秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/07

2402/西尾幹二批判029—ドイツに詳しいか②。

  西尾幹二・国民の歴史(1999)の第33章<ホロコーストと戦争犯罪>(全集版p.605-)は、ドイツ1980年代後半のErnst NolteやJürgen Herbermas らによる、ホロコーストに対するものを含むドイツ「人」・「民族」・「国家」の<責任>に関係する<ドイツ・歴史家論争>に一切触れていないこと、ノルテの名もハーバマスの名も出すことができていないことは、前回に触れた。
 あらためてこの章を読み返して、すぐに気づくのは、上の点を容易に確認することができることのほか、西尾幹二における法的素養、ドイツの歴史に関する素養の欠如だ。
 前回からの本来の論脈からずれるし、立ち入ると長くなるので、簡単にまず前者から簡単に触れよう。
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  西尾はJaspers による「良心的」責罪論を批判する中で、「責任」に該当する語をドイツ語のVerantwortung ではなく、「法律用語」としては「損害賠償責任」に適用されるHaftung を「用いているのも気になる」とする。全集版、p.613。
 この部分はじつは、西尾自身による、朝日新聞記者による注記を西尾が疑問視しないでそのまま紹介している箇所と矛盾している。
 同記者はヴァイツゼッカーの<政治的な責任>とはドイツ語でHaftung で、<道徳的な責任>とはVerantwortung だと両語の区別を明記している、とする。全集版、p.614。
 西尾はHaftung は法律用語として「損害賠償責任」に適用されると前者では書き、後者では平然と「政治的な責任」だと紹介している。
 この<法的>と<政治的>の区別は、西尾のこの章では重要なはずなのだが、ここでは無視してしまっている。
 いいかげんだ。
 なお、法律用語として「損害賠償」に最も該当するドイツ語はSchadenersatz(またはs を間に入れてSchadensersatz)で、「損害賠償をすること」という名詞としては、Ersatzleistung という語もある。
 有限会社のことをドイツではGmbH と略すが、これはG(会社) mit geschränkter Haftung(有限責任会社)のことで、この「責任」は損害賠償責任に限られはせず、もう少し広い意味だ。
 このあたりのドイツの諸概念の分析だけで、一つ、二つの研究論文はかけるし、現にある。
 立ち入りたいがほとんど省略すると、損害倍賞責任のみならず、土地収用のような意図的かつ適法な権利侵害(収用は権利剥奪)に対する「補填」=損失補償もまた、国家のHaftung の一種とされることがある。
 もちろん、西尾幹二は素人だから、そんなことは知らないし、知らなくてもよい。問題は、シロウトだという自覚があるか、だ。
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  西尾の論調の前提は、①ヒトラー・ナツィスはホロコーストという「大犯罪」を冒した(この点で揺るぎがないのは、世界の通念らしきもの、かつ日本共産党等と全く同じ)。②戦後ドイツは「国家として」、<集団的>かつ<法的責任>がある、というものだ(これも日本共産党らとほぼ同じ)。
 これを前提として、「集団的」責任を認めようとしないワイツゼッカー1985年演説を姑息とし、ドイツの「戦後補償」は「法的」ではなく「政治的」なものにすぎない、とする。
 日本とドイツの<戦後補償>の異同について、種々の専門的文献がある。西尾が書いているのは、そのうちの簡単な一説にすぎないだろう〔何といっても、西尾はこの問題についての法学者・歴史学者ではなく、ただのシロウトにすぎないのだから)。
 このあたりで感じる法的な基礎的素養のなさは、<国家の(法的、とくに賠償)責任>というものの理解についてだ。
 日本ではしばしば国を被告とする損害賠償請求訴訟が提起され、原告国民の側が勝訴することも少なくないから、そういう<国家の責任>は当然にありうる、と一般に理解されているのかもしれない。
 しかし、第二次大戦終了まで(つまりいわゆる戦前までは)、<君主に責任なし>とか<国家無答責>という原則らしきものがあって、損害賠償責任にせよ、国家が「直接に」その責任を負うことはない、と考えられてくきた。
 したがって、民法上の不法行為責任を問う場合でも、公務員にある不法行為責任を「使用者」としての国(・公共団体)が「肩代わり」=代位する、という構成をとらざるをえない。そして、民法の特別法とされる国家賠償法という法律の第一条(国家の公権力責任)も、少なくとも文理上は「代位」責任説で成り立っているような条文になっている。これに対して、直接の加害者として「直接に」責任を負うのだ(国家賠償法一条もそう「解釈」すべきだ)という論もあるが立ち入らない。
 ドイツで、「集団的」=国家的、「個人的」かという区別が重視されるのはおそらく日本以上であり、いまだに国(連邦、州等)の賠償責任は民法+憲法(基本法)に依っている。つまり、官吏(公務員)個人の職務上の義務違反(違法・不法行為)の存在が少なくとも論理的、抽象的には必要なのだ。
 責任はまず(国家ではなく)「個人」(公務員であっても)、という考え方は欧米では(「個人」主義だから?)今も強いように推察される。
 ドイツ「国家」・「民族」の<責任>に関する議論も、大統領演説の理解も、こうしたことをふまえておく必要があるだろう。
 むろん、シロウトの西尾は知らない。この人は、日本での常識的理解から出発している。
  もう一点、法的素養についてとは関係なく感じるのは、この章の文章作成過程のいいかげんさだ。
 長くは立ち入らない。要するに、のちの櫻井よしこにも江崎道朗にもよく似て、要領よく関係文献を探し、引用・紹介しつつ(そして文字数を稼いで)、自説を挿入し結論らしきものを述べる、というスタイルだ。
 この章で引用・紹介されているのは(つまり文章執筆の際の素材になっているのは)、①Sebastian Haffner というジャーナリストでもある者の一著、②ランダムハウス英和大辞典、③<共産主義黒書>、④ブリタニカ国際大百科事典、⑤Karl Jaspers の本のたぶん一部、⑥ Weizsecker 大統領演説、⑦朝日新聞1995年1月3日記事(同大統領Interview)、⑧朝日新聞1995年1月1日付特集(図表を含む記事の写真まで載せている)。
 これらによって、西尾幹二が自らの生涯の主著の二つのうちの一つと自称しているものの一つの章が執筆されているわけだ。ああ恐ろしい。
 熟読して、いかほどに参考になるのかは、主張らしきものは単純だが、きわめて心もとない。
 なお、ついでに。つづく最後の第34章<人は自由に耐えられるか>について、この章の「骨格」をすでに分析している。
 →2307/『国民の歴史』⑥(2021.03.05)。
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  本筋に戻ると、西尾幹二はヒトラー・ナツィス時代についてもだが、ドイツの歴史に関する基礎的な素養に欠けている、と見られる。
  したがって、ナツィスの「犯罪」に触れても、これと別個にソ連・ボルシェヴィキ体制による「大量虐殺」に論及することはあっても、ヒトラーと共産主義、ヒトラーとレーニン・ロシア革命、ナツィとボルシェヴィズムの関係、異同を問うという姿勢とそれにもとづく分析は、全くと言ってよいほど存在しない。
 西尾はナツィのホロコーストは「大犯罪」だと当然視するが、「歴史」家らしく装いたいならば、いったいなぜそのような事象が起きたのかを、とくに先行したロシア革命やボルシェヴィキ体制の確立との関係にも目を向けて、もっと関心を持って追及すべきではなかったのだろうかか。
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  さて、<歴史家論争>の有力な当事者だったErnst Nolte には、この論争に関係する、さしあたりつぎの二著がある。邦訳書はないが、刊行年で明確なように、西尾幹二が1999年著で<ホロコーストと戦争犯罪>を書いたときよりも前に出版されている。
 ① Ernst Nolte, Das Vergehen der Vergangenheit -Antwort an meine Kritiker im sogenannten Historikerstreit (Ulstein, 1987). 計493頁。
 (直訳—<過去の経緯・いわゆる歴史家論争での私の批判者たちへの回答>)
 ② Ernst Nolte, Streitpunkte -Heutige und künftige Kontroversen um den Nationalsozialismus (Propyläen, 1993). 計191頁。
 (直訳—<争点・国家社会主義をめぐる今日と将来の論議>)
 上の二つと違って所持はしていないが、この論争の個別論考等を一巻の書の中にまとめている資料的文献として、つぎがあるようだ(正確には知らない)。
 ③Piper Verlag(Hrsg.=編), Historikerstreit: Die Dokumentation der Kontroverse um Einzigartigkeit der nationalsozialistischen Judenvernichtung, 3.Aufl. 1987.
 西尾の1999年の文章よりも前。「国家社会主義によるユダヤ人絶滅の
Einzigartigkeit(唯一性、独自性、特別性)」に関する論争だったとこの書の編集者は理解しているようだ。
 なお、表題からすると、どちらかというとErnst Nolte の支持者によるようだが、つぎの書物(冊子)も、のちに刊行されている。
 ④ Vincent Sboron, Die Rezeption der Thesen Ernst Nolte über Nationalsozialismus und Holocaust seit 1980(Grin, 2015). 計16頁。
 これには、Ernst Nolte とJürgen Herbermas の主張の「要旨」または「要約」が掲載されている。
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  西尾幹二がドイツの新聞や雑誌に日常的に接していれば、この<歴史家論争>に気づかなかったはずはない。実際には彼は、1980年代〜1990年代のドイツ国内での議論に全くかほんど関心を持っていなかった、と推測できる。
 戦後直後のK. Jaspers の本(1946年)に比較的長く言及しているくらいだから、主題に関する資料的・文献的素材の限定性・貧困性ははっきりしている。
 なお、すこぶる興味深いのは、西尾の基本的論調は、ドイツの中ではErnst Nolte(保守)ではなくJürgen Herbermas〔左・中)により親近的・調和的だ、ということだ。
 上の点はさておき、本来の副題は「ドイツに詳しいか」だった。
 西尾幹二は、ドイツに全く詳しくない。ついでに、これは、川口マーン恵美についても同様。
 西尾という「ハダカの王様」に対しては、「ハダカ」だ、と正確に、きちんと指摘しなければならない。<いわゆる保守>にもあるに違いない「権威主義」らしきものを無くさなければならない。「知的に誠実」であろうとするかぎりは。
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  Ernst Nolte はホロコーストの存在自体を否定しているのではない。
 例えば、1917年・ロシア革命の「成功」、1923年・ヒトラーのミュンヘン一揆の「失敗」という時系列的な関係がある。そしてノルテは、ドイツ(・ナツィス)に対するソ連(レーニン・スターリン)の影響を、より多く問題視したいのだ(少なくとも一つはこれだと)と勝手に推察している(ある程度は読んでいるが)。
 第三帝国とロシア革命・ソ連の間には、1917年4月のレーニンのスイスからのドイツ縦貫「封印列車」によるロシア帰還を含む財政援助等から始まる長い歴史がある。また、ロシア革命前後に、国際的ユダヤ人組織の陰謀についての「偽書」がドイツでも流布され、現実的影響をもった、ともされる(<シオン賢者の議定書>)。さらに、コミンテルン指揮下のドイツ共産党が社会民主党<主敵>論をとって共闘・統一行動しなかったことは、ヒトラーの政権掌握を「助けた」。
 むろん、西尾幹二にはこの時代の歴史に関する基礎的素養はない。
 少しでも記しておこうかと、すでに試訳しているR・Pipes の書物の一部(ボルシェヴィキの「戦術」をヒトラー・ナツィスは「学んだ」という旨の叙述を含む)を見ていたりしていたが、長くなるので、ロシア革命とその後のロシア・ソ連全体を振り返る場合のために、残しておこう。
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2401/L·コワコフスキ・Modernity—第一章⑤。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 L・コワコフスキにつぎの著があり、邦訳書もある。L. Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing ?(2004,英訳2007)=藤田祐訳・哲学者は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 この著は30名の(西欧の)哲学者・思想家を「簡便な(人名)辞典」ふうに概括したものではなく、長々とした文章によらずして、一定の関心をもって論評している(この書の緒言も参照)。
 多数の文献を読み込んでいることは、そのマルクス主義に関する大著でも(日本ではほとんど名を知られていないポーランドや東欧の哲学者を含めて)見られるが、以下でも、その一端は見られる。
 欧米の哲学者・思想家を読んでもおらず、従って当然に言及することすらできない者でも、日本では「知の巨人」と称されることがある(国書刊行会ウェブサイト参照)。不思議なことだ。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ⑤。
 (19)しかしながら、我々の文化で何がModernityを表現しているのか、何が反modern の抵抗を表現しているのかに関して判断する場合に、我々は慎重でなければならない。 
 歴史的経験から、我々は、文化の進展上で新しいものはしばしば古いものを装って出現してくることを、知っている。逆もまた然りだ。—古いものが簡単にいま流行している服装を着ているかもしれない。
 改革とは、明白にかつ自己で意識しつつ、反動的だ。宗教改革の夢は、世俗的理性の成長のもとで、キリスト教という制度的形態をとりつつ、神学上の数世紀にわたる発展が生んだ堕落した影響を逆転させることだった。また、十二使徒の時代の信仰の初期の純粋さを回復することだった。
 しかし、宗教改革は実際には、知的かつ道徳的権威の淵源として積み重ねられてきた伝統を排除することによって、その意図とはまさに正確に反対の運動を勇気づけた。
 宗教改革は、宗教的諸問題の理性的な研究の精神を解放した。それは理性を教会や伝統から自立したものにした—そうでなければ激しく攻撃した—からだ。
 空想的なナショナリズムはしばしば、今は喪失したが前産業世界がもった美しさを、郷愁をもって追求するものだった。しかし、<過去>(praeteritum)を称揚することによって、ネイション〔国民〕国家の考え方という、著しくmodern な現象の発生に大きく貢献した。
 そして、ナツィズムという見事にmodern な産物は、その非現実的空想が怪物的に再生したものだった。それによって、「伝統的合理性」という軸の上で我々は適切にmodernityを測ることができるという考えをおそらくは反証明した。
 マルクス主義は、同じく古風な共同体への慕情とともに、紛れもなくModernity を求める熱狂、合理的組織化、科学技術の進歩の、混合物だった。そして、未来の完璧な社会の夢想的期待へと行き着いた。その世界では、いずれの価値の組み合わせも用いられ、調和のとれた混ぜ物となる。つまり、modern な工場とアテネの公共広場が何とか一つに融合するだろう。
 実存主義哲学は、きわめてmodern な現象だと見えたかもしれない—その語彙と概念上の網状回路において—。だが、今日の観点からすると、進歩を強く主張する新しい世界に直面している、そのような個人の責任という理念の正しさを再び証明しようとする絶望的な試みだった。その世界では、人間個々人は自分たちの合意のもとで、社会的、官僚主義的、または技術的諸集団がそれらを表現する匿名のメディアにすぎなくなり、人々は社会の非個人的作業の無責任な装置に変えられていることに気づかずに、自分たちの人間性を奪ってしまっている、というのだ。//
 (20)同様に、歴史の「狡猾な理性」もおそらく作動を停止しなかった。そして、何人も、集団的生活に対して自分自身がModernityの脈絡で寄与しているのか、それともその反動的抵抗として寄与しているのか、について推測することができず、まして確信をもって言うことはできない。さらには、どちらが支持するに値するのか否か、についても。//
 (21)つぎのような考えに慰めを探し求めることができるのかもしれない。文明は自ら切り抜けることができ、自己修正メカニズムを動員させることができ、あるいは、自己の成長に対する致命的効果と闘う反対機構を産出することができる、という考え。
 だが、このような考えに至るとしても、経験からして、全く安心できるものではない。結局のところは、病気の兆候はしばしば有機体の自己回復の試みなのだけれども。
 我々のほとんどは、身体が外部の敵と闘うために採用している自己防衛装置の結果として死ぬ。
 反対機構は、死ぬこともあり得る。
 したがって、自己調整の予見し得ない代価として、追求した平衡を回復する前に文明は死んでしまうかもしれない。
 我々のModernity への批判は—Modernityは工業化の進展と連関している、またはおそらく工業化の進展に動かされているという批判は—Modernity とともに始まった、そしてその批判はそれ以来広がり続けている、ということは疑いなく正しい。
 18世紀-19世紀に大きな危機はあったが—Vico、Rousseu、Tocqueville、ロマン主義者—、それは別として、操作の対象になりやすい<大衆社会>(Massengesellschaft)における意味の継続的的喪失を指摘し、非難する多くのすぐれた思想家たちがいることを、我々は知っている。
 フッサール(Husserl)は哲学的用語を用いて、modern科学がそれ自体の対象を意味をもって特定できないこと、事物を我々が予見し統制できる力を向上させるが、理解できないままの現象主義的厳密さで満足していること、を攻撃した。
 ハイデガー(Heidegger)は、我々の出自の根源を形而上学的洞察が忘却している非人格的なものに見出した。
 ヤスパース(Jaspers)は、見かけは解放されている大衆の道徳的、精神的受動性を、歴史的な自己意識の低下、その結果としての責任ある主体性の喪失や信頼の上に個人的関係を築く能力の喪失と関連づけた。
 オルテガ(Ortega y Gasset)は、芸術や人文学での高い水準の崩壊は知識人たちが大衆の低い嗜好に適合するのを強いられた結果だ、と指摘した。
 フランクフルト学派の者たちも、表向きはマルクス主義の語彙を用いて、同じようなことを行った。//
 ——
 ⑥へとつづく。

2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 西尾幹二が影響を受けたと2019年著でも明記しているニーチェに関する記述が興味深い。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ④。
 (16-02)ニーチェの破壊的熱情は、中産階級の上辺だけの精神的安全性に大恐慌をもたらし、神の死の目撃者となるのを拒否している者たちの虚偽の信仰だと彼が考えたものを粉砕した。
 ニーチェは、現実に起きていることに気づくことができない、そういう人々の偽りの精神的安定を情熱的に攻撃することに成功した。なぜなら、最後に至るまでの全てを語ったのは、彼だったからだ。すなわち、世界は意味も、善悪の区別も生み出さない。
 現実は無意味だ。そして、その背後に別の隠された現実があるのでもない。
 我々が現に見ている世界は最終通告(Ultimatum)だ。
 我々に対して伝えようとする言葉はない。何にも言及しない。
 自己を消滅させ、何も聴こえず、何も発声しない。
 これらは語られなければならなかった。そして、ニーチェは、この絶望状態での解決方法または救済策を発見した。解決するのは、狂気だ。
 大して多くのことは、ニーチェの後でその提示した方向では、言うことができなかっただろう。//
 (17)Modernity についての予言者になるのは、ニーチェの宿命だったように見えたかもしれない。
 実際には、彼は曖昧すぎて、その責務を果たせなかった。
 一方で、彼は監禁されながら、取り返しのつかない知的および道徳的なModernity の結末を断言し、古い伝統から何らかの救済を得ようと臆病に望んでいる者たちを嘲笑した。
 他方で彼は、Modernityへの、進歩の苦い収穫物への恐怖を非難した。
 彼は、自分が知って—かつ語って—怖れ慄いたものを受容した。
 彼は、キリスト教の「ウソ」に対する科学の精神を称揚した。しかし、同時に彼は、民主主義的平準化の悲惨さから逃れようと欲し、粗野な天才という理想に避難場所を見つけようとした。
 だが、Modernity が望んだのはその卓越性に満足されることであり、疑念と絶望によってバラバラに引き裂かれることではなかった。//
 (18)ゆえに、ニーチェは、我々の時代の明快な正統説(explicit orthodoxy)にはならなかった。
 明快な正統説は、なおもつぎはぎで成り立っている。
 我々のModernity を主張しようとしつつ、我々は多様な知的な仕掛けを用いてその努力から逃れようとしている。意味は人類の伝統的な宗教的遺産とは別個に復活し回復され得るのであり、Modernity によって生じた破壊にもかかわらずそうだ、と納得していたいがために。
 いくつかの判型のリベラルなポップ神学(pop-theology)が、この作業に寄与している。
 いくつかの多様なマルクス主義も、同様だ。
 どの程度長く、またどの範囲まで、妥協のためのこの作業が成功し得るのかは、誰も予見することができない。
 しかし、先に述べた、世俗性の危険に知識人層が覚醒することは、我々が置かれている現在の苦境から抜け出す、期待できる通路であるとは思えない。そのような考察が間違っているからではなく、我々人間は、一貫しない、操作可能な精神をもって生まれている、と疑ってよいからだ。
 知識人層にあるのは、人騒がせに絶望的になる何かだ。その知識人たちは、宗教的愛着心、信仰心、あるいは忠誠さそのものをもたないが、我々の世界における宗教のもつかけがえのない教育的、道徳的役割を執拗に主張し、自分たちがまさに代表的な目撃証人であるそれらの脆弱さを嘆き悲しんでいる。
 私は、無信仰であるとか、あるいはひどく苦しい宗教的経験の価値を擁護しているとか、いずれの理由でも、彼らを責めはしない。
 ただ、彼らの作業が彼ら自身が望ましいと考える変化を生み出し得るのかについて、納得することができないだけだ。なぜなら、信仰心を広めるために必要なのは信仰であり、信仰心の社会的効用という知識人たちの主張ではないからだ。
 人間生活における宗教的なものの位置に関するmodern な考察は、マキャベリ(Machiavelli)の意味での、あるいは慈悲は愚者に必要で懐疑的不信が啓蒙された者には似つかわしいと認める17世紀の自由思想家たち(libertines)の言う意味での操作的巧妙さをもつものであってほしくはない。
 ゆえに、このような考察方法は、いかに理解しやすいものであっても、我々を以前の状態に置いたままにするだけではなく、その考察自体が、限定しようとしているのと同じModernity の産物なのだ。そしてそれは、憂鬱にもModernityがそれ自身に満足していないことを表現している。//
 ——
 ⑤へとつづく。


 L・コワコフスキ

2399/L·コワコフスキ・Modernity—第一章③。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ③。
 (10)Modernity の淵源をどの程度昔まで遡るべきかは、むろん、この観念で我々が何を意味させようと考えるかに依っている。
 かりに大事業、合理的計画、福祉国家、そして続いて起きている社会関係の官僚主義化がそれなのだとすると、Modernity の範囲は数世紀というよりも数十年の単位で測ることができるだろう。
 しかしながら、Modernity の基礎が科学にあると考えるとすれば、17世紀の前半に淵源があるとするのが適切だろう。その頃に、科学研究の基本的なルールが形成され、まとめられ、科学者たちは、—主としてガレリオと彼の継承者のおかげで—物理学は経験が伝えるものだと理解してはならず、決して完全には経験的状態に具現化されない抽象的なモデルを練り上げたものだと理解しなければならない、ということを認識した。
 だが、さらに過去へと遡って検証することは妨げられない。現代科学の最も重要な条件は、黙示録から世俗的な理性を解放しようとする運動だった。そして、人文学(art)の諸分野を中世の大学の神学のそれから自立させようという闘いは、その過程の重要な一部だった。 
 11世紀以降のキリスト教哲学から出てきた、自然の知識と神から得られる知識の区別こそが、その変わり目で、その闘いの観念上の基礎となった。
 そして、どちらが先だったかを決定するのは困難だろう。純粋に哲学上の知識の二つの領域の分離か、それとも知的な都市階層の者たちが自治の要求を獲得する手段となった社会的過程か。//
 (11)では、我々の「Modernity」は11世紀に投射させるべきで、聖Anselm とAbelard は(それぞれ無意識に、意図的に)その主唱者だったのか?
 このように拡張することに観念上の誤りは何もない。しかし、どちらもきわめて役立つというものではない。
 もちろん我々は、曖昧にしたままで、我々の文明の根源を跡づけようとすることができる。しかし、我々の多くが取り組んできた問題は、いつModernity は出発したかではなく、—明示的に表明されているかは別として—現代に蔓延する<文化のうちの不快感>(Unbegahen in der Kultur)の核にあるのは何か? だった。
 ともあれ、Modernity という言葉が有用なものであれば、前者の疑問の意味は、後者への回答に依存していなければならない。
 そして、自然に心の裡に浮かんでくる前者の答えは、もちろん、Weber 的な<暴露(脱魔法化)>(Entztäuberung)—魔力からの解放(disenchantment)—、あるいは同じ現象を大まかに表現する何らかの類似の言葉にある。//
 (12)我々は、いわゆる西洋文明の世俗化、表向きは宗教的遺産の進歩的な霧散、かつ神なき世界の悲しい光景、のもつ破壊的影響に関する今日の議論を追ったりそれに参加したりして、圧倒的でかつ同時に屈辱的な既視(deja vu)の感覚を経験する。
 我々はまるで突然に目覚めて、慎ましくて必ずしも高い教養をもっていない聖職者がこの3世紀の間に見ている—そして我々に警告している—事態を、そして彼らが毎日曜日の訓話で繰り返して非難してきた事態を、感知しているようだ。
 彼らは信者たちに、神を忘れた世界は善と悪の区別自体を忘れ、人間生活を意味のないものにし、虚無主義(nihilism)に陥った、と語りつづけた。
 今では、社会学的、歴史的、人類学的な知識をいっぱい身につけて、我々は、同じ単純な叡智を発見している。その叡智を我々は、僅かばかり洗練された語句を用いて表現しようとしているのだが。//
 (13)古くて単純であっても叡智は必ずしも真実ではなくなることはない、と私は認める。そして実際に私は、真実だと考える(いくつかの条件付きで)。 
 Decartes〔デカルト〕は最初の、かつ主要な元凶だったのか?
 たぶん、そうだ。彼は哲学的に、彼の以前から既に進んできていた文化的趨勢を集大成(codify)した、という仮定条件のもとであっても。
 彼は、明らかに—あるいはそう思えるのだが—、つぎのことを行うことで、Cosmos〔体系的宇宙〕という観念を、そして自然の目的ある秩序という観念を、排除した。物質を拡張物と同一視することで、したがって物理的な宇宙(universe)の現実の多様性を廃棄することで、この宇宙を若干の単純な、かつ全てを説明し得る力学法則に従わせることで、そして神を論理的に必要な創造主と支援へと変えることで—しかし、経常的で、そのためにどんな個別の事案も説明するという意味を奪われた支援。
 世界は魂のない(soulless)ものになった。そして、この前提条件のもとでのみ、modern 科学は進展することができた。
 奇蹟も、神秘も、事態の推移への神聖なまたは悪魔的な干渉も、もはや想定することができなくなった。
 古くからのキリスト教の叡智といわゆる科学的世界観の間の衝突を取り繕おうとする、のちの継続的な努力の全ては、この単純な理由で説得力がなくなるのを余儀なくされた。//
 (15)たしかに、この新しい宇宙(universe)の意味が明らかになっていくのには時間を要した。
 大量の自覚的な世俗主義は、比較的に近年の現象だ。
 しかしながら、我々の現在の見通しから言うと、容赦なく教養ある階層に進行している信仰心の風化は、避けることができないように見える。
 信仰心は残存し得ているかもしれないが、多数の論理的仕掛けによる合理主義の侵食から僅かにしか守られておらず、無害でかつ無意味だと思える片隅へと追いやられている。
 何世代もの間、多数の人々が、自分たちは二つの両立し難い世界の住人であることを認識しないで生きることができた。かつまた、一方では進歩、科学的真実およびmodern 技術を信頼しながら、薄い貝殻でもって信仰心という慰みを守っていくことができた。//
 (16-01)この貝殻は、やがて破壊されることとなった。最終的に破壊したのは、ニーチェ(Nietzche)の荒々しい哲学的ハンマーだった。
 ——
 ④へとつづく。

2398/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第一部・旧体制下のロシア…第1章〜第4章。
 第二部・権威の危機(1891-1917)…第5章〜第7章。
 第三部・革命のロシア(1917.2-1918.3)…第8章〜第11章。
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師④。
 (14)通常の「ブルジョア的」設定を取り払って街頭、工場、兵舎に舞台を移すことで劇場を大衆にとってより身近なものにする、類似の試みが行われた。
 劇場はこうして、アジプロ(agitprop、煽動的宣伝)の一形態になった。
 その意図は、演者と観客の間の障壁を破壊し、劇場を現実と分ける舞台と客席の境界線(proscenium)を消し去ることだった。
 これら全ては、のちにBrecht が好んだMax Reinhardt によって開拓された、ドイツの実験劇場の技巧を採用していた。
 Meyerhold やその他のソヴィエトの監督たちは、観衆が演劇に対する反応を声に出すよう勇気づけることによって、観衆の感情を革命の教訓的寓話へと引き込もうとした。
 新しい演劇は、国家的次元と私的な人間生活の局面の両方での革命的闘争に光を当てて、強調した。
 登場人物は粗雑で非現実的な徴標だった。—山高帽をかぶる貪欲な資本家、Rasputin 的鬚を生やした極悪な聖職者、そして誠実で簡素な労働者。 
 こうした演劇の主要な目的は、革命の「敵」に対する大衆の憎悪を掻き立てて、人々を体制のもとへと結集させることだった。
 1924年にEisenstein が上演した、そのような演劇の一つの<モスクワのことを聞いているか?>は、ドイツの労働者がファシストの牙城へと突撃する場面が演じられる最終幕で、観衆たち自身がそれに参加しようとする感情を掻き立てる、というものだった。
 殺害されるファシストたち全員が、激しい喝采で迎えられた。
 観衆の一人は、ファシストの愛人役の女優に向かって、銃砲を弾こうとすらした。隣席の者たちが彼を正気に戻らせたけれども。//
 (15)街角劇場の最も壮麗な例は、十月蜂起三周年を記念して1920年に上演された、<冬宮への突撃>だった。
 この大衆的な見せ物は、—いずれにせよつねに混同されていた—演劇と革命の区別を消滅させた。
 1917年の革命劇が演じられたペテログラードの街路は、今や劇場に変わった。
 重要な光景が、宮廷広場の巨大な舞台で再演された。
 冬宮の多数の窓には、内部の異なる場面を順番に明らかにできるように、照明が灯された。そして、冬宮自体が、舞台の一部となった。
 <オーロラ>〔戦艦・巡洋艦〕は主役を演じた。ネヴァ(河)から大砲弾が放たれて、宮廷急襲を開始する合図となった。あの歴史的な夜に、実際そうだったように。
 実際の蜂起に参加した数よりもおそらく多い、1万人の役者たちがいた。彼らは、古代ギリシャの劇場の合唱団のように、革命という偉大な考えを人民の一つの行為として具現化すべく登場した。
 概算で10万人の観衆は、宮廷広場から、繰り広げられる行動を見つめた。
 彼らはケレンスキーのおどけた人物を嘲笑し、宮廷への攻撃中は大いに喝采を浴びせた。
 これが、偉大なる十月の神話の始まりだった。—Eisenstein が「記録ドラマ」映画の<十月>(1927年)で見せかけの事実(pseudo-fact)へと変えた神話。
 この映画の中の諸映像は、今なおロシアと西側の両方で、革命の本当の写真だとして、書物の中で再生産されている。//
 (16)芸術もまた、街頭に持ち出された。
 構成主義者たちは、芸術を美術館から取り出して日常生活に送ることについて語った。
 Rodchenko やMalevich を含む彼らの多くは、衣類、家具、事務所、工場を彼らの言う「産業スタイル」を強調してデザインすることに努力を傾注した。—単純な意匠、原色、幾何学的模様、直線。彼らは、これら全てが人々を解放しかつより理性的にするだろうと考えた。
 「対象だけではなく家庭の生活様式全体を再建設する」ことが自分たちの狙いだ、と彼らは言った。
 Chagall 、Tatlin のような何人かの指導的なアヴァン-ギャルド絵画家、彫刻家は、「煽動芸術」(agitation art)へと手を伸ばした。—建物や電車の装飾、五月一日や革命記念日のような多数の革命的祝祭のためのボスターのデザイン。このような祝祭日に、人々は、集団的な喜びと感情を示す公開の展示物によって団結するものと想定されていた。
 街じゅうが文字通り赤く塗られた(ときには樹木すら)。
 彼らは、彫像や記念碑を通じて、街路を革命の美術館に、新体制の力とその威厳の生ける聖像に、変えようとした。それらは文字能力のない者にも感銘を与えるだろう。
 国家による自己神聖化のためのこのような行為には、何も新しさはなかった。つまり、帝制体制も全く同じことをした。
 ロマノフ家により1913年に王朝300年を記念して建設されたクレムリンの外側のオベリスクは、レーニンの指令にもとづいて維持された。これは、じつに見事に皮肉なことだった。
 ツァーリ体制の碑文は、16世紀にまで遡る「社会主義的」祖先たちの名前で書き換えられた。
 その中に含まれていた名前には、Thomas More、Campanella、Winstanley があった。(*23)//
 (17)言い得るかぎりで、こうしたアヴァン-ギャルド芸術の実験のいずれも、心性や精神を変えるには少しも有効でなかった。
 左翼芸術家たちは、例えば大衆のための新しい美意識を創出していると考えたかもしれない。しかし、自分たちのための新時代的な美的感覚を作り出していたにすぎなかった。たとえ、「大衆」のうちにある何かを、彼ら自身の理想の象徴として表現していたのだとしても。
 労働者や農民たちの芸術的嗜好は、本質的に保守的だった。
 実際に、芸術問題についての農民の保守性を過大評価するのはむつかしい。1920年にボリショイ・バレェ団が地方を巡回旅行したとき、「<コルフェイ(coryphee)>が剥き出しの腕と脚を見せていることに深い衝撃を受け、呆れて上演から歩き去った」と言われている。
 現代主義芸術のこの世のものでない印象は、芸術を見知るのは聖像(icon)に限られていた人々にとっては、疎遠なものだった。(原書注記+)
 (+1930年代の社会主義リアリズムは、明らかにアイコンの性質をもち、宣伝としてははるかにより有効だった。)
 最初の十月蜂起記念日にVitebsk の街頭が飾られていたとき、Chagall は、共産党の職員からこう尋ねられた。「なぜ雌牛は緑色をしていて、なぜ馬は空を飛んでいるのか、どうして?
 マルクスとエンゲルスの結合とはいったい何のことだ?」
 1920年代の民衆の読書習慣に関する調査によると、労働者や農民たちは、アヴァン-ギャルド文学よりも、革命以前から読んできた、探偵小説や恋愛小説を好みつづけた。
 新しい音楽もまた同様に、成功しはしなかった。
 ある「工場コンサート」でのことだが、全てのサイレンと警笛が生み出す不協和音の騒音がひどかったために、労働者たちは、インターナショナルの旋律を識別することができなかった。
 コンサート会館や劇場は、最近に豊かになった、ボルシェヴィキ体制のプロレタリアたちで満たされた。—モスクワのボリショイ劇場には毎晩、彼らが噛んだヒマワリの種の殻が散らばっていた。だがなお彼らは、Ginka やTchaikovsky を聴きにやって来ていたのだ。(*24)
 芸術的趣味の問題となると、半ばの教養しかない労働者たちが望んだものは、ブルジョアジーにとって物まね芸がそうだった以上のものは何もなかった。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2397/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ほとんど行ってきていない試訳者自身のコメントを例外的に付す。試聴してみた Dmitri Shostakovich, Symphony #2 in B op.14("To October")のCDのクライマックス以降に労働者らしき人々の(途中から女声も入る)合唱があるが、下記の記述にある「口笛」は聴き取れなかったた。原作者による操作・変更なのか等は不明だ。「皮肉」と言うのも、適訳かは自信がないが、著者の判断・解釈だと思われる。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師③。
 (9)1917年の革命は、ロシアのいわゆる銀色の時代の半ばに起こった。銀色の時代とは今世紀の最初の30年間で、全ての芸術でアヴァン-ギャルド(avant-garde、前衛)が人気を博した。
 この国のすぐれた作家と芸術家たちはProletkult に参加し、その他の文化活動家たちは、内戦中にまたはその後で加わった。
 Belyi、Gumilev、Mayakovsky、Khodasevich は、教室で詩を教えた。Stanislavsky、Meyerhold、Eisenstein は、劇場で「十月革命」を実践した。Tatlin、Rodchenko、El Lissitsky、Malevich は、視覚的芸術の先駆者となった。
 一方で、Chagall はVitebsk の郷里の町で芸術人民委員にすらなり、のちにはモスクワ近郊の孤児の区画で絵画を教えた。
 こうした人民委員と芸術家の連結は、部分的には共通する原理的考え方から生まれた。すなわち、芸術には社会的課題があり、大衆と気持ちを合わせる使命がある、という考えだ。古いブルジョア的芸術に対する新時代的(modernist)な拒否感もあった。
 しかし、便宜的な恋愛関係でもあった。
 というのは、文化的活動家たちは、最初はあった条件にもかからわらずほとんど自立性を失っていたので、味気ない近年にはひどく必要となった追加的な配給や作業素材の供給は言うまでもなく、アヴァン-ギャルドに対するボルシェヴィキの経済的支援を、好都合なものだと見なしたからだ。 
 Gorky は、ここでの中心人物だった。—彼は芸術家たちにはソヴィエトの人間として、ソヴィエトに対しては指導的芸術家として振る舞った。
 1918年9月、Gorky は、Lunacharsky が率いる人民委員部による芸術や科学の分野の処理に協力することに同意した。
 Lunacharsky の側では、「ロシアの文化を救う」ためのGorky の種々の取り組みに最大限の支援をした。レーニンは、多くの困窮した知識人を雇っていた世界文学出版所から、歴史的建造物や記念碑の保存に関する委員会についてまで、そのような「些細な問題」に苛立っていたけれども。
 Lunacharsky は、Gorkyは革命の突風によって貴重なものが破壊されるという見込みを信用も恐れもしないで、不満を言いつつ完全に知識人層の陣営の中にいることが判ったと、愚痴をこぼした。//
 (10)アヴァン-ギャルドの虚無主義的な部分は、とくにボルシェヴィキに魅せられた。
 彼らは喜んで、古い世界の破壊にいそしんだ。
 例えば、Mayakovsky のような未来主義(Futurist)詩人たちは、ボルシェヴィキに身を投じて、ボルシェヴィキを「ブルジョア芸術」に対する彼らの闘いの同盟者だと見た(イタリアの未来主義者は、同じ理由でファシストを支持した)。
 未来主義者は、Proletkult 運動の内部で急進的な因習打破の方向を追求し、レーニンを激怒させ(文化問題についての彼の保守性)、Bogdanov やLunacharsky を当惑させた。
 Mayakovsky は、こう書いた。「胡椒博物館に弾丸を打ち込むときだ」。
 彼は「古い美的な屑」だとしてクラシックを拒否し、Rastrelli は壁にぶつけなければならない(ロシア語のrastrelli は処刑を意味する)と駄洒落を言った。
 Proletkult の詩人であるKirillow は、こう書いた。
 「我々の明日の名前で 我々はラファエル(Raphael)を燃やす。
 美術館を破壊し、芸術の花を押しつぶす。」
 これはおおよそは、知識人の空威張りであり、自分たちの才能がはるかに乏しいことに衝撃を受ける第二級の作家たちの、ヴァンダル人的(vandalistic、破壊者的)素振りだった。//
 (11)スターリンは、作家のことを「人間の精神の技師」(engineer of human souls)と叙述したことがあった。
 アヴァン-ギャルド芸術家たちは、ボルシェヴィキ体制の最初の数年の間に人間の本性の偉大な変革者になるものと想定されていた。
 彼らの多くは、人間の精神をより集団主義的にするという社会主義の理想を共有していた。
 19世紀の「ブルジョア」芸術の個人主義的前提を彼らは拒否した。そして、芸術表現の現代的様式を通じた異なるやり方で世界を見るように、人間の心性を鍛えることが自分たちはできると考えたのだ。
 例えば、モンタージュ(montage、合成)は断片的だが結合した映像でコラージュ(collage、寄せ集め)の効果をもち、見物者に対してサブリミナルな(subliminal、潜在意識上の)教育的効果をもつものと考えられた。
 Eisenstein は1920年代の三大宣伝映画で—<ストライキ>、<戦艦ポチョムキン>、<十月>—この技巧を用い、その技巧の上にその映画理論の全体を築いた。
 映画が生み出すと想定された「心理(psychic)革命」が、大いにもてはやされた。<特に優れた>現代芸術の様式は、現代人についての心理学のように、「直線と直角」および「機械の力強さ」を基礎にしていた。(*21)//
 (12)アヴァン-ギャルド芸術家たちは、「心理革命」の先駆者として、多様な実験的形態を追求した。
 このときにはまだ芸術に対する検閲はなく—ボルシェヴィキには他に多くの切実な関心事があった—、芸術には相対的に自由な領域があった。
 そのゆえに、警察国家で芸術上の爆発が起きるという逆説が生じた。
 こうした初期のソヴィエト芸術の多くには、現実的で永続的な価値があった。
 とくにRodchenko、Malevich、Tatlin といった芸術家たちのような構成主義者(Constructivist)は、現代主義様式に大きな影響を与えた。
 このことは、ナツィの芸術については、あるいはスターリン時代の芸術に流行した、社会主義リアリズムのぞっとするほどに途方もない悪趣味については、言うことができない。
 だがしかし、ほとんど不可避的に、アヴァン-ギャルド芸術家たちが抱いた実験的精神をもつ青年たちの熱い感情があったので、彼らの製作物の多くは、今日ではむしろ滑稽に(comical)思われるかもしれない。//
 (13)例えば、音楽の分野では、指揮者のいない交響楽団があった(リハーサルでも本演奏でも)。そうした交響楽団は、自由な集団的作業を通じて平等と人間性を実現するという考え方による社会主義様式の先駆者だと自認していた。
 工場でサイレン、蒸気原動機(turbine)や汽笛を道具として使ったり、電気的手法での新しい音響を創り出したりする演奏会を催す運動があった。これらは、労働者に近い新しい音楽的美意識を生み出すだろう、と考えた人々がいたようだ。
 Shostakovich は、疑いなくいつものように皮肉でもって、彼の交響曲第二番(「十月に捧げる」)の絶頂部に工場での口笛の音を加えることをして、楽しんだ。
 同様の奇矯さ(eccentric)は、社会主義的にするために著名なオペラの名前を変えたり、オペラの台詞を作り直したりすることにも見られた。
 <Tosca>は<コミューンのための闘い>となり、舞台は1871年のパリへと移された。<Le Huguenots>は<十二月主義者(Decembrists)>となり、ロシアが舞台とされた。一方、Glinka の<ツァーリのための生活>は、<槌と鎌>として書き換えられた。//
 ——
 ④へとつづく。

2396/西尾幹二批判028—ドイツに詳しいか。

  ドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)とフランスのフランソワ・フュレ(Francoir Furet)の往復書簡集を日本語に訳してみようと試みていたのが、もう5年前の2016年の夏だった〔後者は元フランス共産党員)。
 F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)。
 これには、つぎの、ドイツ語版と英語版とがあった(きっとフランス語版もあったのだろう)。
 ①Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Nähe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998).
 ②Francoir Furet = Ernst Nolte, Fascism & Communism (Uni. of Nebraska Press、2004/Katherine Golsan 英訳)。
 フュレのつぎの大著にノルテの著に関する長い注記があり、これには邦訳書もあり、上の往復書簡集でも最初に引用されていたりして、何とか<試訳>としてなら訳せるのではないか、とその当時は思っていた。
 Francoir Furet, Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995).
 =フランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)。計700頁以上。
 (この邦訳書の表題は、より正しくは<幻想の終わり-20世紀の共産主義(コミュニズム)>でなければならない、とも当時に記した。)
 試訳を3回でやめてしまったのは、読解と邦訳の困難さによる。
 書簡集と言っても純粋に私的なものではなく、のちに公表・公刊されることが予定されていたと見られる。
 それでも、建前としては「手紙」なので、フランスとドイツの歴史学者二人が書いていることの内容的なむつかしさは当然としても(主題は両国の歴史と<共産主義>だ)、勝手に想像して例示すると、<〜については、〜で書いたけど、といっても〜については十分ではなくて、とくに〜については言及したかったのが、それでも〜の点にしか触れることができなくて、ここであえて明確にしておくと、〜ということなのだが、それでもあなたは承服できないかもしれない、とくに〜の問題、—これは中心論点なのだが—については。>というような文章が、全てではないにせよ、混じっていて、ドイツ語文では、副文構造が何階層にも下にあるというところも少なくなく、とても試訳すらできないと、途中で放り出した。もうとっくに、再開する気はない。
 →第1回(2016.07.27)、→第2回(2016.08.09)、→第3回(2016.08.29)。
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  上の中でもE・ノルテは当然に触れているのだが、この往復書簡が始まる前に、ドイツでは<歴史家論争>(ドイツ語で、Historikerstreit)と呼ばれる「論争」が、雑誌・新聞紙上で、歴史学者・哲学者等を巻き込んで行われていた。
 この論争がどういうものだったか、手っ取り早く紹介するため、厳密な的確さに留保はつけつつ、英語版のWikipedia とドイツ語版のWikipedia の書き出し部分(前文)だけを見てみよう。なお、興味深いことだが、日本語版には「(ドイツ)歴史家論争」という項目自体が存在しない。
 英語版では冒頭に、「些細な詳細に立ち入った過度に多い分量」になっているとのWikipedia 編集部による注記または読者への警告が付いているほど長いものだ。以下は、あくまで、書き出し(前文)部分だけ。一文ごとに改行し、段落の区切りには//を付す。
 英語版—「Historikerstreit (ドイツ語。"historians' dispute")は、1980年代遅くに西ドイツで、保守派(consevative)と中央から左派(left-of-center)の学者およびその他の知識人の間で行われた、ナツィ・ドイツとホロコーストをどのように歴史編纂(historiography)へと、さらにはより一般的にドイツ国民の自己認識へと取り込む(incorporate)か、に関する論争。//
 Ernst Nolte が率いた保守的知識人の立場は、ホロコーストは〔ドイツに〕特有ではなく、したがってドイツ人は「ユダヤ人問題の最終解決」につていかなる特別の罪悪の責任(burden)を負うべきではない、というものだった。
 Nolte は、ソヴィエト同盟の犯罪とナツィ・ドイツのそれとの間には道徳的な違いはない、そして、ナツィスはソヴィエト同盟がドイツに対して行ったかもしれないことの恐怖からそれと同じように行動した、と論じた。
 同様に、保守的歴史家のAndreas Hillgruber は、1944-45年の連合国の政策とユダヤ人に向けられたジェノサイドの間に道徳的違いはない。と主張した。
 他の者たちは、ナツィ時代の記憶を「標準化(normalize)」して、国民的な誇りの淵源とすることはできない、ナツィの宣伝を繰り返している、と論じた。//
 論争は西ドイツのメディアの注目を惹き、当事者たちは頻繁にテレビのインタビューに答え、新聞の特設記事欄に投稿した。
 この論争は、指導的人物の一人だったNolte が、2000年にコンラッド・アデナウアー科学賞を授与された2000年に、もう一度少しの間燃え上がった。//」
 ドイツ語版—「1988-89年の歴史家論争(Historikerstreit。Historikerdebatte, Historikerkontroverse、Habermas-Kontroverse とも言う)は、ドイツ連邦共和国での同時代史に関する論争で、争点はホロコーストの特異性(Singularität)や、これがドイツのアイデンティティを形成する歴史像にどのような役割を果たすべきかという問題だった。//
 端緒となったのは1986年6月のErnst Nolte の論文で、これは、レトリックの問題の形態でのホロコーストは、ソヴィエト同盟での先行する大量犯罪や収容所システムに対する国家社会主義者たちの反応だった、と論じた。
 哲学者のJürgen Habermas は、このような、また別の三人のドイツ連邦の歴史家の出張を、ドイツの国民(national)意識を「脱道徳化する過去」でもって揺り落として書き換える「修正主義」だと批判した。
 これに対して、多くのドイツ歴史家、ジャーナリズムおよび関心をもった著者たちが読者投稿や新聞論考で反応した。これらはのちに一冊の書物となって出版された。
 この論争は、約一年間つづいた。//」
 --------
  さて、西尾幹二は、もともとはニーチェの研究者として出発したこともあり(その研究で博士号を得たと見られる)、ドイツの哲学や歴史学の状態に通暁している、という印象がないではないだろう。
 しかし、おそらく間違いなく、西尾幹二は、ニーチェ以外のドイツの「哲学者」についてはほとんど何も知らない。マルクス+ニーチェ=「フランクフルト学派」と簡単に図式化する論者がいることも知らないだろう。
 西尾の著にはハイデガーの一部(退屈論)が紹介されることはあっても、まさにドイツの都市名を冠する「フランクフルト学派」やハーパーマスに言及されていることは、おそらく一切ない。
 なお、上にも出てくるJ・ハーバマスは「フランクフルト学派」の後半または最後の世代とされるが、アドルノらと基本的な次元で同様の議論をしているのではないと見られる(それでも、上記の論争でも「保守」・ノルテに対抗した有力な「左派」ではあつた)。
 しかもまた、西尾はドイツの歴史学全般に通暁している、という印象を与えている可能性も高い。
 西尾幹二は戦後の東京大学文学部独文学科出身で、自身の言葉では、哲・史・文」(哲学・歴史・文学)の全体を「教養の柱とする…理想」を持ってきたと、「ニーチェ研究者」、「ニーチェ専門家」ではむしろない、という脈絡の中で述べている。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)、p.354-6参照。
 しかし、西尾がまさに戦後ドイツの、かつまた1980年代後半という<対ソ連冷戦終了>の直前の時期に、おそらくはドイツ(西ドイツ)国内ではたんなるアカデミズムを超えた、ドイツの「国民意識」にかかわる著名な上記の論争について、何か言及しているのを読んだことは一切ない。
 それどころか、のちに何回も1985年のドイツ大統領(ワイツゼッカー)演説を厳しく批判してきたが、上記の論争に、ノルテ等の見解に言及することはなかった。。
 かつまた1999年刊行の『国民の歴史』の最終章<人は自由に耐えられるか>の前の第33章を<ホロコーストと戦争犯罪>という表題にして、「戦後補償」の問題等について触れている。全集版、p.605〜p.618。
 しかし、まさに戦後の「ドイツ民族」・そのアイデンティティにかかわる、従って戦後の日本と日本「民族」の自己認識にとっても重大な関心を持って参照されてよいはずの、上の<歴史家論争>には(1999年時点ですでに10年ほど経過していても)一切触れていない。
 Ernst Norte にも(A. Hillgruber にも)何ら言及されず、Jürgen Herbermas の名もいっさい出てこない。
 きっと何のやましさも、恥ずかしさも感じないで、<ホロコーストと戦争犯罪>という表題をつけて何やら専門家らしく?、あるいは広い教養をもった文筆家として?執筆したのだろう。西尾が自らの代表著だとする二つのうちの一つが、この『国民の歴史』(1999年)だ。
 ああ、恐ろしい。ああ恥ずかしい。
 (つづく)
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2395/日本共産党「赤旗」読者の減少。

 <日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+>で知って、同日・7/08付の「しんぶん赤旗」(ネット上)で確認したが、日本共産党の「総選挙闘争本部」なるものは、つぎのように明記している。
 「6月は、全国が都議選勝利に大きな力を注ぎながら、総選挙準備にとりくみましたが、党勢拡大では、残念ながら入党の働きかけが1027人、入党申し込みが189人にとどまり、『赤旗』読者も、日刊紙1323人、日曜版4610人の後退、電子版74人増となりました。」
 興味深いのは、「『赤旗』読者も、日刊紙1323人、日曜版4610人の後退」という部分。
 2021年6月の一月で、「赤旗」日刊紙読者が1323人、日曜版4610人減少したと明記している。都議会議員選挙の前月、総選挙が今秋にはあるという6月であるにもかかわらず。
 読者数というのは実際に読まなくなったというのみならず〔実際にどの程度読まれているかなどほとんど明確にならないだろう)、購読(契約)の打ち切り数を意味すると思われる。
 あえて単純化してこれが1年続くとして計算すると日刊(本紙)・日曜版合計で、一年に約7万部減少することとなる(人=部として)。ご時世からして「電子版」への切り替えがあったとしても、この約7万減という数字に変わりはないだろう。
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 「しんぶん赤旗」が日刊・日曜版合わせて100万部を切ったと同党自らが明らかにしたのは、2019年後半だった(だろう)。
 最多時には350万部ほど発行していた(1980年代)。
 ソ連解体後の1994年の第20回大会頃でも、党員数を10万人ほど減らしながらたぶん約250万の発行部数はあった。
 そのとき(27年も前だが)と比べても、1/2以下。
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 しかし表向き少なくとも20万の党員はいるようだし、国会へも議員を送り込んでいる。自治体の議会議員についても少なくとも都や道府県・大都市ついては同様。
 いまだに「社会主義・共産主義」の社会の実現を綱領に明記する政党があること自体が不思議なのだが、1991年のソ連解体、ソ連・東欧に対する関係での「冷戦」終了後、すでに30年経った。
 日本共産党が弱体化の趨勢途上にあることは間違いないだろうが、その衰退傾向の速度は、早いのか遅いのか。
 党員数20万人だとすると、また「赤旗」日刊紙読者20万(日曜版が約80万)だとすると、月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanada 三誌の毎月の発行部数または熱心な読者数の合計よりも、間違いなく多いだろう。
 それでも少なくなった、と言えるのか?

2394/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
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 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師②。
 (6)Gorky、Bogdanov、Lunacharskyは1909年に、Capri 島の作家の別荘にロシアの労働者用の学校を設立した。
 13人の労働者(うち一人は警察のスパイ)が多大の費用を払ってロシアを密出国して、社会主義の歴史と西側文学に関する退屈な課程の講義を聴くべく座らされた。
 時間割以外の唯一の娯楽は、Naples(ナポリ)美術館へのLunacharskyの案内付旅行だった。
 1910年設立の二つめの労働者学校は、Bologna(ボローニャ)にあった。
 これらの教育の目的は、自覚のあるプロレタリア社会主義者のグループ—一種の「労働者階級知識人」—を作ることだった。このグループは、彼らの知識を労働者たちに普及し、革命運動が自分たちの文化革命を創出するのを確実にするだろう。
 学校の創始者たちはVpered(先進)グループを形成したが、ただちにレーニンと激しい対立をした。
 革命に関する先進グループ(Vperedists)の考え方は、労働者階級の文化の有機的発展に成功が依存する、という意味で本質的にメンシェヴィキだった。
 これに対して、レーニンは、独自の文化的勢力としての労働者の潜在的能力を無視していて、紀律を受けた党のための一員としての役割を強調した。
 先進グループは、知識は、とくに技術は、マルクスが予言した歴史の駆動力であり、社会階層の相違は資産ではなくむしろ所有する知識による、とも主張した。
 かくして、労働者階級は、生産、配分と交換の手段の統制によるのみならず、同時に生起する文化革命によって解放されるだろう。文化革命は、労働者階級に知識の力それ自体をも付与するのだ。
 だからこそ、自分たちは労働者階級の啓蒙を行う。
 先進グループは最後に、異端派の装いすらもって、マルクス主義は宗教の一形態だと見なさなければならない、とも論じた。—神聖な存在としての人間性と聖なる精神としての集団主義を伴う宗教だ。
 Gorky は、その小説の<告白>(1908年)で、この人間主義的(humanistic)主題を強調した。その小説では、主人公のMatvei は、仲間たちとの同志愛を通じて神を見出す。//
 (7)1917年の後、指導するボルシェヴィキは以前よりもプレス関係の権力を持っていたが、文化政策は、党内のこれらかつての先進グループに委ねられた。 
 Lunacharsky は、啓蒙〔Enlightenment,文部科学〕人民委員になった。—この名称は、目標として設定した文化革命の発想を反映していた。そして、教育と芸術の両方を所管した。
 Bogdanov は、プロレタリア文化を発展させるために1917年に設立されたProletkult 機構(プロレタリア文化機構)の長となった。
 1919年までには8万人の構成員をもった工場の同好会や工房を通じて、この機構は、素人の劇団、合唱団、楽団、美術教室、創造的文筆場、労働者のためのスポーツ大会を組織した。 
 モスクワのプロレタリア大学と<社会主義百科事典>とがあった。
 Bogdanov は後者の出版物を将来のプロレタリア文明を準備するものと見ていた。彼の見方では、Diderotの<百科事典>が18世紀のフランスの勃興するブルジョアジーが自分たちの文化革命を準備する試みだったのとちょうど同じように。(*19)//
 (8)Proletkult 知識人たちは、Capri やBologna の学校でと同様に、育てようとする労働者たちに対して経済的支援をする姿勢をときおり示した。
 Proletkult がもつ基本的前提は、労働者階級は自発的に自分たち自身の文化を発展させるべきだ、というものだった。この点に、彼らが労働者たちのためにする意味があった。
 加えて、彼らが促進する「プロレタリア文化」は、労働者たちはこうあるべきだと想定する彼らの理想と比べて、労働者の現実の嗜好とはあまり関係がなかった。—大部分は寄席演芸(vaudeville)やウォッカで、彼ら知識人は俗悪なものだとしてつねに軽蔑していた。 
 彼らの理想たる労働者は、ブルジョア個人主義に毒されていない。生活や思考の様式が集団主義だ。冷静かつ真剣で、自己啓発的だ。科学とスポーツに関心をもつ。要するに、知識人たちが自ら想像する社会主義的文化の先駆者でなければならない。//
 ——
 ③へとつづく。

2393/L·コワコフスキ・Modernity—第一章②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 この前に試訳していた1999年の著でも、L・コワコフスキは、人の「好奇心」はヒト・人間という生物種の本性ではないか旨書いていた。以下にも似たようなことに触れている箇所がある。いずれにせよ、L・コワコフスキは我々が生物・動物の一種であるヒト・人間であることをつねに忘れてはいない(そしてマルクス主義に関する大著ではアインシュタインにも量子力学にも、哲学者としてのマッハにも論及する)・
 自然科学は「敵」だと明言し(西尾幹二)、あるいは「殺伐たる」自然科学(岩田温)としか評せられない日本の一部の<文学畑社会評論家>の視野狭窄、<観念肥大>・<現実無視>ぶりは相当にひどいもので、日本の現況には本当にげんなりする。一端に触れただけの、余計な前ふりだった。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・限りなく審判されるModernity②。
 (3)それでもなお、変化し続け、その変化にはふつうは十分な数の狂熱的な支持者がいる。
 古いものと新しいものの間の衝突はおそらく永く継続し続け、我々はそれから逃れようとはしない。構成物と進化の間の自然な緊張関係が示しているように。この緊張関係には生物学的な根源があるように思われる。
 我々は、この緊張関係は生(life)の本質的な特徴だと、考えてよいかもしれない。
 明らかに、いかなる社会も持続と変化の両方の力を経験することが必要だ。 
 既存のいかなる社会にもこれら二つの対立する力があるが、いずれかの相対的な強さを判断することのできる信頼するに足る手段を、何らかの理論が提供しているか否かは、疑わしい。そういう理論があれば、方向量(vector)のごとくそれらに加えたり減じたりして、それを基礎にして、予見する力をもつ発展の一般的図式を描くことができるだろうけれども。
 いったい何が一定の科学者たちに挫けることのない急速な発展を取り込む能力を与えるのか、何がその他の科学者たちをきわめて緩やかな発展の速度で満足させるのか、そして厳密にはいかなる条件のもとで発展または沈滞が暴力的危機または自己破壊を生むのか、について、我々はただ推測することができるだけだ。//
 (4)好奇心、つまり世界を危険や生理的な不快さに影響を受けることなく虚心坦懐に探査したいという別の衝動は、進化に関する学生たちによると、我々の種に特有の発生形態学的特質に根源をもつ。そして、そのゆえに、我々の種がその同一性を維持するかぎりは、我々の心性(minds)からそれを抹消することができない。
 パンドラの最も悲痛な事故と我々の祖先の楽園への冒険がいずれも証拠立てているように、好奇心という罪悪こそが、人類が遭遇した全ての厄災と不運の主要な原因だった。そしてそれは、疑問とする余地なく、人類の全ての偉業の根源でもあった。//
 (5)探査の衝動は、世界の文明の間に同じように配分されてはこなかった。
 何世代もの学者たちは、ギリシャ、ラテン、ユダヤ教、そしてキリスト教の淵源が組み合わさって出現した文明はなぜ、科学、技術、芸術、および社会秩序の変化を促進し、急速に伝搬し、加速させるのに独自に成功したのか?、と問うてきた。数世紀にわたってほとんど発展せず、稀にしか感知されない変化にのみ影響された多くの文化が残存したり、創造性の短期間の激発のあとで無活動の状態に陥ったりしたのだったとしても。//
 (6)満足し得る回答はない。
 どの文明も、多様な社会、人口統計、気候、言語、心理にかかわる環境が偶然に凝集したもので、その文明の出現や衰亡の一つの究極的原因を追求しても、成功する見込みはないように思える。
 つぎのような研究成果を示されても、その有効性には強い疑問を抱かざるをえない。
 例えば、ローマ帝国は上流階級の者たちの脳に毒を入れて損傷する鉛の鉢が普及したがゆえに崩壊した。宗教改革はヨーロッパでの梅毒の蔓延で説明することができる。
 他方で、「原因」を探そうとする誘惑に打ち克つのは困難だ。相互に無関係の説明できない要因で文明は勃興したり破滅したりする、と思ったとしても。同じことは、新種の動物や植物の出現について、都市の歴史的配置について、地球の表面上の山岳の配分について、あるいは特定の民族的言語の形成についても言える、と考えたとしても。
 自分たちの文明を見究めるために、我々は、我々自身を認識して、独特の集団的自己意識(ego)を把握しようとする。その集団的自己意識は、知覚するために必要であり、それが存在しないことは私自身の不存在が私にとってそうであるように耐え難いものだ。
 したがって、「我々の文明はなぜ現在のようであるのか」という疑問には答えが存在しないとしても、この疑問を我々の心から完全に排除することはできそうにない。//
 (7)Modernity それ自体は、modern でない。しかし、若干の文明では他の文明よりも modernityに関する衝突が明らかに顕著で、現在が最も深刻になってきている。
 Iamblichos は4世紀の最初に、ギリシャ人はその本性からして新奇さ(novelty)を好み、—野蛮人と対照的に—伝統を無視する、と述べた。
 彼はしかし、それを理由としてギリシャ人を褒めたのではなく、その反対だった。
 新奇さを好むという点で、我々は依然としてギリシャ人の後継者なのか?
 我々の文明は、<新しい>ものはその定義からして良いものだという(多言をもって表明されていないが確かにある)信念に、もとづいているのか?
 これは、我々の「絶対的な前提条件」なのか?
 こうした問題は、<反動的(reactionary)>という形容詞とふつう結びついた価値判断を、想起させるかもしれない。
 この言葉は明らかに非難の意を含んでおり、自分自身を叙述するためにこの形容詞を用いようとする人々はほとんどいない。
 だが、「反動的」であることは、いかに二次的であってもある側面のいくつかでは、過去は現在よりも良かったということを意味しているにすぎない。
 反動的であることは自動的に間違い(wrong)だということを意味しているとすれば、この形容詞はほとんどつねにそうした前提を伴って用いられることになる。—過去はどんな点についても今より良かったかもしれないと考えるのは間違いだ、ということになるように思える。これは、何であってもより新しいものはより良い、と言うことと同じだ。
 さらには、このような大胆な言い方では、我々の「進歩主義(progressism)をほとんど何も叙述していない。
 まさに<modern>という言葉にも、同じ曖昧さがつきまとっている。
 ドイツ語では、この言葉は「新しい(modern)」と「流行している(fashionable)」の二つとも意味する。だが、英語やその他のヨーロッパ言語はこれら二つを区別しない。
 ドイツ人は適切(right)なのかもしれない。
 だが、少なくとも二つの形容詞を使うことのできる文脈では、この区別がどのように境界づけされるのかは明瞭でない。
 確かに、ある場合には、これらの言葉は交換可能ではない。
 <moderm 技術>、<modern 科学>、そして<modern 産業経営>。これらの場合に、<流行している(fashionabe)>は当てはまらないだろう。
 しかし、<modern 思想>と<流行している(fashionable)思想>の違いを説明するのはむつかしい。同じことは、<modern 絵画>と<流行している(fashionable)絵画>の違い、<modern 服装>と<流行している(fashionable)服装>の違いについて言える。//
 (8)多くの場合には、<modern>という語は価値から自由で、中立的であるように見える。<流行している(fashionable)>という語と同じだ。すなわち、<modern>とは我々の時代を覆っているものだ。そして実際に、この言葉は、しぱしば皮肉たっぷりに使われている(チャップリンの<モダン・タイムズ>のように)。
 他方で、<modern 科学>や<modern 技術>という表現は、少なくとも通常の用語法では、<modern>なものはそれを理由をしてより良い、ということを強く示唆している。
 こうした意味の曖昧さはおそらく、すぐ前に述べたように、変化に対する我々の態度につきまとう曖昧さを反映している。変化は、歓迎されることもあるし、怖れられることもある。望ましくもあれば、呪詛されもする。
 多くの企業はその製品を、両方の姿勢を示唆する語句を用いて宣伝する。例えば、「良い、古い様式の(old-fashioned)家具」あるいは「おばあちゃんが昔作ったようなスープ」が、「全く新しいスープ」あるいは「洗剤産業界のわくわくさせる新製品(novelty)」とともに用いられる。
 二種の妙技が働いているようだ。
 おそらく宣伝広告の社会学は、どのようにして、どこで、なぜこうした矛盾する宣伝文句が成功したのかに関する分析を提供したのだ。//
 (9)<modernity>とは何かが明確ではないので、我々は近年は、<postmodernity>(いくぶん古い表現の<ポスト産業社会>、<ポスト資本主義>等を拡大したものか模倣だ)について語ることで問題を回避しようとしている。
 私はpostmodernism とは何でpremodern とどう違うのかを知らないし、知るべきだとも感じていない。 
 postmodern の後には何が来るのだろうか。
 ポストpostmodern、ネオpostmodern、ネオ・反modern か?
 名前の問題はさて措き、本当の疑問が残っている。
 すなわち、なぜ、modernity の経験と結びついた不快感がこうも広く感じられているのか? そして、この不快感をとくに大きくしている一定のmodernity の淵源はどこにあるのか? //
 ——
 ③へとつづく。 

2392/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第15章の第2節に入る。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ————
 第15章第2節・人間の精神の技師①。
 (1)伝説によると、1919年の10月にレーニンは密かに偉大な物理学者のパプロフ(I. P. Pavlov)の実験室を訪れて、彼の仕事が脳の条件反射ならば、それはボルシェヴィキが人間の行動を統御するのを助けるかと尋ねた。
 レーニンはこう説明した。
 「私は、ロシアの大衆を共産主義的な思考と反応の様式に従わせたい。
 過去のロシアには個人主義が強すぎる。
 共産主義は、個人主義的傾向を甘受しない。
 個人主義的傾向は有害だ。我々の計画を阻害する。
 我々は、個人主義を廃絶しなければならない。」
 パプロフは、愕然とした。
 レーニンは、犬に対して彼が既にしたことを人間に対してさせたいと考えているように見えた。
 パプロフは尋ねた。「ロシアの民衆を均一化(standardize)させたい、と言いたいのか? 全員を同じように行動させる?」
 レーニンは答えた。「そのとおり。人を矯正することはできる。我々が人に対して望むようにその者をさせることができる」。(14)//
 (2)実際にこうだったかはともかく、この物語は、一般的な真実を例証している。すなわち、共産主義体制の究極的狙いは、人間の本性を変形させることだった。
 その狙いは、戦間期の別のいわゆる全体主義体制によっても共有されていた。
 結局のところ、これが象徴した時代とは、人間の生活(life)を変化させる科学の潜在的能力に対するユートピア的楽観主義の時代であり、かつ同時に逆説的に、第一次大戦による破壊の後での人間の生活の価値に対する深い疑念と不確実さの時代だつた。
 ナツィ・ドイツの優生学運動の先駆者の一人は、1920年に述べた。
 「まるで人間性(humanity)という観念の変化を目撃してきているようにほとんど思える。…
 戦争がひどく差し迫ってきているので、個人の生活には以前とは異なる価値があると考えざるを得ない。」(*15)
 しかし、共産主義者の人間改造計画と第三帝国による人間工学の間には、決定的な違いがあった。
 ボルシェヴィキの計画は—マルクスよりもカントに由来する—啓蒙(Enlightenment)の理想にもとづいていた。この啓蒙の理想は、このポスト・モダンの時代でも、西側のリベラルたちが共感したもので、あるいは少なくとも、かりに政治的な目標は同一ではなくとも、それを理解するよう迫られたものだった。
 これに対して、「人類を改良する」ナツィの試みは、優生学を通じてであれ大量殺戮によってであれ、啓蒙というものを唾棄し、我々に嫌悪感だけを抱かせるものだった。
 大衆の啓蒙を通じて新しい類型の人間を創り出そうという考えはずっと、19世紀ロシアの知識人たちの救世主的(messianic)使命を示していた。その中から、ボルシェヴィキは出現した。
 マルクス主義哲学も同様に、人間の本性は歴史的発展の産物であり、従って革命によって変造することができる、と教えた。
 レーニンの青年時代のロシア知識人たちの間で宗教たる地位を占めていた、ダーウィンとハクスリーの科学的唯物論は、人間は生きる世界によって決定される、という見方を教えていた。
 かくしてボルシェヴィキは、革命は科学の助けで新しい類型の人間を創り出す、という結論に至っていた。//
 (3)レーニンとパプロフの二人は、Ivan Sechenov (1829-1905)に敬意を払った。この人物は生理学者で、脳は外部の刺激に反応する電子工学的装置だと主張していた。
 彼の著の<脳の反射>(1863)は、Chernyshevsky に大きな影響を与え、そしてレーニンに対してもそうであり、かつ条件反射に関するパプロフ理論の出発点でもあった。
 ここで、科学と社会主義が遭遇した。
 パプロフは歯に衣を着せず革命を批判し、しばしば国外逃亡を迫られたが、ボルシェヴィキによる経済的保護を受けた。(*)
 (*原書注記—パブロフはBulgakov の風刺の対象だったと結論づけたくなる。彼の<犬の心臓>(1925年)では、世界に有名な実験科学者はボルシェヴィキを軽蔑したが、支援を受けており、犬の脳と性的器官を人間へと移植した。) 
 2年の経歴ののち、パプロフは手厚い配給を受け、モスクワに広いアパートを得た。
 慢性的な紙不足があったにもかかわらず、彼の講義録は1921年に出版された。
 レーニンはパプロフの著書について、革命にとって「きわめて有意義だ」と語った。
 ブハーリンは、「唯物論という鉄の兵器庫からの武器だ」と評した。
 トロツキーですら、彼は総じて文化政策を詮索しなかったものの精神医学には多大の関心があったのだが、人間の再建造の可能性を、つぎのように熱心に語った。
 「どんな人物か? 彼は決して、完成されたもしくは調和のとれた人ではない。
 いや、いまだに臆病な人だ。
 生物としては計画どおりにではなく自発的に進化していて、多数の矛盾を蓄積している。
 どのようにして人間の肉体的および精神的な構成を鍛錬して統御し、改善して完成させたかは、とてつもなく大きな問題であって、社会主義を基盤にしてのみ理解することができる。
 我々はサハラを横断することができ、エッフェル塔を建設することができ、ニューヨークと直接に会話することもできる。しかし、我々はきっと、人間を改良することはできない。
 いや、できる!
 人間の新しい『改良版』を作り出すこと。—これが、共産主義の将来の任務だ。
 そのために、我々は、人間について、その解剖学的構造、生理学、および心理学と呼ばれる人間生理学の一部について、全てを先ず、解明しなければならない。
 人は自分自身を生の素材(原料、raw material)だと、あるいはせいぜいのところ半ば製造された産物だと見つめ、かつそう理解しなければならない。
 そして、こう言うのだ。『ああついに、私の大切な<ホモ・サピエンス>よ、私はきみの上で働くだろう』」(*16)//
 (4)革命の時期頃に流行した未来小説やユートピア冊子で描かれた新しいソヴィエト人は、機械の時代のプロメテウスだった。
 新ソヴィエト人は理性的な、紀律のある集団的人間で、生きている有機体の一細胞のように、最大の善という利益のためにのみ生きる。
 個人的な「わたし」の語法ではなく、集団的な「我々」の語法で思考する。
 ボルシェヴィキ哲学者のAlexander Bogdanow は、彼の二冊の科学小説、<赤い星>(1908年)と<技師メンニ>(1913年)で、21世紀のいつかに火星(Mars)にあるユートピア社会について叙述した。
 個人のあらゆる痕跡は「マルクス主義火星社会」では除去される。全ての仕事は自動化され、コンピータで稼働する。全員が性差のない衣服を着て、同じそっくりの住居に住む。子どもたちは特別の区画で養育される。
 異なる民族はなく、誰もが一種のエスペラント語を話す。 
 <技師メンニ>のある箇所では、主要な主人公の火星物理学者は、個人たる人間を創出した地球のブルジョアジーの使命を、社会の「原子を集めて」、それらを「単一の、知的な人間有機体へと融合する」という火星上のプロレタリアートの任務に喩える。(*17)//
 (5)集団を通じての個人の解放という理想は、ロシアの革命的知識人層にとっては基礎的なことだった。
 Gorky は、1908年に書いた。
 「『わたし』ではなく『我々』。—これが、個人の解放の基盤だ。
 そして最後には、人は世界の全ての富の、世界の全ての美の、人類の全ての経験の化身だと、そして精神的に全ての兄弟たちと同等の者だと、感じるだろう。」
 Gorky にとって、集団的精神の覚醒は、本質的に人間中心主義者(humanist)の責務だった。彼はそれを、啓蒙の公民(civic)精神になぞらえた。
 「ロシアは、文化革命の機会を逃してしまった」。
 彼の見方では、数世紀もの隷従制と帝制支配は「卑屈で鈍感な民衆」を育てた。受動的で 、進歩の影響を受けたくなく、 突如として破壊的暴力を爆発させがちだが、国家による強制がなければ建設的な国民的作業を行うことができない、そういう民衆を。
 要するに、ロシア人は、<nekulturnyi>、つまり「公民となっていない(文明化していない, uncivilized)」。積極的な公民であろうとする文化に欠ける。
 政治的および社会的革命が依って立つ文化的革命の任務は、この公民たる意識を培養することだ。
 Gorky の言葉では、その任務は「ロシア人を西側に並ぶよう駆り立てること」であり、「アジア的野蛮と怠惰の長い歴史」から彼らを解放することだった。(*18)//
 ———— 
 ②へとつづく。

2391/L·コワコフスキ・Modernity—緒言・第一章①。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。同(Encounter,1986)の修正つき再印刷だとされている(1990年版のp.3 の脚注)。
 この書を、冒頭から試訳する。邦訳書はないと見られる。 
 <Modernity>は訳しずらいので、そのまま用いる(小文字のmodernity も同様)。modern も、そのまま使うことがあるかもしれない。
 一行ごとに改行し、本来の段落を示すために原文にはない数字番号と//を用いる。
 -------- 
 緒言(Foreword)
 (1)この書物に収載された諸小論は、多様な場合に、様々な言語で、1973年から1986年の間に、書かれた。 
 この書で、何らかの「哲学」を提示するつもりはない。
 そうではなく、我々の文化、政治、宗教生活について語って完全に一致していようと努めるときにつねに立ち現れる、多数の不愉快で不可解なデレンマの指摘を試みて、ほんの少し哲学的な話をする。
 しばしばあることだが、矛盾に充ちた世界で最良のものを得ようとして、その結果、我々は何も得るものがない。
 それができずに、あるときに精神的資産を質入れしても、我々はそれを再び買い戻すことができず、一種の教条的(dogmatic)な不動の状態に嵌まり込んでいる。 
 我々は自分たちを森の中の宝捜し(tresure hunter)だと想像しているのかもしれない。しかし、森の中の伏兵を避けることに力を費やしているのであり、かりにそれがうまくいっても、成果はただ、伏兵を避けた、ということだけだ。
 もちろん純益はなく、我々が追い求めたものはない。//
 (2)ゆえに、この書の諸小論は、教訓を垂れるものではない。
 そうではなく、調和のうちに中庸さを求める訴えだ。—そして、私が多年にわたって多様な視座から見つめてきた主題だ。//
 (3)この書の文章は別々に、一つの書物としてまとめられて出版されるという考えなどなくして、書かれている。
 私はこのことに大して悩んではいない。なぜなら、—拘禁状態にある私を別とすれば—、いったい誰が、ともかくも全体を読み通すことができるほどに、我慢強いだろうか?
 レシェク・コワコフスキ
 1990年 3月 3日// 
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・限りなく審判されるModernity①。
 (1)ヘーゲルを—あるいはCollingwood を—信じるとすれば、時代も、文明も、それ自体を概念的(conceptually)に把握することはできない。
 それらが終焉した後で初めて、そうすることができる。そしてそのときでも、きわめて十分に知っているように、間違いのない把握や普遍的に受容されるような把握の仕方はあり得ない。
 文明に関する一般的形態論も文明の構造的特性に関する叙述も、いずれもひどく異論があり得るもので、大きなイデオロギー的偏見を伴っている。表現しているのは、過去と比較しての自己主張をする必要か、それとも自分の文化的環境の不安とそれによって生じている古き良き時代への郷愁か、そのいずれにせよ。 
 Collingwood は、どの時代にも多数の基本的な(「絶対的な」)前提条件(presuppositions)がある、だがその前提条件を明瞭に説明することはできず、その前提条件は典型的な反応と願望である明白な価値と信条に潜在的な刺激を与える、と説く。
 もしそうならば、そうした前提条件を古代や中世の祖先たちの生活のうちに見破り、おそらくはそれにもとづいて「心性(mentalities)の歴史」を築き上げることができるのかもしれない。
 しかし、ミネルヴァのふくろうはすでに飛び立って我々が黄昏時に、時代のまさに終末に、生きているのでないかぎり、自分の時代の前提条件を明瞭にすることは原理的にすることができない。//
 (2)そうなのだから、我々自身の精神的(spiritual)な基盤についての救い難い無知を受け容れよう。そして、我々の—この語が何を意味しているのであれ—「modernity」の表面を概観することだけで満足しよう。
 この言葉が何を意味していようと、確実に、modernity はmodernityに対する攻撃がそうであるほどにはmodern でない。
 「ああ、現代は、…」、「もはや…でない」、「昔は、…」といった嘆きの言葉や、腐敗した現在を過去の偉大さと対照させる同様の表現は、たぶん人類の歴史と同じ昔から見られる。
 聖書や<オデッセイ>に、そうした表現はある。
 永続的な住処を持った方がよいという愚かな考えに怒って抵抗する、あるいは車輪という邪悪な発明物のために人類の衰退が切迫しつつあると予言する、旧石器時代の遊牧民を、我々は想像することができるだろう。
 知られるように、衰亡と把握される人類の歴史は、世界の多様な地域で最も長く持続している神話的主題の一つだ。追放された者の象徴および五つの時代に関するヘシオドス(Hesiod)の叙述の両者を含めて。
 このような神話が頻繁に見られることは、考えられ得る社会的および認知的機能を別にすれば、人間に普遍的な、変化に対する保守的不信感を示しているし、また、よく考えれば「進歩」は少しも進歩ではないという疑念や、いかに利益となるように見えても、物事に関する確立した秩序の変化に順応することには気乗りがしないことも示している。//
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