秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

R・パイプス

2607/R・パイプス1994年著結章<省察>第八節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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 第八節・共産主義の失敗の不可避性。
 (01) それ自体がもった願望から判断すると、共産主義は記念碑的(monumental)な失敗だった。共産主義は、ただ一つのことだけに、成功した。—権力にとどまること。
 しかし、ボルシェヴィキにとっては権力はそれ自体が目標ではなくその目的のための手段だったのだから、たんなる権力保持だけでは、実験は成功したと評価することはできない。
 ボルシェヴィキは、その目的を何ら秘密にしていなかった。すなわち、私的財産を基礎にする全ての体制を打倒し、それらを世界的な社会主義社会の同盟で置き換えること。
 ボルシェヴィキは、第一次大戦の終わりまでに拡張していたロシア帝国の国境の内部でのみ成功した。第一次大戦終焉のとき、赤軍はドイツの降伏によって生まれた東ヨーロッパの真空に踏み込んだ。中国共産党は日本から自分たちの国の支配を奪った。そして、モスクワの助力を受けた共産主義独裁制が、新しく解放された地域に設立された。//
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 (02) 共産主義を輸出することが不可能だといったん判ると、ボルシェヴィキは1920年代に、自国での社会主義社会の建設に取り組んだ。
 この尽力も、失敗した。
 レーニンは、強制的没収とテロルを結合させることで、自国を数ヶ月のうちに世界の指導的な経済大国に変えるのを期待した。実際には反対に、彼が継承した経済を破滅させた。
 レーニンは、共産党がnation に対する紀律ある指導力を持つことを期待した。実際には反対に、国全体で弾圧した政治的不満や、自分の党内部の変化に遭遇した。
 労働者たちが共産主義者に背を向け、農民たちが反乱を起こしたとき、権力にとどまるには、断固として警察的手段に訴えることが必要だった。
 膨らんで腐敗した官僚機構は、体制の行動の自由を妨げた。
 諸民族の自発的な同盟は、抑圧的な帝国に変わった。
 最後の二年間のレーニンの演説と文章が明らかにしているのは、建設的な思想の衝撃的な少なさと経済に関する無能力さだ。テロルでさえも、古い国に染み込んだ習慣を克服するには役に立たないことが判った。
 ムッソリーニは、初期の経歴がレーニンのそれにきわめて似ており、ファシスト独裁者としてであれ共産主義体制を共感をもって観察していた。その彼は1920年7月にすでに、ボルシェヴィズムという「巨大で、恐ろしい実験」は失敗した、と結論づけた。
 「レーニンは、他の芸術家が大理石や金属の上で仕事をするように、人間の上で仕事をした芸術家だった。
 しかし、人間は花崗岩よりも硬く、鉄ほどには可塑的でない。
 傑作は生まれなかった。
 芸術家は、失敗した。
 その仕事は彼の力量を超えることが判明した。」(注22)/
 70年と数千万人の犠牲者のあとで、レーニンとスターリンのロシアの長としての継承者であるBoris Yeltsin は、アメリカの連邦議会に対して、多くのことを承認した。
 「世界は、安心して嘆息することができる。
 至るところに社会的衝突、敵愾心、人間性に注入する無比の残忍さを蔓延させた共産主義という偶像は、崩壊した。
 崩壊した。二度と生まれることはない。」(注23)//
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 (03) 失敗は不可避だった。失敗は、共産主義体制の前提そのものの中に組み込まれていた。
 ボルシェヴィズムは、歴史上最も無謀な、国の生活全体を総合計画に従属させ、全ての人間と全ての事物を合理化しょうとする企てだった。
 ボルシェヴィズムは、人類が数世紀にわたって蓄積してきた智恵を、無用のごみくずのごとく捨て去った。
 その意味で、科学を人間の諸問題に適用しようとする、独特な作業だった。
 それは、知識人層という種族に特徴的な熱情をもって追求された。知識人たちは、自分たちの理想に抵抗があることはその理想が健全であることの証拠だと考えた。
 共産主義は、啓蒙主義の誤った教理から出発したがゆえに、失敗した。これは思想の歴史でおそらく最も有害な、人間はたんなる物質的合成物で、精神や生得の思想を欠いている、という考え方だ。人間は、無限に鍛造可能な社会環境の産物のごときものだ、と見なす。
 この教理によって、個人的忿懣をもつ人々が社会にそれを向けること、自分たちではなく社会に解消させようとすること、が可能になった。
 経験が何度も確認してきたように、人間は生命のない物体ではなく、自らの願望と意思をもつ生物だ。—機械的存在ではなく、生物的存在だ。
 かりに最も凄まじい調教を受けたとしても、人間は、学ぶよう強制された教訓を自分の子どもたちに伝えることができない。子どもたちは絶えず新しくこの世に生まれてきて、最終的に解決されたと考えられている疑問を投げかけるのだ。
 この常識的な真実を例証するために、数千万人の死者、生き残った人々の甚大な苦しみ、そして一つの大国の破滅が必要だった。//
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 (04) このような欠陥のある体制が、どのようにして長く権力を維持し続けることに成功したのか。この疑問に、我々が何を思いつこうとも、体制の人々自身が支持したからだ、という答えで対処することはできない。
 市民からの明示的な委託にもとづかない政府の耐久性をその言うところの人気(popularity)で説明する者はみな、同じ弁明をその他の全ての、ツァーリズムを含む権威主義的体制にも行なわなければならない—ロシアのそれは70年ではなく7世紀も生き残った。そして、どうやらとても人気があったツァーリズムがどのようにして、数日のうちに崩壊したのか、を説明するという、面白くない仕事にさらに直面しなければならない。//
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 後注
 (22) Benito Mussolini, Opera Omnia, XV (1954), p.93.
 (23) NYT, 1992.6.18, p. A18.
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 第八節、終わり。つづく。

2527/R・パイプスの自伝(2003年)⑱。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の最後。
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 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う②。
 (06) このうんざりする主題について、コメントを二つ追加しよう。
 第一に、全体主義体制のもとで生きなかった人々は、それがいかに強く人々を捉えるか、最も正常な人々をすら、強くて明瞭な憎悪を掻き立てて怪物的な犯罪に手を染めさせるかを、想像することができない。
 Orwell は〈1984年〉で、この現象を正確に叙述した。
 この情感に囚われているあいだは、ふつうの人間の反応は抑圧されている。この体制が瓦解するや否や、その気分は冷める。
 この実証例によって、決して政治をイデオロギーに従属させてはならない、と私は確信した。あるイデオロギーが道徳的に健全な場合であっても、それを実現するには通常は暴力に訴える必要がある。社会全体がそのイデオロギーを共有することはないからだ。//
 (07) 第二に、ドイツ人について若干のこと。
 ドイツ民族は伝統的には、血に飢えているとは見なされていなかった。ドイツは、科学者、詩人、そして音楽家の国だった。
 だがしかし、大量虐殺の際立った達人たちであることが判った。
 1982年5月に、ワシントンで初めて会っていたフランクフルト市長のWalter Wallman を、彼の招きで、訪問した。
 我々は彼の家で私的な食事を摂り、ときには英語で、ときにはドイツ語で、さまざまな話題について会話をした。
 彼は、ある一点について、私に尋ねた。「ナツィズムはドイツ以外のどこかで発生し得たと思うか?」
 一瞬考えたあとで、私は、そう思わない、と答えた。
 彼は、「ああ神よ!」と言って、掌の中に顔を埋めた。
 私はすぐに、この上品な人物に苦痛を与えたのを悔やんだ。しかし、別の答えはあり得ない、と感じていた。//
 (08) ドイツ人に関して私がいつも感じている性格は、こうだ。生命のない物体や動物を扱うのは本当に秀逸だけれども、人間を扱う能力に欠けている。人間をたんなる物体としてしか扱わない傾向がある。(脚注1)
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 (脚注1) 読者の中には、ここでのドイツ人であれ、のちのロシア人についてであれ、こうした民族についての一般化に反対する人がいるだろう。そうであっても、私は遺伝子的特性ではなく文化的特徴について言っているのだ、ということに留意すべきだ。
 示唆しているのは教育であって、「人種」(race)とは何ら関係がない。
 かくて私の観察では、同じ文化の中で育ったドイツ・ユダヤ人は、彼らの言うポーランド・ユダヤ人よりもアーリア同胞人に似ていた。
 ついで、あるnation の構成員は一定の態様で行動する傾向があると言っても、これはむろん、全員がそうだ、ということを意味しない。〈大概は〉(grosso modo)の叙述的記述であり、総じて(by and large)間違いでななく本当だ、という記述だ。
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 ドイツ軍兵士が1939年に占領したポーランドから家に送り、のちに出版された手紙の中で、強調していたのはポーランド人とユダヤ人の「不潔さ」(dirtiness)だった、というのは重要だ。
 彼らの文化には関心を抱かず、衛生状態にだけ関心をもったのだ。(脚注2)
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 (脚注2) ポーランドの小説家、Andrzei Szezypiorski は、この気質をこう説明する。「ユダヤ人はしらみだ。しらみは絶滅しなければならない。このような考えはドイツ兵の想像力に訴えた。ドイツ人は清潔で、衛生と秩序を好んだからだ」。〈Noe, Dzien i Noe〉(1995)、p.242.
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 彼らは不潔な調度品にそうしたように、不潔な人間や家族世帯にうろたえたのだ。 
 彼らはまた、ユーモアのセンスをほとんど持っていない(Mark Twain はドイツのユーモアについて、「笑えるものでない」と言った)。(脚注3)
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 (脚注3) だが、助けが進行している。2001年の末に、イギリスの新聞は、オーストリアのアルプス保養地のMieming はユーモアを教えるドイツ人用の特別課程を始めた、と伝えた。それには「笑いの訓練」も含まれている。〈The Week〉,2001.12.22, p.7. 〈Sunday Telegraph〉から引用した。
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 したがって、ドイツ人には、ユーモアを可能にする人間の嗜好に対する寛容さのようなものが足りない。
 彼らは機械工学者だ—おそらく世界一の—。だが、人間は、際限のない理解と忍耐を必要とする生きている有機体だ。機械とは違って、厄介で気まぐれだ。
 ゆえに、教条のために殺害せよと命じられれば、廃棄した物品に対する以上の憐憫を何ら感じることなく、殺害する。//
 (09) あるドイツのSS〔Schutzstaffel,ナツィス親衛隊〕将校について読んだことを思い出す。Treblinka で勤務していた彼は、ユダヤ人を乗せた列車が彼らをガスで殺すべく到着したとき、彼らをたんなる「荷物」だと見なした、と語っていた。
 呪文で縛られたこのような者たちは、建設労働者たちが空気ドリルで舗道を壊すのと同様に感情を持たないままで、無垢で守る術なき人々を機関銃で殺害することができる。
 人間のこのような非人間化は、高度の〈Pflicht〉、「義務」意識と結びついて、他のどこかでは発生しなかっただろうようなホロコーストを、ドイツで可能にした。
 ロシア人は、ドイツ人よりもさらに多くの人々を、殺害した。また、自分たちの仲間を殺した。しかし、ロシア人は、機械工学的な精確さなくして、そうした。髪の毛や金の填物を「収穫」したドイツ人の理性的な計算を持たないで、殺した。
 ロシア人は、自分たちの殺害行為を自慢することもしなかった。
 私はソヴィエトの残虐行為の(彼らが撮った)写真を見たことがない。
 ドイツ人は、禁止されていたけれども、自分たちで無数の写真を撮った。//
 (10) かつてMünchen で、一時期にCornell でのロシア語教師だったCharles Malamuth を訪れた。
 彼はドイツ軍に接収されていたと思しきアパートを借りていた。
 コーヒー・テーブルの上に、以前の所有者が忘れて置いていったアルバムがあった。ふつうの人々ならば幼児や家族の小旅行の写真を貼っているようなアルバムだ。
 このアルバムには、東部戦線でヒトラーのために働いた家族の主人かその子息が家に送った写真が中にあった。ほとんど貼り付けられた、とても異なる種類の写真だった。
 私が見た最初は、ドイツ軍兵士が年配のユダヤ人女性を彼女の髪の毛を掴んで処刑の場所まで引き摺っているところを、写したものだった。
 つぎの頁には、三枚の写真があった。一つめは、赤ん坊を腕に抱えて木の下に立っている女性たちのグループだった。二つめでは、同じグループの女性たちが裸に剥かれていた。三つめは、大量に血を流して横たわっている、彼女たちの死体だった。//
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 第七章、終わり。第一部も、終わり。続行するか未定だが、第二部の表題は、<Harvard>。

2526/R・パイプスの自伝(2003年)⑰。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の第七章に移る。
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 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う①。
 (01) 1945年春、ドイツは降伏した。また、我々とユダヤ人全てへの人的被害をもたらしたことが分かった。
 赤軍がポーランドに入り、そこからドイツに進行するにつれて、新聞は、解放された強制収容所や「絶滅」収容所に関する記事や写真を公にし始めた。人間は骸骨に近くなり、靴や眼鏡が殺害された犠牲者から奪われて山積みになっていた。火葬場で、ガスを吸わされた人々が灰になった。
 我々は、このような系統的で大規模な殺戮を予期していなかった。野蛮であったばかりか、ドイツはその戦争のためにユダヤ人を用いることができたから合理的でもなかったので、そんなことは不可能に思えた。
 連合国諸政府は、ドイツに占領されたヨーロッパで起きていることを知っていた。しかし、戦争は「世界のユダヤ」によって、彼らの利益のために行われているというヒトラーのプロパガンダ機構を助けるのを怖れて、沈黙を守る方を選んだ。
 私はロンドンにあったポーランド亡命政権の1942年12月10日付の冊子を持っている。それは「ドイツ占領ポーランドでのユダヤ人の大量虐殺」との表題で、連合諸国構成諸国に対して訴えたものだった。
 輸送された数十万のユダヤ人および同数の餓死しているか殺害されたユダヤ人に関する、正確で詳細な報告がなされていた。
 その情報は無視された。
 永久の汚名になるだろうが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちも、同族に対するジェノサイドについて、口を噤んだままだった。//
 (02) 1945年4月末、私はOlek からの手紙を受け取った。彼は戦争を生き延びたが、最初はワルシャワの、次いでウッチ(Łódź〉の「アーリア」側に隠れていた。
 そのあとすぐ、母親がポーランド・ユダヤの新聞の切り抜きを送ってくれた。それには、Wanda が自分の言葉で、Treblinka のガス室へと移送する家畜列車から飛び降りて、ドイツにあるポーランド人用強制収容所の労働者として終戦を迎えた、と書いていた。
 これらは奇跡だった。
 だが、我々の一族の他の者には、奇跡は乏しかった。
 母親の二人の兄は、何とか生き延びた。
 郵便による連絡が回復するや否や、彼らは、すでに知られていたようなホロコーストが母国で行われたと伝える手紙を、我々に送ってきた。
 私の伯父は二人とも学歴がなく、戦前に多くを成し遂げたというのでもなく、主として祖母の資産から生じる家賃で生活してきた。
 このことで、二人の手紙はいっそう強烈なものだった。
 母親の弟のSigismund は、戦前には女性を追いかける人生を送っていたが、こう書いてきた。
 「狂人になっているのではないかと思う。彼らが戻ってくるという想いだけが浮かぶ。
 母親と一緒にいた我々のArnold とMax、Esther そして(彼らの娘の)Niusia は1942年9月9日にファシストの凶漢によってゲットーから引き出されて、巨大な輸送車に積み込まれた。
 ドイツのやつらは最初は、定住地を変えるだけだと言った。しかし、分かったとおり、到着すると人々は生きたまま焼かれるかガスを吸わされたのだから、これは通常の殺害だった。
 数百万の人々が、ゲットー全体が、このようにして殺戮された。もっと残虐なこともあった。」
 Max は、こう書いた。
 「Sigismund と私は、Max(.Gabrielew)、(その妻)Esther とJasia がTreblinka へ移送されたことの証人だ。…
 我々みんなが愛して、深い悲しみが尽きないArnold は、いつものように、年老いて生きるのに疲れた我々の最愛の母親と一緒に、口元に微笑をたたえて、「死の列」に立っていた。 
 この73歳の女性も、勇敢に立っていた。…
 ああ、彼らを救う可能性はなかった。
 どんな人間の力も叡智も、(彼らの運命を)和らげる何事もできなかった。
 彼らに毒を渡すこともできなかった。」//
 (03) 既に語られてきていないホロコーストのことで、私に言えることはほとんどない。
 これは、ホロコーストに関して読んだり映画や写真を見て、意識的に萎縮してきたからですらある。
 私が読んだ虐殺の全ての事件や観た全ての映像は私の心に永遠に鮮明に刻み込まれ、悪魔的犯罪のおぞましい記憶想起物として今も漂っている、というのが私の理由だ。
 これには困ってきたが、私の精神の安定と生への前向きの姿勢を維持するために意識はしてきた。//
 (04) ホロコーストは、私の宗教的感情を動揺させなかった。
 知的にも情緒的にも、私は神の言葉をヨブ記が記録するように受け入れた。その第38章によると、我々人間には神の目的を理解することのできる能力がない。(脚注)
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 (脚注) そう受容することで、私は知らないうちにタルムード(Talmudic)の聖人たちの、人間の理解を超越した問題を考察するのを思いとどまらせる助言、「汝にはむつかしすぎる事柄を探し出すな、汝に隠されている事柄を詮索するな」、に従っていた。A. Cohen, Everyman's Talmud (1949), p.27.
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 多くのユダヤ人が、ホロコーストを理由として宗教的信条を失った。私の父親も、その一人だった。
 かりに何かあったとして、私の信条は強くなった。
 大量虐殺(同時期にソヴィエト同盟で起きていたものを含む)は、人々が神への信仰を放棄するとき、人間は神の心象によって造られていることを否定するとき、そして人間を魂の欠けた、ゆえに消耗し得る物資的対象にしてしまうときに、生じるものだ。//
 (05) 私の心理に対するホロコーストの主な影響は、私に認められてきた生きる毎日を楽しく感じさせたことだ。私は確実な死から救われたのだから。
 自己耽溺や自己肥大に費やすためにではなく、悪魔の思想がどのようにして悪魔的帰結を生じさせたかの歴史上の例を示したり使ったりして、道徳的教訓を広げるよう用いるために、私の生は残されたのだ、と感じたし、今日まで感じている。
 学者たちがホロコーストについて十分に書いてきたので、共産主義を例として用いて、その真実を明らかにすることが使命だ、と私は考えた。
 さらに、精一杯の幸福な人生を送るのが自分の義務だと、また、ヒトラーを許さないと、生がもたらす全てに満足していようと、陽気にしていて気難しくはしないと、私は感じたし、感じている。悲しみと不満は、嘘をつくことや残虐さに無関心であるのと同様に、冒涜の一形態だと私には思える。
 このような考え方は、私の個人的および職業的生活に影響を与えたのだが、私の若い時代の体験の結果だ。そうではなく、苦しい経験を免れた幸運な人々が人生や職業をより冷静に捉えるのは自然なことだ。
 その反面で、自由な人々の心理上の諸問題にはほとんど我慢できないことを、私は認める。とくに、彼らが「アイデンティティの探求」その他の自己探求の種々の形に耽溺しているならば。
 それらは、私に言わせれば、些細なことだ。
 ドイツの随筆家、Johanness Gross が人類は二つの類型に区別することができる、と書くのに、私は同意する。「問題をかかえる人々と、交際をする人々」。
 問題をかかえる者たちは彼ら自身に任せるのが、自己を維持するための重要な要素だ。(後注7) 
 (後注7) FAZ, Magazine,1981.09.11.
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 ②へと、つづく。

2514/R・パイプスの自伝(2003年)⑯。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
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 第一部/第六章・軍隊②。
 (13) 1944年6月の初めに、ASTP の正規の「卒業式」があった。私は、ロシア語で、答辞の挨拶を述べた。
 我々は任務を課されるべく、士官候補生学校へ送られることになっていた。
 しかし、そうはならなかった。
 6月6日に連合軍はフランスに上陸し、軍は補充を必要としていた。
 我々は予定どおりに士官候補生学校へ行くのではなく、基礎訓練のために多数の歩兵部隊に配属されることになる、と知った。
 私は、Virginia 州のPickett 軍営地にいる第78分団または「稲妻」兵団の第310歩兵連隊に配属された。この軍営地は、Richmond 近くにある巨大な軍用地だった。
 その日は、我々二人が離れた、悲しい日だった。//
 (14) 私は思うのだが、アメリカ軍は人員方針について大きな過ちをしていた。軍服の兵士を、機械の一部のような交換できる存在物だと扱うことによってだ。
 男たちは、国のためにではなく、同志のために、25人かそこらの兵士で成る小隊(platoon)のような一団(unit)のために戦う。
 部隊(corps)の気概は、勝利する全ての戦力の基本的に重要な要素だ。
 第78分団の兵士は全員が、フランス侵攻を準備する部隊の補充兵として、三ヶ月前にイギリスに送られていた。将校と下士官はそこにとどまったけれども。
 私が属した分団は、言ってみれば、骨が抜かれていた。協力し合うチームではなく、多数の個人の集まりだった。これは、悪い前兆だった。//
 (15) つぎの八週間、我々は過酷な基礎訓練を受けた。フロリダの空軍で受けたのとは全く違っていた。
 Virginia の夏の気温は、しばしば華氏90度を超えた。
 我々はこの暑さの中で、全力で演習をしなければならなかった。
 私は、ブラウニング式自動小銃を運ぶ任務を割り当てられた。可動式のその銃はほとんど20ポンドの重さがあった。
 夜間の野営の間、我々はツツガムシ(chigger)に攻められた。皮膚に食い込み、ひどい炎症を引き起こす小さい不快な虫だ。火の点いたタバコをその後部にあてて排除しなければならなかった。
 我々の仲間の兵団は、混ぜこぜのクジの上にあった。—最も幸運ではないが、最善はヨーロッパに送られていることだった。//
 (16) ポーランドのROTC 軍営地での不幸な体験の5年後に小銃を引きつずって運んでいることを思うと、きわめて苦々しく感じた。
 私は日記に、不満を綴った。自分は「ラバのように働き、犬のように服従し、豚のように生きている、監獄の中の動物だ」。
 自分の言語上の技能、とくに敵国の言語である、ドイツ語とイタリア語のそれ、を使って、もっと戦争に貢献できる、と思っていた。そして、市民生活ではHarvard Law School に関係していた上品な大佐である、分団の情報部長に接触した。
 彼は私をG-2の一員にするという関心を示した。
 しかし、数日後に再び会って私の移動について尋ねると、私はもうすぐ出発することになっていると知った、と彼は言った。//
 (17) 実際に、数日後、海外輸送用の武器の包み方を仲間の代表が指示される会合に出席していたあいだに—1944年8月末のことだった—、私は呼び出され、Utah 州のKearns Field にある空軍基地に移動することが告げられた。
 私が属していた分団は、私を置き去りにして、ヨーロッパへと向かった。
 その分団は、Bulge の戦いで、些少の役割を果たした。//
 (18) Utah で、Cornell の学生たちは、別の二つの大学でロシア語の訓練を受けた者たちと出会った。そして10月に、我々はMaryland 州のRitchie キャンプへと移った。
 そのキャンプは、情報(intelligence)学校に転換されたカントリー・クラブの会館だった。
 二ヶ月ごとに新しいグループが、情報活動訓練の集中課程のために到着していた。そのあとで、修了生は任務を受け、前線へと出発した。
 我々の運命は、いくぶんか異なっていた。
 我々は特殊な任務のためのグループだったので、私はその任務の性質を戦争後に初めて知った。//
 (19) 1943年11月のテヘランでの首脳会談以来、アメリカとソ連の軍部は、ソヴィエト領域内に共用空軍基地を建設することを議論していた。
 ワシントンの主要な関心は、日本に対するための施設だった。だが、ヨーロッパは、東ヨーロッパでドイツと戦うソヴィエトの空軍施設を利用することも要求した。東ヨーロッパは、イギリスやイタリアの基地から爆撃することができなかった。
 「往復(shuttle)爆撃」という考えが現れた。すなわち、アメリカ空軍は東ヨーロッパの上を飛び、工業施設や油田地帯に爆弾を落とし、ソヴィエト領域内に着陸し、燃料補給と再装備をし、基地に帰還して、同じ任務を繰り返す。
 ロシアはこの提案に気乗りうすだったが、1944年の春、まさに我々がCornell での課程を終えようとしていた頃、ウクライナの三基地をアメリカ空軍が利用できるようにした。主要な基地はPoltava にあり、Mirgorod とPiriatin に小さな基地があった。
 この計画には、Frantic というコード・ネームが付けられた。
 1944年6月2日、アメリカ軍の爆撃機がこれらの基地から、初めてドイツの上空を飛行した。
 ドイツは東方からのこの空襲に驚き、6月22日に、200の爆撃機でPoltava 基地を集中攻撃した。Poltava 基地はほとんど廃墟となった。43のB-17爆撃機が破壊されるか、修理不可能な損傷を受けた。
 それにもかかわらず、アメリカ空軍は7月に攻撃を再開した。全部で、2000機以上によって、ソヴィエトの基地からの攻撃が行われた。
 効果は少なく、ソヴィエトとの軋轢がつねにあった。
 夏の終わりに、ロシアはウクライナの三空軍基地の閉鎖を命じた。
 しかしながら、いわゆる東方作戦は、1945年6月まで、引き続き敢行された。(*後注6)
 (*後注6) Richard C. Lucas, Eagles East (1970) で、語られている。
 (20) 我々ロシア・グループは、ウクライナの往復基地に通訳者として派遣されることになっていた。しかし、作戦が終わるにつれて、その任務も消失した。
 そうしてRitchie での課程を終えて、イリノイ州のScott Field へと移された。  
 表向きにはラジオ作戦の訓練のためだったが、実際には、将来にロシア語の話し手を必要とする事態に備えての予備軍として囲われた。
 退屈な生活だった。モールス符号やラジオの細かな機構の勉強は、楽しいものではなかった。
 (21) そこにいたことで、重要な精神的効果が副産物として生じた。
 一人前の歴史家になろうと決心したのは、そのときだった。
 私はつねに歴史に惹き付けられてきた。一つには過去は想像力を掻き立てるからであり、また一つには、歴史の射程範囲には限界がないからだった。
 だが、職業として歴史学を選択したのは、まさにその頃だった。//
 (22) Scott Field はミズーリ州のセントルイスの近くに位置していた。そのセントルイスで私は、ほとんどの週末を演奏会、公共図書館、あるいは古書店探しをして過ごした。
 ある日、たまたまFrançois Guizot の〈欧州文明の歴史〉に出会った、それは著名な文筆家の子息であるWilliam Hazlitt が翻訳したものだった。
 その書物—Guizot が1928年にソルボンヌで行った一連の講義録—は、かつて読んだどの歴史書とも違っていた。
 明々白々なものは何もないのだから、探求心はかつて発生した事実上全てのことについて、関心を寄せることができる。動機や影響について、そしてじつに、事態の推移それ自体について、つねに疑問がある。
 かくして、中世のハンガリーの穀物価格の歴史に、教皇Innocent 三世の生涯と仕事に、Zerbst 施設があった公国の政策に、これらは知的な変化を示しているというだけの理由で、人々は関心を集中させることになる。
 しかし、このような論点には、幅広い意義がない。これらは、チェス遊戯にも似た、問題解決の練習だ。
 同じことは、諸国や事件に関する標準的で一般的な歴史書について言える。
 それらは何が起きたかを、おそらくはその理由も、語る。しかし、そのような知識が何らかの意味で重要であることの理由を示しはしない。//
 (23) Guizot が書いた、そして私がそれ以来ずっとモデルにしてきた歴史書には、過去と我々自身との間の連結があった。それは哲学的歴史書であり、我々自身に関して教えてくれる叡智だ。—我々はどこから来て、なぜ今のように考えているのか。
 最初の頁から、Guizot は歴史への哲学的アプローチを明らかにしている。
 「いずれかの過去について、歴史を事実を語ることに制限する必要があるとしばしば主張されてきた。それが最も公正だと。しかし、語るべきはるかに多くの事実があること、事実それ自体はその性格について人々が先ず与えられたと思うものよりもはるかに多様であることに、我々は絶えず留意しなければならない。…
 我々が哲学を引き合いに出すことに慣れている歴史の割合、事件相互の関係、それらを結びつける連関、それらの原因と効果—これらは全て事実であり、全てが歴史だ。戦闘に関する話やその他の重要で可視的な事件と全く同じように。…
 文明は、こうした事実の一つだ。…
 私はただちに、歴史は全てのもののうち最大のものだ、歴史は全てを包含する、と付け加えよう。」//
 この序論的導入部に続く14の章は、時代と国々を、制度と宗教を見事に概観し、全てを洗練された上品な文体で表現していた。
 この書物は、私を完璧に捉えた。
 私が興味をもってきたものは—とくに哲学と芸術—、全てが歴史という学問分野の広大な屋根のもとに収容することができる、ということを、この書は示してくれた。//
 (24) 私の軍歴の残りは、拍子抜けしたものだった。
 Scott Field からCornell での夏の再教育課程に戻り、そしてRitchie に帰った、そこで私は、夜間の電話交換者の仕事を割り当てられた。
 1945年の後半〔著者は22歳—試訳者〕、我々はCalifornia に送られた。コリアで通訳者に配属される準備だった。
 しかし、日本が降伏して戦争は終わったので、家に帰りたくなった。
 我々の部隊には、FAH という不思議な名があった。
 たぶん我々を担当している軍事省の将校のイニシャルで成っている、と私は思いついた。
 正規の軍将校名簿を調べてみると、実際に、このイニシャルに一致する、Frank A. Hartmann という大佐を発見した。
 我々はペンタゴンにいる彼に電話する機会をもち、3-4年間も軍役に就いてきたので、除隊されるに値する、と知らせた。
 数日後に、東部の我々に命令書が届いた。
 もう待てなかった。民間人としての生活を取り戻し、自分の勉強を再開したかった。
 1946年3月、Maryland 州、Fort Meade で、私は除隊された。//
 ——
 第六章②、終わり。次章・第一部第七章の表題は、<母国をホロコーストが襲う>。

2513/R・パイプスの自伝(2003年)⑮。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/第六章・軍隊①。
 (01) 1941年6月21日夕方、私はElmira の家で夏を過ごしていたが、ラジオが番組を中断して、ドイツがソヴィエト同盟に侵攻したというニュースを伝えた。
 一年後、Pearl Harbor のあと、私はMuskingum の大学新聞に、政治や軍事の評論を週に一回定期的に寄稿するよう依頼された。
 それは私の生涯最初の公表文書だった。読み返してみると、よく書けていると思う。//
 (02) 私は強い関心をもって、ロシアの宣伝活動を追った。
 私はロシアが勝利するのは疑わしいと思ったが、東部戦線での最初の数ヶ月の戦闘は、私の最悪の恐れを確認した。
 生涯をロシア問題の研究と教育に捧げることになったけれども、当時はロシアに関心も知識もほとんどなかった。
 ポーランドで生活していたが、ロシアとの間は貫き得ない壁で隔てられていた。
 母親の二人の兄がそれぞれロシア人女性と結婚して、レニングラードに住んでいることを、知ってはいた。
 彼らはときどき祖母と連絡を取り合っていたが、私は彼らの生活ぶりを何も知らなかった。
 1930年代後半に、ソヴィエト同盟で起きているおぞましい出来事に関する情報を漏れ聞いたけれども、それがどういうものであるかは知らず、それを明らかにしたいという興味も全くなかった。
 しかしながら、ロシアはポーランドとの国境に掘削して地雷を埋めた広い幅の土地を設け、犬を連れた警察官に監視させていることを、不信感をもって知っていた。//
 (03) Pearl Harbor とヒトラーのアメリカに対する愚かな宣戦のあと、米国はソヴィエト同盟と連合することとなった。
 ソ連に対する関心が高まってきた。
 1942年の秋、ポーランド語とロシア語の近似性のために、私は容易にロシア語を学習できる、ということが大まかに明らかになってきた。
 私はロシア語の文法書と辞書を購入して、自分でロシア語の勉強を始めた。
 ぼんやりと感じていたのは、軍役に編入されるならば—それは不可避だと思えた—私はロシア語の知識を役立てることができるだろう、ということだった。//
 (04) 1942年秋、最終学年の前年次の第一学期の最初に、私は軍隊に入ることを志願した。世界は騒乱の渦中にあるのに、大学にいることに落ち着かなくなっていたからだ。
 だが、外国市民であるために志願兵になることはできない、と言われた。私は徴兵を待たなければならなかった。
 徴兵が翌年1月にあった。そして、その翌月、オハイオ州Columbus にある空軍部隊に、私は編入された。//
 (05) アメリカの軍隊についての最初の印象は、食物の質の良さだった。朝食では、ジュースにグレープフルーツかオレンジかを、卵にスクランブルかドライかを、パンにトーストかマフィンかを、選択することができた。
 のちの別の軍営地では、感謝祭の日のデザートには、焼きアラスカ(baked Alaska)すら含まれていた。
 Columbus での短い務めのあと、私は数百人の他の新規入隊者とともに、知らされていない目的地へと列車で運ばれた。
 列車は昼夜を問わず進んで、開けた野原でついに停止した。そこは、北部フロリダだった。
 空軍はそこに巨大なテント村を建設していた。私はそこで数週間を過ごし、そのあとで基礎的訓練を受けるためにペテルブルクの優雅なVinoy Hotel へと移った。
 私はすみやかに、アメリカ合衆国の市民権を付与された。
 訓練は楽なもので、海岸の砂浜で自由時間を過ごすのも認められた。//
 (06) 私の同輩たちは多様な専門学校へと送られていったが、私はそのままだった。おそらく、私に関する安全性の調査を行う軍事上の必要があったからだろう。//
 (07) 〔1943年〕5月のある日、軍用専門教育計画(A S T P)に関する発表文を読んだ。それは、言語と技術の二つの教育のために兵士を大学(colleges & universities)に派遣するものだった。
 私はある同僚から一日交通券を借りて、申込み用紙に記入するためにペテルブルクのASTPの事務所へ行った。
 帰途で、説明しがたい理由で、つまり酒場へ足繁く通ってはいなかったので、一杯のビールを飲みに立ち寄った。
 私は目の片隅に、二人の憲兵(MP)が店舗に入るのを捉えた。
 彼らは、私が提示する義務のある査証について尋ねた。だが私は通し番号を憶えておらず、それで監視付きでホテルまで連れ戻された。
 ホテルにいた軍曹は私に、一週間の夜間「厨房警察」(kitchen police, KP)を言い渡した。
 その夜、私は巨大ホテルの厨房に報告した。すると、釜戸を鉄綿で磨くよう言われた。
 料理人と話していて、彼はポーランド人だと分かった。
 彼も私がポーランド出身だと気づいたとき、彼は罰のことは忘れよと言った。
 私はつぎの週、浴室に閉じこもり、読書をして毎朝を過ごした。この快適でない位置で、私はSinclair Lewis の主要な諸小説を読み通した。その小説本は、その地域の図書館から借りていたものだった。//
 (08) 7月にようやく、南カリフォルニアのChalestone にあるCitadel(要塞)という軍事学校へ行くよう指示を受けた。
 私には、ロシア語を学習することが割り当てられた。
 いくつかの大学の中から選ぶことができたので、ニューヨーク州Ithica のCornell 大学にした。両親の新しい家があるElmira に近かったからだ。
 1943年9月にCornell 大学に到着し、そこでつぎの9ヶ月を過ごした。//
 (09) 普通ではない、秀れた教師集団がいた。彼らのほとんどはロシアからの移住者で、Marc Vishniak もいた。この人物は、1918年に立憲会議〔憲法制定議会〕の事務局員として仕事をし、その後はパリの指導的ロシア語新聞の編集者だった。
 物理学者のDmitrii Gavronsky は、私にMax Weber を教えてくれた。
 ASTP(軍用専門教育課程)は、外国語を教育する「全次元的」方法の先駆者だった。
 教師たちは、ロシア語だけで我々に話しかけた。我々が最初に学んだ句は、〈Gde ubornaia ?〉(トイレはどこ?)だった。
 この教え方は、教室で実施された。だが、転換された親睦集団の生活区画で、想定されたようにロシア語を話した、と私は言うことができない。
 ほとんどの学生たちは、僅かな単語と句しか知らなかった。
 言語の教師たちは、強く反共産主義的だったが、その感情を抑制していた。
 しかしながら、歴史と政治の教師たちは、共産主義に信頼を寄せていた。第一はVladimir Kazakevich で、この人物は戦争後にソ連に移住することになる。
 第二は、Joshua Kunitz だった。
 彼らは、自分たちの共感を秘密にしなかった。
 全員でおよそ60名いたロシア語課程の学生たちは、ソヴィエト同盟に対して穏やかに友好的だった。ある者たちはイデオロギー的理由でだったが、ほとんどの者は、ドイツ軍と戦闘している同盟者への忠誠心からだった。
 しかし、彼らとて、Kazakevich やKunitz が我々に提供する宣伝(propaganda)を鵜呑みにすることはできなかった。
 二人とも、教室では事実上は爪弾きにされていた。//
 (10) 私は三ヶ月で、ロシア語の基礎を習得した。—人生で初めて、学校で良心的に、本当に勉強をした。—そして、余った時間を他の問題に使った。
 ある仲間が、写真を現像して焼く方法を教えてくれた。そして私は、多くの時間を暗室で過ごした。
 私は音楽室で、クラシックの音盤を聴いた。
 また、多くの時間を図書館での読書に費やし、私の最新の発見と好みの対象となった、Rainer Maria Rilke を翻訳しもした。
 そして、デートをした。//
 (11) ロシア語課程のASTPの校長は、職業的翻訳者のCharles Malamuth だった。トロツキーによるスターリン伝記を英語に翻訳したのは、この人物だ。
 ある夕方、この人が我々の宿舎に持ち運べる蓄音機を持ってきて、我々のうちのポーランド出身者—同じ部屋だった—に聞かせた。それは、Adam Mickiewicz の〈Pun Tadeusz〉という叙事詩からの文章を、魅力的な女性の声で読んだものの録音だった。
 我々は、読んでいるのは誰か、と尋ねた。
 彼は答えて、Cornell にいる二人のポーランド女性だと言い、それぞれの名前も教えてくれた。
 当時に最も親しかったのはCasimir Krol といい、背が高く、少し年上だった。とても女性好きだったが、そうでないときは、憂鬱な気質だった。
 彼は女性たちの一人を自分のデート相手に選んだ。背の高い方の女性で、この人が、私の将来の妻、Irene Roth だった。
 私はもう一人の女性とデートの打ち合わせをした。この女性が記録を残した。
 我々四人は、映画館とアイスクリーム店へ行った。
 どちらの女の子も、私には強い印象を残さなかった。
 我々もまた、彼女たちに大きな印象を与えなかった。Irene はその夜の日記に、二人から選ぶ必要があるのだとしても、自分でデート相手を選びたい、と書いた。//
 (12) しかし、やがてIrene と私は、互いに惹かれ合うようになった。
 注目すべきことに、二人には類似の背景があった。二人の母親はともにワルシャワ出身で、二人の父親はともにGalicia 地方の生まれだった。さらに、二人の一族は、おぼろげにも知り合いだった。
 二人はともに、ポーランド語より先にドイツ語を覚えた。
 二人は、若干の通りを離れてワルシャワに住んでいた。そして、ともに子どもとして参加した誕生日パーティのことを思い出した。
 彼女とその家族は戦争の最初の週にワルシャワを脱出し、リトアニアに、ついでスウェーデンへと向った。そして、米国にいる彼女の父親の兄の助けで、1940年1月に、カナダへと移住した。
 そのあとすみやかに、彼らはNew York 市に転居した。
 彼女はCornell で、建築学を勉強していた。
 二人の最初のデートは、Rudolf Serkin 〔ピアニスト—試訳者〕の演奏会に行くことだった。演奏会のあいだ、彼女はプログラムについて走り書きし、私に渡した。それは、多年にわたって彼女が維持した、演奏会での習慣だった。
 我々はクラシック・レコードを聴き、写真を印刷した。
 ある日、私は彼女をElmira に連れて行き、両親に逢ってもらった。
 両親はともに、すぐに彼女を好きになった。//
 ——
 ②へと、つづく。

2512/R・パイプスの自伝(2003年)⑭。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。p.44-p.47。
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 第五章・大学②。
 (10) 次いで、両性の間の関係に、大きな差違があった。この差違は、ある程度は、安心性についての支配的感覚の結果だった。
 男女関係は、許されることまたは許されないことや婚約や結婚に向かって絶えず示唆されることに関する厳格な儀礼で制約されていた。
 三番目にデートした女の子からは、多かれ少なかれ、私の意思を尋ねられたものだ。
 私の反応は一種のパニックだった。18歳や19歳では、結婚のことなど全く考えていなかった。
 満足できない答え方であったなら、通常は付き合いの解消を意味しただろう。
 ポーランドでの女の子との関係はより仲間的なもので、もっと年長にならなければ、結婚を描くことはなかった。
 将来の妻とのちに結婚することになった一つの理由は、彼女の背景が私と同じで、二年間かけてお互いによく知り合うまで、彼女は一度も結婚のことを話題にしなかった、ということだった。我々二人は、恋人になるまで長く、友人だった。
 要するに、アメリカの女性たちはどの世代も、ヨーロッパの女性たちよりも、女性らしさ(femininity)をはるかに保証されていない、と私は感じた。アメリカの女性は男性を楽しませることに熱心だったが、ヨーロッパの女性は、男性に楽しませてもらうことを期待した。
 1960年代に流行した「フェミニズム」の馬鹿さかげんは、この不安定性を強調したにすぎない。全ての男性をレイプ魔になり得る者と見なすのは、男性に対処する手がかりを持っていないことを承認するようなものなのだから。//
 (11) 二年次の春に、恋に落ちた。
 その女性は、一、二歳年上で、ピアニストだった。
 だが、彼女にも、よくあることが起きた。ある夕べ、彼女から、結婚についてどう思っているのか、と尋ねられた。
 その問題については何も考えていないと答えたとき、私は彼女の頬に涙が伝わるのを見た。
 その夏、彼女の手紙の頻度は減り、内容は冷たくなった。そして、三年次になる前に、二人は出逢うのをやめた。//
 (12) 当時のアメリカ人の生活には、大量の道徳があった。
 何が適正で、何がなされてよく、何がよくないか、重要な問題についてどう考えるべきか、は予め定められており、規制されていた。
 アメリカ人が誇りとする言論の自由の全てについて、受容されている標準を追認すべきとの多大の圧力があった。そして、この観点からすると、アメリカ人はヨーロッパ人よりも、個人的自由を享有していなかった。
 のちに「政治的適正さ」(political correctness)として知られるに至るものは、当時ですら、アメリカの人々の文化に浸透していた。
 私は、彼の意図が十分に分かったので、ニーチェを捨てよと強く言った副学長に立腹しなかった。しかし、ヨーロッパの教師があのような圧力を加えるとは、想像すらしなかっただろう。
 このような圧力には、人々一般への純粋な関心が伴っていた。つまり、他人に起きることは重要だという感覚だ。—これは、各人が自分のことを気にかけると支配的な道徳感は教えるヨーロッパでは、知らなかったものだ。
 男女関係と同様に、この感覚は1960年代に大きく変化した。
 とても自由放縦になる前の、古いアメリカ文化の方が好ましいと、私は思う。
 だがその場合でも、潔癖主義(puritanisim)はニヒリズムで終わると、ニーチェは予言した。//
 (13) もう一つ驚いたのは、人間関係に関してだった。
 私の出身地では、異邦人は、民族的または宗教的な偏見のような特別の理由で粗雑にまたは敵対的に扱われないとすれば、適正に、だが素っ気なく扱われた。
 親愛さは、友人のために留保されていた。
 アメリカ合衆国では、適切な振舞いの規範は、全ての者に対する親愛さを求めた。
 New Concord に着いて数時間後、一人の上級生が私が落ち着くのを助けてくれた。
 彼はキャンパスを見せ、私が初年次を過ごすことになる木造家屋へ連れて行き、私の大学や学生生活に関する質問に答えてくれた。
 私は、とても早くに友人を得たことに興奮した。
 だが、数日後に彼に出くわしたとき、彼は冷たくて、疎遠だった。
 今では分かる。彼は大学当局から慣れない環境にいる外国の少年を助けるよう頼まれ、とても快く、だが私への特別の感情など全くなく、その仕事をしたのだ。
 しかし、私は動機を思い違いして、傷ついた。
 のちに私が知ったのは、誰に対しても「好ましい(nice)」のは、生活を心地よくするがゆえに一つの美徳だ、ということだった。やがて実際に、意味のない微笑の方が意味のある冷笑よりは好ましい、と結論した。
 しかしまた私が結論したのは、第一に全員に対して表面的な親切さを示すことは親密な人間関係の形成を封じる、第二にかつて一人または二人の友人と形成した親密さは、ともかくも男性間ではモデルは「仲間」または「相棒」(pal, buddies)—ポーランド語にはこれらに当たる言葉がない—である国では獲得し得ない、ということだった。//
 (14) 私の「主要なこと」は、歴史と発言だった。
 Muskingum は討論チームで知られていた。私は、最新の問題に関する多数の討論の参加または関与した。それによって、多数者の前で話すのを学んだ。
 水泳チームにも加わった。バタフライをするほど頑強でなかったので、平泳ぎの選手としてだった。
 私の成績はまあまあで、Bレベルだった。その成績を最小限の努力で獲得した。
 大学で得た主要なものは、英語を使える力だった。
 第一学期の終わりまでに、全く流暢な文章を書いた。私の誤りは、主として動詞の時制について生じた。私はこの欠点を、今日まで完全には克服し切れていない。//
 (15) Muskingum の雰囲気は、知的というよりも社会的だった。
 若者たちは、職業を得て、配偶者を見つけるために、そして生活費を稼いで家族を養うという責務に直面する前に楽しい4年間を過ごすべく、大学に来ていた。
 私の書物好きや非世俗的な理想は、ときたま困惑の対象になった。
 ある学期に、近くの美術館の学芸員が教えるヨーロッパ美術史のコースに出席した。
 彼がスクリーンに絵画のスライドを表示して画家を見極めるよう言ったとき、私はほとんど全ての名前を言い当てることができた。「Velasquez」、「Vermeer」、「Tiepolo」、等々。
 ある授業のあとで、私が少し惹かれていた美人学生が、にっこりと微笑みながら私に質問した。
 「Dick、あなたは本当にあの画家たちをみんな知っているの?」。
 彼女が望んでいる答えは分からなかったが、私は、「もちろん知らない。運良く推測が当たっただけだ」と回答した。//
 (16) 私はトーマス・マン(Thomas Mann)の〈Tonio Kröger〉を読み、その主人公と彼の芸術家気質を理由とする友人たちからの孤立感に親近さを感じた。
 1940年11月、私はマンに手紙を出して(残念だが、複写を残していない)、この小説を書きながら何を心に浮かべていたのかを、尋ねた。
 彼は、親しい、かつ内容のある返事をくれた。
 その返書は、Princeton, New Jersey, 1940年12月2日付で、一部にこう書かれていた。
 「この物語を書いたとき、二人の友人の輩下としてはTonio を人物化しなかった。そうでなく、主としては彼らより優れた者として描いた。
 Tonio は友人たちの簡素でふつうの生活とは離れた所にいた。だが確かに、彼は現実にあるまさにそのような生活に半ばは羨望していた。
 しかしながら、この羨望には彼らの生き方には馴染めないという残念さが混じっていたけれども、芸術家としての自分自身の生活の深さと展望を、彼は強く意識していた。」
 このような文章に、私は激励を感じた。//
 (17) 私は働いて生計を立てた。最初は芝を刈り、テニスコートをローラーで平らにした。のちには図書館で仕事を貰って、本の背表紙に電気スタイラスで書棚番号を打ち込んだ。
 だが、これらの収入では十分でなかった。
 父親は300ドルを送ってくれた。これは父親が新しい事業をまさに立ち上げようとしていて、少ない資産のうちの数セントでも必要としていたことを考えると、相当に多額だった。そして、父親は、これ以上は期待できないと、私に理解させようとしていた。
 Muskingum は、200ドルの奨学金をくれた。
 しかし、第二学期が近づくと、私は絶望的状況に陥った。もう一度200ドルを見つけなければならなかったからだ。
 誰かから、ニューヨークのISS(国際学生サービス)と接触すればよいと助言された。
 そこに手紙を出して、苦境を訴えた。すると返書が来て、100ドル用小切手を受け取った!
 それは天の恵みで、私は勉強を続けることができた。
 同じことはつぎの秋にも起きて、同じ所から私は210ドルを受け取った。
 夏季休暇は二年ともに、全日の仕事をした。1941年には、ニューヨーク州のElmira の薬局でタバコとキャンディを売った。その町で両親は、小さなチョコレート工場(「Mark's Candy Kitchen」)を開業していた。
 私は週に50時間働いて、17.5ドルとときどきの歩合金を稼いだ。
 その翌年の夏には、Kraft Company のトラックを運転して、チーズを食料品店に配達した。
 それは愉快な仕事だった。自分一人だけでおれ、週に二晩は路上で過ごすことができたからだ。
 学校がある間は、近くの教会やロータリー・クラブ等で、ポーランドでの戦争体験を話して、収入を補った。最もよくあった報酬は、一回5ドルだった。//
 (18) 両親への私の手紙から判断すると、私はMuskingum で経験する暖かさと楽しい雰囲気に圧倒的に覆われていた。
 落ち着いたすぐ後で、両親にこう書いていた。「こちらではとても気持ちが高まっていて(swell)、お二人は想像できないでしょう」。
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 第一部第五章、終わり。次章の表題は<軍隊>。

2511/R・パイプスの自伝(2003年)⑬。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第五章へ。
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 第一部/第五章・大学(College)①。
 (01) 米国についての我々の意識は歪んだものだったので、下船するときに父親が波止場で街灯柱にのんびりと依りかかっている人を見つけたとき、父親は安心して、この国は思っていたほど慌ただしくないようだ、と言った。
 Ossi Burger がHoboken で我々を迎えてくれ、ニューヨーク市での一日後に、我々は列車で、近くにBurger 一家の農場がある、ニューヨーク州のTroy へ行った。//
 (02) 私がニューヨークに望んでいたこと、そして最も印象を受けたのは、たぶんアメリカの映画で知っていた建築物や交通の規模ではなく、Burger 家の友人の子息である青年に伴われて、ホテル Waldorf Astoria のロビーに入ったり、音楽店舗を訪れたり、個人用ブースで好きなクラッシック音盤を聴いたりできたことだった。
 Troy へ向かっていたときのGrand Central 駅で、私は新聞類販売店に立ち寄り、高等教育(higher learning)に関する書物を探した。
 私は、「大学(College)」、「大学に関する情報」と言った。
 売り子は当惑して、少し考えたあとで、〈College Life〉を一冊売ってくれた。その雑誌は、〈Playboy〉の先触れだった。//
 (03) 我々は農場で、夏の残りを過ごした。
 John と私が寝ていた納屋で、たまたま数百頁の1914-15年版〈アメリカ人名録〉を見つけた。
 その巻末には、予備学校や大学(college)の100頁以上の宣伝広告が付いていた。
 それが、私の求めていたものだった。すなわち、高等教育施設の名前と住所。
 100枚のペニー切手を購入し、友人の助けを借りて、多数の大学への同一の要請文を書いた。自分には入学したい熱望があるが、経済的余裕がないので、奨学金と収入を得られる就労の保障を求める、と。
 私は、Harvard と小さい田舎の大学の違いを知らなかった。
 ほとんどの教育施設からは返答がなかった。いくつかは、消極の回答を寄せた。
 だが、4つの大学から、私が求めるものの提示があった。Indianapolis のButtler College、University of Tennessee、South California のErskine College、Ohio のMuskingum College。
 それらを見分ける基準を、私は持ち合わせていなかった。Muskingum に私を惹き付けたものは、〈人名録〉上の一頁全体の広告にある地図だった。その地図は、オハイオ州のNew Concord 市にあるその大学の位置がアメリカ合衆国の地理的中心であるように、作られていた。//
 (04) 父親は、私が大学へ行くのを喜ばなかった。彼の新しい事業のために、私の助けを欲しかったためだ。
 今では、当時よりもっと父親を理解することができる。だが当時の私には、少しでも高等教育を受ける機会がさらに遅れることは、非道で、不合理なことだった。
 私には、ぼんやりした野望があった。自分が何をしたいのか、少しも分かっていなかった。しかし、金を稼ぐことではないと、絶対的に確実に、分かっていた。
 神はドイツが支配するポーランドから、高次の目的のために、たんなる生存や自己満足を超えて存在するために、私を救ってくれた、と感じていた。
 この感覚は、今までずっと消えなかった。
 もしも父親が私をそばに置いて、勉強したい私の気持ちを理解し、同意するけれども、我々のいまの経済的状況からすると、ともかくもしばらくの間だけでも私の助力が不可欠なのだ、と説明してくれていたなら、あるいは私は、一年くらいは父親に従っていたかもしれない。
 しかし、我々の文化では、父親は十歳代の息子を成人としては扱わなかった。//
 (05) 1940月9月7日、私はバスで、オハイオへと向かった。
 翌日、日曜の朝に、New Concord に着いた。
 街も大学も居住者はほとんどが教会にいたので、大学のキャンパスは空っぽだった。
 地方的な宿屋に記帳して、近くを散歩した。
 赤レンガの建物群は19世紀半ばからあるようで、小山が多い丘陵地の丘に位置していた。
 好ましい印象だった。田園ふうの大学は、ワルシャワやフィレンツェの大学とは全く似ていなかったけれども。
 教室のある建物の入口に、神がモーゼに発したExodos の書物の一節が刻まれているのを見て、衝撃を受けた。「足の靴を脱げ、聖なる地へと立ち上がる場所に向かって」。
 私は、もしかしてうっかりと神学校に着いたのでないか、と思った。
 しかし、のちの午後に、大学の副学長と出会って、彼がキャンパスを車で案内してくれた。そして、全てが良く思えた。//
 (06) 判明したとおり、私は素晴らしい選択をしていた。
 Muskingum College はHarvard ではなく、そう装ってもいなかった。だが、私にとってはるかに適した場所だった。二つの理由があった。
 大学が小さかった。—700名の学生とそれと均衡した規模の教授陣。これが意味したのは、私が大群の中で迷わないことだ。
 戦争前から入学していたポーランドの女の子を除いて、キャンパスにいる唯一のヨーロッパ人だったので、私は好奇の対象だった。
 時を経ずして、ほとんどの学生たちを個人名で知り、彼らもそうするようになった。
 第二に、私はとても貧しかった。衣装入れには二着の上衣と四枚のシャツしかなかった。大きな大学だと、私は惨めな人物に見えただろう。
 やがて、学生、教授、事務職員に連れられて街へ行った。そして、二年半をそこで幸せに過ごした。//
 (07) ヨーロッパ人にとって、1940年にオハイオの中央に来るのは、19世紀へと後ずさりすることだった。そこの人々の外貌と価値観は第一次大戦前のものだった。
 自分がかつて知っていた場所であるような、ほっとする安定感があった。
 そこの人々がどれほどヨーロッパから離れているかを、私がデイトした利発で可愛い女の子が示したかもしれない。
 彼女は、ヨーロッパがあるとは知っていたけど、私と逢えてとても嬉しい、と言った。彼女の胸の裡では、きっと全く信じ難いことだった。
 学長や数人の教授たちを除けば、誰もヨーロッパへ行ったことがなかった。
 (対照的に、名誉博士号を授与されるために1988年にMuskingum を再訪したとき、教授たちのほとんど、大学院学生の多くは、何人かは二度以上、大陸へ行っていた。)
 人々は私の戦争話に、同情的に、しかし疑いながら、耳を傾けた。
 一つには、彼らは圧倒的に共和党支持者で、当時の共和党は孤立主義を選んでいた。
 しかし、政治論以上に、彼らは人間の善良さを信じていて、ドイツ人が私が描写するような悪魔だということに納得しなかった。
 あるとき、第一次大戦でベルギーについて判明したとしたドイツの(その言う)残虐性がいかに虚偽であるかを、想起させられた。
 読んだニーチェの言葉が頭をめぐった。このことから受けた衝撃で、この事実について知識を誇示する気になれなかったからだ。
 ある日、副学長がキャンパスを歩いている私を見つけて、同乗を勧めてくれた。
 我々が目的地に着いたとき、彼は簡単な講義をしてくれた。
 私にどんな体験があっても、人類への信頼を失ってはならない、人々は根本的には善良で、人生は公正だ、と彼は言った。
 彼は最後に、「ではまた。きみはニーチェを読んではいけない」と言った。
 実際、私はニーチェを読むのはもうやめていた。//
 (08) Muskingum での計5学期(semester)の間、アメリカとヨーロッパの間の多くの違いを観察することができた。
 (09) 一つの顕著な差違は、アメリカの若者たちは、ヨーロッパの私の世代の者なら夢物語だと感じるだろうような自信を持って、人生設計をしている、ということだ。彼らは未来に生きているように見えた。一方で、我々は、その日ごとの暮らしをしていた。
 雑誌〈Fortune〉を捲っていて、Maryland 損害保険会社の広告が目に止まった。こう書いてあった。
 「予測できないことが…人生の行路を変更したり形成したりしてはいけない」。
 本当に? 私は自問した。もしそうならば、私はなぜワルシャワからオハイオのNew Concord に来て、人生の行路をすっかり変えたのだろうか?
 この保険会社の言葉の背後にある暗黙の前提は、金銭は人生の望ましくない変化を逸らすことができる、ということだ。しかし、金では十分でない。このことを、私は体験で教えられた。
 アメリカの若者たちは、異なる進み方は溺死することだと確信して、潮流に沿って泳ぎながら、人生を開始しているように見えた。//
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 第五章・大学①、終わり。

2510/R・パイプスの自伝(2003年)⑫—イタリア②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第四章の試訳のつづき。
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 第一部/第四章・イタリア②。
 (12) このような悲劇的事態について、私は相談されなかったし、関与もしなかった。イタリアは、私には全くのパラダイスだった。
 学校も軍事教練もなく、Radonski はおらず、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))もアフリカのLimpopo 河もなかった!。
 私は毎日をのんびりと、ローマの美術館を訪れ、演奏会やオペラに通い、映画館へ行って過ごした。
 ポーランド大使館で世界じゅうの切手を収集し、ドイツ人難民の切手取扱業者に売って、これらを安価に楽しむ入場券代を得た。
 イタリア人が入場券を購入するとき、一定の映画鑑賞者がある言葉—「Dopolavoro」—を発しているのに、私は気づいた。これを言うと、半額で、通常は2リラのところを1リラで買うことができた。
 この言葉の意味を知ることなく、節約したい思いで、私は映画券を安くするために、さりげなく「Dopolavoro」と言ったものだ。
 のちにようやく、Dopolavoro(「労働の後」)とはファシストの労働者組織のことだと知った。
 このことはムッソリーニ独裁体制の弛緩ぶりを示している。誰も、私が会員であることの証明を要求しはしなかった。//
 (13) ローマには、ほとんど旅行者がいなかった。
 今日では混雑してフレスコ画をほとんど見ることのできないSistina Chapel は、いつ行っても、おそらく数人の旅行者しかいなかった。
 私は全ての美術館と画廊を訪れて、一度ならず、十分なメモを取った。
 スペイン広場の階段の上にあるドイツ芸術図書館で、数時間を過ごした。そこで、Giotto に関する企画書の資料を集めた。
 両親を通じて、若いポーランド・ユダヤ人女性と会って、友人になった。この人は、彼女の娘をポーランドから脱出させたいという望みをもって、上海からローマに来ていた。
 我々は一緒に美術館を訪れて、時間を過ごした。
 彼女は、私の唯一の同伴者だった。彼女が神経衰弱に罹って、彼女を失ったのは気の毒なことだった。//
 (14) 私の将来に関して、父親と衝突した。
 父親は、今の騒乱した世界では、しっかりした職業か事業を持たなければ私は生きていけないだろうと心配した。
 この当時の、1939年12月21日付の私の日記の初めに、こう書かれている。
 「私は、父親のつぎのような意見を拒絶した。私が学者になるというのは考え難い、いずれ、カナダのどこかの『チョコレート工場』で父親を継がなければならないだろう。
 〈Es kommt ausser Frage〉(問題外だ)、〈kommt nicht in Betracht〉(考慮外だ)、父親が私に言うことは。…
 自分のことは自分で決定する、自分がしたいことをするだろう、と私は分かっている。」//
 (15) 散発的に書き続けた日記から判断すると、今ではイタリアでの7ヶ月には楽しい思い出しかなかったようだ。しかし、幸せにはほど遠かった。孤独、郷愁に苦しみ、友人たちを懐かしく思い、将来のことで悩んでいた。//
 (16) フィレンツェ大学が外国人向けのイタリア芸術と文化の特別コースを提供していることを知り、出席させてくれるよう両親を説得した。
 完全に自分で行うこととした最初だった。
 3月半ば、母親はフィレンツェまで私に同行し、私がdei Benci 通りのユダヤ人女性の住戸区画の部屋を借りているのを知った。そこは、素晴らしいGiotto のフレスコ画のあるSanta Croce 教会の近くにあった。  
 私はその頃までに、講義を理解するためのイタリア語を増やしていた。
 誰とも親しくならなかったが、必要があるときは学生の誰かに、自分はラテン・アメリカ出身だと言った。
 イタリア文学の外国への影響に関する講義のときに、学生の一人が立ち上がって教授に向かって、聴衆の中にラテン・アメリカ人がいると伝えた。
 授業のあとで教授に紹介されたとき、その教授は私に向かって「素晴らしい、きみは私の家を訪れてきみの国の文学に関する全てを語ってくれたまえ」と言った。//
 (17) この出来事のあと、私は講義に出席するのをやめた。
 それ以降、ずっと一人で過ごした。フィレンツェの教会、美術館、そして市を囲む丘陵地を歩き回った。
 春で、花がいっぱい咲いていた。
 私はきわめて質素に生活した。
 主な昼食は、どの日も、種々の肉の欠片がかけられたパスタ、一杯のワイン、デザートのオレンジだった。それに7リラ(25USセント)支払った。快くほろ酔いになった。
 朝食と夕食に一日あたり5リラがかかり、家賃は一月120リラだった。
 今日まで60年間にあったインフレを少し考える。当時は700リラで一ヶ月を過ごすことができたが、それでは今日では一杯のエスプレッソも飲めないだろう。
 私は〈Osservatore Romano〉を読んで、戦争のニュースを追いかけ続けた。その新聞はVatican の公式の日刊紙で、適切な媒体だった。//
 (18) 私と同じアパートに、ドイツからの難民一家がいた。歯医者で、妻と娘がいた。
 私は本当の自分のことを話さなかったが、彼らは何も疑っていなかった。
 ほとんど6年後に、ベルリン出身のユダヤ人歯科医師の名簿をたまたま見る機会があった。
 私の知り合いを訪ねて、彼らはSomalia へ行き、そこからPalestine へと移ったということを知って、安心した。//
 (19) イタリア政府は、ドイツから、大部分は無視されていたその反ユダヤ諸法を実施するよう圧力を受け続けていた。
 1940年4月、政府当局はユダヤ人に不動産を貸すことを禁止する布令を施行した。
 私は転居せざるを得なくなり、Lungarno delle Grazie 10 のペンションの一部屋に移った。
 そこの賃借人のあとの二人は、フランス人女子学生と、イタリアの予備将校だった。
 我々は一緒に食事を摂った。
 思い出すのだが、あるときその将校が、かりに政府がフランスと戦闘することを命じたら、自分は武器を置いて降伏するつもりだ、と言った。
 私は唖然とした。ポーランドでは、ナツィ・ドイツやソヴィエト・ロシアでは勿論だが、そう発言したことがかりに報告されれば、将校は逮捕されて処刑されていただろう。
 ここでは、何事も起きなかった。//
 (20) ヨーロッパでは相対的な静穏さが続いていたが、父親は、可能なかぎりすみやかに我々を脱出させる決意だった。
 4月末、父親から、家族一の英語半会話者として、ナポリに同行するよう求められた。そこで、アメリカの領事にビザの発行を説くためだった。
 我々の要請は拒否された。我々の順番は6月になるだろう、と言われた。
 別れるときにアメリカの領事は、「I am sorry」と言った。この表現の仕方を聞くのは、初めてだった。//
 (21) ヨーロッパの危機が迫って来ていた。
 5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻した、とフランスの女の子に告げるために家へと急いだ。
 彼女は、出立しようとすぐに荷造りをした。
 2日後、両親から、ローマに戻るようにとの電話があった。
 両親は、我々の移住ビザが6月1日に用意されると、米国の領事から知らされたようだった。
 私は5月13日にローマに戻り、その月の残りをPiamonte 通りで過ごした。
 ドイツ軍は再び、驚異的な早さで前進していた。
 オランダは5月14日に、ベルギーは5月26日に、降伏した。
 ドイツ軍は6月の初めまでに、フランス内部へ深く侵攻し、連合軍は総退却した。
 ムッソリーニはもうすぐヒトラーに加わって宣戦するだろう、と予期された。//
 (22) 6月3日、母親が、アメリカのビザを受け取りにナポリへ行った。
 数日前に、父親は、スペインの通過ビザを得ていた。
 戦争熱の高まりの中で、スペインへの移動手段を獲得するのはきわめて困難だった。しかし、父親は、スペインのBalearic 諸島のPalmas 行きの水上飛行機の切符2枚を何とか確保した。
 父親と私が、兵役年齢で、それを理由に戦争中は勾留されるかもしれなかったので、その飛行機で出発し、母親は船で追いかける、と決定された。//
 (23) 6月5日、父親と私はスペインへと出発した。
 間一髪だった。我々はのちに知ったのだが、まさにその日に、イギリスとフランスの国民は人質として役立つべくイタリアを離れるのを禁止された。
 我々が自由にすることができるいかなる保証もなかった。
 ラテン・アメリカとポーランドの旅券を携帯して、我々はタクシーで空港へ行った。ポーランドの旅券はスペインとアメリカの二つのビザを伴っていたが、イタリアが我々をラテン・アメリカ人として登録するかは不確実だったので、前者はスペインのビザだけだった。
 父親が私に、搭乗ゲートにいる職員の後ろを盗み見して、気づかれないように我々の名前の次に公民権が記入されているかを覗くよう、頼んだ。
 消極の(記入されていないとの)合図を送ると、我々に同行した友人たちは、ニセの旅券を隠していたオレンジ入りの袋を母親から取り去った。
 その友人たちから、戦争後になって、イタリアの警察がその数日後にPiemonte 通りに来て、我々を逮捕しようとした、と聞かされた。//
 (24) 飛行機は離陸し、やがてPalmas に着いた。
 降りるとき、父親が帽子を挙げて「イタリア、万歳!」と叫んだ。イタリアの航空士は父親をスペイン人と思ったらしく、「エスパーニャ、万歳」と答えた。
 我々はその夜、船でバルセロナへ向かった。
 その船は、最近に解放された共和国の戦争捕虜たちで満杯だった。その中の一人と、私は会話した。
 バルセロナに到着したのは、6月6日だった。//
 (25) その間に母親は、ココ(Coco,愛犬)と荷物とともにGenoa へ行き、6月6日に、バルセロナ行きの〈Franca Fassio〉という名の船に乗った。
 出航する前に、母親はポーランド・ユダヤの知人が下船させられるのを防いだ。自分は兵役年齢のその青年の婚約者だ、というふりをしてだった。
 イタリアの役人たちが、二人の関係を証明できる人物を知りたがった。
 母親は、ローマにいるポーランド大使の名を挙げた。
 役人たちは実際に、彼に電話した。
 大使のWieniawa はすぐに出て、母親と青年はまだ結婚していないのか、と驚きを込めて言った。それで、その青年は解放された。
 母親が乗った船はつぎの夜(6月7日)に着岸した。
 好ましい別れの挨拶から判断するに、母親は乗船者の半分と親しくなったようだ。//
 (26) 我々は、二週間半をスペインで過ごした。
 この期間の記憶はほとんど残っていない。例外的に憶えているのは、フランスが降伏したのを知ったこと、ひどいフランス語で発せられ、フランスにイギリスとの同盟を提示したChurchill の演説を聴いたこと、だ。
 6月24日に、ポルトガルに向けて出立した。そこで、アメリカ合衆国まで我々を運んでくれる船を見つけるつもりだった。
 リスボンに着くまでに、フランスからの避難民が続々と乗り込んできた。多くの人々が同じ目的を心の裡に持っていた。アメリカへ渡ること。
 アメリカの乗客には優先権が与えられたので、我々が大西洋を横断することのできる船を見つけるのは、きわめて困難だった。
 やっと、〈Nea Hellas 丸〉という小さなギリシアの船に、船室の余裕を発見した。
 その船はニューヨークから来ていて、アテネまで航行する途中だった。だが、イタリアが参戦し、地中海は戦闘海域に入った。
 それで、乗客を完全に埋めることなく、引き返すことになっていた。
 7月2日に、乗船した。そして、翌朝に出航した。
 我々は、普通の三等船室で旅行した。
 食事は何とか食べられるもので(残しておいたメニュのある料理は「Chou ndolma Horientalep」だ)、ワイン(retsina,ギリシャワイン)は飲めなかった。
 ほんの数人のギリシャ人が乗っていた。彼らはアメリカを追放されていて、戻るのは決して不運ではなかった。
 最も注目した乗客は、Maurice Maeterlinck で、この人は19世紀遅くの著名な作家かつ戯曲家だった。今では忘れられ、読まれていない。
 好天のもとで、彼は一等の甲板で、ヘアネットを付けてゆったりと横になっていた。
 私は彼の写真をもらった。
 ドイツの潜水艦が停まって我々を探す危険がある程度はあったけれども、何事も起きずに船旅は過ぎた。
 (27) 1940年7月11日、New Jersey 州のHoboken に接岸した。
 その日は、私の17歳の誕生日だった。
 ——
 第一部第四章、終わり。

2509/R・パイプスの自伝(2003年)⑪—イタリア①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
 すでに、アメリカのCollege (オハイオ州)、軍隊を経て1945-46年の結婚とHarvard の大学院(Graduate School)進学、のあたりまで、通読し了えた(最後の二つはほぼ同時期で、かつ第二部に入っている)。
 興味はさらに先に進んでいるが、引き返して、イタリアでの生活から試訳掲載を続ける。通読と英語文をいちおうはきちんと日本語に置き換えるのとでは100倍以上の差の労力を要する、とあらためて感じている。
 米国東海岸に着いたのが著者の17歳の誕生日だった。以下は、最後を除いて、著者が16歳のときのこと。
 ①10月27日、偽造旅券でワルシャワ出発。<1939年>
 ②10月29日、ローマまでの切符購入してBreslau(Wroclaw,ポーランド)出発。
 ③ 同、Dresden 経由でMünchen へ(ドイツ)、乗り換えてInnsbrück (オーストリア)着。いったん降ろされる。
 ④10月30日、ローマ着。(イタリア)
 ⑤ 6月 5日、ローマ出発。<1940年>
 ⑥ 6月 6日、バルセロナ着(スペイン)。翌日、母親と合流。
 ⑦ 6月24日、リスボン(ポルトガル)へ向けて出発。
 ⑧ 7月 2日、リスボンで乗船。翌朝、出航。
 ⑨ 7月11日、米国New Jersey 州のHoboken に着岸。
 第二次大戦勃発後と著者たちがユダヤ・(被占領)ポーランド人だという事情からだろう、この八ヶ月余の記述は、きわめてsuspenseful だ。
 なお、Lwow という地名が出てくるが、これはポーランド語表現で、ドイツ語ではLemberg、ウクライナ語ではLiviu (リビウ,リヴィウ)。このGalicia 地方の中心都市で、著者の父親は(とこの時点での将来の妻の父親も)生まれている。
——
 第一部/第四章・イタリア①。
 (01) 〔1939年〕10月30日月曜の午前に、ローマに到着した。
 荷物を駅に預けて、街の中に歩いて入った。素晴らしい噴水のあるPiazza Esedra を横切り、右に曲がってNationale 通りに入った。
 一日じゅう、素敵な秋の日だった。
 父親が、多くのヨーロッパの首都に知人がいるが不幸にもローマでは誰も知らない、と言った。
 そう言った数分後に、誰かが叫んだ。
 「Pipes !」
 我々は振り返った。
 叫び声はRoberto de Spuches という名のイタリアの事業家のもので、この人は戦争前はワルシャワに住んでいた。
 我々にとってじつに幸運な出会いだった。後で判明したように、De Spuches は、父親を知っている唯一のイタリア人だったからだ。
 100万人以上の人口をもつローマで、この特定の瞬間に、この特定の場所に彼が現れたのは全くの偶然にすぎなかった、と考えるのは困難だ。  
 De Spuches は、鉄道駅近くの手頃なペンションに我々が落ち着くのを助けてくれた。
 我々は小銭を持っていなかった。私はその夕方の食事のために、数枚の切手を30リラ(せいぜい1米ドル)で売らなければならなかった。
 翌日、父親は金を送るようストックホルムに電報を打った。それで楽になった。//
 (02) ポーランドは存在しなくなったけれども、ドイツの同盟国ではあったイタリアは、1940年に参戦するまで、ローマのポーランド大使館が機能し続けるのを許した。
 これは我々には、大きな恩恵だった。父親はかつて装甲部隊の将軍で、ポーランド軍団の将校だった大使のBoleslaw Wieniawa Dlugoszowski を知っていた。この人は、大戦間はPilsudski の忠実な支持者で、有名なワルシャワのプレイボーイだった。
 のちに父親から教えられたことだが、父親がイタリアを目的地として選んだ理由はこのWieniawa の存在にあった。
 父親がBeccaria 通りにある大使館で長時間話し込んだ将軍は、大いに助けてくれた。今後の旅行のためのポーランドのビザ(査証)を発行し、イタリア当局との関係を円滑にしてくれ、ローマにいるアメリカ合衆国の領事に父親を紹介してくれた。さらには、いくつかのローマの社交界すら紹介してくれた。父親はその名称をひどく誇りに感じた。//
 (03) 我々は、到着後すぐに警察に外国人として登録する必要があった。
 私は父親とDe Spuches 夫人が州警察へ行くのに同行した。その警察本部はPiazza del Collegio Romano にあり、ムッソリーニ宮殿に近い鬱陶しい所だった。
 気難しいファシスト警察官は、我々のラテン・アメリカの旅券を捲って読み、父親に個人名を尋ねた。Mark だ。
 「Marco はユダヤ人の名前だ」と、彼はきっぱりと言った。
 父親は抗議した。「どうして? 聖マルコはどうなるのだ?」
 これにその警察官は答えなかった。
 もちろん彼は聖マルコはユダヤ人だと答えることができただろう。但し、彼にはウィット(wit)がなかった。
 彼は同僚と相談すると言って、去った。
 父親はその時間を利用して、ポーランド大使館に電話をした。
 問題は、満足できるように解決した。そして、今後三ヶ月間ローマに滞在することが許可された。その期間は、のちに延長された。
 (04) 父親は、戦争はヨーロッパの残りにまで拡大すると考えていた。そしてできるだけ早く、海外へと我々を出発させたかった。
 彼の最初の選択先は、カナダだった。我々は(間違いだったが)カナダはより「ヨーロッパ的」で、米国よりも我々が適応するのが容易だと考えていたからだ。主として映画を通じて我々が知っていた米国は、慌ただしく活動する、極端に性急な国だった。
 しかし、相当に巨額の現金を預託しないかぎり、カナダは移民を受け入れなかった。
 米国は、1920年代以降、東ヨーロッパ人を差別する国の基準にしたがって、移入者ビザを発行していた。
 1939年12月、領事X氏がローマに来て、我々が置いてきたポーランドの身分証明書を渡した。
 それにはBurger 一家による宣誓証明書も付いていて、我々は、アメリカのビザを申請し、しばらくの間、待った。
 その後の六ヶ月は、〈座っての戦争(Sitzkrieg)〉または「電話戦争」の期間だった。その間、連合国とドイツは、西部戦線で動かないまま対峙していた。
 公海での戦闘があり、ドイツはデンマークとノルウェイを占領し、ロシアはフィンランドと戦った。
 しかし、イタリアでは不満が簡単に大きくなった。
 イタリアのファシスト政権は、ナツィ・ドイツやソヴィエト同盟の政府とほとんど似ていなかった。
 イタリア人には狂熱に陥る傾向がなく、「全体主義」(ムッソリーニが誇らしげに自らの体制について用いた言葉)として通用したものの多くは、ファシストたちも含めて誰も真面目には受け取っていない喜歌劇(oper buffa)だった。
 父親はさまざまの事業取引を行なった。私は何も知らなかったが、それは当時はニューヨークのある銀行の金庫に移されていた我々の資産からいっさい引き出すことをしないで、慎ましく生活するには十分な毎月約100ドルの金銭をもたらしたようだった。//
 (05) 一ヶ月後、ペンションを出て、街の中心にあるRassella 通り131番地5号区画の一部屋へと転居した。
 その通りでは1944年3月に、イタリアのパルティザンがドイツ軍事警察の派遣部隊を攻撃することになる。ドイツは報復して、335人の民間人を手当たり次第に集め、Ardeantine 洞穴で虐殺した。
 暖房のない建物での、スラムに近い条件での生活で、少しばかりみじめな存在だった。
 父親は、1940年1月のBurger 一家あて手紙で、我々の家主女性をこう描写した。
 「電気の『太陽』を脚元すぐそばに置かないと、この手紙で少しも書けないだろう。
 これを家主が見つけたらどうなるだろうと怖れて震えている。
 私のアメリカの銀行口座は彼女に支払うのに十分でない。
 ナポリの魔女の耳を塞げるなら、喜んでそうするだろう。
 彼女の性格はひどく悪くはないが、話すときは金切り声で叫ぶようだ。午前中はとくに下品だ。
 彼女は歯が欠けていて、魔女のように脚を引き摺る。片手にほうきを、もう一方に室内用便器を抱えているとき、私はすぐに外套を目指して走って、寒いローマの外気の中へと出る。
 我々の暮らしをひどくしているのは居住区画だけだ。
 我々は節約しなければならなず、その理由で相当に慎ましく生活しなければならない。」
 幸いに、三月に、我々はPiemonte 通りの快適な住戸に引っ越すことができた。//
 (06) 父親は、ポーランド大使の助けを借りて、ポーランドにいる我々一族のために、また私の友人のOlek のためにすらも、旅券やビザを入手した。
 それらは多様な使者によって、ワルシャワに送られた。//
 (07) Olek と私は、一週間に少なくとも一度、ときには二度定期的に手紙を交換した。検閲過程を早く済ませるために、ときどきはポーランド語でだったが、ふつうはドイツ語で書いた。
 全て残しておいたのだが、彼の手紙を読んでも、ポーランドで異様なことが起きているとは、誰も分からないだろう。
 私の友人はたいてい退屈さを嘆いていて、ギリシア語やイタリア語を勉強し、Prust やPirandello を読み、友人たちを訪れてそれを和らげていた。
 彼の手紙を集めてみると、私は突然にドイツが占領するポーランドから消えたので、友人たちには私の生存を疑えるような現象が発生したと思えたようだった。
 Olek は四月に、ハンガリー旅行公社のIbusz を通じて、イタリアへ出立するに必要な全ての書類を受け取った。
 彼—またはその母親も—懸命になって必要なドイツの許可を得ようと活動した。
 時間との闘いだった。我々はアメリカのビザを受け取ればただちにイタリアを出るということを、何ら隠していなかったのだから。
 ドイツの許可が出た。しかし、イタリアはそのときまでに入国ビザの発行を停止し、ドイツは彼の旅行を調整していたハンガリー旅行公社を閉鎖した。
 そうして、Olek はワルシャワにとどまり、ホロコーストの全ての恐怖を経験することになる。//
 (08) 我々の一族に対して切に懇願し、頻繁に手紙をやり取りしたにもかかわらず、父親の努力は実らなかった。
 いろいろな理由で、誰一人来なかった。何人かは生き延びたが、戦争後すぐに、肉体的にも精神的にも消耗し果てた。//
 (09) 父親がとくに心配したのは、妹のRose とその二人の男の子、そして夫を失っていた彼の母親だった。
 戦争が勃発したとき、Rose の夫のIsrael Pfeffer はCracow を離れてポーランド東部へ行ったのだが、共通の事業であるPiscinger チョコレート工場の仕事に従事するよう妻に説得された。
 妻と二人の息子はガリツィア(Garicia)の小さな町に落ち着いた。
 ロシアがポーランド東部を占領したとき、Pfeffer は家族から切り離されたと知った。ドイツがPiscinger 工場を稼働させるのを助けて得た金銭の一部を彼らに送ることはいつでも可能だったけれども。
 父親は必死になって彼らをイタリアに迎えようとした。
 彼は義弟に、妹たちをドイツ領域へ転居させるよう嘆願した。そこからは国外へ旅行することができる。
 父親は1940年1月に、たしかStueckgold という人物と会った。彼は父親に、自分のLwow(リビウ(リヴィウ),ルヴフ,Lemberg(レンベルク))に住む息子は、ソヴィエト地域とドイツに占領されたポーランドの境界を越える方法をよく知っている、と言った。
 父親は電報を打って、妹がその息子と接触するよう取り決めた。この人物を、たまたま子ども時代に同じ学校に通っていたため、私は知っていた。
 この問題について父親が私に相談してくれていたならば、私はStueckgold を信用してはいけないと父親に警告していただろう。子どものときですら、彼は不正直で有名だったのだから。
 いかさま師は私の叔母に、国境を越える代償として彼女の宝石類を引き渡すよう求めた。
 純真な女性は、そうした。//
 (10) 2月末に、Lwow(ルヴフ,リビウ)から電報が届いた。電報があったことはソヴィエト同盟とファシスト・イタリア間の親近性を示すもので、ソ連はそのような情報連絡を許していた。
 それを読んで、母親は私に、すぐに父親に渡すよう求めた。父親は、Trevi の泉近くのお気に入りのハンガリー・レストランで昼食を摂っていた。
 それには、(ドイツ語で)こう書かれていた。
 「Stueckgold 、金を持って消失。旅行は三週間延期。よるべなく、資金もなし。今後のこと、Lwow へ電信を。」
 父親は電報を読むと蒼白になり、数週間床に臥した。
 それは、父親の妹、母親、甥たちへの死刑判決だった。
 彼の母親は、翌年の5月に自然死した。だが、1943年のいつかに、ドイツは妹のRose と二人の少年を殺した。
 そのときまで、彼らはLwow の近くの町に隠れて生活していた。
 私の推測では、ポーランド人かウクライナ人の誰かが、彼らを裏切った。
 Pfeffer はその地位にとどまり、我々がアメリカに着いた後にチョコレートの調材法を父親に送ってきたりすらした。だが、新しいドイツの所有者のために仕事をしたのち、Auschwitz に送られ、二度と便りが来なかった。//
 (11) 母親が残していた当時の父親の文通書類は、ポーランド、リトゥアニア、ソ連からの助けを求める手紙でいっぱいだ。
 それらは、検閲をごまかすためだったが、「Arnold はDick に逢いたい」というような幼稚な暗号文で書かれていた。
 父親は、必死になって、助けようとした。だが、その努力はほとんど実らなかった。—なぜか、私には分からない。
 選んだどこの国へでも旅行することができる時代には、アメリカ人が「ビザ(査証)」という言葉が我々、戦争中のユダヤ人難民、に対して持った意味を想像するのは困難だ。それは生(life)のことだった。
 キューバ、ブラジル、あるいは上海への入国許可を得るために、超人的な努力が費やされた。—一時的な避難場所以外にはどこへも行けない「通過ビザ」を得るためにであってすらも。//
 ——
 ②へつづく。

2502/R・パイプスの自伝(2003年)⑩。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。原書、p,30-p.33。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ④。
 (28) 人間として扱われるときは、私はとても良い仕事をした。
 1937年の春、歴史の教師のMarian Malowist から、当時はポーランド語訳書のなかったドイツ語のPrescott の著〈ペルーの征服〉を夏の間に翻訳するように頼まれた。
 私は訳文を秋に提出することになった。
 頼まれた翻訳報告書を書き終えたが、夏が終わって学校に戻ったとき、Malowist はいなかった。彼は、教師たちの中で唯一のユダヤ人だった。そして、学校を去ったのは、Radonski の反ユダヤ詐術にもう我慢できなかったからだった。
 私は報告書をファイルに綴じ込んだ。
 その文書は、他の私の文書類と一緒に、戦争の後になって私に届けられた。 
 Malowist は、ポリオで手足が不自由だったのだが、奇跡的にホロコーストを生き延び、ワルシャワ大学の経済史の教授に任用された。
 彼は1975年に、Harvard 大学を訪問した。そして私はついに、ほとんど40年遅れて、Prescott の書物の翻訳文書を彼に手渡す機会を得た。
 これは何らかの記録になるのではないか、と思う。
 彼は帰国後のポーランドからの手紙で、報告文書を見て、戦争前に14歳だった少年が戦後のほとんどの大学生の能力を超える歴史研究書を執筆していることを思って、涙が出た、と書いてきた。//
 (29) 1938年6月に、ギムナジウムを卒業した。そして同じ学校の二年間のリセ(Lyseum)に登録することになった。
 教育省から来た視学官によって、私の卒業は目視された。
 教師は各人を彼女の机の所に呼んで、私たちの成長を示すべく若干の質問をした。
 私の番になったとき、どこで生まれたのかと彼女は尋ねた。
 「シェシンです」と答えた。
 「シェシンの特別なことは何ですか?」
 「市が二つに分かれていて、一方はCzechoslovakia に、片方はポーランドに帰属しています」。
 「その二つともどちらに帰属すべきですか?」と彼女は迫った。
 ためらうことなく、私は答えた。「Czechoslovakia」。 
 彼女は驚いて尋ねた。「なぜ? 人口の多数派はポーランド人でありたいと思っていることを示す住民投票はなかったのか?」
 私は応えた。「たしかにあった。でも住民投票は不正に操作されていた。」
 「ありがとう。座ってよい。」
 実際のところは、住民投票について何も知らなかった。私はたんに反抗していた。期待されているように言うのが嫌で、ポーランド・ナショナリズムに同意していないことを示したかった。
 60年後に、シェシンで住民投票は一度も行われておらず、公平に言って、市の住民の多数派を占めているのでポーランドに配属されるべきだった、ということを知った。
 経緯を父親に話したら、彼は怖くなった。そして、父親と母親のどちらかが事態を取り繕うために、教師に会いに行った。
 思うに、彼らは私が外国のラジオ放送でそのような異宗派の考え方を聞いたという理由で、私を弁明したのだろう。//
 (30) 私の美や知への関心を共有してくれるクラス友達はほとんどいなかったので、私はたいてい孤独だった。
 しかし、二人の友人がいた。一人はAlexander (Olek) Dyzenhaus で、人生の残りずっと仲良しだった(ポーランドで戦争を生き延び、南アフリカで死んだ)。
 もう一人はPeter Blaufuks で、とても神経質だった。不運にも、殺された。//
 (31) 女友達もいた。
 我々はKrynica という保養地で、1938-39年の冬に逢った。
 Wanda Elelman は二歳年上で、すでにギムナジウムを卒業していた。
 日記から判断すると、私は情熱的に恋をしたようだ。だが振り返ると、そうではなかった、と思う。かつてポーランドを離れるとき、遺憾なことに、彼女のことはほとんど思い浮かばなかった。
 でも我々は、とくに1939年の春には、カフェで、あるいはLazienski 公園沿いに花盛りの栗の木々の下を歩いて、たくさんの幸せな時間を一緒に過ごした。//
 (32) 戦争が近づいていた。
 母親とEmmy Burger の二人は、不測の事態に備えて、手袋と帽子の作り方を習った。
 私は、Methodist の夕方学級での英語の授業に出席した。
 そこでアメリカ人たちと初めて接触したのだが、彼らには不思議な印象をもった。
 各授業の前に我々は大ホールに集まって最近のヒット曲を歌った。例えば、ピアノを弾く歯の目立つ女性や髪の毛を真ん中で分けてポマードで塗り固めた男性に指導されて、「I love you, yes I do, I lo-o-ove you」。
 我々はふつうは、流行しているラブソングを学習と結びつけはしなかった。
 しかし、会話ができる程度には英語を学習した。このことはのちに、私に大いに役立つことになった。//
 (33) 1939年6月、John Burger を失った。彼の家族とは、ともにアメリカ合衆国へ移住することになる。
 彼の母親のEmmy は半分ユダヤ人で、彼は四分の一はユダヤ人だった。ニュルンベルク諸法では、どちらも非アーリア人だった。
 ドイツが1938年にオーストリアを併合したときに公民権を取り替えなければならなかったので、彼らは離れるのは賢明だと考えた。
 私には、彼らがとても羨ましかった。//
 (34) 戦争前の学校の最終学年に経験した悲哀の一つは、軍事教練だった。それは一般に「PW」として知られる「軍事予備訓練」で、一種のROTC だった。我々は皺くちゃの黄緑色の制服を着て毎月曜日に学校に行き、一定の訓練を受けた。
 リセの最終学年とその前年の間、卒業予定の一年前に、他の学校の学生たちと一緒に、三週間課程の軍事訓練に参加しなければならなかった。
 1939年6月の終わり頃、クラスの仲間とともにKozienice にある軍営地に向かった。そこはワルシャワから南西に約100キロメートル離れた森林地帯にあった。
 ひどく辛い経験だった。
 粗雑な営舎に住み、麦藁かけ布団の簡易ベッドで寝た。
 十分に食べはしたが、食べ物は粗末だった。—朝食は無地のライ麦パンで、コーヒーと紅茶のどちらかが付いた。 
 だが、最悪だったのは、ワルシャワの他の学校の学生から持ち込まれた反ユダヤ主義の蔓延だった。
 ユダヤ人学生は、馬鹿にされ、嫌がらせを受けた。しかし、ほとんどの場合は平然としていた。
 唯一の愉しみは、森の中に監視で立つことだった。夜に眠れないことを意味したが、静かで私的な時間が持てたからだ。//
 (35) まもなく、困惑することが起きた。
 ある日、隊列の中で喫煙しているのを見つけられた。
 その軍営地で予備将校として勤務していたRadoriski が私を叱責し、軽い制裁を命じた。
 ついで、私は野原に立って空を見上げ、外国の航空機の通過を報告するチームに、配属された。
 空中には外国の航空機はおらず、いても判別できなかっただろうから、馬鹿げた任務だった。
 私は近くの店に、煙草を買いに行った。
 同僚たちとそこにいた軍曹が、一緒にウォッカを飲もうと誘った。
 私はそれまでウォッカを飲んだことがなかったが、成人として扱われたことを喜んだ。そして、誘いを受けた。
 見つかって、紀律違反の行為についてもう一度Radoriski に報告しなければならなかった。
 釈明させてもらえるなら、我々について責任のある軍曹が非難されるべきだっただろう。
 だが、そのときまでに、全てに嫌気がさしていて、潜在的にはみんな放り出したい気分だった。
 数日後に、何らかの業務のために野原に集められた。
 髭を生やしたユダヤ人が、荷馬車を運転してやって来た。
 兵士たちは揶揄してやじった。もっと不快にさせたのは、ユダヤ人の彼もそれに加わって、自分自身を笑ったことだった。
 私はむかついた。
 その後のすぐ、軍営地が閉鎖される予定の三日前のことだったが、営舎で喫煙しているのを見つけられた。
 Radonski は、意地悪いほくそ笑みをたたえて、私に退学を言い渡した。
 それ以来、彼に会わなかった。一年以内に戦争捕虜となり、ソヴィエトの治安警察によって殺害されたのだろう。//
 (36) 家に帰った。
 両親は何が起きたかを知って、狼狽した。
 父親はその人的関係を通じて、私が第二次の軍営地訓練に参加するようにすぐに取り決めた。夏季の訓練を完了していないと、学校を修了することができなくなっただろうからだ。 
 第二次の軍営地は、最初よりもはるかに愉快だった。それに参加していた地方の学校は、ワルシャワに浸透していたユダヤ恐怖症(Judeophobia)に染まっていなかったからだ。
 私は問題なく訓練を終え、8月の初めにワルシャワに戻った。戦争が勃発する直前だった。//
 --------
 以下、試訳者。原書p.33 の途中から<第四章・イタリア>が始まるが、p.32 とp.33の間に、10頁ぶんの複数の写真が掲載されている。それぞれに固有の頁番号は付されていない。後にもそのような箇所が二つあって、L. Kolakowski, I. Berlin, Ronald Reagan, George Bush (父), Alexander Kerensky (ロシア十月革命前の臨時政府首班。亡命後の1959年) らとそれぞれ一緒の写真が掲載されている。
 p.32 とp.33の間の10頁ぶんに掲載されている写真は、つぎのとおり。
 01/母方の祖父。
 02/母方の祖母。
 03/父方の祖母と抱かれる従兄。Cracow, 1922年。
 04/①母親一族、計11名。1916年頃。②父親。Wien, 1919年。
 05/両親の結婚写真。1922年9月。
 06/①著者、18ヶ月。②著者、4歳の誕生日。1927年。
 07/①Burger 一家とPipes 一家、計6名(3×2)。②将来の妻 Irene、10歳。Warsaw, 1934年。 
 08/①学校の友人たち、Blaufuks, Olek, 著者を含めて計11名。②Burger 家のHans(弟代わり)。Warsaw, 1939年。
 09/①著者。Warsaw, 1939年6月。②ドイツによる爆撃後のMarszalkowska 通り。Warsaw, 1939年10月1日頃。
 10/①ワルシャワ出立後の旅券用写真、著者と両親。Warsaw, 1939年10月。②ポルトガルに停泊中のアメリカ行きの船上での著者と両親(愛犬ココも写っている)。Lisbon, 1940年7月。
 ——
 第一部第三章、終わり。

2501/R・パイプスの自伝(2003年)⑨。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ③。
 (19) 振り返ることができる範囲で言うと、我々の感覚で知覚する現実は究極的な現実を隠している表層にすぎない、と私は感じていた。
 Cracow の街路で従兄弟と遊んでいる少年だったが、下水管の蓋の下で流れる水の音に気を取られた。ごくふつうの下水管口で、ごくふつうの排水だったけれども、見えない源から生まれてくる音によって、我々は影の世界で動いているという私の思いは強くなった。
 (言うまでもなく、当時の私はプラトン(Plato)を読んだことがなかった。)
 同じような体験を地方の祭りでもした。私は釣竿を持って、スクリーンの背後のプレゼントを拾い上げることになっていた。 幕の後ろに何か別のものがいるのではと、私はいぶかった。
 別のあるとき、私が客体(objects)についてもつ考えはそれの現実を表現しておらず、理解など全くしないままで我々が対処することができるようにするための「表象」(symbols)として役立っているにすぎない、と思った。
 このような感覚は、生涯ずっと残ったままだった。私の研究はつねに、外面の背後にある「真実」を探求したいという衝動に駆られて行われてきた。//
 (20) 音楽家には、いや美術史学者にすらならなかったけれども、私の当初の音楽や絵画への愛好はずっと私に影響を与えつづけ、私は学問上の著作で意識的に、美学的な規準を充たそうと努めてきた。
 多年ののちに、Trevelyan のつぎの言葉を納得して読んだ。「真実は歴史研究の規準だ。しかし、歴史研究を駆り立てる動機は詩的なものだ。」(後注4)
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 (後注4) A. L. Rowse, The Use of History, 1946, p.54 による引用。
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 歴史家でいるための困難さは、両立し難いこれら二つの資質が求められることにある。詩人たる資質と、図書館の司書たる資質。前者は人を自由に舞い上がらせ、後者は人を束縛する。
 私が提示しようとしてきたものは全て、文章と構成のいずれに関しても、実証的証拠に細心の注意を払いつつ、美学的に満足できるように書いたものだった。
 このことはある程度は、創造的な芸術家になれなかったという失望を埋め合わせてくれた。
 だが、それ以上のことを意味する。
 私は学問を美学的な経験だと、それゆえに個人的な経験だと見ている。論文や著書の執筆で誰かと協力するという考えを私は抱くことはできない。
 つねに、知識によりも叡智に関心をもった。
 私が書いた全ては、芸術の場合にそうであるように、私の私的な見方を反映した。
 そのゆえに、私は同僚の学問的営為に一度も関与しなかったし、私自身の仕事を総意に適合するよう義務付けられているとも決して感じなかった。//
 (21) このような考え方のために、私は早くから論争的になった。
 多年ののち、Harvard の大学院生から、私が書いたものはなぜいつも論争を刺激しているのか、と尋ねられた。Samuel Butler のつぎの手紙に答えを見つけるまで、どう回答すればよいか分からなかった。
 「世論を聞く耳をもつ者たちの見解が間違っていると考えるまで、どんな主題についても私は書かない。これは必然的帰結として、私が書く本は全て、その分野を占める人々に逆行することになる。だから、私はいつも熱水の中にいる。」(後注5)
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 (後注5) Henry Festing Jones, Samuel Butler,II, 1919, p.306.
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 (22) 私の若いときの芸術への熱情は、あらゆる種類のイデオロギーに対する免疫という、有益で永続的な効果を私にもたらした。
 全てのイデオロギーは、創設者が普遍的な有効性があるとする真実の核を含んでいている。
 私が10歳代のときマルクス主義者たちといた時々の討論の間、私はほとんど彼らの議論に反対することができなかった。マルクス主義の正典(canon)について全く無知だったからだ。
 しかし、私は、いかなる定式も全てを説明することはできない、ということを、絶対的な確実さをもって知った。
 ある人々は、世界をきちんと整序させること、全てが「あるべき場所に収まる」ことに憧れる。—その全ては、マルクス主義やその他の全体主義理論にとっては「原材料」だ。
 別の人々は、トルストイが生の「無限の、永遠に尽きることのない発現」と称したものに喜ぶ。究極的には美的価値に由来する喜びだ。
 私は、後者の人々の中にいる。//
 (23) 私は女の子についてはきわめて臆病だった。
 学校に行く途中で、上品で黒味がかった髪の毛と瞳をもつきれいな同じ年頃の女の子をしばしば通り過ぎて、見とれたものだ。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。でも、言葉は交わさなかった。
 あるとき公共図書館にいて書棚の本を捲っていると、彼女が歩いてきて、近くに落ち着いた。誘いだったが、私はあえて彼女に接近しようとはしなかった。
 のちにローマで、彼女をワルシャワで援助していた人物を見つけ出した。
 彼女は、疑いなく、ホロコーストで死んだ。//
 (24) 1938年7月、私の15歳の誕生日に、ときどき日記を書き始めた。
 その日記は、奇跡的に、残った。
 ワルシャワを出る前、我々の荷物の中には入れる余地のない、私の最も貴重な文書類があった。
 ポーランド・ユダヤの出自でイタリアの市民権をもつLola De Spuches という女性(下記も参照)が戦争中に、家族に逢うためにしばしばワルシャワに旅行していた。そのような旅行のあるとき、私の文書類を預かっていたOlek が、それを一袋にして彼女に与えた。
 彼女は戦争のあいだそれをずっと保管し、私が最初にヨーロッパに戻った1948年の夏に、私に手渡してくれた。//
 (25) 戦争前の私の日記を読んで、全く陰鬱な気分になる。
 主として幸福でない時代に日記に心の裡を打ち明けたのだとしても、その中を激しい怒りによる継続的な緊張が貫いている。
 それは部分的には、とりまく環境に向けられていた。すなわち、ポーランド・ナショナリズム、反ユダヤ主義、不気味に迫る戦争。
 しかし、私の怒りの唯一の理由は、外部的な要因ではなかった。
 その後何度も確認してきたのだが、当時に私は、意味ある知的な作業に従事していないと簡単に憂鬱に陥ってしまう、ということに気づいた。
 15歳の私には、追求すべき意味ある知的な仕事はなかった。
 努力がどう結実するかが分からないまま、何の指針もなく自分で、音楽や美術史に手を出した。
 従って、たびたび襲う失意の時間は、学問の職業を得るとすぐに、永遠に消え失せた。//
 (26) 戦争の3-4年前の学校は、本当にいやだった。
 私はその頃からワルシャワに来て、私立のギムナジウムに通った。創立者のMichael Kreczmer の名にちなんだ学校で、都心にあり、生徒の半分はカトリックで、半分はユダヤ人だった。
 1935年頃、その頃までは問題がなかった雰囲気が、悪い方へ顕著に変化した。
 親切でクラシック好きだった校長が、新しい種類のナショナリストの教師たちに排除された。彼らはポーランド文学の指導者に率いられており、Tadeusz Radoński の流れにあった。私の学校かつ復讐の的の校長代理になった。
 露骨な反ユダヤ主義の宣告はなかったが、それが継続的な底流になった。
 カリキュラムの重点が、ナショナルな問題に置かれた。—ポーランドの歴史、ポーランドの文学、ポーランドの地理。これらへの私の関心は限られていて、むしろ音楽、芸術、哲学への私の愛好の邪魔になった。
 ユダヤ人はポーランドの人口の10パーセントを占め、ポーランドの経済と文化を支配しているとされていた。そのユダヤ人が、決して言及されることなく、まるで存在していないかのごとく扱われた。
 ポーランド人の意識にユダヤ人がほとんど影響を与えていないとは、全くの驚きだった。
 過去についても現在についても、ポーランドがカリキュラムの中心にあった。
 世界は大不況下にあり、我々の東ではスターリンが数百万人を殺害し、西ではヒトラーがそれ以上の殺害を準備していた。だが我々は、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))といった瑣末なことを学習し、アフリカのLimpopo 河の流れをなぞらされていた。//
 (27) 私が宿題をせず、クラスでの素行が悪かったのは不思議ではない。そのために、一時的にはクラスから追放され、とくに悪くなったときには、一日かそれ以上、家に送り還された。
 私の周囲で何が起きているかに無頓着のまま、机の下でニーチェを読んだものだ。
 数学は、私の最も不得手の科目だった。私は全く理解できず、私の母親の取りなしと授業料を払っている生徒だという事実のおかげで毎年に上級学年へと進んだ。
 (カトリックの生徒の多数でなければ、多くには奨学金があった。)
 古代史と世界地理を除けば、私の成績簿は最低で合格する等級の惨めな集まりだった。「素行」ですら、「良」(good)だったのに。
 だが、教師が私をのけ者にし、素行と成績の悪さの原因を反省せよと言い、私の自尊心に訴える、そのようなことは一度もなかった、と思う。教師らしく用いた手段は、罰や恥辱だった。
 振り返ってみると、学校での行いが良くなかったのは、私には有難いことだった。宿題を果たさないことで、能力試験や授業で得られる以上の価値あるものを学んだり、自分が得意なものを発見したりする、そういう時間を得ることができた。//
 ——
 第一部第三章③、終わり。④へとつづく。

2499/R・パイプスの自伝(2003年)⑧。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 「ニーチェ」への言及がある。
 著者が16歳、1939年秋の「思春期」または「青春期」にニーチェの『権力への意思』を手にして読んでいたらしい(No.2486/自伝②参照)ことの背景も分かる。だが遅くとも1945年にはニーチェ哲学には「幻滅」していたようで、この著執筆時点では①ニーチェの一定の言葉は「無責任で煽動的な無駄話」(irresponsible & infllamatory prattle)だと明記し、②別の言葉(『道徳の系譜』内)は「ぞっとさせる」(appalls me)と明記している。また、それより前に③『ツァラストゥラ』のYiddish 語訳によりその作品の「尊大さ・仰々しさ」(pomposity
は消失した旨も書いている(今回の(*脚注)参照)。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ②。
 (13) 私は、その言語〔音楽〕を学び直そうと決めた。
 ふつうは日曜の午前中に、音楽協会での演奏会に足繁く通うようになった。そこで、J ・ホフマン(Joseph Hoffman)やW・バックハウス(Wilhelm Backhaus)といったピアニストの秀れた単独演奏を聴いた。
 私は、ピアノの練習を始めた。
 1938年11月に、ある音楽家と親しくする個人教育に登録した。その人の名は、それにふさわしく、Joachim Mendelssohn だった。
 背の低い彼は私にとても親切に接して、私は作曲家になる運命にあると感じさせた。
 戦争が勃発したとき、私は副教本の準備をしていた。
 私はまた、ポーランドの指導的な伴奏者のピアノ・レッスンも受けていた。その人の名はRosenbaum だった、と思う。
 彼は嫉妬の言葉を出すくせがあり、私の演奏は全く柔らかくならなかった。
 父親は私の音楽への関心を励ましてくれ、オペラや私の最初の演奏会に連れて行った。私がワーグナーの管弦楽を称賛し始めたとき、その音楽は彼が理解できないままで衝撃を与えたにすぎなかったけれども。
 総じて父親には、私のかつての子ども時代の成長を理解するのが困難だった。そして、私が思春期に入るまでには、私を深く理解するのを諦めていた。//
 (14) 若い人たちは自分たち自身について全く現実主義的であり得る。かりに何かがあると、過剰な自己嫌悪の陥りがちでもある。
 私はすみやかに、音楽は好きだけれども、ピアノ弾きでも作曲でも、自分の才能は良くても平凡なものだと、気づいた。
 私は悔しい思いをもって、同じ世代の者たちが簡単にピアノ演奏を学び、しかもその演奏は上手であることを観察した。
 残念だが、音楽の神秘的な言語を理解できても、それを語ることは学べない、との結論に至った。
 戦争勃発まで個人指導を受けつづけたが、その頃までには、私は音楽家になる運命にはないと分かり、ワルシャワを去った後ではそれに関する努力を全くしなくなった。//
 (15) だが、私は美術に、代わりのものを見出した。デッサン、彫刻、絵画にではなく、美術史にだった。
 1937-38年の冬(このとき14歳だった)のいつかの午後に、私はワルシャワ公共図書館にいて、中世の美術に関する図付きのドイツの歴史書を捲っていた。そのとき、ビザンチン時代の繊細な伝統的絵画を過ぎて、Padua のArena 礼拝堂からの、Giotto の〈Descent from the Cross〉が目に留まった。
 この14世紀初頭のフレスコ画は、ヨーロッパ美術に新時代を築いた一連のイェスの生涯を描いた絵の一つで、Beethoven の交響曲第7番と同じく、私の心を動かした。
 空にいる小さな天使たちの泣き声でさらに強まる傍観者たちの悲しみは、私が実際にほとんど悲嘆の声を聴くことができるほどに、とても納得できるものだった。
 それは、圧倒的な美的経験だった。Kenneth Clark ならば、私の美術への熱情を掻き立てたものを、「Vision の瞬間」と称しただろう。 
 私はまじめに、視覚芸術の全ての分野—絵画、建築、彫刻—の歴史書を勉強し始め、ノートに写し取った。
 O・Keller の音楽史の半分をドイツ語から翻訳した。
 1938年の夏、西部ポーランドの私有地で過ごしていたとき、毎朝早く起床して、昔からの公園のテーブルに座り、ヨーロッパ美術史の手引書の数頁を読み通した。
 私にはその問題についての指導はなく、種々の流派の芸術家の名前、彼らの時代、主要作品に勉強は集中しており、歴史的および美学的な背景には及んでいなかった。
 この主題への関心は、音楽への志向が弱まったときにも続いた。そして、1940年の大学(college)に入ったとき、これに人生を捧げることを考えていた。
 この熱情が、我々がポーランドを脱出するときに、なぜ私がミュンヘンのピナコテークを訪れると強く主張したのかの理由だった。//
 (16) Beethoven、Giotto のつぎに、ニーチェがやって来た。
 私はこのドイツの哲学者を、全く偶然に1938年の秋に発見した。そのとき、私が図書館で借りようと思っていた本は貸し出されていて、その代わりに、名前だけは馴染みがあったが何も知らないこの人物についての、Henri Lichterberger の伝記本を借りた。
 家に帰り、本を開いて、私は釘付けになった。強いがぼんやりした自分の感情が、その文章の中に表現されているのを読んだからだ。
 私は、「ニーチェの哲学は厳格に個人主義的だ」と読んだ。
 彼は「きみの良心はきみに何と語るか?」と問う。「きみは、自分でそうありたいと思うものにならなければならない」。
 ニーチェは、こう続ける。
 「そして人はとりわけ、自分自身を、自分の本能を、能力を、完全に知らなければならない。
 そして人は、自分の生活規範を自分の個性にふさわしいように整序しなければならない。…。
 自分自身を見出す一般的で普遍的な規範など存在しない。…。
 誰もが、自分自身で、自分の真実と自分の道徳を創造すべきだ。
 ある人にとって何が善か悪か、何が有用か有害かは、他者にとってと同じである必要は全くない。」
 (17) こうした言葉は、自己の独自性を模索する思春期には、麻薬のごとく作用した。つまり、他の誰もが私に順応するよう告げるのに対して、ニーチェは、私に反抗せよと促す。
 今では、彼の助言は無責任で煽動的な無駄話だと思う。
 「自由な精神」のためのニーチェの道徳—「何も真実ではなく、全てが許される」—は、私をぞっとさせるものだ。(後注3)
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 (後注3) 「Nichts ist wahr, Alles ist erlaubt.」ニーチェ・道徳の系譜,Ⅲ-No.24.
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 これはヴィクトリア時代には賢い名文句(bon mot)のように聞こえるかもしれないが、20世紀には、大量虐殺のための根拠(rationale)を与えた。
 このような思想への幻滅は、第二次大戦とホロコーストの経験の結果だった。
 1945年8月の日記に、私はつぎのように書いた。
 「私にはつねに、自分が最もふつうではないと考える対象や思想に魅惑される傾向があった。
 もっと若くてもっと無邪気だったとき、この傾向によって、ニーチェの哲学の熱心な支持者になった。「善」、「共感」、「幸福」といったふつうの観念に対するニーチェの攻撃は、私に訴えた。なぜなら、私は(後者の諸観念は)支配的でかつ俗悪だと考えたからだ。
 私はそれ以降に、それらはこの世界できわめて稀にしか遭遇し得ないものだということを、学んできた。
 私はそれらを称賛して広く受容されている思考へと導く書物によって誤導された。—それらは、さらに加えて、とても論理的で、自明のことなのだ!
 今では、それらを見つけるのはきわめてむつかしいことだと、知っている。」(*脚注)
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 (*脚注) だが、ニーチェに対する疑念は、もっと早くに経験した。それは、友人のOlek が〈ツァラトゥストラはこう言った〉をYiddish〔ユダヤ人の言語の一つ〕 に翻訳したときで、たちまちにニーチェのこの作品は骨抜きにされていた。Yiddish は、全ての尊大さ・仰々しさ(pomposity)を消失させてしまう。
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 追記すれば、ニーチェは最初の知的影響を私に与えた。そして、私は私自身である資格をもつという考えは、ずっと私にとどまり続けている。
 (18) 私はHoly Cross 通りの古本屋を探し回った。そして、数ペニーで、Shopenhauer、Kant その他の哲学者のドイツ原語かポーランド語訳かの書物を買うことになる。
 私には哲学の素養がなかったので、読んだものをぼんやりとだけ理解した。
 だが、何かが残り、知りたいという情熱は消えることなく燃えつづけた。
 父親は、私の哲学への関心を必ずしも喜んでいなかった。
 あるとき、Kant の〈Prolegomena〉を私が読んでいるのを見て、父親は、心を「重たくする」、もっと実際的な物事を勉強すべきだ、と言った。//
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 第三章③へとつづく。

2498/R・パイプスの自伝(2003年)⑦。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第三章・知と美への萌芽(Intellectual & Artistic Stirrings)①
 (01) 1935年は、私の青春時代の転換期だった。
 その年に、三つのことが起きた。Pilsudski 元帥が死んだ。ナツィスはニュルンベルク法を通過させた。これはドイツのユダヤ人の市民権を奪い、そして人間たる地位まで剥奪した。私は思春期の激動を経験した。//
 (02) 生涯の最後の10年間に軍事独裁を敷いたPilsudski には、社会主義の背景があった。
 彼は1887年に逮捕され、アレクサンダー三世暗殺の陰謀に加担したとしてシベリアへの流刑に遭った。その同じ陰謀がレーニンの兄の生命を奪ったのだったが。
 社会主義の不変の遺産の一つは、全ゆる様式の民族的かつ宗教的偏見に対する嫌悪だ。社会主義者たちはこれを、階級闘争から逸らすものだと見なした。 
 Pilsudski が支配的地位にあったとき、ポーランドは公然たる反ユダヤ主義を採用しなかった。
 しかし、彼の死後ほとんどすぐに、権力は、軍団で彼に仕えていた将軍や大佐たちに移った。
 世界的な趨勢は、権威主義的支配と単一の政治ブロックの生成だった。
 ポーランドは、ヨーロッパが陥った不況の運命をほとんど逃れられなかった。
 ユダヤ人の状況は急速に悪化した。ナツィスが外で反ユダヤ主義の炎を煽っただけに、いっそうそうなった。
 「ユダヤ問題の解決」が語られた(「解決」を必要としたのは反ユダヤのパラノイア〔偏執症者〕だけだったけれども)。
 ユダヤの企業は購買を拒否された。
 非ユダヤの店舗の中には、「キリスト教者」を明示する顕著な符号を掲示したものもあった。
 ポーランド人は「同じ仲間から買う」よう迫られた。
 従前は別々にかつ円満にカトリック教徒とユダヤ人が過ごしていた私の学校では、生徒たちが「ユダヤ問題」を討論した。この語で意味されていたのは、ポーランドの経済と文化に対するユダヤ人の、あるとされる有害な影響だった。
 〈zazydzenie〉、あるいはポーランドのユダヤ化という用語が、流行した。
 ユダヤ人大学生は身体的攻撃を受けた。1937年に教育大臣は、ファシストの民族民主党の要求に屈して、講義室の左側にある離れた長椅子に座るよう、彼らに命令した。
 こうして、耐え難い雰囲気が生み出された。//
 (03) Pilsudski の死後すみやかに、虐殺(pogroms)が始まった。
 1936年3月、Radom に近い小さな町のPrzytyk で、ユダヤ人が地方農民に強奪され、二人が殺された。
 そのような暴力的事件が続いた。
 当時わずか12歳だったけれども、当局が殺人者や強奪者を無罪放免した一方で自衛したユダヤ人を非難して収監したとき、私は燃えるような激しい怒りの感覚を経験した。//
 (04) これら全ては、ドイツの国家的支援を受けた反ユダヤ主義を背景にして起きていた。ドイツはヨーロッパじゅうで、この憎悪に充ちたイデオロギーを正当化し、奨励していた。
 父親は、ヒトラーの最新の狂乱をラジオで聴くために、家に急いで帰ったものだ。
 私のドイツ語はほとんどネイティブだったが、聴衆たちの非人間的な甲高い声で何度も中断するヒステリックな叫びを、ほとんど何も理解することができなかった。
 その叫び声は、恐ろしいというよりもむしろ当惑させるものだった。//
 (05) そのときまで事実として受け取ってきた私のユダヤ性は、今や一つの問題になった。
 我々は閉じ込められた。
 私は、シオニズムに共感した。
 イギリスの委任統治国は、ユダヤ人居留者に対する大量の暴力行使を1936年に犯したパレスチナ・アラブを宥めようとして、パレスチナへの移住を厳格に制限した。
 我々は、私をイギリスの、あるいはキューバですらの、船員学校に送ることを語り合った。だが、実現しなかった。理由の一つは惰性で、もう一つは資金不足だった。//
 (06) 同化したポーランド・ユダヤ人は、ポーランドのユダヤ人総数の5ないし10パーセントと見積もられ、個人数では15万人と30万人の間だった。
 これら同化ユダヤ人のほとんどと同じく、我々はユダヤ性とそれとの関係に誇りを持っていたにもかかわらず、我々はユダヤ的儀礼を遵守しなかった。
 稀なことだがかつて、父親が私をシナゴーグ〔ユダヤ教の教会〕へと連れて行ったとき、真似ることができないままで、私は信者たちが祈るのを眺めたものだ。
 驚いたのは、非公式のシナゴーグの数はカトリック教会よりも多いことだった。また、カトリック教徒は祈りの場所で客のように振る舞っているように見えたが、ユダヤ人はまるで自分の家にいるように行動していた。
 母親は、Burger 一家が行っていた楽しいクリスマスの祝日によって、私が宗教について当惑しているだろうと、気にかけた。
 それで、Hanukkah(ハヌカー)〔12月にあるユダヤ教の行事—試訳者〕のろうそくを一度か二度、私に点けさせた。だがそれは、きらめく常緑の木、積み重なるプレゼント、そして「聖夜」の歌のあるクリスマスと比べると、生彩を欠いた行事だった。//
 (07) 言うまでもなく、母親は、私の宗教的嗜好を心配した。
 13歳の年のいつか、Bar Mitzvah(バル・ミツワー)〔ユダヤ教上の成人男性またはその行事—試訳者)の準備をまだしていないことに私は気づいた。
 それをしたいと、私は両親に言った。そうして、私を個人指導する年配のユダヤ人を雇ってくれた。
 貧素なその人は、彼の考えでは私が6歳のときに学んでおくべきだったことを、彼が無駄な仕事だと考えたものは諦めて、教えてくれた。
 14歳のとき、近隣にあった母親一族のシナゴーグで、私はBar Mitzvah となった。
 のちにアメリカ合衆国で出席した豪華なBar Mitzvah 行事と比べて、私が体験したのは簡素なものだった。
 私はTorah〔ユダヤ教の聖書の一部—試訳者〕のその日の一節を読むように呼び出され、その後、他の信者たちと一緒に、母親がケーキとワインを用意していた部屋へと赴いた。
 それで全てだった。
 私へのプレゼントは、tefillin(聖なる小箱)、祖母からの贈り物である、祈りの間に額に付けるphylecteries だった。//
 (08) そのとき、そしてそれ以降、私は人前で祈るのを気まずく感じた。
 かくして、ユダヤ教の行事に出席して心易かったことはなかった。High Holidays の間の奉仕に出席し、Yom Kipper の断食を遵守し、Pass Over の8日間はパンを食べるのをやめたものだったけれども。
 Harvard 大学の著名なユダヤ人学者のHarry Wolfson と同じく、私は「遵守しない正統派ユダヤ人」だった。
 私は、理想主義と現実主義を結合しているがゆえに、ユダヤの信仰は卓越したものだと思ったし、今でもそう思っている。
 キリスト教の貧困と犠牲という理想は理論的により高貴だと認めるとしても、尋常ではない特別の個人による以外は、決して実践されなかったし、実践され得ないだろう。
 我々の宗教は、ユダヤ人に富を放棄するよう強いるのではなく、共同体に負担をかけないよう財産を取得し、その後で慈善を実践するよう助言する。
 私はこれは、イェスが説いたものよりもはるかに、現実的な道徳原理だと考える。//
 (09) ユダヤの信仰や民族との私の関係は、いくつかの基盤に依拠している。
 第一に、ユダイズムには、無神論の付着が完全にない。それは、妥協のない、精神的宗教だ。
 第二に、私はいつも、ユダヤの文化に支配的な、諦念した理想主義の雰囲気を好んでいる。すなわち、とくにユダヤ人にとっては過酷な世界で道徳的理想を維持し、ユーモアの感覚でもってそのような条件での生活を耐えられるものにしていること。
 私は、正統派ユダヤ人と同じく、人間の全ての行動を道徳の観点から観察してきた。日常生活でも、歴史家としての仕事でも。
 〈Sittlicher Ernst〉—道徳的誠実さ—は、私の明快な理想だったし、今でもそうだ。
 最後に、二千年にわたる敵対的世界の中で生き延び続け、信仰への忠誠心をずっと保ち続けた私の祖先たちの能力に、私は限りのない尊敬の気持ちを捧げる。//
 (10) Pilsudski の死後に支配的になった毒に充ちた雰囲気の中で、父親は、軍団の同僚だった一人のカトリック教徒を仲間として雇用しなければならなかった。彼は、書ける範囲内でのことだが、たんに表看板としてだけ役立った。
 父親は1936年に、ポーランドの主要な港のあるGdynia に事務所を開いた。
 その夏と翌年の夏に彼を訪れたが、それ以外には、父親との接触はなかった。
 父親が不在だった二年の間、父親が私に電話したり手紙を書き送ったりした記憶は、一度たりともない。//
 (11) 1935年以降の政治的社会的雰囲気の悪化は、私自身の身体と心理の両面での激動を伴う、子ども時代と思春期の境を越える変化と同時期に起きた。
 何も知らなかったことが起き始めた。それは言わばまるで異なる人間へと、私を変化させた。
 最初に現れたのは、女の子への関心ではなく、知的かつ美的な大変貌だった。//
 (12) それは音楽で始まった。
 母親の妹のRegina と一緒に夕方を過ごしていたときに、私はラジオ装置をいじくっていた。その装置はいわゆるsuperheterodyne のモデルで、ヨーロッパじゅうの放送局を選択できると見込まれていたが、実際にはほとんどガーガーという雑音だけを発していた。
 突然に、釘付けになるような音楽が流れた。
 それはBeethoven の交響曲第7番の最終楽章だった。
 演奏されているテンポの速さから判断して、おそらくはToscanini の指揮のものの録音だった。
 私はそのようなものを聴いたことがなかった。
 単純に「美しい」ものだったのではない。
 そうではなく、だいぶ昔に知っていたが忘れてしまっていた言語で、私に語りかけてきた。
 私の心の奥底を、貫いた。
 その夜、私は頭の中を走り抜ける音楽につれて揺さぶられ、眠れそうになかった。//
 ——
 第三章②へ、つづく。

2497/R・パイプスの自伝(2003年)⑥。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第二章の試訳のつづき。
 ——
 第二章・私の出自 ②。
 (13) 我々は、ワルシャワに移る途中で、ウィーン出身の女性が経営する小ホテルの一室に初めて落ち着いた。
 そこでウィーン人のOscar とEmmy Burger の夫婦と出逢った。彼らは、運命的に、我々の最も親しい終生の友人となることになる。
 Oscar Burger はオーストリアの自動車製造会社、Steyt-Daimler-Puch のポーランドの代表者で、この会社はVolkswagen に先んじて小型で安価な車を製造していた。
 彼らには一人の子息がいた。Hans といって、私より1歳、年下だった。
 我々はまもなく、町の別の所にある同じ家屋の別々の区画を賃借りした。だがそこを立ち退かなければならなかったとき、彼らと一緒に転居し、それから5年間、我々は同じ生活区画を共有した。
 両親たちは離れ難く、Hans は代わりの弟になった。//
 (14) トルストイは友人にこう書き送った。「子どもたちはいつも—若いほどそれだけもっと—、医師たちの言う催眠の状態にいる」。
 私は、自分の子ども時代はそうだったと思い出す。
 ときに「現実の」世界と接触して中断したが、私自身の世界の中で生きていた。
 青少年期に入るまで、自分自身の思いと感情以外で私が経験した全ては、私の外側にあって、完全には現実ではないように感じた。
 まるで夢うつつの催眠状態でいて、ときたま覚醒して、またすみやかに元に戻って行ったかのようだった。//
 (15) 8歳か9歳のとき、母親がドイツ語の短い祈り言葉を教えてくれた。
 のちに、作者はLuise Hensel という、ロマン派時代の詩人だと知った。
  Müde bin ich, geh' zur Ruh,/Schliesse beide Äugelein zu,/
  Vater, lass die Augen dein,/Über meinem Bette sein./(*脚注)
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 (*脚注) 大まかには、「疲れて休みに行き、目を瞑る。父よ、あなたの目が私のベットの上にとどまるように」。
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 そのときもそれ以降も、私は神の存在や慈悲深い導きに対するどんな疑いも経験しなかった。
 じつに、神の存在は私には絶対的に確かなものだ。神は全ゆるところに現存している。これとは別のことは全て、仮定のものか、疑わしいものだと思えたし、そう思われる。//
 (16) 上のことは、私が幸せな子ども時代を送ったことの理由だ。
 家族の写真を見ると、我々は戦争を生き延び、ともかくも思春期になるまでは、私はつねに微笑している。
 外部の世界をときに楽しむことはあったが、怖ろしくなったとき、私はいつも自分の内部世界へと引っ込むことができた。
 その感覚は子ども時代にずっと続き、ある程度は生涯を通じて私に同伴した。
 私の生命が危険だった第二次大戦という事件ですら、私の外部のもので、ゆえに現実には意味はないもののように感じた。
 私には、幸福な結末が来るという、全くの自信があった。//
 (17) それでもやはり、宗教に関しては問題を抱えていた。
 13歳か14歳の頃を思い出しているのだが、かりに存在する全てのものが神から生まれるのだとすれば、全てのものが—どんなに小さくとも全ての被創造物(生物)が、どんなに瑣末でも全ての出来事が—永遠に存在するはずだ。
 だが、存在した痕跡もなく事物は消滅している。
 顕微鏡で生物種を覗き込んで、神は本当にかつて生きた全てのアメーバについて説明することができるのだろうか、と思う。
 古い写真を見て、群衆の中のこの人を、あるいは荷車を引くあの馬を、みんな全て死んでいるが、神は憶えているのだろうか、と自問する。
 私はこの問題を、心の裡で決して解決しなかった。
 私が歴史を愛好したのは、何らかの意味で、この葛藤にもとづいていた。
 過去のものとなり死んだように見える諸事象を扱うことによって、私はある意味で、それらを生き還らせ、そうして時間から逃れた。//
 (18) 大戦間のポーランドについて、「ファシスト」とか「反ユダヤ国家」との評価がある。しかしこれは、ユダヤ人の若者はどうすれば絶望的な苦難のある国以外の国で生きることができたかと不思議がるようなものだ。
 「ファシズム」という用語は、1920年代からソヴィエトの共産主義者たちが行った言葉の操作に影響を受けて、本来の全ての意味を失った。
 イタリアのファシズム—言葉の元来の厳密な意味での「ファシズム」—は、1914年より前にB・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が率いた極端に急進的な社会主義運動が大きく成長したものだ。 
 ムッソリーニは、第一次大戦勃発とともに、ヨーロッパを覆った愛国主義の狂熱と階級闘争を上回る民族への忠誠心に影響を受け、社会主義の上にナショナリズムを接ぎ木した。そして、現代世界での階級闘争は社会主義者が教えたように同一の国家内の市民対市民で闘われるのではなく、国や民族の間で、裕福で搾取するものと貧困で搾取されるものとの間で闘われる、と主張した。
 彼は徐々に対抗する諸政党を廃絶し、包括的な検閲制度を導入し、諸企業に対して、全面的な国家の監視の下にある労働組合と協力することを強いた。
 これは、のちにソヴィエト同盟で起こったことの、緩やかな範型だった。//
 (19) イタリアと似たようなことは、大戦前のポーランドでは起きなかった。
 1926年まで、ポーランドは民主主義の途を歩んだ。しかし、共産主義者と社会主義者がナショナリストと闘ったとき、そして人口の三分の一を占める少数民族の権利が侵害されたとき、苦境を克服できないことが分かった。
 1926年5月1日、政治の舞台から退いていたPilsudski がクー・デタを敢行した。
 しかし、その範囲は限られていた。
 共産主義政党を含む諸政党は公然と活動し続けていたし、プレスの自由も尊重された。そして、司法部も、その独立性を維持した。
 政府内では軍部が重要な役割を担い、Pilsudski は立法部を支配することができていたが、彼の独裁は穏和で、非暴力的だった。
 1935年に彼が死ぬまで、ポーランドには伝統的な権威主義的統治があったけれども、類似性がイタリアとはほとんどなく、ナツィ・ドイツとは全くなかった。//
 (20) ポーランドの反ユダヤ主義という一般的な印象も、一定の修正が必要だ。
 ポーランド人にとって疑いなく、ポーランド性の規準を明らかにするなら、それはカトリック教会の遵守だった。だからこそ、正統派のウクライナ人やユダヤ人は、いかにポーランドを文化や忠誠の対象としていても、本当のポーランド人とは見なされなかった。
 これが、カトリック教会が国全体を統合した、120年間の外国占領の結果だった。
 民衆全体がカトリック教会によって、ユダヤ人に対する敵意を吹き込まれ、教え込まれた。
 人種的な反ユダヤ主義ではなかった。だが、信仰の放棄によってのみ改宗でき、かつそうしてすら、ポーランド人からみると決して完全にはユダヤ性を除去することができなかったので、ほんのわずかに苦痛が少ないにすぎなかった。
 しかし、(政府や軍部内以外では)公然たる差別はなかったし、大虐殺(pogrom)もなかった。
 正統派ユダヤ人の大多数は、自分たちの意思で、狭い共同区画に住んだ。そこでの生活様式が宗教の遵守を容易にしたからだ。
 我々のような同化したユダヤ人は、こうした共同区画の外の仲介者的世界で生活した。だが、私はこう言わなければならない。我々を背教者のごとくに扱う正統派ユダヤ人によりも、教育を受けたポーランド人の方に共通性を感じた、と。//
 (21) ともあれこうした理由で、1935年以前には、ポーランド・ユダヤの中産階層の子どもたちは、全く幸せでいることができた。
 確かに、ひどい事件はあった。
 1930年代の初め、我々は明らかなユダヤ人だけの共同住宅に住んでいた。 
 そして、ときには名前を呼ぶことがあった。
 一度、改宗した家庭のユダヤ人少年が、私を「ユダヤ」と呼んだ。
 私は叫び返した。「ユダヤは、きみ自身だ!」
 それに反応して彼は、ペン・ナイフで私の頭を打ち、血が流れた。
 彼の両親は、丁重に詫びを言った。
 しかし、私の子ども時代はこのような稀な事件でとても不快だった、と言うことはできない。
 我々は、ふつうの生活を送った。冬にはスキーやスケートをし、夏には車で街を出てピクニックをし、大きい「Legia」プールで泳いだ。映画を観に行きもした。//
 (22) 私は、どの点でも傑出した子どもではなかった。
 どの方面についても、早熟の才能を示しはしなかった。
 たくさん読書することもなかった。
 でも、私はとても魅力的な男の子だと見なされていた。オリーブ色の肌、母親が前部を切り揃え続けたつややかな黒髪は、たびたび称賛された。そして、私はしばしば、ペルシャ人かインド人だと思われた。
 思春期に心が傷ついたことの一つは、この称賛が突然になくなったことだった。//
 (23) 職業的な文筆家に将来になる者にしては驚くべきことかもしれないが、若いときの私には、自分の考えを文書にして書き記すのがとても困難だった。
 しかしながら、きわめて流暢に、私は話した。
 十代のとき、英雄が登場人物となる即席の作り話を語って、クラス仲間を楽しませた。この才能のおかげで、後年になって私の子どもと孫たちのいずれも、ベッドでの寝物語でわくわくさせることができた。
 しかし、決まりきった学校の課題を執筆するのは、本当に苦痛だった。
 のちに、主題が自分に浮かんで来て、自分の感情を表現できてようやく、きちんと書くことを学んだ。//
 ——
 第一部第二章、終わり。

2496/R・パイプスの自伝(2003年)⑤。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
 ——
 第二章・私の出自(My Origins)①。
 (01) ここで、時計の針をまき戻して、私の出自を語ろう。//
 (02) 私は、1923年7月11日に、ポーランドのシレジアのCieszyn (チェシン、Teschen,テシェン)という小さな市の、同化した(assimilated)ユダヤ人家庭に生まれた。そこはチェコとの境界にあり、のちにアウシュヴィッツ最終収容所となる所から50キロメートル離れていた。
 父親のMark は、1883年にLwow (Lemburg, Lviv)で生まれ、若いときはウィーンで過ごした。
 祖先はもともとは「Piepes」と綴り、19世紀初めから、生まれた市の改革志向の市民の主要人物だった。
 Bernard という名だった我々の先祖の一人は、ユダヤ人共同体の書記として勤めていたが、1840年代に、率先してLwow に改革派ラビ〔ユダヤ教聖職者〕を送り、ほとんどが職業人で成る「進歩的寺院」を率いた。
 今日の基準からすると当時は全く保守的だったユダヤ教では「進歩的」だったとはいえ、正統派のユダヤ人は激しい怒りを感じたため、彼らの一人は新しいラビを殺害し、自分の娘を彼の台所にこっそり入らせて、食物に毒を入れた。//
 (03) 1914年、父親はポーランド軍団(Legions)に入隊した。それは、ポーランドの独立のために戦うために、ドイツ・オーストリアの援助を受けて、Joseph Pilsudski が組織していたものだった。
 彼は1918年まで現役兵のままでいて、「Marian Olszewski」という偽名で、Galicia のロシアと戦った。
 父親がどんな体験をしたのか、私は知らない。戦争をすぐ近くで見たほとんどの人々と同じく、彼は語るのを好まなかったからだ。
 彼はその間に、何人かの将校たちと親しくなった。彼らはのちにポーランド共和国を動かすことになり、友人関係は大戦間の時期や我々のポーランド脱出に役立った。//
 (04) 母親のSarah Sophia Haskelberg は、家族や友人には「Zosia」として知られ、Hasidic 〔ユダヤ教の一部—試訳者〕の裕福なワルシャワの事業家の11人の子どもたちの9番目の子どもだった。
 母親はその父親を、陽気な人で、食べて、飲む美食家で、大きなひどい声で歌ったと思い出していた。
 彼は事業を発展させてロシア政府とも取引をし、制服やロシア軍用の武器を売った。そして、ワルシャワとその郊外にかなりの不動産を獲得した。
 母親の兄弟の数人は、技術学校か船乗り学校に入るために、戦争前に、ベルギーへと送られた。
 家族は夏をワルシャワ近くのリゾート地で過ごした。そこには、祖父の別荘があった。
 家族はそこへ学校が終わる前のPassover 〔出エジプト記念のユダヤ人の祝日の日々—試訳者〕の頃に移り、9月に学校が始まる後まで、滞在した。
 ワルシャワでは、家族は祖父が所有するアパートに住んだ。1939年になっても、トイレはあったが浴室はなく、台所のシンクで洗う必要がああった。//
 (05) 1915年にロシア軍がワルシャワから撤退したとき、母親の父親は彼らについてくるよう強いられた。彼が裏切ってドイツ軍にロシア軍に関して知っていることを教えるのを阻止しょうとした、というのが最もありそうだ。
 彼はその後三年間、ロシアにいた。そのうち一年は、共産主義者の支配下だった。
 ドイツとの人的関係を通じて、1918年に、彼はポーランドに戻り、息子の二人、Henry とHerman が地位を引き継ぐとの取り決めがなされた。
 彼らは二人ともロシア人女性と結婚し、残る人生をソヴィエト同盟で過ごした。
 Herman は、スターリンの粛清(purges)で殺された。1937年11月に逮捕され、すみやかに処刑された。//
 (06) 我々は1902年のクリスマスの前夜が母親の誕生日だと受け取っていた。しかし、ロシア支配下のユダヤ人家庭は男の子が兵役に就くのを回避すべく息子たちの誕生日を「取引き」するのがふつうだったので、母親の誕生日も確実ではなかった(実際、1920年代にパレスチナへ移住した彼女の兄のLeon の誕生日は1902年12月28日とされていた)。
 私の母方の祖父は、私が生まれた年に癌で死んだ。
 母親の母親は、よく憶えているが、ポーランド語をほとんど話さず、私と最小限の会話しかしなかった。
 彼女は、73歳のときにホロコーストで殺された。強制的に送られて、Treblinka にあるナツィの死の収容所で毒ガスを吸わされた。
 学校の後でときおり、私は彼女のアパートに立ち寄ったものだ。そのときいつも優しくされ、食べ物をもらった。一方で、彼女がかつて我々を訪れたことは憶えていない。//
 (07) 私の両親は1920年に、父親がワルシャワに住んでいるときに逢った。
 母親はこう私に言った。彼のことを友人から聞いたのだが、その友人は仕事で彼の父親のところを訪れてもMarek Pipes は自分を気にかけてくれない、と愚痴をこぼした。
 母親には、彼をつかまえてデートに誘う自信があった。
 彼女は彼の事務所を訪れて、彼が頻繁に行っていると聞いたレストランで見たことがある、というふりをした。
 興味をそそられ、彼は餌に食いつき、彼女を誘った、かくして、ロマンスが始まり、二人は二年後に結婚した。
 結婚式は1922年9月に行われ、その後にCieszyn (チェシン)へと移った。そこで父親は、三人の仲間と一緒に—うち一人はのちに義兄弟になる—「Dea」というチョコレート工場を経営していた。
 それは今日でも、「Olza」という名前で存在しており、「Prince Polo」という名のウェハス棒を製造している。
 その市は川で二分されていた(今もそうだ)。東部はポーランドで、西半分はチェコスロヴァキアに属していた。
 ユダヤ人たちはその市に、遅くとも16世紀の初めから住み始めていた。//
 (08) 私はチェシンで4年間だけ過ごした。そして、この郷里について、ほとんど思い出がない。
 今でもある二階建ての家で、私は生まれた。
 70年後に、チェシン市長が私に名誉市民号を授与してくれたとき、式典で私は、憶えている幼年期のことを三点述べた。
 母親が、厚い層のバターとダイコンの付いたサンドウィッチかライ麦パンをくれたのを覚えている。
 家の前で食べていたとき、ダイコンがすべり落ちた。
 こうして私は、喪失を学んだ。
 そのような食べ物を、私はひどく欲しがった。
 こうして私は、羨望を知った。
 最後に、両親は私に、私は数人の友達を日用食料品店に誘って各人に一個ずつオレンジをあげたことがある、と話した。
 店主に誰が支払うのかと尋ねられて、私は「親たち」と答えた。
 こうして私は、結論的に言うのだが、共産主義とはどういうものか、つまり、誰か他人が支払うのものだ、ということを学んだ。//
 (09) 転居したあと何度かチェシンを訪れた。一度は1937-38年の冬休みの間で、つぎは1939年2月、ポーランド政府が、ミュンヘンで連合国から放棄されたチェコに、チェシン市の半分の割譲を強いたあとだった。
 荒廃した街路を歩きながら、母国の恥ずかしさで気分が悪くなった。//
 (10) 住民は、ポーランド語、ドイツ語、チェコ語を切り替えて使った。
 両親は、家では、ポーランド語とドイツ語のいずれかを選んで話した。
 私とは、もっぱらドイツ語で話した。ドイツ語を話すお手伝いも雇っていた。
 しかし、私と遊ぶ友達はみなポーランド語を話した。それで、私はその言語を向上させていった。
 その結果として、私は3歳か4歳のときに、バイリンガルだった。//
 (11) ヨーロッパの地理的中心 (*脚注) で出会う文化的な交錯の流れを、アメリカ人が思い浮かべるのはむつかしいに違いない。
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 (*脚注)  二つの線を北岬〔ノルウェー〕からシチリアまでと、モスクワからスペインの東部海岸まで引くと、それらはチェシン付近で交差する。
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 アメリカ合衆国には多数の民族集団があるけれども、イギリスの言語と文化がつねに主要なものだ。
 私が生まれた所では、諸文化が同等の基盤を持っていた。
 この環境によって、人々は、外国人の思考様式についての鋭い感覚を身に付けていた。//
 (12) 父親は1928年に、Dea を売って、家族とともに短期間、Cracow(クラカウ、クラクフ)へと移った。そこには父親の妹が夫と二人の男の子と住んでおり、また、彼の両親も一緒にいた。
 父親の父親のClemens(またはKaleb)は威厳のある背の高い紳士で、髭の生えた顔に私を接吻させたが、私に一言も発しなかった。
 彼は、1935年に死んだ。 
 Cracow で父親は、義兄弟ともう一人の仲間で新しいチョコレート工場、ウィーンのPischinger 商会の支店を設立した。チョコレート・ウェハスの製造に特化したものだった。
 (今でも、Wawel の名で稼働している。)
 Cracow には一年もいなかった。
 工場の経営を義兄弟と仲間に委ねて、父親は、小売販売業をする意図を持って、家族とともにワルシャワに移った。
 しかし、まもなく、不況がやって来た。
 父親はPischinger との関係を切って輸入事業を始め、主にスペインやポルトガルから果物を買い付けた。必要な資金は、政府内にいる友人から現金で割当てられた。
 母親の出身家庭がもつ不動産からの収入を加えた収入は、控えめな生活をするには十分だった。
  父親は本当は事業をするのに適していなかった、と追記してよいかもしれないと思う。
 彼には良い考えが浮かんだが、やり通す持続力が弱くて、毎日の管理業務にすぐに飽きた。
 私の両親は楽な暮らしを送ってきていた。
 のちに、事態がもっと悪くなったとき、父親は感傷をもって思い出していた。母親が毎日朝に直面していた主要な問題は、どのカフェで一日を過ごせばよいか、だったと。
 彼は、ワルシャワの男性の中のベスト・ドレッサーの一人という声価を得ていた。
 つねに、料理をし、掃除をし、朝早くにタイル貼りの暖炉に薪をくべるお手伝いを雇っていた。
 そのお手伝いは、台所で寝て、雇い賃は、部屋と食事込みで毎月5ドルか6ドルだった。//
 ——
 ②へとつづく。

2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第一章の試訳のつづき。
 ——
 第一章 ④。
 (38) 二人の赤帽を連れてくるため駅へ行ったとき、まだ暗かった。
 我々は沢山の荷物を持って、一定の地位のある外国人用に作られたような一等車両で旅行した。
 制服を着たドイツ人で、駅は混んでいた。
 安全を期して、父親はBreslauまでは同伴してほしいと、領事X氏を説得していた。そこからミュンヘン経由でローマへ行くことになっていた。
 母親の兄弟の一人のMax が、別れを告げるために駅まで来た。彼は、残すほかに選択の余地がなかったココ(Coco)を抱えた。
 我々の小犬はキャンキャン鳴いて、革紐を引っ張った。
 列車が動いたとき、彼女は革紐を食いちぎって自由になり、踏み段に跳び上がって、真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んで来た。
 私は放そうとしなかった。
 内部では、彼女は座席の下に小さく縮こまり、旅行の間ずっとそこにいた。まるで列車に乗る資格がないと言われ、面倒を起こしたくないかのごとくだった。
 10年後に死ぬまで、彼女は我々と一緒にすごした。//
 (39) 我々の区画(compartment)には、制服姿のドイツ人の医師、軍曹と上着に鉤十字をピン留めした屈強そうな女性がいた。
 医師は私を会話に引き込んだ。私がラテン・アメリカ出身だと聞くと、スペインのオレンジはアメリカのものより旨い(いや、別だったか?)、Radio City Roketts は素晴らしい、ポーランドの庭師を連れて帰るよう息子に頼まれた、とか言い、くすくす笑いながら、ポーランドの「悪臭たれ」だからその男が家に入るのは許さない、と付け加えた。
 軍曹は脂抜けした肩掛け鞄から横目で見て、肥えた男をさえぎった。そして、黙り込んだ。
 隣に座っていた母親が、ときおり私の足をやさしく蹴って、面倒なことに巻き込まれないよう警告した。
 彼女が休憩所へ行こうとしたとき、ドイツの一兵士が通路に立っていて、明らかに人種意識から、列車に乗れたのは幸運だと言いながら、行く手を妨害した。//
 (40) ポーランドはドイツに征圧されていたので、二つの国の国境はなく、困難なく我々はBreslau に到着した。
 我々への疑念を逸らすために、父親は市内の最良のホテルの一つを選んでいた。<四季(Vier Jahreszeiten)>という名で、鉄道駅に近接していた。
 荷物を下し、洗顔したあとで、私は街なかに入り、数冊の本を買った。
 市の清潔さと賑やかさに驚いた。
 我々は夕方に、二階にある優雅なホテル・レストランを訪れた。そこは制服を脱いだ将校たちと着飾った女性たちでいっぱいだった。
 我々はローストがもを注文した。
 ウェイターが慇懃に、肉のクーポンを持っているかと尋ねた。
 持っていなかった。彼は翌日に手に入れる方法を助言してくれた。//
 (41) 私は60年後に、Polonia と改称されたそのホテルを再び訪れた。
 三つ星の宿泊設備を提供していた。
 だが、記憶に朧げに残っているのは4分の1くらいだったけれども、二階の食堂がまだあった。//
 (42) 10月29日日曜日にミュンヘンに向かって出立する前、我々は二晩をBreslau ですごした。
 ミュンヘンまでと、そこからローマまでの切符を購入するドイツの金を、父親は所持していなかった。
 父親は実直そうな顔の将校を探して、駅を歩き回った。
 これは危険な活動だった。
 父親は一人に狙いを定め、—どんな口実だったか私は知らないが—持っているポーランドのzlotys をドイツ・マルクと交換してくれないかと頼んだ。ポーランドから帰ってくるドイツ軍属にはその資格があった。
 その将校は、応じてくれた。//
 (43) Dresden 経由でミュンヘンまで旅行し、午後にそこに到着した。
 ローマ行きの夜行列車に乗り込むまで、数時間待った。
 その時間をミュンヘンの大きな美術館、アルテ・ピナコークに行ってすごそうと、私は決めた。
 面倒なことはしないと約束して、両親の反対を無視した。
 鉄道駅からKalorinenplatz(カロリーネン広場)まで歩いた。そこには当時、総統のために騒乱で倒れたナツィの殺し屋どもの霊廟があった。衛兵が監視しながら立っていて、広場全体が鉤十字の旗で飾られていた。
 ピナコークまでの距離は1キロもなかった。まもなく東入口に着いた。
 階段の頂部には、制服姿のナツィが立っていた。/
 「これはピナコテークへの入口ですか?」と私は尋ねた。
 「ピナコテークは閉まっている。きみは戦争中なのを知らないのか?」//
 (44) 私は駅に戻った。
 母親はのちに、万が一のときのため、慎重に隠れて私の後をつけていた、と語った。
 私は1951年に、このルートを再び歩いた、そして、ナツィがもうおらず、私はいることに、大きな満足を感じた。//
 (45) Innsbruck に夕方に着いた。そこは接続駅で、イタリアとの国境として機能していた。
 一人のGestapo 将校が、旅券を集めるため入ってきた、—そのとき座っていたのは我々だけだった。
 我々には三人用の一つの旅券だけがあった。
 彼は、もう一度現れて、ドイツを離れてよいとのGestapo の許可がないからイタリアには進めない、と言った。/
 「我々は何をしなければならないのか」と、父親が質問した。
 「あなたたちはベルリンへ行かなければならない。そこで、あなたたちの大使館が必要な書類を入手してくれるだろう」。この言葉を残して彼は敬礼をし、旅券を返却した。//
 (46) 我々は荷物を列車から降ろして、ホームに積み上げた。
 父親はどこかに姿を消し、母親と私はすべなく立っていた。周りには若いドイツ人やオーストリア人がいて、肩にスキー板を乗せて陽気に喋っていた。
 突然に父親が戻ってきた。
 荷物を列車の中に戻すよう、彼は言った。
 列車がまさに出発しそうだったので、我々は大急ぎでそうした。
 Gestapo 将校が再び現れたとき、鞄類をかろうじて元の区画に置いたばかりだった。/
 「列車から出るようあなたたちに求めた」と、彼はいかめしく言った。
 しかし、彼は小男で、ひどく脅かすという響きはなかった。//
 (47) 父親にはドイツ語は母語で(彼は若い頃ウィーンですごした)、スペイン語を話す南米人を演じるために、文法と発音のいずれについてもドイツ語に関して最善を尽くした。
 (実際には、我々全員がスペイン語を一語も話せなかった。)
 父親は、Innsbruck 駅長に逢って、できる限り早く母国に帰る必要がある、と告げた、と説明した。
 駅長はたぶん呑気なオーストリア人で、この事案に何の権限もなかったが、父親の言ったことを聞いて、「von mir aus」のようなことを言った。
 これは大まかに翻訳すると、「私に関係するかぎり」またはたぶん口語表現では「私に関係がないから(どうぞ)」—「気にする範囲内で」を意味する。//
 (48) Gestapo の男は旅券の提出を要求し、そして去った。
 列車はこのときまでにゆっくりと動いて、約25マイル先にある、イタリア国境のBrennero へ向かっていた。
 窓を通して、巨大なアルプスが迫ってきた。
 我々の生命にとって、これが最も危機的なときだった。なぜなら、Brennero で列車から降ろされ、ベルリンまで行くことを強いられていたなら、確実に殺されていただろうから。「我々の」在ベルリン大使館は、我々が持つ旅券は無効だとすぐに判断し、我々をドイツに引き渡すに違いなかっただろう。//
 (49) どのくらい長く決定を待つ必要があったか、憶えていない。
 数分だっただろうが、耐え難く時間が延びているように感じた。
 Gestapo の男が、国境に到達する前に戻ってきた。
 そして、彼は言った。「あなたたちは、一つの条件付きで、進行することができる」。
 「どんな条件ですか?」と父親が尋ねた。
 「ドイツに帰ってこない、ということだ」。
 「〈ああ、そうしない!〉(Aber NEIN !)」と、父親はほとんど叫ぶように反応した。まるで、ドイツにもう一度足を踏み入れると少しでも思うと恐怖で充たされるかのごとくに。
 (50) ドイツ人は我々に旅券を手渡し、離れた。
 母親の顔は涙で溢れた。
 父親は私に、一本のタバコをくれた。初めてのことだった。
 (51) 朝早くに、Brennero に着いた。少し停車している間に、我々は新鮮なサンドウィッチを買った。
 太陽がまぶしく輝いた。
 10月30日月曜日の正午すぐ前に、ローマに到着した。
 (52) 我々は、救われた。
 ——
 第一章・戦争(原書p.1-p.14.)、終わり。


 000Pipes

2487/R・パイプスの自伝(2003年)③。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ③。
 (24) 〔1939年〕10月6日、ヒトラーが、勝利してポーランドの首都を視察するためにやって来た。
 私は、我々の4階の窓から、彼を眺めた。ドイツ兵が、行路である目抜き通りのMarzalkowska 通り沿いと我々の家屋の下に、数フィートごとに銃砲を持って配置されていた。
 彼はオープンカーのMerzedes に乗り、親しげな様子で立ち上がり、ナツィ式の敬礼をしていた。
 ヒトラーを殺すのは何と簡単なのか、と私は思った。//
 (25) ポーランド人は初めは、外国による占領を寡黙な宿命意識で耐えた。
 結局は、彼らの国は21年間だけ独立し、つづく120年は外国に支配された。
 ポーランド人の愛国意識は、国家性よりも文化を伴う民族性と彼らの宗教へと向かった。
 彼らは、この占領は長く続くだろうが、再生したポーランドをもう一度見るだろうことを、疑っていなかった。//
 (26) もちろん、ユダヤ人には状況はきわめて困難だった。
 ポーランドのユダヤ人の大多数—正統派で、密集した区画に住んでいた—はおそらく、彼らに対するナツィの考え方をほとんど何も知らなかった。
 東ヨーロッパのユダヤ人は、住民のうちで最も親ドイツの集団だった(共産主義とロシアに共感をもった者たちは別として)。(*脚注1)
 ---- 
 (*脚注1)不幸なことに、多くがそうだった。その中で生活しつつもキリスト教徒から区別された彼らは、私事についてはきわめて現実的で、実際に厳しい体験で鍛えられていたが、伝統的に排除された政治の世界については著しく無知だった。
 彼らの中で同化した者たちは、メシアの到来を信じる正統派信者の仲間として、社会主義を信じがちだった。
 -----
 彼らは、ドイツがロシアからポーランドを征圧して法と秩序をもたらした第一次大戦の間の時期(1915-1918)を記憶していた。私の母親の家族には、その時代のよい思い出しかなかった。
 私は思うのだが、ユダヤ人の大多数は1939年9月に起きたことをひどく怖がったということはなかった。そして、多少とも、正常な生活が回復すると予測した。
 Israel Zangwill はその〈ゲットーの子どもたち〉で、正当にこう語る。
 「ユダヤ人は迫害による苦痛をほとんど感じなかった。
 彼らはGoluth つまり亡命(exile)の時代にいると、またメシアの日々はまだ来ていないと、分かっていた。そして、迫害者は全知全能の神(Providence)の愚かな手先にすぎない、と考えた。」(+後注02)
 (+後注02) 1895年, New York &London.
 (27) 同化したユダヤ人は、より心配した。彼らはニュルンベルク法と水晶夜(Kristallnacht)〔1938年11月の反ユダヤ人暴動・「11月の虐殺」—試訳者〕について、知っていた。
 しかし、彼らですら、ドイツ支配下で何とかして生きていける、と考えた。ドイツ人にも結局は、医者、服屋、パン屋が必要だろう。
 ユダヤ人は二千年以上、敵対的環境の中で生き延びていく仕方を学んできていた。
 彼らは、体面や同情に訴えたり、人権を要求したりではなく、諸権力に有用な者に自分たちがなることによって、生存を達成した。すなわち、王や貴族に金を貸し、彼らの必需品を販売し、彼らの賃料や税金を徴収することによって。
 かつてしばらくの間、彼らが財産を奪われて追放されたのは本当だが、彼らはほとんどの時期を何とかして生きてきた。
 今度もそのようになるだろう、と彼らは思った。
 彼らは、大きな間違いを冒した。
 彼らが今対処しなければならない者たちは経済的な個人的利益には影響されず、異常な人種的憎悪に動かされていたのだ。—抑えることのできない憎悪感情。//
 (28) 半世紀後に、パレスチナ人と交渉するイスラエルの人々のナイーヴさを観察して、この〔ユダヤ人の〕態度を理解できるようになった。
 イスラエル人は、イスラエルを破壊し、そのユダヤ人住民を虐殺するか少なくとも追放しようとした、三回のアラブの侵攻を撃退した。そして、イスラエルの人々は定住して快適に生活し、平和と繁栄を維持するためにアラブ人にほとんどどんな譲歩でも行う気があった。
 イスラエル住民のかなりの部分は、パレスチナの隣人たちの宥和不可能な破壊的熱情に関する間違いようのない証拠を、素っ気なく無視した。譲歩すれば何とかなると、確信していたのだ。
 彼らは憎悪しなかったがゆえに、自分たちが憎悪されることがあり得ると考えるのは困難だった。//
 (29) 被占領下のポーランドの生活は、驚くべき速さで正常に戻った。日常がいかに速く「英雄的なもの」を圧倒したかは、驚嘆するほどだ。
 この経験が私に与えたのは、つぎの不変の確信だ。すなわち、民衆一般は歴史では、ともかくも少数のエリートに留保された政治や軍事の歴史では、辺縁的な役割しか果たさない。彼らは歴史を作るのではなく、生きる。
 私はこのことを、〈Old Wive's Tale〉へのArnold Bennett 自身の序文での洞察で確認した。そこで彼は、年配の鉄道被用者とその妻への、1870-71年のプロシャの包囲の間のパリに関するインタビューを思い出している。
 Bennett はこう書く。「我が彼らから得た最も有益なことは、最初は驚いたが、ふつうの人々は包囲されたパリで全くふつうの生活を営みつづけた、ということだった」。//
 (30) 1940年5月に記録したようにこうした期間の私の思い出を振り返ってよいなら、以下はドイツ占領下で私が過ごした時代について書いていたものだ。
 「私のこれまでの人生で最も悲しい月が始まった。それは結構な終わりを迎えることになった。—1939年10月。
 この期間に何をしたか、どうやって過ごしたか、自分が叙述するのは困難だ。
 アパートは、ひどく寒かった。
 私はほとんど全てを着込んで掛け布団の下で寝た。
 ドイツ軍が歩いている人々を拘引していたので、外へ出るのは危険だった。
 夜には電灯が点かず、ろうそくは節約する必要があったので、私は昼間にだけ読書し、勉強することができた。
 私たちは毎日、ライス、マカロニを食べ、種々のスープを飲んだ。—のちにはキャベツとパンが加わった。
 私は10時頃に起床し、強い嫌悪感をもって、しかし同様の食欲で、朝食を摂った。そのあとで、家を出て[友人の]Olek やWanda、あるいは家にいる他の誰かを訪れた。…。
 困難な状況を思って、絶望していた。—野心、計画、夢の全てが粉みじんに散った。」//
 (31) 父親がなぜドイツ占領でのたんなる生存の見込みすら厳しいと考えたのか、私は正確には分からなかった。ほとんどのユダヤ人は、占領を甘んじて受けていた。
 おそらくは、誇りからだった。父親はパリア(pariah、のけ者・下層民)のごとく自分が扱われると考えること自体を耐え難く感じる、自負心の強い人だった。
 彼は広がっているいかなる幻想も持たず、前方にあるものを正確に予測していた。
 一ヶ月後に、公然たる追及が始まる前のことだが、彼が書いた手紙で、彼はこう書いた。「ポーランドのユダヤ人は、ドイツのユダヤ人よりも悪い運命に直面している」。//
 (32) 10月の前半のいつかに、我々は台所で家族会議を開き始めた。それには、家族全員と、戦争勃発とともに行方不明になっていたお手伝いのAndzia も加わった。
 あるラテン・アメリカ国への偽造旅券でポーランドから西側へと出る可能性が、浮かび上がった。
 父親はその国の名誉領事を知っていた。X氏と称しておくが、この人物は領事館のスタンプのない、一冊の空白の旅券を持っており、このスタンプは、外交団と一緒に彼がワルシャワを去るときに総領事からもらっていた。
 X氏は、我々が自由に使えるよう、この旅券を我々に預けた。
 しかし我々は、つぎの疑問に直面した。我々はあえて慣れた場所を立ち去って、未知の場所へと行くのか?
 我々は裕福でなかったが、家で金銭について議論したことはなかった(総じて言って、金銭はユダヤ人中流家庭での会話の話題でなかった)。私も、生き延びるためのその必要性に関して、何の考えも持っていなかった。
 父親がこの冒険の是非を声を出して考えている間、私は賛成の意見だった。
 私は大学に入学登録したかったが、それはドイツ占領下のポーランドでは考え難いことを知り、ポーランドを離れるよう強く主張した。
 金銭については、我々は何とかするだろう。最終的には、父親には、我々が苦境を切り抜けるための銀行口座が、ストックホルムにある。//
 (33) 母親によると、離れるという決定が下されたのは、ドイツ軍が掲示板に彼らに登録した住民にはパンの配給券が発行されると発表した後だった。
 父親は、これは誰がユダヤ人なのかを決める手段だ、と結論した。//
 (34) 私の主張と私の(根拠のない)自信は、間違いなく、父親の判断を助けた。
 私は今でも、父親が全く大胆な決定をしたと驚嘆している。
 母親は、ユダヤ人の彫刻師を探し出して、欠けている領事館の公印を偽造させた。
 そして父親は、出国許可を求めてドイツ軍司令部との交渉を始めた。
 Gestapo は10月15日にワルシャワに入っていた。だが父親は、もっぱら軍部と交渉した。
 父親は私にこう言った。ドイツ軍司令部と我々の出国を交渉している間に、市長のStarzynski のところへ行ったのだが、彼は父親をドイツのスパイか協力者だと疑って怒りの視線を向けた、だが説明する機会がなかった、と。//
 (35) こうしたことが起きている間、私は、幸運に包囲攻撃から生き延びた友人たち全員を訪問した。
 音楽がとても好きな学校の友人の一人のアパートの中庭に入ったとき、Beethoven の〈英雄(Eroica)〉の音が聞こえた。
 別の学校友達の母親は驚いて、ドアを開けるのを拒んだ。
 最良の親友のOlek Dyzenhaus は、姿見がよかった。
 Marzalkowska 通りを二人で歩いていたとき、パン待ちの行列に気づいた。語り合い、笑いながら、我々もそれに加わった。
 後ろの一人の男性が、首を振りながら、「ああ、若いやつ、若いやつ」と呟いた。
 我々はこれは怪しい人物だと思った。しかし今では、彼の反応が分かる。//
 (36) ついに、全ての書類が揃った。イタリアへの通過ビザも含めて。
 我々は、ドイツ軍が市を占領していたので、10月27日金曜日の午前5時49分に、ワルシャワからの始発列車で出発することになった。
 その列車は、故郷へと兵団を運ぶ軍事用のものだった。
 我々の目的地は、Breslau(今日のWroclaw)だった。//
 (37) 父親は一人のドイツ系ポーランド人—Volksdeutsche と呼ばれた—と、推測するに我々が戻るまで、我々のアパートに転居することを取り決めた。
 その人物は、アパート所有物の詳細な目録に署名をした。
 私は、音楽と芸術の歴史に関するものが最も多い書物と写真を集めた。
 そして、ほとんど哲学書と芸術史書から成る私の小さな書斎に別れを告げた。
 その中の主要なものは、Meyer の〈Konversationslexicon〉だった。それは19世紀末に出版され、芸術史に関する知識のほとんどを、私はそれから得ていた。
 ロシアによる検閲で、攻撃的と見られた全ての文章が墨汁で黒く塗られていた。
 表紙は、第一次大戦の寒い冬の間の燃料になるよう、注意深く破り取られていた—そう叔父は私に教えた。
 私は夜のあいだずっと、手の施しようもなく震えていた。//
 ——
 第一章④へとつづく。

2486/R・パイプスの自伝(2003年)②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 著者はドイツ軍の空襲を受けているワルシャワで(両親とは別の部屋で)ニーチェの〈権力への意思〉などを読みつつ寝た、という当時の日記の一部を掲載している。以下の(16)参照。興味深い。
 だが、当時16歳のポーランドの少年(青年?)が、どういう目的や思いをもってNietzsche の本を持っていて、「非常時」に目を通したのか?
 攻撃しているドイツの人物だからか、それともそれ以上に、ヒトラーとニーチェを結びつける何らかの言説があったからか。著者は何も触れていないので分からない(少なくともこの辺りの叙述まででは)。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ②。
 (15) 9月22日〔1939年〕の夜になり、外交団が撤退したあとで、ワルシャワは昼夜を問わない爆撃にさらされた。昼間はStuka 爆弾機が防衛なき市の上を巡回し、甲高い音を立てて飛んで民間人に対して爆弾を落とした。
 夜に我々は砲撃を受けた。
 爆撃は無差別で、9月23日だけは例外だった。その日はYom Kippur の日で、ドイツの飛行士たちはワルシャワのユダヤ人区画に集まって遊んでいた。//
 (16) 私の文書の中に、この出来事から8ヶ月後に書かれた日記を見つけた。それから引用するのが最もよいだろう。
 「23日、ラジオ放送が、爆撃を受けて停まった。
 その翌日、我々には水がなかった(ガスはしばらくの間不足していた〉。
 我々はすぐに逃げるために、全ての持ち物を手にして、完全に身繕いをして、寝た。
 私だけは、ニーチェの〈権力への意思〉や[Leopold]Staff の詩を読みながら、またはGiotto についての自分のエッセイを書きながら、6階で寝た。
 24日は一日じゅう爆撃が繰り返され、25日の朝に我々は、爆弾の音で目が覚めた。
 もう空からの攻撃に対抗する防衛力または[ポーランドの]航空機はなく、あちこちで機関銃の音が響いた。
 450機による一日じゅうの爆撃が始まった。それは、歴史上かつてないものだった。
 爆弾が次から次に、雨嵐のように、守る術なき市に降り注いだ。
 家は崩れ、数千の人々が埋まり、あるいは街路が火に包まれた。
 ほとんど発狂したかのごとき群衆が、子どもや包みを抱えて、瓦礫で覆われた街路を走った。
 ドイツの航空士たち、世界で最悪の野獣たちは、機関銃砲で[街路を]掃射すべく意識的に低く飛行した。
 夕方までにワルシャワは炎に包まれ、ダンテの地獄のようだった。
 市の端から端まで、見えるものは空を赤く染める炎だけだった。
 そうしてドイツの砲撃は続き、砲弾の雨で市を覆った。…。
 我々の[仮の]住まいは奇跡的に的中するのを免れ、二つ「だけの」砲弾の痕跡があった。/
 しかし、我々が何の被害も受けなかったのではなかった。
 午前1時頃、大きな爆発の音で目が覚めた。砲弾が下の階に当たり、女性が一人殺された。
 我々は跳び上がり、人々で群れた階段の吹き抜け箇所へと降りた。
 叫び声、絶望の言葉、うめき声が、無情な砲弾の爆発音と入り混じった。
 我々の建物が燃え始めた。
 中庭へと逃げた。私は、最も貴重な自分の書き物と本を入れた書類カバンを持ち、腕の中に震える我々の犬を抱えて、逃げた。
 庭を横切ったとたん、砲弾の欠片が近くで爆発した。だが、負傷はしなかった。
 我々は地下室へと避難した。しかし、午前5時に、そこを放棄せねばなければならなかった。もう安全ではなかったからだ。—階段の吹き抜け部分の一つが炎に包まれていた。/
 街の中へと走った。
 Sienkiewicz 通りで、広いがひどく汚れた、地下室のある避難所を見つけた。そこは群がる人で混んでいた。
 砲撃は絶えることなく続いていた。
 夕方7時に、この建物は燃え始めた。
 我々はもう一度、通りに走り出た。
 こんどはMarzalkowska (マルシャウコフスカ)通りで、狭い階段下空間に落ち着いた。…。
 二回目の夜がやってきた。
 爆撃は続いていた。市全体が、炎の中にあった。 
 Marzalkowska 通りとZielna 通りの角で我々が見た光景を、私は決して忘れない。—馬が自由に走り回り、あるいは鋪道の上に死んでだらりと横たわっていた。それらは、箱のごとく燃える家屋の火で照り輝いていた。
 人々は安全な隠れ場所を探して、家屋から家屋へと走り回った。
 夜中には爆撃がいくぶんか弱くなった。そんなとき、私はあるウェイトレスの膝の上に頭を乗せていた。そして、寝入った。
 空腹だった。我々は、砂糖と奇跡的に得た水を与えて、なんとか我々の犬を救った。/
 突然にドアが開いて、ひどく負傷した4人の兵士が運ばれてきた。
 彼らはろうそくの灯りの中で包帯を巻かれたが、水も薬もなかった。
 女性たちが気絶したり、理性を失ったりし始めた。子どもたちは泣き叫んだ。
 私も、ほとんど卒倒しそうだった。
 ようやく落ち着いて、無関心に、例えば、ろうそくの火を消すべきかどうか、といった議論を聞いた。
 人々の群れが、入ろうとして、我々のドアに押しかけた。
 爆撃は、はっきりと分かるほどに弱くなった。
 より静かになっていった。…。
 ワルシャワは、そしてそれとともにポーランドは、最後の日を体験したのだった。」//
 私の日記に記さなかったことを、付け足してよいだろう。すなわち、我々が燃える街路を走っていたとき、母親は走りながら、落ちてくる瓦礫の破片から守るために、私の頭の上に枕を乗せて抱えてくれていた。//
 (17) 地下室で、ひどい風聞が広まっていた。
 私はそれを、ポケット日記に記録した。—ポーランドはドイツの攻撃を撃退しており、諸都市を奪い返している。フランス軍はジークフリート(Siegfried)線を突破した。イギリス軍は東プロシャに上陸した。
 この数日間に〈Dzien dohry !〉(良い日だ!)という表題で出現したいつもと違う記事の一つは、その第一面(headline)でこう発表した。
 「ジークフリート(Siegfried)線が破られた。フランスがラインラント(Rheinland)に入った。ポーランドの爆撃機がベルリンを急襲攻撃する。」
 これら全ては、全くの作り話だった。
 ついに、真相が明らかになった。9月17日、ソヴィエト軍はポーランド国境を越え、東部諸地方を占拠した。
 私は日記の9月24日(日曜日)に、こう記した。
 「ワルシャワは自衛する。
 ソヴィエトはBoryslaw、Drohohyez、Wilno、Grodno を占領した。
 西部前線—静寂。
 ポーランドは負けた。
 どのくらい続くのか?」//
 (18) 〔1939年9月〕26日、ポーランド当局とドイツ軍は交渉を開始した。
 その翌日に、ワルシャワは降伏した。
 そのときに合意された条件によって、42時間の停戦になった。
 27日の午後2時、銃砲は沈黙し、航空機は空から消えた。その間に彼らは、市の建物の8分の1を破壊していた。
 奇妙な静けさが発生した。
 ドイツ軍は、9月30日に市に入った。
 私は偶然に彼らの先遣部隊、ワルシャワの中心部、Marzalkowska とAleje Jerozolimskie の通りの角に止まっていた、上部の除去可能な軍用車、に出くわした。
 運転手の隣に座っていた若い将校が立ち上がり、その車を囲んでいる群衆の写真を撮っていた。私は憎しみをもってその男を一瞥した。//
 (19) 二日間の停戦中に、我々のアパートに戻った。窓が何枚か破壊されているのを除いて、損害を免れていた。
 両側と通りを挟んだ向こう側の各家屋は、しかし、粉々になっていた。 
 ココ(Coco)、我々の老犬のコッカー・スパニエル(cocker spaniel)は、我々の放浪に従いてきたのだったが、喜びで狂ったようになり、激しく食事室を走り回り、ソファを跳び登ったり降りたりした。
 彼女は、我々の苦難は終わった、と思ったに違いない。//
 (20) ポーランドの1939年の軍事行動については、多数の誤報が存在する。ポーランド軍はドイツの戦車部隊を騎兵隊で阻止しようとしたとして馬鹿にされ、名目だけの抵抗を示した後で降伏したかのごとく叙述されている。
 実際には、ポーランド軍は、きわめて勇敢にかつ効果的に戦闘した。
 機密性を解除されたドイツの文書資料が明らかにしているのは、戦争の4週間にドイツ軍は多大の被害者を出した、ということだ。
 死者は9万1000人、重傷者は6万3000人。(+後注01)
 これらは、スターリングラードの戦いとその2年後のレニングラードの勝利までは、ドイツ軍が被った最大の被害だった。その2年間にドイツは、全ヨーロッパを事実上征服したのだったが。 
 +(後注01)Apoloniusz Zawilski 1972, p.248n. ポーランド軍はまた、ドイツ軍の191台の戦車と421機の航空機を破壊した。//
 (21) 我々には食べ、飲むものがあった。母親が戦争勃発のまさに直前に大きな一袋の米(rice)を購入していて、彼女のベッドの下に隠していたからだ。
 これが翌月の間の我々の主食になることになった。多様な料理法で提供され、マーマレードで味付けされていたことすらあった。
 我々はまた、浴槽に水をはった。//
 (22) 10月1日、ドイツ軍は市内の巡回を始めた。
 彼らはトラックを運転した。私が驚きつつ気づいたのは、兵士たちはナツィの情報宣伝にいう金髪の超人(supermen)ではなかった、ということだ。多くは背が低く、浅黒く、外見上は少しも英雄的でなかった。
 占領軍は、すみやかに日常生活を回復させた。
 パン屋が開いた。
 ポーランドの店舗は販売した。あるいはほとんど無料で品物を売った。
 私は、イワシの缶詰やチョコレート棒を含めて、できるだけ買った。
 占領の最初の一ヶ月の占領軍兵の振舞いは、全く適正だった。
 私は乱暴な行為をいっさい見なかった。
 心に残る像は、あるドイツ兵が髭の生えたユダヤ人をオートバイのサイドカーに乗せて、ワルシャワの街路を走らせていた、というものだ。
 別のときには、二人の若いユダヤ人女性がある建物の入口の監視兵と親しくして、当惑する彼の鼻を花でくすぐっているのを見た。
 私が見た唯一の反ユダヤ的出来事は、ドイツ軍のトラックの荷樽がユダヤ人区画の街路で落ちてころがり、中には老人もいたユダヤ人たちが当たるのを避けようと散り散りになったとき、ドイツ兵が笑い声を立てて歩き回った、というものだ。
 やがて、ドイツ軍司令部が作ったポスターが壁に貼られた。
 そこに名前が載っていたポーランド人は、文字どおりには「犬の血」で英語の「畜生(damn)」にほぼ該当する言葉の〈psiakrew〉をドイツ人の面前で発したごとき、種々の「犯罪」で、処刑された者たちだった。
 負傷したポーランド兵を描いた絵もあった。その兵士は腕を三角巾で吊るし、ワルシャワの廃墟を指し示しながら、怒ってチェンバリン(Chamberlain)に「お前の仕業だ」と叫んでいた。
 我々は黙って、こうしたポスターから学習した。//
 (23) 父親は一度ドイツ兵に止められ、その男が近づいてきて、父親の肩に腕を乗せて、「ポーランド人か?」と尋ねた。
 父親は怒って、流暢なドイツ語でこう答えた。「違う! 手を離せ。」
 仲間のドイツ人を困らせたと思って慌てた兵士は、詫びて、去って行った。//
 ——
 ③へとつづく。

2485/R・パイプスの自伝(2003年) ①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 この書物はRichard Pipes (1923〜2018)の自叙伝だ。
 VIXI は「私は生きた」という意味のラテン語らしい(正確には知らない)。
 大きくつぎの四つの部で構成されている。 
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第二部/ハーヴァード。
 第三部/ワシントン。
 第四部/再びハーヴァード。
 読了してはいないが、第二部と第四部は主にHarvard 大学での研究(・教育)の時代、第三部はレーガン政権のソ連・東欧問題の補佐官としてソ連の崩壊を準備した時代、第一部がポーランドで出生して(その前の出自を含む)、第二次大戦勃発後にイタリアを経てアメリカに定住し、20歳でアメリカ国籍を取得する、等の時代だ(少しは間違っているかもしれない)。
 以前から、第一部だけはぜひ試訳して掲載しておきたいものだと、考えてきた。
 ユダヤ系ポーランド人の彼が、どのようにしてアメリカに来たのか、そして(むろん英米語を用いる)ロシア・東欧史専攻の研究者となり国際政治の実務にも関与したのか、にすこぶる関心を持ったからだ。
 この本の存在を知ったのはロシア革命に関する彼の二つの大著*を知って(それぞれ一部、この欄に試訳掲載済み)、その一部を読んだ後だったので、これら大著の著者の「背景」を知りたい、ということも、もちろんあった。
 *①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   <「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。>
  ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 ようやくこの欄への試訳掲載を始める。
 なお、この書物の目次や緒言よりも前に、欧米の書物にはよく(ほとんど)ある「献辞」がある。一頁全体の中に、つぎの文章だけがある。
 「この本を私の両親、Mark Pipes とSofia Pipes に捧げる。
 私を生んでくれ、そしてナツィスの手による確実な死から私を救ってくれたことに感謝して。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ①。
 (01) 1939年8月24日木曜日、我々が定期購読していた日刊紙の〈Nasz Przeglad〉(我々の論評)は最初の頁に、二つの宿敵国のナツィ・ドイツとソヴィエト同盟が不可侵条約に署名した、という驚くべき報せを掲載していた。
 私は前の月に16歳の誕生日を迎え、最終学年の前の年度にギムナジウムの生徒に要求されていた予備軍営(ポーランド語でROTC)での三週間の課程を終えて最近に帰ったところだった。
 通常の予定どおりだと、私は最終学年の学習のために数日以内に学校に戻っていただろう。
 しかし、そうはならなかった。//
 (02) 父親は、報せは戦争を告げていると結論づけ、我々のアパートから移ろうと決めた。我々が住んでいる家はワルシャワの中央鉄道駅の傍にあって、空からの爆撃の対象になりそうだったからだ。
 我々は、ワルシャワの南にある保養地のKonstancin へと移った。そこである邸宅の大部屋を借りて、つぎの進展を待った。
 当局は住民に対して、消灯の継続を命令した。
 私は、夕方にろうそくの灯りのそばで、父親と叔父の一人が戦争になるかどうかについて議論していたのを思い出す。
 叔父は、全てはムッソリーニにかかっているという意見だった。これは全く間違っていた。実際にはヒトラーの軍隊がスターリンの承認を得て、すでにポーランドの北、西、および南西に配置され、攻撃の準備をしていた。//
 (03) 市政府は郊外に住んでいる住民に、爆撃から守るために塹壕を掘るように命じた。
 私は、邸宅を所有する女性が彼女の花壇を損傷するから止めよと命じるまで、懸命になってその仕事に取り組んだ。//
 (04) 9月1日、金曜日の朝6時30分、私は遠くから聞こえる一続きのドーンという音で目が覚めた。
 私がまず思ったのは、自分は雷鳴を聞いている、ということだった。
 着替えて、外に出た。だが、晴天だった。
 上の空高くに、ワルシャワに向かっている銀色の航空機の一編成を見た。
 単独の複葉機—まるで木製のごとくだった—がそれらを迎えるべく、急傾斜で昇っていった。
 私が聞いた音は雷鳴ではなく、ワルシャワ空港に落とされている爆弾だった。それは、ポーランドが作った小さな空軍施設をすみやかに粉砕した。//
 (05) 軍事力には大きな不均衡があったにもかかわらず、ポーランドの立場は完全に見込みがないというものではなかった。
 第一に、ポーランドは、イギリスとフランスの両国から、ドイツが万が一攻撃してくればドイツに宣戦を布告するとの保証を得ていた。
 さらにフランスは、ドイツ軍をピン留めすべく、ドイツの西側の戦線で反抗攻撃を行うと約束していた。
 第二に、ポーランドはソヴィエトの中立を計算に入れていた。そのことで、ポーランド軍は再結集し、ドイツ軍が後方から攻めることのできない国土の東半分で踏みとどまることが可能になるだろう。
 フランスは約束を守らないこと、ソヴィエトは、ドイツがソヴィエトに東半分を譲与するとの不可侵条約の秘密条項をもっていたことを、ポーランドは知らなかった。//
 (06) 午前中が大して進んでいない頃、我々はラジオで、ポーランドとドイツが交戦状態にあること、敵の兵団が複数の場所から国境を越えたこと、を知った。//
 (07) 戦争についての私の考えは、希望と運命論の入り混じったものだった。
 ポーランド人かつユダヤ人として、私はナツィスを軽蔑し、連合軍の助けで我々が勝つことを期待した。
 運命論は、若者や完全には成熟していない大人にありがちだが、起きることは起きざるを得ないという考え方に由来していた。
 それは実際には、毎日を生きて最善を尽くす、ということを意味した。
 運命論は、セネカ(Seneca)の私の好きな言葉に要約された。すなわち、〈Ducunt volentem fata, volentem trahunt〉—「運命は意思する者を誘導し、意思しない者を遠ざける」。//
 (08) 第二次大戦となった最初の日の夕方に、父親は私を邸宅を囲む公園のベンチに座らせ、こう私に言った。父親と母親に何かが起きたなら、ストックホルムへ行き、そこで父親の口座があるSkanska 銀行のOllson 氏に連絡を取りなさい。
 多年ののちに私は知ったのだが、小切手の形の金銭はこっそりと持ち出され、1937年に親しい友人によってタイプライターの中に隠されていた。それはもともとはロンドンで預けられ、のちにストックホルムへと移されたものだった。
 あれは父親が初めて、私に一人前の大人として、向かい合ってくれたときだった。
 その金—3348ドルそこそこ—は、我々の生命を救うことになっていた。//
 (09) もちろん、戦争は何らの驚きもなくやって来たのではない。我々は長く戦争を予期し、ポーランドを離れることを考えていた。
 1938年10月に連合軍がミュンヘンで屈服したあと、私はヨーロッパ全体での戦争が避けられない、と思った。
 両親は、ニューヨークでの世界博覧会用の観光ビザを申請した。それをアメリカの領事館は私をポーランドに残すという条件つきで発行することに同意した。
 そのゆえに、パレスティナに住んでいて権限あるイギリス当局と良い関係がある私の叔父の一人を通じて、私は彼に合流することが取り決められた。いずれにせよ、それが私が選んだ道だった。
 私はのちに、6日後にヒトラーがポーランドを攻撃したことを知った。我々は〔本来ならば〕去ってしまっていただろう。両親は8月28日にアメリカ合衆国への観光ビザを受け取っており、その間に私はパレスティナへの必要な書類を得ていたのだから。(脚注1*)//
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 (脚注1*)後年に母親は、私にこう言った。親しい知り合いのスウェーデンの在ワルシャワ領事がスウェーデンへのビザを提示したが、その彼が母親の法律上の個人名は「Sarah」だと知ったとき、残念だがビザを提供することはできないと言った、と。
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 (10) 戦争勃発の翌日、私は自発的に、Konstancin の交通を監督するのを助けた。
 私の指示は、空襲警報用サイレンの音で自動車を道路から離れさせることだった。
 私は使命感をもって数日間そうしていたが、やがて無益さを知った。自動車は、その中には制服姿の軍人やその家族を乗せているものもあったが、国を脱出すべく南や東へと急いでいて、私の合図を無視したからだ。//
 (11) 1930年代末のヨーロッパの民間人は、空中からの化学兵器の危険性について、繰り返し警告されていた。
 私はたまたまガス・マスクを所有していたが、それはROTC軍営で購入したものだった。しかし、それにはフィルターが付いておらず、役に立たなかった。
 Konstancin で会った一人のユダヤ人少女が私に、そのフィルターを持っていて、家まで来るなら差し上げると言った。
 私は夕方に引き返して、暗い色の枠の家のドアを叩いた。
 ドアが開いて私が見たのは、部屋いっぱいに溢れた若者たちが蓄音機の音楽に合わせて情熱的に踊っている光景だった。
 その少女は私が欲しいものについて忘れており、私を追い払って、踊りの相手のところへ戻っていった。//
 (12) ドイツ軍が近くまで来ているという衝撃的な噂を聞いたとき、戦争は辛うじてまだ6日めだった。私はつけ始めた日記にそのことを記録した。
 実際に(当時は我々に知られていなかったけれども)、ポーランド政府はすでに9月4-5日に、その人員の一部のワルシャワからの避難を開始していた。
 その次の夜(9月6-7日)、ポーランド軍の筆頭司令官のRydzSmigly 元帥は、密かに首都を去った。
 父親が自動車を確保し、我々はワルシャワへと戻った。
 行路は検問で止められたが、父親がポーランド軍の退役兵であることを証明するものその他の文書を提示した後で、進むことが許された。
 市内は状況が緊迫していた。
 ドイツ軍は空から、降伏を迫るビラを落としていた。
 私は一枚を拾い上げようとしたが、通りすがりの人が、「毒が付いている」と警告した。
 ラジオは我々の意気が下がらないようにしていた。市長のStefan Starzynski (のちに拘束され、4年後にDachau で処刑された)からの訴えがあり、昼夜じゅうショパンの「軍隊」ポロネーゼが流された。
 負けたポーランド軍の敗残兵たち—何人かは負傷し、全員がぼろ服を着て消沈していた—が、市内へと、歩いて、馬で、あるいは荷車で、ばらばらに入ってきた。//
 (13) 9月8日、ドイツ軍はワルシャワ攻撃を開始した。しかし、激しい抵抗に遭遇した。
 私は民間人の長い列を見た。推測するに、政府の訴えに呼応した予備兵たちで、小さいバッグを運び、市内から東方へと出て行った。そこで軍役に就くことになっていたのだろう。
 私の両親は、ワルシャワを離れることを議論していた。我々には使用できる一台の車があった。父親はワルシャワから南東およそ100マイルのLublin へと我々を逃がせたかった。政府がその市へと避難していたからだ。
 その考えは、父親が知っている外務大臣のJoseph Beck に由来した。彼は父親に政府についていくよう言ったのだった。
 母親は断固として拒否した。その提案は父親が金を持っているという想定からのものだと、確信していた。
 出ていくとすぐに、我々は捨て去られるだろう。
 私はベッドの上で、この問題についての二人の叫び合うような議論を聞いていた。
 幸運にも、母親が勝った。//
 (14) 9月半ばまでに、ワルシャワは包囲され、我々は罠の中に入った。
 我々は住まいを二度目に出て、市の中心部から離れた固いアパート建物に住んでいる友人たちとともに、転居した。
 両親は彼らと一緒に落ち着いた。私はその間、ユダヤ人学者の住宅の最上階にある小さな部屋に泊まらされていた。
 彼はかなり大きな書斎を持っていて、私はビザンティウムに関する歴史書、William Oncken の世界史シリーズの一部を借りた。彼は、私が見つけたのと同じ形で返すよう求めた。
 私は自分の本も、何冊か持ってきていた。
 爆弾が雨のように街に落ちていたとき、母親が何回も来て、地下の避難壕に移るよう頼んだ。しかし、爆撃があまりにひどくなるまで、拒んだ。
 ワルシャワが降伏した後、私は、巨大な砲撃弾が私の部屋の天井を破り取って、ベッドの少し上の壁を砕き、爆発することなく地上に着弾しているのを見た。(脚注*2)
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 (脚注*2)後年に私は、若Pliny(Pliny the Younger)[=Gaius Plinius Caecilius Secundus〕が、ポンペイを破壊した大地震の間に似たような行動をしたことを、知った。彼はタキトゥスへの手紙で、美術館のそばにいて、激しい揺れを感じた、と書き送った。彼の母親は離れるよう強く言ったが、彼は—勇者だったのか愚者だったのか—Livy の本が送られてきた、「他にすることが何にもないがごとく読み続けたい」と頼んだ。彼は、自分の家が崩壊する危険が生じたあとでようやく離れた。彼はそのとき、17歳だった。
 〈Pliny the Younger の手紙〉(1969),p.170-1.
 ——
 ②へとつづく。

1811/リチャード・パイプス逝去。

 リチャード・パイプスが今年5月に亡くなっていたようだ。満94歳、享年96。
 Richard Pipes/1923年7月11日~2018年5月17日。
 R・パイプスの<ロシア革命>の一部の試訳を始めたのは2017年2月末か3月初めで、あれからまだ2年も経っていない。
 実質的には日本の公立高校卒業時の英語力でこの欄に自分の英訳文を何回も掲載することになるとは、その直前まで、全く想定していなかった。
 きちんと和訳してみたいと思ったのは、R・パイプス<ロシア革命>原書(1990)のボルシェヴィズムの生起から「レーニンの生い立ち」あたりを読み進んでいると(むろん意味不明部分はそのままにしつつ)、レーニンの党(ここではボルシェヴィキのこと)が活動資金を得るために銀行強盗をしたり相続人だと騙って大金を窃取するなどをしていた、といった記述があったからだ。
 のちにも、レーニンは、あるいはボルシェヴィキ党員は<どうやって食っていたのか>、つまり基礎的な生活のための資金・基礎をどうやって得ていたのか、という関心からする記述もあった。
 R・パイプスによると、少なくとも十月革命までの「かなりの」または「ある程度」の彼らの財源は、当時のドイツ帝国から来ていた。アレクサンダー・パルヴス(Parvus)は<革命の商人>と称される。
 1917年の七月事件後に成立したケレンスキー政権はその(国家反逆罪の)確証らしきものを掴んではいたが、ボルシェヴィキよりもカデットを嫌って、換言するとボルシェヴィキは<左翼>の仲間だが(ボルシェヴィキもエスエル等とともに、7月までは第三順位だが「ソヴェト」の一員の党ではあった)、カデット(立憲民主党)の方が臨時政府にとっての<敵>だと考えて、断固たる措置を執らなかった。
 戻ると、銀行強盗というのは、日本共産党も戦前にかつて行った<大森銀行ギャング事件>を思い起こさせる。
 なかなか興味深いことを多々、詳細に書いてあると感じて、この欄に少し訳出しようと思ったのが、1年余り前のことだった。
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 つぎの本は、実質的に、リチャード・パイプスの<自伝>だ。80歳の年の著。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non-Belonger (2003)。
 Non-Belonger の意味に立ち入らないが、VIXI とはラテン語で<I have lived>という意味らしい(Preface の冒頭)。
 すでにこの欄に記したが、この著のp.124とp.125の間の複数の写真の中に、R・パイプス、レシェク・コワコフスキ、アイザイア・バーリンら4人が立って十字に向かい合って何かを語っている写真がある。
 昨年当時にきっと名前だけは知っていたL・コワコフスキとR・パイプスが同時に写っているのはなかなか貴重だ。
 機会があれば、上の本の一部でも試訳してこの欄に載せたい。
 何箇所かを捲っていると、<ロシア革命>執筆直前の話として、E・H・カーに対する厳しい批判もある。
 1980年代前半の数年間、アメリカ・レーガン政権の国家安全保障会議のソ連担当補佐官としてワシントンで勤務した(そして対ソ「冷戦」解体の下準備をした)ことは、すでに記した。
 p.115以降にこんな文章があった。試訳。
 「ソヴィエト同盟に対する非妥協的な強硬派(hard-liner)だという私の評判は、ベイジング(北京)にまで達していた。そして、1977-78年の冬に、中国国際問題研究院からの招待状を受け取った。//
 1978年4月3日に、北京に着いた。
 街は全体として憂うつそうな印象で、ソヴィエト式のように醜かった。
 幹線道路を見渡す私のホテルの窓から、自転車をこぐ民衆の大群が見えた-それは青と緑のアリの群れに似ていた-。そして、絶え間ない自動車の警報音を聞いた。」
 北京でのセミナーで語った内容等は省略。
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 リチャード・パイプスの著で邦訳書があるのはほぼ、簡潔な<共産主義の歴史>と<ロシア革命の簡潔な歴史>だけで、しかも前者は日本では「共産主義者が見た夢」というタイトルに変えられている。
 <共産主義の消滅=共産主義・消失した妖怪>も<ロシア革命に関する三つ謎>の邦訳書もない。
 そして、重要な<ロシア革命-1899~1919>、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>という「十月革命」前後に関する大著二つの邦訳書もない。
 「対ソ冷戦終焉」あるいはソ連解体後に、断固たる反ソ連(反共産主義)だった論者として日本の新聞、雑誌等に論考・解説が載ったり、あるいは日本のどこかで講演会くらい企画されてよかった人物だったと思うが(東欧では講演等をしたようだ)、そんなことはなかったようだ。
 L・コワコフスキは日本を訪れたことがあるらしい(軽井沢と大阪、ネット情報による)。
 しかし、R・パイプスは日本に来たことがあったのだろうか。
 いつぞや、ピューリツァー賞を受けたアメリカのジャーナリスト、Anne Applebaum による<グラーク(強制収容所)>のロシア革命(十月革命あたり)叙述が参照元としているのはこのR・パイプスとオーランド・ファイジズ(Orlando Figes, <人民の悲劇>)の二著だけだ、と記したことがある(アプルボームの邦訳書がないとしたのは誤りだった)。
 ピューリツァー賞なるものの<政治的性格>はよく知らないが(たぶん極右でも極左でもない)、その受賞作の最初の方の、グラーク(強制収容所)に関する本格的叙述に至る前の<ロシア革命>記述の基礎とされているので、R・パイプス著が決してアメリカで<無視>あるいは<異端視>されているのではなく、むしろ<かなり受容された概説書または教科書>的扱いを受けているのではないか、という趣旨だった。
 しかして、日本で、日本人の間で、日本の「論壇」で、リチャード・パイプスはいかほど知られていたのだろうか(<アメリカ保守>の専門家面していても、江崎道朗が知っている筈はない)。
 中国共産党はどうやらよく知っていたらしい(離れるが、中ソ対立の時期、米ソ中という三極体制が語られた時代もあったことを日本人は想起すべきだ)。
 日本の<知的>環境には独特なものがある。世界または欧米の種々の思想・主義・見解等々がすべて翻訳されて日本語になって<自由に流通している>と考えるのは、そもそも大間違いなのだ。
 欧米最優先とか欧米を基準とすべきなどの主張をする意図はないが、欧米とりわけ英米語圏の方が知的情報産業界は大きく、<市場>も広く、競争は激しいものと思われる。欧米の「識者」から見るとおそらく、日本の知的情報環境が(ガラパゴス的に?)<閉ざされている>のは異様だろう。しかし、日本語の読解ができないためにそのことが知られていないだけだ、日本の「識者」はそのことを意識・自覚していない、と思われる。
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 左は著書・VIXI(2003)の扉裏の写真、右は1974年2月、Oxford で、右からI・バーリン、R・パイプス、L・コワコフスキ。
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1552/R・パイプスとL・コワコフスキが隣に立つ写真から。

 ○ 世界中で、日本に限ってとしてすら、多数の人が生まれ、そして死んでいっている。
 それぞれの死は悲しいものに違いないが、世界中の、日本に限っても、全ての各人の死を嘆き悲しむことなどできるわけがない。
 一粒の涙ずつ流したとしても、一日で足りるのだろうか。
 所縁のない人々の死をいちいち考えていては、人は生きていけない。
 遺族にとっては突然の死(事故であれ自然災害であれ)もあれば、「大往生」と呼ばれる死もあるだろう。不条理な死も、きっとあるだろう。しかし、ほとんど圧倒的な場合について、<遺族>または関係者以外の人々は、いちいち考える余裕もなく、それぞれに生きている。
 こんなことを書きたくなったのも、一枚の写真を書籍の中でたまたま見た(たぶん初めて気づいた)のがきっかけだ。
 外国の、かつまた自分には私的な関係はこれっぽっちもない人々のことながら、その死を思って、涙が出た。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)。
 このp.133に、つぎの4名が立って、十字のように向かい合って何か語っている写真がある。1974年、イギリス・オクスフォードでのようだ。右から。中の二人の表情が最もよく撮れている。
 アイザイアー・バーリン(Isaiah Berlin)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、イタリアの歴史学者のフランコ・ヴェンチュリ(Franco Venturi)。
 最後の人だけ名前も知らなかったが、R・パイプスの初期の研究対象と同じく19世紀のロシア、および1789年以前のヨーロッパについて主として研究したようだ。以下、() は写真のときの年齢。
 Isaiah Berlin、1909.06~1997.11、満88歳で死去 (65歳)。
 Leszek Kolakowski、1927.10~2009.07、満81歳で死去 (47歳)。あの、L・コワコフスキだ。
 Franco Venturi、1914.05~1994.12、満80歳で死去 (60歳)。
 そして、Richard Pipes、1923.07~ (51歳)。
 前回に2015年2月付のR・パイプス著の「序言」に言及したが、そのときすでに、満91歳なのだった。
 そして、自分には私的な関係は一切ない人物だが、この人もいずれは亡くなるのだと思うと(自分も勿論そうだが)、涙が出た。
 誰もがみんな、いずれ死んでいく。
 ○ リチャード・パイプスについて書かれている日本語文献は、多くない。
 二冊の詳しく長い方の、ロシア革命とその後のスターリン直前までの書物には邦訳書がない。
 『共産主義の歴史』と素直に邦訳されてよいこの人のコンパクトな書物は、<共産主義者が見た夢>という、誰か特定の共産党員の個人的思い出話とも誤解されそうな邦題が付けられた邦訳書になっている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988)は1983年初頭のR・パイプスインタビュー記事を載せていて、珍しく、かつ興味深い。
 もう一つ、上の Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)の、詳しいわけではないが、貴重な書評記事が、以下にある。
 草野徹「気になるアメリカン・ブックス/28回」諸君!2007年11月号(文藝春秋)p.243-5。
 
草野徹はR・パイプスの書名を『私は生き延びた-自主的な思想家の回想録』と訳している。
 < a Non-Belonger >の意味がむつかしいところで、最初はどの党派にも属さない、つまりは社会主義や共産主義政党から独立した(自由な)者との意味かと思ったが、のちにはだいぶ離れて、ポーランド出自のこの人は20歳のときにアメリカに帰化してもなおも<帰属意識>をもてない、祖国ではない国に生きた、という意識からする言葉かとも思った(40歳頃に社会主義ポーランドを離れたL・コワコフスキについてもある程度はそういう問題の所在を指摘しうるのではなかろうか-多くの日本人には分かりにくい)。
草野は、同僚学者たちからも際立つほどの、つまり仲間がいないか極めて乏しい=帰属先のない学者、独立した<反共産主義・反ソ連>意識の持ち主だったことを、< a Non-Belonger >性だと理解しているようだ。たぶんこれで正しいのだろう。私はほとんど読んでいないので、判断しかねる。
 ともあれ草野徹の紹介によると、R・パイプスというのは、つぎのような考えの持ち主だ。
 「共産主義一般や特にソ連に対して否定的見解」に立つ。
 「スターリニズムはレーニニズムにその兆しがある」。
 「ソ連の残虐な独裁は、スターリンの個性の結果というより、ボルシェヴィキ革命の必然的結果である」。
 60年代の大学騒擾を「嫌悪しながら見詰め、マルクス主義の方法論を用いてソ連に共感する『修正主義者』と対立」した。
 あとは、R・レーガン大統領のもとでの安全保障会議補佐官の時代のことだ。
 R・パイプスは<対ソ連強硬派>だった。この点はこの欄でも触れている。
 草野によると、R・パイプスが嫌ったのは<対ソ連融和派>(秋月)とも言うべき「西側ジャーナリズム」で、これは「①ソ連は安定していて、外部から破壊はもちろん、体制変更はできない。②そんなことを試みれば、ソ連は硬化し、核戦争につながる危険がある」との前提で共通していた、という。
 草野は最後にまとめる-R・パイプスという「圧力行使で『悪の帝国』を倒せると考えた数少ない一人、時代におもねらない自主的な思想家」が、「歴史の歯車に油を差したと言えるかもしれない」と(さらに、「日本の学者」は ? と続けるが)。
 リチャード・パイプスの書物の試訳を行ったり、また部分的にだが(まるでポーランドのふつうの哲学者か東欧の怪談お伽話の作家のごとく日本では扱われているかもしれない)L・コワコフスキの著作を邦訳したりすることの意味は十分にある、と秋月は考えている。
 またさらに、<軟弱・融和・表向き平和>論でないR・パイプスの<強硬論>は、決して過去に関することではなく、現今の北朝鮮や中国に対する外交等の政策についてもある程度は参照されてよいと思われる(日本政府に何ができるかという問題はあるが)。
 民主党政権、オバマ大統領は、ぃったいどうだったのか ? また触れてしまうが、櫻井よしこは、大局を無視して、<トランプへのケチつけ>ばかりするのはやめた方がよい。
 ○ 日本とは違う<反共産主義>の思想・雰囲気がアメリカには大勢ではないにせよ強くある、ということは、「左翼」・対ソ連<融和>派の朝日新聞・下村満子も書いていた。
 1992年のソ連解体以前の文章だが、同・上掲書、p.614は言う。
 「アメリカ人の反共精神、対ソ不信感には、非常に根強いものがあり、これはほとんどアメリカの体臭といっていいほどのものだと私は考えている」。
 こう書きつつ、レーガンの反共・対ソ強硬姿勢はきっとうまく行きそうにないとの雰囲気で朝日新聞記者らしくまとめているのだが。
 ○ しかしともかくも、日本人は、日本とアメリカ等の違いを、共産党・共産主義に対する見方についても、本当はもっと実感しなければならないのだろうと思う。
 1992年以降、イタリア共産党はなく、フランス共産党も1980年にミッテラン大統領を社会党とともに生んだ力はまるでない。
 なぜ日本には日本共産党があって600万票を獲得し、隣国には「中国共産党」があるのか。
 北朝鮮のグロテスクな現況は、マルクス-レーニン-スターリン-コミンテルンと関係がないのか ?
 レーニン・スターリン・コミンテルン-金日成・金正日・…、ではないのか ?
 この点を、なぜ日本のメディアは明確に指摘しないのか。
 スターリン以降とは区別された、<レーニン幻想・ロシア革命幻想>が日本には「左翼」にまだ強く残ることについては、また何度も述べる。 

1517/アメリカのR・パイプスと日本の保守・櫻井よしこ。

 ○ 櫻井よしこは相変わらず米大統領トランプに対する「ケチつけ」をしているようで、今年の最初の頃はサッター(David Satter)を使ってその対ロシア政策(らしきもの)にケチをつけているかと思ったら、週刊新潮の4/27号では、トランプの対中国・対北朝鮮政策にケチをつけている。
 そしていつものように ?、大半は自らの頭から出てきたものではなく、今週は、産経新聞外信部に属するらしき「矢板明夫」を情報源にしており、直接の「」引用だけでも20行を超える。
 そしてまた、上のDavid Satterもそうだったが、アメリカに関するこの人なりの情報源は、「保守」派だとはされるWall Street Journal にあるようで、この新聞の名がまた出てくる。
 いいかげんにしてほしい。
 それにまた、トランプにケチをつけるのならば、この大統領が Chemistry が合うといい、実際にもほとんどつねにこの米大統領を支持している日本の安倍晋三首相に対して、何らかのケチつけ、批判の矛先を向けてもよいと思うが、櫻井よしこは決して、安倍晋三を批判しない。
 安倍首相を批判しないからいけない、と言っているのではない。
 櫻井よしこの、論旨一貫性の全くの欠如を、非難している。
 そして、米大統領への批判的コメントのあとで、余行がある場合に必ずあるのは、<アメリカは信頼できない、ゆえに日本はしっかりしなければならない>、という呪文のような一文だ。
 <日本はしっかりせよ>。誰だって、こんなことくらい書ける。
 秋月瑛二はナショナリストのつもりなのだが、こんな櫻井よしこのような人物がどこかの「研究所」理事長として、ナショナル保守的な言辞を吐いて満足しているのかと思うと、本当にげんなりする。
 いいかげんにしてほしい。この人を「長」として戴いている人々は、もともとアホな人たちは別として、どうかしている。これはまた別に論及する。
 ○ ジャーナリストと言えば、下村満子という人物が、朝日新聞社にいた。
 つぎの書物は、内容はほとんど他人の言葉(インタビュー記事)で、それを(翻訳しつつ)要領よくまとめて少しコメントしているという点で、さすがにジャーナリストで、櫻井よしこによく似ている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988。原著は朝日新聞社・1984)
 下村満子は、1983年の夏(7-9月)に、アメリカのおそらくはハーバード大学の研究室で、リチャード・パイプス(Richard Pipes)と逢い、インタビューしている。その内容は、p.95-114。
 下村の、朝日新聞記者らしき質問や反応も興味深い。さすがに、朝日新聞だ。
 同時にまた、この年の初めまでソ連・東欧問題専門家としてワシントンにいてロナルド・レーガン政権に協力していた、R・パイプスの諸発言も、現下の諸軍事・外交問題を考えるにあたっても、すこぶる興味深い。
 すでにこの欄で少しは紹介したが、なるほど、研究者と同時に政策立案・提言者として、R・パイプスはこんなことを考えていたのか、と思わせる。
 次回以降に、より詳細は回す。
 ○ 当初の設定テーマと異なるが、再び櫻井よしこのことを考える。
 この人は「研究」者では全くなく、「評論家」としても三流だろう。ただし、反復するが、情報を収集して要領よくまとめて自分の言葉か文章のようにして発表するのは巧い。
 そしてまた、その際に、語っていない何らかの単純な<観念>・<前提命題>を持っている。例えば、D・トランプにケチをつけても、安倍晋三には絶対にケチつけせず、安倍首相を批判しない。
 もとより、櫻井よしこは政策提言家ではなく、それだけの思索も研究実績もなく、実際に日本政府等の政策提言的機関の一員だったことはないだろう。
 具体的な政策に関する意見が、けっこう揺らいでいる、変わっていることは、ある程度は述べたし、まだ根拠材料を持っている。
 こう書きたくなるのも、R・パイプスと比べているからだ。
 このR・パイプスの書物を見ても「研究者」であることは歴然としている(もっとも、いつか述べるが「情熱的」な部分はある。「研究」者であることと矛盾しているわけでもない)。
 しかし、同時に、かつてのレーガン政権の対ソ連政策の具体化に、実際に影響を与えた、具体的な<政策立案・提言家>でもあった。
 R・パイプスにすっかり惚れ込んだというわけではなく、この欄に書いていない種々のことも知っている。
 だが、櫻井よしことは、何という違いだろうか。この日本の人には、実際に現実に働きかける、強い執念も熱情もないだろう。それだけの知性も知識もないだろう。
 ただ毎日を、忙しく過ごしているだけだ。多数の書物を出版しているからといって、勘違いをしてはいけない。諸書物の内容のほとんどは、他人・第三者の考えだったり、文章だったり、あるいはとっくに公にされている事実だったりで、これらの寄せ集めなのだ。
 表面だけを見て、幻想を持ってはいけない。幻惑されてはいけない。この人物を何らかの目的でたんに<利用>しているだけ、という人々を除いては。

1512/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者②。

 2008年1月13日付米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』のある記事について、この欄の4/16、№1502は、「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号(1983年1月17日)の「真の執筆者はR・パイプス」だった、という部分までで終えている。
 同記事中で、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の発言は、続けて、つぎのように紹介されている。
 R・パイプスは「NSDD-75」を「過去〔の政策〕からの明確な決別』と定義し、この新しい外交政策の目標は「ソヴィエト同盟〔ソ連〕との共存」ではなく「ソヴィエト体制を変更させること」で、それは、「外部からの圧力を通じてソヴィエト体制を変更させることのできる力が我々にはあるという信念」に根ざしていた、と語った。
 このあと当時に国務長官だったシュルツ(George Shultz)や再びビル(=ウィリアム)・クラークの言葉を紹介した後、「NSDD-75」の冒頭の文章を引用する。以下は、抜粋。
『米国のソ連との関係』。米国の任務は第一に、『ソヴィエトの膨張』を方向転換させることで、これは『米国軍の主要な対象〔focus〕をソ連に向かって維持し続ける』ことだ。第二に、我々が使える限られた範囲内で、ソ連が、特権支配エリートの権力を徐々に減少させて、より多元主義的な政治、経済制度へと変化するプロセスを促進する』ことだ。
 そして、再びR・パイプスに戻る。
 R・パイプスは、「文書がソ連の改変(reform)を中心的狙いとするように強く主張して、この文章を維持しようと闘った」。
 彼はつぎのように思い出す。『国務省はこれに猛烈に反対した。彼らはこの文章は、ソ連の内部事情への余計な干渉だとし、絶対に危険で無益だと考えていた。我々は固執し、そして勝ち得た(got that in)』。
 「歴史的意義を看過することはできない、すぐには不可能だが予言的な異様なこの文章は、国務省によってほとんど削除」されかけたと記事は書いたのち、R・パイプスの言葉に戻る。
 R・パイプスは、「ビル・クラークの支持とともに、この文章を主張(insist)するロナルド・レーガンの支援〔があったこと、backing〕、を指摘する」。
 記事はさらに進めて、「NSDD-75」の中の東欧、アフガニスタン等々に関する部分に入っているが、割愛する。
 この記事のとおりだとすると、リチャード・パイプスの果たした役割は、むろんR・レーガンがいたからだろうが、かなり大きかった。
 それはまた、現時点で振り返れば、ということにはなるが、R・パイプスの予見や主張は、ソ連のその後の歩みと大きくと変わらなかった、又はその基本的方向へと影響を与えるものだった、と思われる。
 これについては、別の例証となる資料・文献がある。例えば、ゴルバチョフのような人物(上記文書の時点で、特定のこの人物の出現は予見されていない)が登場しなければ、ソ連が大変化することはない、という見通しも、リチャード・パイプスは語っていた。

1502/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者/レーガン政権。

 ○ 米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』の2008年1月13日付のある記事がネット上で読める。このように書く。
 「25年前の1983年1月17日に、大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は冷戦勝利の青写真を静かに定式化した」。それは「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号と呼ばれる、「レーガン施政下でのおそらく最も重要な外交政策文書」で、「ソヴィエト共産主義帝国を根本から揺るがそうとする大統領の意図」を具体化するものだった。
 この文書作成を監督したのは「国家安全保障補佐官のビル・クラーク(Bill Clark)」[Bill=William]で、国家安全保障会議でのクラークの副補佐官の一人に、ノーム・ベイリー(Norm Bailey)がいた。ベイリーによれば、「NSDD-75」は「冷戦勝利の戦略計画」だった。
 別の同会議スタッフだったトム・リード(Tom Reed)によると、それは「ゲーム終結の青写真」、「経済的・政治的戦争の秘密宣言文書」だった。
 ”Secret”(秘密)とスタンプされているこの文書の存在・内容を何らかの方法で知ったソヴィエトは、「歴史を脅迫する…新しい指令」と称して警戒感を示した、という。
 ロナルド・レーガン(共和党、元民主党)、1981年1月~1989年1月・米国第40代大統領。すでイギリス・サッチャーは首相になっていて、1981年にフランス・ミッテラン、ドイツ・コールが続き、やや遅れて、日本・中曽根康弘が登場する。
 ソ連では、1985年3月にゴルバチョフがソ連共産党書記長になる。
 そして、レーガン(と特にサッチャー)はゴルバチョフといく度か会談、対ソ連(・東欧)冷戦終結とソ連解体(・東欧諸国「自由」化)への重要な足慣らしをした。
 ○ 2016年は、対ソ連冷戦終結後25年めだった。
 日本もいちおう冷戦「勝利者」だったのだが、祝えるほどの大きな尽力をしたのか否か、米英の指導者やドイツ統一を導いたヘルムート・コール(Helmut Kohl、キリスト教民主同盟=CDU)に比べると、少しは肩身が狭いように感じる。
 それにそもそも、ソ連解体前後を通じて、「反共産主義」の意識・認識がどの程度あったのかは、もちろん米英独各国にも<左翼>または<対共産主義国穏健派>はいたのだが、これら諸国以上に怪しいのではないだろうか。
 日本と日本国民、「保守」を含む学者・研究者や<論壇>は、対ソ連冷戦終結とソ連解体・東欧諸国「自由化」の歴史的意味を、きちんと議論し総括するということをまだしていない、と考える。
 ○ 上にも名の出てきたノーム・ベイリー(Norm Bailey)が2016年発刊の書物の中で一部を担当して書くところによると、「NSDD-75」は同「32」、同「45」、同「54」、同「66」を基礎にしており、各省から集められたグループ(IG, Interdepartmental Group)によって国家安全保障会議の政策文書「米国の対ソ連外交」として原案が1982年8月21日に用意された。
 IGの委員長(議長)は国務副長官のウォルター・ストーセル(Walter Stoessel)。IGの会議でいずれも国務・財務・農務三省の反対でわずか2文だけ削除されたが、あとは一致しての賛成で原案ができた。
 この原案の、従ってさらに「NSDD-75」の「真の執筆者」はリチャード・パイプスだった。
 パイプスは、ハーバード大学を離れて2年間をワシントン(ホワイト・ハウス)で過ごした、「ソヴィエト連邦と東欧問題に責任のあるスタッフだった」
 以上は、Norman A. Bailey, Definig the Sterategy - NSDD75, in : Norman A. Bailey, Francis H. Mario, ed, William P. Clark, foreword, The Grand Strategy That Won the Cold War: Architecture of Triumph <冷戦に勝利した大戦略>(2016/1/14)p.67-68
 ○ リチャード・パイプスの側では、自伝書である、Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger <私は生きたーある非帰属者の回想> (2003)が、上のワシントン時代のことも書いている。「第三部・ワシントン」p.126 - p.211.だ。そのうち、「NSDD-75」に関するのは、p.188 - p.202。
 リチャード・パイプスは、ソ連・東欧問題専門家として、ドナルド・レーガン時代の対ソ連外交方針の形成に大きく関わった。
 R・ニクソン(共和党)は職に就いてから政治の技術・方法として反共産主義を選択したが、R・レーガンは<大統領になる前からの根っからの反共産主義者だった>、ともされる。
 この大統領とともにリチャード・パイプスは、共存でも「デタント」でもない、対ソ圧迫政策を進めるが、究極的にはソ連の瓦解をすら意図していたとされる。
 リチャード・パイプスはロシア専門の学者・研究者(大学教授)だが、その学識からも生成された自身の「反共産主義」性およびソ連の歴史や現状に関する知見でもって、<ソ連解体>の方へと「現実」を変えていく活動を政府の一員としてしたわけだ。
 上の本には、1981-82年頃の、ロナルド・レーガンと二人だけの写真、副大統領だったジョージ・ブッシュ(父ブッシュ)との二人だけの写真も掲載されている。
 ソ連は自分たちだけで自主的にソ連をなくすように追い込んでいったわけではない。「現実」を変えるべく、アメリカでも種々の議論があり「政策」策定もあったわけだ。後者は「見通し」、「計画」であってまだ「観念」ではあるが、それに従えば「現実」も動く、という「観念」もある。それは多くの場合は、おそらく、体系だった、概念も比較的に明確にした、長い文章から成っているのだろう。

1419/D・トランプとR・パイプス。

 D・トランプはキューバ・カストロについて、「自国民を抑圧した独裁者」だと断定し、キューバは「全体主義」国だと適切にも言い放っている。
 トランプはアメリカの共和党員として、同じく共和党のR・パイプスの<共産主義>に関する書物を読んでおり、反共産主義はトランプにとっての常識または皮膚感覚になっているのではないか。選挙戦中に中国やソ連について何と言ったかしらないが、種々の外交的駆け引きを別にすれば、中国やロシアに<甘い>ことはないだろう。
 R・パイプスの共産主義やロシア革命等にかんする本には、知識人、とりわけ「左翼知識人」に対する皮肉っぽい言辞がしばしば見られる。
 西側の知識人はこの点はあまり認めようとはしないが…、とか、知識人の多くは強調しているが、実際にはこうだった、とかの文章が見られる。例えば、彼はかなり一般的な歴史叙述と違って、<10月革命>後の<干渉戦争>なるものの実際の圧力の大きさをさほどのものとは見ていない。すでにこの欄で用いた表現を再び用いると、ボルシェヴィキは「干渉戦争」とではなく、ロシア国民との間の「内戦」をこそ戦っていた。それは、ドイツとの講和後も、一次大戦終了後も続いた。
 トランプの勝利はアメリカの<左翼的>知識人とメディア関係者の敗北で、ナショナリストの勝利だ。
 反共産主義のナショナリスト。なかなかけっこうではないか。
 イギリスのEU離脱を予想しないでおいて一斉に批判する(あるいは懸念する)、クリントンの勝利を疑わずトランプが当選するはずはないと予想する、そういう日本のメディアのいいかげんさ、ほとんど一致して同じことをいうという<全体主義的気味の悪さ>を感じていたので、トランプ当選は驚きではなく、精神衛生によかった。
 偽善・タテマエの議論は排して、各国が反共産主義(自由主義経済)とナショナリズムで切磋琢磨すればよい。
 日本人はいかほど意識しているのか。R・パイプスによれば、中国も北朝鮮もベトナムも、そしてキューバも、「共産主義」国だ。
 アメリカや欧州ではとくに1989/91年以降に<ソ連・社会主義>が解体した歴史的意味を真剣に考えて、議論した。
 日本では、真摯な議論はまるでなかった、と断じたい。日本共産党が゚1994年にソ連は社会主義国でなかったと新しく「規定」するまでの間、日本の政治は、日本の<反共・保守>論壇は、いったい何をしていたのか。
 1990年代の前半、政治改革とやらに集中し細川護熙政権を生み、自社さ・村山連立政権を生み、1995年の戦後50年村山談話を生み出した。
 あの時代-まだ20年あまり前だが-、<反共・保守>は結束して、日本共産党および「共産主義」を徹底的に潰しておくべきだったのだ。
 政治家の中での最大の責任者は、小沢一郎。その後に幹事長として民主党政権を誕生させたことも含めて、小沢一郎こそが、日本の政治を攪乱し、適切な方向に向かわせなかった最大の犯罪者だろう。
 今や小沢は、<左翼・容共>の政治家に堕している。
 1989/91年を、おそらくは公になっていない「権力」闘争・内部議論を経て、日本共産党は生き延びてしまった。日本の政治家たちは、そして<保守>の論者たちはいったいこの当時に何をしていたのかと、厳しく糾弾したい思いだ。

1408/歴史と感情と科学と-R・パイプス、そして笹倉秀夫。

 一 前回10/12の末尾に、「歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的『感性』を率直に示して、何ら問題がないはずだ」。 これは歴史叙述そのものに「感情」を明示してもよい、という趣旨ではない。
 このように書いたのは、何かを読んでその印象が残っていたからだ。
 R・パイプス・ロシア革命史の「訳者あとがき-解説にかえて」の西山克典の文章だったかもしれないと探してみたが、そうではなかった。別の本を捲ったりしているうちに、上記のR・パイプスの書物(邦訳書)の本文自体のほとんど末尾にある、「16章/ロシア革命への省察」の中の文章であることが分かった。
 ブレジンスキーと同様にR・パイプスは、日本共産党とは違って、レーニンとスターリンとがほとんど真反対のベクトル方向にあるとは見ていない。R・パイプスは、1917秋(10月革命時)と1922年の初めまで(レーニン時代だ)のソ同盟の人口減を1270万人(戦死、餓死=500万人以上、疫病死、海外逃亡等を含む)とし、自然状態では増大していたはずの人口を想定すると、実際の人的損失は「2300万に達する」などを指摘したのち、つぎのように記述する。
 R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)p.404-5による。〔〕の英語は、原著(A Concise History of the Russian Revolution、p.403-4 )を直接に参照した。
 ・かかる「前例のない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか」。
 ・現代において「科学」の威光は強く、「道義的にも感情的にも超然とした科学者」の、全現象を「自然」で「中立的」と見なす気質を身につけてきた。彼らは「歴史」における「人間の自由意志」を考慮することを嫌い、「歴史」の「必然性」を語る。
 ・しかし、「科学の対象と歴史の対象」は「著しく異なる」。医師・会計士・調査技師・諜報局員の調査は「正しい決定に達するのを可能にする」ためで、「感情に絡みとられてはいけない」。
 ・「歴史家にとっては、決定はすでに他人によって為されており、超然と構えることで、認識に付け加えるものは何もない。実際には、それ〔超然と構えること〕は、認識を低下させることになる。というのは、激情のさなかに〔in the heat of passion〕生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに〔dispassionately〕、理解することができるというのであろうか」。
 ・19世紀ドイツの某歴史家は、「歴史は怒りと熱狂をもって書かれなければならない、と私は主張する」、と書いた。
 ・アリストテレスは「あらゆる問題について節度を説いた」が、「『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は馬鹿と思われるからである』」と述べた。
 ・「関連する事実〔facts〕の収集整理は、確かに感情に動かされることなく、怒りも熱狂もなく行われなければならない。歴史家の技能のこの面は、科学者と何ら異なるものではない。しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない」。
 ・「どれが『関連している〔relevant〕』かの決定は、判断〔judgment〕を求めており、そして、判断は価値〔values〕に基づいているからである。事実は、それ自体としては無意味である。何故なら、それをどう選別し、序列化し、そしてどれを強調するかに関し、事実自体は何ら指針〔guide〕を提供しないからである。過去が『意味をなす〔make sense〕』ためには、歴史家は何らかの原則〔principle〕に従わなければならない」。
 ・「通常、歴史家はまさにそれをもって」おり、「最も『科学的な』歴史家でさえ、意識しようがしまいが、予見〔preconceptions〕から行動しているのである」。
 ・一般的にその予見は「経済的な決定論に根ざしている」。経済・社会のデータは「不遍性という幻想〔illusion of impartiality〕」を生んでいるからである。
 ・「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然〔natural〕なことであり、従って正しい〔right〕という暗黙の前提〔silent premice〕であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明〔apology〕に帰すことになる」。
 以上。
 二 歴史は怒り等の感情をもって書かれてよい、というふうの部分が印象に残っていたのだったが、きちんと読むと、それ以上の内容を含んでいる。
 ここでの「歴史」学には、<政治思想史>や<法思想史>、<政治史>や<法制史>などの学問分野も含まれうるものと考えられる。
 こうした分野の文献を、かついわゆる<アカデミズム>内の文献・論文も最近は読むことが多い。そうして、上にパイプスが書いていることも、相当によく分かる。
 基本的なから些細なまで、種々の「事実」があるに違いない。書き手はどうやってそれを<序列化>し<関連づけ>ているのだろう、と感じることもある。また、この人は何らかの<価値判断>に基づいている、あるいはさらには何らかの<政治的立場>に立っている、これで<学問的作業>なのか、と思うこともある。
 また、思い出すに、ソ連崩壊により「東・中欧での社会主義化は挫折」したことは事実として認めつつ、その原因としてマルクス主義自体やレーニン(またはレーニズム)には大きな注意は払わず、「スターリニズム」の「問題点」などをかなり詳しく叙述しつつ、「それらの運動」〔社会主義・共産主義運動 ?〕を「スターリニズムに解消させて、マイナス面だけを」論じて、「社会主義化の実践」の肯定面に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」と強弁(!)する日本の「研究者」の書物があった。
 笹倉秀夫・法思想史講義/下(東京大学出版会、2007)p.315-6。
笹倉は、「社会主義化の実践」が示した「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面での貢献」に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」とし、「例えば」として三点を挙げる。
 その三点にはここでは立ち入らない。しかし、社会主義・共産主義運動(「社会主義化の実践」)が「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面」で「貢献」した、という前提自体が、何ら実証されていない「暗黙の前提」であり、この<科学的と自認しているのかもしれない学者>の「原則、principle」なのだろうと推察される。マイナスだけではなく積極面も見るのが「研究者の公正な姿勢」だという表向きの言い方自体にすでに、(隠された)何らかの(おそらくは政治的な)<価値判断>が含まれているだろう。
 立ち入らないが、ファシズムと共産主義ではなくファシズムとスターリニズムを併せて<全体主義>と称するのは誤りだとの叙述(p.316注)も含めて(全体主義論はファシズムとレーニンを含む共産主義全体を包含するものだが、おそらく意識的にスターリンに限っている)、上のような叙述・説明は今日では日本共産党以外には珍しく、おそらくは、この人は、日本共産党員なのだろうと思われる。
 それは別として、これまでこの欄で「歴史学」なるものについて、坂本多加雄、山内昌之らのその性格や役割に関する議論を紹介したことがある。ひょっとすれば、人文・社会系学問のすべてに当てはまるかもしれないのだが、上のパイプスが述べるところも、充分に読むべきところがある。
 なお、パイプスのロシア革命に関する書物自体は、個別「事実」について相当に密度の濃いもので、<感情>的な文章で成り立っているわけでは全くない。諸事実の<解釈>あるいは<取り上げ方・並べ方>におそらくは、パイプスのロシア革命に対する何らかの(<価値>にもとづく)<判断>が働いているのだろう。
 三 忘れていた。上のパイプスの文章の最後の部分は、とくに意識・自覚される必要がある、と考えられる。
 パイプスによれば、歴史事象への<判断>を峻拒する歴史叙述は、公正で客観的な印象を与えるかもしれないが、じつはその歴史または歴史の結果としての現在の<勝利者>に味方している。生起した歴史事象、その結果としての現実が「自然」で「正しい」と思ってしまえば、それは<現実>(を支持する大勢 ?)を擁護していることになる
 この観点は忘れてはいけない、と思う。
 徳川家康は「正しかった」から長い江戸時代を拓いたわけではないし、明治維新が(薩長両藩等が)「正しかった」から、明治時代があったわけでもない、と思われる。
 「日本に生まれてまぁよかった」という題の本を出している人がいるが(平川祐弘)、この人が安倍戦後70年談話を擁護しているように、彼が生きた戦後日本は彼にとって「まぁよかった」のだろう。そして、この人の今年1月号の論考に明かなように、戦前・戦中の日本は<誤って>いた、と判断されることになる。それでもなお、この人(平川祐弘)は「保守」派論壇人らしいのではあるが。

1399/共産主義史研究者・R・パイプス著作一覧。

 一 Richard Pipes(リチャード・パイプス)は米国レーガン政権時にソ連・東欧問題顧問を務めたらしく、そのゆえに「政治的偏向」を感じる向き(とくに「左翼」)もあるようだが、論理は逆で、ソ連・東欧/共産主義についての優れた専門的研究者だったからこそレーガン政権によって見出され、当時の共和党政権の対ソ交渉・政策に有用な役割を果たしたのだと思われる。
 アマゾン/洋書で検索すると、彼の著書に、単著に限って、以下のものがある。出版社は省略して、同欄に記載された発行年だけを記した(かつ発行年順に並べた)。
 諸外国語に翻訳されている著書もあるようだが(ポーランド語等々)、ドイツ語版2書と、日本語訳書3冊だけを当該書のあとに=として挙げた。
 The Russian Revolution(1991)は900頁を超える大著で詳細だが、日本語訳書は発行されていない。日本の専門研究者は知っているのだろう。
 Russian Under the Bolshevik Regime(1995)も500頁を超える大著で詳細だが、日本語訳書は発行されていない。日本の専門研究者は知っているのだろう。
 日本語訳書・ロシア革命史〔西山克典訳〕(成文社、2000)のあるA Concise History of the Russian Revolution( 1996)は「コンサイス」版で、上の The Russian Revolution(1991)に比べて小さい大きさの400頁余りのものにすぎない。
 Communism(共産主義)をタイトルにするものも、最も簡潔なものの日本語訳書があるにすぎない。
 パイプスの全業績とその意義に照らせば、カルル・ヴォルフレンとかフクヤマ、ハンティントンらと比べて、日本の出版界はパイプスを冷遇している、と感じられる。
 フランス革命について多くは「左翼」=従来の正統派のフランス人の著書を岩波新書として発行している岩波書店も、パイプスについては、いっさい無視している。
 アメリカあるいはヨーロッパの論壇・学界の状況は、日本の出版界に特有の事情によって、誤って又は歪んで伝えられている可能性が高い。
 反共産主義または「保守」の立場の優れた日本人研究者・情報把握者が、アメリカについては少なくとも10人、欧州各国については少なくとも3人程度ずつは存在する必要があるだろう。
 いくら産経新聞を読んでも、月刊正論(産経)その他の「保守」系雑誌を読んでも、全体的でより客観的な状況はさっぱり分からないだろう。このあたりですでに日本の「保守」は「左翼」に敗北しているのかもしれない。
 二 R・パイプス著作一覧
 Karamzin's Memoir on Ancient and Modern Russsia(1959)
 Russian Intelligentsia(1961)
 Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897(1963)
 = レーニン主義の起源〔桂木健次・伊東弘文訳〕(河出書房新社、1972)
 Struve: Liberal on the Left, 1870-1905(1970)
 Struve: Liberal on the Right, 1904-1944(1980)
 U.S.-Soviet Relations in the Era of Detente: Tragedy of Errors(1981)
 Survival Is Not Enough, Soviet Realities and Americas Future(1986)
 Legalized Lawlessness: Soviet Revolutionary Justice(1986)
 Russia Observed: Collected Essays on Rossian and Soviet History(1989)
 The Russian Revolution(1991)
 Communism: The Vanished Specter(1994)
 Russian Under the Bolshevik Regime(1995)
 Three "Whys" of the Russian Revolution (1997)
 =Drei Fragen der Russishen Revolution: IMW-Vorlesungen zur modernen Geschichte Zentraleuropas(1995)
 A Concise History of the Russian Revolution(1996)
 =ロシア革命史〔西山克典訳〕(成文社、2000)
 Russia under the Old Regime: Second Edition(1997)
 Russian Revolution 1899-1919(1997)
 The Formation of the Sovietnion: Communism and Nationalism, 1917-1923, Revised Edition (1997)
 The Unknown Lenin: From the Secret Archive(1999)
 Property and Freedom(2000)
 History of Communism: A Brief History(2002)
 = Kommunismus: Kleine Weltgeschichte(2003)
 Communism: A History(2003)
 = 共産主義が見た夢〔飯嶋貴子訳〕(ランダムハウス講談社、2007)
 Looking Forward to the Past - The Influence of Communism After 1989(2003)
 The Degaev Affair: Terror and Treason in Tsarist Russia(2005)
 Russian Conservatism and Its Crisis: A Study in Political Culture(2006)
 Vixi: Memoirs of a Non-Belonger(2006)
 Alexander Yakovlev: The Man Whose Ideas Delivered Russia from Communism(2015)
 Soviet Strategy in Europe〔刊行年不明〕
以上。

1395/R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。
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