秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

欧州旅行

1616/社会主義・ドレスデン-若き日の。

 私的に喋ったことはあるが、文章で記したことはない。今のうちに書き残しておこう。
 1989年ベルリンの壁崩壊(開放)以前の旧東ドイツ。ドイツ民主共和国と日本で称された国家がかつてあった。その時代の、ドレスデン(Dresden)。 
 一、一人の「自由行動」のとき。
 ・たぶん強制的に国境で交換させられた東ドイツ・マルクと思っていたものが「インター・ショップ(Intershop)」の金券のようで、ふつうの店では通用しない。
 そこで銀行らしきものへ行ってふつうの東ドイツ・マルク(紙幣)に替えてもらおうと少し並んだあとで提示すると、中年から初老の係員・男性が、自分のたぶんズボンの中から紙幣を取り出して、交換してくれた。
 そのときは、何しろ言葉の問題もあり、よく分からなかった。その紙幣を使って、街の中でふつうに買い物をした。
 あとで考えると、あのオジさんは、自分の私的な金と「インター・ショップ」の金券とを替えている。「インター・ショップ」とは(いつ、きちんと理解したか怪しいが)、東ドイツから見ての外国人専用の店だ(少し割高なのだろうが、販売されている品物の種類が少なかった、と思う)。
 つまり、「インター・ショップ」で、外国人しか買えない商品を、彼は購入したかったのだ、と思われる。
 だから、おそらく、たまたま東洋人が交換するために来たのを好機に、個人の金と交換したのだ。きっと、職務違反だったのではないか。
 ・その金・紙幣を持って、入った一つが書籍店だった。
 ①ドレスデンの市街地図、②国家または共産党(社会主義統一党)発行の本を数冊、などを買った。
 ①は、勝手に持ち出してよいのか、とたぶん在東独中にすでに懸念した。しかし、出るときには入るときのような厳密な検査はなく、問題はなかった。しばらく日本でも持っていたが、のちに結果として再訪するときには、もう見失っていた。
 その地図には、たぶん、宿泊場所も自分でマークしていたように思うが、再訪時以降ずっと、いったいどの辺りに泊まったのか分からなくなった。
 個室の寝室と建物の印象だけは、少し記憶がある。
 ②は、たぶん今でも持っている。現在は古書でも入手し難いだろう、東独共産党の綱領を説明したような小冊子もある。あとは、かつての仕事に関係がある書物。紙質が、当時の西ドイツのものと比べて、はるかに悪い。
 ・帰りのバスの発車時刻・場所に早く行って立って待っていると、小ぎれいな少年がまとわりついて何か言うので、ゆっくり聞いてみると、「その腕時計を僕にプレゼントしてくれないか?」だった。
 プレゼントとは正確には、schenken で<贈る>というような意味だ。
 「くれないか?」、geben では失礼だと思ったのだろうか。
 年齢を訊くと、11歳だと答えた(数字なので、簡単に聴き取れる)。
 日本について何か知っている?、と尋ねると、答えは短くて、ほとんど「産業(・工業)」という言葉だった、と思う(たぶん)。Industrie, industry だ。
 使用中の腕時計を渡すわけにはいかないので、どうしようかと思っていると、ふと使い残しの<東ドイツ・マルク紙幣>があるのに気づいて、キリのよいところで数枚か、または紙幣全部かを与えた。西独で通用するはずはないので、記念にでも持って帰ろうと思っていたのだろう。
 腕時計の価格よりはだいぶ少ないが(おそらく)、彼にはきっと大きな臨時収入だっただろう。
 その場所も、今ではすっかり忘れてしまった。塀か建物に囲まれた広い敷地内を十台未満の、灰色の自動車が走っているのが見えた。あとで西独か日本で、<トラバンテ>という名前だと知った。その特定の種類の同じ型の車しか見なかった。
 二、つぎに、そのとき知り合った別の日本人一人(男性。以下、『彼』)と二人だけで「自由」に行動したとき。
 ・年長の彼は、はるかにドイツ語が流暢だった。
 二人でどこへ行こうかと迷っていたときに(私はたぶんほとんど彼に任せていた)、地図か何かを見たあとで、彼が、今思うとドレスデン中央駅の旅行案内所のような場所だったが、係の女性に尋ねた。
 「カール・マルクス・シュタット。これ、いい響きたけど、どう?」
 「シュタット」とは市・都市のことだ。その当時、じつに感慨深く思いもするが、「カール・マルクス・シュタット」という都市が、ドレスデンの西南方にぁった。今の、ツヴィカウ(Zwickau)だ。
 彼の「いい響きだ」とは、たぶん単純に、klingt gut だった。
 褒められるとふつうは嬉しく思うようにも思うが(?)、こうして記憶に残っているのは、何とも不思議な、どう反応してよいか分からないふうの表情を、相手の東独女性がしたからだ。
 東洋人に「カール・マルクス」市って、よい響きだね(、行ってみる価値がある?)」と言われて、戸惑うのも理解できるような気もする。
 なお、余計かもしれないが、「彼」 はマルクス主義者でではない(はずだ)。しかし、カール・マルクスの名とそれが持つ東ドイツにとっての意味くらいは知っていたことになる。そして、東ドイツの真ん中で<カール・マルクス>市って<いい響き>の名だと東独の人に言うのは、かなりの勇気と根性のある人だったのではないかと、少しは面白く思い出す。彼は現在の私よりは、はるかに若かった。  
 ・ライプツィヒ(Leipzig)まで1時間くらい鉄道に乗って行った。彼と一緒だからこそ乗れて、行けた。
 西独は当時「ドイツ連邦鉄道」だったが、東独は「ドイツ・ライヒ鉄道」。「ライヒ」はつうは「帝国」と訳すのだが、東独が「帝国」というのは奇妙だろう。ドイツの現在は同じDBでも、民営化(または半民営化)されて、「ドイツ鉄道」になった。
 余計だが、ワイマール憲法は、正式には、「1919年…のドイツ・ライヒ憲法(Reichsverfassung)」という。
 ライプツィヒ中央駅からたぶん歩いて、バッハゆかりの教会まで行った。中に入った記憶はないが、近くの建物の地下にある、喫茶店かレストランに入って、喫茶したか、軽食を摂った。
 駅までの帰り途中で、屋外に作った長い幅広の廊下のごときものの上で、若い女性が(数人だったか)歩き回っていた。彼はすぐに分かったようで、彼によると、西独または外国から来たファッション・モデルで、本来は衣服の宣伝の催しのようだった。長居しなかったのは、ドレスデンまで帰る必要があったからだろう。
 ・途中で降りて、マイセン(Meissen)にも寄った。
 市役所か大きな建物の上の方の壁に、きっと彼が訳してくれたのだが、こう書いてあった(ようだ)。字数はもっと長かった気もする。
 「我々を解放してくれた、ソヴェト・赤軍に感謝する!!」。何と。
 夕食にしようと長い行列にくっついて待っていたが、なかなか順番にならない。いいかげんに疲れてきたところで、彼が「ダメだ、無視されている」とか言って、そこで食事にするのは諦めた。では、どこで食事したのだろうと思うが、記憶がない。
 ・明らかにもう一度鉄道に乗って(だが、記憶がない)、ドレスデンまで帰ってきた。
 と言っても中央駅ではなく、ベルリン寄りの一つ北の駅で降りた。エルベ川よりも北。
 直訳すると「ドレスデン・新都市」駅になる。新都市=Neustadt 。大阪、横浜に対する「新大阪」、「新横浜」といったところか。全く同じような位置関係・雰囲気でもないが。
 その駅を出て、休憩しようと、休憩・待合室に入った。広いホールのようだった。
 そこで、最も記憶に残る経験をした。
 座って、彼が「自動的に」タバコを取り出して吸おうとライターで火をつけようとした瞬間、前に座っていた(4人または6人掛けの大きな古い木テーブルだった)東独男性の1人が、<ダメ>と言った。さらに、<警察(Polizei)>という語も分かった。
 要するに、その部屋は禁煙で、喫煙などはもっての外、見つかると<警察>がくるぞ!、あるいは<警察>が来てやられるぞ!、とか言っていたのだ。大変な目つきだった。
 彼は、<座るとつい自動的に(automatisch)>とか言って、釈明した。
 そういう光景もなのだが、それ以上に印象に残ったのは、そのホール状の休憩・待合室の<異様な>雰囲気だ。
 ホールのようと書いたが、少なくとも20ほどはテーブルがあっただろう。
 そして、ほぼ満席だった。空いている箇所を見つけて二人は座った、と思われる。
 鉄道駅の駅舎の中にあったのだからきっと休憩・待合室のはずなのだが、鉄道を利用する雰囲気の人々では全くなかった。おそらく全員が男性、しかもほぼ40-55歳の中年男性だった。
 そういう人たちが、時間的には自宅で夕食を摂る直前の時間帯だっただろうか、何をするでも、何かを隣席の者と陽気に話すのでもなく、ただぼんやりと、じっと座って、何かを考えているふうだった。
 記憶に残るというのは、日本でも西独でも、かつ今までどの時間でもどの国・地域でも、あれだけの人数のほぼ同年代の(かつ似たような服装の)男たちが、じっとうずくまるように、あるいは疲れたふうに、気だるく、無気力でほとんど黙って座っているのを、見たことがないからだ。
 あれは一体何だったのだろうと、思い出す。
 失業中の人たちというのでもないだろう。たぶん、仕事が終わって、自宅に帰るまでの間(そういうものがあるという前提だが)、自由に(無料で)利用できる、自由に(無料で)座れる駅舎の中の広い部屋で<時間を潰して>いたのだ、と思われる。
 <社会主義・ドレスデン>というと、このイメージが強くある。
 灰色。黒に近い方の灰色。服装も、駅舎も、少しは茶系統の色が混じっていたはずだが(木製のテーブル等だったので)、そういうほぼ単色の記憶が残る。
 そこに、100人近い、少なくとも50人以上の男たちがじっと座っていた。陽気で愉しい会話らしきものは、何も聞こえなかった。
 慌ただしくそこを去って宿泊場所に戻り、かつ慌ただしく翌日には西ドイツに再びバスで戻ったはずだが、このときの記憶はずっと残り続けた。 
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 ドイツの再統一後、このドレスデンに合計で一週間ほど滞在するとは思ってもいなかった。
 というよりも、この経験があったからこそ、より自由に行ける時代になって、ドレスデンを再訪してみたかったのだと思われる。
 そしてまた、1992年以降に再訪したときの主な宿泊場所は、最寄りの鉄道駅が上記の「ドレスデン・新都市」駅だった。駅舎の建物自体のの大枠は変わっていないと思われた。旧時代もまた高架駅で、すぐ南に直角に下をくぐる通りがあった。
 休憩・待合室がかつてあったらしき場所も駅舎内にあった。
 だが、日本でいうコンビニ又はキオスク、花屋、等々に分割されていて、かつての雰囲気を思い出させるものは、何もなかった。しかし、同じ場所には立った。南北方向の駅舎の中央に東から入る、乗降に使う空間・通路があり、その空間と南側の一つの幹線道路らしき通りの間、つまり駅舎の南半分あたりに、かつての休憩・待合室はあった。
 夕方の賑わいぶりは、全く違う駅と街だと思わせるほどだった。しかし、駅の名前と駅舎の大枠は変わっていない。
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 この都市名、ドレスデンも、日本人には正確に発音しづらい。最初を強調して、レースデンと、「ド」を付けない方がむこうでは理解されやすいのではないか。
 ベルリンは当時も「西ベルリン」が「西側」諸国に開いていたので、ベルリンは訪れる機会が全くなくはないだろうと思っていた。だが、ドレスデンは、その機会に行かないとたぶん絶対にじかに見ることないだろうと当時は思っていた。
 だから、いくつかの「東ドイツ」訪問小旅行の企画のうちで、ドレスデン行きを選んだのだった。

1597/若き日のマールブルク(Marburg)。

 フランス・パリの地下鉄の中で、母親に連れられた小学校に上がる前に見えた男の子が、<モンパルナッス>と発音した。
 何しろ初めてのパリで、仏語にも詳しくなく、北の方のモンマルトル(Montmartre)と南の方のモンパルナス(Montparnasse)の違いが(ともにモンが付くために)紛らわしかったところ、その<ナッ>のところを強く発音してくれていたおかげで、両者の区別をはっきりと意識できた。
 モンパルナッスも<リ->を強く発音するシャンゼリーゼ(Champs-Élysées 通り)も、フランスらしい地名だ。シャルル・ドゥ・ゴール(人名/広場=凱旋門広場)というのもそうだが。
 ドイツでは、フランクフルト(Frankfurt)はまだしも、デュッセルドルフ(Duesseldorf)となるとあまりドイツふうの感じが(私には)しない。
 そうした中で、マンハイム(Mannheim)はドイツらしくかつ美しい響きだ。最初にアクセント。実際にも、中心の広場周辺は魅力がある。
 旧東ドイツの都市のイェナ(Jena)という名前も、東欧的感じもしてじつに可愛い気がする。
 但し、ライプツィヒ(Leipzig)からニュルンベルクまでの電車の中から、停車駅でもあったので少し眺めただけだ。教会の尖塔も見えた。しかも、どうも、イェーナと発音するらしくもある。「イェナ」の方が(私には)好ましい響きなのだが。
 かつてから、マールブルク(Marburg)という大学都市のことは知っていた。そして、気に入った、好ましい、ドイツ的響きのある名前だと思ってきた。
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 まだ若かった。
 いったいどこからの寄り道だったのだろうか。ひょっとすると、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』に由縁があるヴェツラー(Wetzler)を訪れた後だったのかもしれない。
 まだ明るいが夕方で、電車駅を下りて、山の中を渓谷沿いにマールブルクの中心部へと歩いた。
 日が暮れかかっていて、あまり時間もなかった。
 しかし、山の上の城(城塞建物)と街を一瞥はしたはずだった。その中におそらく、マールブルクの大学の建物もあったはずだ。
 当時のことで、たぶん写真も残していない。
 だが、自然(つまりは山の緑と渓谷)が近くにある、小ぢんまりとした綺麗でかつ旧い街だとの印象は残った。
 もうおそらくは、訪れることはないだろう。
 この都市と大学の名を想い出す、いくつかのことがあった。
 まず、マーティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)が教授をしていて、この大学の女子学生だったハンナ・アレント(Hannah Arendt)と知り合い、親しくなった。
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、という本がある。
 この本によると、ハイデッガーは9ヶ月だけナチス党員になりヒトラー支持発言もしたが(1933-34)、のちは離れたにもかかわらず、終生<ナチス協力者>との烙印がつきまとった、という。p.189。
 但し、猪木はマールブルクに触れつつも、そことハイデッガーとの関係には触れていない。
 なお、上の二人は、ドイツ南西部のフライブルク(Freiburg ibr.)の大学でも会っているはずだ(このとき、ハイデッガーは一時期に学長)。
 二つめ。『ドクトル・ジバゴ』の作者のボリス・パステルナーク(Boris Pasternak、1890-1960)が、1912年、22歳の年、<ロシア革命>の5年前に、マールブルク大学に留学している。この人の経歴を見ていて、気づいた。
 ドイツもロシアも帝国の時代、第一次大戦開始の前。
 パステルナークはずっとロシア・ソ連にいたような気もしていたが、若いときには外国やその文化も知っていた。
 この人は<亡命>をなぜしなかったのだろうとときに思ったりするのだが、よく分からない。
 最後に、上の猪木武徳の本
 ドイツに関する章の中に「マールブルクでの経験」と題する節もあり、パステルナークのほかに、大学ゆかりの人物として、ザヴィニー(Friedrich Carl von Savigny)、グリム兄弟、そしてスペインのホセ・オルテガ・イ・ガセット( José Ortega y Gasset、1983-1955)の名前を挙げている。p.179。
 1900年代にマールブルクに勉強に来たらしいこのオルテガの名前は、西部邁がよく言及するので知っているが、読んだことはない。<大衆>に関して、リチャード・パイプス(Richard Pipes)も、この人の著作に言及していた。。
 それにしても、なかなかの名前が揃っているように見える。私が知らない著名人はもっとたくさんいるだろう。
 あんな小都市の山の中に大学があり、けっこうな学者たちを一時期であれ育てているのも、ドイツらしくはある。
 たぶんイギリスとも、フランスとも異なる。
 なぜか、と議論を始めると、私であっても長くなりそうだ。
 若き日の、一日の、かつ数時間だけのマールブルク(Marburg)。
 やはり、美しい名前だ。最初にアクセントがある。

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