秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2011年05月

1004/<日本は沖縄を侵略した>という戦後教育第一世代。

 朝日新聞を長年にわたって購読し、一時的には「義理で」などと言い訳しつつも日本共産党機関紙・赤旗(日曜版も含む)を読み、そしてNHKや一般の民間放送の報道・特集番組はときに観るが、しかし岩波・世界も産経・正論も含めて月刊論壇誌を読んで少しは詳細に世界や日本の動向を勉強したり思考したりすることはなく、世界観・社会観といえば戦後初期の学校教育の影響や1960年前後に関与した「安保反対」騒擾の頃の<反体制>的雰囲気をそのまま引きずって、<反戦・平和と民主主義>(これは昨今では反自民党・親民主党の気分になる)に染まっている、というような人々は、大江健三郎(1935-)や渡辺淳一も含めて、少なくはない(大江健三郎の場合はたんに「染まっている」のではないが)。

 この世代、小林よしのりのいう「小国民」世代、ほぼ昭和一桁後半生まれを中心とする世代は、現実の「戦争」を具体的・詳細に知っているわけでもないのに、戦中・戦後の<苦しい>体験を有していることから、それを知らないより若い世代に対して何がしかの不思議な優越感をもって?、戦争というのはこんなに悲惨なのだよ、といった説教をしたがる傾向もある。渡辺淳一(1933-)は、週刊新潮(新潮社)誌上で、しきりとそのような作業をしている。

 「戦争」を、先の対米戦争(・対中戦争?)と同一視して、日本軍国主義悪玉史観というかつてのGHQの基本方針による教育の強い影響を引きずりつつ、「戦争」一般=悪、という歴史観・社会観?をもって、こういう人々は、当然に「反戦」=善、と考える。日本国憲法9条(2項)護持の方向に傾き、改憲論者に「右」・「保守・反動」というレッテルを貼って、自らは良心的・進歩的・合理的な人間の一人だと考えがちなのも、こういう人々だ。渡辺淳一は、例の田母神俊雄論文に対して、脊髄反射的な嫌悪の感情を上記週刊誌で吐露した。

 このような人たちの中には、NHKの「スベシャル」との名の付いた歴史回顧の特集番組を見て、<日本は沖縄を侵略したのだ>などと大発見のごとく主張したりする者もいる。もともと日本軍国主義悪玉史観あるいはいわゆる「自虐」史観を持っていることもあって、中国や朝鮮半島諸国には<甘い>のがこの世代の人々の特徴だが、<日本は沖縄を侵略したのだ>という認識・理解・主張が、尖閣諸島や西表列島の侵略や、現在の沖縄県(琉球)の日本からの独立を画策していることの間違いのない共産中国(中国共産党の支配する中華人民共和国)の政策・意図を助けるものである、ということの認識はまるでない(なお、論旨は同じでないが、撃論第1号(オークラ出版、2011)所収の、中川八洋「”風前の灯火”尖閣諸島と国防忘却の日本」(p.6-)、藤井厳喜「震災日本だからこそ考える改憲と核」(p.21-)等々参照)。おそらく彼らの多くは、中国がそんなことをする筈がない、考えている筈がない、と思っているのだろう。<反・反共>意識は旺盛ながら、共産主義・コミュニズムに対する警戒心はきわめて薄いのもこの世代の特徴だ。

 この世代は、戦前から戦後への時代転換をうまく切り抜けた、あるいは<新しい時代精神>に巧みに?迎合した、いわゆる戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた、戦後第一次の世代の者たちだ。

 彼らの影響・指導を受けたのが、ほぼその次のいわゆる<団塊>世代になる。この世代を<全共闘>世代ということもあるが、<全共闘>運動の影響を強く受けた者は実際には大して多くなく、多く見積もってもせいぜい1割だろう。だが、周辺には、彼らの言うことも分かる的な、<全共闘>シンパまたはそれよりも弱い<全共闘>容認派も、大学出身者に限ればだが、半分近くはいたかもしれない。積極的な支持者または組織員の一人が仙石由人で、菅直人や鳩山由紀夫は容認派だっただろうか。

 こういう<団塊>世代が生じたのも(そして怖ろしくもそれが現在の日本政治の中心に居座っている)、その前の、戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた戦後第一次世代の者たちがいたがゆえであり(この世代は、後続世代に比べて、日本社会党支持率が一貫して高かった)、現在の日本国家と社会に対する世代的責任は、「団塊」世代よりも大きいと言わねばならないだろう(もっとも、GHQによる占領とそれに迎合した進歩的文化人・知識人よりは小さいのは確かだ)。

 「世論調査では共産党の支持率はせいぜい二~三%にすぎないのに、教科書になると九〇%を超える割合で共産党に近い見解が教えられている」(伊藤隆「日本がもっと好きになる育鵬社教科書」月刊正論(産経新聞社)2011年6月号p.228)。

 こういう怖ろしい現実があるのも、親コミュニズムあるいは容共の心性を持った日本人がなお多数派を占めているからだと思われ、その典型が、ここで言及した、戦後教育を受けた<容共>(反戦・平和の)第一次世代で、この世代がなおもしぶとく存在し、後続世代の者を性懲りもなく<説教>しようとしたりしているからだと思われる。

 西尾幹二等々、例外のあることは承知している。そのような一部?を除いて、早々に時代の舞台からご退場願いたいものだ。

 これまで書いてきたことと基本的趣旨は同じで、まるで新味はないが。

1003/独裁者・菅直人、一刻も早くクビをとるべきだ。

 一 かりに目的がよくても為政者はいかなる手段を用いてもよいわけではない。

 万が一「共産主義」社会が理想的なものであっても、その社会実現のために、邪魔になる「反共」主義者をその思想ゆえにのみすべて殺害することは許されるのか?。

 菅直人は、上と似たような発想をする<独裁者>のようだ。

 なるほど浜岡原発は、その立地において他の原発と比べて地震・津波の安全性に疑問が高いように見える。安全性の確保が(東北地方・太平洋側の原発とともに)急がれる原発かもしれない。

 上のような印象がただちに浜岡の「運転停止」を正当化するものではない。この点についても検証が必要だが、これもスルーして、浜岡は「運転停止」すべき原発だということが合理的判断だ、ということにしてみよう。

 そうしてみたところで、内閣総理大臣による「停止」要請が正当化されるわけではまっくない。

 二 菅直人による今回の要請はなるほど唐突であり、総合的・長期的考察を欠いているだろう。

 だが、より大きな問題は、内閣総理大臣たる菅直人が(口頭によったのか文書によったのかも新聞紙上では不明確ななままで)「要請」という<行政指導>によって、「運転停止」を実現しようとし、かつ実現しそうだ、ということにある。

 菅直人は、法律と行政に未熟な、かつ「左翼」的心性をもった菅直人は、その「独裁者」ぶりを、いよいよ発揮してきた。

 三 自民党の石波茂(政調会長)は菅直人の措置の「根拠」を問題にしているが、相手方が任意に協力してくれるかぎりでの「行政指導」に具体的な法的根拠(法律上の根拠条項)は要らないだろう。

 だが、思い出しても、バブルを終熄させたのは、1990年3月の大蔵省銀行局長の「行政指導」通達だった(農林系金融機関は対象外だったことが大きな問題を残したことは周知のとおり)。

 このときはたかが銀行局長の…と感じたものだが、今回は内閣総理大臣たるものの「要請」=「行政指導」だ。建て前上、行政指導に拘束力はない、従うか否かは相手方の任意といってみたところで、強く規制・監督されるかわりに強く保護されている電力会社が内閣総理大臣の「要請」を拒否できるはずがない、と考えるのが常識的な感覚だろう。

 そして、菅直人によると「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」らしいのだが、「現在の法制度」では不可能なことを、便宜的な「行政指導」という措置で実現しようとした、かつその意思形成過程はほぼ菅直人の脳内にあり、わずかにせよ存在するはずの国(行政)の意思形成システムをもほとんど無視してそれはなされた。ここに問題の本質がある。

 四 浜岡原発の運転停止を求める「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」のだとすれば、そのような正規の法的権限を与えるように原子炉等規制法等を改正して、内閣総理大臣または経済産業大臣等に<運転停止>権限を付与するのが、正常な法的感覚だ。

 そんな悠長なことをいっておれない、緊急性を有する、と菅直人は考えたのかもしれない。しかし、幸い?国会は開会中で、官僚たちに指示して原案を作らせて国会で審議すれば、菅直人の浜岡原発の焦眉の危険性が国会議員多数に共有されるかぎり、数週間で法律は(場合によっては政令・省令も)改正できるはずだ。

 法律改正が難航して、いよいよ浜岡原発が危ない、となれば、その時点で停止「要請」しても間に合うだろう。国会での審議中に浜岡に放射性物質にかかわる震災または津波が起こったときにかぎり、菅直人の措置は結果として(カンが当たったとして)正当化されるだろう。

 なぜ、関係法令の改正をしようとしないのか、なぜ、そのための改正案を菅直人(内閣)は国会に提出しないのか。

 「熟議を」とかいいながら、国会を軽視・無視している菅直人(そして民主党)内閣の本質が一段と明らかになっている。

 国会の軽視・無視、国会に諮らないままでの事案処理、これはまさしく<行政独裁>であり、さらにほとんど菅直人の脳内でのみ意思形成がなされたようであることも含めて、<菅直人の独裁>に他ならない。

 五 場当たり的、人気取り、原発政策全体との整合性は?、とかの批判は当たっていないことはないだろう。

 だが、最大の問題は、現行法制上は不可能なことを内閣総理大臣たる菅直人個人の「行政指導」で行った、という点にある。目的さえよければ(菅直人は「国民の安全と安心」のためと明言している)、現行法制を無視して、いかなる事項・問題でも首相の「行政指導」によって実現する、という道が拓かれた、という点にある。これを座視すれば、今後のその他の問題でもまた、同様のことが繰り返されるだろう。「国民の安全と安心」のために、現行法制では決められていないので「行政指導」で、という行政スタイルが構築されようとしている。しかもまた、その「行政指導」にあたって、行政部内全体での十分な検討が行われたようにも見えないのだ。

 国会軽視・無視の、かつ行政部内全体の調整も不十分なこの行政スタイルは、菅直人(個人)による<独裁体制>だ、と言って過言ではない。

 六 目的さえよければ、手段はどうでもよいとするのが「左翼」の基本的な発想だ。さっそく日本共産党・社民党、そして民主党系・容共らしき川勝某静岡県知事は<英断を歓迎する>と述べている。

 そこには、法律(国会)と行政の関係あるいは行政にかかわる法秩序感覚は乏しい。

 一種の非常事態の中で、日本の立憲主義、法治主義は危機に瀕している

 菅直人という政治・行政の「素人」が、まがりなりともある程度は築かれてきた日本的な立憲主義、法治主義を破壊している。

 そのような深刻な危険性を、今回の浜岡「停止要請」はもつものだ。この点を良識ある人々は鋭敏に見抜くべきだ。

 菅直人はあぶなっかしいのではなく、現に危ない。独裁者は退場させなければならない。早くクビを取らなければならない。

 七 菅直人のクビを取ること、そしてさらにそもそも「現行法制」はどうなっているのか、について次回以降に書く。

 三万人近い死者にとっては「勇気を」、「希望を」等々とか言っても空しいだけだ。死者が、どのようにして「勇気」・「希望」をもちうるのか?? そう感じ、言葉の無力さをひしひしと感じてしばらくこの欄に向かわなかったが、菅直人の行動により「日本」という国家がさらに一段と自壊していくのを感じて、再び文章をつづる気になった。

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