秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2020/03

2187/西尾幹二の境地-歴史通・WiLL2019年11月号別冊⑤。

  言葉・概念というのは不思議なもので、それなくして一定時期以降の人間の生活は成り立ってこなかっただろう。というよりも、人間の何らかの現実的必要性が「言葉・概念」を生み出した。
 しかし、自然科学や医学上の全世界的に一定しているだろう言葉・概念とは違って(例えば、「脳」の部位の名称、病気の種類等の名称のかなりの部分)、社会・政治・人文系の抽象的な言葉・概念は論者によって使用法・意味させているものが必ず一定しているとは限らないので、注意を要する。
  面白く思っている例えば一つは、(マルクスについてはよく知らないが)レーニンにおける「民主主義」の使い方だ。
 レーニンの「民主主義」概念は多義的、あるいは時期や目的によって多様だと思われる。つまり、「良い」評価を与えている場合とそうでない場合がある。
 素人の印象に過ぎないが、もともとは「民主主義」は「ブルジョア民主主義」と同義のもので、批判的に用いられたかに見える。
 しかし、レーニンとて、-ここが優れた?政治運動家・「革命」家であったところで-「民主主義」が世界的に多くの場合は「良い」意味で用いられていること、あるいはそのような場合が少なくともあること、を十分に意識したに違いない。
 そこで彼または後継者たちが思いついた、または考案したのは、「ブルジョア(市民的)民主主義」と対比される「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」という言葉・概念で、自分たちは前者を目ざす又はそれにとどまるのではなく、後者を追求する、という言い方をした。
 「民主主義」はブルジョア的欺瞞・幻想のはずだったが、「人民民主主義」・「プロレタリア民主主義」(あるいは「ソヴェト型民主主義」)は<進歩的>で<良い>ものになった。
 第二次大戦後には「~民主共和国」と称する<社会主義をめざす>国家が生まれたし、恐ろしくも現在でも「~民主主義人民共和国」と名乗っているらしい国家が存続している。
 似たようなことは「議会主義」という言葉・概念についても言える。
 マルクスやレーニンについては知らない(スターリンについても)。
 しかし、日本共産党の今でも最高幹部の不破哲三は、<人民的議会主義>と言い始めた。
 最近ではなくて、ずいぶん前に以下の著がある。
 不破哲三・人民的議会主義(新日本出版社、1970/新日本新書・1974)。
 「議会」または「議会主義」はブルジョア的欺瞞・幻想として用いられていたかにも思われるが(マルクス主義「伝統」では)、日本共産党が目ざすのは欺瞞的議会主義ではなく「人民的議会主義」だ、ということになった。現在も同党の基本路線のはずだ。
 <民主主義革命・社会主義革命>の区分とか<連続二段階革命>論には立ち入らないし、その十分な資格もない。
 ともあれしかし、そうだ、「たんなる議会主義」ではなく「人民的議会主義」なのだ、と納得した日本共産党員や同党支持者も(今では当たり前?になっているかもしれないが)、1970年頃にはきっといたに違いない。
  しかし、元に戻って感じるのだが、これらは「民主主義」や「議会主義」という言葉・概念を、適当に(政治情勢や目的に合わせて)、あるいは戦術的に使っているだけではないだろうか。
 <反民主主義>とか<議会軽視=暴力>という批判を避けるためには、「人民民主主義」・「人民的議会主義」という言葉・概念が必要なのだ。
 たんに言葉だけの問題ではないことは承知しているが、言葉・概念がもつ<イメージ>あるいは<印象>も、大切だ。
 人間は、それぞれの国や地域で用いられる<言葉・概念>によって操作されることがある。いやむしろ、常時、そういう状態に置かれているかもしれない。
 自明のことを書いているようで、気がひける。
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 四 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 p.222で、西尾幹二はこう発言する。
 ・「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神」だ。「自然科学ではない科学」を蘇生させる必要がある。
 ・日本人が持つ「神話思想」は、「自然科学が絶対に及び届くことのない自然」だ。
 ここで西尾は、「自然科学」(または「科学」)と「日本的な科学(の精神)」を対比させている。
 これは、レーニンとて「民主主義」という語が~と上に記したように、西尾幹二とて?、「科学」という言葉・概念が<良い>印象をもつことを前提として、ふつうの?「自然科学」ではない「日本的な科学」が大切だと主張しているのだろう。
 民主主義または欧米民主主義とは異なる「日本的民主主義」というのならば少しは理解できなくはない。しかし、「自然科学」またはふつうの?「科学」と区別される「日本的な科学」とはいったい何のことか?
 これはどうやら日本の「神話(思想)」を指す、又はそれを含むようなのだが、しかし、このような使用法は、「科学」概念の濫用・悪用または<すり替え>だろう。
 ふつうの民主主義ではない「人民民主主義」、ふつうの議会主義ではない「人民的議会主義」という語の使い方と、同一とは言わないが、相当に類似している。
 五 西尾幹二・決定版国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 これのp.169に、つぎの文章がある。この部分は節の表題になってもいる(p.168)。
 「広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 つまり、「神話」は、<狭義の歴史>ではなくとも<広義の歴史>には含まれる、というわけだ。
 「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.166)中で語られているのだから、西尾としては重要な主張なのだろう。
 あれこれと論述されていて、単純な議論をしているのではないことはよく分かる。
 しかし、上の部分には典型的に、「神話」と「歴史」の両概念をあえて相対化するという気分が表れていると感じられる。
 つまり、「歴史」概念を曖昧にし、その意味を<ずらして>いるのだ。
 こうした概念論法を意識的に用いる文章を書くことができる人の数は、多いとは思えない。
 言葉・概念・文章で<生業>を立ててきた、西尾幹二らしい文章だ。
 相当に単純化していることを自覚しつつ書いているが、このような言い方を明瞭な形ではなくこっそりと何度でもするとすると、こうなる。
 ああ言えばこういう、何とでも言える、という世界だ。
  <文学>系の人々の文章で、フィクション・「小説」・<物語>と明記されて、あるいはそれを当然の前提として書かれているものならばよい。
 そして、いかに読者が「感動」するか、いかほどに読者の「心を打つか」が、そうした文章または「作品」を評価する<規準>となる、ということも、フィクション・「小説」・<物語>の世界についてならば理解できなくはない。
 しかし、そうではなくノン・フィクションの「学問」的文章であるならば、読者が受けた「感動」の質や量とか、どれだけの読者を獲得したか(売れ行き)の「多寡」が評価の規準になるのではないだろう。
 何となしの<情感>・<情緒>を伝えるのが「学問」的文章であるのではない。
 <文学>系の人々の文章も様々だが、言葉の配列の美しさとか思わぬ論理展開とかがあっても、それらはある程度は文章の「書き手」の巧拙によるのであって、「学問」的著作として評価される理由にはならない。
 これはフィクション・「小説」・<物語>ではない、「文学」つまり「文に関する学」または「文学に関する学」でも同じことだろう。
 何となく<よく出来ている>、<よくまとまっている>、<何となく基本的な趣旨が印象に残る>という程度では、小説・「物語」とどこが異なるのだろうか。
 <文学系>の人々が社会・政治・歴史あるいはヒトとしての人間そのものについて発言する場合の、評価の規準はいったい何なのか。
 長い文章を巧く、「文学的に」?書くか否かが規準ではないはずだろう。
 長谷川三千子もきっとそうだが、西尾幹二もまた、日本の社会・政治、あるいは「人間学」そのものにとっていかほどの貢献をしてきたかは、全く疑わしい、と思っている。今後も、なお書く。
 江崎道朗、倉山満ら、上の二人のレベルにすら達していない者たちが杜撰な本をいくつか出版して(日本の新書類の一部またはある程度は「くず」の山だ)、論理的にも概念的にも訳の分からない文章をまとめ、「その他著書多数」と人物紹介されているのに比べれば、西尾幹二や長谷川三千子はマシかもしれない。
 しかし、学者・「学術」ふうであるだけ、却ってタチが悪い、ということもある。
 <進歩的文化人>ではない<保守的文化人>と自認しているかも知れない論者たちの少なくとも一部のいい加減さ・低劣さも、いまの時代の歴史の特徴の一つとして記録される必要があるだろう。

2186/レフとスヴェトラーナ-第2章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
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 第2章②。
 (15) オーシャッツの生活条件は、その冬に劇的に悪くなった。
 労働時間は増えたし、監視員が疲れ果てた収監者をもっと労働させて搾り取るために、鞭打ちを行った。
 1943年の1-2月には、新しい捕虜の一群が労働旅団に入って来た。
 彼らの多くはウクライナ出身だった。ウクライナでは、1930年代のテロルと飢饉によってソヴィエト制度から多くの民衆が離れていて、このときはドイツ軍が占領していた。
 彼らが到着したすぐ後で、収容所体制が柔軟になった。それは、捕虜たちから募って、A・ウラソフ(Andrei Vlasov)が組織している反ソヴィエトのロシア解放軍に加入させようとするドイツ軍の努力の一つだった。
 ウラソフは、赤軍の前の将軍だったが、1942年7月にドイツ軍に捕らえられ、ナツィスに対して、自分を解放運動の長に任命するよう説得した。共産主義体制を一掃することを目指してのことだ。
 ウラソフがオーシャッツで募った者たちのグループがあり、そのほとんどは戦前の「明確ではないがドイツ製のではない制服を着ている」ロシア人エミグレだった。そうレフは思い出した。また、彼らは多数ではない、ソヴィエトの青年将校たちだった。
 その将校たちはロシア解放軍に入っていた。但し、主としては捕虜強制収容所の恐るべき条件から逃れるためにそうしたようにレフには思えた。というのは、その収容所で、ソヴィエトの収監者たちは「きわめて苛酷に扱われ、他のどの国の収監者よりも自己防衛の権利または手段を持たなかった」。//
 (16) レフは何度も呼び出されて、ドイツ軍とウラソフ募兵員から、ロシア解放軍に将校として加わるよう圧力を受けた。
 そのたびごとに、レフは拒絶した。
 ドイツは彼を疑うようになった。
 彼らはレフに、HASAG 収容所での通訳としての活動について尋ね始めた。
 こうした尋問の一つがあったときのタバコ休憩の間に、ドイツ人用の通訳者がレフを廊下の端まで連れて行って、ウラソフの徴兵の失敗はレフに責任があるとドイツ側は考えている、と警告した。
 収容所内のレフの作業チームは、その中で一人すらもウラソフ軍に応募しないチームだった。その作業チームの唯一のソヴィエト将校だったレフに、疑いが向けられていた。//
 (17) レフは、逃亡する必要がある、と認識した。
 旅団の中の他の三人の収監者も、同じことを考えた。
 彼らは、〔1943年〕6月に企てを実行することに決めた。そのときには収穫物は大きくなっていて、150キロ離れたポーランドへの行路で食糧を恵んでくれるだろう。ポーランドでは、その民衆たちが彼らに同情して、食糧をくれるだろう。
 彼らの計画は、ベラルーシにいるソヴィエト・パルチザンに合流することだった。
 準備のために、彼らは、乾パンと砂糖を節約して貯めた。
 レフはコンパスを作り、ドイツ監視員の一人から借りた地図を写し取った。そのドイツ人は自分の家族についてレフに話したり、週末にどこへ行ったかを語るのが好きだった。
 彼らは何とかして、薬すらも手に入れた。レフが注意深く自分の指を切り、ロシア人捕虜の医師がいる収容所の診療室に送った。
 その医師は何も訊かないで、消毒薬、アスピリンとバンドエイドが欲しいというレフの求めに応じた。//
 (18) レフたちは、1943年6月22日の夜に逃亡した。その日は、ドイツによる侵攻二周年の日だった。
 外衣をすでに少しは脱いで、彼らは兵舎の窓から上に昇り、中庭の壁を目測した。そして、頂上部の有刺鉄線を、レフが作業場で作った二つの尖った金属片を使って通り抜けた。
 収容所の外の野原に飛び降りて、暗闇の中を森へと走り込んだ。
 四人は、北に向かった。ドイツ軍は先ず東の方を探索するだろうと想定したからだ。
 夜は歩き、日中は隠れた。
 彼らがもつ地図は、きわめて粗いものだった。-写し取った原図は小学校の教科書に掲載のものだった。そのために、道路標識を手がかりにして進まなければならなかった。
 エルベ河に到達したとき、レフが泳いで横切るのをひどく怖がったので、河に沿って東に向かった。そして、ドレスデンの南を回って、ポーランドへと東に歩き続けた。
 レフは思い出す。
 「乾燥させた食べ物を持ってはいた。だがすぐに、それを予備に残して、農家の屋外の小屋から盗んで食べることに決めた。<中略>
 間違っていると私は最初は思ったが、それに同意した。」
 途上の三週間後に、ポーランド国境のゲルリッツ(Görlitz)の近くで、二人のドイツ兵に見つかった。
 自転車で自分たちに向かってくる兵士たちに気づき、銃砲を携帯しているだろうと想定して、彼らは、溝の中に逃げ込んだ。しかし、その兵士たちはそこで、光を照らして探そうとした。
 「我々の旅の馬鹿げた終わりだった。兵士たちは、武装すらしていなかった。」//
 (19) レフは何も分かっていなかった。ポーランドに着いたら、あるいはドイツの戦線を越えたら、そしてモスクワまでたどり着いたとしたら、いったいどうなるのだろうか。
 ソヴィエト同盟の状況について、あるいはスヴェータとその家族にもう一度逢う機会について、彼には現実的な考えがなかった。
 最初に捕まった瞬間から、ロシアから信頼できる情報を得る手段がなかった。
 オーシャッツでは、収監者にペンと用紙がドイツ軍によって与えられたが、ドイツが占領している地域の者たちにだけ手紙を書くことができた。
 レフは一度、行方不明になった収監者仲間の妻がいるプラハに手紙を出して、その夫である彼についての報せがあるかを尋ねた。
 その妻はレフに返事を書いてきて、小包すら送ってきたが、自分の夫の運命については自分よりもレフの方がよく知っていそうだ、と告げた。//
 ++
 (20) スヴェータもまた、暗闇の中にいた。
 1941年9月の末にレフがモスクワを去った後、彼に関する知らせは何も受け取っていなかった。
 そのとき、何もかもが、不確かだった。
 モスクワは生き残れるのかどうか、誰にも分からなかった。
 モスクワは、7月以降のドイツ空軍の爆撃で大きな被害を受けていた。
 一日に頻繁に、サイレンが鳴り響いた。
 発電所が攻撃され、アパート地区には熱や光がなくなった。燃えるビルだけが、夜空を照らしていた。
 人々は、地下の防空壕で生活した。
 膨大な数の人々が、死んだ。
 10月1日、スターリンは、政府をヴォルガのクイビシェフ(Kuibyshev)〔=サマラ〕に避難させることを命じた。
 市内への爆撃が激しくなるにつれて、パニックが広がった。
 全ての店に、巨大な人の列ができた。食糧をめぐって喧嘩が発生し、略奪が増えた。大量に逮捕しても、ほとんど統制することができなかった。
 ドイツ軍がヴャジマ〔Viazma〕を突破したとの報せが、10月16日に、ついにモスクワに届いた。
 どの鉄道駅でも、東に向かう列車に乗り込もうと競い合う群衆による、醜い光景が見られた。
 人々は、工場や共産党の幹部たちがすでに去ってしまっていることを知って、彼らを呪った。
 どの家族も、荷物を詰め込んで、利用できる手段を何でも使って、モスクワから外へ出た。
 タクシー運転手は、モスクワからカザンまでの料金として2万ルーブルを請求した。//
 (21) モスクワ大学は、10月に避難した。
 スヴェータは、家族と一緒に旅をした。
 列車に乗っていた学生たちの中に、のちのノーベル賞受賞者、A・サハロフ(Andrei Sakharov)がいた。サハロフは、レフやスヴェータの一年後に同じ学部に入学したのだったが、スヴェータは休学していたので、このときは同じ学年だった。
 彼らが最初に停車したのは、モスクワ東方300キロの古い地方都市、ムロム(Murom)だった。ここにサハロフはその母親と娘とともに滞在し、戦時中の混乱を有益なことに利用した。昼間には娘が、働いている店から砂糖を盗み、夜間には母親が、「一つなぎの兵士たちを」愉しませた。
 その市街は、東方への避難を待っている負傷兵たちで溢れていた。
 多くの兵士が駅のホールで担架の上に横たわり、鉄道路線そばの雪の中にいる者すらいた。
 近隣の村落から来た女性たちが、食べ物やタバコを売っていた。
 また別の女性たちは、息子や夫たちを探していた。そして、行方を知っているかもしれないと負傷兵に尋ねたり、病院で誰かが遭遇するかもしれない場合にと手紙を渡したりしていた。//
 (22) 学生たちはムロムからウラルまでは東へと旅をしつづけ、そして、南へと凍ったカザフ高原を縦断して、アシュハバート(Ashkhabad)に向かった。この都市はトゥルクメン共和国の埃っぽい首都で、ソヴィエトとイランの国境から大して遠くなかった。
 ここで、モスクワ大学物理学部は、その機能を再開することになる。
 旅行には、一ヶ月を要した。
 列車の各車両には一台のストーブと40人用の寝台があった。サハロフは各車両について、こう思い出している。
 「指導者、話し好きと寡黙な者、パニック煽り立て屋、敏腕家、大食漢、怠け者と勤勉家、そうした者たちがいる、別々の共同体になった」。
 スヴェータは、静かで勤勉な者の一人だったに違いない。
 アシュハバートで12月に始まった講義では、スヴェータは、戦争前の学習中断を埋め合わせるべく、懸命に勉強する必要があった。
 彼女は化学と振動物理学のクラスに出席した。これは実習のないむつかしい理論的な科目だったので、長時間を図書館に入り浸りで過ごした。
 彼女はまた、自分と両親の生活を支えるために、カフェテリアの皿洗いとして働いた。
 その冬とそれに続く春に多くのことがあったため、スヴェータは当時の中央アジアに共通する病気であるマラリアに罹患した。
 のちにスヴェータは、こう書いた。
 「疲れすぎて、飲むことすらむつかしい。
 高熱と闘って、消耗して、『完全に僻んだ』」。
 彼女は生きるべく藻掻いた。そして、何とか切り抜けた。
 (23) 卒業してのち、スヴェータは、軍用品人民委員部に配属された。
 しかし、彼女の父親の助力で、当時は化学合成以外でも活動していたが、スヴェルドロフスク近くのフロムニク(Khromnik)にあった合成樹脂産業科学研究所へと移った。スヴェータは1942年8月から、工業物理学者として「物理機械的検査実験室」に勤務した。
 この研究所は一日11時間活動しており、彼女は最初は自分のすることを見つける必要がある、と感じた。つぎのように書いたとおりだ。
 「不思議で馴染みのない実験室にいた。何から始めればよいか、どこに落ち着けばよいか、分からなかった。
 機械が怖かったし、ゴムについては何も知らなかった。
 それで図書館へと逃げた。<中略>
 私は図書館でロシアの論文や報告書を読んで一日の半分を過ごし、あとの半分は英語に取り組んだ。
 英会話クラブに入った。アシュハバートで英語を勉強したのではなかったけれども。
 総じては、気持ちがとても高揚した時期だった。
 アシュハバートの煙霧、アフガンの風のあとで、沙漠から粉塵のように細かい砂粒が吹いてきた。
 8月には、黄金の秋の予兆が全くないままに、葉っぱが落ちた。
 ウラルは地上の楽園のように思えた。-松の木、樺の木、キノコ、雨。
 世界じゅうの人々と、手紙をやりとりした。<中略>
 毎日2-3通の手紙を受け取った。そして、まもなく家に戻れると知った。」
 (24) 研究所はすでに、モスクワに帰る準備をしていた。モスクワでは、ソヴェト軍の反攻のあとで、ドイツ軍の脅威はもう過ぎ去っていた。
 赤軍が切実に必要としていたのは、タイヤ産業を支援するための、研究所の専門研究者だった。
 1943年1月頃に、スヴェータは家に戻った。
 学生としてレフとスヴェータが知っていた市街の多くは、戦争で破壊されるか損傷していた。
 ビルの多数が暖房のないままで残り、電力不足が原因で光は暗くなったり、しばしば完全に消えたりした。下水管は漏れており、食料店は空だった。
 スヴェータはのちに書くことになる。
 「我々はみな寒くて、飢えており、暗闇の中で生きていた」。//
 (25) 1942年4月に、スヴェータの両親は妹のターニャとともにモスクワに帰っていた。
 両親は、明らかに年老いていた。
 アナスタシアはしばしばブルセラ病に罹り、痛みを伴う胃腸病が彼女を消耗させた。そして、アレクサンドルは60歳のときに、急に衰えていく兆候を見せた。
 スヴェータが帰ったとき、彼らが神経質であるのに気づいた。
 両親には心配することが多数あった。スヴェータの兄は前線に行ったのだったが、それ以来彼からは連絡がなかった(彼はドイツ軍に捕らえられ、バルト海のウゼドーム島の強制収容所に収監されていた)。一方で妹のターニャは、1942年9月に学生「義勇兵」としてスターリングラードへと赴かされていた。
 アレクサンドルの弟のイノケンティ(「ケーシャ叔父さん」)とその妻が、両親の厄介になっていた。このレニングラードの二人は、戦争が始まって以降はモスクワにいて、1943年にレニングラードの包囲が解かれるまでは家に戻ろうとはしなかったのだ。
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 ③につづく。

2185/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる②。 
 (12)1917-18年の冬、かつてのロシア帝国の住民大衆は、物的資財だけを分け合ったのではなかった。  
 彼らは、600年の歴史発展の所産であるロシア国家をも分裂させた。国家主権それ自体が、<duvan>の対象となった。
 1918年の春までに、世界最大の国家は、数え切れないほどの重なり合う団体に分離した。大小はあれ、それぞれが自らの領域を支配する権威をもつことを主張し、制度的な結びつきによっては、さらには共通する運命の意識ですらによっても、他者と連結することがなかった。
 数カ月のうちに、ロシアは政治的には、中世初期に戻った。当時のロシアは自己統治をする公国の集合体だったのだ。//
 (13)最初に分離したのは、国境諸国の非ロシア人たちだった。
 ボルシェヴィキ・クーの後、少数民族が次から次へと、ロシアからの独立を宣言した。一つに民族の熱望に気づいたことによって、二つにボルシェヴィズムと差し迫る内戦から逃れるために。
 彼らは、それを正当化するために、「ロシアの諸民族の権利の宣言」を指し示すことができた。この宣言は、ボルシェヴィキがレーニンとスターリンの署名にもとづいて、1917年11月2日に発したものだった。
 全てのソヴェト制度を前もって承認することなしに公にされたもので、ロシアの人民に対して、「独立国家を分離させ形成する権利を含む、自由な自己決定」を認めていた。
 フィンランドが、独立を宣言する最初の国家となった(1917年12月6日/新暦)。
 それに続いたのは、リトアニア(12月11日)、ラトヴィア(1918年1月12日)、ウクライナ(1月22日)、エストニア(2月24日)、トランス・コーカサス(4月22日)そしてポーランド(11月3日)(日付は全て新暦)だった。
 これらの分離によって、大ロシア人が居住する地域に対する共産主義の支配は減少した。-すなわち、17世紀半ばのロシアに戻った。
 (14)離脱の過程が進んだのは、国境諸国に限られなかった。遠心力的な力は、大ロシア内部でも発生した。
 州(province)は相次いで独自の道を進み、中央権力からの自立を要求した。
 こうした過程は、「全ての権力をソヴェトへ」という公式のスローガンによって促進された。これは、多様なレベルでの地域的なソヴェトが主権を要求するのを許容するものだった。-地域(oblast')、州(guberniia)、地区(uezd)、そしてvolost' や<selo> においてすら。
 その結果は、混沌だった。
 「市ソヴェト、村ソヴェト、selo ソヴェト、そして郊外区ソヴェトがあった。
 これらソヴェトを自分たち以外の誰も承認しなかった。そして、承認したとするならば、自分たちに有利なことがたまたま生じた『地点にまで』達したからだった。
 各ソヴェトは、直接的な周囲の条件が命じるとおりに、そしてそれが行うことができ望むとおりに、活動し、闘争した。
 それらには、全く、または事実上は全く…ソヴェト的官僚機構がなかった。」(16)
  (15)何がしかの秩序を生み出す試みとして、ボルシェヴィキ政府は、1918年春に、<oblasti>と呼ばれる領域的機構を設立した。
 これらは、いくつかの州で構成され、準主権的地位を享有するもので、つぎの6つがあった。(*)
 ①付属の9州をもつモスクワ、②エカテリンブルクを中心とするウラル、③首都ペトログラードを含む7州を包括する「北部労働者コミューン」、④スモレンスクを中心とする北西部、⑤中心にオムスクがある西シベリア、⑥イルクーツクを基地とする中央シベリア。
 各oblasti は自らの行政府をもち、ソヴェト大会を開催した。
 その中には、自分たちの人民委員会議をもつものもあった。
 1918年2月に開催された中央シベリア地域のソヴェト大会は、ソヴィエト政府がドイツとの間に締結しようとしていた講和条約を拒否し、独立性を主張して、自らの外務人民委員を任命した。(17)
 (16)あちこちの<gubernii>は「共和国」だと宣言した。
 そうしたのは、カザン、カルガ、リャザン、ウファ、およびオレンブルクだった。
 バシュキールやヴォルガ・タタールのような、ロシア人の中で生活している非ロシア人たちのいくつかも、民族共和国を設立した。
 ある集計では、消滅したロシア帝国の領域に、少なくとも33の「政府」が存在した。(18)
 中央の政府はしばしば、布令や規則を施行するために、これら短命の機構の助力を求めなければならなかった。
 (17)地域や州は、それに代わって次々と、下位組織へと分解した。その中では、volost' が最も重要だった。
 volost' の活力は、農民たちにはこれが利用地が配分される最大の区域だった、ということにもとづく。
 原則として、一つのvolost' の農民たちは、奪い取った資産を隣のvolosti 〔複数〕と共有するのを拒否しただろう。その結果として、この小さな数百の地域は、事実上は、自治的な領地となった。
 マルトフは、つぎのように観察した。
 「我々はつねにこう指摘してきた。『全ての権力をソヴェトへ』のスローガンが農民たちや労働者階級の後れた階層に人気があるのは、かなりの程度で、付与された領域についての地方労働者や地方農民の優先権という原始的な考えとこのスローガンを結びつけている、ということで説明することができる。
 彼らはほとんど、労働者支配というスローガンを、付与された工場の奪取という考えと同一視しているし、農業革命というスローガンを、付与された土地を既存の村落が排他的に利用するという考えと同一視している。」
 (18)ボルシェヴィキは分離した国境諸国を元に戻すべく軍事攻撃を行ったが、何度かは成功しなかった。
 しかし、全体としてさしあたりは、大ロシア内部での遠心力的趨勢に干渉しなかった。それは、そうすれば直接的な反抗を促進させ、旧来の政治的かつ経済的なシステムを完全に破壊することになったからだ。
 この趨勢はまた、共産党がその権力を確固たるものにする以前に、その共産党に立ち向かう強い国家装置が出現することをも、妨げた。
 (19)1918年3月、政府は、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国(RSFSR)憲法を承認した。
 レーニンはこの文書の起草を、スヴルドロフを長とする、法的専門家たちの委員会に任せていた。最も熱心な委員たちは左翼エスエルで、彼らは、1871年のフランス・コミューンをモデルにして、中央集権的国家をソヴェトの連邦に変えようと望んでいた。
 レーニンは、彼らの考えは中央指向という自分の目標とは全く逆ではあったが、邪魔しないで放任した。
 彼は、行政に関する詳細なことについて、どの兵士たちがスモルニュイの自分の役所を護衛するかを決定することに至るまで、綿密な注意を払った。しかし、憲法委員会の議論には外部者であり続け、その作業の結果を概読したのみだった。
 ここには、成文憲法に対するレーニンの蔑視が示されていた。彼の目的にとってふさわしいのは、党による統制という秘密の心棒を隠すために、国家構造が緩やかで準アナーキーな外面をもつことだった。(20)
 (20)1918年憲法は、ナポレオンの規準に合致していた。ナポレオンはこう言った。良い憲法は、短くて、紛らわしい、と。
 ロシア憲法の最初の条項は、ロシアは「労働者、兵士および農民代表ソヴェトの共和国」だと宣言した。
 「中央および地方の全ての権力」はソヴェトに帰属する。(21)
 こうした条項の定めは、解答のない疑問を惹起させる。これらに続く条項は、中央と地方の間の、あるいは各ソヴェトの間の権力の分割を明確には規定していないからだ。
 第56条によると、「管轄区域の範囲内で、各ソヴェト(地方、州、地区およびvolost' )の大会は、最高の権威である」。
 しかしながら、各地方はいくつかの州を包含し、各州は多数の地区とvolosti をもつのだから、この原理は、無意味だった。
 さらに複雑にしていることだが、第61条はソヴェト大会が最高の権威だとする原理と矛盾していた。同条は、地方ソヴェトは地方問題にだけ権能を限定し、「ソヴィエト政府の最高機関」の命令を実施することを要求していたからだ。
 (21)1918年憲法の欠陥を異なる領域的段階でのソヴェト当局の権能の問題に特殊化してしまえば、それは、ボルシェヴィキは深刻な禁止の問題として把握していなかったことを強調するにすぎないだろう。
 そうであったとしてすら、ボルシェヴィキは、遠心力的趨勢を憲法上是認することによって、その趨勢を強めたのだ。(*)
 (22)完全な行動の自由を得るために、レーニンはすみやかに〔ソヴェト〕中央執行委員会(CEC)〔イスパルコム〕に対する責任(accountability)から逃れなければならなかった。
 (23)ボルシェヴィキが提案して、第二回ソヴェト大会は、古いイスパルコムを解任し、新しくそれを選出した。そのうちボルシェヴィキは、58パーセントの議席を占めた。
 この編制によって、一団として投票するボルシェヴィキ派がどんな提案に対しても採択したり却下したりすることができることとなった。しかし、ボルシェヴィキは依然として、左翼エスエルおよびメンシェヴィキという騒々しい少数派と競い合う必要があった。
 エスエルとメンシェヴィキは十月のクーの正統性を承認するのを拒否し、ボルシェヴィキが政府を形成する権利を持つことを否定した。
 左翼エスエルは、十月クーを受け容れた。しかし、彼らはあらゆる種類の民主主義的幻想に嵌まっていて、その一つは、ソヴェトに代表される全ての政党から成る連立政権だった。
 (24)ボルシェヴィキが口先でだけ呟いていた原理を、ボルシェヴィキ以外の少数派は真面目に考えていた。それは、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕は内閣の構成やその活動に関して最終的な拒否権をもつ社会主義的立法府だ、という原理的考えだった。
 この権能をCECが有するのは、ソヴェト第二回大会のつぎの決議によっている。それは、レーニン自身が草案を書いたものだった。
 「全ロシア労働者、兵士および農民代議員ソヴェト大会は、こう決議する。
 立憲会議以前の国の行政を行うために、労働者および農民の臨時政府を設立し、それを人民委員会議と称する。<中略>
 人民委員会議の活動を統制(controll)することおよび人民委員会議を交替(replace)させる権利は、全ロシア労働者、兵士および農民代議員大会およびその中央執行委員会に授与される。」(22)
 これほどに明確なものはない。
 それにもかかわらず、レーニンは、この原理をすっかり放擲して、CEC からまたはその他のいかなる外部機関からも独立した内閣を作ると、堅く決めていた。
 彼が国家の長になってから10日以内に、これは達成された。
 (25)ボルシェヴィキとCEC の間に歴史的な対立が起きたのは、後者が他の社会主義諸政党も含めるようにソヴナルコムを広げるべきだとボルシェヴィキに対して強く主張したことによってだった。
 全政党が、ボルシェヴィキが閣僚ポストを全て独占することに反対した。要するに、ソヴェトを代表すべくソヴェト大会で選出されたのであって、自分たちだけの代表ではない。
 この反対論はボルシェヴィキ・クーの3日後には表面化し、危険な様相を帯びた。その日、ロシア最大の労働組合である鉄道被用者同盟が、社会主義政党の連立を要求する最後通告書を提出したのだ。
 1905年10月に記憶を辿らせた者は誰もが、鉄道ストライキがツァーリ体制の崩壊について果たした決定的役割を思い出しただろう。
 (26)全国に数十万の組合員を有する鉄道同盟は、輸送を麻痺させる力を持っていた。
 同盟は、1917年8月にはケレンスキーを支持し、コルニロフに反対した。
 10月には、最初は「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンに賛成した。しかし、幹部たちがボルシェヴィキが利用しているこの語の使い方に気づくや否や、反対に回り、ソヴナルコムは連立内閣に譲れと主張した。(23)
 10月29日、同盟は、政府がすみやかに社会主義諸党を含めるように拡張されなければ、ストライキを命じる、と宣言した。
 これは、ボルシェヴィキにとって重大な脅威だった。ケレンスキーの反攻に備えていたボルシェヴィキには、兵団を前線に送るためには鉄道列車が必要だったのだから。
 (27)ボルシェヴィキは、中央委員会を開いた。
 ケレンスキーに対する防衛を組織化するのに忙しかったレーニンとトロツキーは、出席できなかった。
 二人のいない中央委員会は、一種のパニック状態にあり、同盟の要求に屈服し、「他の社会主義諸党を含めることによって政府の基盤を拡張する」必要性を認めた。
 ボルシェヴィキ中央委員会はまた、ソヴナルコムはCEC が作り出すものであり、CEC に対して責任を負うことを、再確認した。
 その中央委員会は、新しい臨時政府の設立について同盟や他党との交渉をさせるべく、カーメネフとG. Ia. ソコルニコフを代表として派遣した。(24)
 この決定は、本質的には、十月のクーで獲得した権力を譲り渡すことを意味した。//
 (28)その日おそく(10月29日)、カーメネフとソコルニコフは、鉄道被用者同盟が招請していた、8政党と若干の党内組織との会合に出席した。
 ボルシェヴィキ中央委員会決定に従って、彼らは、第二回ソヴェト大会を受容することを条件として、エスエルとメンシェヴィキがソヴナルコムに入ることに同意した。
 その会合は、ソヴナルコムの再構成の時期等を検討する委員会を任命した。
 同盟による最後通告に合致したので、その夜に同盟は、ストライキの中止と警戒しつづけることを各支部に命令した。(25)
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 (16)V. Tikhomirnov in VS, No.27(1918年), p.12.
 (*)Eltsin in VS, No. 6/7(1917年5月), p.9-p.10.
 この著者は、中央委員会と政府の指令にもとづいて作成されたこの文書は「ロシア諸国を集合させる」過程を開始するものだ、と主張する。この言葉は伝統的には近代初期のモスクワに当てはまるものだ。
 (17)Pietsch, Revolution, p.77.
 (18)J. Bunyan & H. H. Fischer, The Bolshevik Revolution, 1917-18: Documents and Materials(Stanford, Calif., 1934), p.277.
 (19)L. Martov in Novyi luch, No. 10/34(1918年1月18日), p.1.
 (20)Pietsch, Revolution, p.80.
 (21)S. Studenikin, ed., Istoria sovetskoi konstitutsii v dekretakh i postanovleniiakh sovetskogo pravitel'stva 1917-1936(Moscow, 1936), p.66.
 (*)こうした趨勢は、政府が地方ソヴェトへの財政援助を拒否したことで弱くなった。
 ペトログラード〔中央政府〕は1918年2月、地方ソヴェトからの財源要請に答えて、富裕階級への「仮借なき」課税によって財源は獲得すべきだ、と伝えた。これにつき、PR, No. 3/38(1925年), p.161-2.
 この指令によって地方政府は、それぞれの地域の「ブルジョアジー」に対して恣意的に「寄付金」を課すこととなった。
 (22)Dekrety, I, p.20.
 (23)A. Taniaev, Ocherki po istorii dvizheniia zheleznodorozhnikov v revoliutsii 1917 goda (Fevral'-Oktiabr')(Moscow-Leningrad, 1925), p.137-9.
 (24)Protokoly Tsentral'nogo Komitera RSDRP(b): August 1917-Fevral'1918(Moscow, 1958), p.272. およびRevoliutsiia, VI, p.21.
 (25)Revoliutsiia, VI, p.22-23. P. Vompe's Dni oktiabrskoi revoliutsii izheleznodorozhniki(Moscow, 1924). これは、鉄道被用者と労働者の会合の詳細を内容としていると言われているが、私には利用できなかった。
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 ③へとつづく。

2184/レフとスヴェトラーナ-第2章①。

 レフとスヴェータ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
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 第2章①。
 (01) レフは3台のトラックとともにモスクワを出発した。その車は、クラスノプレスネンスカヤ義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
 数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
 〔ドイツの〕第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
 驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
 レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
 何が進行しているのか、誰も知らなかった。
 至るところに、混乱があった。
 (02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、ヴャジマの方向に運転した。
 暗くなり、地図もなかった。
 トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
 深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
 朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツの戦車は森林から出て路上に現れていたのだ。
 まもなくソヴィエトの砲兵たちは砲台を捨て(弾薬を残さなかった)、戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
 レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
 オー・デ・コロンの香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷の殺菌剤を彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が銃弾で壊れたのだ。幸いにも、彼には傷がなかった。
 (03) レフは、森深く入り込んだ。
 部隊を見失った数百のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
 レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
 持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用のナップザックだけだった。
 昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
 夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わろうと期待して。
 (04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
 暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
 森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
 膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
 小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
 レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
 弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
 二人の兵士がいた。彼の頭を殴った男は銃剣で彼を刺して、生きているか死んでいるかを確かめていた。
 レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。//
 (05) レフは一人ではなかった。
 10月の第一週に、ドイツのヴャジマ包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
 レフは、スモレンスク外郊にある通過収容所、Dulag〔Durch-gangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
 他の者たちと同様に、そこでレフは、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
 数百人が寒さと飢え、あるいはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。//
 (06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の収監者団の一人となった。
 その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
 彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
 廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
 収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
 第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
 酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練されたと口をすべらした。
 彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
 数日後に、カティンへと出立した。//
 (07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、カティンのスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
 その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り還す。
 レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないかと怖れた。
 それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
 ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。//
 (08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
 「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
 大尉は何も言わなかった。
 レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
 そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
 かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されたかもしれない。//
 (09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってスモレンスクに連れて行かれた。
 運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
 トラックは、曲がって森に入っていった。
 レフは、射殺される、と思った。
 彼は、思い出す。
 「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
 我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
 射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
 十分に自己抑制できるだろうか?
 自殺した方がよくはないか?
 トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃しても、その方がましではないか。」
 レフは飛び降りる準備をした。
 だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
 ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
 大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
 そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れようと、一緒になって努めた。
 (10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク・アム・オーデル近くにあった。
 病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
 死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
 レフは、所長と二人の将校から尋問を受けた。
 ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを尋ねた。
 レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、ようやく彼らはユダヤ人ではないと納得した。//
 (11) 4月、レフは小グループのソヴィエト将校とともにベルリン郊外の「教育収容所」〔Ausbildungslager〕へと送られた。
 「教育」(training)の意味は、ナツィ・イデオロギーとヨーロッパのためのドイツ新秩序に関する講義を受けることだった。そうした思想を、他の強制収容所にいる彼らの仲間のソヴィエト人捕虜に伝えることが想定されていた。
 6週間、教師たちの講義を聴いた。教師たちのほとんどはロシアからのエミグレで、授業用原稿に忠実にゆっくりと読んだ。
 そして5月、将校たちは多様な収容所へと散って行った。
 レフは、オーシャッツ(Oschatz)のコップ・ガーベルラント(Kopp and Gaberland)軍需工場に付属した作業旅団(work brigade)に組み入れられた。//
 (12) オーシャッツは、ライプツィヒとドレスデンの間の、捕虜強制労働収容所(Stammlager、又は略してStalag)がある巨大な工業地域の中心地だった。
 レフは、軍監察部隊の通訳として働かされ、そのあと8月に、ライプツィヒのHASAG(フーゴ・シュナイダー株式会社)工場に移された。
 HASAGは、ドイツ陸空軍の兵器を製造している大きな金属工場群だった。
 1942年夏頃には、このHASAGに、多様な民族(ユダヤ、ポーランド、ロシア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、フランス)の約1万5000人の捕虜がいるいくつかの捕虜強制収容所があった。二つの地区があって、一つは「ロシア」、もう一つは「フランス」と名付けられていた。
 レフはフランス地区に自分だけの箱部屋を与えられて住み、E・ラディク(Eduard Hladik)というチェコ人付きの通訳を割り当てられた。この人物の役目は、捕虜強制収容所内部での紛争を処理することだった。
 ラディクの母親はドイツ人だったが、彼は自分をチェコ人だと思っていた。
 彼は、ドイツによる1938年のチェコ併合の後に、HASAG 収容所の護衛兵としてドイツに徴用された。
 ラディクは、捕虜強制収容所に対して気の毒さを感じた。そして、捕虜たちがドイツの勝利のために働いているとき、彼らをひどく扱うという感覚を理解することができなかった。
 レフは収監者として、ライプツィヒの街路でラディクに付き添っているとき、落ち込みつつ歩かなければならなかった。
 かりに通りすがりの者がレフを侮辱すれば、ラディクはこう言ってレフを守っただろう。「答え返すことのできない人間に悪態をつくのは簡単だよ」。//
 (13) ラディクは、レフを信頼できる人物だと見ていた。
 レフの性格には、彼について責任がある人々を魅惑する何かがあった。-彼の誠実さはたぶん又はきっと、同じ言語で人々と話すことができる、ということだけによって感じたのかもしれないが。
 チェコ人のラディクはレフの助けとなり、彼にドイツの新聞を与えた。捕虜強制収容所の者へのこのような行為は、軍事情勢に関する正確な報告を示してしまうがゆえに禁じられていた。また、-強制収容所で見せられるプロパガンダ用の紙と異なり-スラヴ人は「二級人間だ(sub-human)」と書いてあったからだ。
 感染防止を名目にしてラディクはレフを兵舎区域の外に連れ出して、自分の友人を訪れる際に連れて行きすらした。その友人はE・レーデル(Eric Rödel)という社会主義者で、ロシア語を少し話し、ソヴィエトの放送局を受信して聴くことのできるラジオを持っていた。
 レーデルは元SA(突撃隊)将校の上の階に住んでいたので、そうした聴取はきわめて危険なことだった。
 レーデルとその家族は、レフを貴重な客として受け入れた。
 レフは、思い出す。
 「我々は長い間歩いた。<中略>すると、エリック〔レーデル〕はラジオを合わせ、私はモスクワからの『最新ニース』を聴いた。それはソヴィエト情報局からの軍事速報だった。
 今では番組の内容を記憶していない。しかし、-奇妙なことに十分に-放送上の一つの文章が私の心を捉えた。『ジョージアでは、茶葉の収穫が行われた。』」
 (14) やがてドイツは、ラディクを疑うようになった。
 別の護衛兵の一人が彼を非難して、反ドイツ活動をしていると追及した。ラディクは尋問を受けるために召喚された。
 彼は、ノルウェイの前線へと送られた。
 通訳として働き続けたくなくなって、レフは、収容所当局に対して、自分のドイツ語は不正確である可能性が十分にあるという理由で、義務を免じてくれるよう申し込んだ。
 「プロパガンダの仕事をする能力がない。なぜなら、私には説得の技巧がない-科学者にすぎないのだから、とも私は述べた」。
 11月〔1942年〕に、レフは、オーシャッツのコップ・ガーベルラント軍需工場に付属の作業旅団へと送り還された。//
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 第2章②へとつづく。

2183/松下祥子関係文書②-2019年1月23日。

 松下祥子関係文書②-2019年1月23日。
 〔一部、この欄用に曖昧化している。全体はA4用紙2枚で印刷され、空行がある。〕
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 第×部会に関する報告と若干の問題提起〔口頭報告のレジュメ〕
               2019年1月23日 第×部会々長
 はじめに
 12/14第×部会不開催/12/05次長宛て明記の理由は、*1)と*2)。
 *1)で十分として口頭発言して11/22退席。他にも「不信」の理由はあった。

 一 事務局作成の「答申案」のでき具合。
  ①答申案中の審理員意見書の「要旨」*1)-ほぼ丸写しで「要旨」でない。
  法務課長01/10「11/22に『要旨』であると主張したこと、その後すぐに訂正し…御連絡しなかったこと、またそれらのことで**部会長に大変御不快な思いをさせいしまったことに対しまして心よりお詫び申し上げます」。cf. 12/28
  ②関係規定-無確認・不正確あり。
  ③答申案中の本案判断の「理由」-独自性なし。
  cf.法務課長11/22回答文書「僭越ですが、少しでも負担を軽くと…」
  <実際には、審理員意見書+α程度では、むしろ邪魔>
  二答申ともに**が<ゼロから>書き改めている。

 二 部会審理と事務局の役割(・行動)。
   11/09文書の提示の経緯
 昨年01/25-30に(法務課長回答1/10)ネットから印刷し一人しか所持せず。
 但し、「存在」だけは法務課長はずっと既知。
 11/09に部会に初めて「提示」(このときも一人だけ所持)。-3月、10月には?
  cf.法務課長11/22発言「部会への提示等は、自主的判断に任せていた」。
  どこかに「ウソ」がある。*2) ・審査庁との関係
  T主査11/20頃(なぜ出所等の連絡ない?→)「いま審査庁に問い合わせ中でして」。
   一般論
  審理中の、事務局からの(事前了解なしの)資料提出の可否。
  cf. 総務次長01/11発言「そもそもあり得ないこと。それ自体が問題」。?

 三 諮問書(資料含む)のでき具合。
  ①関係規定の提示の仕方・正確さ、②審理員意見書の判断理由、等々。
  ①につき法務課長11/09-「丁寧さを欠く」ことを承認。
  同11/22「決裁済みで変更できない」。
  事務局が関係規定(整理表)を改めて作成できないのか? *3)

 四 部会長の部会(・会)との関係・区別。
  ①原則として部会長の意思は部会の意思ではない。
  ②部会長は部会委員の意思を拘束せず。配布されている答申案文書の処置も。
 法務課長11/22「部会長からの指示がないから(しなかったの)です!」。*4)
  同01/10三事件に関する事務局答申案は「事務局から回収させていただきます」。

 五 その他-○○○の行政不服審査体制。
 ①処分庁弁明書までの期間。8カ月?
  ②審理員意見書までの期間。弁明書-反論の反復、年度末の帳尻合わせ?
  ③諮問までの期間。
 ①原処分庁担当者の資質、
  ②審理員担当者の資質-指名の仕方、
  ③上の二者の<非分離>?、同じ局・課の中の課長補佐どおしが①と②。
 -とくに審理員担当者の行政不服審査法・行政手続法等の無知。
   (○○○行政不服審査会の事務局体制?)
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2182/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
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 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
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 ②へとつづく。

2181/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.127-p.133。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
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 第2節・大審問官とトビウオ(The Grand Inquisitor and the Flyingfish)。
 ・ドストエフスキー・<カラマーゾフの兄弟>で、大審問官はキリストに言う。
 「人間はあまりにもひ弱で、自由の恵みには耐えられない。
 人間は自由を必要とせず、求めるのはパン、それも<中略>当たり前のこの世のパンである」。
 D. H. ローレンスによると、大審問官の発言は「決定的なキリスト教批判」で「痛烈な寸言」だ。キリスト教による「幻想」に「現実」を突きつける。
 ローレンスは正しい。科学技術は「窮乏、貧困」を絶滅し人類を「不死」として、「かつてのキリスト教と同様」、科学信仰は「奇跡の希望」を伸ばす。しかし、「科学が人類を変えると思うのは魔術を信じるに等しい」。科学は「暴政の強化と戦争拡大」に利用されるはずだ。
 ・ドストエフスキーの真意は、「人類が自由を求めた例はかつてなく、この先も考えられない」ということだ。
 現代の世俗信仰は人間は自由を望み束縛を嫌うというが、「隷属と引き替えの安逸以上に自由を尊重」するのは稀だ。
 J. J. ルソーは「元々自由に生まれたはずの人間が至るところで鎖に繋がれている」と言う。しかし、「時として自由を求める少数がいるからといって、人間がみな同じだと思うのは、トビウオを見て空を飛ぶのは魚類の習性であると断じるに等しい」。
 ・「自由社会」がいずれ出現するだろうが、「めったにないことで、それも無政府状態か、専制君主制の変形が定石」だろう。独裁者は混乱に乗じて権力を手にするが、つねに庶民に「沈滞や閉塞を打破すると暗黙の約束を掲げる」。
 ・大審問官の偽りは自分を「悲劇の主人公」視していることだ。彼がどんなに気を揉んでも人類を救えないし、人類もそれを当てにしていない。彼の「自己満足」だ。
 宗教裁判官は「気高くも悪魔じみた信念」をもつと考えるのは誤りで、「腹のうちは、恐怖、怨恨、それに弱い者いじめの快感である」。
 ・「科学は人類の知識を増進するが、真理を尊重することは教えない。
 かつてのキリスト教と同じで、科学は権力の網に搦め捕られている。
 生存競争と業績(survival and success)の達成に汲々としている科学者の世界観は、旧弊な思考の貼り混ぜである。」
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 第3節・多神教礼賛。
 第4節・キリスト教が行き着く果ての無神論。
 <この両節は全体として省略。後者に明記はないが、R・ドーキンス的「無神論」の批判・揶揄を含むだろう。>
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第5節以降へ。

2180/レフとスヴェトラーナ-第1章④。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章④。

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 (34) 1940年1月、レフの祖母が死んだ。
 スヴェータは、レフがヴァガンコフスコエ墓地に彼女を埋葬しているとき、彼のそばにいた。
 (35) その翌月、レフは、(ロシア語でFIANとして知られる)レベデフ物理学研究所の技術助手になった。
 彼はまだ大学の最終学年にいたが、FIANで仕事を始めたばかりの物理学部時代の友人のナウム・グリゴロフから推薦されたのだった。これは、研究の途に入るよい機会だった。
 FIANという名は、ロシアの物理学者で物体に反射されるか吸収される光が与える圧力を最初に測定したピョートル・レベデフに因んでいた。そのFIANは、原子物理学研究の世界的中心の一つで、その研究計画の先端には宇宙線研究があり、レフはそれに参加するようになった。
 レフは昼間は勉強していたため、実験所では夕方勤務で仕事をした。
 スヴェータは、遅くまで図書館にとどまり、物理学部からミウスキ広場のFIANまで3キロを歩くことになる。
 彼女は中庭のベンチに座って、レフを待った。レフはいつもだいたい8時に姿を見せて、彼女の家まで一緒に歩いた。
 あるとき、レフは疲れていて実験所で眠り込んでしまい、9時過ぎまで目覚めなかった。
 スヴェータはベンチで、じっと彼を待った。
 寝入ってしまったと彼が言ったとき、スヴェータは笑った。
 (36) その夏、レフは、コーカサスのエルブルス山に科学調査旅行に出かけた。
 FIANは高山の中に研究基地をもっていて、レフのグループはそこで、宇宙線が地球の大気圏に入ってくる間際のその効果を研究することができた。
 レフはその基地に3カ月いた。
 スヴェータに書き送った。
 「山を登って、昨日に早くも我々の小屋に入った。雄大だ。恐ろしく強い願望が出てきて、忘れられない思い出になる。」
 その間のスヴェータは大学の夏季休暇で、クレムリン近くにコンクリート造りで建設されていたレーニン図書館で働いていた。そして、レフに手紙を書いた。
 「図書館の前には可愛らしい広場がある。知ってますか?
 そこには灌木や花が、いっぱい植えられている。
 わたしの誕生日には、誰が花束を贈ってくれるつもりかしら?」
 レフの予定では、9月1日にコーカサスから帰ってくることになっていた。その日はスヴェータが23歳になる10日前で、彼は誕生日にはいつも花を贈っていた。
 その日までは、スヴェータは手紙を読んで済ますしかなかっただろう。
 「1940年8月3日
 レヴェンカ!
 今日家に帰って最初にしたかった事は、自分宛ての手紙が来ていないかと尋ねることだった。
 でも、きみに関して、みんなが僕を慰め始めた。それで僕は、待っているのはイリーナのハガキだというふりをした。
 しかしそのときにターニャが-とても強調して-、イリーナからのハガキはないけど、きみからのものがあるに違いないと知ってる、と言った。
 それでターニャにくっついて部屋から部屋を回り(きみが好きなように部屋を回れるように、扉はみんなまだ開けられていた)、ターニャに、きみからの手紙をおくれよと頼んだ。
 きみのママは最後には僕を憐んで、きみの手紙を僕に渡してくれた。」
 スヴェータは、自分についての新しいニュースを彼に書いた。
 彼女は、図書館での常勤の仕事を提示されていた。
 「私よりいい人物を、彼らは見つけないでしょう。
 部屋のレイアウト、部屋の押入、戸棚、みんな私は知っている。<中略>
 内外の定期刊行物を知っていて、ローマン・アルファベットの知識でもって、中国語以外のどの言語で書かれていても、雑誌の月、年、名前と価格を、私は探し出すことができる。<中略>
 私には肩の上に頭があって、最優秀の脳でいっぱいではなくとも、綿毛が詰まっているわけではない。<中略>
 ヴェラ・イワノーヴァは、一年後にはグループ主任になれる、と言いました。
 一生ずっと図書館に居続けるのを望むのなら、これは経歴としてはよいスタートでしょう。
 でも、私は一生全部を図書館で過ごしたくはない。<中略> 月曜日に、断わるつもりです。
 レフ、私の健康のこと、心配しないで。
 私の気分が私の身体状態によっているか、身体状態が気分によっているかのどちらかだと、貴方に言いました。
 ともかく、貴方は私が手書きしたものから、私は冷静で困難を抱えていないと分かるでしょう。私には痛みも、病気のような何も、ないのです。
 ママは、私には肺炎がある、と言います。
 その理由-私が痩せたこと。
 でも、知っているでしょう。何よりも困難だと考えていたダイエットのおかげです。そして他には、どんな兆候もありません。」//
 (37) 1941年6月、レフは、FIANの同僚たちとエルブルス山への第二次調査旅行に行くことになっていた。
 6月22日の日曜日の朝、彼のチームは研究所にいて、旅行の準備を終えようとしていた。
 レフはよい気分だった。
 大学での最終試験に合格したばかりで、学部委員会からこう告げられていた。卒業生のうち4人だけを選んで、宇宙線研究の計画のためにFIANに進むよう仕事を割り当てた、と。
 レフは、そのうちの一人だつた。
 彼は、6月6日の集合場所から、スヴェータの家族に手紙を書いた。
 「いまここは、かなり混乱しています。
 それで、我々の見通しについて、正確なことは何もお知らせできません。
 多少とも分かっているのはただ一つ、徴兵委員会が軍事業務に我々を召喚するままでは、ここで生活して研究をするだろう、ということです。」//
 (38) レフは、戦争の勃発に動揺していた。
 数日の間、これが何を意味するのか考え及ぶことができなかった。
 モスクワでの研究と生活、スヴェータとの関係。-全てが今や空中に消え失せた。
 「我々は、戦時にいる」。彼は不安げに内心で語りつづけた。//
 (39) レフは前線へと自発的に志願していたけれども、責任ある地位に就くのを怖れていた。
 スターリンのテロルによってソヴィエト軍は絶望的に将校の数に不足しており、レフのような新参者は、戦闘をする兵士たちを指揮すべく召喚された。
 わずか2年の軍事教練の後で、レフは、青年少尉の階位に達していた。これが意味したのは、30人の兵士から成る小隊の責任者に配置される可能性がある、ということだった。だが、彼には、戦術上の自信がなかった。
 レフは最終的には、6人の学生と2人の大学卒業生から成る小さな補給〔兵站〕部隊の指揮者に任命された。
 自分のように経験がなくも彼が失策を冒しても労働者階級出身の兵士たちよりは自分を許してくれるだろうと考えて、彼は、学生たちの小隊であることを幸運だと感じた。//
 (40) レフの部隊は、モスクワの兵站基地から前線の通信大隊へと補給物品を移すこととされていた。
 彼の指揮のもとに、2人のトラック運転手、2人の作業員、料理人、会計官および在庫管理者がいた。
 前線に向かう途中で、彼らは、ソヴィエトのプレス報道によるプロパガンダが伝えない混沌とした状況を見た。
 モスクワでは、ソヴィエト軍はドイツ軍を撃退していると報道されていた。しかし、レフは、ソヴィエト軍が混乱しつつ撤退していることを知った。森の中は兵士や民間人でいっぱいで、多数の道路が、モスクワ方面の東へと逃亡する避難者で塞がれていた。
 莫大な数の人々が、殺されていた。
 7月13日までにレフは、ドイツ軍によって包囲された都市、スモレンスク近くの森に到達した。
 「スヴェティーク、我々は森の中にいて、日常的な仕事をしている。<中略>
 私はここで、全員に食糧を与えるものと考えられている。全員とは、たんに喚くだけで食べたいものを求めてこない、ほとんどが高級の将校たちも含めて、だ。<中略>
 ある程度はよい点もある。-食料庫までの旅の間は、比較的に自由だ。
 スヴェータ、きみが僕に手紙を書き送ることのできる場所は、絶対にない。-みんな、ある日からその翌日まで、自分たちがどこにいるのかを知らない。
 きみから報せを聞く唯一の方法は、旅の間に立ち寄ってきみの家で逢うことだ。
 それがいつになるのかは、分からない。」
 (41) モスクワと前線の間の何回かの旅で、レフは、兵士たちとその縁戚者のために手紙を運ぶことになる。
 彼はまた、陸軍倉庫を訪れている間に、スヴェータと家族に逢っただろう。
 スヴェータには逢えなかったが両親に逢えたのは、7月中の旅の1回だった。二人はレフに「食べ物と水を与え」てくれた。そのとき彼は、スヴェータ用に、手紙を残した。
 9月初めの2回めの訪問のときは、スヴェータは大学に戻っていた。
 レフが彼女の家族と連絡を取っておくのは、彼女と過ごすのとほとんど同様に重要なことだった。自分がどこかに属している、と感じさせたからだ。
 最後の訪問の一つのとき、スヴェータの父親は、彼に一枚の紙を渡した。それにレフは、4人の親しい友人とソヴィエト同盟の多くの都市にいる親戚の者たちの住所を記した。これらの住所にいるのは、レフが前線にいて不在の間にスヴェータとその家族がモスクワから避難する場合に、彼が助けを求めるはずの人々だった。
 レフは、多くを語らなかった。しかし、スヴェータの父親が、レフを息子だと考えていることは明瞭だった。
 (42) 最後にモスクワを訪れたことがあった。
 レフには、これがスヴェータと逢う最後の機会だと分かっていた。前線の大隊に送る補給物品の貯蔵はもう何もない、と聞かされていたからだ。
 運転手にあとで会おうと言って、レフは貯蔵庫からスヴェータの家へと走った。
 彼女は家にいそうではなかった-一日のど真ん中だった。しかしともあれ、誰かに別れを告げるために行く必要があった。
 たぶん、スヴェータの母親か妹なら、家にいるだろう。
 レフは、ドアをノックした。扉を開けたのは、スヴェータの母親のアナスタシアだった。
 レフは玄関廊下に入り込んで、モスクワにあと数時間だけいる、その後で離れて前線へと出発する、と説明した。
 彼は、感謝と別れの言葉を告げたかった。
 レフは、母親にキスをすべきかどうか分からなかった。
 アナスタシアは、大して温かみや感情を示さなかった。
 彼はお辞儀をして、玄関ドアへと向かった。
 しかし、母親が彼を止めた。「待って。貴方にキスをさせて」と彼女は言った。
 彼女は、レフをしっかりと抱き締めた。
 彼は、母親の手に接吻をし、そして去った。
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 第1章、終わり。もともと、各章に表題はない。

2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。


 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第1節・権力掌握後のレーニンの戦略。
 (1)1917年10月26日、ボルシェヴィキは、達成したとして主張するほどにはロシアに対する権力を掌握してはいなかった。
 その日に非合法に召集して支持者だけを詰め込んだソヴェトの残留派大会で勝利したのだが、限られた、一時的な権威しか持たなかった。
 政府はソヴェト中央執行委員会に責任を負い、立憲会議の招集を待って一カ月以内に退任するものとされていた。
 ボルシェヴィキがこれを実現するのには、三年間の内戦が必要だった。
 不安定な立場にあったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、ほとんど直ちに、歴史に知られていない類型の体制、つまり一党独裁制の基礎を築いた。//
 (2)10月26日、ボルシェヴィキには三つの選択肢があった。
 まず、党が政府だと宣言することができただろう。
 ついで、党を政府へと解消することもできた。
 さらに、党と政府を別々の装置として維持し、外部から国家を指揮するか、または接合させる人員を通じて執行の段階で国家と融合するか(1)、のいずれかを行うことができた。
 以下に述べる理由で、レーニンは上の第一と第二の選択肢を採るのを拒絶した。
 彼は、第三の選択肢のうちの二つの間で、少しばかりは躊躇した。
 もともとは、前者に傾いていた。すなわち、国家の長であるよりも、党の長として統治するのを選んだ。それは全世界のプロレタリアートの、最初の政府だった。
 しかし、見てきたように、彼の同僚たちはレーニンが十月のクーの責任を避けようとしていると考え、多くの者が反対して、レーニンに諦めるように迫った。(2)
 その結果として、クー・デタの数時間以内に発生した政治システムでは、党と国家は別の独立した一体のままで存続し、組織としてではなく人員によって執行の段階で融合する、ということとなった。執行段階で融合したものは、とりわけ内閣だった(人民委員会議ないしソヴナルコム)。この内閣で、党の指導者たちが全ての閣僚ポストを占めた。
 こうした組織編制のもとで、党官僚としてのボルシェヴィキは、政策決定を行い、国家部署の長としてそれを執行した。その目的のために、一般官僚機構や保安警察も利用した。
 (3)このような仕組みは、ヨーロッパやその他の世界の左翼や右翼による一党独裁制形態の多様な後裔を育むこととなる、そのような統治類型の起源だった。そしてそれは、議会制民主主義に対する主要な敵または代替選択肢として出現することとなった。
 それの際立つ特徴は、執行権と立法権の集中だった。もちろん、権力は、立法、執行および司法の各権能の全てが、「支配党」という私的組織の手に委ねられる。
 かりにボルシェヴィキがすみやかに他の全ての政党を非合法にしたとすると、「党」という名称をそれらの組織に用いることはほとんどできない。
 「党(the Party)」-これはラテン語のpars または〔英語の〕一部(part)に由来する-は、部分は全体ではあり得ないがゆえに、その定義上は排他的なものであることができない。
 従って、「一党国家」は、用語上は矛盾している。(3)
 それよりも幾分かは良く適合するのは「二重国家」で、この語は、のちにヒトラーが確立したものと類似した体制を叙述するために、新しく作られた。(4)
 (4)この統治類型には、ただ一つだけ、先行例があった。不完全で部分的に実現されたのみだが、いく分かモデルになったものがある。すなわち、フランス革命期のジャコバン体制だ。
 フランス全体にいた数百人のジャコバン・クラブは、厳密な意味では政党ではなかったが、ジャコバン派が権力に到達する前にすでに、その特徴の多くを身につけていた。
 すなわち、クラブ構成員は厳格に統制され、投票の際はもちろんのこと綱領への忠誠さが要求され、パリのジャコバン・クラブはナショナル・センターとして行動した。
 1793年秋から、1年のちのテルミドール・クーまで、ジャコバン・クラブは、公式には行政部と混合することなしに、全ての執行部署を独占することによって統治の支配権を掌握し、政府の政策に対する拒否権までもつと呼号した。(5)
 ジャコバン派がもう少し長く権力の位置にいたならば、純粋な一党国家を生み出したかもしれない。
 実際に、ジャコバン派は、ロシアの専制的伝統に依りかかりながらボルシェヴィキが完成形を作るための、模範的原型を提供した。//
 (5)ボルシェヴィキは、革命を起こした後に発生すべき国家について、大して多くは思索してこなかった。自分たちの革命は即座に全世界を無視し、ナショナルな政府を一掃することを当然のことと考えていたからだ。
 ボルシェヴィキは、進む過程で一党国家を改良した。そして、それに理論的な基礎を与えてみようとは何ら試みなかったけれども、一党国家制は、彼らが実現した成果のうちで最も長続きのする、影響力が最も大きいものとなった。//
 (6)レーニンは自分が無制限の権力を行使するだろうことを何ら疑わなかったが、彼が「ソヴェト民主主義」の名前のもとで権力を奪取したことを考慮せざるを得なかった。
 ボルシェヴィキは、自分のためにではなくソヴェトのためにクーを実行した。-彼らの党の名は、〔ペトログラード〕軍事革命委員会のどの声明文にも出てこなかった。
 彼らのスローガンは、「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 彼らの権威は、条件つきで一時的なものだった。
 虚構がしばらくの間は、維持されなければならなかった。この国はいかなる政党に対してであれ、権力を独占することを許さなかっただろうからだ。//
 (7)ボルシェヴィキが支持者と共感者を詰め込んだ第二回ソヴェト大会の代議員たちですら、ボルシェヴィキに独裁的な大権を与えるつもりはなかった。
 ボルシェヴィキが正統性の根源だと主張してきた大会の代議員たちは、彼らが代表するソヴェトはどのようにして政治的権威を再構築しようと意図しているかについて意見を求められたとき、つぎのように回答した。(6)
  ①全ての権力をソヴェトへ/        505(75%)
  ②全ての権力を民主主義派へ/        86(13%)
  ③全ての権力をカデット以外の民主主義派へ/ 21( 3%)
  ④連立政権/                58(8.6%)
  ⑤無回答/                 3(0.4%) 
 この反応は、多かれ少なかれ、同じことを語っていた。すなわち、親ボルシェヴィキ・ソヴェトがどのような政府を意図しているかを正確に知らないとすると、誰も単一の政党が独占的権力を持つとは予想していなかった、ということだ。
 実際に、レーニン直近の同僚たちの多数も、他の社会主義諸党をソヴェト政府から排除することに反対した。そして、レーニンとその一握りの最も献身的な支持者(トロツキー、スターリン、F・ジェルジンスキー)がそのような方向に固執したとすれば、それを理由として、抗議して辞任しただろう。
 これが、レーニンが直面していた政治的現実だった。
 やむを得ず彼は、一党独裁制を導入しているときですら、「ソヴェト権力」という外装の背後に隠れつづけた。
 民衆の中にある圧倒的に民主主義かつ社会主義の感情は、不確かに分散していたがなおも強く感じられたものだった。レーニンはそれによって、新しい名目上の「主権者」であるソヴェトの外皮を纏う国家構造には手をかけないように強いられた。一方では、権力の全ての網を、自らの手中に収めていっていたのだけれども。//
 (8)しかし、国の雰囲気によってレーニンがこの欺瞞を永続化させるのを強いられなかったとしてすら、彼が国家を通じて統治するのを選んで国家から党を切り離しただろうことには、十分な根拠がある。
 一つの要因は、ボルシェヴィキの人員不足だ。
 普通の状態でロシアを統治するには、公的なおよび私的な、数十万人の働き手が必要だった。
 あらゆる形態の地方自治が消滅して経済が国有化された国家を経営するには、その数の何倍もの人員数が必要だった。
 1917-18年のボルシェヴィキ党は、この仕事をやり抜くにはあまりに小さすぎた。
 いずれにしても、信奉者がきわめて少なく、かつそのほとんどは生涯にわたる職業的革命家だったので、行政についての専門知識がなかった。
 そのゆえに、ボルシェヴィキには、直接に行政をするのではなく、旧来の官僚機構とその他の「ブルジョア専門家」に依存し、行政官僚を統制すること以外には、選択肢がなかった。
 彼らはジャコバン派を模倣して、例外なく、全ての機関と組織にボルシェヴィキの人員を投入した。-その人員たちは国家にではなく党に対して、忠誠し服従する心構えがあった。
 信頼できる党員たちの必要性は切実だったので、党は、指導者たちが望んだ以上に急速に膨張し、出世主義の者たちを、純粋で使いやすいならば、入党させなければならなかった。//
 (9)党を国家とは別のものにした第三の考慮は、国家とは、国内または外国からの批判から党を守る手続のごときものだったことだ。
 ボルシェヴィキには、民衆が圧倒的に自分たちを拒否するときですら、権力を譲り渡す気持ちが全くなかったので、彼らは身代わり(scapegoat)を必要とした。
 これが国家官僚機構となるはずなのであり、党は無謬であるふりをしている間に、この官僚機構が失態について責められるだろう。
 ボルシェヴィキは、外国で破壊工作をしつつも、ロシア共産党という「私的組織」の仕業であってソヴィエト政府は責任を負うことができないと主張して、外国からの抗議をかわすことができることになる。//
 (10)一党国家のロシアでの確立は、建設的なまた破壊的な、多様な手段を必要とした。
 その過程は実質的には、1918年の秋までには完了した(そのときに、ボルシェヴィキが全ての中央ロシアを制圧した)。
 その後でボルシェヴィキは、この仕組みと実務を国境諸国に移植した。//
 (11)まず真っ先に、「ブルジョア」的なものはむろんのこと帝制時代的なものを含めて、全ての旧体制の残滓を根こそぎ廃絶しなければならなかった。地方自治の諸機関、政党とそれらの機関紙、軍隊、司法制度、および私的所有の制度。
 革命のこの純然たる破壊的段階は、奪い取るのではなく旧秩序を「粉砕する」のだとの1871年のマルクスの指示を実行するものだった。そして、諸布令がそれを定式化していた。だがそれは、主としては自然発生的アナキズムによってなし遂げられたもので、そのアナキズムは二月革命によって生まれ、ボルシェヴィキが強く燃え上がったものだった。
 当時の者たちは、こうした破壊的作業は愚かなニヒリズムによるものと見ていた。しかし、新しい支配者にとっては、新しい政治的および社会的秩序が建設されていく道を掃き清めることを意味した。//
 (12)一党国家体制の建設が困難だった一つの理由は、ボルシェヴィキが民衆のアナキズム的本能を抑制して、人々が革命によって永遠に解放されると考えたはずの紀律を再び課す必要があった、ということにあった。
 その必要があって、民衆的「ソヴェト」民主主義が出現する新しい権威(vlast')の構築が呼びかけられたが、実際に復活したのは、新しいイデオロギーと技術を備えたモスクワ絶対主義体制だった。
 ボルシェヴィキ支配者たちは、彼らの名目上の主人であるソヴェトに対する責任から免れることが、最も切迫している課題だと考えた。
 次いで、立憲会議から逃れる必要があった。彼らは自分たちでその招集を行っていたが、その立憲会議は確実に、ボルシェヴィキを権力から排除する可能性があったからだ。
 そして最後に、ソヴェトを党の従順な道具に変形させなければならなかった。//
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 (1)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.140.
 (2)N. Sukhanov, Zapinski o revoliusii, VII(Berlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.266.
 (3)R. M. Maclver, The Web of Government(New York, 1947), p.123.
 (4)E. Frankel, The Dual State(London-New York, 1941).
 (5)C. C. Brinton, The Jacobins(New York, 1961).
 (6)K. G. Kotelnikov, ed., Vtoroi Vserossiiskii S"ezd Sovetev R. iS.D.(Moscow-Leningrad, 1928), p.107.
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 第2節につづく。第2節の目次上の表題は、<レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を逃れる>。
 R・パイプス著1990年の初版。これには、「1899-1919」は付いていない。


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2178/折口信夫「神道の史的価値」(1922)。

 折口信夫全集第02巻-古代研究(民俗篇1)(中公文庫、1975)より。
 折口信夫「神道の史的価値」(1922年1月)。p.161~の一部。
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。1922年=大正11年。
 ***
 「…。所謂『官の人』である為には、自分の奉仕する神社の経済状態を知らない様では、実際曠職と言わねばならぬ。」
 「併しながら此の方面の才能ばかりを、神職の人物判定の標準に限りたくはない。
 又其筋すじの人たちにしても、其辺の考えは十二分に持ってかかっているはずである。
 だが、此の調子では、やがて神職の事務員化の甚だしさを、嘆かなければならぬ時が来る。
 きっと来る。
 収斂の臣を忌んだのは、一面教化を度外視する事務員簇出の弊に堪えないからと言われよう。
 政治の理想とする所が、今と昔とで変わって来て居るのであるから、思想方面にはなまじいの参与は、ない方がよいかもしれぬ。
 唯、一郷の精神生活を預かって居る神職に、引き宛てて考えて見ると、単なる事務員では困るのである。
 社有財産を殖し、明細な報告書を作る事の外に、氏子信者の数えきれぬ程の魂を托せられて居るという自覚が、持ち続けられなければならぬ。<中略>
 …其氏子・信者の心持ちの方が、既に変わって了うて居る。
 田園路を案内しながら、信仰の今昔を説かれた、ある村のある社官の、寂し笑みには、心の底からの同感を示さないでは居られなかった。」
 「世間通になる前に、まず学者になって頂きたい。
 父、祖父が、一郷の知識であった時代を再現するのである。」
 「こうした転変のにがりを啜らされて来た神職の方々にとっては、『宮守りから官員へ』のお据え膳は、実際百日ひでりに虹の橋であった。
 われひと共に有頂天になり相な気がする。
 併し、じっと目を据えて見回すと、一向世間は変わって居ない。
 氏子の気ぐみだって、旧態を更めたとは見えぬ。
 いや其どころか、ある点では却って、悪くなってきた。
 世の末々まで見とおして、国家百年の計を立てる人々には、其が案ぜられてならなくなった。
 閑却せられていた神人の力を、借りなければならぬ世になった、ということに気のついたのは、せめてもの事である。
 だが、そこに人為のまだこなれきらぬ痕がある。
 自然にせり上がって来たものでないだけ、どうしても無理が目立つ。」
 「我々は、こうした世間から据えられた不自然な膳部にのんきらしく向かう事が出来ようか。
 何時、だしぬけに気まぐれなお膳を撒かれても、うろたえぬだけの用意がいる。
 其用意をもって、此潮流に乗って、年頃の枉屈を伸べるのが、当を得たものではあるまいか。
 当を得た策に、更に当を得た結果を収めようには、懐手を出して、書物の頁を繰らねばならぬ。」
 ***

2177/レフとスヴェトラーナ-第1章③。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章③。
 (23) 大学生生活を始めたとき、レフは祖母(当時82歳)と一緒に、モスクワ北西のレニングラード・プロスペクト通りの共同アパートに住んでいた。
 彼の少し変わった「オルガ叔母さん」もそのアパートに一室をもち、彼女の夫と住んでいた。
 レフと祖母が生活していたのは、狭くて暗い部屋だった。一方の端に彼用のシングル・ベッドがあり、一方の端にはトランクがあって、その上に祖母が間に合わせのベッドを作っていた。踏み台に脚を乗せていたのだ。
 突先の窓のそばには机があった。レフのベッドの上には、ガラスが前面にある小さな飾り棚があって、集めた化学器具や本を保管していた。ロシア文学の古典作品もあったが、主としては数学と物理の本だった。
 スヴェータが訪れたとき、彼女はレフのベッドに腰掛けて、話をしたものだ。
 オルガ叔母さんはアパートの廊下にいて、二人の動きに注意深い目を向けた。
 教会にきちんと行く厳格な叔母さんはスヴェータがやって来るのに同意せず、レフに対して、何かが進行していると思っているとはっきり言った。
 レフはこう言ったものだ。「彼女は大学での友人にすぎない」。
 しかし、オルガは、レフの部屋のドアの側に立って、「証拠」を求めて耳を澄ませていた。//
 (24) レフとスヴェータが本当に自由になれる場所は、田舎にあった。
 毎年夏に、スヴェータの家はボリスノコブォにある大きな別荘を借りていた。そこは、モスクワ西北70キロの所にある、イストラ河岸の新開地だった。
 レフは彼らを訪れることになる。ときにはモスクワから自転車で、ときにはマニヒノまで列車に乗ったあとでボリスノコブォから一時間歩いて。
 レフとスヴェータは、一日全部を林の中で過ごすことになる。河岸に横たわり、詩を読む。夕闇が近づくと、レフは最終列車に乗るために別れるか、長い自転車旅行で戻って行く。//
 (25)1936年7月31日、レフは列車でやって来た。
 ひどい暑さで、マニヒノから歩いた後には汗まみれだった。それで、スヴェータの家に姿を見せる前にボリスコヴォ近くの川で少し泳ごうと決めた。
 下の肌着だけになって、レフは飛び込んだ。
 泳ぎは上手でなかったので、河岸沿いに進んだが、強くて大きな流れが来て彼を運び去り、レフは水中に入り始めた。
 河岸に釣り人がいるのをちらりと見て、レフはその男に向かって叫んだ。「溺れる、助けて!」。
 釣り人は、何もしてくれなかった。
 レフはまた水中に潜って、二度目に浮上したとき、もう一度助けを求めた。-そしてまた水中に沈んだ。
 か弱な自分では助からない。スヴェータの家のすぐ近くで死ぬとは、何と愚かなことだろう!
 そして彼は、気を失った。
 覚醒したとき、河岸に横になっていて、そばに釣り人がいた。
 呼吸を整えようともがきながら、後ろに立っている、助けてくれた釣り人を一瞥した。そして、どうして飛び込んで助けてくれなかったのかと小言を言った。
 その男が誰かを知ってきちんと感謝を言う前に、その男は離れて行った。
 レフはその日を、スヴェータとその家族と過ごした。
 スヴェータと妹のターニャがレフと歩いて村の端まで行って、別れを告げ、駅まで行く彼を見送った。
 その村で、レフは自分を救ってくれた人物を知った。
 その人物は、一人のもっと年配の紳士と二人の女性と一緒にいた。
 レフは彼に感謝を述べ、名前を尋ねた。
 年配の人が答えた。「私は教授のシンツォフで、これは義理の息子で技師のベスパロフ。そして、それぞれの妻だ」。
 もう一度彼らに感謝して、レフは駅に向かった。その駅では、公共ラジオ放送局がサン=サーンスの<序奏とロンド・カプリチオーソ>を流していた。
 D・オイストラフが美しいバイオリン・ソロを弾くのを聞きながら、彼は、生きている、という強い感覚に包まれた。
 彼の周りにあるものは全て、前よりも力強くて生き生きしていると感じた。
 助かった!
 スヴェトラーナが好きだ!
 音楽を聴いている間ずっと、彼は喜んでいた。//
 (26) 人生は、心もとない喜びで溢れている。
 1935年、スターリンは、生活は良くなり、明るくなっている、と発表した。
 以前よりも購買できる消費物品が、ウォッカ、キャビアも、増えている。、ダンス・ホールや楽しい映画も増えた。だから、人々は笑いつづけることができ、共産主義社会が樹立されれば到来する明るい燦然とした未来への確信を抱きつづけることができる。
 その間に、逮捕者リストがスターリンの政治警察、NKVD によって準備されていた。
 (27) 少なくとも130万人の「人民の敵」が1937-38年の大テロル(Great Terror)の間に逮捕された。-そしてその半数は、のちに射殺された。
 この計算された大量殺戮とはいったい何だったのか、誰にも分からなかった。-被害妄想症のスターリンによる潜在的な敵の殺戮で「社会的異物」に対する戦争なのか、それとも、こちらの方がありそうだが、国際的緊張が高度に達したときの戦争の事態に備えた「信頼できない者たち」の予防的な選抜的間引きだったのか。
 テロルは、社会全体を揺るがせた。
 生活の全分野が、影響を受けた。
 隣人、同僚、そして縁戚者が、一夜にして突然に「スパイ」のレッテルが貼られることが起きた。//
 (28)ソヴィエト物理学の世界は、とくに傷つきやすかった。理由の一つは、軍事にとっての実際的な重要性であり、また一つは、イデオロギー的に分かれていたからだ。
 モスクワ大学物理学部は、そうした精神状況の中心だった。
 一方には、ユリ・ルメルやボリス・ゲッセンのような若い研究者のグループがあった。彼らは、アンイシュタイン、ボールおよびハイゼンベルクの物理学の擁護者だった。
 他方には年配の教授たちがいて、この者たちは、相対性理論や量子力学は「観念論」で、弁証法的唯物論、マルクス=レーニン主義の「科学的」基礎とは合致しない、と非難した。
 イデオロギー上の分裂は政治的にも強化され、唯物論者たちは、量子力学の支持者は、外国に旅行して西側科学の影響を受けているがゆえに「非愛国的だ」(つまり潜在的な「スパイ」だ)、と責め立てた。
 1936年8月、レフとスヴェータが第二年次を始める直前に、ゲッセンが、「反革命テロリスト組織」の一員だという嫌疑を受けて逮捕された。
 ゲッセンは、のちに射殺された。
 ルメルは1937年に、大学から追放された。//
 (29) 学生たちは、警戒するように求められた。
 コムソモルの学生たちは、縁戚者が逮捕された学生仲間と対立した。そして、彼らが縁戚者を非難できないならば大学から追放されるべきだ、と主張した。
 他学部では多くの学生が追放されたが、物理学部ではより少なかった。物理学部には、強い学友団体意識があったのだ。
 1937年の事件のあとでレフを救ったのは、この共同体意識だった。//
 (30) モスクワ大学では、軍事教練は昼間部学生たちの義務だった。
 その学生たちは、戦争の際には動員される予備将校軍団に入るよう義務づけられていた。
 物理学部の学生たちには、歩兵隊の司令部のポストが用意されていた。
 軍事教練の中には、ウラジミルの近くで二回の夏を野営する、というものもあった。
 1937年の第一回の野営での主要な指示者は、大学の学生で構成されていない連隊の若い司令官へと、最近に昇格した人物だった。
 その人物は、エリート物理学者を200メートル走らせ、次いで同じ距離を行進させる、ということを際限なく繰り返して、彼らを訓練するのを愉しんだ。
 権威をもつ人間が少しばかり苛めるのを見たときに口を閉ざすのは、レフの性格ではなかった。
 ついには、レフは抗議して叫んだ。「我々の指揮官は、馬鹿だ!」。
 その声は指揮官の耳に十分に達した。彼はレフについて、当局に報告した。
 問題は、モスクワ軍事地区の党地区委員会にまで上げられた。党委員会は、「労働者農民赤軍の司令武官に対する反革命的トロツキスト的煽動」を行ったとしてレフをコムソモルから除籍した。
 翌9月、レフは、大学に戻った。
 レフはこの事件の結果がさらに大きくなるのを怖れて、自分のコムソモルからの除籍を取消すよう、党地区委員会に訴えた。
 軍事地区の司令部は彼を召喚し、事件に関する彼の見解を聴取し、除籍を撤回して、その代わりに、「非コムソモル行動」があったとして「厳重な譴責」(strogii vygovor)をした。
 これは幸運な逃げ道だった。
 レフはのちに、この措置は大部分は委員会への訴願書を書いて自分の名前を署名した物理学部の3人の勇気によるものだ、と知ることになる。
 レフは物理学部の学生たちにとても好かれていたので、彼らはレフを守るために危険を冒したのだった。
 彼らが連帯を明らかにすることは容易に裏目に出て、彼らの逮捕につながり得ることだった。三人のグループは当局の目からすると、すでに「組織」と性格づけられるものだったのだから。
 (31) このエピソードは、レフとスヴェータの二人を一緒にさせた。
 二人の関係は大学の第二年次の中頃に冷たくなっていて、しばらくはお互いに逢わなかった。
 中断して、突然に友人たちのグループから離れたのは、スヴェータだった。
 レフは、理解できなかった。
 前の夏には二人は毎日出逢い、彼女は彼の写真を欲しがりすらした。
 彼らの多くの友人たちは結婚していった。そして、レフも、二人もまもなく結婚するのではないかと望んだに違いなかった。
 そのときに、何の予告もなく、スヴェータは離れて行った。
 スヴェータはこの時期を振り返って、陰鬱な気分のせいだったとする。-彼女が一生のうち長くを苦しんだ抑鬱状態だ。
 彼女はのちに、レフに宛てて書くことになる。「私は私たちの関係をダメにして、-神はその理由を知っていますが-貴方をひどく苦しめていると、何度も自分を責めました」。
 (32) レフが困難に陥っていると知って、スヴェータはすぐに彼に戻った。
 つづく3年間、二人は離れなかった。
 レフは朝に、スヴェータの大学への通学路で彼女と逢うことになる。
 彼は講義の終わり時間に彼女を待ち、レニングラード・プロスペクト通りまで連れて帰って、彼女のために料理したり、あるいは二人で劇場や映画館へ行き、歩いて彼女の家に戻った。
 二人の関係にとって、詩は重要な要素だった。
 二人は一緒に詩を誦み、お互いに詩を交換し、新しい詩を紹介したりした。
 アフマトーヴァとブロクはスヴェータが好きな詩人だったが、彼女はエレナ・ルィヴィナの詩も好きだった。ある夕方にモスクワの通りをずっと歩きながら、彼女はルィヴィナの詩をレフに朗誦して聞かせた。
 「あなたのタバコの輝き
  最初は消えそうになって、また燃え上がる
  私たちはロッシの通りを通り過ぎていく
  街頭のランプが空しく光っているところを」
 「私たちの出逢いは 短い
  一歩、一瞬、一息よりも短い
  親愛なる建築屋さん、どうして
  あなたの通りはこんなに短いの」
 (33) レフが遅くまで仕事しなければならず、スヴェータと逢えないときは、ときどき彼は、夜中に彼女の家の脇を通ったものだ。
 このような場合、レフはこんなノートを残した。
 「スヴェトカ!
 どうしているか知りたくて、明日のことを思い出させるためにやって来た。
 明日は29日だ。あの場所で、逢おう。
 もう遅いし-11時半だ-、きみの二つの窓はもう暗くて、他の二つもうす暗いから、アパートに入り込むだけするのはやめると決めた。
 入り込んだら、みんなを起こして、怖がらせるだろう。
 自由だったら、僕に逢いに来て下さい。
 お母さんと妹さんによろしく。」
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 ④へとつづける。

2176/松下祥子関係文書①-2019年03月20日。

 松下祥子関係資料①。

 退 任 届 /2019年(平成31年)3月20日
 記
 以下に記載の理由により、任期途中ですが、2019年(平成31年)3月19日をもって、***行政不服審査会委員を退任する旨を、真摯かつ明確に意思表示いたします。
 事後処理等を、どうぞよろしくおとりはからい下さい。
 第一。松下祥子・総務部法務課長の、例えば昨年11月以降に「ウソ」を含む文書回答を行った等々の、審査会(同部会を含む)の事務運営にかかる、「人間的感情」を持っていることをも疑問視させるひどさ・拙劣さ。
 第二。阿児和成・総務部次長の、例えば本年1月に見られた、「かたちだけ」詫びつつ部下と「組織」を守ろうとし、当委員の主張や当委員が知って理解している「事情」を可能ながり訊こうともしない姿勢。
 第三。近藤富美子・***総務部法務課課長補佐の、基礎的な「法」的素養と「法」的文書作成能力の欠如。
 第四。***福祉部子ども室家庭支援課(貸付・手当グループ)職員(課長を含む)に見られる、行政不服審査法および行政手続法に関する基礎的「法」的知識・素養の欠如。
 以上。
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2175/R・パイプス著第11章第14節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 (1)当時のロシア住民の圧倒的大多数は、何が起こっているかを少しも知らなかった。
 二月革命以降は共立執行部として行動してきたソヴェトが、名目上は、完全な権力を掌握した。
 このことは、革命的な事件だとはほとんど思えなかった。すなわち、二月革命の最初に導入された「二重権力」の原理を、論理的に拡張したものだった。
 トロツキーがソヴェトへの権力移行だとボルシェヴィキによる権力奪取を誤認させたことは、素晴らしい成功だった。
 民主主義的社会主義者たちが二月と三月に導入した実務を、ボルシェヴィキの目的のために巧妙に利用したのだ。トロツキーは十月の事態をふり返って、こう自慢した。
 欺瞞がもたらした結末は、事実上何ら気づかれることなく、見かけ上は、新しい政府の危機をたんに「合法的」に解決したにすぎない、ということだった。
 (2)トロツキーは、つぎのように書く。(230)//
 「我々はこの蜂起を『合法的』だと称する。それは、二重権力という『正常な』状態から発展した、という意味でだ。
 宥和主義者たち〔エスエルとメンシェヴィキ〕がペトログラード・ソヴェトを支配していたとき、一度ならずソヴェトは、政府の決定を阻止し、あるいは訂正させた。
 こうした実務が、いわば歴史的には『ケレンスキー主義』として知られる体制の基本的構造の一部のごとくになった。
 ペトログラード・ソヴェトで権力を奪った我々ボルシェヴィキは、この二重権力の方法を拡張させ、深化させたにすぎない。
 我々は、(前線に対する)連隊の派遣に関する命令を抑止する権限をもった。
 我々はこのようにして、二重権力の伝統と実践の背後に、ペトログラー連隊の事実上の反乱を隠蔽した。
 それに加えて、権力の問題に関する我々の煽動を第二回ソヴェト大会のタイミングに合わせることによって、我々は二重権力の確立された伝統を発展させ、深化させたのだ。そして、ボルシェヴィキの蜂起のソヴェトによる『合法化』という枠組みを、全ロシア的規模で用意した。」
 (3)十月クーの社会主義という目標を隠したままにしたのも、欺瞞(deception)だった。
 まだ不確かだと感じられていた新体制が最初の週に発した公式文書は、「社会主義」という語を使わなかった。
 これが考え抜かれたもので見落としではないことは、つぎのことで分かるだろう。すなわち、レーニンは、臨時政府は廃止されたと宣言する10月25日の元々の草案では、「社会主義、万歳〔Long Live〕!」と書いていた。だが、宣言時には考え直して、その部分に線を引いて消した。(231)
 最も早い「社会主義」の語の公式な使用は、レーニンが書いた11月2日の日付のある文書に見られる。その文書は、「中央委員会は、社会主義革命の勝利を完全に確信する」と述べていた。(232)
 (4)こうしたこと全てによって、劇的な事件が起きたという意識が発生するのを抑え、公共の不安を和らげ、そして活発な抵抗を全て阻止する、という効果が生じた。
 十月のクーの意味に関する無知ががいかに広がっていたかは、ペトログラード株式取引所の反応が、よく例証しているだろう。
 当時のプレスによると、体制変化によって株取引は「まったく影響されなかった」。あるいはまた、ロシアに社会主義革命が起きたという、すぐそのあとの発表によってすら同じだった。
 クーの直後の日々には有価証券の取引はほとんどなかったけれども、価格は安定していた。
 神経質さを示したのはただ一つ、ルーブルの価値の急落だった。
 10月23日と11月4日の間に、ルーブルは外国での交換価値の二分の一を失い、アメリカ・ドルに対して、6.2から12~14へと安くなった。(233)
 (5)ほとんど誰も、臨時政府の崩壊を慨嘆しなかった。
 一般民衆はそのことに完全に無関心に反応した、と目撃者は報告している。
 ボルシェヴィキが頑固な抵抗を打ち破らなければならなかったモスクワについてすら、同じことが言えた。
 モスクワでは、政府が消失したことは気づかれなかった、と言われる。
 街頭を歩いている人々は、事態はたぶん少しも悪くはならないだろうと考えたために、誰が政権に就いても違いはない、と感じていたように見える。(234)//
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 (230)L.トロツキー, Sochineniia, III, Pt. 1(Moscow, n.d.), L.
 (231)Dekrety, I, p.2.
 (232)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.68; Lenin, PSS, XXXV, p.46.
 (233)NZh, No. 173/167(1917年11月5日), p.1.
 (234)NZh, No. 171/165(1917年11月3日), p.3. French CounsulのE. Grenard はペトログラードでの同様の反応を報告する。La Revolution Russea (Paris, 1933), p.285. 地方については、Keep in Pipes, Revolutionary Russia, p.211 を見よ。
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 第14節終わり。そして、第11章も終わり。

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
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 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
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 最終第14節へ。

2173/レフとスヴェトラーナー第1章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章②。
 (12) ボルシェヴィキは、1919年の秋に、ベリョゾボにやって来た。
 彼らは、白軍と協力していると見なされた「ブルジョア」の人質を逮捕し始めた。白軍は反革命軍で、内戦の間はこの地域を占拠していた。
 ある日、ボルシェヴィキは、レフの両親を連れて行った。
 4歳のレフは、祖母と一緒に行って、両親が地方の監獄にいるのを見た。
 父親のグレブは他の9人の収監者と一緒に、大きな獄房に入れられていた。
 レフはそこに入るのを許され、父親の側に座った。その間じゅう、看守がライフルを持って入口の傍らにいた。
 「あのおじさんは、狩猟家なの?」
 レフが尋ねると、父は、「あのおじさんは我々を守ってくれている」と答えた。
 レフの母親は、独房にいた。
 彼は母親に、二度会いに行った。
 その最後のとき、母親は一椀のサワー・クリームと砂糖をレフに与えた。それらは、彼の訪問が記憶に残るように、収監者への配給金で買ったものだった。
 (13) ほどないうちに、レフは病院に連れていかれた。母親は死にかけていた。
 彼女は、たぶん看守に、胸部を狙撃されていた。
 レフが病室の入り口にいたとき、看護婦が、不思議な赤い拍動する物体を手にして彼の側を通りすぎた。
 それを見て怯えて、祖母が別れを告げるように彼に言ったとき、レフは病室内に入るのを拒んだ。だが、入口辺りから、祖母がベッドの上に行って、母親の額に接吻するのを見ていた。
 (14) 葬儀は、町の大きな教会で行われた。
 レフは、祖母と一緒に行った。
 開いた棺の正面にある椅子に座ったが、彼は小さくて中をのぞき込んで母親の顔を見ることができなかった。
 だが、棺の後ろから、色彩に富むイコノスタスで描かれた表面を見ることができた。そして、蝋燭の光で、レフは、棺の頭部の真上に神の御母のイコンがあるのに気づいた。
 彼は、神の御母の顔は自分自身の母親とよく似ていると思った、と記憶している。
 レフの父親は、葬儀のために監獄から一時釈放され、護衛に付き添われて、彼の傍らに姿を見せた。
 「別れを言いに来た」とある婦人が語るのを、レフは聞いた。
 しばらくの間、棺の側に立ったのち、父親は去っていった。
 レフはのちに、教会の外の共同墓地にある、母親の墓を訪れた。
 新しく掘り上げられた土塚は雪とは反対に黒く、その頂上には誰かが木の十字架を置いていた。
 (15) 数日のちに、祖母は彼を、同じ教会での第二の葬礼に連れて行った。
 今度は、イコノスタスの正面に低く並べられた10の棺があった。全て、ボルシェヴィキによって殺害された犠牲者たちだった。
 そのうちの一つが、レフの父親だった。
 父親の獄房の収監者たちはみな、同時に射殺された。
 彼らがどこに埋葬されているのかは、知られていない。
 (16) 1921年の雨が少ない夏、飢饉がロシアの農村地帯を襲った。そのとき、レフは祖母と一緒にモスクワに戻った。
 ボルシェヴィキは、「ブルジョアジー」に対する階級戦争を一時的に中止した。その結果、モスクワの残存中間階層がもう一度生活することが可能になった。
 彼の祖母は、小取引者と商店主が住む地区であるレフォルトヴォで20年間、助産婦として働いていた。そして、彼女とレフはこのときにその地区に引っ越して、遠い親戚と一緒に生活した。
 彼らは1年間、祖母が奇妙な看護婦の仕事をしている間、一室の角を-カーテンの裏のふつうのベッドと簡易ベッドで-占有した。
 1922年、レフは、「カーチャおばさん」(ヴァレンティナの妹)に引き取られた。彼女は、クレムリンから石を投げれば届く距離のグラノフスキ通りの共同住宅で、二番目の夫と暮らしていた。
 レフはそこに1924年まで滞在し、そのあと母親の叔母のエリザヴェータのアパートに転居した。この人は以前は女子高校の学校長で、その住居はマライア・ニキツカヤ通りにあった。
 レフは思い出す。「ほとんど毎日、カーチャおばさんが我々を訪れてくれた。そうして、私は、女性たちの影響と世話がつねにある状況の中で成長しました」。
 (17) 三人の女性たちの愛情は-三人ともに自分の子どもがなかった-母親を失ったことの埋め合わせにはならなかっただろう。
 だが、それによってレフには、女性一般に対する尊敬が、あるいは畏敬の念すらが、生まれた。
 女性たちの愛情に付け加えられたのは、彼の両親の親しい友人たちのうちの三人による、精神的かつ物質的な支援だった。彼らはみな、一定の金額を定期的にレフの祖母に送ってきた。三人とは、アルメニアの首都のエレヴァンにいる名付け親の医師、モスクワ大学の音響学教授のセルゲイ・ルジェフキン(「ゼリョザ叔父さん」)、年配のメンシェヴィキで言語学者、技師および学校教師のニキータ・メルニコフ(「ニキータ叔父さん」)で、レフはニキータを「二番めのお父さん」と呼んだ。
 (18) レフは、ボルシャヤ・ニキツカヤ通りにある、以前は女子ギムナジウムだった男女共学の学校へ通った(男子または女子だけの学校は、ロシアでは1918年に廃止されていた)。
 両翼をもつ古典的19世紀の邸宅が使用されていて、レフが通い始めた頃の学校はまだ、その時代の知識人たちの雰囲気を保っていた。
 多数の教師たちは1917年以前も、その学校で教えていた。
 レフのドイツ語の教師は、以前の校長だった。
 幼年組の教師は有名なウクライナの作曲家の従兄弟で、彼のロシア語の教師は作家のミハイル・ブルガコフに縁戚があった。
 しかし、レフが10歳代の1930年代初頭には、学校教育は工業技術を中心とする教科課程に移行していて、工学の勉強はモスクワの工場と連結していた。
 工業技術者が、実際的な指示や実験をして学校で授業をし、子どもたちが工場での実習生になるよう準備させることになる。
 (19) ヴゾフスキ小路にあったスヴェータの学校は、レフの学校から大して遠くはなかった。
 二人がこの当時に出会っていたならば、二人はどうなっていただろうか?
 彼らの出自は、かなり異なっていた。-レフはモスクワの中流階級の出身で、彼の祖母の正教の価値観はレフの躾け方にも反映されていた。一方、スヴェータは、技術系知識人たちのもっと進歩的な世界で育ってきた。
 だが二人には、多くの共通する基本的な価値と関心があった。
 二人ともに、年齢にしては成熟しており、真面目で、賢く、考え方に自主性があった。そして、プロパガンダや社会的因習からというよりも自分たちの経験で形成した、開放的な探求心のある知性を持っていた。
 この自立性は、のちの彼らに大きく役立つことになる。
 (20) スヴェータは1949年の手紙で、自分は11歳のときどんな少女だったかを思い出している。反宗教の運動が、ソヴィエトの諸学校で頂点に達していた頃のことだ。
 「学校の他の子どもたちより、私は大人びていたように思える。<中略>
 その頃、私は神や宗教の問題について、とても悩んだ。
 隣人たちは信仰者で、ヤラは彼らの子どもたちをいつもからかっていた。
 でも、私は割って入って、信仰の自由を擁護した。
 そして、神に関する問題を、自分で解決した。
 -神なくして、我々は永遠のことも創造のことも、理解することができないだろう。私が神の肝心な所を見ることができないのは、神が必要とされていないということだ(神を信じる他の人々には神が必要かもしれないが、私は必要としていない)。こう、結論づけた。」
 (21) レフとスヴェータはともに、その年齢の頃までに、真面目に働いて責任感をもつという気風が生んだ人間という、巧妙な作品に育っていた。
 スヴェータの場合は、イワノフ家の教育の結果だった。家の多数の雑用をこなすとともに、妹のターニャの面倒を見る責任もあった。レフの場合は、必要をもたらしたのは、彼の経済的境遇だった。
 レフは学校に通っていた間ずっと、祖母の少ない年金を埋め合わせるために、働かなければならなかった。
 (22) まだ15歳にすぎなかった1932年、レフは夜間の仕事をしていた。それは、ゴールキ公園とソコルニキ間の、モスクワで最初の地下鉄路線の建築工事の作業だった。
 彼は街路を横切るルートを測定したのち、大部分は農民移住者で成る掘削チームに加わった。彼らは、ボルシェヴィキによって強制的に集団農場に入れられるのを避けて、モスクワに溢れるほどにやって来ていたのだ。
 レフは、集団化が引き起こした、次の夏の恐るべき結果を知った。
 急に増えた集団農場から離れ出た人物として、彼は、ウクライナの農村地帯出身の同僚作業員と知り合いになった。その農村地帯は、ひどい飢饉に見舞わられていた。
 その男は「放擲された郷土の村落、死んでいく人々、囲いの中に積み重なった死体」について、悲しい詩を書いた。
 詩がもつ、感情に訴える力にレフは強い印象を受けたが、驚くべき主題にたじろいでしまった。
 「なぜ、そんな恐ろしい情景を作るのですか?」と尋ねると、答えはこうだった。
 「作ってなどしていない」。
 飢饉が存在している。誰にも、死んだ者を埋める体力がない。
 レフは衝撃を受けた。
 それまで、ソヴェト権力とその政策を本当に疑ったことは一度もなかった。
 彼は共産主義青年同盟であるコムソモールの一員だったし、党を信じてきた。
 しかし、その作業員の言葉で、疑いの種子が撒かれた。
 その年ののち、レフは生物教師が組織した校内小旅行で、モスクワ近郊の集団農場へと行った。その教師は熱心なボルシェヴィキ支持者で、「害虫に対する闘争」を演じるふりをして、農場にある遺棄された家屋を使っていた。
 その家屋内には、聖職者が持っていた書物を燃やした残り滓があって、その中には、レフの祖父がかつて読んだがソヴェト体制のもとではもはや用無しの言語である、ギリシア語で書かれた聖書も含まれていた。
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 ③へとつづける。

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
 ***
 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2171/レフとスヴェトラーナ-第1章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 *オーランド・ファイジズの文章の試訳。
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 第1章①。
 (01) レフはスヴェトラーナを初めて見た。
 モスクワ大学の入学試験に呼び込まれるために、中庭に三列を作って待っている一群の学生たちがいた。その中にすぐに、彼女に気がついたのだった。
 彼女は物理学部の建物の入口に向かう道沿いに、レフの友人と一緒に立っていた。その友人はレフを手招きして、前の学校のクラス友だちだとスヴェトラーナを紹介してくれた。
 二人は、学部の入口が開くまでに、一言か二言だけをを交わした。そのあと、学生の一群に加わって、階段を上り、試験が実施される大講堂に入った。
 (02) 最初に逢ったときは、恋でも愛でもなかった。二人ともに、そう分かっていた。
 レフはきわめて用心深かったので、簡単に恋に落ちることはなかった。
しかしそれでも、スヴェトラーナはすでに彼の注意を惹いた。
 彼女は背の高さは中くらいで、ほっそりしていて暗い茶色の髪だった。顎の骨が尖っていて顎先も尖っており、青い眼は落ち着いた知性で輝いていた。
 スヴェトラーナは、ソヴィエト同盟で最良の物理学の学部に入学した5-6人の女性の一人だった。レフも一緒に、別の30人の男子とともに1935年に同じ学部に入学した。
 暗色の羊毛服と短い灰色のスカート。スヴェトラーナは女子学校生と同じ衣服を見にまとい、男子ばかりの雰囲気の中で目立っていた。
 彼女は愛らしい声をもっていて(のちに大学合唱団で歌うことになる)、肉体的な魅力にそれを加えていた。
 彼女は人気者で、活発で、ときには軽薄で、鋭い辛辣な言葉によって知られることとなった。
 スヴェトラーナは自分を崇拝する男子に不足することはなかったけれども、レフについては、何か特別な思いをもった。
 レフは背が高くも、体格が力強くもなかった。-彼の背の高さはスヴェトラーナよりも少し低かった。また、同世代の若い男たちのようには容貌に自信がなかった。
 彼は、当時の写真全部で、いつも同じ古い上衣を着ている。-当時のロシア様式で、最上部のボタンは留め、ネクタイをしていない。
 レフは、外観上は、男性というよりも、まだ少年だった。
 しかし、女の子のように、柔らかい青い眼とふっくらした唇をもつ、優しくて思いやりのある顔をしていた。
 (03) 第一学期の間、レフとスヴェータ(彼は彼女をこう呼び始めた)は、頻繁に逢った。
 二人は講義室で一緒に並んで座り、図書館でお互いにうなづき、新進の物理学者や技術者で成る同じサークルの方へと動いた。そのサークルの者たちは学生食堂で一緒に食事をし、図書館への入口に近い学生クラブ室に集まった。そこには、ある者はタバコを喫むために、他の多くはただ脚を伸ばしておしゃべりをするためにやって来た。 
 (04) のちにレフとスヴェータは、友人たちのグループから離れて、劇場や映画館に行くようになる。そしてそのあと、彼は歩いて彼女の家まで送ったのだが、スヴェータの家の近くにあるプーシキン広場からポクロフスキ兵舎までの庭園大通り沿いのロマンティックなコースを選んだ。この大通りは、夕方に恋人たちが散歩するところだった。 
 1930年代の大学生の世界では、婚約する以前の男女関係についての伝統的な考えがまだ残っていて、ロマンティックな礼節が尊重されていた。
 1917年以降のある時期には、性的な振る舞いの解放が喧伝されたけれども。
 モスクワ大学では、ロマンスは真剣で純真なものだった。通常は男女二人が多くの友人たちのグループから離れてから始まり、男子が女子をその家まで送っていくことから出発する。
 そのときが親密に二人きりで会話する好機で、たぶんときどきは、好みの詩を誦み合ったりする。詩は、愛に関する会話の手段として受容されていた。そして、彼女の家で別れる前には、キスをする機会があったかもしれない。
 (05) レフは、スヴェータが好きになって、自分は孤独ではないと知った。
 彼は、彼女を自分に紹介してくれたリャホフと一緒に、スヴェータがクレムリン近くのアレクサンドラ公園を歩いているのを見た。
 レフは遠慮して、スヴェータとの関係をリャホフに尋ねなかった。しかし、ある日、リャホフが言った。「スヴェトラーナ、あんな素晴らしい娘はいない。でも、とても頭がよい。恐ろしく頭がいい」。
 リャホフはそのようにして、自分が彼女の知性におじけづいていることをレフに伝えようとしたのだ。
 レフはすみやかに気づいたのだが、たぶんスヴェータは気紛れで、他人に批判的で、そして、自分と同じように賢くはない人間には我慢できなかったのだろう。
 (06) ゆっくりと、レフとスヴェータは親しくなった。
 レフは思い出す。二人にはともに「深い好意」が芽生えた、と。
 70年以上のちに自分の居間に座って、彼は最初の感情的な結びつきを思い出して、小さく微笑んだ。
 つぎの言葉を選ぶまで慎重に考えていた。
 「突然に恋に落ちたのではない。だが、深くて永遠につづくような親近さを感じた」。
 (07) 二人はついには、お互いを恋人だと考えるようになった。
 「私は他のどの女性にも一人では逢わなかったので、みんな、スヴェトラーナは自分の恋人だと分かった」。
 二人のどちらにもそのことが明確になったときがあった。
 ある午後、カラルメニュイのスヴェータの家近くの静かな通りを二人が歩いていたとき、彼女が彼の手を取って、「あちらに行きましょう。私の友だちに貴方を紹介するわ」と言った。
 彼らは行って、スヴェータの親しい友人たちに逢った。彼女の前の学校からの友人たちで、イリーナ・クラウゼは外国語学校でフランス語を勉強していた。アレクサンドラ・チェルノモルディクは、医学生だった。
 レフは、これは自分に対する彼女の信頼の証しなのだと理解した。親愛の徴しとして、自分の子ども時代の友人たちに逢わせてくれたのだ。
 (08) まもなく、レフはスヴェータの家に招かれた。
 イワノフ家は大部屋二つと台所のある私的な住戸を持っていた。
 -これは、スターリン時代のモスクワではほとんど知られていない贅沢なことだった。モスクワの標準的な共同住宅では、一家族について一部屋で、台所とトイレは共用だった。
 スヴェータと妹のターニャは、両親と一緒に一部屋で生活していた。
 娘たちは、折り畳むとベッドになるソファの上で寝ていた。
 娘たちの兄のヤロスラフ(「ヤラ」)は、妻のエレーナと一緒に別の部屋で生活していた。そこには大きな衣装箪笥、前面にガラスのある書籍棚、グランド・ピアノがあって、家族みんなで使っていた。
 イワノフ家の住戸には、高い天井と古風な家具があった。そして、労働者国家の首都であるモスクワの知識人たちが集まる、小さな島だった。
 (09) スヴェータの父親のアレクサンドル・アレクセイヴィチは50歳台半ばで、背が高くて髭を生やしていて、注意深い目と塩胡椒色の髪の毛をもっていた。
 老練なボルシェヴィキで、1902年にカザン大学の学生のときに革命運動に参加した。
 流刑に遭って収監されたが、のちにペテルブルク大学物理学部に再入学した。
 そこで、第一次大戦の前には、化学者セルゲイ・レベデフとともに合成ゴムの開発に従事した。
 1917年の十月革命の後は、ソヴィエトのゴム生産を組織する指導的な役割を果たした。
 だが、1921年に、党を去った。
 表向きの理由は体調の悪さだったが、実際には、ボルシェヴィキの独裁に幻滅するに至っていたからだった。
 彼はその後10年間、仕事のために2回、西側を旅行した。そして、1930年に、家族とともにモスクワに転居した。
 この頃は、五カ年計画がソヴィエト同盟を工業化するために施行中の真只中だった。
 また、「ブルジョア専門家」に対して、スターリンの最初のテロルの大波が襲っていた。そのときに、アレクサンドルの多数の友人や仕事仲間たちが「スパイ」とか「反逆者」だとかして非難されて、射殺されるか強制労働収容所へと送られるかした。
 アレクサンドルに外国旅行の経験があったことは政治的に危険だったが、彼は何とかして生き延び、ソヴィエトの工業のために仕事を続け、ロシア合成樹脂研究所の副所長にまでなった。
 彼の家族には、技術と科学の精神が染み渡っていた。子どもたちはみな、技術または科学を勉強するように言われて育った。ヤラはモスクワ機械建設研究所に進み、ターニャは気象学を勉強しており、そしてスヴェータは物理学部に通っていた。
 (10) スヴェータの父、アレクサンドルは、レフを歓迎して、家に招き入れた。
 父親は、もう一人科学者がいるのを愉しんでいた。
 スヴェータの母親は、もう少し疎遠で、控えめだった。
 アナスタシアは肉づきが良くて、ゆっくり動く40歳台半ばの婦人で、手の疾患を隠すために手袋を填めていた。
 彼女はモスクワ経済研究所のロシア語教師で、教育については厳格な態度をとった。
 アナスタシアは眼を上げて、厚い縁の眼鏡を通してレフをじっと見つめた。
 レフは長い間、母親には怯えていたが、彼とスヴェータの大学一年次の終わり頃に、全てを大きく変化させる出来事があった。
 スヴェータは欠席した講義のノートを、レフから借りていた。
 最初の試験のためにそれを返してもらおうとしてレフが来たとき、アナスタシアは彼に、貴方のノートはとても良いと思う、と告げた。
 多大なではないが小さな、そして予期していなかった褒め言葉だった。
 そして、母親の声の柔らかさで、レフは、アナスタシアに、つまりはスヴェータの家族の関門に、受け入れられた徴しだ、と感じた。
 レフは思い出して言う。「私はその言葉を、彼女の家に入る合法的パスのようなものだと理解しました」。
 「私はもっと足繁く、臆病にならずに、彼女たちの家を訪れました。」
 試験が終わったあとの1936年の長くて暑い夏、レフは夕方になるといつもスヴェータに逢いにくることになる。そして、自転車の乗り方を教えるために、ソコロニキ公園へと彼女を連れて行く。
 (11) レフがスヴェータの家族に受け入れられたことは、二人の関係にとってつねに重要な一部だった。
 レフには直属の家族がなかった。
 彼は1917年1月21日に生まれた。-世界を永遠に変えた二月革命の激変の直前だ。
 母親のヴァレンティナは小さな地方の公務員の娘で、幼いときに両親を喪ったあと、モスクワにいた二人の叔母に育てられた。
 彼女は市立学校の一つで教師をしていて、そのときに、レフの父親と会った。
 父親のグレブ・ミシュチェンコはモスクワ大学物理学部の卒業生で、そのときは、技師になるために鉄道研究所で勉強していた。
 ミシュチェンコとは、ウクライナの名前だった。
 グレブの父のフョードルは民族主義ウクライナ知識人の中の著名な人物で、キエフ大学で言語学の教授をしており、また、古代ギリシアの文章のロシア語への翻訳家だった。
 十月革命後、レフの両親はシベリアのベリョゾボという、トボルスク州の小さな町に引っ越した。その町のことを、鉄道技師としての調査旅行で知ったのだった。
 ベリョゾボは、18世紀以来の流刑地として、ボルシェヴィキ体制から遠く離れた場所で、比較的に豊かな農業地域にあった。
 また、モスクワにテロルと経済的な破滅を持ち込んだ内戦(1917-21年)を避けることのできる、良い位置にあったように見えた。
 家族はヴァレンティナの叔母とともに、大きな農民家庭の家屋の一室を借りて生活した。
 父のグレブは学校教師と気象学の仕事を見つけ、母のヴァレンティナも教師として働いた。
 レフは、母親の叔母のリディアによって育てられた。彼はこの叔母を「祖母」と呼んだ。
 彼女はレフに童話を語り聞かせ、神への祈りを教えた。レフは、生涯にわたって、このことを憶えていた。
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 ②へとつづける。

2170/折口信夫「神道に見えた古代論理」(1934)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 折口信夫「神道に見えた古代論理」(1934年)。p.416~の一部。
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。
 ***
 ・「神道の歴史において、一番に考えなければならない事は、神道の極めて自然に発生的に変化してきたという以外に、なお不自然に飛躍してきた部分のある事である。<中略>」
 ・「しかし、じつは我々の知識による判断であるから、自然的な或いは不自然的な発展過程だと明確に決め込むには、十分の警戒を要する事である訳だ。
 たとえば仏教が社会を規定していた時代には、仏教的な神道が生まれ、儒教が世間の指導精神となっていた時代には、儒教的な神道が現れたのである。
 がしかし、なおも陰陽道が盛んになる以前の古い時代においても、種族的な信仰としての陰陽道が神道にとり入れられ、神道の神学の一部を形成したこともあるに違いない。
 これは、じつは元来宗教的に何の立場もない神道として、如何ような説明でも出来たためである。
 だからその発達の途中にとり入れられたものでも、時代を経るに従うて自然的なものになって、後の神道観からは、こう言うものが神道の最初から存在し、発達してきたと見る事もあり、また観者の中には、神道の中にある陰陽道的要素或いは仏教的要素などをば、それだとするを潔しとしない者もあるのだ。
 従って我々には歴史の経過以外に、素朴なものの考えられ様はないのだから、神道要素として含まれている仏教・陰陽道・道教・儒教などをば取り除いて見れば、神道と考えられるものがなくなる訳である。
 と同時に、我々の神道に対する従来の先入主を取り去って考えなければ、結局神道についての正常な理解は得られないのみならず、事実、人間の思考においては最初の出発点について考えることは空想なのだから、不用意な推定には必ず誤りが混じてくるのである。」
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 折口信夫、1887年~1953年。

2169/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑥-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき、最終回。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑥。
 (51)1957年2月、毛沢東は、「人民間の矛盾について」と題する講演を行った。これは、毛が理論家だと評価される根拠になっているもう一つの主要な文章だ。
 この中で彼は、こう宣言する。我々は慎重に、人民内部での矛盾と人民とその敵の間の矛盾を区別しなければならない。
 後者は独裁によって、前者は民主集中制によって、解消される。
 「人民」の間に自由と民主主義が広がっても、「この自由は指導者の付いた自由であり、この民主主義は中央集権化した指導のもとでの民主主義であって、アナーキーではない。<中略>
 自由と民主主義を要求する者たちは、民主主義を手段ではなく目的だと見なす。
 民主主義はときには目的のように思われるが、実際には一つの手段にすぎない。
 マルクス主義が我々に教えるのは、民主主義は上部構造の一部であって、政治の範疇に属する、ということだ。
 ということはすなわち、結論的分析では、民主主義は経済的基盤に奉仕する。
 同じことは、自由についても言える」(<哲学に関する四考>, p.84-p.86)。
 このことから抽出される主要な実践的結論は、人民内部の矛盾は教育と行政的手法の巧みな連係で処理されなければならず、他方で人民と敵の間の矛盾は独裁によって、つまり実力(force)によって解消されなければならない、ということだ。
 しかしながら、毛沢東が別の箇所で示唆するように、人民内部の「非敵対的」矛盾は、正しくない考えをもつその構成員が自分の誤りを受け入れるのを拒むならば、いつか敵対的矛盾に転化するかもしれない。
 このことが最も分かるのは、毛のつぎのような党員たちに対する警告だ。すなわち、党員たちが速やかに真実を承認するならば、その彼らは容赦されるだろう、しかしそうしなければ、その彼らは階級敵だと宣告され、そのようなものとして処置されるだろう。
 人民内部の見解の対立に関して毛は、正しさと過ちを区別するための6つの標識を列挙する(同上、p.119-120)。
 人民を対立させるのではなく団結させるならば、そうした見解や行動は正しい。
 社会主義の建築に有益であり、有害でなければ、同様。
 人民の民主主義的独裁制を強固にし、弱体化させないならば、同様。
 民主集中制を強化するのを助けるならば、同様。
 共産党の指導的役割を支援するのを助けるならば、同様。
 国際的な社会主義者の団結と世界の平和愛好人民の団結にとつて有益であるならば、同様。//
 (52)民主主義、自由、中央集権制および党の指導的役割に関するこれら全ての言辞には、レーニン=スターリン主義正統派と矛盾するところは何もない。
 しかしながら、実際には差異があるように見える。
 この差異は、こうだ。中国では「大衆」が支配しているとの多数の西側毛沢東熱狂者たちが想像するような意味でではない。そうではなく、中国の党はソヴィエトの指導者たちよりも多く、命じるためのイデオロギー操作の方法を知っていたがゆえに、政府は協議にもとづくという雰囲気をより醸し出している、という意味でだ。
 これは、権威が疑われない革命の父が長期間にわたって存在し続けたことや、中国が圧倒的に農村社会だったことによった。後者は、農民指導者は彼らの領主でもなければならないとマルクスが言ったことを確認している。
 古い文化を代表する階級が実際に破壊され、また情報の流通路がソヴィエト同盟以上にすら厳格に規制されている状況では(毛沢東が述べた「正しい思想の中央集権化」だ)、中央政府の権力を侵犯することなく、地方的な政治や生産に関する多数の問題は正規の政府機構によってではなく地方の諸委員会によって解決することができる。//
 (53)「平等主義」は、たしかに毛イデオロギーの最も重要な特徴の一つだ。
 既述のように、平等主義の基礎は、賃金の差異を排除する方針や全員が一定の量の身体労働をしなければならないという原理にある(指導者と主要なイデオロギストたちは、この要求対象から除外されたと見えるけれども)。
 しかしながら、このことは、政治的な意味での平等に向かういかなる趨勢を示すものではなかった。
 今日では、情報を入手できることは基本的な資産であり、統治に関与するための<必須条件(sine qua non)>だ。
 そして、中国の民衆はこの点で、ソヴィエト同盟の民衆と比べてすら、大切なものを剥奪されている。
 中国では、全てが秘密だ。
 実際には、いかなる統計も公的には利用できない。
 党中央委員会や国家行政機関の諸会議は、しばしば完全に秘密裡に行われる。
 「大衆」が経済を統制するという考えは、上層部以外の誰も経済計画がどうなっているかすら知らない国では、西側にいる毛主義者たちの、最も途方もないお伽噺(fantasy)の一つだ。
 市民が公的情報源から収集することのできる外国に関する情報は最小限度のもので、市民の文化的孤立は完全だった。
 中国共産主義に対する最も熱狂的な観察者の一人であるエドガー・スノウは、1970年に訪中した後で、公衆が入手できる書物は教科書と毛沢東の本だけだ、と報告した。
 中国の市民たちはグループを組んで劇場に行くことができた(個人用チケットは実際に販売されなかった)。また、外部の世界についてほとんど何も教えてくれない新聞を読むことができた。
 他方で、スノウが注目したように、彼らには西側の読者は慣れ親しんでいる殺人、ドラッグ、性的倒錯に関する物語は与えられなかった。//
 (54)宗教生活は、実際には破壊された。
 宗教的礼拝に用いる物品の販売は、公式に禁止された。
 中国人は、一般選挙や警察機構から独立した公的な訴追部署のような、ソヴィエト同盟には残っていた民主主義的表装の多数の要素を、なしで済ませた。ソヴィエトの公的訴追部署は実際には、「正義」と抑圧の両方の執行者だったのだが。
 直接的な実力による強制の程度は、知られていない。
 強制収容所の収容者数について、粗い推測をする者すら存在しない。
 (ソヴィエト同盟ではより多く知られている。これはスターリンの死以降の一定の緩和の効果だ。)
 専門家たちが議論をすることが困難であるのは、中国の人口は大まかに4~5億人と見積もられているという事実からも明らかだ。//
 (55)中国以外に対する毛主義のイデオロギー的影響には、主に二つの起源がある。
 第一に、ソヴィエト同盟との分裂以降、中国の指導者は世界を「社会主義」国と「資本主義」国ではなく、貧しい国と豊かな国に分けた。
 ソヴィエト同盟は、上の前者の一つと位置づけられ、さらには毛沢東によると、ブルジョアが復活しているのが見られる。
 林彪は、「農村地帯による都市部の包囲」に関する赤色中国の古いスローガンを国際的規模で適用しようとした。
 中国の例はたしかに、第三世界諸国にとって明らかに魅力のあるものだ。
 共産主義の成果はっきりしている。すなわち、共産主義は中国を外国の影響力から解放し、多大な対価を払いつつ、技術的および社会的な近代化の途上へと中国を乗せた。
 社会生活全領域の国有化は、他の全体主義諸国でのように、人類を、とくに後進農業国家を汚染した主要な疫病のいくつかを廃棄するか、または軽減させた。疫病とはつまり、失業、地域的な飢餓や大規模な貧困状態。
 中国型の共産主義の模倣が実際に成功するか否かは、例えばアフリカ諸国でのその問題は、本書の射程を超えるものだ。//
 (56)毛主義の、とくに1960年代の、イデオロギー的影響力の第二の淵源は、ある程度の西側の知識人や学生たちが中国共産主義を表装とするユートピア的お伽噺を受容した、ということだ。
 毛主義はその当時に、人間の全ての問題を普遍的に解決するものとして自らを描こうと努めた。
 多様な左翼的なセクトと人々は、毛主義は産業社会の厄害を完全に治癒するものだと、そしてアメリカ合衆国と西ヨーロッパは毛主義の諸原理にもとづいて革命を起こすべきだし、起こすことができると、真面目に信じたように見える。
 ソヴィエト・ロシアのイデオロギー的権威が崩れ落ちていたとき、ユートピア切望者たちは、エキゾティックな東洋に注目した。それはじつに容易に分かるが、中国の事情に完全に無知だったことが理由だ。
 完全な世界と崇高で全包括的な革命を追い求める者たちにとって、中国は、新しい天の配剤のメッカとなり、革命的戦いの最後の大きな望みとなった。-中国がソヴィエトの「平和共存」という定式を拒絶していなかったとすれば、こうではなかった。
 多数の毛沢東主義グループは、中国が大きく革命的信仰心を捨てて政治的対抗者というより「正常な」形態に変化したとき、ひどく失望した。そして、毛主義がヨーロッパまたは北アメリカで現実的な勢力となるのを望むことを明確にやめた。
 西側諸国での毛主義は、既存の諸共産党の地位に顕著な影響を何ら与えなかった、というのは実際のことだ。すなわち、毛主義は何らかの帰結として共産党の分裂を引き起こさず、小さな細片グループがもつ特性にとどまった。
 また、東ヨーロッパでも、アルバニアの特殊な例を除いては、記すに値するほどの成果を生まなかった。
 その結果として、中国は戦術を変換し、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランドやコンゴと等価値の独立した救済策だとして毛主義を提示するのをやめて、ロシア帝国主義の仮面を剥ぐことや同盟を追求することに集中した。同盟の追及、あるいは何としてでも、ソヴィエトの膨張を阻止するという共通の利益にもとづいて、影響力を拡大することに。
 実際に、これははるかに見込みがある方向だ、と思える。毛主義のイデオロギーの問題ではなく、露骨に政治的な問題だけれども。
 マルクス主義の用語法はこの政策の追求のためにまだ用いられているが、それは本質的ではなく、装飾的なものだ。//
 (57)マルクス主義の歴史という観点からすると、毛主義イデオロギーが注目に値するのは、毛沢東が何かを「発展させた」のが理由ではなく、かつて歴史的に影響をもつものになったどの教理よりも無限定の融通性をもつことを例証したことが理由だ。
 一方で、マルクス主義は、ロシア帝国主義の道具になった。
 他方で、マルクス主義は、技術的経済的後進性を市場の通常の働き以外の別の手段によって克服しようとする、大国の上部構造にあるイデオロギー的固定物だった(多くの場合は、後進諸国が市場を利用するのは不可能だ)。
 マルクス主義は、強くて高度な軍事国家の推進力となり、近代化という根本教条のために臣民たちを動員すべく、その力とイデオロギー的操作装置が用いられた。
 これまで述べてきたように、たしかに、伝統的マルクス主義には重要な要素があり、それは全体主義的統治の確立を正当化するのに役立った。
 しかし、一つのことだけは、疑い得ない。つまり、マルクスが理解した共産主義は、高度に発展した工業社会の理想であって、工業化の基礎を生み出すために農民を組織する方法ではなかった。
 だが、マルクス主義の痕跡と農民ユートピアや東洋専制体制とを混ぜ合わせたイデオロギーを手段として、その目標は達成することができることが判明した。-このイデオロギーは、<すばらしくこの上ない>マルクス主義だと宣明し、ある程度は有効に作動する混合物だ。//
 (58)中国共産主義への西側称賛者が困惑しているというのは、ほとんど信じ難い。
 アメリカの軍国主義を強く非難する言葉を見出すことのできない知識人たちは、つぎのような社会について狂喜の状態に入っている。子どもたちの軍事教練が第三年から始まり、全ての男子市民は4年または5年の軍事労役を義務づけられる、そのような社会についてだ。
 ヒッピーたちは、休日なしの厳しい労働紀律を導入して、薬物使用は言うまでも性的道徳に関する清教徒的規範を維持する国家に惹かれている。
 ある範囲のキリスト教者の文筆家ですら、そうした制度を高く評価している。中国での宗教は、仮借なく踏みにじられたけれども。
 (毛沢東は後生を信じたように見えるのは、ここではほとんど重要でない。
 1965年、彼はエドガー・スノウに二度、「すぐに神に会うだろう」と述べた(Snow, 同上, p.89, p.219-220)。
 毛は同じことを、1966年の演説で語った(Schram, p.270)。そして、1959年にもまた(同上, p.154)、マルクスと将来に逢うことをユーモラスに語った。)//
 (59)中華人民共和国は、明らかに現代世界のきわめて重要な要素だ。とりわけ、ソヴィエト膨張主義の抑止という観点からして。
 しかしながら、この問題は、マルクス主義の歴史とはほとんど関係がない。
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 第6節、従って第13章はこれで終わり。

2168/J・グレイ・わらの犬(2002)⑩-第4章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.123-p.126。太字化は紹介者。(1), (2), (3)は秋月による。
 ***
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
 第1節・救済者(Saviours)。
 (1) 「仏陀は、万人が理解する苦悩からの解放(煩悩からの解脱)〔release from suffering〕を約束した。
 これに対して、だれも人間の原罪とは何かを説明できず、キリスト教の苦悩がどうして人の罪を償うことになるのか、理解してもいない。
 キリスト教はユダヤ教の一宗派(a sect)に始まった。
 初期の信者にとって、罪とは神の意志に背くことであり、罪深い人間に下される罰は世界の終末だった。
 この神話信仰(mythic beliefs)が、救世主(メシア)の人物造形に結実した。世界に懲罰を与え、篤信の少数に救いをもたらす神の使者である。」
 「キリスト教の開祖は聖パウロであって、イエスではない。
 パウロはユダヤ教の救世主信仰(Jewish messianic cult)をギリシア・ローマふうの神秘主義に塗り替えたが、自身の創始した信仰をユダヤ教の伝承から解放するまでには至らなかった。
 罪と償いの理念がユダヤ教の根幹をなす、というだけの話ではない。
 この考えがなかったならば、キリスト教が説く原罪の約束も、意味をなさない。
 人間に罪がないならば、救われるまでもないし、贖罪の約束も、悲痛に耐える身の支えにはならない。」
 (2) 「人類は自分たちを自由で覚醒した存在だと考えているが、じつはたぶらかされた動物(deluded animals)である。
 それでいながら、想像で作り上げた自分の姿から逃れようと足掻き続けている。
 その信仰(religions)は、手にしたこともない自由を打ち捨てる苦行である。
 20世紀には、右翼と左翼のユートピア思想がともに同じ機能を果たした。
 今日では、政治が娯楽(entertainment)としてすら説得力を失って、科学が救世主の役割を引き受けている。
 (3) 「おおかたの人間は救済者(saviours)を軽んじているばかりに、救済者から解放されることを願わない。
 人間が救済者を待ち望む以上に、明日の救済者の方がよほど人間を必要としているのである。
 人間が救済者に期待するのは気散じ(distraction)であって、救済の福音ではない。」
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 第2節以降へ。

2167/折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 p.41~。折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。青太字化は秋月。
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 ・「神話という語は、数年来非常に、用語例をゆるやかに使われて来ている。
 戦争中はもとより、戦争前からで、すでに広漠とした、延長することの出来るだけ、広い意味に使われていた。
 それは、ナチス・ドイツの用語をそのまま直訳したものであろうが、-<中略>-この神話という語も、そうした象徴風な受けとり方がせられている。」
 ・「私ども、民俗学を研究する者の側から考えると、神話という語はすこぶる範囲を限って使うべき語となる。
 普通に使われているより、さらに狭い意義なのだから、それとはよほど違うのである。
 神話は神学の基礎である。
 雑然と統一のない神の物語が、系統づけられて、そこに神話があり、それを基礎として、神学ができる。
 神学のために、神話はあるのである。
 従って神学のない所に、神話はない訳である。
 言わば神学的神話が、学問上にいう神話なのである。」
 ・「神代の神話とか神話時代とか、普通称されているが、学問上から言う神話は、まだ我が国にはないと言うてよい。
 日本には、ただ神々の物語があるまでである。
 何故かと言えば、日本には神学がないからである。
 日本には、過去の素朴な宗教精神を組織立てて系統づけた神学がなく、さらに、神学を要求する日本的な宗教もない。
 それですなわち、神話もない訳である。
 統一のない、単なる神々の物語は、学問的には、神話とは言わないこととするのがよいのである。
 従って日本の過去の物語の中からは、神話の材料を見出すことは出来ても、神話そのものは存在しない訳である。」
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 折口信夫について、以下の著に接した。
 植村和秀・折口信夫-日本の保守主義者(中公新書、2017)。
 斎藤英喜・折口信夫-神性を拡張する復活の喜び (ミネルヴァ書房、2019)。


2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
 //
 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
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 ⑥へとつづく。

2165/<売文業者か思想家か>。

 竹内洋・メディアと知識人-清水幾太郎の覇権と忘却(中央公論新社、2012)。
 これの中身も、全部かつて読んだはずだ。清水幾太郎の言論活動を批判的にたどっているのだろう。
 読売・吉野作造賞受賞第一作。
 単行本に付いている上の紹介よりも興味深いのは、オビ上のつぎの言葉だ。
 <売文業者か思想家か>(オモテ)。
 <この私にしても、まあ、一種の芸人なのです。まあ、笑わないで下さい>(ウラ)。
 後者は、確認しないが、清水幾太郎が書いたか発した言葉なのだろう。
 しかし、竹内洋自身は、<売文業者か思想家か>。そのどちらでもない、大学教授なのか。少なくとも「思想家」だとは思えない。大学教授だとしても、江崎道朗の本のいい加減さを指摘できないようでは、頼まれ仕事を良心的に行っているとは思えない。
 故西部邁は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>だと思っていたのだろうが、しかし同時に<売文業者>でもあっただろう。
 西尾幹二は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>のつもりでいるだろう。そう自称はしなくても、そう思われていたい、と思っているに違いない。西部邁も江藤淳も、西尾幹二にとっては、「気になる」<保守派知識人>のライバルで、西尾の文章の中にはこの二人に対する<皮肉・嫌み>もある。そして、いかんせん、読者の反応や売れ行きを気にする<売文業者>でもある。
 江崎道朗、櫻井よしこ。明らかに「思想家」ではない。そして政治目的のための<売文業者>にすぎない。
 八幡和郎? 「思想家」ではないのはもちろん、「知識人」ですらない。
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 なぜ<売文業>が成り立つか? 文章・知識・情報に関する「出版・情報産業」が「業」として成立し得るだけの<市場>が、日本にはあるからだ。
 そのような社会または国家は、世界のどこにでもあるのではない。
 たまたま人口や地域の規模、そしてほとんど「日本語」だけによる情報交換が成り立っている、日本は、そのような社会・国家だからだ。決して、世界に一般的でも、普遍的でもない。
 少なくとも江戸時代・幕末までの日本の「知識人」は、自分または所属団体(藩等)の「功名」のために文章を書き本を出版したかもしれないが、金儲け=生業としての「功利」のためには<思索・思想作業>をほとんど行わなかったように見える。相対的には純粋に、自分は<正しい>と考えていることを書いただろう。偽書、売らんがための面白物語の例が全くなかったとは言わないが。
 現在の日本の<評論・思想>界の低迷または堕落は、それがほぼ完全に「商業」の世界に組み込まれてしまっていることにあるだろう。
 その中でうごめいているのが、雑誌や書籍の「編集者」・「編集担当者」という、あまり広くは名前を知られていない、「情報・出版産業」の有力な従事者だ。
 テレビ番組を含めれば、(とくに報道・情報)番組製作の「ディレクター」類になる。
 雑誌・書籍の「編集者」・「編集担当者」(あるいはテレビ番組の「ディレクター」)。これらによって発注され、請け負っているのが、日本の現在の自営・文筆業者あるいは「評論家」たちだ。大学・研究所に所属して、それからいちおうの安定した収入があるか、江崎道朗、小川榮太郎等のように「独立」・「自営」しているかによっても、「売文」の程度とその中身は異なるに違いない。

2164/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節④-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義④。
 (32)毛沢東とその「急進派」グループは、1966年春、「ブルジョア・イデオロギー」が最も傷つきやすい場所、すなわち大学、に対する攻撃を開始した。
 学生たちは、「反動的な学問的権威たち」に反抗して立ち上がるよう駆り立てられた。学者たちは、ブルジョア的知識で身を固め、毛主義的教育に反対しているのだ。
 毛沢東が長く明瞭に語ってきた内容について、つぎのことが指摘されていた。
 教育を受ける代わりに、時間の半分は学習に、半分は生産的労働に捧げられるべきだ。教員の任命と学生の入学はイデオロギー上の資格または「大衆との連環性(links)」に従うべきであって、学問上の成績によるのではない。共産主義プロパガンダは、カリキュラムの中で最も重要な特徴になる。
 党中央委員会は今や、「資本主義の途を歩む」全ての者の排除を呼びかけた。
 官僚層が毛思想に口先だけで追従して実際にはそれを妨害したとき、毛沢東は、彼以前のどの国のどの共産党指導者たちもあえては冒険しなかった道へと進んだ。彼は、組織されていない若者たち大衆に、毛の反対派たちを破壊するよう訴えたのだ。
 大学や学校は紅衛兵分隊や革命の突撃兵団を設立し始めた。これらは、「大衆」へと権力を回復し、頽廃した党と国家の官僚機構を一掃すべきものとされた。
 大衆集会、行進、街頭闘争が、全ての大都市での日常生活の特質になった(農村部はまだ相当に広く免れていた)。
 毛のパルチザンたちは、「大躍進」が惹起していた不安や欲求不満を巧妙に利用し、それらを経済の失敗について責められるべき官僚たちに向け、資本主義の復活を望んでいると非難した。
 数年間、学校と大学の機能は完全に停止した。毛主義グループは生徒や学生たちに、社会的出自と指導者に対する忠誠さのおかげで、彼らは「ブルジョア」学者の知らない偉大なる真実の所有者だ、と保障した。
 このように鼓舞されて、若者たちの一団は知識をもつことだけが罪である教授たちを苛め、ブルジョア・イデオロギーの証拠を求めて教授たちの家を探し回り、「封建主義の遺物」だとして歴史的記念物を破壊した。
 書物は、まとめて焼却された。
 しかしながら、当局は慎重に、博物館を閉鎖した。
 闘いの呼び声は平等、人民の主権、「新しい階級」の特権の廃絶、だった。
 数カ月後、毛主義者たちは、そのプロパガンダを労働者に対しても向けた。
 このプロパガンダはもっと困難な対象だった。なぜなら、労働者階級のうち賃金が多く安定した部門にいる者たちは、賃金の平等を求めて闘ったり、共産主義の理想を掲げてさらに犠牲を被る、という気がなかった。
 しかしながら、ある程度の貧しい労働者たちは、「文化革命」のために動員された。
 こうした運動の結末は、社会的混乱であり、生産の崩壊だった。
 紅衛兵の中にある異なる分派や労働者たちはやがて、「真の」毛主義の名前でもってお互いに闘い始めた。
 暴力的衝突が多数発生し、秩序を回復するために軍が介入した。//
 (33)つぎのことが、明らかだ。つまり、かりに毛沢東が知の無謬の淵源である自分は全ての批判から超越したところにいる、よって反対者たちは自分を直接に攻撃することはできない、と考えてなかったならば、党の権益層を破壊するために党外の勢力に呼びかける、という危険なことをあえてはしなかっただろう。 
 かつてのスターリンのように、毛沢東自身が党を具現化したものだった。そして、そのゆえに、党の利益という名のもとで党官僚機構を破壊することができた。
 (34)疑いなくこの理由で、文化革命というのは、つぎのような時期だった。すなわち、すでに極端な程度にまで達していた毛沢東個人崇拝(cult)が、スターリンの死の直前のスターリン個人崇拝を-感じられるほどには可能でないが-凌ぐすらするほどの、グロテスクで悪魔的な様相を呈した、という時代。
 毛沢東が至高の権威ではない活動分野は、存在しなかった。
 病人は、毛の論文を読んで治癒した。外科医は「赤い小語録」の助けで手術を行った。公共の集会は、人類がかつて生んだ最も偉大な天才が創った金言(aphorism)を、声を揃えて朗読した。
 追従はついには、毛沢東を称賛する中国の新聞からの抜粋が、ソヴィエトのプレスに読者の娯楽のために論評なしで掲載される、という事態にまで達した。
 毛沢東の最も忠実な側近で国防大臣の林彪(Lin Piao)は(やがて裏切り者で資本主義の工作員だったと「判明」したのだが)、マルクス=レーニン主義研究に用いられている資料の99パーセントは指導者〔=毛沢東〕の著作から取られているはずだ、換言すれば、中国人は毛以外の別の出典からマルクス主義を学習すべきではない、と断言した。//
 (35)もちろん、称賛の乱舞の目的は、毛沢東の権力と権威が掘り崩されるのをいかなるときでも防止することだった。
 毛沢東はエドガー・スノウ(Edgar Snow)との会話で(スノウが<The Long Revolution>,1973年、p.70, p.205で言及したように)、フルシチョフは「彼には個人崇拝者が全くいないので」おそらく脱落する、と述べた。
 のちに、林彪の汚辱と死の後に、毛沢東は、個人崇拝という堕落の責任を林彪に負わせようとした。
 しかしながら、1969年4月、文化革命の終焉を告げる党大会で、毛沢東の指導者としての地位およびその後継者としての林彪の地位は、公式に党規約の中に書き込まれた。-これは、共産主義の歴史で未だかつてなかった事件だった。
 (36)<毛沢東主席の著作からの引用>である「赤い小語録」もまた、このときに有名になった。
 もともとは軍部用のものとして準備され、林彪が序文を書いていたのだが、すみやかに普遍的な書物となり、全ての中国人の基本的な知的吸収物となった。
 これは、市民が党、大衆、軍、社会主義、帝国主義、階級等、関して知っておくべき全てを包含する、加えて多数の道徳的および実際的な助言も付いた、民衆用の教理書(catechism)だった。例えば、人は勇敢かつ謙虚であるへきで逆境に挫いてはならない、将校は兵士を撃ってはならない、兵士は金銭を支払わずに商品を奪ってはならない、等々。
 これには、選び抜かれた訓示文がある。すなわち、「世界は進歩している、未来は輝いている、この一般的な歴史の趨勢を誰も変えることができない」、等々(<引用>, 1976年、p.70)。
 「帝国主義は、つねに悪事を行っているがゆえに、長くは続かないだろう」(p.77)。
 「工場は、徐々にのみ建設することができる。
 農民は、少しずつ土地を耕すことができる。
 同じことは、食事を摂ることについても当てはまる。<中略>
 一呑みでご馳走の全てを飲み込むのは、不可能だ。
 これは、漸次的(piecemeal)解決方法として知られている」(p.80)。
 「攻撃は、敵を破るための主要な手段だ。しかし、防衛なしで済ますことはできない」(p.92)。
 「自分を守り、敵を破壊するという原理は、全ての軍事原則の基礎だ」(p.94)。
 「ある者はピアノを上手に演奏し、別の者は下手だ。彼らが演奏する旋律には、ここに大きな違いがある」(p.110)。
 「全ての性質は、一定の量で表現される。量がなければ、性質もあり得ない」(p.112)。
 「革命的隊列の内部では、正しいか間違っているか、達成したか不足しているか、の区別を明瞭に行うことが必要だ」(p.115)。
 「労働とは何か?、労働とは闘争だ」(p.200)。
 「全てが善だというのは正しくない。なおも不足や欠点がある。
 しかし、全てが悪だというのも正しくない。これもまた、事実に合致していない」(p.220)。
 「僅かばかりの善を行うことは、困難ではない。
 困難なのは、全人生を通じて善を行い、悪を決して行わない、ということだ」(p.250)。//
 (37)文化革命の動乱は、1969年まで続いた。そして一定の段階で、状況を明確に統制することができなくなった。すなわち、多様な分派やグループが紅衛兵内部で発生し、それぞれが、毛沢東の誤りなき解釈なるものを主張した。
 革命の主要なイデオロギストの陳伯達(Ch'en Po-ta)はしばしば、パリ・コミューンの例を引き合いに出した。
 唯一の安定化要因は、軍だった。毛沢東は思慮深く、大衆の議論を管理するようには、また官僚化した指導者たちを攻撃するようには、軍を激励しなかった。
 地方での衝突があまりに烈しくなったときには、軍は秩序を回復させた。そして、地方の司令官たちは革命家たちを助けるのにさほど熱心ではなかった、ということは注記に値する。
 党の組織が大幅に解体してしまったとき、軍の役割は当然にますます大きくなった。
 劉少奇を含む主要な若干の人物を解任するか政治的に抹殺したあとで、毛沢東は、革命的過激主義者たちを抑制するために、軍を用いた。
 闘争の結果として変わった党指導層の構成は、多くの観察者にとっては、いずれの分派にも明確な勝利を与えない、妥協的な解決だったように見える。
 「急進派」は、毛の死後にようやく敗北することとなる。//
 (38)上述のように、1955年と1970年の間には、いくつかの重要な点でソヴィエトの範型とは異なる、新しい変種の共産主義の教理と実践で構成される毛沢東思想の展開があった。//
 (39)1958年1月に毛が宣言したように(Schram, p.94)、永続革命理論が毛沢東思想の根本的なものだ。
 文化革命が進行していた1967年、彼はこう述べた。この革命は一続きの無限の長さの最初の革命だ、そして革命の二つ、三つまたは四つが起きたあとでは全てが良くなっているだろうと考えてはならない、と。
 毛沢東は、安定すればつねに不可避的に特権と「新しい階級」が出現する、と考えていたように見える。
 従ってこのことによって、革命的大衆が官僚制の萌芽を摘み取る、定期的な衝撃的措置が必要になる。
 かくして明らかに、階級または対立がない確定された社会秩序は、決して存在し得ないことになる。
 毛沢東はしばしば、「矛盾」は永遠のもので、永続的に克服されなければならない、と繰り返した。
 ソヴィエトの修正主義者たちに対する毛の追及内容の一つは、その修正主義者たちは指導者と大衆の間の矛盾について何も語っていない、ということだった。
 劉少奇の誤りの一つは、社会は調和し統合するという未来を信じたことだった。
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 ⑤につづく。

2163/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節③-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義③。
 (19)毛沢東は、1959年7-8月の廬山(Lushan)党会議で自己批判の演説を行い(そのときはむろん公表されなかった)、「大躍進」が党の敗北だったことを認めた。
 彼は、経済計画について何の考えもなかった、石炭と鉄は自発的に動かないで輸送が必要であるとは考えていなかった、と告白した。
 彼は農村部での鉄精錬政策について責任をとり、国は厄災に向かっている、共産主義を建設するには少なくとも1世紀が必要だろうと見ている、と宣言した。
 しかしながら、指導者たちが誤りから学んだので、「大躍進」は全てが敗北なのではなかった。
 誰もが、マルクスですら、過ちを冒す。その場合に重要なのは、経済だけが考慮されるべきではない、ということだ。//
 (20)1960年には広く知られるようになった中国・ソヴィエト紛争は、とりわけソヴィエト帝国主義を原因とするもので、存在はしたものの共産主義の理想や実現方法に関する考え方の差異によるのではなかった。
 中国共産党は、スターリンへの忠誠を熱意を込めて表明するとともに、東ヨーロッパの「人民民主主義」の立場を受け入れる動向もまた示さなかった。
 論争の直接の原因は、核兵器に関して発生した。これに関して、ロシアは、中国が使用を統制する力をもつという条件のもとでのみ、中国に核兵器を所有させるつもりだった。
 ここで列挙する必要はないその他の論争点の中には、アメリカ合衆国に対するソヴィエトの外交政策および「共存」という原理的考え方があった。
 対立の射程は二つの帝国主義国のものであって、共産主義の二つの範型のものではない。このことは、中国はソヴィエトによる1956年のハンガリー侵攻を留保なく是認したが、-断交後のその20年後には-チェコスロヴァキア侵攻を激しく非難した、という事実で示されている。毛主義の観点からは、ドュプチェク(Dubček)の政策は途方もない「修正主義」で、リベラルな考え方による「プラハの春」はソヴィエト体制よりも明らかに「ブルジョア的」だつたのだけれども。
 のちに中国の二党派間の争論が内戦の間際まで進行したとき、両派はいずれも根本的には、換言すれば中国の利益と主体性の観点からは、同等に反ソヴィエトであることが明らかだった。//
 (21)しかしながら、ソヴィエトとの対立の第一段階で中国が示したのは、イデオロギー上の差異に重点を置いていること、新しい教理上のモデルを創って世界共産主義の指導者としてのソヴィエトを押しのけ、または少なくともモスクワを犠牲にして相当数の支持を獲得するのを望んでいること、だった。 
 ときが経つにつれて、中国は、自分の例に従うのを世界に強いるのではなく、ソヴィエト帝国主義を直接に攻撃することで好ましい結果を達成する、と決定したように見える。
 「イデオロギー闘争」、つまりは中国とソヴィエトの指導者たちの間での公的な見解の交換は、1960年以降に継続した。但しそれは、国際情勢に応じてきわめて頻繁に変化した。
 しかし、その闘いは容易に、第三世界への影響力を求める、対立する帝国間の抗争となった。それぞれの敵国〔であるソヴィエトと中国〕は、いずれかの民主主義諸国との<アド・ホックな>同盟関係を追い求めた。
 中国が採用したマルクス主義は、中国ナショナリズムのイデオロギー的主柱となった。同じことは、従前にソヴィエト・マルクス主義とロシア帝国主義の間にも生じたことだったが。
 かくして二つの大帝国は対立し合い、ともに正統マルクス主義だと主張し、「西側帝国主義国」に対する以上に敵対的になった。
 「マルクス主義」の進展は、中国共産党がアメリカ合衆国政府を、主として反ソヴィエト姿勢が十分でないという理由で攻撃する、という状況をすら発生させた。//
 (22)中国共産党内部の闘争は、1958年以降に秘密裡に進行していた。
 主要な対立点は、ソヴィエト型の共産主義を選ぶか、毛沢東の新しい完全な社会の定式を支持するか、にあった。
 しかしながら、前者は、モスクワの指令に中国を従わせるのを望むという意味での「親ソヴィエト」ではなかった。
 対立にあった特有な点は、つぎのように要約することができる。
 (23)第一に、「保守派」と「急進派」は、軍に関する考え方が違った。すなわち、前者は紀律と最新式の技術をもつ近代的軍隊を要求し、後者はゲリラ戦という伝統を支持した。
 これは1959年の最初の粛清(purge)の原因となり、その犠牲者の中には、軍首脳の彭徳懐(P'eng Te-huai)がいた。
 (24)第二に、「保守派」は多かれ少なかれソヴィエトに倣った収入格差による動機づけを信頼し、都市部と大重工業工場群を重視した。
 これに対して「急進派」は、平等主義(egalitarianism)を主張し、工業と農業の発展に対する大衆の熱狂的意欲を信頼した。//
 (25)第三に、「保守派」は、先進諸国にいずれは対抗することのできる医師や技術者を養成するために、全ての段階の教育制度の技術的専門化を主張した。
 一方で「急進派」は、イデオロギー的教化(indoctrination)の必要を強調し、この教化が成功するならば技術的工夫はいずれは自然について来るだろう、と主張した。//
 (26)「保守派」は、論理的には十分に、ロシアと欧米のいずれかから科学知識と技術を求めるつもりだった。
 一方で「急進派」は、科学や技術の問題は毛沢東の金言(aphorism)を読むことで解決することができる、と主張した。//
 (27)一般的には「保守派」はソヴィエト型の党官僚たちであり、技術的および軍事的な近代化と中国の経済発展に関心があった。また、全ての生活領域についての党機構による厳格で階層的な統制が可能だと考えた。
 「急進派」は、近づいている共産主義千年紀というユートピア的幻想に、相当に嵌まっているように見えた。
 「急進派」は、イデオロギーの万能さと、抑圧のための職業的機構によるのではない、「大衆」による(しかし党の指導のもとでの)直接的な実力行使を、信頼していた。
 地域的基盤について言えば、「保守派」は明らかに北京が中心地であり、「急進派」の中心は上海(Shanghai)にあった。//
 (28)両派はもちろん、1946年以降は揺るぎなかった毛沢東のイデオロギー的権威に訴えた。
 1920年代のソヴィエト同盟では同様に、全ての分派がレーニンの権威を呼び起こした。
 しかしながら、ソヴィエトと異なるのは、中国では革命の父がまだ生きており、その毛が「急進派」グループを支持したどころか、事実上はそれを創出した、ということにあった。その結果として、「急進派」構成員たちは、対抗派よりもイデオロギー的にはよい環境にいた。//
 (29)しかしながら、「急進派」は、全ての点についての有利さを活用しなかった。
 1959-62年の後退の結果として、毛沢東は、党指導者たちの中に強い反対派がいることを認めざるを得なかった。そして、彼の力は相当に限定されていたように思われる。
 実際に、ある範囲の者たちは、毛沢東は1964年以降は現実的な権威たる力を行使していなかった、と考えている。
 しかし、中国の政治の秘密深さのために、このような推測は全て、不確実なものになっている。//
 (30)主要な「保守派」は劉少奇(Liu Shao-ch'i)だった。この人物は、1958年末に毛沢東から国家主席を継承し、1965-66年の「文化革命」で資本主義の魔王だとして告発され、非難された。
 彼は共産主義教育の著作の執筆者で、この書物は別の二冊の小冊子とともに、1939年以降は党の必読文献だった。
 その四半世紀後、このマルクス=レーニン=スターリン=毛主義の誤謬なき発現者は、突如として、儒教(Confucianism)と資本主義に毒された人物に変わった。
 批判者たちの主人によると、劉に対する孔子の有害な影響は主につぎの二つ点に見られる。
 劉少奇は、仮借なき階級闘争ではなく、共産主義的自己完成という理想を強調した。また、共産主義の未来は調和と合致だと叙述した。にもかかわらず、毛沢東の教えによれば、緊張と対立は永遠の自然法則だ。//
 (31)1965年末に党内部で勃発して中国を内戦の縁にまで追い込んだ権力闘争は、かくして、対立する派閥間のみならず、共産主義の見方の間の闘いでもあった。
 「文化革命」は一般には 毛沢東が書いて1965年11月に上海で出版した論文によっで開始された、と考えられている。その論文は、北京副市長の呉晗(Wu Han)が作った戯曲を、毛沢東による彭德怀(P'eng Te-huai)の国防大臣罷免を歴史の寓話を装って攻撃するものだと非難した。
 この論文でもって文化、芸術および教育への「ブルジョア的」影響に反対し、国家の革命的純粋さを回復して資本主義の復活を阻止する、そのような「文化革命」を呼びかける運動が、解き放たれた。
 もちろん「保守派」はこの目標に共鳴したけれども、確立されている秩序や自分たちの地位が攪乱されないように、その目標を解釈しようとした。
 しかしながら、「急進派」は何とか、党書記で北京市長の彭程(P'eng Cheng )の解任と主要な新聞の統制を確保し、獲得した。//
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 ④へとつづく。

2162/「邪馬台国」論議 と八幡和郎/安本美典⑦。

 A/安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 安本のこれ以前の文庫・新書本にも同種の図表があるが、これが最も分かり易いようだ。
 B/安本美典・古代年代論が解く邪馬台国の謎(勉誠出版、2013)。
 これにも、安本の同旨の<年代論>が述べられている。
 以下、原則としてAによって、日本の天皇の時代・代数別の在位平均年数の資料を紹介する。
 p.122に、最も簡明な、1988年刊行の新書=同・新版/卑弥呼の謎(講談社)にもあった、つぎの図表が載せられている。
 (1)日本の天皇の平均在位年数(その1)。
  A/17~20世紀・17天皇・延べ379年-平均22.29年
  B/13~16世紀・29天皇・延べ453年-平均15.62年
  C/09~12世紀・33天皇・延べ404年-平均12.24年
  D/05~08世紀・20天皇・延べ218年-平均10.88年
  第31代とされる用明天皇~第124代とされる昭和天皇までの99天皇・延べ1454年が対象とされる。
  総平均は、14.69年だ。
  それ以外の各時代の最初・最後の各天皇名等は、明記されていない(代数の数字とおおまかな世紀数で探ってみると判明するかもしれないが、その作業は省く)。
  いずれにせよ、時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる。
 (2)時代別平均在位年数(その2)。
 p.263とp.264には、別の分類による、平均在位年数の図表がある。
 前者は第32代崇峻天皇以降を「歴史的事実」とする図表があり、後者には、第22代清寧天皇~第31代用明天皇を「準歴史的事実」として加えた図表がある。
 これらを併せると、つぎのようになる(つまり後者と同じ)。
  A/徳川時代+現代  ・17天皇-平均21.90年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均15.11年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.63年
  D/崇峻天皇+奈良時代・18天皇-平均10.78年
  E/清寧天皇~用明天皇・10天皇-平均10.07年
 時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる、という結果に変わりはない。
 Aは、108代・後水尾天皇~124代・昭和天皇(17代)。Bは、第83代・後鳥羽天皇~第107代・後陽明天皇(25代)。Cは、50代・桓武天皇~81代・安徳天皇(32代)。Dは、32代・崇峻天皇~49代・光仁天皇(18代)。Eは、22代・清寧天皇~31代・用明天皇(10代)。これらのうち、C~Eについては、明記がある。
 第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)の扱いが秋月にはよく分からないが、詮索を避ける。
 また、安本の上のB著(2013年)p.90には、上とやや分類が異なる図表がある。卑弥呼~雄略天皇を省略して、紹介しておく。
  (3)平均在位年数(その3)。
  A/徳川時代+現代  ・18天皇-平均22.28年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均16.13年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.69年
  D/飛鳥時代+奈良時代・29天皇-平均10.36年
  Dは、21代・雄略~30代・敏達と明記されている。従って、(その2)のEと対象が異なる。ここでのA・Bが(その2)と異なるのは、Aに107代・後陽明天皇を、Bに82代・後鳥羽天皇を含めているためではないか、と推察される。
 ところで最後に、安本の上の著A(2003)には、「新しく定義しなおし」た計算にもとづくとされる図表が掲載されている。
  (4)天皇の一代平均「在位年数」(その4)。
 A/106正親町~124昭和天皇 ・代差18・年計402年01月・平均年22.34。
 B/082後鳥羽~106正親町天皇・代差24・年計388年10月・平均年16.20。
 C/049光仁 ~082後鳥羽天皇・代差33・年計416年10月・平均年12.63。
 D/031用明 ~049光仁天皇 ・代差18・年計193年11月・平均年10.77。
 古い時代ほど、天皇一代の年数は短くなる。
 上の「計算」で新しい旨が明記されていると見られるのは、①在位期間を年のみならず月単位まで計算していること(8カ月で0.67年、10カ月で0.83年になる)、②旧暦(和暦)を(月も)新暦で計算し直していること、だろう。
 但し、031代-(差18代)-049代-(差33代)-082代-(差24代)-106代-(差18代)-124代、という表記の仕方をしているので、各時代がどれどれの天皇の在位期間を考察・計算対象にしているのかが、必ずしもよく分からないところがある(厳密にフォローすれば明瞭になるのかもしれない)。
 なお、以上の全てについて、重祚の場合は2代と数えられている。
 南北朝時代については、きちんと確認しないが(安本美典による明示的論及はない)、正統と(明治期以降に)される南朝側の諸天皇とその在位期間のみを対象としているように思われる。
 ***
 安本美典著を見て、読んできただけで、自ら計算してみようと思ったことはこれまでなかった。
 安本著には厳密には分かりにくい点もあるので、秋月が自分で計算して、表を作ってみよう。
 ①皇統譜上の代数表記による。②重祚は2代とする。③南朝側の天皇のみを対象とする。
 ④講談社・天皇の歴史各巻所載の「歴代天皇表」上の在位期間による。在位期間は「月」を無視して、「年」のみを考慮する。例えば、1000年12月~1010年2月の場合、実際には9年3月であっても、在位年数は11年となる。
 ⑤上に在位期間の記載のある第29代・欽明天皇から第123代・大正天皇までを対象とする。この間の代数は、123-29+1=95だ。大正天皇までとするのは、大きな意味があるのでなく、昭和天皇の60年超の在位が明らかに平均年数を高める要因になるだろうことを考慮したにすぎない。
 ⑥つぎのように時代区分する。おおよそA/江戸以降、B/鎌倉以降、C/平安時代、D/それ以前(欽明以降の飛鳥+奈良)だ。
 ⑦安徳天皇退位は1185年、後鳥羽天皇即位は1183年なので、3年の重複があるが、そのまま計算する。
 A/123代・大正天皇~108代・後水尾天皇、代数(123-108+1)は16。
 B/082代・後鳥羽天皇~107代・後陽明天皇、代数(107-082+1)は26。
 C/050代・桓武天皇~081代・安徳天皇、代数(81-50+1)は32。
 D/029代・欽明天皇~049代・光仁天皇・代数(49-29+1)は21。
 上の前提のもとでの、秋月瑛二の計算
 A/大正~後水尾・16代・年数243年・一代平均年-19.75年。
 B/後鳥羽~後陽成26代・年数429年・一代平均年-16.50年。
 C/桓武~安徳・32代 ・年数405年・一代平均年-12.65年。
 D/欽明~光仁・21代 ・年数243年・一代平均年-11.57年。
 上の注記の④にあるように、在位年数は実際よりも少し大きくなり、従って平均年数も実際よりも少し大きくなっているだろう。
 しかし、古い時代ほど平均的な天皇在位期間は短くなり、欽明天皇頃になってくるとほぼ10年~12年だ、ということが分かる。
 そうすると、もっと前の古代天皇の在位期間の平均は、9-10年まで下がってくるのではなかろうか?
 ***
 八幡和郎の「頭の中」には、こういう、天皇在位平均年数という考慮要素はない。
 まず、改めて、応神天皇から崇神天皇までの、出生・即位、在位年に関する、八幡和郎と安本美典の違いを示してみよう。
 八幡については、八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)による。安本については、改めて上の著(2003)Aのp.260-1の図表(横グラフ)から目視した(すでに紹介した安本推測と①と②でやや異なる)。安本の仲哀期は、神功皇后称制期をも含む。。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位410年~424年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~410年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ⑤11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑥10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年。
 崇神天皇について、約100年の違いがある。
 ***
 八幡和郎は、つぎの著では、神武天皇の時代も推測していた。
 八幡和郎・八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 これのp.30-1によると、「神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 前段は神武を「西暦紀元前後」と見ている。この根拠は分かりにくいが、この頃の天皇の即位後の生存年数または在位年数を約「25年」と見ているのが根拠である可能性が高い。
 上の表に見られるように、八幡は、12代・景行から10代・崇神まで「25年」間隔で皇位継承された、と推定しているからだ。
 これを崇神以前にさか上らせた出生年は、9代・紀元185年、8代・160年、7代・135年、6代・110年、5代・85年、4代・60年、3代・35年、2代10年、初代・神武紀元前15年となる。この神武の紀元前15年出生というのは、紀元前後に神武が即位した(初代天皇として)という推定の、有力な計算根拠になり得るかもしれない。
 しかし、この「25年」というのは八幡独自説ではなくて、明治以降の複数の学説が示してきたものだ。かつまた、神武即位は紀元前後というのは、那珂通世およびこれを支持した学者たちと全く一致している。八幡和郎が「自分の頭」から生み出したものでは全くないと推察される。
 上の後段は、神武~10代・崇神という10代の「実在」を、<三王朝交替説>の影響によるのかどうか、さっそく?疑問視している。この人物に定見はないのだろう。
 また、安本美典は「在数」と「世数」を区別しているが、直系男子継承(父子継承)であって初めて、「25年」の隔たりで天皇が交替していく、ということが言える。
 日本書記によると、21代・雄略天皇は16代・仁徳天皇よりも「5代」あとの天皇だが、雄略は仁徳の孫とされるので「3世」の子孫だ。「5代将軍」徳川綱吉は、徳川家康の曽孫で「4世」の孫。
 八幡和郎は神武以降の「実在」を肯定しつつ「直系男子」(父子)継承とすると奇妙だと感じているのだろうか。
 かりに初代~10代・崇神までの「全」天皇が実在していたとしてすら、全てが父子継承ではなかったとおそらくほぼ断言できるので(安本美典も同じ)、単純に25×9または25×10年さかのぼらせて神武の時代を推定しようとすること自体が、「思考方法」として間違っているだろう。
 それにそもそも、15代・応神~10代・崇神を原則として在位「25年」で継承したとするのも、安本美典説を知っていれば、安本の推定根拠の重要な部分も上で示したように、そもそも間違っている可能性が高い。
 もともとは、八幡和郎による応神天皇出生346年という「基準年」自体が間違っているだろう(なぜか八幡は外国文献である<新羅本紀>の記載年・記載事項を「そのまま」信じ、かつそれだけを利用している、という問題もある)。
 加えて「25年」説を採用したのでは、各天皇の実際の在位時期は、ますます古くなりすぎているだろう、と推察される。
 これはシロウト秋月瑛二の幼稚な推測だが、15代・応神~10代・崇神の間は9~11年、それ以前は6~9年ごとに、「大王」・「天皇」は交替したのではないだろうか。
 安本美典の推定はこれに比べると穏便で、上の著p.260-1の表は、あくまでさしあたりなのだが、清寧~用明は平均在位年数・10.07年、卑弥呼~雄略は平均在位9.45年としてグラフを作ったうえで、さらにその他の諸考慮要素を含めて、最終的な「推測」、「安本案」にしている。
 八幡和郎の「頭の中」は、中学校の高学年か高校生くらいなのではなかろうか。
 原史資料を日本書紀を除いては読まず、主立った関係文献のうち通説または有力説だけを調べて、八幡和郎程度の「推測」は可能だろう。参照文献を一切載せることなく、まるで「自分の頭」でゼロから考え出したフリをすることも可能なのだ。
 八幡和郎の崇神天皇年代論にもとづくと、容易に(八幡は北九州説なので見向きもしていないが)、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説(箸墓=倭迹迹日百襲姫陵=卑弥呼の墓説)も出てくる。これにはまた別に言及するだろう。

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

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