秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2018/09

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
 ***
 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

1849/池田信夫のブログ、例えば9/21から。

 池田信夫のブログは、その日のうちにたいてい読んでいる。
 圧倒する印象は、頻度、投稿の回数の多さだ。
 そのうち、第一に、原子力、経済政策、放送・通信あたりの議論は、こちらに専門知識がないか乏しくて、お説拝聴という場合が多い(原発再稼働問題は除く)。
 第二に、ときに、間違い、簡単すぎる、と感じることもある。
 典型は、もう古くなったが、自然災害-水害対策としての土地利用規制計画の見直し、<危険地帯に住まない>方向への誘導を説いていた、7/23だ。
 土地利用規制計画の見直しは一般論としてはそのとおりだが、特定の地域への居住を禁止して転居?に補助金を、とかの政策の実施は、おそらく「私的財産権」の利用制限(または剥奪)とそれに対する補償の必要の関係で、実現不可能であるか、相当の立ち入った計算・見込みがないとほとんど無理だろう。
 その中には、災害発生の「確率」(リスクあるいはハザード)の問題、日本における「私的財産権」絶対意識の強さも視野に入れなければならない。
 第三に、最も多いのは、適度に想念や思考を刺激してくれるものだ。
 池田が何らかの文献・書物を紹介しながら書いている文章は、アマゾンとの関係でいくらの収益をもたらしているのか知らないが、そして池田自身の言葉かそれとも当該書物の内容に沿ってたんに紹介しているのかが不分明であるときがあるのがタマにキズ?だが、思考を適度に刺激してくれる。
 とりわけ、広く歴史や「学問」にかかわるものだ。
 トルーマンによる日本への原爆投下に関する、8/15、9/17もそうだ。
 いちいち書き出すとキリがない。
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 江戸時代から戦前日本までの欧米との対比は池田の関心でもあるようで、9/21の「実学」関係も、「科学・学問」にもかかわって興味を惹く。
歴史上ほとんどの学問は既存の価値体系にもとづいて新しい事実を解釈する技術であり、大事なのは体系の整合性だけなので、それを脅かす異端を排除すれば、学問の権威は守れる」。
 この文章は含蓄、含意が多い。これをすっと書いたのだとすると、相当のものだ。
 「天動説は…『反証』されたが、それによって否定されなかった」。
 「キリスト教とアリストテレスを組み合わせた神学大系」でたいていは説明できたが、「植民地支配」の結果として、「実証主義」等の新しい<理論>が必要となり、生まれた。
 以上は、池田からの引用か、その要旨。
 キリスト教的ヨーロッパによる<異文化>との接触こそが新しい<理論>動向を生んだ。
 マクロにはそうなのかもしれない。その大きな潮流の中に、マルクスもおり、マルクス主義もあったに違いない。
 福沢諭吉はかつての観念大系=「実学」そのもの、「身分制度」正当化、の儒学を捨てて「洋学」に向かった、と池田は記す。
 儒教・儒学・朱子学あたりは「明治維新」を生んだイデオロギーだとされもするので、このあたりはなかなか複雑だ。「天皇」と明治維新。
 池田によると、丸山真男に依拠しているのか、福沢が「下級」武士出身だったからこそ、上のようにできた。
 もっとも、そこで「明治維新の元勲と同じく、」と書かれてしまうと、「明治維新の元勲」たちのもった「イデオロギー」は何だったかに関して、疑問が出なくもない。
 五箇条の御誓文の最終案をまとめたのは木戸孝允(桂小五郎)だとされ、この人物も「明治の元勲」の一人だろう、たぶん。
 しかし、木戸は決して「下級」武士ではなかったと思われる。
 萩(山口県)に木戸の旧宅も残っているが、藩医(典医)だった父親のその邸宅はとても「下級」武士のものだったとは感じられない。
 もっとも、木戸孝允は、明治6年政変(「征韓論政変」)頃にはすでに、精彩を欠いている。
 木戸(桂)の当初の「夢」に対して、維新の「現実」はどうだったたのだろうか、という関心も持つのだが、池田信夫を契機とする今回の駄文はここまで。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
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 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
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 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
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 以上。

1847/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ③。

 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのだろうか。
 櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。
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 以上は、この欄の2017/04/05付、<1485/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ②>の最後の部分。
 上にいう根拠文献を見つけたので、以下に記して、関連したことを書く。
  櫻井よしこ編・あなたの個人情報が危ない!(小学館文庫、2002.11)。
 これは、住民基本台帳法の改正(・個人情報保護法の制定等)による住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の導入に反対するための「書き下ろし」の文庫本だ。
 櫻井よしこが編者として一人だけ名前を出し、櫻井よしこが「ジャーナリスト」という肩書きで「はじめに」を書いている。
 この「住基ネット」反対運動の書物に櫻井以外に21名が執筆している。そして、近年のいわゆる<保守系月刊三誌>に(しばしば)登場するするような論者は一人もいない。
 むしろ、私から見ると、「左翼」または「左派系リベラル」と感じる者の方が多い。
 例えば、澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信
 名前を現時点でも知らない人が8名いるので、21-8=13名のうちのこれら7名は、れっきとした「左翼」または「左派系リベラル」だと思われる。
 残る6名は、田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一、鈴木邦男、山田宏
 内容への細かな言及はしない。冒頭に記したように「住基ネット」導入に反対するもので、かつ実際にこのときは、上を含む関連法律の改正等はなされず、導入はされなかった、とだけ述べておく。
 気になるのは、櫻井よしこなる人物は、この頃いったい何をしていたかだ。
 現在も一貫しているようだが<自衛隊は違憲だ>から出発すべきだ、とも書いていた(憲法学者の大半と同じ?。だからこそ<九条2項存置自衛隊明記>論は「法理論的にはともかく」「現実的だ」という議論の仕方になる-2017年5月頃)。また2001年施行予定の情報公開法に対してもかなり技術的な点を指摘して批判をしていた。
 要するに、「澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信」といった人々のいわば代表者となり、「田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一」等の人々と共通する目的で仕事をすることを全く疎んじていなかった人物だ。
 2000年前後から2005-2007年頃の間に、櫻井よしこは<転身>した。それも、日本会議または日本会議関係者の「働きかけ」あるいは「引き抜き」によって、というのが秋月瑛二の拙い推測だ。
 なお、「左翼」・「左派系リベラル」から日本会議や櫻井よしこがいう意味での「保守」へと基本的立場を変えること自体を批判しているのではない。
 ①そのような<転身>を櫻井よしこ自身はいかほどに自覚・意識しているのか。
 ②そのような<転身>の理由・背景・原因をこの人自身はこれまでどのように説明しているのか。
 ③現在に櫻井よしこを「長」として又は「論壇の代表者」のごとく仰ぐ又は「かついで」いる人々は、櫻井よしこのこれまでの姿をいかほどに知っているのか。
 これらが気になり、危うい、と感じるだけだ。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1845/自民党<自衛隊憲法明記>案では自衛隊は合憲にならない。

 一 自民党の大勢または多数議員は2017年5月3日に突如打ち出された安倍晋三総裁私案に、またはその基本的趣旨に賛成し、日本国憲法9条を改正したいようだ。
 その際、現9条第1項と第2項はそのまま存置し、9条の2を新設して、そこに「自衛隊」を明記して、<自衛隊の合憲化>または<自衛隊の合憲性論争に終止符を打つ>ことを意図しているらしい。
 マス・メディアの報道によっても、しかし、まだ9条の2の正規の文案(条文案)は確定的には伝えられていないようだ。
 だが、おおよそのところ、例えば下のAまたはBのようなものらしい。①と②は項。
 A「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 B「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 このAとBの基本的な違いは、①で、自衛隊につきA「必要な自衛の措置をとる~ための実力組織」と書くか、B「~のための必要最小限度の実力組織」と書くかだ。
 しかし、どちらにせよ、第一に、そのように若干の説明または目的を記したうえで「自衛隊」なるものの「保持」を明記しようとするものに変わりはない。
 第二に、いずれも「法律の定めるところにより」として、「保持」の前提としての設立とその維持、つまり「保持」については「法律」が定めるとしている点で、変わりはない。
 二 このような案では自衛隊を合憲のものにすることは、絶対に不可能だ。
 昨年夏に諸案を批判したが、そのうち、上の案に最も近いのが、百地章の案・考え方だった。
 百地章に対する一年前の批判がそのまま、あてはまる。
 簡潔に記そう。
 ①自衛隊の正確な又は具体的な姿は上にいう「法律の定めるところ」を見なければ、憲法上はまださっぱり分からない。
  ②憲法上明確なのは、第一に、「軍その他の戦力」であってはならないこと(現9条2項)のほか、第二に、新設条文により、自衛のための「必要な実力組織」または「必要最小限度の実力組織」という性格づけに反してはならないこと。
 ③自衛隊の正確な又は具体的な姿(組織・編成・人員・活動等々)を定める「法律」は上の②の制約を受ける。とりわけ現9条2項にいう「軍その他の戦力」であってはならない、という制約を受ける。
 ④自衛隊関連法律が新設されるにせよ、自衛隊関連現行法律(および政令・省令等)が維持されるにせよ、それらが「軍その他の戦力」であってはならない、という制約の範囲内のものであるか否かは、永続的に問われ続ける。
 ⑤よって、上のような9条の2新設案で、自衛隊の合憲性の問題が解消するはずがない。
 なお、上の新設9条の2の②に明確には論及しなかったが、新設条の二項は「自衛隊の行動は、法律の定める~」と定めているのだから、上と全く同じことが妥当する。
 上にいう「法律」の現九条2項適合性が、つねに問われ続けるのだ。
 三 そうだとすると、「自衛隊」という概念と一定の説明・目的の言葉を残して、<法律の定めるところにより>という字句を削除すればよい、との考え方をすぐに思い浮かべる者もいるはずだ。
 しかし、これでも、「自衛隊」なるものを合憲視することはできず、合憲性論争は続く。
 日本会議の伊藤哲夫・小坂実等々の頭脳では理解不能なのかもしれないが、いちおう、簡潔に書いておく。
 ①憲法上の「自衛隊」は、当然のこととして現9条2項に抵触しないものである必要がある。そのようなものとしてのみ、新設条文は「自衛隊」を許容するはずである。
 ②よって、そのような憲法上の「自衛隊」の範囲内に、実際の、現実の(法令上の)自衛隊がとどまっているか否かは、永続的に問われ続ける。
  ③要するに、憲法上の「自衛隊」と、現行法制上の「自衛隊」または今後改正によってその具体的な態様は変動しうる「自衛隊」、とが同じであるはずがないのだ。
 四 一年前の夏に書いたことをいっさい変更する必要を感じていない。
 また、上の大きくは二点につき、ほとんど確信に満ちた自信をもっている。<ほとんど>とは一種の修辞で、実際には100パーセントだと言ってよい。
 少しでも憲法解釈、憲法と「法律」の関係、憲法・「法律」間解釈の作法を知っている者であれば、誰でも、こういう結論になるだろう。弁護士その他法曹資格を持つ者ならば分かるはずだ。
 しかし自民党の中でも大きな声になっていないようであるのは、<ともかく改憲>派、<できるだけ早く改憲>派に、政治的に遠慮しているからだろう。
 <改憲>という言葉・概念のトリック・魔力にひっかかっている政治運動団体があるからだろう。
 憲法に「自衛隊」という言葉さえ入れば<自衛隊>は(実際の自衛隊も)合憲になる、と考えている「アホ」丸出しの政治運動団体があるからだろう。
 大切なのは、<改憲か護憲か>ではない。<どのように改憲するか>だ。
 あるいはそもそも、現在の自民党案では<改憲>にならない。自衛隊の合憲性問題を、却って大きく意識させ、浮上させるだけだ。
 そしてまた、現在の自民党案では、「自衛隊」なるものが「軍・戦力」になることを半永久的に否定することになる。これも大きな弊害だ。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1843/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」②。

 レシェク・コワコフスキがのちの『マルクス主義の主要潮流』を執筆し始めたのは彼が41歳のときだとされ、ポーランド語版と英独語版のPreface が同じ時期に書かれているとすると、その1976-78年は、彼が49-51歳のときだった。
 そのPreface (緒言、はしがき)は大著を公刊・公表するに際しての緊張に打ち震えているうな印象もあり、(自信があるためもか)細かな釈明的な言辞をあらかじめ記している。2004年にそれがどうなったかは別として、彼が50-51歳である1977-78年頃に執筆されたと見られるEpilogue (エピローグ、あとがき)は、全三巻の執筆を終えてすでに印刷にかかっている時期で一定の安堵感があるためなのかどうか、緒言(はしがき)に比べると、L・コワコフスキの「本音」的部分がかなり明らかにされているように感じる。
 むろん、学術研究的文章ではないので、正確で厳密な意味は把握し難い。やや感情的に、簡潔に言いたいことを書いておこうとしたような印象がないでもない。
 それでもしかし、この人物の<基本的な>姿勢を感じ取ることはかなりできそうに思える。
 それにしても、以下の文章は1978年頃のもので、今は2018年。40年が経過している。
 この40年間、私の知る限りでは、以下の文章の邦訳はなく、上の書物全体の翻訳書も日本では刊行されなかった(但し、英文等で読んだ「知識人」・「専門研究者」はきっといただろう)。
 この日本の40年間の「現実」は、もはや変えることができない。
 以下、試訳のつづき。原文にはない段落ごとの番号を付している。
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 エピローグ(あとがき、Epilogue)②。第三巻523-530頁のうちの527頁以下。
 (7) マルクスはさらに、そのロマン派的夢想を、全ての必要は地上の楽園で完全に充たされるという社会主義の予想と結びつけた。
 初期の社会主義者たちは、「各人にその必要に応じて」というスローガンを限られた意味で理解したように見える。人々は寒さや飢えで苦しんではならず、あるいは極貧の中で空腹で生活してはならない。
 しかしながら、マルクスおよび彼に倣ったマルクス主義者は、社会主義のもとでは全ての欠乏が存在しなくなると想定した。
 全ての人間は、魔法の指輪か従順な精霊をもつかのごとく、全ての欲求を充たすことができる。このようにきわめて楽観的に考えて、希望を思い抱くのは可能だった。
 しかし、これを真面目に受け取ることはほとんどできないため、問題を熟考したマルクス主義者たちは、相当程度はマルクスの著作に支えられて、共産主義は、人間の本性と合致する、気まぐれや願望では全くない「本当の」または「真正の」必要を充足させるのだと決着させた。
 しかしながら、これは誰も明確には回答できない問題を生じさせた。すなわち、いかなる必要が「真正」なのかを誰が決定するのか、いかなる規準によってそれを決定するのか?
誰もが自分でこれを判断するのならば、実際に主観的に感じている全ての必要は平等に正しく供給され、区別をつける余地はない。
 一方、決定するのが国家であれば、歴史上最大の解放事業は全世界的な配給(rationing)制度であることになる。
 (8) 一握りの新左翼(New Left)の未熟者以外の全ての者にとって、今日ではつぎのことが明白だ。すなわち、社会主義は文字通りには「全ての必要を充足する」ことができず、不十分な資源の公正(just)な配分を企図することができるにすぎない。-このことが我々に残す問題は、「公正」の意味を明瞭にし、いかなる社会的機構によって、個々の各事案についてその企図を実現すべきかを決定することだ。
 完全な平等という観念、換言すると全員に対する全ての物資の平等な分配は、経済的に実施不可能であるばかりか、それ自体が矛盾している。なぜならば、完全な平等は極度の専制システムのもとでのみ想定することができるものだが、専制それ自体が、少なくとも権力への関与や情報の入手のような根本的利益に関する不平等を前提にしているからだ。
 (同じ理由で、現在の<左翼(gauchistes)>が平等の増大と政府の縮小を要求するのは支持できない立場だ。現実の生活では、大きな平等は大きな政府を意味し、絶対的な平等は絶対的な政府を意味する。)
 (9) かりに社会主義が全体主義的牢獄ではない何かだとすれば、相互に制限し合う多様な価値を妥協させるシステムでのみありうる。
 全てを包括する経済計画は、達成するのが可能だとしてすら-不可能だとするほとんど一般的な合意があるが-、小生産者や地域単位の自治(autonomy)とは両立し難い。そして、この自治は、マルクス主義的社会主義のそれでなくとも、社会主義の伝統的な価値だ。
 全ての者の生活条件を完全に確保することと技術の進歩は、共存できない。
 自由と平等の間に、計画と自治の間に、経済民主主義と効率的経営の間に、不可避的に矛盾が発生する。そして、妥協と部分的解決によってのみこうした矛盾を解消することができる。
 (10) 産業発展諸国では、不平等を除去し最小限の安全を確保するための社会制度(累進課税、医療サービス、失業対策、価格統制等々)は全て、巨大に膨張する国家官僚機構という対価を払って作り出され、拡張されている。いかにすればこの対価の支払いを避けることができるのか、誰も提案できない。
 (11) このような諸問題は、マルクス主義とほとんど関係がない。かつまた、マルクス主義の教理は実際上、これらを解決するには何の助けにもならない。
 歴史の到達点での黙示録的(最終予言的)信念、社会主義の不可避性、および「社会構成」の自然の順序。「プロレタリアートの独裁」、暴力の称揚、国有化産業がもつ自動的な効率性への信仰、対立なき社会と金銭なき経済に関する幻想。-これら全てが、民主主義的社会主義の観念と共通するところが何もない。
 民主主義的社会主義の目的は、生産が利潤に従属するのを徐々に減少させ、貧困をなくし、不平等を廃絶し、教育を受ける機会への社会的障害を除去し、国家官僚機構による民主主義的自由に対する脅威と全体主義への誘惑を最小限にする、こうした諸制度を創出することだ。
 これらの尽力と試みは全て、自由という価値に深く根ざしていないかぎり失敗するよう運命づけられている。マルクス主義はこの自由を、「消極的」自由、社会が個人に許容する決定領域だと非難した。
 この非難は当たらない。自由とはそれ自体以外に正当化を必要としない本質的価値だからだ。また、自由なくしては社会は自らを改良することができないからだ。
 この自己を規整するメカニズムを欠く専制体制は、過誤によって災厄が発生したときにだけその過誤を修正することができる。
 (12) マルクス主義はこの数十年間、全体主義的政治運動のイデオロギー的上部構造としては凍結し、機能しなくなった。その結果として、知的発展と社会的現実から乖離してしまった。
 再生してもう一度実りを生むという希望は、すぐに幻想(illusion)だと判明した。
 説明の「システム」としては、マルクス主義は死んでいる。また、現代生活を解釈し、未来を予見し、あるいは理想郷(ユートピア)の企図を培養すべく有効に使うことのできるいかなる「方法」も、マルクス主義は提示していない。
 現在のマルクス主義文献は、量的には多いけれども、純粋に歴史に関係していないかぎりでも、無味乾燥さと見込みなさの、気の滅入るような雰囲気をもつ。
 (13) 政治的動員装置としてのマルクス主義の有効性は、全く別の問題だ。
 論述したように、マルクス主義の言葉遣いは、きわめて多彩な政治的利益を支えるために用いられている。
 マルクス主義が現存体制によって公式に正当化されているヨーロッパの共産主義諸国では、マルクス主義は全ての確信を失っている。一方、中国では、見分けがつかないほどに醜悪化した。
 共産主義が権力を握っている国ではどこでも、支配階級はマルクス主義を、ナショナリズム、人種主義あるいは帝国主義が本当の源であるイデオロギーへと変形している。
 共産主義は、マルクス主義を用いることで権力を掌握しそれを維持するために、ナショナリズム・イデオロギーを強化すべく多くのことをした。そのようにして、共産主義は自らの墓穴を掘っている。
 ナショナリズムは、憎悪(hate)、嫉妬および権力への渇望のイデオロギーとしてのみ生きている。ナショナリズムはそのようなものとして共産主義世界での破壊的な要素だ。そして、共産主義世界の首尾一貫性は、実力(force)にもとづく。
 世界全体が共産主義国であれば、単一の帝国主義によって支配されるか、異なる諸国の「マルクス主義者」たる支配者間での際限のない戦争の連続だろう。
 (14) 我々は、その結合した効果を予見することのできない、重大で複雑な知的かつ道徳的な過程の目撃者であり、関与者だ。
 一方で、19世紀の人間中心主義(humanism)の多数の楽観的想定は瓦解し、文化の多くの分野には破綻の感覚がある。
 他方で、情報のこれまでにない早さと拡散のおかげで、世界じゅうの人間の諸願望はそれらを充足する手段よりも早く増大している。
 こうして急速に、欲求不満とその結果としての攻撃的心理が大きくなっている。 
共産主義者たちは、このような心理状態を利用する、攻撃感情を状況に応じて多様な方向へと流し込む、目的に適合したマルクス主義の用語法の断片を用いる、こうした技巧に長けていることを示してきた。
 メシア的希望を生じさせた対応物は、絶望と自分の過ちを見た人類を途方に暮れさせている無力の感覚だ。
 全ての問題と災難について既成のかつ即時の回答があり、それを適用する際には敵の悪意だけが立ちはだかっている、という楽観的信念は、マルクス主義という名前ののもとで移ろいゆくイデオロギー・システムに頻繁にみられる構成要素だった。-マルクス主義は一つの状況から別の状況へと内容を変化させ、別のイデオロギー上の伝統と混じっている雑種のもの(cross-bred)だ、と言うことができる。
 現在ではマルクス主義は世界を解釈しないし、世界を変化させることもない。多様な利益を組織するのに役立つ、たんなるスローガンの目録(repertoire)だ。それらのほとんどは、マルクス主義の元来の姿だったものから完全に遠ざかっている。
 第一インターナショナルの崩壊ののち一世紀、世界じゅうの抑圧された人間性の利益を守ることのできる新しいインターナショナルの見込みは、かつて以上に、ほとんどありそうもない。
 (15) マルクス主義が哲学的表現を与えた人類の自己神格化は、個人であれ集団であれ、そのような全ての試みと同じようにして終焉した。それは、人間の隷従という茶番劇の実体を露わにしたのだ。
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 以上。

1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
 ----
 ②へとつづく。

1841/L・コワコフスキ・2004年合冊版の「新しい緒言」。

 1976-78年に先に(9/01に)試訳を紹介した「緒言」を書いていたL・コワコフスキは、内容は同じ自分の書物=『マルクス主義の主要潮流』について、およそ30年近くのちに、つぎの「新しい緒言」を記した。
 1976-78年と2004年。言うまでもなく、その間には、1989-1991年があった。
 最後の段落以外について、原文にはない、段落ごとの番号を付した。太字化部分は秋月瑛二。
 レシェク・コワコフスキ・2004年合冊版『マルクス主義の主要潮流』の「新しい緒言」。
――――
 新しい緒言(新しいはしがき、New Preface)。
 1 いまこの新しい版で合冊される諸巻が執筆されてから、およそ30年が経過した。この間に生起した事態は私の解釈を時代遅れの、無意味な、あるいは単純に間違ったものにしたのかどうか。こう問うのは、場違いなことではない。
 たしかに、私は賢明にも、いまでは虚偽だと判断されるような予言をするのを避けていた。
 しかしながら、むしろ、つぎの疑問が、依然として有効なままだ。私の諸巻が叙述しようと試みた精神または政治の歴史について、なおも興味深いものはいったい何なのか。
 2 マルクス主義は、哲学的または半哲学的な教理であり、共産主義国家で正統性と拘束的な信仰の主要な源として用いられた政治的イデオロギーだった。
 このイデオロギーは、人々(people)がそれを信じているか否かに関係なく、不可欠のものだった。
 共産党支配の最後の時期には、それは生きている信仰としてはほとんど存在していなかった。そのイデオロギーと現実の間の懸隔は大きく、共産主義者の楽園という愉しい未来の希望は急速に色褪せていたので、支配階級(換言すれば党機構)と被支配者のいずれも、その空虚さに気づいていた。
 しかし、それは、正確には権力システムの正統性の主要な装置であったために、公式には拘束的なままだった。
 支配者が本当にその人民と意思疎通することを欲したのであれば、支配者は「マルクス・レーニン主義」というグロテスクな教理を用いなかった。むしろ、ナショナリズム感情や、ソヴィエト同盟の場合には帝国の栄光に、訴えかけていた。
 最後には、帝国と一緒にそのイデオロギーは砕け散った。それの崩壊は、共産主義という権力システムがヨーロッパで死に絶えた理由の一つだった。
 3 知的には適切でなかったが抑圧と収奪の装置としては効率的だった複雑な機構が解体した後では、研究対象としてのマルクス主義は永遠に葬り去られたと見えるかもしれない。また、それを忘却の淵から引き摺り出す場所はないように見えるかもしれない。
 しかし、そう考えるには、十分な根拠がない。
 過去の諸観念(ideas)への関心は、その知的な価値や現在にある説得力にもとづくものではない。
 我々はずっと前に死んでいる諸宗教のさまざまの神話を研究するし、もはや信者がいないことがその研究を興味深くないものにするわけでもない。
 宗教の歴史の一部、および文化の歴史の一部としてのそのような研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察したり、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を洞察したりすることができる。
 宗教的、哲学的あるいは政治的のいずれであれ、諸観念(ideas)の歴史の洞察は、我々が自分自身を認識するために行う探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味を探求することなのだ
 夢想郷(utopia、ユートピア)の歴史は冶金学や化学工学の歴史よりも魅力的ではない、ということはない。
 4 マルクス主義の歴史に関するかぎりでは、それを研究に値するものにする、追加的で、より適切な理由がある。
 長い間相当の人気を博してきた哲学的教理(マルクス主義の哲学的経済学と呼ばれたものは今日の世界の意味での本当の経済学ではなく哲学上の夢だった)は、全体としては決して死に絶えていない
 それらは言葉遣いを変えているが、文化の地下で生き延びている。そして、しばしば見え難いけれども、なおも人々を魅惑することができ、あるいは脅かすことができる。
 マルクス主義は、19世紀および20世紀の知的伝統と政治史に含まれる。そのようなものとして、マルクス主義は明らかに関心を惹くものだ。際限なく繰り返された、しばしばグロテスクな、科学的理論であるという見せかけの主張(pretension)とともに。
 しかしながら、この哲学は、人類に対する描写できないほどの悲惨と損害をもたらす実際的効果をもった。私有財産と市場は廃棄され、普遍的で包括的な計画に置き換えられるべきだ、というのは、全く不可能なプロジェクトだった。
 マルクス主義教理は人間社会を巨大な収容所へと変形させる優れた青写真だと、19世紀の終わり頃に、主としてアナキストたちによって、気づかれていた。
 たしかに、そのことはマルクスの意図ではなかった。しかしそれは、彼が考案した栄光にみちた、最終的な慈愛あふれるユートピア思想の、避けられない効果(effect)だった。
 5 理論上の教義的マルクス主義は、いくつかの学術上の世界の通路に、その貧しい存在を長くとどめている。
 それがもつ容量はきわめて乏しい。だがしかし、つぎのことは想像に難くない。すなわち、実際には一体の理論としてのマルクス主義との接触を失っているが曖昧ながらも資本主義かそれとも反資本主義かという問題として提示することのできる論争点を探し求める、一定の知的には悲惨だが声高の運動に支えられて、その力を大きくするだろう。
 (資本主義かそれとも反資本主義かという考え方は、決して明瞭ではないが、マルクス主義の伝統に由来していると感じられるようにして採用される。)
 6 共産主義イデオロギーは、死後硬直の状態にあるように見える。そして、なおもそれを用いる体制はおぞましく、したがってその蘇生は不可能であるように見えるかもしれない。
 しかし、このような予言(または反予言)を慌ててしないでほしい。
 栄養を与え、このイデオロギーを利用する社会条件は、まだなお生き返ることがありうる。
 おそらくは―誰にも正確には分からないが―、ウィルスは眠りながら、つぎの機会を待っている
 完璧な社会を求める夢想は、我々の文明に永続的に備わっているものだ。
 ***
 これら三巻は、1968-1976年にポーランド語で執筆された。そのとき、ポーランドで出版することができるとは、夢にも思っていなかった。
 これらはパリで 1976-78年にInstitute Littéraire によって出版され、ポーランドでは地下で複写出版が行われた。
 その次のポーランド語版は、1988年にロンドンで、Aneks 出版社によって刊行された。
 2000年になってようやく、この書物はポーランドで合法的に出版された(Zysk 出版社による)。そのときには、検閲と共産主義体制が消滅していた。
 P. S. Falla により翻訳された英語版は、Oxford University Press により1978年に出版された。
 つづいて、ドイツ、オランダ、イタリア、セルビア、スペインの各語での翻訳版が出版された。
 中国語版が存在すると私は告げられたが、見たことは一度もない。
 二つの巻のみが、フランス語版として出版されている。なぜ第三巻のフランス語版は刊行されていないのか、出版社(Fayard)は説明することができない。私は、その理由をつぎのように推測している。
 第三巻は、出版者があえて危険を冒すのを怖れるほどの憤慨を、フランスの左翼主義者(Leftists)を刺激して発生させたのだろう。
 Leszek Kolakowski /Oxford /2004年7月
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 以上。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1839/レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の全巻「緒言」。

 レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語、1976年)はフランス・パリで刊行され、翌1977年に原語からの直接訳として第一巻のドイツ語版が出版された(R.Piper & Co. Verlag, München & Zürich)。同じくハード・カバーで原語からの直接訳である英語版の第一巻はさらにその翌年の1978年に出版された(Clarendon Press・Oxford University Press)。
 これらには、第一巻以降の各巻の序言(Einleitung, introduction)とは別の、全巻を想定した「緒言(はしがき)」(Vorwort, Preface)目次(Inhalt, contents)よりも前に付されている。
 以下は、その試訳。ドイツ語版で最初に粗い翻訳をし、のちに英語版も含めた両者を見ていちおう確定した。
 少しは原文が違うのではないかと感じるほどに、文法構造や単語が異なっている部分もある。但し、基本的な趣旨が変わっているわけではないだろう。
 一文ごとに改行する。改行があるまでの各段落には、原文・独英訳書にはない番号((1)~)を付けた。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ドイツ語1977年, 英語1978年)。
 緒言(はしがき、Vorwort, Preface)。
 (1) 一冊の教科書を書くのが私の意図だった。
 こう言っても、私独自の見解、志向や解釈原則から自由に、争う余地のない方法でマルクス主義の歴史を叙述するのに私は成功した、という馬鹿げた主張をしているのではない。
 私はそれでただ、緩みのある論考の形でではなく、私の見解と一致するかどうかとは関係なく、この主題への手引きを探している全ての人々が利用できる重要な事項を含み込むことが可能な方法で叙述するよう努めた、ということを意味させている。
 私はまた、叙述の中に私の論評を隠し込むのではなく、私自身の見解を別の、明瞭に画定された文章部分で提示するように意を尽くした。
 (2) 当然のこととして、ある著者による素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性について、その著者の見解や志向が反映されるのは避けられない。
 しかし、政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ、かりに全ての事実の提示は著者の個人的な見解によって歪められ、実際に多かれ少なかれ恣意的に構成されたものだとすれば、したがってまた歴史的説明なるものは存在せずたんに一連の歴史的評価のみがある、ということを最初から前提にするとすれば、いかなる種類の歴史的手引書を編成することも、全く不可能だろう。
 (3) この書物はマルクス主義の歴史、すなわちマルクス主義という一つの教理(Lehre, doctrine)の歴史、を叙述する試みだ。
 社会主義思想の歴史ではなく、この教理を多様な版型で独自のイデオロギーとして採用した政治的党派や運動の歴史でもない。
 強調する必要がないことだが、こうした区別は単純には貫徹できない。とりわけ理論家や思想家の作業と政治的な闘争の関係が明白でありかつ緊密であるために、マルクス主義の場合には微妙だ。
 それにもかかわらず、いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を「生きている全体」から切り出すことを余儀なくされる。
 これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになるだろう。
 この書物に教科書たる性格を付与するもう一つの特徴は、教理の発展とその政治的イデオロギーとしての機能の間の関係をさし示す基礎的事実を、可能なかぎり簡潔にだが示した、ということだ。
 全体が、私の注釈の付いた説話だ。
 (4)  論争の対象ではないマルクス主義の解釈にかかわる問題は、ほとんど一つも存在しない。
 私はそうした議論のうち最も重要なものに着目するよう努めた。だが、著作を研究してその見解や解釈に私は与しない全ての歴史家や論評者の見解を詳細に分析しようとすれば、この書物の射程をすっかり超えてしまうだろう。
 この書物は、特別に新しいマルクス解釈の提示を主張するものではない。
 私のマルクスのテキストの読み方が他の解釈以上に多くルカチ(Lukács)の影響をうけたことも、容易に気づかれるだろう(このことは、私がルカチのマルクス理解に縛られていることを意味しない)。
 (5) 看取されるだろうように、この書物は単一の原理でもって小区分されてはいない。
 自己充足的な全体の一部として特定の人物または志向を叙述することが必要だと思われる場合には、純粋に年代的な叙述編成に執着するのは不可能だということが分かった。
 個別諸巻へのこの書物の区分けは基本的には年代史的だが、しかし、この点でも私は、マルクス主義の異なる傾向を分離した主題としてできるかぎりの範囲で論述するために、ある程度は一貫性が欠けるのを自らに許容せざるを得なかった。
 (6) 第一巻の最初の草稿を、私は1968年に書いた。その年、ワルシャワ大学での講座職から離れた後で利用できた自由な時間を活用した。
 数年のちに、この巻について多数の補足、訂正および変更が避けられないことが判った。
 私は第二巻を1970年から1973年までに、第三巻を1975年から1976年までに書いた。Oxford の All Souls College が与えてくれた研究員たる地位を利用した。そして、この研究員たる特権的地位なくしてはこれらの諸巻を書けなかっただろうことは、ほとんど確実だ。
 (7)  この書物は、委細を尽くした文献目録を含んではおらず、出典や主要な注釈書を参照したい読者のために言及だけを行っている。
 私が言及している諸著作の中に、今日では個々の読者が理解するには残念ながらもはやあまりに広範囲すぎる文献への参照を見出すのはどの読者にも容易だろう。
 (8)  私の二人のワルシャワの友人、思想史学者のAndrzeji Walicki 博士と数学者のRyszard Herczynski 博士は、第二巻の草稿を読んでくれた。多数の有益で批判的な言及と刺激について、二人に感謝する。
 全体の原稿は、私の他には、職業は医師であり精神科医である私の妻、Tamara Kolakowska 博士だけが目を通した。
 私が執筆する全てと同じように、この書物もまた、彼女の批判的な読み方と冷静な理解力にきわめて多くを負っている。
 Leszek Kolakowski
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 以上。

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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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