秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日本会議

2132/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14①。

 西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012年12月)。西尾発言、p.11。
 「歴史的に見ても日本の皇室は女性に対しては常に一貫して民間に開かれていたいうこと。…、皇統という "鎖の輪" に民間の女性がぶら下がっているという形で続いてきた」。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない」。
 上の部分の「緊急避難的な "中継ぎ" 」には編集者によると見られる小文字の注記があり、8名の女性天皇名を記載するとともに、こう書いている(p.13)。
 「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことからの緊急避難的措置で、すべて男系の寡婦か未婚であった」。
 女性天皇否認ではなく、<万世一系>の「神話」について、西尾幹二が同年にこう書いていたことに気づいた。
 西尾幹二・天皇と原爆(新潮社、2012年1月)。p.142、p.145-6。
 「なぜ天皇は唯一のご存在で、ご高貴であるかについて合理的な説明などあってはいけません」。
 「要するに神武天皇以来ずっと続いているのも神話なんであって、神話だから信じるんです。不合理ゆえに信ずるというのが信仰の本質ですから、天皇という問題は、日本人の信仰に深く関わっています」。
 「大東亜戦争は、天皇を中心とした信仰のもとに戦った宗教戦争だったんです」。
 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」。
 ここで西尾は、特定の(であるはずの)「信仰」・「宗教」という語を明記している。
 こう明確には必ずしも発言、執筆はしてこなかったことについては、別に書く。
 つぎの書も、「おもに保守的な読者に提供しよう」とするからか、上のような<万世一系>論、<女性天皇「中継ぎ」>論を、支持するものになっている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011年9月)。
 しかし、まず(推古、皇極=斉明は「中継ぎ」ではない)、持統以下、桓武以前の女性天皇のうち、持統・元明・元正は「緊急避難的」「中継ぎ」の女性天皇だったということも、現在のごく一部にあるらしい「都市伝説」のようなものだ。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちがいう<男系男子>絶対優先ならば、持統・元明・元正は天皇になり得ていない。
 <男系男子>継承一般ではなく、「特定の男子皇族」への継承が優先されたのだ。
 天武-①草壁皇子-②文武-③聖武。いずれの継承のときにも、<男系男子>皇族・天皇就位資格者は、他にもいた。のちに天智天皇の孫の老人・光仁を天皇にするくらいなら、いくらでも候補者はいた。この点は、天武の親王とその母親等について、一覧表または系図関係をきちんと調べて、いずれまた書く。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちでも間違いなく困るのは、聖武-孝謙(女性)という皇位継承だ。
 聖武天皇(701-756、在位724-749)の妃となった光明皇后は、聖武との間に718年、阿倍内親王(のち孝謙天皇)を生み、727年、皇子を生んだ(「基王」または「某王」)。この皇子(男子)はただちに皇太子とされたが、728年に1年も生きずに死んだ。この子の供養のために聖武が発願して創建した寺院がのちに東大寺に発展した、という(場所は現在地と異なる)。
 以上は、つぎの書に依っている。なお、吉川は「基王」につき「某王」説に立つ。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 その後光明皇后は男子を生まなかったようだ。しかし、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自との間に、男子・安積親王が、「基王」の死と同年に生まれていた。母親の違いはあるが、聖武からすれば第二皇子・次男になる。なお、この安積親王の同母の姉が、のちにいったんは光仁天皇の皇后となる井上内親王(聖武天皇の第一皇女)。
 この当時、「長屋王」という皇族がいた(684-729)。天武の孫・高市皇子の子、母は持統・元明の妹の御名部皇女、妻・吉備内親王の父は草壁皇子、同じく母は元明天皇。
 持統の血が入っていないことを別とすれば、光明皇后はもともとは藤原氏の娘(「藤三娘」)で皇族外だったので、「血統」だけでいうと、長屋王の方が聖武天皇よりも上回るとすら言える。
 長屋王の684年出生が正しいとすると、「基王」が死去したとき、44歳前後だ。皇太子の姉、のちの孝謙(718-770)はこのとき、10歳前後だった。聖武天皇は、27歳前後。安積親王は生まれたばかり。
 かりに<男子>を優先すれば、時期次第では長屋王が聖武天皇の後継者の有力な候補になり得るとともに、安積親王の立太子や皇位継承を長屋王が主張し、支援することも十分に考えられただろう。
 しかし、現実には、聖武の子の阿倍内親王=孝謙天皇という<女性>が継承した。
 729年の<長屋王の変>で、「謀反」があるとする「誣告」を契機として、長屋王が妻・吉備内親王とその間の3人の子(全員が男子)および別の男子(計4王子)とともに揃って「殺された」または「自害させられた」ことが大きいだろう。744年、直系男子の安積親王も16歳ほどで死んでいる(暗殺説がある。728-744)。
 このあたりは、八幡和郎もまた、少しは叙述に困ったようだ。p.91。
 ・「皇位継承は混沌としました。/ここで起きたのが長屋王の変です」。
 ・720年の藤原不比等死後「長屋王が最大実力者になりました」。
 そして、<長屋王の変>の背景について、こう推測する。p.91。三千代とは光明皇后の母(県犬養橘三千代)。
 「基皇子を呪詛したとか光明子の立后に反対したともいいますが、阿倍内親王への継承を確実にするために、聖武天皇、皇后、三千代の誰かが主導したのでしょうか」。
 この一文のあたりは、はなはだ興味深い。
 第一に、「安積親王」という直系男子皇族への言及がない。第二に、長屋王による「謀反」は「誣告」=ウソだった、つまり長屋王は無実・無罪だったとするのが定説とみられるが(吉川真司も同じ)、これを断定的には記していない。
 注目されるべき第三は、「阿倍内親王(女性=孝謙)への継承を確実にするため」という推測にとどめている動機について、非難・批判めいたニュアンスがまるでないことだ。
 そして、さらにこう書く。p.92。
 「女帝の即位は、それまではいずれも正統な皇位継承者につなぐためのものでした」。
 ここでの「正統な皇位継承者」とは何か、誰かは当然に問題になるが、続ける。
 「孝謙天皇の即位は、そうした見通しを持ったものではありませんでした」。
 この明記は重要だ。しかし、ここでも非難・批判めいたニュアンスはまるでない。つまりは、男系男子への「中継ぎ」だとは言えないこと(これは実際にも、のちに判明する)を、既成事実としてなのかどうか、八幡和郎もまた肯定していることになるだろう。
 この孝謙=称徳の例を、きわめて僅かな例外と見なすことはできない。西尾幹二らが、「女性の天皇が8人」が「緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です」と言うのは、まっ赤なウソなのだ。なお、こう評しているのは、他の女性天皇についてはそうだった、と認めている趣旨ではない。
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 八幡のつぎの書は、上の著の1年前のものだが、上で指摘した点を、より断定的に強調している。
 八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。p.226-7。
 「長屋王の排除は対立する藤原氏の陰謀のようにいわれるが、不比等と長屋王との関係は良好で次女(ただし母は三千代ではない)を嫁がせているくらいだ」。
 「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり、そこに聖武天皇のあとの阿倍内親王(孝謙天皇)の即位を視野に入れたときに、長屋王と吉備内親王との間の王子たちが競争相手となるのを嫌った阿倍内親王の父母、すなわち聖武天皇、光明子らの意志が反映されて排除したものだろう」。
 これらの全ての言葉を否定はしないが、専門の歴史研究者ではないにもかかわらず、「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり(、…反映されて…)」と、八幡はよくも書いたものだ。
 なぜこんなに傲慢になれるのだろう。そして、この点だけではないが、なぜ、古い時代の事象・事件について、ときどきの「天皇」の側、当時の「政権」側に立った叙述をし続けるのだろう。
 なお、八幡はこの書では、長屋王は「殺された」=「自害させられた」のではなく、「自殺」した、と記述している。p.224。
 「この翌年に、長屋王が謀反の疑いをかけられ、妃の吉備内親王(文武・元正の同母姉妹)とともに自殺するという事件が起きた(729年。長屋王の変)」。
 「疑い」をかけられて「自殺」するのと、「誣告」を根拠に(実質的に)「殺された」というのでは、意味が全くというほど異なっている。前者は、八幡和郎「説」。

2120/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13②。

 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 上の書のうち山口輝臣担当部分から、いくつかを抜粋・要約または引用しておこう。
 私自身を含めて、何らかの通念・イメージ・「思い込み」が形成されてきているので、そうした<通念>とは矛盾するような資史料・文献・事実等を、著者はある程度は意識的に採用している可能性はあるだろう。但し、私が要するに無知・勉強不足だっただけかもしれない。
 まず取り上げたいのは、「宗教」それ自体が、あるいは「神道」がどのようにイメージされていたか、だ。
 第一。旧憲法・旧皇室典範は<宗教宣言>(国家自体の「宗教」に関する記述)を回避したが、伊藤博文による「起案の大綱」はこう書いている、という。p.236。この時期での伊藤の「神道」に関する「認識」等は、相当に興味深い。1888年頃と見られる。新仮名遣いに改める。一文らしきものごとに改行する。
 「欧州においては憲法政治の萌せること千余年、…また宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心これに帰一せり。
 しかるに、我国にありては宗教なる者その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢いを張り上下の心を繋ぎたるも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓にもとづきこれを祖述するとはいえども、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し
 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ
 皇室=神道、ではない、ということが明瞭だ。伊藤は、憲法にもとづく新国家の「機軸」は、「神道」ではなく「皇室」だ、とする。
 このあたりの論述は、山口輝臣の「往々にして明治維新によってすべてが定まったかのように描」くのは「怠惰なうえに明らかな誤りである」(p.219)という理解にもとづく。「神仏分離」を過剰に重視してはならないのだ(同上)。
 太政官と並ぶ神祇官の設置から始まる明治新政権が、かりに「神祇官」=「神道」だとしてもだが、当初から<神道>を中軸にしようとしていた、というイメージは誤っていることになる。
 明治の最初の10年間で、「神祇」に関する国制・所管行政組織も毎年のように変遷していった。
 第二。明治4年(1871年)、<岩倉使節団>が渡米・渡欧するが、同行者の久米邦武は、船中をこう回想している、という。p.222。
 宗教は何かと訊かれそうだ。ある人が「仏教」だと言ったが「仏教信者とはどうも口から出ない」。では何だと問われると、困る。「儒教だ、忠孝仁義」だと言おうとすると、一方で、「儒教は宗教ではない」、「一種の政治機関の教育」だ、と言う。
 「神道を信ずると言うが相当との説」があるが、「それはいかぬ。なるほど国では神道などと言うけれども、世界に対して神道というものはまだ成立ない。かつ、何一つの経文もない。ただ神道と言っても世界が宗教と認めないから仕方がない」。
 かくて「神儒仏ともにどれと言う事も出来ないから、むしろ宗教は無いと言おう」としたが、それはダメだ、「西洋」では「無宗教はいけない」。そういう話になって「皆困った」。
 以上。興味深い、1871年時点に関する回想記だ。
 第三。そもそも明治期、旧憲法制定・施行の頃まで、日本人にとって「宗教」とは何だったのか。山口は、p.223以下で、こう説明・論述している。
 ・「宗教」という語・観念は、「19世紀中頃」に生まれ、「それ以降、はじめて宗教について考えるようになった」。
 ・「宗教」はreligion (又は類似の欧米語)の訳語として「創造」された。その経緯から、ほとんど「宗教」=<キリスト教>だった。
 ・次いで、「~教徒」という語から<仏教>がそれとして意識・観念された=「宗教という名に値しそうなものは日本には仏教しかない」。だが、「それを信じているとは言いにくい」。なぜなら、西洋人がキリスト教を信じているようには「仏教を信じていない」から。/以上。
 要するに、「宗教」という言葉・観念は少なくとも現在よりは相当に狭く、「神道」があっても(むろんこの言葉はすでにあった)、「神道」を簡単に含み入れることができるようなものではなかったのだ。
 第四。むしろ、<神道は宗教ではない>、との理解が一般的だった。山口によれば、つぎのとおりだ。p.232以下。
 ・1884年(明治17年)、政府は「神職・神社を宗教の枠外に置くことと引き換えに、葬儀への関与を禁じた」。これは、キリスト教式の「葬儀」の自由化、「葬儀を独占」したい仏教・僧侶たちの意向を反映するものだった。
 ・「神社が宗教ではないのはおかしい」と感じられるかもしれないが、「この時代の常識」だった。-「藩閥政府は19世紀の常識をもとに、仕組みを拵えた」。当然のことだ、「彼らのような『素人』が、独自の宗教理解を捏造し得たと考える方が、どうかしていよう」(p.234)。
 ・1887年(明治20年)、釈宗演という僧侶は日記にこう書いた。
 「この神道なるものの宗旨は何かと云ば何等の点にあるか。予いまだにその教を聞かざりしも、天下の世論従えば、純然たる宗教とは認めがたきが如し。
 彼の皇統連綿は比類無き美事なれども、これを以て直ちに宗教視することは穏当ならずと覚ゆ」。
 第五。かくして、明治新政権は、山口によると「第三の道」を選択した、という。
 上の釈宗演は、つづけてこう書いていた。
 ・「国教、否帝室の奉教は何なる宗旨なるか」。ひそかに考えるに「仏教にあらずんば必ず耶蘇教ならん」。p.235。
 また、福沢諭吉は1884年に「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」(表題)と新聞紙上で明言し(p.230)、中村正直はすでに1873年に「陛下、…先ず自ら洗礼を受け、自ら教会の主となり、しこうして億兆唱率すべし」と書いていた(同上)。
 現在では信じ難い感があるが、これが<第一の道>だ。つまり、文明開化=西欧化するためのキリスト教の「国教」化だ。
 <第二の道>は、「祭政一致」、つまり「祭」=「神道」という理解を前提としての、「神道と国家」の一体化、つまりは「神道の国教化」だ(この一文も秋月)。
 上に少し触れたように「神祇」に関する所管官庁は変遷する。神祇官→神祇省→教務省→内務省社寺局(p.205参照)。
 山口輝臣によると、「国学者」たちは「祭政一致」・「神仏分離」・「神社の優遇とキリスト教の敵視」を追求した(第一章第3節の表題「学者の統治」)。しかし、藩閥政治家たちの主流派、伊藤・木戸・大久保・大隈重信らは「誤っている」または「行き過ぎ」と考えて、「軌道修正」をした(p.205-6)。
 「国学者たち」は、「素人」政治家によって、1871-2年に「一掃」された(同上)。
 従って、<第三の道>となる。上の第一に紹介したように、伊藤によると、「神道」は「国家の機軸」になり得ず、それとすべきは「皇室」だ。
 繰り返すが、皇室・天皇=「神道」では全くない、ということが興味深い。
 具体的には、憲法の中に「国教」に関する条項を設けない、その点は曖昧なままにする、という「現実的」選択だったのだろう。
 以下、再び山口による。p.239以下。
 ・「天皇を機軸」とするため、「天皇」の存在・その統治権の根拠を「万世一系」に求めた(旧憲法1条)。憲法のほか、皇室典範、その他の告文でも同様。
 ・天皇の「神聖」性(旧憲法3条)は「祭政一致」論者には嬉しいものだったが、<天皇無答責>の旨(伊藤・<憲法義解>)を定めただけ。 
 ・この道は「祭政一致や国教」に関心をもつ人々の「夢を完全には潰さないが、それらのいずれとも異なる道だった」。 
 以上で今回は終える。
 「国体」概念・観念はまだ登場しない。この語は旧憲法・旧皇室典範にはない。
 しかし、山口はつぎの二つは重要な課題のままだったとしている、と記しておこう。p.241。
 ①「天皇家の宗教」は何か。②「天皇が機軸である」とは具体的に何であり、どうすればよいのか。
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 以上は、1890年頃の話。敗戦まで、さらに戦後、いったいどう「展開」したのか。
 1868年~1889年はほぼ20年間。1890年~1945年は、55年間。1945年~2020年は、75年間。日本国憲法(1947年~)のもとで、我々はいったい何を議論してきたのだろうか。
 <神道は日本人の宗教です>、<先ず神道の大祭司としてのお務めを>と一文書くだけで済むのか。

2119/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13①。

 先月から今月、全部を読み終えた書に、以下がある。早いもの順。
 1.本郷和人・権力の日本史(文春新書、2019/2010)。
 2.大津透・神話から歴史へ/天皇の歴史01(講談社、2010)。
 3.小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 最初の二つに関しても、感想・メモを記せば何回もにかはなる。
 すこぶる面白くて勉強になったのは、3.だ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳初版・計三巻、1978)の邦訳書がないことを知って衝撃を受け、日本の<文科系>ないし<人文社会系>情報界・学界への諦念を持ったのが2017年だった(諦念、「そんなものだろう」という気分は変わっていない)。
 上の小倉・山口・天皇と宗教(講談社、2011)は、「衝撃」となったというよりも自分の無知・不勉強を感じた。そして、現在の「右翼」・一部「保守」の言い分の単純さ・幼稚さ・誤謬をあらためて強く思い知らされる。
 とりあえず、備忘のために目次構成をメモしておく。
 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 第一部/小倉慈司(1967-)・「敬神」と「信心」と-古代~近世。
  第1章・国家装置としての祭祀。
   1/大嘗祭の成立、2/令制前の大王の祭り、3/律令制と地方神祇制度の整備、4/伊勢神宮と斎宮、5/神社制度の変化、6/宮中祭祀の諸相。
  第2章・鎮護国家と玉体安穏。
   1/新たなイデオロギーの導入、2/王法と仏法、3/天皇と出家
  第3章・「神事優先」と「神仏隔離」の論理。
   1/「神事優先」の伝統、2/「神仏隔離」の成立、3/神祇から仏教へ
  第4章・天皇の論理-象徴天皇制の原像。
   1/内省する天皇、2/皇室宗教行事の変容。
  第5章・皇室の葬礼と寺院。
 第二部・山口輝臣(1970-)・宗教と向き合って-19・20世紀。 
  第1章・祭政一致の名のもとに-19世紀。
   1/天皇とサポーター、2/祈りの力、3/学者の統治、4/維新と、その後。
  第2章・宗教のめぐみ-19世紀から20世紀へ。
   1/キリスト教との和解、2/第三の道、3/明治天皇の「御敬神」、4/天皇のいる国家儀礼。
  第3章/天皇家の宗教。
   1/皇族に信教の自由はあるのか?、2/宮中に息づく仏教、3/天皇に宗教なし?。
  第4章・国体の時代-20世紀前半。
   1/天皇に絡みつく神社、2/天皇制vs.国体、3/兄の格律、弟たちの反抗、4/国体を護持し得て。
  第5章・天皇制の果実-20世紀後半。
   1/国体の行方、2/象徴を探して。
 以上。
 このように紹介してもすでに、中身が単純ではないこと、もっぱら「神道」に焦点を当てたものでもないこと、は分かる。
 神道または仏教に関するのみの歴史書、天皇を中心とする政治の歴史書や概観書では得られない、概略的な知識が得られる。二人の厳密な意味での共著ではなくいわば「連著」だが、大きな断続感はないのが不思議だ。
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 以下の叙述は、本当に<あほ>であるか<無知>だろう。
 ①櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 **既述のように、「仏教伝来」以前の「神道」とは何か。日本の「神々」はなぜ「神道の神々」なのか。また、神道は「穏やかで、寛容」という形容は、西尾幹二によると<新しい教科書をつくる会>分裂時直前に日本会議の誰かが言ったらしい、<八木(秀次)くんはイイやつですよ>という形容と、いかほどに違うのか。なお、荒ぶる、怒れる、あるいは「祟る」神もある、ということは、常識的なのだが。
 ②櫻井よしこ・月刊正論2017年3月号、p.85。
 「古事記」は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴」を明確に示している。
 **「古事記」が示す「神道の特徴」とは何か。古事記編纂時代に意識されていた<神話>は「神道」なのか? 既述のように、なぜ日本書記ではなく古事記なのか?
 ③櫻井・同上p.85。
 「神道には教義がありませんから、神道は宗教ではないという人もいます。しかし神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 **櫻井のいう「宗教」とは何か。日本書記・古事記編纂時点でもよいが、「宗教」の意味するところは何だったのか。なぜ、<日本化した仏教>をいっさい無視するのか。
 ③平川祐弘・新潮45-2017年8月号。
 「日本では古代から天皇家」は「祭祀」、すなわち「民族宗教のまつりごと」を司どってきた。「天皇家にはご先祖様以来の伝統をきちんと守って、まず神道の大祭司としてのおつとめを全うしていただきたい」。
 **天皇が歴史上一貫して「神道の大祭司」だったかのごとくだが、その際の「神道の大祭司」または「神道」とは何か。
 櫻井よしこや平川祐弘らが「神道」、「宗教」といった基本語彙・概念の意味を探求することなく、勝手に?論述していることは明瞭だ。
 上の小倉=山口著への言及は今回はできるだけ避けるが、小倉著部分には、櫻井や平川らにとっては刺激的な叙述がある。以下は、わずかな例にすぎない。
 1.「天神地祇」=「神祇」(神=天神、祇=地神)」という言葉は中国古文献や「百済本紀」等にも出てくる。「古代朝鮮」にも「神祇信仰」はあった。2.七世紀以降に(大宝令>「神祇令」等により)「神祇信仰」を核とする国家構想が生じた。3.仏教上の「仏」は当時の日本人にとって新しい「神」だった。4.律令国家時代、まだ「神道」という語はない。
 そもそもが「神道」の意味の確定・探求なくして、「蕃神」=仏教との違いやその「大祭司」の意味も全く明からにならない。天皇・皇室と「仏教」との関係の濃淡は時代により異なるが、仏教との関連(仏教による国家鎮護・玉体安穏等)が一切否定された時代はなかっただろう(あるとすれば、これに近いのが戦後の現在かと思われる)。
 既述のことだが、櫻井よしこの「無知」ぶりは、以下にも歴然としている。
 ④櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 ・現行憲法とその価値観が「祭祀」を「皇室の私的行為」と位置づけたのは、「祭祀」は「皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋」であるにもかかわらず、「戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・「国事行為、公的行為の次に」に来ている「優先順位」を、「実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すべきだ。
 上の山口著部分でも触れられているが、天皇・皇室の祭祀を天皇の国事行為の列挙(7条)の中の「儀式を行ふこと」(第10号)に含めず、かつ「神道」=「宗教」の一つと解して20条(とくに3項-<政教分離>を前提にすれば、櫻井よしこがいかに「大いなる間違い」だと喚いても、上のようにならざるを得ない。おそらく間違いなく、櫻井は現行憲法7条10号や20条の条文すら見ていない。
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 日本会議派諸氏のアホぶりはともかくとして、多くの感想が生じ、多くの知的刺激が得られる。
 第一に、山口輝臣の最後あたりの述懐・「好奇心」にも共感するところが大きい。
 <権威>的だけだったとしても江戸時代の天皇には一定の権能があり(それ以前も応仁の乱期を除けば同様だろう)、奈良時代はもちろん、<院制>期にも天皇や前天皇には「権力」そのものがあった。明治憲法下では「統治権の総攬」者だった。現憲法下では、国事行為以外の「国政に関する権能」を持たず、かつ「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」。先だっての外国賓客等を前にしての「即位礼」での新天皇の言葉も、内閣が承認したもので、内閣が作成したと言って過言ではないだろう。「即位」式は「国事行為」だったのだ。なお、従って、<古式>・<伝統的>ではあっても、「神道」式には(可能であっても)法的にはできない。
 国家と国民統合の「象徴」である(にすぎないこと)は古来からの天皇の本来的な地位と意味として、ずっと一貫してきた、とはとても思えない。<万世一系の天皇>と称揚して、いかほどの意味があるのだろうか。天皇条項の積極的・能動的な改正案を提示するならば別として。
 第二に、(律令制前の素朴信仰-)長い神仏両立・習合体制-明治期に入っての「神道」への純化(-「国家神道」)-戦後の公的な「神道」行為の否定(「私的行為」化)、というのはきわめて単純な理解の仕方だ、誤りだ、ということがよく分かる。
 とくに明治改元後の「神仏判然」・「神仏分離」が徹底せず、現在以上にはるかに、天皇・皇室は「仏教」との関係が深かったことが、山口著部分で分かった。このことは、別途紹介するに値する。
 八幡和郎がかつて存したと理解しているらしき<皇国史観>とはいったい何だったのか。存在していても1937年の文部省<国体の大義>以降だろうが、山口によると、この文書自体がなおも「仏教」を排除・否定していない。
 なお、現在でも、①「後七日御修法」という仏事は現在も行われ、②泉涌寺等への「下賜」は継続し、④「師号宣下」も同様で、法然800年「遠忌」の2011年には「法璽大師」が新たに贈られた、という。p.350。
 第三に、天皇・皇室制度に関する政治家の意識として興味深いのは、つぎの記述だ。旧憲法28条(「信教ノ自由」の原則的保障)に関する枢密院での議論を、伊藤博文はこう述べて終結させた、という。これは山口による原文引用ではなく、要旨紹介だろう。p.241。
 <人は100年も生きられないのだから、そんなことはその時々の政治家が考えればよい!>
 「明治の元勲」すらこうなので、政治家ですらない現在の日本の政治運動の活動家や「評論家」類が、自分または自分たちの「利益」のためにだけ<天皇・皇室>に関して論じても、何ら不思議ではない。

2109/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史12。

 「多くの日本人は、今日でもややもすれば、日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来したと解釈せんと欲する傾きがある。
 この誤謬は随分古くからあって、国民的自覚が生ずると同時に、日本人はすでにこの誤謬に囚われていたと言ってもよい。
 維新以前の日本文化起源論とも云うべきものは、最後にこの立論の方法でほとんど確定せられていた。
 日本が支那文化を採って、それに従って、進歩発達を来したということは、だいたいにおいて異論はない。
 もっとも徳川氏の中頃から出た国学者達はこれにさえも反対して、あらゆる外国から採用したものは、すべて日本固有の何よりも劣ったものであり、それを採用したがために、我国固有の文化を不純にし、我国民性を害毒したと解釈したものもあった。
 今日では、その種の議論は何人も一種の負け惜しみとしてこれを採用しないが、しかし、自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていたということだけは、なるべくこれを維持したいという考えがなかなか旺盛である。」
 内藤湖南(1866~1934年)は1924年初版・1930年増補の<日本文化史研究>で、上のように述べた、とされる。
 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)、p.154-5。一文ごとに改行した。
 「日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来した」というのは、おそらくは今日の<日本会議>運動の基礎にある考え方であり、信念だろう。
 西尾幹二が2019年に日本「神話」の歴史に対する<優越>性を語るのも、この始原としての<日本神話>=<日本文化>の、とくに当時の中国に対する<優越性>、少なくとも<自立性>を前提としているのかもしれない。
 また、「自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていた」という理解の仕方を内藤湖南は皮肉っているのだが、櫻井よしこのつぎの文章は、日本の「神道」の基礎の上にその「寛容」さをもって「仏教を受け入れた」のだとしている。まさに、内藤湖南がかつて皮肉ったようなことを述べていることになるだろう。
 櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「理屈ではない感性のなかに神道の価値観は深く根づいている。その価値観は穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 その寛容さを、平川〔祐弘〕氏は……と較べて、際立った違いを指摘するのだ。」
 また、内藤の上の文章は江戸時代の「国学」も批判しているが、これまた櫻井よしこのつぎの一文をふまえて読むと、きわめて興味深い。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「壮大な民族の物語、日本国の成り立ちを辿った古事記は、…、日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示しています。」
 櫻井よしこは日本書記ではなく、(似たようなことが記述されていても)古事記を優先または選択する。
 これは、「国学」者・本居宣長が<純日本性>・<日本固有性>を求めて、日本書記ではなく古事記を選好したことを、おそらく継承しているのだろう。
 日本<神話>といえば漠然としているが、上の一連の<日本会議>的思考と理解の仕方は、つぎのように意外に単純な(・幼稚な)かつ大雑把なものかもしれない。
 日本(・民族)の素晴らしさや固有性・本来性=日本の長い伝統=日本<神話>とくに古事記=天壌無窮の神勅=天皇=万世一系=女性天皇否認。
 最後の部分は、西尾幹二によると<神話>→天皇→女系否認だから、このようになる。
 ところで、白鳥庫吉(1865~1942年)は、上掲書p.120によると、日本<神話>に出てくる(「高天原」・)「夜見」国・「幽界」について、こう書いている。
 「この高天原・夜見国なりが神典〔日本書記〕に見えるばかりで、…観れば、この幽界は太古から国民の信念にあったものと見做すのは困難である。
 思うにこれは、仏教と接触してかの国にいう極楽地獄の思想が影響したのではあるまいか。
 ……、海国に龍城があり、またそこに如意玉があったということは、明らかに仏書から得た知識でなければならぬ。<中略>
 もしもこの考察に誤りがないとすれば、神典の作られたきには仏教が伝搬せられていて、その作者の資料になったということができる。」
 かりにこの白鳥の考察が適切だとすれば、日本書記等の中の「神話」にも、6世紀半ばから後半とされる<仏教伝来>による仏教の影響を受けて作成されたものがあることになる。
 安本美典が邪馬台国=高天原の場所・地名を探求していることを知っていたりするので、さすがに白鳥庫吉を全面的に信頼するとは言わないが、日本神話それ自体が<純粋に日本>的なものではない、つまり中国あるいは東アジアの「伝承」や「物語」の影響を受けているだろうことを一切否定することはできないだろう。
 いかに「日本神話」に根源・始原を求めようとしても、核のない玉葱のごとく、中心は真空で、あるいはそこに空気があってもあっという間に霧散する、そのようなものかもしれない。
 また、「神道」がもともときちんとあって、その「寛容」性のために仏教も伝来できた、という櫻井よしこの「思い込み」も子どもダマしのようなものだろう。
 櫻井は、仏教伝来以前の「神道」とはどのような内容の(と言っても「教義」を確認することはできないのは常識に属する)、どのような儀礼・祭礼のものだったかを、きちんと説明すべきだろう。また、そもそもは、「古事記」=「神道」に立ち戻ることが、なぜ<保守>なのか、という言葉・概念の問題もある。
 内藤湖南、白鳥庫吉の時代からほぼ100年、人間の、あるいは日本人の「知」というのはいかほど「進歩」または「向上」したのだろうかと、感慨を覚える。この二人を絶対視する意図は全くないけれども。
 似たような論点を、明治期後半と、あるいは江戸時代の本居宣長等々と同様に、今日でもあれこれと(櫻井よしこには「単純化」が著しいが)、論じているわけだ。
 かくして、とやや跳ぶが、今年の天皇即位の儀式に「神道」ではなく「中国」風の印象を受けた、とこの欄に私が書いたことも直観的には適切だったように思える。
 天皇・皇室の「内々」の儀礼はともかく、即位の儀礼は、少なくとも文献・絵画等で辿り得るかぎりでの(奈良時代か平安時代初頭の)、決して日本(または「神道」)に固有で純粋なものではなく、仏教かその他の中国思想・儀礼かはともかく、<異国>の雰囲気がすでに混じっていた、それを(純粋な「日本」式または神武天皇の即位礼の様式を確認・創造することができないだめに)明治天皇もまた引き継がざるをえなかった、そして、今上天皇も、ということになるのではないかと思われる。
 聖徳太子の時期から天武・持統の時代に日本は独自の文化性を確立し、主張し始めた、と<日本会議>派の人々は理解したいのかもしれないが、律令制そのものが中国風であり、漢風諡号もまたその後に「継受」または「創造」された。<神仏習合>はすでに、しっかりと根を下ろしていた。
 日本を蔑視する、日本人であることを恥じる、という気は秋月瑛二には全くない。
 ただ、「史実」に知的関心がある。
 最近にあらためて思うのは、日本会議等の「右翼」や一部「保守」派は、明治維新以降約150年の日本の歴史、明治憲法と終戦までのわずか56年間の「明治憲法(・旧皇室典範)体制」を、長い長い日本の「伝統」と意識的に、または無知であるがゆえに、取り違えている、ということだ。
 太政官を筆頭とする律令体制は、形骸化してはいたが、じつは形式的には、明治維新期初頭まで継続していたのではないか、と思われる(きちんとは確認・検証しないで書く)。
 7世紀末ないし8世紀初頭(701年・大宝律令)から<武家政治>を経て19世紀後半まで、何と明らかに1100年以上だ。
 この1100年以上の(少なくとも表面・形式だけは)中国を「模範」とした、少なくとも「影響」を強く受けていた時代と、あるいは<神仏習合>の長い時代と、上の150年や56年の時代とは、どちらか日本の「伝統」なのだろうか。長い「伝統」を否定して切断した、そして神武開闢時代まで「国家」理念を遡らせた画期こそが、明治維新・明治新政府の樹立だった。それは<革新>であって、<保守>でも何でもない。
 また、ナショナリズム発揚ではあるが、ナショナリズムの利用は共産主義・社会主義国家でもあったことで(また、日本共産党もある意味では正確に反米ナショナリズム政党で)、西尾幹二・保守の真髄(徳間書店、2017)の理解するように「共産主義=グローバリズム」では全くない、ということは別に論及する。
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 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)は、「邪馬台国」関係で本棚(というよりも広大な?書庫)から発見したもので、著者の40歳代の書らしく元気がよい。
 「邪馬台国」関連でも面白く、白鳥庫吉(その指導を受けたのが津田左右吉)と内藤湖南の各々による北九州説と畿内説の主張も、各々の「東洋史学」の立論の論脈で位置づけられる必要があることが分かる。
 また、小路田に従えば、明治期以降の敗戦時まで、①(純)日本主義、②アジア主義、③皇国史観、という歴史観の変遷が見られるらしい。②は「大東亜」戦争となり③に直結するのだろう、きっと。
 いずれにせよ、「皇国史観」の時代が、明治期以降をすべて占めていたわけでもない。
 八幡和郎は「新皇国史観」という語を2011年の書の副題に使っていたが、今どき「皇国史観」という語を使うこと自体が<軽率すぎ>、この人物は「歴史」に本当は無頓着であることを示しているだろう。
 小路田(歴史学者、1954-)による歴史学界・アカデミズム(のボスたち?)批判もすこぶる面白いが、機会があれば触れる。

2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。

 <日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①>(№2082・2019/11/22)で、光格天皇と京都・廬山寺の間の関係に触れ、<同07②>(№2096・12/08)で、「慶光天皇廬山寺陵」に言及して写真も紹介した。
 廬山寺の実質的には境内に「慶光天皇陵」があることを述べている一般的文献を、のちに見つけた。
 藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)。p.108-9に、こうある。
 「…京都御苑の清和院御門を出て、三条実方、実美親子を祀る梨木神社を過ぎると右手に廬山寺(<略>)がある。紫式部の邸宅址とされる庭園があり、現在の本堂…。その門に『慶光天皇御陵』と書いた看板が立てられている。
 本堂の右手の道を進むと墓域となるが、その奥に『慶光天皇御陵』がある。
 陵内へは柵で周囲を囲まれているので入れないが、正面奥、前面の両側に石灯籠があり、石の柵に囲まれた、台座の上に二重の塔(多宝塔)のような墓石がある。これが慶光天皇の墓である。」
 以上について、<同07②>(12/08)で紹介した写真のうちの一つをそのまま下の一段めの左に再掲する。
 上掲著は、さらにこう書く。p.109。
 「ちなみに、泉涌寺(<略>)の月輪陵にある江戸時代の歴代天皇の墓石は、慶光天皇の石塔と同じような造りであるが、二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという。」
 「さらにそのすぐ奥、やや左手に小さな円墳が見える。…大正天皇や昭和天皇と同じ円墳である。」
 これらの叙述またはコメントはなかなか興味深く、考えさせられもする。
 著者・藤田覚が実見したのは原著1994年の刊行前だったのだろうから、2019年はそれから25年以上も経っている。私は、本堂の建物近くの「門」の掲示には気づかなかった。また、中央奥の墓基が慶光天皇の陵墓だろうとは推測したが、注意を惹いたのは、台座の上の「二重の塔(多宝塔)のような墓石」のさらに上の九重の円形石部分だった。
 また、上のBはおそらく実見はしないままで月輪陵の墓石は「二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという」と書くが、前者では墓基の上に九重の円形石があるのに対して、ネット上にあった(この欄ですでに紹介した)写真からすると、後者では墓基の脇に正方形の石の九重の石塔が立っているように見える。
 これらは、墓碑・墓基の直前までは一般人は立ち入れないことからする不明瞭さかもしれない(廬山寺でも鉄柵の手前から撮影している。なお、孝明天皇陵の円墳の前に一般人は行けない)。仏教様式における石塔等の位置づけや意味に関する知識が当方に欠けているからでもあるが。
 さらに、上掲書のCには「円墳」の所在に言及がある。気がついていなかったが、確かに、撮った写真には「円墳」らしきものがある。下の一段めの右に拡大して紹介する。但し、上の著者もこれと慶光天皇の墓との関係には少なくとも明示的には言及していない。また、円墳が一つだけしかないようであるのも不思議なような気がする。
 なお、<同07②>(12/08)で廬山寺のすぐ北に隣接する清浄華院にあった(墓石ではない)九重石塔の写真を紹介しているが、「慶光天皇廬山寺陵」の区画内にもこれとほぼ同じの石塔が写真に写っていた。こちらは明らかに慶光天皇以外の皇族についての墓石だ。
 下の二段目に、前者を少し修正したものと後者の写真を紹介する。
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 ところで、藤田・上掲書は、つぎのようにさらに書いている。p.109。
 「慶光天皇御陵」の右手の「白壁の塀で区切られ」た「墓域」には、「江戸時代の公家が多数葬られている」。
 「その中にある中山家の墓所の一角に、ひときわ大きな石塔がある。
 …、正面に『正二位藤原朝臣愛親』、横に文化十一年〔1814年-秋月〕八月一八日と刻まれている」。
 この区画は、この覧で「一般の墓地」の区画と記した部分だと見られるが、私は長方形の区画の奥の方までは入り込まなかった。
 上の「愛親」=「中山愛親」は、光格天皇の実父への「尊号」付与にかかわる<尊号一件>のときの、朝廷側の「議奏」だった
 しかも興味深いことに、藤田の実見にもとづく叙述のとおりだとすると、つぎのことが分かる。
 すなわち、明治天皇の父方の祖父(仁孝天皇)の、そのまた祖父の典仁親王(のちに「慶光天皇」と追号)と、明治天皇の母方の祖父(中山忠能)の、そのまた曾祖父の中山愛親とは、いずれも実質的に特定の廬山寺という仏教寺院に葬られている、ということだ。
 典仁親王-光格天皇-仁孝-孝明-明治天皇。
 中山愛親-忠尹-忠頼-忠能-中山慶子-明治天皇。
 明治天皇は現在の皇統につながる。もっとも、現在の廬山寺(ろざんじ)は、紫式部・源氏物語に関する由緒を優先して強調しているようではある。
 <尊号一件>に関係する「太上天皇」追号の先例等には、さらに別に触れることとする。
 少なくとも江戸時代には「太上天皇」=「院」ではなかったこと、その点で誤解があった。その機会に記すが、この点は、藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)、p.281、を参照。

2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。

 連綿たる「万世一系」の126代とか言うと、きれいに?きちんと?天皇位が継承されてきたようなイメージもある。しかし、三王朝交替説に立たなくとも、いろいろな、中には血なまぐさい皇位をめぐる闘い等があったことも分かる。
 多彩なことがあった、多様な天皇がいたことの一例は、つぎだ。
 全天皇について、少なくとも薨去・崩御後にすみやかに諡号・追号が付与されたのではない(諡号は美称、追号は御所・山稜名に由来する呼称で、正確には意味が違うようだが、使い分けない)。
 少なくとも、つぎの三天皇は、明治期になって「新しく」名称が決定されている。
 1は、記紀においてすら、天皇だったことが、つまり天皇に即位していたことが、否定されいてた。 
 2・3は天皇に該当する人物だとはされていたが、公式の歴史書を含めて、固有の名称(諡号・追号)が長い間なかった。これは日本史のシロウトには喫驚すべきことだ。数字は現在の皇統譜上のもの。
 1/大友皇子→「弘文」天皇(39代)。
 天智天皇(38代)の子。母は伊賀采女宅子。正妃は天武(40代)の子の十市皇女。葛野王は子で、葛野王の孫の淡海三船は曽孫。「壬申の乱」で天武・持統(41代)側に敗北する。
 2/廃帝・淡路廃帝→「淳仁」天皇(47代)。
 天武(40代)の子の舎人親王の子、つまり天武の孫で大炊王とも。舎人親王の母は新田部皇女で持統ではない。いったん天武の子の、母は持統ではない新田部親王の子の道祖王が孝謙(46代)の皇太子とされたが、これに代わって即位した(758年)。藤原仲麻呂=恵美押勝の乱(764年)終息とともに廃位され淡路に幽閉された。翌765年に脱出先で死亡。孝謙が重祚(=称徳。48代)。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・中(講談社学術文庫、1992)p.191の巻二十一冒頭は「廃帝・淳仁天皇(第47代)」と記しているが、後記のとおり「淳仁」諡号は明治3年のことなので、代数も含めて、明治期の皇統譜に従って記したものと思われる。
 3/九条廃帝・後廃帝→「仲恭」天皇(85代)。
 安徳天皇(81代)と二重に在位していた後鳥羽(82代)が承久の乱を起こし(1221年)、敗北後に隠岐に流刑され(死後は一時期に「顕徳院」と呼ばれたらしい)、その子土御門(83代)と順徳(84代)も、それぞれ土佐・佐渡に流刑となった。
 その順徳の子で1221年に践祚したが、在位のべ4カ月で退位。1234年に満16歳で死亡。母は九条良経の娘・立子。
 上の三天皇についての天皇「諡号」付与は、つぎの明治3年「布告」により一括してなされた。
 明治3年7月24日太政官布告<大友帝廃帝九条廃帝ニ御諡号奉上ニ付御典執行>。 
 「大友帝 弘文天皇
  廢帝  淳仁天皇
  九條廢帝 仲恭天皇
  右 三帝御諡號被爲奉候ニ付明廿三日八字於神祇官御祭典破爲行候事」。
***
 このとおりで、大友皇子以外は「天皇」だったことは認められていながら、淡路廃帝や九条廃帝(または廃帝・後廃帝)はいわば通称で、正式の「固有」名は各々1100年、650年ほどの間も存在しなかった。
 これで済ませておれたというのだから、後裔たる天皇たちや皇室の過去の天皇在位者たちに対する<崇敬>心はいかほどのものだったのかと、疑い得るのではないか。
 ちなみに、第一。3/仲恭天皇(85代)の名は「仲哀」天皇(14代。神功皇后の夫)とともに「仲」の字をもち、気のせいか痛ましい。
 第二。仲恭天皇を継いだのは後堀河天皇(86代)で、後鳥羽(82代)の実兄である守貞親王の子。その子の四条(87代)とともに、皇統は後鳥羽の系統からいったんは逸れる。
 この後堀河天皇の陵は「観音寺陵」といい、その子の四条天皇の陵は「月輪陵」内にある。前者は今熊野観音寺に距離的には近いかもしれないが、参拝道は途中まで孝明天皇の後月輪東山陵と共通しており、直進しないで途中で左に分岐する。この後堀河天皇・観音寺陵も<泉涌寺境内>と記述されることがある。後者の四条天皇陵はは文字通りかつては明瞭に泉涌寺境内にあり、のちの江戸時代の後水尾天皇らと陵の区画を共通にしている。
 この二人の陵墓が泉涌寺境内または付近に造営されたのは、文献で確かめていないが、承久の乱(変)に勝利した幕府(北条義時ら)の意向だろうと推察される。すでに存在はしていた泉涌寺境内・付近への天皇陵設置は、この後堀河・四条から始まるのだ(江戸時代は全天皇の陵がが泉涌寺「境内」の月輪陵・後月輪陵)。
 第三。2/淳仁天皇(47代)の陵は淡路島にあるようだが、現在にも京都市にある白峯神宮の祭神となって祀られている。
 白峯神宮(上京区飛鳥井町)のウェブサイトによると、この神社はもともとは陵(白峯陵という)は香川県坂出市にある崇徳天皇(崇徳院)を祀るためのもので孝明天皇の発願によるが、遺志をひきついで明治天皇が明治元年(1868年)に造営して祭神とした。そして、同6年(1874年)に淳仁天皇も「併祀」した、という。
 同ウェブサイトは「由緒-御祭神と御聖徳崇敬の意義」の中でこう明記する。-崇徳天皇は「~御非運の生涯であ」った、「~御無念の様子を偲んであまりあるものがあ」る。淳仁天皇(淡路廃帝)は「藤原仲麻呂の乱を契機に御廃位となり淡路島に御配流されて、…同島にて崩御」した。
 「当神宮は、かような歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げております。
 しかしながら、両天皇の<中略>御聖徳はまことに偉大でありながら、かつ御無念な御生涯であられたことを悲しむものです。
 かかる場合は、後世の人々がその聖徳を偲び、御霊を慰め奉ることが大切です。」
 崇徳天皇とともに、明治になるまで固有名称すらなかった淳仁天皇がどのように意識されているかが分かるだろう。「御霊を慰め」る必要があるのだ。
 なお、①明治天皇が皇位践祚後に白峯山稜に勅使を派遣して崇徳に「謝罪」した翌日に即位式を行ったこと(8/27)、②京都の白峯神宮に「霊」が遷って親拝した翌々日に明治改元をしたこと(9/8。年頭に遡って明治となった)については、以下を参照(著者は<白峯神宮御鎮座120年史>に依拠している)。
 井沢元彦・逆説の日本史02/古代怨霊編(小学館文庫、1998/原著1994)、p.161-4。
 第四。「ちなみ」ついでに、さらに蘊蓄を傾けよう。天皇から話題が逸れていくけれども。
 白峯神宮(京都・今出川通り北)の歩いていける南西方向に晴明神社がある(堀川通り西)。安倍晴明を祭神とする神社だ。参拝者はサッカーとのゆかりもある(旧飛鳥井家宅跡の)白峯神宮とどちらが多いのだろうか。「晴明」由縁で、羽生結弦選手による絵馬か額が(手の届かない上の方に)掲示されているらしい。安倍晴明は近くの「一条戻橋」下に「式神」たちを匿っていたともされる。
 ところで、近くの阿倍王子神社の末社のように思えるが、安倍晴明神社という神社が大阪市阿倍野区にある(独自の社務所がないようだ)。祭神は名前のとおり。この辺りで生まれたとの伝承があるらしい。
 やや北方に、「阿倍野保名郵便局」という名の小さな郵便局がある。「保名」(やすな)という地名はどこにもないと思われるが、これは阿倍晴明の父親の名前だとされている。安倍晴明が生きた(らしい)時代から1000年以上経って、その名を冠する神社があり、父親の名に由来する郵便局がある。気が遠くなるような話の一つだ。
 さらについでに。阿倍王子神社の裏、安倍晴明神社の前を通っているのがかつての「熊野街道」で、現存する僅かな部分の一つらしい。地名としても残る「王子」という名も、後白河上皇等々による<熊野詣で>から由来する。
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 下は、白峯神宮(京都市上京区)、安倍晴明神社(大阪市阿倍野区)。いずれも、ネット上より。

 
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2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。

  今上天皇は<神武天皇を初代として126代>と皇統譜上はなっているようだが、この<126代>にはいかほどの意味と信憑性があるのだろうか。
 神武天皇やのちの天皇の実在性を疑えば、126代も簡単に虚構になってしまう。しかし、神武やその後の8代を実在とし、かつ王朝交替も否定して<一系>性を肯定したとしても、126代ということの<根拠>はけっこういいかげんだと思われる。
 ふと思うのだが、例えば光格天皇は、あるいは後醍醐天皇は、あるいは天武天皇、持統天皇は、即位する際に自分は神武以降の何代めの天皇にあたるということを明確に意識していたのだろうか。日本書記の記述をほぼ絶対のものとして、自らの代数を数えていたのだろうか? 種々の歴史関係書を見ていると、即位当時の文献に<~代めとして即位する>と宣明したとある、といった記述は全くかほとんどないようだ。
 「天皇」という漢風称号自体も天智または天武あたりの時代から使われ出したらしいのだが、この「天皇」という言葉の発生・成立については詮索せず、大和朝廷の長または「大王」位も含める。
  光格天皇の実父の閑院宮典仁のように、実際には天皇に在位したことがないにもかかわらず、のちに「天皇」(慶光天皇)と称され、かつ「~天皇陵」(慶光天皇陵)まで存在する皇族は、他にもあるようだ。
 以下、代数は明治期以降の皇統譜のもの。
 1/「岡宮天皇」=草壁皇子。
 草壁皇子は天武(40代)・持統(41代)の子で、文武(42代)・元正(44代)の父。妃は元明(43代)=持統の妹。 
 続日本紀の巻第一の分注に、758年に「勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した」とある。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・上(講談社学術文庫、1992)、p.13。
 陵は「岡宮天皇真弓丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、現在の奈良県、橿原市南の高取町内にある(但し、場所の治定の正確さには争いがあるようだ)。
 2/「春日宮天皇」=志貴皇子。
 志貴皇子は天智(38代)の子で、光仁(49代)の実父。草壁・大津・高市・川島・刑部各皇子とともに、いわゆる「吉野の盟約」をした6皇子の一人。持統(41代)・元明(43代)と同父だが、天武・持統の血統ではない。光仁即位後に、「春日宮御宇天皇」と追尊された。
 陵は「春日宮天皇田原西陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良市矢田原町にある(光仁陵が東にあって、「-田原東陵」とされる)。
 3/「崇道天皇」=早良皇子。
 桓武天皇(50代)と同父母(光仁・高野新笠)の弟。桓武在位中に「崇道天皇」と追号された。
 陵は「崇道天皇八嶋陵」と呼ばれ、奈良市八島町にある。但し、文久・明治期の治定で、正確さには疑問があるという。
 この陵付近にも小さな崇道天皇社がいくつかあるようだが、著名なのは、京都市上高野の<崇道神社>で、この神社の唯一の祭神が、崇道天皇=早良親王。御所の東北にあるのは、比叡山延暦寺とともに、<怨霊封じ>のためともいわれる。
 この神社の頒布による小冊子p.4によると、ほぼ同じ場所に出雲高野神社と伊多太神社があり、崇道天皇を祀ることとなって前者が崇道神社と改称された。現在でも本殿すぐ近くに摂社のごとく伊多太神社が別にある。
 崇道天皇=早良皇子は神泉苑での最初の御霊会(863年)で祀られた第一の人物で、上御霊神社や下御霊神社でも代表的な「御霊」とされている。
 4/「飯豊天皇」=飯豊皇女(・飯豊女王)。
 日本書記によると、履中天皇(17代)の孫で、同じく孫である仁賢天皇(24代)・顕宗天皇(23代)の姉。
 清寧天皇(22代)崩御後の(仁賢・顕宗による譲り合いでの)天皇不在中に「姉の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮で、仮に朝政をご覧になった」。崩御後、「葛城の埴口丘陵」に葬られた。
 以上、宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.324。
 陵は「飯豊天皇埴口丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良県葛城市新庄町北花内にある。
 上の1と2は実の子が天皇に就位したことにより、天皇号が付与されたとみられる。
 はおそらく、いったん皇太子とされたが死亡により天皇になれになかったことが直接の理由ではなく、しばしば指摘されているように、その死亡にかかわる経緯からする<鎮魂>のためだろう。
 は、短期間にせよ、実質的に天皇と同じ役割を果たした(とされている)ことによるのだろう。なお、日本書記や古事記ではなく<扶桑略記>では「24代」と明記されているらしい(皇統譜上は23代・顕宗、24代・仁賢)。とすると、日本で最初の「女帝」=「女性天皇」だったことになる。
 なお同じく<扶桑略記>では神功皇后は「15代」とされているらしい(皇統譜上は14代・仲哀、15代・応神)。しかし、神功皇后は、日本書記での記載ぶりを別とすれば、「天皇」と追号されておらず、「~天皇陵」と称されるものも存在しない(この点で4=飯豊天皇と違う)。陵は奈良市内にあるが、あくまで「神功皇后~陵」だ。
 ***
 さて、光格天皇の父・閑院宮典仁がのちに「慶光天皇」と称されたのは、光格が天皇になったためで、上の1や2と同じまたは同類で、「先例」があったと見られるかもしれない。
 しかし、事情は異なる。
 江戸時代には天皇・皇室に天皇就位や継承を決定する自由または自立性はなく、全て幕府の「許可」が必要だった。いったん天皇になった者の父親についての「天皇」または「太上天皇」号の付与についても同じ。
 光格天皇が幕府に願い出たのは実父・典仁についての「太上天皇」尊号の付与で、幕府側はこれを拒否した(いわゆる「尊号一件」という事件)。
 光格天皇が先例として挙げたのは上の1・2ではなかった。この二つは「天皇」号の例だ。
 そして、光格が挙げた先例は「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号に関する2例だった、とされる(別に書く)。
 藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)参照。p.259。
 では誰によっていつ閑院宮典仁に「慶光天皇」号が付与されたかというと、明治維新後に明治天皇(・明治新政府)によってだった。旧幕府と違って、光格天皇による「皇室の権威」を高める努力に応えた、ということかもしれない。
 しかし、「慶光天皇」が歴代の、皇統譜上の天皇の一人とされたわけではない。
 もともと明治期以降の皇統譜では、日本書記等が明らかに無視して天皇在位を否定している大友皇子に「弘文天皇」という諡号を与えて代数をもつ天皇に数えているのだから、明治新政権は、日本書記等をその点では少なくとも全く信用していないことになる。水戸光圀編纂・大日本史等々による歴史「解釈」の影響があったのかもしれないが、現在で「126代」というのも、その意味するところは相当に曖昧であることになるだろう。
 天皇であるための「要件」は何か。あるいは、日本史全体を通して、何だったのか?
 三種の神器の継承のなかった天皇もいた。即位礼や大嘗祭の挙行をしなかった(できなかった)天皇もいた。かりに神武等々を含めて古代の天皇は全て実在だったとしても、「天皇」たることの本質や要件はやはり曖昧なのではないか。
 126代の全天皇が三種の神器の継承をしたわけでも、即位礼や大嘗祭を挙行したわけでもない。といったことも、廬山寺・「慶光天皇」に関連して考える。
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 以下、各段が、岡宮天皇・草壁皇子陵、春日宮天皇・志貴皇子陵、飯豊天皇陵。いずれも、ネット上より。


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2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。

 櫻井よしこは光格天皇を「皇室の権威を蘇らせ、高めた」として、高く評価する。
 問題は、そのことが「神道」の権威をいかほどに高めたのか、だろう。
 櫻井は「日本の宗教」=「神道」で、かつ「天皇家の宗教」=「神道」と単純かつ幼稚に考えているので、「皇室の権威」が高まることは「神道」の力が大きくなることと全く同義で、そのゆえにこそ、光格天皇を高く評価しているのかもしれない。
 しかし、江戸時代はまだ<神仏習合>の時代で、儒教ないし儒学・朱子学の影響も大きくなっていた。
 櫻井よしこのように「幸福に」は叙述できないことは、光格天皇と京都市に現在もある廬山寺という仏教寺院との関係について、すでに述べた。
 光格天皇と廬山寺の関係については、まだ重要なことが残っている。
 光格天皇の近親者たちのの墓陵が、廬山寺の境内にある。正確にいえば、同寺経営・管理とみられる一般の墓地の区画と同寺の建物部分の間の、宮内庁管理地の区画内にある。入口辺りにある宮内庁設置の掲示施設によると、以下の皇族等の「墓」がある。2名は、あと回しにする。
 ①東山天皇後宮新崇賢門院藤原実子、②同皇子直仁親王、③同皇子直仁親王妃脩子、④同曽孫美仁親王、⑤同曽孫美仁親王妃因子、⑥同玄孫孝仁親王、⑦同玄孫孝仁親王妃吉子、⑧同五世皇孫致宮、⑨同五世皇孫愛仁親王。
 ⑩光格天皇皇子俊宮、⑪同皇子埼宮、⑫同皇女多址宮、⑬同皇女治宮。
 ⑭仁孝天皇皇子胤宮。
 上の東山天皇(113代)は、光格天皇(119代)の曾祖父、仁孝天皇(120代)は光格天皇の子。また、東山天皇皇子直仁親王とは東山天皇から分岐した閑院宮家の第一代(光格は第三代で東山天皇の三世の孫=曽孫)。
 東山天皇自身の陵墓は京都・泉涌寺直近の「月輪陵」内に、光格天皇と仁孝天皇(=孝明天皇の父)の陵墓はやはり泉涌寺直近の「後月輪陵」内にある。
 また、東山天皇皇后幸子女王、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子、の4名についても「月輪陵」・「後月輪陵」にある。各天皇の皇后またはそれに準じた女性たちだ。
したがって、<廬山寺陵>には、光格天皇に血縁が近い者で天皇または皇后ではかった人たちの多数の「墓」があることになるだろう。
 しかし、あと2名が残っている。掲示によれば、冒頭に記載されている2名だ。陵名自体が<慶光天皇廬山寺陵>と称される。
 ①慶光天皇、②慶光天皇妃成子内親王。
 この「慶光天皇」は、江戸時代には、その名前自体が存在しなかった。
 該当する人物は存在していて、1870年(明治3年)にこのように追号され、名前だけは「天皇」ということになった。しかし、天智の子の弘文天皇=大友皇子のように、「皇統譜」に正規に天皇として記載・登録されたわけではない(他にも追号または諡号が明治期に決まった過去の歴代天皇がある-別に書く)。
 「慶光天皇」とは、光格天皇の実父、閑院宮典仁のことだ。上に出てきた東山天皇の孫、直仁親王の子で、閑院宮二代目にあたる。
 この人が明治維新後に「慶光天皇」と呼ばれ、その陵墓が廬山寺にある。
 そして、その墓陵の様式は仏教式だ。現在は厳密には廬山寺ではなく宮内庁の管理地だろうが、かつて廬山寺が<菩提寺>として管理し、法要等をしていたことは、先に書いた位置関係からしても明確だと思われる。
 そして、やはり「九重仏塔」と称してよいと考えられるものが墓碑にある。しかし、興味深いのは、どうも泉涌寺直近の(孝明天皇陵の丘の麓にある)「月輪陵」・「後月輪陵」の写真にある「九重仏塔」・「九重石塔」は各墓碑そのものの脇に立てられているように見える、少なくとも四方形の九重石塔もあるのに対して、「廬山寺陵」のそれらは、四方形の石積みの塔はなく、各墓碑のまさに上が「九重石塔」になっている、ということだ。石塔と一体となってその下部に中心的な墓碑部分がある。
 以下の写真のとおり。ともかくも、仏教様式ではあるとは見られる。
 では、なぜ代数もない「慶光天皇」=閑院宮典仁は「天皇」と(明治になってから)称されたのか。「天皇」称号にかかわる他の点も含めて、次回とする。代数表記は明治以降の皇統譜、宮内庁HPにしたがったもの。
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 この項の前回に光格天皇について「火葬」としたのは陵墓の孝明天皇陵と比べての小ささからする勝手な推測で、実際には「土葬」だった。改める。
 「月輪陵」に陵墓のある天皇のうち、後陽成天皇(107代、1617年没)までは「火葬」、後光明天皇(110代、1654年没)以降は「土葬」に変わった、とされる。なお、死亡年の順序と即位の代数の順序は一致しない。後水尾天皇(108代)は1680年没、明正天皇(109代・女性)は、1696年没。
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 下の二つは廬山寺陵の二つの陵墓。前者が中央奥にある。
 その下の二つは、廬山寺陵の宮内庁掲示板と、廬山寺のすぐ北にある寺院・清浄華院で見かけた円形の石による<九重石塔>(これは墓碑の上にあるのではなく、少なくとも今は独立の石塔だ)。いずれも、2019年。

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2089/日本文化会議編・日本は国家か(1969)。

 日本文化会議、1968年6月~1994年3月。
 この団体・組織は石原萠記が事務局にいた<日本文化フォーラム>とは別のものだ。
 つぎの著に、結成時のいきさつが書かれている。
 石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)。p.916~。
 設立趣意書の「草案」は村松剛が起草し、「やや厳しいものを廃して」(これは石原の語ではない)新しくまとめたのは福田恆存だった、という。p.921。
 設立準備の「常に話し合いの中心」にいたのは、福田恆存と石原萠記だった。p.921による。
 この二人以外に、ときには欠席した者もいたが、つぎのような人々が趣意書や予算について会合をもった、という。同頁。
 竹山道雄、木村健康、平林たい子、林健太郎、武藤光朗、中村菊男、村松剛、高坂正堯、若泉敬、鈴木重信、岩佐凱実、木川田一隆、藤井丙午、中山素平、鹿内信隆、今里弘記、小坂徳三郎、下村亮一。
 日本文化会議編・日本は国家か(読売新聞社、1969)。
 この書物の内容を、ほぼ目次の構成を参照して、下に紹介する。()内の所属等は、この書のp.11をそのまま記載。
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 1969年4月12日-13日、日本経営研究所会議室(千代田区平河町)。
 第一議題/『権力なき国家』の幻想。
  問題提起/高坂正堯(京都大学・国際政治学)。
  討論司会/江藤淳(評論家)。
  討論参加者/高坂のほか、山崎正和(評論家)、武藤光朗(中央大学・経済哲学)、三島由紀夫(作家)。
 第二議題/市民と国家。
  問題提起/田中美知太郎(京都大学・哲学)。
  討論司会/大谷恵教(早稲田大学・政治学)。
  討論参加者/田中のほか、佐伯彰一(東京大学・米文学)、林健太郎(東京大学・西洋史)。
 第三議題/国家は有用か。
  問題提起/坂本二郎(一橋大学・経済学)。
  討論司会/西義之(東京大学・独文学)。
  討論参加者/坂本のほか、加藤寛(慶応大学・経済学)、若泉敬(京都産業大学・国際政治学)。
 総合討論/日本は国家か。
  討論司会/泉靖一(東京大学・文化人類学)。
  討論参加者/以上掲記の会員たちのほか、会田雄次(京都大学・西洋史)、酒枝義旗(元早稲田大学・経済学)、鈴木重信(神奈川県教育センター顧問)、野田一夫(立教大学・経営学)、林房雄(作家)、吉田富三(癌研究所所長)。
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 1969年春。「大学紛争(騒擾)」の真只中だったのではないか。
 三島由紀夫が第一議題にだけ出席して発言し、その発言をめぐる「議論」も掲載されている。これまた、知的に<面白い>。
 翌1970年11月に、三島由紀夫は自決。
 さて。
 日本文化会議は、1994年に解散。
 日本会議(事務局長・椛島有三)の設立は、1997年。
 日本文化会議の設立は、1968年。
 日本青年協議会の設立は、1969年。上と関係はなかっただろう。
 日本青年協議会・機関誌は月刊『祖国と青年』
 江崎道朗は、この雑誌の編集長をしていたことがあった。
 また、江崎は、1997年~少なくとも2006年、「日本会議事務総局に勤務、政策研究を担当」。これは、2006年刊の椛島有三との共著による。
 また、この2006年刊の小著での江崎の肩書は「日本会議専任研究員」(表紙裏)。江崎道朗は近年に自ら、「国民運動」をしていた、と書いていたことがある。
 いろいろと考えさせられることがある。
 「右翼」団体が、「保守」という美名を簒奪した。
 「保守」と自称しているからには月刊正論(産経新聞社)もまず第一に<反共産主義>だろう、と誤った判断をしてしまった。これも、「言葉」・「概念」のトリックだった。

2082/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①。

 櫻井よしこは2017年初頭にこう書いていた。週刊新潮2017年2月9日号。つぎの二文は、連続したものだ。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた
 その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」 本欄№1620-2017/07/03も、参照。
 櫻井よしこは、今年・2019年初頭に、実際の執筆は昨年末だろうが、こう書いた。 週刊新潮2019年1月3=10日号。
 「日本の国柄の核は皇室である。皇室の伝統は神話の時代に遡り、それは神道と重なる
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた」。
 光格天皇についても神道についてもロクに勉強せず上のようなことを書いているのだから、真剣にとり上げるに値しないことははっきりしている。
 しかし、著名な?日本の週刊誌の一つに活字となって述べられているので、少しコメントし、さらにいくつかのことを書き記そう。
 上の二つの論考?から感じ取れるのは、あるいは上の二つを単純に結びつけると読み取れるのは、こういうことだろう。
 「日本の国柄の核」は「その伝統」が「神道と重なる」「皇室」であり、「光格天皇」は「皇室の権威を蘇らせ、高めた」。
 こう要約するのは、決して誤りではないだろう。実際に櫻井よしこは、こう「認識」している可能性が高い。
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 光格天皇と神道または仏教との関係について、素人でも簡単に分かることをまずいくつか記す。
 なお、光格天皇の在位は1779年~1817年、没は1840年。つまり、仁孝天皇(追号)に「譲位」をした。それから200年ほど後の現上皇による「譲位」まで、生前退位(譲位)の最後の例だった。
  既述のように、光格天皇の陵墓はいまは宮内庁管理地だがかつては明確に泉涌寺の境内にあり、現在でも泉涌寺の本堂(仏殿)近くを通らないと参拝できない、東山後月輪陵の中にある。先代の後桃園天皇(まで)の陵墓は東山月輪陵の中にあっていちおうは別だが接している。光格天皇(・上皇)の薨去後に、狭くなっていたので、新しく区画を造成?したのだろう。
 神道式の墓地はあるようだが、どのようなものかよく知らない。しかし、光格天皇の陵墓が「仏教式」であることははっきりしている。のちに改めて触れるが<九重仏塔>が用いられている。
  櫻井よしこ(ら日本会議派諸氏)は天皇はまるでずっと神道式の葬礼を受けてきたと勘違いをしているのかもしれない。少なくとも、日本書記・古事記の編纂の時代から1300年ほどはそうだ、と思い間違いをしているのかもしれない。
 天武天皇皇后だった持統天皇が天皇で最初に「火葬」されたことはよく知られている。
 光格天皇も、その陵墓の規模からしても、「火葬」されたことは明確だ。
 これらは、持統天皇以降ずっと連続していたとは書かないが、「仏教」の影響だった、または「仏教」式そのものだった、と考えられる。
  ついでに書いておけば、古事記が成立し日本書記も完成した後の聖武天皇・同妃光明子(光明皇后)が<篤い>仏教徒だったこともよく知られている。
 東大寺正倉院には聖武天皇・皇室の所持品だったものが国宝も含めて多数ある。正倉院は東大寺内にあるのであって、神社である春日大社ではない。
 同じ時代に、いわば国営・国立の仏教施設である国分寺や国分尼寺の設置・建設も始まった。奈良市内に現在もある法華寺は門跡寺院の一つだが、光明皇后による開設で国分尼寺のいわば総本山とされ、代々女性僧侶が住職であるらしい。
 この時代、元明天皇時代に日本書記も編纂・提出されていたが、<神道>は何だったのか?
 こんな<教科書>的なことを櫻井よしこに教えても無駄だろうが、櫻井のために書いているのではないので、続けよう。
  京都市内の京都御苑すぐ東(寺町通東側)、梨木神社(寺町通西側、祭神は三条実美)の真東辺りに、廬山寺〔ろざんじ〕という寺院がある。
 この寺による小冊子によると、この寺院の場所に平安時代にあった邸宅で紫式部が「一生の大部分」を過ごし、「結婚生活」を送ったとされる。当然に<源氏物語>の執筆地ということになる。但し、石山寺(大津市)で一時期にせよ<源氏物語>を執筆したとされていて、石山寺本堂には「源氏物語の間」だったか「紫式部の間」だったかがある。
 上は余計な話題だ。
 光格天皇に戻すと、光格天皇と廬山寺は関係が深い。
 同寺仏殿(本堂)内の掲示等々によると、光格天皇の「愛用の品々」が現在でも廬山寺に残されており、同天皇とゆかりがあるという「茶室」もある。また、上皇となってのちの仙洞御所(上皇用の住居)の建物の少なくとも一部が廬山寺に「下賜」された。
 どこかの神社ではない。蘆山寺は、れっきとした仏教寺院だ。
 廬山寺による小冊子によると、明治維新まで京都に「宮中の仏事を司る」寺院が四つあって、廬山寺はその一つだった(ほかは二尊院等だとされる)。
 明治維新後の1873年=明治5年に(小冊子によるとおそらく)自立性が剥奪されて比叡山延暦寺の一部となり、1948年に再び独立した(天台圓浄宗)。
 光格天皇が「皇室の権威を蘇らせ、高めた」のは確かなようなのだが、しかし、櫻井よしこは、上のような仏教との関係の深さを全く知らないのだろう。<神仏習合>の時代が長くつづいたのだとすると、自然なことだと感じられもするが、櫻井ら日本会議派諸氏は「知りたくない」、「知っても書きたくない」ことかもしれない。
 ***
 さらに続ける。

2072/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史06。

 一 産経新聞2019年10月21日付は、自民党有志「日本の尊厳と国益を護る会」提言を報道する中で、こう記述している。ネット上による。一文ごとに改行。
 「皇統は126代にわたり、父方の系統に天皇をもつ男系で維持されてきた。
 女性天皇は10代8人いたが、いずれも父方をたどると初代の神武天皇に行き着く男系だ。
 女性天皇の子が即位した『女系天皇』は存在しない。」
 これが日本会議諸氏・櫻井よしこや「126代」と明記した西尾幹二らの見解として書かれているならばよい。
 驚いたのは、これが、「沢田大典」という署名のある産経新聞記者による「地」の本文の中にある、ということだ。
 産経新聞社または産経新聞記者は、日本の(天皇の)歴史をこう確定的に記述する、いかなる資格・権限があるのだろうか。歴史の「捏造」ではないか。せめて、<~と言われている>くらいは追記しておくべきだ。
 日本書紀には代数の記載はなく(近年の<日本書記>現代訳文の書物には参考として日本書記原文にはない代数を記載しているのもあるが紛らわしい)、「大友皇子=弘文天皇」の記事はなく、一方、女性の「神功皇后」の記事は(神武等々と同じ扱いで)いわば一章を占める。
 冒頭の「皇統は126代にわたり」という数字自体、明治期以降の<決定>にもとづくものだ。
 また、「初代の神武天皇」という記述自体、<日本書記によれば>という話で、<史実>性は疑わしい。
 「女系天皇」の存否や「神武」以降の不連続性の可能性には立ち入らないが、明治維新以降、戦前までの<国定・公定>歴史解釈を現在の全国民が採用して「信じる」義務はない。
 しかるに、産経新聞の記者は何を考えているのだろう。
 堅い読者層の中に<天皇・愛国・日本民族>の「右翼」派が多いからといって、歴史を勝手に「創造」してはいけない。朝日新聞の「虚報」・「捏造」ぶりと本質的にどこが違うのか。
 二 池田信夫Blog/2019年11月7日付(全部は11/11の電子マガジン配信予定らしい)は、こう書く。こちらの方が適切だろう。但し、以下は一部省略しているが、「儒教の影響」だとする等の専門的知見は、私にはない。
 「天皇家をめぐる論争では、天皇が『万世一系』だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派ということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ。
 万世一系は岩倉具視のつくった言葉であり、『男系男子』は明治の皇室典範で初めて記された原則である。」
 「それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかも疑わしいが、そのうち有力だった『大王』が『天皇』と呼ばれた。
 中国の建国神話をモデルにして『日本書記』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。」
 「武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。
 それを明治時代に『天皇制』としてよみがえらせたのが、長州の尊皇思想だった。
 それは『王政復古』を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。」
 三 <古式に則り>という言葉を最近によく聞くが、その<古式>の全てではないにせよ、明治期以降の<古式>・儀礼方法であることが多いだろう。
 先月10月22日の「即位礼正殿の儀」を、テレビでたぶん全部視ていた。
 最近の関心からは、<神道>的色彩がどれほどあるかに興味があった。
 所功(ところ・いさお)らによると京都御所には「宮中三殿」はなかったらしいから、「宮中三殿」中での賢所等での天皇の儀礼は、大正天皇からなのだろう。しかし、これは<神道>的・式なのかもしれない。もっとも、神道式とは特定できない<天皇・皇室に独自の儀礼>かもしれない。「神道」の意味・範囲にもかかわる。
 一方、<高御座>で言葉を述べられる等の「国事行為」は、当然に特定の「宗教」色があってはならずせいぜい<日本の伝統>に即して、ということに理屈上はなると思われる。
 だが、素人の私の感触では、「日本」独特というよりも、「中国」(むろん過去の)の影響・色彩を強く感じた。
 なるほど十二単衣等は「平安王朝」的かもしれないが、前庭に立っていた「幟」の様子・色彩や「萬歳」と明らかに明確に漢字で書かれた旗などは、日本の「みやび」・「わびさび」等々の<和風>とは離れた<中国>風に感じた。高御座の建築様式自体も、どちらかというと神社ではなく寺院に見られるように感じた。これが仏教的なのか、道教なのかあるいは儒教ふうなのかは正確にはよく分からない。
 ひるがえると、明治天皇の即位の場合はどういうふうだったのだろうか。
 新政府が安定した(戊辰戦争勝利)後だったのか否かも、確認していない。
 しかし、まだ<神武天皇創業>以来の「日本的」儀礼の仕方が確定されていない時期だとすると、<即位の礼>が純粋に<日本的>ましてや<神道式>であったかどうかは疑わしいだろう。そして、この明治天皇を含めてそれ以降の大正天皇等の<即位の礼>の様式を、今回も採用したような気もする。
 上のことは、<即位の礼>に関することで、天皇の死後の葬礼・墳墓の性格となると、つぎのように、話は異なるようだ。
 四 この欄で、京都・泉涌寺に関係して、室町時代から江戸末期の仁孝天皇までとは異なる、つまり<仏教式>ではない葬礼と陵墓が明治天皇の父親の孝明天皇について行われたようだ、と書いた。№.1982、2019/06/18。
 専門家がいずれの分野にもいることは分かっているので「大発見」のつもりで記したのでは全くない。
 きわめて興味深く感じたので、孝明天皇陵については陵墓の方式自体が九重仏塔を持たない「円墳」のようだと書いたのだった(一般には立ち入れないので、既存の写真に頼るしかなかった)。
 しかし、推測が妥当であることを、上記の池田信夫Blog が挙げているつぎの書物によって確認することができた。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。
 こう書かれている。
 「文久年間に在位していた孝明天皇は、…慶応へと改元されたその二年の年末、12月25日(グレゴリオ暦では1967年1月30日)に崩御する。
 翌慶応三年にはその陵墓が、じつに1000年ぶりに山稜形式で造営された。
 陵墓に埋葬され、かつ国家管理の聖地とされたのは、明治政府の陵墓政策を先取りするものだった。」
 この「山稜」というのは、南向きで南側に拝礼場があると見られる、<後月輪東山陵>のことで、現在も京都市東山区・泉涌寺の東の丘の中腹にある。
 先だっては記さなかったが、それまでの天皇は「仏式」でかつ「火葬」のあとで納骨されて葬られている(かつ真西の方向を向く)のに対して、孝明天皇については(「神道」式か否かは不明だが少なくとも)「仏教式」ではなくかつ「土葬」の陵墓のようだ。
 しかも、上の書物によると、「じつに1000年ぶりに山稜形式で造営された」、とある。
 これまた、<新しい伝統の創造>だっただろう。
 もっとも、かつての「山稜形式」は「神道」式と称し得るものであるかについては、疑問が残る。
 いわゆる前方後円墳(伝仁徳天皇陵、伝応神天皇陵が著名)が「神道」式なのかというと、おそらくこれを肯定する学者・論者は存在しないのではないか。
 この問題は、「神道」というのはいったい何だったのか、いつ頃どのように形成され、意識されたのか、といった疑問にかかわる。
 櫻井よしこは、神道の「寛容」性のゆえに仏教伝来を許した、という旨を明記している(別に扱う)。聖徳太子の時代頃の「仏教伝来」以前にすでに確たる「神道」があった、という物言いなのだが、果たして本当か? 
  天皇家と「神道」に(神武天皇以来?)強く密接な関係がある、天皇家の「宗教」はずっと神道だ、と主張するならば、古代天皇は「神道」式で葬られたのか? その儀礼や墳墓の様式は?
 尊いはずの初代・神武天皇陵の場所が特定されて整備され、近傍に橿原神宮が造営されたのは、いったいいつの時代にだったのか? まだ150年ないし120年ほどしか経っていない。
 「初代の神武天皇」と「史実」のごとく平気で書く産経新聞記者・沢田大典は、そのような「初代」天皇の「墓」の所在地が<2000年以上>も不明なままだったことを、不思議とは感じないのだろうか。「古い」ことだから仕方がない、では済まないと思われる。
 このあたりは、あらためて触れることにする。

2060/江崎道朗2017年8月著の無惨と悲惨25。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
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 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、前回に記したように、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著にに依拠している。つぎの書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。
 小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
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 秋月は聖徳太子や十七条憲法に関する専門的研究者では全くないのだが、上の諸点とともにあるのは、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

2059/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨24。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 ①p.13-「聖徳太子以来の政治的伝統」。
 ②p.344-「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想」。
 ③p.352-「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、…へと至る『本来の日本』」。
 ④p.404-「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方」。
 このように何度も出てくる聖徳太子以来の日本の政治的伝統が、江崎道朗によると<保守自由主義>だ。
 そして、少し立ち入って読むと分かる第二は、この「聖徳太子」または「十七条憲法」というのは、聖徳太子の「政治思想」全体でも、十七条憲法の全体の「精神」でもなく、後者の十七条憲法の、ある特定の条の一部を意味する、ということだ。
 聖徳太子の「実在」性や日本書記に全文の記載のある<十七条憲法>の作成者・作成時期については周知のように議論があるところだが、江崎道朗はそれらをいっさい無視しているので、<聖徳太子が十七条憲法を執筆した>という前提で、つまりは彼と同じ立場に立って、論評を進める。
 小田村寅次郎らは聖徳太子から学んだ、とかその十七条憲法から学んだ、と何度も叙述されているので、上記のように聖徳太子の考え全体や十七条憲法全体から「保守自由主義」が導かれている、と想定しがちになるが、それは、この著の読み方としては、誤っている。
 十七条の憲法というくらいだから、第17条までの条数があり条文がある。
 最も有名なのは第1条の冒頭の「和を以て貴しとなし…」だが、あくまで通説的にだろうが、第2条は<仏教>、第3条は<天皇>への崇敬を求めるものだとされる。第1条は一口では「和」だが、<日本教>・<日本精神>を示すとか、さらにこの条との関係で<神道>が言及されることもある。
 江崎道朗が言及しているのは、しかし、第1条でも(仏教の第2条を飛ばして)第3条でもない。
 第10条だ。p.346。
 しかも、第10条の全体でもなく、そのごく一部に限られる。p.346-7。以下の部分だけだ。
 「共に其れ凡夫のみ」。
 他書からの引用・依拠も多いが、江崎道朗の理解はつぎのごとくのようだ。p.346-7。
 ・聖徳太子・十七条憲法第10条に書くように、この世の人は「どんな人でも」、所詮は「共に其れ凡夫のみ」だ。つまり「人はみな自分に執着し、過ちを犯す欠点だらけの人間だ」。
 ・全ての人間は「不完全で、自己に執着してしまいがち」という「極めて厳しい『自己』認識」だ。
 ・「国民同胞一人のこらず」(=「共に其れ」)、「欠点だらけの人間」(=「凡夫」)であり、「それ以外の何物でもない」(=「のみ」)、という深い意味が込められている。
 この部分は、江崎道朗によると、<五箇条の御誓文>の第一項の「万機公論に決すべし」に継承されている(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.348-9。
 ・「人間は不完全だ。不完全なもの同士だから、お互いに支え合い、話し合ってより良き知恵を生み出すことが必要である-この聖徳太子の発想は、まちがいなく明治日本の理想にも引き継がれている」(!!!-これは引用者・秋月)。
 ・「『万機公論に決すべし』の背景にあるのは、…『それぞれが凡夫で力不足なのであるから、お互いに高め合いながら、より高いものをめざすべく努め合うところに日本の国柄がある』という宣明なのである」(!!!-これは引用者・秋月)。
 さらに、五箇条の御誓文の全部・全条が、江崎道朗によると、つぎのことを示している、とされる(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.350。
 ・日本が目指してきたのは「エリートが世の中のことをすべて取り仕切る全体主義」ではない。「お互いが『自らの足らざるもの』を自覚しつつ、お互いに支えあい、創意工夫をしながら、より高きをめざす『自由な社会』のあり方こそが、日本の本来の姿なのである」。
 このあとに、前回にほとんどを引用した、つぎの文章が続く。p.350。「政治的伝統」ではなく「人生観」になっているのは破綻の一部がすでに見られる、と指摘した。
 ・「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が『共に其れ凡夫のみ』という言葉で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである」。
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 すでに論評と批判的指摘に入っていきたくもなる。「共に其れ凡夫のみ」→「保守自由主義」・五箇条の御誓文。何だこれは?
 だが、もう少し、聖徳太子・十七条憲法に立ち入ってみよう。
 上記のとおり、江崎道朗が注目するのは十七条憲法の第10条の一部の「共に其れ凡夫のみ」という部分だけで、これは原文・漢文だと「共其凡夫耳」の5文字
 第10条というのは(十七条憲法全体だとむろんもっと多いが)この5文字だけで成り立っているのではなく、つぎの文献によって計算すると、計74文字の漢文だ(冒頭の「十日」の2文字を除く)。
 日本思想大系・聖徳太子集(岩波書店、1975)、p.74。
 計74の漢字文のうち5文字だけ取り出して読解することはできないだろう。
 そこで、漢字だけを並べても意味を解し難いので、手元にあったつぎから、読み下し文をその下に掲げる。適宜、改行する。
 坂本太郎・人物叢書/聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)、p.89。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
 さてここで、江崎に対して、つぎの疑問が生じる。
 第一。上の10条全体のうち「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」だけに着目し、<人はみな不完全な物に他ならない>という意味だと理解してよいのか。全体の文章・文意の中で位置づけて解釈する必要があるのではないか。
 第二。そもそもなぜ、<聖徳太子・十七条の憲法>に何度も言及しておいて、第10条の一部にのみ着目するのか。
 異常、異様だと感じざるを得ない。
 もちろん、<人間はみな不完全だ>との意識・認識が<保守自由主義>なるものにどのようにして帰着するのか?、という問題も厳然としてある。
 凡夫=不完全な人間という理解の仕方自体の問題もありそうだ。
 それはかりに別としても、<人間はみな不完全だ>から出発して、いかなる<主義>も取り出せるような気がする。
 あるいはそもそも、聖徳太子・十七条の憲法の一部を読まないと、<人間はみな不完全だ>ということを、江崎道朗は認識できないのか?
 純粋無垢な?高校生が、あるいは何かの新興宗教の教主が書いたような文章を読むのもいいかげんうんざりはする。
 第三に、上のことを江崎道朗は、自分自身の検討等によってではなく他人の本(のしかもまた引用または間接的紹介)に依拠して書いている、ということを次回に記す。

2058/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨23。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子は、恥ずかしく感じなければならない。学者・研究者としての良心があるならば、京都大学「名誉教授」・中西輝政も、同じく京都大学「名誉教授」・竹内洋も。
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 江崎は、上の著は最終文の直前の文でこう書いている。
 p.414(おわりに)-「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 また、最終章の末尾には、こうある。
 p.406(第6章)-「われわれは、憲法改正によって取り戻すべきは『保守自由主義』であって『右翼全体主義』でも『左翼全体主義』でもないと明確に答えることができるようなっておくべきなのだ」。
 さらに、第5章の末尾には、こうある。
 p.354(第5章)-「われわれは、……小田村寅次郎ら『保守自由主義』の系譜を受け継ごうとするものだ」。
 これらでの「われわれ」とは誰なのか明記されていないが、江崎を含む仲間たち、要するに<現在の日本の「保守」派>であり、その仲間たちに呼びかけているのだろう。
 「われわれ」の意味・範囲は瑣末なことだ。
 上のようにこの著にとって重要な基礎概念である<保守自由主義>とは何かが、当然に問題にされなければならない。そして、これが曖昧なままだと、この書物の目的は達成されていないに、ほとんど等しいだろう。
 そして、多少立ち入れば、つぎのことが読み取れる。
 第一、<保守自由主義>とは、聖徳太子・十七条憲法と関係があり、そこに示されるとされる「日本の長い政治的伝統」だとされている。
 例えば、以下のとおり。
 p.13(はじめに)-日本のエリートたちは大正時代以降3つのグループに分かれたが、「第三は、聖徳太子以来の政治的伝統的を独学で学ぶ中で、…皇室のもとで秩序ある自由を守ろうとした『保守自由主義』のグループだ」。
 p.279(5章第4節)-小田村寅次郎らの一高昭信会のリーダーは「聖徳太子の十七条憲法や……を学ぶことを通じて、日本型の保守主義についての勉強を行っていた」。
 p.344(5章第27節)-見出し「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想に学ぶ」。
 同(5章第27節)-小田村らが「聖徳太子の十七条憲法歴代天皇の政治思想を学ぶことを通じて日本型の保守主義についての勉強や活動を行ってきたことはこの章の最初に、すでに述べた」。<なお、立ち入らないが、「歴代天皇の政治思想」を学んだとは章の最初に書かれておらず、「歴代天皇の政治思想」が出てくるのはここだけだ。>
 p.348(5章第28節)-見出し「保守自由主義の立脚点は聖徳太子、五箇条の御誓文、帝国憲法」。
 そして、聖徳太子(・十七条憲法)に関するやや立ち入った言及があった後のつぎの結論的叙述は、最も長い文章であるかもしれない。
 p.350(5章28節)-「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が…で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである。/
 小田村たち、「すなわち『若き保守自由主義者たち』の脚点は、まさに、聖徳太子から五箇条の御誓文、そして帝国憲法へと至る、日本の真の伝統であった」。 
 同様の趣旨は、この後にも現れる。
 p.352(5章29節)-「右翼全体主義者」は「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、帝国憲法へと至る『本来の日本』などまったく顧慮せず、……帝国憲法体制を破壊すべく邁進していったのだ」。
 p.404(第6章15節)-彼らは「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方も、大日本帝国憲法に込められた叡慮も、…もきちんと学ばずに、…レーニンの帝国主義論など、最新の学問潮流に幻惑されていった」。
 この程度にするが、このように、何度も「聖徳太子」・「十七条憲法」や「五箇条の御誓文」を登場させている。
 しかしながら、決定的に不十分なのは、<これらがなぜ「保守自由主義」を示すものなのか>だ。
 江崎道朗は、これに全く言及していないわけではない。
 だが、おそるべきほどの杜撰さで、これらを叙述し、理解しようとしている。
 そこには決定的に不備・誤りがあるだろうが、上に引用した中では、聖徳太子以来の「政治的伝統」であるはずなのに、「聖徳太子が…で示した人生観」(p.350)なるものに遡ろうとする叙述にも<破綻>の一端が見られる。
 そして、江崎道朗は、十七条憲法にせよ、五箇条の御誓文にせよ(大日本帝国憲法は別に措くとして)、<保守自由主義>だということを示す何ら詳細で具体的な「研究」ないし「論証」も展開していない。
 皮を剥いていくと何もなかった、というのにほぼ等しい。言葉としては、聖徳太子・十七条憲法等が出てくる。しかし、これらに多少とも立ち入った叙述はない。そのような観のある叙述部分も、江崎自身の見解ではなく、他者の見解を紹介・引用することで済ませている。
 何と無惨だろうか。こんな叙述で、読者は納得するとでも考えていたのだろうか。
 怖ろしいことだ。こんな書物が日本では堂々と出版されている。<惨憺たる>出版物だ。
 次回には、聖徳太子の十七条憲法のどの部分が、江崎のいう<保守自由主義>なのか、という、奇妙な叙述を紹介し、論評する。

2041/江崎道朗2017年8月著の悲惨・無惨22。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 上の「著」での江崎の<図式>は、以下だと見られる。
 第一。<保守自由主義>を「右」と「左」の「全体主義」と対比される、<良き>ものとして設定する。換言すると、そのような<良き>ものに<保守自由主義>という語・概念を用いる。
 第一の重要な系。この<保守自由主義>に、途中から、<天皇を戴く>、<天皇を中心とする>という意味を含める。または、この概念と密接不可分のものとして<天皇…>という要素を用いる(なお、こうして「保守」かつ「自由」に「天皇」を連結させる語法は、決して一般的でない)。
 第二。<保守自由主義>は聖徳太子以降の日本の長い政治的伝統で、五箇条のご誓文-大日本帝国憲法-昭和天皇、はこれを継承したものとする。
 <保守自由主義>は重要なキー概念だが、上の二つによって説明される以外には、ほとんど何も語られない。ましてや厳密な定義は明確にされていない。
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 さて、江崎道朗による北一輝に関する叙述も、上の枠組み・図式の範囲内で行われている。
 第一に、北一輝と「天皇」との関係だ。江崎からすると、上の第一の図式からして、これは最大の関心事の一つに違いない。
 江崎の結論はこうだ(第三章)。
 「北一輝は皇室を嫌悪していた」。p.190の見出し。
 ではどのような論拠と説明によって、この結論を江崎は導いたのか。
 恐ろしいことに、江崎道朗は北一輝の書物(の大部分でもよい)を読んで、自らそう判断したのではない。つまりは、①他人の書物による(Aの書とする)。
 さらにその書物の部分は、②北一輝がBに語ったことを、Bが(何らかのかたちで)「伝えた」のをAが「紹介」している。その内容をもっぱら根拠にして、江崎道朗は(何と鋭くも!)上の結論を下している。
 Aは渡辺京二で、その書は同・北一輝(朝日1985、ちくま学芸文庫2007)。
 Bは、寺田稲次郎。
 この部分を、もう少し引用まじりで再現しよう。「」は江崎の地の文。『』は引用される渡辺の文。p.192。
 「渡辺京二氏は、こう指摘している。/
 北は…革命が天皇の発意と指揮のもとに行われることを明記した」が、これが「偽装的表現」なのは、「寺田稲次郎の伝える挿話によって決定的にあきらかである」。
 「北が天皇裕仁を」…と呼び、…と口走ったのは「まだ序の口」で、「中野正剛が北をシベリア提督に擬した話」を北に「寺田が伝えると、彼は色を変じて『天皇なんてウルサイ者のおる国じゃ役人はせんよ。…』と答えたという」。
 「またこれは伝聞であるが、寺田が確実な話として伝えているところでは、北は秘書に『何も彼も天皇の権利だ、大御宝だ、彼も是れも皆天皇帰一だってところへ持って行く。そうすると、天皇がデクノボーだということが判然とする。それからさ、ガラガラと崩れるのは』と語ったという」。
 以上は渡辺著の一部を江崎が用いた叙述だが、その内容は、「寺田稲次郎」が語った、または伝えたという<伝聞>話だ。
 これをもって、江崎道朗は、つぎの結論的文章を書く。p.193。
 二・二六事件の青年将校たちは皇室と国を思っていたが、「その理論的支柱の北一輝は、裏ではこんなことを考えていたのだ」。
 上の渡辺著からの引用的紹介を始める前には、すでにこう書いている。p.192。
 北一輝は「皇室尊崇の人ではなかった。むしろ、皇室を嫌悪し、皇室の廃止さえ願っていたふしがあるのだ」。
 そして、再記すれば、この部分の項見出しは、こうなる。
 「北一輝は皇室を嫌悪していた」。p.190。
 ***
 何とまぁ。こういう類の論証、叙述の仕方をすると、どんな結論も、どんな判断も、することができるのではないか??
 江崎道朗(の図式)にとって都合がよければ、どんな間接的「伝聞」話であっても、書物の中に活字となっていればよいのだろう。
 第二は、北一輝は<保守自由主義>者ではなく「全体主義」者だとすると、「右」と「左」のいずれなのか。
 江崎道朗は陸軍統制派は「社会主義」的だった旨の叙述のあと、皇道派青年将校を「指導」したとされる北一輝について、こんな一文を挿んでいる。p.191-2。
 「このような時代環境の中で、あたかもレーニンの世界戦略に呼応するがごとく、社会主義による国家革新と打倒イギリス帝国という対外構想を掲げて日本の青年たちを魅了していったのが北一輝なのである」。
 そのあとで江崎は、北一輝は「コミンテルンのスパイだった」という「事実は確認できない」とする。
 このあたりではまだ、「右」か「左」の「全体主義」への分類?は出てこない。但し、北一輝は「レーニンの世界戦略」に対応していたのだとすると、北一輝は少なくとも客観的には<左>だった、というニュアンスもある(なお、立ち入らないが、レーニンの死は1922年、二・二六事件は1936年)。
 しかし、だいぶ離れた箇所(第五章)で、江崎道朗は、つぎのように述べつつ、つぎのように断定している。p.
 「戦前の日本には、『保守自由主義』ともいうべき思想の持ち主と、『右翼全体主義』ともいうべき思想の持ち主がいた」。
 福沢諭吉、吉野作造、佐々木惣一、美濃部達吉らは、前者に入る。
 一方、「上杉慎吉、高度国防国家をめざした陸軍(とりわけ統制派)の人々、さらに北一輝など」は後者の「『右翼全体主義』に区分されよう」。
 江崎によれば陸軍統制派も皇道派もともに「右翼全体主義」となるのだが、これは第三章の叙述とは少しはニュアンスがちがう。それはともかく、では「左翼全体主義」との関連はどうなっているのか。
 江崎道朗は、つぎのように叙述して、まとめて?いる。p.274。
 ・戦前のいわゆる「右翼」とは「右翼全体主義」者のことだ。しかし、その中には、「コミンテルンにシンパシーを感じる『左翼全体主義者=共産主義者』や、一皮むけば真っ赤な偽装右翼も多数紛れ込んでいたから、なお状況が複雑となる」。
 ・『右翼全体主義者』と『左翼全体主義者』が結びついて(というより、『右翼全体主義者』の動きに『左翼全体主義者』がつけ込んで)、大政翼賛会などをつくり、大日本帝国憲法体制を破壊した」。
 ***
 あれれ? こうなると、「右翼全体主義」と「左翼全体主義」の明瞭な区別はつかない。
 戦後のかつての民社党の言っていた「左右両翼の全体主義」にはまだ実体らしきものがあったように思われる。
 しかし、戦前・戦中の日本では、江崎道朗によると、両者は「紛れ込んで」いたり、「結びついて」(というよりは「つけ込んで」)いたりしており、明瞭には区別できない。要するに、彼においては、たぶん<保守自由主義>対<(左右の)全体主義>という二項対立の図式で、戦前がイメージされているのだろう。
 上のことは、<保守自由主義>を「右」と「左」の両側から脅かす「全体主義」という江崎道朗の(基本的な!)図式が成り立ち難く、限界がある、ということを示している、と考えられる。
 いつたん設定した<図式>にあてはめるために、江崎は主観的には苦労して?いるのだ。
 では、そもそも<保守自由主義>とは何か。ここで(なぜか重要な要素として)聖徳太子が登場してくる。そして、6世紀から19世紀までの「日本の政治的伝統」には、いっさいの言及がない。回を改める。
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 読書メモ/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)本文計313頁までを、9月12日(木)(2019年)に全読了。

2026/池田信夫のブログ012-小堀桂一郎。

 小堀桂一郎、1933~。日本会議副会長。
 櫻井よしこや江崎道朗等々は「日本」やその歴史を、聖徳太子も含めて、語る。
 その場合に、参考文献として明記していなくとも、日本会議の要職にずっとある小堀桂一郎の書物を読んでいないはずはない、と想定している。
 櫻井よしこは日本会議現会長の田久保忠衛について、「日本会議会長」とも「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の(櫻井と並ぶ)「共同代表」とも明記せず、平然と「外交評論家の田久保忠衛氏は…」とか「田久保忠衛氏(杏林大学名誉教授)は…」とかと書いて頻繁に(週刊新潮等で)言及している。
 このような「欺瞞」ぶりだから、日本会議の「設立宣言」や「設立趣意書」、あるいは日本会議の要職者・役員が執筆した文献を文字どおりに<座右に>置いて文章を「加工作成」しつつも、本当の参照文献としてそれらを明示することはない、ということは当然に容易に推測できることだ。
 このことは、例えば聖徳太子についての、元日本会議専任研究員の江崎道朗の文章についても言えるだろう。
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 池田信夫ブログマガジン2017年10月30日号「皇国史観の心情倫理」。
 小堀桂一郎・和辻哲郎と昭和の悲劇(PHP新書、2017)に、つぎのように論及している。
 ・「右翼にも心情倫理がある」。小堀桂一郎は「それを語り継ぐ数少ない戦中世代だが、その中核にあるのは皇国史観」だ。
 ・<皇室のご先祖である初代の神武天皇>から説き起こす歴史は「学問的には問題外」だ。だが、「心情としては理解できる」。
 ・小堀は和辻哲郎の考え方(の一端)を「敷衍」して、「『万世一系』の天皇家が続いていること自体が正統性の根拠だという考え方が、日本人の自然な歴史認識だという」。
 「このような美意識」は戦前の「立憲主義」で、「天皇中心の憲法を守るという意味」だが、これは「明らかに明治以降の制度であり、日本の伝統ではない」。
 ・小堀は和辻を「援用」して、「明治憲法は鎌倉時代までの天皇中心の『国体』に戻った」、鎌倉「幕府」以降の「700年近く、日本の伝統が失われてきた」とする。
 「これは歴史学的にも無理がある」。「万世一系というのも幻想にすぎない」。
 ・「明治の日本人を統合したのが天皇への敬意だったという心情倫理は、その通りだろう」。和辻のいう「集合的無意識」のようなものだったかもしれない。
 以上。
 上に出てくる「心情倫理」は丸山真男が「責任倫理」とともに使った語のようで、池田のいう「心情としては理解できる」という文章も、厳密には「心情倫理」概念にかかわってくるのだろう。
 上の点はともかく、ここでも感じさせられるのは、「歴史学」という「学問」または広く「人文社会科学」ないし「科学」と、上に出てきた言葉を借りれば「心情」・「美意識」の違いだ。あるいは、<歴史>や<伝統>に関する「学問」と「物語」・「叙情詩」・「思い込み」の違いだ。
 小堀桂一郎もむろんそうだろうが、長谷川三千子も櫻井よしこも、もちろん江崎道朗も、「学問」として日本の<歴史>や<伝統>を追求するのではなく、<物語・お話>として美しくかつ単純に「観念」上(自分なりに)構成できればそれでよい、と考えているように見える。
 人文社会科学の「学問」性・「科学」性あるいは歴史叙述に際しての「主観」的と「客観」的の区別などは、おそらくどうでもよいのだろう。
 日本の<歴史>や<伝統>に関して、賀茂真淵でも本居宣長でも和辻哲郎等の誰でもよいが「先人」・「先哲」の文献・文章を重要な<手がかり>として理解しようとしても、それは、その各人の観念の中にあった、やはり<観念世界>なのであって、<観念の歴史>の研究にはなるかもしれないが、<歴史>そのものの研究にはならない。
 <観念の歴史>の研究が無意味だとは、全く考えていない。
 「神」・「神道」意識も「天皇」意識も、あるいは日本での又は日本人の「怨霊」・「魔界」意識等々にも、おそらくは強い関心をもっている。
 「意識」・「観念」が現実を変えてきた側面があったことも、認めよう。
 だが、「日本の神々」・「天皇」等々が独り歩きして現実の日本を作ってきたような歴史観をもつのは、あるいは<本来の、正しい>歴史がある時期に喪失したとか回復したとか論じるのは、観念・意識と「現実」の区別を(無意識にせよ)曖昧にしがちな、ひどく「文学」的、あるいは「文学部」的な発想だ。
 なお、池田信夫ブログマガジンの上の2017年の号には、①「スターリン批判を批判した丸山真男」、L・コワコフスキの大著に紹介・論及する②「マルクス主義はなぜ成功したのか」もあって、なかなか密度が濃い。

2015/聖徳太子-江崎道朗21の準備。

 聖徳太子に関して最も新しく得た知識は、おそらく親鸞(浄土真宗)が聖徳太子を崇敬していた、ということだ。
 <聖徳太子信仰>というレベルの話なので、聖徳太子または厩戸王子の存否(たぶん該当人物はいたのだろう)やかつて行った事跡の真否等とは関係がない。
 京都の東西の本願寺の阿弥陀堂(本堂)には阿弥陀如来像の脇に聖徳太子の像か画が置かれているらしい。
 浄土真宗寺院に限られているわけではない。京都市内の最も中心地にある有名寺院の一つかもしれない頂法寺(六角堂。六角烏丸東入ル)は天台宗系だが聖徳太子開基と伝えられ、聖徳太子に由緒があるとされる如意輪観音を本尊とし、西国観音霊場の札所の一つであるとともに京都に特有の洛陽三十三観音霊場めぐりの第一番札所だ。かつまた、親鸞も参詣したことがあるらしく、それに関連する文章の掲示が六角通りの南側(本堂の向かい)にある。
 関連してさらに進めると、大師堂(だいしどう。多くは弘法大師=空海の仏堂)とは別の太子堂(たいしどう)という聖徳太子を祀る仏教施設がある寺院もある。
 その前で参拝したかは忘れているが、寺院の本堂は参拝したことがある、太子堂をもつものに以下がある。
 六角堂頂法寺(上記)、鶴林寺(加古川市)、瑞泉寺(富山県南砺市)、大聖勝軍寺(大阪府八尾市)。東京・世田谷区の「太子堂」(円泉寺)は訪れたことがない。
 「太子堂」と称さなくとも、聖徳太子を祀る特別の建物をもつ寺院や、その他由縁のある寺院は少なくない。
 広隆寺(京都・太秦)、法隆寺、四天王寺。
 斑鳩寺(兵庫県太子町)、叡福寺(大阪府太子町。直近に陵墓あり)。
 他にもきっとあるだろう。「太子」との地名が今に残るのもスゴい。
 なお、四天王寺(大阪市)の西門付近には「大日本仏法最初四天王寺」と刻む大きな石柱が立っている。この寺は仏教伝来にかかわる対物部氏戦争の勝利の結果として聖徳太子の発願により建立されたとされている。
 学校教科書による知識以外で、聖徳太子に関連して最も早く興味深く感じたのは、つぎの書物によってだったかもしれない。
 梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972。新潮文庫、1981)。
 この著者の一行で済むところを二、三行かけるおどろおどろしい?文章も記憶にあるが、法隆寺・聖徳太子をめぐるいくつかの「謎」のうち、最も印象に残ったのは、法隆寺中門の柱の数が奇数で、真ん中を通れないようになっていることの指摘だった(神社の楼門もそうだが、たいていの門の柱数は偶数で、そうすると柱の間の空間数は奇数となり、必ず真ん中が空く)。
 なるほど不思議なことで、この点だけによるのではなく他に多数の論拠が示されていたが、梅原猛によると、法隆寺は聖徳太子を鎮魂しその「怨霊」を中に「封じ込める」ための施設だとされる。
 なぜ「怨霊」になったか。手元にこの書物を置いていないが、要するに「政治闘争」に敗北し、その子・山背大兄王一族も含めて全員が殺戮されたからだ(自殺・心中の強制を含む)。
 おそらく上のあとで読んだ、井沢元彦の書物も面白かった(関心を惹いた)。これは単行本の段階で新刊で読んでいる。
 井沢元彦・逆説の日本史2/聖徳太子の称号の謎(小学館、1994。小学館文庫、1998)。 聖徳太子の「怨霊」視は梅原と同じだが、「徳」という漢字の諡号の不思議さの指摘は意表をついた。
 聖徳太子は皇位に就かなかったようだが、かつてつぎの諡号をもつ6名の天皇がいた。
 ①孝徳、②称徳、③文徳、④崇徳、⑤安徳、⑥順徳。
 崇徳天皇(・上皇)以降の3名で十分かもしれない。つぎの書のように、崇徳は菅原道真、平将門とともに日本の三大「怨霊」とされることがある。
 山田雄司・怨霊とは何か-菅原道真・平将門・崇徳院(中公新書、2014)。
 安徳天皇は8歳で下関の海に沈んだ。
 順徳天皇は承久の変を起こした後鳥羽天皇の子で、佐渡に流されてそこで死んだ。
 なお、後鳥羽は安徳天皇在位(生存)中に!京都で即位した安徳の異母弟だ。
 そして、いま手元にあるの井沢著(文庫版)を見ていると、後鳥羽は死後4年間は「顕徳(院)」と呼ばれたらしい(!、p.174-5)。
 井沢元彦によると<聖徳>から始まるというのだが、「徳」が付くのは偶然なのか。孝徳、称徳等については省略。
 脱線するが、京都・神泉苑で御霊会が最初に開催された記録の残る9世紀前半に「怨霊信仰」は成立したとの文献実証主義学説もあるようだ。しかし、「怨霊信仰」という言葉・観念の意味の問題ではあるものの、「怨霊」意識とそれを恐れる(だからこそ「怨霊」と称する)意識は、もっと早くからかなり広く成立していたように推察される。
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 上の前半に書いたことは、聖徳太子の、神道ではなく仏教とのつながりの強さだ。
 <太子信仰>とは、日本の宗教の一種で、かつ強いて分ければ、仏教的なものだった。
 (こういうやや曖昧な形の文章にしているのも、かつて神道と仏教の明確な区別はあったのか疑問だからだ。また、むろん明治新政権が採用したはずはないが、幕末までの時点で欧州のキリスト教に該当した日本の宗教は「神道」ではなく「仏教」だったのではないか、との感触がある。)
 さて、江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この著で江崎道朗は、「聖徳太子」という言葉を数十回も登場させ、多くは「十七条の憲法」という語も用いる。
 江崎は、どのような意味で、またはどのような趣旨・脈絡で「聖徳太子」に言及し、「聖徳太子」を尊敬する趣旨を述べているのか。きちんと確認しておきたい。無惨さ、悲惨さはここにもある。

2003/L・コワコフスキ・「社会主義」・日本会議。

 スターリニズム、トロツキー、マルクス主義、L・コワコフスキから日本会議、日本の天皇の陵墓や男系・女系論等まで、秋月瑛二の関心は幅広い。但し、別々に切り離されて存在しているのではなく、精神・論理・心理・心情の中では「統合」されていて、それなりの個所に位置を占めている。
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  L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 この書物および1973年4月のイギリス・レディング(Reading)会合について、「上の書物全体を読んだわけでは全くないが、『反共産主義・反社会主義』ないし『自由主義』」志向の団体・組織だろう」と先に書いた。これは、1972年4月の日本・東京での国際セミナーの性格をも実質的には含めるような趣旨だった。
 ここでのとくに「社会主義」・「反社会主義」という語の使い方が気になるので、少し厳密化ないし修正をしておく必要があると感じる。
 この欄では当初から、<社会主義>と<共産主義>という二つの語を似たようなものとして使ってきた。勉強不足ゆえの曖昧さだったかもしれないが、日本での概念用法はそんなものだろうと思ってきた。あるいは、無意識にせよ日本共産党ら日本の「左翼」もまたそのような言葉の使い方をしていると感じてきた。
 マルクスは正確にどう書いていたかは知らないが、かつて日本共産党は共産主義を社会主義の高次の段階だというような説明をしてきたものの、(不破哲三による指導の一撃により?)1990年代以降はマルクスは両者を厳密には区別していないという説明に変わり、現綱領上も「社会主義・共産主義」の社会、というような表現をしている(また、「マルクス=レーニン主義」という語は使わなくなり、<科学的社会主義>と称する)。
 1973年のレディング会合についてのL・コワコフスキによる注記でも頻繁に言及されているが、<社会主義思想>をテーマにしながら、「社会主義」概念の意味または意味の検討方法についてすら一致がなかった、とされる。
 この会合を離れると、L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>は「社会主義」と「共産主義」を明確に区別しているという印象が、試訳し始めて以降早々に生じた。
 この著にいう「共産主義」=communism は、あえて単純化すると、レーニン・スターリン主義、ボルシェヴィズム(あるいはソヴィエト・ロシア型の「社会主義」)のことだと思われる。マルクス主義=共産主義ではないが、共産主義は前者の系統上にある、と位置づけられているとみられる(なお、某はL・コワコフスキの「ソヴィエティズム」という観念について語っていたが、この「ソヴィエティズム」という語は今のところ見たことがない)。
 また、上の大著の第二巻は<黄金時代>と題されているが、たぶんトニー・ジャットの文章だっただろうか、L・コワコフスキはマルクス主義の<黄金時代>を第二インターナショナル(=社会主義インターナショナル)に見ている、という解説または言及があった。
 そして、第三巻の<瓦解(Breakdown、Zerfall)>はむろんソヴィエト連邦の崩壊ではなく、スターリニズムの説明から始まる(第二巻の末尾がレーニン)。
 つまり、L・コワコフスキにおいては(1973年のレディング会合の記録である1974年編著もおおよそそうだが)、「社会主義」と「共産主義」はおそらく完全にまたは大幅に異なる概念であって、同どものとして使っていないことは明瞭だ。
 むろん、マルクス主義と「共産主義」は、関連はあっても(その関連性の意味・内容・形態こそが問題だが)同一ではない。
 この上のような言葉の使い方は、トニー・ジャットにおいてもおそらくは近い。
 そして、推測になるが、フランス社会党・ドイツ社会民主党等とフランス共産党・イタリア共産党等を区別するために、欧米では「社会主義」と「共産主義」をきちんと分けておく必要があったのだろう(ドイツ社会民主党は戦後早くにいわゆる<マルクス=レーニン主義>からの離別を建前上は宣言している)。
  日本会議の設立宣言(1997年)は「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」と書いているが、この団体が「余すところなく暴露された」とする「マルクシズムの誤謬」を多少具体的にでもどう理解しているかは、完全に疑わしい。
 それは、日本会議専任研究員だった江崎道朗の2017年著での社会主義・共産主義・レーニン・コミンテルン等に関するはなはだしい、悲惨な<無知>でも明らかだろう(この著には「社会主義」と「共産主義」の異同を思考するという問題意識すらない)。
 もちろん、櫻井よしこ、伊藤哲郎、椛島有三らの日本会議諸氏が「マルクス主義」にいかほど通暁しているかも全く疑わしい。
 さらにはついでに書けば、日本の「(いわゆる)保守」と自称しまたは多称されているような<産経文化人・知識人>たちのマルクス主義・共産主義等に関する知識・素養のなさも著しいだろう。
 そして、秋月瑛二は、「保守」とは第一に「反共主義」だと考え、それを最も単純には「自由主義」とも称してきた。第一にというより、「保守」=「反共主義」=「自由主義」とほぼ等号で結びたいつもりで書いてきたかもしれない。だからこそ、月刊正論(産経)等々に見られる<産経文化人・知識人>等々の<いわゆる保守派>による<反共産主義>意識の欠如や乏しさに我慢がならず、しばしば批判的なコメントを書いてきた(この点ではこの欄は一貫しているつもりだ)。
 しかし、<産経文化人・知識人>等々の<いわゆる保守派>の理解する「保守」が反米だったり「日本」・「天皇」だったりすると<反共>意識の乏しさも全く当然のことで、この人たちは、私の理解する意味での「保守」派では全くない、ということがこの数年間に分かった。
 馬鹿らしいほどだ。
 日本会議の活動員だろうか、<「反共」なら統一教会に任せておけばよい、大切なのは「天皇」だ>とかの書き込みがネット上にあった。
 「日本」・「天皇」に観念的に執着することは、「保守」でも何でもない。「愛国主義」・「民族主義」あるいは偏頗なナショナリズムだ。
 なお、日本共産党・しんぶん赤旗を見て見るとよいだろう。対米自立・対米従属批判で日本共産党は一貫している(一部の<いわゆる保守>と同じように)。
 さらについでに引用しておこう。レディング会合で1973年に早くもS. Hampshire は語った、という(試訳済み)。
 「民族的共同体への郷愁が、多数の左翼集団の中にきわめて強く感じられる」。
 上の「左翼」は「右翼」の訳し間違いまたは書き間違いではない。
 「日本」・「天皇」では、「右翼」でも「左翼」でもある。
 日本会議と日本共産党は、再三書くが、その方向は<45度も開いていない>。
  「社会主義」観念の捉え方の広さ・多義性を見ると、レディング会合の参加者は決して全員が<反社会主義>の立場の者ではなかったように見える。
 第一に、東欧(当時の「社会主義国」)からの参加者の中には、現実の「社会主義」には問題があっても「資本主義」からは離別しているという点では肯定的に評価していると感じられる人物もいる。
 第二に、驚いたことに、Eric Hobsbawm までが参加して、ソヴィエト型社会主義を擁護するかのごとき発言をしている。この人はイギリス共産党員だったはずなのだが。
 Edward P. Thompson が招聘されなかったと言ってL・コワコフスキに不満を述べていたらしいこともよく分かってきた。この人はマルクス主義者らしいが、L・コワコフスキは「新左翼」扱いをしていたようだ(試訳済みの「左翼の君へ」)。
 このような、試訳してみての、その内容についてのコメントはこれまでほとんど行ってきていない。
 その理由は要するに、そんなことをしているとキリがないし、いったん何となくでも意味を理解してしまうと、時間が惜しいからだ。
  1972年4月に東京での国際セミナーを開催した(または後援した)<日本文化フォーラム>の性格、あるいは石原萠記という人物の評価・位置づけを「社会主義」という語を使って記述するのも困難なところがある。
 だが、レディング会合とは少し違って(?)明確なのは、<反日本共産党>あるいはその意味で<反共産主義>だ、ということだろう。<日本文化フォーラム>の関係者あるいは石原萠記の交際範囲の中に日本共産党員(および社会党左派・向坂派・社会主義協会派)は全く存在しないとみられる。
 欧州的?社会民主主義の建前のように、「社会民主主義」と「反共産主義」は両立する。
 前者を「社会主義」の中に入れてしまって、「社会民主主義」=「左翼」=「容共」と簡単に把握することはできないし、そうしてはいけない。
 この辺りは、日本社会党右派、民社党、日本での<反共・社会民主主義>がなぜ勢力を大きくできなかったのか、という、日本の戦後政治史に深く関係するだろう。
 <日本文化フォーラム>とは別にあったらしい<日本文化会議>についても、遡って見ておく必要がある。
 そして、日本会議(1997年設立)は戦後日本の「保守」運動を継承しているのか?
 石原萌記の書物の中には(1999年刊行であっても)、日本会議も椛島有三も出てこない。
 この点は、別に記述しなければならない、最近の大きな関心事だ。
 なお、<日本文化フォーラム>というのは、とくにその中の「フォーラム」の採用は、林健太郎の提言によるらしい(石原萠記著による)。
 「フォーラム」と「アゴラ」の意味はきっと同じだろう。

1990/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)③。

 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 この項の前回に意識的に割愛した、この書物のL・コワコフスキによる「序文」の一部は、英訳を試みると、つぎの一文だ。訳出上、二文に分ける。
 会合・シンポジウムの報告には種々の不備があったので、「会合では存在しなかった三論文を追加した」、に続けてこうある。
 「それらのうち二つは、Richard Lownthal およびGilles Martinet のもので、1972年4月に東京で開催された『変化する社会における社会主義』と題する国際セミナーで報告された。
 これは、文化的自由のための国際協会〔International Association for Cultural Freedom〕および二つの日本の雑誌と連携した日本文化フォーラム〔Japan Cultural Forum〕によって、後援(財政支援)された。」
 ***
 L・コワコフスキ編の1974年著のL・コワコフスキ執筆の文章の中に、その当時の日本の団体または組織が出てくる。
 これはいったいどの団体のことだろうか。現在でもあるのだろうか。
 上の書物全体を読んだわけでは全くないが、「反共産主義・反社会主義」ないし「自由主義」志向の団体・組織だろう。
 厳密には暫定的な結論だが、少なくとも現在ある、1997年設立の日本会議(事務総長・椛島有三)とは全く関係がない、と考えられる。L・コワコフスキと少なくとも間接的には関係または接触があった日本の<保守>=<反共・自由主義>の諸団体の性格または基本姿勢・基本思潮を、この日本会議は継承していない、と考えられる。
 日本会議は「保守」ではない。むしろ、強いていえば「右翼」だ。
 そして、この欄ですでに書いたことだが、日本共産党と日本会議は決して真反対の位置にいるのではなく、その方向は45度も開いてはいない。
 あるいは、これも記したように、櫻井よしこら日本会議派は「過去と伝統」に理想を、不破哲三ら日本共産党は「未来」に理想を求める。そして、その観念的思考ぶりには、十分に共通性がある。

1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。

  前回に記した少なくともかつての泉涌寺と天皇・皇室との深いつながりを、すでに取り上げたつぎの新書から確認しておこう。結論的に、同じことが書かれている。
 かつて「天皇家自体が非常に熱心な仏教徒」で、「国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇…、聖徳太子であった…」等と述べたあと、泉涌寺につき、こう書かれる。別に触れる予定の事項を除く。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)。p.231-。
 ・「1242年、四条天皇が12歳の若さで崩御」した際に「泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺〔みてら〕』と呼ばれるようになった」。
 ・「さらに、南北朝時代の1374年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬された」のを始まりとして「9代続けて天皇の火葬所となった」。
 ・「江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている」。
 ・泉涌寺にある「天皇の墓は九重の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)が祀られている」。
  さらに上掲書には、こう書かれている。近くに御陵があるというだけではない。
 ・「泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる」。
 ・「各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」。
 ここにいう「歴代天皇」とは全ての天皇ではなく、位牌=尊牌のある天皇の意味で、天武系=持統系の称徳・孝謙天皇までを含まないと思われるが、それ以降は全てとされる。位牌の存在理由も含めて、ここでは立ち入らない。
 泉涌寺の作成にかかる小冊子には、つぎのように毎「朝夕」について書かかれている。
 「今も毎日御回向が行われている」。p.10。
 毎朝夕かどうかの明記はないが、「毎日」だ。その旨は、初めてこの寺を訪問したときに聞いて、驚いた記憶がある。
 さらに、同小冊子は、「御月並」=毎月の特定の日の「法要」について、こう書く。p.31。
 位牌のある天皇と同列以上の特別の扱いがなされている。
 ・毎月7日/昭和天皇、同10日/昭憲皇太后〔明治天皇皇后-秋月注〕、同16日/香淳皇后、同17日/四条天皇・貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同25日/大正天皇、同29日/明治天皇。
 また、毎年の「御例祭」の「法要」が、つぎの天皇・皇后について行われるとされる。
 ・毎年1月7日/昭和天皇、同1月11日/英照皇太后〔孝明天皇妃〕、同5月17日/貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同6月16日/香淳皇后、同7月29日/明治天皇、同12月25日/大正天皇。
 これら「法要」が霊明殿で行われるのか、仏殿でなのかはよく分からない。
 しかし、<仏教式>のものであることは言うまでもないだろう。
 ついでに、つぎによって、これまで記したことの一部を補足しておく。
 芳賀徹「御寺の風格」上村貞郎=芳賀徹監修・泉涌寺/新版・古寺巡礼京都27(淡交社、2008年)所収。
 ・「…、まことに皇室の菩提所、『御寺』と呼ばれるふさわしい、荘重で、しかも清明に気配に満ちた境内なのである」。-p.8。
 ・「…、明治維新以降、泉涌寺が受けた打撃は大きかった。…天皇家の遠忌法要も葬儀も神式となって、泉涌寺では行われなくなったからである。その上に明治4年(1871年)には寺社領の上知(没収)令が出されて、…20数万坪の土地を約4万坪に減らされたという。…少なくともいったんは官有地となった。」-p.14。
 ・明治天皇、大正天皇の例に倣って、「昭和天皇も御在位の間にいくたびか皇后陛下とともに泉涌寺においでになり、御陵と霊明殿に参拝なさったという」。-p.15。
 ・「いま平成の天皇と美智子様も御上洛の折にはよく泉涌寺にお立ち寄りになり、御先祖の霊に参拝しておられるらしい」。-p.16。
  仏教様式での回向・法要のほか、興味深いのは、御陵・陵墓の「向き」と泉涌寺の建造物の位置関係だ。
 上の古寺巡礼京都27(2008)に末尾にこれがかなり明確になる地図があるが、寺院境内や御陵であることによるのだろう、一般的な地図やネット上の地図(例、google map)では空白が多い。
 下は、ネット上にある、泉涌寺・月輪陵・孝明天皇陵=後月輪東山陵の位置関係を示す古い図面(左)または写真(右)。左は上が「北」、右は上が「東」。
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 専門的にまたは学問的に神社・寺院の「向き」というのが本当にあるのかどうかは知らない。しかし、寺院の場合は本尊たる仏像の顔の「向き」、あるいは参拝する方向とは反対の方向が「向き」だと言えるだろう(但し、本尊仏像がない寺院もある。京都・永観堂の「みかえり」阿弥陀如来像のように顔と身体部分が一致していない稀な仏像もある)。
 「南」向きが多いようでもあるが(とくに神社の場合)、南向きが「通常」または「原則」とは言えないだろう。「北向」や「東向」が現在の寺院名の一部にされている場合もあるし東西本願寺(京都市)・法然院(同)や浄瑠璃寺(京都府木津川市)の本堂に当たるもの(および本尊仏像)は「東」向きで、「西方」(西方浄土?)を向いて参拝する。但し、浄土真宗を含めて、全ての寺院が「東」向きではもちろんない(例、三重県津市・高田専修寺)。
 泉涌寺の場合、やや西北方向に傾いているが、仏殿(本堂に当たると見られる)・舎利殿は「西」向きだ。仏殿・舎利殿とほとんど同じ中心線上に「勅使門」があり、その南に「霊明殿」自体の門と見られる<唐門>・空地・「霊明殿」がある(左の地図の左端半ば辺りの舎利殿の右下)。
 この霊明殿と月輪陵・後月輪陵との位置関係は現地では必ずしもよく分からなかったが、上左の地図が示すように、唐門・霊明殿の中心線が御陵の入口の門および陵区画の中心線と重なってはいないとしても、霊明殿で「東」向きで回向・法要する僧侶・参拝者等方向は、月輪陵・後月輪陵の区画の一部を間違いなく向いている。全体として、御陵と向かい合っている、と言ってよい。
 これは何を意味するのか。
 霊明殿で回向・法要のために読経し瞑目する等々の人々は、諸天皇の位牌のみならず、月輪陵・後月輪陵の各陵墓に対してもまた向き合っているのだ。陵の門を入って間近に各陵墓に参拝する場合もむろんあるのだろうが、陵墓参拝は(まとめて?)泉涌寺の一部である霊明殿でも行うことができる、ということなのではないかと思われる。
 このことは、孝明天皇までの天皇陵等については、「みてら」として当然のことだったのかもしれない。
 しかし、現在でも毎日霊明殿で、仏僧によって回向が行われている、ということは相当に興味深いだろう。また、諸法要が霊明殿ではなく仏殿で行われているとしても、その方向は上の御陵の陵墓の方向を向いている。
 なお、霊明殿の北に「本坊」とされる建物があり、現在観覧することのできる部分の区画または各部屋は、全て、天皇・皇族およびこれらの付き添い者の用に供されていたものだ。「玉座」とされている部屋もあって、「本坊」の東南にある小ぶりの庭園に向かって「南」面しており、その中心線は、霊明殿の東端またはそれと御陵との間の空地を走っている(陵の方を向いていない)。
 上の二つの地図・写真で気づいたが、一般には見ることのできない月輪陵・後月輪陵の各陵墓は、霊明殿・仏殿等がやや西北に傾いて「西」向きであるのに対して、「真西」を向いているようでもある。これは意識的で、「真西」を向かせるという明確な理由があるのではなかろうか。
  孝明天皇陵・英照皇太后陵(後月輪東山陵・後月輪東北陵)へは一般にはこの二つに共通の門の近く(上の右の写真の「孝明天皇陵前広場」)までしか行けない。
 だが、ネット上の写真等を見ていると、興味深いことに気づく。
 第一に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、「西」を向いておらず、「南」向きであるようだ。
 第二に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、<仏教式>ではない。何重かの「円墳」のようなかたちをしている。上の左の地図およびつぎのネット上の写真を参照。下の写真は上が「北」。左下が月輪陵の一部。
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  英照皇太后陵ではなく孝明天皇陵は明治改元(遡及)前の1867年に造られている可能性はあるが、明治天皇即位後であることは間違いない。そして、孝明天皇陵の造営については、明治新政権の幹部・神官たちの意向が相当に働いたのではないか。
 以下は、全くの素人の推測だ。 
 孝明天皇は明治天皇の実父の先代天皇、英照皇太后は中山慶子が実母であるところ形式上だげは「母」とされた人物。明治天皇を中心とする新しい時代を築こうとする新政権中枢は、この二人の陵墓を粗末・質素なものでなく大きなものにしようとした。
 しかし、場所は江戸時代の長い伝統・慣例によって泉涌寺付近としたが、光格(1840没)、仁孝(1846没)の両天皇とも違う区画を選び、かつ、すでに<仏教式>でないものにすることとした。したがって、第一に九重石塔を用いず、第二に泉涌寺の霊明殿の方向を向かせないことにした。
 仏教によるという伝統からの切断、泉涌寺からの分離が、すでに試みられているように見える。
 図説天皇陵(新人物往来社、2003)は孝明天皇の陵墓を「円丘」だと記す。
 一方で、月輪陵・後月輪陵にある天皇陵墓は「九重塔」だと明記している。
 九重石塔は陵墓の飾りの一種かと思っていたが、陵墓の方式・様式そのものだと理解されている。そのような、江戸時代、御水尾から仁孝までの天皇の各陵墓とは、明瞭な違いをあえて示しているのが、孝明天皇(・英照皇太后)の陵墓だ。
 この①「円丘」、②南向き、ということが<神道式>だといえるかどうかは分からない。古代の前方後円墳は<神道式>なのか、天武・持統合葬陵は<神道式>なのか、といった問題設定はほとんどなされてきていないだろう。
 いずれにせよ、しかし、明治天皇の即位後の新しい時代に、先帝・孝明天皇の陵墓についてもまた江戸幕府時代の「伝統」に従わない、「新しい」様式によることが決断された、と言えそうだ。
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 この機会に、<十三重石塔>も、二つだけ例示しておく。
 下は順に、清水寺(京都)、法住寺(同)。

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1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。

  日本会議の役員の長谷川三千子・からごころ(中公叢書、1986)の「まえがき」を一瞥していると、何やら息苦しくなる。
 「日本」、「日本人」、「日本的なもの」とかへの拘泥あるいは偏執が強すぎ、かつ同時にこれれらを事実や経験からではなく<観念>的に理解しようとしているからだと思われる。
 こういう一文がある。「われわれ日本人のなかには、確かに、何か必然的に我々本来のあり方を見失わせる機構、といったものがある」。p.8-9。
 日本、日本人あるいは「日本的なもの」を想定してさまざまに論じるのは否定されるべきことではないし、この欄でもそうした作業に関連することは行っているだろう。
 しかし、「我々本来のあり方」という表現・観念には違和感が湧く。
 日本、日本人、「我々」についての「本来のあり方」とは何か?
 そんなものはあるのか? その存在を想定し、前提とすることから始めると、最終的結論も中間的結論も出ない、迷妄の闇の中に入ってしまうような気がする。
 日本会議は、「本来の」が好きだ。「天皇の…に関する、本来のあり方は、……だ」といったふうに語られる。
 だが<天皇の…本来のあの方>とは何か。誰が、どうやって決定するのか。
 日本会議が主張する、または認識するそれが決定的で、<正しい>ものである保障など、どこにもない。むしろ日本会議は、<本来のあり方>と称しつつ<ウソ>をばら撒いている可能性もある。
 なお、長谷川の上の著は全体を熟読しているわけではない。念のため。
  かつて一時期、天皇家の「菩提寺」だった泉涌寺に関連して、言及しておきたいことがまだある。
 大きな一つは、明治維新後の変化、神仏分離・判然政策にかかわる。
 前回も利用させてもらっている泉涌寺作成・頒布の小冊子は、月輪陵について、こう記述している。後月輪陵も含めてよいかと思われる。
 「ここに鎮まる方々の御葬儀は泉涌寺長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」。
 こここで関心を惹くのは、幕末・明治維新以降、あるいは明治新政権の<宗教政策>上、「…御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」という状態が許容されたのか否か、許容されたとすればなぜか、ということだ。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)は全国各地の事例に言及しているが、京都(市内)については、こんなことを書いている(第8章「破壊された古都-奈良・京都」)。
 ・「多くの仏教行事」、「例えば『五山の送り火』や地蔵盆、盆踊りも軒並み、『仏教的だ』という理由で禁止になっていた。
 ・1871年10月の京都府府令によるもので、この「府令は、京都市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するよう命じた」。
 ・1872年7月にはつぎのような布令が出された(前のものとともに原文が引用されているが、ここでは略。なお、「府令」・「布令」は鵜飼著のママ)。
 「夏のむし暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠のない迷信だから今後は一切禁止する、という内容である」。
 ・愛宕神社はかつては神仏混淆で、700年代に役行者(修験道)が開いたとされ、781年に和気清麻呂が勅命により境内に白雲寺を建立した。
 だが1868年「神仏分離令」発布により、白雲寺等は「軒並み廃寺処分」となり、愛宕山麓での「鳥居形」の送り火も中止になった。
 ・四条大橋の鉄橋化に際して、寺院内の仏具・金属製什器類が「供出」された。p.209-p.210.
 ・五条大橋欄干の金属製装飾の「擬宝珠」が、「仏教的」であるとの理由で撤去・売却された。 
 ・「石塔婆などが道路の敷設に使われたり、…石仏が踏み石にされた事例は数多い」。p.211.
 ・1871年の「第一次上知令」により、寺領等が「国に取り上げられ」、大幅に縮小した。以下、単位は坪、一部は秋月が1000未満を四捨五入。
 高台寺9万5千→1万6千、平等寺3千→2千、清水寺15万6千→1万4千、東本願寺4万7千→1万9千、大徳寺6万9千→2万4千、鞍馬寺35万7千→2万4千、知恩院6万→4万4千、など。
 のちに「仏教式」ということの関係で触れることのほか、泉涌寺について、こうある。
 ・「泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた」。p.233.
 なお、泉涌寺作成・頒布の小冊子の年表には、1878年(明治10年)のこととして、「御陵、宮内省の所管となる」、と書かれている。
 陵墓地の所有権は版籍奉還とは制度的に別の「上知」により早くに「国」に移り、1878年になって「管理」もまた国に移管した、という意味だろうか。
  現在の月輪陵・後月輪陵の様相は後述するとして、神仏判然、神仏分離の基本理念からすると、事もあろうに天皇の御陵が「仏教式」で供養されたり、その陵墓の築造様式が「仏教式」であってはならない、という発想が容易に出てきたはずだろう。
 二年前は今ほどの関心と問題意識はなかったが、この点についての興味深い史料を紹介して論評する文献を、この欄で取り上げていた。2017/05/03、№1527で、その文献は、以下。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 1968年6月の明治新政権「政体書」により律令上の「神祇官」が復活して太政官のもとに置かれて天皇陵の祭祀も担当するようになり(のちに1871年に神祇省に格下げ?)、その中の「諸陵寮」が陵墓地の管理を所管するようになった。
 上の外池著によると、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだが、陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされ、陵墓(山陵)事務については独立の官署「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、翌1869年9月に神祇官の「下部」機関として「諸陵寮」が置かれた、とされる。
 以下、二年前の投稿内容をそのまま再掲しないであらためて書き直す。
 1871年(明治3年)8月-御陵御改正案写/諸陵寮。上掲書、おおむねp.330以下。
 ***
 「諸陵寮」はとくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について注目していたようだ。
 1870年(明治3年)8月の「諸陵寮」の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用も混ぜる。厳格な正確さはない可能性はある)。
 ・「御一新復古」となり、「神仏混淆不相成旨」を先般布告し、「僧侶ども還俗復飾」等を「仰せ付け」た。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(「然処」)、御陵に関係している「泉涌寺其外」が依然として「巨刹を構え」「そのままに」されているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(「何共恐入候次第」)。
 ・「皇国に来たりしより既に二千有余年」、「禍害は四隅に蔓延」していて「もとより一朝一夕の事」ではないが、「即今の御回復」は「重大」なことで、「僧侶ども生活の道」が相立たないこともあるだろうが「千緒万端」の手を尽くしたにもかかわらず、このような「重大の事件」は「御一新」のときにあってはならない。
 ・「御盛業」の「確然」相立っており、「諸国の神社の社坊社僧」に比べると「誠に瑣々たる」ことなので「容易に御成功」できないかもしれない。
 ・しかしながらそもそも、「神世以来の御一統」の「皇室御歴代」の「御追孝の御祭典御陵の御取扱」方法は「上親王華族より下億万の庶民まで」の「模範」であるべきで、「断然と浮屠混淆」をしてはならない旨を「神社」に「普く「御布告」した。
 ・「泉涌寺等全御陵に関係の寺院」は、一山残らず「還俗」すること(「一山還俗))人選の上で「相当の職務」に就かせることをを「仰せ付け」た。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 -以下つづけるが、以下の諸項が興味深い(なお、原文が項立てしているのではない)。
 ・…。しかし、「九重石御塔あるいは法華堂杯」をそのままに「御建置」したままで「御祭典」をしているのは、「浮屠混淆の一端」なので、少しずつ是正される(「順々其辺御改正」))のは「理の当然」のことだ。
 ・「御陵」とはすなわち「御霊の所在」で、これが「御是正」されるべきは「自然」だ。「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は「叡慮」によって下されなかったけれども、その理由は…ということであった。
 ・「万民の方向」は「御定め」られているのに「肝要の御陵の御取扱」が「浮屠混淆」であっては、「寮官」にはじつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(「不堪懸念殊更苦心」)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を「別紙」のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 -この「別紙」は全文が掲載されていないが、外池著p.334は、つぎの部分を引き、「泉涌寺における神仏分離と陵墓管理の徹底について、極めて具体的かつ厳しい見通しを述べている」と注釈している・
 ・(<別紙>)「御歴代御陵祭祀神典に被為依候上は、泉涌寺をも被廃候儀当然の御儀と奉存候
 =「御歴代御陵祭祀」は「神典」によるべきところ、「泉涌寺をも」「廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと申し上げさせていただく。 
 以上、終わり。
 ***
 これは明治政府全体の1871年の政策方針でも、神祇官の見解でもない。しかし、その直下の「諸陵寮」の見解・意見の具申文書だ。
 「九重石御塔」等が存置されたままであるのを批判し、泉涌寺の「廃止」すら提案されている。その根拠は「ご一新」であり、「神仏混淆不相成」であり、「浮屠混淆」の禁止=仏教を含む汚らわしいものとの「混淆」の禁止、だ。
  しかし、現在、泉涌寺は残存しており、御陵もその直近に残っている。
 「九重石御塔」とは<九重石塔>とか<九重石仏塔>とか呼ばれるもので、どうやら仏教様式のものらしい。
 思い出すと、奈良県桜井市の談山神社の本殿の前に立って、ここは寺院だったか神社だったかと一瞬迷ってしまった理由の一つは、石製でなく木造ではあっても13重の、<九重仏塔>のようなものがきちんと存在していたことにあったようだ(神仏混淆の名残りだと思われる)。
 <九重石仏塔>ではなく、実際に多くあると思われるのは<十三重石塔>だ。
 清水寺(京都)、泉涌寺塔頭の新善光寺、長岡京市の乙訓寺、奈良県平群町の千光寺、京都・三十三間堂東の法住寺、神戸市北区の三田に近い鏑射寺には、間違いなく<十三重石塔>があり、京都市・東山の長楽寺には、建礼門院(安徳天皇の実母)の供養塔として、かなり古びた小ぶりの<十三重石塔>がある。但し、これらは御陵または陵墓とは直接の関係がないと見られる。つまり、墓碑の直近に立っているわけではないようだ。なお、建礼門院徳子は天皇ではないものの、その御陵はあって宮内庁が管理している。その位置からして、少なくともかつての「菩提寺」は京都・大原の寂光院だったと見られる。
 もっとも、(五重石塔もあるようなのだが)、これら<九重石塔>や<十三重石塔>の意味、9や13という数字の意味はよく分からない。関心をもって情報を探しているが、簡便な方法によっては手がかりが得られない。ひょっとすると、きちんと説明することのできる仏僧たちすら少ないのではないか、とすら感じている。
 四での前置きが長くなったが、上の1871年諸陵寮改正案が批判・攻撃の対象にしていた「九重石御塔」は、現在でもそのまま残っていると見られる。
 この一年以内に、ネット上で近年または最近の月輪陵(+後月輪陵)を撮影している写真を見つけた。一般人も撮影地点まで入れるかと思ってその後に(そのためだけでもないが)陵の告知板辺りから右上方につづく「道」を入りかけると、そこは立入禁止になっていた。ネット上の写真は特別の資格があるか特別の許可を得た人が掲載しているのだろう(あるいは禁を破った人か)。
 先日にこの陵を西北方向から撮った映像を数秒間流していたテレビ局があった。相当に珍しいフィルムなのではないかと思われる。
 これで泉涌寺関連が終わるのではない。
 各御陵の「向き」(泉涌寺自体の「向き」とほとんど同じ)や孝徳天皇(・英照皇太后)陵の、他陵との違いについて、さらに言及する。
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 以下、ネット上より。月輪陵。後月輪東山陵は写っていない。

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1979/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05③。

  泉涌寺-月輪陵-後月輪東山陵-孝明天皇陵となると、孝明天皇自体について、幕末期の<孝明天皇暗殺>説に触れたくなる。岩倉具視を首謀者とするのかもしれない「暗殺」、または意図的な治療遅延等による「殺人」が万が一にでも事実であったとすると、つまりは幕府および徳川家に対する敵意が薩長両藩や「過激」公家たちほどでは全くなかった孝明天皇がもう少しは長く存命していれば、<幕末・明治の変革>の様相は変わっただろうし、<明治維新>の印象・イメージも大きく変わるに違いない。
 学者・アカデミズム界を超えるか少なくとも同等の推論をしている、本来は小説家・作家の中村彰彦のいくつかの本(暗殺説)にも触れたくなる。
 この主題を忘れているわけではない。但し、「明治維新」を項とするところで、別に扱った方がよいだろう。
 泉涌寺が<天武天皇系の天武から称徳・孝謙天皇まで>の天皇を供養の対象にしていないこと(位牌のないこと)にも今回は触れない。女性・女系天皇とか、光仁・桓武天皇による<王朝交代>説とかに関係してくる。
  上の後者に少しは関連性があるが、泉涌寺自身が制作・頒布している小冊子(<御寺・泉涌寺>)内の「泉涌寺略年表」にしたがうとすると、前回・前々回に記した以上のことが分かる。
 称光天皇(即位1412年、後花園天皇の前代)の御陵は、京都市伏見区深草の深草北陵の中にあるが、1428年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。
 後小松天皇(即位1382年)の御陵も同じく深草北陵の中にあるが、上皇となったのちに没した1433年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、別の資料によると、泉涌寺月輪陵内にではなく、泉涌寺塔頭の雲龍院境内に「灰塚」がある。
 後土御門天皇(即位1464年)の「灰塚」が月輪陵内にあるとされるが(この欄の前回参照)、1500年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。但し、御陵自体は、上と同じく深草北陵の中にある。
 後柏原天皇(即位1500年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1526年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 後奈良天皇(即位1526年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1557年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 正親天皇(即位1557年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1593年に泉涌寺で「火葬」はないようだが「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
 後陽成天皇(即位1586年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1617年に泉涌寺で「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
同じ「略年表」によると月輪陵または後月輪陵に陵墓のある後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝の各天皇の「奉葬」を行ったと明記されており、後月輪東山陵に陵墓のある孝明天皇についても同じだ。
  これによると、15-16世紀に、泉涌寺で天皇の「火葬」が行われていた。その場所は筆者には分からず(諸資料にも書かれておらず)、推測するしかない。
 「火葬」もせず、また陵墓自体は別にあって(深草北陵)、泉涌寺が「奉葬」したという、「奉葬」の意味はよく分からない。
 推測になるが、遺体・遺骸を存置しての丁寧なまたは本格的な「法要」ないし「葬送の儀礼」、要するにきちんとした<葬儀>は泉涌寺で行い、遺体・遺骸は泉涌寺より南の深草まで移して「埋葬」した、そこが最終的な「陵墓」となった、ということなのだろう。
 以上の今回記したこともまた、少なくとも孝明天皇までの、天皇と仏教・寺院の関係の深さを、とりわけ仏教寺院である泉涌寺との鎌倉時代以降の関係の深さを示している。
 もちろん、「奉葬」は仏僧たちが、仏教的様式で行ったに違いない。泉涌寺のどの建物で、ということになると、現存建物の中では舎利殿か仏殿かしか考えられないが、特別の建築物が一時的にせよ造られたのかもしれない。

1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。

  御陵は現在(明治期以降?)は宮内庁の(直接の)管理だ。したがって、泉涌寺とは法的には無関係とは言えなくもないが、すぐ近くにある月輪陵(12天皇)と後月輪陵(2天皇)については、これら陵墓の区画と間際の道路部分へは現在でも泉涌寺の境内を通らないと到達できないと思われる。
 聖徳太子陵についての叡福寺の場合と同じだ。
 但し、孝明天皇についての後月輪東山陵へだけは、金堂・本坊等のある泉涌寺境内を通らなくとも自動車で行ける道路(または道路状の通路)が続いている。
 しかし、どちらにせよ固定資産税の対象にはならないのだから明確にしておく意味はほとんどないが、一般的な道路の一部ではなく、おそらく厳密には泉涌寺(本山)の所有する土地内に設けられているのだろう。
 というのは、泉涌寺付近の三陵墓を訪れるためには泉涌寺(山内)の「総門」をくぐらなければなないが、この門より奥は「私道」だ旨の看板が掲げられている(従って正確にはたぶん、道路交通法の適用はない)。
 「総門」をくぐると左右に<塔頭>がいくつかあり、その中には西国観音巡礼の札所の今熊野観音寺すらある。また、宮内庁書陵部月輪監区事務所の建物も、泉涌寺の仏殿・舎利殿(の近くを通って月輪陵と後月輪陵)や後月輪東山陵に続く道路の近くにある。この管区事務所は全国につあるようだ。大まかな位置としては、その道路に接してはおらず、今熊野観音寺と泉涌寺の中間の叢林の中にあるように思える。
 なお、泉涌寺の大門はやや高い箇所にある。いま言及している道路はそこへさらに上がらないで泉涌寺境内の平地部分と同じ高さで斜め左へと分岐する。泉涌寺を正規に参拝するのは「大門」からだと思われ、そこに入山料受領所もある。左に分岐する道を「御陵参道」と記してある地図を掲げる書物もある(もっとも、大門を経由しない泉涌寺中心部への近道にもなる)。実際にも、「泉山御陵参道」という石碑も立っているようだ。
 その分岐点に「拝跪聖蹟」と彫った大きな石碑が立てられている。
 裏には、「皇紀2594年5月27日」〔タテ書き漢数字〕と刻まれている。
 「拝跪聖蹟」という語は他では見たことがなく、この地点から奥は「拝跪亅すべき「聖蹟」だ、という意味なのだろう。立てられた年だと見られる皇紀2594年は、1934年で、昭和9年だ。これも、現在の通念とはやや異なる印象を与えるだろう。
  泉涌寺近くの御陵には天皇の陵墓だけがあるのではない。
 月輪陵・後月輪陵に陵墓のある天皇は、前回にも示したが、以下の12天皇。孝明天皇陵は、後月輪東山陵という一段と高い丘陵地の中にある。
 四條、後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝。
 天皇以外では、以下。
 陽光太上天皇、後水尾天皇皇后和子、霊元天皇皇后房子、東山天皇皇后幸子女王、中御門天皇女御贈皇太后尚子、櫻町天皇女御尊称皇太后舎子、桃園天皇女御尊称皇太后富子、後桃園天皇女御尊称皇太后綾子、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子。
 つぎの5天皇については、「陵」ではなく、「灰塚」だとされる。
 後土御門、後柏原、後奈良、正親、後陽成。
 「陵」ではなく、たんに「墓」とされるものも同じ区画内にある。以下の9皇族。
 光格天皇皇子温仁親王、光格天皇皇子悦仁親王、仁孝天皇皇子安仁親王、陽光太上天皇妃晴子、後陽成天皇女御中和門院藤原前子、後水尾天皇後宮壬生院藤原光子、後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子、後水尾天皇後宮折廣義門院藤原國子、仁孝天皇後宮祈祷賛門院藤原雅子。
 以上は、月輪陵入口にある掲示板の写真によった。読み間違い、見間違いがあるかもしれない。
 孝明天皇の御陵は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)というが、同天皇妃夙子(孝明天皇没後に英照皇太后と追号)の陵は後月輪東北陵といい、孝明天皇陵とおそらく同じ高さの、かつやや北方に離れたところにある(いずれも直視はできない。門付近にある案内地図による)。
 さらに追記すれば、宮内庁管理の「御陵」・「陵墓」扱いがなされているかは疑わしく、そうではないとむしろ思えるのだが、泉涌寺付近には、以下の人物の墓地・墓碑もある。
 「朝彦親王墓」、「淑子内親王墓」、「守脩親王墓」と刻まれている墓碑が、「大門」の南、塔頭の雲龍院の西下にある。その西側に、「賀陽宮・久邇宮墓地」と地図にも出ている墓地の区画がある。ネット上に、7名の皇族名が書かれている。先の「朝彦親王」というのは、久邇宮朝彦親王(香淳皇后の父方の祖父、現上皇の曾祖父)のことだろう。
  このように天皇、皇室の御陵または墓所に泉涌寺は大きな関係があった(・ある)と見られる。
 このことは例えば、つぎのことでも示されているだろう。葬礼等々は、塔頭を含む泉涌寺全山(泉山、洛東泉山)が取り組んだ大仕事?だったのだろう。
 第一に、宗教法人としての関係はよく分からないが(たぶん別法人なのだろう)、泉涌寺に一番近いすぐ北の塔頭の来迎寺は、「禁裡御菩提所別当」だったと自称しているようで、その旨の「印」が現在でもある。
 第二に、泉涌寺からかなり離れた、つまり「総門」には近い塔頭寺院に法音院(ほうおんいん)という仏閣がある(真言宗泉涌寺派)。ここの現在の本堂(不空羂索観音が本尊)は、英照皇太后(孝明天皇妃)の葬儀の際に用いられた「仮屋」を移したものだとされている。なお、英照皇太后は明治天皇の実母ではない。
  泉涌寺関連をまだ続ける。
 神仏習合の長い時代の歴史や天皇・皇室と仏教との関係を日本会議は、あるいは日本会議派諸氏はどう考え、理解し、または感じているのだろうとの関心で書いている。
 こんなことは、彼らにはどうでもよいことかもしれない。「現在の運動」を維持し、拡大するためには、歴史の真実など簡単に無視する。日本共産党もそうだが、政治運動団体というのは、そういうものだ。
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 月輪陵の最後の門と区画入口の告知板。
 
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 後月輪東山陵等への参道(泉涌寺への中間入口の北)と後月輪東山陵=孝明天皇陵の門(一般私人はここまでしか来れない。先日6/12、両陛下がこの石段を上がられるのが数瞬間だけ放映された)。
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1977/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05①。

  明治期を含めてそれ以降の天皇に関する制度・儀礼等のみが日本の天皇に関する「伝統」だと錯覚しているような主張・議論は、2016年の当時の天皇陛下の「おことば」に対しても見られた。
 極論すれば、天皇は死ぬまで天皇でいろ、という主張があった。
 それも内閣府が所管した正規の審議会・検討会(正確には「公務負担のあり方」が主題だったとしても)で表明された。この欄で「あほ」と決めつけた、(生前)譲位不可・摂政設置論者の櫻井よしこ渡部昇一平川祐弘だ。八木秀次はその委員ではなかったが、同じ主張の先鋒的な論者だった。
 いちいちその内容や各人の差異に立ち入らない。自分で「公務」の範囲を勝手に?広げておきながら大変だとは何事か、とほぼ明瞭に書いた者もいた。
 昭和天皇は亡くなるまで天皇であられた、それに比べて今の天皇は…、と昭和天皇を引き合いに出して、暗に?前天皇を批判した(櫻井よしこのような)者もいた。
 八木秀次は摂政設置で対応しないで譲位を認めれば改元(元号の変更)も必要になって大変だということを理由の一つに挙げていたが、その指摘のとおりで、摂政設置による対応がかりに行われていれば、平成-令和という改元もなかった。
 なお、今次の対応は「一代かぎり」との説明・理解がかなり広く見られるようでもあるが、特例法は皇室典範の附則の中で言及されることによって皇室典範の一部になっている。菅義偉官房長官が<先例になり得る>と当時に(特例法制定の際に)述べていたのは、適切かと思われる。この点は別途触れることもあるだろう。
  上に名を上げた人々は大まかには<親日本会議>の者たちだろう。
 「つくる会」分裂の原因およびその後の月刊正論(産経新聞社)による八木秀次の厚遇等々を見ても、八木秀次が<親日本会議>であることははっきりしている。
 椛島有三は当時に、八木くんはいい人ですよ、と言ったとか。
 櫻井よしこは、日本会議の憲法問題フロント組織または大衆団体である美しい日本の憲法をつくる会とやらの共同代表を、日本会議代表の田久保忠衛とともに務めて?いる。
 その櫻井よしこと江崎道朗に顕著に見られるのは(これまで私が知った人々の中でに限って)、聖徳太子を、とくにその(発したとされる)十七条の憲法を、きわめて高く評価しながら、聖徳太子と仏教との関連に、全くと言ってよいほど触れていない、ということだ。
 こんな非常識なことはないだろう。仏教寺院の中に現在でも<太子堂>を設けている寺院関係者は、そのような聖徳太子に対する論及の仕方(不作為を含む)をどう感じるだろうと、私にとって本来は他人事ながら(この表現は再検討を要するかもしれないが)感じてきた。以下は、このことに関係する。
  上皇・上皇后両陛下が、6月12日(水)、京都市内の孝明天皇陵、明治天皇陵に行かれた。
 前者に関連して、「みてら」との名が現在でも残る泉涌寺(せんにゅうじ)の名が、あらためて全国的に知られることになったかもしれない。
天皇陵の所在に関心をもって、天皇陵のかなりの部分の近くに仏教寺院があって、その寺院がいわば「菩提寺」として法要を行い、また墓陵の管理も(天皇家・皇室または幕府等の要請または了解のもとで)行ってきたのだろう、と数年前に推測した。
 そのきっかけとなったのは、天皇在位者ではないが、聖徳太子の陵(宮内庁管理)と叡福寺(大阪府南河内郡太子町)の地理的関係を知ったときだったかもしれない。この御陵には、叡福寺の境内を通過しないと訪れたり、参拝することができない、と思われる。なお、叡福寺は真言宗系だが単立の「太子宗」が宗派だとされている。
 ついでおそらく、「みてら」=泉涌寺を知ったことだろう。泉涌寺は現在、真言宗泉涌寺派本山とされる。
 もっとも、天皇や皇室との所縁が直接だったり、かなり深かったり、ほとんどなかったりと、いろいろな仏教・寺院があるので(一方で、徳川家ゆかりとかの寺院もある)、そうしたことを知ったり感じたりして、仏教・寺院と天皇・皇室(制度)の関係に関心を基礎的に持っていたのだろう。
 ほぼ二年前になるが、あくまで私的な試みとして、特定の天皇と推察できる特定の「菩提寺」たる寺院を、主としては陵墓の位置に着目して、整理したことがある。
 2017/05/06=№1531に記したものを、形式を少し変えて、再掲する。
 天皇名(カッコ内は即位年)、推察される寺院=「菩提寺」、現在の御陵名、地名の順。
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  聖武天皇(0724)・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇(0809)・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇(0876)・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇(0884)・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇(0887)・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇(0897)・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇(0930)・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇(0967)・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇(0969)・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇(0984)・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇(0986)・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇(1016)・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇(1045)・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇(1045)・龍安寺/円教寺陵△-同上。
 堀河天皇(1086)・龍安寺/後円教寺陵○-同上。
 鳥羽天皇(1107)・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇(1123)・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇(1141)・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇(1155)・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇(1165)・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇(1168)・清閑寺/後清閑寺陵◎-同上。
 後鳥羽天皇(1183)・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐。
 順徳天皇(1210)・勝林院(三千院内)/同上。*佐渡。
 土御門天皇(1198)・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市。
 後堀河天皇(1221)・今熊野観音寺〔泉涌寺?〕/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇(1232)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇(1242)・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇(1259)・天竜寺/亀山陵-同上。
 後宇多天皇(1274)・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇(1318)・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇(1339)・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇(1368)・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇(1428)・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
  後水尾天皇(1611)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇(1629)・泉涌寺/同上。
 後光明天皇(1643)・泉涌寺/同上。
 後西天皇(1654)・泉涌寺/同上。
 霊元天皇(1663)・泉涌寺/同上。
 東山天皇(1687)・泉涌寺/同上。
 中御門天皇(1709)・泉涌寺/同上。
 櫻町天皇(1735)・泉涌寺/同上。
 桃園天皇(1747)・泉涌寺/同上。
 後櫻町天皇(1762)・泉涌寺/同上。
 後桃園天皇(1770・泉涌寺/同上。
 光格天皇(1779)・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇(1817)・泉涌寺/同上。
 孝明天皇(1846、1866没)・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
***
  参照したのは、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地の記載のほか、つぎの二つ。
  ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
上の一覧で平安期末までの天皇についての◎、○、△は、この②の中の山田邦和「天皇陵への招待」上掲②所収p.181による。大まかには(秋月の表現だが)、当該天皇の陵墓であることがほぼ確実、かなり確実、それら以外、の区別だ。これら以降は、全て◎だ。
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  こうして見ると、天皇の陵墓は寺院がもともとは管理し、「法要」等の儀礼を中心となって行ってきている、とほぼ、またはかなりの程度推測できる。
 そしてまた、葬礼=葬儀自体が寺院で行われた、ということもかなり多くあったに違いない。
 後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の天皇の葬儀は、全て泉涌寺で行われたことがはっきりしている。そのこともあって、泉涌寺についての「みてら」という感覚は、かつては圧倒的だっただろう。
 よく知らないが、御所から泉涌寺までの葬送の御車、行列のコースも決まっていた、という。当時はまだ現在の「東大路」はなかったので、いずれかの地点で鴨川を渡り、六波羅密寺または方広寺の西側あたりを南下したあと、それとも七条辺りで川を渡って?、今もある「泉涌寺道」という緩やかな坂を上がったのだろう。
 とすると、明治、大正、昭和の各天皇の御陵・陵墓が仏教または寺院と無関係であるようであるのは、明治維新以降のこの200年に充たない間の時代に限られてのことだ、ということが明瞭になる。
 まさに、明治維新は、いや正確には明治新政権が採用した政策は、日本のそれまでの伝統を「覆す」、「変革する」、あるいは「否定する」ものだったわけだ。
 革新・変革は全て「新儀」、新しい「伝統」の創出だ、というような趣旨を言った(極論好きの、または天皇中心ドグマの)天皇もいたらしい(後醍醐天皇)。
 ここで日本会議(派)諸氏に尋ねたいものだ。
 天皇に関連する「伝統」の維持、継承は重要であるとして、天皇の死にかかわる、天皇の葬礼、葬儀、陵墓に関する「歴史と伝統」とはいったい何なのか? 仏教との関連が些細な論点だとは思えない。
(泉涌寺関係をさらにつづける。)

1971/中西輝政+日本会議編著(2008年)。

 中西輝政+日本会議編著・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP研究所、2008年)という書物がある。計300頁余。
 西尾幹二の2007年著・国家と謝罪(徳間書店)は「新しい歴史教科書をつくる会」の<分裂>時の様子に触れていて、その中には中西輝政がどっち付かずの立場をとったことを少しは批判的または皮肉っぽく書いている。
 上の2008年の書物の体裁・編者名からして、中西輝政が日本会議と<一体>になっていたように見られることが明らかだ。
 この本の執筆者は、当時の国会議員の島村宜伸、平沼赳夫、下村博文、萩生田光一の4名を除いて、以下のとおり。表紙に掲載されている氏名の順ではなく、実際の執筆順による。肩書き、所属は当時。
 三好達(日本会議会長)、中西輝政、大原康男(國學院大学)、阪本是丸(國學院大学)、松浦光修(皇學館大学)、田中恒清(神社本庁副総長・石清水八幡宮)、中條高徳。
 椛島有三(日本会議事務総長)、江崎道朗、宇都宮鐵彦。
 江崎道朗は「皇室の伝統を受け継がれる天皇陛下-占領・戦後体制という逆境の中で-」と題する項を執筆しているが、肩書きは、つぎのとおりだった。
 日本会議専任研究員。
 この肩書きで文章を書いていた人物が、その後10年も経たないうちに月刊正論(産経新聞社)の毎号執筆者になっていることを、読者は(すでに多くが承知のことかもしれないが)意識しておいてよいだろう。
 この書物の編者等を見ていると、椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)が、その巻末の参考文献に西尾幹二のものを(中西輝政との対談書も含めて)一冊も掲げず無視し、中西輝政のものは十分に掲げて紹介していることも理解できる。
 日本会議の名前を挙げて批判的に書いていた西尾幹二と違って、中西輝政は上に「どっち付かず」と形容した以上に、日本会議と<協調>していたのだ。
 西尾幹二の2007年著は引き続いて原文引用で紹介するとして、西尾幹二は2009年の本では、(この欄ですでに紹介したが)つぎのように語っていた。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)。 
 「宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。//悪い連中ですよ。
 こう語っており、近年にも日本会議や櫻井よしこらは<保守の核心層ではない>と明記していた西尾幹二が最近には日本会議の軍門?に結局は下っていたとすれば、大笑いだろう。
 日本会議は戦後日本の「保守」思想、「保守」運動を継承している団体では決してない、ということは別に書く。いくつかの関連資料はある。
 ついでながら、中西輝政が若いときの指導教授だったのは高坂正堯だったはずだが、中西は高坂の思想・基本的発想方法を継承しているのかどうか。むろん、「師」と「弟子」は研究者として別人格だから、継承していないからといって、非難されるいわれはない。

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1960/新元号の決定・公布・施行と日本会議。

 一 <平成31年4月1日月曜日/官報号外特9号>により、つぎのとおり、元号政令が公布された。縦書き漢数字は横書き洋数字に改めた。
 **
 御名 御璽
 平成31年4月1日
  内閣総理大臣 安倍晋三
政令第143号
  元号を定める政令
  内閣は、元号法(昭和54年法律第143号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
  元号を令和に改める。
  附則
  この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の施行の日(平成31年4月30日)の翌日から施行する。
  内閣総理大臣 安倍晋三
 **
 すでにこの欄に記したように、政令一般もそうだし、元号を定める政令もそうだが、政令を制定するということは、内容の①決定、②公布、③施行(発効)という三つの段階を経る。
 今次の元号決定(・変更)は閣僚懇談会のあとの閣議によって、元号法が定める決定権である内閣によって行われた(上に「内閣総理大臣・安倍晋三」とあるのは決定権者を示しているのではなく、署名をして合議体の中の責任大臣を特定しているのだと思われる)。
 それだけでは政令としての法的効果を発生させず、法律と同様に、一般に対して、国民一般に、周知する、という公示・公布が必要だ。
 これは憲法上の国事行為の一つとして、天皇が行うことと、現憲法上定められている。
 上の最初に「御名 御璽」とあるのは(法律等の場合も同じだが)今上天皇が直筆で署名し、天皇の「公印」が捺されていることを示す。
 官報にはそのままの写真を掲載しはしないので、「御名 御璽」という記載の仕方になる。
 この公布=官報への掲載と官報販売所への送付によって初めて元号政令は正式に公にされることになる。
 菅義偉官房長官が「令和」と筆書した額を掲げつつメディアの前で新元号を発表したのは、法的には厳密には意味がない。内閣が決定した内容について(いずれすみやかに公布される前に)情報を提供する行為(事実行為の一つ)にすぎない。
 4月1日の閣議決定後に官邸?を出た自動車が皇居に向かっておそらくは今上天皇と接する?までは官房長官「発表」がなかったのは、どのメディアもほとんど正確には報じていなかったが、新元号政令の「公布」に必要な「御名 御璽」が記され、捺されるのを待っていたためではないか、と思われる。たんに新元号が「令和」に決まったことを伝えるためではない(まして今上陛下の意見・意向を拝するためではない)と思われる。
 何らかの資料・情報で確認しているのではないが、「公布」が4月1日発行の官報によっていることかにすると、そのように確実に推察される。
 今上天皇による、「御名 御璽」の署名・押印のあとすみやかに=4月1日のうちに(独立行政法人)国立印刷局による印刷と頒布がなされたのだろう。
 重要なもう一つは、「公布」があった始めて当該政令は法的効果をもつが、その効果・効力の発生は「公布」時であるとは限らない、ということだ。
 公布されたその日が施行日だという法令もあるが、何時何分とかが問題になりうるので、近い将来の施行日まで定めていることの方が多いのではないだろうか。
 そして、上のとおり、今次の元号政令は、「…(平成31年4月30日)の翌日から」施行される=発効する。
 この「翌日から」は、「5月1日から」で、正確には、5月1日の午前0時からの意味だと思われる。
 二 すでに紹介し批判的コメントを加えた(この欄2月3日、№1915)ように、「日本会議」という最も簡潔な名前で発している日本会議の新元号決定等に関する「見解」は奇妙だ。
 ①「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」。
 ②「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た」。
 ③「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」。
 これらのうち、①と③は、現在の元号法(法律)の定めに反対していることを示す。
 そうだとすると、これをどう改正するかを、日本会議は提言すべきだ。
 たんなる精神・観念論ではなく、法制度の具体的内容を論じることができなければならない。
 不思議で奇妙でもあるのは、とくに上の②だ。
 第一に、新天皇即位後に「新元号を決定し公表」すると述べつつ、正規の「公布」という語が使われていない。官房長官による「公表」と官報登載という正規の「公布」は、意味も時機も同じではない。
 加えて、この日本会議の考え方に従うと、おそらく、5月1日午前0時からの新天皇の就位と新元号の決定・公布までの間にタイム・ラグが必ず生じ、「平成」ではなくなったがまだ新元号が施行されない、または5月1日になってからもしばらくは「平成」のままで新元号が施行されない、という時間がかりに数時間または十数時間であっても生じる、と考えられる。
 前者のように「空白」を生じさせてはダメだし、後者によれば一天皇=一元号を崩してしまう。
 日本会議は、いったい何を考えているのか。
 第二に、「『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせる」というのは、種々に理解できるところもあり、精確な意味は不明だ。
 そもそも日本会議は、たんに「日本会議」名で発表されている文書は、『国民生活への支障を回避』という場合の「国民生活への支障」を、IT分野の情報プログラムの問題も含めて、どのように理解しているのだろうか。
 あるいはそもそも「施行」という概念を厳密に分かったうえで使っているのだろうか。
 遅れて「施行」されるまでは、新天皇のもとでの元号はまだないのか、それとも元号は「平成」のままなのか??
 要するに、現実の社会に関する知見、法制度に関する知見等々、を日本会議および同会議諸氏はいかほどに有しているのだろう。きちんとした顧問・専門家不在で、<あほ>が集まっているのではないか。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

1950/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史02。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
  都市計画法(昭和43年法律第100号)が言うところの「都市計画事業」のうち「市街地開発事業」には「収用」型と「権利変換」型の二種があって、前者は用地取得に関して土地収用法の適用を受け得る。概念論理的にはおそらく逆に、土地収用法の手続等による「収用」等のいわば<特権>的地位を受け得る事業を「収用」型と称するのだろう。
 そのような「市街地開発事業」の一つに、これまた都市計画法に言う「新住宅市街地開発事業」というものがあり新住宅市街地開発法(昭和38年法律第134号)という法律を基礎的実施法律とする。
 これは大まかには一定規模以上の区域にいわゆる大規模「ニュータウン」を造成・形成するものだが、取得した土地は最終的には道路・公園・学校等の公共施設のほかに住宅地として私人・民間人に譲渡され、私的な利用に供されることから、土地収用法を適用するに値するだけの「公共性」はどこにあるのかが問題になる。
 これは新住宅市街地開発法の制定時の一つの法的論点だったが、実質的には大都市圏域のある程度広い範囲の地域での健全で良好な「街づくり」に寄与するということで全体としての、あるいは総合的な「公共性」が肯定された、とされている。
 この新住宅市街地開発事業は原則とし都道府県が事業主体であり、都道府県の税が投入されるが、むろん、個別の事業ごとに国から事業主体としての都道府県に対して「補助金」も-その基礎は国の税収だが-も交付される。
 「補助金」類は、直接に国民・市民ないし私企業に対するものばかりではなく、都道府県・市町村等の「行政」に対しても交付され、どの程度に国民・市民の知識・素養になっているのかはいらないが、重要な政治的・行政的意味をもつ。
 今はきっとほとんど実施されていないかもしれない「ニュータウン」建設・整備事業は、少なくともかつて「大手民間ディベロッパー」によっても行われていて、完了しているものもある。但し、上に言及した諸法律の適用はない。都市計画法上の「開発許可」制度等々(急傾斜地建築規制等)による制約はあっただろう。
  行政が主体のものを公的事業、私企業が主体のものを民間事業と言っておくことにすると、完了して多数の住民が生活している「ニュータウン」を実際に見ていて、ふと気づいたことがあった。
 公的事業地にはむろん道路・公園・学校等があり(これらの一定のものを都市計画法等は「公共施設」と称する)、それはむろん予め事業計画図面の中に定められているからでもある。
 しかし、民間事業地の場合は、それら以外に、全ての場合ではないが、「宗教施設」が存在していることがある。公的事業は「宗教」とは無関係のもので、事業区域内に神社や寺院の建設を予定するとか、これらを「誘致」する土地をあらかじめ設定しておくというようなことはない(はずだ)。
可能なかぎり「宗教」との距離を置く、むしろ「宗教」はないものとして扱うというのが、基本的には戦後の「行政法制」と「行政」のかつてとは異なる姿になったものの一つかと思われる(もちろん、宗教法人法によるある程度の規制や「宗教」活動であるための収益に対する税法上の優遇といったものはある)。
 民間事業地の場合も「新しく」神主・仏僧も住む神社仏閣を設けることはほとんどないかもしれないが、しかし、一戸の住宅ほどではないほどの敷地に神道ふうの祠らしきもの(小さな本殿?)が設置され、「明神」だったか「権現」だったかの名を記した旗・のぼりがその敷地の周囲にかなりの数でたなびいていたのを実際に見たことがある。
 このようなことはおそらく、公的事業地の場合は想定し難い。
 民間事業には、計画する地域内にそうした施設のための土地をあらかじめ用意しておくことも、「宗教の自由」を前提としての「事業活動の自由」、「営業の自由」に含まれるのだろう。そのような施設が地域内にまたはすぐ近くにあることを嫌悪する者には、その<民間ディベロッパー>が開発して売り出す土地や家屋を買わない自由が当然にある。
  公的であれ私的であれ、伝来的な神社や寺院が全く存在しないか、「祠」的なものはあっても神官は居住せず社務所もないといった「ニュータウン」というものは、戦後の所産であるがゆえに(戦前にも同種のものはあっただろうが、別論とする)、いくつかの問題を発生させ得るし、現実に発生させているだろう。
 思いつく第一は、地区内の住民が死亡した場合の葬儀の問題がある。公的事業地でも「公民館」・「集会場」で葬儀が行われうるかもしれない。だが、「ニュータウン」の中に寺院がないとすると、仏僧による読経という便宜?は、伝統的または在来的な「タウン」・集落よりも提供され難い可能性がある。死者が出ることを想定して、近くのどこに葬儀場や葬祭業者があるかまで考慮して少なくとも公的事業の計画は策定されないのではないか。
 なお、似たような問題は、地震・津波等の自然災害によって多数の死者が出た場合にも生じる。
 神道墓地もあれば神道による葬礼があることも知っているが、多くの国民にはまだ、仏教式での「葬儀」あるいは死者への供養等が馴染み深いだろう。
 思いつく第二は、青少年の心理・意識・精神に対する影響、広くいえば<教育>の問題だ。つまり、神社・仏閣といった宗教施設が自分が生まれ育っている地域に何もなく、かつまた神社等の周囲にあることが多い叢林や森もない、という環境でほとんど青少年期を過ごした者と、我々の前世代の者ならば多いように思われる、神社・仏閣やそれを取り巻く自然環境の中で育った青少年と、全くの違いはないのだろうか。
 神社・寺院あるいは「宗教」の存在を(旅行によってではなく)日常生活の中で自然に知ることができず、学校や(若い両親が増えている)家庭では<戦後体制下らしく>「宗教」をについて教えられることが全くかほとんどない、というのは果たして<教育>にとってよいことなのだろうか。学校等では教えてくれない<不思議な世界>、<理性・理屈だけでは把握できない問題や現象がある」という認識や感覚は、やはり必要なものではないだろうか。
 神社・仏閣といった宗教施設が広い地域に全くかほとんどない「ニュータウン」育ちの子どもと、これらが適度にまたは多数存在する「街」・「集落」の子どもとで、違いは出てこないのだろうか。
 専門家でもなく、実証的な資料・文献を知っているわけでもない。
 こんなことを思いついたきっかけの一つはたぶん、某ニュータウン育ちの中学生がより下の世代の子どもを残虐な方法で連続して殺害したことで、加害者少年の「心理・精神」と<宗教的環境>の関係を考えてしまったことだ。むろん子細に調査してもおらず、特段の結論に達しているわけてもない。
 三 元に戻ると、生後に義務教育学校へと通学しつつ、途中にまたは近くに神社か寺院があった者は、現在でもだが多いだろう。だが、公的事業による「ニョュータウン」造成地の中にはそのようなものはなく、中学卒業まで当該「ニョュータウン」で通学等をしていれば、ほとんど神社・寺院に接することはない。これは、日本の歴史的伝統からは「離反」した現象だろう。そして、戦後の行政と教育における「宗教」の扱いの消極さ、あるいはでくきるだけ関わらない方がよい(「特定の宗教」のみの優遇や区別はできないから)という意識がそれを明確には問題視しない方向へと働いている。
  このような問題だけではない。
 「日本の歴史的伝統」とはそもそも何かが問題だが、戦後体制のもとで実質に失われつつあるような「歴史的伝統」、あるいは明治維新によって明治期に捨て去ってしまったような日本の(それまでの)「歴史的伝統」もあるだろう。宗教的施設の存在の近さを、あるいは日本的な自然の美しさと厳しさを、体感できないような大都会内だけでの生活では、日本に独特の歴史や精神を十分にまたは適切に感得できないだろうと思われる。
 継続している「天皇家」だけが、日本の「歴史的伝統」ではない。
 真摯に日本の「歴史的伝統」の保持が政治信条としての「保守」だと言うならば、<天皇>だけにそれをほとんど集中させるよう考え方や「運動」は、本当の保守派ではないだろう。
 日本会議が「運動」の対象としている論点以外にいくらでも、「日本の歴史的伝統」に関係する問題はある。他の点ではどっぷりと「戦後」体制に屈服し、どっぷりとそれに付着した世俗的生活をしつつ、特定の論点だけを肥大化させているのが、日本会議の「精神運動」であり、いずれあらためて書きたいが「精神的<癒やし>を感じていたい」運動だろう。

1945/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史01。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 むろん秋月瑛二の概念の使い方で、一般的ではないことは承知している。この問題には別に触れる。
 日本・天皇の歴史やこれに関連して日本の「宗教」、したがって、神道や仏教、そして当然ながら「神仏混淆」・「神仏習合」等々に、気ままに言及する。
 立ち入らないが、最近に何かで、天皇の「代替わり」、つまり新天皇就位の際には(おそらく明治維新以前の「仏教伝来」したある時期以降は)、<仏教式の>儀礼も仏教寺院で執り行われていた、という文章を読んだ。
 江戸時代の幕末までは、強弱はあれ、またそれぞれの役割分担があったとはいえ「神仏混淆」だったとすると、それも当然だっただろう。
 大嘗祭は「神道」式だと言われているが、神道といっても、その中には「皇室(天皇家)神道」という一種の分類も把握できるのではないか(しかも時代によって儀式内容等は一定していない)、という「しろうと」考えを持っている。
 また、そもそも新天皇就位(・皇位継承)に際して、「仏教」が全く無関係だった、ということは(明治期以降よりも長い)日本の歴史からするとあり得ないだろう。
 日本会議派諸氏が「本来は」とか言いつつ、天皇関連のことを語ったり、主張していたりしても、<本来は>という日本の歴史・伝統が明治期以降に新たに形成されたものもあるのだから、十分に注意して、騙されないようにしないといけない。
 近年の類似した典型例は、天皇は「終身在位」だとする櫻井よしこ等々の主張で、櫻井よしこはこれを明治期以降だということくらいは知っていて、「明治の元勲たち」の知恵に学ぶべきだとした。その際に、明治天皇即位後にすみやかにそうになったかのごとく理解される書き方をしていたが、実際の旧皇室典範は旧明治憲法の施行とともに策定されたのだった。
 この櫻井よしこも、江崎道朗と同様に、なぜか「聖徳太子の憲法十七条」を重視して、1868年の「五箇条の御誓文」以前で最も大切なもののごとくこの聖徳太子のものに論及している。
 他の日本会議派の者の文章にも、同種のものがある。
 これはいったい何故なのだろうと感じ、これら二人が自分で考えたり「発見」 したりした筈はないので、彼らなりの「経典」・「教典」的な指導的文献があるのだろう、と想像している。
 こんなことも、この連載?を始めようかという気になった、ごく小さなきっかけだ。
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 京都市に現在でも二条城の南にある「神泉苑」という寺院は、そこが発行している小冊子内によると、平安京創建時より「洛中」に現存している、東寺(教王護国寺)とともに数少ない二つのうちの一つらしい。
 その小冊子内の地図・図面と説明にとりあえず従うと、かつて平安京造営時は内裏の東南に「神泉苑」の大きな一画があった。これは別の本でも見て、その古さと往時の広さに驚いたことがある。
 京都の街の(中心部の)「通り」は現在でもかなりの程度、平安時代(平安京造営時以降)の道路区画あるいは道路にかかる「都市計画」の影響を残している。8-9世紀以降、今で1000年以上経っているので、このこと自体も驚くべきことではある。
 上の小冊子によると、当初の神泉苑は、東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間、南北は「三条」通りと「二条」通りにまで及ぶ。
 これは、現在でも(!)ほぼそのまま区画としては残っている東寺(教王護国寺)と全く同じだ。現在の東寺(教王護国寺)は東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間で、上と同じ南北は「九条」通りと「八条」通りの間で(数字でほぼ推定できるように各「条」の間で)「三条」通りと「二条」通りの間の懸隔と同じ(洛南高校や塔頭寺院を含む)。但し、北端の八条通り沿い等は宅地化されていて、往事の90パーセントくらいか。
 現在の東寺の区域(境内)を想像すると、現在の神泉苑はそれに比べて大幅に狭くなっている。
 一般の地図を見ると、まず南北は「御池」通りと「押小路」通りとの間に狭くなっている。
 かつての「三条」と「二条」の間はまず二つに分かれ、それぞれがさらに二つに分けられて、間に三つの通りがあった(名称は現在と同じではない場合があるようだ)。上の二つの旧<大路>間は三つの通りによって四つの区画に分けられていたことになる。そして、南から(現在は)「姉小路」、「御池」、「押小路」各通りなので、現在の「御池」通りと「押小路」通りとの間というのは、かつての「三条」と「二条」の間の四分の一になる。
 つぎに東西はきちんとした現在の「基幹」道路にすら沿っていなくて、東は「大宮」通りよりも西、西は「壬生」通りよりも東に、区画の境界がある。
 かつての(平安京・「都市計画」図面による)「大路」は上に触れたように、東西・南北ともに四つの区画に(三つの「小路」等によって)分けられていた。
 それぞれを「一コマ」と言うとすると、かつては、神泉苑も東寺も、東西は2コマ、南北は4コマあった。
 こういう表現の仕方を採用すると、南北は現在の東寺はほぼ4×0.9コマであるのに対して、現在の神泉苑は(「御池」通りと「押小路」通りとの間の)1コマしかない。
 東西は、現在の東寺は2コマを維持しているのに対して、現在の神泉苑は1コマ分もなく、1×0.8コマくらいだろう。
 往時は南北×東西が4×2=8だったとすると、ほぼ、現在の東寺は3.6×2コマ、現在の神泉苑は1×0.8コマになる。つまり、7.2に対して0.8しかない。
 つまりかつては東寺とほぼ同じ広さを誇った?神泉苑は現在は前者の9分の1くらいの広さしか持っていないことになる。
 これはもともと、神泉苑はきちんとした独立の寺院等(いわば宗教法人)ではなくて東寺の「預かり」地とされたこと(正確な言葉ではたぶんない。この由緒からだろう、現在の神泉苑の宗派は「東寺真言宗」だ)、北に秀吉により<聚楽第>が造営され、さらに家康がその南に<二条城>を建造したことによって(聚楽第も破棄されたが)、神泉苑の区域も相当に減じられたこと、によるのではないか、と「しろうと」は推測している。
 なお、余計なことを書くと、聚楽第の建築物の一部が竹生島神社(滋賀県・琵琶湖内)で使われて、今でも残っているらしい。実際にこの神社で見たはずだが、そのときはこの知識がなく、説明書き・掲示もまともに読まなかった)。
 さらについでに。朱雀大路(現在の「千本」通りの位置だとされる)のほかに、大路とか小路で道路の横幅が異なっていたようなので、単純に計算できないのだが、「しろうと・歴史好き」の地図の検討によると、1コマ(基幹道路間の距離)は<約135メートル>だ。京都御所の広さもこれでおおよその見当はつく。そして、間違っていると思われる御所の南北・東西の距離を記載している書物もある(御所は、東西が「寺町」と「烏丸」の間の5コマ、南北が「丸太町」と「今出川」の間のおよそ10コマのように思える)。
 さて、このように古く、かつかつてよりは狭くなった神泉苑だが、「くろうと」には著名なことであるらしいのは、ここで(日本で)初めて<御霊会>(ごりょうえ)が催された、ということだ。
 これは<怨霊>に、あるいは<怨霊信仰>に関係する。<御霊会>とは、いわば<怨霊>封じ、<祟り>封じの儀礼・儀式、あるいは宗教的?行事だからだ。
 上の小冊子によると、863年(貞観5年)。今から1150年余前という、気の遠くなるような?前の話。
 この「怨霊」関係の話題には、かつてから関心がある。
 人間は、日本人も、「理性」、「理屈」だけでは動かない。<死後の霊魂>の「存在」を感じて、行動することもある。自分がそうだ、というのではない。ヒト・人間、そして日本人の「心」、「精神」あるいは「感性」というのは面白いものだ、と想うことの一つであるからだ。第1回は、ここまで。

1915/日本会議1月17日見解への疑問-新元号の決定・公表・公布・施行。

 日本会議機関誌『日本の息吹』本年2月号末尾(裏表紙の反対頁)に、同会見解「『新元号の制定に関する政府の方針』への見解」が掲載されている。
 まず、これは安倍首相による年頭記者会見のうちの新元号に関する部分につき、「遺憾の意を表明せざるを得ない」として、それ以外の部分の表現は穏便さを装いつつも、実質的には厳しく批判するものだ。
 にもかかわらず、上掲誌の同号に目立って特集が組まれ(建国記念日と「御即位三十年奉祝感謝のの集い」)、いくつかの者の文章があるにもかかわらず、上の論点に関するものは一つもない。会長・田久保忠衛に対するインタビュー記事も同様。
 「日本会議」とだけ名うつ「見解」であるからにはしかるべき機関決定手続を履践しているのだろうが、それにしては、最末の一頁とそれ以外の印象が違いすぎる。
 以上は、まだ表面的・形式的な印象であり、問題点だ。
 日本会議「見解」(以下、<見解>)の問題は、その内容・実質にある。
 かねて感じてきたことだが、日本会議の事務総局やら役員または幹事の中には、冷静かつ論理的に緻密に皇室・天皇に関する「法」的議論をすることのできる、同じことだが「法」的見解を作ることのできる人員が全くいないのだろう。
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 一 論点の前提の一つの整理。
 元号が「改め」られるとして、新元号については、時系列的に、つぎの4つの時点が経過していく。
 ①内閣による決定
 ②公表。これは③ではない、事実上、メディア等の報道等によって新元号が明からになること、又はメディア等が一般に明らかにすることをいう。本来は③も②の一部だろうが、分けておく必要があるだろう。
 ③公布。憲法上の国事行為としての正規の「公布」。今上陛下が在位中であれば現天皇が、皇位継承がすでになされていれば新天皇が行うこととなる。
 ④施行。公布されたとおりに新元号が法的にも正規に使用され始めるには、この「施行」が必要だ。<発効>と称する場合もある。
 日本の「国」等の年表示には日本の「元号」を用いることとされていめる場合が「法的にも」多いので、いつの時点から「発効」し、国・地方自治体等の使用義務が発生するかは重要な問題だ。

二 日本会議<見解>は上のどの点に関して、どのようなものか。
 1.新元号決定権限が「内閣」にあることは、<見解>も否定していないようにも解される。
 しかし、<見解>の基本前提は、引用すると、「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」というものだ。のちの文をも読んで善解したとしても、<「決定」は内閣がしてもよいが、その決定は新天皇ご即位後に行うべきだ>、という主張をこの日本会議は最低でも、又は少なくともしているものと理解することができる。
 2.そうなると、安倍内閣方針ではおそらく、上の④のみが新天皇の即位と同一時点になるのに対して、<見解>は、①~④のすべてが新天皇即位後になされるべきと主張していることになるだろう。
 これは政府方針との間の重大な対立であって、今頃に公にするのは遅すぎるという感が生じる。しかし、遅い、早いは、ここで書きたい当面の問題ではない。
 3.政府方針の背景に「国民生活に支障が生じることがないように」との配慮があるとされている。これに対して、<見解>は、「本来の在り方」と「国民生活への支障」発生の抑止の二つはつねに矛盾するのではないとして、つぎを提案していると解される。
 この部分をいちおう全文引用すると、以下。
 「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た。
 4.上に最初に用いた①~④を用いて理解すると、<見解>はおそらく少なくとも①~③は今年5月1日になされるもの(なされるべきもの)と主張しているのだろう。
 しかし、④の「時期を遅らせる方法もあり得た」とはいったい、いかなる意味で、いかほどの「遅らせた」時期を想定しているのかは、さっぱり分からない。
 <見解>によると、それは「国民生活への支障を回避」するために必要な期間であり、6月初頭、8月初頭、あるいは10月初頭であってよいのかもしれない。

 三 日本会議<見解>の奇妙さ・異様さ。
 かりに上の4で記したような<見解>理解が誤ってはいないとすると、日本会議はじつに不思議で矛盾した、したがって奇妙奇天烈な「見解」を出していることになろう。
 つまり、新天皇即位後の①~③よりも④新元号の「施行」が<遅れてよい>のだとすると、新天皇就位後、その新元号の施行時までは正規には「平成」がなお数カ月ほどは続くことになる。
 この「遅らせ」を日本会議は許容することで上記の二つの趣旨は矛盾しないようになる、と主張している、と解される。だが、それではそもそも、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならないではないか。
 ひょっとすると<見解>は5月1日の早い時期に①~③を全て実施したあと、5月1日-2日の深夜にでも「遅れて」施行する(発効させる)とでも想定しているのだろうか。
 そもそも<見解>が理解する「国民生活への支障を回避」とは何なのだろうか。1日程度「遅らせば」回避できるようなものなのか。それだと、①~④の全てを新天皇就位後に行うこととおそらく何ら、少なくともほとんど(98パーセントは)変わらないだろう。
 くり返すが、では<もっと遅らせてもよい>となると、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならない。新天皇は「平成」時代と新元号の二つにまたがって在位することになるだろう。こんなことを日本会議は本当に考えているのか。

 四 そもそも日本会議とは何か。 
 天皇に元号決定権があると正面から主張しているわけでもないことが、すでに胡散臭い。
 「本来のあり方」と現行元号法が矛盾しているならば、そのこと自体を今回のような「譲位」が予想され得た時点(つまり皇室典範付則改正・特別法制定のとき)以降に明確にかつ激しく主張しておくべきだった。
 「日本」、天皇・皇室制度の「本来のあり方」等々とこの人たちが語るわりには、本当に真剣には法的・制度的問題を考えていないし、運動もしてきていないのが、この日本会議だと私は感じてきている。ほぼスローガンだけ、精神論だけ。
 あるいは、決定・公布・施行の各語がもつ意味を、正確には理解していないままなのかもしれない。これも、信じ難いことだが。
 もっともそうした力不足があって、「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」と書いていることからすると、いわば<今回はまぁよいが、今後は反省してね>という類の言葉の上での「存在証明」(逆アリバイ作り)で、上で紹介したような日本会議「見解」もまともに「現実」になることはないと、とっくに諦めているのだろう。
 しかし、「現実化」する可能性がほぼ全くない「提案」または叙述であっても、何がしかの論旨と論理の一貫性をもって行われるべきだろう。
 この日本会議には(その役員たちにも)、その能力はないようだ。

1911/言葉・文章と「現実」④-革命。

 「法」よりも大切なものがある。
 これは、そのとおりだ。
 人の生命を最も尊重されるべきと考える人にとって、「法」よりも生命は重い。
 但し、「法」は、この場合は日本の刑事法だが、いろいろなことを配慮しているもので、例外的には「人殺し」を容認している。「死刑」、「正当防衛」等。
 「死」の定義も「脳死」問題も、おそらくは殺人罪(共犯を含む)・自殺幇助罪等との関係で問題になるのだろう。
 元にさっそく戻って、「法」よりも大切なものがある。これは、そのとおりだ。個々人にとって、「法」などが介在しない生活が望ましいかもしれない(しかし、かなりの程度は実質的、客観的に、そうでもないことは別に述べたい)。
 しかし、問題が「国家」の行動あるいは国政に関係する場合には-ここでの「国家」はいわゆる狭義の「政府」だけではなくて少なくとも立法・司法も含み、地方「自治」体も含む-、簡単に、「法」よりも大切なものがある、と主張してはいけない。
 花田紀凱が編集長している雑誌で、すでに月刊Hanada になっていただろう、ある号の読者投書欄の冒頭に、こんな主張が掲載されていた。
 ①<憲法よりも国家の方が大切だ。>
 この考え方は、法律レベルに落とすと、つぎと同じだろう。
 ②<情報公開「法」(法律)よりも軍事機密保持の方が大切だ。>
 これらの主張の趣旨は、私にもよく理解できる。
 だが、理解できる、というのは、そのとおりだと肯定する、という意味ではない。
 上の①に絞る。かつて、櫻井よしこは、「自衛隊は違憲だ」ということから出発しなければならないと明記していた。
 しかし一方で、2017年5月頃につぎの旨を、これまた明記した。
 <法理論的には問題があるが、現実的には、安倍晋三「自衛隊」明記提案も「したたか」で、容認できる。> これもこの欄で既述。
 そして、櫻井よしこが共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」とやら(正式名を確認しない)は、自衛隊員の名誉のためにも?<憲法に自衛隊明記を!>という運動をしているらしい(現実にはたぶん、日本会議派の活動員たちがしているものと思われる)。
 少し戻ると、<法的には問題があるが、現実的には>という櫻井よしこの発想は、<革命>を容認するものだ、と批判的に、この欄で指摘したことがある(2017年夏頃までに)。
 この考え方は、上の①とほとんど変わらない。
 本来の、この人が純粋には理解する「法」よりも「現実的政策」を優先させてよいことがある、ということを認めているからだ。
 国家・国政について、<国家の方が「法」よりも大切だ>と主張しはじめると、いったいどういうことになるか?
 これは「革命」を容認することだ。
 ここで「革命」は、「法」的正統性に関する<連続性>を絶つ、という意味でさしあたり用いる。
 「法」よりも「国家」が大切であるならば、「国家」のためには「法」を無視しても、同じことだが侵害しても、よい、つまり既存・現行の法・憲法との関係で「違法」・「違憲」であってもよい、ということになる。これは、<革命>を容認することだ。
 櫻井よしこの頭の中には、こういう<思想>が少なくとも一部にはある。
 そしてまた、花田紀凱も共感したのかもしれないが、<憲法よりも国家の方が大切だ。>という主張は、これを全面的・一般的に肯定する<思想>だ。
 なぜか、を少し叙述してみよう。
 問題はそもそも「国家」・「国益」とは何か、いったい誰が・どの機関が、どうやって判断するのか、にある。
 人によって「法」よりも大切だと考える「国家」・「国益」の意味内容は異なりうる。
 それを、自らの、又は自分たちの「国家」観、「国益」観でもって決定せよ、というのならば、そしてその場合には「法」>「憲法」を無視してよいという主張は、<革命>を、そして(曖昧な概念だが)<全体主義>の到来を容認するものだ。
 この点では、安倍晋三首相も、自民党も、<革命容認>思想に立ってはいないものとほぼ断定することができる。安倍首相は自らの地位が日本国憲法・公職選挙法・国会法等々に基づくことを当然に自覚・意識しており、「自衛隊」の存在とその組織や行動可能範囲が憲法(日本国憲法)に違反してはならないことを、十分に知っているものと思われる。
 だからこそ、憲法の現九条に関する内閣の「解釈」を変更したうえで、(安倍内閣は)いわゆる平和安全法制を国会に提案し、限定的集団的自衛権の<行使>を容認することに(内閣ではなく)国会も賛成して、諸法律が改正・制定された。
 この内閣・国会による「憲法解釈」を覆すことができるのは司法権(究極は最高裁判所)だが、そのような措置・判決は出ていないので、現在の状態は決して「違憲」ではない。
 従ってむろん、<立憲主義>に違反してもいない(正確には、そのような結論を、今の憲法上で出しうる権限ある国家機関が出していない)。
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 余計なことに(いつものように)立ち入れば、「立憲民主党」というのは奇妙奇天烈な名称の党だ。
 数十年前の内閣(内閣法制局)の憲法九条「解釈」だけが(またはそれまでが)合憲で、それ以外は憲法に違反し、「立憲主義」に違反すると(某一学者の影響を受けて?)考えているのだろうが、そもそも自分たちの「憲法解釈」だけが唯一正当だとする根拠はどこにもない。
 別途書いてもよいが、<立憲主義>にさほど深遠な意味があるわけではない、と秋月は理解している。
 これは要するに、「法律」=議会制定成文法よりも上位にある「憲法」が、法律制定機関(国会)・司法・行政権(地方「自治」体の立法・行政を含む)を制約し、拘束する、というだけのことだ。
 権力=政府(=安倍内閣?)だなどと理解してはならず、それよりも広い。
 核心的で最も重要な意味は、「国権の最高機関」・「唯一の立法機関」とされている国会=世俗的・一時的な「立法」者ですら、憲法には違反してはならない、ということだ。このような意味での「立憲主義」の採用はたしかに、「近代」以降のことだろう。
 かつてのソ連・現在の中国等は「立憲主義」国家か否かを、「立憲民主党」の諸氏には答えていただきたいものだ。
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 元に戻る。
 「国民」主権という場合の「国民」や、その「国民」による「国家」意思決定(・反映)手続は多様であり得る。したがって、何が「国民の意思」なのか「国民主権」に合致するかを簡単に答えることはできない。当たり前のことだ。
 興味深いかもしれない事例問題を作ってみよう。
 ①日本共産党とその党員・支持者たちが、ある程度の「実力」組織をもち、あるいは警察・「自衛隊」の内部にも党員・支持者を拡大して、これら組織の過半員は党員・支持者であるか積極的には同党に反対しない者になっている。
 ②日本共産党が現在または将来の「国会」、つまりは国民代表者であるはずの国会議員たちは、<真の>「国民」代表ではなく、<真の>「国民」の意思を示すものではないと判断・決定し、どこかで(国会議事堂前も使って?)数十万規模の大集会を開き、かつ地方各地で同様の集会を開く。
 ③かつそれが独自にもつ「実力」組織はもちろん、警察組織・「自衛隊」は、上の集会等を規制できず、少なくとも「実力」をもって解散させることができない。
 ④地方を含む上の集会参加者は事実上、首相官邸、多くの省庁の建物、警視庁および同類の地方の役所を(道府県警察本部も含めて)「制圧」する。
 ⑤日本共産党はあらかじめ<新政府>閣僚名簿を用意し、東京のどこかに<新内閣>が構成されたとし、集まったマスコミ等に今後の政策方針も発表する。
 ⑥これらに関して果敢な何らかの措置を首相・警察庁長官等の権限者は発することをせず、又はすることができず、国会(衆参の区別をしないで書く)の多数派の議員団が特別の法律を議決・公布・施行して対処しようとするが、躊躇する議員も与党内にいて、協議に時間を要する。そして、「新政府」樹立等の報道等に接したり、国会内の共産党議員の主張・意見に立腹したりして、動揺したり立腹したりした結果として、与党議員はかなり退席してしまう。
 ⑦残る国会議員たちだけでぎりぎり現行国会法等が定める定足数を充たすことが判明し、共産党議員団は現国会を「自主解散」をし、実質的には<真の>国民の意思を代表するものとして「新政府」を正統な内閣として承認し、「新政府」のもとで現公職選挙法にもとづく選挙によって新しい国会を構成する旨の提案をし、同党と共闘政党および与党内「日和見」議員を足すとぎりぎりの過半数はあったので可決される(過半数でよいかの議論は一部または相当にあったが、結果的には無視された)。
 ⑧共産党および同党議員団は国会の<過半数議員>が賛成した<有効な>議決であるとし、「新内閣」への行政権移行を宣言し、国内・国際的にも大きく宣伝・報道する。
 さて、この事態、あるいは<権力移行>は、「暴力」革命なのか「平和」革命なのか?
 そもそも「革命」にあたるのか、そうではないのか。
 <真の>「国民」の意思に基づくというのは本当か? しかし、出席国会議員の<過半数>は新政府をそれとして正当化した、ということはどういう意味をもつか?
 いろいろな場合・動きを(米軍とか天皇とかの言動等を)想定して記述すると複雑になるので、避けている。
 言いたいのは、「平和」革命か「暴力」革命か、あるいは「革命」か否かは、実際にはさほど明確になるのではないだろう、ということだ。
 これは、元々は「国民」とか「国民の意思」という言葉から書き出したのだったが、とりわけ最後の「暴力革命」という言葉・概念の理解の仕方になる。
 そして、日本共産党が「暴力革命」路線を捨てていないコワイ党だといくら主張したところで、その「暴力革命」の意味を明確にしておかないと、全く意味がない。この批判は絶対に概念的、理論的には、日本共産党にコタえていないだろう(そのおかげで票が減るのはイヤだろうとしても)。
 ロシアの十月革命(新暦11月)の<新政府設立>=「社会主義革命」と少なくとものちに言われた一日または数日間、「実力(=暴力)組織」は存在していたが、じつはほとんど「血」は流れていない、つまり旧体勢派(当時のケレンスキー首班の臨時政府側)に多数の死者が出たのでもない。大殺戮、大虐殺といったものは起きていない。
 しかし、どうもこれは<暴力革命>だとされているようでもある。
 しかし、上の日本の?事例は、現憲法下の「国会」が何とか機能しており、法的連続性を何とか認めようとしており、かつかりに抵抗する国民・旧大臣等の大殺戮等がなかったとすれば、ロシア革命よりはさらに穏便な<権力移行>なのではないか?
 ともあれ、基本的な言葉・概念の使い方によって、「現実」はいかようにでも形容され、表現され得る、という面がある。
 <真の国民の意思>が何かはむろん容易には具体的に判明しないが、<それを代表する>とする政党・同党議員がまさにそれを代表すると「思い込んで」、実力組織の用意も含めて、強力に上のような「事例」を生じさせることはあり得るのではないだろうか?? 彼らにとって、「国民主権」原理と、なんら矛盾していないのだ。もともと国会以外では、<多数者に支えられた>新政府なのだ。
 なお、1917年10月、第ニ回全国ソヴィエト大会でのメンシェヴィキ等の「退席」はボルシェヴィキ(のちの共産党)に明らかに有利になっており、たぶん<全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会>の名前でレーニンは<臨時政府は打倒された>等の声明を発した。
 長くなったがともあれ、「暴力革命」という概念の意味も明確ではなく、その範囲内に一定の「現実」が該当するか、という問題が生じることも当然にあり得るだろう、ということだ。
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 日本会議会長の田久保忠衛は昨年か一昨年の同会機関誌「日本の息吹」定例号かその特別号で、以下の旨を明言していた。
 <あらためて綱領・設立宣言等を読んでみたが、なかなかいいことを書いているではないかと思った。>
 会長が「あらためて」読んでこう感じた、というのも幼稚な感じがするが、これに関して言いたいのは以下だ。
 どの組織・団体もその設立趣旨・規約等々に<悪い>こと、一般的に<指弾されるようなこと>は書かないだろう。人を殺す団体です、とか日本の破壊を目指す団体です、とかはまず(前者はたぶん絶対に)書かない。
 設立宣言等に書いていることと、客観的にその組織・団体が行っている活動の効果や影響は(それがあるとして)同じであるとは全く限らない。「言葉・文章」と「現実」的機能が同じであるはずがない。
 日本共産党もまた、その綱領で、「社会主義」・「共産主義」という言葉を気にかけなければ、「なかなかいいこと」らしきものを書いている(以下、現行の綱領の一部)。
 ・「…さらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 ・「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくす」。
 前者のうち、「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」。なかなか、美しい社会ではないか。とくに「真に平等で自由な人間関係からなる…」は気にいった。「真に」と書いてあるから、では「ニセ」は?という疑問が生じるし、「原則として」とあるのも、タマにキズだけれども。

1782/西尾幹二と「日本会議」-2009年対談書。

  西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)の中に、平田文昭との対談の一部が「『日本会議』について」と題して、2頁分だけ収載(再録)されている。
 その元になっているのは、つぎの、p.280~p.282。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)
 この本を昨秋に広大な書庫(?)で探してみたが見つからないので購入したところ、いつだったか、同じこの本が二冊あることに気づいた。すでに所持していたのだ。
 西尾幹二全集だけは巻順に並べて(飾って?)いるが、他の同著書類は一箇所に集めているわけではないし、さすがに対談書までは所持していないのかと思っていた。
 さて、上の2017年著に再収されている部分ではないが、「日本会議」について、元の対談書には興味深い部分もある。
 その辺りにさらに関心をもったのは、ネット上で、この西尾幹二=平田文昭の対談書を、「正誤表」をつけて修正してるのに、出版停止にも絶版にも、修正版の新しい本の刊行もしていないと、それこそ罵倒している文章を見つけたからだった(たぶん昨秋)。
 おそらくは第一刷以降に挿入された一枚の「正誤表」によって西尾幹二発言についての「正誤」訂正の前後を正確に比較してみると、つぎのとおり。
 Aは「正誤表」による修正前、Bは修正後。冒頭に「家」とあるのは「生長の家」で、「生長の」が省略されている。<後日追記ーちょうどページの切れ目だった。>
 違いを明確にするために、ここでは敢えて、原書および「正誤表」とは異なり、一文ずつ改行する。この点と一部の太字化、下線、色づけは秋月によるものであることを明記しておく。
 A「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 B「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 以上が(改行を除き)正確な引用で、訂正の前後の違いは、上のBの太い黒字下線の一文が追加挿入されているにすぎない。
 (なお、椛島有三は、現在も日本会議事務総長。
 「四人」とはp.263によると「新田均、松浦光修、勝岡寬次、内田智」で、Bにだけ(正誤表では)出てくる「松浦氏」とは松浦光修であることが分かる。「宮崎事務局長」とは、同頁によると、話題にしている時期の<新しい歴史教科書をつくる会>事務局長だった宮崎正治。) 
 こう見ると、この訂正は松浦光修のために(?)厳密さ、正確さを期したものであって、第一刷本を絶版にするほどの「誤り」では、社会通念上は、または常識的には全くない。
 もっとひどい書物はいくらでも出版、流布されている。
 かりに問題があれば「松浦氏」が仮処分等の申し立てをして法的に争えばよいだけで、わざわざ「正誤表」をつけて発行しているのだから、まだはるかに良心的な方だろう。
 しかるに、私の目を惹いたネット上の書き込みは何だったのだろう。
 現在も掲載されているのかは確認しないが、一枚の「正誤表」が封入されているこだけをもって、それによる訂正・追記の内容に立ち入ることなく、上記の西尾幹二=平田文昭の対談書の全体を非難し、貶めようとするものだ。
 そして、納得がいく。これをネット上に書き込んだのは、椛島有三を事務トップとする「日本会議」または同会もしくは椛島有三に親近的な組織・団体の活動員なのだろう。
 この対談書が「日本会議」に正面から批判的である(西尾幹二もそうだが、平田文昭の方がより厳しい)ことが<気にくわなかった>に違いない。
 2009年時点で「日本会議」や椛島有三等が公式にどういう対応をこの対談書の中身についてしたのかは知らないが、ネット上での書き込みの内容は-このとおり秋月瑛二の貴重な時間をのちに費やさせるごとく-相当に陰湿で、「気味が悪い」ものだった。
 なお、私には特別の関心はないが、上の訂正の仕方だと、<新田均、勝岡寬次、内田智>の三人は「家活動家」だと書かれて、事実誤認だとは考えなかったように見える。おそらく、きっと。

1756/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書⑤。

 小川榮太郞の昨年の著というのは、つぎだ。
 小川榮太郞・徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪(飛鳥新社、2017.10)。
 小川はまた、同じく飛鳥新社を出版元とする、花田紀凱編集長の姓を名とする月刊Hanadaでしきりと朝日新聞を攻撃している。後者は、別に、<日本の保守>の項あたりで触れたい。
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 小川榮太郞もまた、言葉の厳密な使い方をしていないように見える。
 もまた、というのは、安倍晋三首相と同様に、という意味だ。
 3/19・20あたりの安倍首相国会答弁は、1年余り前の「かかわる」・「関係する」を「関与する」に変えているように感じる。
 関係すると、関与するは、意味・ニュアンスが異なる。
 つまり、<関与>の方が主体的・積極的だ。
 <関係>だと、意に反して<関係させられた>、<かかわったことになった>ということが語義上は認められると思われるが、<関与>の場合は、そのような語法が適切である可能性はより低いと考えられる。
 上の小川榮太郞著は、p.29で昨年2月17日のいまや有名な「間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」の発言部分を引用している。
 一方で、小川は、こういう表現の仕方をする。
 p.1-①「森友学園問題、…は、いずれも安倍とは何ら関係のない事案だった。」
 p.5-②「朝日新聞自体が、…安倍の関与などないことを知りながらひたすら『安倍叩き』のみを目的として、疑惑を『創作』した」。 
 p.25-③「現実の政治を知れば関与などあり得ない-そういう地方案件が今回の森友の土地払い下げ問題」だ。
 安倍晋三首相の昨年の発言中の「かかわる」・「関係する」の真の意味は、<働きかけ>を含みうる「関与」だった可能性はあるだろう。対象を「この認可にもあるいは国有地払い下げにも関係していない」と明言していて、「日本会議」との関係を否定しているのでもない。
しかし、言葉それ自体としては、「関係」と「関与」は同じではない、というべきだ。これらを同じ意味で使ったのだとすれば、厳格さが足りないし、総理答弁としては不用意で、これに限っても「問題視」されうるのではないかと思われる。
 これと同様に、小川榮太郞もまた、上の①~③のように、「関係」と「関与」を意識的にかどうか、混用している。文学部出身の文芸評論家<あがりの政治評論家?>だとは思えない。
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 つぎに、前回に論及した、小川による佐川局長答弁の(結果としての)擁護・支持部分はつぎのとおり。p.43~p.44。小川が引用する佐川答弁(2017年2月24日)も、そのままここでも引用する。
 小川-「佐川は、交渉の詳細を幾ら質問されても、全て交渉記録は破棄して残っていないの一辺倒で通した」。
 A・佐川局長(当時)「…確認しましたところ、近畿財務局と森友学園の交渉記録というのはございませんでした。/面会等の記録につきましては、財務省の行政文書管理規則に基づきまして保存期間一年未満とされておりまして、具体的な廃棄時期につきましては、事案の終了ということで取り扱いをさせていただいております。」
 (同・つづき)「本件につきましては、平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていないということでございます。」 
 B・小川榮太郞<いくつかに分け、適宜番号を付す>①「国の行政文書は、よほどの特例でない限り一年未満に破棄する規則がある。」
 ②「この規則は、森友、加計の二例に鑑みれば明らかに問題だ。二例とも国政と関係のない細かな行政事案で、記録がない為に国会が重大な遅滞を呈した。行政文書の保存基準は大幅に見直すべきだろう。」
 ③「だが、現状では佐川の答弁は規則通りで、特例ではない。」
 小川は財務省に対して批判的な記述もするが、ここの文書管理部分では明らかに、財務省・理財局・佐川局長を擁護・支持している-③。「現状」ではやむをえない旨を明記している。
 既述のように、不審をもったのは、奇妙だと「直感」したのは、この部分だ。
 立ち入っていくと、佐川答弁についてもいろいろと不思議なことが出てくる。
 しかし、とりあえず書けば、小川榮太郞は、財務省の行政文書管理規則あるいは現状である「行政文書の保存基準」を見て、きちんと精査したうえで、昨年秋に上の文章を書いたのか?(同じことは、この答弁を聞いたメディア関係者もなぜ吟味しなかったのか、と言える。)
 上の①は、対象を「行政文書」全体にまで拡張していて、文書管理のあり方自体を知らない、全くのウソだ。「行政文書」の定義もおそらく知らず、つぎの規則も見ず、堂々と書いているのが怖ろしい。
 財務省行政文書管理規則(・同細則)の読み方(解釈の仕方)は別の機会にでもさらに触れるだろうとして、「面会等の記録」は「一年未満」だとは前回言及の「別表第一」には少なくとも明記されていない(同細則でも同じ)。
 「別表第一」は正確にはまだあくまで「基準」であるので、大臣官房文書課または理財局内部での「文書管理者」が(局長であることがありうる)かなり個別的な決定をして「面会等の記録」は「一年未満」だと定め可能性がある。
 つぎを参照-「別表」 の「備考」/「六 本表が適用されない行政文書については、文書管理者は、本表の規定を参酌し、当該文書管理者が所掌する事務及び事業の性質、内容等に応じた保存期間基準を定めるものとする。」
 もう一つの不審は、「面会等の記録」と「売買契約締結」に関する文書を明確に分けることができるのか、だ。まず、面会「等」の「等」は何を含むのか不明瞭だが、貸付または売買(予定者又は具体的にその方向である者)の一方当事者と会うことや、話を聞くことを、ふつうはたんなる「面会」とは言わないように感じられる。すでに「交渉」だ。
 つぎに、より重要なのは、「売買契約締結」に関する文書の中に、「面会」を含めてもよいが、交渉過程、つまり当該契約締結に至るまでの過程はいっさい含まれないのか?だ。 
 これは、<含む>と解される。なぜなら、前回言及の財務省行政文書管理規則・別表第一の「28」の項の一つめの列の見出しは「…の実施に関する事項」だが、二つめの列には「国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用 をいう。) 及び処分の実施に関する重要な経緯」 とある。そして保存期間30年とされる取得・処分にかかる文書の例として明記されるのが「売払決議書」だ。なお、貸付にかかる文書(例、貸付決議書)については、保存期間は、貸付期間終了後の10年とされている。
 小川榮太郞は佐川局長の言い分をそのまま信じて、本の叙述の前提にしているのだが、前提自体が怪しいと感じるべきだろう。感じないのは「ど素人」の証拠だ。すなわち、「面会等」あるいは「交渉」にかかる文書と「売買契約締結書」またはそのための「決裁文書」は明確に区別されてはいないし、区別してはいけないのだ(上記のとおり規則「本文」と一体である「別表」上に「重要な経緯」と書かれている。)
 前回にこの欄で紹介した、2017年2月24日午後の-佐川答弁より後の-菅官房長官発言は、すでに?なかなか的確だ(あるいは意味深?)だと思われる。
 「基本的には、決裁文書についてはは30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 佐川局長のつぎの言い分も、したがってまた、奇妙だ。
 「平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていない。」
 2017年2月は「平成28年6月の売買契約締結」後の半年余の後だ。
 佐川局長は「面会等の記録」は「1年未満」で廃棄してもよいからそうしたのだ、という趣旨を言いたかったのだろう。
 しかし、「平成28年6月の売買契約締結」に関する文書自体は30年とされていることを、局長クラスが全く知らないとは想定し難い。
 この時点の佐川氏について、推測できるのは、つぎの二つのいずれかだ。
 A「売買契約締結」文書・決裁文書に「交渉過程・経緯」まで書かれていることを知らなかった。そして、迂闊にか、意識的にか、「面会等の記録」の中には書かれていたかもしれないが、廃棄して今はない、というストーリーにした。
 B 上のこと及びその詳細な内容をすでに知って驚き?、書き直し・改竄をすでに指示して、「交渉過程・経緯」を含む(前の)決裁文書が存在しないようにしていた(答弁時点で完璧に終了していたかは別として)。だからこそ、かなりの自信を持って、断定的に答弁できた。
 いずれについても、不思議さは残る。さらに言及する。
 小川榮太郞に戻ると、この人は、現実の政治や行政についての知識が乏しい、ということを自覚した方がよいと思われる。今回は書かなかったことで、そういう例、言葉遣いがまだ多くある。

1754/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書④。

 今夕の日本テレビ/読売テレビ系番組で、しっかりと報道されていた。
 2017年2月24日午後の記者会見で、菅官房長官は、財務省の国有地売却等「決裁文書」の保存期間について、つぎのように明言していた。
 秋月瑛二が前回に「すでに私自身は判明させたつもりでいる」と書いたとおりだ。30年だ。
 そして、なぜこんな単純なことに誰も気づいていなかったのだろう、財務省の文書管理関係職員はきっと知っていたに違いない、と思っていた。
 私は知らなかったのだが、一年も前に政府高官・菅官房長官が、つぎのように語っていた。
 したがって、第一に、佐川元理財局長が、交渉に関する記録は「残ってございません」と答弁していたのは、虚偽だったと思われる。実際の決裁文書に「交渉過程」も記されていることを知らなかったのか?
 第二に、小川榮太郞著の<政治的偏見に満ちた>叙述も、間違いだったことが判明する。
 小川は、昨年の書物で、森友文書関連質問を受けて「面会等の記録(の保存期間)は1年未満だ」旨の佐川答弁をそのまま支持し、<廃棄してしまっていたことに何ら問題はない>と昨年の本で叙述していた。
 以下、菅官房長官・2017年2月24日午後記者会見にかかる、ネット上の映像・動画情報による。 http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201702/24_p.html -首相官邸ホームページ。
 記者質問「今日の予算委員会の方で、財務省の佐川理財局長が、森友学園と財務局側の交渉記録について、記録は残っていないと、事案が終了したのですみやかに廃棄されていると思うと答弁しているが、その点について、これは適当だと思うか」。
 菅官房長官「財務省においては公文書管理法の規定にもとづいて制定されている。
 そして、その財務省の行政文書管理規則にもとづいて国有財産の取得および処分に関する決裁文書については、30年の保存期間が定められている。
 ですから、30年間は保存するのです。
 一方で、面会等に関する記録文書については、その保存期間は1年未満とされている。そこで、具体的な廃棄がされている。その時期については説明したとおりだと思っている。」
 記者質問要旨/<面会等に関する記録についての1年未満を再検討する考えはないか>。
 菅官房長官「いずれにせよ、各省庁とも公文書管理法の規定にもとづいて行っているのだろう。そのことで、著しい弊害があるのであれば、また見直しする必要があると思うが、基本的には、決裁文書については30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 これの基礎にある、財務省側からこの日に資料提供を受けたのではないかと見られる、財務省行政文書管理規則の定めは、つぎのとおり。
 「第13条1項 文書管理者は、別表第1に基づき、標準文書保存期間基準を定めなければならない。
 2項 第11条第1号の保存期間の設定については、前項の基準に従い、行うものとする。」
 「別表第1・行政文書の保存期間基準」。
 <秋月注-以下は一部で、全体が表の形式をとっているため、表の最上部にある「列」の見出し-事項・業務の区分・当該業務に係る行政文書の類型・保存期間・具体例-を書き加え、かつ後の三者は一括して同じ行で記載する。いずれによ、実質的に原文ママ。> 
 『28・事項/国有財産の管理及び処分の実施に関する事項。
 業務の区分/国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用をいう。)及び処分の実施に関する重要な経緯。
 当該業務に係る行政文書の類型 (令別表の該当項)/保存期間/具体例/
 ①国有財産(不動産に限る。)の取得及び処分に関する決裁文書/30年/・引受決議書 ・売払決議書。
 ②国有財産の貸付けその他の運 用に関する決裁文書で運用期間を超えて保有することが必要な文書/運用終了の日に係る特定日以後10年/・貸付決議書。
 ③国有財産の管理及び処分(① 及び②に掲げるものを除く。 )に関する決裁文書又は管理及び処分に関する重要な実績が記録された文書/10年/・行政財産等管理状況等監査報告。』
 この<保存期間>に関心をもったのは、小川榮太郞著が<「面会等の記録」は1年未満とされているのだから、文書が残っていなくとも何ら問題はない>と書いているのを、不審に思ったことによる。
 国有地の貸付・売却(処分)に関する「決裁文書」が「面会等の記録」の中に含まれるのか、1年未満というのはこの「決裁文書」についてはいかにも短かすぎるだろう、という直感による。
 小川榮太郞著の正確な引用と批判は、別の回に行う。

1753/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書③。

 一 「普通財産」とは、国公有財産のうち「行政財産」以外のものをいう(国有財産法。公有財産については、地方自治法)。以下は国有地に対象を限る。
 「行政財産」とは違って、原則的には民事上(の私人間取引)と同じ処理がなされる。しかし、「国有」であり「行政」権者としての「国」が管理・処分をするので、一私人のそれとは異なり、それなりの法的制約がある。
 だがしかし、一方で、対等当事者の契約によるというのが建前なので、厳格なまたは厳密な法的規制があるわけではない。
 「法治国家」、「法治行政」あるいは「法の支配」も具体的様相は多様であり、これらから、行政官による「法の機械的な執行」というイメージを導くのは誤り。「法の機械的な執行」でなければ<政治の圧力による>と理解するのも誤り。
 相手方の選択、価額、諸条件等について、関係法令を適正にかつ「機械的に執行」すれば、一律の結論が出てくる、というものではない。<それなりの法的制約>の具体的内容は、それこそ関係法令を見なければわからないし、正規の法令ではないがほとんど実務慣行の規準となっているような「内部規則」類も存在する。それらは、財務大臣あるいは実質的には局長等々のレベルで(実務の必要を充たすために)定められている。
 <忖度(そんたく)>というとすれば、その意味を明確にさせて、本来は用いるべきだろう。最も広く理解すれば、これは、考慮、斟酌、参酌、配慮等々と同じ意味だ。そして、<それなりの法的制約>の範囲内では、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>が実際には行われているし、それは場合によっては、あるいはむしろ通常は、必要なことだ。
 だからといって、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>がつねに適正で合理的とは限らず、種々の観点から、政治的観点からも(政治家による圧力等々が重要な動機となっている場合のように)、その合理性・正当性は検証されてよい。
 二 つぎに、「決裁文書」という概念について。
 <公文書管理法>(略称)という法律自体が、前回にも触れた<(行政機関)情報公開法(略称)を補完する重要な役割をもつものとして制定・施行された。
 この法律がいう「行政文書」の定義は、後者と全く同じ(公文書管理法2条4項)。
 情報公開(行政文書の開示)請求に対して、その情報・文書が存在しなければそもそも公開・開示できない。存在しない場合に非公開・不開示とすることを、情報公開法自体が認めている。
 それはそうだろう。ないものを、見せるわけにはいかないし、見せたくとも見せることができない。
 しかし、存在・不存在の判断自体が奇妙だと、存在してはいるが、<存在していないことにして>公開しない、というむろん本来許されない決定がなされる可能性がある。
 森友文書問題でも、都合の悪い(書き換え・改竄前の)文書を「存在しない」ものとして公開・非公開の判断をした事例があった、と報道されている。
 そうすると、「存在」するか否かは重要な問題だ。そして、行政機関に「行政文書」が<存在するように>、つまりは<作成>したり<保存>したりする義務を課すのが、情報公開法を補完するものとしての公文書管理法の重要な機能だ(それだけではないとしても)。
 しかし、この法律自体は「基本精神」と<公文書管理の基本的仕組み>を定めるだけで、「保存」についても、詳細は各省大臣等が定めるものとされる「行政文書管理規則」に委ねている(10条)。
 そして、おそらく全省庁について同様だろうが、この各省庁の「行政文書管理規則」の中に、「決裁文書」という概念が出てくる。しかも、本体の別表のかつ「備考」の欄で。
 財務省行政文書管理規則(大臣訓令。最新改正、2015年4月)は、上記の微妙な?箇所でこう定義する。
 「4 決裁文書 行政機関の意思決定の権限を有する者が押印、署名又はこれらに類する行為を行うことにより、その内容を行政機関の意思として決定し、又は確認した行政文書」。
 ここで「行政機関」とは財務省のことを意味する。「行政機関の長」は財務省の場合、財務大臣。
 この「決裁」の<内部委任>が通常の行政の多くの場合になされていることは、すでにこの欄に書いた。
 「決裁文書」という日本語をどのような意味で使おうともそれは自由なのだが、このように行政的?または公的には?定義されていることは知っておいても悪くないだろう。
 しかして、(決裁文書に限っても)いわゆる森友文書なるものの「保存期間」は、この「規則」(訓令)上はどう定められていたのか。廃棄されていて(=一定期間以上は保存する必要がなくて)存在しない、と言えるものなのか?
 これについては、たぶん次回に書く(すでに私自身は判明させたつもりでいる)。
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 資料・史料。2017年2月19日、安倍晋三首相・衆議院予算委員会答弁。 
 「私や妻」は、「もちろん事務所も含めて」、「この認可あるいは国有地払い下げ」に、「一切かかわっていない」。「もしかかわっていたのであれば」、「私は総理大臣をやめる」。/「繰り返」すが、私や妻が「関係していたということになれば」、「間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」。「全く関係ない」。

1751/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書②。

 片山さつきが某テレビ番組でふいに「よけつれい」という語を出していた。
「よけつれい」とは、間違いなく<予算決算及び会計令>(勅令→政令、1947年。2017年最終改正)のことだ。
 何の説明もなくこんな言葉を発するとは、時間不足のためもあろうが、視聴者・庶民には分からないかもしれないが、知らないだろうが、という感覚も感じさせられて、愉快にはならない。
 山口真由は別の某テレビ番組で率直に?、「キャリア」・「ノンキャリア」という語を使って、両者の行政・公務員感覚の違いを述べていた。
 これはこれで、そのような観点からのコメントを聞かないので、よいだろう。
 しかし、言葉不足があって、むろん山口真由が知らないはずはないが、財務省(・理財局)と同省近畿財務局の違いが「キャリア」と「ノンキャリア」の違いに該当するかのごとき誤解を生じさせかねなかった。
 本省にも「ノンキャリア」はいるし、近畿財務局にも「キャリア」はいる。
 「キャリア」組が<地方支分部局>の長を経て(渡り歩いて?)地方の実情と現場も知って(?)いずれ本省に戻ってくる、というのは、よく知られる。
 森友問題時代の近畿財務局長の迫田?という人物はいま、財務省の別の局長らしい。
 その他、八幡和郎も含めて、森友問題あるいは決裁文書改竄にかかる元「キャリア」のコメントを知るのは、なかなか面白い。
 さすがに行政経験からもよく知っている(ある範囲の問題については)と思うが、「上級行政官僚だった」ことについての<矜持>(・誇り)らしきものも、人によって同一ではないが、垣間見えて、この点も興味深い。
 ついでに書くと、第一に、文書処理に関して<公文書管理法>という法律に焦点があてられている印象もある。しかし、国会との関係以外に直接に対国民でも重要な関係法律に、<(行政機関)情報公開法>がある。
 これによると、「決裁」済み文書のみならず、<組織として行政のために用いた、用いている>文書(電子情報もこの場合は含む)も開示請求の対象になり、かつ、原則としては(この法律が定める「支障」等に該当する等の例外事由のないかぎり)請求者(国民)に開示しなければならない。
 第二に、<書き換え前>文書は「起案文書」あるいは「ドラフト(案)」ではなかったのか、という問題も提起されていたようだが、これは否定されたはずだ。
 なお、(最終)決裁文書に問題があるとすれば、もう一度決裁をやり直して、新しい、最々終の決裁文書を作成すればよいことになるはずだ(技術的な些細な修正ならやり直す必要もないかもしれない)。このことは否定できないだろう。
 しかし、<最々終の決裁文書>を作成しても、その前の<最終の決裁文書>の存在を否定・消去できるわけではない。
 本当に最後の「決裁」文書でなくとも、存在していれば、上記のとおり、情報公開請求の対象にはなる。
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 「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。/
 繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。」
 池田信夫が適切に指摘しているように(3/14)、この安倍晋三首相国会答弁をどう<理解>するかは、同首相又は同夫人が「かかわっていた」とか「関係していた」という言葉の意味にかかわる。
 曲解しなくとも、言葉をふつうに理解するかぎりは、「かかわっていた」・「関係していた」ことにはなるだろう。
 「(直接の)働きかけ」とか、「直接の関与」という言葉を安倍晋三は用いなかったのだから。
 この答弁の当日(昨年2月)の報道によってだろう、随分と思い切ったことを言っているな、という感想を自分が抱いたことは明確に記憶している。
 したがって、この答弁の<正確な意味・意図>が問われなければならないし、また、少なくとも安倍首相の不用意・迂闊さ(あるいは傲慢・慢心?)は指摘されなければならないだろう。
 八幡和郎は、池田信夫と同じブログ・サイトで、つぎのように書く(3/13)。
 「森友問題の本質は、文書改竄ではない。籠池さんという厄介な人にいろんな人が振り回されて、苦し紛れに、少し安すぎるかもしれない価格で国有財産を売り渡したというだけのことである。」
 これは少し違う。第一に、決裁文書の扱い方、という<行政>上の基本問題がある。
 第二に、森友某氏の娘と結婚した籠池某氏という「厄介な人」が少なくともかつて「日本会議」に属していて(日本会議もこれを否定してはいない。日本会議大阪の役員だったようだ)、この籠池某氏が「日本会議」の名(知名度?、権威?)を少なくとも<利用>したことは間違いないだろう。
 そうでなければ、竹田恒泰や安倍総理夫人は関係する小学校での講演などしなかっただろう。ましてや、経緯はあっても、強く固辞しても、最終的に「名誉校長」にはならないだろう、と普通人の私は感じる。
 <政治>的には、森友問題は「日本会議」問題だ。「日本会議」問題としての森友問題なのだ。むろん、安倍首相と「日本会議」には「関係がある」ことが前提。
 だからこそ、日本共産党も朝日新聞も躍起になって突き、叩こうとしている。
 小川榮太郞が昨年以来の各種報道は<朝日新聞の謀略>だつたと言いたい気持ちは分かるし、実際に間違いなく、日本共産党や朝日新聞の<謀略>的な政治姿勢・報道姿勢はある(なお、朝日新聞社内には日本共産党の党員もいる)。
 しかしまた、<安倍晋三あるいは安倍政権は絶対に誤らない>はずだというのも、一つの<謀略>観に似た<思い込み・観念>なのであり、<反・朝日新聞>史観?・政治観?にだけ頼るのも、危険だ。
 小川榮太郞の書物を、森友問題の「勉強」のためにいま読んでいるのだが、この本の主張内容もまた、(興味深いという意味で)面白い。
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 なお、日本共産党と「日本会議」が(まして朝日新聞と「日本会議」が)真正面から対立しているとは、秋月瑛二は考えていない。そう理解してはいない。
 180度反対では全くなく、せいぜい45度以下の、30-35度程度の角度の開きしかないだろう。
 しかし、もちろん、「日本会議」-安倍晋三と朝日新聞・日本共産党が正面から対立している「ように見えている」現実はある、ということは承知している。

1748/田久保忠衛・日本会議会長は平然とウソをつく。

 「日本会議」のウェブサイト上に「平成29年(2017年)03月15日」付けの、日本会議会長・田久保忠衛の名による、「日本会議への批判報道を糾す」という文章が掲載されている。月刊Hanada(飛鳥新社)2016年8月号に掲載のものに加筆したものだというが、後者で確認しても、ここで秋月瑛二が問題にしたい部分には変更がなく、全く同じだ(後者p.32~のうち、p.35)。。
 どちらを見てもよいのだが、日本会議会長・田久保忠衛は、憲法改正・九条問題についてこう明記している。
 ①「そもそも、改憲論者で第九条の二項を変えようという者はいるが、一項を変えようという者はいない。
 そして、日本国憲法現九条一項と二項を引用したうえで、②「読めばわかるように、一項は『侵略戦争をしない』との意味で、これに反対する人はいまい。しかし、二項のままでは自衛隊は軍隊ではない」、と説明する。
 上の①は、「改憲論者」の中には九条「一項を変えようという者はいない」ということ。
 これは、全くのウソ、全くのデマだ。しかも、田久保忠衛が自身が「改憲論者」だとすれば、この人は自分自身がしたことを意識的に無視しているか、呆然として忘れている。
 産経新聞・同社は、月刊正論編集部も含めて、「改憲」支持派だろう。
 しかして、産経新聞のウェブサイトにも載っているが、現「一項を変えようとする」憲法改正案を堂々と発表している。
 2013年(平成25年)春に発表された、産経新聞社「国民の憲法」草案要綱は、現在の第二章を第三章とし、表題を「国防」と改めて、つぎの条文を提案した。
 「第一五条(国際平和の希求) 日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立された国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める。
 第一六条(軍の保持、最高指揮権) 国の独立と安全を守り、国民を保護するとともに、国際平和に寄与するため、軍を保持する。
  2 軍の最高指揮権は、内閣総理大臣が行使する。軍に対する政治の優位は確保されなければならない。
  3 軍の構成および編制は、法律でこれを定める。」
 この15条、16条が現行の9条全体に代わるものとして提言されていることは、ここで子細を書くと面倒なので避けるが、明らかだ。
 そして、<「国民の憲法」要綱全文と解説>のうちの解説は、つぎのように叙述する。「」は直接の引用。
 「侵略のための武力行使の放棄や国際平和に努める『平和憲法』は外国の憲法でも珍しくない。こうした現状を踏まえ、現行憲法第9条1項前段にうたわれた「国際平和の希求」は今後も堅持すべきだと結論づけた。
 ただ、同項後段にある武力行使を禁止した件には疑問が出された。ある委員は、現行規定をそのまま残し、国際社会にも武力行使を慎むよう期待を表明する条文を提案した。
 最終的には単に『戦争を放棄する』とした『消極的平和主義』から、紛争の平和的解決や国際平和の実現にわが国が尽くしていく『積極的平和主義』に立脚した表現に改められた。」
 これについて、田久保忠衛は「一項を変えようという」ものではない、あるいは一項の「平和主義」は変わらない、と理解するのかもしれない。
 しかし、<一項を変える>ということの意味にもかかわるが、<消極的平和主義>から<積極的平和主義>へと変えるものであることは明言されている。また、現在の「同項後段にある武力行使を禁止した件には疑問が出された」という委員の意見が最終的には生かされたかたちになっている。
 なお、現九条一項は、つぎのとおり。念のため。
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
 ところで、田久保忠衛は上の産経新聞「国民の憲法」案起草委員会の委員長だった
 その田久保忠衛が上のように「一項を変え」るものではない、と理解するのは無理であるのは、田久保自身の著のつぎの文章からも明らかだ。また、「武力行使を禁止した件には疑問」があるとしたのは、田久保自身である可能性がある。
 田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)。
 田久保自身が、こう明記する。p.175。
 「産経新聞社の『国民の憲法』要綱は」、「現行憲法第一項を含めて全文を改め」(ここで上記15条・16条を挿入)「…と規定した」。
 これは、田久保が2016年・2017年そして現在の、「そもそも、改憲論者で第九条の二項を変えようという者はいるが、一項を変えようという者はいない」という理解・主張と合致するか?
 田久保自身が、「一項を変えようという」、「改憲論者」なのではないか。少なくとも2013年時点および上の著刊行の2014年時点では、そうだったのではないか。
 そして、日本会議会長としての2016年以降の上掲文章は、真っ赤なウソはないか。
 追記すると、上の2014年著で田久保は、「第一項を含めて全文を改め」る必要を、一項について、森本敏の指摘に「全く同感」だとして、つぎの二点を述べる。以下は、抜粋・要約的引用。
 第一。「国連多国籍軍」のような「集団的安全保障に参加」できるかが疑問。「第一項をそのまま残」すと「国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」。
 第二。集団的自衛権行使容認に「法制局解釈」が改められると「日本は米国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する場合、米国が多国籍軍に入っているときに、日本はどうするか」という問題が生じる。「第一項がある限り、日本は動きがとれなくなってしまう」。
 立ち入らないが、現一項(と二項の関係)の解釈自体や現行の平和安全法制が容認する<フル・スペックではない>集団的自衛権行使の具体的態様にかかる解釈・現実運用、「米国が多国籍軍に入っているとき」ということの意味・可能性の問題でもあるだろう。
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 田久保忠衛は、日本会議系とされる<美しい日本の憲法をつくる国民の会>の共同代表を櫻井よしことともに務めている。
 そして同会の冊子やウェブ上の現九条一項・二項に関する考え方と、上の産経新聞社の改正草案要綱や田久保・上掲書の考え方は一致していない、同じことだが矛盾していると、この欄ですでに指摘したことがある。
 №1275/2015.01.22、№1494/2017.04.11
 日本会議会長としても、田久保忠衛は、自分自身の過去の見解を無視して(あるいは呆然と忘れて)、平然とウソをついているのだ。
 憲法改正問題、とくに九条問題にはいまや大きな関心はないのだが、こんな<大ウソ>が吐かれていることを知って、記しておく気になった。
 なお、自民党の公式の現在の改正案は(その前の<桝添要一委員長>を経た改正案も)、および読売新聞社の憲法改正草案は、現一項を(上の産経新聞社案と違い、基本的には)そのまま残すこととしている。
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 上の産経新聞社の現九条関係の<解説>は、他にも興味深いことを述べている。
 以下に引用する。
 「現行憲法第9条2項の「…<中略>」との条文を全面的に見直し、現存する自衛隊を軍として明確に憲法に位置づけることにも、全委員が賛成した。」
 これは、昨2017年5月の<二項存置・自衛隊明記>という安倍晋三自民党総裁提言に正面から反対することを意味する。しかし、産経新聞はこの提案をどう受け止めたか?
 もちろん、2013年と2017年という違いはある。それに、何と言っても<安倍晋三首相>の提言なので、産経新聞社がかつては会社としても採用したはずの改正案起草委員全員による二項<全面見直し>論を捨ててしまった、としても無理はないだろう。

1745/「日本会議」問題としての森友問題と「決裁」文書①。

 共産主義や「日本会議」にのみ秋月瑛二が関心をもっているわけではないことを、ときには知らせておこう。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派について昨年からずっと感じてきたのは、つぎのことだった。
 安倍晋三がいつまでも首相であるわけではない。かりに2020年時点で首相・内閣総理大臣だったとしても、いつか辞める。そのとき、この人たちはいったいどの人物を、あるいは自民党でないとすればどの政党を支援するのだろう、と。
 そう感じさせるほどに、この人たちの安倍晋三・自民党びいきは目立った。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派は昨年の総選挙でも、日本共産党や立憲民主党を叩き、批判することよりも、「希望の党」、正確には小池百合子を批判の主対象にしていたように感じる。
 2017総選挙については、当時の池田信夫のブログ・コメントに大いに共感するところがあったが、今回は立ち入らずに、別の機会に、余裕があれば触れる(秋月瑛二は前回の総選挙について、感じることは多々あったが、この欄に記していない)。
 「日本会議」は、<保守>運動の中心的位置という立場を守りたい、維持したいのだ、と思われる。
 以上については、もっと書かなければならない。
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 「決裁」文書と国・省の意思決定について。
 森友学園問題について詳細にフォローはしていないので、第二に言及したい「日本会議」問題とは別の、「決裁」文書なるものに関する一般論を記しておく。
 メディア関係者・テレビや新聞関係者(とくに記者)および多くのコメンテイターはきちんと知って、きちんとした情報を提供してほしい。以下は、行政の実務経験者であれば、あるいは企業等の組織管理経験者には、おそらく常識的だろう。しかし、メディア関係者にはー「左翼」意識は強くてもーしばしば一般的知識に欠ける人がいる。
 まず、国有地を含む国有財産の売買(売却をむろん含む)契約の当事者は、一方はふつうは私人で(法人の場合もむろんある)、他方の当事者は、「国」だ。この場合の「国」は正確には裁判所や国会を含みうるが、とりあえず<行政>担当法人のことを意味させる。
 しかして、個々の行政、あるいは個々の売買契約の法的な最高責任者は、一般論として語るが-現行法制上は-首相・内閣総理大臣ではなく、個別省庁の長、財務省関係だと財務大臣のはずだ。
 個別の法律による特殊な売買を除いて(強制買収に該当する場合はどうだったかな?)、今回の森友問題におけるような契約締結の法的な最高責任者は財務大臣だと解される。
 ではなぜ、「決裁」文書書き換えにかかる「責任」がとくに理財局長について問題になっているのか。
 それは、財務大臣の「決裁」権限の<内部委任>が行われているからだと思われる。
 つまり、「国」を当事者とする契約締結には本来はすべて省庁の長(とざっくり言う)の最終「決裁」が必要だが、大臣・長官が全てに関与して全てに押印または署名するわけにはいかない。
 そこで、いわば<便法>として、案件に応じて、<理財局長>あるいはその下の課長等に<決裁権限>を「内部的に」委譲しているのだ。よく知らないが、軽微なものだと近畿財務局長に「内部委任」されているものもあると考えられる(森友問題は文部科学省・内閣府も関係するので形式上・内部的にも最後は本省扱いになっているのだろう)。かつまた、この決裁権限の「内部委任」はおそらくは正規の「法令」によるものではない。省庁「内部」の(それこそ大臣等の名前で決定された)規程類にもとづくもののはずだ。
 したがって、政治的にはともかく、全ての案件について大臣には行政上の法的「責任」がある。大臣にそのような「責任」をとらせることになったのは誰か又はどの機関かは、あくまで「国」または省の「内部」問題にすぎない。
 この点をしっかりふまえて報道等をしてほしいものだ。
 むろん、財務省「内部」の問題を報道して悪いわけではない。すべきだろう。しかし、局長に<責任転嫁>してのトカゲの頭か尻尾かを切る、というのは、きわめて<政治的>または<政治家的>発想だ、ということは知っておく必要がある。官僚機構や組織の問題等を<大筋>の問題と混同させてはいけない。
 ついでに、安倍首相の問題。首相には内閣を構成する各大臣に対する指揮権・指導権は、憲法上重要な位置を占める「内閣」の一体性や国会に対する<政治的・行政的>責任の観点からもあると見られる。
 したがって、<政治的>観点以外でも、当然に首相の責任は問われうる。
 では、安倍首相夫人の明確な<関与>が証されたとすれば、いったいどうなるのか?
 おそらくもはや契約自体の有効性の問題にはならないのだろう。だが、これとは別に「違法性」は問われ得る。また、違法でなくとも、正当ではない、正義・適正さの観点から疑問だ、ということはあり得る。こうなると安倍晋三と椛島有三を事務総長とする「日本会議」の関係にかかわるので、回を改める。

1715/日本会議の20年②と丘みどり「佐渡の夕笛」。

 横田めぐみさんが北朝鮮当局によって拉致(人さらい・人身の自由の侵害)から、今年10月で40年が経った。
 父の滋氏は日本銀行行員として新潟に赴任したはずで、転勤があったのだと思われる。あの転勤がなかったらとか転勤を固持してたいればとか等々の思いを、こ両親は何度も反芻されただろう。
 新潟でめぐみさんが特定されて狙われていたわけではなく、たまたま特定の地区・地域を彼女が通りかかったことで被害にあったのだろう。とすると、あの日に何とかしてあの地域・地区へ行かさないようにすればよかった、といった想いもまた、何度も想起されただろう。
 人生は、運命は、苛酷なものだ。もとより原始コミュニズム国家、実兄を公然と殺戮した首領がいる国家に責任はある。
 日本共産党は今は北朝鮮を<社会主義を目指している国>から除外しているが、かつては「友党」で、拉致についても疑惑の程度に応じた交渉をとか主張して拉致犯行者が北朝鮮国家であることを認めたがらなかったこと、北朝鮮はレーニン・スターリンのコミンテルンまたはロシア(ソ連)共産党の指導と援助で建設されたこと、金日成の指名も彼らによってなされたことは否定できないだろう。
 日本会議の20周年記念大会案内パンフの最終欄に、この20年間に<日本会議が取り組んだ主な国民運動」と題する26項が総括的に列挙されている。
 それらの中には、「北朝鮮拉致被害者救援国民運動」といったものは掲げられていない。
 西岡力等の日本会議関係者がこれに強く関与してはいるが、日本会議自体は、これを自らの団体の運動の実績の一つに挙げることをしない、あるいは、そうできないのだ。
 実績・成果がなかった・乏しかったことが理由にならないことは、選定・列挙されている26項を見ても分かる。
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 ところで最近にたまたま聴いた歌謡曲、丘みどり「佐渡の夕笛」の一番の歌詞は、横田めぐみさんの家族、とりわけご両親の滋・早紀江のお二人には、涙なくした聴けるものではないようにも思える。
 丘みどり「佐渡の夕笛」(2017)-作詞・仁井谷俊也/作曲・弦哲也。
 (一番)
  「荒海にあの人の船が消えて
  二とせ三とせと過ぎていく
  今年も浜辺に島桔梗
  咲いても迎えの文(恋文)はない
  待ちわびる切なさを
  佐渡の 佐渡の夕笛 届けてほしい」
もともとは船で他所に出かけた男を待つ女性の気持ちを歌った歌詞と曲だと思われるのだが、一番の歌詞だけは拉致被害者を、そして横田めぐみさんを連想させうる。
 佐渡島は、拉致されていく橫田めぐみさんを見ていたに違いない。
 「あの人の船が消えて」、「二年三年と過ぎていく」、「迎えの文はない」、「待ちわびる切なさ」、これらの言葉を、家族、とくにご両親はどういう想いで聴くだろう。
 丘みどり、1984年生まれ、2017年NHK紅白歌合戦初出場予定。

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1709/福岡伸一・動的平衡〔第一〕(2009)より。

 「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする」。
 福岡伸一・動的平衡-生命はなぜそこに宿るのか(木楽舎、2009)、p.253(あとがき)。 これの意味は納得できる。
 何かの文章を書いているうちに考えが整理されてきたり、予期していなかった新しい展開をとげてしまうことは、この欄を記していても、よくある。
 「考え」に適した「言葉」が見つからなくて、大いに苦しむことも、ままある。
 しかし、「考え」とはそもそも何なのだろうか?
 福岡伸一批判をしているのでは全くない。
 「考え」、思想・主義・主張等々。これらは「精神」活動だろう。そしてそれを他者に伝えるためには、何らかの「言葉」が必要だ。
 しかし、そもそも「精神」活動とは、あるいはそこで用いられる「言葉(言語)」とは、いったい何なのだろうか?
 「精神」活動は、脳内で行われるとされ、ヒトの脳が作動しているためには、肉体、そして(そのヒトが)いのち(生命)を持っていることが必要だ。
 人間は死んでもその精神・霊は生き続ける、と言う人もいるのだろう。
 しかし、神社・寺院を参拝し瞑目して「祈る」ことに慣れている私でも、神・仏の「実在」を、あるいは亡き両親や先祖等々の「霊魂」の存在を「信じて」いるのでは全くない。
 両親の霊魂がまだどこかに生きているのなら、あるいは誰でもよいが三島由紀夫でもレシェク・コワコフスキでも、彼らの「精神」がまだ生きているならば、まだ彼岸にはいない、生きている私との間に何らかの「交信」があってもよいだろう。 
 少なくとも私はそれを欲していないわけではないのだから。
 しかし、両親や三島あるいはコワコフスキ等々の「精神」の表れとしての言葉を「聞いた」ことは一度もない。
 かつての(生前の)言葉や文章を思い出したり、読んだりすることができるにすぎない。
 「精神」には、生命が必要だ。
 「では、いったい生命現象とは何なのか。それを私はいつも考える」。 
 これは、福岡伸一・前掲書p.23の、プロローグの最後の一文。
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 福岡伸一のアメリカでの指導教授の(大学での)研究課題は、「意識のメカニズム」の理論的研究、つまりは「人間はどのようにして意識を持ち、なぜ、それは時に錯誤を起こすか」だったらしい。福岡・前掲書p.26。
 <意識の錯誤>とは一般的な表現では(少なくとも私には)ない。
 しかし、<思想>・<主義>・<主張>・<論説>・<評論>等々にほとんどつねに見られる、何らかの特定の観念・歴史認識・時代認識等々への<寄りかかり>やこれらに関する<思い込み>に気づくと、つぎのように感じざるをえない。
 誰もが、何らかの<錯誤>に陥っている。そしてそれは、一個のヒト、人間の精神活動であるかぎりは、おそらくは絶対に、不可避のことだ。
 問題は、<錯誤>の程度、深さ、大小にある。
 日本共産党・不破哲三も、日本会議・椛島有三も同派・櫻井よしこ等も、<錯誤>がヒドすぎる。程度でいえば、日本共産党・コミュニズムの方が著しく、かつ人間社会にとっての<害悪>が直接で大きいかもしれないが。
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 今回は立ち入らないが、<動的平衡>という発想?、認識の仕方?は、じつはきっとそのとおりだと感じている。
 以下、福岡・前掲書の最初の方から、気になる、つまり印象に残った文章を引用しておこう。
 「すべての生体分子は常に『合成』と『分解』の流れの中にあり、どんなに特別の分子であっても、遅かれ早かれ『分解』と『更新』の対象となることを免れない」。p.28。
 「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っている」こと、「動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうる」ことは、…によって明らかにされていた。p.34。
 「ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは、脳細胞といえども例外ではない」。p.34。
 「若い頃の記憶とは、何度も想起したことのある記憶」であり、「あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何か」のことだ。p.37。
 「たとえ、個々の神経細胞の中身…が合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路は保持される」。p.37。
 「私たちが自分の目で見て『事実』と感じていること自体も『錯覚』であることが多い。…、非常にさまざまの脳の『バイアス』の上に成り立っている」。p.46。
 「人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにいられない」。
 「人間の脳は鋭敏に、かなり粗い情報の中からでも何らかのパターンを見つけてしまえる」。以上、p.47-48。
 「なぜこのような特殊な能力、…不思議なバイアスが人間の脳に張りついてしまったのか」は、「人間のこの地球上に現れてからの歴史と密接に関係があると思える」。
 「環境の変化」と闘い生き延びるには、「時に複雑な自然界の中から、何らかの手がかりを見つける」ことが「とても大事」だった。以上、p.48。
 「私たちは自分の脳の癖に気がつかない」。したがって、「ランダムからパターンを読み出す『勘のよさ』、これが逆にマイナスに作用することがありえる。パターン化は、自然のもつ複雑な精妙さや微妙なズレなどを消し去ってしまうこともあるからである」。p.50。
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 秋月瑛二が社会・人文系から自然科学系・生命系へと急に関心を変えた、というのでは全くない。
 福岡伸一を剽窃?すれば、こうなる。
 何らかの「錯誤」・「錯覚」に陥ったままの、つまり「バイアス」をもって単純・幼稚な「パターン」化ごっこをしている、<複雑な>社会・歴史・人間等を<精妙に>見ることができていない、そういう思考「回路」をもつ社会・人文系(と思われる)論者・執筆者・評論家・記者・学者(研究者)等が多すぎる。
 これをほとんど絶望的に感じている。しかしまた、一個の生物としての個々のヒトに内在する不可避の限界かもしれない、とも思う。
 <夢想系>か<現実系>かといった、そんな幼稚な二分法では全く、絶望的に、足らない。
 「保守」でも、「憲法九条」でも何でもよいが、ほとんどの人々が「言葉」・「観念」(これらはつまりは概念化であり「パターン」化だが)を正確に、あるいは理解し、意味させた上で論じる、という最低限のことをしないで、言葉・概念・観念を弄んで文章や論考・論文類を書いているように思える。
 残るのは、意思疎通・相互理解が大きく欠けたままでの、空虚な「論議」であり、何となくのムードだけだ。
 一般国民・有権者の多くは、厳密な概念等々を考えて生活してゆけるはずがない。
 責任があるのは、「知的」(とふつうは思われている)作業に携わっている人たちだ。
 その「知的」作業が自分と家族の「生存」のために必要なのかもしれず、<顕名>欲を充たすためには知的「退廃」が必要なのかもしれない。
 最低限度の生存のため(食って生きていくため)というならば、まだ容赦できる。
 しかし、より大きい経済的利益と「顕名」を目指して、(最近に知った言葉だが)「ポジション・トーク」をしている人々を、信頼することはできない。
 信頼して、参考にすることがあっても、それは<程度>の問題にすぎない。
 それこそ曖昧な言葉だが、保守であれ(リベラルであれ)、容共産主義(容コミュニズム)であれ、信頼できない人がほとんど全てだ。
 日本共産党および同党容認政治家・論者や、「日本会議」派政治家・論者は、おそらく全員だ(もともとこの二派は対立しているのではない)。
 あれこれと読むのにもほとんどイヤ気がさしている。
 しかし、現実は現実としてある。なぜ、こういう現実になっているのか。
 言うまでもなく、とりわけ日本の国家も社会も、日本人という人間つまりは、ヒトの一種が形成してきたし、現に形成している。
 ヒトの「精神」活動・脳細胞と無関係のはずはない。
 そう思って読むと、福岡伸一の本にも興味深い文章はある。
 思考「回路」・ヒトが陥り易い「パターン」化、…。 

1702/百地章・産経「正論」欄8/9の過ちと悲しさ。

 気の毒だ。悲しいことだ。しかし、百地章はやはり信頼できない。
 産経新聞8/9「正論」欄に、つぎの案を書いてしまった。二項存置自衛隊明記の条文案だ。
 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
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 さっそく小林よしのりが批判した。ブログの8/9で。
 「産経新聞の『正論』欄で、百地章が安倍政権の改憲草案作りを粛々と進めよと言っている。//
 ものすごい勘違いだと思うのは……。…/百地章は客観性を担保しろ。/
 そして、甚だしい勘ちがいの2番目は、憲法9条1、2項をそのままで自衛隊明記という『加憲案』は、『一歩でも二歩でも前進する』方法論ではない。
 国民投票で、可決されても、否決されても、現状より悪くなる史上最悪の『加憲案』」である。/
 わしは純然たる『改憲論者』だから、この『加憲案』は絶対に許せない!」
 小林よしのりはその前から、今次の「加憲」なるものに反対だった。<安倍・日本会議案>とも、事態をより本質的に?捉えてもいる。
 8/3-「憲法9条1項2項をそのままで、自衛隊を明記するという考えは完全に『護憲派左翼』である。/
 「『護憲派左翼』は実は『従米主義』であるという欺瞞から目を背けているだけなのだ」。
 7/31-「安倍晋三のわがままで、日本会議のために、憲法9条そのままで自衛隊を明記するというトリック加憲が目指されている。/『お友だち内閣』だから、日本会議というお友だちのために、働くのだ。/決して国民のためではない」//。
 「安倍晋三は、発議しても国民投票で必ず負ける詐欺的加憲案を、やっぱり作るらしい。/憲法改正は、安倍晋三の『私』的なレガシー、政治的遺産作り、名誉欲のためだけに行ってはならない!//
 「わしは『公』と『権力』が合致しているときは、政府を応援するが、この二つがズレ始めたら、警鐘を鳴らし、……これを阻止する。//
 わしは常に「公」に付く。/だが、劣化保守&ネトウヨ連中は、安倍個人崇拝で、「公」よりも「権力」に付く。//
 言っておくが、自衛隊明記のためだけの加憲は、国民投票で可決されても、否決されても、日本にとって最悪な結果しかもたらされない。/可決されれば、戦後レジームの完成、軍事法廷なしの集団的自衛権行使に突入。//
 否決されれば、憲法改正の機会は100年遅れる。// 
 「公」のためにならない、最悪の安倍・日本会議案にわしは断固反対する!」
 7/28-「わしは安倍首相の改憲論は、ウルトラ欺瞞であって、左翼に媚びた加憲だと思っている。/
 わしは個人的に、恐れると言えば、確かに恐れる。//
 なぜなら「戦後レジームの完成」、自衛隊が永遠に軍隊になれない、盤石な左翼国家の誕生になるからだ。//
 それはアメリカの永久属国憲法になると思っている」。
 「福島瑞穂が出したら、猛反対するくせに、安倍晋三が出したら大賛成するのだから、産経新聞、極左大転向というニュースになっていいくらいだ」。
 この最後の7/28には、この欄の7/30=№1677で言及した。
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 秋月瑛二も6月に伊藤哲夫改憲案に批判的にコメントしたあと、7月末からこの<九条存置自衛隊明記>論を成文化がほぼ間違いなく不可能な案として、その論拠も含めて、頻繁に書いた。
 その中には、百地章「私案」に対するものもあった。
 すなわち、8/2の「百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論」。
 産経「正論」欄で百地章が書いている案は、ほぼ上と同じなので、8/2での批判がそのまま当てはまる。
 以下、あらためて記し、またこの人が他に言うことにもコメントしよう。
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 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
 第一、「前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り…i協力するため」は「自衛隊法の条文を参考に」しているらしいが、自民党の改憲案にも、「国防軍」か「自衛軍」について見られるはずだ。但し、自民党改憲案は九条二項削除での<軍>設立明記の際の趣旨文言だったのだから、意味・位置づけが全く違う。
 第二に、上のことよりも、「自衛隊を保持する」と、第一文の最後に「自衛隊」という語・概念を使っているが、これがそもそも何を意味するのかがさっぱり分からない、という基本問題がある。
 前回に批判的にコメントをしたときは<自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だという事前の<解釈>または<解説>をつけていた。
 これをおそらく、第二文案の「その組織及び権限等は、法律で定める」に改めている。
 <現在の自衛隊の権限等を変更しないのが前提>とか言っていた部分を、「法律で定める」に変更して、問題を回避している、かに見える。
 実際には、そんなことは全くない。
 百地章は、この案の「狙いの第一」は「『自衛隊の保持』を憲法に明記することで違憲論の余地を無くすことにある」という。
 憲法学者でありながら、幼稚としか言いようがない。
 何度も、同じことを書く。
 第一文にいう「自衛隊」とは何のことなのか。
 たしかに、ここにいう(加憲された条文の言う)「自衛隊」なるものは、その設置が明記され、合憲的なものとされる。しかし、これはまだ、憲法規範上の概念であり、用語だ。
 この自衛隊が現在の・今の自衛隊をそのまま意味しているはずがない。
 百地章が正当にも第二文で書くように、「自衛隊」「の組織及び権限等は、法律で定める」のであって、その「法律」を見なければ何も分からない。
 上記のごとき目的のための「自衛」の「隊」というだけのことだ。
 しかしおそらく百地章は、現在に自衛隊に関して存在する諸法律が憲法上の「法律」に当たることになる、と主張するのだろうと思われる
 そのように、論旨展開をすることはできなくはない。しかし、そう主張しても、現在の諸「法律」自体が違憲だ、あるいは例えば集団的自衛権行使容認のこの部分が違憲だ、といった主張を消滅させることはできない。
 <<かりに万が一>>百地章の案が実際に憲法条項なったとしても、いまの・現在の自衛隊違憲論者あるいは少なくとも集団的自衛権行使容認違憲論者は、断固としてつぎのような憲法解釈を主張するに違いない。
 すなわち、例えば、百地章案九条の二の「自衛隊」は九条二項の「軍その他の戦力」であってはならない、いまの・現在の自衛隊(を種々に定めている)「法律」はその根幹部分がこの制約に違反しており、少なくとも自衛隊に集団的自衛権行使を認めている法律諸条項は違憲である、と
 前回に言及した、「左翼」・水島朝穂の憲法解釈の仕方は、スジとしては誤っていない。
 百地章は、設置が明記され合憲的なものとされる、と言うが、これは大ウソ。
 絶対に、違憲論が残り、有力に主張される。この点で現状と同じで、憲法解釈論を今よりも複雑にさせるだけだ。
 そして、万が一かりにこの加憲が成功したとしても、それは、<軍・戦力ではないものとしての自衛隊>をしばらくの間はずっと公認・公定することになる。これこそが、今次の百地章案であり、「日本会議」案だ
  また百地章は今回の立論の趣旨の一つは「自衛隊に栄誉を、そして自衛官に自信と誇りを与え、社会的地位を高めることだ」、という。
 気分が少しは分からなくはないが、これは欺瞞だ。
 なぜなら、「軍その他の戦力」である、正規の?国軍・国防軍・自衛軍・防衛軍ではない<自衛隊>の構成員としての「自信と誇りを与え」、というのは、一体何を百地章は主張したいのだろうか。<軍・戦力ではない自衛隊員としての自信・誇り>とは一体何のことだ。
 <自衛隊を明記を>というスローガンの真実は、<戦力でない自衛隊の明記を>、<戦力として認めないままで自衛隊の明記を>、ということだ。
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 これ以上の繰り返しを避ける。百地章等について記したことを、もう一度、そのまま以下に掲載する。
 8/2-「百地章にいう私案の冒頭で『自衛隊』という概念を使ったとたんに、現実にいまある『自衛隊』とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。/その別の概念・範疇と現実とを、…連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。/この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。//
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している」。
 8/9-「憲法上に『自衛隊』なるものの容認規定を作ったところで、そこでの『自衛隊』がいまの・現在の自衛隊を意味することになるわけでは全くない。
 ひどいことに、八木秀次や西修も、全く気づいていない。/
 法規範解釈論としては、「左翼」・水島朝穂の方がまだ鋭い。/
 百地章、八木秀次、西修、いずれも産経新聞、「日本会議」派の<憲法学者>のようだが、知的・学問的なレベルでは、九条二項存置・自衛隊明記論に限ると、伊藤哲夫・岡田邦宏・小坂実、そして櫻井よしこ・田久保忠衛らと変わらないようだ
 いや、知的学問としてではなく、<政治>優先の=安倍支持・産経支持の=文章を書いているのにすぎないのかもしれない。」


1698/「日本会議」・伊藤哲夫の稚拙と安倍内閣改造。

 これでまともな改憲提案か。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 体裁からして、計200頁ほど。
 三点しか、改正の提案はない(緊急時、九条、家族)。しかも、具体的な条文案を用意しているのでもない。
 その計200頁ほどのうち、総論的部分が30頁ほどあるので、平均すると、一つの改憲項目について、50-60頁ほどしか当てていない。しかも、そのうち過半は「鼎談」。
 読者を馬鹿にしているだろう。
 これでよく、「護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?」と表紙に書けるものだと思う。ほとんど発狂している。この人たちがいう「護憲派」は、この人たちの発言・文章よりも確実に1万倍以上、長年にわたって執拗に情報を発信してきている。
 これで本当に「それでも憲法改正に反対か?」と胸を張れると思っているのだろうか。ほとんど発狂している。
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 伊藤哲夫による、冒頭の総論・入門部分(といっても計17頁)を読んでみよう。明らかに、稚拙さあるいは誤りがある。
 伊藤は堂々と「憲法改正に関する基本認識と現状への視覚」と表題を掲げる。
 伊藤哲夫が指摘するのは、現日本国憲法には「国家」と「日本」が欠けている、ということ。これは、さすがに?、「日本会議」がその設立趣旨で謳っているのと同じで、かつ櫻井よしこが最近に現憲法・憲法改正にからめて言っていることとほとんど同じ
 もちろん、「国家」・「日本」の意味が問題になるが、先に進もう。
 第一。そのような欠陥の「淵源」を、アメリカの「占領政策」に求める。p.15。
 これは「日本会議」派によく見られる、<反米>ルサンチマン的心情の発露だ。
 <親米>外交政策を支持しつつ、この人たちには、<民族の栄光>を侵奪してしまった、侮辱したアメリカへの底知れぬ憤懣があるやに感じる。
 中川八洋がよくこの人たちを<民族系>と称するのは、根拠がないわけではない。
 ともあれ、しかし、①現日本国憲法の直接の「淵源」はアメリカでありマッカーサーだっとしても、現憲法の基礎にあるのは、天皇条項は別として、<リベラル・デモクラシー>という欧米的・近代的「国家・憲法」観であって、アメリカに限るのは、誤謬だ。
 アメリカ独立・連邦建設時の「国家・憲法」観とともにフランス革命時およびその前後以降の、<欧米思想>がはっきりと流れ込んでいる。三権分立(規範制定と執行の別、司法権の別置)、<自然権的「人権」>思想、等々。
 伊藤哲夫は、きちんと勉強したことがないのだろう。政策研究センター「代表」らしい程度には。
 現憲法の上の二つの欠落は「まさに占領政策に淵源する」。/「占領政策の影響をストレートに受けた」、「その帰結そのものがこの憲法になった」。p.15。
 上の認識、評価は誤りだ。
 また、②占領期のアメリカの対日政策は、1950年以前、すでに1947年頃には<変化>>している。九条の定めにしても、制定・公布時と比べて、国際・東アジアの安全保障・軍事環境はまるで変わっていた。だからこそ、<白色>パージから<レッド・パージ>へと公職追放対象は変わったし、日本政府も、憲法改正(とくに九条)をしないままで警察予備隊・保安隊を設立する方途へと進んだ。
 <アメリカの占領政策>と簡単に書き、「マッカーサー・ノート」を持ち出したりするのだけでは、決定的に時代認識が足りない。なぜその頃に憲法改正(とくに九条)しなかったのか、できなかったのかにも言及すべきだろう。
 幼稚、稚拙-伊藤哲夫。おそらくは、「日本会議」の幹部・活動家(櫻井よしこを含む)たちも。
 第二。伊藤哲夫は長々と欠陥住宅・耐震補強やゴルフの喩え話をする。p.18-22。
 せっかくの貴重な紙面を、退屈な話で埋めている。読者としてきっと、伊藤哲夫らと同等の読者を想定しているのだろう。
 しかし、こうした部分は、むしろ多くの読者を<馬鹿にする>ものだ。自分のレベルに合わせない方がよい。
 第三。いつぞや、<ただ、卑しい>と書いた。
 政治戦略的なテーマになるのだが、この人たち、伊藤哲夫らは、自分たちが<政治戦略>を考えていることを、明らかにしている。
 つまり<改憲に反対でない国会議員>が三分の二超を占めている、という国会の状況、そしておそらくは安倍晋三が首相である、というのを前提にしてだ。p.21-24。
 これを踏まえて、何とか<改憲>したい、または安倍晋三に<改憲>をさせたい。これこそが、この人たちの基本的パッション(熱情)だろう。
 このこと自体を批判しない。「左翼」・日本共産党のように<安倍による改憲反対>などとは思わない。
 しかし、問題なのは、卑屈になり、場合によっては日本共産党の<憲法解釈>に屈服してまで、つまりは合意が得られるようにハードルを下げて、<形式的でもいいから、改憲したい・させたい>という願望を実現しようとしていることだ。
 その結果として、九条二項存置のままでの三項・自衛隊明記論も出てきている。
 この案の行く末については、すでに書いた。
 結局のところは、<現実的に>これまでの「保守」の基本的考え・目標を投げ捨てることにつながっている。
 小林よしのりが自衛隊=非「軍・戦力」視を固定する「左翼」・「極左」の改憲案・考え方だと評したのも、ある程度は的を射ている。
 興味深いと思うのは、伊藤哲夫らは政治家でも国会議員でもないのに<政治戦略>を弄していることだ。
 この人たちは、いったい何者なのだろう。<策略家>か、<陰謀家>か。
 <保守>論者ならばそれらしく、スジを通すべきではなかったのか。
 しかもまた、その案は<現実的>でも何でもない。
 理想を70-80点だとすると、<現実的に>20-30点を獲得しよう、という案にも、実際にはなっていない。
 繰り返さないが、案への賛成・反対を論じる以前に、この案は実際には成文化できないだろう。現実の案にはならない、きっとつぶれるものだった、と思われる。
 伊藤哲夫や「日本会議」に対して冷たすぎるかもしれないが、秋月瑛二にもいろいろな経緯がある。
 もう少し別に触れよう。
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 二項存置・自衛隊明記案は、すでに政治的には消滅した可能性もないではない。
 8月の安倍首相による<内閣改造>は「お友だち内閣」という名の、実際には、正確には、「日本会議とつながった」内閣では危ないと安倍晋三が判断しての、「日本会議」隠し内閣改造だった(まだ少しは残っている)。
 2012年末の安倍晋三内閣誕生は、「日本会議」・産経新聞だけが生み出したのではなかった。
 しかし、安倍晋三内閣は、「日本会議」・産経新聞が崩壊させる可能性・危険性がある。
 そのように、政治的感覚が(樺島有三、伊藤哲夫、櫻井よしこらよりは)鋭い安倍晋三が判断した、という可能性があるだろう。
 2015年安倍内閣戦後70年談話を、産経新聞や「日本会議」がかりに批判していても、安倍内閣は倒れなかっただろう。朝日新聞らが基本的には反対できない「歴史観」を述べたからだ。
 しかし、一方で、産経新聞と「日本会議」派だけでは、安倍晋三内閣を支えることはできない
 安倍晋三は、ひょっとすればこの重要なことに、ようやく気づいたのかもしれない。

1691/自衛隊を憲法に明記しよう!との大ウソ-「日本会議」派・櫻井よしこらの会。

 自衛隊を、戦力とは認めないで憲法に明記しよう!
 戦力ではない自衛隊を憲法に明記しよう!
 ならば、まだよい。
 しかし、「自衛隊を憲法に明記しよう!」とだけのスローガンは、いわば不当表示の、大ウソだ。
 重要なポイントを、わざと、意識的に隠している。
 本質的な部分を、隠蔽している。
 同じような不当表示を、「戦争法」等々、日本共産党や「左翼」はさんざんやってきたし、やっている。
 <美しい日本の憲法をつくる国民の会>(事務局長・椛島有三)がノボリや看板に書いている上のスローガンも、かなり似ている。
 「日本会議」、<美しい日本の憲法をつくる国民の会>、そして代表の一人・櫻井よしこは、こうしたことを平然とするのだと思われる。
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 上のノボリ、車上看板の証拠は、8月1日朝の産経新聞のネット上のニュースに添付されている写真。
 これだけ熱心に報道するのは、産経新聞しかないだろう。文字の部分に限られるが、以下、抜粋。
 「憲法改正の意義を広める国民運動組織『美しい日本の憲法をつくる国民の会』(共同代表・櫻井よしこ氏ら)の全国縦断キャラバン隊が31日、高崎市などを訪れた」。「この日は、JR高崎駅東口で約1時間にわたり街頭宣伝やチラシ配布を行った」。
 「キャラバン隊は、『平和と安全を守ってくれているのは自衛隊でも、1文字も書かれていない。憲法に明記し、自衛隊がしっかり任務を果たせるよう感謝のメッセージを伝えましょう』と訴えた」。
 「駅前を通りかかった…女性は『明記されていないのはおかしい。…北朝鮮からミサイルは飛んでくるし、日本はやられてしまうのでは…。みんなに(改憲の必要性を)広めたい』と話した」。
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 上のスローガンは、サギの一種だろう。長くは書けないとか、難しいことを言っても理解してもらえないと釈明するつもりか。
 安倍晋三案の趣旨をそのまま書けば、<自衛隊を、戦力とは認めないで憲法に明記しよう!>、または<戦力ではない(ままで)自衛隊を憲法に明記しよう!>になるはずだ。
 平然と、正確でないプロパガンダを行う、「日本会議」、<憲法をつくる国民の会>、櫻井よしこ、…。

1688/策略の失敗-「日本会議」派二項存置・自衛隊明記論⑦。

 高村正彦・自民党副総裁(留任)挨拶・8/3-「先ほど役員会で総裁に『総裁の5月3日の憲法発言は憲法論議を党内外で活性化させるのに大変良かったけれども、これからは党にお任せいただいて、内閣としては経済第一でやっていただきたい』とお願いしてきたところであります」。
 おそらく間違いなく、九条二項存置・自衛隊明記論は消えるだろう。
 条文化の検討に入ったとたんに、いや検討に入らなくとも、少しばかりは想定しかけたとたんに、「その文章化はほとんど困難であるか、またはかりに作っても無意味であるために、必ず、つぶれる」。
 「自民党の案として、おそらく間違いなく、まとまることはない。/したがってまた、こんな改憲案が国民に示されることはない。」-以上、「 」内は既述。
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 党総裁が突如として、現在の自民党改憲案と異なる、九条二項存置・自衛隊明記との憲法改正案を5/3に述べたのは奇妙ではあった。
 それを、自民党の会議や集会ではなく、「日本会議」系憲法改正集会へのビデオレターーで明らかにしたのは極めて異様だった。これは、一紙・読売新聞のインタビュー答えたよりも、異様だった。
 高村正彦は、月刊正論(産経)9月号に写真つきで登場して上の案肯定を述べてしまって、恥ずかしく思っているのではないか。
 遅れて読んだが、三浦瑠璃のつぎのわずか二文は、ことの本質・深層をすでに見抜いている。三浦瑠璃ブログ・5/4。
 「仮に、総理が提起するように、9条1項2項をそのままに、自衛隊を明記したとしてもこの問題は解決しません。『戦力』ではないところの『自衛隊』とはいったい何なのかという、頓珍漢な議論が温存されてしまうでしょう。」 
 二項存置のままで<自衛隊の存在を憲法に明記>しても「問題は解決し」ないのであり、「戦力」でないまままの「自衛隊」について「頓珍漢な議論が温存」するだろう。
 これは正当な指摘だ。①<自衛隊の存在を憲法に明記>するのは実質的にほぼ不可能だし、②従前よりも奇妙で複雑でかつ「頓珍漢な議論」を憲法解釈論に持ち込むことになるだろう。
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 もう関心もなくなったし、実際的意味もなくなっただろうが、伊藤哲夫ら「日本会議」派の頭の中を覗いてみる意味はまだあるだろう。
 また、産経新聞によるとさっそく、櫻井よしこと「日本会議」代表の田久保忠衛が共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」の<憲法に自衛隊を明記を>と掲げたキャラバン隊がどこやらの都市を走っているらしいのだが、できもしないことを主張して動く、若い?運動員たち、「日本会議」や櫻井よしこらに<そそのかされている>人々の可哀想さに思いを馳せて、気の毒だという想いを書きつづってもよいだろう。
 可哀想なのは、月刊正論、そして月刊正論編集部、編集代表・菅原慎太郎も同じ
 「仕事」として、「日本会議」尊重・安倍晋三追随の会社と雑誌の基本方針に反するわけにはいかない。
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 「自衛隊の存在を」というとき、おそらく提案者は、無意識にでもすでに、現行法制とそれにもとづく組織・人員および活動-広義での<現実>-の理解・認識を行っている。
 「憲法上に明記を」というのは、新しい憲法規範の設定作用で、<現実>の理解・認識とは別の次元での精神的行為だ。それがあってのちに、<憲法解釈>および<現実化>が始まる。
 この二つを平板に並べる、あるいは結合して叙述する文は、その文自体に陥穽・ワナ、がある。
 「自衛隊の存在を憲法に明記」という文は、異質な精神的行為を混在させていることに気づかなければならない。
 条文化の時点で隘路にはまり、現に一部そうなっているように、「頓珍漢な議論」が続出することになるだろう。

1683/百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論⑤。

 百地章が、7/30に時事通信社に対して、こう語ったとされる。時事ドットコムニュース/政治による。
 百地章は、九条二項存置・自衛隊明記の安倍晋三案を「積極的に評価する」と明言したのち、こう言う。
 ①/「私案だが『9条の2』を設け、『前条の下に(=9条の下に)、わが国の平和と独立を守り国際平和活動に寄与するため、自衛隊を保持する』との文言を加えてはどうか。自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だ。
 ②/「自衛隊明記は9条に矛盾するという人もいるが、現在の自衛隊は9条の下で存在している。単に憲法に明記するだけでどうして矛盾するのか、論理的にあり得ない。」
 ②/は説明不足かもしれないが、結論的には、よい。
 しかし、①/の「私案」はおかしい。
 この人は憲法学者・法学者のはずだが、分かっていない。
 すなわち、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提だ」というが、この大前提は、いかにして憲法上あるいは憲法解釈上、担保される、あるいは保障されるのか。
 憲法学者なら、答えていただきたい。
 「(現在の)自衛隊の権限を一切変更しない(ものとする)」、という文章を条文化するのか??
 根本的に、つぎの問題がある。
 第一。「一切変更しない」、「自衛隊の権限」とはそもそも何か。現在時点での現行法令上の「権限」と同じ権限を意味するなら、それをこと細かく憲法上にも規定しないと憲法上の権限にはならない。そして、それは不可能。
 第二。このように固定してしまうと、<現状>からの多少の変更も、憲法上禁止されてしまうことになる。 こんな現状固定が許されるはずがない。「権限」にも大から小まであるので、法律で追加・修正する必要が生じうる。
 こんな「私案」が、のうのうと語られてはならない。
 こんな「私案」で、条文化できるはずはない。
 百地章にいう私案の冒頭で「自衛隊」という概念を使ったとたんに、現実にいまある「自衛隊」とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。
 その別の概念・範疇と現実とを、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だとして連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。
 この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している。
 より詳しくは、この欄に最近に書いたことを参照していただきたい。

1682/九条二項存置・自衛隊明記論④-伊藤哲夫・小坂実のバカさと危険。

 小坂実は、以下の著で、こう言う。
 「せめて世界標準の個別的自衛権が行使できるよう、憲法に自衛隊を明記しましょうよと。本気で個別的自衛権で反撃できるというなら、是非とも自衛隊の『加憲』に同調すべきだと」。p.131。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 これは、恐ろしい主張だ。
 つまり伊藤・岡田とともに小坂が二項存置・自衛隊憲法明記案を主張する際の「自衛隊」とは、集団的自衛権を行使しうるのではなくても、個別的自衛権を行使できるだけのものでもよい、そこまでは一致できるはずだから、「加憲」に賛成しようよ、と言っているのだ。
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 九条二項存置のままで個別的自衛権とか集団的自衛権の区別に関係する<明文>を定めることは相当に困難だ。
 とすると、何という概念を小坂は使うつもりなのかは知らないが、新三項によって明記される「自衛隊」なるものは、個別的自衛権の行使に限られる(集団的自衛権の行使は認められない)組織・機構だと<憲法解釈>されてよい、と小坂は明示的に主張していることになる。
 少なくとも法律レベルで実質的に明記し、憲法にも違反しないと(国会、内閣>内閣法制局によって)解されている集団的自衛権の行使を、小坂実は、新九条三項「加憲」によって、憲法解釈上、個別的自衛権の行使に限定してよい、というのだ。
 ひどい後退、劣化だ。こんなことを言う「センター研究部長」の気が知れない。
 よほど<自衛隊の明記>にこだわっている。
 しかし何と、明記を拘泥する<自衛隊>は、個別的自衛権しか行使できないと憲法解釈されてよい、というのだ。
 この人、小坂実は、「左翼」であり、日本共産党同調者だろう。九条二項削除をよほど怖れて、先ずは三項「加憲」でごまかそうとしているのかもしれない。
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 何度でも、つぎのことを、書いておく。
 「法解釈にのみ依存する自衛隊の存在」。p.94の見出し。
 これは、結論誘導的で、欺瞞的な表現の仕方だ。
 この人たちの、「明記」と「法解釈」を大きな断絶があるものとして<どしろうと>として理解している、幼稚な知識と発想にもとづいている。
 <憲法解釈にもとづく(依存する)>というのは、<憲法にもとづく>とほとんど同じ意味だ。
 この人たちの論じ方を使っていうと、<憲法にもとづく>には二種ある。
 <憲法上の、だれも疑い得ないほどに明確な言葉で成る規定にもとづく>と<憲法解釈にもとづく>。
 憲法「解釈」であっても、それが安定していて、堅固であれば、ほとんど何の問題もない。
 自衛隊員たちの士気にかかわるとかの議論をする、訳の分からない者たちがいるようだ。
 そういう人たちは「憲法解釈」論をかぶった日本共産党の政治闘争にすでにある程度は屈服している。
 「自衛隊」という直接の言葉はなくとも、現憲法が国家に固有の自衛権行使を容認しているかぎり、現在の自衛隊は憲法にもとづくものであり、かつまた1954年以降60年以上にわたって、国民を代表する国の国会が、つまりは全国民の代表者たちが、合憲的なものとして、その崇高な任務を自衛隊に、そして自衛隊の隊員たちに与えたのだ。
 そのことが申し訳ないというなら、九条二項を削除して、本格的に安全保障・軍事関係規定を設ければよい。
 そうしないでおいて、またそう主張しないでおいて、二項存置のまま形だけ「明記」しようとするのは、日本共産党や「左翼」の政治的主張に屈服している。
 日本にまともな「保守」が希薄化していることの証拠だ。
 中でも、小坂実の上の主張は、ひどい。
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 ところで、10年ほど前、秋月瑛二は日本政策センターなるものの薄い月刊誌的なものを、1年間だけ購読したことがある。雑誌名をすぐに思いだせない。
 1年で止めてしまった契機になったのは、2000年頃に廃止された「機関委任事務」なるものについての知識・理解がその後かなり経っていたが不十分で怪しいままの論文的なものを読んだからだった。
 その著者名を、思い出した。小坂実、だった。
 地方行政、または国と地方の関係を問題にしながら、その論考らしきものは、「機関委任事務」という(国・地方の)行政公務員であれば基本的には了解しているはずの基本的タームの意味を、理解できていなかった。
 これでよくぞ、地方行政あるいは国と地方の関係について語れるものだと、呆れてしまったのだ。
 「機関委任事務」。その当時にすでに(制度としては)廃止されていたから(しかし、何らかのかたちで継続している事務の方が多い)、説明は省く。
 ともあれ、こんな基本概念(だったもの)を知らずして日本の「政策」を「研究」している団体だと分かって、一年かぎりでおサラバしたのだった。
 代表・所長・研究部長、専従の「研究」者は、この三人だけなのだろうか
 さらについでに書くと、小坂実、1958~、東京大学法学部卒。唯一の「法学部」出身者だ。卒業するだけはほとんど誰でもできるので、卒業できるでけの勉強はしたらしい。
 また、これでよく、「株式会社」として経営していけているものだと、感心し、不思議に思いもする。

1681/九条二項存置・自衛隊明記論-伊藤哲夫・産経新聞の愚③。

 つぎの二人は、他にもいるだろうが、現時点で憲法現九条二項削除の憲法改正を主張しない。そして、言う。
 岡田邦宏「いずれにしても、自衛隊の存在を憲法に明記することが肝要」だ。p.107。
 伊藤哲夫「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ。」
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 すこぶる疑問なのは、ここでほいほいと出てくる「自衛隊」とは何のことか?、だ。
 きっと二人は、こう問われても、意味が理解できないのだろう。 
 ---
 自衛隊法(昭和29年法律第165号、最終改正・平成28年5月)という法律がある。防衛省設置法が「自衛隊」に言及し、これについては「別に法律」が定めるとする、その別の法律にあたる。
 自衛隊法3条は、つぎのように「自衛隊の任務」を定める。
 第3条「1項/自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
 2項/自衛隊は、前項に規定するもののほか、同項の主たる任務の遂行に支障を生じない限度において、かつ、武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において、次に掲げる活動であつて、別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるものを行うことを任務とする。
 一 我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動
 二 国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動
 3項/陸上自衛隊は主として陸において、海上自衛隊は主として海において、航空自衛隊は主として空においてそれぞれ行動することを任務とする。」
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 これらの定め(明文規定)から、<どしろうと>には分からないかもしれないが、素人でも、現在の「自衛隊」の「任務」について、つぎのことが理解できる。
 第一、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」こと(第一項)。
 ここで「我が国を防衛すること」が「主」とされ、そうではないものとして、「必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ことが記されていることも分かる。いわば、第一種と第二種だ。
 第二、上のほか、「主たる任務の遂行」に支障がない限度でかつ「武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲」で、かつまた、「別に法律」が自衛隊が実施すべきとするかぎりで、つぎのものも、自衛隊の「任務」でありうることも分かる(第二項)。そのまま記す。
 ①「我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動」
 ②「国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」
 そうすると、上のことから任務は三種に分けうることもわかり、最後の第三種には、上の①と②がありうることも分かる。
 これだけでは第三種の中身は分からない。「別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるもの」を確定しなければならないからだ。
 しろうとでも容易にわかるものもあれば、かなり複雑な法制になっている部分もある。
 いわゆる<有事法制>は、仮の呼称だが、<第一種>だろう。
 この機会にいくつか記しておけば、以下。
 武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年=2003年法律第79号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(平成16年法律第112号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律(平成16年114法律第114号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 他にも、いくつかの<有事>関連法律があるが、省略。
 <第三種>の1にかかる「別の法律」とみられるのは、以下。
 重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(平成11年法律第60号、最終改正・平成27年=2015年法律第76号)
 重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律(平成12年法律第145号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 <第三種>の2にかかる「別の法律」とみられる7のは、以下。
 国際緊急援助隊の派遣に関する法律(昭和62年法律第93号、最終改正・平成18年法律第118号)。 
 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成4年法律第79号、最終改正・平成27年法律第76号)。
 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(平成27年=2015年法律第77号)。
 正確さを全面的には主張しない。しかし、少なくとも、「任務」の面をとっても自衛隊のそれは多様だと分かる。
 上では、「公共の秩序の維持」、つまり<警察>的活動を「必要に応じ」てすべきものとする、その他の個別の<警察>的活動、自然災害発生時の応急行動など、の関係諸法律の名称を挙げてはいない。
 上で試みたのは、自衛隊法上の「任務」規定からする分類だが、自衛隊発足以降徐々に増加してきた<任務の変遷の歴史>という観点からの<任務の分類>も考えられるだろう。
 また以上は活動・任務の観点から「自衛隊」を捉えようとするものだが、<組織・定員等>の観点、あるいは国家組織全体から見ての「自衛隊」の位置づけという観点、から自衛隊を理解しようとすることもできる。
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 なぜ、以上のようなことを書いたのか。
 現在の自衛隊が行っているのは、日本の防衛(自衛)活動だけではない。
 国内的にも、国際的にもそうだ。
 また、防衛・自衛といっても、個別的自衛権の行使と「集団的」自衛権行使に関するものに、大きくは分けられる。
 さて、そもそも、伊藤哲夫、岡田邦宏らがほいほいと「自衛隊」というとき、<任務>だけからしても多様なのだが、いったいどのような任務・活動を行うものを想定して語っているのか。これを問題にしたいから、上のように自衛隊法(法律)の定めに立ち入った。
 まさかとは思うが、観念的に・抽象的に「自衛隊」という観念・範疇だけが一人で(頭の中で)歩いているのではないだろう。
 どこからどこまでの自衛隊の任務・活動を想定して(二項存置前提の)<自衛隊>明記・三項追加が語られているのか、いくら読んでも、さっぱり分からない。
 現憲法九条は現憲法の<第二章・戦争の放棄>の唯一の条だが、自然災害時の現実の自衛隊の活動は<戦争の放棄>と、論理的にいかなる関係があるのか?
 これも説明しないで、あるいし説明し切れないで、簡単に「自衛隊」という言葉・概念を使ってよいのだろうか。
 さらには、<自衛隊の存在を憲法上明記>などと主張して、自衛隊にかかわる憲法改正論を説く資格があるのだろうか?
 <もう一度出直せ>、とすでに書いたのは、このようなことも理由としている。
 「自衛隊」という語の<観念化>のひどい者たち、自衛隊なるものの現実・実際に降りていくという姿勢が乏しい者たち、こんな者たちが平然と平和と安全保障にかかわる憲法論を説くのを、許してはいけない。
 前回に書いたのだが、概念・規範等と現実、法の憲法と法律以下の少なくとも二層制等の理解・認識について、この人たちには、どこかに大きな過ちがある。
 産経新聞社自体にも(そして、月刊正論・編集代表の菅原慎太郎にも)、きっとあるのだろう。

1680/九条二項存置・自衛隊明記論-伊藤哲夫・産経新聞の愚②。

 九条二項を存置したままでの九条三項の追加による、または九条一・二項をそのままにしたうえでの九条の二の新設による<自衛隊の明記>という案は、<成り立つ>と思った。
 それは、2015年に平和安全法制を改正・成立させるに際してその当時の国会が採った憲法および九条関連「解釈」、つまりは、新「武力行使三要件」で限定された意味での集団的自衛権の行使が憲法上認められるということを前提とする「解釈」のエッセンスを書き込んで憲法に明記することはありうる、つまりいったん憲法解釈として採用されたものを憲法上に明記して確認する、ということはありうる、そういう議論も<成り立つ>と考えたからだ。
 むろん、この<エッセンス>をどう文章化するかという、という問題が残ることは意識した。
 棟居快行が読売新聞上で示した「試案」は簡単すぎるだろうと、感じてもいた。
 しかし、この案が単純に「自衛隊明記」案だとか称されていることや、その主張者たちの文章を読んでいて、すでに結論は出てしまった。
 ---
 たしかに、九条三項(または九条の二)に<二項と矛盾しない自衛隊関係条項>を作るという案は、考え方または案としては成り立つ。しかし、その文章化はほとんど困難であるか、またはかりに作っても無意味であるために、必ず、つぶれる。自民党の案として、おそらく間違いなく、まとまることはない。
 したがってまた、こんな改憲案が国民に示されることはない。
 三項加憲案を支持するか、支持しないかの問題ではない。それ以前の基本的問題として、文章化・条文化が実質的に不可能だと思われる。
 支持とりつけ→条文化、ではない。そもそも、「条文化」を試みて、それを支持してほしいと訴えるべきで、上のような<軍・戦力ではないものとしての自衛隊の憲法上の明記>を支持するか、しないかの議論を先行させてはいけない。
 <軍・戦力ではないものとしての自衛隊の憲法上の明記>なるものは、実質的に不可能だ。
 したがって、この案は、必ず、つぶれる。おそらく間違いなく、自民党の案にならない。
  ---
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 前回に書いた。「明記」、「解釈」、「認める」、といった概念・言葉で何を意味させているのか。このような言葉、概念の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>。
 方法的、概念的、論理的な疑問は、前回に書いたこと以外にもある。
 ①「自衛隊について憲法に何も定めがないというのは異常です」。 p.99。
 陥穽への第一歩がここにもある。
 「自衛隊について」が何を意味するかが、そもそも問題なのだが、これは別に書く。
 「憲法に何も定めがない」とはいかなる意味か?
 「定め」が明示的な(ausdrueklich)な規定という意味であればそのとおりで、その意味では<明記>されていない、とも言い得る。
 しかし、だからといって、現在の自衛隊が憲法外の、あるいは超憲法上の存在であるわけでは全くない。現在の憲法秩序、現憲法が<認める>、あるいは<許容>しているものとして現在の自衛隊は存在している。
 そうでなければ、自衛隊法等々も、2015年平和安全諸法制も法規範として存在していない。
 つぎの②に対するコメントの一部と同じことだが、現在の自衛隊は現憲法が<認める>、あるいは<許容>しているものであり、その意味で<憲法に根拠づけ>られている。
 繰り返すが、憲法外の、あるいは超憲法上の存在であるわけでは全くない。
 憲法学者の90%以上が集団的自衛権行使容認の平和安全法制を違憲だとしたとか、憲法学者の60%以上が自衛隊を違憲だと言っている、ということを重視する向きがある。
 秘境・魔境に生息する者たちを重視しすぎてはいけない。
 上のことを気にするのは、憲法学界・憲法学者の中に食い込んでいる、日本共産党および同党員学者の「憲法解釈」論上での<政治的な闘争>に屈服していることを、ある程度は示している。
 そもそもの伊藤哲夫・岡田邦宏らの発想は、この対日本共産党屈服、だろう。
 正面から闘わないで、脇道を通って、<形だけの>勝利を目指そうとしているかに見える。
 そして、その<脇道>は、実際にはほとんど塞がれていることは、前回も、今回も、述べているところだ。
 ②「自衛隊が憲法に明記されず、九条二項に反しないような解釈にのみ根拠づけられていることに問題の根源がある」。p.101。
 大きな陥穽に落ち込みそうな叙述だ。
 つまり、「明記」と「(憲法)解釈」をそれぞれどのような意味で、従ってどのように区別して、用いているのか。
 結論だけ、まず示そう。
 第一に、つぎの三項追加案で、<自衛隊を明記>したことになるのか?。
 「第三項/自衛隊は、存在する。」、「第三項/自衛隊を、設立する。」、「第三項/自衛隊を、認める。」
 たしかに「自衛隊」を「明記」しているが、これでは無意味だろう。
 この無意味さを分からなければ、議論に関与するな、と言いたい。
 なぜか。三項で新たな憲法上の概念として出てくる「自衛隊」が、現在ある自衛隊を意味しているとする、根拠は何も、少しも、全くないのだ。
 現在の法律や<経験上の>知識を前提にしてはいけない。
 (かりにそうだとしても、自然災害対処や国際平和協力など「自衛」概念に通常は入らないものも現「自衛隊」はしていること等に、別に触れる)。
 そもそも、憲法上の「自衛隊」という語の<解釈>がやはり必要なのだ。
 第二に、「自衛隊」という語を使わないで、どう成文化するか。
 できるかもしれないが、しかしその場合、*二項存置が絶対の前提なので*、二項の「軍・戦力」ではないものとして三項で<明記>するものを表現しなければならない。
 その場合に、二項の「軍・戦力」ではない自衛権行使組織を定めようとすれば、当然ながら、二項の「軍・戦力」や<自衛権>についての<憲法解釈>を前提にせざるを得ない。
 結論だけ、が長くなったが、つまり、こうして追加される三項もまた、<憲法解釈>を必然的に要求するのであり、<明記されずに憲法解釈にのみ根拠づけ>られる状態は、何ら変わりない
 第三。決定的な反論または岡田邦宏批判。
 「憲法解釈にのみ根拠づけ」られていても、「憲法に根拠づけ」られていることに変わりはない。
 「どしろうと」にとって、「明記」と「法解釈」の間の溝・区別はきわめて大きいのだろう。
 しかし、「明記」というのは、言葉・概念それ自体の常識的・社会通念的・通常日本語上の意味が確定している場合に使いうる言葉であって、憲法上の概念とは、そんなものばかりではない。
 ---
 だからこそ、憲法はしばしば「法律の定めるところにより」と書いて明確化・具体化を法律に任せているのだ。
 伊藤哲夫や岡田邦宏や小坂実は、「内閣」は憲法上に明記されていると思っているだろう。その通りであり、かつその構成にも言及があり、「内閣」の仕事も憲法上に列挙されている。
 しかし、そのような憲法上に「明記」された「内閣」の姿だけで、現実の「内閣」を理解できるのか? あるいは「知った」と言えるのか?
 この問いの意味が理解できなければ、国家「政策」や憲法論に関与する資格はない、と思われる。
 憲法にかりに<明記>される自衛隊(「自衛組織」等々)と現実の自衛隊が「全く同じ意味・範囲」であるはずはない。
 <二項存置+自衛隊憲法明記>論者は、どこかで、言葉・概念・規範と現実、法規範の憲法と法律以下の最少でも二層の区別、に関するとんでもない過ちを冒している、と考える。
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