秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2017年11月

1714/中西輝政はかなり異常だ-西尾幹二との対談本。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。第二章まで読んだ。~p.106。 
 前回にこの本はトランプ等のアメリカ現代政治には言及していなさそうと予想したのは誤っていて、第二章「アメリカの正体」の主眼は、むしろこれだった。
 中西輝政による2015年安倍談話批判は冷静で論理的とも感じたが(それでも、自説の無視・軽視という経緯に対する腹立ちもあるだろうと想像したが)、この書での中西輝政の<狂信的な>アメリカ観・トランプ観には驚いてしまった。
 そして、前回にこの人の「共産主義」感覚を疑問視しておいてよかった、とも感じた。
 また、前々回(11/27)に西尾幹二の最近の論考(産経新聞「正論」欄)について、「ほとんどすんなりと読めた」と何気なく記したのだったが、重要な意味を持っていたことにも気づいた。なぜなら、この西尾の文章は、トランプ・アメリカ大統領のアジア歴訪を好意的に、少なくとも批判的・糾弾的にでなく、記述したものだつたからだ。
 櫻井よしこは、立ち読みした週刊新潮(新潮社)の最新号で、相変わらずトランプ批判を繰り返している(しかし、なぜかトランプに100%同意した安倍晋三を批判することは依然として全くない)。トランプのアジア歴訪は、とくに対中国は「大失敗」だった、とする。そして、相も変わらず、アメリカは信用できない→日本はしっかりしよう→そのために憲法改正を、と何とかの一つ憶えのように繰り返している。その際に、相も変わらず、他人の文章・言葉(今回も?田久保忠衛)の引用・抜粋・要約で紙数の過半を埋めるという<技巧>を使っている。
 桜井のもち前の技巧、他人の文章・言葉を自分の言葉・考えのように用いる・語ることのできる能力というのは、他人の原稿を自分の考え・自分が収集した情報のごとく読んでいた、テレビ・キャスターという過去の履歴と関係があるのではなかろうか。
 余計なことを、つい書いた。一年前にこの欄で、トランプ当選は「精神衛生」によかった、と記したことがある。トランプに対する印象は、西尾幹二のものの方が、私のそれ にはるかに近い。
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 前回に記し遺した中西輝政発言に対する違和感、あるいはコメントを要するとの感触は、とりわけ、つぎのようなものだ。
 p.56。詳細な引用は省くが、中西は、アメリカの奇妙な国際法思想、国際法秩序への挑戦の歴史なるものに言及する。そして、こう言う。
 「ですから、いまの中国のやっていることも、世界史的に見れば、けっこう通用性のあることなのです」。
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 一般に、全ての社会・政治事象は、何らかのかたちで連関し合っている。社会・政治事象は、自然現象ともまた関係し合っている。大地震もその他の自然災害も人間社会に政治に大きな影響を与える。豊作・豊漁といったもの、あるいは天照大神の岩隠れ(神隠し)伝承と皆既日食の事実との関係のように、自然界では珍しいが異常のことでなくとも、人間の政治・社会に強い影響を及ぼすことがありうる。
 自然現象ですらそうなのだから、人間界の「政治」現象は地域・国家が異なっても、何らかの関係を相互に持ち合っている。
 Aがあり、一方でBがあって、それらが対立・反発し合っている、というとき、どちらが根本・究極の原因にせよ、両者が成立した以上は、相互に何らかの影響を及ぼしうる。
 「いまの中国」の原因は「アメリカの歴史」にある、と中西輝政は言っているのと同じだ。
 「いまの中国のやっていることも、世界史的に見れば、けっこう通用性のあることなのです」。 
 このこと自体は、「世界史的に見れば」誤りではないのかもしれない。中西によると、「国際法秩序に異を唱える」ことによる「パクスアメリカーナ」の構築に対する反撥、あるいはそれの摸倣が「いまの中国のやっていること」らしい。「世界史的に見れば」。
 しかし、こう発言して指摘することの、実際的、実践的意味もまた問われなければならない。
 悪辣なアメリカがあった(ある)から、今の中国もある。こう中西は言っているのと同じではないか?
 これは、厳密な主観的意図はともかく、現実的な機能としては、現在の中国を(共産党中国を)擁護する議論だ。
 現在の中国を引き合いに出してまで、アメリカの歴史を批判している。
 中西輝政とは、そのような「学者」なのだ。
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 今回は第二章にまで立ち入れなかったが、「アメリカ憎し」の発言は、第一章以上に烈しい。<狂信的>とまで形容したほどだ。
 西尾幹二はほとんど聞き役で、何とか共通点・同意できる点を見出そうとするかのごとく、まだ冷静に(言葉数は少ないが)発言している。
 中西輝政の現在のアメリカ政治観・トランプ観には、唖然とするものがある。とても「保守」派とは評し難い領域にまで入ってしまっている。また別の日に。
 なお、中西の反アメリカ姿勢を批判しているから秋月は<親米>だ、などという二分法、二項対立図式の単細胞的思考をする人が多いから困る。私は、<対米自立、*日本的な*自由・民主主義の必要性>くらいは、何度でもこの欄で述べている。

1713/西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」…(2017)。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。
 対談や座談会の内容を文字にした、安易に造られる書物が多すぎる、とは断定しないでおこう。
 何しろ、相対的にはきわめてマシな、優れていると感じている「保守」派論客の対談本なのだから(司会は柏原竜一)。
 まえがきを2017年3月に西尾幹二が書き、あとがきを10月に中西輝政が書き、同11月付で出版されている。この時期に、西尾と中西の二人は何を語るのか。
 目次全体を眺め、一章まで読了した(~p.70)。
 西尾幹二によると、日本国民の「歴史認識を永いあいだ分裂させ、歪めてきた当のもの」である<世界史に日本がなく、日本史に世界がない>という「変則状態」の「欠を埋め、ここで自覚を新たにしたいというおもい」で起ち上がり作成された書物だ、という。p.4。
 司会者・柏原竜一は「問題提起-『西洋近代』のいかがわしさ」と題する第一章の冒頭で(しかし、本書全体の意図のごとく)、こう言う。
 「昭和における日本人の精神性の覚醒を正しく位置づける」ためにも、「大局から、『近代』というもの、『西洋近代』というものを見直す必要がある」との問題意識で、(二人に)「対談をお願いする」ことになった。
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 まだ70頁までしか読んでいないが、大きな期待は持てそうにない、と直感的に思った。
 目次から、章名および節(に当たるもの)の名・タイトルにどのような言葉・概念が並んでいるかを見てみる。
 日本-14。最多のようだが、これは当然かもしれない。
 アメリカ-11、近代・西洋近代・西洋文明・欧米・ヨーロッパ-計8、中国-1。
 ロシア(・ロシア革命)・ソ連-ゼロ。共産主義・コミュニズム・マルクス主義・社会主義-ゼロ。
 あくまで目次上のタイトルで使用されている言葉・概念だ。
 しかし、この書のおおよその内容を掴む手がかりにはなるだろう。
 今年はロシア革命100年。だが、この書に関するかぎりでは、西尾幹二も中西輝政も、ロシア革命や「共産主義」の「世界史的」意義・意味、その今日に至るまでの日本に対する「日本史的」意義・意味には、とんと関心がないように見える。正確に再述しておく-「…かぎりでは」、「…ように見える」。
 中西輝政は、いつぞや「ネオ共産主義」という言葉を使って、まるで現在に現実としてある「共産主義」国家・「共産主義」体制は、<元来の・本来の>共産主義とは異なるとでも理解しているかのような文章を書いていた。この人にとって<真の>または<本来の・元来の>「共産主義」とはどういうものなのか。したがってまた、西尾との対談でもこれを(たぶんほとんど)話題にしないのは当然かもしれない。
 中西は、とっくに「マルクス主義の過ちは証明されている」ので、これ(マルクス主義・共産主義等)に拘泥するのは、遅れている、旧い発想だ、と考えているようにも思えた。
 このような発想は、じつは「日本会議」と同じだ。
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 「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判をテーマとする書物は、すでに多数ある。
 かつて私もよく読んだが、佐伯啓思がしてきた仕事のほとんどは、これだ。あるいはこれの繰り返し、しつこいまでの反復、だ。
 そして、大切なこととして指摘しておきたい。「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判は、マルクス主義者・共産主義者もまた、共有する。
 彼らは、「市民革命」思想らしきものを都合よく利用しつつ、<自由と民主主義>をブルジョアジーが被支配者を「欺瞞」するための道具だとも考えた(考えている)。
 <西洋近代>の嫡出か鬼胎かはともかく、<近代>は共産主義もまた生み出したし、一方で共産主義は<近代>を克服しようとした(とする)考え方・運動だ。
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 多くの<西洋近代>懐疑・批判書と違って、二人のこの本は、アメリカを主対象とし、アメリカ批判を主とするもののようでもある(しかし、トランプ等々、アメリカの現代政治を扱っているのでもなさそうだ)。
 オビに、こうある。
 「戦後日本を縛りつけているものは何か?/いまも世界を支配する歴史の亡霊。その体現者・アメリカの正体を暴く!」。
 この対談書によるかぎりで、西尾幹二と中西輝政にとって、現時点で「大局的には」、中国共産党体制よりも北朝鮮よりも、アメリカの方が<歴史的に?>大切な、重大な関心事なのだろう。
 しかし、素朴につぎのように考えてしまう。
 二人が語るアメリカ(の歴史等)とロシア(・ソ連)や中国等との関係はいったいいかなる<世界史的>関係にあるのか。日本史を語る際にも、少なくとも幕末以降の日本・ロシア関係、そして何よりも第一次大戦中のロシア革命(1917年)や終戦後のコミンテルン(1919年)との関係は重要な関心事でなければならないだろう。いやすでに北一輝にも見られるように、ロシア革命以前から、マルクス主義(・思想)の影響は日本に強くあったのだ。
 また、つぎのようにも思う。
 反アメリカ、あるいは「アメリカの正体を暴く」というだけでは、基本的には佐伯啓思ら多数の者がしてきた仕事の、新味のあるらしき、焼き直しにすぎないだろう。
 また、日本共産党もまた<反アメリカ>のナショナリスト政党だということを、あらためて強く指摘しておかなければならない。アメリカを批判的に考察し、「アメリカの正体を暴く」、というのは、決して日本共産党が嫌がることではない。
 この政党は十分に、民族主義的・対米自立の「自主・独立」、そして「愛国」政党でもある。
 さらに、北朝鮮がいまだに「アメリカ帝国主義」と称しているのも、中国が決してアメリカと全面的には同調しないのも、根源的には、その「共産主義」性、あるいはマルクス主義(・思想)がある。反資本主義・反「帝国主義」の心性を、彼らは失っていない。
 日本共産党についても同じ。アメリカを歴史的に批判することは、少なくとも一面では、あるいは一部は、日本共産党等の日本の共産主義者および「左翼」もまた喜びとするものであることを、強く意識しておく必要があるだろう(この点は、佐伯啓思の<左翼との通底性>にもかかわる)。
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 さて、第一章。
 <「近代」とは何か>はでたらめのタイトルのごとくで、キリスト教に関する話が多すぎる。
 国家と宗教の分離、そこでの宗教について話題にするな、とは言わない。しかし、とりわけ、中西輝政の、「ピューリタニズム」に関する話が長すぎる。
 この機会にと、中西は最近に勉強?(研究?)したことを披瀝したかったのかもしれない。新しい知識も(いかほどに確かなのかは分からないが)、得られる。
 しかし、大発見のごとく勇んで強調するほどのことなのか。それで?、とも尋ねたくなる。
 中西輝政が上についてきちんと発言したいのならば、<欧米・ピューリタニズムと日本>とでも題する本格的な、300-500頁から成る専門的研究書を執筆・刊行して、世に問うていただきたい。
 もう一つ、中西輝政の発言には、気になる部分がある。別の日に。

 

1712/西尾幹二・人生について(新潮文庫)より。

 西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015。原書、2005)p.201~3。
 「自分の死を意識したときに不思議でならなかったのは、死をさえ意識しているこの自分の『意識』がとつぜんあとかたもなく消滅してしまうということである。それはことばでは言い表わすことのできない恐怖、宙に向かって大声で叫びたくのをぐっとこらえているような恐ろしさである」。
 「病気が襲来したときの、死に随伴する肉体上の苦痛というようなものは、たとえどんなに大変でも、自分が消滅するという恐怖に比べれば、決して重大事ではない。少なくともこの二つは別のものである」。
 「死後の生命の存続というものがもし信じられるのなら、それほど楽なことはないであろう。しかし私は、私の身体が亡びると共に個体としての私も消滅し、『自分の意識』もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えを持つことがどうしてもできない」。
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 上は50歳代で癌の告知を受けた著者・西尾が60歳代初めに書いた文章のようだ。
 その体験がないと、このような精神の経験もないだろう。また、知識人に特有の自己認識と自己表現の強い希求が背景にあるようにも思える。後者の点に立ち入るのはさて措き、上のような認識・感覚は納得できる。
 つい最近に福岡伸一の本に触れる中で、死後の「意識」・「霊魂」は存在しないだろう、亡き両親等と「交信」したこはもはや全くないのだから、というようなことをこの欄で記した。
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 興味があるのは、このような認識に至った人、あるいは至ったことのある人と、そうではないおそらくはより多くの人との間に、どのような人生観、人間観、そして社会観、世界観の違いが生じるのだろう、ということだ。
 ありていに、急に世俗っぽく言えば、<保守>の人と<左翼>の人で、違いはあるのか。「保守」派とされる高名な(誰とも名は浮かばないが)人と、「左翼」で弁証法的唯物論者?ともされる共産主義者・日本共産党員との間に、「死」に関する認識・感覚に違いはあるのだろうか。あるとすれば、どのように違うのだろうか(たんに<傾向>にすぎなくとも)。
 福岡伸一についても関心をもつのは、この人のように「生命」の本質を理解しようとしている人は、世俗の社会・国家についてはどういう考え方に至るのか、だ。
 この人はフェルメールが好きらしい。やはり人の個体としての<個性>はあるのだ。つまり個々人の嗜好・好みだ。
 私も、エゴン・シーレよりも、アルフォンス・ミュシャ(ムハ)よりも、フェルメールの絵の方が好きだ。ときに、フェルメールの絵の静穏さよりも、クリムトの絵の一部にある激しさに惹かれたりするけれども。
 絵画や音楽は別として、さらに、この福岡という人は、急に世俗っぽくなれば、<保守>派を支持するのだろうか、<左翼>を支持しているのだろうか。それとも、そうした政治的・社会的な対立は、人の意識の錯乱と錯誤の分岐点やその内容・程度の問題であって、ヒト・人間にとっては本質的な問題では全くない、「趣味」の問題だろうか。
 俗人である秋月瑛二は、こんなことも福岡伸一に尋ねたくなるし、さらにこの人の本も読みたくなる。
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 上のような西尾幹二の文章の内容に、ほとんど完璧に共感する。同じように考え、かつ文章化することのできる、立派な人だと感じる。
 しかし、むろんそのことは、西尾幹二の政治・社会に関する主張や叙述に全面的に賛同することを意味しはしない。
 一番最近に同氏のネット上で読んだ雑誌(または新聞)論考ー追記・産経「正論」欄ーのそのままの紹介は、ほとんどすんなりと読めた。
 だが、西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)となると、簡単にはコメントできない。おそらくいったん全て読んでいるが、同感するところもあるし、気になるところもある。
 かりにこの本の感想を書き始めれば、とても一回では足りない。

 

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1710/1993年の憲法九条二項存置・三項追加論。

 広大な書庫の片隅の本の下に、自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議編・日本国憲法改正草案-地球時代の日本を考える-(現代書林、1993)が隠れていたのを見つけた。
 この書p.25の憲法現九条改正案は、一・二項存置三項追加論だ。
 しかし、今年5月以降の「現在の自衛隊を憲法に明記する」というアホらしい追加論(九条の二の場合も含む)に比べると、はるかにましだと考えられる。
 新三項-「前二項の規定は国際法上許されない侵略戦争ならびに武力の威嚇または武力の行使を禁じたものであって、自衛のために必要な軍事力行使を持ち、これを行使することまで禁じたものではない。」
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 ・この条文は<侵略戦争>と<自衛のための軍事力行使>を重要な対概念としているので、第一項の趣旨や第二項冒頭の「前項の目的を達するため」との関係が再びむしかえされる可能性がある。
 ・当然に、二項を削除して「…軍その他の戦力」を保持できるようにる改正案ではない、そのかぎりで、本来あったはずの<保守派>の九条改憲ではない。
 ・しかし、「自衛のために必要な軍事力行使」の保持と行使を容認することを明記するものだ。かつまた、「自衛」目的の「軍事力」という言葉を使って、おそらくは意識的に「…軍その他の戦力」に明らかには含まれないようにしている。
 自衛のための「軍事力」行使はするが、その組織・機構は「軍」・「軍隊」ではない、というのは、苦しいかもしれないが、成り立ちうるだろう。
 ・「自衛隊」との紛らわしい言葉を憲法に使っていないことは、むしろすっきりしている。現在に法律上および現実に「自衛隊」と称する機構・隊があるので、改正憲法上にこの概念を(「軍その他の戦力」ではないものとして)用いるのは混乱させるだけだし(かつ「軍」不保持を固定化する悪効果もあり)、また、*現在の自衛隊をそのまま*憲法上に記述することは、どだい不可能なことなのだ。
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 これに比べれば、現在の「自衛隊」をそのまま?憲法に明記するとの改正案は、悲惨だ。
 日本会議も産経新聞(・阿比留瑠比)も、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、百地章も、潮匡人も、そろってアホだ。遅くとも条文作りに入れば、この案は消滅する。
 安倍晋三もおそらく、もはやこだわってはいないのではないか。しかし先の選挙公約で謳ったこともあって、アホらしくも体裁上は残ったままだ。
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 上の自主憲法期成議員同盟には1990年代初頭の有力な改憲派議員が加わっている。
 現職国会議員は計176名とされる(p.220)。そして、安倍晋太郎、高村正彦、船田元等々の名もある(いちいち写さない)。
 不思議なのは、昨今の憲法改正論議において、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、安倍晋三その他も、どうやらこの本を真面目には参照としているとは思えないことだ。九条三項追加論にもかかわらず。
 自民党の二次にわたる改憲案づくりではこの本は参照されたが、九条については、「防衛軍」または「国防軍」の設置を、二項を全面削除したうえで明記することにしているので、上のような<九条三項追加論>の出る幕はなかったのかもしれない。

1709/福岡伸一・動的平衡〔第一〕(2009)より。

 「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする」。
 福岡伸一・動的平衡-生命はなぜそこに宿るのか(木楽舎、2009)、p.253(あとがき)。 これの意味は納得できる。
 何かの文章を書いているうちに考えが整理されてきたり、予期していなかった新しい展開をとげてしまうことは、この欄を記していても、よくある。
 「考え」に適した「言葉」が見つからなくて、大いに苦しむことも、ままある。
 しかし、「考え」とはそもそも何なのだろうか?
 福岡伸一批判をしているのでは全くない。
 「考え」、思想・主義・主張等々。これらは「精神」活動だろう。そしてそれを他者に伝えるためには、何らかの「言葉」が必要だ。
 しかし、そもそも「精神」活動とは、あるいはそこで用いられる「言葉(言語)」とは、いったい何なのだろうか?
 「精神」活動は、脳内で行われるとされ、ヒトの脳が作動しているためには、肉体、そして(そのヒトが)いのち(生命)を持っていることが必要だ。
 人間は死んでもその精神・霊は生き続ける、と言う人もいるのだろう。
 しかし、神社・寺院を参拝し瞑目して「祈る」ことに慣れている私でも、神・仏の「実在」を、あるいは亡き両親や先祖等々の「霊魂」の存在を「信じて」いるのでは全くない。
 両親の霊魂がまだどこかに生きているのなら、あるいは誰でもよいが三島由紀夫でもレシェク・コワコフスキでも、彼らの「精神」がまだ生きているならば、まだ彼岸にはいない、生きている私との間に何らかの「交信」があってもよいだろう。 
 少なくとも私はそれを欲していないわけではないのだから。
 しかし、両親や三島あるいはコワコフスキ等々の「精神」の表れとしての言葉を「聞いた」ことは一度もない。
 かつての(生前の)言葉や文章を思い出したり、読んだりすることができるにすぎない。
 「精神」には、生命が必要だ。
 「では、いったい生命現象とは何なのか。それを私はいつも考える」。 
 これは、福岡伸一・前掲書p.23の、プロローグの最後の一文。
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 福岡伸一のアメリカでの指導教授の(大学での)研究課題は、「意識のメカニズム」の理論的研究、つまりは「人間はどのようにして意識を持ち、なぜ、それは時に錯誤を起こすか」だったらしい。福岡・前掲書p.26。
 <意識の錯誤>とは一般的な表現では(少なくとも私には)ない。
 しかし、<思想>・<主義>・<主張>・<論説>・<評論>等々にほとんどつねに見られる、何らかの特定の観念・歴史認識・時代認識等々への<寄りかかり>やこれらに関する<思い込み>に気づくと、つぎのように感じざるをえない。
 誰もが、何らかの<錯誤>に陥っている。そしてそれは、一個のヒト、人間の精神活動であるかぎりは、おそらくは絶対に、不可避のことだ。
 問題は、<錯誤>の程度、深さ、大小にある。
 日本共産党・不破哲三も、日本会議・樺島有三も同派・櫻井よしこ等も、<錯誤>がヒドすぎる。程度でいえば、日本共産党・コミュニズムの方が著しく、かつ人間社会にとっての<害悪>が直接で大きいかもしれないが。
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 今回は立ち入らないが、<動的平衡>という発想?、認識の仕方?は、じつはきっとそのとおりだと感じている。
 以下、福岡・前掲書の最初の方から、気になる、つまり印象に残った文章を引用しておこう。
 「すべての生体分子は常に『合成』と『分解』の流れの中にあり、どんなに特別の分子であっても、遅かれ早かれ『分解』と『更新』の対象となることを免れない」。p.28。
 「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っている」こと、「動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうる」ことは、…によって明らかにされていた。p.34。
 「ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは、脳細胞といえども例外ではない」。p.34。
 「若い頃の記憶とは、何度も想起したことのある記憶」であり、「あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何か」のことだ。p.37。
 「たとえ、個々の神経細胞の中身…が合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路は保持される」。p.37。
 「私たちが自分の目で見て『事実』と感じていること自体も『錯覚』であることが多い。…、非常にさまざまの脳の『バイアス』の上に成り立っている」。p.46。
 「人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにいられない」。
 「人間の脳は鋭敏に、かなり粗い情報の中からでも何らかのパターンを見つけてしまえる」。以上、p.47-48。
 「なぜこのような特殊な能力、…不思議なバイアスが人間の脳に張りついてしまったのか」は、「人間のこの地球上に現れてからの歴史と密接に関係があると思える」。
 「環境の変化」と闘い生き延びるには、「時に複雑な自然界の中から、何らかの手がかりを見つける」ことが「とても大事」だった。以上、p.48。
 「私たちは自分の脳の癖に気がつかない」。したがって、「ランダムからパターンを読み出す『勘のよさ』、これが逆にマイナスに作用することがありえる。パターン化は、自然のもつ複雑な精妙さや微妙なズレなどを消し去ってしまうこともあるからである」。p.50。
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 秋月瑛二が社会・人文系から自然科学系・生命系へと急に関心を変えた、というのでは全くない。
 福岡伸一を剽窃?すれば、こうなる。
 何らかの「錯誤」・「錯覚」に陥ったままの、つまり「バイアス」をもって単純・幼稚な「パターン」化ごっこをしている、<複雑な>社会・歴史・人間等を<精妙に>見ることができていない、そういう思考「回路」をもつ社会・人文系(と思われる)論者・執筆者・評論家・記者・学者(研究者)等が多すぎる。
 これをほとんど絶望的に感じている。しかしまた、一個の生物としての個々のヒトに内在する不可避の限界かもしれない、とも思う。
 <夢想系>か<現実系>かといった、そんな幼稚な二分法では全く、絶望的に、足らない。
 「保守」でも、「憲法九条」でも何でもよいが、ほとんどの人々が「言葉」・「観念」(これらはつまりは概念化であり「パターン」化だが)を正確に、あるいは理解し、意味させた上で論じる、という最低限のことをしないで、言葉・概念・観念を弄んで文章や論考・論文類を書いているように思える。
 残るのは、意思疎通・相互理解が大きく欠けたままでの、空虚な「論議」であり、何となくのムードだけだ。
 一般国民・有権者の多くは、厳密な概念等々を考えて生活してゆけるはずがない。
 責任があるのは、「知的」(とふつうは思われている)作業に携わっている人たちだ。
 その「知的」作業が自分と家族の「生存」のために必要なのかもしれず、<顕名>欲を充たすためには知的「退廃」が必要なのかもしれない。
 最低限度の生存のため(食って生きていくため)というならば、まだ容赦できる。
 しかし、より大きい経済的利益と「顕名」を目指して、(最近に知った言葉だが)「ポジション・トーク」をしている人々を、信頼することはできない。
 信頼して、参考にすることがあっても、それは<程度>の問題にすぎない。
 それこそ曖昧な言葉だが、保守であれ(リベラルであれ)、容共産主義(容コミュニズム)であれ、信頼できない人がほとんど全てだ。
 日本共産党および同党容認政治家・論者や、「日本会議」派政治家・論者は、おそらく全員だ(もともとこの二派は対立しているのではない)。
 あれこれと読むのにもほとんどイヤ気がさしている。
 しかし、現実は現実としてある。なぜ、こういう現実になっているのか。
 言うまでもなく、とりわけ日本の国家も社会も、日本人という人間つまりは、ヒトの一種が形成してきたし、現に形成している。
 ヒトの「精神」活動・脳細胞と無関係のはずはない。
 そう思って読むと、福岡伸一の本にも興味深い文章はある。
 思考「回路」・ヒトが陥り易い「パターン」化、…。 
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  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
  • 0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
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