秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2020/04

2214/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散②。
 (9)ボルシェヴィキは、単純な戦術をとった。
 実質的には立憲会議の正統性を否定する決議によって、会議に対決しようとする。
 ほとんど確実にそれがうまく行かなければ、退出する。そして、正式には解体することなく、立憲会議がそれ以上議事を進めるのを不可能にする。
 クロンシュタット選出のボルシェヴィキ軍人、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)は、この戦術に従って、動議を提出した。
 「勤労被搾取大衆の権利の宣言」と呼ばれたが、1789年の先例とは違って、権利よりも義務について多くを語るものだった。
 ボルシェヴィキが普遍的な労働の義務(obligation)を提示したのは、これだった。
 ロシアは「ソヴェトの共和国」だと宣言される。また、ボルシェヴィキがそれまでに通過させた多数の措置があらためて確認される。とりわけ、土地に関する布令、生産に対する労働者による統制、銀行の国有化。
 立憲会議に求められた重大な条項は、その立法(legislate)する権限を放棄することだった。-この権能のためにこそ、立憲会議は選出されていたのだが。
 こういう文章だ。「立憲会議は、社会主義にもとづく社会の再組織化のための基礎的な原理(fundamental base)を一般的に策定することに、その任務が限定されることを、承認する」。
 立憲会議は、ソヴナルコムが以前に発した全ての布令類を採択し、それらの効力を延長させるものとされた。(125)
 (10)ラスコルニコフの動議は、136対237で却下された。
 この票決が示すのは、ボルシェヴィキ代議員の全員が、そして彼らだけが賛成し、左翼エスエルは保留したと見られることだ。
 この時点でボルシェヴィキ議員団は、会議は「反革命者たち」に支配されていると宣告し、退出した。
 左翼エスエル代議員たちは、当分の間は座席にとどまっていた。//
 (11)レーニンは、午後10時までは彼の「政府席」にいたが、そのときに彼も退出した。
 彼は、いかなる正統性の外装も与えないように、会議に対して発言をしなかった。
 ボルシェヴィキ中央委員会がタウリダ宮の別の部屋で開かれ、立憲会議を解散する決議が採択された。
 しかしながら、左翼エスエルに敬意を表して、レーニンは、タウリダ宮護衛兵に対して、暴力を行使しないよう指令した。
 タウリダ宮から離れようとする代議員たちは全員が立ち去らされ、戻ってくるのを許されなかった。(126)
 午前2時、状況が統制されていることに満足して、レーニンはスモルニュイに帰った。//
 (12)ボルシェヴィキが立ち去ったあと、タウリダ宮には際限のない発言が飛び交った。それらを中断させたのはしばしば護衛兵たちで、彼らは、バルコニーから降りてきて、ボルシェヴィキが空にした座席を占めていた。
 彼ら護衛兵の多くは、酔っ払っていた。
 何人かの兵士たちは、発言者に銃砲の照準を定めて愉しんでいた。
 午前2時30分、左翼エスエルが退出した。そのときに、安全を保つ責任がある人民委員のP・E・ドゥィベンコは、護衛兵の指揮官である海兵でアナキストのA・G・ジェレズニャコフ(Zhelezniakov)に、会議を閉鎖(close)するよう命令した。
 午前4時少し過ぎ、議長のV・チェルノフが土地の私的所有権の廃棄を宣言しているとき、ジェレズニャコフは舞台の上に昇って、彼の背中を軽く叩いた。(*)
 つづく光景は、議事録につぎのように記録されている。
 「海兵、『護衛兵が疲れているので、今ここにいる者はみな会議ホールを去らなければならない、と指令されました』。
 議長、『どんな指令? 誰からの?』
 海兵、『私はタウリダ宮護衛兵の指揮官です。人民委員から指令を受けました』。
 議長、『立憲会議代議員たちも疲れている。だが、疲労があるからといって、ロシアの全てが待っている法を我々が宣言するのを、中断することはできない』。
 (騒がしい声。『もういい、もういい!』)
 議長、『立憲会議は、実力行使の脅迫のもとでのみ解散することができる』。
 (騒音。)
 議長、『貴方たちは宣言する』。
 (騒がしい声。『チェルノフ、降りろ!』)
 海兵、『会議ホールからただちに立ち退く(vocate)よう、要請します』。」(**)
 (13)このようなやり取りが行われている間に、多数のボルシェヴィキ兵団が群をなして、きわめて威嚇的に、会議ホールに入ってきた。
 チェルノフは何とか、もう20分間、会議を続行しつづけた。そして、その日(1月6日)の午後5時までの延会(adjourn)を宣言した。
 しかし、会議は二度と開かれなかった。午前中にスヴェルドロフが、ボルシェヴィキが提案した立憲会議を解散させる決議を、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕に採択させたからだった。(127)
 その日の<プラウダ>は、つぎの大きな見出しつきで発行された。
 「銀行家、資本家、そして地主、カレーディンとドゥトフ一派、アメリカ・ドルの奴隷たち、裏切り者たち-右翼社会革命党-が、立憲会議で自分たちとその主人-人民の敵-のために全ての権力を要求する。
 土地、平和、(労働者による)統制という人民の要求に口先だけで好意を示しつつ、しかし、彼らは実際には、社会主義権力と革命の首の周りを、縄で縛ろうとしている。
 しかし、労働者、農民、兵士たちは、社会主義の最も邪悪な敵がつくウソの罠に落ち入りはしない。
 社会主義革命と社会主義ソヴェト共和国の名のもとに、彼らは公然たるまたは隠然たる殺し屋どもを全て一掃するだろう。」(128)//
 (14)ボルシェヴィキは従前から、ロシアの民主主義勢力を「資本家」、「地主」および「反革命者」と結びつけてきた。だが、この見出しで、彼らは初めて、外国資本とも連結させた。
 (15)ボルシェヴィキは2日後に彼らの対抗集会を開き、「第三回ソヴェト大会」との名称を付けた。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルで94パーセントの議席を占めたのだから、この名称に反対することのできる者はいなかっただろう。(129) この割合は、立憲会議選挙の結果で判断すれば、しかるべき資格者数よりも3倍の人数にあたる。
 残り僅かは、左翼反対派に割り当てた。-悪態をついて馬鹿にするにはちょうどよい数だった。
 その会議は予定通りに、政府代理人が提出した全ての議案を採択した。その中には、「権利の宣言」もあった。
 ロシアは、「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」として知られる、「ソヴェト共和国連邦」になった。この名称は1924年まで維持されたが、その年に「ソヴェト社会主義共和国同盟」と改称された。
 会議はソヴナルコムを国の正統な政府として承認し、その名前から「臨時の」という形容詞を削除した。
 また、普遍的な労働の義務という基本的考え方(principle)も是認した。//
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 (125) Dekrety, I, p.321-3.
 (126) Lenin, Khronika, V, p.180-1.; Malcevskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.217.
 (*) ジェレズニャコフは前年にPeter Dunomovo 邸を占拠し、この人物の逮捕が1917年6月のクロンシュタット海兵たちの反乱を引き起こしていた。
 Revoliutiia, III, p.108.
 (**) I. S. Malchevskii, Vserossiiskoe Uchreditel'noe Sobranie(Moscow-Leningrad, 1930).
 ジェレズニャコフは翌年に、赤軍と戦闘をして、殺された。
 (127) Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.384-6.
 (128) Pravda, No. 4/232(1918年1月6日/19日), p.1.
 (129) NV, No. 7(1918年1月12日/25日), p.3. in Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.389.
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 第8節、終わり。次節の目次上の表題は、<影響と意義>。

2213/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
 (1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
 社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
 「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
 代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
 タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
 近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
 彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
 舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
 誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
 「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
 機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
 タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
 武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
 左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
 監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
 至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
 彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
 武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
 (2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
 レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
 会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
 ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
 「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
 顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
 じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
 (3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
 示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
 しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
 示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
 社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
 (4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
 正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
 タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
 (5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
 兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
 ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
 (6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
 弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
 示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
 「立憲会議、万歳!」
 このとき、兵団の火が噴いた。
 何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
 しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
 Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
 そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
 ここで混乱が発生した。
 ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
 ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
 もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
 (7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
 暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
 それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
 このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
 犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
 労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
 「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
 ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
 (8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
 選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
 開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
 通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
 この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
 「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
 『同志たち、もう午後4時だ。
 最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
 (左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
 左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
 立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
 ミハイロフ、鐘を鳴らす。
 (左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
 騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
 ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
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 (116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
 (117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
 (118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
 (119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
 (120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
 (121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
 (122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
 (123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
 (*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
 ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
 リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
 調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
 (+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
 出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
 同上のp.340では410名とされているようだ。 
 (124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
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 第8節②へとつづく。

2212/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
 (9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
 その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
 そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
 オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
 レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
 オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
 行動は、クリスマスの日に予定された。
 しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
 オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
 彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
 オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
 その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
 レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
 (10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
 立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
 彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
 主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
 (11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
 同党中央委員会は、再び拒絶した。
 中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
 誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
 ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
 危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
 (12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
 同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
 しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
 「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
 『同志よ、我々を愚弄しているのか?
 貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
 では、ボルシェヴィキは?
 彼らは小さな子どもたちか?
 ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
 そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
 そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
 兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
 この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
 レーニンが、個人的な指揮を執った。
 (13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
 兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
 その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
 彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
 ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
 これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
 どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
 そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
 しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
 彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
 このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
 (14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
 ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
 この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
 ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
 (15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
 そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
 最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
 (16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
 1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
 同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
 <プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
 「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
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 (108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
 (109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
 (110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
 (111) 同上, p.61.
 (112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
 (113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
 (114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
 (*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
 (*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
 (115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
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 第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。

2211/塩野宏・行政法Ⅰ・行政法総論(有斐閣,第6版2015)。

 塩野宏・行政法Ⅰ・行政法総論(有斐閣、初版1991・6版2015)。
 この中に、「行政スタイル」についての、つぎのような叙述がある。
 第6版、p.390以下。第二部・行政上の一般的制度/第5章・「行政情報管理」の中の第3節・「補論」。
 ***
 ・ここで「行政スタイル」とは「行政が私人との関係において行政を遂行する実際上のあり方」といい得る。
 各国にそれぞれの「行政上の法制度」があるように、それぞれの「行政スタイル」がある。
 「法制度」と「行政スタイル」が照応していない、というのも「一つのあり方」だ。
 日本の「行政スタイル」の態様を「厳密に規定する」のは困難だが、「ごく大まかには」、「次のような特徴を備えている」と言えるだろう。
 ・「①」。まず、「行政指導の活用」だ。全行政過程で用いられている。
 「申請-処分の場合」は「申請に至る前段階で」行政指導がなされ(「事前指導」)、これに従った「申請書」だけを「受理」することが「よく行われる」。その間に「返戻」が反復されることもある。
 私人の「違法行為」について行政が「監督上の権限」もつ場合でも、直ちに発動することなく「勧告、警告等のよりマイルドな手法」が用いられる。
 「法律上の監督権限や規制権限がないとき」も、「適切な行政指導」がむしろ要請されることもある。
 ・「②」。日本では「相手方との一定のコンセンサスの下に行政がなされていく」。行政指導は形式上は一方的行為だが、「実務上には」「相手方との交渉の余地を残していることが多い」。交渉結果は「契約ないし申合わせ」ではなく「行政指導という形でまとめられる」。
 ・「③」。かりに不本意でも「一応、相手方の納得」があると、紛争が裁判所に持ち込まれ」ない。日本の「行政訴訟の数は欧米諸国に比較すると極めて小さい」。
 日本の裁判そのものに関係するが、日本の「行政のあり方にもよるものと解される」。
 これに対応して、行政は「訴訟の提起を予想せずになされる」。「行政部内における文書管理が必ずしも十分に整理されていない」こともこれと関係があるだろう。
 ・「④」。このような「行政スタイル」のもとでは、「行政過程は、…、とりわけ局外にある者にとっては不透明である」。「基準」が公表されることもあるが、当事者間でも「文書」によらず、従って「記録として残されていないことも多い」。
 ・「インフォーマルな形式」の行政はどの国にもあって、「複雑な現代の行政需要」に対応するには「必要なこと」だ。しかし、日本では、「インフォーマルな行政活動の比重が極めて大きい」。また、相手方私人・私企業も、「かかる方式になじんできた」。
 ・日本の「行政スタイル」を「一概に前近代的であるとか、パターナリズムの現れであると批判することはできない」。
 「現代行政に必要な柔軟性、機敏性もみられる」。しかし、これに頼りすぎると、相手方だけでなく「国民一般の信頼を失い、紛争をこじらせる」だろう。「行政スタイルも変化していかなければならない」。
 ・行政手続法制、情報公開法制、行政機関個人情報保護法制はそれぞれ、憲法上の根拠・法体系上の位置づけ・具体的機能が異なる。
 「しかし、これらは、…日本の行政スタイルに対して、それぞれの仕方において、変革を迫るものであることに注意しなければならない」。
 ***
 秋月瑛二にはとくに珍しくもない指摘であり、文章だ。しかし、さしあたりはつぎの点で興味深いものがある。
 第一。行政を含む日本「社会」のとくに欧米と比べての遅れ、前近代性は、戦後早くの川島武宜の研究?にも見られるように、しばしば指摘されてきた。ある程度は、明治維新=「近代」革命ではなく、半封建的絶対王制の確立といった、「講座派」ないし日本共産党的歴史観が反映されていたのかもしれない。
 しかし、そのような認識・理解の仕方は<法社会学>は別論として、「法解釈学」を中心とする大方の法学分野では共有する必要はなく、そういう次元での議論に関与しなくとも、大方の法学者たちは「仕事」を継続することができた(もっとも、潜在意識または基礎的感覚として、「進歩的」・「民主的」法学者には重要な意味と機能をもったかも知れない)。
 だが、上の塩野宏の叙述は、行政法学という「法解釈学」を中心とする法学分野の教科書・概説書であるにもかかわらず、「行政スタイル」という観点から、上の論点に立ち入っている。
 もちろん、行政法学のみならず他の「法解釈学」を中心とする大方の法学分野の教科書・概説書を全て見ているわけではないが、行政法学分野に限ったとしてすら、このような指摘または叙述自体が数少ない、あるいは稀少なものだろう。
 第二。単純に前近代的として批判しているのでも、「日本的」として是認しているのでもないことは上のとおりで、柔軟な思考がここでも垣間見える。
 しかしむしろ、「日本的」だとして称賛するのではなく、「変革」が必要である旨が強調されているとも読めることが-行政手続法や情報公開法と関連させてはいるが-、注目に値するだろう。
 第三。「わが国の行政スタイル」について、どのような観点または規準でもって、議論し考察すればよいのか。これはもちろん、法学分野の問題に限らないし、その中の行政法学に固有の問題でもない。
 「わが国」・「日本」という特定は、事の性質上(国民国家の成立ないし「日本」という一国家の存在を前提にすれば)当然だろう。
 上の塩野宏の叙述に出てくるのは、まずは「(行政に関する)法制度」とは必ずしも同一ではない、という当然だが至極重要で適切な前提だ(「インフォーマル」うんぬんも基本的にはこれにかかわる)。他に、「欧米諸国」との対比、「前近代」・「パターナリズム」とは一概には言えないこと、「(複雑な)現代」といった、基本的なタームや論述がある。
 また、「コンセンサス」・「納得」とか、「たとえ不本意なものではあっても」とか、「マイルドな手法」とかの語も出てくる。余計ながら、「こころ」・「意思」は、一部<文学>畑の無知な学者たちが想定している以上にはるかに、社会系学問分野では重要なのだ。
 私には特段の困難なく理解できる(意味・趣旨を判別できる)内容だが、これらを用いた叙述以上にどこまで詳細に書けるかというと、著者にもまた覚束ないところがおそらくあるだろう。
 行政指導についても、多数の判決例が別の箇所で言及されている。最高裁判決を含むそのような諸判決にも触れることなくして、上の主題を全て語ることは不可能だ。
 ***
 戦前からあったわけではないし、戦後すぐに定式化されたわけでもないが、1970年代には法学あるいは行政法学上は「行政指導」は一定の学術上の概念としても用いられてきたと見られる(のちに制定法律上の概念・言葉にもなる)。当然に、議論があり、判決例の蓄積もある。
 そのようなこと自体が広く国民一般、マスメディア従事者等にはほとんど知られていないこともまた、「日本的」かもしれない。
 法的拘束力の有無、一方的か「申請」が必要か、といった関心・観点すら乏しい、少なくとも不十分だ、というのが実態かもしれない。
 行政指導にも法律に根拠があるものとないものもある。法律上の(明文の)根拠がない場合、行政指導を行うことができるのは、憲法上の「行政権」に由来するのか、それとも大臣を含む個々の官署の行政組織法制上列挙されている「所掌事務」にもとづいているのか。
 法律上の(明文の)根拠がなくとも、行政指導に従わない私人(・民間企業)の名前を「公表」することができるのか。その「公表」は<制裁>(「不利益処分」?)か、それとも一般公共ないし国民・住民一般のための<情報提供>か。
 指導・要請と「指示」はどう違うのか。
 ……。……。
 

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
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 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
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 第7節②へとつづく。

2209/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。

 折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。
 折口信夫全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。②はp.464以下。原出/1949年06月。
 ***(つづき)
 ②。
 ・「只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思っていられる方が、随分世の中にあるだろうと思います。
 それについて、なお反省して戴かなければならない。
 相変わらずそうして行けば、われわれは遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活を、続けて行かなければならないのです。
 思うて見れば、日本の神々は、かつては仏教家の手によって、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。
 仏教教理の上に、そういう意味において、従来の日本の神と、その上に、仏教的な日本の神というものが現れてまいりました。
 しかし同時に、そういう二通りの神をば信じていたのです。
 しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられていたのではないのです。
 たとえば法華経では、これに附属した教典擁護の神として、わが国の神を考え、崇拝せられて来たにすぎません。
 日本の神として、独立した信仰の対象になっていた訳ではありません。
 だから日本の神が本道に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になって来たという事実は、今までの間になかったと申してよいと思います。」
 ・「日本の神々の性質」は「多神教なものだという風に考えられて来ておりますが、事実においては日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」。
 例えば、多数の神があっても「天照大神」、「高皇産霊神」、「天御中主神」のいずれかを感じるというように、「一個の神だけをば感じる考え癖」がある。
 「最卑近な考え方では、いわゆる八百万の神というような神観は、低い知識の上でこそ考えておりますが、われわれの宗教的あるいは信仰的な考え方の上には、本道は現れてはまいりません」。
 日本の信仰にはそういう風があると見えて、「仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながらも、その時代時代によって、信仰の中心はいつでも移動いたしておりまして、二三あるいは一つの仏・菩薩が対象として尊信されてまいりました。
 釈迦であり、観音であり、あるいは薬師であり、地蔵であり、そういう方々が中心として、信じられていたのです。
 これが同時に日本人の信仰の為方でと思います」。
 ・日本人が「数多の神」を信じているように見えても、「やはり考え方の傾向は、一つあるいは僅かの神々に帰してくるのだと思います」。
 「植民地に神社を造った」経験からは「皆まづ天照大神を祀っております」。この考え方は「間違った考え」を含んでいた、または「指導する神道家が間違った指導をしていた」ことを意味するのだろうが、「その間違いの根本に、そういう統一の行われる一つの理由があった。
 つまりどうしても、一神に考えが帰せられなければならならぬというところがあったのだと思います」。
 ・「神社において、あんなに尊信を続けられて来たという風な形に見えていますけれども、神その方としての本道の情熱をもっての信仰を受けておられたかということを、よく考えて見る必要があるのです。
 千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いていたのです。
 ギリシア・ローマにおける『神々の死』といった年代が、千年以上続いていたと思わねばならぬのです。」
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 ③につづく。
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 現在読みかけの本を4つだけ。
 1. 飯倉晴武・地獄を二度も見た天皇-光厳院(吉川弘文館/歴史文化ライブラリー、2002)。
 2. 及川智早・変貌する古事記・日本書記(ちくま新書、2020)。
 3. 安西祐一郎・心と脳認知科学入門(岩波新書、2011)。
 4. 松岡正剛・心とトラウマ(角川ソフィア文庫、2020)。

2208/レフとスヴェトラーナ13-第4章①。

 レフとスヴェータ、No.13。
 (New York, 2012)

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 第4章①。
 (01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
 この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
 受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
 (02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
 これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
 1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
 「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
 検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
 書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
 おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
 (03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
 彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
 実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
 しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
 検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
 しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
 (04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
 これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
 8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
 収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
 木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
 食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
 そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
 「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
 安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
 外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
 (05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
 「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
 受け取った?」
 レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
 スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
 スヴェータは、その日の午後に書き送った。
 「私もまた、運命論者になりました。
 私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
 でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
 そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
 -<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
 レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
 レフはその夕方にスヴェータに書いた。
 「私にはプレゼントでした。
 この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
 (06) こうして、二人の会話が始まった。
 しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
 スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
 「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
 そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
 でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
 レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
 私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
 (07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
 検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
 どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
 レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
 「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
 だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
 頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
 レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
 営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
 (08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
 友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
 (09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
 スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
 スヴェータは回答した。
 「局留めにする必要は全くありません。
 私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
 のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
 しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
 (10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
 草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
 スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
 彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
 スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
 彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
 「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
 これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
 (11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
 彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
 スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
 これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
 スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
 実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
 「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
 私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
 それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
 心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
 『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
 感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
 彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。 
 「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
 脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
 空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
 魂のすべてが解き放たれる
 兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
 医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
 自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
 これが、心を全て開くためには不可欠だ」
 (12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
 自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
 「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
 工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
 冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
 灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
 まだ他にどうなっているか、知っていますか?
 買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
 私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
 -あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
 (13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
 スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
 彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
 ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
 「今日は、灰色で、一面に曇っています。
 秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
 モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
 全てが、何と遠く感じることでしょうか。
 でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
 そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
 そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
 ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
 これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
 スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
 9月10日に、こう書いた。
 「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
 モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
 人々の数が、多すぎます。
 街路電車では、それは愉快ではありません。
 人々は、苛立っています。
 人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
 メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
 あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
 (14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
 研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
 これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
 スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
 彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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 第4章②につづく。

2207/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
 (11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
 さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
 可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
 (12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
 社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
 選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
 しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
 いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
 いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
 ***〔各1000票単位〕
 ロシア・社会主義諸政党        68.9%
  社会革命党〔エスエル〕   17,943 (40.4%)
  ボルシェヴィキ       10,661 (24.0%)
  メンシェヴィキ        1,144 ( 2.6%)
  左翼エスエル          451 ( 1.0%)
  その他             401 ( 0.9%)
 ロシア・リベラルほか=非社会主義政党  7.5%
  カデツト〔立憲民主党〕    2,088 ( 4.7%)
  その他            1,261 ( 2.8%)
 少数民族諸政党            13.4%
  ウクライナ社会革命党     3,433 ( 7.7%)
  ジョージア・メンシェヴィキ   662 ( 1.5%)
  Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
  Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
  Alash Orda(カザフスタン)  262 ( 0.6%)
  その他             407 ( 0.9%)
 不明              4,543 10.2%
 ***
 ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
 これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
 (13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
 カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
 カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
 彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
 そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
 カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
 選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
 だがこれは、表面的な結論だろう。
 全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
 ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
 ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
 さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
 こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
 結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
 レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
 そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
 勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
 レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
 (14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
 この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
 全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
 ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
 ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
 反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
 レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
 しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
 選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
 ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
 (15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
 いくつかの重要な決定が下された。(92)
 立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
 その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
 本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
 地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
 その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
 海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
 そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
 このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
 (16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
 11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
 (17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
 ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
 それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
 のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
 (18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
 11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
 ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
 立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
 ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
 ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
 ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
 タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
 (18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
 彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
 夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
 その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
 この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
 (19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
 すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
 同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
 11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
 カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
 その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
 これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
 カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
 彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
 このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
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 (83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
 (84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
 (*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
 左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
 (85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
 (86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
 (87) Lenin, PSS, XL, p.7.
 (88) Radkey, Election, p.38.
 (89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
 (90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
 (91) Lenin, PSS, XL, p.10.
 (92) Fraiman, Forpost, p.163.
 (93) Dekrety, I, p.159.
 (94) Revoliutiia, VI, p.187.
 (95) Fraiman, Forpost, p.163.
 (96) Revoliutiia, VI, p.192.
 (97) 同上, p.199.
 (98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
 (99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
 (100) Dekrety, I, p.162.
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 終わり。次節へとつづく。

2206/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙①。
 (1)ボルシェヴィキが民主主義的統制から自由になるためには、もう一つ越えなければならないハードルがあった。すなわち、立憲会議(the Constituent Assembly)。当時のある論者によれば、立憲会議は、喉に「突き刺さった骨のような」ものだった。//
 (2)12月初めまでに、ボルシェヴィキは以下のことに成功した。
 (1) 正統な全ロシア・ソヴェト大会を無力にし、その執行委員会を奪い取る。
 (2) ソヴェトの執行諸機関から立法や上級官僚任命の権限を剥奪する。
 (3) 正統な農民大会を分裂させ、自ら選んだ兵士や海兵で置き代える。
 ボルシェヴィキは、このような破壊的行為を隠して逃げ去ることができなかった。国全体は容易には情報を得られず理解することもできない、そのようなペトログラードの遠く離れた諸組織を操作することに自分たちは打ち込んでいた、という理由では。
 立憲会議は、また一つ別の問題だったのだ。
 全国から選出されてくるこの会議は、ロシアの歴史上初めての真に代表者の集まりになるはずだった。
 開催を妨害したり解散したりすることは最も悪辣なクー・デタであり、全国民の意思に直接に挑戦して、数千万人の権利を剥脱することになるだろう。
 だがしかし、これがなされるまでは、またこれがなされないかぎり、ボルシェヴィキは自分たちは安全だと感じることができなかった。なぜなら、第二回ソヴェト大会の決議にもとづけば、ボルシェヴィキの正統性は立憲会議の是認という条件づきのものだったからだ。-この是認を、立憲会議は確実に拒否するだろう。
 (3)さらに悪いことに、ボルシェヴィキは何度も、立憲会議の招集に関与してきた。
 立憲会議は歴史的にみると社会革命党と一体化したもので、社会革命党はその政治綱領の中心に、これを掲げていた。そして、農民層の支持を獲得しつづけるならば、自分たちが立憲会議で圧倒的な多数派になるだろう、という自信をもっていた。
 社会革命党はこの立憲会議を、ロシアを「勤労者(toilers)」の共和国にするために用いるつもりだった。
 彼らがもっと政治的に明敏だったならば、可能なかぎり早く選挙を実施するよう、臨時政府に圧力を加えただろう。
 しかし、他の者たちと同様に、ぐずぐずと引き延ばした。このことが、立憲会議の擁護者だというふりをボルシェヴィキがする機会を与えることとなった。
 1917年の夏遅くから、ボルシェヴィキは、時が経てば民衆の革命的熱望は冷えるだろうと期待して選挙を故意に遅延させていると、臨時政府を非難した。
 「全ての権力をソヴェトへ!」というスローガンを打ち出すことで、ボルシェヴィキは、ソヴェトだけが立憲会議の開催を保障することができる、と主張した。
 1917年の9月と10月、ボルシェヴィキのプロパガンダは、ソヴェトへの権力移行だけが立憲会議を救出するだろうと、大々的にかつ明確に叫んだ。(75)
 権力を掌握しようと準備していたのだったが、このようなプロパガンダはしばしば、まるでボルシェヴィキの主要な目標は「ブルジョアジー」その他の「反革命」から立憲会議を守ることであるかのごとく聞こえた。
 10月27日、<プラウダ>は読者に対して、こう書いた。
 「新しい革命的権力は、ためらいを許しはしない。すなわち、広範な人民大衆の利益という社会的優越性がある条件のもとで、この権力だけが、この国を立憲会議へと導く力を有している。」(76)
 (4)したがって、レーニンとその党が選挙を実施し、招集し、そして立憲会議の意思に従うと明言していたことに、何ら疑問はあり得ない。
 しかし、この立憲会議はほとんど確実にボルシェヴィキを権力から排除するだろうがゆえに、ボルシェヴィキにはきわめて厄介な問題だった。
 結局は、彼らは勝負の賭けに出て、勝った。そして、立憲会議が廃墟となったこの勝利のあとでようやく、彼らは決して二度と民主主義勢力から挑戦されることはない、という自信を得ることができた。//
 (5)立憲会議を攻撃するにあたって、ボルシェヴィキは、社会民主党の理論に正当化を見出すことができた。
 1903年に採択された社会民主党綱領は、普遍的で平等な直接投票で選出された立法会議(Legislative Assembly)の開催を訴えていた。
 しかし、ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、自由選挙を盲信してはいなかった。
 彼らは革命前には長らく、投票箱は人民の「真の」利益を示す最良の指針であるとは限らない、と主張する心構えだった。
 ロシア社会民主党の創立者であるプレハノフは1903年の第二回党大会で演説して、この問題について若干のことに論及した。のちにボルシェヴィキはこれに依拠して、反対派を嘲弄することになる。
 「全ての民主主義原理は、それ自体の長短について、抽象的にではなく、民主主義の根本原理を呼び起こす諸原理とそれとの関係において、評価されなければならない。<salus populi suprema lex>(人民の安寧が至高の法だ)。
 革命家の言葉に翻訳すると、これの意味は、革命の成功こそが、至高の法だ、ということになる。
 そして、革命のためにあれこれの民主主義原理による行動を制限する一時的な必要が生じたとすれば、制限しないのは犯罪的だ。
 個人的見解としては、普通選挙の原理ですら、民主主義に関する上述の基本的な観点から評価しなければならない、と言うべきだろう。 
 仮定としては、我々社会民主主義者が普通選挙に反対する状況を想定することはできる。<中略>
 革命的熱狂の嵐の中で人民がきわめて良い議会を選出するならば、…、我々はそれを永続的な議会にしようとすべきだ。
 そして、選挙が非革命的だということが分かれば、我々はそれを解散しようとすべきだ。二年以内にではなく、可能ならば、二週間以内に。」(*)
 レーニンはこのような感覚を共有しており、1918年には、明らかに気に入って、これを引用することになる。
 (6)臨時政府は、立憲会議選挙の予定を1917年11月12日と定めていた。その日はたまたま、臨時政府が権力から陥落した2週間後のことだった。
 ボルシェヴィキは最初はこの日程をそのまま維持するかどうかを躊躇したが、最終的にはそのように決定し、その趣旨の布令を発した。(78)
 しかし、つぎは何をするのか?
 ボルシェヴィキ内部でこの問題を議論する一方で、彼らは、対抗派たちの運動能力に干渉した。
 これはおそらく、プレス布令や軍事革命委員会が発したペトログラードを包囲された状態におく命令の背後にある、主要な意図だった。その条項の一つは、屋外での集会を禁止していた。(79)
 (7)ペトログラードでは、立憲会議選挙の投票は11月12日に始まり、3日間つづいた。
 モスクワでは11月19日~21日に、投票が実施された。
 残りの地方では、11月の後半だった。
 臨時政府が定めていた規準によれば、有権者は、20歳以上の男女市民だった。
 投票は、敵が占領している地域-すなわち、ポーランドと西側および北西の前線地帯-を除いて、かつてはロシア帝国だった全土で行われた。
 中央アジアでは、投票結果が算出されなかった。
 同様の間違いが、若干の遠方の地域で発生した。
 投票者数は、印象的な数字であることが分かった。
 ペトログラードとモスクワでは、有権者のおよそ70パーセントが投票所へ行き、いくつかの農村地域では、投票率が100パーセントに達した。農民たちはしばしば、単一の候補者名簿のために、通常は社会革命党に、一団となって投票した。
 最も信頼できる計算によると、総計4440万票が投じられた。
 観察者はあちこちで、少数の不正行為に気づいた。即時講和の公約のためにボルシェヴィキを支持する連隊兵士たちが、ときどきは他政党の候補者たちを脅かしたのだ。
 しかし、全体としては、国民がおかれている困難な条件を考慮するならば、選挙は期待を正当視するものだった。
 選挙を称賛することに関心がなかったレーニンは、12月1日にこう述べた。
 「内戦の縁にある階級闘争とは別個に立憲会議を評価するならば、今のところは、人民の意思を表現する手段としてもっと完全な仕組みを知らない。」(80)
 (8)投票はきわめて複雑だった。多数の細片政党が、ときには他政党と連合して、候補者を擁立していた。状況は地域ごとに異なっていて、とくにウクライナのような境界地帯では複雑になっていた。ウクライナには、ロシア諸政党と並んで、地方少数民族を代表する諸政党があったからだ。
 (9)社会主義政党のなかでボルシェヴィキだけは、公式の政策要綱をもたないままで選挙運動をした。
 ボルシェヴィキは、投票で勝利すると計算しているように見えた。彼らは、①「全ての権力をソヴェトへ」のスローガン、②即時停戦の約束、および③地主所有の土地の没収を中心に、労働者、兵士および農民に対して幅広く訴えた。
 ボルシェヴィキが選挙期間に追求したのは、自分たちを支持する有権者の階級的基盤を、社会革命党の非マルクス主義的言葉を借用すれば「勤労大衆」(the toiling mass)を、拡大することだった。
 したがって、選挙結果を評価するにあたっては、つぎのことにとくに留意しなければならない。すなわち、多数の国民は、あるいはおそらくボルシェヴィキに投票した者たちのほとんどですら、存在しないがゆえに何も知り得なかったボルシェヴィキの政策要綱を是認したのでは全くない、ということだ。ましてや、ボルシェヴィキの公表文書では決して言及されなかった一党独裁というボルシェヴィキの隠された目標(agenda)を是認したのではない。
 是認されたのは、ソヴェトによる統治、戦争の中止、および共同体への再配分のために行う私的土地所有の廃棄だった。これらのいずれの中にも、ボルシェヴィキの究極的な目標は含まれていない。//
 (10)レーニンは、しばらくの間は万が一の希望から、ボルシェヴィキが勝利するに至る程度にまで、左翼エスエルが社会革命党を分裂させるだろうと、勘違いをしていた。(81)
 左翼エスエルが11月にペトログラードで行ったことの強い印象が、この希望にある程度の内実を与えていた。(82)
 しかし、最終的には、根拠のないものだったことが分かった。ボルシェヴィキはとくに都市部や軍隊内で気を吐いたけれども、社会革命党の後を追いかける二番手となった。
 この選挙結果が、立憲会議〔憲法制定会議〕の運命を封じた。
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 (74) Steinberg, Als ich Volkskommissar war, p. 42.
 (75) 例えば、ペトログラード・ソヴェトでのトロツキーの演説を見よ。NZh, No.138/132(1917年9月27)日で報告されている。
 (76) Pravda, No. 170/101(1917年10月27日), p. 1.
 (*) Vtoroi S'ezd RSDSRP: Protokoly(Moscow, 1959), p.181-2.
 トロツキーは1903年に、これに似たことを言った。-「全ての民主主義諸原理は、もっぱら党の利益に従属しなければならない」(M. Vishniak, Bolshevism and Democracy, New York, 1914, p.67.)。
 (77) N. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1957), p. 74.; Lenin, PSS, XXXV, p.185.
 (78) Dekrety, I, p. 25-p. 26.
 (79) Izvestiia, No. 213(1917年11月1日), p. 2.
 (80) Lenin, PSS, XXXV, p.135.
 (81) 同上, XXXIV, p.266.
 (82) Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p.418.
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 試訳者注記。
 上の注(80)部分は、日本語版レーニン全集26巻(大月書店、1958)p.361によると、つぎのとおり。一段落をそのまま書き写す。-<全ロシア中央執行委員会の会議/1917年12月1日(14日)>の第一項「憲法制定会議の問題についての演説」の冒頭。一文ごとに改行。注(81)部分は、日付の特定がないこともあり今のところ探し出せない。
 「階級闘争が内乱に発展した情勢を度外視して、憲法制定会議をとってみるならば、われわれは、いまのところ人民の意志を表明するため、これ以上完全な機関を知らない。
 だが、幻想の世界に住むわけにはいかない。
 憲法制定会議は、内乱の情勢のもとで行動しなければならない。
 内乱を始めたのは、ブルジョア=カレージン派の分子である。」
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 第6節②へとつづく。


2205/R・パイプス・ロシア革命第12章第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第5節・左翼エスエルとの協定と農民大会の破壊。
 (1)レーニンとトロツキーは、政府加入に関する左翼エスエルとの交渉を継続すること、およびメンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕と調整する努力はもうしないことに同意した。これは中央委員会に生じていた危機を緩和するためだった、ということが想起されるだろう(既述)。
 彼らはメンシェヴィキ等にかかる後者を、真面目には追求しなかった。
 レーニンには、それら対抗する社会主義諸党と連携するのを受け容れる気持ちは全くなかった。
 しかし、左翼エスエルは、取り込みたかった。
 レーニンは、左翼エスエルの存在価値を知っていた。言葉に酔っていて、大衆の「自発性」という信条をもつがゆえに一致団結した行動をすることのできない、革命的な性急者たちが緩やかに組織した一団。
 左翼エスエルは脅威ではなく、利用すべきものだった。
 内閣に彼らが入っていれば、ボルシェヴィキが政府を独占しているという非難を回避できるだろう。また、「十月-ボルシェヴィキのクー-を受容する」全ての党は歓迎される、という主張が実証されるだろう。
 さらに価値があるのは、左翼エスエルの資質のおかげで、ボルシェヴィキ組織はこれまで接触をもってきていない農民層に入っていくことができる、ということだった。
 農民の代表者がいないままで「労働者と農民」の政府という地位を偽装するのは、馬鹿げていた。左翼エスエルが農民層と関係をもっていることは、彼らの相当大きい資産だったのだ。
 レーニンは、左翼エスエルが立憲会議選挙に際しての農民票を分裂させて、できうればボルシェヴィキとその同盟者たちに多数派を形成させることになる、という壮大な(のちの事態が示したように、非現実的な)希望を抱いていた。//
 (2)両政党は、秘密に交渉した。
 11月18日、<イズベスチア>が-早まっていたことがのちに判ったが-、ソヴナルコム加入について左翼エスエルとの間の合意が成立した、と発表した。
 しかし、会談はさらに3週間つづいた。その過程で両党は、緊密な作業をする関係を確立するに至った。
 今や左翼エスエルは、ボルシェヴィキ勢力に加わり、社会革命党が支配している自立した農民運動を破壊する助けをすることとなつた。//
 (3)ロシア民衆の5分の4を代表する農民代表者大会は、十月のクーを拒絶していた。
 第二回ソヴェト大会には代議員を派遣せず、その代わりに、祖国と革命救済委員会に加入した。
 この反対は、ボルシェヴィキにとつてはきわめて厄介なことだった。
 ボルシェヴィキは農民大会で勝利しなければならず、あるいはそれができないならば、ボルシェヴィキに友好的な別の団体で置き換える必要があった。
 この戦術は、続いてのちに立憲会議や他の民主主義的反ボルシェヴィキの代表団体に関しても繰り返された。そして、三段階を踏むものだった。
 第一には、出席者を決定するその団体の指名委員会(Mandate -)を支配しょうとした。
 これができれば、自由選挙で獲得するだろうよりは多数のボルシェヴィキや親ボルシェヴィキの代議員を送り込むことができる。
 〔第二に、〕ボルシェヴィキ支持者で充ちたこのような団体が、それでもボルシェヴィキが提案する決議を採択しなければ、騒ぎと暴力の脅かしでもって、その団体を混乱させる。
 〔第三に、〕これもまたできなければ、大会を非合法だと宣言し、退出し、自分たちの反対会合を設立する。//
 (4)11月後半に行われる立憲会議選挙が明確に示すことになるように、ボルシェヴィキには、農村地域での支持がなかった。
 このことは、11月末に予定されていた農民代表者大会の見込みを悪くするものだった。その大会では、社会革命党は確実に、ボルシェヴィキ独裁を非難する決議を通過させるだろう。
 これを阻止するためにボルシェヴィキは、左翼エスエルに助けられて、指名委員会を操作しようとした。すなわち、通常は地方と地区のソヴェトごとに選出される大会代議員たちが軍事部隊からの代議員よりも多くなるように、指名委員会に要求させようとした。
 軍隊はすでにソヴェトの兵士部門で代表されているのだから、これには正当性がなかった。
 しかし、指名委員会にいる社会革命党は、ボルシェヴィキを懐柔しようとして、これに同意した。結果として、社会革命党は農民大会を完全には支配することができず、辛うじて過半数を獲得した。
 農民大会に出席する代議員の最終的な人数は、総数789名のうち489名が、農村地帯で選出された善意の(bona fide)農民代表者たちで、294名がボルシェヴィキと左翼エスエルが選んだ制服を着た、ペトログラードとその周辺の連隊の男たちだった。
 党への帰属者数から言うと、社会革命党307名、ボルシェヴィキ91名だった。残りの391名については、明確にされていない。だが、その後の投票結果から判断すると、それらのうち最大の割合を、左翼エスエルが占めていた。(*)//
 (5)だがなお、もう一つ懐柔をする装いとして、社会革命党指導部は、左翼エスエルの指導者であるM・スピリドノーワ(Maria Spiridonova)を大会の議長とすることに、同意した。
 農民たちは実際に、革命前のテロリストたる偉業によって彼女を偶像視していたけれども、ボルシェヴィキが直情的なスピリドノーワを完全に操っていたために、これは全く考えの足りない譲歩だった。
 (6)11月26日、ペトログラード市議会のアレクサンダー大広間で、第二回農民代議員大会が開かれた。
 ボルシェヴィキ代議員たちは最初から、左翼エスエルの応援を受けて、破壊をする戦術を採った。野次り、鋭く叫び、反対党派の演説者を大声を上げて黙らせた。
 しばらくの間は、彼らが演壇を物理的に占拠した。
 こうした妨害によって、スピリドノーワは休会宣告をすることを余儀なくされた。//
 (7)重大な会議が、12月2日に行われた。
 その日、社会革命党の演説者は、立憲会議代議員たちの逮捕や嫌がらせに抗議した。立憲会議の代議員たちのある程度は、農民大会に選出された代議員でもあった。
 こうした演説の一つが行われている間に、レーニンが姿を現した。
 レーニンを指さして、ある社会革命党員がボルシェヴィキに対して叫んだ。
 「きみたちがロシアを連れて行こうとしているのは、レーニンがニコライに取って代わるという国家だ。
 我々は、僭政的な権力を必要としない。
 我々に必要なのは、『ソヴェトによる支配だ』!」
 レーニンは、国家の長としての資格で演説することを求めた。だが、誰もレーニンを選出していないのだから、ボルシェヴィキ党の長としてフロアにおれるにすぎない、と言われた。
 彼は挨拶して立憲会議を中傷し、その代議員に対するボルシェヴィキによる嫌がらせという抗議を斥けた。
 しかしながら、定足数の400名の代議員がペトログラードに集合すれば立憲会議が開催される、と約束した。//
 (8)レーニンが去ったとき、チェルノフが、立憲会議の権威を承認することはソヴェトを拒絶することと同じだ、というボルシェヴィキの主張を拒否する決議を下すよう、動議を提出した。
 「大会は、つぎのように考える。
 労働者、兵士および農民の代表ソヴェトは、大衆をイデオロギー的かつ政治的に指導するものとして、革命の強い戦闘力でなければならず、農民および労働者による征圧を監視して護衛しなければならない。
 立憲会議は、それがもつ立法的権能でもって、ソヴェトに表現されている大衆の要求を、現実のものに変えなければならない。
 よって、ソヴェトと立憲会議を相互に対抗させようとする、個別グループの試みに、断固として抗議する。」(+)
 (9)ボルシェヴィキと左翼エスエルは、反対動議を提出して、立憲会議は議員特権(parliamentary immunity)を享有していないという理由で、カデットやその他の立憲会議代議員に対するボルシェヴィキの措置を承認するよう大会に求めた。(69)
 (10)チェルノフが提案した決議は、360対321で通過した。
 ボルシェヴィキは議長のスピリドノーワに対して、この票決を無視するよう説得した。
 翌日に彼女は、この票決は拘束力がなく、たんに票決のための「基礎」にすぎない、と宣言した。
 この問題がこう処理される前に、トロツキーが姿を見せて、ブレスク=リトフスクでの講和交渉の進展について報告したいと、出席者たちに求めた。
 これに反対する動議が歓迎され、それに応じてトロツキーは立ち去り、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員がつづいた。//
 (11)翌日の12月4日、ボルシェヴィキと左翼エスエルはアレクサンダー大広間に戻ってきて、再び破壊工作を始めた。
 騒ぎ声で、演説者の声は聞き取れなかった。この事態に反応して、社会革命党とその支持者たちは、「マルセイエーズ」を歌いながら、退出した。
 彼らは、農民大会の中央執行委員会が所在するFontanka の農業博物館で協議を行った。
 このときから、大会の「右翼」と「左翼」が分裂した。
 ボルシェヴィキが立憲会議の12月2日の票決の有効性を承認するのを拒んだために、再統一の試みは失敗した。
 12月6日、ボルシェヴィキ党と左翼エスエルは、市議会での会議が農民ソヴェトの唯一の合法的代表者だと宣言した。実際には、そこには農民ソヴェトの代議員たちはいなかったのだけれども。
 彼らは、農民大会中央執行委員会の全ての権能を否定し、中央執行委員会から技術的用具や人員を奪い取り、政府による農民大会代議員への日当の支払いを停止した。
 ついに12月8日、ボルシェヴィキと左翼エスエルの残留派会議は、ボルシェヴィキが支配する全ロシア〔農民大会〕中央執行委員会と同一視されるものになった。//
 (12)たしかに、ボルシェヴィキは農民大会を奪い取った。先ずは、自分たちが選んだ、農民でない代議員を送り込むことによって。次には、その代議員たちが農民層の正統な唯一の代表者だと宣言することによって。
 ボルシェヴィキは、左翼エスエルの協力なくしては、これを達成できなかっただろう。
 このような貢献、および予想される一層の貢献の褒賞として、ボルシェヴィキは、左翼エスエルを年下の同僚として政府に加入させるに際して、大きな譲歩を行った。//
 (13)両政党は、一緒に農民大会を破壊した直後の12月9-10日の夜に、合意に達した。(70)
 合意内容は一度も公表されなかった。そのため、のちに起こった事態から再構成されなければならない。
 左翼エスエルは、いくつかの条件を提示した。①プレス布令を解除(lift)すること、②政府に他の社会主義諸党を加えること、③チェカの廃止、④立憲会議のすみやかな招集。
 第一の要求について、ボルシェヴィキは、公式にプレス布令を廃止することなく、全ての敵対新聞紙の発行を許容することで、事実上はこれを認めた。
 第二の問題について、レーニンは宥和的だった。すなわち、左翼エスエルの例に他の社会主義諸党も倣つて十月の革命を承認することををたんに求めた。
 どの党もそうする気がなかったために、この譲歩はレーニンには、何の苦痛でもなかった。
 チェカについては、ボルシェヴィキは頑固だった。形式的に廃止しようとも、その権限を制限しようともしなかった-反革命が存在するために、そんな贅沢はできない-。
 しかし、左翼エスエルは、不必要なテロルが行われないという満足感を得るため、代表者をチェカに送り込むことができた。
 立憲会議については、しぶしぶながら、左翼エスエルの要求を受け入れた。
 ボルシェヴィキに立憲会議選挙を取消すという考えを放棄させ、立憲会議の開催を、短期間だけにしても、認めさせたのは左翼エスエルだ、というのは、事実上確実なことだ。
 トロツキーは、レーニンがこう言ったのを憶えている。
 「もちろん、立憲会議は解散させなければならない。だが、左翼エスエルについてはどうすべきだったのかね?」。(71)
 (14)このような妥協を基礎にして、左翼エスエルはソヴナルコムに加わった。5名の閣僚が与えられた。農業、司法、郵便通信、内務、および地方自治。
 また、チェカを含めて、他の国家組織のより下層の官署に入ることも認められた。左翼エスエルのA・ドミトリエフスキ(Aleksandrovich Dmitrievski)(アレクサンドロヴィチ)が、チェカの副長官となった。
 左翼エスエルは、このような配置に満足した。彼らは、ボルシェヴィキを少し短気だと思っていたとしても、ボルシェヴィキが好きで、その目標を是認した。
 左翼エスエルのV・ A・カレーリン(Karelin)は、「ボルシェヴィキの過剰な熱望を緩和させる調整者」だと自らの党を定義した。(72)//
 (15)ボルシェヴィキと左翼エスエルの共同行動による農民大会の分解は、ロシアの自立的農民組織の終焉を意味した。
 1918年1月半ば、ボルシェヴィキ=左翼エスエルの自称農民大会執行委員会は、完全な統制のもとで、農民代議員大会を招集した。
 それに合わせて、労働者兵士代議員ソヴェトの第三回大会を行うことが予定されていた。
 ここでこそ、これまでは別々だった二つの組織が「融合」して、労働者兵士ソヴェトの大会の構成の中に「農民」代議員が加えられた。
 ボルシェヴィキ歴史家によれば、この事態は、「ソヴェトという権威をもつ単一で至高の機関を創立する過程を完成させ」るもので、かつ「労働者兵士代議員の大会とは別に農民大会を活動させるという、右翼社会革命党の政策に終止符を打つ」ものだった。(73)
 しかしながら、つぎのように語る方が、より正確だろう。強引な〔二党の〕結合(shotgun marriage)が農民の自立的統治を終わらせ、農民層の権利剥奪(disenfranchisement)の過程を完成させたのだ。//
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 (*) DN, No.222(1917年12月2日), p.3.
 この大会の議事次第は、公刊されていない。社会革命党の日刊紙のDelo naroda, 1917年12月13日/第20号に、手続の完全な説明が掲載されており、以下の叙述がはこれをもとにしている。
 (+) DN, No.223(1917年12月3日/16日), p.3.
 共産主義者の革命編年史(Revoliutsiia, VI, p. 258)は、社会革命党はソヴェトから権力を奪い取って立憲会議に渡そうと主張したと書いて、この決議の意味を歪曲している。
 社会革命党は実際には、立憲会議とソヴェトが協力するのを望んでいた。
 (69) Izvestiia, No. 244(1917年12月6日), p. 6-p. 7.
 (70) 同上, No. 249(1917年12月12日), p. 6.
 (71) Pravda, No. 91(1924年4月28日), p. 3.
 (72) NZh, No. 206/200(1917年12月20日/1918年1月2日).Revoliutsiia, VI, p. 377が引用している。
 (73) Kh. A. Eritsian, Sovety krest'ianskikh deputatov v oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1960), p. 143.
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 第5節、終わり。次節の目次上の表題は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2204/松下祥子関係文書⑤ー2019年1月10日。

 松下祥子関係文書⑤-2019年1月10日。
 前注/職務上作成され行政運営のために供されたもので、「公文書」または「行政文書」に該当する。一部曖昧化している。
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 日ごろよりお世話になりありがとうございます。平成31年1月4日付け++および+++でご送付いただきました文書回答要請文書につきまして、下記のとおり回答いたします。
 平成31年1月10日
  ** 松下祥子
  記
 第一
 (1)現在審理中の29-++号事件、29-**号事件、29-..号事件について、事務局が作成して**部会の各委員にすでに配布させていただいている答申書案・たたき台につきましては、**の審議、答申書作成に悪影響を与えるとの御指摘がございましたので、事務局から回収させていただきます。

 (2)29-++号事件、29-**号事件、29-..号事件につきましては、事務局としては、審理員意見書の「理由」部分がほぼそのまま採用できると考え、ほぼそのまま書き写したうえで、「要旨」となることを意図して作成いたしました。従いまして、審理員意見書の理由部分を「要旨」とする表現に間違いないと昨年11月の時点では考え、11月22日の夕方、「これは要旨です」と発言いたしました。
 しかし、**ご指摘の通り、事務局作成答申書案・たたき台の「審理員意見書の要旨」と審理員意見書の「理由」部分を対比させますと、ほぼ丸写しであることは事実でございますので、**「要旨とはいえない」とのご指摘はごもっともであると理解するに至りました。
 その後、御連絡をさせていただくタイミングが12月18日になってしまった(私の上司であるA次長とお会いいただくことが最善と考えておりました)ため、1か月を要した次第です。
 私が11月22日に「要旨である」と主張したこと、その後すぐに訂正し**ご連絡しなかったこと、またそれらのことで**に大変御不快な思いをさせてしまったことに対しましてまことに心よりお詫び申し上げます。

 第二
 (1)
 ①担当者が検査方法を審査庁に尋ねたのは事実です。「『あ』と聞こえてきたら文字の書いてあるものを指差すような検査らしい」という説明でした。
 ②平成30年1月24日です。(諮問書が審査庁から事務局に持ち込まれた日)

 (2)
 ①担当者がインターネットで検索して探し当て、印刷したものを所持していたのは事実です。
 ②平成30年1月25日から1月30日の間です。
 ③担当者は、本検査がどのようなものであるかのイメージをつかむことが目的でしたので、資料の作成時期については考慮しませんでした。
 ④審査庁職員から、インターネットに資料が載っている等の示唆・教示等はいっさいありませんでした。

 (3)
 ①11月9日の部会より前に資料の存在を「見て、知っていた」のは事実です。
 ②最初に説明を受けたのは、平成30年1月31日、**開催(平成30年2月5日)前の打ち合わせ時です。
 ③最初に説明を受けた日と、初めて「見て、知った」日は同じです。
 ④最初に説明を受けた日と、初めて「見て、知った」日は平成30年1月31日であり、資料はその後担当者だけが所有していました。

 (4)
 ①11月9日の「部会前の打合わせ」に参加していたのは、私以外に、*、近藤課長補佐、T総括主査です。
 ②私以外に、*、近藤課長補佐、T総括主査の4名です。知った時期は、近藤課長補佐は平成30年1月25日から1月30日の間、私は平成30年1月31日、*およびT総括主査は平成30年4月です。
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2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。

 レフとスヴェトラーナ。

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   (1936年)
 ***
 第3章④。
 (30) レフにあてて、スヴェータは書いた。
 「1946年7月12日。(1)
 レヴィ(Levi)、人の行為は結果ではなくて動機で判断されるべきだと私が知らなかったら、私には黙っていたことであなたを責めたでしょう。//
 あなたがこのようには逢いたくないと言ったあの九月を、憶えているでしょう。
 ところが私は、二人に与えられたその週の間、喜んでいました。
 レフ、今でも同じ。それ以外になかったとすると、これが何よりもよかったのです。
 私たちは、ともに29歳です。二人は11年前に出逢い、お互いに5年間も逢わないままでした。
 これらの数字について詳しく話すのは、恐ろしい。でも、レフ、時間は過ぎてゆきます。
 そして私は、もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くすでしょう。//
 レフ、私は逞しくなっています。
 いったい何度、あなたの腕の中に身体をうずめたいと望み、でも前にある空っぽの壁に向き合うしかなかったことでしょうか?
 息ができないと、感じました。
 でも時は経ち、そして気を取り直したことでした。
 レフ、私たちはこの事態を乗り越えるでしょう。//
 大学を卒業すると、あなたに約束しました。そして、その約束を守りました。
 我々は1942年夏に(課程の4年目のあとに)卒業しましたが、その後ほとんど6ヶ月間、移り住みました。-モスクワからアシュハバート、スヴェルドロフスクへと…。//
 『パパ』の研究所(タイア産業科学研究所)の物理工学試験実験室に勤め出してから、まもなく4年になります(1942年の私の誕生日以降)。
 どれだけゴムを避けようとしたことか。でも、やはり戻ってきました。嬉しい?
 私の仕事は、新しくてもっと良い試験方法を考案することです(多くありすぎて一つの手紙で詳細を書くことはできません。だから、ほんの少しずつ書きます)。
 私の上司はとてもいい人ですが、本当の管理者ではなく、私たち二人が、あまりうまくいきませんが、42人の若い女性たちを監督しています。
 研究所に新しい卒業後課程ができ、最初の志望者は-スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ(Svetlana Aleksandrovna)!
 私はものの見事に、試験に合格ました(5月と6月)。大学の誰よりもよい成績で(その主な理由は、私の才能ではなくて科学についての素養です)。…。
 レヴィ、嬉しい?//
 7月1日からの休日に居続けなければなりません。でも、私たちの学術秘書が、雑誌のための論文を手渡すまで、自由にさせてくれないのです。
 どうすれば実行できるかを描写しようと、苦闘しています(ゴムの可塑性と成分に関する実験についてのものです)。
 ママとアリカ〔スヴェータの甥〕は、もう1ヶ月間、別荘に行っています。-やはりイストラ河畔ですが、今度は少しだけモスクワに近い。
 アリカは、もう6歳です。
 読み方を知って、大文字に夢中です。
 ヤラの器用さと才能を、受け継いでいるのでしょう。
 引っ張って、『実験』を始めます。話し方や書き方を喋ります。そしてもう、たくさんの詩を知っています。
 標本箱を作って、カブト虫、ハエ、芋虫を集めています。
 うたを歌います。-きっと、彼の叔母さん譲りです!
 可愛い頭はボタンのように丸くて、髪の毛はブロンド、大きくて黒い瞳、でも虹彩は青色(これも彼の叔母と同じ)。
 ヤラは、前の11月に家に来ました。
 彼については、3年以上何も知っていませんでした。
 そのとき彼は、とてもやつれていました。
 ターニャは軍にいて(1942年5月から)、1943年9月2日に、虫垂炎で病院で死にました。
 いつも、あなたのことを想うように、ターニャのことを考えます。でも、その中身は書けない。
 母も父も、もちろん、年老いました。
 父はいま、ゴム産業省で働いていて、母は家で忙しくしています。-ブルセラ症で、痩せている。…。//
 レヴィ、手紙を書いて、どんな小包を送れるかを知らせて下さい。
 私に可能なら、何が欲しいかも。
 小説、それとも物理の本?
 この手紙ができるだけ早くあなたに届いたら、それだけ早く返事を書けるでしょう。
 これで、終えます。
 ごきげんよう。
  スヴェト(Svet.)」//
 (31) 8月8日木曜日、夕方に仕事の後で郵便物を取りに営舎へ行ったとき、レフは手紙を受け取った。
 封筒に、スヴェータの手書き文字を認めた。
 それを開くと、中に彼女の写真も入っていた。
 レフはその夜、何度も、何度も、手紙を読み返した。
 寝台には行かないで、早足で外を回った。北極圏の白夜が、読めるだけの光を与えてくれた。
 レフが翌朝の5時半に手紙を書き始めたときには、太陽はすでに2時間も地上にあった。//
 「ペチョラ、1946年8月9日。第1番め。
 スヴェータ、スヴェト、いま何を感じているか、想像できますか?
 感じている幸福感がどんなもので、どんなに大きいか、書くことができません。
 8日は、私の人生ではいつも重要な日付です(運命論者になりました。分かる?)。
 手紙類を取りに行ったのですが、手紙を受け取る者たちには少しも嫉妬を感じていませんでした。自分あてのものは何も期待していませんでしたから。
 31日〔7月-試訳者〕にオルガ叔母から手紙を貰い、9月が始まるまでは、他に何も望んでいませんでした。
 そのとき、突然、-私の個人名!
 そして、まるで生きているような、きみの文字!
 3年間、私は何とか、きみの手書き文字で書かれた、紙の小片をきちんと持ち続けていました。-きみについて私が持つ全てでした。
 でも、1944年7月3日にブーヒェンヴァルトで全部調べ上げられて、没収されました。
 きみがまだ生きていて、もう一度二人は逢えるという希望をもって生活しました。
 しかし、きみの最後の誕生日、取調べを受けて辛いときに祝ったその日に、きみに別れの言葉を告げようと観念しました。…。
 もう一度きみと逢えるという望みだけではなく、きみについて何かを知るという望みすら拒んで、生きつづけました。//
 スヴェータ、少しでも想像できるなら、取調べ(interrogation)が実際にどんなものだったか、分かって下さい。
 肉体的苦痛の問題だけではないのです。-苦痛を私は一度も経験しませんでした。そうではなく、魂(soul)のような感じのする問題なのです!
 死よりも悪辣なものがあると、知っていましたか?
 それは、不信(mistrust)です。
 しかし、この点には触れません。
 そう、ともかくも、私はきみに、さよならと告げました。
 しかし、きみなくしては、頑張ることができなかった。
 8ヶ月のち、オーリャ叔母さんに手紙を書きました。-ごく僅かの僥倖を祈って、大した期待もしないで。
 そして、きみのことを尋ねました。
 そうすると、あの馬鹿な1936年7月31日と同じ月日のことでした。かつてのその日、私はボリスコヴォにいたきみに逢いに行く途中で、ほとんど溺れかけてイストラ河から救い上げられたのでした。
 あんな愛情溢れた、暖かい、母性的な手紙を、少しも期待してはいませんでした。
 本当に一通の手紙すら、少しも期待していませんでした。…。
 オーリャ叔母さんは、きみについて全部書いてくれた!
 きみは、-元気だ(alive)!
 そして、きみが彼女を訪れたことも分かる。これが意味しているのは、きみが私の記憶を消し去ろうとは、決心することができていない、ということでしょう。
 それ以上のことのいったい何を、私は望むでしょう!
 ただ私は、きみの人生に干渉しないで、きみの今について知りたいと思っていた。
 そして突然、昨日のことだ。いや、今8月9日の朝6時だから、今日だ。
 私はまだベッドに行っていません。だから、私には今日です。-ともあれ、北極圏には夜はありません。今日、突然に手紙が届きました。
 手書きだというだけでなく、きみが書いた文章だというだけでなく、何と言う言葉だ、何という手紙だ!
 そして、写真も。
 みんな、私のため?
 私のため?
 スヴェトカ(Svetka)、スヴェトカ!、これ以上何も書けません。…。//
 別のことに移りましょう。
 逢うことについて、きみは尋ねている。…。
 スヴェトカ、これはほとんど不可能です。
 58-1(b)は、恐ろしい数字です。〔原書注-刑法典第58条第1項(b)にもとづき、レフは判決を受けた。〕
 これについて、いかなる幻想も持っていません。
 でも、判決を訂正させるよう、できる限りのことをすることを、きみに約束します。//
 自律した生活をやはりきちんと送っていることを知って、嬉しい。スヴェータ!、きみは強くて、たしかな精神(spirit)がある。
 重要な仕事をし、きみが評価されているのも、嬉しい。
 スヴェータ、きみには素晴らしい知性(mind)があって、とても賢い(intelligent)! でも、でも、鼻を引張り上げないで下さい。-無知の者の褒め言葉ですから。
 スヴェータ、スヴェータ、きみが近くにいる。-5年間に何も起きなかったごとくに感じる。今は距離も二人を分かれさせているけれども。2,170キロメートルの距離が。
 私には、きみは実際にかつて同じだと見えます。-何かをほんの少しだけ感じるけれど。写真ではほとんど何も気づかない。心は年老いたときみは言うかもしれない。でも、本当だ。…。//
 本について尋ねている。
 恐ろしくも数年間、本がないのを寂しく思いませんでした。
 本を手に入れるのはとてもむつかしくて、だから、恥ずかしくもほとんど読んでいません。…。
 アフマトーヴァ(Akhmatova)やブロク(Blok)のものを憶えていますか?
 ブーシキンのものが欲しい。そして、君の好みのもの。
 「石の客(Stone Guest)」-Tver 大通りの街頭の下を二人で腕を組んで歩いていたとき、きみが私に少し諳んじてくれたのを思い出します。
 もう一つ、<La Traviata>〔椿姫〕。誰かが口ずさんだり、ラジオから聞こえてきたりすると、感慨なくしてこれを聴くことはできません。…。
 スヴェータ、きみが書くように、二人はこの事態を何とか乗り越えるでしょう。…。
 もう止めなければならない。
 きみの最良の幸運を願って。
 手紙以外は、何も送らないで下さい。手紙、-手紙! …。
  レフ。」
 ----
 第3章、終わり。

2202/レフとスヴェトラーナ11-第3章③。

 レフとスヴェトラーナ。
 ***
 第3章③。
 (23) ペチョラに来てから初めて、レフは、靴と衣類を乾いた状態に保つことができた。
 彼は、一日じゅう、暖かかった。
 攻撃的な監視者に煩わされることもなかった。
 彼の意欲にとっておそらくもっと重要だったのは、蒸気室で仕事をしていないとき、実験室のストレルコフを訪れたことだった。
 そこにストレルコフは30メートル四方の余裕のある居間をこしらえていて、ネコを飼っていた(「ワシリィ・トリフォニュチ(Vasily Trifonych)」)。また、その居間で、楽しい会話、カードやチェスをし、彼が製作したラジオから流れる音楽を聴き、彼が科学用フラスコで醸造したウォッカを飲み、野菜を食べながら友人たちをもてなした。その野菜は、とくにそのために作った木製暖房器で温めた窓際の箱で、栽培したものだった。
 温められた葉の下では、花も生え育っていた。-これを見た木材工場群の長は感情を動かされ、花畑を作るというストレルコフの最も新しい夢を、承認した。//
 (24) レフは、木材乾燥所に移動して、初めて手紙を書く機会を得た。
 手紙を書くのは、以前は不可能だった。
 引揚げチームで働いていた間は、遅くに営舎に戻ったものだ。-彼は、お腹が空いて、汚れていて、濡れていて、そして寒かった。全てに力尽きていて、夕食後照灯が消える前に手紙を書くことのできる状態ではなかった。
 いずれにせよ、用紙も、ペンも持っていなかった。
 しかし、乾燥所で働いた後で、レフには、手紙を書く時間ができた。また、ストレルコフから、手紙を書くのに必要なものを貰った。
 (25) レフは、スヴェータやオルガにはもう手紙を書かないと決めていた。
 スヴェータの最後の誕生日に、彼女と再び逢うことはないと望みを絶った。
 十年の判決とペチョラへの護送によって、絶望感は強くなったに違いなかった。
 5年間知らせがなかった女性に手紙を書くことの意味は、いったい何だったのか?
 その女性は死んでいるかもしれなかった。
 彼のことなど諦めて、誰か別の男と結婚しているかもしれなかった。
 彼女が受刑者から手紙を受け取るのは、厄介なことかもしれなかった。
 レフが最も望まないことは、自分が彼女に接触することによって彼女を危険に晒すことだった。
 レフは、スヴェータの人生には立ち入らない、と考えていた。
 おそらくは、受刑者である長い年月によって生じた無情の感覚の、犠牲者になっていたのだろう。彼は、自分には彼女に愛を求める権利はない、と感じていた。
 (26) いくつかの理由で、その当時に、レフは考えを変えた。
 おそらくは、ストレルコフやその友人たちとの友好的な交際が、レフの精神を再びもち上げたのだ。
 おそらくは、のちに彼自身が説明したように、スヴェータに何が生じているかを知りたいという欲求に、「弱っているときに、屈服した」のだ。
 レフは敢えて、スヴェータに直接には手紙を書かなかった。代わりに、オルガ(「オーリャ」)に手紙を書いて、彼女の安否を尋ねた。
 「1946年6月2日。
 親愛なる叔母さん、オーリャ!//
 このような手紙を受け取るとは、きっと思っていなかったでしょう。
 あなたが元気で生きているのかどうかすら、知っていません。
 この5年間に、たくさんの事が起こりました。
 あなたに手紙を出すのを、どうか許して下さい。でもあなたは、私にはいつも大切な人です。-いま私は、あなたの助けがほしい。
 カーチャ叔母さんにも、手紙を書きたかった。でも、彼女のアパートの住所番号を思い出すことができません。//
 私は、MVDの矯正労働収容所にいます。ここで、10年の判決に服しています。
 1945年に、祖国に対する大逆だとして有罪になりました。
 どのようにして、何が、なぜ-。一回の手紙で書くのは長くなるし、困難でしょう。…。//
 北方の気候のことを考えないとすれば、ここの条件は良いです。
 困難なただ一つは、この5年間、私と親しかった人々、私がいつも愛してきた人々について、何も知ってこなかった、ということです。
 返事を下さるのなら、カーチャ叔母、ヴェラ〔オルガの義妹〕、Mikh. Iv.〔オルガの夫〕について、書いて下さい。
 ニキータはどうしている?、S〔原文ママ-試訳者〕の家族は?
 私については、彼らに何も教えないで下さい。でも、彼らについてあなたが知っていることを、私に書き送って下さい。//
 あなたは元気だと思いたい。
 心から、あなた方の最善をお祈りします。-あなた、カーチャ叔母、Mikh. Iv. そして他の全ての皆さんの。
 この長い年月の間ずっと、いつもあなた方のことを思ってきました。//
 では、ごきげんよう。
 L〔レフ〕・ミシュチェンコ。
 私のアドレス-Komi ASSR、 ペチョラ駅、木材工場群、郵便箱 274/11、L. G. Mishchenko。」
 (27) レフがオルガからの返書を受け取ったのは、7月31日だった。
 それは、彼が離れた世界の人々との、最初の接触になった。
 その手紙は、動転させるほどのものだった。
 (28) オルガが彼に書いていたのは、スヴェータの妹のターニャを含む、戦時中の多数の友人や縁戚者の死だった。
 しかし、彼女はまた、スヴェータが元気で生きていることも、書いていた。
 翌日に、レフはオルガに書き送った。
 「第2信。
 ペチョラ、1946年8月1日。
 親愛なるオルガ叔母さん、昨日、1946年7月31日に、あなたの最初の手紙を受け取りました。
 31日というのは、しばしば、私には楽しい日付になりました。
 〔原書注-レフは、1936年7月31日に、イストラ河で溺れて救われている。〕
 あなたの手紙は、どれだけ私の感情を掻き乱したことでしょう。
 どれだけの幸福を、どれほどの気持ちの温かさを、私に伝えてくれたことでしょう。-表現する言葉が見つかりません。
 あなたからは何も予想していませんでした。今度のような手紙を望むことはできませんでした。
 あなたが生きているのを知って幸せです。でも、体調が良くなくて、一人でいるのを知って悲しい。
 我々の人生には、何と多く、苦しい喪失があるのでしょう。…。
 ターニャのことは、とても痛ましい。
 他のSの家族はみんな元気でいるのは、とても有難いことです。
 Sが生きている、彼女の生活は十分で意味がある、と知ってどれだけ幸せなのか、あなたに表現することができません。
 心の奥底から、彼女の全ての幸せを願っています。
 あなたが彼女と今でも関係があるのは、嬉しい。
 彼女について、あなたが分かることは何でも、書き送って下さい。
 どの研究所で彼女は仕事をしているのか? そして、誰と一緒に?
 彼女の専門は? 博士課程を修了したのか?
 彼女への私の気持ちは、時間と距離が二人を分かちましたが、同じままです。//
 負担をかけたくないので、この手紙は彼女にではなくあなたに書いています。
 私によって面倒がかかることがないよう、過去の想い出と現在私が生きているという想いで彼女の心に影が投げかけられるようなことにならないよう、彼女の生活を静穏なままにさせておいて下さい。」//
 (29) 1946年の初めまで、スヴェータは、レフにもう一度逢うという望みを、全て投げ棄てていた。
 他の者たちはみな、戦争から帰ってきていた。そして彼女は、レフは死んだか永遠に行方不明になったと、想定せざるを得なかった。
 長い年月、彼女は「眠れなかった」、「食べようとしなかった」、そして、「彼女の両親を絶望に追い立てた」。
 スヴェータはレフに、「一言でいいから、と切望した」。
 そうならば、「全てが変わっていたでしょう」。
 しかし、時が経つにつれて、彼女はますます落胆し、希望を失った。
 そしてそのとき、オルガから聞いた。//
 すぐに、レフにあてて、スヴェータは書いた。
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 第3章④につづく。

2201/レフとスヴェトラーナ10-第3章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 ***
 第3章②。
 (16) レフは、木を河岸から木材工場群まで引き摺り上げる、一般労働チームに配属された。
 その仕事の意味は、重い材木を、丸太コンベヤにまで引き摺り上げることだった。そのコンベヤには巻き揚げ機と鋼索がついていて、材木の丸太が製材所(saw-mill)まで引き揚げられた。
 仕事はきつくて、一度に数時間も、凍えるような水の中に立ち続けた。
 夜のあいだずっと明るい夏には、たくさんの蚊が我慢できないものだった。
 仕事に出かける前に、受刑者たちは、手と顔を僅かばかりの布で覆った。//
 (17) チームの他の者たちと同様に、レフは、標準服を受け取っていた。耳垂れの付いた帽子、綿入りのエンドウ豆色の上衣、重い綿入りズボン、上衣と同じ素材で作られた手袋、冬季用の靴。
 靴には、毛皮もなく、裏張りもなかった。また、湿っぽくて風通しの悪い営舎では、乾かす手段がなかった。そのために、彼の足はいつも湿っていた。//
 (18) 夜明け前に、24時間交替制が始まった。
 受刑者たちは、割り当て分を達成すれば、一日あたり600グラムのパンという糧食を受け取った。達成しなければ、わずか400グラムだった。
レフが毎日の割り当て量を達成するには、最低で60立方メートルの材木(小さな車庫を充たす量)を河から木材工場群まで引き揚げなればならなかった。
 もし彼がこの割り当て量を超えて労働すれば、800グラムのパンが貰え、そしてボーナスとして、詰め物入りのライ麦パイが貰えた。彼が思い出すに、詰め物は特別の味がなく、また少しも詰め物に値するものではなかった。
 受刑者たちには毎朝、一椀のポリッジ(粥)、一杯の茶、15グラムの角砂糖(これは注意深く測られた)、および一片のニシンが与えられた。
 昼食では、通常はわずかに肉または魚が中に入っている一椀のキャベツ・スープ、別の一椀のポリッジ(粥)、より多い茶を受け取った。
 これらは、木材引き揚げチームの者たちの身体を長く維持するには、十分でなかった。
 病気や死亡の割合は、きわめて高かった。
 1945-46年に、収容所の1600人の受刑者の三分の一以上が、病気で診療所、つまり木材工場群の主要な受刑者地区の外にある分離された建物、にいた。そこには当時、ただ一人の医師しかいなかった。
 墓地掘りチームで当時働いていたある受刑者によると、彼らは毎日、一ダースの受刑者たちを、診療所の後ろにある墓地に埋葬していた。
 引揚げチームの労働条件は非人間的だったので、監視兵のうちの何人かは不安になった。
 ある者は木材工場群の党会議で、「我々は、彼らが生きているかどうかを気にかけているようには思えない」、と愚痴をこぼした。
 「我々は、病気になるまで、彼らを凍えんばかりの水の中に立たせている。そして、彼らがもう働けなくなれば、診療所で死なせている」。
 (19) 引揚げチームで三ヶ月経って、レフの身体は疲労困憊した。
 精神的にも壊れてしまった。
 テレツキーはのちに、初めてを見たときレフは、「トラクターにひかれた農民のように見えた」と語った。
 10年前にイストラ河に飛び込んだ元気な少年の痕跡は、何も残っていなかった。//
 (20) テレツキーに励まされて、労働が終わったあとでレフは木材乾燥所に行き、身体を温めることになる。
 産業区域には監視付きの護送車はなかった-受刑者たちは、仕事場まで自分で行くように放っておかれた。したがって、レフが材木コンベアでまたは製材所の近くで働いていると、毎日の最後に第二入植地区へと帰る途中で、乾燥所のそばに止まることのできる時間があった。なお、第二入植地区に入る際は、監視用建物を通って、人数を数えられた。
 レフは、乾燥所を訪れたことによって、殺されそうになる労働から救われた。//
 (21) 乾燥所に付属している研究実験室の長は、G・ストレルコフ(Georgii Strelkov)という名の、内戦を闘った年配ボルシェヴィキで、ソヴィエトの年長の実業家だった。この人物は、1937年に逮捕されるまで、重工業人民委員部の一部署であるクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)のMinusazoloto 金鉱トラストの長だった。
 彼は、シベリアの遠く北東にあるコルィマ(Kolyma)金鉱にいた飢えていく受刑者たちの報告に関心をもって、食糧を載せた二隻の船を派遣した。しかしそれは、NKVDによって妨害され、全ての食糧が奪い去られて、その代わりに新しい受刑者たちが船に乗せられた。
 NKVDは、どれだけ多数の人々が死のうと気にかけず、食糧を無駄にしたとストレルコフを責めた。
 ストレルコフは、「反革命的活動」で訴追された。
 銃殺刑の判決を受けたが、執行は猶予された。そして20年間、ペチョラ労働強制収容所で、手紙をやり取りする権利を奪われたままだった。
 彼の専門技術をペチョラのグラク当局が高く評価したので、彼は木材工場群で実験的な仕事に就くこととなった。但し、25年の判決を受けた受刑者として、困難な手作業に従事しなければならなかった。
 グラク当局は、ストレルコフが営舎ではなく実験室で生活するのを認めた。それは、いくつかの技術的問題や産業区域内のその他の問題を解決するために、彼の存在がばしば必要になったからだった。
 ストレルコフは、標準服ではなく、スーツを着ることすら認められていた。//
 (22) ストレルコフは厳格で頑固だったが、親切でもあった。
 彼の木材工場群での権威のおかげで、彼は引揚げチームで完全に疲労消耗した多数の受刑者たちを、乾燥所または工場へと移すことによって、救うことができた。こうした介入がしばしば、収容所当局との間に悶着をもたらしたのだったとしても。
 ストレルコフは、怖れなかった。
 自分がグラクの幹部たちに必要とされていることを、知っていた。そして、数年間にわたって、彼の意向に沿って何とかシステムを動かそうとした。
 1946年、乾燥所は専門技術をもつ新しい技術者をはなはだしく必要とするようになった。
 高圧蒸気暖房機が十分に速く材木を乾燥させなかったので、設定された目標を達成しようとする工場に、必要な量の材木を供給することができなくなった。そして、内務省または(1946年3月にグラクの運営をNKVDから引き継いだ)MVDからの、業績達成能力を改善せよという圧力が、日増しに強くなった。
 ストレルコフはレフが科学者であることを知って、技術者として乾燥所に加わるようレフを誘った。そして、蒸気室で作業させた。
 レフの仕事は、材木の外皮部分を乾燥する状態にさせることだった。
 蒸気室は最低でも摂氏70度で維持されており、また手と顔を覆って入ったため、一度に数分間以上はそこにとどまることができなかった。
 苛酷な肉体的労働だったが、河から材木を引き揚げるのに比較すると、レにとっては「楽園」だった。//
 ----
 第3章③へとつづく。

2200/レフとスヴェトラーナ09-第3章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 今回の試訳には、適宜省略している部分がある。
 ***
 第3章①。
 (01) 列車による護送は北に向かってゆっくり、ミンスクから、ヴォログダ(Vologda)、コトラス(Kotlas)そしてペチョラ(Pechora)へ、北極圏に近い森林奥深くへとつづいた。レフはペチョラで、長期刑に服することになっていた。
 <中略>
 (02) 受刑者は、一日あたり200グラムのパンと塩漬けの魚類を食事として供された。水はほとんど与えられなかった。
 彼らのうちの多数は、病気になり、渇きで死にすらした。
 死んだ者および死にそうな者は、列車から投げ落とされた。
 <中略>
 (03) コトラスを超えても、列車はゆっくりと走るような速さで進み、新しい死者や瀕死者を投げ棄てるために、頻繁に停止した。
 <中略>
 (04) 三ヶ月の旅をして、レフの護送団は、1946年3月にペチョラに到着した。
 春ではまだなかった。
 北極の暗い冬は、ここよりも北では9ヶ月続いた。
 河はまだ凍ったままで、地上には雪があった。
 <中略>
 (05) 受刑者たちは、通過収容所に連れて行かれた。そこが労働強制収容所への到着地点で、有刺鉄線で囲まれた鉄道駅舎の近くの区域にあった。受刑者用の三つの仮設小屋、分離ブロック(懲戒のため)、墓地が付属している診療所、そして狭い作業場があった。
 男たちはシャワーをかけられ、頭を剃られ、シラミを駆除された。そして、いくつかのグループに分けられた。
 病人(主としてペラグラと壊血病)はまっすぐ診療所へと進み、残りの者には、それぞれの身体的条件に応じて、多様な労働と器具が割り当てられた。
 レフには、木材工場群(wood-combine, <Lesokombinat>)が選ばれた。
 <中略>
 (06) 鉄道はペチョラの何よりも大切なもので、鉄道こそがグラクの設置と入植、北部の経済開拓の鍵だった。
 <中略>
 (07) ソヴィエトはしばらくの間は、河をヴォルクタ(Vorkuta)からの石炭輸送に利用しようと考えていたが、ルートが長く間接的で、またペチョラ河とウスト・ウラ河は一年のうち9ヶ月は凍ったままだった。
 そこで1934年に、ソヴィエトは、レニングラードをコトラス、ウフタ(Ukhta)、ペチョラおよびヴォルクタと結ぶ鉄道の建設に取りかかった。
 1939年までには、労働収容所や小さなグラク入植地が、計画路線の全長に沿って設立されていった。
 その年の統計調査によれば、これら労働収容所や入植地に、13万1930人の受刑者がいた(うち1万8647人は女性)。 
<中略>
 (08) ドイツ軍の侵攻によって、鉄道路線の建設はますます緊急を要するものになった。
 1941年末までにドイツは、ソヴィエト同盟の石炭の55パーセントを生産していたドンバス(Donbass)のほとんどを占領した。1942年には、コーカサスにまで着実に前進して、ソヴィエトの石油供給を脅かした。
 ヴォルクタまでの鉄道建設を完了させることは最優先事項、国の生存にかかわる問題になった。そして、この路線を完成させるよう、グラク〔強制収容所〕の幹部たちには多大な圧力が加えられた。
 1942年ころ、15万7000人の受刑者が休みなく鉄道工事に働いていた。彼らは、暖房のないテントで、あるいは外の凍える温度の中で、寝ていた。
 <中略>
 (09) ペチョラは、この地域の主要な経済的中核として発展していた。
 鉄道とペチョラ河とが交差する場所に位置しており、ペチョラは、グラクの木材加工、鉄道事業、および造船産業の中心だった。
 1937年にグラクの施設が建設され、1946年にレフが来た頃まで、1万の受刑者と自由市民がいる、小さな田舎町だつた。
<中略>
 建物の中にトイレはなかった(労働強制収容所の指揮官の家屋を除く)。
 また、どの家屋にも上水がなく、井戸だけがあった。井戸は、長い冬に水が凍らないように、小さな仮設の建築物で覆われていた。冬の気温は、常時摂氏マイナス45度に落ちた。
 ほとんど店舗はなく、シャンハイ地区に小さな郵便局があった(ウォッカを売った)。//
 (10) レフは、木材工場群の入口門を通って、つぎの10年間の刑務所がある産業区域(industrial zone)に入った。
 それは一つの村落の規模の、大きな長方形の区画で、広さが52ヘクタールあり、高い有刺鉄線付きの塀と探照灯のある監視塔で囲まれていた。
 その区画内にはおよそ50の建物があり、それらは主には、計画なしの成り行きで建設されたように見える臨時の木造建築物だった。
 <中略>
 (11) レフとともに護送された男たちは、鉄道荷積み地帯で人数を数えられた。その荷積み地帯では、木材工場群(家具、プレハブ家屋用分区)の最終製品が列車に荷積みされた。
 そして彼らは、第二入植地区(Colony)または労働旅団(work brigade, <kolonna>)の営舎(barrack)へと進んだ。その営舎は、固有の有刺鉄線の塀と衛兵舎を産業地区内にもつ、特別の部門の中にあった。//
 (12) 第二入植地区には、およそ800人の受刑者を収容する、計10の営舎があった。
 全ての営舎は同一だった。つまり、長い一階建ての木造建築物で、各段に二人を収容する、二列の寝台棚(bunk)が中にあった(グラクの専門用語では、<vagonki>として知られていた。旅客用の寝台列車の棚に似ていたからだ)。
 寝台棚の列の間の通路には、テーブル、ベンチ、そして木をくべる暖房器具があった。
 天井からぶら下がる40ワットの白熱灯が、ぼんやりした黄色の光を放っていた。
 マットレスと枕には、木の切り屑が詰め込められていた。
 レフの営舎は、監視兵が暖房具用の木片を持ち込むのを認めてくれたために、つねに暖かくおれるという利点をもっていた。
 営舎は夜にも鍵がかけられず、受刑者たちは、有刺鉄線に近づかないという条件のもとで(違反すれば射殺されただろう)、自由に行き来することができた(外にトイレがあった)。
 (13) レフは、営舎の一方の端の窓側にある下段の寝台棚に場所を占めた。その営舎は、第二入植地区の最も古い建物だった。
 隣人の一人は、西ウクライナのルヴォフ(Lvov)出身の若い「政治犯」だった。彼は小さくて痩せていて、表情豊かな顔と生き生きとした瞳をもっていて、リュボミール(Liubomir)(または「リュブカ」(Liubka))と呼ばれていた。
 彼は、レフのきわめて貴重な友人になることになる。優れた知性、詩的な感性、英知と繊細さで、大いに親しまれた。
 テレツキー(Terletsky)は、ペチョラにすでに6年おり、レフが入営する際にいろいろと助けてくれた。
 彼は、ソヴィエトがルヴォフに侵攻した直後、18歳だった1939年に逮捕された。
 NKVDの部員が彼の家で、地図、磁石、リュックザックを見つけ(テレツキーは大の散歩好きだった)、それらをドイツ軍のための諜報活動の証拠だとしたのだった。
 自白に追い込まれ、彼は銃殺刑の判決を受けた。
 キエフの刑務所で2ヶ月間、処刑を待っていたが、収容所での10年の重労働に判決が変更された。
<中略>
 (14) レフのとなりの寝台棚にいたのは、A・アニシモフ(Aleksei Anisimov)だった(「リョーサ」(Lyosha))。レフとは同じモスクワ仲間で、モスクワ運送技師研究所の学生だった。
 無口で静かな人物で、レフはとても好きだった。レフは彼のことを「とてもよい仲間」(wonderful fellow)だと、スヴェータ宛の手紙でのちに表現した。
 アニシモフは、1937年に逮捕され、「反ソヴィエト活動」の罪で15年の判決を受けていた。
 第二入植地区の受刑者たちのほとんどは、レフ、テレツキ、アニシモフのような「政治犯」だった。
 多数の者(正確には83人)は、ドイツ占領地域で捕らえられ、ソヴィエト同盟に帰還する途中で「スパイ」または「協力者」だとして逮捕された。または、その地域をソヴィエトが1944-45年に再侵攻した際の大量逮捕によつてこぞって摘発された。//
 (15) 木材工場群の他の入植地区には、異なる範疇の受刑者たちがいた。
 第一入植地区(産業区域の外の別の部門に位置していた)は、「特別追放者」(<spetspereselensky>)、行政指令によってグラクに送られた労働者たち、で構成されていた。そこには1946年に、そうした労働者たちのうち約500人がいた。
 第三入植地区(河のそばにあった)は、一般の犯罪者および制裁すべく選び抜かれたその他の受刑者たちで成っていた。
 <以下略>
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 第3章②へとづく。

2199/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・保守リベラル社会主義者になる方法
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。
 ***
 B/あるリベラルはこう考える。
 1.国家の目的は安全確保(security)だという古代の思想は、依然として有効なままだ。
 「安全確保」という観念が法による人身や財産の保護のみならず、保険の多数の諸条項をも含むように拡張されてすら、有効なままだ。
 人々は失業しても、餓死すべきではない。貧困な人々は、医療の助けの不足で死亡しても、非難されるべきではない。子どもたちには、教育を自由に受ける機会が与えられるべきだ。-これらも全て、安全確保の問題だ。
 だが、安全確保を自由(liberty)と混同してはならない。
 国家は、積極的に行動したり生活の多様な領域を規整したりすることによってではなく、何もしないことによって、自由(freesom)を保障する。
 安全確保は実際には、自由(liberty)を犠牲にしてのみ拡張され得る。
 ともかくも、人々を幸福にするのは、国家の役割ではない。
 2.人間の共同社会は、不況によってのみ脅かされるのではない。人々が個人の主導性と創造性がなくなるまで組織されるときには、頽廃によっても脅かされる。
 人類の集団自殺は、考えられ得るものだ。しかし、我々はアリではないがゆえに、永続的な人間のアリ山は考えられ得ない。
 3.全ての形態の競争がなくなってしまう社会は、創造と進歩のために必要な刺激を持ち続けるだろう、というのは、ほとんどありそうにない。
 平等性の増大は、それ自体が目的なのではなく、手段にすぎない。
 換言すれば、かりに結果が豊かな人々の生活条件を下落させるだけで、恵まれない人々の生活向上にはならないとしても、平等性の増大を求める闘いには終わりがない。
 完璧な平等とは、自己を打ち負かす理想だ。//
 ***
 C/ある社会主義者はこう考える。
 1.利潤の追求が生産システムの唯一の調整者である社会は、利潤という動機が生産調整力から完全に排除される社会と同じく、悲しい-おそらくはより悲痛な-大災難に陥っている。
 経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであり、金銭が自動的により多額の金銭を生み出してはならないことには、十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は正確にそう称されるべきであり、より高次の形態の自由だと称されてはならない。
 2.完全な、対立なき社会は不可能であるという単純な理由で、全ての現存する形態の不平等は不可避であり、利潤獲得のための全ての方法が正当化される、と結論づけるのは、馬鹿げており、かつ偽善だ。
 進歩的所得税は非人間的で忌まわしいという驚くべき考えにいたる保守派の人間学的悲観論は、収容所列島がもとづく歴史的楽観論と全く同様に疑わしい。
 3.経済を大切な社会的統制に服せしめようとする志向は、かりに官僚機構の増大という対価を支払わなければならないとしても、奨励されるべきだ。
 しかしながら、この統制は、代表制民主主義の範囲内で加えられなければならない。
 かくして、まさにその統制の増大が自由に対する脅威を生じさせるのであるから、その脅威に対抗することのできる諸制度を構想することがきわめて重要だ。
 ****
 このように理解することができるかぎりで、制御に関するこれらの一セットの思想は、自己矛盾はしていない。
 そして、そのゆえに、保守・リベラル・社会主義者になることが可能だ。
 このことは、三つのそれぞれの主張はもはやお互いに排他的なものではない、と言うことと同じだ。//
 私が最初に言及した偉大で力強いインターナショナルについて言えば、-。
 幸福になるだろうと人々に約束することができないがゆえに、これは決して存在しないだろう。//
 ----
 終わり。
 

2198/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・「保守リベラル社会主義者になる方法-信条」。
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 A/、B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。
 標語・「後ろの方へ前進して下さい!」。
 これは、私がワルシャワの路面電車の中でかつて聞いたお願いを、ほぼ適切に翻訳したものだ。
 決して存在しないだろう力強いインターナショナルのスローガンとして、私はこれを提案する。
 ***
 A/ある保守派(Conservative)はこう考える。
 1.人間の生活には、堕落や邪悪という対価がないような改良はなかったし、今後もないだろう。
 そうだから、改革や改善を行ういずれの企てを考察する場合にも、その対価が必ず査定されなければならない。
 別の言い方はすれば、多数の邪悪は共存できるものだ(すなわち、我々は包括的に全てにかつ同時に、これらに苦しめられることがあり得る)。
 しかし、多数の善は、お互いに制限し合い、傷つけ合う。ゆえに、我々は決して、善を完全にかつ同時に享受することはないだろう。
 全ゆる種類の平等がなく全ゆる種類の自由(liberty)もない社会は、完璧に可能だ。
 しかし、全ての平等と全ての自由(freedom)を結合させている社会秩序は、可能ではない。
 同じことは、計画化と自律という原理の両立可能性、安全確保と技術の進歩、についても当てはまる。
 また別の言い方をすれば、人間の歴史には幸福な終わり方はない。
  2.かりにある社会における生活が耐えられるもので、あるいは可能ですらあるとすれば、我々は、社会生活上の多様な伝統的形態-家族、儀礼、民族、宗教的共同体-がいかなる程度に不可欠のものであるかを分かっていない。
 これら諸形態を破壊したり非合理的だと烙印を捺すときに、我々は幸福、平和、安全、あるいは自由を得る機会を増大させる、と考えるいかなる根拠もない。
 例えば、かりに一夫一婦制家族が廃止されるとすれば、あるいは死者を埋葬する際の古き良き慣習が産業目的のための死体の合理的再利用に取って代わられるとすれば、いったいどのようなことが起きるのか、我々は確実には分かっていない。
 しかし、我々はきっと、最悪のことを予期するだろう。
 3.啓蒙主義の固定観念(idée fixe)-嫉妬、虚栄、貪欲、および攻撃心は全て社会制度の欠陥によって惹起される、また、その制度がいったん改良されればこれらもまた一掃される-は、全く信じ難い、全ての経験に反するものであるのみならず、きわめて危険なものだ。
 人間の本性に反するものであるなら、それら諸制度は、いったいどのようにして発生したのか?
 我々は友情、愛、および利他心を制度化することができる、という希望を抱くのは、専制体制への信頼できる青写真をすでに持つ、ということだ。
 ***
 B/へとつづく。

2197/松下祥子関係文書④-2018年11月27日。


 松下祥子関係文書④。
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 論点2/2018年11月9日**部会にかかる「当該文書」の入手方法等々に関する松下課長の説明は誠実で正直なものか。*-きわめて不思議な点がある。
 前注/2018年11月27日に事務局を通じて他委員に送信された<連絡等>文書の一部。「」はそのままの引用。
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 「本年11月9日(金)」の「部会の審議中に近藤課長補佐によって配布された、正確には我々のテーブル上に置かれた文書(以下、当該文書)について、11月22日(木)の夕方、***行政不服審査会事務局(法務課長)・松下祥子氏から、つぎのように理解することができる説明を受けました」。「当該文書には下部に『9』という数字が頁番号としてスタンプされて(そしてコピーされて)」いましたが、「『5』という数字が下部にある文書(以下にいう「表紙」)が私に手交され、私は現在保持しております」。「1」~「4」および「10」以降の内容は不明。
 ①当該文書は「平成15年(2003年)1月10日付の厚労省担当部長から都道府県主管部長等あての「身体障害者障害程度等級の解説(身体障害認定基準)について」と題する文書を含む一連の文書のうちの一部・一枚」である。この表題等の記載された文書(以下、「表紙」)の下部におそらく頁番号として「5」のスタンプ押しがある。
 ②「『表紙』には左上に<写>という丸囲みのスタンプ印が、右上に「肝機能障害の評価に関する検討会(第1回)/平成20年10月27日/資料4③」という記載のスタンプの押印かワープロ作成の罫線表の印刷がなされている。」
 ③「当該文書は、平成30年になって案件<29-44>が**部会に諮問されて以降に、近藤課長補佐がネット上で見つけて、印刷したものである(「表紙」も同時にであったかどうかについては、質問もせず、積極的な説明もなし)。」
 ④「松下課長は近藤課長補佐印刷にかかる当該文書の存在をいつかの時点以降に『見て』知っており、第二部会の審理に『参考になる』と感じていたが、同課長自身は11月9日(金)の部会中に所持してはおらず、(おそらく11月22日の)『二、三日前』に所持する(自らのファイルに写しを挿入する)にいたった。」
 ⑤「当該文書が11月9日(金)の部会中にテーブルに置かれたのは、部会委員に文書として提示・配布する」のではなく「『見せる』ためだったので、委員三人分の三枚は用意しなかった。」
 ⑥当該文書が部会中にテーブルに置かれたのは松下課長の指示によるものではないが、同「課長はそのような行動をすることを職員の自発的な判断に委ねていたので、当日も許容したし、現在も許容している」。
 ⑦「松下課長は、当該文書の作成者・作成年・出典等が不明確で部会としての正規の証拠文書・参考資料として扱うことに問題があるということを、11月12日(月)午前には***行政不服審査会事務局職員が読める状態になっていた部会長・**からのメールによって気づいた。」
 (注<略>
 ⑧「『表紙』の***への手交により当該文書と併せて正規の証拠文書として欲しい旨の意向」は「少なくとも明示的には」なかった。また、この「表紙」が部会審理中に「見せられ」なかったのかの理由等は質問せず、「積極的な説明はなかった。」
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 後注(上記文書に付された文書(一部は割愛))。
 以上の①~⑧はすべて「つぎのように理解することができる説明」として記したもの。
 1.⑦は松下課長の注意不足または職責に照らしての能力不足を示唆する。
 2.これらが全て「本当の」ことだとすると、松下課長は、部会審理の「参考」になる文書を一枚だけ委員たちに「見せて」、それで審理・結論の方向に影響を与えてよい、のちにきちんと出所等を確認して報告しかつ全委員に当該文書を送付する手続きは必要がない、と少なくとも11月12日までは考えていたことになる。これも、注意不足または職責に照らしての能力不足を示唆する。
 3.上のうち③~⑥、とりわけ③・④は奇妙な又は不思議な説明であって、にわかには信用できない。
 なぜなら、第一に2015年の国の会議での、かつ(写)等のスタンプつき文書を「表紙」とする文書がネット上に公開されていたとは相当に信憑性を欠く(11月22日時点でネット上に掲載されているとの報告もなかった)。
 第二に、松下課長等が当該文書の存在を「見て」知っていたが、写し等を11月9日に手元に所持していなかったとするのも、きわめて不思議である。
 つまり、どこかに「ウソ」がある。なぜ、そのような虚偽の説明をしたのか。

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 以上。

2196/R・パイプス・ロシア革命第12章第4節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第4節・人民委員会議(ソヴナルコム)。
 (1)最初の三週間、ソヴナルコムは紙上の存在でしかなかった。その命令を実施するスタッフはおらず、自分たちに支払うべき金もなかったからだ。
 役所に行くことを阻止された人民委員たちは、スモルニュイの第67号室で仕事をした。そこに、レーニンの最高司令部があった。
 暗殺の企てをつねに怖れているレーニンは、その部屋に、人民委員たち以外は誰も入らせなかった。
 彼は稀にしかスモルニュイを離れなかった。スモルニュイで、ラトヴィア人に厳重に護衛されながら、生活し、仕事をした。(*)(62)
 彼がソヴナルコムの事務局長として選んだのは、25歳の、N. P. ゴルブノフ(Gorbunov)だった。
 新しい事務局長は行政経験がなかったが、タイプライターとテーブルを自分のものにして、二本指で二つの布令文を打ち始めた。(63)
 V・ボンチ=ブリュエヴィチは、献身的ボルシェヴィキ党員かつ宗教反対者で、レーニンの私的助手に任じられた。
 これら二人は、書記職員を雇った。
 その年〔1917年〕の終わりまでに、ソヴナルコムには、48人の事務被用者がいた。
 つぎの二ヶ月のうちに、さらに17人増えた。
 1918年10月に撮影された集合写真から判断すると、これらのうち最も高い割合を占めるのは、身だしなみの良い、ブルジョア的な若い女性だ。〔試訳者-原書にはその写真が付いている。〕
 (2)1917年11月15日まで、ソヴナルコムは定期的な会議を開かなかった。ゴルブノフによると、11月3日に一度会議が行われたが、その唯一の議事は、モスクワで戦闘しているノギンから報告を聞くことだった。
 この時期には、発布された布令や命令類は、ボルシェヴィキ活動家の仕事だった。この者たちは、しばしばレーニンと相談することなく、自由に振る舞った。
 ラリンによれば、ソヴナルコムが発した最初の15の布令のうち二つだけが、ソヴナルコムで議論された。プレスに関する布令はルナチャャルスキが起草し、立憲会議選挙に関する布令は、彼自身が用意した。
 ゴルブノフが語るには、レーニンは彼が自分で地方に電信指令を発する権限を与えた。そして、およそ10の電報のうち1つだけをレーニンに見せた。(64)
 (3)ソヴナルコムの最初の定例会議は、20項目の議題付きで、11月15日に開催された。
 人民委員たちは可能なかぎり迅速にスモルニュイから退出すること、それぞれに対応する人民委員部を奪い取ること、が合意された。彼らはこれを、武装派遣隊の助けで、数週間のうちに成し遂げた。
 その11月15日以降、ソヴナルコムはほとんど毎日、通常は夕方に、スモルニュイの三階で、会議をした。ときには、深夜にまで及んだ。
 出席者は大して制限されておらず、多数の下級職員や、必要に応じて呼ばれた非ボルシェヴィキの専門技術者も同席した。
 生まれながらの革命家だった人民委員たちは、ぎこちなさを感じていた。
 メンシェヴィキの森林専門家でときどきソヴナルコムに出席したS・リバーマン(Simon Liberman)は、1918年10月の人民委員会議をつぎのように思い出している。//
 「レーニンが議長をするソヴィエト・ロシアの最高の行政部署の会議には、特有の雰囲気があった。
 各会議に厳粛な閣議たる性格を与えようと事務職員は努力していたが、我々は、地下の革命活動家の別の会議(!)に座っているという感覚を禁じ得なかった。
 長い間、我々は、多様な地下組織の一員だった。
 ここでの全てが、ありふれたものに思えた。
 人民委員の多くは、コートや外套を着ていた。ほとんどが、厳しさを感じさせる皮のジャケットを身に付けていた。
 冬季には、フェルトの靴を履き、厚いセーターを着ている者もいた。
 彼らは会議中ずっと、そのような装いのままだった。//
 人民委員の一人のA・ツリゥパ(Alexander Tsuriupa)は、ほとんどいつも病気だった。
 彼は半分横になって会議に出席していた。脚を、ほとんど椅子の上に伸ばしていた。
 レーニンがしきりと助けても、委員たちは会議用テープルの椅子に簡単に座ることができなかっただろう。部屋じゅうを慌てふためいて、椅子を目ざして突進していた。
 レーニンだけは変わらず、その場の司会役として、テーブルの同じ椅子に座った。
 彼は、手際よくなく、ほとんど礼儀正しくもなく、そのようにした。
 彼の個人的な秘書のフォティエヴァが、レーニンの隣に座った。」(65)
 (4)同僚たちの時間不遵守と冗長な発言にいらいらしたレーニンは、厳格な規則を編み出した。
 雑談を阻止すべく、議事にきちんと執心することを強く要求した。(*)
 人民委員たちが時間どおりに現れるのを確実にすべく、遅刻に対しては制裁金を課した。30分以下なら5ルーブル、それ以上の遅刻なら10ルーブル。(66)
 (5)リバーマンによると、彼が出席したソヴナルコムの会議では、政策方針は一度も決定されず、たんにその実施だけが議論された。
 「原理的な問題に関する議論を、私は聴かなかった。
 議論はつねに、すでにある規準を実行する可能で最良の方法を見出すという問題をめぐって行われていた。
 原理的な問題は、すでに別の場所で決定されていた。-共産党の政治局で。<中略>
 私が知る二つの政府最高機関-労働と防衛の各人民委員会議-は、すでに党内の神聖な機関-政治局-で決定されていた基準を達成するための、実際的方法を議論していた。」(+)
 (6)議題を過大なものにしてしまう些細な問題からソヴナルコムを解放するために、1917年12月18日に、小ソヴナルコムが設置された。
 (7)レーニンの署名によって、通常は人民委員の一人の連署によって、政府の決定は法(law)になった。そして、公式の<Gazette>に掲載された。これが最初に出版されたのは、〔1917年〕10月28日だった。
 そのときに決定は「布令」(decree, <dekret>)たる地位を獲得した。
 人民委員がそれぞれに提案して発する命令は、通常は「決定」(resolutions, <postanovleniia>)と称された。
 しかしながら、理論が必ずや実践によって遵守されるわけではなかった。
 一定の場合には-それは確実に不人気となる法令についてとくに生じたのだが-、レーニンは、CEC によって発せられ、その議長のスヴェルドロフによつて署名されていることを好んだ。
 こうした手続は、ボルシェヴィキに対する非難をソヴェトに転化するという効果をもった。
 いくかの重要な法令は、制定されなかった。-チェカの設立に関する法令のように。
 他の手段-例えば、人質をとるという実務の導入(1918年9月)-は、内務人民委員の名前で制定された。それは、<イズヴェスチア>に掲載された。だが、ソヴィエトの法令や布令の全部がそれに掲載されたわけではなかった。
 やがて、ボルシェヴィキは、非公開の通達(secret circulars)という手段でもって立法(legislate)するという、ツァーリ時代の実務へと逆戻りした。秘密通達はつねに公にされず、その多くは今日まで出版されていないままだ。
 旧体制のもとでのように、政府は、国家安全保障の問題についてはこの手段を最終的には用いた。//
 (8)ボルシェヴィキによる支配が始まった数カ月の間は、布令は、その実際的な効果を目的とするというよりも、プロパガンダを目的として発せられた。(67)
 法令を実施する手段がなく、また新体制がいつまで生き残れるかが不確かなままだったので、レーニンは法令を、将来の世代が革命のやり方を学ぶことのできるモデルだと見なしていた。
 実施されることが期待されていなかったために、初期の布令は、調子において訓戒的であり、用語法において不注意が目立った。
 レーニンは、権力掌握後三ヶ月のちに、ようやくこの問題を深刻だと受け止めた。
 1918年1月30日、彼は、立法の草案は訓練を受けた法律家のいる法務人民委員部の事前審査を受けるように、命じた。(68)
 1918年春以降に発布された法令は相当に綿密なもので、当時は多数の規模でソヴィエトの職務に就いていた、旧体制からの経験ある官僚層のみによって事前審査されているのではない、ということが明らかだ。//
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 (*) J・キープ(John Keep)教授によると、権力をもった最初の18週間-つまりモスクワに首都を移した1918年3月初めまで-、レーニンは、21回しかスモルニュイを離れなかった。Hebrew University, Jerusalem, 1988年1月のロシア革命に関する会議で提示された報告による。
 (62) Lenin, XXXV, p.7.
 (63) N. Gorbunov, in Prauda, No. 255/3,787(1927年11月6/7), p.9.
 (64) 同上.; Larin in NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (65) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 (*) BK, No. 1(1934年), p.107. アメリカ共産党の創設者の一人のJ・ラブストーン(Jay Lovestone)は著者に、かつて一度レーニンと話したとき、自分は3×5インチ・カードを用いた、と語った。レーニンはそのカードの目的を知りたがった。ラブストーンがレーニンの時間を節約するために話したいことをカードに書いておいたと説明すると、3×5インチ・カードを使えるようきちんと学ぶとロシアは共産主義になるだろう、とレーニンは言った。
 (66) D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti, Pt. 1(Moscow, 1963), p.140.
 (+) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 ボルシェヴィキ中央委員会の原決定に次いで、初期のボルシェヴィキの政策に関する最も重要な資料源であるソヴナルコムの詳細な文書は、マルクス=レーニン主義研究所の中央党文書庫(TsPA)に、「Fond 19」という棚の印のもとに、保管されている。
 それを利用できるのは、最も信頼されている共産主義歴史研究者だけだ。
 他の研究者たちは、つぎのようなレーニンの生涯に関する伝記的年代史文献に(きわめて不完全な形で)含まれている、二次的な参考史料に頼らなければならない。
 Institut Marksizma-Leninizma pri TsK KPSS, Vladimir Il'ich Lenin: Biografisheskaia Khronika, 1870-1924, V-XII(Moscow, 1974-82).
 E. B. Genkina, Protokoly Sovnarkoma RSFSR(Moscow, 1982)もさらに見よ。
 (67) L・トロツキー, Moia zhizn', II(Berlin, 1930), p.65.; レーニン, PSS, XXXVIII, p.198. ; Liberman, Building, p.8.
 (68) SUiR, I, No.309, p.296-7.
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 第4節、終わり。次節の目次上の表題は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。

2195/R・パイプス・ロシア革命第12章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第3節・事務就労者たちのストライキ。
 (1)知識人は、全国にわたる<duvan>に参加せず、掏摸たち等が使う「音のする鞄」に注意を逸らされはしない一つのグループだった。
 彼らは、かつてきわめて熱狂的に、二月革命を歓迎した。
 しかし、十月のクーは拒否した。
 何人かの共産主義歴史研究者ですら、学生、教授、作家、芸術家、および反帝制へと誘導したその他の者たちは、ボルシェヴィキによる権力奪取に圧倒的に反対した、と認めるに至っている。
 その研究者の一人は、「ほとんど」の知識人が「妨害行為(sabotage)」をした、と述べる。(47)
 ボルシェヴィキがこの抵抗に打ち勝つには、数カ月にわたる強要と甘言が必要だった。
 知識人たちは、体制が落ち着いて、それを拒否すれば却って事態を悪くするという結論に達した後でようやく、ボルシェヴィキと協力し始めた。
 (2)ロシアの教育を受けた層が十月のクーを拒否していることを最も劇的に表現したのは、事務系(white-collar)の人々による総罷業(ゼネ・スト, general strike, sluzhashchie)だった。
 当時とその後のボルシェヴィキは、この行動は「妨害行為(sabotage)」だとして否定した。しかし、それは実際には、国の公務員や民間企業の就労者が民主主義の破壊に反対する、巨大で非暴力的な抗議運動だった。(48)
 ボルシェヴィキに人気のなさを知らしめ、統治するのを不可能にさせるのを意図したストライキが、自発的に勃発した。
 そのストライキはすぐに、組織的な構造を形成し始めた。まず初めは、各省庁、国有銀行その他の公的組織のストライキ委員会の形態をとり、次いで祖国と革命の救済委員会(Komitet Spaseniia Rodiny i Revoliutsii)と呼ばれる組織となった。
 この委員会は最初は、都市や町の議会(Duma)の職員、ボルシェヴィキが解散させたソヴェト中央執行委員会の委員たち、全ロシア農民ソヴェトの代表者たち、政府職員組合総同盟、および郵便事業就労者を含むいくつかの労務職員組合で構成された。
 徐々に、左翼エスエルを除くロシアの社会主義諸政党の代表者たちも、これに加わっていった。
 委員会は全国民に対して、強奪者(usurpers)に協力しないこと、民主主義の復活のためにともに闘うことを訴えた。(49)
 〔1917年〕10月28日、委員会はボルシェヴィキに対して、権力を手放すことを要求した。(50)
 (3)10月29日、ペトログラードの政府職員組合総同盟は、この(ストを財政支援すると見られる)委員会と協同して、組合員に対して、業務を止めるよう求めた。
 「ペトログラード政府職員組合総同盟執行委員会は、立憲会議招集の一ヶ月前のボルシェヴィキ一派による権力強奪にかかる問題について全ロシア政府職員組合の代議員と討議したうえで、またこの犯罪的行為がロシアと革命の全成果を破壊せんとしていることを考慮し、かつ祖国と革命救済全ロシア委員会と一致して、つぎのとおり決議する。
 1.政府の全行政部署の業務は、ただちに停止されるべきこと。
 2.軍および国民への食糧供給の問題は、公安秩序維持関係組織の活動の問題とともに、組合総同盟執行委員会との協力のもとで、(祖国と革命)救済委員会によって決定されるものとする。
 3.すでにその業務を停止した行政部署のその行為は、是認される。」(51)
 (4)この訴えは、広範囲の注目を受けた。
 すぐに、ペトログラードの全省庁の業務が止まった。
 伝達員や若干の書記職員を除いて、各省庁の職員たちは、仕事に来なくなったか、やって来ても座って何もしなかった。
 新たに任命されていたボルシェヴィキの人民委員たちは、行き場所がなくて、スモルニュイのレーニンの周りにたたずんだ。そして、誰も注意を払わない命令を発した。
 彼らが担当省庁に入ることは阻止された。
 「10月〔のクー〕初めの後、以前の省庁にやって来た人民委員たちは、山のように積まれた書類やファイルのほか、伝達員、清掃人および門衛の姿だけを見た。
 課長や課員から始まりタイピストや複写担当者まで、全ての職員が、人民委員を認めるのを拒み、仕事から離れることが自分たちの義務だと考えていた。」(52)
 トロツキーは、11月9日-任命されたのち二週間後-に外務省を敢えて訪れたとき、バツの悪い体験をした。
 「昨日、新『大臣』のトロツキーが、外務省にやって来た。
 全職員が集合するよう呼びかけた後で、彼は『私が新しい外務大臣、トロツキーだ』と言った。
 彼は、皮肉な笑いで迎えられた。
 そのことにトロツキーは注意を向けず、仕事に戻るよう職員たちに言った。
 職員たちは去った。…、しかし、自分たちの家へだった。トロツキーが省のトップにとどまっているかぎり、役所には帰って来ないつもりだった。」(53)
 労働人民委員のシュリャプニコフは、自分の省の指揮を執ろうとしたとき、似たような受けとめ方をされた。(54)
 ボルシェヴィキ政府はかくして、権限を掌握した数週間あとで、国の公務員が仕事をするように説得することができない、そのような馬鹿げた状況にいることに気づいた。
 したがって、ボルシェヴィキ政府が機能していたとは、ほとんど言い難い。
 (5)ストライキは、非政府系の組織へも広がった。
 民間銀行は11月1日に早くも入口を閉めており、全ロシア郵便通信従業員同盟は、ボルシェヴィキ政府が連立内閣に道を譲らなければ、業務を停止するよう命令する、との声明を発表した。(55)
 すぐに、電信電話従業員たちが、ペトログラード、モスクワ、および若干の地方都市で、業務をやめた。
 11月2日、ペトログラードの薬剤師たちがストライキに加わった。
 11月7日、水輸送業者たちが、学校の教師たちに追随した。
 11月8日、ペトログラードの印刷業者たちが、かりにボルシェヴィキがプレス布令を実施すれば、やはりストライキをする、と発表した。//
 (6)ボルシェヴィキにとって最も痛かったのは、政府の財務部局、つまり国有銀行と国有財産局の業務が停止したことだった。
 ボルシェヴィキは当面の間は、外務省または労働省の職員がいないままでも何とかやって行けた。しかし、金銭は、持たなければならなかった。
 国有銀行と国有財産局は、ボルシェヴィキは正統な政府ではないという理由で、資金を求めるソヴナルコムの要請を拒否した。
 人民委員の署名付きの小切手をもってスモルニュイから伝達員が派遣されたが、彼らは手ぶらのままで戻って来た。
 銀行と財産局の幹部職員たちは前の臨時政府を承認しており、その代表者にだけ支払いをした。
 彼らはまた、正統な公的組織や軍隊からの要請には応じて支払いをした。
 11月4日、彼らの行動が一般国民の困難をもたらしているとするボルシェヴィキの責任追及に答えて、国有銀行は、その前の一週間に国民と軍隊の需要のために6億1000万ループルを支払った、と宣告した。
 その総額のうち4000万ルーブルは、前の臨時政府に渡っていた。(56)//
 (7)10月30日、ソヴナルコムは国有と民間の全ての銀行に対して、翌日には業務を再開するように命令した。
 政府からの小切手や為替手形の支払いを拒めば、専務理事を逮捕することになる、と警告した。(57)
 この脅かしによって、若干の民間銀行は再開したが、ソヴナルコムが発行した小切手を現金化する銀行はなかっただろう。//
 (8)金が絶対的に必要になって、ボルシェヴィキは苛酷な手段を用いた。
 11月7日、新しい財務人民委員のV. R. メンジンスキー(Menzhinskii)が、武装海兵と一軍団を引き連れて国有銀行に現れた。
 彼は、1000万ルーブルを要求した。
 銀行は、断わった。
 メンジンスキーは、さらに多い兵団と一緒に4日後に姿を見せて、最後通告を発した。現金を20分以内に貰えなければ、国有銀行幹部職員は仕事と地位を失うのみならず、兵役年齢にあるとして徴兵されるだろう。
 しかし、国有銀行は、動じなかった。
 ソヴナルコムは銀行幹部の何人かを馘首した。しかし、政府が責任を引き受けたのち2週間以上の間、現金を手にすることができなかった。//
 (9)11月14日、ペトログラードにある諸銀行の書記従業員たちは、つぎに何をするかの会合をもった。
 国有銀行の従業員は、ソヴナルコムの承認を圧倒的に拒否する票決を行い、ストライキを継続した。
 民間銀行の事務職員たちも、同じ結論を下した。
 国有財産局の職員たちは、142対14の票決を行って、政府の基金をボルシェヴィキが用いるのを拒んだ。彼らもまた、2500万ループルの「短期前渡」の要請を拒絶したのだ。(58)
 (10)このような抵抗に遭遇したボルシェヴィキは、実力行使(force)に訴えた。
 11月17日に、メンジンスキーが国有銀行に再び現れた。伝達人と門衛を除いて、銀行には人けがなかった。
 国有銀行の幹部たちは、武装衛兵によって拘引されていた。
 彼らが金を手渡すのを拒んだとき、武装衛兵たちは金庫を開けるように強いて、メンジンスキーは、そこから500万ルーブルを取り出した。
彼はビロード製鞄でそれを運び、勝ち誇ってレーニンの机の上に置いた。(59)
 こうした活動は全体が、銀行強盗に似ていた。//
 (11)ボルシェヴィキはようやく、国有財産局の現金を利用できるに至った。しかし、逮捕をしていったにもかかわらず、国有銀行職員のストライキは、続いた。
 ほとんど全ての銀行が、業務を止めたままだった。
 ボルシェヴィキ兵団が国有銀行を占拠したが、同銀行は活動しなかった、
 レーニンが1917年12月に、彼の秘密警察、すなわちチェカ(Cheka)を設置したのは、もともとはこの財政担当職員らの抵抗を排除するためだった。//
 (12)当時の調査によると、12月半ばには、外務、教育、法務および供給の各省(人民委員部と改称されている)では業務が静止しており、国有銀行は完全に混乱の中にあった。(60)
 地方諸都市でも、事務系就労者のストライキが起きた。
 11月半ばにモスクワ市庁の職員が、ストを始めた。12月3日には、ペトログラード市の彼らの仲間たちがそれに従った。
 彼らが仕事を中止したことには、共通の目的があった。それは、1905年10月のゼネ・ストを模範として、政府が専制的支配をするのを断念させることだった。
 カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、および若干のその他のレーニンの同僚たちを動かしたのは、この力強い示威運動だった。その他の社会主義諸党と権力を分かち合わなければならない、そうでないと政府は機能することができない、と彼らは考えたのだ。//
 (13)しかしながら、レーニンは、自己の基礎を揺るがすことなく、11月半ばに、反対攻撃をすることを指令した。
 ボルシェヴィキは今や次から次へと、ペトログラードの公的組織の全てを物理的に占拠し、厳しい制裁でもって脅かして、被用者たちが自分たちのために仕事をするように強いた。
 当時の新聞が報告するつぎのような事件が、多くの場所で繰り返された。
 「10月28日(旧暦)、ボルシェヴィキは関税(costoms)関係部署を掌握した。
 占拠した関税部署の指揮官として、ファデネフ(Fadenev)という名の官僚が着任した。
 クリスマス祝日の前夜に、その部署の合同会議に従って、彼は、全員が12月28日に仕事に復帰するよう命令した。登庁しない者は仕事を失い、訴追される可能性がある、と脅かしもした。
 12月28日、その部署の建物は、監察官により占拠された。
 ボルシェヴィキは、「人民委員会議」に完全に服従するとの宣明書に署名する、という意向をもつ職員だけが建物に入るのを許した。」(61)
 関税部署の指揮官は、すぐそのあとで解任され、下級の書記的職員に代わった。
 ボルシェヴィキが中央政府機構を言葉の字義どおりに征圧(conquer)するたびに、同じことが繰り返された。その征圧にはしばしば、早く昇進させるという約束を獲得した若い職員が協力していた。
 ボルシェヴィキは、1918年1月になってようやく、事務系就労者たちのストライキを打ち破った。それは、立憲会議を解散させ、ボルシェヴィキが自発的に譲歩するという望み、あるいは権力を分かち合うという望みすら、全ての希望をボルシェヴィキが断ち切った後でのことだった。//
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 (47) S. A. Fesdiukin, Velikii Oktiabr' i intelligenzia(Moscow, 1972); E. Ignatov in PR, No. 4/75(Moscow, 1928),p.34.
 (48) この事件の物語は、きわめて不適切に隠されている。D. Antoshkin, Professonal'noe dvizhenie sluzhashchikh, 1917-1924 gg.(Moscow, 1927), およびZ. A. Miretskii in A. Anskii, ed., Professional'noe dvizhenie v Petrograde g.: Ocherkib i materialy(Leningrad, 1928), p.231-p.241.を見よ。
 (49) DN, Nos. 191 &192(1917年10月28日); NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.3.
 (50) Revoliutsiia, VI, p.14.
 (51) Volia naroda, No.156(1917年10月29日). Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.225.が引用する。
 (52) VS, No.11(1919年), p.5.
 (53) DN, No. 191 (1917年11月10日), p.3. Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.226.が引用する。
 (54) Protokoly II'go Vserossiskogo S"ezda Kommissarov Truda(1918), p.9 & p.17. M. Dewar, Labour Policy in the USSR(London, 1956), p.17-p.18.
 (55) Revoliutsiia, VI, p.50.
 (56) NZh, No. 178/172(1917年11月11/24), p.3; B. M. Morozov, Sozdanie i ukreplenie sovetskogo gosudarstvennogo apparata(Moscow, 1957),p.52.
 (57) Dekrety, I, p.27-p.28.
 (58) NZh, No. 182/176(1917年11月16/29).
 (59) N. Osinskii in EZh, No.1(1918年11月6日), p.2-p.3. A. M. Gindin, Kak bol'sheviki ovladeki Gosundarstvennym Bankom(Moscow, 1961).も見よ。
 (60) NV, No.6(1917年12月6/18), p.3.
 (61) 同上, No.25(1917年12月30日), p.3.
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 第3節、終わり。第4節の目次上の表題は、<人民委員会議>。第5節は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。第6節は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2194/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)①。

 折口信夫「神道の新しい方向」同全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。p.461以下。原出/1949年06月。一文ごとに改行。太字化は秋月。
 ***
 ・昭和20年の終戦前、「われわれには、この戦争に勝ち目があるのだろうかという、静かな反省が起こっても来ました」。
 不安でした。「それは、日本の国に果して、それだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした」。
 ・「日本の若ものたちは、道徳的に優れている生活をしているかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遙かに劣った生活をしておりました」。
 「それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことでも訳りますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けているところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫ってきて、われわれを苦痛にしているのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いているところから出ている。
 宗教的な、秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。
 心持ちだけではありません。
 事実それが原因で、こういう礼儀のない生活を続けている訳です。
 これはどうしても宗教でなければ、救えません。」
 ・「ところが唯一ついいことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。
 われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとは言えませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本道の宗教的な礼譲のある生活に這入ることが出来る。
 義人の出る、よい社会生活をすることが出来るということです。」
 ・「しかし時々ふっと考えますに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持っているか、日本人は宗教的な情熱を持っているか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が、現れて来るかということです。
 事実、仏教徒の行動などを見ますと、<中略>というような感じのすることもございます。
 殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けているということが出来ます。」
 ・「神道では、これまで宗教化することをば、大変いけないことのように考える癖がついておりました。
 つまり宗教として取り扱うということは、神道の道徳的な要素を失って行くことになる。
 神道をあまり道徳化して考えております為に、そこから一歩でも出ることは道徳外れしたもののようにしてしまう。
 神道は宗教じゃない。
 宗教的に考えるのは、あの教派神道といわれるものと同様になるのだという、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てて、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来ました。」
 ・「…、明治維新前後に、日本の教派神道というものは、雲のごとく興ってまいりました。
 どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興って来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかった。
 いったん誤られた潔癖な神道観が、地を払うた為に、そこにむらむらと自由な神道の芽生えが現れて来たのです。」
 ・「ただこの時に、本道の指導者と申しますか、本道の自覚者と申しますか、正しい教義を持って、正しい立場を持った祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行ったら、どんなにいい幾流かの神道教が現れたかも知れないのです。
 それから幸福な、仮に幸福な状態が続いてまいりました。
 その為にまた再び、神道を宗教化するということが、道徳的にいけない、道徳的な潔癖に障るような気持ちが、再び盛んに起こってまいりました。
 そうして日本の神道というものは、宗教以外に出て行こうとしました。」
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 ②につづく。折口信夫、1887年~1953年。

2193/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節④。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる④。
 (44)このような、またはこれに類似の、とくに経済に関する批判が、ソヴェト大会またはCEC の強い反対派から生じるだろうと予期して、ボルシェヴィキはさらにもう一つの法令を発した。それは、政府とソヴェトの関係の問題に関連していた。
 「法令(laws)の裁可と公布の手続に関して」、その布令は、ソヴナルコムが立法する(legislative)機関として行動する権利を主張した。CEC の権限は、布令(decree)がすでに施行された後で裁可するか廃止するかに、限定される。 
 この布令は、ソヴェト大会がほんの数日前にボルシェヴィキが政府を形成することを権威づけた、その条件を完全に覆すものだった。この布令文書には、レーニンの署名があった。
 しかし、元はメンシェヴィキで9月にレーニン側に移って彼に最も影響を与える経済助言者となったI・ラリンの回想録では、草案を書いてレーニンに知らせることなく自分の権限で発布したのは彼自身だ、と主張されている。また、レーニンは、公式の<官報(Gazette)>で読んで初めて知った、とされている。(36) //
 (45)ラリン=レーニン布令は、立憲会議が招集されるまで効力をもつと主張していた。
 そのときまでは、諸法令は労働者と農民の臨時政府(ソヴナルコム)が立案し、公布される、と宣言されていた。
 ソヴェト中央執行委員会(CEC )は、そのような法令(laws)を遡及して「停止し、変更し、廃止する」権限を維持した。(*)
 ボルシェヴィキは、この布令を根拠として、ボルシェヴィキは、1906年の基本法第87条と同等のものにもとづいて立法(legislate)する権利がある、と主張した。//
 (46)議会という「妨害主義者」から政府を免れされる、この簡素化された手続によって、ゴレムィキン(Goremykin)あるいは旧体制のどの保守的官僚たちも、警戒する気持ちになっただろう。だが、社会主義者たちが「ソヴェト」政権に期待したものでもなかった。
 CEC は、増大する警戒心をもちつつ、このような展開に付いていった。
 ソヴナルコムが行っている、統制がきかない「主人化(bossing)」(<khoziaistvovanie>)による自分の権威への侵害と、その同意がないままでの布令の公布に対して、CEC は異を唱えた。(37)
 (47)この問題は、11月4日の会議の際に頂点に達した。これが、「ソヴェト民主主義」の運命を決めた。
 レーニンとトロツキーは、革命前の帝制時代の大臣たちがそれらの活動の正当性についてドゥーマ〔帝制議会〕からの説明要求に応じていたように、説明するようにCEC に招かれた。
 左翼エスエルは、なぜ政府は第二回ソヴェト大会の意思を何度も侵犯するのかを、知りたかった。その意思によれば、政府は中央執行委員会に対して責任をもつ。
 彼ら左翼エスエルは、布令による統治をやめるよう強く主張した。(38)
 (48)レーニンはこれを、「ブルジョア形式主義」だと見なした。
 彼は長い間、共産主義体制は立法権と執行権をともに結合させなければならない、と考えていた。(39)
 よって、質問がいくらあっても答えることができないし答えようともしなかっただろう。レーニンは、ただちに攻勢に回って、逆襲の空気を醸成した。
 ソヴィエト政府は、「形式的なこと」には拘束され得ない。
 ケレンスキーの怠惰が致命的だったと分かった。
 ケレンスキーの行動に疑問を呈する者は、「議会による妨害主義の弁明者」だった。
 ボルシェヴィキ権力は、「広範な大衆の信頼」に依拠している。(40)
 このいずれも、なぜわずか一週間前に自分が掌握した政府が服すべき条件をレーニンが侵犯しているのか、の説明にはなっていなかった。
 トロツキーは、もう少し実質的な答え方をした。
 ソヴェト議会(ソヴェト大会とその執行委員会の意味)には「ブルジョア」議会とは違って、敵対する階級がない、そのゆえに、「伝統的な議会機構」を必要としない。
 こういう議論が示すのは、階級の差異が存在しなければ見解の違いも存在しない、ということだ。そして、ここから推論することができるのは、見解の違いが意味するのは実際には(ipso facto)「反革命」だ、ということだ。
 トロツキーは続ける。「政府と大衆」は形式的な制度や手続によってではなく、「活力のある、かつ直接的な紐帯」で結びついている。
 ファシストの実務を正当化するために類似の論拠を用いることとなるムッソリーニの先鞭を付けて、彼はこう言った。「我々の布令が穏やかではないのは本当かもしれない。<中略> しかし、活力ある創造性を求める権利は、形式的な完全性よりも優先する」。(41)
 (49)レーニンやトロツキーの見当違いと首尾一貫性のなさにより、CEC の多数派は納得することができなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキですら、動揺しているのを感じた。
 左翼エスエルは、鋭く反応した。V. A. カレーリンはこう述べた。
 「『ブルジョア』という語の濫用には異議がある。
 責任(accountability)と詳細にわたる厳格な秩序は、ブルジョア的政府だけの義務なのではない。
 言葉をもて遊び、過ちを粉飾し、ばらばらの不愉快な言葉に迷い込むのは、やめて貰いたい。
 本質的に人民的であるプロレタリア政権は、自己に対する全ての統制を許容するものでなければならない。
 要するに、ある企業を奪い取った労働者たちも、記帳と会計を廃止するまでには至らない。
 頻繁かつ多数の法的な遺漏があるだけではなくしばしば文法的誤りもある布令を急いでこしらえることは、状況をさらに大きく混乱させる。上から付与されるように法令を受容することに慣れている地方では、とくにそうだ。」(42)
 もう一人の左翼エスエルのP. P. プロシアン(Proshian)は、ボルシェヴィキのプレスに関する布令について、「政治的テロルのシステムを明確かつ決定的に表現するものであり、内戦を誘発するものだ」と、叙述した。(43)//
 (50)ボルシェヴィキは、プレス布令の票決で、簡単に勝利した。
 ラリンが提案したその布令を廃止する動議は、24対34、保留1で敗北した。(*)
 このような是認があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、1918年8月までは、諸新聞を沈黙させることができなかった。その8月に彼らは、全ての自立新聞紙と雑誌を排除したのだ。
 そのときまで、ソヴィエト・ロシアには、驚くべきほど多彩な新聞や雑誌があった。その中には、リベラル志向のものもあり、保守的な方向のものもあった。
 重い罰金が課され、その他の方法のために疲れ切っていたが、何とか生き長らえてきたのだった。
 (51)ソヴナルコムのCEC に対する責任については、まだ重要な問題が残っていた。
 ボルシェヴィキ政府はこの問題については、最初から最後まで、信任投票にかけられた。
 左翼エスエルのV. B. スピロ(Spiro)の動議は、こうだ。
 「人民委員会議長の説明を聞いたが、中央執行委員会は、不満足だと見なす」。
 ボルシェヴィキのM. S. ウリツキ(Uritzkii)は、レーニン政権を信任する反対動議で応えた。
 「説明要求に関して、中央執行委員会は、つぎのとおり決議する。
 1.労働者大衆のソヴェト議会は、その手続につき、ブルジョア議会と何ら共通性をもたない。ブルジョア議会には対立する利害をもつ多様な階級が代表されており、支配階級は規約や指示書を立法による妨害物という武器に変えている。
 2.ソヴェト議会は、人民委員会議が中央執行委員会による先行する議論なくして、全ロシア・ソヴェト大会の一般的な基本方針の枠の範囲内で、緊急の布令を発する権利を有することを、拒むことはできない。
 3.中央執行委員会は、人民委員会議の活動に対して一般的な統制を及ぼし、自由に政府とその構成人員を変更するものとする。<以下略>」(44)
 (52)スピロによる不信任動議は、20対25で敗れた。この少ない投票数は、9人のボルシェヴィキの離脱の結果だった。そのうち何人かは人民委員で、この会合で辞任を発表した(上述)。
 この消極的な勝利は、レーニンには十分でなかった。
 彼は、ウリツキの動議の票決で、自分の政府は立法権をもつことが、公式にかつ議論の余地なく、確認されることを望んだ。
 しかし、ボルシェヴィキ幹部たちが突然に躊躇し始めたために、その見込みは疑わしく見えた。
 事前の票読みでは、ウリツキの動議への賛否は、同数だった(23対23)。
 レーニンとトロツキーは、この事態を避けるべく、投票に自分たちも参加する、と発表した。-大臣が立法府の一員となって、承認を求めて提出した法令に賛成を投票するのと同等の行為だ。
 かりにロシアの「議会政治人」にもっと経験があったならば、この茶番劇に参加するのを拒んだだろう。
 しかし、全員がそのままとどまり、投票が行われた。
 ウリツキの動議は、25対23で採択された。決定的な2票は、レーニンとトロツキーによって投じられた。
 二人のボルシェヴィキ指導者は、この単純な手続でもって、立法権限を盗み取り、代表者であるはずのCEC とソヴェト大会を立法機関からたんなる諮問機関へと変えた。
 これは、ソヴィエトの国制(constitution)史上の、大きな分岐点だった。//
 (53)その日遅く、ソヴナルコムは、法令は公式の官報(<労働者と農民の臨時政府公報>)(<Gazeta Vremennogo Rabochego i Krest'ianskogo Pravitel'stva>)に登載されたときに、発効する、という声明文を発表した。//
 (54)ソヴナルコムは今や、事実上は最初からそうだったものに、つまり執行権と立法権を併せもつ機関に、理論上もなった。
 CEC にはしばらくの間は、政府の活動について議論する権利、現実の政策には何の影響も及ぼさなくとも、少なくとも批判する機会があるという権利が、認められた。
 しかし、全ての非ボルシェヴィキが排除された1918年6月-7月以降、CEC は、共鳴機構(echo chamber)に変えられた。ボルシェヴィキ代議員たちが機械的な作業としてボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可」した。かつまた、そのソヴナルコムの決定は、ボルシェヴィキ党中央委員会の決定を実施するものだった。(*)
 (55)この日から、ロシアは、布令(decree)によって統治された。
 レーニンは、1905年以前にツァーリが享有した特権を握ることになった。
 レーニンの意思が、法(law)だった。
 トロツキーの言葉によると、「臨時政府は打倒されたと宣言したそのときから、レーニンは、問題が大であれ小であれ、政府として行動した」。(+)
 ソヴナルコムが発する「布令」は、フランス革命期から借用した名称であってロシアの国法上は従前は知られていないものだったけれども、十分に皇帝の<ukazy>に匹敵するものだった。皇帝のそれは、「布令」と同様に、きわめて瑣末な問題からきわめて重大な問題を扱い、専制君主が署名を付した瞬間に効力をもつに至った。
 (I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、「レーニンはふつうに、自分の署名は政府の全ての行為を十分なものにしなければならない、と考えていた。)(45)
 レーニンの幹部秘書のボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、レーニンが署名するだけで布令は法令たる効力をもった、人民委員の一人が提案して発せられたものであってすら、と書いている。(46)(++)
 このような実務は、ニコライ一世またはアレクサンドル三世にとっては、全く理解可能なものだっただろう。
 ボルシェヴィキが十月のクーから数週間以内に設定した統治のシステムは、1905年以前にロシアを支配した専制体制への逆戻り(reversion)を画するものだった。そしてそれは、間に介在した12年間の立憲主義体制(constitutionalism)を完全に一掃した。 //
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 (36) Iu. Larin, in NKH, No.11(1918年), p.16-p.17.
 (*) Dekrety, I, p.29-p.30. この布令が発布された日付を確定することはできない。ボルシェヴィキの新聞1917年10月1日と11月1日付には掲載されている。
 (37) M. P. Iroshnikov, Sozdanie sovetskoe tsentral'nogo gosudarstvennogo apparata, 2nd. ed.(Leningrad, 1967), p.115. L. H. Keep, ed., The Debate on Soviet Power(Oxford, 1979), p.78-p.79.
 (38) Protokoly zasedanii Vserossiiskogo Tsentral'nogo Ispolnitel'nogo Komitera Rabochikh, Soldatskikh, Krest'ianskikh i KazachHkh Deputatov II Sozyva(Moscow, 1917), p.28.
 (39) レーニン, PSS, XXXIX, p.304-5.
 (40) 同上, XXXV, p.58.
 (41) Protokoly zasedanii, p.31.
 (42) 同上, p.32.
 (43) Revoliutsiia, VI, P.73.
 (*) A. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Leningrad, 1969), p.169-p.170.
 ボルシェヴィキは、5名の信頼できる党員でCEC への反映が増加することに対する事前の対抗措置をとった。
 (44) Protokoly zasedanii, p.31-p.32.
 (*) 1919年12月に、CEC に名目上はまだ残っていた若干の権限は、その議長に移された。議長はそれによって、「国家の長」となった。
 元々は継続的なものと考えられていたCEC の会議は、それ以来ほとんど開催されなかった。1921年には、CEC は3回だけ催されている。
 E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, I (New York, 1951), p.220-p.230.を見よ。 
 (+) "kak pravitel'stvo": L. トロツキー, O Lenin(Moscow, 1924),p.102. 英語翻訳者はこの文章を間違って、レーニンは「政府がすべきように行動した」と読んだ。: L. トロツキー, Lenin(New York, 1971), p.121.
 (45) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.148.
 (46) S. Piontkovskii, in BK, No.1(1934年), p.112.
 (++) 以下で述べるように、これには例外があった。
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 第2節、終わり。第3節の目次上の表題は、<事務系(white collar)労働者のストライキ>。

2192/レフとスヴェトラーナ-第2章④。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章④。
 (33) もっと恐ろしいことすら、やって来ることになった。
 1945年4月、西側連合軍がドイツに突入したとき、ナツィスは、ブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン(Buchenwald-Wansleben)収容所を退避させた。
 4月12日午後5時、長い行進が始まった。
 生き残っている収監者たちは、護送車に乗せられて収容所を離れた。その車は無蓋トラックに脇を挟まれ、それぞれに6人の武装したSS護衛兵が乗っていた。
 彼らは原野を北東に歩いて、デッサウへの道に入った。但し、レフや彼の周囲の者たちは、そのときどこに向かっているのかを知らなかった。
 彼らには、(反対方向の)ブーヒェンブァルトに戻っているように思えた。つまりは、ナツィスが虐殺した数万の犠牲者が以前に焼却された、火葬場を目ざしているのではないかと。
 ぼろ布を身にまとっている収監者たちは、疲労困憊して道から離れて倒れ始めた。-ドイツ兵が射殺して、全てが終わった。
 フランス人収監者は思い出している。
 「午後8時だと覚えている。突然に前方に、隊列の端から、多数の射撃音が聞こえた。
 SSが、疲れて歩けないか、求められる速さで歩けない仲間たち全員を、射殺していた」。//
 (34) レフは、逃げることに決めた。
 並んで歩いていた、ピトラー・グループの一人の、アレクセイ・アンドレーエフ(Aleksei)Andreev)に言った。
 レフは思い出す。
 「我々の前方の右側に、何かが燃えているのを見た。
 爆撃されたドイツの大型トラックが、火の中にあった。
 あそこを通過するときに、走ってあのトラックの後ろの茂みに逃げ込めば、我々の後方にいる監視兵たちは炎で気がつかないだろう、と私は言った。
 アンドレーエフは肯いた。」
 隊列から離れて走って、二人は、燃えている大型トラックの後ろの叢林に飛び込み、長い隊列の残りが通り過ぎるのを待った。
 そして、田畑を這って進み、溝の中へと身体を引き摺り込んで、縞模様の囚人服を隠せるように、干し草で身体を覆った。
 レフは、恐怖に打ち震えていた。
 彼が想起するように、戦時中の全期間の中で、これが最も恐怖に圧倒されたときだった。
 (35) 二人は、夜間に、森の中へと動いた。
 前方に、銃砲が火を吹く音が聞こえた。
 森の大部分は、爆撃ですでに破壊されていた。
 樹林を通して、光の輝き-探照灯-を見た。そしてその光のそばに、何台かの戦車の影があるのが分かってきた。
 アメリカ(US)の戦車だった。
 暗闇の中から、一人のアメリカ兵が現れた。
 二人に叫んだ。「武器を離せ!」
 レフは英語で叫び返した。「武器など持っていない」。
 「きみたちは誰だ?」
 「我々はロシア軍の将校だ。強制収容所から逃げてきた。」
 (36) レフは、ブーヒェンブァルトにいたこと、今はソヴィエト同盟に戻りたいこと、を説明した。
 アメリカ兵は、二人を近くの家屋に連れて行った。
 そこには、5人の戦車運転兵がいた。
 彼らは、ロシア人を自分たちと一緒に床で眠らせ、食料を与えてくれた。レフはパンと粥で生き返りながら、「レストランの食事のように旨い」と思った。
 翌朝、彼らはレフとアレクセイエフを自分たちでアイスレーベン(Eisleben)に送り、そこで離れたが、その際にアメリカ軍当局が助けてくれるだろうと告げた。//
 (37) 二人はアイスレーベンで、アメリカ軍少佐から取調べを受けた。その人物はレフに、ドイツ語で話しかけた。
 レフが核物理学者だと知ると、彼は、アメリカに亡命するようにレフを説得しようとした。そして、レフが断ると、それを理解できなかった。
 彼は言った。「どうして? ロシアは共産主義だ。共産主義には民主主義がない」。
 レフが戦争でどの程度自分の政治的見解を変えたかが分かるが、レフはこう答えた。
 「ロシアは共産主義ではない。賢い人々が得ることのできる自由が、十分にある」。
 レフは、政治的な議論にかかわろうとはしなかった。
 彼がアメリカでより良い生活を追求するのを拒否した本当の理由は、政治とは関係がなかった。要するに、故郷に、彼が愛した人々のいる所へ、帰りたかったのだ。
 世界の中で彼がもつ全員は、そこにいた。
 -彼は思い出した。「スヴェトラーナとその家族、オルガ叔母、カーチャ叔母、ニキータ叔父。こうした人々が、私には大切だった」。
 スヴェータが生きているかどうか、彼女がいつも自分を待ってくれているかどうか、レフは考えなかった。しかし、自分の気持ちに従わなければならないことを知っていた。
 「彼女が生きている可能性がほんの少しでもあるなら、どうして私がそれに背を向けて、アメリカに行くことができるのか?」
 (38) アメリカの少佐は、自由になった捕虜たちが使えるホテル用のクーポン券をくれた。
 その町の町長は元共産主義者で、二人をにコートと帽子を買わせるために店に連れて行き、新しいスーツを注文し、全額をその町が支払った。
 レフとアレクセイエフは、つぎの二ヶ月の間、アイスレーベンに滞在した。
 彼らの部屋の窓からは、マルティン・ルターが生まれた家が見えた。
 その二ヶ月間は、休暇のようなものだった。
 アイスレーベンには、アメリカ軍員と解放された捕虜たちのための自由食堂が4つあった。強制収容所で飢えていた年月の後だったので、レフは、それら食堂のどこでも、全ての食事をきちんと完食した。
 「我々は、一日に、12回食べた!」
 レフがこの当時に抱えた唯一の問題は、食事ごとに4つの自由食堂のいずれにも時間に間に合って着くことだった。
 この狂ったような食事ぶりは、レフに飢えるという恐怖感がなくなるまで、数日間は続いた。//
 (39) 〔1945年〕5月初頭、アイスレーベンで、アメリカ軍による勝利パレードがあった。
 そのすぐ後に、ソヴェト軍兵士の帰還を組織すべく、赤軍の代表者たちが到着した。
 ソヴェト軍が出発する6月8日、アメリカ軍は、ソヴィエトとアメリカの国旗を付けて「帰還おめでう!」と書いた幕で飾られたオープン・トラックを用意した。
 ソヴィエト軍兵士たちはそのトラックでトルガウ(Torgau)のエルベ河まで行き、そこで、ソヴィエト占領地帯へと渡った。
 彼らは、ソヴィエト軍当局には、同じ友好的な態度では受け入れられなかった。ソヴィエトは彼らを、収監者だとして扱った。
 帰還する兵士たちはソヴィエト軍護衛兵によって30のグループに分けられ、大型トラックでヴァイマル(Weimar)まで連れて行かれた。そこで、第8護衛軍司令部に付属する囚人地区へと入れられた。
 監獄は、SMERSH (「スパイに死を!」の頭字語)として知られる、NKVD の特殊部門によって管理されていた。その任務は、ドイツ軍に協力したソヴィエト兵士を根こそぎ殺戮することだった。//
 (40) レフの好運は、消え去った。
 彼は、他の8人とともに一つの部屋に投獄された。
 全員が衣類を脱がされ、身体を調査された。
 彼らの持ち物は全て、奪い取られた。
 レフは、過去の4年間ずっとポケットに入れて最も大切にしていたものを、失った。スヴェータの父親から貰った住所録だ。
 それは紙の一片にすぎなかったが、スヴェータと自分を結びつけるただ一つの物だった。//
 (41) 昼間は、床に座って、横になったり寝入ったりすることを禁止された。
 尋問は、夜に行われた。
 各人は順番に尋問に連れ出され、3ないし4時間あとで戻されたが、それは朝の起床の合図までの睡眠を剥ぎ取るものだった。
 レフは、一ヶ月以上にわたって、取調べを受けた。
 SMERSH の調査官は、ドイツ軍のためにスパイしているとレフを責めた。
 彼らがもつ唯一の証拠はレフの仲間から得たもので、カティンでドイツの少佐と会話しているのを聞いた、というものだった。
 レフは、それは本当のことだと認めた。
 彼は通訳者として働いていたことは承認したが、スパイでは決してなかったと強く主張した。ドイツに反対して働いていたのであって、ドイツ軍のためにではない。
 純粋無垢にも、真実を語れば郷土に帰ることが許されるだろう、という考えが彼には固着していた。
 彼は、ソヴィエトには正義があると信じていた。
 彼が闘ったのは、そのためにではなかったのか?
 つぎに起こったことで、彼の想いは粉々になった。
 数日後に、尋問官が、自白書に署名するのに同意しなければ射殺する、と脅迫した。
 レフは、打ちのめされた。
 彼は思い出す。
 「私は、死ぬことを怖れなかった。
 しかし、何度も、私が愛した人々が自分に罪があったと考えるかもしれない、と怖れた。」//
 (42) レフは、頻繁に、スヴェータのことを想った。
 生きて彼女のそばにおれそうにない、という気がした。
 1945年9月10日、スヴェータの28歳の誕生日、尋問が弱くなっていたとき、レフは、彼女と再び逢うことを諦めて、観念して彼女に「さよなら」を告げた。//
 (43) 質問がとくに連続した夜のあとの朝早くに、レフは生き生きとした夢を見ながら、軽い眠りに入っていた。
 「私は、取調べの後で、まどろんでいた。ほとんど夜が明けていた。夢を見た。
 自国のどこかを歩いているがごとく、きわめて鮮明で明確だった。
 振り返って、後ろにいるスヴェータを見た。
 スヴェータは白く身なりを整えて、やはり白い服を着ている小さな女の子の側で、地上に跪いていた。そして、何かを自分の服に合わせていた。
 とても輝いていて、とても明瞭で、そして目が覚めた。」
 (44) 自白書に署名させることができなかったので、尋問官たちは、有罪を認めて署名するよう、策略をレフに仕掛けた。
 軍事裁判所が無罪と認定するだろうと保障したうえで、彼らは、レフはがきちんと検証しなかった尋問調書に署名させた。
 レフは尋問将校たちを信頼した。文書を彼に提示し、レフが主張したものとされる言葉を使っていたからだ。
 将校は尋問調書の文章を読み上げ、レフは簡単にそれに署名した。
 頁の下にある小さな文字のこの署名は、彼のその後の人生を変えることになる。
 おそらくは、彼は疲れていた。
 おそらくは、彼は純粋無垢だった。
 レフは知らなかったけれども、将校は調書の一部だけを彼に読み聞かせ-大逆の罪を認める部分は全くそうしないで-、それに彼は署名した。
 レフが間違いだったと気づいたのは、ようやく裁判になってからだった。//
 (45) 1945年11月19日、三人で構成される第八護衛軍のヴァイマル軍事裁判所は、祖国に対する大逆の罪で、ソヴィエト公務員に用意されている刑法典第58条第1項(b)にもとづいて、レフに、死刑を言い渡した。
 この判決は即座に、グラク(Gulag)の矯正労働収容所への10年間の服役に減刑された。-奴隷労働にもとづくシステムの利益を考慮して、ソヴィエト裁判官がしばしば行う譲歩だった。
 裁判は、全てで20分つづいた。//
 (46) 〔1945年〕12月、レフは、フランクフルト・アン・デア・オーデル(Frankfurt an der Oder)の軍事監獄へと移された。
 彼は、ソヴィエト同盟の監視のもとで護送車で送り還された。そこから、北方のペチョラ(Pechora) 労働収容所への三ヶ月の長い旅が始まった。//
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 第2章の全部、終わり。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。

2190/松下祥子関係文書③-2018年05月。

 松下祥子関係文書③。
 2018年12月作成・送付文書に添付された文書による/原文は2018年05月。
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 前注1/第一と第二の違いは以下。
 第二文書は、近藤富美子が作成し松下祥子が了承して「公式に」提出されたもの。
 ①原文書では1(1)・(2)、2・(1)・(2)、3であるの対して、第二文書では、(1)ア・イ、(2)ア・イ、である。
 ②原文書の3の二行が、第二文書では割愛されている。
 ③それぞれの冒頭近くが、つぎのように異なる。
 ・原文書/
 …とされ、施行令第1条第3項で「障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」と規定されている。
 「認定基準」の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、…。
 ・第二文書/
 …とされ、特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和50年政令第207号。以下「施行令」という。)第1条第3項で『障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。』と規定されている。
 「施行令別表第3における障害の認定について」(昭和50年9月5日付け児発第576号厚生省児童家庭局長通知。以下「認定要領」という。)の別添1「特別児童扶養手当障害程度認定基準」(以下「認定基準」という。)の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、…。
 前注2/松下祥子の2018年11月22日の「発言」。
 (要旨とは言えない、そのまま丸写しでないか、との指摘に対して、つぎだけ)
 ①「『そのまま丸写しならば要旨とは言えない』と先日は言っただけです」。
 ②(第二文書は)「少し詳しくなっているところもあります」。

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 論点1/以下の第二は以下の第一の「要旨」と言えるか(「要旨」と理解できるか)。**松下課長-言える。*-言えない。

 第一 審理員意見書(第4・理由)
 1 本件に係る法令等の規定について
 (1)手当においては、まず法第2条第1項で「障害児」の定義があり、同条第5項で「各級の障害の状態は、政令で定める」とされ、施行令第1条第3項で「障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」と規定されている。
 (2)「認定基準」の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、後者について、具体的には、「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」とされており、別添2では診断書の様式も定められている。
 2 本件処分が、法令等が求める要件に該当するかについて
 (1)審査請求人が有期再認定請求の際に処分庁に提出した診断書において、⑩障害の状態(1)聴覚の障害で聴力レベルは「右 103.8dB 左 80dB」と記載され、最良語音明瞭度については記載がない。本件診断書の内容を2級の認定基準である「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」と照らし合わせると、本件児童は⑩障害の状態(1)聴覚の障害において「左 80dB」とあることから、2級の認定基準の前者には該当しない。
 また、2級の認定基準の後者について、具体的には「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」とされており、本件診断書において、両耳の平均純音聴力レベル値は80デシベル以上であるが、最良語音明瞭度については記載がない。最良語音明瞭度については、処分庁の提出書類である、「<別紙1>診断書判定について」によると、「本件児童の年齢(3歳)では成長に差があり、検査ができていないとしても不思議ではないことから、本検査欄に記載がないことは診断書の不備とは言えないと解している。」とあることから、本件診断書の記載内容をもって判断すると、2級の認定基準に該当しているとは言えない。
 (2)審査請求人は審査請求書において、本件児童及び審査請求人の生活状態等について述べ、「左耳は88dbでたった2dbの事なのです。」との記載があるが、本件診断書においては「左 80db」であり、本件児童の障害の状態は2級の認定基準を満たしておらず、本件診断書をもって判定医の審査判定に基づいた本件児童の障害の状態が施行令別表第3に定める障害等級の2級に該当しないとして行った本件処分は、違法又は不当なものであるということはできない。
 3 上記以外の違法性または不当性について
  他に本件処分に違法又は不当な点は認められない。
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 第二/事務局作成答申案で審理員意見書の理由の「要旨」とされているもの。
 (1)本件に係る法令等の規定について
 ア 特別児童扶養手当(以下「手当」という。)においては、まず法第2条第1項で「障害児」の定義があり、同条第5項で「各級の障害の状態は、政令で定める」とされ、特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和50年政令第207号。以下「施行令」という。)第1条第3項で「障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」と規定されている。
 イ 「施行令別表第3における障害の認定について」(昭和50年9月5日付け児発第576号厚生省児童家庭局長通知。以下「認定要領」という。)の別添1「特別児童扶養手当障害程度認定基準」(以下「認定基準」という。)の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、後者について、具体的には、「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」とされており、別添2では診断書の様式も定められている。
 (2)本件処分が、法令等が求める要件に該当するかについて
 ア 審査請求人が有期再認定請求の際に処分庁に提出した平成28年12月21日付け診断書(以下「本件診断書」という。)において、⑩障害の状態(1)聴覚の障害で聴力レベルは「右 103.8dB 左 80dB」と記載され、最良語音明瞭度については記載がない。本件診断書の内容を2級の認定基準である「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」(以下「前者」という。)または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」(以下「後者」という。)と照らし合わせると、本件児童は⑩障害の状態(1)聴覚の障害において「左 80dB」とあることから、2級の認定基準の前者には該当しない。
 また、2級の認定基準の後者について、具体的には「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」と規定されており、本件診断書において、両耳の平均純音聴力レベル値は80デシベル以上であるが、最良語音明瞭度については記載がない。最良語音明瞭度については、処分庁の提出書類である、「<別紙1>診断書判定について」によると、「本件児童の年齢(3歳)では成長に差があり、検査ができていないとしても不思議ではないことから、本検査欄に記載がないことは診断書の不備とは言えないと解している。」とあることから、本件診断書の記載内容をもって判断すると、2級の認定基準に該当しているとは言えない。
 イ  審査請求人は審査請求書において、本件児童及び審査請求人の生活状態等について述べ、「左耳は88dbでたった2dbの事なのです。」との記載があるが、本件診断書においては「左 80db」であり、本件児童の障害の状態は2級の認定基準を満たしておらず、本件診断書をもって判定医の審査判定に基づいた本件児童の障害の状態が施行令別表第3に定める障害等級の2級に該当しないとして行った本件処分は、違法又は不当なものであるということはできない。
 他に本件処分に違法又は不当な点は認められない。
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 以上。

2189/新型コロナウィルス-池田信夫・松岡正剛。

 新型コロナウィルス(Virus=ヴァイルス)に関して、耳情報や紙情報ではなく、ネット情報に興味深くて有益そうなものがある。
 池田信夫ブログの最近は、ほとんどこれがテーマだ。
 日本の死亡者数、人口あたり死亡者率は異常に少ないらしく(10万人比0.04、1万人比0.004)、その原因探索とそれにもとづく対策を最近は提言している(3/31)。
 また、同ブログマガジン2020年03月30日号の<名著再読>欄の最後の文章も、池田らしい。
 人間の歴史をマクロ?な視点で捉えれば、「資本主義がいいか悪いか」を論じても、「キリスト教と仏教のどっちがいいか」を論じるのと同じように「意味がない」。「人類が地球の生態系にとって最大の疫病だからである」
 おそらくそのとおりだろう。
 記憶に残る池田信夫の表現には、たしか<キリスト教マルクス主義派>というのがあった。なるほど。ジョン・グレイもたぶん、キリスト教またはヒューマニズム批判の論脈の中でマルクスに触れていた。
 秋月瑛二のこの欄は<反朝日新聞・反日本共産党>で始め、途中から<反共産主義・反日本共産党>にサブタイトルを変えたが、これでも些細すぎるかもしれないという気が、この数年はする。
 女系天皇否定か是認かなどという、一部<保守>界隈での激しい論争?など、馬鹿馬鹿しいほどの些少な問題だ。<日本>を主題にするとしてすら。
 新型コロナ・ウィルスによる感染症に関して、当然のことながら、上記のように国・地域によって罹患・発症の程度は異なるようなのだが、ウィルスは<ヒト>には同等に棲みつき増殖もするようで、根本的には、日本か欧米か、グローバリズムかナショナリズムか、とかを論じるレベルの問題ではない。
 肌の色・眼の色等の違いはあっても、二本の脚の上に二本の腕をもつ胴体を乗せ、その上に頭部があって中に脳があり、ふつうは二本の脚を前後に動かして前に進むということでは、人種も民族も関係はない。
 個体か、国家・民族か、人種か、人間・ヒトという種か、動物全体か、生物・生命体全体か、あるいは太陽系宇宙全体(の生態系か)かというという種々の次元が、頭をよぎる。ヒトの一個体の中にも、大腸菌のような別の細菌=生物が「共生」しているらしいのだけれども。
 松岡正剛千夜千冊/生代篇1737夜-2020年03月27日。
 Carl Zimmer, A Planet of Viruses (2011)とその邦訳書(飛鳥新社、2014)についてだが、この書に限らず、論述対象はウィルス全体で、これには「感染症」に関する邦語文献もズラリと掲載されている。池田が取り上げていた書も含む。
 松岡がこたわっているように見えるのは、ウィルスは「細菌」ではなく「生命体」ではない、というおそらく一般的らしい前提の当否だ。「生命」をもつか、したがって「生物」か否かという問題には、生物には動物と植物があり人間は前者で、ヒト科・ヒト属・ヒト種で、…、とかの幼稚な知識では太刀打ちできない。
 「生」とは何か、「死」とは何か。ウィルスが宿主の中で「増殖」するというのはいったいどういう現象なのか。人体自身がが外界の刺激を受けて(急激にかつ悪く)変化しているのだろう。
 「精神」活動の中枢の「脳」も身体にいわば寄生しているので、身体が破壊されれば、各個体は「精神」活動をできなくなる。人間の決定的な<外部依存性>だ。
 そんなことも考える。当たり前のことを確認しているにすぎないだろう。
 

2188/レフとスヴェトラーナ-第2章③。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章③。
 (26) スヴェータは、Kazarmennyi Pereulok にある家族用共同住宅から、長い道程を路面電車でHighway of Enthusiasts にある研究所に通った。その中の三階にある古い実験室で仕事をしたが、窓からはモスクワ東部の工場の煙突群が見えた。
 そうした場所だったので、彼女は陰鬱になった。
 何度もそこを去ってどこか別の町で、別の都市であっても、研究職を見つけたいと考えたが、「レフとの連絡を失う怖れ」を感じた。
 モスクワは二人が接触した唯一の都市であり、またレフが帰って来ると望んだ場所だった。
 (27) レフに関する新しい知らせは何もなかったが、スヴェータには彼はまだ生きていると考える十分な根拠があった。
 NKVD(内務人民委員部〔ほぼ秘密警察〕)が1942年に叔母のオルガを訪れて、レフから便りはないかと尋ねた。
 彼らは、軍に勤務している者のために残されていたレフの部屋の持ち物を全部調査していた。
 カティンのドイツ軍に選ばれたスパイのうち何人かは、ソヴィエト領域に明らかに入って来ていて、逮捕された。
 それらスパイたちの一人が尋問を受けて、レフのことを言い、レフがドイツで大尉と会話していたことを思い出したに違いなかった。
 NKVD は、レフはモスクワに入っていてドイツのためにスパイ活動をしているとの想定のもとで、おそらくは動いていた。
 彼らは、スヴェータがモスクワに戻った後で、彼女を召喚して毎晩のように質問した。
 レフがすでにモスクワにいるならスヴェータと逢うだろう、と思っていたのだ。
 彼らはレフはスパイだと言い張って、彼を逮捕するのに協力するようスヴェータに迫った。その際に、拒否するなら重大なことになる、と脅かした。
 NKVD の司令部があるルビヤンカ(Lubianka)への出頭を命じられるのは、ぞっとすることだった。大テロルの記憶が、人々の心に鮮明に残っていた。
 スヴェータは、しかし、簡単には恐がらなかった。
 レフとの関係を守るために、ソヴィエト当局に従わないつもりだった。
 彼らの要請についには嫌気がさし、性格上の勇敢さと頑固な無分別さをとっさに示して、NKVD の男たちに、独りにさせてほしいと言った。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「同一の親戚たち(NKVD 部員の暗号語)が私を困らせ続けたので少しばかり怒って、私はまだ貴方の妻ではない、我々が-一時間だけではなく十分な時間を使って-逢えば、問題は明瞭になる、と言いました。」
 (28) スヴェータはその間に、レフに関する情報はないかと尋ねる手紙を軍当局に書き送っていた。
 彼女が26歳の誕生日を迎えた直後、1943年9月10日に、知らせが届いた。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「私の縁戚たちがみんな、私の誕生日のためにやって来ました。
 モスクワの父親の兄とその家族がいました。レニングラードの弟とその奥さん、従兄姉のニーナとその夫、彼らの子ども、なども。
 全てが素晴らしくて、いい時間を過ごしました。
 もちろん、そこにいない人たち全員の健康を祈って乾杯しました。
 すると全く突然に、大変なことが起こりました。-ターニャが死んだという連絡書が来たのです(ケーシャ叔父はそれを遮って取って、長い時間ママに見せませんでした)。」
 ターニャは、スターリングラードの軍事病院で、急性虫垂炎で死んでいた。
 のちに、もっと悪い知らせが飛び込んだ。
 叔母のオルガが、軍当局から公式に、レフが前線で「行方不明になった」という報告を受けた。
 きわめて多数の人々が「行方不明になった」1930年代のテロルの記憶から依然としてまだ回復しようとしている数百万の家族にとって、これは恐ろしい告知だった。
 この言葉(「propal bez vesti」)は、ほとんど特別の意味を持っていた。
 敵の捕虜となること(ソヴィエトの戦時法では「反逆罪」と同じ)。
 さらに悪いと、敵方への「逃亡」(「人民の敵」という犯罪)。
 あるいは、遺体が発見されないままでの死。
 多数の兵士たちが殺されたので、スヴェータはレフについて最悪のことを怖れたに違いなかった。
 「つらくて苦しい。だから、貴方がいなければ、もう誕生日をお祝いしない。
 知ってるように、矮星の存在は絶望的に痛ましい。電子シェル全体を失っていて、核だけしかないのだから。
 私の胸も空虚で、痛くて、心は消え失せそうだった。
 息をすることができない。
 何カ月もずっと、誰とも話すことができず、どこにも行けず、何も読まなかった。
 家にもどるとすぐに、壁に顔を向けたことだ。そして、いったいどれほど泣き続けたことだろう。夕方に、夜の間に、また朝に、苦しみは癒えない。」
 (29) スヴェータは、レフへの思慕や不安に懸命に耐えつつ、感情を詩に注ぎ込んだ。
 二つの彼女の詩が残っている。
 最初のものは「1943年冬」と記されていて、レフが行方不明になったと知った9月の「あの恐ろしい日」からさして離れていない頃のものだ。
 彼女はのちに詩について、「私に必要なのは誰かに話しかけることだ」と書くことになる。
 その詩は、レフを失うことについてのスヴェータの悲しみを表現している。
 「長いあいだ とば口に立っていた
  でも今は 心を決めて出発する
  道で 砕けた石の真ん中で
  平和と幸福の 徴しを見つけた
  あなたの扉に 架かっていた蹄鉄
  それを持って愉しみを あなたと分かち合う
  でも戦争が 二人を別々にして
  別々の道を それぞれが彷徨う
  どの森の中を通らなければならなかったの?
  どの石が あなたの血を吸っているの?
  ここには 孤独な年寄りの幽霊がいる
  脅かすように わたしの頭にかぶさる
  どんな形見を わたしに残してくれるの?
  長くつづいた夢の 苦い想い出なの?
  それとも別の女性が あなたの心を掴んでいるの
  九月のような情熱的な言葉で?
  あなたを信頼してよいの? あなた以外に誰を
  今は 私の知らない若い人なの?
  友達仲間は ますます少なくなった
  そのうちのどの人で 私は終わりになるの?」
 第二の詩は、短かった。
 これも、その冬に書かれた。
 最初のものよりも、レフの帰還への彼女の祈りが絶望的であることが記されている。
 「私は あなたを裁かない
  戦火の下にいるあなたを
  誰と 死はすでに
  一度ならず語り合ったのか
  でも 昼も夜も お祈りする
  聖母よ わたしのために あなたを守ってと
  こう 祈るだろう しかし
  お祈りの仕方を
  母も父も 教えてくれなかった
  だからわたしには 神への道が分からない
  愉しみ、悲しみ、あるいは嘆きの中で」
 (30) しかし、レフは、死んでいなかった。
 ヒトラーの最も苛酷な労働強制収容所の一つに、収監されていた。ソヴィエトの捕虜たちが厳しい監視のもとで毎日ピトラー軍需工場で働くために行進させられている、ライプツィヒの収容所にだった。
 レフは、ミュールベルクの監獄から送られてきた。ミュールベルクには、ポーランド国境で1943年7月に捕まったあとで、来ていたのだった。
 ピトラー工場での管理体制は、懲罰的だった。
 武装監視兵が作業場の全てのドアのそばに立ち、ドイツの作業長はいつでも使えるようにリボルバーを持っていた。
 1943-44年の冬の間、東部戦線で新たに敗北する度にドイツ軍の兵器需要が増え、労働者管理の体制はますます厳格になった。
 捕虜労働収容所が消耗しかつ紀律を失って生産力が落ちたことを理由として、ゲシュタポ(Gestapo)は、奴隷(slave)反乱の潜在的な指導者を探し出して根絶しようとした。
 (31) レフは、何度も尋問された。
 1944年5月のある日、26人の収監者グループとともにレフは拘束され、ライプツィヒの中央監獄へと送られた。そこでは全員が、ドアそばに便器と洗面器がある独房に閉じ込められた。
 一ヶ月の間、独房から出してもらえないまま監禁された。
 〔1944年〕7月4日、彼らは、ヴァイマル近郊の名高い強制収容所であるブーヒェンブァルト(Buchenwald)へと移された。そして、四層の寝棚のある、長くつづく隔離獄舎に入れられた。
 多様な国籍の収監者がいた。-フランス、ポーランド、ロシア、ユーゴスラヴ。それぞれについて、縞模様の制服に、異なる図案のバッジが付けられた。
 レフのバッジには、他のロシア人のと同じく、赤い三角形の上に「R」の文字があった。
 (32) その兵舎で一ヶ月経ったあと、ピトラー収容所出身グループは、ブーヒェンブァルトと関連する多様な補助収容所へと散っていった。
 レフは、ライプツィヒ近くのマンスフェルト(Mansfeld)軍需工場の作業旅団に送られ、そのあと、ヴァンスレーベン(Wansleben)・アム・ゼーの放棄された岩塩鉱山そばのブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン収容所に送られた。そこにレフは、9月の第一週に着いた。
 その岩塩鉱は、400メートル地下にある、連合国による空爆からも安全な一連の作業場へと転換されていた。そしてその作業場では、収監者たちによって、空軍用航空機のエンジンの一部が組み立てられることになっていた。
 岩塩鉱へのトンネルを掘ることに従事したあるフランス人収監者は、「それらの部屋ごとに、12人ほどの収監者が死んだ」、と想起する。
 レフは、そこで、つぎの七ヶ月間を働いた。
 管理体制は厳しく、11時間交替制で、苛酷な規制があった。
 「どんな非行や作業能率の低下に対しても、収監者は、ゴム製棍棒で20回鞭打たれた。それは身を切られるように痛かったが、身体に痕跡を残さない制裁の方法だった。//
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 ④につづく。

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