秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

美しい日本

1832/美しい日本-山岳・山稜②ー伊吹山。

 西国三十三カ所霊場の通称「よしみね寺」、いや正式にもたぶん「善峯寺」の北に、別に洛西三十三観音霊場の札所の一つがある。その理由だけで一度参拝したのだが(そして御朱印をいただいたのだが)、その寺院の本堂はたぶん東向きで、その前のテラス部分から、京都市内(盆地)の一部と山稜がよく見える。
 京都市街地からはどの程度よく見えるのかは知らないが、ここからは京都市街東方すぐの山稜で、目立ってすぐに分かるのが、比叡山だ。歴史の知識からすると無骨な印象もあるが、西方からのこの山の姿は、優美だ。頂上部が丸っこくどっしりとではなく、凜として、すっきりしている。
 ところがその左に頂上部に冠雪がまだはっきりと残っている独立峰があって、この山はいったい何なのかがよく分からなかった。比良山系の比叡山に連なる北側にある山だろうというのが、そのときの推測だった。
 ご朱印をいただく際に尋ねてもみたが、面倒くさく感じられたのか?、よく存じませんと言われた。
 そこでのちに地元の人に尋ねてみると、回答はすぐだった。
 伊吹山
 何と、京都市の西郊、長岡京市の北方辺りから、京都市街、京都・滋賀府県境の比良山系、さらに琵琶湖までをも越えて、伊吹山がはっきりと見えたのだった。
 もっと前のある年、JRと名鉄の共用の駅舎のある尾張一宮駅の西口から西方の山並みを眺めていると、穏やかな養老山系の右側(北)に遠く、白い雪が目立つ高い山らしきものが見えた。
 伊吹山だった。
 濃尾平野の西北端よりもさらに西部だと思うが(関ヶ原よりも西)、濃尾平野の中にある尾張一宮の市街からも、伊吹山がはっきりと見えるのだった。
 この地域の人々は、伊吹山の冠雪の程度によって季節の状態や変わり目を知るのだ、という(これは滋賀県等の地域でも同様かもしれない)。
 前回の「1727/美しい日本-山岳・山稜①」(2018/02/11)では、東海道新幹線の乗客を想定して、日本で最もよく近くで見られている幸福な山ではないかと伊吹山のことに触れた。
 しかし、この山は京都盆地の西郊の高台や濃尾平野の少なくともかなりの部分からも、明確に見分けて、眺められている。
 繰り返しになるが、熟達した登山家くらいしか近くで見ることのできない(ほとんど誰からも見られることのない)山岳は日本に多数あるだろう。やはり、伊吹山は特別だ。

1727/美しい日本-山岳・山稜①。

 西穂高山荘に泊まってジャンダルム・馬の背・奥穂高岳頂上を経て奥穂高山荘で寝て、北穂高岳、さらには大キレット・(井上靖「氷壁」にも出てくる)滝谷の上部等を渡り、最後は槍ヶ岳山荘に宿泊して帰ってきたのは、20歳代のことだった。
 単独縦走。当時でも最難路と言われていた(後で詳しくは知った)夏山登山を、まだ新米のうちにしてしまった。
 つぎは後立山連峰の(松本清張の初期短編「遭難」の舞台でもある)双耳峰の鹿島槍か標高日本二位の南ア・北岳にしようと何回も地図や本で「予習」をしたものだったが、翌夏もそのあとも、結局はずっと、夏山の山行すらできなかった。
 もう登れはしないが、車窓から見て、山容が雄大な随一は、東北の鳥海山だ。
 二度とも、羽越本線で秋田から山形県へと入っていく過程で、眺めた。秋田県内からもすでに見えているのだろう。
 頂上から日本海の海岸、芭蕉もむかし訪れたはずの象潟辺りまでずっと長く山稜線が続いていて、その長さ、山容の大きさには目を見張った。空が青く澄んでいたという好天のおかげでもあったのだろう。
 酒田で乗り換えて陸羽西線を新庄方向へと向かっていたときも、酒田・余目付近の平野(庄内平野?)は広いので、その南部はまだ見えていたのではないだろうか。
 酒田の前にいったん遊佐で降りて各停に乗って進んでこともあるだろう。鳥海山が見えていた時間は、じつに長かった。
 富士山の山稜も当然に長いのだろうが、新幹線からはさほど長く続いているようには見えない。また、富士本宮大社からJR富士宮駅まで歩きながら眺めていて、大きな山だとさすがに感じるが、山容全体の印象は(むろん私には)、鳥海山の方が優る。
 山容・山塊が広く大きいと感じたのは、あとは上越線の車窓からの、赤城と榛名くらいだろうか。車窓からは不可能だが、若いときに見た、穂高の稜線の西側にどっしりと構える笠ヶ岳も、大きい。
 鉄道の車窓からは頂上も稜線も(少なくとも頂上部分は)まったく見えず、したがってどの山とは特定した難い山はいっぱいある。
 同じ山形県の月山は、その名はよく知られているが、見えないのではないか。
 北陸本線からの、金沢等の地域の地元の人には見えているのかもしれない白山も、同じ。
 もっとも、前者については出羽三山神社、後者については北麓にあると思われる白山比咩神社を参拝したことはある(神社・神道にかかわる話題は今回は避ける)。
 他にも、標高があり登山好きの人たちには有名だろう薬師岳や黒部五郎岳等々の、いわゆる「裏銀座コース」(現在でもこの呼称が残っているのかを確認してはいない)付近にある山々も、むろん見えない。
 東麓から見える可能性のある白馬岳等は、見られて、幸せな方だ。
 東海道新幹線の線路のすぐ近くにあって、人口でいうと最も多くの日本人がその姿、山塊を見ているのではないかと思われる、最も幸せな山は、岐阜・滋賀の両県にまたがる、関ヶ原の西北にある、伊吹山だろう。
 標高自体は、高山というほどではないだろう。しかし、岩がちの山塊・山容は、近くで見えるために、きわめて大きく感じる。白い雪が残っている期間も、長い。
 名だけしか知られていない山岳に比べて、何とうらやましい山だろう。
 頂上に寺院(またはその末社・祠、伊吹山寺)があり、ご朱印所もあるので、9合目まで路線バスで行き、あとは何とか自力で登ったことがある。

1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。

 遺骨というのは、納骨後50年も経つとどうなっているのだろう。
 その人だけのための墓碑の下に、それは収められているはずだった。
 この欄にではないが、この10年以内に、<人生の宿題>のようなものだ、と書いたことがあった。
 それは、「愛と死をみつめて」のみこ、大島みち子さん(1963年8月没)が生まれ育った兵庫県西脇市へ行き、彼女の故郷を知り、墓参をすることだった。
 昨2017年秋、この「宿題」をようやく達成することができた。
 墓碑の前に、立った。安らかにお眠り下さいなどとは口にしないし、思いもしなかった。
 手を合わせて目を瞑り、ただ、心の中で、<ありがとう、あなたのことは忘れません>とだけ、つぶやいていた。
 そのように語りかけても、大島みち子さんの耳に達するわけではない。
 そのように想いを伝えても、忘れませんという私自身がいずれ死んで、その想いもまた消失してしまうだろう。
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 墓地の場所はネット上で紹介されていた。案内してくれたタクシーの運転手も知っていた。
 墓地の中での位置は事前には知っていなかったが、東南から石段を登りかけると、頂部にまで進まないで、石段の途中の左側に、予想もせず簡単に、大島みち子さんの墓碑を見つけた。
 正式の墓参の方法などは知らないが、前の日には生花でも持っていこうかと思っていたところ、そうしないでよかったと分かった。せっかく花を墓碑に供えても、しぱらくすると枯れてしまう。そのような枯れてしまった元の花があった。食物の缶詰や飲物のボトルもいくつか置かれていた(下掲の写真ではその下にあって、見えない)。私のような参拝者が、やはりいるのだ。
 そのようなものがあったから、「みこ」の墓だと気づいた。
 しかし、おそらくは頻繁に清掃はされておらず、近くには身内の方は住んでおられないのではないか。
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 大島みち子の名をホテル・フロントの人も知ってはいたが、その墓の詳細は地区だけしか知らず、ましてやその実家・生育した家またはその土地の所在地は知らず、関心もないようだった。
 手がかりがあったので、墓地近くを少し歩き回った。特定できないままで終わる可能性が強いといったん感じたが、たまたま近くを通りかかった地元の人に私が離れている間にタクシー運転手さんが尋ねてくれて、墓へ行くときにすでに通っていた道の一つ西の筋の道、墓地からの帰り道に通っていた道、の東側の屋敷だと分かった。
 その人によると、すでに100年経っている。つまり、大島みち子さんが生育した家、大阪の病院へと通うときに住んでいた家そのものが、まだ残っていた。
 しかも、「売物件」という看板がある。今は誰も住んでおらず、購入者を待っているところだ。買った人がこの建物を壊してしまえば、もう見えない。もう、分からない。ひょっとすれば、ギリギリのところだったかもしれない。
 さらにしかも、敷地の東端まで行ってみると、本屋とは別棟かもしれない二階建ての建物が敷地境界線らしき場所にはっきりと見えた(写真参照)。
 この二階建ての部分のどこかの部屋で、他に織物工場の従業者たちもいたのかもしれないが、「みこ」は寝起きしていたのではないだろうか。
 本来は秘匿されるべき「私事」かもしれないが、売却中で、いつ解体されるかもしれない。大島みちこ氏の生家には多少は社会的意味があると思われるので、写真もこの欄に掲載する。100年ものだとすると、「みこ」が生きていた頃は建築後40年余。いずれにせよ、戦前に建造された建物だ。
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 感慨は、尽きない。
 みこの遺骨はこの屋敷の前まで車で運ばれ(河野実=マコも同乗していた)、病院・斎場まで付き添った家族と河野が道路を降りて歩き始めるのを、会社関係者ら一同がこの屋敷の前で出迎えた、という。
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 播州西国霊場の札所でもある西仙寺を訪れると、紅葉した木々が美しい。
 そして、北方にあった小学校への通学路にたぶん面していたので、「みこ」は何度も境内に入ったのではないか、とも思う。
 もう一つの札所の正願寺は東方の低い山稜を回ったところにあって、ここも紅葉が見事だ。京都や奈良の観光寺院等とは違って、時期が少しはずれていたためもか、参拝者や観光客はほとんどいない。
 この二つの寺院の間、低い山稜が平地にほとんど近づく辺りに、大島みち子さんが通った西脇高校の跡地があり、県か市の新しい施設の玄関前に「県立西脇高校跡」とかの石碑が立っている。
 ついでに書けば、タクシー内から見ただけだが、「みこ」の実家とこの旧西脇高校との間、川を渡る橋の手前に、彼女が卒業した中学校はある。
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 タクシーの運転手は、大島みち子さんの少し年下の、西脇高校同窓生だった。
 むろん彼女の名を知っていて、教師がその名を出したこともあったらしい。だが、直接に逢ったことはない、と言う。
 そして彼によると、映画にもなって(1964年9月、日活)著名ではあるが、<病死>者ということもあり、地元ではあまり大きくは話題にしなかった、という。
 薩摩藩志士たちの像は鹿児島中央駅前の目立つ所にあり、四国・高知駅前には、坂本龍馬ら三名の大きな像が立つ。そうでなくとも、駅前に<郷土の偉人たち>として十数名の氏名を並べて書く案内板を立てている市もある。<~の生地・出身地>であることを「町おこし」のスローガンの一つにしているような市や町は多い。
 大島みち子は、違うようだ。時代も異なるし、家族・遺族の意向もあったに違いない。おそらく西脇市のどこを歩いても<「愛と死をみつめて」の…>という看板もないし、観光協会も、そのようなパンフを作ってもいない。
 その実際の物語に感動を受けた者たちには寂しいことかもしれないが、それでよいに違いない。
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 大島みち子さん一人のための墓碑の前から振り返ると、高台からなので、西脇の街がしっかりと、よく見える。みここもまた、自分が生まれ育った町を静かに眺めている、ということになるのだろう。しかし、実際には、そんなことはない。死者は、そのように想像する生者のために存在している。
 青い空があり、手前の山を含むと、三連の山々が見え、その間に、西脇の町並みがある。
 これは、地図を眺めただけでは、または切り取った小さな写真を見ただけでは、実感できない眺望だろう。
 西脇の北部は二つの、先に低い山稜と書いた半島のような山並みで隔たれた、そこそこの広さのある谷間から成り立っているようだ。かつては、これら二つの谷あいを、いずれも鉄道(国鉄・JR)が走っていた。
 東側のそれには今も加古川線が走り、福知山線と連絡して福知山や丹波篠山(篠山口)とつながっている。
 西側の谷あいには、かつては加古川線の現在の西脇市駅(かつて野村)で分岐する鍜治屋線という鉄道が走っていた。この線は今は廃止されて、かつての西脇駅もなくなった(西脇市の名前を野村駅に譲った)。だが今でも、西脇の中心部はこちら側にあるようだ。
 その旧西脇駅の駅舎・線路の跡地に、宿泊したホテルは建っていた。
 その場所から、かつて、大島みち子さんは大阪市・中之島にあった病院まで通っていたことがあった。往復4時間以上を要したと考えられ、通院はほとんど「一日仕事」だっただろう。入院することにしたのも、よく分かる遠さだ。
 市の中では高層建築物であるホテルの部屋からは、西脇の町並みが、そして「みこ」の墓と売却先探し中の彼女の実家のある、小坂地区の方向が、よく見える。
 写真-墓碑の正面と側面、実家正面と東側。


miko03

1708/日本三園-偕楽園・兼六園・後楽園。

 かつて小学校中学年以降に、日本三景とか日本三園(三公園)とかを憶えた、または憶えさせられたような気がする。
 調べないままで書くが、これらの選定は、昭和戦後ではなく明治か大正にすでに文部省あたりによってなされていたのではないだろうか。
 上の計六箇所を、この10年以内にも訪れている。
 三公園についていうと、庭園自体で最も優れていると感じられるのは、金沢・兼六園だ。水戸・偕楽園はこれに比べてやや狭そうだし、岡山・後楽園は樹林のない広場ふうの緑地が大きすぎる。
 三園ともに旧藩またはその城址と関係があるようだ。そして、城・天守閣の展望という点では、むろん岡山・後楽園が最良だ。兼六園からは見えても石垣だけだし、偕楽園は城址から離れていると思われる。再建天守閣らしいが後楽園から望む宇喜多家・岡山城は立派で風格がある(但し、「全国百名城」めぐりもしているので、その他の城・天守閣と比較してベストだと断定しているのではない)。 
 しかし、城址との関係を除くと、展望という点で気に入ったのは、水戸・偕楽園だ。
 すなわち、高台にある偕楽園の南縁から眺める千波湖の水景が清々しく、光も反射して美しかった。鉄道好きにはたまらないだろう、ときどきすぐ下の公園と湖との間を、常磐線の電車が行き来していく。
 この千波湖に関する知識をあらかじめ持っていなかったので、意外性もあった。都市・街(まち)の真ん中にこんな手頃な大きさの小湖があるのは素晴らしい。
 もっとも、三園ともに旧藩・関ヶ原や江戸時代のイメージがくっついてはくる。また、現時点での三都市・三つの街自体の機能美・構成美については別に言及しなければならない。

1423/美しい日本05ー高く登る神社の石参道。

 陸奥一宮・塩竃神社(+志波彦神社)へは二度訪れた。一度目は仙石線の本塩釜駅からタクシーで、東の方から志波彦神社の近くにまで運んでもらい、帰路は塩竃神社・社務所の南につづく石段を降りた。
 この石段降りは雨模様で石が少し濡れていたため、一歩ずつ緊張した。降りてから再び本塩釜駅までは歩き、鉄道で松島が見える方に向かった。そのとき、行きは簡単にタクシーに頼ってしまったことで完全な参拝ではなかったような気がし、つぎのときは、きちんと石の参道を上がって参拝しようと思った。
 今度は東北線の塩釜駅から歩いて、塩竃神社の森の下にくると、頂の最終部分が何とか判断できる程度に、まっすぐに上に登っていく、石の参道が見える。鬱蒼とした木々に囲まれて、左右平行の石段がまっすぐに登っていく姿は、美しい。
 司馬遼太郎・ワイド版街道をゆく26巻(朝日新聞社、2005)p.247には、「ふもとの町から一直線に石段がきずかれている。/『高いですなあ』と、多少はひるんだ」、とある。
 極端に長いことはないが、老輩には、そこそこに厳しい。200段くらいだっただろうか。
 なお、志波彦神社という神社が社殿の向きを変えて隣の敷地内にあるのだが、なぜこの別の神社と併せて実質的には一つになっているのか、その複雑な背景・理由は、きっと何かで読んだはずだが、分からない(憶えていない)。
 但し、一つではなく二つの神社のご朱印をいただくことになるので、一社ぶんの300円ではなく400円か500円のご志納金だったことはなぜか( ?)憶えている。
 山の途中まで一直線に石の階段が参道として上がっている景色としては、千葉県/安房の国の洲崎神社のそれも印象に残った。専門の宮司さんはいないようで、電話をするとご朱印のために事業用の小型車で、社務所までやってきてくれた。その間に、石段登りをしてその上にある小さな社殿で参拝したのだが、石段は塩竃神社のそれよりも幅狭いが、高さはたかい(したがって段数も多い)。
 降りようとして前方を見ると-下方は傾斜のある、持つところが何もない石段だ-、東京湾かその付近を、タンカーがゆっくりと移動していた。天気もよく、青い空のもとでの古びた社務所、県道、そして船のうかぶ海が一望に見えて、清々しく美しかった。
 このとき、神社の多くのように、社殿も石段も南を向いているのだろうと思っていた。
 ところがその日のうちにでも分かったが、社殿は西向きで、石段は東から西へと下っていた。神奈川県と向かい合っていたことになる。見たタンカーは外洋を悠々と航行していたのではなく、東京湾に入る準備をしていたのかもしれない。
 なお、各旧国の「一宮」がどれかについては争いが残っているようで、安房については、洲崎神社の前に訪れた安房神社の方が大規模だし、名前からしても一宮らしい。
 しかし、源頼朝が挙兵してまず向かいの安房の国に上陸したとき、上に書いた洲崎神社で戦勝を祈り、<この宮こそ安房の一宮だ>とか言ったらしい。そんな由緒があって、全国一宮会は安房神社と洲崎神社の二つを安房の国の一宮としているらしい。
 神社の由緒書、案内文などは読んでも忘れることが多い。熱心な頃は、毎週のように出かけたのだから当然だろう。それでも、上の洲崎神社についての上のようなことは、由緒書をもらったそのときか、館山駅に近いホテルで読んでか、記憶として定着してしまった。
 思いを外国に馳せると、欧州の教会は、中小の街であれば、街の中心の広場にあることが多いだろう。鉄道で教会の尖塔が見えれば、そこは市街地の中心であることが想定できる。
 ドイツのゲッティンゲンでもフライブルクでも、フランスのシュトラスブールでも同じ。
 パリのセーヌ川の中島・シテ島の東にノートルダム寺院はある。マドレーヌ教会もコンコルド広場の北方近くなので中心部といえる。ウィーンのシュテファン大聖堂は同市の中心にある、と言ってよいだろう(ベルリンは ?と考えてみたがはっきりしない)。
 なぜこんなふうに話を広げたかというと、日本には街の中心部の広場そばに神社がある、ということはまずない。高く登っていく石段の先に社殿があるという神社の位置は、欧州の=キリスト教の宗教施設とは、大きく異なるのではないかと感じる、からだ。
 日本の「神」は人々の暮らしに気を遣って、あるいは遠慮して、人里から少し離れた、多くは少し高い場所を選んだ、ということなのかどうか。

1422/美しい日本04-神社等の位置03。

 山門をくぐって、さらに何段か下った、日射しの少ない暗い参道をまっすぐ歩いたことがあった。四国八八所巡礼の82番、高松市にある根香(ねごろ)寺だ。
 もう一つ、宮崎・日南市の鵜戸神宮も、下っていくように作られている。
 バス停から少し登った所を(トンネルの方にいかないで)さらに登ると、海の方向へと下っているやや古くはなっている参道がある。
平地まで下ると神社の雰囲気が漂っているが、この神社の特徴は、さらにそのあとにあった。つまり、海に面した岩壁に作られたハシゴのような人工の石段を何度か曲がりながら行き着いたところが、岩壁中に30~40度ほど口が開いた洞窟になっていて、その中に、拝殿と本殿が収まっている。最初はぎょっとして、のちに不思議なかつ神々しいものに思えてくる。
 こんな社殿は、おそらく他にはないのではないか。
 この神社はふつうの参道自体も下向きだ。但し、波が吹き込んでくるかもしれないほどの岸壁中に貝の蓋のように開いた空間内の社殿の位置は、参道の上がり・下がりの違いという論点からはすでに離れている、独特のものだ。
 海に対して切り立った岩の中の隙間に、昔の人々はきっと、不思議さ、異様さを感じるとともに、「神」の存在を感じていたのだろう。
 例の如く余計なことを書くと、四国82番の根香寺の前の81番の札所は白峯寺で、それぞれ高松・坂出両市にまたがる五色台という丘陵の東部と西部にある(従って今では、平地から歩いて登るのはかなり厳しいようだ)。
さて、この白峯寺のすぐ近くには崇徳上皇の墓陵があり、当該墓陵独自の参道もあるが、白峯寺から簡単に行ける。墓陵の前に立つと(又はしゃがむと)石製の墓碑以外には、緑の木々しか見えない。
 竹田恒泰がひざまづいている写真を扉とする、崇徳上皇に関する本を彼が出版している。同・怨霊になった天皇(小学館、2009)。また、僧・西行も一度は実際に訪れたようで(12世紀だろう)、江戸時代に入ってからの上田秋成による雨月物語の最初の話は「白峯(しらみね)」という題。そこでは、崇徳(の霊)と西行が会話を、あるいは議論をしている。
 この会話・議論は実際のものに近いのかどうか、西行がこれについての何かの記録を残しているのかは知らない。物語では、保元の乱あたりの崇徳上皇の行動とその後の朝廷側の彼に対する措置について、崇徳と西行の間で、一種の「歴史認識」論あるいは「正義」論が交わされる。江戸時代にまで、そして雨月物語を通じて今日まで、崇徳と西行にかかわる話が残っているのは興味深いことだ。
 麓にも、崇徳が実際に流刑され隔離されて生活していた辺りに、「天皇寺」という寺があり、79番の札所だ(これを神宮寺としていたはずの神社も同じ境内かとすら思うほどに近接して存在している)。崇徳上皇と無関係なはずはない。
 京都市・今出川通り堀川東入るに、明治改元の直前に、「白峯神宮」が設置され、崇徳上皇はこの神社の祭神になった。この神社へ明治天皇や昭和天皇は、とか書き出すと、テーマから離れてしまうし、長くなりすぎる。この白峯と冠する神社自体は、楼門も拝殿・本殿も同じ平地上にあるはずだ。

1421/美しい日本03-神社仏閣の位置02。

 上州一宮・貫前(ぬきさき)神社を訪れたとき、最寄り駅から県道か市道へと登って横断したのち一挙に下って境内に入っていく、という高低差に驚いた。正確には、上がっていかずに下っていく、という神社の位置に驚いた。
 というのは、神社も寺院も、参拝口にある楼門または山門までもふつうはそうだろうし、とりわけ楼門・山門から本殿・本堂までは同じ平地上か、後者が前者よりも少しは高い場所に位置することが圧倒的に多いと思われるからだ。そのような例はいくらでも思い出せる。
 ひょっとすれば、貫前神社の楼門と本殿は同じ高さにあったのかもしれないが、楼門まではかなりの傾斜を下らなければならなかった。珍しいな、という感覚を持ったのは確かだ。
 そういう位置関係でこれまたほぼ正確なと感じるほどの記憶とともにに思い出すのは、寺院では、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)だ。山門までタクシーで登り、または歩いて登りきって、山門をくぐり抜けると、何と石砂の参道が明らかに下っていて、本堂かそれらしきものの屋根が、両脇の叢林の間に、下方に見える。
 のちに、同寺の本堂および拝観対象の建物へは、山門まで登らなくとも、ほぼ同じ高さにある地点(今熊野観音寺への参道へと同じか近い)から歩いた方が近くて早いことに気づいた。だが、泉涌寺の最初の訪問では、立派な山門までとりあえず行ってしまうのも無理はないだろう。
 上の二つに比べると微細な変化だが、出雲大社の大鳥居から本殿方向へも、最初は少しずつ下っている。そのような<さがり参道>は、出雲大社の、いくつかの不思議の一つであるらしい。もっとも、そのような高低差を意識していないと、まったく気づかない程度のものだが。
出雲大社の場合、建造時の人々が意識的にそうしたのかは知らない。だが、これ以外の上の二つについては、意識的にそのように作られたとしか思えない。神社本殿は「南」面しており、寺の本堂は「西」面しているようだが、南または西の方向に高く隆起した土地があることは、建造時から明白だったはずだろう。そして、なぜそのような場所に立地させたのかは私には分からない。
 なお、泉涌寺は観光寺院ではないこともあり、何やら清々しく感じられる。かつまたこの寺は御寺(みてら)とも呼ばれ、天皇・皇室ときわめて関係が深い。周囲にはいくつかの天皇の御陵があり、これらは今は国有地・宮内庁管理だが、かつてこの寺が何代かの天皇の菩提寺であったことが(文献で確かめる必要なく)明らかだ。
奈良時代の天皇を除く今日までの全天皇の位牌に対して、毎朝、法要・供養が続けられていると聞いて、気の遠くなるような思いをしたことがある。
 なぜ奈良時代の(正確にはたしか天武以下の)諸天皇だけは、除外されているのか。歴史好き、逆説好きの人ならば想像できるだろうが、テーマから逸れるので、省く。

1390/美しい日本02-神社の建築と位置01。

 なぜかは不明だが、神社というと京都の平安神宮を思い浮かべる時期があり、建築物はかつての平安宮(・紫宸殿 ?)をやや小さく模したもののようだが、その派手な朱色やその青緑色との対照などは、どぎつく感じて、私の好みではなかった。日光東照宮の楼門等も、昔の人は(江戸時代初期の人は)細かく優れた技術を持っていたことに感心はするが、その壮麗さによって却って、好みにはなれなかった。
 仏教寺院の建築物の方に、むしろ日本の古い美しさを感じていた時期があったはずだ。典型的には、大和・斑鳩の法隆寺。
 だが、遅れて伊勢神宮を知るに至って、印象は変わる。
 参拝者には全体を見ることすらできない正殿は、小さくかつ素朴で、稲倉を想起させもする、簡明な美しさがある。-はずだ。全体は写真でしか見たことがなく、斜めの位置から上部を撮影したにとどまる。北側に回れば-出雲大社のように-全体を後ろから見られるのだろうか。
 ここの正殿を見ることはできなくとも、伊勢神宮の仲間(「別宮」)である同じ三重県(・旧志摩国)にある伊雑(いざわ)宮の正殿は伊勢神宮のそれと全く同じ形をしているはずであり(神明造)、1メートル程度の間近で参拝でき、もちろん全体をしっかりと見ることができる。市街地から離れた(しかし近鉄の無人駅から簡単に歩ける)、こんもりとした叢林の中の静寂と相俟って(参拝者・観光客も少ない)、日本の原点的な美しさを感じることができる。
 神明造の建物自体は、伊勢神宮(内宮)の中にある風日祈宮(かざひのみのみや)できちんと見ることができる。いつの頃からか分からないほどの古代の頃から、日本人は、このような形の建物(にいる又は到来する=憑りつくとされる神々)に向かって「祈り」つづけてきたのだと考えると、日本人しての感慨も湧こうというものだ。
 神明造の神社建築物は、全国的には多くはない。京都府の(天橋立の北にある)籠(この)神社の正殿は、数少ない例だろう(伊勢神宮と祭神が同じ)。
 神明造ではなくとも、古い、由緒ある神社の正殿・本殿は、当たり前だが仏教くさくなく、それぞれに美しい。奉賛会の会員ではあるものの、率直にいって靖国神社の拝殿には建築美は感じないが、本殿はどうなっているのだろう(いわゆる昇殿参拝というのをしたことがない)。
 子細に立ち入ると長くなるので省略せざるをえないが、宇佐神宮・鶴岡八幡宮(鎌倉)等の八幡造も、その謂われとともに好きで、美しい、といえる。福山市の素戔嗚神社の正殿は、ふつうの本殿が二つ中心で直角にクロスした十字型をしていて、珍しい。他に類例はあるのだろうか。
 香椎宮(福岡市)の本殿も、じっと眺めてしまったほどに魅力的だ。神官によると全国でここだけで、香椎造とかいうらしい。
 住吉造の複数の本殿の並び方も面白いが(大阪・住吉神社など)、これは「美しさ」とは別の話かもしれない。
 そもそもかつての私のように、拝殿建築物を神社の最も重要なそれと何となく思っている人が多いかにも見える。いっとき以降、私は参拝のあと必ず、左右両方に動いて拝殿の奥にある正殿・本殿を見ようとしている(もっとも、大和・大神神社のように本殿がなく、三輪山自体がそれにあたるとされる場合もある)。
 多くの人は意識していないのかもしれないが、鳥居の形・作り方にも種々ある(例えば、伊勢神宮・明治神宮・靖国神社で異なる)。だが、基本的な形は同じなので、なぜ遙か昔の日本人はこのようなかたちを選んだ、又は考え出したのだろうと思ってしまうことがある。そして、決して嫌いな造形ではない。
 正殿における千木・枕木、千木の縦切りと水平切りの違いなどに触れていくとキリがないが、これらも(むろん神道という宗教の問題であるとともに)「建築美」の問題でもあろう。但し、正殿・本殿に千木・枕木類がまったくない神社も少なくない。これは<神仏混淆>の長い時代と無関係ではないと、以上のすべてと同じく「素人」の考え・印象だが、思っている。つまり、寺院の本堂が変化した、またはそれを借用した神社・本殿も少なくないのだろう。
 以上に名を出した神社は、すべて訪れた。もちろん、名前を出していない、訪れた神社の数の方が、はるかに多い。
 

1365/日本は美しい-01。

 日本47都道府県すべてに宿泊したことがある。10年ほど前は、列車・電車で通過したことすらない県が三つあった。
 但し、県庁所在都市には宿泊したことがない県が、今のところ三つある。
 山口(山口県)、徳島(徳島県)、青森(青森県)の各市だ。30歳のとき以降を旅行に関する記録のすべての基準にしているので、乳幼児時代や学生時代に宿泊したことがあるようであっても、記憶が不鮮明であることもあり除外する。
 山口県には防府市・下関市、徳島県では鳴門市、青森県では弘前市に泊まったことがある。
 全都道府県をこのようなかたちでも「知って」いる日本人は、それほど多くはないのではないだろうか。四分の三以上は、まったく<私的に>訪問している。つまり(私的)旅行中に、ということだ。
 小中学生時代に日本地図・各県地図を見たりして(また旧国鉄全国時刻表を眺めたりして)空想・想像していた都市を実際に訪れる、中心駅に降り立つ、というのは、じつにワクワクする、かつ感慨深い体験だ。
 一部地域は「知っている」とは言えないが、日本は美しい国だ、と思う。
 海、海岸、丘陵、山岳、湖、渓谷、河川、島々。なんと変化に充ちた、多様な自然環境をもつ国だろう、と思う。初めての地方の車窓の風景は、少年のときに珍しく鉄道に乗ったときと同じように、飽きさせない。
 上に、海、海岸、丘陵、山岳、湖、渓谷、河川、島々と並べて書いたが、一つの鉄道路線ですべてを眺め入ることができる地域も、日本にはある。フランスやドイツでは、信じられないことではないかと思われる。<今は山中(やまなか)、今は浜>、というのは、フランスやドイツでは(海がない国ではもちろん)生まれない唱歌だろう。
 北海道・根室市の中心部から納沙布岬を往復したとき、途中でバス道路の北方に鳥居を二、三見つけた。神社がある、ということだ(寺院の所在は必ずしもよく分からない)。
 きっと明治初期以降なのだろう、こんな東北端地域にもけっこうな密度で神社が建立されている、ということに、何やら感じ入った。
 追想を逆の南の方に持っていけば、鹿児島市の南洲神社というのも印象に残る。正確には、その神社に接した、西郷隆盛らの西南戦争「薩摩軍」兵士の墓地(南洲墓地)だ。
 西郷の最も大きい墓石柱の左右に桐野利秋(中村半次郎)と篠原国幹のほぼ同じ大きさの墓石柱があり、それらの左右と後方に、100ほどの墓石がすべて、同じく海(・桜島)に向かって立っている。それらの大きな石は磨かれず粗々しいままで、西南戦争後ほどなくして墓碑用に使われたかのように見える。
 これらの下に、それぞれの遺骨が本当に納められているのかどうかは知らない。
 しかし、じっとたたずむことができず、逃げるように立ち去りたくなる「霊的な」雰囲気が漂っている。(日本最後の)内戦・闘いに敗れた者たちの「無念さ」を感じてしまうのかどうか。
 振り返れば見える海峡のような海(錦江湾)は美しい。噴火さえしていなければ、穏やかな白い煙とともにある桜島の特徴ある姿も。
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 読書メモ-7/02-03で、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2006)を全て読了。感想は、疑問(といってもほとんどは文献上の根拠)も部分的に含めて多いので、しばらくスルーする。

1266/神社・仏閣めぐり-護国神社巡拝はいかが?

 神社仏閣・社寺(寺社)と一括りにいうが、寺院については四国遍路88をはじめ西国33・坂東33・秩父34の札所めぐり(四国遍路以外はいずれも観世音菩薩=観音信仰による観音菩薩を本尊とする寺院巡拝だ)等々があるのに対して、神社についてはきわめて少ない。
 もともとは「ご朱印」というのは納経の証明書のごときもので仏教に由来するものだと思われ、神道・神社にはなじみがなかったものかもしれない。それでも、いつ頃からなのだろう、神社でも、たいていは、「ご朱印」がいただけるようになっている。なお、神社も寺院も全国一律に300円の「ご志納」が代金になっていることは興味深く、これは安いだろう(あらかじめ印刷されていて捺印と参拝日付だけの記入にとどまる場合は200円であることもある)。500円出しておつりは要らないつもりでも必ず返金があることも興味深い(但し、例外はあるし、賽銭の追加のつもりでと言えば受領してもらえることもある)。
 寺院については上記の観音霊場めぐりの他に、薬師霊場巡拝、不動尊聖跡巡礼等々が各地方(おおむねプロック単位)でかなり多く存在している。北海道についてはよく知らない。
 神社についても、例えば「東京十社めぐり」という元准勅祭社巡拝もあり、専用の御朱印帳もある。個人的なことを書くと、亀戸天神社の一つだけを除いて、あとの九社はお参りをして、ご朱印もいただいている。他に、京都市内に限っての、京都五社、京都八社などもある。他にも、比較的狭い地域での神社めぐりがセット(?)されていることはあるものと思われる。
 四国、関西、関東といった広い地域での神社めぐりのコースはないようなのだが、より広く「全国一の宮めぐり」というものがある。これにはB5版の比較的大きい専用の御朱印帳が用意されており(購入でき)、「新一の宮」を加えて、沖縄・那覇、対馬、壱岐、隠岐、佐渡、会津から札幌まで、地域は日本全国に広がる。これだけの広さのある仏教寺院めぐりはないだろう。「新一の宮」を含む「全国一の宮」の数は長野県の諏訪大社四社や京都の下鴨・上賀茂の二社をどう数えるか、若狭姫神社を含めるか等の問題がありむつかしいが、御朱印帳の一頁に別々に記載されている神社数は108のはずだ(薩摩国には二、紀伊国には三、安房国には二など複数ある場合が少なくないので、旧国数や現在の都道府県数よりも多い)。
 神社についてはこれくらいのもので、あとは個人的に全国の護国神社めぐりをすることが考えられ、ガイドブックも近年になって発売されている。それによると、全国に52の護国神社がある(靖国神社は含まない)。原則として各府県に一つあるが、北海道には三つ(札幌・旭川・函館)、兵庫県には二つ(神戸・姫路)、広島県にも二つ(広島・福山)あり、なぜか神奈川県には(靖国のある東京都にも)ない。但し、残念ながら、専用の御朱印帳は発売・販売されていない。ついでに書くと、釧路護国神社があることも知っているが(但し、ご朱印はいただけなかった)、公式には?ガイドブックに掲載されていない。
 したがって、唯一専用の朱印帳がある、広い地域での神社巡拝セットは「全国一の宮めぐり」だけなのかもしれない。集客?のためといっては失礼だが、いろいろなアイデアが工夫されてよいかもしれない。
 なお、関西(三重県を除く)には神仏霊場巡拝といって、90の寺院・60の神社、計150の社寺がそれぞれの(札所のごとき)番号をもち、ぶ厚い専用の御朱印帳もあるものがある。これは寺院と神社の両方を巡るもので、かなりユニークな(そして私にはよいと感じられる)ものだ。
 ここで思い出したが、神社についても、後醍醐天皇ゆかりの神社(吉野神社、神戸の湊川神社など)については専用の御朱印帳がある。また、氷川神社、津島神社、各地の八坂神社などの素戔嗚尊を祭神とする神社は「全国清々会」という団体を作っているようで、専用の御朱印帳(但し、個別の神社名の記載はない)もある。
 以上のようなことを書いてるのも、ロクに仕事をしないで、全国の寺院・神社を、ふつうの?人に比べればたくさん訪れていると思っているからだ。その経験から、日本の宗教や日本の歴史や日本人の心情・精神等々について、いろいろと感じることが少なくない。いずれ、おりにふれて、より具体的なことをこの欄に記していってみよう。

0894/<日本>はその美しい自然と四季とともに残り続けるだろうか。

 1970年11月の自裁の際の三島由紀夫の檄文に書かれた日本の近未来の予測文章はよく知られている。
 西尾幹二は1996年に次のように書いたらしい(初出、サンサーラ1996年12月号)。
 「このままいけばおそらく日本は、……いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいるが、国家意志といったものをもったく持たない国、刹那的な個人主義だけが限りなく跋扈する虚栄の市場としての国になり果てるであろう。…―というような悪夢を心の中で抱くこと久しい。そうなっては困るのだが、しかし、そうなるのではないか、いや間違いなく相違ないという胸騒ぎのような心理を、私はここ数年、ずっと持ちつづけてきたのである」。
 「いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいる」のか否か、2010年の時点での将来予測としては疑問符もつくが、上のような懸念と「悪夢」はほとんど現実化してしまっているのではないか。
 西尾幹二の書くもの、それで解る西尾の考え方等を全面的に支持しはしないが、この人の時代感覚も(三島由紀夫と同様に?)鋭いと言えるかもしれない。
 私は近年、次のような「悪夢」を抱く、あるいは将来の日本列島の<惨状>を恐怖感とともに思い描くことがある。
 日本の山岳と田畑と海岸の美しい風景はまだ残っている。だが、かつてはどこでも見られたものが無くなってしまっている。
 神社のすべてが、大から小まで物理的に破壊され、消失した(神官・宮司等は当然に職を失った)。路傍の地蔵像や祠などもすべて無くなった。寺院も文化財としてのごく一部の有名(・観光)寺院の建造物を除いてすべて破壊され、消失した。京都・奈良・飛鳥のみならず、日本列島のすべての地域で、<かつての日本>的な神社仏閣は破壊された、無くなった。伊勢神宮も例外ではない。明治神宮も橿原神宮も熱田神宮等々も同じ。
 その時代には、当然に<天皇制度>は廃止され、<皇室>なるものはもはやない。日本国家・日本政府というものももはやない。某国の一州か自治領のようなものになっている。かりに日本「国家」が残っていても、某国との間に主たる仮想敵国をアメリカ合衆国とする安保条約が締結され、日本列島人も徴兵される軍隊の指揮権は当然に某国「人民軍」総司令官にある。
 その某国政府の命令または「勧告」だが実質的には強い要請にもとづいて、日本列島人は自らの手で、神社仏閣のほとんど(一部の遺跡扱いの寺院を除く)を壊したのだった。
 その時代、日本列島人は「何語」を話しているだろうか?。
 これが、立ち入らないが、平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭にある、戦慄を伴う問題設定だ。
 美しい列島、美しい四季は残り続けるかもしれない。だが、<鎮守の杜>が全てなくなって、路傍の祠がいっさいなくなって、さらには日本語が話されなくなるか、正規の言語ではない「方言」の一種と見なされるようになって、いったいどこに<日本>が残っているのだろうか。顔つきだけはかつての「日本人」によく似た日本列島人は残っているとしても。
 西尾幹二は冒頭引用の文章を含む論考を、「私は自分の未来を諦める気にはなれない。自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれないのだ」、と結んでいる。
 1935年生まれで私よりも10歳余年上の西尾がこう書いているくらいだから「諦め」てはいけないだろう。だが、本音をいえば、西尾の上の言葉よりは私はペシミステイック(悲観的)だ。
 他国によるイデオロギー支配を伴う占領と、その時代に生み出された実質は他国産の1947年憲法がもつ「価値観」にもとづく教育、そして当該「価値観」の実質的な(<時流>としての)押しつけ(「憲法」教育を含む)の影響を拭い去ることは、もはやほとんど不可能なのではないか。
 週刊金曜日5/01号で憲法学者らしき斎藤笑美子(茨城大学)は、皇族の「市民」的平等を確保するには<天皇制廃止>か<皇族離脱の自由の承認>しかないとの自説を述べていた。
 週刊金曜日6/04号の日米安保特集には憲法学者・早稲田大学教授の水島朝穂が(相変わらず?執拗にも)「重大なのは日本が『攻める』危険性」と題する文章を載せている。
 現在書店に並んでいる週刊金曜日には、上杉某が、憲法改正手続法を利用して<天皇制廃止>のための改憲論を展開すべしとの文章を書いている筈だ。
 <天皇制廃止>のための憲法改正を<保守>派は断固阻止しなければならない。世論動向に応じて、日本共産党や社会民主党はこの問題を積極的に提起する可能性はあり、これまた世論を見極めつつ、朝日新聞は<天皇制廃止>の方向に誘導する可能性もある(もっとも、すでにそれは目立たないかたちで実施に移されていると観るのが正確だろう)。
 <ナショナルなもの>の忌避・否定は日本<国家>への反感・怨念にも由来する。日本<国家>と<天皇制度>はもともと不可分のものと考えられる。
 <天皇制度>の維持と雅子妃殿下うんぬんの議論とどちらが大切かは語るまでもない。
 日本<国家>と<天皇制度>を否定しようとし、そして<宗教>意識は自分にはないと考えているのが多数派と見られる日本人の意識を利用して<反神社(・神道)・反寺院(・日本的仏教)>の立場へも誘導しようとするだろう、「左翼」言論人等の活動家たちの策略・大きな顔をしての言動を弱体化させなければならない。
 そうしないと、上に書いたような私の「悪夢」は正夢に、つまり近い将来の現実になってしまうのではないか。
 6/04、西尾幹二・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010.06)のうち、第一部の「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃…」(上に引用はこれの一部)、「トヨタ・バッシングの教訓」、「外国人地方参政権・世界全図」、第三部の「講演/GHQの思想的犯罪」、「『経済大国』といわれなくなったことについて」を読了。
 残りのほとんどは「激論ムック」か月刊正論で既読のような気がするが、あらためて読むかもしれない。

-0021/旅をして日本と大江健三郎を考える。

 25日夕方に旅に出た。往復の列車の車窓から見ると、山の樹々の緑は深く、まだまだ日本の自然は美しい。朝鮮戦争の際のゲリラ活動のために朝鮮半島の山は樹木が少ないと某ソウル市民からかつて聞いたことを思い出した。都市部と地方・農村部の「格差」が言われているようだが、邸宅といってよい大きな農家風住宅をしばしばみると、住宅は都市部の方が貧困、「格差」があっても中国や北朝鮮のそれとは質・レベルが大幅に異なるはず、と感じる。
  出立する直前に届いて目次を見て持参した小浜逸郎『いまどきの思想、ここが問題』(1998、PHP)を旅行中に読了した。この中の大江健三郎批判(分析)は秀逸ではないか。大江についてはこの欄で今後何かを書くだろう。上野千鶴子については、小浜が別に本格的に論じているという本を読んでからやはり(再び)何か書こう。小浜は、シタリ顔で論じ、字数を稼いでいるような箇所は別として、予想どおり<面白い>論者だ(たしか24日に、同『男という不安』(2001、PHP)も読了)。
 ただ、一番最後の国家論のうちの「ユートピア」の叙述は批判の対象になりうる。それを予期した「ユートピア」という語なのかと今ふと思ったが、「個の身体が実感しうる範囲の小さな共同体」と国家=「超越的な調整機構」の関係は、日本の戦国時代の一時期又は一地方や「くに」のない縄文式時代を想定すると一般化できないが、前者がつねに論理的に先に成立しているものではなく、後者の(機能・情念としての)「国家」があってこそ前者も平穏かつ秩序をもって成立しうるのであって、前者の存在を論理的につねに先行させるとすれば正しくないようにみえる。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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