秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2013/07

1186/2013参院選挙前のいくつかの新聞社説等。

 1.朝日新聞7/17社説は「参院の意義―『ねじれ』は問題か」をタイトルにしている。内容を読むと参議院の存在意義に触れてはいるのだが、<ねじれは問題か>と問い、「衆院とは違う角度から政権の行き過ぎに歯止めをかけたり、再考を促したりするのが、そもそも参院の大きな役割のはずだ。その意味では、ねじれ自体が悪いわけではない」と答えているのは、いかにも陳腐で、<ねじれ解消>を訴える自民党や公明党に反対したい気分からだけのもののようにも見える。

 一般論として「ねじれ」の是非を論じるのが困難であることはほとんど論を俟たないと思われる。問題は、「ねじれ」によって何が実現しないのか、にあるのであり、その「何」かを実現したいものにとっては「ねじれ」は消極的に評価されるが、その「何」かを阻止したい者にとっては「ねじれ」のあることは歓迎されるだろう。朝日社説はこの当たり前のことを言っているだけのことで、かつ現在において「ねじれ」は「悪いわけではない」と指摘しているのは、実践的には、衆参両院における自公両党の多数派化に反対したいという政治的主張を、朝日新聞だから当たり前のことだが、含むことになっている。

 2.毎日新聞7/20社説、論説委員・小泉敬太の「参院選/憲法と人権」はかなりヒドい。現憲法と自民党改憲案の人権条項(諸人権の内在的制約の根拠の表現)における「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」を比較して、前者は「一般に、他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際に考慮すべき概念」とされるが、後者は「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と明記している。

 「公共の福祉」とは「他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際」の考慮要素だとは、いったい誰が、どの文献が書いていることなのだろう。「公共」という語が使われていることからも明らかであるだろうように-<多数の他人>の利益が排除されないとしても-「社会公共」一般の利益または「国家」的利益との間の調整を考慮すへきとする概念であることは明らかではあるまいか。

 自民党改憲草案にいう「公益及び公の秩序」を批判したいがために毎日新聞社説は上のように書いているのだが、この欄でかつて自民党案の表現は「公共の福祉」を多少言い換えたものにすぎないだろうと書いたことがある。
 この点には私の知識および勉強不足があり、最初は 
宮崎哲弥のテレビ発言で気づいたことだったが、産経新聞7/09の「正論」欄で八木秀次がきちんと次のように書いていた。
 改憲反対派は「基本的人権の制約原理として現行憲法が『公共の福祉』と呼んでいるものを、自民党の憲法改正草案が『公益及び公の秩序』と言い換えたことについても、戦時下の国家統制を持ち出して、言論の自由を含む基本的人権が大幅に制約されると危険性を強調する。自民党案は、わが国も批准している国連の国際人権規約(A規約・B規約)の人権制約原理(「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」)を踏まえ、一部を採ったささやかなものに過ぎないのに、である」。 
 「公益及び公の秩序」とは国際人権規約が明示する人権制約原理の一部にすぎないのだ。
 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることによって、現憲法以上に「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と自民党改憲案を批判している毎日新聞は、ほとんどデマ・捏造報道をしているに等しいだろう。問題・論点によっては「左翼」が必要以上にその内容を好意的・肯定的に援用することのある「国際人権規約」の基本的な内容くらい知ったうえで社説が書かれないようでは、ますます毎日新聞の<二流・左翼>新聞ぶりが明らかになる。

 毎日新聞の上の社説の部分は、最近に、<憲法は国民が国家(権力)をしばるもの、法律は国家(権力)が国民をしばるもの>と書いた朝日新聞社説とともに、見事に幼稚な<迷言>・<妄論>として、両社にとっての恥ずかしい歴史の一部になるに違いない。
 3.ついでに(?)、産経新聞7/19の「正論」欄の百地章「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」にも触れておこう。

 樋口陽一が代表になった(9条の会ならぬ)「96条の会」というのが設立され、96条の改正要件の緩和に反対する樋口陽一らの講演活動等がなされている、という。いくつかの大学等でのその講演集会をかなり詳しく報道し続けているのが朝日新聞で、さすがに朝日新聞は自らの社論に添った運動・集会等には注目して記事にするという政治的な性癖をもつ政治団体だと思わせる。かつての、松井やよりや西野瑠美子らの、いわゆる「天皇断罪戦犯法廷」(NHKへの安倍晋三らの圧力うんぬんという<事件>のきっかけになった)について事前にも朝日新聞記者の本田雅和らが熱心に記事で紹介していたことを想起させる。
 上の一段落は百地論考と無関係だが、百地によると、憲法96条改正反対論に対する反対論・疑問論を提起する者として、大石眞(京都大学教授-憲法学)、北岡伸一(東京大学名誉教授)がある。また、96条先行改正には反対の小林節(慶応大学教授-憲法学)も、「9条などの改憲がなされた後なら、96条の改正をしてもいい」と発言している、という。
 大石眞の読売新聞上のコメントは読んでいるが、上の程度に紹介しておくだけで、ここではこれ以上立ち入らない。立憲主義なるものと憲法改正要件とは論理的な関係がないのは自明のこと。現役の京都大学教授の読売上での発言は、失礼ながら百地章の産経上の文章よりも影響力は大きいのではないか。
 百地章は以下の重要なことを指摘しており、まったく同感だ。 
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか

 この欄で、自民党改憲案も現9条1項はそのまま維持している、「9条の会」という名称は9条全体の改正を改憲派は意図しているという誤解を与えるもので(意識的なのかもしれない)、正確に「9条2項の(改正に反対する)会」と名乗るべきだ等、と書いたことがある。
 百地章も少なくとも最近は漠然と「9条」ではなく「9条2項(または論旨によって1項)」と明記するようになっているようで、まことに適切でけっこうなことだ。また、上のような「新聞やテレビ」の世論調査の質問の仕方は今の日本の「新聞やテレビ」の低能ぶりまたは「左翼」性を明らかにしている証左の一つだろう。  

1185/「絆」と「縁」の区別、そして「血縁」ー民主党・菅直人と自民党。

 菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
 だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
 そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
 そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
 さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
 戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
 「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
 もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
 だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。

1184/久しぶりに月刊正論を読む-西尾幹二論考。

 産経新聞も月刊正論も定期購読しなくなって、かなり経過した。

 月刊正論8月号(産経新聞社)の西尾幹二「日本民族の偉大なる復興・上/安倍総理よ、我が国の歴史の自由を語れ」は、まったくかほとんどか、違和感なく読める。

 論旨の一部ではあるが、橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するコメントも-「旧日本軍だけを責めるのはおかしい、とくりかえし主張したことは正論で、良く言ってくれたと私は評価している。/ただ橋下氏は多くを喋り過ぎることに問題があった」等々-穏当またはおおむね公平な評価と批判だと思われる。

 西尾自身が自らの月刊WiLL6月号(ワック)上の論考に言及しているが、おそらく橋下徹はその西尾論考を読んでいただろう。記者の質問に対する咄嗟の応答の過程で西尾論考の基本的な内容も頭をよぎっていたのではないかと想像している。なお、質問をして橋下発言のきっかけを作ったのは朝日新聞の記者のようだ。「歴史認識」にかかわる質問をして十分な用意のないままでの<妄言>を引き出し、韓国政府・マスコミ等に批判させて日本国内で騒ぐ(そのために辞任した閣僚もこれまで何人もいた)、というのは、今回がそのまま該当するかは不明だが、朝日新聞がよくやってきた陰謀・策略的手口で、橋下徹もその他の「保守」政治家も<用心>するにこしたことはない。

 ところで、これまた西尾幹二の月刊正論論考の重要部分でないかもしれないが、そこで紹介されている渡辺淳一の週刊新潮上の連載随筆の一つ(橋下徹発言批判)には、それを読んでいなかったこともあり、あらためて驚愕した。この人物がこの随筆欄で50~60年代の「進歩的・左翼知識人」が言っていたような奇妙で単純なことを現在でも自信をもって書いているらしきことに驚きかつ呆れていたものだが、西尾はこう断じる-渡辺淳一は「日教組教育に刷り込まれた頭のままで成人して、以後人間と世界のことは新しく何も学ばずに成功し、太平楽を並べ、身すぎ世すぎができた幸福なご仁だ…」。
 西尾は「成功」と書いているが、けっこうな収入を得て有名にもなった、ということだけのことで、渡辺は日本国家・社会、日本人にとっては何事もなしてはいない人物にすぎないだろう。それはともかく、渡辺淳一、1933年生まれ。西尾幹二にも近いが、大江健三郎にも近い、私のいう、1930年代前半生まれの<特殊な世代>の一人だ。そして、西尾幹二の指摘する、「日教組教育」あるいはその基礎・背景にあるGHQまたはアメリカによる<自虐史観>教育を受け、成人後も、あるいは日本再独立後も、「人間と世界のことは新しく何も学ばずに」戦後の日本社会で生きてきた人間たちが、この世代には「塊」となってまだ残存している、と思われる。彼らは、いわゆる「団塊」世代よりもタチが悪い(大江のほかに同じく9条の会の樋口陽一や奥平康弘もこの世代だ)。
 大江、樋口、奥平あたりにはまだ「確信犯」的なところがあるだろうが、「新しく何も学ばずに」、現在で言えば、月刊WiLLや月刊正論「的」な論調があることやその正確な中身を知らず、そうした論調の一部を知るや<脊髄反射的>に、「保守・反動」だ、<偏っている>、と決めつけてしまう「単純・素朴な(バカの)」人たちがまだ多数いる。

 西尾幹二にはまだもっと活躍していていただく必要があるが、そういう人たちは、日本のためにも早く消え去っていただきたいものだ。

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