秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2009年01月

0660/長尾龍一・憲法問題入門(ちくま新書)と横田喜三郎の1951年本(河出)における「民主主義」。

 一 長尾龍一・憲法問題入門(ちくま新書、1997)のp.39~p.41にこんな文章がある。
 ・民主主義=Democracy とは「デーモス(民衆)の支配」の意味で、「デーモス」は下層・中層自由民を意味した。
 「民衆のための支配」という標語は、「何が民衆のためか」の認定権を少数者が持てば、「独裁制の正当化」になる可能性がある。
 十分で正確な情報にもとづかない「デーモス」の決定は「極めて不合理」になりうることは容易に想像がつく。従って当時は、無条件に Democracy を賛美する者など存在せず、有識者の多くは「反民主主義者」だった。この時代、民主主義は「価値判断ぬき」の「一つの制度」で、その長短を冷静に議論できた。
 民主主義=正義、非民主性=悪となったのは一九世紀以降の「価値観」で、そうすると「民主主義」というスローガンの奪い合いになる。この混乱を、(とくにロシア革命後の)マルクス主義は助長した。マルクス主義によれば、「封建的・ブルジョア的」意識をもつ民衆の教育・支配・強制が「真の民主主義」だ。未来世代の幸福のための、現在世代を犠牲にする「支配」なのだが、「未来社会」が「幻想」ならば、その支配は「幻想を信じる狂信者」による「抑圧」であり、これが「人民民主主義」と称されたものの「正体」だ。
 ・民主主義が「民衆による支配」 だとすると、「支配」からの自由と対立する。「民衆」が全てを決定すると「自由な余地」はなくなる。レーニンやムッソリーニは、「民衆代表」と称する者による「徹底的な自由抑圧」を「徹底した民主主義」として正当化した。
 一方、、「支配からの自由」を徹底すれば「民衆による支配」もなくなり、「アナーキー」になる。以下省略。
 長尾龍一は1938~。東京大学法学部卒だが、同学部・大学院ではなく、東京大学大学院総合文化研究科教授(上の本の著者紹介による)。
 二 横田喜三郎・民主主義の広い理解のために(河出書房・市民文庫、1951第一版)はGHQ占領下の時期のものだ。
 既に紹介のとおり、宮沢俊義もまた、<何でも民主主義>とでも言うべき、自由・平等・個人主義等をすべて「民主主義」から、又はそれとの関連のもとで説明する文章を書いていたが(「民主主義=(何でも出てくる)玉手箱」論とでも言おうか)、この横田の本も似ているところがある。
 p.11にはこんな文章がある。
 ・「民主主義」とは、「精神的な、思想的な」方面では、「すべての人にひとしく人格を認め、これを尊重し、すべての人の利益と意見を同様に尊重するという精神・心持・態度を意味する」。
 ・「民主主義」とは、「社会的な」面では、「すべての人に平等な機会を与え、平等なものとして扱う社会制度を、すべての人に広い言論や思想の自由を認める社会組織を」意味する。
 ・「民主主義」は、「政治的な」分野でも同様で、「人民主権」や「人民参政」の政治形態を意味する。もっとも、「人民主権」・「人民参政」は「結局においては、すべての人が平等だという思想」にもとづく。「人民主権」は「君主主権」と対立する。
 以上の横田喜三郎の文章において、「民主主義」と「平等」とは、あるいは「民主主義」と「自由」や「個人主義」は(関係するところがあるかもしれないとしても)明瞭に別の観念として説明されているだろうか。ここにも、<何でも民主主義>論、「民主主義=(何でも出てくる)玉手箱」論が見られるようだ(なお、別の箇所では民主主義=自由主義ではないこと等を論じてはいる)。
 このようなことを、「市民」向けにであれ書いていた人が当時東京大学の国際法担当教授であり、のちに最高裁判所長官になったのだから、日本の戦後の出発は、あるいは「戦後民主主義」の始まりは、「民主主義」についての、ヒドい誤りを含んだままの、冷静な理解を欠く状態でなされた、と感じざるをえない。
 ポツダム宣言は、「軍国主義」と「民主主義」とを対置して、「民主主義」的傾向に対する障碍の除去を謳っていた。また、あの戦争は<民主主義対ファシズム>の闘いだったとの「歴史認識」も、GHQのそれを基礎にして宣伝され、教育された。
 宮沢俊義や横田喜三郎の「広い民主主義」観又は「民主主義」概念の「広い」用法は、このポツダム宣言やGHQの「歴史認識」に影響を受けたものだ、あるいはこれらに<追慫>したものだ、というのが成り立ちうる一つの仮説だと考えられる。

0659/自由主義・「個人」主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1

 一 <民主主義>とは「国民」又は「人民」の意向・意思に(できるだけ)即して行うという考え方、というだけの意味で(「民主政治」・「民主政」はそのような「政治」というだけのこと)で、「国民」・「人民」の意思の内容・その価値判断を問わない。従って、「国民」・「人民」の意思にもとづいて<悪い>又は<間違った>又は<不合理な>決定が行われることはありえ、そのような「政治」もありうる。民主主義にのっとった決定が最も「正しい」とか「合理的」だとは、全く言えない。
 また、「国民」・「人民」の意思だと僭称するか(各国共産党はこれをしてきたし、しているようだ)、しなくとも実際に多数「国民」・「人民」の支持・承認を受けることによって、ドイツ・ワイマール民主主義のもとでのナチス・ヒトラー独裁のように、民主主義から<独裁>も生じうる。また、民主主義の徹底化を通じた<社会主義・共産主義>への展望も、かつては有力に語られた。
 <民主主義>に幻想を持ちすぎてはいけない。
 <自由>が国家(・および「因習」等)による拘束からの自由を意味するとして、それは重要なことかもしれないが、このような<自由>な個人・人間が目指すべき目標・価値を、あるいは採るべき行動・措置を、何ら指し示すものではない。<自由>を活用して一体何をするか、何を獲得するかは、<自由>それ自体からは何も明らかにならない。
 とくに<経済的自由主義>はコミュニズムに対抗する意味でも重要なことだろうが(むろん「自由」にも幅があるので又は内在的制約があるので、<規律ある自由>とかが近時は強調されることもある)、しかし、「自由主義」に幻想を持ちすぎてもいけない。
 <個人主義>も同様だ。人間が「個人として尊重」されるのはよいし、その個人の「生命、自由及び幸福追求に対する…権利」が尊重されるのもよいが(日本国憲法13条)、「生命、自由及び幸福追求」というだけでは、「自由な」尊重されるべき「個人」が、一体何を目指し、何を獲得すべきか、いかなる行動を執るべきか、いかなる具体的価値を大切にすべきか、等々を語るには、なおも抽象的すぎる。要するに、各個人の「自由な」又は勝手気侭な選択はできるだけ尊重されるべし、というだけのことだ。
 <平等>主義も重要だろうが、これまた具体的<価値>とは無関係だ。適法性を前提としても(法の下の平等)、平等な貧困もあるし、平等に国家的・社会的規制を受けることがあるし、平等に「弾圧・抑圧」されることもありうる。<平等>原理だけでは、特定の<価値>を守り又は獲得する手がかりには全くならない。
 二 というようなことを思いつつ、佐伯啓思のいくつかの本を見ていると、なるほどと感じさせる文章に遭遇する。
 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)の、80年代アメリカ経済学・「グローバリズム」・「新自由主義」批判は省略。
 ①「リベラリズム」(自由主義)の「基礎を組み立てている」のは「消費者」ではなく、しいて名付ければ「市民」だとしたあと(上掲書p.56)、次のように書く。
 ・「市民」はその原語(ブルジョアジー)の定義が示すように何よりも「財産主」であり、「財産主」であることを守るためには「安定した社会秩序」を必要とした。さらに「社会秩序」の維持のためには「公共の事柄に対する義務と責任」を負い、この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」・「日々の経験」・「人々との会話」・「読書」・「芸術」によって培われる。
 ・「公共の事柄に対する義務と責任」を負うために必要な「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を、人は、「いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として」身に付けることはできない。人は「近隣、家族、友人たち、教会、それに国家」、こうした「様々なレベルでの」「広義の『共同体』」と一切無関係に「価値や判断力」を獲得できない。
 ・「近代社会」による「封建的共同体からの個人の解放」は「個人主義」の成立・「近代リベラリズムの条件」だと理解されている。しかし、これは「基本的な誤解」か、「すくなくとも事態の半面を見ているにすぎない」。「一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえない」。仮にありえたとして、彼はいかにして、「社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在」を学ぶのか。
 ・「通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の権利をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」。(以上、p.57-58)。
 昨年に憲法学者・樋口陽一の「個人」の尊重・「個人主義」観をこの欄で批判的に取り上げたことがある。樋口陽一や多くの憲法学者の理解している又はイメージしている「個人」とは、佐伯啓思は「ロックなどの社会契約論が思想の端緒を開き…」と書いているが、ロック・ルソーらの(全く同じ議論でないにせよ)社会契約論が想定しているようなものであり、それは「誤り」を含む「通俗的な近代リベラリズム」のそれなのではないか。
 ②次のような文章もある。
 ・80年代に「リベラリズム批判」と称される四著がアメリカで出版され、話題になった(4名は、ニスベット、マッキンタイアー、ベラー、サンデル)。これらに共通するのは、「支配的なリベラリズム」が想定する「何物にも拘束されない自由な個人という抽象的な出発点」は「無意味な虚構だ」として排斥することだ。「抽象的に自由な個人」、サンデルのいう「何物にも負荷されない個人」という前提を斥けると「個人とは何なのか」。マッキンタイアーが明言するように、「何らかの『伝統』の文脈と不可分な」ものだ。
 ・人は「書物や頭の中で考えたこと」によって「価値」・「行動基準」を学習・入手するのではなく、「日々の経験や実践」の中で学ぶ。ここでの「実践」も抽象的なものではなく、それは「必ず歴史や社会の個別性の中で形成される」。つまり、「実践」は必ず「伝統」によって負荷されている。従って、「実践」とは先輩・先人・先祖との関係に入ることも意味する。「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、残るのは「極めて貧困な実践」であり、そこから「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ(以上、p.58-59)。
 ・まとめ的にいうと、「確かに、リベラリズムは…、かけがえのない個人という価値に固執する」。「個人的自由」はリベラリズムの「基底」にある。しかし、「『個人』は、ある具体的な社会から切り離されて自足した剥き出しの個人ではありえない」。つまり、「特定の『実践』や『伝統』から無縁ではありえない」(p.60)。
 今回の紹介は以上。
 上の一部にあった、「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ、ということは、わが国の戦後に実際に起こったことではないか。
 日本の戦前との断絶を強調し(八月革命説もそのような機能をもつ)、戦前までにあった日本的「伝統」・「価値」 を過剰に排斥又は否定した結果として、「伝統」・「歴史」の負荷を受けて成長すべき、戦後に教育を受けた又は戦後に社会的経験・「実践」をした者たちは(現在日本に生きている者のほとんどになるだろう)、まっとうな感覚をもつ「豊かな個人」として成長することに失敗したのではないか(私もその一人かも)。そのような「個人」が構成する社会が、そのような「個人」の総体「国民」が「主権」者である国家が、まともなものでなくなっていくのは(<溶解>していくのは)、自然の成り行きのような気もする。

0658/サピオ2/11・18号等を読み、「天皇」と<宗教>を考え、井上清・江口圭一を詰(なじ)る。

 〇サピオ2/11・18号(小学館)。
 <昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々>という特集は、一気に読了。<昭和>を回顧・懐古することが無意味だとは思わないが、<今上天皇>のもとでの<私たち日本人の日々>はどうなのか、という問いかけ・懐疑、ひいては現在の天皇・皇室についての問題提起も含まれているような気がして(深読みかもしれないが)、編集意図がよく分からず、多少は気持ちが悪い。
 西尾幹二月刊WiLL3月号(ワック)にまた何か書いているが(概読はしている-この欄に批判的感想を書くかもしれない)、現在の天皇・皇室問題の焦点は(懐古し、あるいは天皇制の本質について思い巡らすのも大切だが)、現皇太子妃殿下・皇太子ご夫妻の言動等にあるのではない。悠仁親王以外に、現皇太子・秋篠宮殿下らの次の世代に男子親王がいないことをどうするのか、将来の皇統の安定的継承こそが問題で、雅子妃の個人的考え方、それに関係する現皇太子殿下の言動等ではない。現皇太子殿下か秋篠宮殿下かといった類の議論は、天皇制度の維持という点から見れば所詮は小さな問題だろう。
 編集意図はよく分からないが、サピオの上記特集の個々の論考がつまらなかったわけでは全くない。
 斎藤吉久は、宮内庁内に「厳格な政教分離の考え」がはびこったこと、宮内庁における「祭祀軽視」の蔓延が、宮中祭祀簡略化論に繋がっている、という(p.34)。
 宮内庁官僚・職員も原則的には国家公務員法の適用をうける(公務員試験を通過してきた)公務員のはずで、そのような者たちは、天皇制度の伝統・歴史に関する適切な教育をほとんど全くしない<戦後民主主義教育>を受けてきたのだと思われる(反天皇・平等主義教育を受けてきた可能性もある)。
 <戦後進歩(左翼)主義>は、日本国憲法の<政教分離原則>に関する「進歩(左翼)」的憲法解釈を通じて、宮内庁官僚にすら影響を及ぼしているのだ。
 何度か書いたように、「宮中祭祀は皇室の私事」という<欺瞞>をいつまでも続けていくわけにはいかないのではないか。憲法解釈論としても、伝統・歴史の蓄積が付着しているはずの「世襲」「(象徴)天皇」制度の存在を現憲法が明確に肯定しているかぎりは。
 石原信雄によると、「昭和天皇大喪の礼」の際、内閣法制局が憲法上の政教分離原則を持ち出して「国事行為を神道儀式では行えない」と強く主張したため(宮内庁は古式に則った神道儀式を主張したが)、天皇家の(私的な)神道形式による「葬場殿の儀」と政府の(公的な)「大喪の礼」は連続して行ったものの、後者では神道形式を外すために「鳥居と大真榊」をとり除いた、という。そして、その除去を「わずか数分」の間に行うために、鳥居の「柱の中身をくりぬい」ていた、という(p.39。おそらくは重量を少なくして速やかに撤去できるように)。こんなこと、初めて知った。
 宮内庁よりも内閣法制局は日本国憲法の<政教分離原則>の「進歩(左翼)」的解釈をより強く採用しているわけだ。
 内閣法制局の官僚たちは奇妙だとは思わなかったのだろうか。いや当時も「進歩(左翼)」的解釈を採る憲法学者が多かったはずだから、彼ら公務員だけの責任ではない。
 歴史的に古代の昔から(小林よしのりは1300年という数字を前号で書いていたが、「天皇」制度の歴史は「天皇」という呼称がまだ使われていなかった(スメラノミコト?、オホキミ=大王?)時代も含めて実質的には1500年~1700年になるのではないか)<神道>形式の儀礼をしてきたのだとすると、そしてそのような歴史の付着した「世襲」「天皇」を現憲法もまた公的に承認しているのだとすると、日本国憲法の宗教関係条項は、そのことも考慮して、例えば天皇の「大喪」等(これらは憲法が国事行為の一つとして明記する「儀礼」なのではないか)には適用されない、という解釈が採用されるべきではないのか。
 相当に思いつき程度で書いているが、基本的には、上のような解釈は成り立ちうる、と考える。天皇の祖先とされる天照大御神を祭神とし、皇位と密接不可分の「三種の神器」の一つである「鏡」の本体(本物)が所在する神宮(伊勢神宮)等に対する(に関する)天皇の諸行為についても同様だ。
 あるいは、「宗教」関連行為であっても、憲法が禁じる「宗教的活動」(20条3項)ではない、と解釈してもよい。
 天照大御神を祭神とするのは、強いて<宗教>という語を使えば、その一つと一応はされている<神道>ではある。もともと神道を仏教やキリスト教と同列の<宗教>と性格づけてよいのか、という問題もあるが、今回は立ち入らない。
 小林よしのり「天皇論・第三章」。正月の皇居での所謂「一般参賀」が戦後の慣行であること、より正確には、昭和天皇が昭和20年に「皇居勤労奉仕団」の前に姿を現されたことがきっかけになって、昭和23年(1948年)に宮内庁が認めて公式に始まった、ということを初めて知った。一日5回でも多すぎるくらいではないか。今年は雅子妃殿下も全回同席されたのはよかった。
 〇井上清・天皇の戦争責任(岩波現代文庫・井上清史論集4、2004)を全部読むつもりはなく入手している。
 マルクス主義日本史学者・井上清(1913~2001、京都大学人文研教授・同名誉教授)による昭和天皇に「戦争責任」あり論と昭和天皇批判・罵倒が並んでいるようだ。
 <責任>というからには「戦争」は悪いこと、間違っていたことという前提の肯定が必要なはずだが、その点の論証はなく、おそらく、あの戦争=「悪」・「誤謬」が不動の明瞭な(論じるまでもない)前提になっているのだろう。家永三郎・戦争責任(岩波書店、1985)も同様だが、かりにあの戦争=「悪」・「誤謬」ではなかったとすれば、「戦争責任」とはいったい何の意味なのだろう。無意味な主題を論じていることになるのではないか。そのような可能性は、脳裡に一片も浮かばなかったのだろうが。
 江口圭一は上の井上著の中の主論文の「解説」の最後で、昭和天皇は「慈父のごとし」と称される「外見からはかけはなれた…実像」を持ち、「したたかでエゴイスティックそのもの」だった、と明記している(p.316)。
 上記のサピオの特集と比べると、同じ国の人、日本人が書いたとは思えないほどの較差がある。
 ところで、上記井上清著の「年譜」によると、井上清は1960年に「一カ月」中国に滞在し、1971年以降「毎年のごとく訪中」し、1997年に「中国社会科学院名誉博士」に、1998年に「北京大学名誉教授」になっている(この年に最後の訪中)。
 上の最後の二つの称号からして、井上清は、中華人民共和国(中国共産党)に対する貢献がよほど大きかったのだろう。
 さらについでに。店頭で手を取って見ただけだが、井上清・昭和史(下)(岩波新書、第一刷1966)はまだ版を重ねて販売されている。朝鮮戦争の項を見ると、なおも(当然かもしれないが)、朝鮮戦争は<アメリカが開始した>旨を記している。
 井上清は故人だが、岩波書店はまだ上のような記述の残る岩波新書を販売している。出版社としての良心はこの岩波書店にはない。そして、丸山真男の死後の1995-6年に<丸山真男集>を(もはや時代遅れなのに)刊行したのに似て、井上清の死後には同史論集を文庫化しているのだ(上の本は第4巻)。
 岩波は朝日新聞社とともに<左翼>政治団体であり、出版社レベルでは(朝日新聞社の出版担当部署とともに)今日の<左翼ファシズム>の根源・大元になっている。
 言い古されたことだろうが、岩波や朝日の<権威>が崩れないと、日本はあぶない。

0657/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その4。

 前々回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定過程(講談社)の江藤「解説」による。
 ・宮沢俊義のポ宣言十二項(とその受諾)を根拠とする「国民主権主義」への「八月革命」説につき、一年余後の「改造」1947年5月号で河村大介(当時最高裁判事)はポ宣言十二項の「国民の自由に表明する意思」等々は天皇・貴族院の排除を意味しない「政治的」な意味で、ポ宣言・受諾により「直接に即座に」明治憲法73条を変更する法的効果が生じたと解するのは無理だとし、現憲法の成立を「革命という概念」により説明することを疑問視した(p.405)。
 ・以下は江藤の判断が混じる。宮沢が上の河村説は「至極穏当」なものであることを「知らなかったはずはない」。「敢えて知りながら」「八月革命」説を唱えた「不可思議かつ不自然な変貌の秘密」は、既に言及の1946年の「改造」論文(3月)と「世界文化」論文(5月号)の間の「微妙な不整合のなかに隠されている」。
 「微妙な不整合」とはポ宣言に対する態度だ。「改造」論文で宮沢俊義は同宣言第十二項を必ずしも憲法改正の根拠とせず、改正はむしろポ宣言を「逸脱することを辞せず、それを超えた『理念』にもとづ」くべきことを述べたが、それは米国の「初期対日基本方針」の理念を「反映」したものだった。
 だが「世界文化」論文では再びポ宣言に改正の根拠を求める。但し、第十項ではなく第十二項に根拠条項を求め、「いったんポツダム宣言の枠の外に出た」かの如きだった宮沢はその「枠内に戻り」、「枠はなかった」、ポ宣言の「受諾そのものが”革命”だった」と叫んだのだ。
 かかる(ポ宣言からの)「逸脱」と「革命」は、異なるように見えて、しかし、ポ宣言が「本来日本と連合国の双方に課していた拘束を否定し去ろう」とする点では「全く一致している」。「世界文化」5月号論文は、実質的に、米国の「初期対日基本方針」の合理化の試みに他ならない。換言すれば、「八月革命説」は米国「初期対日基本方針」の「意図を隠蔽しつつ、同時にこれを合理化しよう」とする「手品のような学説」だった。(以上、p.406-7)
 ・憲法改正にかかる貴族院での審議に、議員の宮沢は「マッカーサー草案の基本線を積極的に支持する立場」(小林直樹による)で参加した。一方、改正草案が枢密院に諮詢されたとき〔なお、この手続は明治憲法には明記されていない-秋月〕、美濃部達吉は、明治憲法73条〔改正条項〕による改正なのだとすると、勅命により議案が提出され、廃止されようとしている貴族院にも付議され、天皇の裁可により改正成立となるが、一方で草案前文は「国民がみずから憲法を制定」と書いていて、これは「まったく虚偽」だ、等々と批判し枢密院でただ一人「否」票を投じた。佐々木惣一(京都帝国大学)・貴族院議員も「反対討論」をした〔内容省略〕。枢密院議長(公法学者)・清水澄は枢密院可決を「深く痛憤して」1947.09.25に投身自殺をした。
 ・江藤は憲法「改正」にかかる宮沢俊義の「変節」・「転向」を「責める」つもりはないが、「明らかにせずにはいられなかった」、と書いたあと、次のように言う。長々と紹介してきたが、本来はこの部分こそがメモしておきたかった箇所だ。
 「東京帝国大学(のち東京大学)法学部憲法学教授という職務は、きわめて重要な公職である。であるからこそこの公職は、占領軍当局にとっては何を措いても確保すべき戦略拠点だったに相違なく、現職の教授だった宮沢氏に、どれほどの圧力が掛けられたかも想像に難くない」。
 江藤は、東京(帝国)大学法学部憲法担当教授を「占領軍当局」が「確保」するためにとった「圧力」を具体的に示しているわけではない。
 だが、「想像に難くない」のであり、客観的にはいわゆる<工作>と言えるような行為・措置・「圧力」がGHQによって宮沢に対して執られたのではあるまいか。そして、客観的に見て宮沢が「応じた」(厳しくいえば客観的には「屈した」)のだとすれば、そのような対応は、戦時中に<体制>に積極的・消極的に順応・協力した、そして戦後になって批判された人々の行為と全く変わりはないのではないか。
 ・江藤は最後に、①宮沢俊義の「八月革命」説が「後進」の小林直樹・芦部信喜(いずれも元東京大学法学部憲法担当教授)らによって継承され、「定説」となって全国の大学で講じられ、「各級公務員志望者」によって「日夜学習されているという事実」、そして②米国の「初期対日方針」にもとづく米国の政策が「今日、依然として一瞬も止むことなく若い人々の頭脳と心に浸透しつつあるという事実」の喚起・銘記を求めて「解説」を終えている。
 これらにこそ、まさに今日的・現代的な問題点がある。東京大学法学部の<権威>?をもって、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>が、今日・現在の公務員界(官僚たち)・マスメディア等々を実質的に「支配していること」、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>の教育を受けた者たちが今日まで行政官僚・司法官(裁判官)・政治家や朝日新聞等々のマスコミの要職についてきたし、現在も就いているのだ、ということの明瞭な認識が必要だ。
 占領期の米国の政策は、「歴史認識」の実質的<押しつけ>も含めて、すでにほとんど、「若い人々の頭脳と心に浸透」してしまっているのではなかろうか。種々の恐怖・憂慮の<真因>はここにあるように思われる。
 そして、GHQの政策・考え方(・戦争の評価を含む「歴史認識」)等を客観的には支持し、擁護した、丸山真男を含む<進歩的知識人・文化人たち>(大学教授ら大学所属者を当然に含む)の果たした役割はきわめて犯罪的だった、と言わなければならない。
 この項を終える。
 

0656/週刊新潮1/15号。中国(中国共産党)に日本はきちんと対抗できるか。

 遅いが、週刊新潮1/15号。 
 p.128によると、朝日新聞の2008年9月中間期の決算は売り上げが「前年同期比7.7%減の1715億円」で、営業利益は「32億3000万円の赤字」。紙面40頁が32頁になることも多くなるとか。
 p.142の高山正之コラムのタイトルは「沈む朝日と」。
 上のような情報はけっこうなことだが、p.140-1の櫻井よしこのコラムを読むと、やはり日本は容易ならざる時代に生きていると感じざるをえない。
 東シナ海のガス田「樫」の掘削は中国固有の主権行使と主張、東シナ海の「実効支配」のため同海域の「管轄を強化」と発表、初の中国産空母建造を本格化、等々。
 この週刊誌を読んで初めて感じたことではないが、尖閣諸島に中国軍が上陸し「実効支配」をしようとしたとする場合、日本(政府)はどういう対応をする(又はできる)のだろうか。竹島の韓国による「実効支配」は継続している。これは<侵略>そのものではないのか。この竹島に関する日本政府・外務省、そして大半のマスメディアの対応を見ていると、<穏便に>・<平和的外交で>・<却って刺戟しないように>などという理屈でもって、結果として尖閣諸島の「実効支配」とその継続を許容してしまいそうな気がする。それでよいのか?!
 皇室が自壊するとは思わないし、現皇太子殿下がその方向で動かれるとは想定しない。だが、日本国内には本心では天皇制度廃止を目論んでいる政党・団体・個人がいることに間違いはなく、実質的には無関心(どうでもよい、大勢順応)の国民も少なくはないと思われる。そして、中国が日本全体を実質的に支配する、そこまで行かなくとも日本に強い影響力を与えるために、中国にとって邪魔な最大のものは、日本という国家・社会・国民の「統合」のシンボルであり、「日本」の歴史・文化が堆積した<天皇>制度だろう。彼ら(中国共産党)もまた当然に、日本の天皇制度を可能ならばなくしたいと考えている筈だ。天皇制度廃止を目論んでいる日本国内の政党・団体・個人自体が、中国(共産党)の影響を受けている可能性もある。政党・団体・個人によって異なるだろうが、朝日新聞は明らかに中国共産党の影響下にあると見ておいた方がよい。
 民主党(日本)の中にも天皇制度廃止論者はいる。民主党(を少なくとも中心とする)政権が誕生し継続した場合、皇室典範等に手をつけ、実質的に天皇制度が解体しやすくなる方向での政策をとる可能性がある。
 日本国憲法の改正によって、第一章の天皇諸条項が削除されたとする場合、国家の仕組み、公的な制度としての「天皇」(制度)はなくなる。かりに例えば神道の宗家としての天皇「家」の<私的な>存続が辛うじて認められたとしても、「天皇制度」は公的に(国民の意思の名目で)廃止される。それはおそらく、「日本」の解体・崩壊・消滅と同じことだろう。
 親中国の日本政府のもとで、実質的に「日本」を解体・崩壊・消滅される政策がとられること、その明瞭で最終的な徴表は憲法改正による天皇諸条項削除だと思われるが、かかる<悪夢>は、全く杞憂とは言えないように感じられる。恐ろしいことだ。

0655/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その3。

 前々回、前回のつづき。江藤淳編・憲法制定経過〔占領史録第三巻〕(講談社)の江藤淳「解説」による。
 ・宮沢俊義はおそらく1946.04に執筆し、雑誌「世界文化」5月号に「八月革命と国民主権」を発表した。その一部を抜粋引用する〔江藤解説にはもっと長く引用されている〕。
 
<ポツダム宣言には「日本の最終的な政治体制は自由に表明された人民の意思にもとづいて決せられる」とある〔この宮沢の引用は直接・そのままの引用ではない-後記〕。これは「人民が主権者だという意味」だ。これをもって日本は「日本の政治の根本建前とすることを約した」のだ。この「国民主権主義」は「それまでの日本の政治の根本建前である神権主義」とは「本質的性格」を全く異にする。「敗戦によって…神権主義を棄てて国民主権主義を採ることに改めた」のだ。
 
かかる改革は日本政府や天皇が「合法的に」は為し得ない。「従って、この変革は、憲法上からいえば、ひとつの革命だといわなくてはならぬ」。むろん「まづまづ平穏に行われた変革」だが、「憲法の予想する範囲内においてその定める改正手続によって為されることのできぬ改革であるという意味で、…憲法的には、革命をもって目すべき」と思う。
  「日本の政治は神から解放された」。「神が―というよりはむしろ神々が―日本の政治から追放せられた」。「神の政治から人の政治へ、民治へと変った」。/「この革命―八月革命―はかような意味で、憲法学の視点から」は、有史以来の「革命」だ。「日本の政治の根本義がコペルニクス的ともいうべき転回を行ったのである」。>(p.402-3)
 ・江藤淳はこの論文を以下のように分析・論評する(すべてには言及しない-秋月)。
 ①「それまでの日本の政治の根本建前」につき、宮沢自身が前年秋には採っていた美濃部直伝の「合理主義的」国家観を「惜しげもなく放擲し」、一転して明治憲法の解釈に穂積八束・上杉慎吉流の「正統」説を採用して、明治憲法を「神権主義」にもとづくものと断定している。
 
②憲法改正の根拠とされたポ宣言第十項「…日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし…」ではなく、第十二項「前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては聯合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし」の一部〔下線〕を援用して、「八月革命」 発生を主張している。ポ宣言を「受諾した瞬間に、いわば自動的に」「八月革命」という「コペルニクス的」転回があったと力説する。
 ③この新説は「無条件降伏」説で、ポ宣言は日本と連合国側の双方を拘束するとの宮沢俊義の前年秋の立場を「百八十度翻している」。(以上、p.404-5)
 
<なおも続ける。>

0654/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その2。

 前回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定経過〔占領史録第3巻〕(講談社、1982)の江藤淳「解説」の要点紹介。
 ・1946.02.01に毎日新聞が憲法問題調査委員会「試案」を公表したが、これはじつは「乙案」に近い、宮沢俊義個人の「私案」(宮沢試案)に他ならなかった。このスクープの経緯、宮沢の関与の有無は明らかでない。いずれにせよ、この「試案」はGHQを「いたく刺戟し」、のちのマッカーサー試案起草のきっかけになった。
 ・01.30の政府・閣議に松本私案・甲案・乙案の三案が提出され、02.02の松本委員会は主として「甲案」を審議し、論議の内容は02.04閣議で紹介された。だが、政府は、これを正式決定せず、GHQの督促を受けて02.08に、松本私案をもとに宮沢が作成し、さらに松本丞治が加筆した「憲法改正要綱」(甲案と同じか類似)を提出した。
 この「憲法改正要綱」の「一般的説明」は、「根本精神は憲法をより民主的とし完全に…ポツダム宣言第十項の目的を達し得るものとせんとすることに在り」と書いた。所謂松本四原則の範囲内のもので、かつその原則はポツダム宣言第十項と矛盾しないとの前提に立つものだった。宮沢俊義は、1946.02.08の時点では、この立場にあり、<八・一五革命>を想定してなどはいなかった
 ・02.13の吉田茂・ホイットニー会談で「憲法改正要綱」は「全面的に拒否され」、代わりに、吉田外相・松本国務相は「マッカーサー草案」を手交された。このときホイットニーは、日本政府案では「天皇の身体の保障」をできない旨述べた。「決定的」な「脅迫」だったとするアメリカの学者もいる。
 ・「マッカーサー草案」の邦訳と一部修正を経ての03.06の日本政府「憲法改正草案要綱」公表までの経緯、宮沢・政府・GHQの関係は定かでない。但し、宮沢に「マッカーサー草案」を見る機会があったことは間違いない。
 また、のちの1968年の小林直樹(当時東京大学法学部教授(憲法))の本には、宮沢は03.06政府案の発表前に雑誌「改造」に「平和国家」として「丸裸になって出直すべき」旨を書き、その「非武装思想」は当時としては「珍しかった」のだが、宮沢が「何かの事情でマッカーサー草案のことを知った上」で「書かれたのかどうか」伺っておきたい、と書かれているが、宮沢自身は「記憶が頗る怪しい」が、現九条(当時は八条)の存在を知っていた以上、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」と答えた。
 以下は、江藤淳の判断が混じる。この宮沢発言は「その儘には受け取り難い」。雑誌「改造」の宮沢論文とは同誌3月号の「憲法改正について」を指すだろうが、この論文内容を見てみると、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」どころか、「ほとんどそのまま」マッカーサー草案の「趣旨を代弁している」。
 これに該当する宮沢論文の一部は次のとおり〔秋月が選択〕。
 「軍に関する規定」そのまま存置の意見もあり得るが、「日本を真の平和国家として再建して行こうという理想に徹すれば、現在の軍の解消を以て単に一時的な現象とせず、日本は永久に全く軍備をもたぬ国家―それのみが真の平和国家である―として立って行くのだという大方針を確立する覚悟が必要」だ、「日本は丸裸かになって出直すべき秋〔とき〕である」。
 ・江藤淳は続ける。「直ちに、次の二つの問題」を提起できる。第一は宮沢がマ草案を披見した時期。「改造」3月号発行が03.06以前で、宮沢が閣僚の一人からマ草案を示されたのが02月の下旬だったとすれば、400字×25枚ほどの上記論文を、宮沢はいつ執筆できたのか。02.13前後「何かの事情」でマ草案を入手しており、それに依って論文執筆したと考えざるをえない。
 第二は、宮沢にマ草案を披見させた人物は誰か。政府案とも松本四原則とも矛盾する「完全非武装平和国家」論を宮沢が書いたきっかけとなったからには、「当時の閣僚の一人」又は日本人であっても「政府関係者」ではないだろう。宮沢俊義の<「コペルニクス」的転向>を示す論文が書かれたのは、宮沢がマ草案を「仔細に検討する機会を与えられ」、同案がポツタダム宣言を逸脱し米国「初期対日方針」に準拠していることを「あらかじめ熟知していたから」だと考えざるをえない。
 その人物はどのような背景の誰か、毎日新聞の上記スクープとの関係、は謎のままだ。しかし、<「コペルニクス」的転向>は<八・一五革命説>の提唱(「世界文化」5月号)以前から開始されていたことは明らかだ。
 宮沢俊義には、一方で松本四原則を擁護しつつ、一方でマ草案の「援護射撃」を準備するという「屈折した薄明の一時期」があったのかも。この時期、この東京帝大教授の「脳裡に、いかなる想念が渦巻いて」いたのだろうか(以上、p.395-402)。
 
<さらに、続ける。>

0653/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その1。

 一 昨年11/06に記したように、西修・日本国憲法を考える(文春新書、1999)p.33によると、①東京帝国大学教授兼貴族院議員だった宮沢俊義は、1945年10月01日、貴族院帝国憲法改正案特別委員会の席上で、「憲法全体が自発的に出来ているものではない。重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得るところはなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺瞞にすぎない」と発言した。
 また、同書p.45によると、②宮沢俊義は、1945年09月28日に外務省で、「大日本帝国憲法は、民主主義を否定していない。ポツダム宣言を受諾しても、基本的に齟齬はしない。部分的に改めるだけで十分である」という趣旨を述べた。
 二 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)は第三章「戦後民主主義という擬装」の中でやはり西修の上掲書を示しつつ上の①発言を紹介している(p.203)。
 また、佐伯は同書で、宮沢俊義の師だった美濃部達吉が朝日新聞1945.10.20紙上で次のように語ったと紹介もしている(p.202)。
 「民主主義の政治の実現は現在の憲法の下において十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態において即時に実行せられねばならぬほどの窮迫した問題ではないと確信する」。
 要するに、宮沢・美濃部らの主な又は多数の憲法学者は1945年秋の時点では、明治憲法の若干の改正で十分、天皇制と民主主義は矛盾しない、「天皇主権の維持こそが最も重要な課題」だ、と考えていた(正確には、最後の点は宮沢俊義についての佐伯啓思p.203のコメント)。
 しかし、実際には、国民主権原理に立つとされる新憲法が制定・施行された(ほぼ1年後の1946.11.03にすでに公布されるまでに至った)。
 この間の変化に関し、佐伯啓思は宮沢俊義について次のように述べる。
 ・宮沢は天皇主権の維持は国民の願望と考えていたが、新憲法はその国民の名で天皇主権を廃止した。元来の宮沢の見方とは異なり、「天皇主権の廃止」こそが「国民の総意」だと「装った」ものだった。しかるに、のちに宮沢は「新憲法の最も啓蒙的な擁護者となる」、「いわば戦後の護憲主義の元祖」となる(p.204)。
 ・家永三郎は新憲法を「押しつけられた」のは国民ではなく支配層で国民は新憲法を待望していたと書いたが、このような素朴で浅薄な「欺瞞」が必要だった。「この必要な欺瞞にイデオロギー的な同調」をできたからこそ家永のような「教条的左翼主義が戦後の歴史観をリードできた」。そして「戦後」を成立可能にするためには「この欺瞞が不可欠であることに気づいたために、宮沢は態度を一変させて、新憲法護持にまわったのだった。かかる欺瞞の根底にあるのは「無垢な」民衆・国民の措定で、宮沢の当初の判断とは異なり、国民は「天皇主義者ではなく民主主義者でなければならなかった」(p.204-5)。
 三 かかる宮沢俊義の変化・転身?の背景について、西修の上掲書は言及していたのだが、参照されている本の現物を見て紹介しようと思っていたため、昨年11/06にはあえて記さなかった。
 引用又は参照要求されていたのは、江藤淳責任編集・憲法制定経過(占領史録第3巻)(講談社、1982)だ。正確には、この本の巻末の、江藤淳による「解説」だ。
 この「解説」は、美濃部達吉、宮沢俊義、佐々木惣一(京都大学)らの1945年秋の発言をより詳しく資料として引用している。宮沢俊義に限定すれば、江藤淳は次のように書いている。経緯も含めてやや詳しく立ち入る。
 ・1945.09.28の外務省での講演・質疑応答〔今回冒頭の②がその要旨〕を読んで「一驚を禁じ得ない」。所謂「八・一五革命説」と「単に整合しないのみならず全く相容れない」からだ(p.384)。「八・一五革命説」は雑誌「世界文化」1946年5月号で初めて述べられた。
 ・宮沢が09.28に外務省での講演を依頼されたのは、1945.09.22に「米国の初期対日基本方針」が公表され、外務省がその内容がかなりポツダム宣言を逸脱していると重大視して「自主改革」の推進の必要を感じたからだろう。
 ・1945.10.04の近衛文麿・マッカーサー会談でマッカーサーは憲法改正の「指導の陣頭に立たれよ」と示唆したという「事態の急展開」があった。これを受けて、外務省は10.09にポツダム宣言遵守を連合国側に求める文書を公表したが、近衛文麿は10.11から佐々木惣一とともに「憲法改正調査」に当たった。12月に高木八尺(東京帝大法学部)が発表した天皇制を維持する主張の論考も資料の一つだった。
 宮沢俊義は毎日新聞1945.10.16紙上で、憲法改正案を政府と内大臣府(近衛文麿ら)で別々に検討することは「不穏当」と批判した。だが、「積極的な憲法改正を支持」していたのではなかった。宮沢は、毎日新聞1945.10.19紙上で、「現在のわが憲法典が元来民主的傾向と相入れぬものではないことを十分理解する必要がある」等と書いた。
 美濃部達吉も内大臣府(近衛文麿ら)による憲法改正調査を批判したが、そこには近衛・佐々木改正案がGHQの意向を反映しすぎて「極端に走る」ことへの危惧もあったかもしれない。
 ・佐々木惣一は1945.10.21毎日新聞紙上で、近衛文麿は10.25の声明で、上の批判に反論又は釈明した。だが、GHQは11.01に近衛文麿との(正式の)関係を否定する声明を発した(これとの関係性は薄いだろうが、近衛は12.06に服毒自殺)。
 1945.10.27に政府・松本丞治国務相の憲法問題調査委員会は第一回総会。宮沢俊義は委員の一人であり、かつ入江俊郎・佐藤達夫とともに「最も活躍した」委員になった。
 1945.11.26招集の臨時帝国議会の幣原喜重郎首相施政方針演説は憲法改正に言及しなかったが、質問があったため、松本委員会は12.08に「天皇が統治権を総覧せらるの原則には変更なきこと」等の四原則を明らかにした。
 ・宮沢俊義は松本委員会の小委員会の委員でもあり、これは12.24~1946.01.23に8回開催され、本委員会は12.27~1946.01.26に7回開催された。宮沢は積極的に参加したのみならず「中心的な役割を果たした」。
 宮沢は松本が1946.01.01~01.04に書いた「私案」を要綱化し、「憲法改正要綱」(のち「甲案」と呼ばれる)草案を作成した、まさにその人物だった。この「甲案」とは別に宮沢ら小委員会は改正の幅を大きくした「乙案」もまとめた。いずれも、上に触れた四原則の範囲内の案だったこと(当初の宮沢の考えと矛盾しなかったこと)には変わりはない(p.381-394)。
 長くなりそうだ。別の回に続ける。 

0652/佐伯啓思・国家についての考察、小熊英二・<民主>と<愛国>、西尾幹二・真贋の洞察等。

 一 全読了している佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)の帯・右側に記載されている「本書目次」は次のとおり。
 序章 なぜ「国家」を論じるのか
 第一章 現代日本の国家意識
 1 「戦後的なもの」の溶解
 2 「世界市民主義」とは何か
 3 逆立ちした国家意識
 第二章 「二重言説」の戦後日本
 1 保守と革新の作り出した構図
 2 「公式の言説」と「非公式の言説」
 3 近代日本の宿命

 第三章 戦後民主主義という擬装
 1 民主的主体という擬装
 2 「戦後」という欺瞞
 第四章 国家をどう理解するか
 1 近代的国家のロジック
 2 継続性の中にあるロジック
 第五章 国家論の構築に向けて
 1 ナショナリズムとは何か
 2 「われわれ」意識のロジック
 3 均衡体としての国家 
 4 誰が国家の「担い手」か
 5 「公」「私」、そして「国家」
 ついで、帯・左側の関心惹起?のための文章は次のとおり。大きな「「国家」への思考停止から、「国家論」の構築へ!」という文字の上に並ぶ。
 「「戦後」の時空間の中で、国家への考察を徹底封鎖し、その結果、主体性・価値観・魂を喪失した日本および日本人に、戦後日本の思想的営為の「歪み」を鋭く指摘しつつ、「国家意識」についての再考、「国家論」の構築を促す、画期的な書き下ろし論考」
 この本のごく一部、朝日新聞社説に批判的に言及して論を進めている部分については、昨年12月に5回に分けて紹介・コメントした。右端は月日。
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/836830/  1216
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/835710/ 1215
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/832422/ 1213
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/831734/ 1211
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/830132/ 1210
 
二 上のような書き写しをしたのは、佐伯の書物の中でも、最も基礎的な主題を論じた、最も好ましいものだと感じているからだが、それは別としても、実際よりももっと幅広く読まれてよい本だという印象を強くもつからだ。
 佐伯啓思は昨年に日本の愛国心(NTT出版、2008)という本を出した。
 異論・疑問が全くないわけではないにせよ、非常に優れた、刺激的な(論争誘発的でもある)本だ。
 にもかかわらず、簡単な書評を若干見かけただけで、この本が大きな論争を巻き起こした、ということはなかった。上記の『国家についての考察』もおそらく、世間的にはあるいは少なくとも論壇においてすら、あまり注目されなかったのだろう。
 どこかおかしい。その理由の大きな一つは、朝日新聞や同社的なマスメディア(・雑誌)が、佐伯啓思の本を完全に無視しているからではないか、と思われる。朝日新聞等が大江健三郎・加藤周一(昨年死去)・井上ひさしらの本を取り上げ、コラムを書かせているのとは対照的で、彼らは絶対に言及しない、コラム執筆も依頼しない著者・評論家・学者のリストを作っているものと推察される。
 世情を賑わし、大部が売れたいくつかの本よりも、佐伯の例えば上の二つの本をじっくりと読んだ方が、深く、理論的な思考にはるかに役立つ。
 どこかおかしいのだ。言論統制に近いものは、国家によってではなく、出版社・新聞社が自らによって行っているのが実態だろう。自分たちに気にくわない思想・主張は無視する、封殺する、これが朝日新聞等のやっていることだ、と思う。
 三 朝日新聞社系の雑誌・アエラの最新号で、立ち読みの記憶だから正確ではないかもしれないが、姜尚中が政治(・思想?)関係の書物を30ほど推薦している記事があった。
 佐伯啓思・西尾幹二らの本が挙げられているはずはない。姜尚中の自著いくつかの他、丸山真男(二つ)、フーコー(二つ)、大江健三郎、加藤周一<この二人は九条の会発起人>等々が挙げられていた。さすがに「左翼」新聞社がご愛用の「左翼」学者だと感じたものだ。
 こうしたリストアップを中庸で正統的なものと信頼して購読する真面目な?読者もいるのだろうから怖ろしい。
 姜尚中がリストアップした推薦書の中には、小熊英二・<民主>と<愛国>(新曜社)があった。
 先日1月4日に西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋)に言及して、経済史学者・大塚久雄を皮肉る(批判する)部分等を紹介したが、その部分等は、じつは、小熊英二のこの本を西尾が論評する中で書かれたものだった。
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/859811/
 西尾による小熊英二著批判の表現は数多いが、このような紹介もなされている。
 「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、埃を払い、茣蓙を敷いてその上にずらっと並べて天日に干して、もう一度眺められるようにお化粧直しする」(、そんな本だ)、「若い読者はこれが戦後の思想史のトータルな姿だと思うだろう。たまに保守派の名を出しても、…脇役か刺身のつま、あるいは左翼進歩派の論を補強する引き立て役としてである」(p.87)。
 西尾の同じ論考によると、小熊英二の上の著の索引での言及頁数が多いのは、次の順らしい。多い方から、丸山真男、竹内好、鶴見俊輔、吉本隆明、江藤淳、小田実、石母田正、荒正人、大塚久雄、清水幾太郎(p.85)。この中で保守派といえるのは江藤淳と晩年の清水幾太郎だけだろう。これら以外で頻出する「左翼・進歩派」(といっても一枚岩ではないが)は、小田切秀雄、本多秋五、井上清、網野善彦、中野好夫、久野収、国分一太郎、鶴見和子、中野重治、南原繁、宮本百合子、宗像誠也、大江健三郎(p.88)。
 あくまで西尾の言を通じてではあるが(小熊の上の本の古書は高価で購入していない)、このような内容の小熊の本を姜尚中は推薦しているのだ。
 姜尚中自身の推薦リストですでに明白なことだが、姜尚中もまた「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、…お化粧直し」をしたいに違いない。
 こんな姜尚中が、朝日新聞系の枠にとどまらず、昨年末のNHK紅白歌合戦の「審査員」を務めたらしいのだから、NHKも、日本社会全体も、気づかないままに、発狂・崩壊への道を静かに歩んでいる。
 *追記-前回に追記した日以降のアクセス数が、1/16にさらに10000余増加した。

0651/天皇(制度)と伊勢神宮をあらためて考える-その2。

 天皇(制度)と伊勢神宮の関係にかかわる若干の諸問題については、昨年の3月~5月に何回も書かせていただいた。もともとは一宗教法人のはずの神宮(伊勢神宮)の式年遷宮について天皇陛下の「ご聴許」があった旨が宮内庁の公文書によって神宮側に通知されているという事実を知って、??と感じ、関心をもったテーマだった。
 以下は昨年の3月~5月の関係エントリーの月日。3/27に始まっている。
 03月27日、04月04日、04月05日、04月15日、04月16日、05月05日、05月07日、05月08日、05月14日。  上記の事実から始まって三種の神器(うち二つは伊勢神宮と熱田大社に本物が所在する)の所有権の帰属等にまで発展したかと思う。あらためて一瞥すると、伊勢神宮崇敬会叢書の第一号、幡掛正浩・日本国家にとって「神宮」とは何か(1995.08)も読んで、言及していた。大して多くない文献を読んで自分なりに思考・考察したところが多かったと思う。
 最近に(前々回に言及した)大原康男・戦後の神宮と国民奉賛(上記叢書10号、2005)と百地章・伊勢神宮と公民宗教(叢書9号、2005)の二つを読んで(読了している)、議論されるべきことはすでにほぼきちんと議論されている(私などが関与しなくとも)、という想いが強い。
 できるだけ重複は避けて(といってもかつて書いたことを記憶していないので二度書きする可能性はある)、まずは上の前者を読んで知ったことを、確認も含めてメモしておく。
 ・戦後最初の式年遷宮(第59回)は20年毎だと1949年に挙行だったところ4年遅れて1953年になったのは、戦後の日本の混乱・財政難等に原因があったのだろうと推測していたが、必ずしも正確ではなく、財政難はその通りだが、(とりわけ国費を使っての)式年遷宮の挙行自体にGHQが「難色」を示したことが決定的だったようだ。当初ははたんに遅れるだけではなく「無期延期」の状態だったようでもある(以上、p.14~p.16等)。
 ・戦後最初の式年遷宮は、天皇陛下(昭和天皇)の「ご発意」によりその準備がすでに戦前から始まっており、前半は国営、後半・最終的には「民営」という異例の形をとった(p.21。戦前の準備を除き直接の国費支弁は全くなし。この点はその後も同じ))。
 ・戦後2回めの式年遷宮(第60回=1973年)は、まず神宮側(大宮司)が「大綱」を作成し、宮内庁(長官)を通じて天皇陛下(昭和天皇)の「ご聴許」(1964.03.17)があって、作業が進められた(p.22)。
 しかし、遷宮の本質からして「一宗教法人たる神宮が先に申し出る」事柄ではないので、戦後3回めの式年遷宮(第61回=1993年)の際は、大宮司が天皇陛下(昭和天皇)に「拝謁」した際に「次期式年運営のご準備をとり進めるように」との発言を賜ったのちに「準備の大綱」を神宮側が作成し、宮内庁(長官)を通じて天皇陛下(昭和天皇)の「ご聴許」(1984.02.03)を受けて具体的な準備に入った。天皇陛下の「ご発意」により始まる、という「本来の姿」により近づいた(p.26)。
 (上のような経緯はこれまで知らなかった。-秋月)
 ・天皇陛下ご自身は遷宮の儀式(最終的な「遷御の儀」)に直接には関与されない。
 戦後最初の式年遷宮の祭主(実質的には天皇陛下の名代に当たると考えられる-秋月)は北白川房子・明治天皇内親王で、皇族代表としての列席は高松宮宣仁殿下(昭和天皇の弟)(p.20)。
 戦後2回めの式年遷宮の祭主は鷹司和子・昭和天皇内親王(今上天皇の第三姉)で、皇族代表としての列席は常陸宮正仁殿下(今上天皇の弟)。
 戦後3回めの式年遷宮の祭主は池田厚子・昭和天皇内親王(今上天皇の第四姉)で、皇族代表としての列席は秋篠宮文仁殿下(今上天皇親王、皇太子殿下の弟)。
 天皇陛下はいずれの回も「出御」(「遷御の儀」のためにご神体とともに新正殿地に向けて出立することだと思われる-秋月)の時刻に合わせて、皇居内で神宮を「遙拝」された。(なお、内宮と外宮の二つあるので二日に分けて「出御」・「遷御の儀」は2回あった筈だ-秋月)
 ・戦後最初の式年遷宮(1953)の翌春(1954.04.08)に昭和天皇・香淳皇后が神宮をご親拝された際の、天皇陛下御製は次のとおり。
 「伊勢の宮に詣づる人の日にましてあとをたたぬがうれしかりけり」。
 (次回の式年遷宮は上記のことから明らかなように、2013年だ。内宮入口の宇治橋の立て替え(正確には別の箇所での新しい橋の建設)がすでに進んでいる)。

0650/闘わない八木秀次の蒙昧さと日本共産党・若宮啓文との類似性(?)。

 一 月刊正論2月号(産経新聞社)の八木秀次コラム(p.42-43)は、かなりの問題性を含む。
 
田母神俊雄論文の発表につき、八木秀次は、①「内容とは次元の異なるところで大いに問題があった」、②「村山談話」が「日本国政府の手足を縛る有効な道具であることを左翼勢力に再認識させた」と批判し、「その意味で、…田母神氏の一連の発言を褒める気にはなれない」と述べる。
 桜田淳森本敏に近い見解だろうか。
 <保守>派の一つのありうる反応なのだろうが、かかる見解はやはりおかしい。批判されるべきだ。
 せっかく温和しくして(刺激的な言動をしないで)国民の信頼も徐々に獲得してきたのに田母神俊雄論文で台無しになった、というかのごとき論調は間違っている、と考える。それに、八木秀次は別の間違いも犯し、無知蒙昧さを明らかにしている。
 二 第一に、八木は、田母神論文の影響で、統合幕僚学校等の「外部講師」の現状が調査され再検討され始めた、という。日本共産党も「外部講師」の人選を調査していた、という。
 だが、「再検討」の是非はともかくとして、統合幕僚学校等の「外部講師」の人選の現状は、日本国民一般に対して明らかにされても原則的には何ら不思議ではないのではないか。
 国公立大学(法人)はもちろん私立大学でも、専任教員の他、どのような非常勤教員が来て教育を担当しているかは、積極的にあるいは問い合わせ・調査があれば受動的にでも、明らかにされているだろうし、明らかに(公開・開示)されるべきだ。
 統合幕僚学校や防衛大学校についても、これらは上記の学校教育法上の学校でないことは承知の上だが、どのような人たちが教師・講師になっているかは、防衛に対する国民の信頼を得るためにも、国民の関心に応えるためにも、国民に公にされてよいものだ(原則的には公開されるべきだ)という見解が十分に成り立つ。
 これが消極的に解されるためには、正規教員や「外部講師」の氏名を明らかにすることが、(間接的にせよとくに中国・北朝鮮という近隣諸国に知られることによって)わが国の防衛(行政)上著しい支障が生じると認められる場合に限られるのではないか。
 自衛隊は国の一組織であり、その内部に置かれる学校についても、(行政機関)情報公開法の精神は及ぶはずだ(行政機関情報公開法=法律は防衛省も適用対象とする。そして「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ……があると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は開示しないことができる(同法5条3号))。
 説明責任といってもよいし、あるいは透明性の問題であるかもしれない。軍事・防衛関係に<秘密>にしておくべき事項があることは当然のことだが、しかし、その対外的<秘密>事項の中に、統合幕僚学校等の「外部講師」の氏名は含まれるのかどうか。いかに「個人情報」だとしても、公金によって講師料を支弁されている者の<プライバシー>の保護は<秘密>性確保の理由にはならないだろう。
 八木秀次は憲法学者の筈だ。だとすれば、以上のような思考をしなければならないのではないか。
 しかるに八木は、共産党・赤旗の記者に自分の「外部講師」歴を問われて(国会に提出された資料中の)特定大学助教授だけでは「わからない」と答えたとし、自分以外のすべての「外部講師」本人が氏名公表に同意したのは「賢明な判断だとは思わない」、と批判している。
 その理由は、八木によると、①「統幕学校での講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」こと、②防衛大臣が「見直しを明言した」こと(「村山談話」の線に沿った講師が選ばれそうなこと)、にあるようだ。
 八木秀次という人は、小粒の、<いじましい>人のように見える。上の①中の「講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」とは、何と情けない文章だろう。<一定の傾向の講師たちで何故いけないのか>と堂々と開き直る(?)べきではないのか? あるいはそもそも「一定の傾向」とは何なのか?(「一定の傾向」について八木は自信・確信を持っているのか。自信・確信があって「一定の傾向」なる語をあえて使うだろうか?)
 また、悪いことをしていたわけでもないのに、日本共産党記者に対して、何故堂々と、自分も「外部講師」だった、とどうして言えないのか?
 そしてそもそも、前述のような、防衛行政を含む国政(・行政)についての説明責任・「情報公開」の要請といった論点は、この人の頭の中には全く存在しないようだ。
 実際の説明責任のとり方・「情報公開」制度の運用について問題が全くないとは思わない。<左翼>がこれらを利用している面は否定できない。しかし、憲法学者ならば、こうした論点があること自体は留意しておくべきではないか。こうした意味で、私は、八木秀次には憲法学者として<無知蒙昧>なところがある、と感じる。
 「外部講師」の人選の見直しの是非はまた別の次元の問題だ。さらに、こうした現状調査や見直しのきっかけを作ったのが田母神俊雄論文の発表だとして八木秀次は批判の根拠としているようだが、これまた別次元の問題だ。「見直し」に問題があるならば、それはそれとして堂々と批判すればよいのではないのか。
 三 第二に、上記とも重複するところがあるが、八木秀次は原因・結果の関係についての理解が<倒錯>しているように見える。
 すなわち八木は、田母神論文は、「村山談話」の有用性を左翼に「再認識」させた、という咎がある、と主張している。しかし、そもそもが左翼勢力が「村山談話」を生み出したのだったし、八木自ら「再認識」と書いているように、その有用性くらい、<左翼勢力>はとっくにご存知なのだ。内閣総理大臣が交代するたびに「村山談話」の継承の有無を問う朝日新聞をはじめとするマスメディアがいる。
 どの程度<左翼的>かは不明だが、1998年の日中共同声明に「村山談話」の「遵守」を盛り込んだ外務官僚もいたのだ(積極的に賛成したのだとすると、首相や外務大臣も「左翼」と称しうる)。
 本当の<保守>派は田母神俊雄の揚げ足取りをするのではなく、第一には「村山談話」をこそ問題にして、それを批判すべきではないのか。より正確には、「かつての一時期」の日本=<侵略国家>という一面的で単純な歴史認識自体を払拭するように各方面で尽力すべきではないのか。
 なお、八木は田母神論文のおかげで「自衛隊を含む政府関係機関の歴史観・国家観は二十年前に逆戻り」だという(コラムのタイトルも「逆戻りする歴史観」になっている)。
 こういう認識を私は持たない。政府関係機関(担当者)の歴史観・国家観をこのように単純に述べることはできないと思うし、かりにこれが正しい指摘だとしても、それは田母神論文が原因なのではなく、「二十年」の間に徐々に進行していた事態なのだと考える。
 四 タイトルに最初に付した「日本共産党・若宮啓文との類似性(?)」について書くのを忘れていた。
 簡単には次のようなことだ。
 1 日本共産党はかつて(1960年代後半~1970年代)、「全共闘」派あるいは<新左翼>の<暴力>を批判する際に、敵(権力)を過激な暴力行為で挑発して治安機構を拡大強化させている、自衛隊の治安出動すら生じさせようとしている、彼らは敵(権力)の「手先」・「別働隊」だ、というようなことを主張していた。
 八木の田母神俊雄批判はこれに少しは似ていないか? 「闘う」者に対して、そんな闘い方をしたら却って「敵」を有利にするだけだ、と八木は田母神俊雄を批判している、と言ってよい。
 2 若宮啓文は、朝日新聞昨年7/21のコラム(風考計)で次のように書いていた。
 日本の学習指導要領「解説書」に教育事項として<竹島は日本の領土>の旨が盛り込まれた。「それにしても、『独島』に寄せる韓国の情念を知りつつ、なぜまた刺激するのか」、「このセンスはどんなものだろう」。
 朝日新聞・若宮啓文お得意の<中国・北朝鮮・韓国を刺激するな>(なぜならかつて侵略又は植民地化した国だから)という見解・方針が露骨に示されている。
 八木秀次の田母神批判は、これに似てはいないか?
 かつての「歴史認識」に関する<左翼>の「情念」を知りつつ、「なぜ…刺激するのか」、刺激しないで(言いたいこと・書きたいことも言わず・書かずにして)おけば、従前どおりの状態でおれたのに、と八木は主張しているようなものではないか? 
 五 八木秀次に大した期待はしていないが、身辺回りのみならず、<大局>を観てもらいたい。

0649/天皇・皇室と伊勢神宮をあらためて考える-たぶん・その1。

 一 ある本(冊子)を読んで、神宮(=伊勢神宮)に関して又は当地を奉参されて天皇陛下がお詠みになった歌のいくつかを知り、いささかの感動を覚えた。他にもメモしておきたい事項を多く含む本(冊子)だが、まずは、天皇陛下御製を紹介しておく。<左翼>や神宮(=伊勢神宮)参拝の経験のない人には何の感慨も湧かないかもしれないのだが。
 明治天皇
 「とこしへに民やすかれといのるなるわが世をまもれ伊勢の大神」
 明治天皇(日ロ戦争勝利後のポーツマス条約締結後、1905年)
 「久方のあめにのぼれるここちしていすずの宮にまゐるけふかな」
 大正天皇(皇太子時代のご結婚の報告の際、漢詩、1901年)
 「納妃祇告げて神宮を謁す/一路車を馳す雨後の風
 継述敢て忘れんや天祖の勅/但菲徳を漸ぢ窮り無し」(訓みは木下彪)
 昭和天皇(1980年5月、三重県での全国植樹祭の前)
 「五月晴内外の宮にいのりけり人びとのさちと世のたひらぎを」
 昭和天皇
 「わが庭の初穂ささげて来む年のみのりいのりつ五十鈴の宮に」
 今上天皇(皇太子時代、ご結婚報告の際)
 「木にかげる参道を来て垣内なり新しき宮に朝日かがやく」
 今上天皇(1993年の式年遷宮の翌春、1994年=平成6年)
 「白石を踏み進みゆく我が前に光に映えて新宮は立つ」(以上、p.42-44)
 二 この本(冊子)によると、天皇の神宮(伊勢神宮)ご親拝の回数は次のとおり。
 明治天皇-3、大正天皇-5(うち皇太子時代4)、昭和天皇-11(別に皇太子時代に7回)、今上陛下-3(別に皇太子時代に8回)。
 皇后の、天皇とご一緒ではないお一人でのご参拝の場合を含む回数(皇太子妃時代を含む)
 昭憲皇太后(明治天皇妃)-1、貞明皇后(大正天皇妃)-4、香淳皇后-8、美智子皇后陛下-8(以上、p.41-42)。
 三 ある本(冊子)とは、大原康男・戦後の神宮と国民奉賛(伊勢神宮崇敬会〔叢書10〕、2005年11月、400円)だ。本文、計54頁。
 伊勢神宮や天皇とは直接の関係はないが、いわゆる<村山談話>の「空虚」性、それが公的にも絶対的なものではないことは、大原康男産経新聞12/16の「正論」欄の文章がとりあえずは最もしっかりと書いていたように思う。
 四 上につづける。月刊正論2月号(産経新聞社)の安倍晋三=山谷えり子対談の中で安倍晋三は、①「侵略」概念を使った最初の首相は細川護煕、②その次の首相の<村山談話>以降、これを継承するかが(マスコミの)「踏み絵」になった。③換わる<安倍談話>を出そうとしたが、(橋本首相→小渕首相の)1998年の日中共同宣言でいわゆる「村山談話」の「遵守」を明記していることを知り、一方的に破棄できにくくなった。④国会では「継承」を表明しつつ、<政治は歴史認識を確定できない。歴史分析は歴史家の役割だ>と答弁し、野党から実質的には「継承」でないとの批判を受けた、といった苦労?話を述べている。日中共同宣言における<村山談話>(正式名称はもっと長い)の「遵守」という文言は、外務省の官僚が下準備をし、無神経になっている当時の内閣(・総理大臣)が無意識に・無自覚に了承したのではないか。
 散漫になったが、今回は以上。

0648/天皇・皇室論-サピオの小林よしのりと産経新聞の加地伸行。後者はヒドい。

 〇サピオ1/28号(小学館)の小林よしのり「天皇論」の第二回。
 とくに大きな異存はないし、美智子皇后陛下の失語症前後のいきさつなど、知らなかった情報もある。
 最後の方で、1300年以上続いた「天皇の伝統」の力に約200年の「近代合理主義」は到底及ばないとしたあと(p.81)、「奇妙」なのは「雅子妃は祭祀に熱心でないと非難する保守派の者たちが、祈りの奇跡を信じていない合理主義者であることだ」、「皇室にだけ非合理を要求する」な、という旨の言葉がある(p.82)。
 この辺りはややむつかしい。「雅子妃」批判者が「合理主義者」だということの意味と適切さは必ずしもよく分からないところがある。西尾幹二は「(近代)合理主義者」として皇太子殿下ご夫妻を批判しているのか?
 それに、「祈りの奇跡を信じていない合理主義者」という表現からすると、「非合理性」に充ちた<天皇制>の支持者は、「祈りの奇跡を信じ」る者たちだ、と主張しているようでもある。
 たしかに、昭和天皇に限らず、天皇には(合理的に説明できない)不思議な力があったに違いない(だからこそ、古代に<天皇制>が成立したとも言える。皇室の先祖・天照大御神=卑弥呼だと考えなくとも、古代の天皇たちは優れた祈祷者であった可能性も高い)。
 だが、私は<天皇制>支持者だが、「祈りの奇跡」を100%信じるものではない。明治以降でも各天皇は種々の<祈り>をされたはずだが、全てが叶った=実現したわけではないだろう。
 一方、私は、国家や国民のために<祈る>という心情・姿勢自体は強く肯定するものだ。天皇や皇族に限られない。非合理であっても(=合理的とは言えない)何かを<祈る>ことをする「日本人」の心を尊いと思う。<奇跡>が実際に生じなくとも、その発生を願って<祈る>心こそが美しいと思う。
 〇産経新聞1/06「正論」欄加地伸行論考。
 この人は、昨年の正論大賞受賞者だったと思うが、教授(立命館大学)・名誉教授(大阪大学)という肩書きを付けて、よくぞこんな奇妙な文章を書けたものだ。
 まず、西尾幹二に始まる「現在の皇室」についての「論争」の「詳細は十分には心得ないと自ら書いて(告白して)いる。そのような状況で、いかほどの内容の文章を書ける資格と能力があるのか。読者を馬鹿にするな、と言いたい。
 ①最後にこう書く-「陛下御不例が伝聞される今日、皇太子殿下の責任―<無>の世界の自覚が重要である。もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔い一つしかない」。
 皇位に就くことの辞退でも意味するのかと思ったら、続きの最後の一文は、「諫言者」が「七人有れば…天下を失わず」、だ。どうやら皇太子に対する多数の(七人の?)「諫言者」が必要、という趣旨らしい(この点自体も曖昧だが)。結果として、前半にも見られるが、西尾幹二に親近的な論考になっている。
 だが、そもそも(皇太子殿下が)「もしそれに耐えられないとすれば」という文章の意味と根拠は何なのだろう。加地のいう天皇の本質は<無>だというのが正しい又は適切だとして(この点を大した説明もなく折口信夫に依って簡単に断定しているのも気になるが)、皇太子殿下が「それに耐えられない」可能性のあることを十分に肯定している表現だ。
 そのような(現実的)可能性のあることの根拠を、加地は何一つ記していない。これで正論大賞受賞者、教授・名誉教授なのか。
 ②加地によると、西尾幹二に対する批判には次の二傾向がある。一つは「皇室無謬派(皇室は常に正しいとするいわゆるウヨク)」、二つは「皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)」。そして、いずれも「皇室を誤らせる」と加地は批判している(つまり西尾幹二批判を全体として批判していることに論理的にはなる)。
 だが、私は西尾幹二の昨年の皇室論、とくに皇太子妃殿下攻撃に対して批判的だが、上の二つの「傾向」のいずれでもない。やや意味不明だが皇室は「無謬」だとは思わない。ちなみに、「いわゆるウヨク」の中に西尾幹二の同調者もいたように思う。
 よくぞ簡単に上のように整理?できたものだ。また、この人は中国文学(しかも古代の?)専門の筈だったと思うが、「いわゆるウヨク」や「いわゆるリベラルやサヨク」の主義・主張についていかほどの学識と知見を持っているのだろうか。
 専門外のことに余り口を突っ込むことは、少なくとも新聞紙上で公になる文章を書くことは、やめた方がよい、とたぶん失礼だろうが、言わせていただく。
 正論大賞受賞者、教授・名誉教授の肩書きなら誰でも(かなりの程度は)感心して読んでくれると思っているとすれば(その現実的可能性がある)、大間違いだ。
 こんな文章が産経新聞の目立つところに出るのだから、日本は大変な時代に入っている、とつくづく思う。

0647/西尾幹二・真贋の洞察(2008.10)の一部を読む-戦後「左翼」の権威・大塚久雄の欺瞞。

 前回使った言葉とあえて結びつけていえば、西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋、2008.10)p.107には、「講座派マルクス主義」の「お伽話」という語がある。
 西尾幹二の上の本によると、「戦後進歩主義」又は「戦後左翼主義」の代表者は丸山真男大塚久雄だ(p.94)。
 政治学が丸山真男、経済(史)学が大塚久雄だったとすると、歴史学や法学は誰だったのだろう。歴史学は井上清か、それとも羽仁五郎か。日本共産党の要素を加味すると古代史だが石母田正か。法学は、横田喜三郎(国際法)か宮沢俊義(憲法)ではないか。次いで川島武宜戒能通孝あたりか。日本共産党的には平野義太郎の名も挙げうるかもしれないが、社会的影響力は横田喜三郎や宮沢俊義の方が大きかっただろう。
 脱線しかかったが、西尾の上掲書は大塚久雄について面白いことを書いている。少なくとも一部は、知る人ぞ知るの有名な話なのかもしれない。
 ・大塚久雄によると、「絶対王制」と「結びついた」「特権的『商業資本』」が「新しい『産業資本』によって打倒されたかどうか」が、「市民革命」成立の有無の基準になる。
 ・大塚によると、フランスでブルボン王朝と結びついたいくつかの「特権的『商業資本』」が打倒されたことがフランス革命の「市民革命」性の証拠になる。日本(の明治維新)にはこのような例がない。
 ・しかし、-西尾は小林良彰の著書・明治維新とフランス革命(三一書房)を参照して以下を言う-江戸時代に栄えたいくつかの「特権的大商人」は明治維新を境に「廃絶」した。一方、大塚が挙げる具体の「商業資本」は、「フランス革命で廃絶」しておらず、むしろ「二十世紀の代表的企業に発展」した(以上、p.109)。
 ・大塚は「イギリスの農村におけるマニファクチャーの存在」の根拠として英仏二つの著書を挙げていたが(ここでは書名・著者名省略)、1952年に矢口孝次郎(関西大学)、次いで1956年に角山栄(和歌山大学)が、これら二著を大塚久雄が読んでいないことを「突きとめた」。大塚の論文当時に翻訳書はなかったが、角山栄が洋書不足時代に「隅から隅まで」原書を読んでみると、「驚くべきことにマニファクチャーのことなんか」何ら書かれていなかった。
 ・西尾は角山の本を参照して以下を書くが、大塚は学生に「角山の本は読むな」と警告し、「地方大学からの批判に中央のマスコミは関心を示さなかった」(以上、p.110-111)。
 以上を記したのち、西尾幹二はこう書く-「驚くべき事実」だ。「コミンテルンの指令な忠実な東大教授を守るために、中央のマスコミは暗黙の箝口令を敷いたのに相違ない」(p.111)。
 大塚久雄について、このような事実があったとしてみる。すると容易に推測できるのは、大塚に限らず、政治学(政治思想史学)の丸山真男についても、歴史学や法学の上に挙げたような学者たちについても(とくに丸山を含む東京大学(助)教授については)、類似のことがあった可能性がある、ということだ。
 <昭和戦後「進歩的」知識人>の「権威」は、(時期によってやや異なるだろうが)コミンテルン又はGHQの歴史観・「歴史認識」との共通性の有無・程度と「東京大学」等の有力大学教授かどうかによって、一口で言えば<非学問的に>(つまりは<政治的に>)築かれたのではないか。
 さらに言えば、今日の(とくに社会・人文系の)各学界の「権威」者たちは、本当に学問的・「科学的」に立派な学者・研究者なのだろうか、という疑問が生じても不思議ではない。

0646/田口富久治=佐々木一郎=加茂利男の「マルクス主義政治学」の本(1973)とのちの加茂。

 一 田口富久治=佐々木一郎=加茂利男・政治の科学〔改訂新版〕という本がある。1973年に(第一刷が)発行されていて、出版は青木書店。
 第一章は田口が書いていて、「マルクスの史的唯物論を手がかりとして」「政治とは何か」等を考察しているように、マルクス主義に立つ(p.15~)。そのことは「あとがき」でもこの本は政治学の「マルクス主義の立場・方法から書かれた概説書」だ、と明記されている(p.201)。やはり田口が代表して書いている<まえがき>=「政治学を学ぶ人々へ」(p.7~)でも明瞭だ。例えば次のような文章がある。
 現代政治学は「マルクス主義」の立場のそれとそれ以外の「反マルクス主義」の「ブルジョア政治学」・「近代政治学」に区別される。前者=「マルクス主義政治学」は、「実践的には、階級社会とその国家を止揚することによって、自らのみならず、全人類を普遍的に解放する歴史的使命をもっている近代労働者階級の階級的立場」に立つもので、「近代労働者階級の階級的立場の立場に立つ、国家と階級闘争と革命の理論である」。「本書は、基本的にこのような立場」に立つ。
 何ともあっけらかんとしたマルクス主義政治学者たることの宣明だ。「われわれ」という言葉が使われていることからも(p.14、p.16等)、田口のみならず、佐々木一郎・加茂利男も同じマルクス主義政治学者だと理解して全く間違いはない。
 マルクス主義にも諸派がありうるが、青木書店という日本共産党系の出版社から発行されていることで容易に推測がつくだろう。また、上の<まえがき>部分には、「戦前のマルクス主義社会科学・歴史学の一つの輝かしいモニュメント」は岩波刊行の<日本資本主義発達史講座>だった、と明記されていることで、確定的になる。むろん証拠はないが、田口(1931~)、佐々木(1941~)、加茂(1945~)はいずれも、少なくともこの本の発行時点(1973年)では、日本共産党員だったものと推察してよいと思われる。
 1973年とは、連合赤軍事件(「同志殺戮」後の浅間山荘事件は1972年2月)などのあとで<極左>又は<過激派>に対する批判は高まっていたが、また<新日和見主義事件>も日本共産党内部では起こっていたが(1972年)、<穏健な>左翼・進歩派としての日本共産党の勢力は強くなっていた時期だった、と思い出される。当時、同党は<70年代の遅くない時期に民主連合政府〔社共連合政権〕を!>と謳っていて、東京・神奈川・埼玉・京都・大阪を<革新>(=社共推薦)知事が占めていたなど、日本共産党が参加する「左翼」政権の実現は全くの空想事とは思えない雰囲気がある程度はあった。
 そういう時代を背景にして、上掲の政治学の本も出されたのだろう。マルクス主義者であり、実質的には日本共産党員であることを明らかにするようなことを書いても社会あるいは狭くはアカデミズム=学界の中で異端視されない雰囲気があったのだ。
 それにしても、学問と「実践」との関係についてもまた、あっけらかんと次のように明言されているのにも驚く。-「日本のマルクス主義政治学は、現代日本の労働者階級と勤労大衆の解放闘争に奉仕する基本的任務をもっている」(p.12)。
 当時でいうと、明治大学、岡山大学、大阪市大の大学教員が堂々と上のように述べていたのだ(田口は、のち名古屋大学)。その「基本的任務」は「日本の労働者階級と勤労大衆の解放闘争に奉仕する」ことだ、と。
 その後、彼らが、とくに最も年長だった田口富久治がどういう組織的・思想的歩みを辿ったかは興味がある。若干の資料・文献は所持しており、時代・政治・社会自体が彼らが予見したようには推移しなかったことが歴然となるが、今回は田口については触れない。
 二 
加茂利男については、1991年のソ連解体の意味について<(少なくともソ連の)社会主義の敗北>という旨を書かない1998年の政治学の概説書の共同執筆者として触れたことがある加茂利男=大西仁=石田徹=伊藤恭彦・現代政治学(有斐閣、1998))。

 上の本は社会主義(理論)に問題・欠陥があったとは一言も書かず、<冷戦>終結へと主題をずらし、アメリカ等の西側(資本主義諸国)にも問題があったことが<冷戦>終結の「重要な原因」だった旨を書いていた(大西仁執筆部分)。
 <(少なくともソ連の)社会主義の敗北>を認めない書きぶりに呆れたものだったが、加茂利男は、同・二つの世紀のはざまで国境を超える体制改革(自治体研究社、1990)でも似たようなことを書いている(正確には講演で語っている)。
 加茂は1990年3月の時点の講演で、「二一世紀への世界の流れ」を次のように考える、と言う。
 社会主義の方では「ソ連型の政治・経済システムがうまくいかなくなり」、資本主義の方では「新保守主義が行き詰まりになって軌道修正を迫られている」。「実は社会主義も資本主義もいま意外に共通性のあるある問題、体制横断的な新しい問題にぶつかっている」。どちらも、経済効率と社会的公平・福祉のバランス、公的部門(政府・自治体)と民間部門の役割分担を考え直す必要が出てきている(p.15)。
 以下の引用又は紹介は割愛する。要するに加茂は、ソ連解体という大きな時代と歴史の変化を、社会主義(国)にも資本主義(国)にもある「体制横断的な」問題の顕在化(の一つ)、としか把握していないのだ。
 「体制改革」の課題は「国境を超える」ものであること(アメリカも日本も含むこと)は、上掲書のサブ・タイトル(下線部)でも明示されている。資本主義(国)の側に問題が全くないなどとは言わない。だが、それは、社会主義(国)と同質・同次元のものなのだろうか??
 この人がソ連を語るときにソ連「共産党」という語は注意深く避けられている。そして、「ソ連の社会主義なんてもともとまったくダメな体制だったんだというようなこともいわれますが、それはやはり言いすぎであります」と語りもする(p.16)。
 この人が語っていないことに注意を向ける必要がある。またそもそも、やや反復になるが、ソ連(等の旧東欧「社会主義」諸国)の崩壊は<経済効率と社会的公平・福祉のバランス、公的部門(政府・自治体)と民間部門の役割分担を考え直す必要>が出てきたというレベルの問題だったのだろうか。
 要するに、ソ連・東欧「社会主義」体制の崩壊の意味をできるだけ過少に評価し、ソ連・東欧「社会主義」体制と同じような問題にアメリカ・日本等の資本主義諸国も直面していることを強調して、前者の意味を意識的に相対化している。
 この1990年3月の時点で日本共産党の中央がどういう公式発言をしていたかを調査してみることはしない。同党はソ連は「社会主義」国ではなかった、スターリン以降間違った、ソ連「覇権主義」国解体を歓迎する旨等を発表した。
 これが公式見解だとすると、加茂の「ソ連の社会主義」は「もともとまったくダメな体制だった」とするのは「言いすぎ」との発言は、まだ公式見解が表明されていない時期のものか、又はレーニンやロシア革命後の当初期は「まったくダメ」ではなかった、という意味のものだ、と理解すべきことになるだろう。
 細部ではひょっとして見解・認識に違いがあるかもしれない。だが、(本来の?、「真の」?)社会主義・共産主義、そして日本共産党への悪い影響が生じることを阻止しようという点では、加茂はなおも日本共産党の路線の上にあるのではないか。
 日本の政治学(者)は「現代日本の労働者階級と勤労大衆の解放闘争に奉仕する」などとはもはや語れなくなっているものと思われる。だが、マルクス主義的、少なくとも親マルクス主義な考え方は、かつての教条的で独特な概念を用いた「理論」は語られなくなったとしても、今日でもなお生き続けているものと思われる。そして、今日の<「左翼」全体主義>の重要な一翼を彼らが担っていることを忘れてはならない。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。