秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

明治維新

1664/明治維新⑤-吉田松陰と木戸孝允。

 一部の「保守」派あるいはかなり多くの国民にとって、吉田松陰は<偉人>なのだろう。
 そのことを全否定するつもりもないが、全肯定するつもりもない。<偉人>か否かは、どうやって決めるのか。
 水戸学-藤田東湖-吉田松陰(-一定の長州藩士)。とりあえず素人の頭の中に浮かんだラインを書いた。
 吉田松陰/留魂録-古川薫・全訳注(講談社学術文庫、2002/原著1990)。
 これに、松陰が「死罪」となった経緯を示す、松陰自身の文章が載っている。
 1859年。その後、10年も経つと、明治新政府ができて、「内戦」も終わっている(西南戦争等は別論)。
 以下は原文でも現代語訳でもない、読み下し文。最初と最後の1/3ほどだけ。
 「7月9日、初めて評定所呼び出しあり、三奉行出座…/
 …何の密議をなさんや。吾が性公明正大たることを好む。余、是に於て六年間幽閉中の苦心たる所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。」(p.82、第二章)
 古川の「解題」によると(おそらく基本的には諸研究者の一致はあると見られる)、「下獄」=死罪(斬首)の基礎は「自首」で、その内容は、①勤王派公卿・大原重徳を長州に招いて「反幕」の旗揚げを図ったこと、②老中・間部詮勝(鯖江侯)の「暗殺」を企てたこと。
 吉田松陰の死は安政の大獄による不当なもの(逆殺)という見方もあり、そういう印象もあるのかもしれない。
 だが、これを読むと、まず少なくとも、当時の政府側(江戸幕府)による<暗殺>ではないし、(上では分からないが)当時としてはとくに残虐な処刑方法だったのではなさそうだ。 
 逮捕-取調べ、という<手続>は履んでいる。そして「自白」を基礎にしている。
 「自白(自首)」内容が事実そのままだったかどうかは、判断し難い。
 だが、明治憲法・刑事法制下での「犯罪」に関する取り扱いを想定して比べてみても、政府要人の「暗殺」企図に対する処断としては、当時としてはありうるだろう、という感想は抱く。
 吉田松陰はすでに幕府(当時の国の政府)に知られていると勘違いしていたという話もあるし、<誠を尽くして説明すれば政府・公務員も理解してくれる>と考えた「甘さ」・「若さ」があった、ともされる(古川、p.43)。 
 おそらくは、吉田松陰の上の文章部分を基礎にして、長州藩士側の文献史料も含めて、吉田松陰の死と「その遺体の埋葬」に関する小説類は書かれている。
 当時としてはさほど無茶苦茶な処刑ではなかったとしても、<首と胴体の離れた>、髪が乱れて(出血があるから当然の推測だが)「軽く」なった松陰の遺体を抱えて、埋めた長州藩士たちが、井伊直弼や幕府に対して、<こいつらは絶対に許せない>と憤懣するところがあっても、これまた、自然なことかもしれない。
 引用は省くが、つぎの著(小説)は、松陰「殺害」=処刑によって<幕府は長州を敵に回してしまった>と、重要な画期だったとしている。
 村松剛・醒めた炎-木戸孝允(1987)。
 既にこの欄に書いたが、松陰の「死体」を見て、処理をした者数名の中に、木戸孝允(桂小五郎)と伊藤俊輔(・博文)がいた。
 吉田松陰の死の影響力の大きさは、この「留魂録」そのものにもあっただろう。
 これは、死の直前の遺書であり、かつ若き長州藩士たちへの「遺言」でもある。
 一番最後に記された個人名は、「利輔」、すなわちのちの伊藤博文だ。p.116。
 この書を、ある程度の範囲の者たちは<回し読み>をして、胸に刻んだ、という。
 松陰が彼らに教えたこと、「遺言」にも記したことが、一定の人々に<精神的>影響を与えなかったはずはない、と思われる。人によるし、程度の差はあるだろうが。
 木戸孝允(桂小五郎)は、五箇条誓文の文章を最終的に決定し、それの奏上の形式も最終的に決した、とされる(むろん当時の政権中枢の支持・決裁を受けたが)。
 よくも悪くも(?)、明治期初年までの木戸孝允は、重要な人物だ。
 何が、いかなる情念、怨念、あるいは人間関係、あるいは出身地(出身藩)が、木戸孝允等々を動かしたのか。
 誰についても言えるだろう。西郷隆盛についても。あるいは動く現在の<歴史>についても。
 <歴史を動かす・変える(現実化する)>のは、理念・建前論・知識等々の<綺麗ごと>だけではないのだ、後者もまた無視してはいけないが、という関心からも明治維新を考える。

1636/明治維新④-「歴史」なるものの論理。

 「ああ、それにしても。この空の青さはどうだ。この雲の白さはどうだ。
  ああ、それにしても。あの朝の光はどうだ。この樹々の緑はどうだ。」
  小椋佳「この空の青さはどうだ」1972年、より
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 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。」
 <日本会議>設立宣言(1997年5月)。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
 この二つを合成すると、「明治維新」による「近代」国家の形成で「列強の植民地にならずに済んだ」という、大まかには誰でも承認しそうな立派な?歴史観の叙述がなされているようだ。
 余計だが、ここで興味深く感じるのは、<保守>代表のような印象を与えるかもしれない(少なくともそう意図していると見える)「日本会議」も、堂々と「近代国家」という、ごくありきたりの概念を採用していることだ。
 この「日本会議」は、ある意味では、あるいはある側面では、特殊な考え方を別に採用しているのではなく、ごくふつうの、平凡な、ある意味では目新しくない、そして-いろいろな形容句はありうる-陳腐な概念と論理を使って思考し、活動していると思われる。
 そしてむしろ、概念や論理をどれだけ掘り下げて緻密に考察しているかが、この団体の人々には問われているとも思われる。
 戻って、上の立派な?歴史観について、立ち入る。
 「明治維新」を通過したからこそ植民地にならずに済んだ(独立の近代国家になった)。
 この叙述自体に、論理的にはじつは問題が介在している、と考える。
 第一に、「明治維新」かそうでないか、という二項対立的思考に陥ってはいないか、ということ。この場合、「そうでない」とは、徳川幕府体制の維持を無意識に念頭に置いている可能性がある。
 つまり、「明治維新」だけが<植民地にならずに、独立の近代国家になった>という現実をもたらしたのか否かだ。
 少なくとも論理的には、そんなことはない。
 「明治維新」なるものを経ないで、かつ<徳川幕府体制のそのままの維持>もしないで、<植民地にならずに、独立の近代国家になる>可能性はあった、というべきだ。
 論理的に、そうだ。実際もそうだったと考えているが、その方向へとは立ち入らない。
 第二に、「明治維新」が<植民地にならずに、独立の近代国家になる>必要な条件だったとかりにして、「明治維新」という概念で何を理解するか、だ。
 現実にあった「明治維新」なるものを、西南雄藩等出身者が一部公卿と天皇・朝廷とともに遂行した変革または改革だったと理解するとするのが大まかには通念かもしれない。
 しかし、「明治維新」なるものが、現実にあった(<歴史になった>)それ以外のものでもよかった可能性が、論理的にはある。
 つまり、いろいろな要素があるので多岐の論点に言及すると複雑になり過ぎるので簡潔にいうが、かりに「西南雄藩等出身者」ということを前提にしても、現実にあったのとは違って、長州・薩摩両藩出身者たち以外のものが優位を占める下級武士(・藩主)が遂行した「明治維新」になる可能性もあった、と見るべきだろう。
 その場合に、最終的には現実には木戸孝允が確定し、その奏上方式の原案も作ったとされる<五箇条誓文>なるものが発表された、とは限らない。
 論理的に、そうだ。実際にも、なお種々の選択の余地が、主体・理念・組織等の面であり得たと思われる。そうであっても、<植民地にならずに、独立の近代国家になった>ということは生じ得た、と考えられる。
 ややこしいことを、書いたかもしれない。
 結局のところ言いたいのは、<現実化した>・<歴史になった>ものが「正しかった」・「やむを得なかった」・「それなりの根拠・理由があった」という、よくありがちな<歴史観>・<歴史の見方>から解放されなければならない、ということだ。
 いかに「明治維新」を肯定的に評価したくとも、それは、現実にあった「明治維新」を主導した中心人物たち、櫻井よしこがよく言う<明治の先人たち>を高く評価するという理解の仕方に必然的につながらなければならないのでは、全くない。。
 「明治維新」なるものの理解も問題にしなければならないし、それ以外の選択肢が(徳川幕府継続のほかに)あったかどうかもまた、考慮すべきだ。
 あまりに単純な(と私には思われる)歴史理解が評論家・運動団体に散見されるので、あえて記した。
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 <歴史的決定論>あるいは<運命論>を過去に投影させるのは、将来に向けて日本共産党ら共産主義者が前提にしているかのごとき<不可避の歴史法則>と変わらないのではないか(不破哲三と櫻井よしこの発想の共通性・類似性をこの欄で指摘したことがある)。
 このような考え方を書いたのは、レーニン・「ロシア革命」のことを思い浮かべたにもよる。
 また、関連して、リチャード・パイプスの、<現実に生じてきたことを(無意識にであれ)必然・不可避のものと是認するのは、「勝者」のために釈明・弁明している>という趣旨の文章に接したことも大きい。
 幕末・明治維新そして明治期について、何となくこういうイメージを持つ者は、櫻井よしこや「日本会議」派以外にも多いのではないか。
 ロシアで1917年以降に起きた「現実」が<正しい>・<やむを得ない>・<それなりの理由がある>ものだったとすれば、その過程で、またレーニン時代にもスターリン時代にも、そして第二次大戦後においてすら、「体制」に反抗して(ときにはその旨を一言ふたこと洩らしただけで)殺された、しばしば残虐に殺された個々の人々の人生はいったい何だったのか。ロシア・ソヴィエト国家に限らない。
 <現実になった歴史>について、「正しい」とか「間違っている」とかの、価値判断を少なくとも簡単に下すのは、絶対に避ける必要がある。<歴史は勝者が作る>のであり、正しい・間違いというレベルの論争点ではない、ということをまずは確認すべきだろう。価値判断は関係がない。先にある問題は、<事実(歴史)になった>ことは何か、だ。
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 日本の被占領期における「日本国憲法」制定(形式上は明治憲法改正手続による)についても、似たようなことは言える。 
 現憲法を全体として「否定」したい気分がある程度の範囲にあるのは分かるとしても、現憲法は<無効>だとか、明治憲法復元とかの主張になるのを見ると、社会通念や論理上の問題とは別に、ある程度において<精神病理学>上の問題がある、と思っている。
 この点は、いずれまた(再び、何度も)触れる。
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 レシェク・コワコフスキは、「神は幸せか?」と題する論考の中で、明らかにつぎの二つを区別していた(凡人の私でも理解できた)。<*出典を、7/12に訂正した。>
 すなわち、経験(experience)の世界と想念(imagination)の世界。
 現実の世界と観念の世界。当たり前の区別のはずなのだが、これを十分に明確には区別していない文章を月刊雑誌や週刊誌に書いている人がいる。

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
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 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
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 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1626/明治維新②-櫻井よしこと伊藤哲夫。

 「五箇条の御誓文と十七条の憲法」は「普遍的な価値観で支えられています。それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本」ではないか。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84。 
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 表記にいう「明治維新」にはいわゆる幕末ないし江戸幕府崩壊過程を含む。または概念上は含まないとしても、これに関連する主題として、後者についてもここで触れる。「考」を省いたが、メモ書きという趣旨は同じ。
 櫻井よしこは上の論考(?)でしきりと日本と日本人にとっての「五箇条の御誓文」(五箇条誓文)の意義を強調する。これを「認識」するのが「保守の基本」なのだそうだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の計8章(終章を含む)のうち「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題される。
 しかし、「五箇条誓文」への言及はない。言葉としても出てこない。「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していた、とか書いてもよさそうなのに、一切ない。
 伊藤哲夫の以下の三著。ついでだが、②と③は「著」というには小学生低学年用ほどに活字が大きすぎ、椛島有三の2007年著にも似て、かなりの厚化粧感がある。 
 ①伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(高木書房、2000)
 ②伊藤哲夫・教育勅語の真実(致知出版社、2011)
 ③伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社、2013)
 このうち①は計5章で成っていて、2章の題は「国のかたちを求めて」。
 これの節にあたるものが二つあって、「五箇条の御誓文を考える」と「五箇条の御誓文はいかにして成立したか」。つまり一つの章全体で<五箇条誓文>を扱う。これに否定的、消極的ではむろんない。計38頁をかける。
 教育勅語に関する②は、第1章の冒頭で<五箇条誓文>から始める。明治維新観は別に扱いたいが、興味深いので、ここでも少し引用。
 「重要なのは明治維新は…開国、すなわち国を根本的に開く改革であったという事実でしょう。その改革の出発点になったのが、五箇条の御誓文でした」。/「中でも四、五項目は」、「旧来の陋習を捨て」、…という「先取の意気込みにあふれています」。p.19-20。
 ③は、計5章で、そのうちの一つの章の題が「五箇条の御誓文から始まった明治憲法」。たまたまだろうが、計38頁をかける(内容重複は吟味していない)。
 伊藤哲夫がいかに<五箇条誓文>を重視しているかが分かる。
 本人に問い詰めたわけではないが、櫻井よしこは、これら伊藤哲夫の書物を、上の2000年以降はしっかりと読んだと思われる。
 櫻井よしこは、<日本会議>刊行文献(椛島有三はもちろん)や伊藤哲夫著を座右に置いて、仕事をしているのだと思われる。
 日本共産党の党員研究者・学者が、綱領は簡単だからたいていは役立たないとしても、自分の専門分野に関する同党文献・政策集あるいは不破哲三ら幹部の関係文献を見て確認しつつ(用心しつつ?)論文等を書き、かつ参照文献にはいっさい挙げない、のだろうというのと、全く同じだと思われる。
 最初の方にもどって、櫻井の上記月刊正論論考(?)計6頁は、印象だが、1/10以上は明らかに「五箇条の御誓文」への言及とその紹介で費やしている。平均で1頁に1回は、<五箇条誓文>に触れている。多すぎるだろう。
 いつから、櫻井よしこはかくのごとく変わったのだろうか。
 先の戦争にかかる「歴史認識」とともに、日本の<特定保守>派の明治維新に関するイメージ、論及の仕方・内容も興味深いものがある。

1620/明治維新考①-天皇・神道と櫻井よしこ・井沢元彦。

 明治維新につき、考える。
 古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.85。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号
 しかし、井沢元彦のこんな文章もある。
 「ここに、江戸時代を通じて徐々に形成された朱子学(外国思想)プラス神道(国内思想)の合体が生んだ、『天皇教』というべきものの完成形がある」。
 井沢元彦・逆説の日本史20/幕末年代史編Ⅲ(小学館文庫、2017.04)p.350。
 =<単行本>同・同/<西郷隆盛と薩英戦争の謎>(小学館、2013)p.318。
 「ここに」というのは、真木和泉、平野国臣、そして久坂玄瑞に至る考え方で、天皇(この時期は孝明天皇)が実際に・現実に何を考えていようと、天皇の考え=「大御心」は絶対に正しく「絶対の正義」である<はずだ>という考え方だ。実際・現実ではなく、自分たちで作り出すことができ、その「大御心」に従うことこそが正義になる。
 井沢元彦は続ける。
 「長州閥によって作られた帝国陸軍」、「長州の遺伝子を受け継ぐ青年将校たち」の二・二六事件で、彼らは「昭和維新断行、尊皇討奸」を叫び「大御心に沿って君側の奸を排除した」と称した。/彼らは、「あるべき姿の『天皇』に天皇自身が従うべきだ」と考えた。
 明治維新、天皇、神道。櫻井よしこと井沢元彦と、どちらがより適切に理解しているだろうか。いや、どちらが、少なくともよく<思考>しているだろうか。
 こんな文章を書いていて、こんな文章を簡単に書いてしまって、ああ恥ずかしい、ああ気の毒だ、後世に残るというのに、ああ恥ずかしい、気の毒なことに、と感じることが、櫻井よしこの文章について頻繁にある。
 追記。櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一、八木秀次らは、譲位に関して「あるべき」天皇像を勝手に作り、今上天皇もそれに「従うべきだ」と考えた。特定の狂信にもとづく、「天皇教」だと言えるだろう。


1613/理性・理念・理論と感性・情念・怨念-現実の歴史。

 人が何か行動するときの<衝動>・<駆動力>といったものについて考えている。
 例えば、本郷和人が、つぎの本を書いて刊行したのは、たんなる学究意欲ではないだろう。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、1917年01月)。
 執筆依頼があったのかもしれないが、「いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさん」いて、中には「知っていてわざとウソをついているのでは」という人もいる、という現状に抗議したい気持ちが強かったのが一つの動機だったのではないだろうか。
 文章や原稿の執筆、書物の刊行、人はなぜこんなことをするのか。
 「食べて生きていく」本能がそうさせている場合もありうる。当然ながら、原稿料・印税等に魅力がある(こんなものは、この欄の秋月瑛二には全くない)。
 自分の<思想>・<考え方>を広く知ってもらいたいとの動機の場合もありうる(大洋の海底に生息する秋月瑛二にもほんの少しだけある)。
 いろいろな衝動・駆動力が混じっているように思われる。
 青少年期に、親その他の肉親・親族、あるいは親しいまたは敬愛する人の死を体験し、かつその死後の遺体を見てしまった若者たちは、その後の人生への影響を何ら受けないだろうか。
 もちろん、人間関係の近さにもよるし、死の原因にもよるし、遺体の処理は時代によって異なるので、時代にもよる。
 いま関心を持っているのは、レーニンの人生とその若年期における実兄の帝制下での刑死との関係だ。
 知りうる情報を増やして、また触れる機会があるかもしれない。
 吉田松陰(1830~1859)。
 子細に立ち入らない。テロルではなく、少なくとも当時においては、「合法的に」処刑された。死罪。井伊直弼、坂本龍馬、大久保利通らがのちに<テロル>に遭って殺されたのとは異なる。しかし、<殺された>ことに変わりはないとも言える。
 この松陰の遺体・死体を現に見て、埋葬した者も当然にいた。
 秋月瑛二でも知っている、のちの著名人、明治維新の功労者とされる者が二人いた。
 おそらくは当然に、松陰と同じ長州藩の者になる。
 桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文(-俊輔)。
 瀧井一博・伊藤博文-知の政治家(中公新書、2012)は、松陰の処刑後について、伊藤を中心において、こう書いている。
 「たまたま木戸孝允の手附として江戸に在勤」していて、「木戸とともに遺骸を引き取る」ことになった。/「変わり果てた師の姿が多感な青年の心に大きな衝撃を与えたことは想像に難くない」。
 伊藤博文、1841~1909年。この年に、満18歳になる。
 但し、瀧井によると、松陰と伊藤はタイプが違い、「松陰の影響から脱した時点」から伊藤の伊藤たる所以が始まるともいえる、とする。
 泉三郎・伊藤博文の青年時代(祥伝社新書、2011)は、根拠史料は分からないが、虚構ではなくして、つぎのように書く。
 伊藤は木戸らとともに、松陰の「遺体の受取」に行く。
 「桶に入れられた遺体は丸裸で、首は胴から離れ髪は乱れて顔には血がついており、見るも無惨な姿だった」。二人らは、「憤慨し、涕泣した」。
 そして、「顔を洗い、髪を整え、桂〔木戸〕の着ていた襦袢で遺体をくるみ、伊藤の帯を使って結び、首を胴体にのせて棺に収めた」。同じく処刑された橋本左内の墓の傍らに「埋葬」した。
 「幕府への憤り、その理不尽な酷刑への憤慨は、十九歳の伊藤に強烈なインパクトを与えた」。
 古川薫・桂小五郎(上下/文春文庫、1984/原書1977)は、小説だ。上の場面をつぎのように描写している。
 「粗末な棺桶」に役人が案内して、「吉田氏の死体です」と言った。一人(尾寺新之丞)が「走り寄ってその蓋をとった」。
 「首と胴の離れた人間の遺体が、無造作に投げこまれている。全裸にされていた」。
 「先生!」。尾寺が「泣き声で首を取り出し、乱れた髪を束ねた」。
 桂が「松陰の顔や身体を丁重にぬぐい清め」、伊藤が「首と胴をつなごうとすると」、役人に制止された(後日の検視の際に叱られると)。
 「小五郎は襦袢を」脱ぎ、遺体に着せて「伊藤は帯を解いてそれを結んだ」。
 「ようやく衣類にくるまれた松陰の胴体を、小五郎がかかえあげ、甕の中におさめた」。
 「まるで子供のような松陰の軽い体重に、強い衝撃を覚えて」、桂は思わず「ああ」と声を洩らす。<中略>
  「松陰の体重の、あまりにも軽すぎる感触が、いつまでも小五郎の手にのこった」。それは「人の命のはかなさ」に驚いたというよりも、そんな「矮小な肉体しか持ち得ない人間が抱く巨大な思想のふしぎさ」に心打たれたのだろう。上巻p.175-177。
 木戸孝允=桂小五郎、1833~1877年。この年に、満26歳だった。
 とくに結論を導こうとしているのではない。
 ただ、人は理念・理屈・理想だけでは動かないだろう。木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文にとって、一時期であれ「師」だった吉田松陰の<死に様>を見たことは、その後の彼らの人生に何らかの影響を与えたに違いないだろう、と推測できる、またはそう推測できるのではないか、というだけのことだ。
 吉田松陰に限らず、他のとりわけ長州藩の仲間たちの「死」を体験してきたに違いない。そのような桂や伊藤たちは、いったいどのような<情念>らしきものを抱くいたのだろうと、想像してみる。
 別に彼らに限らない。幕末・維新時の記録に残る全ての者たちが、理想・理念で全て動いていたわけではなくて、何らかの感情・執念・情念・怨念で行動していたに違いない、と思っている。
 西郷隆盛も、徳川(一橋)慶喜も、等々々、みんなが。
 表向きの、<声明文>とかの公式文書類だけに頼って、歴史が叙述できるはずはない。
 もっとも、例えば、日本共産党・不破哲三のように、もっぱらレーニンの文献だけ(たぶん全集だけ)を読んで、<レーニンの時代>を理解しようとしている者もいる。
 あるいはまた例えば、<五箇条の御誓文>のような(権力所在未確定の時期も含めて)薩長・新政府の公式発表文を読むだけで、<明治維新>の意味が分かるはずがないだろう。伊藤哲夫や櫻井よしこらの明治維新理解に、その弊はないか。

1594/三谷博・明治維新を考える(2012)と櫻井よしこ。

 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
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 全部を読んだわけではないが、ふと印象に残る叙述を見つけることがある。
 仲正昌樹(1963~)のつぎの二つも、そうだ。なお、この人の書物はたいていは所持している。
 仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014.05)。
 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・B選書、2006.02)。
 三谷博(1950~)のつぎの本も、きわめて興味深い。この人の書物も、かなり所持している。
 三谷博・明治維新を考える(岩波現代文庫、2012.11/原書・有志舎、2006)。
 櫻井よしこのように、明治維新・明治天皇・五箇条の御誓文を単純素朴に「讃える」悲痛な人もいて、何とも嘆かわしい。櫻井よしこが旧幕府を<因循固陋>・<非開明>とイメージし、「機能停止」に陥っていた(週刊新潮2013年10月10日号)と理解するのも、何とも嘆かわしい。
 この人は<明治維新>についてきちんとその関連歴史を<勉強>してみようという気がたぶん全くない。だから、「無知」をさらす。あるいはそもそも、そうイメージするのが「保守」だと思い込んでいる。
 三谷・上掲書p.219-220は、日本共産党員だったとみられる遠山茂樹の明治維新に関する書物に論及したあとで、最後の方で、自分の論として、つぎのような旨を言う。
 ①明治維新における「復古」とは、現状の「全面否定」で、「保守」とは正反対の、「進歩」・「革命」の発想に近い
 ②「復古」の行き先が「神話的伝承の世界」だったことは、明治維新の「復古」・改革に「かなりの自由度」を与えた。明治政府が「文明開化」・「ヨーロッパ化」を「臆面もなく」追求できた条件の一つは、この「空虚さ」にあった
 別途の議論が必要だろうが、櫻井よしこや「日本会議」が追求しているらしい「日本の国柄」らしきもの、「天皇を戴く日本」というものには、じつは何の<価値>もない、と秋月瑛二は考えている。
 すなわち、<日本の天皇・皇室>は、いざとなれば、共産主義とも両立しうる。あるいは、逆の言い方をすると、日本の共産主義者たちは、いざ必要とあれば、<日本の天皇・皇室>の存在をも利用する。
 <天皇・愛国>の主張だけでは決して、反共産主義の主張にはならない。
 かくして、三谷博の上記に関連させると、明治維新の「復古」対象としての「神話的伝承の世界」が、何の<価値>もない「空虚」だった、ということもじつによく分かる。
 神話世界・天皇中心政治の中に、いかなる「価値」をも取り込むことができたわけだ。
 つい数年前まで尊皇と「攘夷」を唱えた者たちが、「臆面もなく」、開国・文明開化の政治路線を歩んだ。
 明治維新を主導したともされる薩長(土肥)勢力とは、いったい何だったのか。
 櫻井よしこが高く評価する光格天皇も、天皇・皇室と幕府に関する基本的考え方については、孫の孝明天皇と変わらなかったと思われる。
 孝明天皇は対幕府協調・「公武合体」路線、あるいは世俗政治・行政は原則的に幕府に任せるという「大政委任」の考え方で、幕府を潰そうとは考えていなかった。
 幕府内にも優秀な官僚たちはいた。井伊直弼もそうだっただろう。彼らこそが「開国派」(通商条約締結・施行)で、これに天皇・皇室側が注文をつけた最初は、岩倉具視を含む「一部の公卿たち」の働きかけによっていた。井伊直弼は、水戸藩士らの「テロル」に遭った。理由は<違勅>だったのだろう。
 「開国」的動きを掣肘し、それを「反幕府」の運動へと変形させようとしたのは、-旧幕府側にも善良な?ミスはあったが-長州藩や「一部過激公卿」だった。のちの著名人物、「元勲」たちがいっぱい出てくる(薩摩藩は最後の局面で幕府をつき離す。そしてここにも「元勲」たちがたくさん生まれる)。
 その結果として、<暴力>・大きな「内戦」を伴う政権体制の基本的な変化=「革命」的なものになってしまった。
 徳川時代の最初・家康に「復古」したのでは、江戸幕藩体制を否定できない。鎌倉時代戻っても武家政権になるし、平安時代も<藤原摂関政治>だった。となると、奈良・飛鳥の<律令制度>をさらに遡って、「純粋な」日本の往古にたち戻らなければならない。神武天皇時代の初心・初業への「復古」なのだ。
 かくして、体制否定の論理または「イデオロギー」が、<天皇>親政、<神武天皇創業という日本の古代に立ち返る>ことだった、と思われる。だがこれはおそらく、元々は一部の者のみが考えていたことで-長州にある程度の「信者」はいたが-、孝明天皇没後の1867年くらいから「公」になり、多くは<後づけ>で用いられたのではないかと想定している。旧時代とは異質という意味での「新しい」ものである必要があった。
 今から見ての当時の最終盤の現実的な争点は、幕府機構または「徳川家」を残すか否かだった。
 幕府機構は解体しても、旧幕臣や徳川氏も協力する新体制、というのも、想定しえただろう。
 それをすら、つまり「徳川氏」の政治関与すら絶対に許せない、と考えた者たち・集団がいた。彼らには、<天皇第一>(これは反幕府・幕府解体につながる)の「原理」は必要だったかもしれないが、攘夷も、開国も、「基本政策」問題は全て、おそらく関係がなかった。権力奪取の後で、種々の重要な政策問題に付け焼き刃的に対処せざるを得なかった。
 だから、より漸進的な変革はありえた、と考えられるが、現実は、より血が流れる、より多くの人が殺戮される「革命」的なものになった。当初の<理念宣告>を貫くために、神仏分離・廃仏毀釈等々の「無理」もしなければならなくなった。
 明治維新の「復古」とは「革命」に近い、という三谷博の理解も、十分に納得できる。
 現在の日本の「特定」の「保守」派らしき人々が、明治維新をかつての日本の素晴らしい事象のごとく描くのは、どこかおかしいのではないか。エドマンド・バーク的な「保守主義」の立場にたてば、むしろ批判的立場にいても不思議ではないのではないか。
 あるいは、彼らは<保守革命>という、劇的な変化を夢想しているのではないか、とも思われる。それは、日本共産党的「左翼」・共産主義者たちと、発想は変わらない。
 いずれにせよ、明治維新に関する「歴史認識」いかんもまた、鋭く問われている、と言えるだろう。明治維新に関する上の簡単な秋月の叙述は、粗雑な、思いつきの文章にすぎない。



1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。
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