秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2017年07月

1679/共産党独裁③-L・コワコフスキ著18章4節。

 日本語版レーニン全集36巻(大月書店、1960/14刷・1972)の手元の所在がなぜか分からないので、今回部分の日本語版の参照はできない。後日、追記するかもしれない。<8/01に追記。>
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁③。
 レーニンは、非能率な者をどこにでも投獄することを要求した。そして、なぜ彼らは自分で決定するのを怖れ、可能ならばいつでも上官に問い合わせるのだろうと不思議に思った。
 彼は慎重な監督と徹底的に記録することを要求し、『書記仕事(pen-pushing)』の莫大な多さに驚愕した。
 (『社会主義=ソヴェト権力+電化』という彼の言明は、しばしば引用される。
 革命直後に言った、『社会主義が意味するのはとくに、あらゆることを文書化する(keeping account)ことだ』は、さほど多くは引用されない(中央執行委員会会議、1917年11月17日。全集26巻p.288〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議/エスエル左派の質問にたいする回答」293頁)。)(+)(*)
 彼は、地方の党や警察機関内部ではいかなる批判も反革命だと見なされ、その批判文執筆者は投獄か死刑の危険に晒される、ということに依拠する制度を作り出し、同時に、労働者人民には、怖れないで国家機関を批判するように求めた。
 官僚主義という癌に関する彼の分析結果は、単純だった。すなわち、教育、『文化』および行政能力、の欠如による。
 二つの処方箋があり、これまた単純だった。すなわち、非能率者を投獄〔=収監〕すること、および実直な官僚から成る新しい監督機関を設置すること。
 レーニンは、スターリンが率いる労働者・農民査察官(Inspectorate)(ラブクリン、Rabkrin)に重要な意味を与えた。これは、全ての行政部署およびその他の監視機関を監督する権限があるものとして任命されていた。そして、彼の考えによれば、官僚主義に対する闘いの成功は、最終的には、この機構の誠実さに依っていた。
 この機構はテロルに関する負担を引き受けたり、あらゆる方向への役立たない指令を発したりしたが、それに加えて、1922年に党の総書記になったスターリンによって、反対者を叩き出す杖として、および党内部の闘争に使う武器として利用された。  
 もちろん、このことを、レーニンは予見しなかった。
 彼は『最後の治療薬』を処方したが、それは、-彼が十分に知っていた-国に離れがたく締め込まれている官僚主義の連鎖へと繋がる形をとる、官僚主義に対する治療薬だった。
 党組織(ヒエラルキー)は、徐々に肥大していった。
 それは、全ての公民を覆う生と死に関する権力を持った。
 最初は真面目な共産主義者によって指導されたが、それは、時の推移のうちに大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ。そして、数年の間に、彼らが自分たちで描く、統治スタイルの範型になった。//
 レーニンが生きた最後の二年間、動脈硬化と連続する心臓発作という病気が影を投げていた。彼は最後まで、それと闘わなければならなかった。
 1922年12月と1923年1月に党大会の用意として書かれた文章から成る有名な『遺書』は、続く34年の間、ソヴィエトの一般公衆に隠された。
 この文章は、国家の困難さと党組織内部で接近している権力闘争に関する絶望的な感情を表している。
 レーニンは、スターリンを批判する。過度に権力を手中にすることに集中しており、高慢(粗雑、high-handrd)で、気まぐれで、不誠実だ、ゆえに総書記局にとどまるのはふさわしくない、と。
 レーニンはまた、トロツキー、ピャタコフ(Pyatakov)、ジノヴィエフおよびカーメネフの欠点も列挙し、ブハーリンを非マルクス主義者の考えだと批判する。
 彼は、オルジョニキーゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキーを、大ロシア民族主義者だ、ジョージア侵攻で使われた手段が残虐だった、と非難する。
 レーニンは、『ロシア人の弱い者いじめに対抗する本当の防御策を非ロシア人に与える』必要性については語らない。そして、つぎのように予言する。
 『我々がツァーリ体制から奪い取ってソヴェトの油脂を少しばかり塗った…国家機構』つまりは同盟〔ソヴィエト同盟〕から離脱できるという約束した自由は、『たんなる紙屑になるだろう。そして、本当のロシア人たちの襲撃から非ロシア人を守ることはできないだろう。そのロシア人の大ロシア熱狂的愛国主義(chauvinist)は、本質において卑劣で暴圧的で、典型的なロシア官僚主義はこうだと言えるようなものだ。』 (+)
 (全集36巻p.605-6〔=日本語版全集36巻「覚え書のつづき-1921年12月30日/少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」716頁〕。)//
 こうした訴え、警告および非難には、実際上の重要性がほとんどなかった。
 レーニンは、民主主義的に選出されたメンシェヴィキ政府をもつジョージアを自分の承認を得て赤軍が侵攻したすぐ後に、少数民族の保護や民族自決権について喚起した。
 彼は、中央委員会を拡大することで分派的対立を防止することを望んだ。あたかも、彼自身が実際上は党内民主主義を終わらしめたときと比べて、その大きさが何らかの違いを生じさせ得るかのごとくに。
 レーニンは、主要な党指導者全員を批判し、スターリンの交替を呼びかけた。
 しかし、彼はいったい誰が、新しい総書記になるべきだと考えていたのか?
 -トロツキーは『自信がありすぎる』、ブハーリンはマルクス主義者ではない、ジノヴィエフやカーメネフが『1917年10月の裏切り者』だったのは『偶然ではない』、ピャタコフは、重要な政治問題について信用が措けない。
 レーニンの政治的な意図が何だっただろうとしても、『遺書』は今日では、絶望の叫びのように(like a cry of despair)読める。//
 レーニンは、1924年1月21日に死んだ。
 (スターリンが毒を盛ったという、トロツキーがのちに示唆したことを支持する証拠はない。)
 新しい国家は、レーニンが教え込んだ根本路線に沿って進まなければならなかった。
 防腐(embalm)の措置を施されたその遺体は、今日までもモスクワの霊廟に展示されている。このことは、彼が約束した新しい秩序がすみやかに全人類を抱きしめる(embrace)だろうことを、適切に象徴している。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) 上記日本語版全集によると、このように続く。-「社会主義は、上からの命令によって作り出されるものではない。社会主義の精神は、お役所的=官僚主義的な機械的行為とは縁もゆかりもない」。
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 第4節、終わり。第5節の表題は、<帝国主義の理論と革命の理論>。 

1678/九条三項「加憲」論-伊藤哲夫・岡田邦宏のバカさ。

 日本の「保守」と称している者たちの知的退廃の程度は、哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベルにまで立ち入って検討されてよい。
 もちろん、日本の「共産主義者」についてもそうなのだが、一見だけは論理的に詳細に論じるふうの日本共産党・月刊前衛掲載文章と比べても、以下に言及する内容は、ひどい。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 憲法九条関連に限る。遅れて、一読した。
 安倍内閣支持率の変化により、今年5月の安倍晋三・自民党総裁案(どの党機関決定もないはずだ)がそのまま自民党の提案になるのかも怪しい。
 その九条三項加憲案(現二項存置・自衛隊明記案。または論理的には現二項存置・九条の二新設案)が、上のような下らない書物の書き手の影響を受けたものではないことを願いたい。
 簡単に、書こう。
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 岡田邦宏(1952~、京都大学工学部卒。所長)が案を示して、伊藤哲夫(1947~、新潟大学人文学部卒。代表)らが賛同している。p.106-7、p.130-1。
 岡田邦宏は日本政策研究センターという団体・組織の「所長」らしい。
 恥ずかしい「所長」が、またいる。
 憲法改正提案三つのうち一つの、九条関係の見出しは、つぎのとおりだ。
 <自衛隊明記が「九条問題」克服のカギ>。p.90。
 この部分の全体を通じて理解をはなはだ困難にするのは、「明記」、「解釈」、「認める」、あるいは「国際法」といった概念・言葉で何を意味させているのか、だ。
 冒頭に「哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベル」とか書いたのは、この完全な不明瞭さだ。
 上のような言葉、概念(国際法はさしあたり除外してもよいが)の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>と言いたい。
 ここでの岡田のような文章・論理を活字にするようだからこそ、日本の保守は<やはりアホ>だと思われる。
 上にいう、「自衛隊」の「明記」とは、何を意味するのか? 以下も同じ。
 岡田p.107-「二項はそのままにして、九条に新たに第三項を設け、…『戦力』は別のものであるとして、…自衛隊の存在を明記するという改正案も一考に値する選択肢だと思う」。
 また、つぎの、伊藤哲夫の「憲法上、明確に位置づける」とは、いかなる意味か。岡田の案を否定しているのではないことは明らかなのだが。
 伊藤p.131-「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ」
 こうした、「明記」とか「明確に位置づける」ということの意味をきちんと理解しないで、それこそ<明確に>しないままで憲法を論じているつもりの人たち、「代表」とか「所長」がいるのだから、ひどいだろう。
 あれこれと、すぐに疑問が湧く。
 具体的な条文案を示さないと、そもそもはダメ(これは、<美しい日本の憲法をつくる会>運動も同じ。精神論さえ示せばよく、あとは官僚にお任せ、では絶対にダメなのだ)。
 「自衛隊の存在を明記」とは何か
 新三項に、「自衛隊は存在する」と書くのか?、「自衛隊を設置する」とだけ書くのか?
 こんな条文にはなるはずはない。「自衛隊」という概念・語を現憲法は用いていないので、さっそく、例えばつぎの、疑義が出てくる。
 ・現在の「自衛隊」に関する諸法律は、防衛省設置法等も含めて、憲法より下位の法規範なので、下位の法律上の概念・制度でもって、あるいは現在の<経験上の>「自衛隊」なるものによって、憲法上の意味内容を理解できないし、また理解してはいけない。
 また、つぎの疑問もある。
 突然に「自衛隊」なるものを持ち出すとすると、その目的・趣旨も少しは書かないとダメだろう。つまり、<…のため>が憲法上も少しは必要だろう。
 二項・新三項(らしきもの)で分かるのは、「軍・戦力」ではない、「自衛」ための「隊」というだけのことだ。
 これで、「存在を明記」することになるのか?
 ならないだろう。「自衛隊」とは何のことか?、二項の「軍・戦力」ではないという意味はどこにあるのか? この「憲法解釈」論がまた、出てくる。あるいは、現状をさらに混乱させるに間違いない。
 以上のことは、伊藤哲夫のいう、「自衛隊を憲法上、明確に位置づける」についても同じ。
 <自衛隊>という言葉を用いないとすれば、それに代わる言葉・概念を、または条文そのものを提案しなければならない。
 上に()で書いたことを繰り返す。
 我々は精神論、あとは技術的なこととして「法制官僚」にお任せ、ではダメなのだ。
 同じ趣旨のことはすでに、伊藤哲夫のウェブサイトで知った文章について書いた。
 二項でいう「戦力」に該当しないが実質的には近づけるように自衛隊を憲法上容認する方法を探りたい、とか伊藤は書いていたが、自衛隊を実質的に「戦力」として位置づけるのは不可能で、自衛隊は「戦力」ではないことを「明記」することも、じつはさほどに簡単ではないのだ。
 後者のために、<本項にいう自衛隊は、前項にいう戦力に該当しない>という但書きでも付けるつもりなのだろうか。たしかに形式的には、<明記>かもしれない。
 哲学・論理学・言語学等の必要な論者が多いようなので、また書いておこう。
 二項-「戦力」/三項-「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」?・「自衛のための実力組織」?。
 このように区別して<明記>することはできる。
 しかし、どう書いても、上のような<但書>を付けたとしても、「戦力」という言葉を介して<憲法解釈>をしないと、「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」・「自衛のための実力組織」の意味は明確にならないのだ。<明記>の意味がない。<憲法解釈>の必要性はずっと残る。
 これが分からない人は、少なくとも国家「政策」や憲法論に関与しない方がよいだろう。
 このような結論的案とその肯定に至る過程での論述や議論は、陳腐なものだ。
 例えば、岡田邦宏は何やら力を込めて、(九条全体や第一項ではなく)「問題が九条第二項にあることは、…明らか」と書く。p.102。
 こんなことくらいは、憲法九条関係議論を少しは知っているものならば(吉永小百合や意図的に曖昧にしてきた日本共産党・容共知識人らは別として)、常識だ。
 わざわざこう述べるのも、ああ恥ずかしい。
 2017年の憲法記念日に向けて、こう頑張って発言する馬鹿がまだいるのかと思わせるほどだ。
 上のことくらいは、この欄で、10年ほども前から、私も指摘している。
 じつは他にも、基本的に疑問とする論理、言葉遣いがある。きっと、続ける。

1677/小林よしのり・安倍晋三改憲案と産経新聞。

 小林よしりんこと小林よしのりが、いや小林よしのりことヨシリンだったか、7/28付ブログで(また)面白いことを言っている。
 ①今年5月の安倍晋三改憲案は「ウルトラ欺瞞であって、左翼に媚びた加憲だ」。「『戦後レジームの完成』、自衛隊が永遠に軍隊になれない、盤石な左翼国家の誕生になるからだ」。「アメリカの永久属国憲法になる」からだ。
 ②「本来、社民党の福島瑞穂」らが出すべきもので、そうだったら「猛反対するくせに、安倍晋三が出したら大賛成する」産経新聞は「極左大転向というニュースになっていいくらいだ」。
 まず、①について。なかなか、やはり鋭い。
 秋月瑛二は安倍案は改憲案として「成り立つ」とまず書いた。従来にまるで想定されていなかったとみられる案だったからだ。
 しかし、当然に「成り立つ」と<賛成する>は意味が違うので、いったんネットに載せたあとすみやかに、従来からの現九条2項削除・自衛隊の「軍・戦力」化(<軍・戦力保持)の明記案も「当然に成り立つ」と追記して書いた。
 では安倍案を支持するのかしないのかについては、明言を避けた。
 それは、誰からもこの問題について質問されるような立場にないからだ。秋月瑛二は海底棲息の無名の庶民なのだ。
 だが、どちらにせよ、国民投票に架けられれば、賛成票を投じるだろうとは、思ってきた。どちらにせよ、改憲投票を失敗させるわけにはいかないだろう。
 それに、安倍晋三新案と従前の自民党案を比べての長所・欠点を、政治的なリスクの大小、国民投票で可決の可能性の大小等を含めて、十分に理解しているつもりだからだ。
 上の小林よしのりコメントも、よく分かる。
 永遠にではないにしても、「軍その他の戦力」を憲法上保持しないとする法状態をさらに長く継続させるだろうことに間違いはない、と思われる。
 一方での自衛隊合憲化という意味も、決定的に大きいわけでは全くない。なぜなら、現在において国会も、最高裁判所も自衛隊を「違憲」視していない。国家の実務解釈は自衛隊も合憲であるとしているので、わざわざ国民投票の論点にするまでもない。否決されるというリスクがあることは、読売新聞紙上で棟居快行(むねすえ・としゆき)も指摘していた。2015年の国会での平和安全法制成立について、国民の意思を再度問うようなものでもあるからだ。
 <自衛隊は違憲>とする憲法学者が多い、では十分な理由にならない。憲法学界という<魔境・秘境>の存在を重視しすぎてはいけない。
 もっと他のことを、安倍晋三も言ったはずだ。
 西尾幹二は、安倍晋三案に反対だと明言した。従来の<保守>に対する裏切りではないか、という旨だ。
 この欄に記してきていないが、つぎの二人も、安倍晋三5月九条改憲案に反対だ。
 宮崎哲哉、三浦瑠璃。
 よしりんと西尾幹二を加えると、こうなる。
 宮崎哲哉、三浦瑠璃、小林よしのり、西尾幹二。
つぎに、②について。
安倍晋三案と同じ趣旨のものを社民党等の「左翼」あるいは九条護持派の者が用意していたか、想定していたか、は不明だ。九条を「いじる」ようなことを考えていなかったのではないか。
 また、九条護持派は、正確には少なくとも、A・自衛隊自体が違憲、B・自衛隊自体は違憲ではないが集団的自衛権行使容認は違憲、の二つに分かれる。
 日本共産党の本来の立場、そして党員憲法学者である小沢隆一も明言していたのは、Aだ。一方、非党員・非日本共産党の長谷部恭男はBだ。
 したがって、これらをごっちゃにしてはいけない(小林に言っているのでない)。
 そして、社民党の立場を正確には知らないが、福島瑞穂らもまた日本共産党と同じくAだろう。
 そうすると、「社民党の福島瑞穂」らが提案しそうにはないものと思われる。
 「左翼」、「極左」は思いつかないのが、今回の安倍晋三案ではないか。
 興味深いのはやはり、よしりんイヤ小林よしのりが指摘する、産経新聞の主張だ。
 「何としたたかな男か」とまで書き、本来ならば自分自身の九条2項解釈とは矛盾する(つまりは現憲法と矛盾し、その矛盾する条項を残したままでの)安倍晋三案を「現実的」だとすみやかに支持した、アホとしか思えない「評論家」、「特定保守」運動家がいた。
 櫻井よしこ、だ。
 その後、産経新聞も、社説で支持することを明言した。
 櫻井よしこ、産経新聞が支持していること、「日本会議」役員・幹部ではないとしても伊藤哲夫も支持していること、むしろ伊藤哲夫による示唆の影響を安倍晋三は受けたという説もあることからすると、分かることがある。
 さらには、安倍晋三・自民党総裁のビデオ・メッセージは、櫻井よしこらが代表をしている<美しい日本の憲法をつくる会>らが組織する大会・会議で流されたもののはずだ。
 つまり、「日本会議」が安倍晋三案を支えている。
 この「日本会議」関係者の誰がかは分からない。しかし、誰かだ、またはグループだ。潮匡人が加わっているのかどうか。潮匡人もまたも産経新聞、月刊正論グループにあり、親「日本会議」派だろうと推測される。
 つまり、いまの時点で秋月瑛二が知ることができる、安倍晋三案支持者は、以下。
 櫻井よしこ、伊藤哲夫、産経新聞。(そして、おそらく「日本会議」)。
 月刊正論等をきちんと読めば、もっと人名を挙げられるかもしれない。
 よしりん、イヤ小林よしのりが言うように安倍晋三案が「左翼」または「極左」のものならば、櫻井よしこ、伊藤哲夫、産経新聞、そしておそらく「日本会議」は、全て「左翼」または「極左」化した、ということになる。
 但し、前提は違うだろうとは、上に書いた。
 むろん「左翼」・「極左」ではないからよい、ということには、当然にならない。
 目立つのは、一部にある<安倍晋三にくっ付いていきます>絶対主義の横行だ。
 櫻井よしこは「民進党の倒閣運動」を批判したいようだが、野党というのはつねに「倒閣」を目指すものだ。
 ここでは立ち入らないが、民進党がずさんであるとして、では安倍晋三・安倍昭恵、自民党らにこれっぽっちも問題はなかったのか、は冷静に見ておく必要がある。「日本会議」という背景こそを世論は嫌悪した可能性がほんの少しはあるだろうことに、ほんの少しは気づいているだろうか?
 ついさっき、L・コワコフスキの英語本の「試訳」を文章化していた。
 興味深い言葉の並びがあった。櫻井よしこをはじめとする、「日本会議」派のみなさんに、贈呈しよう。 
 「…は、大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ」。

1676/ファシズム-岩波書店「検閲済」邦訳書(2016)②。

 ケヴィン・パスモア=福井憲彦訳・ファシズムとは何か(岩波書店、2016.04)。
 4.この著者が書いていることも、イギリスの学者にしては「左翼的」だ。
 第8章の表題は、<ファシズム、女性そしてジェンダー>。通常の?ファシズム関連書に比べて、なかなかユニークだ。
 また、この章名にも見られるかもしれないが、歴史書というよりも、執筆時点でのこの著者の政治的見解・主張をかなり強く出すものになっている。 
 むろん同一視はしていないが、ファシズムの歴史と現在の欧州の「極右」・<民族主義者または人種主義者>とを関連づけて、後者に対する警戒または批判の主張を明確に述べている。
 日本でもよく知られたフランスの国民戦線(FN、ルペン)をはじめ、イタリアの「社会運動」(MSI)、イギリスにもあるという国民戦線(NF)等の「極右政党同士」の絡み合う関係を批判的に叙述している。p.158など。
 これでは、かつてのファシズムを冷静に把握するという書物になっていないのも当然だろう。ドイツ・ファシズムあるいはナチズム・国家社会主義や戦後ドイツの「歴史家論争」に立ち入ることができないのも、無理はない。
 さすがに岩波書店が邦訳書を刊行し、訳者・福井憲彦が前回紹介のようなことを訳者として自分で書いている、そういう書物だ。
 5.著者も訳者も<ファシズム>研究を一生の仕事?とはしていない、少なくとも第一の専門研究分野としてはしていない。
 そして、著者の文献案内や訳者の日本語文献についての案内を通覧すると、興味深いことにも気づく。
 もっぱら英語文献に限ってケヴィン・パスモアは原書に32文献(アレントは一つ)を最後に挙げているようだ。
 そのうち、日本語訳書があるのは、ハンナ・アレントの三巻本を一つとして、4つだけ。
 もともと原著者の参考文献提示の数も少ないと思われるが、邦訳書の少なさもまた、驚くべきことだ。
 ファシズム、ファシズムとよく言う日本人だが、あるいは日本の「左翼」だが、いかほどにきちんとした知識があるのか、これから見てもきわめて疑わしい。
 訳者・福井憲彦が挙げる日本語文献案内(邦訳書を当然に除く)も、きわめて少ない。
 まともな単著らしきものは、山口定・ファシズム(岩波現代文庫)だけで、もう一つの複数著者の本は「旧聞に属するが」と福井自身が書く1978年刊行のもの。
 あとは論文少しと各国についての通史もの。
 ドイツ・ヒトラーに関するものも数冊挙げられているが、ナチス時代の歴史叙述であり、<<ファシズム>に焦点を絞ったものではなさそうにみえる。
 福井はまた、こう書く。
 「一連のファシズム現象のなかでもナチ・ドイツに関する研究は、翻訳書も含めて日本ではきわめて層が厚い」。
 これは、趣旨やや不明だが、ほとんど信じられない。フランスが専門対象の福井憲彦にはそう思えるのかもしれない。しかし、かりにヒトラー時代あるいはその前のワイマール期も含めてのナチス党等を研究しているからといって、<ファシズム>を研究していることには全くならないだろう。言うまでもないことだ。
 2016年に日本で刊行された時点での、訳者・福井の叙述だ。
 6.2016年から今年にかけて、アメリカ大統領選、フランス大統領選等々、関心を集めた選挙があり「右派」あるいは「保守派」台頭も話題になった。日本ではずっと安倍晋三内閣だった。 
 こういう時機に合わせての、岩波書店によるこの邦訳書刊行ではないだろうか。
 じつに「商売」上手な、そしてきわめて「政治的な」出版物だろう。
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 少しは立ち入る用意をしていたが、できなくなった。
 一つの英語文献、二つの独語文献の名前だけ記す。
 Paul E. Gottfried, Fascism -The Carter of a Concept (USA, Northern Illinois Uni. 2016).〔ファシズム。2016〕
 Siegfried Gerlich, Ernst Nolte -Portrait eines Geschichtsdenkers (2009). 〔Siegfried Gerlich, エルンスト・ノルテ-ある歴史哲学者の肖像。 2009〕
 Vincent Sboron, Die Rezeption der Thesen Ernst Noltes ueber Nationalsozialismus und Holocaust seit 1980 (Grin, 2015). 〔Vincent Sboron, 国家社会主義とホロコーストに関する1980年以来のエルンスト・ノルテの諸命題の受容。 2015〕

1675/ファシズム-岩波書店「検閲済」邦訳書(2016)①。

 邦訳書として翻訳されて出版されているからといって、信頼が措けると思ってきたわけではない。
 しかし、最近はむしろ、邦訳書があること自体が、日本共産党や日本の<容共・左翼>にとって危険ではないことの証拠ではないかと、とりあえずは疑問視できるのではないか、とすら思うようになった。
 とくに、岩波書店が出版している邦訳書は、おそらくほとんどこのように判断して間違いない、つまり日本の<左翼>にとっては危険ではない(むしろ推奨される)から出版されているのだ、と推測される。
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 ここで<容共=容共産主義>の意味で「左翼」という言葉を使っている。そのような狭義の意味での「左翼」に加えて、共産主義(者)を含めて「左翼」ということもある。日本共産党は当然に後者に入る。しかし日本の共産主義者=日本共産党ではない。反・非日本共産党のマルクス主義者あるいはレーニン主義者もいる。
 <容共・左翼>と上で書いたが、したがって、どちらでも同じこと。
 「反共左翼」という言葉をネット上で見たことがあるが、秋月の用語法には、こういう概念はない。
 「反共左翼」という語の使用者はおそらく日本共産党員で、日本共産党に従わない、日本共産党を支持・擁護しようとはいない「左翼」のことを「反共左翼」と称していたと思われる。日本共産党から見て、批判・糾弾的な言葉になっていた。  
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 ケヴィン・パスモア=福井憲彦訳・ファシズムとは何か(岩波書店、2016.04)。
 1.訳者の福井は、「訳者あとがき」でこう書く。
 「…、そういうファシズム的な状況の再来に対する警戒を解いてはならない」。p.241。
 「ファシズムないしファシスト」が「世界のあちこちをも席巻し」、「…大いなる魅了と反発とを喚起し」、「そして悲惨な戦争を引き起こした時代」を忘れてしまってはいけない。「もちろん」、「大日本帝国が陥った超帝国主義やミリタリズム」についても忘れてはいけない。p.242。
 これは、翻訳ではなく、訳者・福井憲彦自身の文章
 最初の文などは、消滅しているはずのファシズムを何度でも呼び覚まそうとするのが「左翼」>共産主義者だという、フランソワ・フュレの言葉を思い出させる。
 安倍晋三や橋下徹を簡単に「ファシスト」とレッテル貼りする者、反トランプのデモで、Anti-Fascism とか Refuse-Fascist とかを書いた胸板を掲げて行進していたアメリカ人も思い出す。
 二つ目の文のように、先の「悲惨な」大戦は「ファシズム(・ファシスト)」が「引き起こした」と断定的に叙述してしまってよいのだろうか。
 もちろん、以上のように簡単に言える人ではないと、岩波書店の邦訳書の訳者にはならないのだろう。
 2.表面的な紹介等からしても、この著が欧米でのファシズム研究の現在を示しているとは、とても思えない。
 ①著者はイギリスの歴史学者で、第一の専攻は「フランス現代史」。ドイツ語文献はたぶんいっさい出てこない。
 訳者(1946-)は「フランス近現代史」が専門。たぶん、ドイツ語を使って仕事はしていない。
 ②二人とも、ドイツでの議論状況を全くかほとんど知らない。
 ドイツのエルンスト・ノルテへの言及が本文に二カ所ほどあるが、これでは何のことか判らない。 
 3.なぜ岩波書店はこの本の邦訳書を刊行したのか。
 別に述べる叙述内容を理由としているからだろう。これが決定的だ。
 しかし、形式的・表面的にも疑問視できる。
 この書物の原書は、Kevin Passmore, Fascism : A Very Short Introduction (2版加筆訂正、2014/1版2002)で、オクスフォード大学が出版している人文社会系の新書的なシリーズものの一つ。
 この全てまたはほとんどについて岩波書店から邦訳書が出版されていればまだよいが、例えばつぎの二つについては、岩波書店は邦訳書を出していない(他の日本の出版社からも出ていない)。
 Steven A. Smith, The Russian Revolution: A Very Short Introduction。〔ロシア革命〕
 Leslie Holms, Communism: A Very Short Introduction。〔共産主義〕
 この二つとも所持している。熟読はしていないが(前者にはこの欄で一度触れた)、いずれも日本の「左翼」・日本共産党にとって「危険な」部分を含んでいる。とくに前者は。といっても、欧米ではごく普通レベルだろう。
 なぜこれらの邦訳書は刊行しないで、シリーズものの一つの〔ファシズム〕についてだけは刊行するのか。
 岩波書店の、政治的判断によるとみられる
 つまり、あえて言えば、岩波書店による<検閲済み>の書物だ。むろん、社内や編集部等だけの判断ではなく、誰か研究者・学者が関与している可能性もある(訳者となった福井自身かもしれない)。
 続ける。 

1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1673/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)②。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)
 ←原著、谷沢永一・「嘘ばっかり」で七十年(講談社、1994)。
 谷沢永一によるとレーニンの特徴は「徹底した現実主義、機会主義」で、「理論は否定しないが、即応もしない」というもの。そして、①既成理論に囚われず、②目的のためなら手段を選ばず、③「共産主義実現ためならすべてが許される」を方針とする。
 これはネップについても現れていて、「一時的に国内を鎮めるためなら、共産主義からの逸脱も厭わない」という考え方を象徴するものだ、とする。p.184-6。
 ネップ導入=「共産主義からの逸脱」との理解はおそらく適切なものだ。
 L・コワコフスキを参考にしていうと、ネップ導入は共産主義経済政策の失敗の是認だった。
 さらに言うと、「共産主義」経済自体が人間の本性に反するものであって、そもそもが成功する見込みがないものだった。
 食べて生きていく、そのために必要な物をまずは自分(・家族)のために得ようとする、という人間の本性を、「共産主義」は無視している。もともと、理論上・観念上の想定の失敗=非現実性がある。
 人間の本性を、イデオロギーや「独裁」あるいはテロルによって変えることができる、と考えること自体に欠陥があり、恐ろしさがある。
 元に戻ると、谷沢は、ネップについての日本共産党・不破哲三らの立論に言及していない。つまり、<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の発見・明確化という(私に言わせれば)歴史の偽造に言及していない。
 また、この本の出版の前にあった1994年日本共産党大会での、<ソ連はスターリン以降は社会主義国ではなかった>論の珍奇極まりない登場についても、触れていない。
 広くよく知ってはいると思うが、継続的な、詳しい、日本共産党ウォッチャーではなかったようだ。マルクス、レーニン、スターリンを知ることも大切だ。日本共産党のときどきの主張や政策について知っておくことも重要だ。

1672/共産党独裁①-L・コワコフスキ著18章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第4節へと進む。第2巻単行著の、p.485以下。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁①。
 しかしながら、この新しい情勢は、党の中に意見の不一致を呼び覚ますという別の新しい変化をもたらした。
 革命前の全ての約束が、突然に、紙の屑になってしまった。
 レーニンは、高級官僚や専門家たちと技能労働者等との間の報酬を同等化するために、常設軍と警察を廃止しようと企てていた。また彼は、武装する人民は直接に支配権を行使する、と約束していた。
 革命のすぐ後で、そしてネップよりもかなり前に、これらは空想家の夢であることが明らかになった。
 職業的将官幹部たちを伴う軍が、他の全ての軍隊と同じく、階級と厳格な紀律にもとづいて直ちに組織されなければならなかった。
 トロツキーは、赤軍の主な組織者としての秀れた才能を示した。そして、内戦を勝利に導いた主要な設計者だった。
 用いられた方法は、きわめて徹底的だった。敵対者は捕えられて処刑され、逃亡者およびその隠匿者は射殺され、規律に違反した兵士たちも同じだった、等々。
 しかし、このような手段は、大規模の信頼できる武装軍隊なくしては、取ることができなかっただろう。
 威嚇とテロルによって軍団をきちんと維持するためには、反テロル活動も力強くある状況でそのテロルを用いる意思を十分に持つ、そういう者たちが存在しなければならなかった。    
 革命後すぐに、政治警察の部隊を設定することが必要になった。これは、フェリクス・ジェルジンスキー(Feliks Dzerzhinsky)によって、効率よく設立された〔チェカ、Cheka〕。
 専門家たちを優遇しなければ生産活動を組織することができないこと、脅迫だけにもとづいてそれを行うことはできないこと、はすぐに明らかになった。
 1918年4月にもう、レーニンは、『ソヴェト政府の当面の任務』において、この点で『妥協』してパリ・コミューンの原理から離れることが必要だ、と認識していた。
 レーニンはまた、革命の最初から、ブルジョアジーから学ぶことが重要だ、と強く述べていた(ストルーヴェ(Struve)は、その時代には、同じことを言って裏切り者だと烙印を押された)。
 1918年4月29日の中央執行委員会では、社会主義はブルジョアから学ばなくとも建設することができると考える者は、中央アフリカの原住民の精神性をもっている、と語った。
 (全集27巻、p.310〔=日本語版全集27巻「全ロシア中央執行委員会の会議」313頁〕。)
 レーニンは、その著作物や演説で、『文明化(civilization)』、すなわち産業や国家を作動させていくために必要な技術上および行政上の専門能力、に対する関心をますます喚起した。
 共産主義者は傲慢であることをやめ、無知であることを受け入れ、このような専門能力をブルジョアジーから学ばなければならない、と強調した。
 (レーニンはつねに、政治的な扇動や戦闘を目的にしている場合を除いて、共産主義者をきわめて信用しなかった。ゴールキがボルシェヴィキの医師に相談したと聞いた1913年に、彼はすぐに、アホに決まっている『同志』ではない、本当(real)の医師を見つけるように強く勧める手紙を書いた。)
 1918年5月に、レーニンは、パリ・コミューンよりも良いモデルを思いついた。すなわち、ピョートル大帝(Peter the Great)。
 『ドイツの革命はまだゆっくりと「前進」しているが、我々の任務はドイツの国家資本主義を学習すること、それを真似る(copy)のに努力を惜しまないこと、<独裁的(dictational)>な方法を採用するのを怯まないで、急いで真似ること、だ。
 我々の任務は、ピョートルが野蛮なロシアに急いで西側を模写させたよりももっと急いで、この模写(copy)をすることだ。
 そして、野蛮さと闘うためには、この野蛮な方法を用いるのを躊躇してはならない。』(+)
 (『「左翼」小児病と小ブルジョア性』。全集27巻、p.340〔=日本語版全集27巻343-4頁〕。)
 産業の統制に関する一体性の原理がすみやかに導入され、工場の集団的な管理という夢想は、サンディカ主義的な逸脱だと非難された。//
 かくして、新しい社会は、一方では技術上および行政上の知識の増大によって、他方では強制と威嚇という手段によって、建設されることになった。
 ネップは、政治および警察によるテロルを緩和させなかったし、そのように意図しもしなかった。
 非ボルシェヴィキの新聞は内戦の間に閉鎖され、再び刊行が許されることはなかった。
 社会主義的反対諸党、メンシェヴィキとエスエルはテロルに遭い、絶滅(liquidate、粛清)された。
 大学の自治は、ついに1921年に抑圧された。
 レーニンは決まっていつも、『いわゆる出版の自由』は集会の自由や政党結成の自由と同じくブルジョアの欺瞞だ、ブルジョア社会ではふつうの者は新聞印刷機や集会する部屋を持っていないのだから、と繰り返した。
 今やソヴェト体制がこれらの設備を『人民』に与えるならば、人民は明らかにそれをブルジョアジーが欺瞞的な目的のために使うのを許さないだろう。そして、メンシェヴィキとエスエルがブルジョア政党の位置へと落ち込んだならば、彼らもまた、プロレタリア-ト独裁に屈服しなければならない。
 レーニンは、1919年2月のメンシェヴィキ新聞の閉刊を、つぎの理由で正当化した。
 『ソヴェト政府は、まさにこの最終的、決定的で最も先鋭化している、地主や資本家の軍団との武装衝突の時機に、正しい信条のために闘う労働者や農民と一緒に大きな犠牲に耐え忍ぼうとしない者たちを我慢することはできない。』(+)
 (全集28巻p.447〔=日本語版全集28巻「国防を害したメンシェヴィキ新聞の閉鎖について」482頁〕。)
 1919年12月の第七回ソヴェト大会で、レーニンは、マルトフ(Martov)がボルシェヴィキは労働者階級の少数派しか代表していないと非難するとき、この人物は『帝国主義者の野獣ども』-クレマンソー(Clemenceau)、ウィルソンおよびロイド・ジョージ(Lloyd George)-の言葉を使って語っているのだ、と宣告した。
 この論理的な帰結は、『我々はつねに警戒していなければならず、チェカ〔政治秘密警察〕が絶対に必要だと認識しなければならない!』、ということだった。
 (全集30巻p.239。)//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1671/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)。

 原著、谷沢永一・「嘘ばっかり」で七十年(講談社、1994)
 → 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)
 読んだ痕跡があった。傍線からすると、間違いなく半分は読み終えている。
 1990年代半ば、まだ「つくる会」発足前。
 一冊全部が、反マルクス主義、反共産主義、そして反日本共産党という書物が刊行されており、そういう書物を一人で執筆できる人がいたのだ。
 谷沢永一、1929-2011。 
 上の「嘘ばっかり」で七十年、というのは、1922年創立の日本共産党が1992年に70年めを迎えたことを指すことは間違いない。
 広く知られてよいと思うので、内容構成をそのまま紹介する。文庫本による。//
 第Ⅰ部・世紀末、政治の転換点で考える。
  第1章・社会党終焉の構図。
  第2章・共産党に見る人間性の研究。
 第Ⅱ部・共産主義に躍らされた二十世紀。
  第3章・マルクスの「情念」。
  第4章・レーニンの「独創」。
  第5章・スターリンの「特性」。
 第Ⅲ部・二十一世紀へ向けての見方・考え方。
  第6章・現実対応の実証主義の時代。
 人間性を見つめて考える。//
 この人は、関西在住で、司馬遼太郎との交友も長かった。司馬や同著に関する書物も多い。
 何よりも、マルクス主義等々について、じつによく知っている。
 産経新聞社取材部編・日本共産党の研究(2016)などは、及びもつかない。
 猪木正道らの先行研究も、読んで踏まえている。
 一般的には常識でないか、知られていない、秋月瑛二が最近に読んだリチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキの本の一部と、まるで同じことをこの書物は書いているところがある。
 だが、「特定保守」あるいは「観念保守」あるいは「保守原理主義」の人たちは、きっと不満だろう。 
 なぜ、不満だろうか。そう、この本には<天皇>が出てこない。
 <天皇>中心主義は反共産主義と同義だと考えたら大間違いだ。
 <天皇>中心主義者は、そのいう観念・理念としての<天皇>を護持できるならば、共産主義者とも仲良くするだろうし、反共産主義の運動の先頭に立つことは決してない。
 その意味で、健全な反共産主義=私のいう「保守」への道筋を妨害している。あるいは、別の方向へと<流し込もう>としている。

1670/ネップ②-L・コワコフスキ著18章3節。

 この本には、邦訳書がない。-Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第3節・社会主義経済の始まり②。
 レーニンは、こう告げた。小農業は多年にわたった継続していかなければならないだろう、また、『無制限の取引というスローガンは避けられないだろう』。<中略>
 『それ〔制限なき取引〕が普及していきそうなのは、小生産者が存在する経済状態に適合しているからだ。』(+)
 (全集32巻p.187〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党第10回大会」194-5頁〕。)
 彼は、商業と工業の国有化について党が理論上または実際上の考慮をして正当化した以上に進みすぎたことを肯定し、『我々は、中間農民層を満足させ、そして自由な交換へと移らなければならない。さもなくば、世界革命が遅れているのを見れば、ロシアでのプロレタリア-ト支配を維持することは不可能、経済的に不可能だろう』、と宣言した。(+)
 (同上、p.225。)
 のちにすみやかにレーニンが強調したように、ネップは、余剰の収奪を均一的な穀物税に置き換えるだけでない、その他の多数の手段から成る、かなり長期間(serious long-term)の政策だと意味されていた。ロシアの外国資本への特権付与、協同組合への援助、私企業に対する国営工場の貸与、私的取引者への減免、私的商人を通じての国家生産物の分配、財政的および物的な資源に関する国営企業の自立性と主導性の向上、および物質的な動機づけの生産への導入。
 『商品交換は、ネップを動かす主要な梃子の前面へと押し出される。』(+)
 (同上、p.433〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第10回全国協議会」462頁〕。)
 レーニンは、つぎのように述べて、惨害的な誤りを冒したことを、秘密にはしなかった。//
 『我々は、つぎのことを期待(expect)していた-あるいはたぶん、適切に考慮することなくして想定(presume)していたというのが正しいだろう-。小農民の国で、プロレタリア国家が直接に指令して、国家による生産および国家による生産物の分配を共産主義的道筋で組織することのできる能力がある、と。 
 経験は、我々が間違っていた(wrong)ことを証明した。
 共産主義への移行を準備するためには-長年にわたる努力によって準備するためには-、多くの移行段階が必要だったように思われる-国家資本主義と社会主義-。
 直接に熱狂に依拠するのではなく、大革命が生んだ熱狂に助けられて、そして人間的な関心、人間的動機づけおよび職業原理を基礎にして、我々はまずは、この小農民の国で、国家資本主義の途を経る社会主義への堅固な通路を、建設し始めなければならない。』(+)
 (<プラウダ>、1921年10月18日。〔=日本語版全集33巻「10月革命4周年に寄せて」44-45頁。〕)//
 『共産主義へと真っ直ぐに移ろうとして、我々が1921年の春にこうむった経済の戦線上の敗北は、コルチャク、デニーキンあるいはピルスツキ(Pilsudski)から我々がこうむったいかなるものよりもっと深刻な敗北だった。
 この敗北は、はるかに重大で、本質的で、はるかに危険だった。
 それは、我々の経済政策の上部の管理者が下部から孤立していたことや、我々の党綱領が根本的でかつ切実なものと見なす生産力の発展を生み出すことに失敗したことに、現れていた。
 農村地帯での余剰食料の徴発制度は-これは都市の発展の問題への直接的な共産主義的接近なのだが-、生産力の成長を妨げ、そして、1921年に我々が経験した深刻な経済的かつ政治的危機の主要な原因だと判った。』(+)
 (1921年10月21日付の挨拶、全集33巻p.58, p.63-64〔=日本語版全集33巻「新経済政策と政治教育部の任務-政治教育部第二回全ロシア大会での報告」51頁〕。)//
 ブレスト〔=リトフスク〕条約のあとで、ネップは、権力を維持するために教理を犠牲にする、レーニンの非常なる能力を雄弁に示す第二のものだった。
 ネップは、誰もが国家が絶望的状況の縁にあることを知ることができたので、党での反対をさほどは掻き立てなかった。
 しかし、それでもなお、ネップは、資本主義への退却だった。レーニンが述べた、<よく跳ぶために、後ろに下がれ(reculer pour mieux sauter)>の場合だった。
 以前の年月の間、レーニンは、全ての経済上の問題は警察や軍隊のテロルで解決することができる、と考えていた。 
 それは、ジャコバン(the Jacobin)の基本政策だった。
 レーニンはこれは素晴らしい結果を生み出したと考え、またジャコバンと同様に危機に瀕していたが、彼らと違って、最後の瞬間で撤退することができた。
 戦時共産主義時代の彼の経済上の指令は、単純なものだった。すなわち、射殺、投獄、脅迫(intimidation)から成っていた。
 しかしながら、マルクス主義の教理は全く正しい(right)ことが、判明した。
 つまり、経済上の生活にはそれ自体の法則があるのであり、テロルによってそれを無視することは決してできない。
 飢饉と社会の崩壊のときに利得者たち(profiteers)を処刑しても、営利行為(profiteering)を根絶することはないだろう。//
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 (+)-秋月注記。日本語版全集を参考にして、あらためて訳をし直している。なお、四つ目の(+)の部分の文章は、原著には全集から引用の旨は記されていないが、上掲のとおり、日本語版全集の中にはある。
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 第3節、終わり。第4節の表題は、「プロレタリア-ト独裁と党の独裁」。

1669/ネップ①-L・コワコフスキ著18章3節。

 この本には、邦訳書がない。-Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第3節の試訳へ
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 第3節・社会主義経済の始まり①。
 レーニンのもとでのソヴェト・ロシアの経済史は、二つの時代に分けられる。
 『戦時共産主義』の時代と、『新経済政策(N.E.P.、ネップ)』の時代。
 『戦時共産主義』という言葉は、第二期の間に作られた。そして、つぎのような誤解を生み出しかねない。すなわち、内戦から生じた一時的な政策であり、経済的破滅状態の国に食を与えるために非常事態の手段として採用する必要があったのだ、という誤解。
 歴史書はしばしばこのように事態を説明し、さらに、ネップはあらかじめ計画されていたが、戦争という例外的な情勢によって実行することができなかったものだ、と示唆する。言い換えると、ネップは退却(retreat)や誤ったこと(error)の告白ではなく、党が一時的に逸脱を強いられていた、従前に選択した途への回帰(retern)だ、と示唆する。//
 現実には、事態の推移およびそれに関するレーニンの説明のいずれからも、つぎのことが明らかだ。すなわち、戦時共産主義は『共産主義の完全な勝利』まで維持されるべき経済制度だと最初から考えられていたこと、そして一方で、ネップとは敗北を認めること(admission)だったこと。  
 荒廃したロシアでの最重要問題は、言うまでもなく、食糧生産、とくに穀物の生産だった。
 戦時共産主義はもともと、農民から全ての余剰食料を、あるいは地方の政府機関や徴発部隊が余剰(surplus)だと見なした全ての食糧を、徴発すること(requisitioning)から成っていた。 
 数百万の小農場での貯蔵や余剰の質量を正確に計算するのは不可能だったので、徴発のシステムは農民大衆が政府に反対し、巨大な規模での贈収賄や実力強制を生じさせることになっただけではなく、農業生産を破滅させ、そうして権力の体制全体の基礎を掘り崩した。
  しかしながら、レーニンは、こう信じていた。小農民の国での穀物の自由取引は、一時的な手段ではなく原理として、資本主義の復活と等しい(tantamount)と、また、経済の回復の名のもとにこれ〔穀物の自由取引〕を提案する者はコルチャクの同盟者だ、と。
 1919年5月19日の演説で、レーニンは、 『資本および商品(commodity)生産の完全な打倒が前線に立ち現れている、そういう歴史的時機』、に論及した。(+)
 (全集29巻p.352〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会」350頁〕。)
 その年の7月30日、食料状勢に関する演説では、自由取引の問題は資本主義との最終的な闘いでの決定的なものだと再度強調し、自由取引はデニーキンおよびコルチャクの経済的な頼りなので、『ここには、他ならぬこの分野には、いかなる妥協もあり得ない』、と語った。
 『我々は、資本主義の主要な根源の一つがその国の穀物についての自由取引にあること、この根源がまた従前の全ての共和国が破滅した原因だったこと、を知っている。
 いまや資本主義と取引の自由に対する最後の決定的な闘いが行われており、これは我々には、資本主義と社会主義の間の真に根本的(truly basic)な闘いなのだ。
 この闘いに我々が勝利すれば、資本主義や以前の体制に、過去にあった体制に、元戻りすることはあり得ないだろう。
 このような元戻りは、ブルジョアジーに対する戦争、投機者に対する戦争が、そしてプチ経営者に対する戦争が続いているかぎりは、不可能だろう。』(+)
  (以上、全集29巻p.525・p.526〔=日本語版全集29巻「工場委員会、労働組合。モスクワ中央労働者協同組合代表のモスクワ協議会での食糧事情と軍事情勢についての演説」538頁、539頁〕。)//
 そのとき、レーニンは集団的または国営の農業への即時の移行を予想しなかった一方で、つぎのことに全く疑いを持っていなかった。すなわち、農業生産は最初から国家の直接の統制のもとに置かれなければならないこと、商品の自由取引は社会主義の破滅を意味していること。
 レーニンの意図は最初から、農業生産は警察による農民に対する強要(coercion)を、そして生産物の直接の収奪を基礎にしなければならない、というものだった。この収奪とは、翌年のための穀物の種子用に十分でかつ家族一員が食べていく最少限度を残すと(これを実際に実行するのは不可能だった)想定する割当量を基準とする形態で行われるものだ。//
 ネップへの移行は、こうした政策の、大惨事的な失敗によるものだった。
 -メンシェヴィキやエスエルたちが、痛みを代償にして予言した失敗。その予言のゆえに彼らは、非難され、投獄され、白衛軍(the White Guards)への無節操な追従者として殺害された。//
 レーニンは、1921年3月の第10回党大会で、退却(retreat)を発表した。
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 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1668/中西輝政と西尾幹二③。

 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。
 以上、中西輝政・歴史通2016年5月号(ワック)、p.96-97。
 人間は生物として個体保存本能があるので、その本性上、「保身」は当然だ。
 何から何を守ろうとするのか。守りたいのは、日本国家か日本人か、自民党か安倍政権か、自分の「顕名」か経済的な利益か、それとも自分の肉体的な生存か。
 何から、守るのか。
 「迎合」して仲良くやっていかないと、この世を安逸に過ごすことはできない。
 誰と、いったい何に「迎合」するのか、その目的は何なのか。と質していくと、「保身」と似たようなことになる。
 「付和雷同」と「迎合」はほとんど同じ意味だろうが、前者の方が意思がなく機械的に追随しているが、後者の「迎合」は少しは意思または選択を混ぜているようだ。
 どちらにせよ、「空気」を読まないといけないし、それで「付和雷同」とか「迎合」とか非難?されるのだとすると、そして「空気」を全く読まないでいると今度は、一人勝手、協調性がないとか、また非難される。
 とかく処世はむつかしい。
 しかし、中西輝政についてよく分からないのは、つぎのようなことだ。
 中西は、「さらば、安倍晋三」と固有名詞を出して、安心して?批判している。
 では、なぜ、「保守派のオピニオン・リーダーたちが八月の『七十年談話』を、しっかり批判しておけば、安倍首相は十二月のあの慰安婦合意に至ることはなかったであろう」とか、「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「…に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」とだけしか書かないのか。
 ここにいう心ある?「保守派」のオピニオン・リーダー(たち、たる人々)とは一体、誰々らのことなのか?
 西尾幹二、伊藤隆ら少数?を除く、櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一ら多数?と、なぜ固有名詞、人名を明記して批判しなかったのだろうか。
 じつはここにも「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景」あるいは、日本の腐った?論壇の「心象風景」が覗かせているのではないか。
 中西輝政もまた、「保身」から自由ではない、というべきだろう。
 なぜ、首相の名前は明記することができるのに、「保守派のオピニオンリーダ-」についてはできないのか。素朴な無名の国民、読者には、さっぱり分からない。
 中西輝政の憤懣は、2015年安倍内閣戦後70年談話に先立つ公式の「有識者懇談会」で、自分の見解、意見が軽視されたという、つまりは<馬鹿にされた>という、個人的な契機によるところも大なのではないか。 
 もちろん、櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一といった(私の言った「アホの5人組」の中の3人とまた合致する)安倍談話積極擁護論者よりも遙かに優れている。
 しかし、誰も、綺麗事、理論・理屈だけでは行動していないし、文章を執筆してもいない。中西輝政先生もまた、「人間」だ。この人は、この事件?があるまでは、けっこう<日本会議>派と仲良くしていたのだ。
 (いかなる組織・個人からも「自由」な秋月瑛二は、「迎合」・「付和雷同」の気分が100%ないし、当たり前のごとく「保身」の意味すらない。)
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 西尾幹二・月刊正論2015年11月号(産経)、p.83-84。
 上の部分に限りはするが、ここでの「大局的な」歴史叙述は、文章が短い、文字数が少ないということだけに原因があるのではない、<誤り>があると、よく読むと感じる。
 典型的には、以下のように理解できる叙述。
 「西欧が創りだしたイデオロギー」の「根はただ一つ、フランス革命思想に端を発している」。p.83。
 左翼・共産主義者と違って<フランス革命>を相対化したい「保守派」が多い。坂本多加雄にもその気配があるとつい今日に感じた。それはよいとして、上のようにフランス革命を見て、その中に、①ファシズム、②共産主義、③アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダといった、レーニンのいう「民主主義」イデオロギーないし「白人文明覇権思想」、の三つ全ての「根」を見る、というのはかなり乱暴だろう。
 なお、③は、秋月瑛二のいう<欧米近代なるもの>あるいは<(近代欧米的)自由・民主主義>だ。
 鋭く知識豊富な西尾幹二の文章にしては、イギリス(スコットランド)・バークの「保守」思想がフランス革命思想と別の系譜を作ったとみられることや、決定的には、マルクス(・エンゲルス)思想の影響力の大きさへの言及が欠けている。後者は、「レーニン」や「共産主義」への言及で足りると判断されているのだろうか。
 いかんせん、思想・イデオロギーの「系譜」を論じるのは乱暴な試みではある。しかし、常識?に反して、フランス革命-マルクス-レーニン・スターリンの「共産主義」および(かつ)ヒトラー等「ファシズム」という把握も、あり得る。かつまた、フランス革命だけが「欧米近代」の「根」なのか。

1667/ロシア革命④-L・コワコフスキ著18章2節。

 ロシア10月革命は、「共産主義政党へと国家権力を移行させたという意味」ではなく、「マルクス主義者の予言を確認する、という意味」では、「共産主義革命ではなかった」。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。第2巻単行著・p.481、三巻合冊著・p.741。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳、第2節の前回のつづき。
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 1917年の革命④(終)。
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。<この一文、前回と重複>
 彼は実際、『古い偏見への元戻り』をするつもりはなかった。
 しかし、しばらくの間は、独裁を農民層に対して、すなわちロシア人民(people)の大部分に対して、行使しなければならないとすれば、プロレタリア-トの圧倒的多数に支持される独裁はなおあり得るだろう、と考えた。
 この幻想(illusion)もまた、とっくに消え失せた。
 しかしながら、新しい国家は、最初から、労働者および農民の多数から支持されることを想定することができた。そうでなければ、レーニンが率直に認めたように、ソヴェト権力の将来が一度ならず脅威による縛り首に遭遇しかけた、戦慄するほどの内戦(国内戦争)の苦難を生き残ることができなかったはずだ。
 その年月の間にボルシェヴィキ党が示した超人間的な活力、そして党が労働者から絞り出すことのできた犠牲的行為が、経済的な破滅、甚大な人的被害、数百万の生命の損失および社会の野蛮化と引き換えに、ソヴェトの権力を救った。
 闘いの最後の局面では、革命はさらに、対ポーランド戦争の敗北にも遭遇した。これは、ソヴェト的体制を早い時期にヨーロッパへと移植することができるだろうとの望みを、最終的に打ち砕いた。//
 1919年4月23日に、レーニンはこう書いた。
 『ロシア人には、偉大なプロレタリア-ト革命を始めることは、まだ容易だった。
 しかし、彼らが革命を継続し、社会主義社会の完全な組織化という意味での最終的な勝利まで遂行するのは、より困難だろう。
 我々が始めるのは、まだ容易だった。その理由は、第一に、ツァーリ君主制という-20世紀の欧州にしては-通常ではない政治的な後進性が、大衆の革命的襲撃に通常ではない力強さを与えてくれたことだ。
 第二の理由は、ロシアの後進性が、ブルジョアジーに対するプロレタリア革命を、土地所有者に対する農民革命と独特なかたちで融合させてくれたことだ。』
 (『第三インターナショナルとその歴史上の地位』、全集29巻p.310〔=日本語版全集29巻308頁〕。)
 1921年7月1日、コミンテルン第三回大会で、レーニンは問題をより明快に述べた。
 『我々は、ロシアで勝利した。このように容易だったのは、帝国主義戦争の間に我々の革命を準備していたからだ。
 このことが、第一の条件だった。
 ロシアの数千万の労働者と農民が、戦闘をしていた。そして、我々のスローガンは、いかなる犠牲を払っても即時の講和を、というものだった。
 我々が勝利したのは、きわめて広範な農民大衆が大土地所有者に反抗する革命的な気持ちを持っていたからだ。』
 第二に、『我々が勝利したのは、持ち前のものではなく社会主義革命党〔エスエル〕の農業問題綱領を採用し、それを実践に移したからだ。
 我々の勝利は、社会主義革命党の綱領を実行したことにあった。』
 (全集32巻p.473, p.475〔=日本語版全集32巻504頁、506頁〕。)//
 レーニンは、実際、ロシアの共産主義者がヨーロッパの諸党のように『生産関係と生産力の間の矛盾』が必要な地点まで成熟するのを待たなければならなかったとすれば、プロレタリア革命の希望を捨て去るのを余儀なくされただろう、と認識していた。
 また、彼は、ロシアでの事態の推移は伝統的なマルクス主義の図式(schemata)と何の関係もない、とうことを十分に意識していた。その全ての関係にかかる理論上の問題を考察しなかったけれども。
 ロシア革命の圧倒的な力強さは、労働者とブルジョアジーの間の階級闘争にあったのではない。そうではなく、農民層の熱望、戦時中の大失敗、そして平和への渇望にあった。
 共産党(共産主義党)へと国家権力を移行させたという意味では、共産主義革命だった。
 しかし、資本主義社会の運命に関するマルクス主義者の予言を確認する、という意味での共産主義革命ではなかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 第2節、終わり。第3節の表題は、「社会主義経済の始まり」。<ネップ(新経済政策)>への論及が始まる。

1666/「前衛」上の日本共産党員⑨-2013年5月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年5月号による。
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 森 英樹/名古屋大学名誉教授-安倍内閣の改憲路線。+何度も。
 藤田孝典/ほっとプラス代表理事-生活保護・改憲反対。
 末浪靖司/ジャーナリスト-アメリカが求める九条改憲。
 小森美登里/「ジェントルハート」理事-いじめ問題。
 福井雅英/北海道教育大学教職大学院教授-同上。
 宮城みのり/民青同盟千葉県委員会副委員長-同上。
 藤岡裕子/尼崎医療生協病院副事務長-生活保護。
 丸浜 昭/歴史教育者協議会事務局長-歴史教育。
 **付記-不破哲三・スターリン秘史/大テロル(上)が41頁分ある。
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 別の号へとつづく。

1665/ロシア革命③-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命③。
 レーニンの死後に、一国社会主義をめぐる論争が勃発した。
 トロツキーとの争いで、スターリンは完全に、問題の背景を歪曲した。しかし、スターリンはおそらく、トロツキーと比べて、レーニンの考えにより忠実だった。
 問題の本質は、社会主義は様々な歴史上の理由で孤立した一国で建設されるべきかされるべきではないかではなくて、ロシアでの社会主義の建設は世界革命という根本教条に従属すべきか、それともその逆か、だった。
 この問題は、ソヴェト国家の政治にとって決定的な重要性をもつものだった。とくに、これだけではないが、その外交政策および共産主義の目標地点の設定にとって。
 トロツキーは、レーニンがロシア革命を世界革命の序曲だと、そしてソヴェト・ロシアは国際プロレタリアートの前衛だと見なしたことを示すレーニンの多数の言明を、指摘することができた。
 当然にレーニンは、この主題に関して語ってきたことを何も否認はしなかった。そして、スターリンはどちらかを明確に語ることをしなかった。その代わり、スターリンは社会主義は一国で建設され得るのか否かが問題であるかのごとく議論を誤って再提示(misrepresent)し、トロツキーはロシアの社会主義という根本教条を放棄していると示唆した。
 レーニンに関して言えば、内戦後の彼の注意力はほとんど平和的な建設の問題に奪われていたこと、そしてレーニンの最後の年月でのその政策は世界革命の指導者ではなく、国家の長としての政策だったこと、が認められなければならない。
 1920年11月29日の演説で彼がこう語った、というのは本当(true)だ。
 『我々が資本主義を全体として打倒できるほどに強くなれば、我々は資本主義の襟首をすぐさま掴むことになる。』
 (全集31巻p.441〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」447頁。)(+)(*)
 そして、レーニンが実際にそう考えていたことは、疑いない。
 しかし、彼が『共産主義=ソヴェト+全世界の電化』 と書いたとき、明らかに西ヨーロッパのではなくロシアの電化を意味させていた。
 レーニンの態度の変更は、明示的な理論上の正当化を伴っていなかった。
 スターリンがこの点についてのレーニンの立場をトロツキーのそれと対比させようとした試みは、完全にデマゴギー的(demagogic)だった。問題は、スターリンが述べたようなレーニンの時代にあったのではないのだから。
 しかしながら、世界革命の見通しに関する評価についてスターリンはトロツキーよりも慎重だっただけではなく、ソヴェト・ロシアは革命の前衛だというレーニンの言明をより論理的に解釈してもいた。
 なぜなら、ソヴェト・ロシアが世界のプロレタリア-トの最も貴重な財産であれば、明らかに、ソヴェト国家にとって良いものは何であれ、世界のプロレタリア-トにとって良いものだからだ。
 ソヴェト国家の直接的な利益が別の国の革命運動のそれと矛盾するならば、もちろん、何をすべきかについて問題とする余地はありえないだろう。
 このような場合に、外国の革命の不確実な運命のためにソヴェトの利益を決して犠牲にはしないというスターリンの戦略は、レーニン主義の原理と合致していた。//
 レーニンがこのように行動した証拠のうち、ブレスト=リトフスク条約の歴史ほどよく示すものはない。
 若い共和国がドイツに屈辱的な降伏をしたのは、レーニンがその党やロシアのほとんど全体の激しい反対にもかかわらず、強引に押し切ったからだ。
 党の外部の愛国者にとって、民族の恥辱だった。
 ボルシェヴィキにとって、世界革命への裏切りであり、ドイツ帝国主義との分離講和は問題になりえないとしていた1917年十月以前のレーニンの頻繁な保証を撤回するものだった。
 この条約は、敗北だった。そして、レーニンは、それ以外のことを言い張ろうとはしなかった。
 レーニンには、のちにスターリンがそうだったようには、あらゆる後退を輝かしい勝利だと言い立てる習癖はなかった。
 彼は十分に、ディレンマを意識していた。党に対して説明したように、不名誉な講和をすることでボルシェヴィキを救う(力を貯める、save)か、それとも、ロシアが打ち負かされてボルシェヴィキが権力を奪われる蓋然性が高いドイツに対する革命戦争の旗を振りづけるか、このいずれかをレーニンはしなければならなかった。
 教訓は、苦いものだった。そのことは、彼の人生の残りの間に頻繁にこの条約に言及することが示している。
 しかし、最初は(ブハーリンが主な指導者の一人だった)圧倒的大多数が反対したにもかかわらず中央委員会にこれを受諾するようにレーニンが強いた行為は、のちにスターリンが従った政治の、最初の明確な例だった。 
 ソヴェトの利益とボルシェヴィキの権力は至高のものであり、決して不確実な世界革命のために危険を冒してはならないものだった。//
 革命後ほとんど直ちに、新しい権力の正統性の問題は、レーニン主義の原理に従って曖昧に解決された。
 革命の前から予定されていた憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙は、11月末にかけて行われた。ボルシェヴィキは、投票数のおよそ四分の一を受け取った。
 この選挙は、平等の普通選挙権(universal sufferage)にもとづいて実施された、ロシアの歴史上の唯一の例だ。また、ボルシェヴィキの人気がその頂点にあったときに、行われた。
 1918年1月18日に開かれた憲法制定会議は、武装した海兵たちによって解散させられた。かくして、ロシアの議会制民主主義の歴史は、終焉した。
 憲法制定会議の解散の前にも後にも、レーニンは何度も、これに権力を与えることは、ブルジョアジーと大土地所有者の支配に戻ることを意味する、と宣告した。
 事態で明白なのはエスエルが最大多数を獲得したことで、これは農民大衆の意向を表明していた。
 1917年12年14日の演説で、レーニンはこう言った。
 『我々は、人民(people)の利益は民主主義的な制度の利益よりも優先する、と人民に告げる。
 我々は、人民の利益を形式的(formal)な民主主義の利益に従属させる、古い偏見に逆戻りしてはならない。』(+)
 (全集26巻p.356〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議」364頁〕。) //
 もう一度、12月26日の演説で、こう述べた。
 『「全ての権力を憲法制定会議へ」というスローガンは、労働者・農民革命が獲得したものを無視しており<中略>、実際にカデットやカレーディン派(Kaledinites)、およびその他の協力者たちのスローガンになった。<中略>
 憲法制定会議の問題を直接であれ間接であれ、ふつうのブルジョア民主主義の枠の範囲内で、かつ階級闘争と内戦を無視して、形式的、法的な観点から考察する全ての試みは、プロレタリア-トの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの立場を採用するものだ。』(+)
 (同上、p.381-2〔=日本語版全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」390頁・391頁。)//
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) この日付は旧暦とみられる。日本語版全集では、おそらく新暦で「12月6日」の演説とされているが、旧・新の日付の差とは合致しない。
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 段落の途中だが、ここで区切る。 
 ④へとつづく。

1664/明治維新⑤-吉田松陰と木戸孝允。

 一部の「保守」派あるいはかなり多くの国民にとって、吉田松陰は<偉人>なのだろう。
 そのことを全否定するつもりもないが、全肯定するつもりもない。<偉人>か否かは、どうやって決めるのか。
 水戸学-藤田東湖-吉田松陰(-一定の長州藩士)。とりあえず素人の頭の中に浮かんだラインを書いた。
 吉田松陰/留魂録-古川薫・全訳注(講談社学術文庫、2002/原著1990)。
 これに、松陰が「死罪」となった経緯を示す、松陰自身の文章が載っている。
 1859年。その後、10年も経つと、明治新政府ができて、「内戦」も終わっている(西南戦争等は別論)。
 以下は原文でも現代語訳でもない、読み下し文。最初と最後の1/3ほどだけ。
 「7月9日、初めて評定所呼び出しあり、三奉行出座…/
 …何の密議をなさんや。吾が性公明正大たることを好む。余、是に於て六年間幽閉中の苦心たる所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。」(p.82、第二章)
 古川の「解題」によると(おそらく基本的には諸研究者の一致はあると見られる)、「下獄」=死罪(斬首)の基礎は「自首」で、その内容は、①勤王派公卿・大原重徳を長州に招いて「反幕」の旗揚げを図ったこと、②老中・間部詮勝(鯖江侯)の「暗殺」を企てたこと。
 吉田松陰の死は安政の大獄による不当なもの(逆殺)という見方もあり、そういう印象もあるのかもしれない。
 だが、これを読むと、まず少なくとも、当時の政府側(江戸幕府)による<暗殺>ではないし、(上では分からないが)当時としてはとくに残虐な処刑方法だったのではなさそうだ。 
 逮捕-取調べ、という<手続>は履んでいる。そして「自白」を基礎にしている。
 「自白(自首)」内容が事実そのままだったかどうかは、判断し難い。
 だが、明治憲法・刑事法制下での「犯罪」に関する取り扱いを想定して比べてみても、政府要人の「暗殺」企図に対する処断としては、当時としてはありうるだろう、という感想は抱く。
 吉田松陰はすでに幕府(当時の国の政府)に知られていると勘違いしていたという話もあるし、<誠を尽くして説明すれば政府・公務員も理解してくれる>と考えた「甘さ」・「若さ」があった、ともされる(古川、p.43)。 
 おそらくは、吉田松陰の上の文章部分を基礎にして、長州藩士側の文献史料も含めて、吉田松陰の死と「その遺体の埋葬」に関する小説類は書かれている。
 当時としてはさほど無茶苦茶な処刑ではなかったとしても、<首と胴体の離れた>、髪が乱れて(出血があるから当然の推測だが)「軽く」なった松陰の遺体を抱えて、埋めた長州藩士たちが、井伊直弼や幕府に対して、<こいつらは絶対に許せない>と憤懣するところがあっても、これまた、自然なことかもしれない。
 引用は省くが、つぎの著(小説)は、松陰「殺害」=処刑によって<幕府は長州を敵に回してしまった>と、重要な画期だったとしている。
 村松剛・醒めた炎-木戸孝允(1987)。
 既にこの欄に書いたが、松陰の「死体」を見て、処理をした者数名の中に、木戸孝允(桂小五郎)と伊藤俊輔(・博文)がいた。
 吉田松陰の死の影響力の大きさは、この「留魂録」そのものにもあっただろう。
 これは、死の直前の遺書であり、かつ若き長州藩士たちへの「遺言」でもある。
 一番最後に記された個人名は、「利輔」、すなわちのちの伊藤博文だ。p.116。
 この書を、ある程度の範囲の者たちは<回し読み>をして、胸に刻んだ、という。
 松陰が彼らに教えたこと、「遺言」にも記したことが、一定の人々に<精神的>影響を与えなかったはずはない、と思われる。人によるし、程度の差はあるだろうが。
 木戸孝允(桂小五郎)は、五箇条誓文の文章を最終的に決定し、それの奏上の形式も最終的に決した、とされる(むろん当時の政権中枢の支持・決裁を受けたが)。
 よくも悪くも(?)、明治期初年までの木戸孝允は、重要な人物だ。
 何が、いかなる情念、怨念、あるいは人間関係、あるいは出身地(出身藩)が、木戸孝允等々を動かしたのか。
 誰についても言えるだろう。西郷隆盛についても。あるいは動く現在の<歴史>についても。
 <歴史を動かす・変える(現実化する)>のは、理念・建前論・知識等々の<綺麗ごと>だけではないのだ、後者もまた無視してはいけないが、という関心からも明治維新を考える。

1663/ロシア革命②-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命②。
 1917年9月にレーニンは、こう書いた。
 『世界的な社会主義革命が成熟しており不可避であることは、疑う余地がない。<中略>
 プロレタリアートが権力を獲得すれば、その権力を維持し、西側での革命の勝利までロシアを導いていく,全ての可能性があるだろう。』(+)
 (『ロシア革命と内戦』、全集26巻p.40-p.41〔=日本語版全集26巻27頁,28頁〕。)
 十月革命のほとんど直前に、こう書いた。
 『疑うのは、問題外だ。我々は、プロレタリア世界革命の発端地(threshold)にいる。』(+)
 (『危機は熟している』。同上、p. 77〔=日本語版全集26巻66頁〕。)
 革命の後でレーニンは、1918年1月24日に第三回ソヴェト大会に対して、こう宣言した。
 『我々はすでに、世界の全ての国で、時々刻々に(by the hour)社会主義革命が成熟しつつあるのを見ている。』(+)
 (同上、p.471〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会」480頁〕。)(+)
 1918年8月には、以下。
 『我々はすでに、西ヨーロッパで革命の火の手がいかに頻繁に火花を散らしたり爆発とたりしているかを見ている。
 それらは、世界の労働者革命の勝利は遠くはない、という確信を我々に与えている。』(+)
 (全集28巻p.54〔=日本語版全集26巻「労働者の諸君!/最後の決戦にすすもう!」45頁〕。)
 1918年10月3日には、以下。
 『ドイツの危機は、始まったばかりだ。
 これは不可避的に、政治権力のドイツ・プロレタリアートへの移行で終わるだろう。』(+)
 (同上、p.101〔=日本語版全集28巻「全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、工場委員会代表、労働者組合代表の合同会議にあてた手紙」100頁〕。)
 1918年11月3日には、以下。
 『至るところで世界革命の最初の日が祝福されるときは、すでに間近いのだ。』(+)
 (同上、p.131〔=日本語版全集28巻「オーストリア=ハンガリー革命を祝うデモンストレーションでの演説」133頁〕。)
 1919年3月6日、第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕第一回大会で。
 『世界的範囲でのプロレタリア革命の勝利は、保障されている。
 国際ソヴェト共和国の創立は、近づいている。』(+)
 (同上、p.477〔=日本語版全集28巻「共産主義インターナショナル第一回大会/閉会の際の結語」510頁〕。)
 レーニンは、1919年7月12日に党モスクワ県会議で、こう予言した。
 『来年の七月、我々は世界ソヴェト共和国の勝利を歓迎するはずだ。そして、この勝利は、完全で不可逆的(irreversible)なものになるだろう。』(+)
 (全集29巻p.493〔=日本語版全集29巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ会議での共和国の内外情勢についての報告」501頁〕。)//
 これらの予言は、諸事態、『革命の上げ潮』やバヴァリア(Bavaria〔独・バイエルン〕)、ハンガリーおよびエストニアでの暴乱、の観察にのみではなく、欧州の戦争は資本主義の打倒によってのみ終止させることができるとのレーニンの確信にももとづいていた。
 レーニンは1918年7月3日に演説したが、<プラウダ>でこう報道された。
 『戦争は、絶望的なものに(hopeless)なっている。
 この見込みなさ(hopelessness)は、我々の社会主義革命が世界革命が勃発するまで持ちこたえる十分な機会がある、ということの保障だ。
 このことを保障するのは戦争だが、それを労働者大衆だけが終わらせることができるだろう。』(+)(*)
 (全集27巻p.502〔=日本語版全集27巻「第五回ソヴェト大会の共産党代議員団での演説」517頁〕。)
 レーニンが一国での社会主義の勝利の永続(permanence)を信じていなかった、ということもまた、疑いの余地がない。
 1918年1月の第三回ソヴェト大会で、こう語った。
 『唯一つの国での社会主義の最終的な勝利は、もちろん、不可能だ。』(+)
 (全集26巻p.470〔=日本語版全集26巻「(既出)」480頁〕。)(+)(**)
 1918年3月12日の論文では、以下。
 『救いは、我々が着手した、世界社会主義革命の途にのみある。』
 (全集27巻p.161〔=日本語版全集27巻「今日の主要な任務」161頁〕。)(+)(***)
 1918年5月26日の演説では、以下。
 『我々は、かりにつぎのことがあっても、唯一つの国では社会主義革命を自分たちの力のみで完全に遂行することはできない、ということに、目を閉ざしはしない。すなわち、その国がかりにロシアに比べてはるかに後進性が少ないとしても、また、我々が前例なき、苦しい、苛酷な、そして惨禍の戦争が4年間続いたあとで、よりよい条件のもとで生活しているとしても。』(+)
 (全集27巻p.412〔=日本語版全集27巻「国民経済会議第一回における演説」427頁〕。)(+)
 1918年7月23日の演説では、こうだ。
 『その革命が孤立していることを意識しているので、ロシアのプロレタリアートは、自分たちの勝利の不可欠の条件であり基本的な必須条件が全世界の、またはいくつかの資本主義が発達した諸国の労働者の統一した行動であることを、認識している。』(+)
 (同27巻p.542〔=日本語版全集27巻「工場委員会モスクワ県会議での報告」562頁〕。)(+)//
 こうした望みが絶えて、つぎのことが明白になったとき、党は、奪い取った権力で何をすればよいのかという問題に直面した。すなわち、ヨーロッパのプロレタリアートはボルシェヴィキの例に従うつもりがない、そうでなくとも彼らの革命の企ては失敗するだろうこと、また、戦争を革命以外の別の方法で終わらせることができること、が明白になったとき。
 権力を放棄するなどということは、あるいは実際に、権力を別の社会主義勢力と分かち合うということも、問題にならなかった。
 (左翼エスエル〔社会革命党左派〕に関する短いエピソードは重要ではなく、『権力への参加』という叙述に値するものではなかった。)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*/秋月注記) この1918年1月の演説の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集27巻518頁の訳による)。-「…われわれは、わが同胞ばかりではなく全世界の労働者にたいしても、責任を負っている。/彼らは社会主義が不可能なものではなく、労働者の堅固な制度であって、全世界のプロレタリアートは社会主義を目ざさなければならない、ということがわかるにちがいない」。
 (**/注記) この1918年1月の文章(演説)の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集26巻482頁の訳による)。-「われわれは、革命の発展がどこまで大きくすすむかをはっきりと見きわめている。ロシア人が火蓋をきった。-ドイツ人、フランス人、イギリス人は完成させるだろう。そして社会主義は勝利するだろう。(拍手)」.
 (***/注記) 日本語版では「3月12日」ではなく、「3月11日」の論文とされている。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 レーニン死後の、「世界」・「一国」にかかるスターリンとトロツキーの間の論争?等についての、③へと、つづく。

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1661/ロシア革命①-L・コワコフスキ著18章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第2節へ。第2巻の単行著、p.473~。
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 第2節・1917年の革命①。
 多様な社会主義集団が革命を期待して存在してきたが、1917年二月の勃発は彼らの助けを借りないままで生じ、彼ら全ての驚愕だった。
 数週間前に、トロツキーはアメリカ合衆国に移り住んで、永遠に欧州を離れることになると考えた。
 レーニンは1917年1月に1905年の革命に関する講演をツューリヒでしたが、その中にはつぎの文章があった。
 『我々、旧い世代の者たちは、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(全集23巻p.253〔=日本語版全集23巻「1905年の革命についての講演」277頁〕。)
 この二月革命に何らかの政党が何か直接に関係しているとすれば、それは、協約諸国に呼応したカデット(リベラルたち〔立憲民主党〕だった。
 レーニン自身は、ロシアはもちろんフランスやイギリスの資本主義者たちはツァーリがドイツ皇帝と分離講和を締結するのを妨害したかった、したがってツァーリの皇位を奪うことを共謀した、と観察した。
 この企みが、飢餓、敗北および経済的混沌によって絶望的になった大衆の反乱と合致した。 
 300年にわたって続いてきたロマノフ王朝は、一夜にして崩壊した。そして、社会のいかなる重要な勢力にもそれを防ぐ用意がない、ということが明白だった。
 八ヶ月の間、ロシアの歴史は最初にして最後の、完全な政治的自由を享受した。何らの法的秩序によってではなく、主としてはどの社会勢力も状況を統御していなかったがゆえに。
 ドゥーマにより設置された臨時政府は、1905年革命を真似て形成された労働者・兵士代表評議会(ソヴェト)と、不確定な権限を共有した。しかしどちらも、大都市の武装した大衆を適切に統制することができなかった。
 ボルシェヴィキは当分の間はソヴィエト内の小さな少数派だった。そして、全政党が、革命が進んでいる行路に関して完全に混乱していた。//
 レーニンは、4月にペテログラードに到着した。ドイツはレーニンに、様々の政党から成る数ダースの帰還者と一緒に、安全な護衛を付けた。
 もちろんレーニンは、皇帝の戦争を助けるためにではなくて革命がロシアからヨーロッパの残りへと広がるだろうと望んで、ドイツからの援助を受けた。
 スイスを出立する直前に書いた<遠方からの手紙>で、レーニンは、その基本的な戦略を定式化した。
 ロシアの革命はブルジョア的なそれなので、プロレタリアートの任務は、人民に食物、平和そして自由を与えることのできない支配階級の欺瞞の皮を剥ぎ取ることだ。そしてその日の命令は、憤激した半プロレタリア農民層に支持されたプロレタリアートに権力を譲り渡す、革命の『第二段階』を準備することだ。
 このような綱領はロシア帰国後にすぐに、有名な『四月テーゼ』へと発展した。
 戦争に対する不支持、臨時政府に対する不支持、プロレタリアートおよび貧農のための権力、議会制共和国をソヴェト共和国に置き換えること、警察、軍隊および官僚制度の廃止、全官僚が選挙されかつ解任可能であること、地主所有地の没収、全ての社会的生産と分配へのソヴェトによる統制、インターナショナルの再結成、〔党名に〕『共産主義』を明示することの党による採択。//
 革命の社会主義段階への即時移行を明確に要求することを含むこれらのスローガンは、社会主義者の伝統を完全に否定するものと見なしたメンシェヴィキによってのみならず、多数のボルシェヴィキ党員からもまた、反対された。
 しかしながら、レーニンの揺るぎなき信念は、全ての躊躇を抑えた。
 同時に、彼は支持者たちに、ソヴェトに支えられているので臨時政府をただちには打倒できない、ということを明確にした。
 ボルシェヴィキは先ずはソヴェトの支配権を握り、そして労働者大衆の多数派を自分たちの側に獲得しなければならない。帝国主義者の戦争はプロレタリアートの独裁によってのみ終わらせることができる、との確信を抱かせることによって。//
 レーニンは7月に、『全ての権力をソヴェトへ』とのスローガンを破棄した。ボルシェヴィキはしばらくの間はソヴェト内での多数派を獲得することができない、支配するメンシェヴィキとエスエルは反革命に転化して、帝制主義の将軍たちのの奉仕者になった、と決定したのだった。
 かくして、革命への平和的な途は、閉ざされた。
 このスローガンの破棄は、ボルシェヴィキがその暴力を示した〔七月蜂起の〕後で起こった。レーニンはのちの数年の間、この暴力行使を猛烈に否定したけれども、おそらくは(probably)、権力奪取の最初の企てだった。
 逮捕されるのを怖れて、レーニンはペテログラードから逃げて、フィンランドに隠れた。そこで党活動の指揮を執り、同時に、<国家と革命>を書いた。
 -この書物は、武装する全人民により権力が直接に行使されるというプロレタリア国家のための、異常なほどに半(semi-)アナキスト的な青写真を描くものだ。
 この綱領の根本的考え方は、ボルシェヴィキ革命の行路によってすぐに歪曲されたのみならず、レーニン自身によって、アナクロ=サンデカ主義的夢想だとして愚弄された。//
 将軍コルニロフ(Kornilov)による蜂起の失敗はますます一般的な混乱を増大させ、ボルシェヴィキにとって事態がより容易になった。
 レーニンの政策は党がコルニロフの反抗を助けることで、ケレンスキー政権の支持へと漂い込むことではなかった。
 彼は、8月30日付の中央委員会あて手紙でこう書いた。
 『この戦争が発展することだけが、<我々を>権力へと導くことができる。しかし、我々は情報宣伝(扇動・プロパガンダ)では、可能なかぎりこれについて言わないようにしなければならない。明日の事態すらもが我々に権力を握らせるかもしれないこと、そのときには我々は決して権力を手放さない、ということを十分に銘記しながら。』(+)
 (全集25巻p.289〔=日本語版全集25巻「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」312頁〕。)
 ボルシェヴィキは9月に、ペテログラード・ソヴェトの多数派を獲得した。そして、トロツキーが、その議長になった。
 10月に入って、〔ボルシェヴィキ〕中央委員会の多数派は、武装蜂起に賛同する表決をした。
 ジノヴィエフとカーメネフは、反対した。そして、この彼らの態度は一般に広く知られた。
 ペテログラードでの権力奪取は、比較的に簡単で、無血だった。
 その翌日に集まったソヴェト大会は、ボルシェヴィキが多数派で、土地問題に関する布令と併合や賠償なき講和を呼びかける布令を裁可した。
 純粋にボルシェヴィキの政府が権力を握った。そして、レーニンが約束していたように、それを手放すつもりは全くなかった。//
 レーニンの暴動政策および全ての見込みが、ロシアの革命は世界革命を、少なくともヨーロッパの革命を誘発するだろうとの確固たる予測にもとづいていたことに、何ら疑いはあり得ない。
 こうした考えは、実際、全てのボルシェヴィキ党員に共有されていた。
 革命後、最初の数年間のロシアでは、『一国での社会主義』に関する問題は何もなかった。
 1917年のスイス労働者に対する別れの手紙で、レーニンはこう書いた。
 ロシア農業の性格と満足していない農民大衆の熱望からすると、ロシアの革命はその規模からして、世界の社会主義革命の序曲(prelude)である『かもしれない』、と。
 しかし、この『かもしれない』は、すみやかにレーニンの演説や論文から消えて、次の数年の間のそれらは、西側でのプロレタリアの支配がごく間近に接近している(just round the corner)という確信に充ち満ちていた。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 (+ 注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1660/「日本会議」と日本の保守と安倍一強政治・仮説。

 以下は、仮説だ。
 第一。のちに事務総長となる椛島有三等々は、日本の<保守>運動の主導権を握られるのを怖れて、<新しい歴史教科書をつくる会>設立後に追いかけるように(?)「日本会議」を発足させた。1997年のこと。歴史教科書問題に限らない、という自負が「日本会議」という名称にはあるのかもしれない。
 その当時に<保守>側の民間運動の中心または有力部隊とも見られたかもしれない<新しい歴史教科書をつくる会>に対するヤッカミ、自分たちのそれまでの運動に対するアセリがあった。
 第一の2。事務総長・椛島有三の「日本会議」は、それまでは表向きは併存しかつ協力とているように見えた<新しい歴史教科書をつくる会>を弱体化させることを、最終的に2006年頃には企んだ。
 その工作(?)の有力な対象になったのが、八木秀次だ。
 その際の口説き?文句は、藤岡信勝はニッキョー、つまり元共産党党員だぞ、という脅かし、又は警告だ。
 上の一文については、別途触れたい。
 これにより実際に、分裂した。
 この分裂に加担した「政治屋」の一人は、屋山太郎。平然と片方に同調したのが、渡部昇一。
 <採算>とかを理由にして、「日本会議」側を応援したのが、産経新聞社
 産経新聞-扶桑社、そして分裂した他方の側を出版しているその子会社の育鵬社
 産経新聞社は「商売」として、どちらを選ぶかを判断した。むろん、椛島有三らからの働きかけもあった。決して、<美しい>話ではないし、<単純な経営判断>ではない。
 この分裂頃を最終的な契機として、櫻井よしこは「日本会議」側に明確に立つ。そして、2000年頃のこの人の評論・論評とは異なるスタンスの文章がめっきりと増えるようになり、現在に至る。
 2007年12月、国家基本問題研究所設立、櫻井よしこが理事長
 なお、この直前、2007年秋に、安倍晋三第一次内閣が崩壊。
 中西輝政も、どちらかというと、「日本会議」の側に傾斜。いつか記したが、「日本会議」系の書物を出している。この点で、西尾幹二、藤岡信勝とまるで異なる
 2007年4月刊行の椛島有三の書の<主要参照文献>が、中西輝政、渡部昇一らの本を複数挙げつつ、西尾幹二、藤岡信勝の著を全て無視していることは、すでに記した。
 以上の経緯からしても、産経新聞、月刊正論(産経)がなぜ(たいしたことを書いていないのに)八木秀次を重用しているかも理解できる。
 月刊正論編集部には<八木秀次と○○は大切に>との旨の伝言文書があるのだろう。いや、そんなことは酒席でも引き継げるのかもしれない。
 しかし、ときどきは?、月刊正論に西尾幹二や藤岡信勝を登場させて、<単色ではない>旨を宣伝するために利用する。
 花田紀凱やワック社は、もちろん「商売」、雑誌販売のために櫻井よしこ、渡部昇一あるいは「日本会議」系の人々を利用してきた。いや、持ちつ、もたれつ。国家基本問題「研究所」の評議員とやらにも名を連ねる。
 レーニン関係英語書を見ているおかげで、disguise (偽装する)とか pretend (ふりをする)という言葉に慣れた。あるいは、propaganda (情報宣伝、虚偽情報宣伝、扇動)も。
 以上の「人間的な」ことよりも本来は大切なことだが、「日本会議」は決定的に<反共産主義>性が弱い、または薄い
 このことは大きく、かつ決定的に、日本の<保守>にとっての弊害になっている。
 この点は何度でも触れなければならない。じっくりと、渡部恒雄や水野成夫(二人とも日本共産党の党員経験あり)も含めて、日本の「左翼」をたどってみる必要もある。後者は、フジ・産経グループの祖。
 そして、西尾幹二や藤岡信勝の今日もまた、この「日本会議」史観?にある程度は(彼らの考える「保守」の範囲内で)ある程度は引き摺られている。
 なぜこう書くかというと、1990年代半ば、つまり「つくる会」設立前後あたりの方が、この二人の<反共産主義性>の論調は強かったように感じる。
 とはいえ、まだ櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らの<単純民族系>に比べると、はるかにマシなのだが。
 <愛国>は健全なナショナリズムの意味では、当たり前のことで、反・左翼というだけならば、ほとんど意味はない。天皇制度についてはこれまでも触れたし、また触れるだろう。貴重で偉大だったとかりにすれば、日本人が偉大だったのだ。かつ、<日本人は偉大だ>などと殊更に言い募る必要もない。
 この人たち、つまり椛島有三、伊藤哲夫、櫻井よしこらは、日本「民族」の誇り・矜恃を持ちたいだけで、「共産主義」などには理論的にも実践的にも関心が乏しいのではないか
 日ロ戦争後に「五大国と言われるまでになった」とか、戦後に「経済大国」と称されるようになった、というのは、殊の外、この人たちの自尊心?を満足させているように見える。
 しかし、「経済大国」にも俗にいう「光と影」があったのだ。もちろん戦前の「五大国」の一つにも。
 第二。安倍一強政権と言われるほどに(つい最近までは、だが)なって、「日本会議」派は、それを支えてるのはオレたちだ、と主張したくなったのではなかろうか。
 「日本会議」関係国会議員連盟とかがあるらしい。安倍内閣の閣僚のうち、我々と親しい関係のある大臣がこれだけいますと、誇りたくなったのではないか? むろん、稲田朋美もその一人。小池百合子はどうも違ったようだ。産経や月刊正論等の扱いで却って分かるのだが。
 もちろん、国会議員・政治家もまた(安倍晋三もだが)、「日本会議」をそれなりに利用している。その背景にある何百万?、何十万?世帯会員、あるいは産経新聞定期購読者は貴重でかつ固い「票」だ。「日本会議」と神道政治連盟はきっと深く関係がある。神社・神道は私の「心のふるさと」の一つなのに。
 急に「日本会議」批判本がたくさん出るようになったのは、2016年くらいからだろう。
 背景には、安倍一強政治の背景への関心もあっただろうし、安倍晋三に「ネオ・ナチ」とレッテルを貼り、「日本会議」にも系譜的に論及した不破哲三・月刊前衛掲載論考もあった。
 間違いなく、日本共産党の党員の評論家類(青木理、俵義文ら)はそれに沿って動いた。
 しかし、仮説として、また推測として言うのだが、「日本会議」の名前を、その事務総長の存在等々も、以前よりも広く知ってほしくになった者たちが、<左翼>系ジャーナリスト等に(日本共産党の党員であっても)情報を流したのではあるまいか。
 菅野完あたりは、手頃な対象者になりそうだ。菅野の本の出版元は、扶桑社。
 <油断>すると、あるいは<傲慢>になると、そんなことくらいはしそうな人々がいそうに思える
 表向きの新聞やテレビなどは産経新聞も含めて(朝日新聞らはむろんだが)それぞれに<角度が付いて>いる。
 当たり前のことだが、「日本会議」もまた、<謀略・策略>をする団体でもある。
 何らかの意図をもって(全て広義では「政治的意図」だ)働きかけたり、情報宣伝をしたり等をするのは、全て<謀略・策略>でもあると、純真すぎる傾向のあるやにも見える日本人は意識しておく必要がある。
 以上、すべて、仮説、推測。こんな投稿は、真面目に?これまでしたことがなく、きちんと根拠文献を挙げる、という姿勢でずっときたのだが、無名のこんなブログ欄に、この程度のことを記しても、きっと許されるだろう。

1659/第一次大戦③-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争③。
 ロシア国外での最後の年月に、レーニンは諸著作の中でおそらく最も一般に知られているものを書いた。すなわち、<帝国主義-資本主義の最高段階>(1917年、ペテログラード刊)。
 この小冊子-その経済の部分はレーニンの主要な根拠文献であるホブソン(Hobson)およびヒルファーディング(Hilferding)に見出され得ないものは何もない-は、革命党に対して力をもつべき新しい戦術の理論上の基礎を提供することを意図していた。
 帝国主義の世界的性格および不均等な発展を強調して、レーニンは、やがて共産主義諸党を拘束することとなる戦術の基礎を設定した。
 正しい路線は、いかなる理由によってであれ、いかなる階級の利益になるのであれ、いかなるときであれその時点の体制を打倒しようとする傾向の、全ての運動を支持することだ。植民地諸国の解放、民族運動あるいは農民運動、大きな帝国主義諸国に対するブルジョア的民族蜂起。
 これは、彼が何年もの間にロシアで説いてきた戦術を一般化するものだった。
 ツァーリ専政体制に反対する全ての要求と全ての運動を支持すること。そうして、それらの活力源を利用して、決定的な瞬間に権力を奪取すること。
 マルクス主義党の勝利は最終の目標だが、それはプロレタリアートだけで達成さ得るものではない。
 レーニンはすみやかに、実際に、民族主義者や農民のような他の大衆運動の支持なくして、労働者階級はその名前のもとで革命を遂行することはできない、との結論に達した。言い換えると、伝統的マルクス主義の意味での社会主義革命は、実現不可能なことだ。
 このことを発見したことは、レーニンの成功のほとんど全ての淵源であり、また彼の失敗のほとんど全てのそれだった。//
 農民との関係の問題は、この時期に、レーニンとトロツキーの間の主要な不一致点の一つだった。
 トロツキーは戦争勃発まで主にウィーンに住み、1908年以降は自身の機関誌<プラウダ>を編集した(彼は1912年に、ボルシェヴィキがその冠名を奪ったと非難した)。
 彼は折に触れて様々な問題についてメンシェヴィキとともに活動したが、それに加入はしなかった。来たる革命について異なる考え方をもち、社会主義の段階へと進化するだろうと予見していたからだ。
 トロツキーは党の一体性を回復しようと努力を繰り返したが、不首尾に終わった。
 彼は1914年から戦争反対派に属し、レーニンとともに『社会的愛国主義』を攻撃した。
 彼はまた、ツィンマーヴァルト宣言の草案も書いた。 
マルトフと一緒にパリで雑誌を発行し、それにはルナチャルスキーその他の指導的な社会民主主義知識人たちが寄稿した。
 第二回大会からボルシェヴィキに加入した1917年まで、トロツキーは、レーニンの側で例外的に敵愾心を抱く対象だった。現実の論争点に同意するかどうかに関係なく。
 レーニンは、トロツキーをこう描写した。状況に応じて、小うるさい弁舌者、役者、策略家、そして<ユドゥシュカ(Yudushka)>だ、と(最後は『小さなユダヤ人』の意味で、サルチュイコフ=シェードリンの小説<ゴロヴレフ一家>に出てくる偽善的性格の人物の名)。
 レーニンはまた、こうも言った。トロツキーは原理のない男で、一つのグループと他との間に巧みに身を隠し、発見されないようにとだけ気を配っている、と。
 レーニンは、1911年に、つぎのように書いた。
 『トロツキーにはいかなる考えもないので、この問題の本質に関して彼と議論するのは不可能だ。
 我々は、信念ある解党派やotzovists(召還主義者)たちと論じ合うことができるし、そうすべきだ。
 しかし、このどちらの傾向の過ちも隠そうとする遊び人と議論しても無意味だ。
 トロツキーの場合にすべきことは、最低限の度量しかない外交家だという姿を暴露することだ。』(+)
 (『確かな党政策から見るトロツキーの外交』、1911年12月21日。全集17巻p.362〔=日本語版全集17巻373頁〕。)
 彼は、1914年に、同じ考えを繰り返した。
 『しかしながら、トロツキーには「相貌(physiogmology)」が全くない。
 ただ一つあるのは、場所を変えて、リベラル派からマルクス主義者へと飛び移ってまた戻る、宣伝文句や大げさな受け売り言葉の断片を口に入れる、という癖だ。』(+)
 (『「八月ブロック」の分解』、1914年3月15日。全集20巻p.160〔=日本語版全集20巻163頁〕。)
 『トロツキズム』それ自体に関しては、こう言う。
 『トロツキーの独創的な理論は、ボルシェヴィキからは、断固たるプロレタリアの革命闘争やプロレタリアートによる政治権力の征圧の呼びかけを借用し、一方でメンシェヴィキからは、農民層の役割を「否認すること」を借用した。』(+)
 (『革命の二つの方向について』、1915年11月20日。全集21巻p.419〔=日本語版全集21巻432頁〕。)//
 トロツキーは、実際に、党はブルジョアジーの添え物ではなくて階級闘争を指導する力でなければならないとのレーニンの見地を共有していた。
 レーニンと同様に、トロツキーは、解党主義者と召還主義者のいずれにも反対した。そして、レーニンよりも早く、『二段階の革命』を予見した。
 しかしながら、彼は農民層がもつ革命的な潜在力の存在を信じなかった。そして、ヨーロッパ全体での革命の助けを借りてプロレタリアートはロシアを支配するだろう、と考えた。//
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 (+)=秋月注記。日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
 第1節、終わり。つづく第2節の表題は、「1917年の革命」。

1658/中西輝政と西尾幹二②。

 中西輝政・歴史通2016年5月号(ワック)。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。
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 「共産主義は当時からアジアの平和をかき乱す最大の要因だったわけです。それをなぜ、懇談会報告書は無視したのか」。「中国共産党への迎合ではないか」。p.75。
 「歴史問題には、戦後日本が抱え続けてきた『闇』が伏在しているように思えてな」らない。p.76。
 「ロシア革命の1917年ごろから、日本は共産主義の悪しき影響を受け続けてきた」。p.77。
 「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメントが日米関係を最重視する特定の歴史観を『オーソドクシーとして動かさないぞ』という、非常に強い意志がある…」。p.78。
 以上、中西輝政・月刊正論2015年11月号(産経)。
 「20世紀は、四つの大きなイデオロギーに支配された世紀でした」。①ファシズム、②共産主義、③「白人文明覇権思想」、④「アジア主義」。日本の④が「イデオロギーとしては最も貧弱」。20世紀はあとの三つ、「つまり西欧が創り出したイデオロギーによって攪拌された」。p.83。
 「それらの根はただ一つ、フランス革命に端を発して」おり、「アメリカのフェデラリズム」と「ソビエトの革命思想」に流れるものの二つがあった。「それに対するアンチ・フランス革命の思想としてナチズムが生まれた」。p.83。
 「そういう思想どうしの戦い」、「 いわば西洋の『内戦』に日本は否応なく参戦させられた」。中国も「参戦」した。中国は共産主義の側に立ち、日本は「欧米帝国主義に最も近いようでいて、実際にはどれにも属さない形で、西洋の価値観との争いのボーダー上のに自らを置いて歴史を刻んできた」。p.84。
 20世紀の日本には「この三つのイデオロギーが全て入ってき」たが、「どのいずれにも徹底的に属することはしなかった」。常に「どこにも所属しない孤独の中にあった」が、「そういう自己像を、当の日本人自身が把握しきれていない。そこに今日の混乱の根がある」。
 以上、西尾幹二・月刊正論2015年11月号(産経)。
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 少しばかりのコメント。①中西輝政のいう「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメント」なるものがきわめて気になる。読売新聞社も、産経新聞社(フジ・産経グループ)もその中に入っているのではないか。
 ②西尾幹二の歴史把握は鋭いだろうが、分類・系統化に全て賛同するものではない。

1657/第一次大戦②-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争②。
 このような訴えは、呆けた夢物語のように見えたかもしれなかった。一握りの社会主義者たちだけが、それを支持するつもりがあったのだから。
 ほとんどの社会民主主義者たちは、階級闘争を中止して祖国の防衛のために結集しようという考えだった。
 プレハノフはこのように考えたロシア人の一人で、自分はマルクス主義者だと表明し続ける一方で、心から愛国主義の見地を受け入れた。
 このことによってプレハノフとレーニンの間の休戦状態は瞭然として終わりを告げ、プレハノフとポトレソフはもう一度、『道化師』であり反動派の指導者のプリシュケヴィチ(Purishkevich)の従僕だと非難された。
 レーニンは、イギリスのハインドマン(Hyndman)やフランスのゲード(Guesde)、エルヴェ(Herve)のような、その態度の基礎に民族の自己防衛原理をおく、全ての社会主義指導者と類似の見解をもっていた。当然に、交戦諸国の中には『侵略者(aggressors)』はいなかったことになる。
 しかしながら、徐々に戦争反対の集団が全ての国で形成された。そのほとんどは、正式に中心的位置を占める社会主義者によっていた。ドイツのベルンシュタイン、カウツキーおよびレデブーア(Ledebour)、イギリスのラムジー・マクドナルド(Ramsay MacDonald)。
 これには、マルトフとアクセルロートが率いる、従前のメンシェヴィキのほとんど、およびトロツキーも、属していた。
 しばらくの間、彼らの基礎的な違いにもかかわらず、レーニンの集団はこれら『平和主義者(Pacifists)』と折り合いをつけようとした。
 主としてスイスとイタリアの社会主義者の努力によって国際的な会議が1915年9月にツィンマーヴァルト(Zimmerwald)で開かれ、妥協的な戦争反対の決議を採択した。
 ツィンマーヴァルトは一時的には、新しいインターナショナル運動の萌芽だと見なされた。しかし、ロシア革命の後では、中心部とツィンマーヴァルト左派の間の意見の違いは、平和主義者と、祖国を防衛する者はともかくもこう称された『社会的な熱狂愛国主義者』の間の対立よりも、大きいものであることが分かった。
 38人の代議員のうちの7名から成るツィンマーヴァルト左派は、一般的な決議に署名することに加えて、自分たちの決議をも発した。それは、社会主義者たちに、帝国主義的政府からの撤退と新しい革命的なインターナショナルの結成を呼びかけるものだった。//
 レーニンは、初期の段階では、戦争反対の平和主義的な社会民主主義者を、『社会的な熱狂愛国主義者』に対してしたのと同様に激しく攻撃した。   
 彼の主要な反対論は、第一に、〔ツィンマーヴァルト会議での、社会民主主義者の〕中央主義者(centrists)は、自分たちの政府に対する革命的な戦争を遂行することによってではなく、国際的な協定を通じて講和することを望んでいるということだった。
 このことは、戦前の秩序への回帰と『ブルジョア的』方法による平和への懇請を意味する、とした。
 中央主義者は明らかにブルジョアジーの従僕で、帝国主義戦争を終わらせる唯一の途は少なくとも三つの大陸大帝国を打倒する革命によってだ、ということを理解できていない、とする。
 第二に、平和主義者は『併合または賠償のない講和』を望んでいる、ということだった。そのことで彼らが意図しているのは、戦時中の領土併合の放棄だけであり、かくしてその民族主義的抑圧を伴う旧い諸帝国を維持することだ。
 しかし、レーニンが考えるには、革命的な目標は、全ての領土併合を無効にすること、全ての民衆の自己決定権を保障すること、そしてかりに望むなら、彼ら自身の民族国家を形成することでなければならない。 
レーニンは、併合と迫害を責め立てる社会主義者を咎める強い立場にあったが、それは、彼らの民族的な敵によって行われるときにだけだった。
 ドイツ人はロシアでの民族の問題の扱いに完全に憤慨していたが、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの状態については何も語らなかった。
 ロシアとフランスの社会主義者は、中央諸国の問題からの自由を要求した。しかし、ツァーリの問題については沈黙したままだった。
 結局、平和主義者は、きっぱりと日和見主義者と決裂する決心のつかない言葉で熱狂愛国主義者を非難したけれども、彼らと再合流することやインターナショナルを甦生させることを夢見た。
 このことは、とくに重要だ。
 党内部での従前の紛争や分裂の全ての場合と同じく、レーニンは、反対者および、反対派と完全に別れるのを躊躇し、組織的統一を渇望することで原理的考え方を満足させる自分の身内内の『宥和者』に対して、同等に激しい怒りを向けた。
 中央主義者は、レーニンの態度は狂信的でセクト主義的だと非難した。そして、ときどきは無力で孤立した集団の指導者の地位へと彼を陥らせるように見えた、というのは本当だ。
 しかしながら、最終的には、他のどの戦術もボルシェヴィキのような中央集中化した紀律ある党を生みだし得なかった、という点で、レーニンが正しかった(right)ことが分かった。危機的なときに、もっと緩やかに組織される党では、状勢を乗り切って権力を奪取することができなかっただろう。
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 ③へとつづく。

1656/橋下徹と知的傲慢者・藤井聡ら。

 橋下徹が、藤井聡を批判しているようだ。
 詳しい経緯、内容は知らない。最近の橋下徹の言動について、ずっとフォローしているわけでもない。
 しかし、かつては<橋下徹信者>と書かれたことがあるくらい、橋下徹批判に対しては、この人を擁護してきた。また、藤井聡は知的傲慢さの目立つ信用のおけない人物で<アホ>と形容したこともあるし、これまた週刊誌上で「今週のバカ」を毎週くり返していた本当の<バカ>らしい適菜収を全く信頼できない人物だと判断してきた。
 そしてまた、月刊正論(産経、編集代表・桑原聡の時代)がかつて、この適菜収を橋下徹徹批判の主要論考執筆者に使い、桑原自身が編集代表執筆者欄で橋下徹を「危険な政治家」だと明記したのだった。
 こうしたかつての経緯を思い出すので、少しは興味をもつ。
 もともとはどうも、つぎの、今年2/8配信のBestTimes(KKベストセラーズ)提供の記事(ヤフー・ニュース欄)だったようだ。以下、8割程度を引用。
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 適菜収「保守主義の本質はなにかを考えたときに、私は『愛』だと思うんですよ。日々の生活や守ってきたものに対する愛着です。/政治で言えば制度ですね。安倍に一番欠けているのは、制度に対する愛です。だから軽々しく『社会をリセットする』と言ったり、制度の破壊を進める。つまり、安倍は保守主義からはもっとも遠い位置にいる政治家と言えると思います」。
 藤井聡「京都学派の哲学者、西田幾多郎の哲学『絶対矛盾の自己同一』も適菜さんがおっしゃったことと同じです。 日本的に言うと『和をもって尊としとなす』ですし、西欧でも『矛盾との融和』の力を『愛』と呼んでいる。ただし、こうした『愛』は、…左翼のグローバリストの感覚、『国籍や国境にこだわる時代が過ぎ去った』という感覚とは全く違う。これは、『皆一緒』という発想で、おぞましい『全体主義』につながる。その意味で『地球市民』というのは危険な発想で、人間や文化の違い、豊穣性を認めないニヒリズムです。でも、西田の『絶対矛盾の自己同一』は、『違う部分を引き受けて統一することを目指す』というもので、グローバリストやニヒリストたちの全体主義と根本的に違う。」
 適菜収「ヤスパースも言っていますが、哲学は答えを出すことが目的ではなく、矛盾を矛盾のまま抱えることだと。知に対する愛なんです。ヘーゲル的な「哲学史」、学問としての哲学を批判したわけですね。わが国では、アメリカのシンクタンクから「地球市民賞」をもらったグローバリストが、保守を名乗ったりしていますが、国全体が発狂しているとしか思えません。保守は、善悪二元論とか、白黒はっきりつけるという話ではない。/複雑な問題を複雑なまま引き受けるということです。考え続けることに対する愛ですね。知に対する愛です。住民投票で民意を問うとかそういう話でもない。そもそも、白黒はっきりつけがたいものについて、議論を行い、利害調整をするのが政治の役割です。民意を背景に、数の論理で政策を押し通すのは、議会主義の否定です。」
 藤井聡「住民投票は必ず憎しみを産む。都構想では大阪市民が割れたし、イギリスでも国民が割れた。多数決の先にあるのは内乱です。極論すれば、多数決で負けたほうが悔しかったら内乱を起こすしかなくなります。橋下氏の一番の問題はそこだった。議会の破壊です。
 藤井聡「橋下氏が典型ですが、それ以外の多くの政治家もその罠にはまっています。日本中の政治家が今、どんどん橋下化している。」
 適菜収「その典型が安倍晋三です。…つまり、議会主義の根本がわかっていない。」
 藤井聡「橋下化した世界、全体主義化した世界では、ほとんどが大人になるにつれて劣化して、良し悪しのわからない分別のない人間になっていく。でもその中に、空気を読まない、(精神医学の世界では)「高機能広汎性発達障害」や「ASD」などと呼ばれる人たちがいる。彼らは、定義を広くとるとだいたい10人に一人くらいはいる。彼らの特徴は空気が読めない、あるいは気にしないこと。だから彼らは世界がどれだけ全体主義化、橋下化していても、『正しいこと』を言い続けてしまう。
 藤井聡「皆が嘘にまみれた空気に付き従うようになった世界は、もうASDくらいでしか救えないのではないかと思う。おおよそ今の官僚組織で出世するやつは、空気を読むのが上手い。僕は今、学者としてそういう組織に協力しているだけなので、出世は関係ありませんし、まったく空気を読む必要はない。」
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 こんな対談にはついていけない。私の頭が悪いからではなくて、言葉・概念で何らかの意味を伝えようとする誠実で、きちんとした態度、姿勢がこの二人にはまるでないからだ。
 いちいち挙げないが、こんなことを簡単に言うな、断定するな、と感じる部分ばかりだ。
 また、二人は一時期に大阪市長時代の橋下徹を<コキおろす>文章を月刊ボイス等に載せたりしてきたのだが、今年の2017年になってもその<怨念>は消えてないようで、その執念にも、どこか<異常さ>を感じる。まだこれだけ話題にされるのだから、私人・橋下徹の威力あるいは(反語であれ)魅力は、すごいものだなと却って感心してしまう。
 それに、橋下徹も指摘したようだが、安倍内閣「参与」らしい藤井は、適菜のこれまた執念深い<安倍晋三憎し>発言に、反論してもいないし、たしなめてもいない。
 あるいはまた、<住民投票>制度について、間接民主主義(議会中心主義)か直接民主主義の議論に持ち込んで、イギリスについてまで言及しているのは、論理・思考方法そのものが間違っている。大阪市での住民投票を要求したのは国の法律なのであり、国全体の議会中心主義に反したものではない。藤井は、こんな言い方をしていると、法律または条例にもとづく<住民投票>制度一般を批判しなければならなくなる。藤井はやはり、「政治感覚」優先で、法制度的思考がまるでできていない。
 こんな対談がどこかで活字になったらしいのだから、日本の表現の自由、出版の自由の保障の程度は、天下一品だ。
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 正確に理解するつもりはないが、橋下徹は「ツイート」でこんなことを書いたらしい。
 橋下徹「内閣官房参与藤井氏。/虚言癖。こんなのが内閣官房参与なら日本も終わりだ。」
 橋下徹「内閣官房参与の藤井氏。/虚栄心の塊の虚言癖。」
 橋下徹「内閣官房参与藤井氏。彼はこんなことばっかりやっている。とにかく人格攻撃。いい大人がするようなことではない。それで自分が批判されると人格攻撃は許さんと吠える。誰か藤井氏に社会人のマナーを教えてやって欲しい。内閣官房参与に不適格」。
 橋下徹7/09「内閣官房参与藤井氏のこの発言、こういう文脈で発達障害を持ち出したら政治家なら完全にアウト。メディアからも猛批判を受ける。稲田さんの発言よりも問題。安倍政権は許すのか。しかも安倍さんを侮辱する対談相手に一言も言わない内閣参与。」
 橋下徹7/11「内閣官房参与・京大教授藤井氏。彼は大阪都構想について猛反対し、橋下はデマ、嘘、詐欺、詭弁の限りを尽くしていると公言。そして大阪府と大阪市が話し合いをすれば課題は解決できると断言。ところがこの権力の犬メールには、府と市の大阪会議はショボいと明言。藤井氏は学者としてもアウトだな。」
 たしかに、藤井聡の<精神医学の世界での「高機能広汎性発達障害」や「ASD」などと呼ばれる症状の人たちはの特徴は、空気が読めない、あるいは気にしないこと。だから彼らは世界がどれだけ全体主義化、橋下化していても、『正しいこと』を言い続けてしまう。>という発言は問題があるだろう。
 相も変わらず、藤井聡は問題発言をし、下らないことを書いたり、喋ったりしているようだ。
 この人の専門分野は何か。きちんと研究し、研究論文を書いているのか。
 知的傲慢とか既に書いたが、消極的な意味で藤井聡に感心したのは、つぎの本を刊行した<勇気・自身・身の程知らず>だ。
 この人は京都大学大学院工学研究科教授のはずなのだが、いったい何をしているのか。
 ハンナ・アレントを読んで、日本社会と「全体主義」について論じるというのだから、ほとんど、あるいは100%、信じ難い。
 藤井聡・<凡庸>という悪魔-21世紀の全体主義(晶文社、2015)。
 オビには何と、「ハンナ・アレントの全体主義論で読み解く現代日本の病理構造」、とある。
 「ハンナ・アレントの全体主義論」は三分冊になる大著で、工学研究科教授が簡単に読んで理解できるとはとても考えられない。
 しかもまた、藤井聡は、「全体主義」といえばハンナ・アレントだと、すぐに幼稚に思い込んだのかもしれないが、そんな単純なものではない。
 この欄の執筆者・秋月瑛二ですら、「全体主義」にかかわる種々の文献を(一部であれ)読んでいる。
 この傲慢さは、<オレは京都大学出身の教授だぞ>という、戦後教育が生み出した入学試験・学歴主義と「肩書き」主義、<権威>主義によるのだろうか。
 じつは、橋下徹に対する何がしかの「怨念」とともに、<精神病理学>の対象になるのではないかとすら感じる。
 上の著の目次を見ると、内容の<薄さ>とこれまた<橋本徹批判>へと流し込んでいることがよく分かる。//

 目次/序章 全体主義を導く「凡庸」な人々
 第1部 全体主義とは何か?──ハンナ・アーレントの考察から
  第1章 全体主義は、いたって特殊な「主義」である
  第2章 ナチス・ドイツの全体主義
  第3章 〝凡庸〟という大罪
 第2部 21世紀の全体主義──日本社会の病理構造
  第4章 いじめ全体主義
  第5章 「改革」全体主義
  第6章 「新自由主義」全体主義
  第7章 グローバリズム全体主義
 おわりに 「大阪都構想」と「全体主義」//
 この人は「全体主義」を理解しているのか? レーニン、スターリンはどう理解しているのか。
 こんな程度で書物を刊行できるのだから、日本の表現の自由、出版の自由の保障の程度は、天下一品だ。

1655/第一次大戦①-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 これの邦訳書はない。試訳をつづける。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
 1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
 革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
 この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
 1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
 かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
 ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
 レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
 1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
 この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
 レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
 彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。 
 メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
 そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
 メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
 メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
 しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
 様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
 1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
 レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
 レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
 レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
 (『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)  
 マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
 スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
 レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
 ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
 1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
 ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
 戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
 オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
 スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
 レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
 各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
 ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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 ②へとつづく。 

1654/中西輝政と西尾幹二。

 相対的にはマシかもしれない西尾幹二や中西輝政も、所詮は自らの「名誉」を気にしながら生きてきていて、秋月瑛二のような無名の庶民には理解できない感覚を持っているのではないかと思ってきている。
 日本の「保守」もまた、このような人たちによって支えられているのではないように思える。
 櫻井よしこや「日本会議」派はむしろ弊害になっている。良識的な人々が「保守」思想に近づくことを阻んでいる。こんなのが「保守」なら、絶対に支持しない、と。
 「保守」系雑誌などにはいっさい登場しない論者たちや、「保守」などとは自称しない無名の多数の人たちの中にこそ、本当の「保守」的な人々はいるのではないか。
 ほんの一年余り前の文章、お二人はきちんと記憶されているだろうか。
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 安倍内閣戦後70年談話(2015)を批判しないで「沈黙している保守系のジャーナリストや評論家の多く」に「何か不純な政治的動機」があるとしたら、「まさしく『政治に譲った歴史認識』の最たるもの」だ。/
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。以上p.96-p.97。
 「保守派のオピニオン・リーダーたちが八月の『七十年談話』を、しっかり批判しておけば、安倍首相は十二月のあの慰安婦合意に至ることはなかったであろう」。p.101。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 以上、中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」歴史通2016年5月号(ワック)。
 「九〇年代に日本の名誉を守るために一生懸命調査し議論し論証を重ねてきた人たちは、悲しみが身に染みているに違いない。/
 あのときの論争は何だったのか、という言論のむなしさをひたすら痛恨の思いで振り返らざるを得ないであろう」。p.75。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。/
 言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。p.77。
 以上、西尾幹二「日韓合意、早くも到来した悪夢」月刊正論2016年3月号(産経)。

1653/弁証法ノート②-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治〔最終回〕。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート②(完)。 
 党の哲学論者たちは<唯物論と経験批判論>を使って、観念論と疑われる全ての教理と闘った。一方で、マルクス主義と機械論(mechanicism)の違いを強調するために、とくに1930代のブハーリン(Bukharin)とその支持者たちに反対する運動で、<哲学ノート>を引用した。
 この二つの文献の文章はともかくも相互の一貫性がないということを認めるのに、もちろん何の疑問もない。
 のちに、ソヴィエト同盟での弁証法的唯物論の教育がスターリンの設定した図式から離れたとき、<ノート>は新しい基盤として用いられ、16の『要素』は、スターリンの『弁証法の四つの主要な特質』に取って代わった。 
 しかしながら、<唯物論と経験批判論>はさらにレーニン主義の哲学上の基礎、スターリンによってそう授与された地位をもつもの、として復活した。
 そのことは、つぎのような嘆かわしい(deplorable)結果を生じさせた。すなわち、全ての自立した哲学的思想を窒息させる口実を用意し、全ての分野での科学と文化を支配する党の独裁を確立する、という。//
 ヴァレンチノフ(Valentinov)やその他の者が指摘したように、レーニンが唯物論を防衛したその極度の執拗さは、マルクス主義にのみ基礎があるのではなく、ロシア唯物論の伝統に、とくに、フォイエルバハ(Feuerbach)を大衆化した哲学の、チェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)に根ざしていた。
 こうした思想系統に対する論評は、1950年代のソヴィエト同盟でもなされた。しかし、レーニン主義は特殊にロシアの哲学で、誤謬のない、普遍的で有効なマルクス主義を継承たものではない、ということを示唆するものだと、非難された。//
 ロシアの淵源への影響の問題を別にして言えば、つぎのことは明白だ。すなわち、レーニンの哲学は彼の政治上の綱領および革命党の考えと緊密に結び付いており、彼自身がそのことを十分に意識していた、ということだ。
 全ての理論上の問題が権力闘争に厳格に従属している職業家の党は、哲学上の多元主義を安全には是認することができなかった。
 党自身の成功のために、党は明確に定義された教理を、あるいは構成員を拘束する、克服され得ない(inexpugnable)一体のドグマ(教義)を、所有していなければならなかった。   
 党の紀律と団結は、理論問題での弛み、曖昧さあるいは多元主義といったいかなる危険も排除されることを要求した。
 支配するイデオロギーが厳格に唯物論でなければならないことは、マルクス主義者の伝統によって保障され、革命に対する障碍物になるあらゆる形態での宗教的思想と闘うために必要とされた。もちろん、存在論的(ontologically)に中立な哲学を避けるためにも。
 レーニンは、身内であれ敵であれ、言葉上ですら宗教との妥協を示すいかなる傾向をも厳しく批判した。あるいは、間違って定式化されているまたは解決できないという理由で、存在論上の問題という脇道へと逸れる傾向も。
 レーニンは、マルクス主義は哲学上の全ての大きな問題に対する既製(ready-made)の解答だと信じ、何の疑いもないものとして受け入れた。
 哲学上の問題を棚上げするいかなる試みにも、党のイデオロギーの一体性に対する危険があった。 
 かくして、レーニンの粗雑な、妥協を許さない唯物論は、特殊な伝統の結果というだけではなくて、彼の行動技法の一部だった。
 党は、全てのイデオロギー問題を決定する唯一つの権限を有していなければならない。そして、レーニンは、この見地から、観念論が彼の綱領に対して示す危険性を十分に理解した。
 文化生活の全ての局面を抱え込む全体主義的(totaritarian)権力という考えは、彼の意識の中で少しずつ形を作り始め、ときおり実践へと用いられた。
 レーニンの哲学はこの考えによく役立つもので、問題の探求や解決に関係しないで、社会主義運動に教条的(dogmatic)な精神上の体制を押しつけることに関わっていた。 
 このようにして、レーニンの哲学的攻撃の憤怒や他者の議論への関心の欠如は、その源泉を、彼の哲学上の教理(doctrine)に持っていた。//
 しかしながら、レーニン主義者にとってすら、<唯物論と経験批判論>は、二つの重要な点で曖昧なものだった。
 既述のことだが、第一に、エンゲルスやプレハノフとは違って、レーニンは、『客観性』、すなわち主体に依存しないことが物質の唯一の属性だ、唯物論者がその者であればこれを是認せざるを得ない、と考えた。
 このように述べることは明らかに、マルクス主義はいかなる科学理論の変化にも、とくにいかなる物理学のそれに、依存しないことを意図していた。  
 『物質』は自然科学が授けたり奪ったりするいかなる属性にも影響を受けることがないので、科学は唯物論に対して何の危険も提示しない、とされた。
 しかし、このような結論は、『物質』を全ての内容から空虚にすることによって得られる。
 かりに物質が知覚する主体以外の何かであるとだけ単純に定義されるのだとすれば、このことは、知覚(perception)の内容と異なると見なされる『実体(substance)』の全てについて、同じく言えることが明確だ。
 『物質』はたんに、『全てのもの』の言い換え語になる。我々が一般的に『物質性』とともに連想する、いかなる種類の属性-空間上の、時間上の、あるいは活動上の-も、意味するものがなくなる。
 第二に、このような定義は、排除することを目的としている曖昧な二元論を、再び受容するものだ。
 主体の『外側』にある全てのものが物質的(material)であれば、主体それ自身であるいずれのものも物質的ではないか、主観的な(主体上の)現象と妥協するために物質の定義を拡張しなければならない、ということになる。  
 『物質が始源的で精神は二次的だ』という定式は、精神と物質は異なるものだということを前提命題にしていると思える。かくして、唯物論的一元論と矛盾している。
 レーニンの著作はこうした問題に解答していないか、または一貫して議論してはいない。そして、つぎのことをもっと正確に吟味するのを試みたい論点はない。
 すなわち、レーニンのテクストの不明瞭さ(難解さ)は、本来的な哲学上の困難さによるというよりむしろ、彼の怠惰で上辺だけの(表面的な)接近方法、権力闘争に直接に用いるために設定することができない全ての問題に対する侮蔑(contempt)、による。//
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 第9節、終わり。そして、第17章、終わり。
 第18章およびその第1節の表題は、それぞれ、「レーニン主義の運命(fortunes)-国家の理論から国家のイデオロギーへ」、「ボルシェヴィキと戦争」。

1652/松竹伸幸-2004年・日本共産党政策委員会外交部長。

 一昨日(7/15)夕方に、つぎの著に言及した。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 見慣れない人物名だったので、推測もしたが、間違っていた点があった。
 松竹には、以下の本もある。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 そして、この書での松竹伸幸の「肩書」は、日本共産党中央委員会政策委員会外交部長。この時点で、「外交政策」の党内部での責任者のようで、専従の立派な幹部職員だ。
 もちろん、党員だとの推測は誤っていない。
 但し、松竹伸幸は現在、かもがわ書房(京都市)の編集長だと分かった。党の専従幹部職員ではなくなっている。党籍があるかどうかは不明。
 しかし、この出版社の名前からして「左翼」系だとは分かる。
 ともあれ、党籍があるかどうかとは関係がなく(共産党専従職員に年齢による定年制のようなものがあるかどうかは知らない)、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」という途を示したなどと書いている者は不破哲三ら幹部しかいないので、いずれにせよ、日本共産党員またはほとんどそれに近いことは明白だ。
 何しろ、ロシア革命・レーニンを擁護しているとみられる溪内謙(ロシア史)や藤田勇(社会主義法)といった学者・研究者ですら、レーニンによる「市場経済を通じて社会主義へ」の明確化などとは書いていない。
 溪内謙・上からの革命-スターリン主義の源流(岩波書店、2004)。
 藤田勇編・権威的秩序と国家(東京大学出版会、1987)。
 そうした中で、レーニンのもの以外の細かい文献を示すことなく、基本的に日本共産党の中央、つまり不破哲三や志位和夫と同じ趣旨の本を出す「気概」・「根性」があるのだから、形式的な組織帰属の有無は実質的には関係がないだろう。但し、不破哲三らが書いていないことも書くという「自由」は一定範囲内でもっているようだ。
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 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 この本が最初の方で述べていることには、疑問がある。
 この書物は1961年以降の日本共産党の基本方針を大賛美しているが(党員で、それを明らかにした本を書くのだから当然だろう)、その「民主主義革命」先行論の理解は、かなり怪しい。幹部職員でもこの程度かと思わせるところがある。以下、これに触れる。
 「民主連合政府」による大企業に対する「民主的規制」という2004年党綱領の立場に立つ。p.12。「民主」、「民主的」、「民主主義」がいっぱい出てくるので、独特の用語法に慣れないと日本共産党関係文献は読めない。
 さて、この著が言うには、1960年代初めに党が「社会主義をかかげるのではなく民主主義革命を打ち出した」という「先駆性、勇気」に「驚きを禁じ得ない」。p.22。
 こんなことを書かれて、「驚きを禁じ得ない」。
 なるほど、つい最近にフランスやイタリアの共産党に言及したのだったが、それらは「ユーロ・コミュニズム」とか称して議会制度重視ではあったものの、すでにブルジョア革命=市民革命は終わっているとして、つぎの「革命」は社会主義革命だと考えていただろうことを容易に推定できる。輝かしい「フランス革命」はとっくに18世紀後半に完了していたのだ。
 これらに対して、日本共産党は先ずは「民主主義革命」を選択するという「先駆性、勇気」があったと、松竹は書く。
 バカではないか。
 1961年綱領を作り上げるまでの宮本顕治や不破哲三が<偉かった>のではない。
 もともと日本共産党の歴史観は<講座派マルクス主義>と言われたもので、明治維新を<絶対主義天皇制国家>への画期と捉えていたから、ブルジョア革命=市民革命=「民主主義革命」はまだ完遂されていないのだ。
 労農派マルクス主義の立場にたてば、つぎの目標は「社会主義革命」なのかもしれない。
 しかし、日本共産党の発生史的・歴史的沿革からして、先ずは民主主義>革命という路線を選択せざるを得ない。これは1960年頃の日本共産党の幹部たちの判断を超えたものだ(宮本顕治の獄中~年を完全無視しないかぎりは)。
 杉原泰雄(一橋大学・憲法)のように戦後改革を<外見的市民革命>と理解すれば、つぎの革命は<社会主義的>なそれになるだろう。
 しかし、日本共産党は、そのような性格づけを戦後改革についてしていない。
 戦前・戦中にコミンテルン等から送られた<テーゼ>類には触れない。そして私の推論で書くのだが、コミンテルンとその支部・日本共産党は日本天皇制をロシア・ツァーリ体制と類似のものと見て、ロシアでの二月・十月の「革命」のようなものを日本で連続させることを意図していた。
 もともと二月・十月というのは間隔が短かすぎて、その間に<下部構造>がいったいどれだけ変質したのか?と素朴には思うが、ロシアでの<成功>体験からして、日本でも、A・パルヴゥス→L・トロツキーの「永続革命論」と同じではなくとも、<天皇制打倒>と<私有財産否定>の民主主義的変革と社会主義的変革とを連続して一気に遂行しようというのが、日本共産党の根本戦略だったのではないかと推論している(いずれきちんと資料を読みたい)。
 そうではなくとも(<一気に>ではなくとも)、明治維新が<ブルジョア(市民・民主主義)革命>でないかぎりは、そしてマルクスの社会発展史観に教条的に従えば、つぎは「民主主義革命」にならざるを得ない。
 1961年綱領が<先ずは民主主義>の旨を書いているのは、それだけのことだ。
 これに「先駆性、勇気」を見出すというのは、よほど宮本顕治・不破哲三を<崇拝>するものだろう。
 とはいえ、これは2004年の著。その後にほんの少しは変化したのかについては、松竹伸幸の著をもっと読む必要がある。

1651/弁証法ノート①-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート①。
 論考や演説でのその時どきの文章を別にすれば、レーニンは、純然たる哲学を主題とする書物をもう書かなかった。
 (1921年の『戦闘的唯物論の意義』は、情報宣伝のための命令文書たる性質のものだ。
 1913年の『マルクス主義の三つの淵源と三つの要素』は一般向けの解説で、独自性はない。)
 しかしながら、彼の死後にソヴィエト同盟で、<哲学ノート(Notebooks)>(全集38巻)と題する一巻本の書物が刊行された。これはレーニンが主に1914-15年に書いた種々の著作の抜粋から成っていて、彼自身の肯定や憤慨の論評や若干の哲学的見解が付いていた。
 ある程度の場合について、このノートは彼が読んだものや彼自身の立場表明の要約なのかどうかが明確でない。
 主要なノートは弁証法に関係しており、<唯物論と経験批判論>での粗雑な定式の調子をある程度弱めているので、興味を惹く。
 そしてこのノートは、とくに、レーニンが戦時中に読んだヘーゲルの<論理(Logic)>と<歴史哲学講義(Lectures on the Philosophy of History)>の影響を受けていることを示している。
 レーニンは、ヘーゲルのこれら書物により、彼の弁証法はマルクス主義の発展においてきわめて重要なものだったと確信した。
 彼は、<資本論>はヘーゲルの<論理>の完全な研究なくしては理解できない、とすら書いた。そして、申し分のない一貫性をもって、こう付け加えた。
 『そう、半世紀経ったが、どのマルクス主義者も、マルクスを理解していなかった』。
 この突発表現(boutade)は、字義どおりには理解されてはならない。なぜなら、レーニンは自分が1915年までにマルクスを理解したと思っていなかったとは考え難いからだ。
 しかし、上の言葉は、レーニンがある程度はヘーゲルの考察に魅惑されたことを示す。//
 <ノート>が示すように、ヘーゲルの<論理>における『普遍性』と『個別性』の問題、および『合一(unity)と諸反対物の矛盾』の理論と考えられた弁証法に、レーニンはもっとも関心を持った。
 彼は、ヘーゲルの弁証法のうちに、唯物論の基礎へと転位した後でマルクス主義が引き継いで使用した主題を発見しようとした。
 抽象化の問題および直接的感知と『普遍』の知識(knowledge)の関係に関して言うと、レーニンは、カントの教理(例えば、『事物それ自体』は完全に不明確(indefinite)で、したがって無だ)とは対立するヘーゲルの全てを強調し、抽象的思考の自律的な認識上の機能を指摘した。
 レーニンの論理によると、弁証法、そして知識の理論は、みな同じことだった。 
 <唯物論と経験批判論>は感覚(sensations)に関する主観的な解釈との闘いに集中しており、感覚を世界に関する全ての知識の源泉だと見なすことで満足しているように見えた。
 ところが一方、<ノート>は、感知(perception)それ自体に含まれる抽象化という問題を設定し、認識の過程に際限のない『矛盾』を持ち込む。
 法則、したがってまた『普遍性』は個々の現象の中にすでに含まれている。そして同様に、個々人の感知は『普遍的』要素をうちに含む、別言すれば、抽象化の行為だ。
 かくして、自然は具体的でも抽象的でもあり、事物は、一般的な規則性を把握する、ただ観念上の知識の観点からのものだ。
 具体的なものは、個別の感知行為によっては完全に具体的には把握することができない。
 一方でそれは、無限に多数ある観念および一般的法則を通じてのみ自らを再生産するのであり、その結果として、認識され尽くすことが決してない。
 最も単純な現象ですら、世界の複雑性およびその全ての構成要素の相互依存性を示している。
 しかし、全ての現象はこのように相互に結び付いているがゆえに、人間の知識は必然的に不完全で、断片的なものだ。
 具体的なものをその全ての個別性とともに把握するためには、我々は、諸現象の間の全ての連結関係に関して、絶対的で普遍的な知識を持たなければならない。
 世界に関する全ての『反射物』は、新しい矛盾によって、知識が進歩するように消失したり置き換えられたりする、内部的な矛盾を帯同している。
 反射物は、『死んで』いたり『不活性』だったりするのではなく、その断片的な性質と矛盾によって、知識の増大を生み出す。だがそれは、不明確であり続けるのであり、決して絶対的な最終物へと到達することはない。
 かくして、真実(truth)は、矛盾を解消する過程としてのみ現われてくる。//
 知識の個別の構成要素と抽象的なそれとの間にはつねに一定の緊張、あるいは『矛盾』があるがゆえに、認識の過程で前者を犠牲にして後者を絶対化することは、すなわち観念論の方法で思考することは、つねに可能だ。
 『反射物』の『普遍的』な側面をレーニンが強調していること(これは彼の主要な哲学著作でのそれに関する叙述に反している)の他に、この考え方は、観念論は聖職者やブルジョアジーによって考案された欺瞞だという大雑把な解釈から離れている、第二の重要なものだ。     
 ここで現われる観念論は、『グノセオロジー〔認識論〕的淵源』を持つ。それは、精神上の逸脱というだけではなく、認識の一つの実際の側面を絶対化するもの、あるいは一面的に発展させたものだ。
 レーニンは、賢い観念論は、愚かな唯物論よりも、賢い唯物論に近い、とすら述べる。//
 <ノート>の第二の重要な主題は、『矛盾と諸反対物の合一』だ。
 レーニンは、弁証法の全体は諸反対物の合一の科学と定義することができる、と主張する。
 彼が列挙する16の『弁証法の要素』の中でとくに、諸反対物の矛盾は多様な形態で主要なモティーフになっている。
 全ての単一の事物は諸反対物の総体および合一体で、事物の全ての属性はその反対物へと変化する。内容の形式との『矛盾』、発展の低い段階での特徴は『否定の否定』によりより高い段階へと再生産される、等々。//
 これら全ての考えは、きわめて簡単なかつ一般的な言葉で表現された。したがって、分析を精細すぎるほどに行うほどのものではない。
 レーニンは、『矛盾』、論理的関係性がいかにして客体それ自体の属性に転化し得るのかについて、立ち入った検討をしていない。
 また、抽象化を感知の内容に導入することがいかにして『反射物』理論へのそれに照応するのかについて説明してもいない。
 しかしながら、エンゲルスのように、レーニンが弁証法は客体とは無関係に一般化された『世界の論理』だと説明できる普遍的方法だと見なした、ということは見てとれる。また、ヘーゲルの論理を唯物論的な変容の生の材料だと見なした、ということも、見てとれる。
 しかし、一般的に言って、レーニンの論述はエンゲルスの解釈よりも平易ではないヘーゲル主義に関する解釈を示すものだ。
 弁証法は、たんに『事物は全て変化する』と主張するものではなく、人間の知識は主体と客体の間での、いずれかの側の『絶対的な優先性』の問題は意味がなくなる、永続的な相互作用だと解釈しようとするものだ。//
 <ノート>は、主として党が機械論的(mechanistic)唯物論を批判するのに役立つように刊行された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号。

 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 A「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 B「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 C「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 D「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 E「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。

1649/天皇制はなぜ存続したか②。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。p.24。
 「天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか。」
 「天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各『時代の価値』・各『時代の精神』があったはずなのだ。/つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。」
 以上、この欄の執筆者。7/14付・№1644。
 天皇制が存続したのは、個々の時代の「固有の事情」による。天皇制は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきた。
このような見方に対して、3世紀後半からだと1600年以上、6世紀からだと1300年以上、これだけ長く「天皇」制度が続いてきたことの説明にはならないのではないか、との疑問がやはり生じるだろう。
 しかし、こうした長さは、直接に考慮に入れる必要はない。
 つまり、「制度」にはいわば<慣性>というものがあり、いったん設定されてしまうと、改廃を意識しないで長々と続く可能性がある、という面がある
 例えば、戦後72年、明治維新から先の敗戦まで78年、江戸時代の250年以上、平安時代の300年以上、いったん設定された各時代の「天皇」制度はそれぞれに長く継続してきた。つまり、日々あるいは毎年のように、その存続の是非が重大な問題として問われ続けたわけではない。
 上記の、家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
 この本は、天皇制が廃止されても不思議ではなかった、換言すれば「天皇にとって替わってもおかしくない権力者や当該時期が幾度も出現した」として、六回または六時期を挙げている。p.18-19。秋月において整理すると、以下になる。
 ①蘇我氏の独裁権力/6世紀後半-崇峻天皇暗殺。*聖徳太子一族滅亡もこの時期。
 ②道鏡/8世紀後半-称德天皇から皇位継承? *宇佐の神言。
 ③北条氏/1221年-承久の変・後鳥羽上皇等の挙兵。土御門・順徳も。
 ④足利義満/室町時代第三代・「日本国王」。*14世紀後半。
 ⑤織田信長・豊臣秀吉/16世紀後半。
 ⑥徳川氏/第三代家光時代くらいまで。*17世紀。
 これにおそらく、⑦?/第二次大戦終結直後-1945-6年、というのを加えてよいだろう。
 長い天皇制の歴史の中で、それが危機を迎えた、あるいはその存廃が現実的な問題になりえた、というのは、さほど多くないことが分かる。
 信長と秀吉を2回に分け、漠然と平安時代の藤原氏による皇位簒奪?というのを想像して加えてみても、計9回ほどにしかならない。
 これらの「危機」、「存廃が意識され得た」時期を、天皇制は、それぞれの時期の固有の事情でもって「乗り切った」のではないか、と思われる。
 その中には、上の④のように、<天皇を目ざした?>足利義満の「死」による決着もあった。
 この④は例外だが、それぞれの時期の世俗権力者は、天皇制の廃止に関して、廃止することのコストと利益、廃止しないことのコストと利益を、つまりは要するに簡単には<費用効果分析(CBA)>を行って、敢えて廃止しようとするときのコスト・不利益も考慮して、それぞれに天皇制そのものには手をつけない、という判断をしたのではないか、と思う。むろん、天皇・朝廷を存続させておくことのコストと「利益」(や「不利益」)もまた配慮したに違いない。また、各時代の様相として、存続を前提にすれば、天皇にある程度の「権力」が少しずつは認められたとも考えられる。
 簡単に書きすぎてはいるのだが-上の各人・各氏・各時期によって事情は異なる-、要するに、そういうことではないか。
 なお、応仁の乱以降の戦国時代は、信長まで、日本は「国家」だったのか、という疑問を持っている(その限りでは天皇制もきちんとは「連続」・「継続」していないのではないか、とのシロウト思いつきにつながる)。
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 現在の日本国憲法のもとでの天皇制を支える世俗権力とは何か ?
 憲法自体が根拠になっている。したがって、憲法制定者だ。建前として、国民主権という場合の「国民」 ? それとも、実質的には戦勝諸国、とくにアメリカ?
 また、<世襲・象徴>としての天皇制を憲法改正によって廃止しようとはしていない、憲法改正権者、つまり有権者国民が支えているとも言えるし、そのような改正発議をしようとはしていない、国会もまた、そして国会内多数派政党も、これを支えている。
 だが、論理的可能性としては、国会内多数派政党の「発議」、国民投票有権者の「国民投票」によって廃止されることが全くないとはいえない。
 この場合、神社神道の「長」、または<最高祭祀者>として憲法には明記されないままで一族は存続する可能性はある。
 上の発想は別として、ともあれ、天皇制の安定性というのは絶対的ではないし、そうではあり得ない、と考えられる。
 長く続いている日本の伝統だから今後も、という考え方はある意味では自然だ。
 このことを批判したり、否定するつもりはない。
 ただ、そういう世俗国民の<気持ち>によってこそ-維持されるとすれば-維持されるのであり、天皇制の中に、それに固有の<存続力>、存続すべき「価値」が先験的に?あるわけではないように思われる。

1648/松竹伸幸・レーニン最後の模索(2009)。

 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
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 あらためて、日本共産党の現在の綱領(2004年1月17日/第23回党大会で改定)から。
 ①「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。」
 ②「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。」
 ③「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…となろうとしていることである。」
 ④「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ロシア革命とレーニンを肯定的に評価し、かつ「市場経済を通じて社会主義へ」という基本方針を掲げていることが明らかだ。
 かつ、ここでの「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、不破哲三、志位和夫によると、レーニンが、1921年3月党大会における「ネップ」導入決定後、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のものとして明確にした、という。関係する文献には、この欄で何度か触れた。
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 1991年のソ連解体後もまた、ロシア革命・「社会主義」やレーニンの意味を決して否定しておらず、(スターリン以降はともあれ)これらを明確に擁護する学者・研究者もいる。すでに記した。
 溪内謙、藤田勇、笹倉秀夫
 しかし、レーニンによる「ネップ」期での<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の明確化(「社会主義」建設の一般論としても)、という把握を明確に述べている文献は、日本では、ほとんど日本共産党の幹部ものに限られる。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 外国(欧米)文献で、こんなバカなことを記しているのは、見たことがない。
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 日本ではほかに、「松竹伸幸」(「1955-、日本平和学会員」とされる)のつぎの文献が、不破哲三らの上の考え方を支持する。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 この問題をきちんと論じようとすれば、相当に関係文献を読んで検討しなければならないはずだ。
 しかし、2009年刊行の本でありながら、そのような形跡はない。注記はない。参考文献の一覧・後掲もない(統計資料についてだけ、なぜかある)。
 本文中に表に出てきているのは、レーニン全集からのレーニンの文章と、E・H・カー等のおそらくは10に満たない、この人物の主張の障害にならない文献だけだ。
 そもそもが、ロシア10月「革命」の「革命」性、あるいは、資本主義からの離脱という「社会主義革命」性自体を否定する文献が(日本も含めて)少なくない。
 そのような文献は、いっさい無視している。
 今回は予告として書いておくのだが、日本共産党綱領を踏まえつつ、不破哲三、志位和夫の「基本路線」から逸脱しないように、その基本的歴史理解を「敷衍」しているのが、上の本だろう。
 言うまでもなく、この「松竹伸幸」は(筆名の可能性がある)、日本共産党の党員だ、と明確に推察できる。
 日本共産党の幹部以外に、同党と同じ主張をする、同じ歴史理解をする「学者・研究者」もいる、ということを示すために執筆された、と推定される。
 そしてまた、社会一般、学界一般(ロシア・ソ連史、共産主義史・社会思想史等)に対してというよりも、上のことを日本共産党の一般党員に示すためにこそ、つまり不破哲三・志位和夫の「レーニン理解」に一般党員が(むろん何らかの分野の学者党員を含む)疑問を抱かないようにするためにこそ、執筆され、刊行されたのではないか、と想像される。
 一時期の間、見失っていたが、再発見した。
 リチャード・パイプスの関係時期およぴ「ネップ」関連部分は、すでに試訳を掲載した。
 L・コワコフスキの著にも、数頁の言及はある。
 その他、ネップに関する論及のある欧米文献は(粗密は様々だが)、100までいかないとしても、数十は瞥見している。
 じっくりと、この立派な?松竹伸幸著と比べて、この松竹著を批判的に分析いていきたい。

1647/高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。

 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。
 天皇譲位問題に論及することはしない。
 上の高森著を読んで、最も興味深かったのは、じつは、<天皇就位を拒否する>自由が「皇嗣」にはある、という指摘および叙述だった。p.84-86。
 生まれながらにして一定のことを義務づけられるのは出自・血統による<差別>で<平等原則>違反だとの議論もあるので、上のことは重要だ。そしておそらく、高森の言うとおりなのだろう。
 つまり、天皇位に就くことを望まない「皇嗣」が践祚も即位の礼も拒否し、憲法上の国事行為を行うことをいっさい拒んだらとすれば、どういうことになるか?
 おそらく、憲法に根拠がありかつその形式によるとされる皇室典範の定めによって、「皇嗣」は特定され、その方には皇位就任義務がいちおうは生じるのではないか、と思われる。
 しかし、<義務不履行>は世俗の世界ではよくあることで、私自身、友人に貸したはずの50万円が4年近く経っても20万円しか返却されていない、ということが現にある。その人物は、何と!たぶん熱心な<保守>派気分の男だ。
 さてさて、<義務不履行>があれば、裁判手続を経ての<強制執行>の世界、つまり権利義務の<意識>・<観念>の世界を<現実>に変える手続に、ふつうは入っていく。そこまでに至らなくとも、そういう制度は(いちおう)用意されている。
 しかし、<皇位就任義務>の履行の拒否があった場合には、いったいどうなるのか?
 即位の礼、その他皇室行事あるいは国事行為、これらは元来ほとんどが、当該「人物」が出席する等をするしかないもので代替性を大きく欠くとみられる。また代替可能な国事行為にしても、手続を踏んで別途委任するか「摂政」を置くしかない。
 そしてそもそも、そういう代替が検討される前に、就位自体がスムーズにいかなければどうなるのか?
 高森によると、皇室典範三条が定める「皇位継承の順序」の変更の要件のうちの「皇嗣に…重大な事故あるとき」に該当し、皇室会議の「議により」、変更を行うしかない
 理屈を言うと、その次位の「皇嗣」も拒めば、延々と?、同じことを繰り返すしかないだろう。
 そして今上陛下は、その「自由」を行使しないで、粛々と天皇になられる「宿命」を甘受されたのだ、ということになる。深刻な混乱にならなかったこと自体が、今上陛下の「お心」による、ということになる。
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 何となく基礎的には安定的に世の中、あるいは政治は推移しているようにほとんどの国民は思っている。無意識に、そう思いつつ生活している。
 実際にはなかったことだが、……。
 新しい首相(内閣総理大臣)が国会で指名されたとき、公式にはさらに天皇の国事行為としての「任命」が必要であり、これにはさらに「内閣の助言と承認」を要する。
 民主党内閣から第二次安倍内閣に変わったとき、安倍晋三が首相に「任命」されたが、このとき民主党内閣の「助言と承認」があったからこそ、安倍晋三は首相になれた。
 きっと映像が放映されたはずだ。今上陛下が安倍晋三に「任命状」?を手渡す際に、民主党・野田佳彦は(安倍晋三が正式に首相になるまでは、なおも首相)陪席していて、あらかじめ天皇陛下にその書状を手渡していたはずだ。
 さて、日本共産党が国会で多数を占め、または日本共産党らの連合諸政党が国会で過半数を占めて、日本共産党の代表者が国会で首相に指名された、とかりにしよう。
 (実質的な)前の内閣の首班が、熱烈な反共産主義の某安倍康弘という人物だったとして、閣議も開かず、前「内閣」は何もせず、天皇に対して、(国会の意思に反して)新首相の任命に関して「助言と承認」をしないままにいたら、どうなるだろうか。
 憲法違反ということで、マスコミを含めて大騒ぎになるに違いない。
 しかし、それでもなお、共産党政権の発足は認めない、断固として手続に進ませないと安倍康弘ら前内閣が意地を張れば、この憲法上想定されているとみられる「義務」は、いったいどうやって「強制執行」すればいいのだろうか。
 また、実質的な前内閣の「助言と承認」はあって、新首相の<任命状>も用意されたが、ある時代のある天皇が、新首相個人やその所属政党が意に沿わないとして、任命式?そのものにご出席なされない、そして例えば皇居内で行方不明になる、あるいは皇居外に外出されてしまって長期日にわたってお帰りにならない、という場合、いったいどうなるのか?
 もちろん、この場合も(皇室典範の別の条項での)天皇に「重大な事故あるとき」に該当するとして、法的な回復の措置を取らざるをえなくなる可能性が高い。
 それでもなお、1か月ないし数カ月~半年程度の「国政の空白」が生じることが想定される。
 法的連続性のある状態と「無法」あるいは<革命的状態>とは決して大きく離れているわけではない。上の例は一部だろう。突然に<法的混乱>が生じうることは、想定しておいて決して悪くない(こんなことを考えている人はきっといるので、その人たちには、この文章もまだ手ぬるいだろう)。
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 上の高森明勅著については、もう少し書きたいことがある。


1646/レーニンと宗教②-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第8節・レーニンと宗教②。
 こうした問題に関するレーニンの立場は、ロシアの自由な思考方法に一致していた。
 正教派教会とツァーリ体制との間の連結関係は、明白だった。
 ソヴェト政府が権力を握ったとき、全てではないが、ほとんどの教会の者たちはその権力に敵対的だった。
 この結果として、またレーニン主義の根本原理から、党綱領が示している以上に広い範囲で、すみやかに教会に対する闘いが行われた。
 政府は、教会財産の収奪や学校の非宗教化、あるいはともあれブルジョア的改革であってとくに社会主義的でないと見なされた手段に限定することはなかった。
 教会は、事実上、全ての公的な機能を剥奪され、説示、書物や定期刊行物の出版、聖職者の教育が禁じられた。たいていの修道院は、解体された。
 国家と関係のない私的な問題だという宗教に関する取り扱いは、ほとんど圧倒的多数の場合に党員であることが国家事務を行う必須の要件である一党国家制度では、適用され得なかった。
 教会や信仰者に対する迫害は、ときどきの政治的情勢によって烈しさが変わった。例えば、1941-45年の戦争中は、かなり緩かった。
 しかし、社会主義国家は『宗教的偏見』を根絶すべく努めなければならないという原理は力を保ちつづけた。またそれは、レーニンの教理と完全に一致している。
 教会と国家の分離は、国家がイデオロギー的に中立である場合にのみ作動しうるもので、そのような考え方は、何らかの特定の世界観を表明するものではない。
 ソヴェト国家は、プロレタリアートと唯一のプロレタリアートのイデオロギーの本質的特質である無神論の機構であると自らを位置づけており、離脱という原理を受容することができない。言ってみれば、類似性のあるヴァチカンの組み込まれたイデオロギー以上に。
 レーニンとその他のマルクス主義者はつねに、この点ではプロレタリア国家とブルジョア国家の間に違いはない、いずれの国家も支配階級の利益を代表する哲学を支持するように拘束されている、と考えた。
 しかし、まさにこの理由で、レーニンがツァーリ体制に反対するスローガンとして用いた教会と国家の分離は、イデオロギー、諸階級および国家の間の関係についてのレーニンの理論に反するもので、ボルシェヴィキによる権力奪取のあとでは維持することができなかった。
 一方で、反宗教のための政策手段の性格と規模は、当然ながら教理として予め述べられておらず、状況に応じて変化した。//
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 第8節、終わり。第9節の節名は、「レーニンの弁証法ノート」。

1645/レーニンと宗教①-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。この本には、邦訳書がない。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。 第二巻単行本のp.459-。
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 第8節・レーニンと宗教①。
 レーニンは、党のイデオロギー活動の鍵となる論点だと宗教を見なした。敵となるのは大衆的な現象であって、たんに経験批判論のような理論家集団ではなかったからだ。
 宗教に対する彼の態度は哲学の問題としては絶対的に明確だったが、彼の戦術は、比較的に融通性があり、可変的なものだった。//
 レーニンは、頑迷ではない宗教的な雰囲気の中で育った。15歳か16歳のときに信仰心をなくしたが、マルクス主義とはまだいかなる接触もなかった。
 そのとき以降、無神論を科学的には自明のこととした。そして、そのことを擁護してとくに論じることも決してなかった。
 彼の見方では、宗教の問題は、本質的な難事ではなくて、教育、政治そして情報宣伝(propaganda)の問題だった。
 『社会主義と宗教』(1905年、全集10巻〔=日本語版全集10巻70頁以下〕)およびその後の著作物で、レーニンは、宗教的信条は被抑圧者および貧困に苦しむ民衆が無能力であることの表現であり、彼らの苦痛を和らげる代償物だ-マルクスとエンゲルスの言葉をいつものように粗雑化して彼がいう『精神上の酒』だ-と論じた。
 同時に、宗教と教会は民衆を卑しくかつ従順なままにしておく手段であり、搾取者が権力を維持し民衆を悲惨な状態に置いたままにする『イデオロギー上の笞(knout)』だった。
 正教派教会は、精神的抑圧と政治的な抑圧が結合している、明白な例だ。
 レーニンはまた、宗教聖職者に対する体制側の抑圧的な態度を利用する必要も強調した。
 党の綱領は、最初から宗教上の寛容さについて語り、個人が自分の選択する信仰を告白する権利を、また無神論の宣伝活動に従事する権利をも、語った。
 教会と国家は分離されなければならず、宗教に関する公教育は廃止されるべきものだった。
 しかし、レーニンは、西側の多くの社会民主主義者たちと違って、社会主義者は宗教を国家と関係のない(vis-a-vis)私的な問題だと見なしてよく、党に関係があるかぎりでそれは私的な事柄ではなくなる、と強調した。
 いままさしく信仰者である者に対して寛容でなければならない現在の状況ではあったが(無神論は党の綱領には明確には表現されていなかった)、反宗教の情報宣伝を実施したり党員が戦闘的な無神論者になるよう教育することは、認められた。
 党は、哲学的に中立であることはあり得なかった。党の哲学は唯物論であり、そのゆえに、無神論であり反聖職者的であった。そして、この世界観は、政治的な違いの問題ではあり得なかった。
 しかしながら、反宗教の情報宣伝は階級闘争と接合されなければならず、『ブルジョア的自由思想』の意味のごとく、目的それ自体だと見なされてはならなかった。//
 戦術的な譲歩がどのようなものであれ、レーニンは、政治的な理由で、宗教的信念に対する執念深い反対者だった。
 そのゆえに、経験批判論に対する攻撃の激烈さもあった。経験批判論の哲学の一部は、『神の建造者(God-builder)』のそれと一致していた。
 後者は、マルクス主義に対して修辞上の情緒的な装飾を加えようとしているだけだった。しかし、レーニンの眼には、宗教との間に危険な妥協をするものと映った。
 主要な哲学上の著作やゴールキへの手紙、あるいは別の箇所で、レーニンは、野蛮な迷信を身に着けていない、社会的進歩的な言葉遣いをしている宗教は、ツァーリ専政政治と同盟することを冷厳に公言している、のぼせ上がった正教派教会よりも危険ですらある、と主張した。
 人間中心主義的な偽装を施した宗教は、よりよく、階級の意図を隠し、油断する者を欺瞞することができる。
 かくして、レーニンは戦術上の理由で信仰者たちと妥協する用意はあったが、彼の意思は根本問題では固く形成されていた。そして、党の世界観にはどんなものであれ宗教的信仰のいかなる余地も決してない、ということの示唆を拒むつもりは全くなかった。//
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 ②へとつづく。

1644/天皇制はなぜ存続したか-家近良樹著(2007)。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
 「その時々の権力…が、天皇を必要だと認めたからこそ、天皇というシステムが存続したのだ」。「時代を離れた検討はありえない」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
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 上の家近良樹著の初めに、ずばり「天皇制はなぜ存続したのか」(第一章第一節)との表題があり、日本史学上の「支配的見解」として、上のことが書かれている。
 支持したい。思いめぐらせ、考えていたこととほとんど合致する。
 「万世一系の…」というのは勿論言葉の綾で、「万」ではない。神武天皇から数えても、120余代(とされている)だから、およそ100倍に誇張している。
 また、かりに日本書紀等の記載の多くを信頼するとして、いったいいつの頃から天皇家は継続しているかというと議論は分かれている。天照大神・神武天皇からずっと、その前からもずっと、というのは、(実際には誰かの血を承けているのは間違いないだろうが)、「お話」としてはともかく、信じ難い(「神武」天皇にあたる、かつ「天皇」にあたる人物又は集団がいただろうとは思う)。
 継体天皇以降というのは、有力だと思われる。この人はそれ以前の皇統の女性と結婚したことに日本書記上ではなっているので、継体以降は、「女系」天皇だ、とも言える。
 もっと前の天皇の実在性を肯定する学者たちもいる。崇神天皇等々。
 それにしても、5~6世紀頃以降、1000年以上も続いているとすると、貴重な、稀な家系であることに変わりはない。そしてずっと、(言葉としては7世紀からだが)「天皇」という呼称を受け継いできた。
 こう長く続いたのには、それなりの理由・根拠があったに違いないと、誰もがあるいは多くの人が考えたに違いない。 
 上の家近著が紹介する、津田左右吉説、石井良助説もそうだ。
 しかし、天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか、と考えてきた。
 何か特殊で、日本らしい「価値」を持っていたからこそ長く続いてきた、というのは、容易に思いつきやすいが、その「価値」なるものは曖昧模糊とした、「宗教」・「信念」的なものになってしまうだろう、と感じていた。
 また、そもそも、天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各「時代の価値」・各「時代の精神」があったはずなのだ。
 つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。
 早い話が、明治維新以降、そして明治憲法下の「天皇」と現日本国憲法のもとでの「天皇」は、類似性もあるが、そしてそのことを強調する向きもあるが(「日本会議」派歴史観)、世俗権力との関係、または自らがもつ「権力」の有無等において、異質なものだ。
 大戦前後についてすらそうなので、古代天皇制の時代と中世・近世の天皇制の時代における「天皇」の意味・位置づけは大きく異なる。古代天皇制と言っても、藤原氏の台頭の前後で、大きく異なる。
 「祭祀王」としての連続性、という主張があるのかもしれない。
 しかし、「祭祀王」として存続し続けることができたのは、「祭祀王」だったから、というのでは全くない。
 秋月瑛二は、①「民主主義対ファシズム」という虚偽の構造認識を打破し、②断固として「反共産主義」の立場に立ち、③<日本的な自由・反共産主義>の国家・社会を目指したい。
 こうした構図の中では、「天皇」は大きな意味・価値を持たない。天皇制護持か否か、「天皇を戴く国柄」を維持するか否か、これは最大の決定的な主題では、全くない。産経新聞社・桑原聡の「思い」ではダメだ。
 このようなことを主張・提唱する人々には、では<日本共産党あるいはその他の共産主義者たちが擁護し、利用する「天皇」制でもよいのか>?と、問いかけたい。
 先の国会の(たぶん)内閣委員会で、日本共産党・小池晃は自民党議員たちとともに起立して賛成し、自由党・森裕子は着席のままで反対していた。このようなことが先々でもありうるだろう。共産主義者・日本共産党は、目的のためならば、「天皇」制もまた、利用するに違いない。<情勢に応じて>それを護持しようとするかもしれない。
 日本の<天皇・愛国>主義者たちは、櫻井よしこも含めて、冷静に歴史と日本を見つめる必要がある。

1643/ボルシェヴィキ・犯罪者集団-2010年のアメリカ刊行書。

 Yuri Felshtinsky, Lenin and his Comrades (New York, Enigma Books, 2010).
 =ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
 本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
 この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
 明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
 1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
 1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
 <レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
 ③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
 この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
 上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
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 「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
 過去のこの部分が、この本の対象だ。
 この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
 ①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
 ②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
 ③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
 レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
 ④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
 そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
 ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
 すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
 そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
 ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
 ⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
 そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
 ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
 彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
 そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
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 内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
 「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
 以上。

1642/日本共産党・不破哲三の大ウソ35-「自主独立」?。

 久しぶりに、<日本共産党・大ウソ>シリーズ。
 不破哲三・古典教室第1巻(新日本出版社、2013)。
 この著の一番最後の章のそのまた最後を一瞥していて、さすがに日本共産党、不破哲三さん、自分の党に有利に言いますねぇ、と感じ入る部分があった。
 産経新聞の人々も、「日本会議」の人々も、きっとこんな本に目を通すことはないだろう。それどころか、所持もしていない。いやそれどころか、存在を知りもしない。
 不破哲三は、欧州の、正確には(かつて「ユーロ・コミュニズム」の牙城だった)イタリアとフランスの共産党についてこう言う。
 1960年に日本の共産党が「衆議院で一議席しか」なかったときに、「イタリアでは一〇〇を超える議席」をもち、フランス共産党は「野党第一党の地位」を持っていた。
 「いまではイタリアでは共産党がただの民主党に右転落してしまい、フランスでは共産党がいろんな理由があってかなり大きく落ち込んでい」る。p.282。
 以上は事実だから、最後のフランスの「いろいろな理由」は知りたいが、よろしい。
 問題は、これを日本共産党の自慢話に変えていることだ。
 イタリアやフランスの共産党は「ソ連崩壊の大波に、自主性を持っていなかった」ために「呑まれて」しまった。「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持っていなかった」。そのなかで日本共産党は…。「そういう党は、いま資本主義の共産党のなかで日本にしかありません」。p.282-3。
 こういう状況の理由、背景は種々ある。日本共産党がよく頑張ったから、立派だったからだけでは少なくともない。
 <日本共産党がよく頑張ったから、立派だったから>というのも、きわめておかしい。
 第一に、この欄でかなり詳しく記したが、日本共産党・不破哲三がソヴィエト連邦を「社会主義国」ではなかった、すでにスターリン時代に道を踏み外して「社会主義国」ではなくなっていた、と言ったのは、1994年7月の党大会のことだ
 それまで、1991年のソ連共産党解散とソ連邦自体の解体があっても、その当時、一言も、ソ連は「社会主義国」でなかった、などと主張していない。
 スターリンを批判しソ連共産党も批判していたが、それまではあくまで、ソ連は<建設途上の>または<現存する>「社会主義国」だという前提のもとで、「社会主義国」あるいは「国際共産主義運動」内部で生じた、又は生じている問題として、スターリンやソ連共産党指導部を批判していたのだ。
 したがってまた第二に、この時点では、『マルクス・レーニン主義』を、日本共産党も掲げていた。
 文献資料的な根拠をすぐに見つけられないが、レーニン自体に遡ってソ連の「過ち」を指摘していたのでは全くなかった。
 <マルクス・レーニン主義>と言わないで<科学的社会主義>と言うべき、まだ<マルクス主義>は許せる、と不破哲三が言ったのは、この1994年よりも後のことでだ。
 「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持って」いた、という言い方は、ほとんどマヤカシだ。
 日本共産党もまた、ずっと一貫して長らく「マルクス・レーニン主義」の党だったはずだ。
 また、かりに「ソ連流『マルクス・レーニン主義』」以外の理論を持っていたとして、「ソ連流」のそれを批判的に扱うのであれば、その中にレーニンそのものは入るのか入らないのかを明確にすべきだろう。
 ところが、日本共産党・不破哲三は、「ソ連流」の中にレーニンが入るとは、現綱領上も、絶対に言えない。
 レーニンは、基本的には、正しく「社会主義への」道を歩んでいた、とされているのだ(その論脈の中で<ネップ>も位置づけている)。
 不破哲三は言う。「科学的社会主義の理論を自主的に発展させ」た、「どんな大国主義の理論にも打ち勝」ってきた。p.282-3。
 ここに現在の日本共産党・不破哲三の、喝破されたくはないだろう、本質的な欺瞞がある。
 つまり、共産党相互間の問題、あるいは共産党の問題と、一方での「国家」の問題とを、意識的に、(党員向けにもワザと)混同させているのだ。
 <自主独立>とか<大国主義批判>とかは、1991年・ソ連解体までは明らかに、ソ連共産党との関係での、ソ連共産党(・その指導部)を批判するスローガンだった
 それを、1991年・ソ連解体後は、<ソ連型「社会主義」国家>自体を批判してきたのだ、と言い繕い始めた。
 <自主独立>とか<大国主義批判>は(ソ連(・中国)共産党ではなく)、<ソ連型「社会主義」国>を批判するスローガンだったかのごとく、変質させている
 これは大ウソであり、大ペテンだ。
 不破哲三は、平然とウソをつく。党内の研修講義の場でも、平然とウソをつく。 
 その証拠資料の一つが、この2013年9月刊行の書物だ。
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 自民党の田村重信らの書物に、日本共産党についての知識・認識不足があるのは、この欄ですでに記した。
 田村重信=筆坂秀世(対談)・日本共産党/本当に変わるのか?(世界日報社、2016)の田村発言の一部について。
 山村明義・劣化左翼と共産党(青林堂、2016.03)。
 これも、ひどい。
 この著で山村は、しきりと「マルクス・レーニン主義」という言葉を(最後まで)使っている。「左翼」はともかくも、日本共産党がこの概念・語を避けていること、むしろ禁止していると見られることを、この人は知らないままで、表記の本を出している。
 恥ずかしいことだ。<劣化保守>、あるいは<劣化・反共産主義>だと言いたい。
 しかも、山村自身が自分は<マルクス・レーニン主義>に詳しいのだと言っているのだから(しきりと匂わせているのだから)、苦笑してしまった。
 また、<劣化左翼>と<共産党>の区別を何らつけないで叙述していることも、致命的な欠陥だ。
 この本のオビには、<保守原理主義者>としてこの欄で取り上げた、「憲法改正」に大反対している、倉山満の<激賛>の言葉が付いている。
 倉山満が激賞・激賛するようでは、この本の内容もまた、すでに示唆されているのかもしれない。

1641/「哲学」逍遙⑥-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき(第17章の最終)。
 今回試訳掲載分の一部/第2巻単行書p.458.-レーニンは「認識論上の実在論を唯物論と混同していた。彼は唯物論は『客観的な物質的実在』を是認することで成り立つ、と言った。しかし、そうならば、カトリックの哲学者は、ほとんど全員が唯物論者だ」。
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 レーニンの哲学への逍遙⑥
 哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』議論にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ。そして、レーニンの反対者に対して抑制なく悪罵を投げつけるものだ。〔以上、重複〕
 この著は、彼ら反対者の見解を理解することに完全に失敗している。そして、理解しようとすることに嫌気がさしている。
 この著は、エンゲルスおよびプレハノフから引用する文章が含んでいる内容にほとんど何も加えていない。主な違いは、エンゲルスにはユーモアの感覚があったが、レーニンには少しもない、ということだ。
 彼は安っぽい罵倒と嘲笑でそれを埋め合わせようとし、論敵たちは反動的な狂人で聖職者の従僕だと非難する。
 エンゲルスの議論は世俗化され、決まり切った問答の形態へと変えられている。感覚は事物の『模写』または『鏡への反射物』だ、哲学上の学派は『党派』になる、等々。
 この書物を覆っている憤懣は、つぎのことを理解できない初歩的な思考者には典型的なものだ。すなわち、自分の想念の力で地球、星、そして物質世界全体を創造したとか、自分が見つめている客体は、どの子どももそうでないと見ているときには、自分の頭の中にあるとか、健全な精神をもつ者ならばどうやっても真面目には主張しない、ということを理解できない者。
 この点において、レーニンの観念論との闘いは、一定の未熟なキリスト教弁解主義者(apologists)のそれに類似している。//
 レーニンの攻撃は、ボグダノフ、バザロフ(Bazarov)およびユシュケヴィチ(Yushkevich)によって応酬された。
 ユシュケヴィチは、<哲学正統派の重要点>(1910)で、プレハノフを、哲学上の考えを憲兵よりも持たない警官のような(扁平足の)無学者だと攻撃した。
 彼は、宣言した。プレハノフとレーニンはいずれも、教条的な自己主張と自分たちの見解しか理解できない無能力によってロシア・マルクス主義を頽廃させたことを例証している、と。
 彼は、レーニンの無知、その執筆能力、およびその言葉遣いの粗雑さについて、とくに痛烈だった。事実の誤り、『黒の百(the Black Hundred)の習慣をマルクス主義へと持ち込むこと』、引用した書物を読んでいないこと、等々について、レーニンを非難した。
 その力で感覚の原因となるという物質の定義は、それ自体がマッハ主義への屈服だ。これは、プレハノフ、そしてプレハノフを模写したレーニンに、向けられた。
 マッハもバークリも、『世界の実在』を疑問視しなかった。論争された問題は、その存在ではなくて、実体、物質および精神(spirit)といった範疇の有効性(validity)だった。
 ユシュケヴィチは、こう書いた。経験批判論は、精神と物質の二元論を廃棄することでコペルニクス的革命を達成した、世界に対する人の自然な関係について何も変更させておらず、実在論(realism)の自然発生的な価値を形而上学的な呪物主義から自由にして回復させたものだ、と。
 レーニンは、実際に、認識論上の実在論を唯物論と混同していた(彼は何度も繰り返して、唯物論は『客観的な物質的実在』を是認することで成り立つ、と言った。しかし、そうならば、カトリックの哲学者はほとんど全員が唯物論者だ)。
 『反射物』の理論全体は、前デモクリトス派の、彼らを物体から神秘的に引き離して、彼らの眼や耳に襲来する形象(image)は存在する、という無邪気(naive)な信念を繰り返したものだ。      
 『事物それ自体』と純粋に主観的なそれの形象の間にあると想定されている『類似性』とは何であるかを、また、いかにして模写物(the copy)は始源物(the original)と比較され得るのかを、誰も語ることはできない。//
 <唯物論と経験批判論>は、革命の前およびその直後には、特別の影響力を持たなかった(1920年に第二版が出版されたけれども)。
 のちにスターリンによって、この著はマルクス主義哲学の根本的な模範だと、宣せられた。そして、およそ15年の間、スターリン自身の短い著作とともに、ソヴィエト連邦での哲学学習の主要な教材だった。
 その価値は微少だが、この著作は、正統派レーニン主義的マルクス主義とヨーロッパ哲学とが接触した最後の地点の一つを示した。
 のちの数十年間、レーニン主義と非マルクス主義思想との間には、論争という形態ですら、実質的に何の接触もなかった。
 『ブルジョア哲学』に対するソヴィエトの公式の批判は、多様な形態での『ブルジョア哲学』は、レーニンによる論駁によって死に絶えた、マッハやアヴェナリウスの観念論的呆言を繰り返すものだ、ということを当然視させた。//
 しかしながら、レーニンのこの著作の重要さは、政治的な脈絡の中で見分けられなければならない。
 レーニンがこれを書いているとき、マルクス主義を『豊かにする』とか『補充する』とか-神が禁じているところの-『修正する』とかの意図を、彼は何ら持っていなかった、と思われる。
 レーニンは、全ての哲学上の問題への解答を探求したのではなかった。全ての重要な問題は、マルクスとエンゲルスによって解決されていたのだから。    
 彼は、序文で、ルナチャルスキーはこう言った、と茶化した。『我々は道を間違えたかもしれない。だが、我々は捜し求めている』。〔+〕
 レーニンは、捜し求めていなかった。
 彼は、革命運動は明晰なかつ均一の『世界観(Weltanschauung)』を持たなければならない、この点でのいかなる多元主義も深刻な政治的危険だ、と固く信じていた。
 彼はまた、いかなる種類の観念論も、多かれ少なかれ宗教が偽装した形態であり、つねに搾取者が、民衆を欺瞞し呆然とさせるために用いるものだ、と確信していた。//
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 〔+〕 原書に、頁数等の記載はない。この部分は、日本語版全集14巻「第一版への序文」10-11頁にある。但し、参考にして、訳をある程度は変更した。
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 第7節、終わり。第8節の節名は、「レーニンと宗教」。

1640/「前衛」による日本共産党員⑧-2013年4月号。

 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年4月号。
 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
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 渡辺治/一橋大学名誉教授-安倍政権・改憲・新自由主義。+何度も出てくる。
 大瀧雅之/東京大学社会科学研究所教授-アベノミクス・経済政策。
 佐貫浩/法政大学教授-教育改革。
 笠原十九司/都留文科大学名誉教授-東アジアの歴史認識。
 武田清春/通信産業労働組合書記長-NTT。
 永島民男/全国私教連中央執行委員長-私立高校・間接雇用講師問題。
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 別の号へとつづく。

1639/産経新聞「産経抄」7/8のお粗末。

 産経新聞7月8日付「産経抄」は<日本の無防備なまでの寛容さ?共産党躍進の不思議>というタイトルらしい。その中で、つぎのように書く。
 「共産党は昨年7月の参院選でも改選3議席を6議席へと倍増させており、じわりと、だが確実に勢力を伸長させている。民進党が、自民党批判の受け皿にも政権交代の選択肢にもなれずにいる体たらくなので、その分存在感を増しているのだろう。/
 ただ、こうした日本の現状は、世界的には稀有な事例らしい。歴史資料収集家の福冨健一氏の著書『共産主義の誤謬』によると、先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという。米国や英国、ドイツ、イタリアなどでは共産党は国政の場に議席を持っていない。」
 なんとまぁ、無邪気なものだ。
 共産党をめぐる「日本の現状は、世界的には稀有な」こと、「先進国で共産党が躍進しているのは日本だけで、欧米では消えつつあるという」ことをこの産経抄子さまは知らなかったようなのだ。
 今年になってからのフランス大統領選挙で、共産党候補の名は出ていたか?、ついでに社会党候補はどうだったか? 社共連立の社会党大統領だったのは1980年代のミッテランだったが、その後、フランス共産党が与党の大統領はもちろん皆無だ。
 ドイツやイギリスの国政・地方選挙に関する報道を見ても、「共産党」が存在しないか、政党要件に適合している容共産主義政党・政治団体がある程度活動しているくらいしかないのことは分かるだろう。ドイツには、「左翼党」(Die Linke)という政党はあり、「社会主義的左翼(Sozialistische Linke)」と称する分派?もあるらしい。少なくとも前者は、とくに旧東独地域で議席も持つ。
 天下の大新聞、産経新聞の「産経抄」子さまが、上の程度なのだから、他の産経新聞社の者たち、月刊正論編集部の菅原慎太郎らの共産主義・共産党に関する知識・認識の乏しさも理解できる。
 これまで何もコメントしていない、産経新聞政治部・日本共産党研究(産経新聞、2016.06)もヒドイもので、これでよく「研究」と名乗れたものだと思った。
 この本で面白かったのは、地方自治体の職員・議員(、ひょっとして部・課といった機構そのもの?)に対する「赤旗」拡大の実態くらいだった。このレベルで、日本では大手新聞社が<共産党研究>と掲げる書物を刊行できる。
 これが日本の容共産主義性の強さ、反共産主義性の弱さの実態だ。
 ところで、冒頭の「産経抄」は、知ってはいたが、福冨健一・共産主義の誤謬(2017)を宣伝するために敢えて上のように書いたのだろうか。そうだとすると、いろいろな宣伝方法があるものだ、と思う。
 しかし、この福冨健・共産主義の誤謬(2017)を私も入手して一瞥しているはずなのだが、私にとって新しい又は有益な情報を与える部分はたぶんなかったと思う。そうでなければ、何がしかの記憶に残っている。
 いずれにせよ、日本で本格的なまとまった共産主義研究書、日本共産党の(人文・社会科学的かつ総合的な)研究書はない。
 容易に新書(せいぜい二冊・上下本)くらいで邦訳出版されてもよさそうな、リチャード・パイプス・共産主義の歴史は、別のタイトルで目立たないように翻訳されている。
 Leszek Kolakowski の Marxism に関する大著の邦訳書もない。しつこく書いているが、この人のこの著だけではない。訳されてよいような共産主義・共産党(レーニンを当然に含む)批判的分析書は、かなり多く日本には、日本語になっては、入ってきていない。焦らないで、じっくりと紹介していく。
 そのような<文化>の一翼を担っているのが、産経新聞社だ。

1638/「哲学」逍遙⑤-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
 今回試訳掲載分の末尾の一部/第2巻単行書p.457.-「哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ」。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙⑤。
 反射物理論の根幹部分は、相対主義を拒否し、真実とは実在と合致することだという伝統的な考えを受容することだ。
 レーニンが言うには、真実は、感覚、観念および判断で叙述することができる。
 認識活動の全ての所産について、本当か偽りか、すなわち実在の正しい『反射物』か間違ったそれかを、そして、我々の知識とは無関係に世界を『そのもの』として提示しているかそれとも世界の歪曲した映像を与えているかを、語ることができる。
 しかし、真実の客観的性は、エンゲルスが示したように、その相対性(relativity)と矛盾しない。
 真実の相対性とは、例えば、実用主義者たち(pragmatists)が主張する、同じ判断は、誰が、いかなる状況のもとで行なっているのか、そしてそのときにそれに同意していかなる利益が生じるか、によって真実であったり間違ったものであったりする、ということを意味するのではない。
 エンゲルスが指摘したように、科学は、その範囲内では法則が有効で、従って全てが修正されることのある限界を、絶対的な確実性をもって我々に教示することはできない。
 しかしながら、このことは、真実を虚偽または逆も同じ(vice versa)に変えるのではなく、一般的に有効だと考えられることは一定の条件においてのみ当てはまるということを、たんに意味させる。  
 いかなる真実も、究極的には確証されない。この意味において、全ては相対的だ。
 全ての知識もまた、我々は普遍世界に関する全てを知ることができない、そして我々の知識は膨張し続けるにもかかわらず不完全なままだ、という意味において、相対的だ。
 しかし、このような留保は、真実は実在に合致するものだという考えに影響を与えることはない。
 エンゲルスもまた言ったように、真実に関する最も有効な規準は、つまりある判断が正しい(true)か否かを見つけ出す最良の方法は、それを実践で試験してみることだ。
 我々が自然の諸関係に関してした発見を実践の操作へと適用することができるならば、我々の行動の成功は、判断が正しい(right)ものだったことを確認するだろう、一方で失敗は、その反対のことを証明するだろう。
 実践という規準は、自然科学と社会科学のいずれにも同じく適用することができる。後者では、我々の実在に関する分析は、それにもとづく政治的行動が効果的(effective)なものであれば、確証される。
 この有効性(effecfivity)は、実用主義の意味での『有用性(utility)』とは異なる。我々の知識は、真実であるがゆえに有用である可能性をもつのであり、有用であるがゆえに真実なのではない。
 とくに、マルクス主義理論は、実践によって顕著に確証されてきた。それにもとづく労働者運動の成功は、その有効性(validity)を最もよく証明するものだ。//
 我々が真実の客観性をひとたび認識したとすれば、『思考の経済』という経験批判論の原理は、観念論者の詐術であることが分かる。実在との合致を、努力の経済にある不明瞭な規準に置き換えることを意図しているのだ。//
 また、経験批判論がカント哲学に反対しているのは、『右翼から』、すなわちカントよりも反動的な位置から狙って攻撃していることも、明確だ。
 彼らは、現象と本体(noumenon)の区別を攻撃する。しかし、そうするのは、『事物それ自体』は余計なものだ、つまりは意識(mind)から独立した実在は存在しない、ということを示すためだ。
 しかしながら、唯物論者は、それと反対の観点からカントを批判する。現象を超える世界があるということを是認するのではなく、それに関して我々は何も知ることができないと考えることによってだ。
 経験批判論者たちは、原理上は知ることができない実在はないとして、現象と事物それ自体には差違はない、と主張する。彼らはカントの不可知論を批判するが、一方では、世界の実在に関するカントの考えのうちの『唯物論的要素』を承認している。
 唯物論の観点からすれば、実在は知られているものとまだ知られていないものの二つに分けることができる。知られ得る現象と知られ得ない『事物それ自体』の二つにではない。//
 空間、時間および因果関係といった範疇に関して言うと、レーニンは、エンゲルスの解釈に従う。
 弁証法的唯物論は、因果関係を機能的な依存性だとは見なさない。そうではなく、事象間の諸関係には真の必然性(true necessity)がある。
 実践は、因果の関係性に関する現実の(real)必然性を確定する最良のものだ。事象の規則的連続性を観察し、それによって望ましい結論を得るときはいつでも、我々は、原因・結果の関係は我々の想念(imagination)の作用ではなくて物質世界の現実の性質なのだ、と論証する。
 このような連結関係は、しかしながら、弁証法的に理解されなければならない。事象のいくつかの類型があって単一の事象だけが存在するのではない場合は、一つの根本要素は他者に対する優位を維持し続けるが(これ以上の詳細はない)、つねに相互の反作用がある。
 時間と空間はいずれも、作動している知覚の力の産物ではない。感覚の<先験的な>形態でもないし、物質から離れた反対物でもない。それらは、物理的存在の客観的な性質だ。
 かくして、時間の継続と空間の整序との関係は、世界の現実的な属性(real property)であって、独立した形而上の一体たる地位をもたない。//
 レーニンは、自分が解釈する弁証法的唯物論は実践的意味での有効な武器であるだけではなく、自然科学と社会科学の現在の状態と合致する唯一の哲学でもある、と考える。
 科学が危機にある、またはそのように見えるのは、物理学者たち自身がこのことを理解していないからだ。
 『現代物理学は、産み出しつつある。弁証法的唯物論を、産もうとしている。』
 (ⅴ. 8, 同上、p.313〔=日本語版全集14巻378頁〕。)
 科学者たちは、弁証法的唯物論こそが、マルクスとエンゲルスを知らなかったために陥った困難から救われる唯一の途だということを、認識しなければならない。
 科学者の中には反対する者がいるとしても、弁証法的唯物論はすぐに勝利するだろう。彼らの態度の理由は、個別の分野では大きな業績を達成したとはいえ、自分たちのほとんどがブルジョアジーの従僕だからだ。//
 レーニンのこの著書は、それ自体の価値によってではなく、ロシア哲学の発展に与えた影響力のゆえに、興味深い。
 哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な(vulgar)『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭い(amateurish)ものだ。そして、レーニンの反対者に対して、抑制なく悪罵を投げつけるもの(unbridled abuse)だ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変えた。
 段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。


1637/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究③。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 一 この本の最終頁はp.219で、もともと長くはない。
 しかし、1頁に横14行、縦36字(14×36)の504文字しか詰まらない作り方をしているので(つまり一つの活字文字が大きいので)、1頁あたりの文字数だけ比ると同年7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店)の2/3以下程度しかない。
 したがって、かりにこれと同様の文字数を詰め込むと、最終頁のp.219というのは、じつはp.140からp.150になってしまう。厚さ・外観だけでいうと、かなりの<上げ底>だ。
 二 p.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さも目を惹く。
 A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34(うち全て英語の原書が11)(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。計、133件。かつまた、本文の内容との関係は不明なままだ。
 以上は、すでに書いたことの要旨。
 三 何と言っても際立つのが、ある意味では目を剥くのは、この「主要参考資料」に記載されている書物類の著者についての<差別>だ。もう少し各著者について調べてからと思っていたが、とりあえず分かることだけでも記しておこう。
 すでに別のテーマの際に簡単に記したが、①西尾幹二、藤岡信勝のものは、一つもない。一冊も「参考資料」とされていない。
 ②これに対して、中西輝政のものは、堂々とある。
 A/中西輝政・国民の文明史(2003)。
 B/中西輝政・日本文明の興廃(2006)。
 このうちAは、西尾幹二・国民の歴史(1999)のいわば姉妹書のようなものだ。ともに産経新聞社刊行であるとともに、末尾に「新しい歴史教科書をつくる会」の役員名簿が記載されているなど、個人著だが同時に1997年に正式発足の「つくる会」の企画?にもとづいてもいるようだ。
 要するに、この会の「運動」の一つとしても位置づけられるものだったのではないか。
 あらためて確認すると、「編・新しい教科書をつくる会」と、きちんと表紙に記載されていた。
 同じ性質の、同じく日本の歴史全体に関する書物だ。
 しかし、○中西輝政、×西尾幹二。これが歴然としている。なぜか?
 C/西尾幹二=中西輝政・日本文明の主張-『国民の歴史』の衝撃(PHP、2000)。
 これはどうか。西尾著の『国民の歴史』刊行の翌年の二人の対談本。内容は、中西輝政の上のA・Bに相当に重なる(主題がとの意味で、同じ文章があるとの趣旨でない)。
 だが、おそらくきっと、西尾幹二の名があるからだろう。これは×。
 本来のテーマから逸れるが、ここで以下を付記しておく。
 2007年以降にいずれかまで、「日本会議」・椛島有三と中西輝政と関係は良好?だったようで、つぎの二つの著を確認できる。
 D/小堀桂一郎=中西輝政・歴史の書換えが始まった!-コミンテルンと昭和期の真相(明成社、2007.10=<日本の息吹ブックレット>)。「日本の息吹」とは日本会議機関誌(月刊)。
 E/中西輝政・日本会議編・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP、2008.11)。
 2015年安倍内閣戦後70年談話への反応内容等、西尾幹二と中西輝政の二人は「かなり近い」と感じていたが、かつての、こうした<待遇?>の違いは、なぜ?
 なお、DもEも上記椛島有三著の刊行後のもので、当然に<参考資料>には入っていない。
 ③西尾幹二や藤岡信勝の書物がいっさいなくて、なぜこの人等のこの著は記載されるのか、と奇妙に感じるものがある。
 ・加藤陽子・戦争の日本近現代史(2002)。
 ・田原総一朗・日本の戦争(2000)
 その他、朝日新聞社刊のつぎの二つもある。
 ・草柳大蔵・実録満鉄調査部/上・下(1983、朝日新聞社)。
 ・日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編・太平洋戦争への道/1~7(1987、朝日新聞社)。
 自分の理解・主張を支えるものだけでなく、反対のものも挙げられて当然なのだが、そうすると、<日本帝国主義>、<日本の侵略>に関する膨大な日本の「左翼」の書物を挙げる必要がある。上の4つは、椛島有三において、どういう位置づけなのか?
 こんなのもある。
 ・佐藤優・日米開戦の真実(2006)。
 記載されているつぎの本は「大東亜戦争」に関係があったのか、確かめてみたい。
 ・百地章・政教分離とは何か(1997)。
 また、さすがに?、渡部昇一著3冊、渡部昇一編著1冊も堂々と?日本文献の最後にある。
 どう書いてもはっきりしているのは、つぎのことだ。
 西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない。無視されている。排除されている。
 もともと、多数の「参考資料」をどのように生かしたのかは定かでない、とすでに書いた。したがって、ほとんど<推薦図書>なのではないか、とも書いた。
 そうすると、加藤陽子や田原総一朗の位置づけに読者としては迷うけれども。
 しかし、ともあれ、西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない、排除されているのは、不思議だ。そして、奇妙だ。
 何らかの<意図>があるに違いない、と考えて当然だ。
 <公平さ>などよりも<政治的判断>を優先する。これ自体を批判するつもりはない。「日本会議」事務総長の本なのだから。
 「日本会議」事務総長の、2007年という時期の本。2007年に、何があったか?

1636/明治維新④-「歴史」なるものの論理。

 「ああ、それにしても。この空の青さはどうだ。この雲の白さはどうだ。
  ああ、それにしても。あの朝の光はどうだ。この樹々の緑はどうだ。」
  小椋佳「この空の青さはどうだ」1972年、より
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 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。」
 <日本会議>設立宣言(1997年5月)。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
 この二つを合成すると、「明治維新」による「近代」国家の形成で「列強の植民地にならずに済んだ」という、大まかには誰でも承認しそうな立派な?歴史観の叙述がなされているようだ。
 余計だが、ここで興味深く感じるのは、<保守>代表のような印象を与えるかもしれない(少なくともそう意図していると見える)「日本会議」も、堂々と「近代国家」という、ごくありきたりの概念を採用していることだ。
 この「日本会議」は、ある意味では、あるいはある側面では、特殊な考え方を別に採用しているのではなく、ごくふつうの、平凡な、ある意味では目新しくない、そして-いろいろな形容句はありうる-陳腐な概念と論理を使って思考し、活動していると思われる。
 そしてむしろ、概念や論理をどれだけ掘り下げて緻密に考察しているかが、この団体の人々には問われているとも思われる。
 戻って、上の立派な?歴史観について、立ち入る。
 「明治維新」を通過したからこそ植民地にならずに済んだ(独立の近代国家になった)。
 この叙述自体に、論理的にはじつは問題が介在している、と考える。
 第一に、「明治維新」かそうでないか、という二項対立的思考に陥ってはいないか、ということ。この場合、「そうでない」とは、徳川幕府体制の維持を無意識に念頭に置いている可能性がある。
 つまり、「明治維新」だけが<植民地にならずに、独立の近代国家になった>という現実をもたらしたのか否かだ。
 少なくとも論理的には、そんなことはない。
 「明治維新」なるものを経ないで、かつ<徳川幕府体制のそのままの維持>もしないで、<植民地にならずに、独立の近代国家になる>可能性はあった、というべきだ。
 論理的に、そうだ。実際もそうだったと考えているが、その方向へとは立ち入らない。
 第二に、「明治維新」が<植民地にならずに、独立の近代国家になる>必要な条件だったとかりにして、「明治維新」という概念で何を理解するか、だ。
 現実にあった「明治維新」なるものを、西南雄藩等出身者が一部公卿と天皇・朝廷とともに遂行した変革または改革だったと理解するとするのが大まかには通念かもしれない。
 しかし、「明治維新」なるものが、現実にあった(<歴史になった>)それ以外のものでもよかった可能性が、論理的にはある。
 つまり、いろいろな要素があるので多岐の論点に言及すると複雑になり過ぎるので簡潔にいうが、かりに「西南雄藩等出身者」ということを前提にしても、現実にあったのとは違って、長州・薩摩両藩出身者たち以外のものが優位を占める下級武士(・藩主)が遂行した「明治維新」になる可能性もあった、と見るべきだろう。
 その場合に、最終的には現実には木戸孝允が確定し、その奏上方式の原案も作ったとされる<五箇条誓文>なるものが発表された、とは限らない。
 論理的に、そうだ。実際にも、なお種々の選択の余地が、主体・理念・組織等の面であり得たと思われる。そうであっても、<植民地にならずに、独立の近代国家になった>ということは生じ得た、と考えられる。
 ややこしいことを、書いたかもしれない。
 結局のところ言いたいのは、<現実化した>・<歴史になった>ものが「正しかった」・「やむを得なかった」・「それなりの根拠・理由があった」という、よくありがちな<歴史観>・<歴史の見方>から解放されなければならない、ということだ。
 いかに「明治維新」を肯定的に評価したくとも、それは、現実にあった「明治維新」を主導した中心人物たち、櫻井よしこがよく言う<明治の先人たち>を高く評価するという理解の仕方に必然的につながらなければならないのでは、全くない。。
 「明治維新」なるものの理解も問題にしなければならないし、それ以外の選択肢が(徳川幕府継続のほかに)あったかどうかもまた、考慮すべきだ。
 あまりに単純な(と私には思われる)歴史理解が評論家・運動団体に散見されるので、あえて記した。
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 <歴史的決定論>あるいは<運命論>を過去に投影させるのは、将来に向けて日本共産党ら共産主義者が前提にしているかのごとき<不可避の歴史法則>と変わらないのではないか(不破哲三と櫻井よしこの発想の共通性・類似性をこの欄で指摘したことがある)。
 このような考え方を書いたのは、レーニン・「ロシア革命」のことを思い浮かべたにもよる。
 また、関連して、リチャード・パイプスの、<現実に生じてきたことを(無意識にであれ)必然・不可避のものと是認するのは、「勝者」のために釈明・弁明している>という趣旨の文章に接したことも大きい。
 幕末・明治維新そして明治期について、何となくこういうイメージを持つ者は、櫻井よしこや「日本会議」派以外にも多いのではないか。
 ロシアで1917年以降に起きた「現実」が<正しい>・<やむを得ない>・<それなりの理由がある>ものだったとすれば、その過程で、またレーニン時代にもスターリン時代にも、そして第二次大戦後においてすら、「体制」に反抗して(ときにはその旨を一言ふたこと洩らしただけで)殺された、しばしば残虐に殺された個々の人々の人生はいったい何だったのか。ロシア・ソヴィエト国家に限らない。
 <現実になった歴史>について、「正しい」とか「間違っている」とかの、価値判断を少なくとも簡単に下すのは、絶対に避ける必要がある。<歴史は勝者が作る>のであり、正しい・間違いというレベルの論争点ではない、ということをまずは確認すべきだろう。価値判断は関係がない。先にある問題は、<事実(歴史)になった>ことは何か、だ。
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 日本の被占領期における「日本国憲法」制定(形式上は明治憲法改正手続による)についても、似たようなことは言える。 
 現憲法を全体として「否定」したい気分がある程度の範囲にあるのは分かるとしても、現憲法は<無効>だとか、明治憲法復元とかの主張になるのを見ると、社会通念や論理上の問題とは別に、ある程度において<精神病理学>上の問題がある、と思っている。
 この点は、いずれまた(再び、何度も)触れる。
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 レシェク・コワコフスキは、「神は幸せか?」と題する論考の中で、明らかにつぎの二つを区別していた(凡人の私でも理解できた)。<*出典を、7/12に訂正した。>
 すなわち、経験(experience)の世界と想念(imagination)の世界。
 現実の世界と観念の世界。当たり前の区別のはずなのだが、これを十分に明確には区別していない文章を月刊雑誌や週刊誌に書いている人がいる。

1635/「哲学」逍遙④-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 第7節は、三巻合冊本(2008)では、p.714~p.723、単著・第二巻(1978)では、p.447~p.458。
 前回のつづき。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙④。
 レーニンは、つづける。しかし、我々は科学によってこの観念論の無意味さを論破することができる。
 教育をうけた人間は誰も、人類の出現以前に地球が存在していたことを疑いはしない。
 しかし、観念論者はこれを受け入れることができない。その前提からすると、地球や物質的世界全体は人の精神(mind)の産物だと考えなければならないからだ。
 科学が示す単純なことと反対に、観念論者は人が最初に来て、自然は次に来ると主張しなればならない。
 そのうえさらに、我々は、物理的客体である頭脳で人は思考(think)することを知っている。
 しかし、観念論者は、このいずれも認めることができない。全ての物理的な客体は思考(thought)の産物だ、と見なすからだ。
 ゆえに、観念論は最も根本的な科学上の知識と矛盾しており、社会的であれ、精神的であれ、全ての進歩に反するものであることが明白だ。//
 観念論にこのように悪罵を投げつけて、レーニンは、戦闘的なプロレタリアートの哲学、すなわち弁証法的唯物論(dialectical - )を、それに対置する。
 弁証法的唯物論の基礎となるのは形象(image)の反射物(reflections)の理論で、これによると、感覚(sensations)、抽象的観念および人の認知の全ての他の様相は、誰かに感知されるか否かに関係なく存在している物質世界の実際の性質が我々の精神(mind)へと反射したものだ。
 『物質とは、感覚により人に与えられる客観的実在(reality)を意味する、感覚とは独立して存在しているが我々の感覚によって模写され、反射され、撮影される客観的実在を意味する、哲学上の範疇だ』。(+)
 (ⅱ. 4, 同上、p.130。〔=日本語版全集14巻150頁〕)
 レーニンがいく度も繰り返すように、物質は、文字通りに一つの『写し撮ること(copying)』の問題だ。我々の感覚は事物の形象(images)であり、たんなる事物の結果ではなく、プレハノフが言っただろうような、その『象徴(symbols)』ではない。
 『エンゲルスは象徴やヒエログラフ文字について語っておらず、事物の模写、写真、形象、鏡の反射物について語る。』(+)
 (ⅳ. 6, 同上、p.232。〔=日本語版全集14巻279頁〕)
 感覚は、我々と世界の間にある映写幕ではなく、世界との繋ぎ目(links)、世界の主観的(subjective)な模写物だ。//
 弁証法的唯物論は、物質の構造に関する物理学上の問題を解決するとは主張しない。その立場にない。
 弁証法的唯物論は、物理学が我々に教える全てを受け入れる。『なぜなら、哲学上の唯物論がその認識と結びつく、物質の唯一の属性(property)は、客観的実在であるという属性、意識(mind)の外に存在しているという属性だからだ』(+)(ⅴ, 2, 同上、p.260-p.261。〔=日本語版全集14巻314頁〕)。//
 この最後の点で、レーニンは、首尾一貫していない。なぜなら、彼自身が物理学に関する種々の問題に自信をもって答えているからだ。
 例えば、三次元以上のものがあり得ると主張するのは反動的な馬鹿げたことだとか、全ての形態の非決定論は無意味だとか、レーニンは言っている。
 単純に『意識の外に存在している』という属性により定義されている物質に関して言うと、これはのちの、レーニン主義者の間での論争主題だった。
 経験している主体との関係によって物質は特徴づけられなければならないと示唆したので、結果として、意識(mind)が物質という観念(concept)の中にその相関概念として入ってくる。  
 同じように、レーニンは、『客観的(objective)な』という語を『意識から独立して』ということを意味するものとして用いる。
 リュボフ・アクセルロートに従って、レーニンが物質は全ての範疇のうちで最も広いものなので定義することができない、ゆえに特別の用語で表現することができない、と言う場合にどこででも、彼はそのことと上に引用した言述とを両立させようとはしていない。//
 ---
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ⑤へとつづく。


1634/「前衛」による日本共産党員⑦-2013年3月号。

 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年3月号。
 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 とくに、俵義文を確認しておきたい。二宮厚美(神戸大学)は、ずっと前から、歴然としていた。
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 二宮厚美/神戸大学名誉教授-安倍政権と経済。
 丹羽 徹/大阪経済法科大学-安倍内閣の憲法観。
 俵 義文/子どもと教科書全国ネット21事務局長-安倍内閣の人脈。
 宮永与四郎/教育行政研究者-第二次安倍政権の教育改革。*筆名?
 吉田信雄/消費者問題研究者-消費者行政。*筆名?
 河村健吉/金融問題研究者-金融緩和。
 今泉義竜/弁護士-解雇・退職強要との闘い。
 高田太久吉/金融労働研究ネットワーク-欧州と新自由主義。
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 別の号へとつづく。

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
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 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
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 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1632/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(1996)②。

 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
 1995-96年の二人の対談を内容とするこの本で、西尾幹二は「全体主義」について-これは下記の頁ではスターリン、ヒトラー、中国を含むものとして用いられている)、とくに、「運動としての全体主義」、「きわめて能動的な運動としての全体主義」ということを指摘している。p.136。これに対比されるのは、「単なるイデオロギーではありません」ということのようだ。p.136。
 他の本にもあったような気がする。しかし、必ずしも理解しやすい指摘ではない。静態的・状態的にではなく、動態的・行動的に把握すべきとの趣旨だとは分かる。
 しかし、批判しているのでは勿論ないが、昨秋に以下のE・ノルテの本が早くにあることに気づいて、何やら納得した。
 Ernst Nolte, Die Faschistischen Bewegung (独語, 1966).
 これには、つぎの邦訳書がある。しかし、元々の書名は、<… Bewegung>、つまり、<…の運動>が正確だ。
 ドイツ現代史研究会訳・ファシズムの時代/上・下(植村出版、1972)。
 この研究会の代表格は、「訳者あとがき」によると山口定(欧州政治史、立命館大・大阪市立大)だと見られる。
 ともあれ、「ファシズム運動」よりも「ファシズムの時代」の方が、類似の「…時代」と訳せる表題のE・ノルテの書物が未邦訳であることもあり、選ばれたかに見える。
 E. Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche(独語, 1963(Taschenbuch, 1984)). 〔ファシズムとその時代=ファシズムの時代(未邦訳)〕
 本体・内容に立ち入らないので、些細な、かつ推測しての、したがって何ら確実性のないことだが、E・ノルテの複数の書物をある程度は読んだ上で、西尾幹二はあえて上のように「運動としての…」ということを強調したかったのではないか。
 リチャード・パイプスはその1994年の著<ボルシェヴィキ体制下のロシア>=Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)でこう書いていた。試訳は、この欄の3/29付・№1473も参照。
 「1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった」。
 ソヴィエト(スターリン?)、ナチスおよびイタリア・ファシズムには共通性がある、つまり一括りできるとたぶん戦後早くに指摘したのだったが、上のごとく「静態的な分析」だとも見られた。
 読まないままで言うのだが、西尾幹二は上記のように、あえて「運動」性を強調している。おそらくは、リチャード・パイプスの上の書物を読んではいない(たぶん、E・ノルテのものは見ている)。
 些細かもしれない情報源探しを、もう一つする。
 西尾幹二は、上の本では(まだ)発見できなかったが、何度か、世界大戦、とりわけ第一次の世界大戦について、ヨーロッパ(欧州)の「内戦」だった、と指摘している。
 この点が重要な論点として選ばれて、指摘されているわけではない。しかし、複数回にわたると、読み手である私の印象に残った。
 たしかに、「世界」大戦を戦った諸国は、第二次とされるものを含めても、多くはヨーロッパ諸国だ。とくに第一次とされるそれは、最初はトルコが、遅れてアメリカと日本が関与しているものの、ほとんど欧州諸国がほとんど欧州の領域内で行った戦争だ。
 <ヨーロッパ内戦>という見方は、十分に首肯できる。また、こういう命名を勝手にして、日本の歴史学もそのまま受容して(させられて)いるのだから、欧州人の<ヨーロッパ=わが世界>という見方がよほど根強いものであるかを感じさせられる。
 今はかつてほどではなく、アジア・日本やイスラム世界への関心は強くはなっているかもしれないが、しかし、欧州又は欧米中心主義はなおも根強いだろう。
 知的世界、学問・研究の分野でも、英語を母国語とする英米(・カナダ)と、ドイツとフランス(・イタリア)およびその他の欧州といったあたりで、いちおうは<完結>しているような印象がある。日本の研究者・読者などは気にすることなく、母国である国の研究者・読者と上の広狭はあるが<欧米>の研究者・読者を意識しておけば足りる。
 日本の学界の閉鎖性・そして世界に(欧米に?)稀な<容共産主義>性は、日本語だけの世界で、日本だけでいちおう<完結>しているためではないか、と思っている。
 また、日本に独特の<特定保守>の存在も、日本語だけで通じさせるしかない、<島国>に特有なことだろう(一般に日本固有のことを否定はしない)。
 学界もメディアも「論壇」も、ある程度の人口と「市場」をもつ日本という国の中で、<閉鎖的に>、<自己完結して>、つまりは日本語の分からない欧米人の批判の目にほとんど全く晒されることなく、活動している。日本共産党なるものの存在もまた、その一つ。
 ソ連解体後に<ユーロ・コミュニズム>もまた解体したことの意味を、ほとんどの日本人は理解していないように思われる。消極的意味での、日本の<特殊性>だ。
 想定外に迂回した。
 世界大戦を「欧州の内戦」と捉えるのは、じつはE・ノルテがずばり行っていたことだった。
 Ernst Nolte, Der europaeische Buergerkrieg 1917 - 1945: Nationalsozialismus und Bolschewismus (独語, 2000). 〔1917年-1945年のヨーロッパ内戦-ナチスとボルシェヴィズム〕
 1917年・「ロシア革命」と1945年・二次大戦終焉=ヒトラー・ナチス崩壊の間の時期を、一つの時代、つまり<ヨーロッパの内戦>の時代と把握する。
 西尾幹二は、これをまた、参照しているのではないか。
 ついでに書くと、E・ノルテはドイツでの<歴史家論争>の一方当事者で、その<歴史観>(敢えて簡潔化すれば、レーニン→ヒトラ-)は、むしろ<多数派>だったのではないかと見られる<左派>のユルゲン・ハーバマス(Jurgen Habermath)らに批判された。
 日本では、ユルゲン・ハーバマスの書物は多数翻訳されていて、岩波書店はこの人の論考類をわざわざ日本で一つにまとめた一冊の書を刊行している。
 しかし、エルンスト・ノルテの上の本は、邦訳書がないまま、15年以上を経た。
 なぜか。ドイツの戦後の書籍の紹介や翻訳でも西尾幹二には奮闘してほしかったと思うのだが、無い物ねだりなのかもしれない。
 西尾幹二を批判しているのではない。立場の違いはあれ、欧州で広く読まれかつ意識されていると思われるE・ノルテ、さらにはフランスのフランソワ・フュレの扱いは、日本では奇妙だ。反共産主義へと進まないようにする、産経新聞社も含む日本のメディア・出版業界での<自主規制>があると考えられる。もちろん、「左翼」学者・研究者が加担しており、朝日新聞社や岩波書店は、それを当然だと思っている。
 <自主規制>。そう、まだ日本は「閉ざされた言語空間」の中にいる。占領が終わって全ての傾向の欧米世界の書籍・論考等が「自由」に流入していると思ったら、大間違いなのだ。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)。この人の「マルクス主義」に関する大著の邦訳書すらない。しかも英訳版発行の1978年から、もうほとんど40年になる。このことを知ったのが、今年になって最も衝撃的なことだった。かなり逸れてしまった。

1631/「哲学」逍遙③-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙③。
 レーニンは明らかに、プレハノフと『オーソドクス』はそれに値するほど完全には経験批判論を論駁していない、と考えた。
 彼は1908年のほとんどを、この主題について考えて過ごした。そのうち数ヶ月はロンドンで、英国博物館で研究した。
 その成果は、<唯物論と経験批判論-反動哲学への批判的論評>という書名の本の形をとって、1909年にモスクワで公刊された。//
 経験批判論を批判する際に、レーニンは、内部的な一貫性に関する教理に対する、多様な哲学者たちの異論に特別にはかかわらなかった。
 彼の目的は、経験批判論は『哲学の根本問題』を解消するのに成功していないことを示すことだった。経験批判論は、物事に対する精神(mind)の優位性の哲学、または<その反対も正しい(vice versa)>の哲学で、徹底的なバークリ的観念論を隠蔽する言葉のまやかしの一片だ、そしてそのゆえに、宗教的霊感主義と搾取階級の利益を支持することを意図している、と。//
 レーニンの議論は、党派性(パルチザン性・党派主義、partisanship)にもとづいていた。
 彼は、この言葉を二つの意味で用いた。
 第一に、エンゲルスが明確にしたように、唯物論と観念論との間の中間的立場はあり得ないことを意味する。反対派へと移行したと主張する哲学者たちは、たんに陰険な観念論者だ、ということ。
 さらに、哲学の全ての主要問題は、これの付随物だ。
 世界は知り得るか否か、決定論は真実(true)なのか、真実や時と空間の意味の規準は何か-これらの問題は全て、特殊な例または『根本問題』の拡張物だ。
 これらになされる全ての解答は、傾向として唯物論的または観念論的だ。そして、これら二つの間での選択を回避することはできない。//
 第二に、レーニンにとって党派性(partisanship)は、哲学上の理論は階級闘争において中立的ではなくその手段だ、ということを意味する。
 全ての哲学が、何らかの階級利益に奉仕している。そして、階級闘争で引き裂かれた社会では、哲学者が自分の意図をどう考えていようと、そうでないことはあり得ない。
 直接の政治活動以上に、哲学において非党派的人間であることはもはや不可能だ。
 『哲学における非党派主義(non-partisans)は、政治においてそうであるように、どうしようもなく愚鈍だ。』(+)
 (<唯物論と経験批判論>ⅴ. 5、全集14巻p.286。〔=日本語版全集14巻345頁。〕)
 『哲学における非党派性(non-partisanship)とは、観念論に、そして唯信主義(fideism)に対する、卑劣にも仮面をつけた隷従にすぎない』(ⅵ. 5, 同上、p.355〔=日本語版全集14巻430頁〕)。(+)
 唯物論だけが、労働者階級の利益に奉仕することができる。そして、観念論者の教理は、搾取者の道具だ。//
 レーニンは、『党派性(partisanship)』のこれら二つの意味の関係を論じていないし、哲学者たちと階級の連関は過去へと投影され得るものかどうかも考察していない。
 例えば、唯物論者ホッブズと平民キリスト教聖職者は、抑圧された階級と資産所有者のイデオロギーをそれぞれ代表しているのか?
 レーニンは、現在ではプロレタリアートとブルジョアジーの根本的な社会的対立は哲学者の唯物論の陣営と観念論のそれへの二分に対応する、と主張するにとどめる。
 観念論と政治的反動との結合は、レーニンがつぎのように見なしているということで、最も明確に示される。すなわち、彼によると、あらゆる形態の観念論、とくに認識論上の主観主義は、実践上も論理的一貫性の問題としてもいずれも、宗教的信仰を支えるものだ。
 レーニンがこのような非難を、それ独自の哲学を根拠にしてあらゆる形態の宗教的信仰を攻撃している経験批判論に対して、より強く行うのはむつかしい。
 しかしながら、バークリは、容易な攻撃対象だった。彼の理論が否定する、物事の現実の存在を信じることは、無神論の主要な支えだ、とバークリは考えたので。
 ともあれ、観念論者たちの間の論争は、些細な意味しかもたない、バークリ、ヒューム(Hume)、フィヒテ(Fichte)、経験批判論者、そしてキリスト教神学者の間に根本的な違いはない、とレーニンは言った。
 主観的観念論に対するカトリック哲学者たちの攻撃は、家庭内での争論にすぎない。同様に、経験批判論者の宗教に対する反対論は、プロレタリアートの警戒を解いてプロレタリアートを違う途を経て宗教的神話学と同じ方向へと導くことを意図する欺瞞だ。
 『アヴェナリウスのような者の洗練された認識論上の妄想は職業上の作り物のままで、「自分自身の」小さな哲学上のセクト(党派)を形成しようとする試みだ。
 しかし、実際の問題としては、今日の社会の諸思想と諸傾向の闘争という一般的状況のもとでは、これら認識論上の策謀が果たす客観的な役割は、全ての場合において、同じだ。つまり、観念論と唯信主義への途を掃き清めることであり、それらに忠実に奉仕することだ。』(+)
 (ⅵ. 4, 同上、p.341。〔=日本語版全集14巻413頁。〕)//
 ゆえに、経験批判論は経験の要素がその中で存在論的に中立で『精神的(psychical)』でも『物質的(physical)』でもない世界の像を構築すると主張して、純真な読者を騙している、ということが容易に分かった。
 欺瞞的な言葉遣いが異なるにすぎないマッハとアヴェナリウスおよびドイツ、イギリス、ロシアの仲間の哲学者たちは、世界を印象の収集物へと変形することを主張しており、そうして『物質的現実』は、たんなる意識の産物になる。
 彼らがこの理論を一貫させれば、唯我主義の不合理へと行き着き、世界全体を個々の主体の創出物だと見なすことになる。
 彼らがこの結論を述べないとすれば、読者を誤導したいと願っているか、彼ら自身の教理の空虚さが暴露されるのを怖れているからだ。
 ともあれ、彼らは聖職者の従僕であり、非知性的な言葉の紡ぎ手であって、単純な者たちを瞞し、真の哲学的問題を混乱させている。一方で、ブルジョアジーは権力を自分たちに維持するために民衆の当惑を利用している。
 『我々のうち誰でも、物質的(physical)なものと精神的(mental)なものとを知っている。しかし誰も現在では、「第三の」ものを知らない。
 アヴェナリウスは、策略でもって自分の痕跡を隠蔽しているにすぎない。一方で、<実際には(in fact)>、自我は始源的なもの(中心項)で自然(環境)は二次的なもの(対立項)だと宣言している。』(+)
 (ⅲ. 1, 同上、p.147。〔=日本語版全集14巻172頁。〕)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ④へつづく。

1630/「哲学」逍遙②-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙②。
 この〔リュボフ・アクセルロートの〕本は、レーニンがのちに経験批判論に反駁したことのほとんど全てを含んでいた。レーニンよりも簡潔だったが、論調は同じく粗野だった。
 二つの主要な論拠が、外部世界は我々の感覚へ『反射したもの』だ、またはそれに『対応したもの』だという見方を支持するために、提示された。
 第一に、我々は正しい(true)知覚と偽り(false)のそれかを、妄想か『適正(correct)な』観察かを区別する。そして、実際と我々の感覚が一つであり同じであるなら、我々は区別することができない。
 第二に、事物は我々の頭の中にではなく、その外側にあることを、誰でも知っている。
 カントの哲学は、唯物論と観念論の間の折衷物だ。
 カントは、外側世界という観念を維持した。しかし、神学と神秘主義の影響をうけて、世界は知り得ない(unknowable)ものだと述べた。
 この折衷物は、しかしながら、作動しないだろう。我々の知識の根源は意識と物事のいずれかにある。第三の可能性は、ない。
 物事を定義することはできない。なぜなら、『始源的事実』(primal fact)だからだ。
 『全ての事物の本質』、『全ての現象の起源かつ唯一の原因』、『元来の実質』、等々。
 物事は『経験にある所与』のもので、感覚的知覚によって知ることはできない。
 観念論は、主体なくして客体はない、と主張する。しかし、科学は地球が人よりも前に存在したことを示した。そして、意識は自然の産物であるはずであり、自然の条件ではない。
 数学知識も含めた我々の全ての知識は、我々の精神にある外部世界の『反射物』から成る、経験に由来する。
 マッハのように世界は人間の創出物だと主張するのは、科学を不可能にする。なぜなら、科学は、その研究の客体としての外部世界を前提にするからだ。
 観念論は、政治上は、反動的帰結へと導く。
 マッハとアヴェナリウスは、人間を普遍世界の測量器(measure)だと考えた。
 『この主観的理論は、大きな客観的価値をもつ、とする。
 こう言うことで、貧者は富者であり、富者は貧者だ、全てが主観的な経験に拠っている、ということを証明するのは簡単だ。』
 (<哲学小論集>〔L・アクセルロート, 1906年〕、p.92。)
 主観的観念論はまた、絶対に確実に、唯我主義(solipsism)にもなる。全てが『私の』想像のうちにあれば、他の主体の存在を信じる理由は何もないからだ。
 これは原始人の哲学だ。野蛮人は文字通りに、頭の中に入ってくる全てのものの存在を信じて、夢想を現実と、偽りの知覚を真の知覚と混同する、そして、現実に存在しているものだと考える。これは、バークリイ(Berkley)、マッハ、ストルーヴェ、そしてボグダノフがそうしているのと同じだ。//
 同じ著作で、リュボフ・アクセルロートは、スタムラー(Stammler)に反対して、決定論を擁護する。スタムラーは、歴史的決定論と革命的な意思の力の両方を信じることは一貫していないと、異論を述べていた。
 この点に関しても、彼女は、プレハノフの反論と同じものを繰り返す。歴史を作るのは人間で、その行為や精神的努力の有効性は、人間が制御できない情勢に依存する。
 自然の必然性と歴史的必然性の間に、あるいはしたがって、自然科学と社会科学の方法の間に、違いはない。
 ブルジョア的観念論者は、現在だけが現実だと主張する。そうすることで、彼らは、歴史により宿命的に破滅させられる階級の恐怖を表現している。しかし、マルクス主義者には、歴史の法則に照らして予見することができるという意味で、未来は『現実』だ。//
 つぎのことは、追記しておくべきだ。すなわち、リュボフとプレハノフはいずれも、『反射物』という語は文字通りに受け取られるべきでない、と言う。
 知覚は、鏡の中の像と同じ意味における事物の『写し』ではない、そうでなく、その内容物はそれが生む客体に依存しているという意味においてだ、と。//
 ---
 ③へとつづく。


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