秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

美しい日本

1423/美しい日本05ー高く登る神社の石参道。

 陸奥一宮・塩竃神社(+志波彦神社)へは二度訪れた。一度目は仙石線の本塩釜駅からタクシーで、東の方から志波彦神社の近くにまで運んでもらい、帰路は塩竃神社・社務所の南につづく石段を降りた。
 この石段降りは雨模様で石が少し濡れていたため、一歩ずつ緊張した。降りてから再び本塩釜駅までは歩き、鉄道で松島が見える方に向かった。そのとき、行きは簡単にタクシーに頼ってしまったことで完全な参拝ではなかったような気がし、つぎのときは、きちんと石の参道を上がって参拝しようと思った。
 今度は東北線の塩釜駅から歩いて、塩竃神社の森の下にくると、頂の最終部分が何とか判断できる程度に、まっすぐに上に登っていく、石の参道が見える。鬱蒼とした木々に囲まれて、左右平行の石段がまっすぐに登っていく姿は、美しい。
 司馬遼太郎・ワイド版街道をゆく26巻(朝日新聞社、2005)p.247には、「ふもとの町から一直線に石段がきずかれている。/『高いですなあ』と、多少はひるんだ」、とある。
 極端に長いことはないが、老輩には、そこそこに厳しい。200段くらいだっただろうか。
 なお、志波彦神社という神社が社殿の向きを変えて隣の敷地内にあるのだが、なぜこの別の神社と併せて実質的には一つになっているのか、その複雑な背景・理由は、きっと何かで読んだはずだが、分からない(憶えていない)。
 但し、一つではなく二つの神社のご朱印をいただくことになるので、一社ぶんの300円ではなく400円か500円のご志納金だったことはなぜか( ?)憶えている。
 山の途中まで一直線に石の階段が参道として上がっている景色としては、千葉県/安房の国の洲崎神社のそれも印象に残った。専門の宮司さんはいないようで、電話をするとご朱印のために事業用の小型車で、社務所までやってきてくれた。その間に、石段登りをしてその上にある小さな社殿で参拝したのだが、石段は塩竃神社のそれよりも幅狭いが、高さはたかい(したがって段数も多い)。
 降りようとして前方を見ると-下方は傾斜のある、持つところが何もない石段だ-、東京湾かその付近を、タンカーがゆっくりと移動していた。天気もよく、青い空のもとでの古びた社務所、県道、そして船のうかぶ海が一望に見えて、清々しく美しかった。
 このとき、神社の多くのように、社殿も石段も南を向いているのだろうと思っていた。
 ところがその日のうちにでも分かったが、社殿は西向きで、石段は東から西へと下っていた。神奈川県と向かい合っていたことになる。見たタンカーは外洋を悠々と航行していたのではなく、東京湾に入る準備をしていたのかもしれない。
 なお、各旧国の「一宮」がどれかについては争いが残っているようで、安房については、洲崎神社の前に訪れた安房神社の方が大規模だし、名前からしても一宮らしい。
 しかし、源頼朝が挙兵してまず向かいの安房の国に上陸したとき、上に書いた洲崎神社で戦勝を祈り、<この宮こそ安房の一宮だ>とか言ったらしい。そんな由緒があって、全国一宮会は安房神社と洲崎神社の二つを安房の国の一宮としているらしい。
 神社の由緒書、案内文などは読んでも忘れることが多い。熱心な頃は、毎週のように出かけたのだから当然だろう。それでも、上の洲崎神社についての上のようなことは、由緒書をもらったそのときか、館山駅に近いホテルで読んでか、記憶として定着してしまった。
 思いを外国に馳せると、欧州の教会は、中小の街であれば、街の中心の広場にあることが多いだろう。鉄道で教会の尖塔が見えれば、そこは市街地の中心であることが想定できる。
 ドイツのゲッティンゲンでもフライブルクでも、フランスのシュトラスブールでも同じ。
 パリのセーヌ川の中島・シテ島の東にノートルダム寺院はある。マドレーヌ教会もコンコルド広場の北方近くなので中心部といえる。ウィーンのシュテファン大聖堂は同市の中心にある、と言ってよいだろう(ベルリンは ?と考えてみたがはっきりしない)。
 なぜこんなふうに話を広げたかというと、日本には街の中心部の広場そばに神社がある、ということはまずない。高く登っていく石段の先に社殿があるという神社の位置は、欧州の=キリスト教の宗教施設とは、大きく異なるのではないかと感じる、からだ。
 日本の「神」は人々の暮らしに気を遣って、あるいは遠慮して、人里から少し離れた、多くは少し高い場所を選んだ、ということなのかどうか。

1422/美しい日本04-神社等の位置03。

 山門をくぐって、さらに何段か下った、日射しの少ない暗い参道をまっすぐ歩いたことがあった。四国八八所巡礼の82番、高松市にある根香(ねごろ)寺だ。
 もう一つ、宮崎・日南市の鵜戸神宮も、下っていくように作られている。
 バス停から少し登った所を(トンネルの方にいかないで)さらに登ると、海の方向へと下っているやや古くはなっている参道がある。
平地まで下ると神社の雰囲気が漂っているが、この神社の特徴は、さらにそのあとにあった。つまり、海に面した岩壁に作られたハシゴのような人工の石段を何度か曲がりながら行き着いたところが、岩壁中に30~40度ほど口が開いた洞窟になっていて、その中に、拝殿と本殿が収まっている。最初はぎょっとして、のちに不思議なかつ神々しいものに思えてくる。
 こんな社殿は、おそらく他にはないのではないか。
 この神社はふつうの参道自体も下向きだ。但し、波が吹き込んでくるかもしれないほどの岸壁中に貝の蓋のように開いた空間内の社殿の位置は、参道の上がり・下がりの違いという論点からはすでに離れている、独特のものだ。
 海に対して切り立った岩の中の隙間に、昔の人々はきっと、不思議さ、異様さを感じるとともに、「神」の存在を感じていたのだろう。
 例の如く余計なことを書くと、四国82番の根香寺の前の81番の札所は白峯寺で、それぞれ高松・坂出両市にまたがる五色台という丘陵の東部と西部にある(従って今では、平地から歩いて登るのはかなり厳しいようだ)。
さて、この白峯寺のすぐ近くには崇徳上皇の墓陵があり、当該墓陵独自の参道もあるが、白峯寺から簡単に行ける。墓陵の前に立つと(又はしゃがむと)石製の墓碑以外には、緑の木々しか見えない。
 竹田恒泰がひざまづいている写真を扉とする、崇徳上皇に関する本を彼が出版している。同・怨霊になった天皇(小学館、2009)。また、僧・西行も一度は実際に訪れたようで(12世紀だろう)、江戸時代に入ってからの上田秋成による雨月物語の最初の話は「白峯(しらみね)」という題。そこでは、崇徳(の霊)と西行が会話を、あるいは議論をしている。
 この会話・議論は実際のものに近いのかどうか、西行がこれについての何かの記録を残しているのかは知らない。物語では、保元の乱あたりの崇徳上皇の行動とその後の朝廷側の彼に対する措置について、崇徳と西行の間で、一種の「歴史認識」論あるいは「正義」論が交わされる。江戸時代にまで、そして雨月物語を通じて今日まで、崇徳と西行にかかわる話が残っているのは興味深いことだ。
 麓にも、崇徳が実際に流刑され隔離されて生活していた辺りに、「天皇寺」という寺があり、79番の札所だ(これを神宮寺としていたはずの神社も同じ境内かとすら思うほどに近接して存在している)。崇徳上皇と無関係なはずはない。
 京都市・今出川通り堀川東入るに、明治改元の直前に、「白峯神宮」が設置され、崇徳上皇はこの神社の祭神になった。この神社へ明治天皇や昭和天皇は、とか書き出すと、テーマから離れてしまうし、長くなりすぎる。この白峯と冠する神社自体は、楼門も拝殿・本殿も同じ平地上にあるはずだ。

1421/美しい日本03-神社仏閣の位置02。

 上州一宮・貫前(ぬきさき)神社を訪れたとき、最寄り駅から県道か市道へと登って横断したのち一挙に下って境内に入っていく、という高低差に驚いた。正確には、上がっていかずに下っていく、という神社の位置に驚いた。
 というのは、神社も寺院も、参拝口にある楼門または山門までもふつうはそうだろうし、とりわけ楼門・山門から本殿・本堂までは同じ平地上か、後者が前者よりも少しは高い場所に位置することが圧倒的に多いと思われるからだ。そのような例はいくらでも思い出せる。
 ひょっとすれば、貫前神社の楼門と本殿は同じ高さにあったのかもしれないが、楼門まではかなりの傾斜を下らなければならなかった。珍しいな、という感覚を持ったのは確かだ。
 そういう位置関係でこれまたほぼ正確なと感じるほどの記憶とともにに思い出すのは、寺院では、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)だ。山門までタクシーで登り、または歩いて登りきって、山門をくぐり抜けると、何と石砂の参道が明らかに下っていて、本堂かそれらしきものの屋根が、両脇の叢林の間に、下方に見える。
 のちに、同寺の本堂および拝観対象の建物へは、山門まで登らなくとも、ほぼ同じ高さにある地点(今熊野観音寺への参道へと同じか近い)から歩いた方が近くて早いことに気づいた。だが、泉涌寺の最初の訪問では、立派な山門までとりあえず行ってしまうのも無理はないだろう。
 上の二つに比べると微細な変化だが、出雲大社の大鳥居から本殿方向へも、最初は少しずつ下っている。そのような<さがり参道>は、出雲大社の、いくつかの不思議の一つであるらしい。もっとも、そのような高低差を意識していないと、まったく気づかない程度のものだが。
出雲大社の場合、建造時の人々が意識的にそうしたのかは知らない。だが、これ以外の上の二つについては、意識的にそのように作られたとしか思えない。神社本殿は「南」面しており、寺の本堂は「西」面しているようだが、南または西の方向に高く隆起した土地があることは、建造時から明白だったはずだろう。そして、なぜそのような場所に立地させたのかは私には分からない。
 なお、泉涌寺は観光寺院ではないこともあり、何やら清々しく感じられる。かつまたこの寺は御寺(みてら)とも呼ばれ、天皇・皇室ときわめて関係が深い。周囲にはいくつかの天皇の御陵があり、これらは今は国有地・宮内庁管理だが、かつてこの寺が何代かの天皇の菩提寺であったことが(文献で確かめる必要なく)明らかだ。
奈良時代の天皇を除く今日までの全天皇の位牌に対して、毎朝、法要・供養が続けられていると聞いて、気の遠くなるような思いをしたことがある。
 なぜ奈良時代の(正確にはたしか天武以下の)諸天皇だけは、除外されているのか。歴史好き、逆説好きの人ならば想像できるだろうが、テーマから逸れるので、省く。

1390/美しい日本02-神社の建築と位置01。

 なぜかは不明だが、神社というと京都の平安神宮を思い浮かべる時期があり、建築物はかつての平安宮(・紫宸殿 ?)をやや小さく模したもののようだが、その派手な朱色やその青緑色との対照などは、どぎつく感じて、私の好みではなかった。日光東照宮の楼門等も、昔の人は(江戸時代初期の人は)細かく優れた技術を持っていたことに感心はするが、その壮麗さによって却って、好みにはなれなかった。
 仏教寺院の建築物の方に、むしろ日本の古い美しさを感じていた時期があったはずだ。典型的には、大和・斑鳩の法隆寺。
 だが、遅れて伊勢神宮を知るに至って、印象は変わる。
 参拝者には全体を見ることすらできない正殿は、小さくかつ素朴で、稲倉を想起させもする、簡明な美しさがある。-はずだ。全体は写真でしか見たことがなく、斜めの位置から上部を撮影したにとどまる。北側に回れば-出雲大社のように-全体を後ろから見られるのだろうか。
 ここの正殿を見ることはできなくとも、伊勢神宮の仲間(「別宮」)である同じ三重県(・旧志摩国)にある伊雑(いざわ)宮の正殿は伊勢神宮のそれと全く同じ形をしているはずであり(神明造)、1メートル程度の間近で参拝でき、もちろん全体をしっかりと見ることができる。市街地から離れた(しかし近鉄の無人駅から簡単に歩ける)、こんもりとした叢林の中の静寂と相俟って(参拝者・観光客も少ない)、日本の原点的な美しさを感じることができる。
 神明造の建物自体は、伊勢神宮(内宮)の中にある風日祈宮(かざひのみのみや)できちんと見ることができる。いつの頃からか分からないほどの古代の頃から、日本人は、このような形の建物(にいる又は到来する=憑りつくとされる神々)に向かって「祈り」つづけてきたのだと考えると、日本人しての感慨も湧こうというものだ。
 神明造の神社建築物は、全国的には多くはない。京都府の(天橋立の北にある)籠(この)神社の正殿は、数少ない例だろう(伊勢神宮と祭神が同じ)。
 神明造ではなくとも、古い、由緒ある神社の正殿・本殿は、当たり前だが仏教くさくなく、それぞれに美しい。奉賛会の会員ではあるものの、率直にいって靖国神社の拝殿には建築美は感じないが、本殿はどうなっているのだろう(いわゆる昇殿参拝というのをしたことがない)。
 子細に立ち入ると長くなるので省略せざるをえないが、宇佐神宮・鶴岡八幡宮(鎌倉)等の八幡造も、その謂われとともに好きで、美しい、といえる。福山市の素戔嗚神社の正殿は、ふつうの本殿が二つ中心で直角にクロスした十字型をしていて、珍しい。他に類例はあるのだろうか。
 香椎宮(福岡市)の本殿も、じっと眺めてしまったほどに魅力的だ。神官によると全国でここだけで、香椎造とかいうらしい。
 住吉造の複数の本殿の並び方も面白いが(大阪・住吉神社など)、これは「美しさ」とは別の話かもしれない。
 そもそもかつての私のように、拝殿建築物を神社の最も重要なそれと何となく思っている人が多いかにも見える。いっとき以降、私は参拝のあと必ず、左右両方に動いて拝殿の奥にある正殿・本殿を見ようとしている(もっとも、大和・大神神社のように本殿がなく、三輪山自体がそれにあたるとされる場合もある)。
 多くの人は意識していないのかもしれないが、鳥居の形・作り方にも種々ある(例えば、伊勢神宮・明治神宮・靖国神社で異なる)。だが、基本的な形は同じなので、なぜ遙か昔の日本人はこのようなかたちを選んだ、又は考え出したのだろうと思ってしまうことがある。そして、決して嫌いな造形ではない。
 正殿における千木・枕木、千木の縦切りと水平切りの違いなどに触れていくとキリがないが、これらも(むろん神道という宗教の問題であるとともに)「建築美」の問題でもあろう。但し、正殿・本殿に千木・枕木類がまったくない神社も少なくない。これは<神仏混淆>の長い時代と無関係ではないと、以上のすべてと同じく「素人」の考え・印象だが、思っている。つまり、寺院の本堂が変化した、またはそれを借用した神社・本殿も少なくないのだろう。
 以上に名を出した神社は、すべて訪れた。もちろん、名前を出していない、訪れた神社の数の方が、はるかに多い。
 

1365/日本は美しい-01。

 日本47都道府県すべてに宿泊したことがある。10年ほど前は、列車・電車で通過したことすらない県が三つあった。
 但し、県庁所在都市には宿泊したことがない県が、今のところ三つある。
 山口(山口県)、徳島(徳島県)、青森(青森県)の各市だ。30歳のとき以降を旅行に関する記録のすべての基準にしているので、乳幼児時代や学生時代に宿泊したことがあるようであっても、記憶が不鮮明であることもあり除外する。
 山口県には防府市・下関市、徳島県では鳴門市、青森県では弘前市に泊まったことがある。
 全都道府県をこのようなかたちでも「知って」いる日本人は、それほど多くはないのではないだろうか。四分の三以上は、まったく<私的に>訪問している。つまり(私的)旅行中に、ということだ。
 小中学生時代に日本地図・各県地図を見たりして(また旧国鉄全国時刻表を眺めたりして)空想・想像していた都市を実際に訪れる、中心駅に降り立つ、というのは、じつにワクワクする、かつ感慨深い体験だ。
 一部地域は「知っている」とは言えないが、日本は美しい国だ、と思う。
 海、海岸、丘陵、山岳、湖、渓谷、河川、島々。なんと変化に充ちた、多様な自然環境をもつ国だろう、と思う。初めての地方の車窓の風景は、少年のときに珍しく鉄道に乗ったときと同じように、飽きさせない。
 上に、海、海岸、丘陵、山岳、湖、渓谷、河川、島々と並べて書いたが、一つの鉄道路線ですべてを眺め入ることができる地域も、日本にはある。フランスやドイツでは、信じられないことではないかと思われる。<今は山中(やまなか)、今は浜>、というのは、フランスやドイツでは(海がない国ではもちろん)生まれない唱歌だろう。
 北海道・根室市の中心部から納沙布岬を往復したとき、途中でバス道路の北方に鳥居を二、三見つけた。神社がある、ということだ(寺院の所在は必ずしもよく分からない)。
 きっと明治初期以降なのだろう、こんな東北端地域にもけっこうな密度で神社が建立されている、ということに、何やら感じ入った。
 追想を逆の南の方に持っていけば、鹿児島市の南洲神社というのも印象に残る。正確には、その神社に接した、西郷隆盛らの西南戦争「薩摩軍」兵士の墓地(南洲墓地)だ。
 西郷の最も大きい墓石柱の左右に桐野利秋(中村半次郎)と篠原国幹のほぼ同じ大きさの墓石柱があり、それらの左右と後方に、100ほどの墓石がすべて、同じく海(・桜島)に向かって立っている。それらの大きな石は磨かれず粗々しいままで、西南戦争後ほどなくして墓碑用に使われたかのように見える。
 これらの下に、それぞれの遺骨が本当に納められているのかどうかは知らない。
 しかし、じっとたたずむことができず、逃げるように立ち去りたくなる「霊的な」雰囲気が漂っている。(日本最後の)内戦・闘いに敗れた者たちの「無念さ」を感じてしまうのかどうか。
 振り返れば見える海峡のような海(錦江湾)は美しい。噴火さえしていなければ、穏やかな白い煙とともにある桜島の特徴ある姿も。
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 読書メモ-7/02-03で、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2006)を全て読了。感想は、疑問(といってもほとんどは文献上の根拠)も部分的に含めて多いので、しばらくスルーする。

0894/<日本>はその美しい自然と四季とともに残り続けるだろうか。

 1970年11月の自裁の際の三島由紀夫の檄文に書かれた日本の近未来の予測文章はよく知られている。
 西尾幹二は1996年に次のように書いたらしい(初出、サンサーラ1996年12月号)。
 「このままいけばおそらく日本は、……いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいるが、国家意志といったものをもったく持たない国、刹那的な個人主義だけが限りなく跋扈する虚栄の市場としての国になり果てるであろう。…―というような悪夢を心の中で抱くこと久しい。そうなっては困るのだが、しかし、そうなるのではないか、いや間違いなく相違ないという胸騒ぎのような心理を、私はここ数年、ずっと持ちつづけてきたのである」。
 「いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいる」のか否か、2010年の時点での将来予測としては疑問符もつくが、上のような懸念と「悪夢」はほとんど現実化してしまっているのではないか。
 西尾幹二の書くもの、それで解る西尾の考え方等を全面的に支持しはしないが、この人の時代感覚も(三島由紀夫と同様に?)鋭いと言えるかもしれない。
 私は近年、次のような「悪夢」を抱く、あるいは将来の日本列島の<惨状>を恐怖感とともに思い描くことがある。
 日本の山岳と田畑と海岸の美しい風景はまだ残っている。だが、かつてはどこでも見られたものが無くなってしまっている。
 神社のすべてが、大から小まで物理的に破壊され、消失した(神官・宮司等は当然に職を失った)。路傍の地蔵像や祠などもすべて無くなった。寺院も文化財としてのごく一部の有名(・観光)寺院の建造物を除いてすべて破壊され、消失した。京都・奈良・飛鳥のみならず、日本列島のすべての地域で、<かつての日本>的な神社仏閣は破壊された、無くなった。伊勢神宮も例外ではない。明治神宮も橿原神宮も熱田神宮等々も同じ。
 その時代には、当然に<天皇制度>は廃止され、<皇室>なるものはもはやない。日本国家・日本政府というものももはやない。某国の一州か自治領のようなものになっている。かりに日本「国家」が残っていても、某国との間に主たる仮想敵国をアメリカ合衆国とする安保条約が締結され、日本列島人も徴兵される軍隊の指揮権は当然に某国「人民軍」総司令官にある。
 その某国政府の命令または「勧告」だが実質的には強い要請にもとづいて、日本列島人は自らの手で、神社仏閣のほとんど(一部の遺跡扱いの寺院を除く)を壊したのだった。
 その時代、日本列島人は「何語」を話しているだろうか?。
 これが、立ち入らないが、平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭にある、戦慄を伴う問題設定だ。
 美しい列島、美しい四季は残り続けるかもしれない。だが、<鎮守の杜>が全てなくなって、路傍の祠がいっさいなくなって、さらには日本語が話されなくなるか、正規の言語ではない「方言」の一種と見なされるようになって、いったいどこに<日本>が残っているのだろうか。顔つきだけはかつての「日本人」によく似た日本列島人は残っているとしても。
 西尾幹二は冒頭引用の文章を含む論考を、「私は自分の未来を諦める気にはなれない。自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれないのだ」、と結んでいる。
 1935年生まれで私よりも10歳余年上の西尾がこう書いているくらいだから「諦め」てはいけないだろう。だが、本音をいえば、西尾の上の言葉よりは私はペシミステイック(悲観的)だ。
 他国によるイデオロギー支配を伴う占領と、その時代に生み出された実質は他国産の1947年憲法がもつ「価値観」にもとづく教育、そして当該「価値観」の実質的な(<時流>としての)押しつけ(「憲法」教育を含む)の影響を拭い去ることは、もはやほとんど不可能なのではないか。
 週刊金曜日5/01号で憲法学者らしき斎藤笑美子(茨城大学)は、皇族の「市民」的平等を確保するには<天皇制廃止>か<皇族離脱の自由の承認>しかないとの自説を述べていた。
 週刊金曜日6/04号の日米安保特集には憲法学者・早稲田大学教授の水島朝穂が(相変わらず?執拗にも)「重大なのは日本が『攻める』危険性」と題する文章を載せている。
 現在書店に並んでいる週刊金曜日には、上杉某が、憲法改正手続法を利用して<天皇制廃止>のための改憲論を展開すべしとの文章を書いている筈だ。
 <天皇制廃止>のための憲法改正を<保守>派は断固阻止しなければならない。世論動向に応じて、日本共産党や社会民主党はこの問題を積極的に提起する可能性はあり、これまた世論を見極めつつ、朝日新聞は<天皇制廃止>の方向に誘導する可能性もある(もっとも、すでにそれは目立たないかたちで実施に移されていると観るのが正確だろう)。
 <ナショナルなもの>の忌避・否定は日本<国家>への反感・怨念にも由来する。日本<国家>と<天皇制度>はもともと不可分のものと考えられる。
 <天皇制度>の維持と雅子妃殿下うんぬんの議論とどちらが大切かは語るまでもない。
 日本<国家>と<天皇制度>を否定しようとし、そして<宗教>意識は自分にはないと考えているのが多数派と見られる日本人の意識を利用して<反神社(・神道)・反寺院(・日本的仏教)>の立場へも誘導しようとするだろう、「左翼」言論人等の活動家たちの策略・大きな顔をしての言動を弱体化させなければならない。
 そうしないと、上に書いたような私の「悪夢」は正夢に、つまり近い将来の現実になってしまうのではないか。
 6/04、西尾幹二・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010.06)のうち、第一部の「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃…」(上に引用はこれの一部)、「トヨタ・バッシングの教訓」、「外国人地方参政権・世界全図」、第三部の「講演/GHQの思想的犯罪」、「『経済大国』といわれなくなったことについて」を読了。
 残りのほとんどは「激論ムック」か月刊正論で既読のような気がするが、あらためて読むかもしれない。

-0021/旅をして日本と大江健三郎を考える。

 25日夕方に旅に出た。往復の列車の車窓から見ると、山の樹々の緑は深く、まだまだ日本の自然は美しい。朝鮮戦争の際のゲリラ活動のために朝鮮半島の山は樹木が少ないと某ソウル市民からかつて聞いたことを思い出した。都市部と地方・農村部の「格差」が言われているようだが、邸宅といってよい大きな農家風住宅をしばしばみると、住宅は都市部の方が貧困、「格差」があっても中国や北朝鮮のそれとは質・レベルが大幅に異なるはず、と感じる。
  出立する直前に届いて目次を見て持参した小浜逸郎『いまどきの思想、ここが問題』(1998、PHP)を旅行中に読了した。この中の大江健三郎批判(分析)は秀逸ではないか。大江についてはこの欄で今後何かを書くだろう。上野千鶴子については、小浜が別に本格的に論じているという本を読んでからやはり(再び)何か書こう。小浜は、シタリ顔で論じ、字数を稼いでいるような箇所は別として、予想どおり<面白い>論者だ(たしか24日に、同『男という不安』(2001、PHP)も読了)。
 ただ、一番最後の国家論のうちの「ユートピア」の叙述は批判の対象になりうる。それを予期した「ユートピア」という語なのかと今ふと思ったが、「個の身体が実感しうる範囲の小さな共同体」と国家=「超越的な調整機構」の関係は、日本の戦国時代の一時期又は一地方や「くに」のない縄文式時代を想定すると一般化できないが、前者がつねに論理的に先に成立しているものではなく、後者の(機能・情念としての)「国家」があってこそ前者も平穏かつ秩序をもって成立しうるのであって、前者の存在を論理的につねに先行させるとすれば正しくないようにみえる。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
  • 0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
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