秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/01

2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。

 <レフとスヴェトラーナ>という表題をつけて、この欄に13回かかって、第一章冒頭から第4章の4分の1までを試訳してきた(No.2171/2020.03.15〜No.2208/04.21、p.7〜p.72)。全体の二割以上はすでに超えている。
 いずれ明記しようとは考えていたその原書は、以下のとおり。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳=オーランド•ファイジズ・ただ言葉を送って—収容所での愛と生存の真の物語
 再開しようと思うが、この書物の著者のOrlando Figesによる序言(Preface)を試訳することから始めよう。段落の区切りを示すため、原書にはない数字番号を付す。
 この書物の性格、内容等のある程度が、すでに書かれている。
 この書物のカバー裏の筆者紹介によると、Orlando Figesは、<クリミア戦争>、<囁き>(以上、邦訳書あり—秋月)、<人民の悲劇>(ロシア革命史—秋月)の著者で、これらは20 以上の言語で翻訳された。特に挙げればWolfson 歴史学賞、LosAngelsTimes書籍賞を受けており、ロンドン大学Birkbeck 校の歴史学教授。
 まだ試訳を掲載していない<Epilogue >によると、この著者は、子どもも孫もいるレフとスヴェトラーナ夫妻に、2008年3月に会って話している。これ以上の言及は、当面は避ける。
 二人の学生時代のものと思われる写真は、すでにこの欄に掲載した(No.2203/2020.04.16 、原書p.180 とp.181の間にある)。
 以下は、表紙。

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 ——
 序言(Preface)。
 (01) 三個の古いトランクが届けられたばかりだった。
 それらは入り口の通路に置かれていて、人々が忙しい部屋に入るのを邪魔していた。その部屋で、公衆や歴史の研究者たち仲間をモスクワの記念館オフィス(offices of Memorial)が受け入れていた。
 私は2007年秋に行って、そこにいる、人権組織研究部門の何人かの仲間を訪れた。
 トランクに私が関心を持ったことに気づいて、それらの中には20年間存続している記念館が受け取ったうちで最大の個人的な(private)資料がある、と教えてくれた。
 その資料は、レフおよびスヴェトラーナ・ミシュチェンコ(Lev and Svetlana Mishchenko) が持っていたものだった。この二人は、1930年代に学生として出逢ったが、1941-45年の戦争とその後にレフが収容所(Gulag)に収監されたことで引き裂かれることになった。
 誰もが私に言い続けたように、二人の愛の物語(love story)は尋常なものではなかった。
 (02) 我々は最も大きなトランクを開けた。
 そのようなものを私は見たことがなかった。糸とゴム輪で括られた束として積み重ねられた数千の手紙、ノート、日記帳、資料、そして写真。
 資料の最も貴重な部分は、三つめの最も小さなトランクにあった。それは、皮の飾りと簡単に爪で開けられる金属鍵のついた、茶色の合板ケースだった。
 我々は中にある手紙の数を判断できなかった—たぶん2000通だと推測した。但し、そのケースの重さは分かった(37キログラム)。
 手紙は全て、レフが Pechora の収監者でいた間にレフとスヴェトラーナが交換した愛の手紙(love letters)だった。Pechora 収容所は、ロシアの極北にある、スターリン時代の最も悪名高い労働収容所の一つだ。
 最初のものはスヴェトラーナが1946年7月に書き、最後のものはレフが1954年7月に書いていた。
 二人はお互いに、週に少なくとも二回書き送っていた。
 これは、かつて見出されたうちで、完全に最大の、収容所に関する貴重な資料だった。
 しかし、その手紙類が特筆すべきものであるのは、量によるだけではない。特筆すべきは、誰もその手紙類を検閲して妨害しなかった、という事実だった。
 手紙類は、レフに共感し同情する自発的な労働者や役人たちによって、労働収容所の内外へとこっそりと運ばれていた。
 手紙類の秘密の出し入れに関する噂は、収容所にある多数の俗話(folklore)の一つだった。しかし、この規模での非合法の郵便配達が行われていたとは、かつて誰も想像していなかった。
 (03) 多数の手紙は固く縛られていたので、私は隙間に指を差し込んで最初のものを無理して取り出さなければならなかった。
 それは、スヴェトラーナからレフに宛てて書かれたものだった。
 短い宛先は、こう読める。
  Komi ASSA
  Kozhva Region
  Wood-combine
  C(orrection)C(amp) 274-11b
  To Lev Glebovich Mishchenko
 (04) 私は、黄色い紙に書かれたスヴェトラーナの小さな、際どく判読できる手書き文字を読み始めた。その紙は私の指で破れた。
 「そうして、私はここにいます。あなたに何を書くべきなのかを知りすらもしないで。
 私があなたを想っていることを? でも、あなたは分かっている。
 私は時間の外で生きていると感じる。そして、今はまるで休憩時間であるかのごとく、私の人生が始まるのを待っている、と。
 私が何をしようと、たんに暇つぶしをしているにすぎないように思えます。」
 同じ束から、別の手紙を取り出した。
 それは、レフからのものの一つだった。
 「希望をもって生きるのと希望なしで生きるのと、どちらが簡単かと、かつてあなたは僕に尋ねた。
 僕は、どんな種類の希望だって、呼び起こすことができない。ただ、希望のないままで静穏でおれると感じている。……。」
 私は、二人の間で交わされる会話に耳を澄ました。
 (05) 手紙をめくるにつれて、私の昂奮は増した。
 レフの手紙は、労働収容所の詳細な事項について、豊かな内容を含んでいた。
 それはおそらくは、世に明らかにされる、収容所の日常生活に関する同時代の、唯一の最大の記録文書だった。
 従前の収監者が労働収容所について多数の追想書を出版していたけれども、この未検閲の手紙類と比べられるものは一つもなかった。それは、鉄条網の区域の内部で、当時に書かれたものだつた。
 ただ一人の想定される読み手に、どのように過ごしているかを説明しようと書き記しながら、数年間にわたるレフの手紙は、次第にますます、収容所の状況を明らかにしていた。
 スヴェトラーナの手紙は、レフに希望を与えて、収容所にいる彼を支えることを意図していた。しかし、私はすみやかにつぎのことを認識した。スヴェトラーナの手紙は、彼に対する彼女の愛を生きたまま保とうとする彼女自身の闘いの物語でもある、と。
 (06) おそらく2000万の人々が、大部分は男子が、スターリンの労働収容所を耐え忍んだ。
 収監者たちは平均して、一ヶ月に一度だけ手紙を出したり受け取ったりするのを許された。しかし、これら全ての文通内容は検閲された。
 全ての通信内容が先ず警察当局によって検閲されるとき、手紙によって親密な関係を維持し続けるのは不可能だった。
 八年ないし十年の判決は、関係の破壊を決まって意味した。恋人、妻または夫、家族全員との関係を、収監者たちは喪失した。
 レフとスヴェトラーナは、例外だった。
 この二人は、手紙を出し、ときには非合法に逢ったりすらしただけではなく—後者は甚だしい収容所規則違反で、より苛酷な制裁の原因となった—、二人の愛の物語の記録として、全ての貴重な手紙類を持ち続けた(これはもっと大きい危険に彼らを晒すものだった)。
 (07) 最も小さなトランクにはほとんど1500通の手紙があることが判明した。
 それら全てを書き写すのに、二年以上がかかった。
 解読するのは困難だった。暗号的言葉がたくさんあり、明瞭にされる必要のある細かな事項やイニシャル文字があったからだ。
 こうした手紙類は、この<Just Send Me Word>の資料的な基礎になっている。また、この書物は、以下にももとづいている。レフとスヴェトラーナ、彼らの親戚、友人との何回ものインタビュー、Pechora 収容所の他の収監者たちが書いたもの、この町への訪問や住民たちとのインタビュー、およびその労働収容所自体の諸資料。

2282/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第一節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames—War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 第6部第1章の試訳のつづき。
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 ——
 第一節②。
 (9)もちろん、移行を瞬時に行うことはできない。
 1918年にはずっと、私的所有制がなおも一般的で、様々な当事者—起業者、労働組合、国家—の間で交渉が継続した。
 工場委員会は、私的所有の事業体の中でまだ活動しており、政治的な番犬のごとく振る舞っていた。
 1920年4月の第9回党大会になってようやく、委員会は労働組合に従属した。労働組合はいまや国家の腕になっていた。(11)
 トロツキーが技術的専門家の利用、職場紀律の賦課、そして実力による強制—赤軍の勝利の背後にあったモデル—を強調したのは、このときだった。
 この党大会で、そしてその後の労働組合大会で採択された決定は、労働者委員会を権限ある管理者に服従させた。(12)
 レーニンが観察したように、労働者には工場を稼働させる能力がなかった。
 国家は、その本来の利益からして、「階級敵」との協働を必要とした。
 あるいは、マルクス主義の用語法で言うと、(理論上は)政治権力をもつ階級(プロレタリアート)は、経済的権力を行使することができない。
 プロレタリアートの地位は、1789年のフランスのブルジョアジーとは対照的だ。彼らは、政治的権力を獲得する前に経済を先ず支配した。
 (10)上意下達の支配と草の根の(プロレタリア)民主主義の間に元々ある緊張関係は、真にプロレタリアートの現実の利益を代表する国家の働きによって解消される、と想定されていた。
 ソヴィエトの場合は、この緊張関係は、民衆の主導性の抑圧とプロレタリアートによる支配というフィクションによって究極的には解消された。
 しかしながら、その間に、「国家」自体が緊張で引き裂かれた。
 中央による支配の達成は、中央においてすら、容易なことではなかった。
 市民の主導性をやはり抑圧した、そして戦争をするという挑戦にも直面した君主制のように、ボルシェヴィキの初期(proto)国家は、中央と地方、上部と下部の間のみならず、経済全体の管理と軍隊に特有な需要との間の緊張関係も経験した。
 1917年以前と同様に、制度上の観点からする対立が明らかになった。
 今では、中央の経済権力(VSNKh)は、生産の動員と物的資源を求める赤軍と競っていた。
 実際、軍はそれ自身の経済司令部を設け、VSNKhとともに生産の監督を行なっていた。
 中央や諸地方にある多様な機関が、希少な原料と燃料を求めて競争していた。
 金属の供給が再び始まったのは、ようやく1919年のウラルの再奪取があってからだった。(14)
 (11)経済の崩壊という圧力のもとで出現したもう一つの不安は、労働力不足だった。
 人々が食糧を求めて田園地域へと逃亡するにつれて、都市は縮小した。
 配給は十月の直後から導入されていたが、配達は不確実で、量は乏しかった。
 1917年と1920年の間に、ペテログラードは人口の3分の2を喪失した。モスクワは2分の1を。(15)
 全体としては、産業労働力は60パーセント減少して、360万人から150万人になった。
 最も気前のよい配給を好む労働者たちの苦痛は、食糧不足と都市部での生活水準の低下を示す指標となった。
 工場を去った労働者たちのおよそ4分の1は、赤軍に入隊した。(16)
 志願兵は最も未熟な労働者の出身である傾向があった。彼らは、赤軍が提供する多様な物質的な刺激物によって最大の利益を得た。—とくに、食事と金銭手当。
 概して言って、多数の労働者は単純に、どんな戦争でも戦闘をしたくなかった。(17)
 とどまった熟練労働者たちは、教育を受けたイデオローグたちの政治的見解を共有している傾向にあった。
 彼らはしたがって、草の根権力からの逸脱が含んでいる政治的裏切りをより十分に理解することができた。また、ボルシェヴィキ支配により抵抗しがちだった。
 (12)労働者を規律に服させることは、最優先の課題になった。
 最も熟練した者であっても、プロレタリアートは、経済はむろんのこと工場を運営する能力がなかったということでは済まない。彼らは今や、労働を強いられなければならなかった。
 労働人民委員部は、建設、輸送その他の緊急の業務のために人的資源を用いた。
 1919年6月に、モスクワとペテログラードで労働カードが導入された。
 雇用されていることの証明が、配給券を獲得するには必要とされた。
 一般的な労働徴用は、1920年4月に始まった。(18)
 だが、長期不在(逃亡)や低い生産性が持続した。
 食物は、武器になった。
 配給は、労働の種類、熟練の程度、生産率によって割り当てられた。
 いわゆる専門家には報償が与えられ、欠勤や遅刻には制裁が伴った。
 労働組合は、社会主義原理の侵犯だとして、賃金による動機付けや特別の手当の制度に異議を申し立てた。
 1920年頃には、インフレがあって、労働者たちは現物による支払いを要求した。
 彼らは、国家に対する犯罪だと見做されていたことだが、工場の財産を盗んで、物品を自分たちのものにした。(19)
 労働徴用に加えて、当局はまた別の強制の形態に変えもした。
 1920年初めに始まったのだが、多くは非熟練の農民労働者だった動員解除されていた兵士が労働部隊に投入され、鉱山や輸送、工業および鉄道の、燃料のための木材を集めるために使われた、
 トロツキーは、第9回党大会で、工場労働力の軍事化も呼びかけた。
 労働人民委員部への登録は義務となり、不出頭は脱走だとして罰せられた。(20)
 (13)どこでもあることだが、しかし彼らの支持層との関係では驚くことに、ボルシェヴィキは、実力(force)の行使について取りすましてもおらず、かつ釈明的でもなかった。
 ブハーリン(Nikolai Bukharin)は1920年に、「プロレタリア独裁のもとでは、強制は初めて本当に、多数派の利益のための多数派の道具となる」と誇った。
 レーニンは述べた。「プロレタリアート独裁は強制(compulson)に、そして国家による最も苛酷で決定的な、容赦なき強制(coercion)に訴えることを、いささかも恐れない。先進的階級、資本主義により最も抑圧された階級は、強制を用いる資格がある」。(21)
 思うのだが、この場合は、(本当にプロレタリアートであるならば)プロレタリアートは、そのゆえに、自分たち自身に対して強制力を行使していた。
 (14)強制はかくして、戦時共産主義として知られるようになったものの基礎的で逆説的な要素だった。—産業の国有化、労働徴用、労働の軍事化、穀物挑発。
 これは、彼らが与えようとはしたくない、またはそれを躊躇するものを労働する民衆から絞り出させるというシステムだった。—適正な補償なくして、労働やその果実を奪う、という。
 また、民衆の一階層(飢えた労働者)を他者(屈強だか、やはり飢えた農民)に反対するように動員するシステムだった。
 労働者たちはある範囲では、赤衛軍や食糧旅団で、国家権力の装置となった。国家権力は彼らを代表するとされたものだったが、ますます彼らを制約した。
 農民たちは、兵士であるかぎりでは自ら国家装置に加入したことになる。
 農民と労働者のいずれも、抵抗という暴力的形態でもって、この装置に対応することもした。
 (15)労働者組織(委員会、組合、ソヴェト、党内からの指導者)—これらは、生まれようとする資本主義秩序に対する反対派を構成し、反対はあらゆる党派の革命的な活動家によって形成された—は、ボルシェヴィキが闘争を策略でもって勝利する基盤となった。
 しかし、労働者組織はまた、ボルシェヴィキ支配に対する社会主義者の抵抗の基盤ともなった。
 左翼側にあるこの批判は、経済的社会的危機に直面した労働者自身の絶望と怒りに、構造を付与した。
 従前のように、土台にある労働者たちはしばしば、自分たちの指導者に反対した。
 要するに、帝政を打倒するのを助け、ボルシェヴィキによって培養されて権力奪取に利用されたのと同じ怒りと熱情が、ひとたび彼らが自分たちで権力を振る舞おうとするや、難題を突きつけたのだ。
 (16)本質を突き詰めていえば、社会主義の基礎的な諸命題は、労働者や農民が共鳴するものだった。—搾取者と被搾取者の二分論、「民主主義」対「ブルジョアジー」、防衛側にいる者と攻撃する側にいる者の対立、賃金労働者対上司たち。
 イデオロギーの素晴らしい点は、抽象的にはほとんど違いをもたらさない。
 メンシェヴィキ、エスエル(これらはいずれも内部で分裂した)およびボルシェヴィキの様々な訴えは、特有な状況を反映していた。
 工場労働者は、実際には、自分たち自身の制度を創設し、自分たちの指導者を生み出す能力を持っていた。
 社会主義知識人たちは、たんに騙されていたのではなかった。しかし、労働者大衆は、激しくて規律のない暴力(violence)を行使することも、自分たちの利益を代表するとする代弁者に反対することもできた。
 (17)1917年十月の後で、集団的行動は継続した。—今度は、体制に対して向かった。その体制は、経済生活の最高の主人だと自分たちを位置づけていた。
 この最高の主人は、しかしながら、自分の国家装置に対する差配をできなかった。
 政策の適用と影響は場所によって、地方的支配の態様によって異なった。
 最も先進的な企業や優れた労働組合の所在地であるペテログラードでは、
地方ボルシェヴィキは、労働者組織に対して厳しい統制を敷いた。
 モスクワでは、レーニンのプラグマティックな考えによって、妥協はより容易だった。
 ウラル地方では、左翼ボルシェヴィキ、左翼エスエル、メンシェヴィキが、影響力を目指して闘った。—その雰囲気は、激烈だった。
 そしてじつに、ソヴィエト当局に対する最も激しい労働者反乱が発生したのは、このウラルでだった。(22)
 (18)ウラルでの十月の影響は、厄災的だった。
 市議会(City Duma)やzemstvo のような市民組織は、瓦解した。
 ボルシェヴィキは、非常措置を用いた。—残虐な徴発、身柄拘束、食糧を求めての村落の略奪、私的取引の禁止(没収)。これらは全て、歴史家のIgor Narskii が述べるように、農民たちの抗議の波を誘発しつつも、「枯渇に至るまでの人口の減少」をもたらした。
 どの都市も、どの大工業施設も、自ら閉鎖した。そして、窮乏(deprivation)という別の世界に変わった。(23)
 ——
 第一節、終わり。

2281/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第1節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の書の以下だけを、すでに試訳した。
 ・第6部・勝利と後退/第2章・革命は自分に向かう。・結語。原書、p.606-p.632.
 上の直前の第1章に戻って、試訳を再開する。p.585以下。
 **
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 第一節。
 (1)驚くかもしれないが、内戦の混乱と暴虐があったことを考えると、不安定なボルシェヴィキ体制は非資本主義経済の基礎を何とか築こうとしていた。
 ボルシェヴィキは、先行体制からいくつかの問題、戦略、諸制度を継承した。第一には穀物の徴発と戦争関連産業の結集だったが、引き継いだ国家装置は崩壊の途上にあり、ボルシェヴィキの政策はその解体をさらに押し進めた。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキの目標は、堅固な基盤の上に国家装置を再建することだった。
 (2)戦争は、いかなる政治体制のもとでも、国家による統制と計画化の強化を必要とする。
 だがしかし、社会主義のモデルは互いに矛盾し合う要素を含んでおり、社会主義者たちには多様な色合いがあった。
 ボルシェヴィキ党の内部ですら、違いがあった。
 ボルシェヴィキ指導者たちの指針は、明らかに、マルクス主義の基礎的な諸命題だった。すなわち、社会主義は私有財産を廃して国家所有の国有財産に換え、自律的な市場を中央計画に換え、富の不公平を経済的平等に換えなければならない。
 しかしながら、党内で、これらの命題をいかにして実際に適用するかに関する激しい論議が生じた。
 内戦の過程で採用された特別の措置は、十分に練られた予定にもとづいておらず、戦争の圧力と経済の崩壊が生んだ諸問題に対応するものにすぎなかった。
 それらは全てが一度に導入されたものではなく、1917年と1920年の間の三年間に切れ切れにとられた措置だった。(1)
 国家統制は中央の権力を想定していたが、−まだ十分な国家でなかった−ボルシェヴィキ国家は、この時点では、競合して無秩序な諸機関で構成されていた。
 どの分野についても、中央権力と地方の党幹部、イデオロギーと必要性、大きな展望と当面の危機管理との間に、緊張関係があった。
 (3)歴史家の Silvana Malleは、イデオロギーは「受容し得る選択可能な措置を選ぶためのフィルターとして働いた」が、特定の措置を指示するものではなかった、と観察する。(2)
 戦時共産主義(War Communism)という術語は、最初に、1920年4月にレーニンによって遡及的に用いられた。レーニンは、「この特有の戦争は共産主義だ。…極端な欠乏と破滅が我々に戦争を強いている。戦争はプロレタリアートの経済的任務にふさわしい政策ではないし、そうであってはならない」と強く主張した。(3)
 だが、その基礎的な構成要素は、まさしく精確に、想像された未来の共産主義のそれだった。(4)
 その諸要素は、階級戦争(階級闘争)の武器でもあった。
 教育人民委員のAnatolii Lunacharskii はこう言った。「我々はブルジョアジーを殺戮し、彼らの手にある全ての財産を破壊しなければならない。なぜなら彼らは、それを我々に対する武器として利用しているからだ」。
 「搾取者どもを搾取せよ」、「略奪されたものを略奪せよ」−これらは、加えて、十月のクー直後から続いた、大衆による強奪の波に承認印を与えるスローガンだった。(5)
 ボルシェヴィキを強奪者だと告発することは、非難ではなかった。大衆はボルシェヴィキがしていることを知っていた。
 (4)内戦中のソヴィエト政府を駆動させたのは、かくして、国家の計画と統制を通じて(産業、都市化、教育、生産性の)近代化の達成を目指す経済関係の構築を最優先する、という党の政策だった。だが、その目指す経済関係とは実際には、急場凌ぎのものでもあった。
 いつものようにレーニンは、イデオローグとプラグマティストのいずれでもあった。
 赤軍を結成して維持した経験をもつトロツキーは、社会主義的情緒主義(sentimentalism)とは無関係だった。
 この両人はやがて敵に変わって、各自のゲームでいかにして相手に対する勝利を達成するかに関するモデルを提示することになる。
 トロツキーにとっては、隊員と中央司令部をもつ軍隊だった。レーニンにとっては、巨大な企業と技術的専門知識をもつ資本主義だった。資本主義では国家の役割は戦時中という緊急事態の際に拡大する。
 ドイツの「国家資本主義」は、レーニンの手本(prototype)であり、彼は、いかなる手段によってしても、「いかに独裁的であっても」、「野蛮な中世的ロシアに」課されるべきものだ、と言った。−「野蛮主義と戦うにあたって野蛮な手段」を用いるのを躊躇してはならない。(6)
 これは異端説ではなかった。
 マルクス主義者は、独占資本主義と共産主義の間の構造的類似性を知って(recognize)いた。−産業発展の高度の次元での生産手段と労働の大衆化(massifuication)。先ずは私人の手に、次いで国家による統制のもとに。
 (5)権力政治上の目標(ソヴィエト体制が生き延びて、支配しようとする国を再建すること)を追求しつつ、人民委員たちは一方では、社会主義理論が正しく強調するように社会の生産力を構成する一般民衆の追従に頼らなければならなかった。
 大衆なくして経済はない。経済がなくして、意欲する大衆もいない。
 田園地方から穀物を挑発する切実な必要が農民の抵抗に対してどれほどに行われてきたか、交渉がどれほどに加減されなければななかったか、どれほどに多様な戦略が試みられ、失敗し、修正されてきたか、を我々は知っている。
 とどのつまりは、実力による強制と飢饉が生産者たちを整列させた。
 「飢えという骨ばった手」。
 (6)製品生産部門との関係では、政治的統制の行使とともに生産性の維持を必要とした。
 二つの重要な論点が関係していた。所有制と規制。
 1917年11月14日の労働者の支配に関する布令は、自分たち自身が管理権を奪取しようとの草の根の工場委員会の要求を称賛していた。
 しかしながら、その布令に表現された考え方は、労働者に生産に対する権力を付与するものではなかった。 「支配」(control)とは、資格のある技術者と行政官が諸活動を監視(monitor)する権利を意味した。言ってみれば、それらはすでに存在したのだ。
 さらに加えて、経済を統治する政策決定は、個々の工場施設や地方当局の次元によってなされるのではなく、権力の中央に、したがって、国家経済最高会議(VSNKh)という12月初めの設立物(establishment)にあった。
 (7)最初はまるで、国家所有制と労働者は協力して歩むがごとく見えた。
 店頭への権力行使の民主化を補完するものは、私有資産の奪取だった。
 工場委員会は、もっと大きな役割をすら望んで、迅速な変革に向かって圧力をかけた。
 しばしば個々の工場、鉱山または地方ソヴィエトは、主導権を握って、従前の所有者たちを排除した。
 対照的に、ソヴナルコム(Sovnarkom、人民委員会議)とVSNKhは、生産を維持することを懸念して、そのような進展を中止させるか遅延させようとしたが、それにもかかわらず、略奪の多くを称賛し、彼らが阻止することのできないものに公式の是認を与えた。
 さらに、VSNKhは1918年早くに、最大の冶金工業施設群の所有者と、没収および継続する諸機能について交渉を続けていた。(8)
 (8)ブレスト-リトフスクは、このような方向へと向かう強い誘因を与えた。
 この条約は、1918年7月1日以前に国家が掌握した企業を除いて、ドイツ所有の財産の返還を求めていた。除外財産については、正確な補償だけが要求された。
 かくして、1918年6月28日、多くはドイツ所有の共同出資会社が、突然に奪い取られた。
 全般的な国有化は、1920年11月までは行われなかった。その11月の時点で、全ての大企業とたいていの中規模企業を含んでおり、併せて工場労働者のほとんど90パーセントを占めていた。(9)
 労働者国家による生産手段の所有は、しかしながら、労働者たちが主人になることを意味しなかった。
 労働組合と委員会は、既存の経営者にしばしば抵抗し、賃上げと生産目標設定への関与の拡大を要求した。しかし、レーニンの関心は、全体としての経済の行く末にあった。
 レーニンは、こう宣告した。社会主義は、先ずは、政治権力の中央からの規整を受ける「国家資本主義」の段階を通ってのみ達成することができる。(10)
 **
 第一節①、終わり。 

2280/西尾幹二批判010・『国民の歴史』②。

  前回(批判009)の補足。
 西尾が書いているとおり、『国民の歴史』の「14」は表題自体が「『世界史』はモンゴル帝国から始まった」となっていて、最初から19頁め(全集18巻版)に、こうある(p.289)。
 「以上、『モンゴルと中国の関係略史』(一)(二)は岡田英弘氏から直かにご教示いただいて記述したが、文責は私にある」。
 「文責」、つまり文章化・要約・作文は西尾にあるが、計5頁ほどの「内容」は岡田英弘に依っていることを認めている。長々とした一連の文章群の内容は西尾幹二自身によるものではない。
 二 『国民の歴史』の「6 神話と歴史」から、気になる点をさらにいくつか挙げておこう。まず、第一。
 その11「神話の認識は科学の認識とは逆である」p.128(全集版)にこうある。
 「すでに神を感じない社会」に生きる我々が「神々によって宇宙が支えられていると感じる古代社会の言葉と感性と同じはずはない」。
 何となく読み過ごしてしまいそうな文章だが、このような「古代」の人々の「感性」の理解・認識は適切なのだろうか。
 つまり、彼らはほんとうに「神々によって宇宙が支えられていると感じ」ていたのだろうか? 西尾の一見「深遠な」言明は、じつは「適当に」発せられていることが少なくないのではないか。
 古代の人々はどういう「感性」で生きたのだろうと想像することは、私には楽しい。しかし、「神々」の意識・感覚はかなり高度なもので、なかなか発生しないのではないか、と考える。
 生きていること、そのための呼吸と心臓の鼓動を意識し、死とそれが訪れるとやがて身体は腐敗していくことを知っていたに違いない(なお、もっとのちの日本の文献によく出てくる「もがり」は再生・蘇生しないことを確認するための儀式だったように思われる)。
 また毎日昇って消えていく太陽、およそ(今でいう)一月ごとに形の満ち欠けを変えながら「この地」を回っている月、日の出・日の入りの太陽の位置が寒暖の季節ごとに異なりおよそ(今でいう)一年ごとに同じになることを、早くから知っていただろう。
 さらに、むろん、生きていくために「水」・「食料」が必要であることも。「空気」(中の酸素)はひょっとすれば所与のものとして意識しなかったかもしれないが、海中や高山では生き難いことは知っていたはずだ。
 これはヒト・人間をとり巻く「自然」にかかわることであって、いつの時点から「神」なるものを意識したのかは、よく分からないことだ。
 だが少なくともヒト・人間は、縄文時代の人々も、「神々によって宇宙が支えられていると感じ」てはいなかっただろう。「宇宙」=地球全体の感覚はまだないはずだ。「宇宙」=「自然」という意味では「宇宙」を感じていただろうとしても。
 繰り返すが、「神」という意識・感覚の発生はかなり高度の精神作用を必要とするのであって、古代の人々が何となく自然に身につけるようなものではないのではないか。むろん、「必然」ないし「規則・法則」的なことと「偶然」・「事故」的なことの区別くらいのことは当然に意識し、知っていただろうが。
 第二。西尾はもっぱら「言葉」と「文字」の関係一般に着目して、日本文明(縄文原語)と中国文明(漢字)を記述しているように見えるが、私の関心は他にもある。
 日本書記における「年」の表記の仕方には十干十二支を利用したもの、「天皇」の在位年数を利用したもの、年号(大化等)を利用したものの三種あるとされる。最初の<十干十二支>は、令和日本の現在でもなお用いられることがあるが、どのようにして、いつ頃から、日本列島の人々は利用し始めたのだろう。中国からの「輸入」以後でないとすると、それまではいったいどのようにして「年数」を数え、記憶・記録していたのだろうか。
 西尾の著書には、これに関する叙述はないのではないか。のちのちの、<陰陽五行説>についても。これらは、「仏教」・仏教典の一部にあるのではないはずだ 。
 より重要な第三は、以下。
 既述のとおり、「6」章の節名を利用すれば、この章での西尾幹二の出張したいことの重要な一つは、章名とともに以下にあると理解しても決して誤りではない。 
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」
 しかし、この書物(全集版)が刊行された2017年とまさに同じ年に、西尾幹二は、つぎのように明言している。そして、翌年2018年刊行の全集の別の巻(17巻)に収載している。一文ずつ改行する。
 「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち還り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、…そのまま信じられるでしょうか。
 神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。
 神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018年)p.715、「『新しい歴史教科書をつくる会』創立20周年記念集会(2017年1月29日)での挨拶文」の一部(原出、月刊正論2017年4月号)。
 西尾幹二に真面目に訊ねたいものだ。『国民と歴史』のうちの6章「神話と歴史」に関する叙述と上の「挨拶文」の内容は、矛盾しているのではないか。少なくとも、どういう関係に立っているのか。
 つづけて、第四
 西尾幹二のために、「助け船」を出すことはできる。すなわち、歴史と神話の関係・異同に関する言明は真反対のように見えてもいわば<レトリック>であって、主眼はそれぞれの「解釈」の方法の違いの指摘にあるのだ、と。
 たしかに『国民の歴史』には、こういう文章もある。18巻、p.129。
 「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」
 後者の「自分が神の世界と一体となる」は、前者の「神話」を前にしては<解釈の自由はない>という指摘と似ているとは言える。
 しかし、前者は(西尾によくあることだが)突然に「科学」という言葉・概念を持ち出し、「歴史」=「科学」(の一部)という前提に立っているようだが、「歴史」、「科学」等の概念の丁寧な説明はない。そして「逆の認識の仕方」とだけ述べて、<解釈・選択の自由がある>という旨を明確に語ってもいない。
 少なくとも、同じ2017年の発言と刊行書の内容の間の齟齬・矛盾を指摘しても、何ら厳しすぎることはないだろう。
 なお、<「神話」は解釈を許さない>という言明がなぜ、どのように根拠づけらるのか?
 これは、バカバカしいので、省略する。「神々」の時代も含めて、それ以降についても、日本書記、古事記の種々の「解釈」がなされており、議論があることは、高校生でも知っていることだろう。西尾幹二の「解釈」にはこの人に独自の(ほとんど誰も理解できない我流の)意味があるのだろうか。
 第五。そもそも、日本書記、古事記は、全体として「神話」なのか。
 西尾幹二は上の二つとも「神話」だという前提に立って、中国の「歴史」書との「等価値」性を指摘し、後者も広義では「神話」だとする。
 しかし、そもそも論として、日本書記、古事記のいずれも、全体として「神話」だ、という認識は決定的に誤っているだろう。
 よく知られるように、日本書記は計30巻から成るが、そのうち巻第一は「神代上」、巻第二は「神代下」とされ、巻第三以降・巻三十までが「天皇」を中心とする叙述になっている(神武〜持統)。   
 今日の目で見て、「史実」とは感じられないような叙述があるのだとしても、作者・編纂者は、巻第三以下は真面目に?日本国家の「歴史」書だとして記述したと考えられる。そして、彼らが「神」の時代の「話」=「神話」だと明瞭に意識して記述したのは、巻第一・第二の「神代」だけだ。
 これに関連して、日本書記の今日の「解説」者は、こう記す。
 「巻三以下巻三十まで、すべて天皇名で標題とすることは、明らかに中国史書の『帝紀』に相当するわけで、『日本書記』という書名は『日本書の帝紀』の意であることも首肯できる」。「ただ異なるのは、巻一・二が『神代』となっている点である。中国の史書は『神代』を語ることはないからである」。
 この文は巻第三以下を「人皇代」と称してもいる。
 日本書記・上(小学館日本古典文学全集、1994)「解説」の西宮一民担当部分
 一方、古事記は上つ巻・中つ巻・下つ巻の三部に分かれるが、中つ巻が神武〜応神、下つ巻が仁徳〜推古の各天皇の時代を叙述しており、上つ巻が日本書記の用語では「神代」に当たる。
 こう区別されているところを見ると、また内容から見ても、上つ巻だけは「神たちの時代」と意識されているとしても、それ以下は、作成者の「主観」においては古代の日本「歴史」だった可能性が高いものと思われる。
 このような日本書記、古事記を、例えば仁徳天皇以下も含めて、西尾幹二はすべて「神話」だ、ということから出発しているわけだ。
 全てが「史実」を記述しているとは秋月も考えないが(なお、安本美典は熱心な応神天皇実在論者だ)、「史実」であって、またはそれをかなり反映していて、決して簡単に「神話」だと認定できない部分をいずれも含んでいる、と考えられる。これは、常識ではないか。
 しかるに、西尾幹二は最初からこれらが「神話」だとしている。それから出発している。
 日本書記も古事記も実際には、全くまたはほとんど「読んだことがない」西尾の面目躍如というところだろう。
 西尾幹二はこれらの「歴史」書性をできるだけ否定しようとしする戦後「進歩的」歴史学に、最初から屈服している、とも言える。
  ついでに、ということになるが、上に二の第三で引用した2017年の「挨拶文」の一部は、一部を除き(古事記うんぬんの部分)全く同文で、対談中の発言であるはずの以下でも用いられている。
 実際の対談後の「原稿化」の過程で追加されたように思われる。
 西尾幹二は、一つながりの文章群を<使い回し>ているのだ。一粒で二度おいしい。<古事記>への言及は欠落しており、元来は別の論脈の中での文章だ。
 「神話は歴史と異なります。
 「歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません。
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。 
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」月刊WiLL2019年4月号(ワック)
 西尾幹二という人物は、こういう<文章の使い回し>を(こっそりと)平気で行う人物だ、と知らなければならない。言いたいことがたまたま?同じだから、という釈明は成立しない。

2279/西尾幹二批判009ー西尾と岡田英弘。

 本欄No.2217(2020.05.04)で紹介した岡田英弘の見解の一部は以下。そのまま支持する、という趣旨ではない。西尾幹二とはずいぶん異なる、ということを示す。かつての紹介部分を大幅に縮減し、かつ原文に即した部分を増やす。
 岡田英弘・同著作集Ⅲ・日本とは何か(藤原書店、2014)、p.490以下の、「歴史と神話をどう考えたらよいか」より。
 ・「本来、歴史を持っている文明は、シナ文明と地中海文明の二つだけであり、…。日本文明の歴史というのは、もちろんシナ文明のコピーである」。
 ・「日本書記」編纂の「過程はちょうど日本の建国の時期に当たっていた。その編纂は建国事業の一環だった。そのためになるべく古いところに日本国と天皇の起源を持ってゆく必要があった」。
 「シナ文明圏では、王権の正統性を保障するのは歴史であり、そのパターンから日本は抜け出せない」。「神武天皇以下、16代応神に至る架空の天皇を発明した」。「神武天皇の建国を紀元前660年となり、秦より400年以上古い」という「操作に神話は使われた」。
 ・「今でも歴史を論じるとき、なにかと神話に戻りたがる人がいる。神話から史実を読み取ろうとするのだ。しかし、歴史で神話を扱う際には、こうした神話の性質を充分わきまえておかねばならない」。
 ・「神話が与えてくれるロマンは、現実からの逃避には都合がいいだろうが、そうした情緒的ニーズと合理的な歴史を混同してもらっては困る」。
 岡田英弘上掲書の「おわりに」で、岡田はこう書いてもいる。p.532。
 「本巻の内容は、彼ら保守派で愛国者である私の友人たちの間でも、賛否両論を巻き起こすだろう」。
 「彼ら」、「私の友人たち」の中には西尾幹二の名が明記されている。同頁。
 **
  西尾幹二は、岡田・上掲書の「月報」に以下のことを書いている。月報p.5-p.7。
 ①岡田から「漢字」という文字の限界を「講話」してもらって、その内容を『国民の歴史』で「二ページにわたって」記した。
 (秋月注記−西尾・国民の歴史(全集第18巻版)p.118-9。)
 ②岡田の別の文章にある、日本とヨーロッパに近似性があるが、「中間にあるモンゴル帝国から世界史が始まった」との説は衝撃的で、自分ははこれを『国民の歴史』14で採用した。
 ③岡田は「日本という国号が生まれる7世紀まで日本は存在しなかったのだ、縄文も弥生もまだ日本ではない」と語った。しかし、「日本語と中国語は根本から異なり、縄文原語が推定され得るので、日本は大陸とは独立した別の文明と見る」のは許されないのか(いつか訊ねてみたい)。
 上の①はそのとおりで、内容は省略して、前回(批判008)でも触れた。
 上の②は文春文庫版の『国民の歴史』で明示した、という。時間的前後は別として、このように、他人の説を存分に<利用>するのは西尾幹二の文章・思考の特徴の一つだろう、と考えられる。というのは、モンゴルを中心にして、ヨーロッパ・日本への「文明」の拡散という図式?は、その後の西尾幹二において、しばしば見られるからだ。その際に岡田英弘等の名前を西尾は明記しない。そして私は、いったいどこからこのような説を<導入>したのだろうと感じてきた。西尾自身が「発見」できるような事柄ではない、と思っていたからだ。
 櫻井よしこにも江崎道朗にもより下品なかたちで見られる<コピー・ペイスト>の原型は、西尾幹二にもある、と言ってよい。
 上の③の二人の言葉は、<噛み合っていない>可能性がある。
 というのは、岡田のいう「日本」と西尾の「日本」が同じ意味ではない可能性も十分にあるからだ。また、西尾は「日本は大陸とは独立した別の文明」だとしきりに強調しているのだが、いつかの時点での<古代>に限ってのこの言明の当否は「日本」・「大陸」(中国)・「独立した」・「別の」・「文明」という言葉・概念の意味の捉え方によって異なるので、簡単に論じることはできない。
 常識的には、日本書記も古事記も「漢文」で書かれたのだから(但し、後者は日本的な漢字利用)、前者の一部は中国人を母語とする者が執筆したとされているのだから、さらには日本の藤原京(明日香の北)以降の「都」の条坊制は中国の洛陽等をモデルにしているのだから、等々、<中国文明>の完全な一部ではないにせよ、その強い影響下にあった、影響を受けた、ということはおそらく言えるだろう。
 もともと大陸・半島から日本列島に多数の人間が渡って来ている。列島に原住の人々がいたとして、その人々が有していた「文化」だけが日本「文明」だというのはやや苦しいだろう。それに、列島が形成されておらず、いまの日本は大陸・半島と地続きの長い時代もあった。西尾の「視野」はどこまで及んでいるのだろう。かりに縄文・弥生時代以降に限るとしても、<日本か大陸か>ということにさほどに拘泥する意味はどこにあるのだろうか。長い歴史の中では些細なことのようにも感じられる。
 **
 西尾『国民の歴史』「6神話と歴史」について、前回に論及しなかった点に触れようと思って書きはじたのだったが、長くなったので、次回に委ねる。

2278/西尾幹二批判008—『国民の歴史』。

 西尾幹二全集第17巻(国書刊行会、2018)の西尾自身による「後記」(計14頁)の中で、西尾自身が、<国民の歴史>と<江戸のダイナミズム>のという二つの「主著」は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛する。
 また、その直前では、<国民の歴史>等の著作は「『つくる会』運動の継承者を末長く動かす唯一の成果」で、「この観点を措いて」この運動の「意義は他に存在しなかった」とまで言い、それだけ「歴史哲学の存在感は大きい」と記している。p.751。
 そのあとで「思想上の戦い」という言葉もあることからすると、西尾幹二は、自著の<国民の歴史>は、「歴史哲学」上、および歴史「思想」上の顕著な意義をもつらしい。あくまで2018年時点での言葉だが。
 はたして本当にそうか。
 <決定版>と銘打っていた文春文庫版を「底本」としつつ「決定版」という文字を削った同全集第18巻(2017)収載のものによって、その一部の「6 神話と歴史」に少し立ち入ってみよう。
 一 いわば<章>にあたる部分を「6 神話と歴史」とだけ記して、全体に「章」・「節」等の語が用いられていないのは何故か。著者の趣味・気分によるのではなく、<国民の歴史>を体系的・学術的に描いたものではない、という西尾の「自覚」あるいは「負い目」が表れているようにも思える。
 この書物は「歴史哲学」書などという学術書でも論文集でもなく、言ってみれば、<歴史随筆書>だ。あるいは、広い意味での<歴史読み物>だ。
 哲学だ思想だなどと、気取ってはいけない。
 第6章にあたりそうな「神話と歴史」は、さらにぎのように分けられる。各「節」とはされておらず、「数字番号」すら付いていない。
 番号を勝手に付けて順に並べると、つぎのような「体系」?を構成している。
 0 (無題、はしがき)。
 1 日本古代史学者よ、常識に還れ
 2 歴史と神話の等価値
 3 すべての歴史は神話である
 4 神話と歴史叙述について
 5 日本語の起源問題は今までの言語学では手が届かない
 6 漢字漢文における表現力の限界
 7 "沈黙する歴史"の文字へのリアクション
 8 日本固有の文明の回復に千年を要した
 9 文字は知性を辱める
 10 文字は言語に及ばない、言語は行為に及ばない
 11 神話の認識は科学の認識とは逆である
 以上
 こういう順序でつづって、筆者はこの「6 神話と歴史」でいったい何が言いたいのか。
 これはさほどに困難な問題ではなく、おそらく一つは、つぎの「節」が「7 魏志倭人伝は歴史資料に値しない」であることからしても、中国の「史書」の意義・価値を低め、日本の「神話」の意味・価値を高めることだろう。これは典型的には、上の「2 歴史と神話の等価値」、とか「3 すべての歴史は神話である」という表題でも示されている。
 二つは、上とも関連して中国の文明・文化に対する日本の文明・文化の独自性を強調することだ。
 これだけのことを、29頁も使って長々と書いている、という印象もある。
 また、明瞭に、または「論理的」にこれらを<実証>しようとする姿勢は乏しく、かなりは推論であり、こうであってほしい、こうであるはずだ、という著者の「思い込み」だ。
 この「6」でも見られる西尾の叙述の特徴は、先行する文献をかなり多く紹介したり、引用しつつ、それらを根拠にして?自分の言述を正当化しようしていることだ。以下、登場させる人名、紹介・引用する著書の人名を全て列挙しよう。前者は()で括る。
 (タイラー、フレーザー、吉田敦彦)、エルンスト・ベルトラム、(ヤーコブ・ブルクハルト、トゥキュディウス)、①吉田敦彦、(レヴィ=ストロース)、②川瀬一馬、(網野善彦)、③早田輝洋、④松本克己、⑤安本美典、⑥東野治之、⑦山尾幸久、⑧黄文雄、⑨加地伸行、⑩岡田英弘、⑪小林芳規、⑫ヤン・ブレキリア。⑬本居宣長。
 これらの名前や説に言及して西尾が言いたいのは、「小括」がないので分かりにくいようでもあるが、上記を繰り返せば、第一に、中国の「史書」の意義・価値を低め、日本の「神話」の意味・価値を高めること、第二に、中国の文明・文化に対する日本の文明・文化の独自性の強調だ。
 あえて、原文そのものから引用しておこう。
 ・「漢書」や「魏志倭人伝」の「一見合理的にみえる」記述は「合理的」で古事記や日本書記の「ばかばかしいつくり話にみえる神話は歴史ではない、と戦後簡単に決めつけられたことがはたして正しいのだろうか、と問うている」。
 ・「あえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 。「繰り返すが、すべての歴史は広い意味での神話なのである。ことに古代においては歴史と神話のあいだに明確な境界は立てれない。したがって、『漢書』や『魏志倭人伝』もまた、多面では神話の一種であると言っておかねばならぬ」。以上、p105-106。
 ・「われわれの社会の言葉の感性を、古代社会へわがまま勝手に当てはめることてせ足りるとする風」がある。一見合理的な「漢書」や「魏志倭人伝」の「現代的解釈でもってして日本列島の始源を記した唯一絶対の証拠とするなどは、まさにそれである」。「儒仏到来以前の民族の原体験を象徴している記紀神話を、重要な歴史解釈の手段としようともしない戦後の知的惰性は、現代の空疎な傲慢のもうひとつの実例である」。p.128。ここには<レトリック>もある。
 二 どこかおかしい。いや、だいぶ、おかしい。元々は20年以上前の書物に関する論文を執筆するわけでも、書評を書くわけでもないので、西尾幹二に倣って?「適当に」思いつくまま、コメントしよう。
 01 「歴史」と「神話」の第一次的・暫定的な定義すらない。そして、漢書・魏志倭人伝は「歴史」書とされ、日本書紀・古事記は「神話」だとされている、ということから出発している。
 02 上の出発点に立つことなく、日本書紀・古事記も(日本の)「歴史」書だ、と主張することから始めても両者を相対化できる、または「等価値」視できるはずだが(論理的には)、そういう論理を採用していない。
 03 「神話」概念の中に、明らかに「伝説」や「伝承」を含めている(p.105、等)。「神」が登場する、または関係する「神話」と「伝説」・「伝承」は、古代ではかなり近いとかりにしても、同義ではない。一般に、西尾幹二という人物は概念に厳密ではない。
 04 西尾が非難し対決しようとする(有力・通説的)日本史学界が「漢書」や「魏志倭人伝」を(それらの「現代的解釈でもって」)「日本列島の始源を記した唯一絶対の証拠とする」ことをしていたのかどうか自体、疑わしい。秋月が中学生当時に学んだ歴史教科書の内容の記憶からしても、そう言える。
 西尾は、誤った、架空の敵と戦っている(いた)のではないか。
 なお、ついでながら、「自虐史観」者ではない出口治明は、『ゼロから学ぶ「日本史」講義・古代編』(文藝春秋、2018年)を、「地球の歴史、生命の歴史」から始めている。「ビッグバン」にも言及がある。西尾幹二の知識は、20年前にすでに時代遅れであった可能性が高い。
 <ナショナリズム>の観点から、あえて敵の姿を歪めているのではないか。
 05 問題は「歴史」か「神話」か、魏志倭人伝等も<広義の「神話」>か、ではない。漢書倭国伝・魏志倭人伝と8世紀に成立した日本書記・古事記がそれぞれ、どの程度<事実>を反映しているか、であって、二者択一の問題ではない。
 魏志倭人伝が全て事実を記しているとは秋月も考えないし、記紀がすべて事実ではない、とも考えない。魏志倭人伝の陳寿がどの程度正確に伝えたかという問題はあるし、そもそも「女王の都する」処には来ていない可能性もある。一方、日本書記、古事記が全て完全な「でっちあげ」話でもないだろう。何らかの「伝承」を伝えている、または反映している可能性はある。これらはほとんど常識ではないか。
 問題は、もっと具体的なのだ。具体的な論点がいくつもあるのだ。西尾は無知のゆえに単純化しすぎなのではないか。
 06 西尾幹二ははたして、漢書(の倭国部分)・魏志倭人伝、古事記・日本書記の全体をすべて「きちんと読んだのか」?
 おそらく間違いなく、否、だ。この人は全くかほとんど読まないで、他人が言及したり紹介したりしている部分だけを参照して、これらを「知った」気になっている。
 恥ずかしいものだ。日本書記・古事記を実際に読んでみる、ということをしないで、「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.103)とよくぞ書けたものだ。
 07 以上で、すでに西尾幹二『国民の歴史』の「歴史哲学」的意味の存在は疑わしい。
 08 上に記した少なくない人名(・書物)への言及は、西尾の叙述にとって「都合のよい」箇所を選択したもので、なぜその人物(・書物)に言及するのかの説明はなく、その人物全体の(日本古代に限っても)歴史観や歴史叙述の中ではどう位置付けられているのかも不明なままだ。
 網野善彦や山尾幸久のように西尾とは異なる界隈の歴史学者の名もあるし、岡田英弘とて、日本書記・古事記の見方は西尾幹二とはまるで異なる(すでにこの欄で紹介したはずだ)。安本美典も。
 結局のところ、これらの人名・その叙述への言及は<衒学>だと考えられる。自分の本業は「歴史」ではないが、これだけ多数の文献に目を通したのですよと、読者に言いたい、そして自慢したいのだと思われる。1-2頁ぶん使って引用して、せっかくの紙面を無駄にしている場合もある。
 三 この『国民の歴史』が「歴史哲学」、歴史「思想」に関係する? 「グローバルな文明史的視野を備えてい」る?
 悪い冗談はやめた方がよい。

2277/「わたし」とは何か(10)。

 松岡正剛・千夜千冊からどうして<「わたし」とは何か>を主題とする書き込みを始めたのか、忘れてしまっていた。関連して入手した浅野孝雄訳・フリーマンの書の冒頭の、<あなたとは何か>という問いに刺激されたのだった。
 浅野孝雄著によるダマシオ説に関する叙述を紹介して、(10)という区切りのよい所で終える。「延長意識」等々についてなので、「わたし」の問題からは離れる。「わたし」=Self、self-conciousnessは、「こころ」(mind)や「意識」(conciousness)と同義ではない。
 また、ダマシオの著書は、<デカルトの誤り>の他に、入手可能な邦訳書・原書をすでに所持だけはしているのだった。したがって、それらを直接に読むので足りるのに気づくが、浅野孝雄の紹介に引き続いて頼る。 
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。
 ——
 1 アイデンテイティ。
 「自伝的自己」が「個人の所属する集団・民族の文化的伝統の内に組み込まれ、それと一体化したもの」。これが、「個人のアイデンティティ」だ。
 アイデンティティは、「人格」=自伝的自己や「中核自己」=「われ」とは区別される。
 2 「拡張意識」(extended conciousness)
 原自己・中核自己・自伝的自己という「出来事の連鎖」の上に「拡張意識」が生まれる。
 これは、「二次的マッピング」で生起した「現象」が、global workingspace(バース)、dynamic core(エーデルマン)で、「他の全ての情報・表象」すなわち「記憶・感情・作業記憶と結合し、辺縁系(海馬)、傍辺縁系などの働きによって時空間に定位される」ことによって発生する。
 「一方の根」が「身体シグナルと結びついた原自己」にあるので、「感情」(feeling)の性格を失わない。
 他方で、「現在起こっている事象と緊密に結びついている」ので、「起こっていること(what happens)についての感情」だ。
 「外部の対象」と同様に「大脳皮質」内の「一つの表象」も「中核意識の生成を刺激し、その拡張意識への発展を促す」。
 3 「知性」(intelligence)
 「拡張意識」は「知性」と我々が称するものの「母体」となる。「有機体が有する知識を最大限に利用することを可能とする点」において。しかし、「知性」そのものではない。
 「知性』は、「拡張意識が呼び起こした知識を利用して新奇な反応」=「新しく統合された認識(大局的アセンブリまたはアトラクター)」を生み出す、「拡張意識よりもさらに高次の能力」だ。
 「前頭葉に宿る知性の働き—創造力—」は「人間精神の最高位に位置」し、「全ての個人の精神、さらには文明を発展させてきた原動力」であって、この精神的能力こそが、アリストテレスのいう「能動理性」だ。
 4 ダマシオはこのように、「原自己」という最下位の事象が最上位の「知性」に至るまで「変容をつづけながら螺旋的に上昇する構造」としして、「意識」を理解する。「意識の全構造」が、原自己・中核自己を中心とする全ての「経験と環境の認識」と「相互依存的な関係」を取り結ぶ。頂点にあるのは「知性」だが、「そのピラミッド自体は複雑なフィードバック・システムを形成している」。
 ——
 叙述はさらに、ダマシオにおける(有名な)「情動」と「感情」の区別等に進んでいるが、ここで終える。
 「意識」もそうだが、「アイデンティティ」(identity)や「知性」という日本人もよく用いる概念・言葉について説明され、何がしかの定義もされていることは、新鮮なことだ。「わたし」=「自己」についても。
 もとより、私は全てを理解しているわけではないし(脳に関する基礎的知識・素養が不十分だ)、納得しているわけでもない。また、「最上位」の「知性」をもってしても、人類は平気に「殺し合い」、平気で「人肉食い」もしてきたのだ、と思いもする。
 また、このような<一般論>でもって、全ての個々の人間の自己意識を含む「意識」の詳細な全構造の内容が判明するわけでもないし、それは永遠に不可能だと思ってもいる。
 但し、究極的・本質的には(茂木健一郎が若い頃から言っているように)、人間の「精神」作用は、「自己意識」も「こころ」も、何らかの、複雑な物理化学的作用の一つに他ならないことを、「文科」系人間も知っておく必要がある。「世俗的名誉」、「世間的顕名」、「体裁」を維持したいとは、いかなる「気分」、いかなる「意識」によるのか??
 **

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2276/池田信夫ブログ022。

 池田信夫ブログマガジン2021年1月18日号は興味深い内容を含んでいるので、当否についての議論はしないで、またその能力もないので、可能なかぎり、そのまま引用しておく。同号の<21世紀は『新しい中世末期』>から。言及されている著書ではなく、池田自身の見解・文章だと見られる。
 **
 1・冷戦終了とともに「新しい中世」に回帰したとの説があるが、「今はむしろ中世末期にヨーロッパの封建社会が崩壊した時代」に似ている。
 ・「中世にはヨーロッパが精神的にはキリスト教で統合され」た。一方、「政治的には領邦が分立していた」。その頃まで「日本とヨーロッパは(キリスト教を除いて)よく似ていた」。
 ・「しかし、12世紀ごろから」、領邦を超える商取引・貿易が盛んになり、「領主の支配」を逃れて「ヨーロッパ全域」を商圏とする商人が増えた。この商人たちは「個人の契約による株式会社を組織し、株式でリスクを分散して全ヨーロッパ的に活動した」。
 ・一方、「領邦はローカルな統治機構を維持」し、「カトリック教会による精神的支配を維持」しようとした。
 ・これに対し、プロテスタントは、教会を超える『聖書による救済』を主張し、全ヨーロッパ的な普遍主義を掲げた」。その(プロテスタントの?)「組織が株式会社のモデル」になり、個人が「地域を超えてヨーロッパを移動」し始めた。
 ・かかる動きと、「伝統的な地域支配を維持しようとした領主とカトリック教会が戦ったのが、宗教戦争」だった。
 ・「いま起こっている主権国家を超えるGAFAMなどのグローバル化」は、「中世末期に起こった領邦を超える商人の活動とパラレルな現象」だ。
 ・それが「宗教戦争のような内乱」を招くとは考え難いが、「アメリカの現状を見ているとその可能性はゼロではないようだ」。
 2・「GAFAMに国家の司法権は及ばない」。「ドイツ政府のような言論統制は無意味」だ。
 ・「国家に課税権」があっても、「GAFAMのように実体のない企業は『世界最適立地』によって納税額を最小化できる」。「実効税率」はAmazonで12.7%、Googleで15.8%、Appleで17.1パーセントと推定されている。
 ・中世末期と似ている。「個人に対して領主は課税しようとし、カトリック教会は個人を支配しようとし」た。しかし、200年以上の「宗教戦争でヨーロッパは分断され」た。かつまた、「個人が所属する共同体を失って法の支配のもとに置かれる近代国家が成立した」。
 ・日本は「中世の領邦が成立している状況を固定して江戸時代の平和を守り、ヨーロッパに300年ぐらい遅れをとった」。
 ・「明治以降」に、「キリスト教の模造品である天皇制でその遅れを取り戻した」。そして、「内戦がなかった分、共同体から自立した個人の形成が遅れた」。
 ・こういう「ローカルな共同体に依存するシステムは、グローバル化に適応できない」。「労働者を企業に閉じ込める日本型企業コミュニティの優位性」がなくなり、「クラウド・コンピューティングで契約ベースのビジネスが増える」。こういう状況は、「こうした変化を加速するだろう」。
 ・生成のときから、「契約ベースの社会」は「快適」でなかった。「人々を不断の競争にさらし、貧富の格差を広げ、伝統的な社会を破壊する」。これを「神の秩序に反する」と攻撃したのが「カトリック教会のイデオロギー」だったが、これは「今日『市場原理主義』を攻撃して、貧しい人々に施しを与えようとする人々」に似ている。
 ・だが、「経済圏がグローバルに広がるときは、両者の効率の圧倒的な差によって、このシステム間移行は避けられない」。
 ・それはかつて100年以上の「宗教戦争を引き起こした」くらいの「大きな変化」だ。そして、「国家がグローバル資本主義をコントロールしようとする動き」は今後強まるだろう。GoogleやFacebookに対する「独禁当局の訴訟は、その第一歩にすぎない」。
 **
 以上。「国家」、「共同体」、「個人」。「領邦」制、「江戸」・「明治」、「天皇」制、キリスト教、「カトリック」、「プロテスタント」、「宗教戦争」・「内乱」、「日本型企業コミュニティ」、「契約ベースの社会」、「市場原理主義」、「グローバル資本主義」、等々。

2275/池田信夫ブログ021—NEC・PC9801無印から。

 池田信夫のブログで最近よく、<デジタル資本主義>とか<資本主義の非物質化>等々の言葉が出てくる。
 これにも関係して、同ブログマガジン2021年1月18日号では、「システム間移行」という言葉を池田は使っている。
 この語は、現在は大きな「システム」の移行期にある、ということを前提にしているだろう。中世末期・欧州封建社会の崩壊期から「近代」(資本主義)への移行期にむしろ似ている、と(たぶん)言っているのだが。
 上の当否はともあれ、現在・現代はどういう時代で、これからどう「変化」していくのだろうか。日本はどうなるのだろうか。むろん、日本のことを考えて論じるためには、「世界」と切り離すことができない。
 日本の一部<ナショナリスト>の思惑とは全く無関係に、日本はとっくにグローバリズムの中に組み込まれていて、たんに<日本ファースト>と念仏の如く唱えても無意味だ。この表現は「念仏」を大切にする宗教者・宗教界にはたいへんな失礼・非礼になってしまったけれども。
 **
 このあたりのことを書く予備作業のようなものとして、以下を書く。
 「科学技術の発展」とよく言ったものだが、私のような古い世代の人間の一部からすると、最もそれを感じるのは、(1970年代末までこの言葉自体がなかった筈だが)「バソコン」をめぐる環境・状況の変化だ。
 秋月瑛二は、1982年末(または1983年初頭)に同年10月新発売のNEC・日本電気製PC-9801(無印)を購入した。価額・仕様等の仔細は省く。
 その後数台のPC98機を利用したが、特筆すべきは、たぶん80年代の半ば〜後半には<V10>という日本(NEC)製のOSが使われていた、ということだろう。
 当時、①NEC98、②MS-DOS、③Apple(マッキントッシュ)の三陣営が競っていたが、①のNEC98シリーズが個人(法人も?)市場の半分強のシェアを占めていた。パソコン関係雑誌も三種類あった(その中にSoftbank社発行のものもあったような気がする)。
 そのNEC98陣営もMS-DOS(Microsoft社)に屈し、さらに90年代になると、Windows陣営に加わる。私もまた、Windows3.0を利用した一人だった。日本独自のOSなんてものは、なくなった。それでも、アプリ・ソフト界では徳島市に本社のあるJustsystem社がいま以上に元気で、インストール済ワープロ・ソフトをMicrosoft・ワードか「一太郎」を選択することができた(私はじつに昨年中途まで、後者を使っていた)。
 Sony社も独自パソコンを生産・販売しており、私も二代ほど続けたことがあったのだが、今やパソコン(ハード)を切り離し、Vaioという別会社に移したPCも、何と数種類のノート型として売られているだけだ。
 2000年代、2010年代と変化は激しい。かつては存在しなかった言葉の「スマホ」も一般的になった。Android とかいうのが出てきた。ソフトとか称していたアプリはかつてはCDとして買って本体に入れていたものだが、今やほとんど「無線」を通じてになった。
 Wi-Fiなるものが出現して以降、さすがの秋月も?、なかなか付いていけない。
 昨年は、Google-Chromeというブラウザが WindowsでもMac でも使える(しかもなかなか便利らしい)ことを知って驚いた。
 かつて、WindowsとMac(Apple)の間の<互換性>を問題にしていた頃とは隔世の感だ。しかも、PCとしてのMac ではMac-OS の他に、Windowsも走らせることができる、という(但し、現在の新しいCPU のM1のもとでどうかはよく知らない)。
 スマホやタブレットの分野では(少なくとも現在の日本では)Apple社のものが市場第一位のようで、日本社製は肩を並べられないようだ。スマホの場合のOSはiOS、タブレットの場合のOSはiPad-OSと言って、PCとしてのMac(最新のOSはBigSurという)とある程度の共通性があるらしい。
 さらに、①CPU、②OS、③Browser の違いは何となく理解できるのだが(かつては今よりまだ単純だったが)、①についてMac(Apple)は昨秋にIntel 離れをして、自社製CPU=M1に変えた。<インテル入ってる>ではなくなった。ますます、古い世代の人間には訳が分からない。
 と、いろいろ書いていてはキリがない。要するに、現在の日本でも重要・不可欠のツールになっているPCを含むIT分野で(言及していないことかがはるかに多いが)、アメリカの世界的企業(GAFAとか)の席巻は著しい。
 池田信夫はGAFAM という語も使っているが、古く(それでも80年代だろう)からあるMicrosoftに敬意を表すと、MAGFA(マグファ)という方が、ひびきが良いような気が(個人的には)する。
 さて、ソ連解体前でのソ連・ロシアのIT技術はどうだったのか、とか、現在の中国の(世界的シェアは大きいらしい)IT 業界・産業にはどのような「新しさ」があるのか、などと想起していると、アメリカ(や日本を含む世界)でのOS 、Browser等の占有をめぐっては、「国家」とは無関係に<自由に>(開発と)競争が行われてきたことに気づく(但し、国家のもつ軍事技術の発展形という側面もあるようだ)。
 自由な競争の成果、ということなのだが、その結果としてのGAFAM(MAGFA)の諸国民の生活への浸透とその「支配」の程度は、「国家」よりも場合によっては上回り、かつ「国家」をも脅かしているのだろう。
 **
 疲れたので、この程度にする。「プラットフォーム」という語の意味も含めてよく理解していないこともあるので、さらにいろいろと読んで、思考してみることにする。
 以上、Word も(Atokも)、Google日本語入力も使わないで、書いた。

2274/西尾幹二批判007。

 西尾幹二の<反大衆>性については、また別に記す。
  L・コワコフスキによるニーチェに関する小論考のうちで、関心を引いた文章群はつぎだった。邦訳書・藤田祐の訳に添って、つぎのように略述した(No.2259)。 
 ニーチェは諸論点を自信満々に語るが、批判者は相互矛盾を指摘する。「しかし、ニーチェの標的は明確だ。ヨーロッパ文明である」。彼はロックやカントが取り組んだ問題を扱わなかったという意味では「哲学者ではなかった」。彼の目的は、「ヨーロッパ文明が幻想で虚偽で自己欺瞞に満ちていて世界をありのままに見られない」ことを明確にさせて、「当時のヨーロッパ文明がいかに脆弱で軽蔑すべきで堕落しているのかを示す」ことだった。
 この部分の主要な意味は、ニーチェの<反科学・反ヨーロッパ文明・反近代文明>性の指摘だろう、と思われる。
 だが、併せて付随的に印象に残るのは、ニーチェは「ロックやカントが取り組んだ問題を扱わなかったという意味では『哲学者ではなかった』」、という部分だ。
 この部分の紹介は、邦訳書および英語原書をあらためて参考にしても、誤ってはいない。全体を「」で包んで引用しておこう。
 「ニーチェは、ロックやカントが提起した問題(the quetions posed by Locke or Kant)と格闘(wrestle)しなかったという意味で言うと哲学者(a philosopher)ではなかった」。
 換言すると、ニーチェはロックやカントのような哲学者ではなかった、という意味になるだろう。
 これは、いったいどういう意味だろうか。ニーチェもまた<哲学者>の一人ではないのか。少なくとも日本では、一般的にそう理解されているはずだが。
 あためたてニーチェの文献を読む気のないことは既述のとおりだが、L・コワコフスキによる紹介・分析等々と併せて考えると、ニーチェはつぎのような意味で、欧米の<ふつうの>哲学者とは異なる、のではないかと思われる。
 すなわち、L・コワコフスキ等々の哲学関係文献を読んでいてしばしば、またはときどき出てきて、意味不分明なままで、または立ち入った意味探索を省略して「試訳」として使ってきた言葉・概念だが、ニーチェには、つぎの二つが欠如している、またはほとんどないのだ、と思われる。
 ①<認識論>=epistemology, Erkenntnisstheorie 。
 ②<存在論>=ontology, Ontologie 。
 これらは古くから(西欧)哲学の重要な対象、または中核的に「哲学」された問題だった。安易な紹介は恥ずかしくなるので避けたいが、後者は「存在・不存在』の区別と各々の意味を問題にし、前者は「認識」するということの意味、つまり「主体」・「主観」と「客体」・「客観」の関係や各々の意味を問題にする。
 たしかに、ニーチェの諸主張・諸見解には、これらについての「哲学者らしい」考察はなさそうだ。
  さて、西尾幹二はニーチェの研究者であったらしく、ニーチェを中心として西欧(・欧州)の哲学・思想一般に造詣がある、という印象を与えてもいるが、この点は相当に疑わしいだろう。
 なるほど、欧州・世界の学問研究・「論壇」の市場でどの程度通用するかは別として、西尾は<日本では>、<日本人の中では>、ニーチェについて詳しい知識を持つ人物なのだろう。
 だが、ニーチェはロック、カント等の系列にはない、<ふつうの>哲学者ではない、という指摘があることを知ると、ニーチェが哲学者の一人だとしても、ニーチェについての知識が多いことは西欧(欧州)の哲学やその歴史について造詣があることの根拠にはまるでならないだろう。
 そして、西尾幹二の文章を読んでいると、ニーチェの名前が出てくることはあっても、アリストテレス、プラトンを初め、カント、ヘーゲル、ハイデッガー等々の名前が出ていることはまずない(かりにドイツ系に限っても)。ハンナ・アーレントの名を出していることがあったが、邦訳書自体ですでに大部なので、どの程度詳細に彼女を読んだかははなはだ疑わしい。
 以上が示唆するのは、西尾幹二は、①<認識論>、②<存在論>について、ほとんど何も知らない、ということだ。先走れば、西尾幹二のある書物の最終頁にこんな文章がある。
 これらは「ごく初歩的な歴史哲学上の概念」を提示している。すなわち、「歴史は果して客観たり得るのか。主観の反映であらざるを得ないのか」。
 こんな「ごく初歩的な」問題をあらためてくどく記していることにも、こうした問題についての初歩的・基礎的な思考・考察をしてこなかったことが現れているだろう。
 西尾幹二全集第17巻(2018)、p.760。
 こうした、「主体」・「主観」と歴史を含む「外界」の関係・区別にかかわる問題領域についてある程度は知っていないと、哲学・思想畑に関係する文章を書き、書物を出版することはできない。
 では、西尾幹二は、ニーチェについてだけは、正確に理解しているのだろうか。
 この欄ですでに紹介したことだが(No.2249)、西尾は、例えばつぎのようにニーチェに言及する。月刊WiLL2011年12月号。
 「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、西洋の古典文献学、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです。
 明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」 。
 このような文脈でニーチェの名前を出すことに、どういう意味があるのだろうか。
 すでに指摘したことだが、ニーチェはキリスト教上の「神」について、「神は死んだ」と書いた(はずだ)。しかし、そのことと、「日本の儒学、シナの清朝考証学」や「明治以後の日本の思想」とはどういう関係があるのか。
 また、新たに指摘すれば、ニーチェは「神の廃絶と神の復権」について、いったいどういう発言をしたのだろうか。
 要するに、「神」に触れる段になってニーチェの言葉を「思いついて」、あるいはその名前が「ひらめいて」挿入したにすぎないと思われる。ニーチェについてならば、自分は言及する資格がある(ニーチェ専門家なのだ)、と思ってのことだろう。
  ニーチェにおける<反大衆>性に関係するが、ニーチェは「弱い」、「劣った」民衆には無関心で、そのような人々を侮蔑し、<力への意思>をもつ「強い」人間になれ、自分はその「強い」人間だ、というようなことを言ったらしい。
 こうした気分は、西尾幹二にも見られる。<反大衆>性には別に言及するが、そのような<思い上がり>は、西尾の例えばつぎの文章に顕著だ。 
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(2018)、p.751。
 「中国をを先進文明とみなす指標で歴史を組み立てる」のを「克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 何と、自分自身の著書を二つ挙げて、「グローバルな文明史的視野を備えていて、…と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」、だと‼︎。西尾、83歳のときの言葉。
  上の部分は、30歳のときから計算しても50年間の自分の「主著」は(ニーチェに関するもの以外に?)上の二つしかないことを自認しているようで、その意味では興味深い(現在の上皇后批判書、雅子妃は(当時の)皇太子と離婚せよ、小和田家が引き取れ、という内容の書物は「主著」ではないのだろう。きっと)。
 また、上は西尾幹二全集の(西尾自身が執筆した)「編集後記」の中にある文章なのだが、西尾幹二全集という「全集」の編集の仕方は異様であって、看過できないところが多々ある。この点は別にもっと詳しく書かなければなない。

2273/「わたし」とは何か(9)。

 ダマシオの「自己」理論についての浅野孝雄の叙述のつづき。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。 
 三 C 自伝的自己(歴史的自己)
 「新しい経験」はすでに蓄積された記憶に追加され、「記憶」は「一つのニューラル・パターンとして再活性化」され、必要に応じて「イメージとして意識に、あるいは意識下に」表象される。
 こうして生起した「中核意識」において、「中核自己と結びついた記憶の総体との結びつき」が生まれ、その「結びつきが確立・統合」されて、人は「ある程度の不変性・自律性を有する人格(パーソナリティ)」を獲得する。
 獲得するこれが、「自伝的(歴史的)自己」だ。
 つまり、「過去における個体の経験」と「未来において期待される経験の内容」とが「内示的・外示的記憶として蓄積」されることにより、「自伝的(歴史的)自己」が形成される。
 「自伝的自己」は、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ」、つまり「ある時点について固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系」だ。それは、「自分とは、かくかくの人間である」というような「意識の中に客体化された自己についての観念」だ。
 ——
 このあとに、印象深いとしてすでに紹介した文章がある。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
 ——
 四 さて、<原自己>・<中核自己>・<自伝的自己>の三区別とそれらの発展?に関する叙述から、さしあたり、シロウトでもつぎのように語ることができるだろう。
 ①「胎児」もまた、専門知識がないからその時期に論及できないが、いつの時点からか、<原自己>を(無意識に)有している。「自己」を「わたし」と言い換えれば、「胎児」にもいつかの時点以降、「わたし」がある
 ②人間が生誕して、いわゆる<ものごころ>がつく頃、おそらくは「自分」と他者(生物、いぬ・ネコを含む)の区別を知り、「自分」が呼ばれれば反応することができる頃—それは何らかの欲求・感情を表現する「言葉」を覚えた頃にはすでに生じていると思われるが—、<中核自己>は成立している
 ③<中核自己>が「思い出」をすでに持つようになる頃からいわゆる「思春期」にかけて、<自伝的自己>が形成される。むろん、その後もつねに継続して、<自伝的自己>の内容は、(同じ部分を残すとともに)新しい「経験」・「記憶」・「予測」等々によって、変化していく。
 こう考えることができるとすると、「わたし」=自己というものを単一に把握することは決定的に誤りだと気づく。また、単純に「原自己」が後二者へと移行するのではない。成人になっても、<自伝的自己>の根元には(これまた変化している)<原自己>がある。
 こうしたことは、「発達科学」あるいは<子ども>の成長に関する諸研究分野において当然のことを、別の言葉で表現しているのかもしれない。
 **
 ところで、「わたし」とはいちおう別のレベルの問題だと思われるが、浅野によると、ダマシオは、「拡張意識」や「アイデンティティ」等の言葉を用いて、その「意識」理論をさらに展開しているようだ。興味深いので、さらに別の回に扱う。

2272/人間と「脳」の神秘・奇跡。

  浅野孝雄の最初の著かもしれないつぎの著の中途に、浅野はこう書いている。
 藤田晢也=浅野孝雄・脳科学のコスモロジー−幹細胞・ニューロン・グリア(医学書院、2009)。p.239。一文ごとに改行した。
 「脳を構成する神経細胞の数はゼロから出発して、成人では約450億個に達し、それから死ぬまで減り続ける。
 脳が行う学習と記憶は一生続くプロセスであるが、それはニューラル・ネットワーク内部の神経回路が絶え間なく変容を続けることである。
 このニューラル・ネットワークの働きによって、脳がヒトの心の基本的特性を獲得し、文化・文明に適応し、さまざまな創造を成し、しかも自己の一体性を保持しているということは、まさに宇宙の奇跡である。」
  つぎの著では、自分の担当部分の冒頭で、浅野孝雄はこう書く。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学—心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。p.55。一文ごとに改行した。
 「浅野は、幾多の開頭手術を行い、生きている脳に自らの手で触れてきた脳外科医である。
 ピンク色に輝き、微かに拍動する脳にメスを下そうとする瞬間、それが人間の心を宿すという神秘的事実は、驚嘆と畏敬と惧れが入り混じった複雑な感情を呼び起こさずにはいない。
 カントが言った物と物自体の区別、唯物論と観念論、あるいは一元論と二元論の歴史的対立は、生きている脳がその外貌を露わにする時、最も鮮烈に立ち現れる。
 「『物』としての脳に分け入れば分け入るほど、『物自体』である心は見えなくなっていく。……
 脳外科医としての筆者の思考は物の世界に属していてそこから離れることがない。
 脳外科医としてそれ以上を望むべきではないのかもしれないが、筆者はそれでは満たされないものを感じ続けていた。
 50代も半ばを過ぎたころから、『心』の世界を覗き見たいという欲求がなぜか燃えさかってきたために、心と物の世界を繋ぐ唯一の窓である脳問題にについて、改めて学び考えることを筆者は決意した。」
  浅野は、多数の脳科学者・周辺学者(ドーキンス、チャーマーズ等々を含む)のほか、決してニーチェに限られない、多数の哲学者の哲学書等も紐解いたようだ。上の第二の著の注記によると、アリストテレス、アリエリー、デカルト、ドゥルーズ、ダイアモンド、ライプニッツ、ハイデガー、フロイト、ハンチントン、ヤスバース、レヴィ-ストロース、ロック、メルロ-ポンティ、西田幾太郎、等々。
 「知」のために研究し文章を書く人と、「自分」、自分の「名声」・「名誉」のために文章をこね回して<こしらえる>人とがいる。

2271/「わたし」とは何か(8)。

 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
 「自伝的自己」とは、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ、即ち、ある時点において固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系である」。それは、「意識のうちに客体化された自己についての観念である」。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 以上、浅野孝雄=藤田晢也・プシュケーの脳科学−心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。 p.196。
 なかなか印象的な文章だ。但し、「自伝的自己」、「陳述記憶」等の術語があり、直前には「アイデンティティ」という語も出ている。
 これは浅野孝雄執筆部分にあるが、A・ダマシオ(Antonio Damasio)の<意識理論>に関する叙述の中にあるので、ダマシオ説の紹介の一部なのではないかと思われる。 
 ダマシオと言えば、その著書の一つの邦訳書(の一部)をこの欄に要約しいてたことがあった(2019年11月頃)。そのかぎりで、ある程度は<なじみ>がある。
 浅野孝雄は、その執筆部分(II、全体の8-9割)の<第3章・意識と無意識>の第2節で「ダマシオの意識理論」を扱う。そこにはダマシオによる「自己」の三分類、または三段階に螺旋的に生成する「自己」論が紹介されているので、以下、とりあげて見よう。
 ここにもあるように、「自己」・「わたし」とは脳内の特定の部位・部所にあるのではない。境界も定かではない、絶えず変動している、一体のカオス的回路の一定部分・一側面なのだろうと、シロウトはとりあえず考えてきた。
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 p.193〜p.196。
  ダマシオは1994-2003年に、①Decartes' Error、②The Feeling of What Happens、③Looking for Spinoza を発表した。
 ①は邦訳書もある世界的ベストセラー書。「近年の脳認知科学の見地からデカルトの物心二元論」を誤謬として排斥するのは容易なことで、この書の眼目は「身体(脳)と心がいかに不則不離な関係」にあるかを示すことだった。
 ②では、「感情を中心として、意識の構造と脳の構造・機能との対応」を包括的に論じた。
 ③では、スピノザの「一元論」に共鳴し、スピノザ哲学が秘める「(原)生物学的な意味合いを、現代脳(認知)科学の内容に活かそう」とした。
 デカルトを詳細に調べたダマシオが、デカルトの友人だが「それとは異なる見地から人間の感情」に関する哲学を構築したスピノザに関心を持ったのは自然だ。
  ダマシオは、「エーデルマンのダイナミック仮説」をふまえ、「自己」を①「原自己(protoself)」、②「中核自己(core self)」、③「自伝的自己(autobiographical self)」の三段階に分けた。
 これらは、「意識の螺旋的構造の内に階層的に位置」する。
 「意識の螺旋の底部」にあるのはNN(ニューラル・ネットワーク)の働きで、「覚醒状態において対象と有機体との関係から生じる様々な情報がダイナミック・コアに到達する以前」の段階にある。これが「イメージ・表象の受動的生起から始まる」とする点で、フリーマンと決定的に異なる。ダマシオ理論はアリストテレス的で、フリーマン理論は「トミズム的」だ。
  A 「原自己」とは、ダマシオによると、「個体の内部状態(身体から脳幹へと伝達される全ての情報)が、脳の複数のレベルにおいて相互に関連しあい、まとまりを持って大脳皮質に投射された神経反射のパターン(一次的マッピング)」だ。
 身体情報の受領・処理をする脳領域は「脳幹・視床下部・前脳基底部・島皮質・帯状回後部など」。ここに存在する様々の装置は、「生存のために身体の状態を継続的かつ「非意識的」に比較的に安定した狭い状態に保つ」=「個体のホメオスタシス」を維持する。
 この諸装置から「第一次マッピングとして継続的に表象」されるのは「個体の内部環境・身体臓器などの状態」で、この表象の全体が「原自己」を形成する。
 「原自己」はあとの二つの「自己』の基底だが、「海馬との情報交換」がなく『時間的・空間的定位」を欠き、「大脳皮質が未発達な動物の原始的な意識」と同じく、「意識に上らない」、つまり「無意識」だ。
 「原自己」は、「われわれの現在の意識が集中している自己」と区別されなければならない。それは『言語、認知、知識に関わるモジュールと直接の関係」を持たないので、人間が「明示的に認識」することがない。
  「中核自己」は「原自己」を母体として発生し、初めて「意識が生じる」。ダマシオの前提は「個体の全ての部分」とともに「身体内外の対象」も脳にマッピングされるということで、「原自己」と同様に「外的対象から生じたシグナルは、その性質に従って局所的にマッピングされる」。「原自己と外的対象の一次的マッピングは、脳の異なる部位に生じる」。
 それらから生じた表象は「上丘、帯状回などの、より上位の脳領域に投射され』、それを「二次的マッピング」と言うが、そこで「個体の内部状況と他の全ての対象の表象が相互的に作用」して、「新たな表象が生じる」。こうして「意識に上った表象は、未だ言語化されていないイメージ」ではあるが、「個体の全身的な身体状態と結びついているので感情(feeling)となる」。
 かくして、「個体は、自分がどういう状態にあって、何が起きているかについての最初の意識を有する」。これが「中核自己」だ。
 つまり、「脳の表象装置」が、「個体の状態が対象の処理によってどのように影響されているか」の「非言語的なイメージ」を生み、それと平行して「対象のイメージが海馬の働きを介して時間・空間的文脈の中に明確に定位される」とき、「中核自己」が生まれる。
 「対象の明確化」と「原自己の変容」が進んで、「自己」が各相互作用の「主役』として強く意識されるとき、「対象によって触発されて原自己から立ち上がる」のが「中核自己」だ。つまり、「中核自己」は「対象によって変容した原自己の、大脳皮質への二次的マッピングにおいて生じる非言語的表象」だ。
 対象による中核意識機構の活性化によって生成する「中核自己」は、「短い時間しか持続しない」。
 だが、「対象はつねに入れ替わりながら中核意識を活性化する」ため、「中核自己」は「絶え間なく生起」し、ゆえに「持続的に存在しているかのように感じられる」。
 「中核自己」は「コア・プロセス」に「付随』しており、「一生を通じてその生成メカニズムが変化することはない」。かくして「われ」が感情によって染められた「中核意識」の中に浮かび上がる。
 「われ思う(ゆえにわれあり)」の「われ」として感じられるのが、この「中核自己」だ。
 **
 第三の「自伝的自己」(「歴史的自己」)、これは「人格」=personality と同義かほぼ同義のようなのだが、これについては、別の回にする。ダマシオ説に関する、著者=浅野孝雄の叙述だ。

2270/「わたし」とは何か(7)。

 「『わたし』とは何か」という主題と直接には関係なくなっているが、密接不可分とも言えるので、フリーマンの叙述をもう少しフォローしよう。原書を見て、適宜原語も付記する。
 脳科学について、こうも語られる。邦訳書、p.5。
 −−
 ① ある流派の「脳科学者たち」は「神経の出来事と心的出来事(neural and mental events)は、同じものの異なる様相」だと主張して、「脳がどのようにして思考を生み出すか」という問題を回避している。こうした考えは「心・脳同一説」(the psyconeural identy hypothesis、「同一説」・「双貌説」とも)として知られる。我々には「脳なくして思考する」のは不可能で、「脳」機能の一部は「思考」することなのだから、この説は「原理的には反駁が難しいほど理窟に適って」いる。
 しかし、この「心・脳同一説」を「直接証明(test directly)する方法」はない。
 「あなたが何かを考えながら同時にあなた自身が自身にが脳の中に入り込んで脳がどのように活動しているかを観察することはできません。
 一方、あなたの脳を観察している人に、あなたが考えていることを言葉で伝えようとしたところで、彼はあなたの考えの内容を正確に知ることはできません。」
 −−
 前回に秋月が直感として書いたのと似たようなことをフリーマンも書いている。「現に活動している脳または心」の具体的内容等をその時点で(おそらくのちにでも)正確に知ることはできないのだ。よって、「心・脳同一説」の正しさは検証できないことになる。
 フリーマンは、この点をこうまとめている。
 −−
 ② 「現代脳画像検査方法によって、様々な種類の認知作業において脳の異なる部位が大かり少なかれ同時に活性化することが明らかとなりました。
 しかし、この脳地図における色のパッチ〔濃淡や色の違い-秋月〕から、あなたが何を考えているかを推定することはできません。
 つまりわれわれは同一性仮説を、検証不可能な理論と見なすほかないのです。」
 −−
 しかし、従来・在来の脳科学を全否定するのではもちろんなく、こう語り、かつ次のように目標(・達しようとする結論)を示す。邦訳書、p.6。
 ③ 「しかし、脳理論から因果律(causality)を排除すべきではありません。
 私たち「脳科学者グループは、異なる観点から、選択能力(poweer to choose)は人間にとって本質的で奪うことのできない特性である」と考える。
 「因果律があまねく宇宙を支配することを前提とする限り、選択の可能性を否定せざるを得なく」る。
 逆に、我々は「選択の自由が存在するという前提」から出発し、「因果律を脳の特性として説明すること」を目指す
 「選択の自由が存在するという前提」は「倫理学』を基礎にしておらず、反対にこの前提が、「倫理」の諸問題を発生させる。
 すなわち、「選択の自由」の奨励・拒絶、「選択の自由」を行使し得る性・人種・年齢・教育や資産の程度等々の地多くの倫理的問題」が発生するのだ。そして「選択の自由」の存在という前提こそが「アングロ・アメリカン民主主義社会の土台」となった
 だが17世紀以降の「生物学」・「物理学」の諸発見は「個人の自由」を否定する方向に働いた。スピノザは、「崖を転げ落ちる」岩との違いは人間は「自ら選択したという幻想を抱いている」ことにあるとした
 −−
 そのような状況のもとで、としてフリーマンが目標(・達しようとする結論)してやや長く語るのは、次のようなことだ。
 −−
 ④ 「従来の生物学の基本的発想を転回させ、脳のダイナミクスを正しく理解することによって、選択という生物学的能力を説明する」こと。
 第一に、『選択のオプションがニューロンによって構成されることを説明するような脳のメカニズムを提示する」。
 第二に、我々の「選択の瞬間に、ニューロン回路でどのようなことが生じているかを説明する」。
 第三に、「気づきの本性とその役割、および気づきの状態と意識内容の継起との関連を、脳科学的な用語を用いて説明する」。
 これらの作業は「脳の働きを理解し、その支配権を握るための基礎を築くこと」に他ならない。
 こうして理解された「脳の働き」は、「脳科学が示す諸事実」のみならず、我々の「直観」、「思考」そして「クオリア」と合致するものでなければなない
 −−
 フリーマンによる専門的な論述に立ち入りはしないが(私には知識・能力が足りない)、少なくとも日本の<文科系>、とりわけ<文学畑>の知識人・評論家が想像もしていないかもしれない議論が欧米でも日本でもなされていることが明らかだ。
 何度も名前を出して恐縮だが、西尾幹二はまるで自分は「こころ」や「自由(意思)」の問題の専門家のごとき口吻で語る。自然科学系、とくに脳科学の研究者とは雲泥の差、天地の差、専門家と小学生レベルの幼稚さの違いのあることは明瞭だろう。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.37。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 ああ恥ずかしい。上に限っても、社会科学的知性の方が西尾よりも種々の意味での「こころ」をはるかに問題にし、議論している。西尾が無知で幼稚なだけだ。全集刊行書店の国書刊行会のウェブサイトがこの人物を「知の巨人」と呼んでいるのも、歴史に残る<大嗤い>だろう。  

2269/「わたし」とは何か(6)。

 <自己意識のセントラルドグマ>を維持するとしても、 茂木健一郎の指摘するように、自己意識の対象となる「自己」・「私」はつねに変化しているということを自覚することは重要なことだ。
 いつか書いたように、本質的には、根本的には同一の「私」があって、思春期・成人期・老齢期と成長または発展している、のではない。
 例えば、あくまで例えばだが、西尾幹二や樋口陽一は自分は「ものごころ」のついた幼少の頃から「西尾幹二」・「樋口陽一」であって、その「西尾幹二」または「樋口陽一」という<私>・<自己>が一貫して自分を統御し、(一部では、あるいは一定の分野では)著名な?そして<尊敬される>?人間になった、と思っているかもしれない。そして、その「西尾幹二」・「樋口陽一」はふつうの・平凡な人々に比較して、<優れて>・<秀でて>いたのだ、と自負しているかもしれない。
 このような考え方をする者は、「自分」は他者と違って少年時代から<優れて>・<秀でて>いて、自分の力で(一部では、あるいは一定の分野では)成功して著名になった、と自負している人々の中に多いかもしれない。
 いくつかの疑問符の部分はさて措くとして、このような自己自身に関する理解の仕方は「自己」・「私」が私の脳(も心も)支配してきたし、している、という誤ったものだろう。これは身体(頭)の中に住んでいると想定された、<ホムンクルス>の存在を肯定するもののように見える。
 −−
 W・フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網が生み出す志向性・意味・自由意志(2011)。
 =W.J.Freeman,How Brains make up their Minds(2011,Columbia Uni. Press)。
 数回前に(No.2263で)抜粋紹介を省略したW・フリーマン著の初めの部分の追記を遅れて記そう。この文書を含む章の題は<第1章・自己制御と志向性>で、すでに「志向性」という語がある。なお、この書全体のタイトルにある「心」は上掲のようにmind で、heart ではない。魂・霊(・ときに精神)という意味での soul と区別される「こころ」には mind が用いられており、日本の関係学界や研究者も、これと一致している、あるいはこれを継受していると見られる。「脳」は、brain。
 フリーマンは近年のまたは有力な?「脳科学」を批判して乗り越えようとしているのだが、その「脳科学」について、こう書く。p.3-p.4.
 **
 「自己決定」の本質は何か。この問題は「脳とニューロン」が「心」・「自分自身として経験される行動と思考」をどう創出しているか、「心」の経験が「脳とニューロン」を変化させ得るとすれば、いかにして、に帰着する。つまり<心と脳の間の因果関係>は何を意味するのか、という問題だ。
 「多くの神経学者」はこの問題に目をつぶる。<生まれより育ち>論者にとっては「自己をコントロールできる」という考えは幻想にすぎない。「決定論」信奉のこれら哲学者たちは「心的過程の気づき(意識)」を「随伴現象」と呼び、無意味の「副次的現象」と見る。彼らは、「心的出来事が物理的世界に入り込むこと」の承認は「神が…自然法則を停止させた中世の奇跡」の承認と同じだと主張する。彼らには「クオリア」は「私秘的」な、科学者が接近不能なもまたは科学研究に値しない経験だ。彼らは「変形された刺激が感覚ニューロンによって外的世界が脳へと運びこまれ、そこで予測し得る行動へと処理される過程の自然法則の発見」を目的としており、「偶然」が関与しても(自由意思による−秋月)「選択」が関与する余地はない、と考える。
 **
 今回もこの程度にして区切るが、フリーマンは例えばこのように把握したうえで、「自由意志」(自由意思)とそれによる選択を肯定する。
 その結論と論理過程自体が興味深いのだが、しかし、在来・従来の「脳科学」(brain science )はフリーマンの言うが如き単純な?物的(物理的)一元論?だったのか、という疑問がないわけではない。
 というのは、全くのシロウトにすぎない私は、究極的にはニューロン細胞網等の物理化学的反応の回路による、と説明できるとしても、「自由な意思」の存在を語り得る、と何となく考えてきたからだ。
 その根拠は、たぶんじつに幼稚なもので、その複雑な物理化学的反応の全てのありようを特定の個人ごとに「認識」することなど、人間にできるはずがない、というものだ。その不可能である範囲内で、ヒト・人間の「自由意思」を、そして「私の意思」を、そして「私」を、ヒト・人間は観念し続けるのではないか、と考えてきた。
 なぜ不可能なのか。これまたたぶんじつに幼稚な根拠による。つまり、現に生きている人間の「意思形成過程」の中身・背景等々を問題し「認識」しようとしても、「生きている」がゆえに、その詳細な中身・神経(+グリア)細胞網の「カオス」の状態を知ることには、いかにすぐれた器械・機械装置を発明していくにしても、絶対に限界がある、というものだ。
 「現に生きている人間の」脳細胞=神経細胞等をどうやって覗き込むのか。むろん、ある程度は(興奮すればどの部位辺りのシナプス間の反応が活発になるといったことは)今でも分かるようだが、「現在のこの瞬間に」何を、どのように、何を背景・理由として、「情動」し「思考」しているなど、永遠に分からないのではないか。
 死ねば、脳を解剖することはできる。しかし、たぶん身体・肉体が「死んで」しまうと、脳内の「細胞」も「死んで」いて、生きている場合の形状をとどめていないはずだ。死後の解剖では無意味なのだ。
 したがって、ついでに書けば、茂木健一郎のいう「コピー人間」というものの実現可能性もおそらくゼロなのではないか、と感じている。一部ならば可能かもしれない。しかし、脳は身体全体とともに存在しているので、「脳」だけのコピーはできない(「脳」なるものの範囲も問題になる)。そして、全く同じ身体・肉体条件・「脳」条件にある、全くの「コビー」人間など(思考実験としてではなく実際には)作り出すことはできないのではないか。
 さらに、しろうととして、フリーマン等に言及することにしよう。
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