた。
 全ての社会主義ブロック諸国で、ソヴィエトの監督は多数の分野できわめて強かった。とくに軍と警察は特別で直接的な統制のもとにあり、全ての問題について長兄〔ソヴィエト同盟〕の例に従う義務は、国家イデオロギーの基盤だった。
 民衆全体が鋭敏に感じていたのは、それぞれの諸国の恥辱、ソヴィエト同盟への従属、それによる隣国に対する不躾な経済的搾取、だった。
 しかしながら、ポーランド民衆は全体としては強く反ロシア的だった一方で、修正主義者たちは一般的には伝統的な社会主義諸原理を主張し、民族主義(nationalism)の語法を用いるのを避けた。
 修正主義者たちや他の人々が頻繁に主張した要求は官僚機構員たちが享受している特権の廃止であり、収入の問題というよりも、日常生活の困難さから彼らを解放している超法規的な取り決め-特殊な店舗や医療機関の利用、居住上の優先、等々-にあった。//
 (8)批判論の第三の主要な領域は、経済の管理だった。
 産業を元のように私人の手へと移すという要求はほとんどなされなかった、ということには注目しておかなければならない。
 ほとんどの人々は、産業が公的に所有されていることに慣れ親しんでいた。
 しかしながら、つぎのことが要求された。
 強制的な農業集団化の停止、極端に負担の多い投資計画の縮小、経済への市場条件の役割の拡大、労働者への利潤分配、合理化された経済計画、非現実的な全包括的計画の廃止、起業を妨害している基準や指令の減少、およびサービスや小規模生産の分野での私的および協同的活動の容認。
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 ②へとつづく。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。
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