秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2008年05月

0526/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」の続き。尾崎秀実、都留重人…。

 一 5/28に紹介した中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」(初出2006.09)同・日本の岐路(文藝春秋、2008.05)における「共産主義」論は、もちろん現在の共産主義にもあてはまるものとして読む必要がある。中国や北朝鮮が「共産主義」国又は「共産主義を目指す」国かどうかについて<理論的には>議論の余地があるだろうが、中国共産党にとってマルクス・レーニン(・毛沢東)がその思想的始祖であることに疑いはない。北朝鮮についても同様で、ソ連共産党(モスクワ)から「共産主義の子」として北朝鮮に戦後に<派遣>されてきたのが、金正日の父親、名前を変えた「金日成」(将軍)だった。
 日本国内の「共産主義」にもあてはまる。日本で最大の大衆的支持を得ている共産主義組織は日本共産党。自由主義国・日本だからこそ許容されている「自由」を最大限に活用しつつ、「自由と民主主義を守る」宣言とかを出す等々の<偽装>をし、多くの共産党員は表面的には紳士的・友好的を装いつつ、内心では又は仲間うちだけでは、表面的・対外的な言葉とは異なることを考え、語り合っている。大小の嘘・謀略・策略は、この政党と無縁ではない。
 二、以下は、5/29に続き、中西輝政の上の論文のp.302~の要約的紹介。
 1 ①1927年(昭和2年)、イギリスでのモスクワ・イギリス共産党の謀略の発覚(アルコス事件)、蒋介石による上海の中国共産党の弾圧(四・一二クーデター)により、スターリン・コミンテルンの対日本戦略の、「表面からは全く目に見えない一層ディープな秘密工作」等への見直しが迫られた(p.302-3)。
 ②上海はコミンテルンの「対日工作基地」で、「左翼」ジャーナリスト、「中国に同情的なふりをした」共産主義学者・文化人が集まっていた尾崎秀実、サルヌィニ、アグネス・スメドレー、陳翰笙、エドガー・スノー(のち『中国の赤い星』)ら(p.303)。
 ③昭和4-5年には、上海の「東亜同文書院」にコミンテルンの工作は浸透し、同書院の学生だった中西功(のち日本共産党国会議員)・西里龍夫の指揮で、学生たちは昭和5年(1930年)に「国際共産党バンザイ」・「日本帝国主義打倒」のビラを撒いた。この二人を「指導」していたのは、尾崎秀実。尾崎や中西功は日本共産党やモスクワと関係をもつ以前から中国共産党と「連携」しており、その中で「コミンテルンに間接的にリクルートされていった」(p.304-5)。
 ④尾崎秀実は「ただのスパイ」ではなく、「朝日新聞記者の身分で近衛内閣の中に嘱託として入り込み、…日本の国策を大きくねじ曲げた」。尾崎らは近衛を動かして支那事変を「泥沼の戦争」に陥らせ、「日本の破滅」・対米戦争「敗戦」へと向かわせる上で「重大な役割」を果たした。尾崎は、1937年(昭和12年)~1941年(昭和16年)、「共産主義者であることを隠し、『中国問題専門家』として近衛文麿内閣のブレーン」となり、「英米との衝突を策して南進論を唱え」、対米戦争に追い込む「大きな役割」をした(p.305)。
 2 ①<アジアの第二次大戦>をコミンテルン・中国共産党の「秘密工作、謀略」をふまえて総括すると、勝者はソ連・中国共産党・戦後に「大ブレーク」した「日本の左翼」で、敗者は日本・アメリカ・蒋介石だった。日本の「戦後左派」は自分たちを「戦勝国民」と思っていなかったか。朝日新聞の今日までの「執着」は、「左翼の勝利」という歴史観に発する。アメリカが敗者だというのは、日本を打倒してしまったため、戦後、朝鮮戦争・ベトナム戦争・中台対立で自ら「大変な苦難」を背負ったからだ(p.306)。
 ②なぜアメリカは、ソ連・中国共産党と対峙した日本を「叩く」という「愚かな選択」をしたのか。それへと「最大の役割」を果たしたのは、アメリカ国内での「コミンテルンや中国共産党の秘密工作員たちの活動」だった。彼らは真の意味で「アメリカの敵」で、同時に「日本の敵」、「蒋介石の敵」でもあった(p.306-7)。
 ③「日本の敵」の重要な人脈はゾルゲと尾崎秀実、二人を結びつけたアグネス・スメドレー、オーエン・ラティモア、そしてセオドア・ホワイト。ホワイトは、所謂「南京大虐殺」プロパガンダに協力したハロルド・ティンパーリと同様に、「中国国民党中央宣伝部国際宣伝処」に勤務していた。同「宣伝処」には、「アメリカの言論界に対し嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだとアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい」という「方針」すらあった(p.307-8)。
 ④ホワイトは戦後・1985年にも、「再び中国と組んで、日本を挟み撃ちにする」必要があるとの論文を書いた。アグネス・スメドレーは所謂<南京大虐殺>を「初めて大々的に」世界に宣伝したジャーナリストで、日米開戦・今日の日中の「歴史問題」に果たした「ネガティブな役割」は非常に大きい(p.308-9)。
 ⑤ラティモアは1941年11-12月、ルーズベルト大統領の「個人代表」として重慶・蒋介石政府の「顧問」をしていた。ロークリン・カリーは「中国担当大統領補佐官」だが、同時に「コミンテルンのスパイ・エージエント」だった(1995年に確証された)。1941年(昭和16年)の開戦直前の日米交渉で開戦回避案で妥結する可能性が出てきた際、その可能性を「潰す」ためにカリーは重慶のラティモアに電信を打ち、それに従ったラティモアの蒋介石説得により、蒋介石はルーズベルトに、「交渉を妥結しないように迫る電文」を送った。この電文は最低でも二通あり、日付は11/24と11/25。対日本最後通牒のハル・ノートは11/26だった。ラティモアが重慶にいなければ、日米交渉は妥結していた可能性は大だった。ラティモアと(コミンテルン工作員)カリーの関係こそ、「日本滅亡」への「恐るべき対日謀略の工作線」だった(p.309-310)。
 ⑥ハル・ノートの原案を作ったもう一人のホワイト、ハリー・デクスター・ホワイトも「日本滅亡への引き金」を引いたが、「日本の敵」の「真打ち」は、ハーバード・ノーマンだ。カナダ外交官・知日派学者のノーマンはマルクス主義者で「ほぼ間違いなくコミンテルン工作員」だった。留学中にイギリス共産党に入党した。「経歴をすべて秘密にして」カナダ外務省に就職し「日本専門家」として出世していくが、ハーバードにいた都留重人と知り合ったのち、1940年(昭和15年)に日本駐在となった(そして『日本における近代国家の成立』を刊行して一躍著名になる)。日米開戦後にアメリカに戻る途中、アフリカの港で都留重人と偶然に遭遇したが、都留はノーマンに、ハーバードに残したアメリカ共産党関係極秘資料の処分を頼んだと、のちに都留を取り調べたFBI捜査官は議会で証言した(p.310~311)。
 ⑦都留重人を「アメリカ共産党の秘密党員」と見ていたFBIは、ノーマンが帰国後にハーバードの都留の下宿に寄ったことを確認した。ノーマンは<マッカーシー時代>に「スパイ疑惑」を追及され、1957年に自殺した(p.311)。
 ここで区切るが、まだ終わっていない。都留重人(1912~2006)は、一時期、朝日新聞の論説顧問。雑誌「世界」(岩波)の巻頭を飾っていた記憶もあり、丸山真男よりも、<進歩的文化人・知識人>の一人だったという現実感は残っている。アメリカ・ハーバードでの前歴を知ると、戦後の彼の言動も不思議ではない。戦後の<左翼>的雰囲気は、こういう人を大切にしたのだ。一九七〇年代に、一橋大学の学長にすらなる。まさに<戦後・左翼の勝利>という時代があったし、その雰囲気は、今日まである程度は(かつて以上に?)継続している。

0525/フュレ・フランス革命を考える(岩波、1989)を少し読む-主流派はマルクス主義。

 外国人の本は、翻訳という作業を媒介とするために、読みにくい、理解し難いところがあるものだ。という思いをあらためてもちつつ、フランス革命<解釈>に関する、フランスの「修正主義」派の代表者の一人の本、フランソワ・フュレ(大津真作訳)・フランス革命を考える(岩波、1989)を少しだけ読んでみた。
 日本に比べて、フランスでは自国の歴史(の見方)についての対立は少ないのだろうという何となくの想定があったが、実際にはそうではなく、フランス革命の位置づけ・性格づけも含めてかなりの対立・議論があるようであることは興味深い。かかる一般的な感想を生じさせる部分は省略して、すでにいくつか、興味を惹く文章がある。以下の引用は、フュレの上記の本。
 ①「フランス革命の歴史家たち〔従来の主流派-秋月〕は、自分たちの一九一七年にたいする感情とか判断とかを過去にも投影し、第二の革命を予告し予示すると見なされるものを、第一の革命のなかで特権的な地位にまで高める方向に傾いた」(p.11)。
 面白い指摘だ。「一九一七年」とはロシア革命、第二の革命とは「社会主義」革命のこと。つまり、従来の主流派のフランス革命「解釈」は、フランス革命の過程の中で将来の「社会主義」革命を「予告し予示する」と見なしたものを重視した(「特権」化した)、という。そして、将来の「社会主義」革命を「予告し予示する」ものとは、まさに<ジャコバン独裁>期(ジャコバン主義が支配した「革命政府」期)に他ならない。
 「一九一七年」=ロシア革命に関する「感情とか判断」は、むろん肯定的評価を意味する。そして、そういう<感情・判断>からすると、ロシア革命のような「社会主義」革命を「予告し予示する」<ジャコバン独裁>期はとくに重視される、という意味になる。
 むろんこれは、フュレの従来の主流派に対する批判であり、皮肉だ。つぎの②も主流派的フランス革命「解釈」への批判・皮肉。
 ②「二つの革命にかんする歴史学の弁舌はおたがいにのりこみあい、汚染しあう。ボリシェヴィキはジャコバン派を先祖とし、ジャコバン派は共産主義の予想図をもった」(p.11-12)。
 フランス革命(ジャコバン派)とロシア革命(ボリシェヴィキ)の二つをこのように明確に関係づける、このようなフランス人の(邦訳された)文章を読むと、新鮮な感動すら生じる。まさに<フランス革命(ジャコバン派)がなければロシア革命(ボリシェヴィキ)もなかった>、と言えるのだ。
 ③私たち〔フュレとドゥニ・リシュ-秋月〕の本(1965-66)は「アルベール・ソブールとその門下が採用したマルクス主義的解釈のひとつに背いているとの疑いを受けている」。二人は「『ブルジョワ・イデオロギー』のために利敵行為を働いている、と非難されている」(以上、p.156)。
 つまり、従来の主流派とはフランスの<マルクス主義歴史学>(の一つ)だという旨が、これらによって明言されている。すでに、上の①や②からでも容易に明らかになることだが。
 ④従来の主流派の一人であるクロード・マゾリクは(フュレらが)「ジャコバン的拡張主義にたいして煮え切らない態度をとっている」と疑っているが、長い叙述のあげく、次のように述べて「彼の明敏さの秘密」を暴露した。「歴史家の方法は、レーニン主義的労働者党の方法と理論的には同一のものである」(p.156-7)。
 上の最後の「」はフュレではなく従来の主流派の一人(マゾリク)の文章の引用。
 このくらいにしておくが(なお、以上はすべて、1991年=ソ連解体前の文章)、以上で明らかなのは、フランス革命を典型的「ブルジョア革命」と捉え、かつ<ジャコバン独裁>期を不可欠のものとして重視する<従来の主流派>とは、<マルクス主義(歴史学)>者たちだ、ということだ。従って、単純に言って、<修正主義>派とは反・マルクス主義(=反・共産主義)者たちだ、ということになる。
 高橋幸八郎大塚久雄らが自らの立場をどのように<正直に>語っていたかは知らないが、日本の<主流派>的なフランス革命「解釈」もまた、マルクス主義又は少なくとも親マルクス主義のそれだ、と言ってよい。ということは、樋口陽一のフランス革命「解釈」もまた、それを当然に継承している、ということになる。前回又は前々回に触れたように「一九一七年」=ロシア革命に対する批判的意識・感覚が樋口陽一には欠落しているようであることも、このことを証明又は示唆しているだろう。
 今後もこのフランス革命・<ジャコバン独裁>問題に言及するが、樋口陽一一人にかかわりたいためでは勿論ない。樋口陽一のような人々、樋口陽一(のような人々)の「教育」を受けた人々、樋口陽一(のような人々)の「指導」を受けた現在の大学教授たち(例えば、直接の指導教授は樋口陽一ではなくすでに「マルクス主義」憲法学者としてこの欄で論及した杉原泰雄ではないかと思われるが、現在は東北大学教授の辻村みよ子)が多数おり、「マルクス主義」的なフランス革命「観」を日本人に撒き散らしている、と思われるからだ。

0524/樋口陽一は<ジャコバン独裁>の意義を「痛みとともに追体験」せよ、と主張した。

 一 樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)は、「ジャコバン主義」には次の二つの異なる含意がある、とする。①「一七九三年」を「一七八九年を否定する」、「『市民=ブルジョア革命』からの逸脱」と捉える、②「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える。そして、樋口は後者②の意味で「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を明記している(p.122)。これは、前回言及したフランスの一七八九年と一七九三年の関係の「理解」に関する第二の説に他ならない。そして、「ルソー=ジャコバン主義」とは彼において、「フランスの近代国家のあり方の象徴」たる表現なのだ(p.122)。
 ところで、樋口は上の二つの含意に触れる直前に、「『ギロチンと恐怖政治』というひとつのステロタイプ化された『ジャコバン主義』像はここで問題にしなくてよい」と書いている(p.122)。本当に「問題にしなくてよい」のだろうか。そして「問題にしなくてよい」のはいったい何故なのだろうか。「ステロタイプ化され」ているか否かが争点ではないだろう。だとすると、おそらく樋口は、「ギロチンと恐怖政治」は革命過程のやむを得ない必要な一環だったと理解しているか、「ギロチンと恐怖政治」の実態を知らない(又は知ろうとしていない)かのいずれかなのだろう。そのどちらにせよ、それでよいのか?
 二 前回に紹介してもよかったことだが、柴田三千雄・フランス史10講(岩波新書、2006)は、フランス革命は「ブルジョワ革命の典型」だったとする従来一般的だったかに見える理解は「今日」では「成り立ちにくい」と明言する。その理由として挙げられているのは、①封建制→資本主義→社会主義という「発展段階理論」自体がソ連の解体によって崩壊した、②「一九六〇年代から、貴族とブルジョアジーは必然的に対立するものではなく、またフランス革命はブルジョアジーが資本主義の支配を目的にしたものではない、とする『修正主義』が有力となった」、ということ。
 さて、この柴田の本は、学問分野や関心の違いからして当然かもしれないが、「ジャコバン主義」を、又はそれにかかわる歴史的経緯を、樋口陽一とは異なってつぎのように説明している(理解しやすい、定義的な文章はない)。
 1792年9月発足の国民公会で「ジャコバン派(=山岳(モンテーニュ)派)」に同調する議員が増え、1793年6月に対立する「ジロンド派首脳」を国民公会から「排除」した。その後同公会は1793年憲法を採択したが、10月に「憲法の施行を停止して公会に全権力を集中する『革命政府』体制をとることを宣言」し、とくに「公会内の公安委員会の権限」を大きくした。これが「恐怖政治」(テルール)体制と呼ばれるもので、その理念は「ジャコバン主義」とも言われた。代表するのはロベスピエール。
 ロベスピエールにおいて、民衆への所有権の配分と「習俗の全面的刷新」による(民衆たちの?)「新しい人間」創出が重要だった。「テルール」とは「『徳と恐怖』を原理にもつ戦時非常体制」のことで、「徳」=「公共の善への献身」、「恐怖」=「それに反する者への懲罰」だ。
 「革命政府」は「反革命勢力にたいする仮借のない戦い」とともに「独走する民衆運動のコントロール」も重視した。「ジャコバン派(=山岳派)」は鉄の団結をもつ派ではなく、1794年春にロベスピエールは、ジャコバン派内の右派「ダントン派首脳」と民衆運動へり影響力をもつ左派「エベール派」を「粛清」した(以上、p.127-9)。
 その後ロベスピエールは「独善的な精神主義」に傾斜していくとされる(p.129。元来からそうだったのだろう)。以上に簡単に触れられているロベスピエールの思想又は「理念」は、なるほど、この欄でも何度か言及した(「狂人」とすら呼ぶ人すらいる)ルソーのそれと同じか、近い。
 三 柴田三千雄・フランス革命(岩波現代文庫、2007。初出1989、2004)は、「ジャコバン主義」につき、ジロンド派の殆どを排除した議会(国民公会)の「革命路線」は、「九三年から九四年にかけてのジャコバン・クラブが、この路線をとる革命家たちの中核的機関だった」ために、一般に「ジャコバン主義」と言われる、と説明している(p.169)。そして、「もっとも指導的な立場」にあったのはロベスピエールだったとしつつ、上の岩波新書よりも、歴史的・時間的経緯等を詳細に叙述している。
 反復と詳細な紹介を避けて、三点だけメモしておく。
 ①1792年に「九月の虐殺事件」が起きた。パリの牢獄内で反革命陰謀ありとの噂が立ち、「群衆」が複数の牢獄に侵入して「即決裁判」にかけ、2800人の囚人のうち1100~1400人が「殺され」た。囚人のうち政治(思想)犯だった者は約1/4(以上、p.157-8)。これは「革命政府」成立前のことだが、柴田によると「のちのジャコバン独裁は、この九月の虐殺の経験と関連がある」。すなわち、「反革命に対する民衆の危惧を盲目的に暴発させてはならず、…コントロールする必要がある」ために、「内部に妥協分子を含む二重権力ではなく、民衆の正当な要求を先取りしてゆく強力な革命的集中権力の樹立が前提条件になる」、これが「のちの恐怖政治の論理」だ(p.159)。
 ②「恐怖政治」(テルール)には「反革命の容疑者を捕えてどんどんギロチンにかける」という狭義の「司法的」一面の他に、「自由経済に対する統制」という「経済統制の面」もある(前者の「一面」を否定していないことが、確認的にではあれ関心を惹いた)。
 ③「革命政府」とは当時使われた言葉で、「憲法に基づかない」政府という意味だ。1993年憲法は国民公会の10月10日の宣言により施行が停止され、12月4日の法令により「全権力」が国民公会に集中された。とくに国民公会内の公安委員会と治安委員会に権力が集中し、行政府(大臣等)は「公安委員会に従属」した(p.176-7)。
 四 <ジャコバン独裁>期の殺戮等の実態については、さらに関係文献を渉猟し参照して紹介する。また、フランス的又はルソー=ジャコバン的<個人>観についても触れたいことはある。
 上の二テーマについては、ある程度の用意はある。だが、後回しにして、今回は、最後に、樋口陽一・自由と国家(1989)の中の次の文章を紹介しておきたい。
 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(p.170)。
 これは、樋口陽一のきわめて<歴史的>な発言で、<歴史>に永く記憶されるべきだ、と考える。
 「中間団体」の問題には立ち入らない(まだ言及していないから)。また、「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」を日本と日本人が何故守り、実現しなければならないのか?という基本的に重要な論点・問題もある。  だが、それよりも重要なのは、樋口が、日本人に対して、「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義」を「追体験」せよ、と主張していること、しかも、「そのもたらす痛みとともに」追体験せよ、と主張していることだ。
 端的にいえば、これは、<ジャコバン独裁>期の(思想の違いを理由とする)<殺戮・虐殺>を伴うような<革命>を経験せよ、<殺戮・虐殺>も「追体験」して、(それに耐えられるような?)「中間団体」に守られない<強い>「個人」になれ、という主張だ、と考えられる。少なくとも、かかる解釈を許すことを否定できないものだ。この人は、1989年に、何と怖ろしい主張をしていたものだ。こういう主張・考え方は<左翼・全体主義>と形容することもできる。<共産主義>の萌芽をそのまま承認している、と言ってもよい。
 大雑把に書くが、国家の「一般意思」に全面的に服従する(献身する=犠牲になる)ことによって人民は「自由」になる、というルソー的考え方、個人(人民)の「自由」意思=人民の(直接民主主義的)代理人(の集合体たる議会)の意思=「一般意思」というルソー的観念結合は、実際には容易に一部の者の「独裁」、あるいは「全体主義」を導くものであり、上に引用にしたロベスピエールの考え方の一端にも垣間見えるように、思想の違いを理由とする(「一般意思」に違反するとの合理化による)<粛清>を正当化するものだ。
 樋口陽一は、この著名らしい元東京大学の憲法学者は、まさに上のような考え方を持っていたのだ、と判断できる。そういう人が(むろん「左翼」で「親マルクス主義」者で、そして憲法九条護持論者だが)多数の本を出しており、社会的影響力もおそらく持っている。日本は怖ろしい社会になってしまった、と思わざるをえない。まだ、紙の上、言葉だけにとどまっているのが幸いではあるが、むろん人々の種々の政治行動(投票活動等)に影響を与え、現実化していく可能性はある(すでにある程度は現実化している?)。
 あらためていう。樋口陽一の上の文章は<怖ろしい>内容をもつ。
 付記-大原康男・天皇-その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)は、数日前に全読了した。

0523/樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)とフランス革命・ロシア革命。

 一 樋口陽一の<ルソー=ジャコバン型国家>なる表現及びその肯定的評価に関するコメントは終えたわけではない。そして、今回でも終わらないだろう。
 フランス革命については、少なくともその一過程に見られる<狂熱的残虐さ>やロシア革命を導いたものとの性格づけ(フランス革命なくしてロシア革命(社会主義・共産主義へ)はない)について、いろいろな人の著書等に触れながら、たびたびこの欄でも論及してきた。  すでに紹介した可能性はあるが(有無を確認するには時間を要しすぎる)、中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)は、その「はじめに」で次の旨を述べていたことを、むろん、一人の研究者の発言としてでよいのだが、確認しておきたい。
 
<1991年以降も、マルクス主義・共産主義・全体主義という「悪の思想ウィルス」は、スタイルを変えてでも、除毒されず、伝染力を温存したままだ。「スタイルの変更」の「代表的なもので、また最も効果的」なものは、「ルソーヘーゲルの温存ならびにフランス革命の賛美をすること」だ。そして「現実にそのとおりのことが集中的になされている」>(p.3)。
 次の中川の文もそのまま引用しておきたい。
 「ルソーとヘーゲルとフランス革命を次世代の青年に教育すれば、もしくはこれに対する親近感を頭に染みこませれば、それだけで全体主義のドグマは充分に生き残ることができる。『マルクス』は何度でも蘇生する」(p.3)。
 また、フランス革命の解釈・理解については<旧い封建制又は絶対王政をブルジョアジーが実力をもって打倒して支配階級にとって代わり、資本主義を準備した「市民(ブルジョア)革命」だ>といった旧来の又は伝統的な主流派解釈に対して、「修正主義」という新しい解釈・理解も有力になっていることも記したことがあるかもしれない。
 「修正主義」解釈の中身にさしあたりここでは立ち入らないが、その内容を紹介しつつ、柴田三千雄・フランス革命(岩波現代文庫、2007.12)は次のようにすら語っている。
 <「修正主義」はフランスでも別途出てきたが、その「潮流はまずイギリスからおこってアメリカにゆき、アングロ=サクソン系の歴史家の間ではこれが主流にさえなっている」(p.41)。
 二 日本で<従来の主流派的解釈>を明瞭にそのまま採用していたのが、桑原武夫や、樋口陽一が「あえて何度でもしつこくたちもどる必要がある」としていた三人の学者のうち、西洋史学者の大塚久雄高橋幸八郎だった(あとの一人は丸山真男樋口陽一・比較の中の日本国憲法(岩波新書、1979)p.9参照)。
 ちなみにやや先走っていえば、上記の柴田三千雄・岩波現代文庫は、高橋幸八郎の「理論」を1頁ほどかけて紹介したあと、「この考え方には無理があると思われます」とこの文自体は素っ気なく述べ、そのあとで理由をかなり詳しく書いている(p.34~p.39)。
 さて、樋口陽一は長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法第一巻の「フランス革命と近代憲法」の中で、「修正主義派」の存在に言及しつつ、「そこで提起されている諸論点の意義、などについて、ここではコメントをくわえる紙幅も能力もない」と述べている(p.124)。そして、「右のような論争的争点に直接に立ち入ることなしに」、フランス革命は「『ジャコバン的理想』=一九九三年の段階」を不可欠とする高橋幸八郎「史学」と基本的には全く同様に、「フランスの法・権力構造の基本は、一七八九年が一七九三年によってフォローされたことによって決定づけられた」という前提で、「以下の叙述をすすめる」と書いている。
 この論旨の運びはいささか、いや多分に奇妙だ。  第一に、「高橋史学」等による<従来の主流派的解釈>にそのまま従っている、と見てよいにもかかわらず、その根拠・理由は述べていない。  第二に、論争について「コメントをくわえる紙幅も能力もない」と釈明しながら、「右のような論争的争点に直接に立ち入ることなしに」、上のように<従来の主流派的解釈>に従って叙述をすすめることが「許されると考える」、と書いているが、本当に「許される」のか。まさしく「論争的争点に…立ち入」っていることになるのではないか。そして、基本的には<従来の主流派的解釈>に従うことを選択しているにもかかわらず、その理由は一切述べておらず、<逃げて>いるのだ。  ここには、かつて高橋幸八郎(や大塚久雄ら)を読んで身につけたフランス革命のイメージを壊されたくない、という<情念>の方が優っているのではあるまいか。
 三 先日この問題に言及したときには手元になかった、樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)を入手した。その「あとがき」によると、この新書の一部(第三章)は上で言及した講座・革命と法第一巻の中の論文での「記述を骨組みとして」いるらしい。
 そして、若干部分の比較的読み方をしてみると、①冒頭での「修正(主義・論)」の存在への言及や「コメントをくわえる紙幅も能力もない」という釈明は、表現を変えて別の箇所に移されている(p.113-「歴史家ならぬ私の役まわりではない」等)。
 ②その代わりに、フランス革命「理解」、とくに1789年と1793年の関係について三説があるとし(そのまま正確に引用したいが省略)、高橋幸八郎の、フランス革命は「『ジャコバン的理想』=一九九三年の段階」を不可欠とする(正確には、つづけて、「…段階を経過することによってこそ、『新たな資本制生産の自由な展開を孕む母胎が形成された』」との文章を引用しつつ、「八九年が九三年によってのりこえられることで革命が完成したと見る―さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」第二の説に立って(と解釈できる)、講座・革命と法の中の論文と同様又は類似のことを書いている。
 要するに、特段の詳細な理由づけをすることなく、当時すでに現れて有力にもなっていた「修正主義」をきちんと検討することもなく、やはり<従来の主流派的解釈>に従っている、と見られる。「かつて高橋幸八郎(や大塚久雄ら)を読んで身につけたフランス革命のイメージを壊されたくない、という<情念>の方が優っているのではあるまいか」との疑念は消えない。
 しかも驚くべきことなのは、上の第二の説というのは、革命は「さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」という考え方を含んでいるらしい、ということだ。「一九一七年」とは言うまでもなく、「ロシア革命」のこと。この点は、講座・革命と法第一巻の中では明記されていなかっていなかった、と思われる。また樋口は、高橋幸八郎の発したメッセージは「こだわるに値するはず」だとして、高橋の1950年の「われわれ」〔日本人?〕は西欧では100年前に提起・解決された問題を「世界史の法則として直接確認しようとしている」という文章を肯定的に引用している。樋口もまた、「世界史の法則」なるものの存在を信じて(信仰して?)いたのだろう。
 出典は省略するが(確認していると時間がかかる)、大塚久雄は、「近代化」とは「社会主義化」を含むものだ旨を晩年の方の本の中で明記したらしい。上で触れたように、樋口陽一もまた、フランス革命によって残された部分を「社会主義革命」が補充して完成させる(又はロシア革命によって実際に完成された)という理解・考え方に立っていたことを充分に示唆することを、述べていたことになる。いわば、有名な<発展段階>史観でもある。
 しかして、上の岩波新書が刊行されたのは1989年年11月で、講座・革命と法第一巻と殆ど同じ頃。原稿執筆中はベルリンの壁は崩壊しておらず、東ドイツもソ連もまだ表向きは健在だっただろう。しかし、1991年以降になってみれば、「本当に完成した」筈の「革命」は瓦解してしまったのではないか
 そして感じるのだが、ソ連・東欧諸国等の「社会主義」諸国の存在(それも可能ならば健康的な存在)があって初めて成り立つような議論・論旨部分を一部にせよ含む本を、樋口陽一がその後も刊行させ続けていることに驚かざるをえない。私が入手したのは、1996年2月の第14刷の本。
 ソ連解体後も、とっくに破綻が明らかになっていた<朝鮮戦争=韓国軍の北侵による開始>説を述べている井上清・新書日本史8講談社現代新書、1976。1992第9刷)等が発売されていたことにこの欄で批判的に触れたことがある。樋口陽一はソ連解体前のこの岩波新書・自由と国家を一部なりとも訂正・修正することなく発売し続けているようだ。
 樋口は「八九年が九三年によってのりこえられることで革命が完成したと見る―さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」説は自説だと明記してはいないとでも釈明又は反論するだろうか。だが、あとの二つの説は「九三年=恐怖政治=闇」とする説と「九三年=一九一七年=スターリニズム説」なので、樋口がこれらに依拠していないことは、「ルソー=ジャコバン型国家像」や「ルソー=ジャコバン主義」という語をフランス革命やフランスの「近代」的国家像を表現するために用いていることでも明らかなのだ。また、歴史学上の「修正派」とは反対に「『九三年』がかならずしも『ブルジョア革命』の軌道から外れてしまったものとはいえない」との見地を「憲法学のほう」から提供できる、とも書いているのだ(p.120-1)。
 一度岩波新書で書いたものを一部でも訂正すると、自説を変えるようで恥ずかしいのだろうか。一部訂正では済まないので(恥ずかしげもなく)発売し続けているのだろうか。有名な憲法学者らしいが(何といっても元東京大学教授)、本当に<学問的>・<良心的>だろうか。<情念>あるいは<信仰>がつきまとってはいないだろうか。
 四 まだ、このフランス革命又は「ジャコバン独裁」に関係する<つぶやき>は続ける。

0522/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」による、コミンテルン・中国共産党の対日工作。

 一 第二次大戦は<民主主義対ファシズム>の戦争だった、良き民主主義陣営は勝ち、悪しきファシズム陣営は負けた。と、こう学校教育で自分自身が教育されたかどうかの明瞭な記憶はない。ファシズムという語は小学生や中学生にはまだむつかしくて、「軍国主義」から「民主主義」へと時代・世の中は変わった、という程度のことは少なくとも教育されただろう(現在の歴史や公民等の教育用書物がどう書いているか興味があるが、別の機会に確かめてみたい)。
 しかし、どうやら上の冒頭の文のような内容で第二次大戦を理解するのが戦後の少なくともタテマエのようだ。そしてそれは、勝者の一国であり日本を占領したアメリカの歴史観でもあるようだ。
 もっとも、戦後当初又は1970年代頃までは別として、現在でも戦前(昭和)日本について「ファシズム」国家という性格づけがなされ続けているかのかは勉強不足で知らない(この点も、現在の教科書類を別の機会に確かめてみたい)。丸山真男をはじめとして、マルクス主義歴史家たちは<天皇制ファシズム>を語っていたはずなのだが、かかる概念はまだ生きて?いるのだろうか。かりにそうだとすれば、日本における「ファシズム」とは、いかなる要素・いかなる部分が「ファシズム」であり、いかなる人々が「ファシスト」だったのか丸山真男の、学問とは思えないファシズムの「担い手」・「社会的地盤」論については言及したことがあり、一笑に付しておく-丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」の5参照)。
 二 迂遠な又は余計なことを書いたが、中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)所収を読んで、第二次大戦の勝利者たちが自分たちに都合のよい<第二次大戦観>(つまり<民主主義対ファシズム>の戦争だった…等の見方)を作りだしたのであり、将来においてかかる歴史観は書き換えられる可能性もある、と思った(読んだのは初めてではなくそう思ったのも最近が初めてではない可能性があるが、こうして文章に残すのは初めてだろう)。
 単純に考えても上の如く、日本はいかなる意味で「ファシズム」国家だったのか、ソ連はいかなる意味で「民主主義」国家だったのか、といった疑問はただちに出てくる。
 1 中西輝政によれば、しかし、このような疑問程度では済まない。
 中西によると、「第二次世界大戦の真の本質」は、「共産主義勢力が、公然たる革命運動によっては成し得ないことを戦争や謀略によって実現しようとした」ことにある(p.296)。
 2 以下、中西の叙述の<流れ>を大掴みに紹介してみる。
 ロシア革命(1917年)により生まれた共産主義ロシアは、①「自由主義国家」の諸自由を利用して「秘密工作や謀略、宣伝」により「知識人やマスコミを反権力的・反国家的になるように煽動し」、その国の「転覆」を図る、②「自由主義国家間の亀裂・対立」に「直ちにクサビを打ち込み」、必要な場合は「自由主義国家同士の戦争や紛争を起こ」すことにより、自国を維持しようとした。
 1910年代末期にコミンテルンを創設してドイツ等で革命を起こそうとしたが失敗したためアジアに目を向け、「国際共産主義運動」のため(=ソ連防衛のため)中国共産党を設立し(1921年)、「国共合作」も実現させた(1924年)。インド独立運動に対しても積極的な(共産主義導入)工作を展開したが、これは成功しなかった。
 日本は、国際社会において、必然的に「共産主義に対する『防波堤』とならざるを得なかった」。シベリア出兵の動機も、日本の「領土的野心」ではなく、「共産主義の対南膨張」の阻止だった(以上、p.296-7)。
 アメリカとソ連に挟撃される日本、これが「大東亜戦争の本質的構造的原因」だった。新興大国・アメリカは「アジアにおける『ソヴィエトの脅威』に一切気付こうとせず」、むしろ日本の動きを「膨張への野心」・「日本軍国主義の発露」だと疑った。ここに、「戦前日本の大きな苦悩」があり、「日米関係の大きな悲劇の出発点」があった
 レーニン以来のソ連の最大の「敵視」国は、日本だった。最近接の「帝国主義」国だったし、日ロ戦争への「怨念」と「人種差別意識」があったからだ。そこで、日本を「自由主義国」の中で「最も弱い環」と見なして「日本をターゲットにしたアジア戦略」を立てた。
 日本は1925年(大正14年)に日ソ基本条約を締結し、いち早くソ連承認・外交関係の樹立をしたが、ここには「日本が一貫して、共産主義の謀略や浸透工作に主要国の中で最も鈍感」だったこと、「当時、共産主義とソ連の工作はすでに広く深く日本国内にエリート層を中心に浸透していた」ことが示されている。日本は治安維持法を条約と同時に制定したが、この条約により日本の「赤化」は「さらに急速に進」み、治安維持法は「日本の国家中枢への工作の浸透には全く無力だった」。
 治安維持法は「本質的には対外防衛、国家安全保障のための措置」だったが、「欧米の反共法」と比較すると「実質的には緩やかな」、「甚だ不備な」ものだった。「思想」のみを問題にしたため、「共産主義者の『偽装』を簡単に見逃し、『天皇制』支持を唱えさえすれば…多くの『偽装転向者』を社会のエリート層に受け入れてしまった」。このことは、日本にとって「誠に不幸な歴史の巡り合わせ」だった。
 ロシア革命後半年以内の「米騒動や過激な労働争議」の続発、「各種の過激な破壊衝動」の広がりは、日本のインテリ層・エリート層に共産主義が「進歩的」と映ったこともあるが、「大規模な対日秘密工作」という要因も大きかった。
 その工作の代表例が、尾崎秀実〔一時期、朝日新聞社員〕だ。1922年(大正11年)に日本共産党=コミンテルン日本支部が発足したが、主要な活動家の多くは、尾崎も入会した「東大新人会」で、この会等に集まった東京帝国大学の共産主義シンパの学生たちは「すぐに共産党を離れ、直接にモスクワの指令で動く工作員」になった。
 彼らの多くは昭和10年代に「革新官僚」になる。「企画院事件」も起こした。また、陸軍軍人もドイツ留学や東大国内留学(「依託学生」)によって「共産主義の洗礼を受け」、昭和10年代に「陸軍統制派」として力を奮った。代表格は池田純久で、その思想的背景の一つには、「天皇制」と「共産主義」は共存できるとの北一輝の論があつた。「軍人や高級官僚に蔓延」したかかる「思想的混迷」が日本を「あの悲劇に導いた最大の要因の一つ」だった。「当然、ソ連・中国共産党の工作はそこを突いてきた」。
 エリート軍人の多くは「直接、意識的に」コミンテルンと関係をもったわけではないが、「共産主義者」・「コミンテルン・エージェント」たることを隠した尾崎秀実のような人物の「接近を許し、無意識のうちにその工作を受け入れ、モスクワや延安の意図に沿って動かされた」者は「少なくなかったはず」だ。かかるモスクワ・延安(=ソ連・中国共産党)の工作は「各ネットワーク全体を体系的にオーケストレート(総合化)して徐々に日本を、対蒋介石そして英米戦争へと誘い込んでいった」。「満州事変前から」、かかる「大目的をもったコミンテルンや中国共産党の対日工作の影響が、日本の指導者層には、それこそ充満していた」(以上、p.298-302)。
 以上で区切って、さらに続けるが、内容的になかなか空恐ろしい叙述だ。むろん、ソ連解体前の戦後のソ連共産党や現在までの中国共産党が以上で記した時期のような「工作」を、日本と日本人(官僚、政治家、有力マスコミ関係者、有力学者等々)に対して行ってこなかった、とは言えないことは明らかだ。

0521/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋)。

 中西輝政・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)の中の最後の収載論文である「『冷戦』の勝敗はまだついていない」は、月刊正論2006年9月号(産経新聞社)が初出。その際のタイトルは「ロシア革命から現代まで日本を呪縛し続ける『悪魔』」だった。
 中西輝政「『大いなる嘘』で生き延びるレーニン主義」諸君!2007年5月号(文藝春秋)については1年余り前にこの欄で触れたことがあるが、こちらの方は上記の新刊本には含まれていない。
 いずれもコミンテルン又は「共産主義」国・者の<謀略>を扱う点では共通している。
 もともと「『冷戦』の勝敗はまだついていない」という新しい題名は、私がこの欄で書いてきた主張と同じだ。佐伯啓思が少なくとも「思想的には」<冷戦は(基本的に)終わった>と理解しているようであるのとは異なる。  「思想的には」ともかく、現実のリアルな認識のレベルでは(同じ大学・同じ研究科の)中西輝政の方が優れているのではなかろうか(誰にでも、どの研究者にも、<得意>分野というものがある、ということも分かるが)。
 上のタイトルにかかわる中西の最初の方の文章は次のとおり。
 「冷戦中の歴史責任〔中国のベトナム・インドへの「侵略戦争の責任」等〕が不問に付されたまま、六十年以上前の”歴史問題”がいまだに日本に対して突きつけられるということ自体が、実は冷戦は決して終わっておらず、『共産主義の脅威』が厳然として今も存在することを示している」(p.290)。
 私も、<「共産主義の脅威」は厳然として今も存在する>と、声を大にして主張したい。
 それはともかく、この論文での中西輝政の「共産主義」批判の言葉は厳しく、鋭い。書き写しておく価値が十分にあると感じる。
 共産主義とは何だったか。中西は書く。
 「国家や家族、私有財産を否定する共産主義は、人類の歩みそのものを否定するイデオロギーとその実現をめざす運動であり、人道や文明という人類普遍の価値に対する挑戦だった」。またそれは、「階級闘争理論を持ち込んで人間同士の絆を引き裂くという点で、社会の安定だけでなく、人間性の根幹に対する破壊的意図をもった挑戦だった」(p.292)。
 さらに中西は書く。
 共産主義は国家・家族・私有財産制を無くしさえすれば「全人類がやがて天国にいるような幸せな暮らしができるという『世界観』ないし一種の『宗教』」だった。それは「労働者階級」による「ブルジョア」階級の打倒による「資本主義」の「止揚」が「唯物論で動く歴史の必然」としたことでわかるように、「まさに『逆立ちした』議論を”科学的真理”と称した一種の『カルト宗教』」だった。それらは「言葉の真の意味で大いなる嘘だった」。その本質は「現存秩序を破壊することに目標を置く『反秩序主義』といってもよい」(p.292-3)。
 共産主義は「一種の『カルト宗教』」だ。そのとおり。日本共産党はさしづめ、世界共産「教」日本本部、または世界共産「宗」日本総本山だろうか。いや、コミンテルンはなくなったので、<自立>して、東京・代々木にあるのは、日本共産「教」本部、または日本共産「宗」総本山だろうか。
 中西は「マルクスの定式化した共産主義」は、①「十八世紀から十九世紀の始め〔初め?〕のヨーロッパに広がった急進的な革命思想」の周りに、次の二つを「システマティックかつ壮大に集大成してみせたもの」だ、という。②「イタリアで発祥した秘密結社カルボナリに始まる『謀略至上主義』の運動論」、③「『平等主義者の陰謀』事件で知られる…バブーフの『工作と陰謀』の戦術論・戦略論」(p.293)。
 さらに中西によれば、「『謀略』と『偽装』という共産主義」の第一の本質は、淵源たる「革命思想」も含めて、「自由や平等主義を掲げる『理想主義』を偽装していた」ことにある。
 第二の本質は、その「運動論の構造」にある。すなわち、「必ず『敵』を設定してそれを打倒することに大衆のエネルギーを集中するのが共産主義運動」で、そのためにこそ「階級対立」論が考え出された、「革命という目的のためには手段を選ばないマキャベリズム性」を最大の特徴とし、「道徳やモラルを政治の領域からトータルに排除」した、といったことだ。
 換言すれば、「<…ブルジョア支配階級を倒すには手段を選ぶ必要はなく、どれだけ卑劣な嘘で騙してもよい。…><自分の力が弱いときは相手をだまして利用し、力が強くなれば暴力的に抹殺する>」。かかる「人間性否定」の共産主義運動によって、「人間の絆、家族や共同体の繋がりというものを一切排除すれば、『革命』は自然に成就する」、と教えた(p.294)。
 第三の本質は、「国家の存立と覇権主義の道具」だったことにある。すなわち、スターリンは当初、「ロシアを守るために世界中の共産主義運動を利用した」。ソ連が確立すると「覇権拡大」のために「国際共産主義運動」を展開した。中国も「膨張的領土政策を採り、繰り返し他国に戦争を仕掛ける」。
 以上のような<「共産主義」論>の他にも、興味深くかつ重要と思われる指摘は多い。さらに続ける。 

0520/月刊WiLL7月号(ワック)、有村治子論文と竹田恒泰論文を読む。

 月刊WiLL7月号(ワック)。読んだ順に感想的コメントを付す。
 第一。有村治子「映画『靖国』騒動で戦犯とされた私」(p.249-)。稲田朋美の論稿や産経新聞の報道で概略は知っていたことだが、「表現の自由」を圧迫する政治介入をしたかの如き報道をされた本人の弁で、より詳細も知り、納得もいく。
 ①今回の悪玉報道機関は朝日新聞ではなく、共同通信だったようだが、朝日新聞はマトモだったのか? そうとも思えないが。
 ②田原総一朗は、立花隆と違い、少なくともほぼ全面的に嫌いではない。しかし、今回は映画「靖国」の李監督とともに記者会見をしたりして、みっともなかったようだ。立花隆のように<晩節まで汚す>ことのないように。
 ③出演者・被撮影者の同意を得ていない等、手続的にもヒドい映画のようだ。だが、この「騒動」で知名度・関心度が高まって無「騒動」の場合よりも儲けたとすれば、「騒動」自体が(「反日」と示唆すること自体が)作戦だったのかもしれない、と思ったりする(とすると、週刊新潮は巧く利用されたことになる)。
 ④山田和夫高橋邦夫の名を忘れないようにしよう。とくに高橋は、あるときは映画人九条の会・事務局長、あるときは映画労働組合連合会委員長。有村治子に対しても使い分けているらしい。しかも、1998年には東映労連副執行委員長として、東条英機を描いた映画「プライド」の上映を阻止すべく(=「表現の自由」を封殺すべく)「直接行動を組織化していた」。社会的には著名ではないが、こういう<左翼>がゴロゴロといるんだよねぇ(嘆息)。
 ⑤高橋邦夫と同様に、日本弁護士連合会(日弁連)日本共産党も<ご都合主義>のようだ。後者は当然だが、前者の日弁連を政治的に中立・公正な団体だと誤解してはいけない。結局はどういう弁護士たちが執行部・種々の部会を握っているかだが、「表現の自由を守れ」とだけ言って、「出演者の人権を守れ」という声が上がってこないというのだから、想像はつく(いや、とっくに知っている)。
 第二。竹田恒泰「西尾幹二さんに敢えて注〔忠?〕告します/これでは『朝敵』といわれても…」(p.30-)。
 西尾幹二の同誌5月号・6月号のものも読んでいる。率直に言って、全体として、竹田恒泰の<勝ち(優勢)>だと感じた。
 ①西尾幹二が「天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」(5月号p.43)とまで書いたのにはいつか記したように些か驚いたが、「天皇制度」や「廃棄」という言葉の問題は別として、「皇室がそうなった暁には」という条件付きであり、「そうなった」とは「…皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態が現出する」ということを意味している、と読める。従って、西尾による一種のレトリックで、「皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態」の現出を阻止する必要がある、というのがおそらく(どちらかというと)本意だろう。従って、最後の部分の「天皇制度の廃棄に賛成する…」だけを取り出して批判するのは当を得ていないと思われる。竹田の叙述には、そのような(やや単純な読み方をしている)気配がないではない。
 ②だが、竹田に最も共感するのは、西尾幹二が皇室のことを心配し、皇太子妃(ひいてはその父親等)の言動等を問題視したい気持ちは分からなくはないが、わざわざ月刊雑誌に<公表>することはないのではないか、ということだ。
 竹田は書く。-西尾論文を読んだ読者は皇室の将来を不安視し、マスコミは皇太子批判を乱発する可能性が大きくなるが、「不安と不信」を煽り立てても事態は「良い方向に動く」ことなく、「何も解決しない」。/西尾論文の内容が大方事実ならば「直接両殿下に申し上げるべき」だ。「東宮御所に投書する」ことも可能だし、「西尾氏ほどの言論人であれば、人脈を辿って両殿下のお手元に諫言書を届けることもできた」。「公の場」・「雑誌の記事」で非難されることは「取り返しのつかない打撃」だ。しかも、両殿下は個別の記事について「ご意見」を発する、「反論する」立場にない(以上、p.32-33)。
 以上は、そのとおりではないか。西尾幹二はいったい何を一番の目的として月刊WiLL5月号論文を公表したのだろうか。
 竹田によると、西尾は自らのブログ5/01付に「当事者が読んで心を入れ換えるなんてあり得ませんから、…もうすべてが遅すぎるのかもしれません」と書いているらしい(p.33)。また、おそらく同文が月刊WiLL6月号にもある(6月号p.77)この欄の上の方では、西尾幹二は皇室のことを心配し「…異様な事態が現出する」ことを阻止したいのが(どちらかというと)本意だろう、と書いたのだが、「もうすべてが遅すぎるのかもしれません」と言っているのなら、もはや諦めており、しかも「天皇制度の廃棄に賛成する」と主張しているのと殆ど同じではないか。そうだとすると、まさに「保守派を装った」「反日左翼」(p.30)と同然になってしまう。そして、西尾は、皇室・<天皇制度>の将来を気に懸けて、というよりも、<自分(の文章)が(世間に)目立つ>ために5月号論文を書いた、と指弾されても不思議ではないことになろう。だがはたして、西尾の本意はどうなのか。
 ③竹田の論考で教えられたのは、祭祀における天皇とそれ以外の皇族との違いだ。伊勢神宮・式年遷宮あたりのことから始まって、最近は比較的に天皇・皇室・政教分離に言及することが多かったのだが、祭祀行為における天皇と皇室の区別をしないで漠然と一括して書いてきた。この点、おそらくは正確な知識をもっているだろう竹田によると、次のとおりだ。
 「宮中祭祀は重要」だ。「天皇の本質は『祭り主』であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿」だ。しかし、「それは天皇の話」で「皇后や東宮妃の本質は『祭り主』ではない」。/皇后等の皇族が宮中祭祀に「陪席」することはあり「現在はそれが通例」だが、あくまでも「付き添い役」としてであり、新嘗祭等に内閣総理大臣が陪席するのと同様。「現在の宮中三殿」でもそのように祭祀はなされている。「大祭」に際して「全皇族方が…陪席」するのは「理想」かもしれないが、「天皇は『上御一人』であり、全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」だ。「皇族の陪席を必要」とはしないし、「皇族の一方が陪席されない」からといって「完成しないものではない」。/「歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例がある。…幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」だ(p.41)。
 竹田はさらに、東宮妃(=雅子妃殿下)が皇后になられたときにまだご病気であれば「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」、と言い切っている。
 ④竹田のものを読むと、立ち入らないが、たしかに西尾論文は<事実認定>が甘い。推測又は伝聞が多そうだ。「『適応障害』というのは…一種のわがまま病」といった文も、些か筆がスベり過ぎている感もある。
 また、竹田が現皇太子も立派な天皇になるだろう、と自信をもって書いているのも印象に残った。
 ⑤さて、月刊WiLL(花田紀凱編集長)、そしてワックは5月号、6月号でだいぶ売り上げを稼いだようだが、はたしてマスコミ・ジャーナリズムの一つとして西尾幹二論文の掲載はよかったのかどうか(とくに「保守派」の筈の雑誌・出版社として)。
 6月号では表紙には「総力特集・小和田一族と皇室」と打ちながら、中身を見ると「皇室」は話題にされていても「小和田一族」については全く又は殆ど言及されていない、という(私から見ると)<恥ずかしい>こともしている
 この<小和田一族>、とくに小和田恒を批判的に取り上げるくらいなら許されるし、私も関心をもつ。女系天皇となれば、その祖父となる人物だ。
 だが、朝日新聞社の「アエラ」がこの半年の間のいつかに「雅子さまへの公開質問状」という見出しで何やら書いていて(内容は見ていない)、「公開質問状」という表現自体が皇族の一人(かつ皇后になられる可能性のある方)に対してはやや非礼ではないか、と私は感じた。それ以上の「傲慢さ」・<非礼さ>を月刊WiLLの最近のいくつかの論文・座談発言には感じるのだが、花田紀凱編集長よ、いかがだろうか。売れればよい、というものではあるまい。
 これまでもそうだが今回のこのような私自身の叙述の中に、天皇・皇室に対する非礼な(丁重ではない)言葉遣いがあるだろうことは自覚している。また、ある時期以降、人名には現存の方も含めて「氏」・「さん」等を一切付けないことで統一したので、ひょっとして失礼な言い方になっているとすれば、ご海容を乞うしかない。

0519/<ルソー・ジャコバン型>は肯定的に評価されるべきなのか-樋口陽一。

 菅孝行は、「樋口陽一は、…、日本人は一度は強者の個人主義をくぐれ、ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれと執拗に提唱している」と書いた(同・9・11以後丸山真男をどう読むか(2004)p.88)。菅はこの提唱を意義あるものとしてその後に文章をつなげていっているのだが、樋口がかかる提唱をする本として、樋口陽一・自由と国家同・比較の中の日本国憲法の二つを示している。出版社名・出版年の記載も頁の特定もされていないないが、いずれも岩波新書で、前者は1989年、後者は1979年の刊行だ。
 上の前者は所持していないが、後者を見てみると、<ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれ>との旨を明記している部分はどうやらなさそうだ。但し、類似の又は同趣旨だろうと思われる記述はある。
 樋口・比較の中の日本国憲法p.8-10は、要約部分も含めるが、次のように言う。
 「西洋近代」を批判する者(日本人)は「社会現象としては西洋近代だけが生み出した」「個人主義のエートス」を自分にも他人にも「きびしく要求」すべきだ。/西欧と日本の「落差」は「型」ではなく「段階」のそれと見るべきだが(加藤周一に同調、p.5)、その見地に立って「西洋近代とは何かという問いを追求した代表的な仕事」は「大塚〔久雄〕=高橋〔幸八郎〕史学」や「丸山〔真男〕政治学」で、「私たちは、こういう仕事の問題意識と問題提起に、あえて何度でも、しつこくたちもどる必要がある」。(〔〕は秋月が補足)
 いつか記したことがあるように樋口陽一は丸山真男集(全集)の「月報」に一文を寄せて丸山真男を「先生」と呼んでいる。上の文章においても、大塚久雄・高橋幸八郎・丸山真男の仕事に
「あえて何度でも、しつこくたちもど」れ、と(1979年に)書いていたわけだ。私(秋月)や私たちの世代には殆ど理解できない<戦後進歩的文化人の(そのままの)継承者>がここにいることに気づく。
 上の岩波新書では<ルソー・ジャコバン型>うんぬんに明示的には言及していないように思えるが、最近にこの欄で言及した、樋口陽一「フランス革命と法/第一節・フランス革命と近代憲法」長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法/第一巻・市民革命と法(日本評論社、1989)は明瞭に、「ルソー=ジャコバン型国家像」という概念を「トクヴィル=アメリカ型国家像」と対比される重要なものとして用いている。
 もっとも、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは何かは分かりやすく説明されてはいない(丸山真男が「ファシズム」一般の定義をしていないのに似ている?)。
 樋口によると、「ルソー=ジャコバン主義」という語はフランスで用いられることがあるようなのだが、それは、<主権=政治の万能=国家とその法律の優越=一にして不可分の共和国>という脈絡で用いられている。これだけでは理解し難いが、1789年の否定・1793年〔ジャコバン独裁期-秋月〕の「ブルジョア革命」逸脱視を意味するのではなく、フランス近代法の「個人対集権国家の二極構造のシンポル」としてのそれらしい(以上、p.130-1)。要するに、<近代的>「個人」と(中央集権的)国家の対立(二極構造)を基本とするフランス的意味での<近代的>国家観のことなのだろう。
 別の箇所では、「ルソー=ジャコバン型国家像」は、フランス第三共和制(1875~)以来、「一般意思の表明としての法律の志高性」の観念のもとで「徹底した議会中心主義」の形態で実定化それてきた、ともいう(p.132)。
 大統領制との関係・差違は問題になりうるが、結局のところ、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは国家と個人の対立構造を前提とした、「一般意思」=「法律」→法律制定「議会」(→議員を選出する者=「個人」(国民?、人民?、民衆?)を尊重又は重要視する、(フランス的)国家理念(像=イメージ)なのだろう。
 それはそれでかりによいとして、だが、かかる国家像をなぜ<ルソー=ジャコバン型>と呼ぶことに樋口陽一は躊躇を示さないのか、ということが気になる。今回の冒頭に示した菅孝行の言葉によっても、樋口は<ルソー=ジャコバン型>を消極的には評価しておらず、むしろ逆に高く評価しているようだ。
 そのような概念用法自体の中に、看過できない問題が内包されているように見える。

0518/文芸評論家らしい山崎行太郎を嗤う-曽野綾子・「集団自決」の真実(ワック)。

 山崎行太郎のブログサイトを再度訪問したいとは思わないので、5/16付のこの欄から、山崎の5/12付ブログ発言の一部を再引用する。
 「曽野氏が、判決直前まで、保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していたことは、もはや、誰でも知っていることであって、この『罪の巨魁』発言に頬かむりして、…その問題の著書『ある神話の背景』を発売し続けるということは、出版ジャーナリズムの原理原則から見ても、許されることではないだろう」。そして、山崎は、<曽野綾子誤読事件>という別の名称を考案?していた。
 曽野綾子が「保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していた」とはいったい何を指しているのか?
 少なくとも、曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島/「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった(ワック、2006.05)の内容の一部を含めているように推察される。
 ようやくこの本を見つけ出して確認してみた。斜め読みをして「巨魁」・「巨塊」に関係する部分を見つけた(p.295-6)。第一に、曽野綾子は正確に「巨塊」と、大江健三郎の文章を引用している。「…〔前略-秋月〕そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)〔原文ママ〕」と引用している(曽野・p.296)。
 第二に、曽野は大江の上の文章を引用したあと、「このような断定は私にはできぬ強いものである。『巨きい罪の巨塊』という最大級の告発の形を使うことは…不可能である」と述べ、その「二つの理由」を記している。
 どうやら、「最大級の告発の形」と書いていることが、「巨きい罪の巨塊」を<巨きい数の死体>と正しく理解していない(誤読している)証拠だと山崎は主張したいように見える。だが、さほどに明瞭な表現を曽野はしているわけではない。
 また、かりに山崎の主張に当たっている所があるとしても、5/16付のこの欄で書いたように、「曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解するのが常識的な読み方だ。私もそう読む」(なお、上記のように、「曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解する」という部分は曽野において必ずしも明瞭ではなく、私が単純化しすぎている可能性がある)。また、既述のように、「巨きい罪の巨塊」という一種の語義反復は日本語としてありうる。大江はこれを『文法的』誤りだったと恥じる気になり、〔後になってから〕無理やり後半分は『死体』のことだとこじつけたのではないか」、と考えられる。
 上の段落の第二文・第三文を除いたことの趣旨は、5/16付でも言及した、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」月刊正論4月号(産経新聞社)でも明確に語られている。-山崎行太郎の論文(私・秋月は未読)を読んで調べてみたが、「そもそも曽野氏が『罪の巨塊』を『罪の巨魁』と読み違えたとの論証はどこにもありません」、「曽野氏の文章において『巨塊』を『巨魁』と混同した箇所はどこにもみあたりません」(p.218)。
 そして徳永信一(対大江等損害賠償請求訴訟原告代理人弁護士の一人)が言うように、曽野の本の一部を渡部昇一が誤読又は「単なる引用ミス」した理由を探るならば、曽野の誤読に原因があるのでは全くなく、「難解さで鳴らす大江氏の悪文に原因がある」(p.218)と言うべきだろう。
 なお、おそらく誤読というよりも「単なる引用ミス」をしているのは、曽野綾子ではなく、曽野の上の本の「解説」を同じ本の末尾に書いている石川水穂(産経新聞論説委員)だ。同書p.332には、大江は「あまりに巨きい罪の巨魁」などと指弾していた、という文がある。店頭でも確認したが、2007年11月第6刷でもそのままだ。出版元・ワックは今からでも訂正したらどうか。
 元に戻ると、山崎行太郎とやらのいう<曽野綾子誤読事件>とはいったい何なのか? 曽野綾子が「保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していた」とはいったい何を指しているのか?
 山崎は大江健三郎を「護り」たいと思うがために、原告・元隊長らを傷つけることとなる言動をしていることは明らかだが、名誉毀損・誹謗中傷の対象をさらに拡げるべきではない。といっても、<奇矯な>人には真っ当な言い分は理解できないかもしれない。

0517/菅孝行ブックレットにおける丸山真男と樋口陽一。

 一 反天皇主義者らしい著者による菅孝行・9・11以後丸山真男をどう読むか(河合出版・河合ブックレット、2004)は、丸山真男を分析し部分的には批判的なコメントを付してはいるが、全体としては、丸山真男の問題関心・分析を受けとめ、<右派>の批判から丸山真男を<戦後民主主義>を標榜する代表者として<護る>というスタンスの、<政治的>プロパガンダの本だ。
 1 「多くの丸山非難言説に反対して、擁護の立場に立たなければならない」(p.70)を基本的立場とし、佐伯啓思西部邁の名をとくに出してこの二人をこう論難する。
 「国家主義的視点から丸山の進歩主義や左翼性を非難する…」、「丸山を非難したい、と決めた彼らは自分のアタマの中に、勝手放題な丸山の像を歴史的な文脈も事実関係も無視して描き出し、レッテル貼りをやってのけた…」(p.79-80)。
 佐伯啓思・西部邁の主張・論理(図書新聞と新潮45の紙・誌上のようだ)が簡単にしか紹介されていない(p.48-49)ので論評しようもないが、菅孝行のこういう反批判の仕方は、きっと同様の論法で反論されるだろう。つまり、<丸山を擁護したい、と決めた菅孝行は自分のアタマの中に、勝手放題な丸山の像を…>という具合に。
 2 菅孝行によると、「戦後丸山は、マルクス主義が生み出すであろうと当時予測されていた政治的現実への必然性と正当性を意識しつつ、認識の問題や政治倫理の問題としてはこれに抵抗して独自の立場を保持するという二面作戦をとった」(p.63)。
 これはおそらく適切な指摘だろう。「当時予測されていた政治的現実への必然性と正当性」とは<社会主義への移行>の「必然性と正当性」であり<革命」の「必然性と正当性」だった。丸山真男はこれを肯定しつつ、ファシズム(の再来)かコミュニズム(社会主義・共産主義)か>という選択を前にすれば、当然の如く後者を採った人物だと思われる(=「反・反共主義」)。一方で、組織的・運動的には岩波「世界」等に活動の場を求めることによって、政治的セクト・「党派」性の乏しいイメージの<進歩的文化人>として、日本共産党員たることを公然化していたような<進歩的文化人>よりも、より大きな影響力をもったのだと考えられる。
 二 主題である丸山真男のことよりも関心を惹いたのは、菅孝行がときどき樋口陽一に言及していることだ。しかも共感的・肯定的に。
 1 「普遍的人権論や人間中心主義」への疑念を列挙したうえで、なお樋口は「『近代』を擁護するだろう」、と書いた。樋口は「『虚構』の『近代』の『作為』を有効とみなしている」。「丸山の軌跡の延長に樋口の立場があ」る(以上、p.25-26)。
 2 樋口陽一は「日本人は一度は強者の個人主義をくぐれ、ルソー・ジャコバン型民主主義をくぐれと執拗に提唱している」(p.88)。
 聞き捨てならないのは上の2だ。続けて菅孝行自身はは次のように主張する(「喚く」)>-樋口の「提唱に意味があるのは、丸山の構想した『自由なる主体』が成立してないままに戦後五二年が経過してしまったから…。決着がついていないなら何十年でも何世代でも延長戦をやるしかないではないか」(同上)。
 上の「自由なる主体」は、1946年の丸山真男「超国家主義の論理と心理」に出てくる。-「八・一五の日は…、国体が喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民…」(丸山・新装版/現代政治の思想と行動(未来社、2006)p.28)。
 丸山真男の議論はさしあたりどうでもよい。
 丸山の「自由なる主体」とはおそらく<西欧近代>流の<自立した自由な(主体的)個人>を意味するのだろう。だが、冗論は避けるが、菅孝行は勝手に「何十年でも何世代でも延長戦」をやるがよいが、おそらく確実に、<勝てる>=<西欧近代>的な<自立した自由な(主体的)個人>に日本人がなる日、は永遠に来ないだろう(日本人が西欧人になれる筈がないではないか。別の回に書くが、「永遠の錯覚」)。
 気になるのは、菅孝行などよりも、樋口陽一だ。樋口陽一とは、私が想定していたよりも、遙かに<左翼>又は<親マルクス主義>者のようだ。回を改める。

0516/日本共産党系学者による、講座・革命と法(日本評論社、1989-)。

 日本共産党がその勢力・「大衆的人気」のピークを迎えた頃、1976年から1980年まで、日本評論社から天野和夫=片岡曻=長谷川正安=藤田勇=渡辺洋三編・マルクス主義法学講座全八巻が刊行されたことはすでに触れた。編者は全員が日本共産党員だと見られることは既に述べたと思うし、所持している巻のかぎりでは、非又は反・日本共産党派の法学者は(かりにいたとしても)執筆者に加えられていない。また、現社長の林克行が編集担当だったようであることは、最終刊の第五巻に触れたときに記した。
 第一巻・第三巻・第五巻・第六巻については、目次・執筆者程度のそれらの内容を、すでに紹介した。
 その後の日本共産党の退潮あるいはひょっとすれば法学界内部での日本共産党系マルクス主義者の減少によって、類似の企画はなかったかと思っていたが、どっこいそうではなく、上記の編者のうち三人、すなわち長谷川正安・渡辺洋三・藤田勇を編者として、1989年から講座・革命と法というのが、やはり日本評論社から出版されていることを知った。
 各巻のタイトルは、第一巻・市民革命と法、第二巻はフランス人権宣言と法、第三巻は市民革命と日本法。第一巻は、1989年の7月に、第二巻は1989年の11月に出版されている。「人権宣言200年記念」と謳われているとおり、1789年のフランス革命から200周年を記念としての企画だったと思われる。だが、その年にベルリンの壁が崩壊し、翌々年には「社会主義」ソ連邦も解体してしまうとは、企画者・編集者・執筆者はきっと想像もしていなかっただろう。
 さて、第一巻の目次前の「刊行の言葉」(第二巻でも共通)で、編者たちは三名連名で例えば次のように書く。-「ここでは、『革命』という…概念を、なによりもまず『ある階級の手から他の階級の手への国家権力の移行』(レーニン)として理解する」。「マルクス『経済学批判』序言にいう『社会革命』の問題が想起される。ここでは、土台と上部構造の全体、すなわち、社会構成体の構造的転換が『社会革命』としてとらえられている」。
 また、第二巻の序説を担当して藤田勇は例えば次のように書く。-「ロシア革命はフランス革命とその『伝記』を世界史的に蘇らせた」。「ブルジョア革命をのり超えたものとしての社会主義革命を称揚するという文脈」でだけではなく、「社会主義革命の遙かな水源を開いたという理論的意味づけ、世界史の運動における『革命』…の意味づけにかかわってのフランス革命の蘇り」だった。「じつはフランス革命は、近代ブルジョア社会の批判思想としての社会主義(共産主義)思想の起点をなしている」。「フランス革命二〇〇年は、近代社会主義史をその不可分の構成部分とする」。
 藤田勇は「社会主義」ソ連邦が解体したあとも「社会主義(共産主義)」や「ロシア革命」についてこう書いたのだろうか。のちの日本共産党の公式見解―ソ連は「社会主義」国家ではなかった―とは違って藤田はロシア革命を「社会主義」革命と理解しているようであることも興味深いが、のちにはロシア革命=「社会主義」革命は間違いなく正しいが、この道を誤らせた(「社会主義」でなくした)のはスターリンだった、とでも書くのだろうか。
 それにしても、化石のような、というか黴が生えたような、マルクス主義「教条的」な文章を久しぶりに読んだ。
 なお、上の藤田の文に見られるように、フランス革命はロシア革命の「水源を開いた」ものと理解されていることに注意が向けられてよい。かつて、あるいは現在もなお、フランス革命を「賛美」し積極的に肯定的評価を下した(している)者の多くは、少なくとも気分としては、ブルジョア資本主義社会→労働者中心の「社会主義」社会という<進歩的>・<発展段階的>歴史観を抱いていたことは隠れもない、と思われる。
 以下、上の講座の第一巻と第二巻の章・節等と執筆者名を記録しておく。マルクス主義法学講座の執筆者は自ら「マルクス主義」者であることを自認していたと思われるが、こちらの方の執筆者は全員がそうではない、と思われる。しかし、<親>マルクス主義(かつ親・日本共産党、少なくとも<反・反日本共産党>)の者であることは疑い難いものと思われる。所属は発刊当時。加藤哲郎は法学者ではなさそうだ。
 第一巻 第一章「イングランド革命と法」-戒能通厚(名古屋大学)
 第二章「アメリカ革命と法」-望月礼二郎(東京大学)
 第三章「フランス革命と法」
  第1節「フランス革命と近代憲法」-樋口陽一(東京大学)
  第2節「フランス革命と近代私法秩序」-稲本洋之助(東京大学)
  第3節「フランス人権宣言と刑事立法改革」-新倉修(國學院大学)
 第四章「ドイツ革命と法」
  第1節「フランス革命期の人権(基本権)思想」-石部雅亮(大阪市立大学)
  第2節「『法による社会変革』と法律実証主義」-広渡清吾(東京大学)
 第二巻・序説・第一章「フランス人権思想と社会主義思想」のうち「はじめに」・第3節以下-藤田勇(東京大学)
 第一章の第1節・第2節-鮎京正訓(岡山大学)
 第二章「ロシア革命思想における法の観念」-大江泰一郎(静岡大学)
 第三章「東欧革命における民主主義の問題」
  第1節・第2節-早川弘道(早稲田大学)
  第3節-竹森正孝(東京都立短期大学)
 第四章「社会主義と『政治的多元主義』」-小森田秋夫(東京大学)
 第五章「フランス人権宣言と第三世界」-鮎京正訓(岡山大学)
 第六章「フランス人権宣言と現代の『民主主義革命』」-加藤哲郎(一橋大学)
 以上。これらのうち若干のものについては、論及する機会を別にもちたい。何度か言及した、憲法学者・樋口陽一も上記のとおり、執筆者の一人だ。

0515/中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)を読む。

 中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)新刊。といっても、計13の個別論考は2005.07~2008.05に文藝春秋(月刊)、諸君!(文藝春秋)、月刊・正論(産経新聞社)にいったん掲載されたものだ。但し、「まえがき」によると各稿について「尚若干の補筆」をしているらしい。たぶん殆どを既に読んだことがあるように思うが、「補筆」の内容、初出論文との違いを逐一確認する暇はない。
 1 「まえがき」の中で中西輝政は、「本音」・「理性」では(日本は)「正直言って、『もうここまで来たら……〔原文ママ〕』という結論めいた所」に落ちつく、「理性では、もう殆ど結論に達している」と述べている。これは、<今のままでは日本は「自滅」する>あるいは<いずれ日本は「日本」でなくなってしまう>という趣旨だろう。
 だがこんな本を出版するのは「私も『日本を信じている』からである」、と中西はいう。
 中西輝政にこんな弱音?と「ぎりぎり『日本を信じる』ことの大切さ」という精神論を語られると、率直に言って<気が滅入る>。
 だが、安倍晋三内閣の崩壊という「第三の敗戦」(上掲書p.74)のあと、明るい見通しを得る特段の材料もなく、このままズルズルと<何となく左翼>・<何となく反権力>の勢力(むろん中核には日本共産党、「政治謀略」朝日新聞、「左翼」学者・文化人らがいる)が日本全体を覆ってしまいそうで、怒り・憤懣を通り越した静かな諦念を感じるほどだから、中西の言葉に反対するわけにもいかない。私も「日本を信じる」ほかはないか?
 2 文藝春秋2007.11の「小泉純一郎が福田を倒す日」が「誰が『安倍晋三』を辞任に追い込んだのか」というタイトルに改められて収載されている(p.55~)。
 初出とどう変わったかを確認しないままたぶん再び読んでみると、新しいタイトルの問いの答えは次のようだ。
 ・安倍首相は小泉純一郎の如き「闘技(ゲーム)」ではなく「本当の戦い」を口に出したため、「国民のサディズム」によって倒され、「わが身を血に飢えた観衆」に差し出した。「政治を楽しみたい人々」には「憲法改正や教育基本法改正」は「抹香臭く、余りにも『場違い』」で、「しかも、年金という名の『パン』さえ、ろくに配られないことが発覚すると、大衆の怒りは頂点に達した」(p.57-58)。
 まず第一に「国民」・「大衆」・「観衆」・「政治を楽しみたい人々」が挙げられているのだろう。
 中西はこの箇所では書いていないが、「剣闘士の血みどろの闘い」に喝采する(「劇場型」から進化?した)「コロシアム型政治」の「大観衆(p.56)を特定方向へのムードへと煽り、酔わせたのは、主権者「国民」(=大観衆)に最も寄り添うことを自負する「政治謀略」朝日新聞を筆頭とする(反安倍で一致した)<左翼>マスメディアだった。別の箇所には次のようにある。
 ・「小泉クーポン選挙の大いなる負の遺産である『血に飢えた観衆が待ち構えて」いたし、「『朝日新聞』を先頭にメディアの大半は団塊左派の『反安倍世代』が牛耳っている。これではとても長期政権は望めない」(p.68)。
 「団塊左派」という言葉は誰がいつから使い始めたのだろう。些か分かりにくいが、とりあえず第二は、「朝日新聞」等のメディアだ。
 ・郵政民営化を否定する平沼赳夫の自民党復党を許そうとした安倍首相・麻生太郎幹事長は、小泉純一郎にとって「許すべからざる叛徒」になった。小泉が自分の後継者・安倍の「首をとらせてもよい」との「最終的な決断」をしたのは、この平沼復党問題が大きい(p.60)。
 第三は小泉。この中西の指摘どおりだとして、小泉はいつその「最終的な決断」をしたのだろうか。すでに2007参院選の前なのか、もっとあとでか?
 ・「最大の反安倍勢力であり、勝者となったのは、霞が関の官僚」だろう。安倍首相は公務員制度改革に乗り出し、「天下り」問題という「虎の尾を踏んだ」(p.66-67)。
 第四に(順番は影響力の大きさの順ではなさそうだ)、<霞が関の官僚>。
 要約的引用はしないが、第五に挙げられているのは、「ワシントンとくに国務省周辺の意図」だ(p.69)。テロ支援国家指定解除・国交正常化の可能性を追求するアメリカ(の一部勢力)にとって「北朝鮮強硬派の安倍」は邪魔だった、というわけだ。
 以上。タイトルが変えられているように、中西のこの論文は他にいろいろなことを書いており、とくに「小泉純一郎の再登場」の必然性を強調しているのが目につく。
 ブログらしきものを書き始めたのは、安倍晋三が小泉後の首相の有力候補になった頃だった。あれから2年は経つ。その間に安倍内閣が成立し、崩壊した。安倍晋三が復活(復権?)するかどうか、中西は「すべては今後の身の処し方にかかっている」、という(p.72)。

0514/大原康男の本を読み続ける。戦争と「朝日新聞」らの世論、「十五年戦争」。

 一 大原康男・天皇-その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)をさらに読み続けて、p.188まで。
 1 戦前は天皇・皇室自体に固有の財産があったようだが、戦後は三種の神器・宮中三殿・微少の有価証券類を除いて、皇居・御用邸・陵墓等は国有財産となった。国有財産のうちの行政財産のうちの皇室用財産だ〔他に公共用財産・公用財産等の種別がある〕。大原・上掲書の「戦後の皇室の民主化を問う」によると、昭和62年(1987年)の「内廷費」総額は約2億5700万円(p.154)。この費用で一般の「祭祀」は行われるが、「仄聞するところによれば、祭祀費のやりくりも決して楽ではないとのこと」(p.155)。英国・エリザベス女王の財産は7600億円、チャールズ皇太子のそれは770億円で、別途国家からの王室費も計上されているとか(p.154)。
 2 上の本のうち「昭和史の教訓―政治と軍事と」によると、杉森久英はエッセイ集(『昭和史見たまま』)の中で、昭和10年代の「軍国主義全盛」は「第一次大戦後の戦争反対、軍事否定、軍人蔑視の風潮がみずから招いたものだといえなくもないだろう」と書いた。第一次大戦後の欧州を席巻した戦争嫌悪・平和主義の気分が日本にも及び、「軍縮」が「世論の圧倒的支持の下」で断行された(p.175)。
 軍人だった武藤章は、第一次大戦の中頃からの世界での「軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌」を「日本国民」は「日本軍人」に対して向けた。軍人に「嫌悪の眼をむけ」、ときには「露骨に電車や道路上で罵倒した」とのちに書いた(p.176)。
 また、杉森久英は満州事変以降は「冬の時代」の「屈辱と怨念」を晴らす「軍人の復讐」だと書いた、という(p.177)。
 <大正デモクラシー>の中にあった「ゆき過ぎた反軍感情」等を大原は問題にしている。そして、「滔々たる平和主義・厭戦思想・反軍感情の奔流」を前に、軍の立場は弱くなり、かつ政党も政治家も「政治と軍事との関係、国務と統帥との関係、政略と戦略との関係」を根本的に見直すことを怠った、旨を述べている。
 <天皇論>からある程度離れるが(「統帥権」問題では関係する)、上のようなことは戦後日本の「平和主義・厭戦思想・反軍感情」(の「滔々たる」「奔流」?)についてもある程度は示唆的だ。すなわち、軍事を知らずして、軍事を忘れて(=軍事・軍人をバカにして)、平和を語れるのか?、平和を維持できるのか?、ということだ。
 二 ところで、第一次大戦後の日本の「世論」は<戦争嫌悪・平和主義の気分>で、「軍縮」も圧倒的に支持したようだが、北岡伸一・政党から軍部へ/日本の近代5(中央公論新社、1999)によると、1931年の満州事変勃発後のある時点では「世論の方が前に出つつあり」、関東軍はそれをうまく利用した(p.162)。また、より一般的に「『大阪朝日新聞』に代表される進歩的と目される新聞まで、一斉に事変を支持」していた。
 反対にせよ賛成(支持)にせよ、「世論」とそれを形成する新聞等のマスコミの影響力は怖ろしいものだ。かつての満州事変以降の事変や戦争につき、朝日新聞他人事のように断罪し、政府・軍部要人の<責任>を糾弾しているが、かつての自らも<戦時体制>の中にいたことを忘れてもらっては困る。
 三 さらに離れるが、マルクス主義的歴史学者を中心に、満州事変開始(1931.09.18)から1945年の八・一五の敗戦詔勅(又は9月の降伏調印?)までを「十五年戦争」と呼ぶことがある。実際には14年間足らずしかないのだが。
 もっとも「十五年戦争」という語は一般化してはおらず、上の北岡伸一著は使っていない(索引にもない)し、有馬学・帝国の昭和/日本の歴史23(講談社、2002)も同様だ。また、あの?岩波書店による岩波新書の加藤陽子・満州事変から日中戦争へ/日本近現代史⑤(2007)ですら、「十五年戦争」という語は使っておらず、索引事項にもない(但し、私は「支那事変」のことを「日華事変」と習った世代だが、今は1936年以降は「日中戦争」と称することが多いようだ)。
 しかるに、先日言及した、デアゴスティーニの昭和タイムズの昭和6年号(第30号、2008/5/13号)は、満州事変について「15年戦争の発端となった関東軍の一大策略」との大きな文字の見出しで記述している。
 デアゴスティーニのこの雑誌(冊子?)は、いったいどういう傾向の歴史専門家が文章を書き、特定の概念を使っているのだろうか? 歴史専門家が書いているのではないとすれば、記述者はいったいどんな書物を読んで文章をまとめ、見出しをつけているのだろうか。
 大原の皇室論からだいぶ離れたが、<左翼>は気味が悪く、怖ろしい。映画にも本にも冊子にも(むろん新聞にもテレビにも)何食わぬ顔をして棲息している。

0513/大原康男・天皇―その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)を半分読んだ。

 曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島-「集団自決」の真実(ワック、2006)は所持している筈で、(小林よしのり・山崎行太郎にかかわって)現物を見て何か追記する必要を感じているのだが、何故か手元周辺に見つからない。
 大原康男・天皇―その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)をp.140まで、約半分を読んだ。
 1985年に初出の「戦後天皇論の変遷」(上掲書第一章の4節)によると、戦後占領期の「反天皇論」は大別して二つあった。一つは「講座派」マルクス主義に立ち「封建的絶対君主制の一種」等と捉える、羽仁五郎、井上清、伊豆公夫、戸田慎太郎、神山茂夫ら。もう一つは、「啓蒙主義的傾向の強い一部リベラリスト」によるもので、「本質的に民主主義と両立しない」と断言した横田喜三郎(当時東京大学法学部教授(国際法)、のち最高裁裁判官-秋月)、共和制憲法案を作った高野岩三郎ら。そして、大原によると、丸山真男は「両者をつなぐ思想的接点のような位置」にいた(p.75-76)。
 その後「今日」(=1985年)までの議論状況をみて、大原は次の三派?に分けている。第一は天皇制度「肯定・支持派」で、福田恆存、村尾次郎、清水幾太郎、戸田義雄、黛敏郎、江藤淳、渡部昇一、村松剛、小堀桂一郎、第二の「否定・廃止派」は、いいだもも、野坂昭如、松浦総三、渡辺清、菅孝行、松浦玲、第三の「積極的に肯定」もせず「はっきり否定もしない」「中間派」は、山本七平、佐藤功(憲法学者-秋月)、和歌森太郎、橋川文三、松本健一
(p.84)。
 以上あくまで大原による。山本七平や松本健一は「中間派」なのかという感想も残るが、とりあえず、参考にしておこう。とくに松浦総三、菅孝行
あたりはときにその名を目にすることがあるような気がするので。
 その大原は天皇(制度)に関する本を100冊選んで紹介しているが、その一つに
菅孝行・天皇制ノート(田畑書店、1975)を挙げ、次のように紹介・論評する(p.108)。
 「現在」(=1985年当時)「もっとも熱心に反天皇キャンペーンを実践している」著者の代表著。「反天皇論者」は殆どが「戦前の天皇制に対する怨念を原体験としてもっている」が、「純然たる戦後世代」。「その情熱はどこから出てくるのか」。
 以上のような論者の分布?に関心をもつほかは、大原の主張の内容は殆ど又はおおむね理解できる。天皇の祭祀行為を「私的行為」として皇室経済法上の「内廷費」で負担するのは奇妙だ等とこれまでこの欄で書いてきたが、私ごときが思う(思いつく)又は考える(考えつく)程度のことは、すでに誰かがもっと正確にかつ説得力をもって書いて(主張して)いるものだ、という想いをあらためて持たざるをえない。
 「皇室祭祀こそ象徴天皇制を支える真の基盤である。皇室祭祀が単なる皇室の『私事』に非ざることは、もはや明白であろう」(p.140)。

0512/宗教・政教分離・大嘗祭あれこれ-大原康男・小堀桂一郎らの論述。

 一 ドイツでは、市町村又は基礎的自治体のことを「ゲマインデ(Gemeinde)」というらしい。「ゲマイン」という部分は、ゲマインシャフト(Gemeinschaft=「共同体」)とも共通する語頭だろう。
 この程度の知識をもってドイツの標準的・平均的な国民の一人と思われる某人とドイツ滞在中に話していたら、その人は「ゲマインデ(Gemeinde)」という語で連想するのは、まずは「教会」だ、という旨を言ったのでやや驚いた。あとで、ドイツの(小さくとも美しい又は可愛い)「ゲマインデ(Gemeinde)」にはたいていは街の中心部の広場に面して(プロテスタント系の?)教会が存在していて、すぐ傍らに役場もある、したがって、地域自治体(「ゲマインデ」)の宗教的拠点又は一種の霊的(聖的)な集会場所として、「教会」は「ゲマインデ」を連想させるのだろう、などと漠然と考えていた。
 二 田中卓=所功=大原康男=小堀桂一郎・平成時代の幕明け-即位礼と大嘗祭を中心に-(新人物往来社、1990)の共著者の4つの論文を殆ど読了した。上のようなことを書いたのも、<宗教>にかかわって、何となく連想してしまったから。
 1 大原康男「政教分離をめぐる問題」によると、①最高裁が津地鎮祭訴訟判決(1977.07.13)で国・地方公共団体も「一定の条件のもとで宗教と関わることができるという限定的分離主義」(「目的効果基準」等を用いた個別的・実質的判断)を採用したにもかかわらず、「完全分離主義の誤った解釈を今なお憲法学者とマスコミがあきもせず墨守している」(p.123、p.127)。
 この指摘のとおりだとすると、「憲法学者とマスコミ」の責任は重大だ。政教分離原則違反を原告が主張する訴訟の多さも、「憲法学者とマスコミ」に支えられ、又は煽られているのかもしれない。
 また、大原・同上によると、②占領中の1951年に貞明皇太后(今上天皇の祖母・昭和天皇の母)が崩御されたあと、皇室の伝統・慣例により(戦前は法令の定めがあったので事実上はこれに則り)神道式で、国費で支弁して「国の儀式」として「事実上の準国葬」として御葬儀が挙行された(p.115-6)。1949年11月に当時の参議院議長・松平恒雄(会津松平家・秩父宮妃の父)が逝去した際の葬儀は「参議院葬」として(つまり国費を使って)「神式」で行われた(p.121)。1951年に幣原喜重郎(元首相・前衆議院議長)が逝去した際の葬儀は「衆議院葬」として(つまり国費を使って)「仏式」(真宗大谷派)・築地本願寺で行われた。同じく1951年、長崎市名誉市民・永井隆が逝去した際の葬儀は長崎「市民葬」として(つまり市費を使って)「カトリック式」・浦上天主堂で行われた。これらにつき、GHQは何もクレームを付けなかった(松平恒雄の葬儀ではマッカーサーは葬儀委員長あての哀悼文すら寄せた)(p.115-6、p.121-2)。大原による明記はないが、マスコミ・国民もこれらをとくに問題視しなかったと思われる。
 しかるに、と大原は今上天皇による大嘗祭ついて論及するが、尤もなことだ(但し、大嘗祭は「宗教上の儀式」との理由で「国事行為」とはされなかったが、「私的行為」とされたわけでもなく、皇位継承にかかわる「公的性格」があるとされ、皇室経済法上の「宮廷費」から費用が支出された、ということも重要だろう。p.136-7の資料(政府見解)参照)。
 そして思うに、<南京大虐殺>が戦後当初、東京裁判の際もさほど大きくは取り上げられなかったにもかかわらず、のちに朝日新聞の本多勝一のルポ記事によって大きな<事件>とされ<政治・歴史問題>化したのと同様に、<政教分離>問題の浮上も、戦後当初は(国家と宗教の分離には厳格だった筈のGHQ占領下ですら)大きな論争点ではなかったのに、一部の<左翼>や「政治謀略新聞」・朝日新聞等が<政治・憲法問題>化するために騒ぎ立てた(?)ことによるのではないか、という疑念が生じてくる。
 2 小堀桂一郎「国際社会から見た大嘗祭」は君主・国王をもつ外国各国における<国家と宗教>の関係につき有益だ。
 但し、①折口信夫による「天皇霊」という概念を持ち出しての大嘗祭の性格づけ(p.157~)は不要ではないかと、素人ながら、感じた。第一義的には天皇・皇室自体が判断されることだが、皇祖・天照大神に新しい食物(その年の新しい収穫物による米飯)を捧げ、かつ新天皇も同じそれを食すること等によつて<一体化>をシンボライズする、天皇家と「日本」国家の「歴史」を継承するための<歴史的・伝統的な>儀礼なのではないか(不必要に「秘儀」化することもないだろう)。
 ②「宗教的」とは何か、とはまことに重要な問題だ(p.171)。あらためて、日本国憲法20条等がいう「宗教」あるいは「宗教活動」の厳密な意味を問いたい。小堀は西洋近代の「宗教」概念と「日本古来の祭儀儀礼…」は同じではない、キリスト教・イスラム教・仏教それぞれに特有の「宗教的」な面があるとしても「平均値をとってすむような、普遍的概念」としての「宗教的」なるものはない、と述べる(p.170-1)。これらは正鵠を射ている指摘だろう。
 宗教を、あるいは神道を(反「神道」意識→反<天皇制度>感情)、政治的闘いの道具にするな、あるいは社会的混乱を生じさせるための手段として使うなと、ある種の政治的活動団体に対しては、朝日新聞も含めて、言いたい。

0511/<左翼>は気味が悪く、かつ執拗だ-「ネット戦略」。

 やや古いが、月刊Will4月号(ワック)の那須陽一「保守陣営のネット戦闘力を高めよ」(p.210~)は、あまり扱われないが、しかし重要な問題を提起している。私に責任の一端があろう筈もないことなのだが…。
 この那須論稿は、「保守陣営」のコンセンサスを形成して「ネット上での『戦闘力』を高め」る必要性を、かなりの切迫感をもって主張している。
 例として「集団自決」・「南京大虐殺」をネット検索して見ると上位に<左翼>のサイト等がずらりと並ぶ、保守系学者(人名)を検索すると批判的・揶揄的サイトが上位に出てくる、保守系学者の本に関する某通信販売大手サイトの書評欄には「人格批判」も含む批判的・消極的評価が書き込まれている……、という状況を憂いているわけだ。
 私も同様の経験をしたことがある。
 Wikipediaだって、信用が置けるとは限らない。ついさっき覗いてみたら、かつてと違って大幅に削除されていたが、かつて見たときは、長谷川正安らとともに「マルクス主義法学講座」(日本評論社)の編者でほぼ間違いなく日本共産党員と見られる<渡辺洋三>について、「リベラルな学風…」とか書いてあった。何が「リベラル」だ、マルクス主義者そのものではないか!、と感じたものだった。
 また、某通信販売大手サイトの書評欄についてはつい先日も、上に書かれてあるのと同様のことを経験した。
 書き込みばかりとは限らない。具体的に何の事項だったか忘れたが、ネット上でも閲覧可能な「Microsoft エンカルタ総合大百科」で調べていて、どうも<左翼的>な記述だと感じたことがあった。いや正確には、Microsoftの出自からして<アメリカ史観>にもとづく記述だったかもしれない。つまり、アメリカに都合が悪いような叙述・説明はしていない、と考えられるのだ。
 広げれば、何気なく使われている国語・日本語辞典類だって、歴史的又は政治的な言葉については何らかの<偏向>がある可能性がある。
 また、現在隔週刊行中の、デアゴスティーニ・ジャパンによる『昭和タイムズ』だってそうだ。細かい事実の確認には役立つと思えるが、個々の事件の位置づけや評価には首を傾げることがある。
 例えば、①1970年(昭和45年)号の11/25<三島由紀夫自殺>の項。上の隔週ムック?は「奇行か英雄的行為か…クーデター失敗で天才作家自決!」という見出しを立て、防衛庁長官のほか「新聞も『時代錯誤のピエロ役』と一様に冷静な反応」、米紙は「…『ハラキリをする』と一面で掲載し」、ソ連紙は「『日本は軍国主義の道を歩みつつある』と強い懸念を表明した」、で終えている。
 三島由紀夫自決事件について種々の見方はあるだろうが、これは些かヒドいのではないか。三島の当日の<檄>の内容は全く無視し、「新聞も『時代錯誤のピエロ役』と一様に冷静」、等とは。また、扱う分量も写真を含めて1頁の1/3程度にすぎない(他に表紙を除く第1頁に頁の1/6ほどの当日の三島由紀夫の写真)。
 ②1949年(昭和24年)の号。詳しくは書かないが、この年の事件・事象のうち日本共産党に関係があるものについて、同党に<優しすぎる>。例、6/27「労働者の誇りを胸に・『赤い引揚者』がシベリアから帰国」(1頁の1/4)は見出しからして好意的、4/04「レッドパージ」については日本共産党に同情的又は同党は被害者的ニュアンス、国鉄関係三大鉄道怪事件について、少なくとも日本共産党に批判的ではない4頁分の長い記述。
 デアゴスティーニの母国法人はどの国なのか知らないが、こういう一般国民向けの「歴史」関係冊子においても、当然ながら<無国籍>ぶりは顕著で、戦後日本又は「戦後民主主義・平和主義」を反映してか、ときに<左翼的>・<反・保守的>だ。それに、文章の最終責任者の個人名、個々の記述の文責者名が明らかにされていないのは、いささか<気味が悪い>。
 ネット関連に戻ると、那須陽一いわく-「サヨク勢力・反日勢力は日夜必死でマスメディア戦略やネット戦略を展開している」(p.216)。夜な夜な、保守系論壇人の新刊本の悪口を(ロクに読みもしないで)書き込んでいる様子を想像すると気味が悪い。<左翼>というのは気味が悪く、執拗なものだ。もっとも、気味が悪い、又は恫喝的なのは、<右翼>にもいるようだが。

0510/松本健一による丸山真男「歴史意識の『古層』」批判等。

 大学生の頃、丸山真男はすでに過去の人というイメージで、1970年前後に重要な発言・主張をした、又は論文を発表した、という記憶はない。したがって、1996年の死後再び丸山に注目が集まってきたようでもあることを奇異に感じている。
 また、1970年前後以降はまともな又は大きな仕事をしなかった(と勝手に判断している)ことについて、丸山自身が、かつての自己の言説が<適切な>ものではなかったことを意識(・反省・後悔)するようになったからではないか、との<仮説>を勝手に立てている。
 それはともかく、松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)によると、丸山は1972年に「歴史意識の『古層』」という論文(?)を発表している。丸山真男集第十巻(岩波、1996)の冒頭に収載されているもので、筑摩書房『日本の思想6・歴史思想集』(1972.11)が初出の公表のようだ。
 さて、松本健一の上掲書はこの丸山の論文を論評した1973年の松本の論文をそのまま収載している(p.194~)。そして、松本と丸山の個人的関係?を考慮すると、じつに厳しい、罵倒とでもいうべき、丸山真男批判を展開していることがとても興味深い。
 むろん罵詈雑言が列挙されているわけではなく、丸山「歴史意識の『古層』」が俎上に乗せられ、その内容の限界、かつて丸山真男が書いていたこととの矛盾等が丁寧に指摘されている。
 逐一紹介する余裕はない。内容に立ち入らず批判的言葉だけを最後から逆順に取り出せば、以下のごとし。-①「無数の大衆たちのことは何一つ扱われておらない」、②「歴史意識の『古層』」として「摘出」したのは「知識人たちが己の主体的作為では状況を切り拓けないと悟り、歴史に瞳をこらして、…自己を救済する途を模索した結果辿りついた史観」だ(以上、p.228)、③「歴史意識の『古層』」を探る作業は「この文字の背後にある広大な闇を無視してしか成立しえなかった、…知らなかったのではない。知っていて敢えて無視した」(p.227)、④丸山らが「日本人の意識構造の基底に『なる・なりゆく』史観を視るとき、…日本人からは知識人以外の民衆がほとんど欠け落ちてしまっている」(p.225)、⑤丸山は「つねに『書かれた歴史』『言葉に現れた思想』しか問題にしなかった。そこでは…エートス、……パトスとして噴出せざるをえなかった行動、等々…を掬いあげることは不可能なのではないか」(p.220-1)、⑥丸山は「知識人の辿り着く意識構造を分析し…、わがくにびとの意識構造一般を解析したわけではなかった」(p.219-220)、⑦「近代主義の、…その主導たるべき主体的作為の挫折したところに、なりゆく史観は忍びこんだのだ」(p.217)、⑧「かくして、丸山は己をふくめた日本の知識人たちに、その知性がついに辿りつくべき墓場を指し示した」(p.216)、⑨丸山が記紀が「古代社会(大和朝廷)の正統化」という意味をもつことを「無視」して「古事記から『古層』の基底範疇を導き出し、しかもそれを、歴史に自己救済(自己正当化)を求める知識人たちの証言で重複的に立証しようとしたことは、かれ自身が己の自己救済(自己正当化)を図ろうとしていたことの証しではないか」(p.215-6)、⑩丸山は「己がその日本の情景にふくまれるかどうか、という問いを隠した」(p.211)。
 これくらいにしよう。1914年3月生れの丸山は1972年11月には満58歳、老境に入りかけているが、まだ現役の東京大学教授だった。その丸山の論文に対する、翌年のこのような批判はなかなかスゴい。
 松本健一のこの論評(論文)に関して興味を惹いたことはまだ二つほどある。
 一つは、丸山真男が50歳代後半に記紀、とくに古事記に関心を持って熟読した、と見られることだ。彼の「日本的なるもの」への反発的関心?が記紀に向けられたということは、50歳代後半という年齢と無関係ではなかったのではないか。
 二つは、松本健一が、1970年頃に(松本は年月日を特定していない。別途調査すれば判明する筈だが労を厭う)「全共闘の学生たちが丸山真男の研究室に乱入し、怒号にちかい言葉でかれをつるしあげた」ことを、「学問上の師父」・「戦後民主主義の生みの親」に対する、「己の前身そのその」に対する、<父への憎悪>にもとづく、<父親殺し>と位置づけていることだ(p.196~202)。
 この二点めも面白い。しかし、「全共闘の学生たち」は「戦後民主主義」の嫡出子なのか鬼子なのか、「全共闘」学生(又はじつは卒業生)の中には丸山真男などより遙かにラディカルな(中核、革マルとか呼ばれた)職業的?活動家もいたのであり、単純に「父-子」関係と言えないのではないか、等の疑問が出てきて、にわかに賛同することはできない。そもそも「全共闘の学生たち」の思想・主義とは何だったのだろうか。簡単に一括して論じられはしないだろう。
 というわけで、またまた丸山真男批判の本を読んでしまった。もう丸山にはかかわりたくない気分がする。たまたま東京大学助教授・教授だったために、等身大以上に論評され、評価されている(つまり<虚像>部分を多分に含む)人物(・学者さま)ではないか。
 なお、一年ほど前に丸山真男の1953年のわずか3頁の小文「選挙に感じたこと」を<全集第5巻>の中で読んだことがある。そして、学者・研究者のものとはとても思えない、当時の<左派社会党>を応援する、<政治活動家>又はせいぜい直近にいる<ブレイン>が書いた文章だ、という感想をもった。

0509/丸山真男は「反日」=日本「解体」論者の元祖-松本健一の本。

 松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を数日前に全読了(計247頁)。
 この人の単著を全部読んだのは初めてかもしれない。東京大学経済学部出身。他学部の聴講可能性が拡大された時期に法学部の丸山真男の講義も聴いた。手紙のやりとりをするくらい親しく?、本人は否定しているが丸山の「弟子」と言われたこともある。だが、この本は既述のように、全体として、丸山真男批判の著であり、部分的には告発・糾弾の著でもある(と理解した)。
 全体を紹介する余裕はない(最初の方の詳細はもう忘却している)。まず、一点だけ言及する。
 丸山の「超国家主義の論理と心理」を素材としていると見られる叙述の中で、丸山の論理の中に「戦後の反日イデオロギー」の源泉を見出している(p.147-157)。以下、松本が丸山の論理を辿る文章を要約する。
 丸山にとっては「八・一五革命」により日本は近代国民国家に普遍的な「ナショナリズム」に立ち戻った、換言すれば、「国民主権」思想に立脚できた。ナショナリズムは近代国家の「本質的属性」だが、戦前日本は「質的な相違」のある「真にウルトラ的性格」のそれを帯びた。しかして、西欧近代国家は価値に対して「中立」的な「中性国家」だったが、戦前日本=明治国家は「天皇」という「内容的価値の実体」に根拠をもった。これが「国体イデオロギー」だ。この「イデオロギーは、…日本の国家構造そのものに内在」するもので、かつ重要なことに、明治国家に限られず、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背負っている」、「皇祖皇宗もろとも一体となった」「内容的価値の絶対的体現」だった。反復すれば、明治国家に限られた「国体イデオロギー」なのではなく、「日本の国家構造そのものに内在」するものだ。となれば、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」という「戦後の反日イデオロギー」が帰結として派生してくる
 以上の「」は、松本の語と丸山の語の場合の両方がある。上の丸山真男における最後の部分、天皇制=「国体イデオロギー」は「日本の国家構造そのものに内在」する、という文章は、丸山真男・新装版/現代思想の政治と行動(未来社、2006)だと、p.16にある。
 今どき、丸山真男の言説など、無視しておけばよいのかもしれない。だが、上の松本の指摘は面白い(interesting=興味を惹く)。
 丸山真男にとっては、「象徴」天皇制度が残った「国民主権」国家とはきっと中途半端なものだったに違いない。彼の気嫌う非合理的な価値の源泉が残り、それが「再び」巨大化して復活することを恐怖したかもしれない。「超国家主義の論理と心理」は1946年に書かれているが、丸山・現代思想の政治と行動「増補版への後記」の中で、「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(上掲書p.585)と書いたとき(1964年)、そこには<天皇制度>を否定したい気分が明瞭にまだ残っていたかに見える。
 松本の揚げ足を取るようだが、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」わけではなく、厳密には又は正確には<天皇制度>の解体・否定で十分ではなかったのだろうか。「天壌無窮の皇運」に担保された「国体イデオロギー」が解体・否定されれば十分だったのではないか。すなわち、新憲法で<天皇制度>を否定し、天皇・皇室も、古事記・日本書紀等の皇室関連「物語」も一切否定して、それこそ(真の「国民主権」制又は「共和制」国家として)「新しく再出発」していれば、丸山真男の鬱屈もなかったのではあるまいか。だが、そのような現実、そのような国家が「日本」と言えるかを、丸山は心底では想定できなかったのかもしれない。松本は丸山は「外在的」に「日本」又は「日本ファシズム」を批判したとか記述しているが(p.234等)、丸山真男も自らが<日本人>であることまでを否定できなかったようにも見えなくはない。
 だが、ともかく、今に続く日本人の「反日」意識、<反「日本」国家>意識の源が戦後直後の(しかも少なくとも知識人にはよく読まれたらしい)丸山真男論文に(も)ある、というのは興味深い。「反日」意識の根源又は中核は、<反・天皇>意識・<反・皇室>感情だろう。そして(日本共産党は当然だが)週刊金曜日の編集人の佐高信・石坂啓・筑紫哲也・本多勝一らを代表とする<進歩的・左翼>の人たちは、スッキリしない・非合理的なものとして<天皇・皇室>制度の解体を本音では望み、主張している筈だ。丸山真男の継承者・追随者は現在でも多数いる。
 長くなったので、別の点は別の回に。

0508/戦後日本の「保守」主義成立の困難さ-佐伯啓思による。

 佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)p.172-3によると、戦後日本に「保守という思想」がありうるのか、ということから考察する必要がある(それは成立し難いということを(多分に)含意させているようだ)。
 その理由の第一は、佐伯によると以下のことにある。
 「いわゆる保守派」はアメリカの保守思想を手本にしたため、「本当の意味でのヨーロッパの保守主義(とくにイギリスの保守主義)」が日本にうまく「根づかなかった」。
 ヨーロッパ思想も導入されたが、「ほとんどは、いわゆる左翼進歩主義的」なものだった。すなわち、「戦後の思想のスター」は、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、ロック、ミル、ハーバーマス、アドルノ、サルトル、「フランス現代思想系の人たち」〔デリダやフーコーらか?-秋月〕だった。一方、エドマンド・バーク、コーク、ブラックストーン、ヒューム、カーライル、バジョット、オークショットらは紹介されなかったか、殆ど無視された。
 前回に続いて、かかるリストアップ、とくに後者の<保守主義>又は<反・左翼>の人名のそれ、をしておきたい気持ちも強くて、紹介した。「イギリスの保守主義」とは、ときに「スコットランド(学派)の保守主義」と称されるものを重要なものとして含んでいるだろう。ともあれ、日本の研究者による外国の思想(家)の紹介や分析が、公平・中立あるいは客観的に行われているわけでは全くない、ということは明らかだ。  日本の思想・政治・文化等の状況に応じて、指導教授や<仲間たち(同業者)>の意向・動向をも気にしつつ、研究者個人がどう「価値」判断するかを直接には契機として、<外国研究>は行われているわけだ。このことは、思想・哲学に限らず、人文・社会系の全ての学問分野にあてはまるものと思われる。
 上に関する理由の第二として、佐伯は丸山真男に次のように論及する。
 「保守」はその国の「歴史や伝統」から出発するが、戦後日本はGHQのもとで「日本の伝統」という「因習的で封建的な」ものを「ほとんど切り捨て」た。東京大学の憲法学者・宮沢俊義も「八月革命説」を唱え、丸山真男は「革命」の起きた八・一五という原点に立ち戻れと繰り返し説いた。となると、「革命」により「生まれ変わった」日本には、「伝統や慣習」を大切になどとの発想がでてくる筈はない。
 以上で要約的紹介の今回分は終わりだが、かかる、丸山真男を典型とする、戦前日本の、そしてまた日本の「歴史や伝統」の(少なくともタテマエとしての)全否定が、「本当の」<保守思想>成立を困難にした、というわけだ。そのような風潮に、所謂<進歩的知識人・文化人>は乗っかり、又はそれを拡大した、ということになる。その影響は今日まで根強く残っているものと思われる。(「外」の力によってであれ)望ましい「革命」があったとするなら、神道や日本化された仏教という<歴史的・伝統的な>ものに関する知識やそれらへの関心が大きく低下したのもしごく当然のことだ。
 「八月革命説」と昭和天皇の現憲法公布文(「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」)はどういう関係に立つのか(立たないのか)、および丸山真男の議論の具体的内容については、いずれまた言及することがあるだろう。

0507/桑原武夫編・日本の名著((中公新書、1962)と佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)

 一年以上前に桑原武夫編・日本の名著-近代の思想(中公新書、1962)に言及した。
→ 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/154432/
そして、アナーキスト・マルクス主義者・親マルクス主義者等の本が15程度は取り上げられていて多すぎる、1960年代初頭の時代的雰囲気を感じる、とか述べた。あらためて見てみると、桑原武夫の「なぜこの五〇の本を読まねばならぬか」との命令的・脅迫的なタイトルのまえがきの中には、「わたしたちは過去に不可避的であった錯誤のつぐないにあたるべき時期にきている」という、「過去」を「錯誤」とのみ切り捨てて<贖罪>意識を示す言葉もあった。
 また、あらためて50の本の著者全員をメモしておくと、つぎのとおり(1年余前にはかかるリストアップはしていない)。
 福沢諭吉・田口卯吉・中江兆民・北村透谷・山路愛山・内村鑑三・志賀重昂・陸奥宗光・竹越与三郎・幸徳秋水・宮崎滔天・岡倉天心・河口慧海・福田英子・北一輝・夏目漱石・石川啄木・西田幾太郎・南方熊楠・津田左右吉・原勝郎・河上肇・長谷川如是閑・左右田喜一郎・美濃部達吉・大杉栄・内藤虎次郎・狩野亮吉・中野重治・折口信夫・九鬼周造・中井正一・野呂栄太郎・羽仁五郎・戸坂潤・山田盛太郎・小林秀雄・和辻哲郎・タカクラ=テル・尾高朝雄・矢内原忠雄・大塚久雄・波多野精一・小倉金之助・今西錦司・坂口安吾・湯川秀樹・鈴木大拙・柳田国男・丸山真男
 名前すら知らない者も一部いるのだが、それはともかく、これらのうち、幸徳秋水や大杉栄は「読まねばならぬ」ものだったのだろうか。日本共産党員だった野呂栄太郎(山田盛太郎も?)、一時期はそうだった中野重治(他にもいるだろう)、マルクス主義者の羽仁五郎も「読まねばならぬ」ものだったのか。
 すでに被占領期を脱して出版・表現規制はなくなっているはずだが、「右派」と言われる者の本は意図的にかなり除外されているように見える。<日本浪漫派>とも言われた保田與重郎はない。「武士道」の新渡戸稲造もない。「共産主義的人間」(1951)の林達夫は勿論ない。「共産主義批判の常識」(1949)の小泉信三もない(小林秀雄はあるが、福田恆存江藤淳はまだ若かったこともあってか、ない)。
 上のうち秋水、河上、野呂、山田、羽仁、大塚の項を担当して何ら批判的な所のない記述をしているのは河野健二。  桑原武夫と河野健二はいずれもフランス革命研究者だが(中公・世界の名著のミシュレ・フランス革命史の共訳者ではなかったか?)、当時の主流派的フランス革命解釈を採用し、かついずれも親マルクス主義又は少なくとも「容」マルクス主義者だったとすれば、以上のような選択と記述内容になるのも無理はないのかもしれない。
 日本かつ近代に限定した上の本と単純に比較できないが、佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)という本もある。世界に広げかつ「政治学」関係に絞っている。そして、(良く言えば)バランスのとれた?佐々木毅による本のためかもしれないが、桑原武夫が1960年代に選択したとかりにしたものと比べると、ある程度は変わってきていると考えられる。
 すなわち、30の全部をメモしないが(日本人は福沢諭吉・丸山真男のみ)、ルソー、マルクス、へーゲルらの本とともに、バーク・フランス革命についての省察、ハミルトンら・ザ・フェデラリスト、トクヴィル・アメリカにおけるデモクラシー、ハイエク・隷従への道、ハンナ・アレント・全体主義の起源という、<保守主義>又は<反・左翼>の本も堂々と?登場させている。40年ほど経過して、<時代が(少しは)変わってきた>ことの(小さな?)証拠又は痕跡ではあるだろう。

0506/山崎行太郎-「ヒステリック」で「哀れで不遇な自己顕示欲」。産経は「高原基彰」をなぜ?

 サピオ5/28号のp.57の欄外に、小林よしのりはこう書いている。-「書店では見ないが、『月刊日本』という雑誌に、山崎行太郎が、わしのことを『マンガ右翼』と罵倒しながら宣戦布告している。マンガに対する徹底的な蔑視と、ブログに現れているヒステリックさと、哀れで不遇な自己顕示欲は、やはりイタイ人であり、直接の議論に公的な実りはなかろう」。〔なお、「イタイ人」の意味は私には解らない。〕
 今はもうやめているが1年ほど前にときどき山崎行太郎という自称・文藝評論家のブログを覗いていたことを思い出した。そして、その奇妙な言い分を批判したこともあった。
 小林よしのりが一部の者に使ったことのある言葉を借用すれば、山崎行太郎は「ウスら左翼」だ。本当に「文藝評論家」かどうかは知らないが、専門外?の<政治>の世界に少なくとも<平均人よりはまともなことを主張できる>ような態度で口を挟まない方がよい。この人は慶応大学文学部哲学専攻卒。慶応大学にとっても、「哲学」出身者にとっても、あまり自慢にならない人物だろう。
 久しぶりにこの人のブログを見て驚いた。「マンガ右翼・小林よしのりへの宣戦布告」と題する5/06付には、こんな文章がある。-「今回の名誉毀損裁判は、大江健三郎という名誉毀損の当事者とも思えないスケープ・ゴートをでっち上げて、法廷に引き摺り出し、一種のリンチ裁判を試みようとしたもので、この名誉毀損裁判そのものが見当違いの裁判であることは明らかであ」る。
 5/12付にいわく-「曽野氏が、判決直前まで、保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していたことは、もはや、誰でも知っていることであって、この『罪の巨魁』発言に頬かむりして、その問題の著書『ある神話の背景』を発売し続けるということは、出版ジャーナリズムの原理原則から見ても、許されることではないだろう」。
 ここで山崎は「魁」と「塊」の読み違え(引用ミス?、なお、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」月刊正論4月号p.218によると、これは曽野綾子自身ではなく、渡部昇一による誤引用のようだ)によって意味の誤解が生じたと指摘しているようだが、曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解するのが常識的な読み方だ。私もそう読む。「魁」ではなく正しくは「塊」だが(大江・沖縄ノートp.210)、その方が却って、より自然に<罪の大きさ(巨大さ)>という意味だと理解できる。大江健三郎は訴訟の最終盤の3月に、法廷で「巨きい数の死体」という意味だと述べたようだが、このように読めという方がどうかしている(もっとも、この点は最重要又は重要な争点では全くない。大江のいい加減さ・無責任さを示す徴表くらいにはなる。なお、「巨きい罪の巨塊」という一種の語義反復は日本語としてありうる。大江はこれを「文法的」誤りだったと恥じる気になり、無理やり後半分は「死体」のことだとこじつけたのではないか)。
 山崎行太郎にとっては、この沖縄住民集団自決「命令」訴訟=対大江健三郎等名誉毀損損害賠償請求訴訟は、<曽野綾子誤読事件>らしい。こういう人が平然と「文藝評論家」を名乗り、そういう人に文章書きを注文する出版社があるというのも、まさに日本の<戦後民主主義>的現象だろう。
 産経新聞5/14に「日本学術振興会・特別研究員」との肩書きで昭和51年生まれ、つまり今年中に32歳になる「高原基彰」なる者が小文を寄せている。
 見逃しそうな文章だが、読んでみると、「中国の現体制を『独裁』であると批判する」、「これまで疎外されてきたが」「新しい舞台を得て浮上した」「ネット上の言論」・「民意」は「その不寛容性や近視眼性」が「露わになる」(したがって、「独裁」批判に対する「中国の若者」の不満感は「彼ら自身の意図を超えた正しさ」をもつ)、というのが結論又は基本的趣旨だ。
 要するに、この小文は、中国共産党「独裁」批判を批判・揶揄し、結果として中国共産党の「独裁」を助けるものになっている。
 産経新聞はなぜこんな文章を載せるのか?
 産経新聞はなぜ、東京大学大学院の在籍年限を過ぎて「日本学術振興会・特別研究員」となって経済力を得ているだけの今年32歳の者に、このような原稿を発表する機会を与えたのか?
 産経新聞社の中にも、<左翼>あるいは(又は、かつ)<東京大学権威主義者>がきっといるのだろう。東京大学の人文・社会系には教授・上野千鶴子、教授・長谷部恭男らを筆頭に<変人>が多いことはほとんど常識的なことではないか(例外があることは勿論認める)。
 高原基彰なる人物が文学系か政治系か知らないが、思想・哲学に関連する分野にいるのだろう。思想・哲学あたりを専門分野にする若い者たちにロクな者はいない、というのが最近あらためて感じることだ。適切な先輩の例に、山崎行太郎というのがいる。

0505/日本の<保守派>内の対立は「思想」・「理論」次元では解消不能か?

  ①サピオ5/28号(小学館)で小林よしのりがこんなことを言っている。
 <「言論の自由」が保障された国に長く住んでいると、国際社会の中国への眼差しも分かってくる。「中共の洗脳」が解け、「自由や民主主義」の意味も知るような中国人が海外でもっと増えてもよいが、圧倒的に少ない。>(p.56)
 ここでは、「言論の自由」・「自由や民主主義」は、「中共」の支配する中国には欠落しているか極めて不十分なものとして、中国を批判するために用いられている、と理解してよいだろう。
 ②櫻井よしこ産経新聞5/08のコラムで「民主化」・「人権など普遍的価値観の尊重」等を中国の現状とは矛盾するものとして、中国を批判するために用いている。
 ③櫻井よしこ・田久保忠衛連名の「国家基本問題研究所」の意見広告「内閣総理大臣・福田康夫様」(産経5/06)には、こんなくだりがある。
 「自由、基本的人権、法の支配、民主主義。わが国と国際社会が依って立つこれらの価値観を踏みにじる中国共産党に、いま毅然としてものを言うことが、首相の責任です」。
 ④5/07の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」(福田康夫・胡錦涛)の中には、こんな文章があった。
 「国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する…〔以下は、…とともに、長い交流の中で互いに培い、共有してきた文化について改めて理解を深める〕」。
 ここでの「基本的かつ普遍的価値」を中国・中国共産党・胡錦涛がどのように理解・認識しているかは問題だが、口先又は言葉の上では中国も「国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値」が存在することを認め、かつその追求等のために「協力」すると、外交文書で<公言>したわけだ。
  数日前に、佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)を全て読了。同・日本の愛国心(NTT出版)等を読んで既に書いたことの同旨だが、佐伯はこんなことを指摘している。
 ①「自由や民主主義という戦後的な価値」による日本再建という考え自体が「きわめてアメリカ的な考え方」で、かつ「本来の保守主義」とは異なる「きわめて進歩主義的な考え方」だ(p.166~168)。
 ②「自由、平等、平和と大きく書いた」所から戦後日本は出発した。これは「自民党」も「保守系の知識人」も同じで、「すべからく本当の意味での保守主義ではなかった」(p.173~174)。
 このように、「自由や民主主義」は<普遍的>ではなく、<普遍>を装うアメリカに独特の<進歩主義(左翼)>思想だ、これを支持・主張するのは「本当の意味での保守主義」ではない、とこの本でも述べている(同・日本の愛国心の方がより詳しかったかもしれない)。
 そして、この本では、「冷戦は基本的には終わっています」と述べたのち、北朝鮮と中国について、次の文章を示す。
 「北朝鮮の崩壊はいずれ時間の問題でしょう。中国は共産党政権ですが、なし崩し的にグローバル資本主義のなかへ入ってきています」(p.174)。
 この本の中で、北朝鮮と中国に言及のあるのはこれだけだ(同・日本の愛国心には、かかる文章すらなかったと思う)。
 また、靖国神社・東京裁判問題に関連して、<親米保守>と位置づけられると思われる岡崎久彦を名指しで、実質的には厳しく批判している。論点の拡大・拡散を避けるために詳細には紹介しないが、次の如く言う-「アメリカの価値観」・「歴史観」を認めるということは占領政策や「東京裁判を認めることに等しい」。だが岡崎久彦らの「日本の保守派」が東京裁判を批判しているのは、「私には矛盾しているとしか思えない」(p.246~247)。
  さて、一で言及した小林よしのり櫻井よしこ等も<保守派>とされている筈だが、佐伯啓思によると、アメリカ的価値観を<普遍的>と誤解しており、「本当の意味での保守主義」者ではない、ということになりそうだ。佐伯啓思も<保守派>と自己規定している筈で、同じ<保守派らしき>者たちの間にあるかかる対立を、どう整理し、どう理解すればよいのだろうか。
 すでに書いたのは、<冷戦>は東アジアではまだ現実には続いており、「思想的」・「理論的」にはともかく、<外交・政治>の上では、中国・北朝鮮には欠如している「自由と民主主義」等の「価値観」を掲げて、これらの近隣諸国に批判的に対峙することは当然だし、戦略的にも意味がある、ということだった(「価値観外交」・「自由の弧・構想」の肯定)。
 今もこれに変わりはないが、「思想」・「理論」レベルでも佐伯啓思と櫻井よしこ・岡崎久彦らとの間には懸隔が横たわるだけなのだろうか。佐伯はあまりにも「自由と民主主義」等が西欧「左翼」から出自していること、アメリカが<普遍的>と自称する「価値観」であること、を強調又は重視しすぎるのではないだろうか。また、あまりに中国・北朝鮮への関心が乏しいのではなかろうか(「思想」的・「理論」的には勝負はついた、だけではまだ済まないのではないか)。
 一方、櫻井よしこ・岡崎久彦(・小林よしのり?)らは、あまりにも無条件に「自由と民主主義」等を<信奉>する旨を語りすぎているのだろうか(日本の「自由と民主主義」に全く問題がないとは考えていない筈だが…)。この点、佐伯啓思の論旨はなかなか鋭いところがあることも認めざるをえないのだが…。
 というわけで、少々当惑している。佐伯啓思の本が知的刺激に富むのはいつもながらで、それは結構なことではある。

0504/式年遷宮と大嘗祭の<復活>。

 伊勢神宮の由来又は設立年代については、日本共産党系と見られる藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)で、直木が「七世紀の天武天皇の頃に天照大神を祭る神宮が伊勢にあったこと」は「間違いない」と書くくらいだから、1300年前にすでに存在したことは「間違いない」。現代人にとっては気の遠くなるような昔だ。
 七世紀後半からさらにいつ頃まで遡れるかだが、安本美典の簡単な文章に即して既述のように、記紀等によれば崇神天皇の御代に皇祖・天照大神を宮中とは別の場所に祀るために造営された。
 所功・伊勢神宮(講談社学術文庫、1993)は記紀等の記述に添ったより詳しい説明をしつつ、崇神天皇朝を三世紀後半としている。但し、古代の天皇・国王の平均在位年数は約10年という安本美典説に従い、かつ崇神天皇は第一〇代ということは正しい、ということを前提にすれば、崇神天皇朝は三世紀後半ではなくもっと後だろう(所功は西暦〇年前後に神武天皇即位、三世紀後半は大和朝廷の故地・九州では「壱与」の時代だろうと推測する。安本美典とはかなり異なる)。
 それはともかく、所功の上の本によっても、神宮の式年遷宮が、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇(645-702)の時代に始まることは「間違いない」ようだ(所によると内宮の第一回は690年)。式年遷宮自体も1300年以上の歴史をもつ。2013年は第62回。前回・1993年の遷宮に至る、各祭儀についての(最重要な祭儀は「遷御」だと思われる)、昭和天皇に始まり今上天皇に継承された「御治定」の月日は、神宮司庁監修編集/伊勢神宮崇敬会発行・お伊勢まいり(2005.07改訂7版)の末尾に一覧表として掲載されている。
 1320年以上で62回という回数からも判るように、式年遷宮は20年毎にきちんと行われてきたのではなかった。戦後最初のそれ(第59回)は1949年の筈だったが、財源難等があったのだろう、4年遅れて1953年に行われている。
 そんな4年遅れてどころではなく、所功の上の本や高野澄・伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷なのか(祥伝社ノンポシェット、1992)によると、所謂「戦国時代」に、120~140年もの間、中断している。
 式年遷宮ではなく「大嘗祭」の挙行となると、田中卓「天皇と神道の関係」同=所功=大原康男=小堀桂一郎・平成時代の幕明け(新人物往来社、1990)p.54によれば、何と「約220年」の中断があり、江戸時代初期の1687年に再挙行された、のだという。
 120~140年あるいは220年ということは、停止と再開の両方を現実に知る人は一人もおらず、一般国民の一世代を30年とすると、4代から7代くらいが交替するだけの時間が過ぎたことを意味する。
 そして思うのは、<天皇制度>が続いている限りは、かりに100年、200年の<中断>があり、廃止されたかの如き外観を呈した時期があったとしても、<歴史的・伝統的なもの>は<復活>している、ということだ。
 多少のゴタゴタはよい。また、日本「文明」は同一ではなく変化してきたし、これからも変化はしていくだろう(固有の何かまでなくなるとの趣旨ではない)。だが、<天皇制度>とともに、自分の死後も続く「日本」の<悠久>というものを信じたいものだ。

0503/松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社)は丸山真男批判、等。

 〇記していなかったが、たぶん3月から松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を読んでいて、5/11夜に少し増えてp.125まで、半分強を読了した。この本の帯には「…研究者の軌跡!」とか「丸山真男の軌跡!」とか(売らんがために?)書いているが、この本は、丸山真男批判の書物だ。
 丸山真男を<進歩的文化人>として尊敬している、又は<幻想>を持っている<左翼的>な人々は、この本や、たぶん既述の、竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)、水谷三公・丸山真男―ある時代の肖像(ちくま新書、1999)あたりを読むとよい。
 〇飯田経夫・日本の反省(PHP新書、1996)の第六章「『飽食のハードル』への挑戦」、第七章「真の『豊かさ』とは何か」(と「あとがき」)を5/11に読んだ。第三章と合わせて全体の1/3くらいを読了か。著者の意図はともかく、あまり元気が出てくる、将来展望が湧き出てくる話ではない。1996年の本だが、脈絡を無視して引用すれば、こんな言葉がある。
 ・「要するに人びとは、現状に満足し、『これでいい』と言っているのである。そして、現状を変更したくはないのではないか」(p.170)。
 ・「ある社会がピークに到達し、それを通りすぎた後には、『社会のレベル』の低下が、万人の予想を裏切るほどだという事実が、どうやらある…」(p.176)。
 ・「まさに戦争に敗れたという事実そのものが、日本人から魂を抜き去り、…私たちを腑抜けにしてしまったのかもしれない」(p.185-6)。
 以下は、「個人の解放」(個人の尊重)が<究極の価値>だと明言していた憲法学者・樋口陽一に読んでもらいたい。
 ・「それ〔日本的経営の人間関係〕は、…個人主義ではない。だが、はたして個人ないし『個』が、それほど絶対の存在であろうか。それを絶対と信じるアメリカ人は、はたして『よき社会』をつくることに成功しただろうか。また、はたして個人のひとりひとりが、とくに幸せであろうか」(p.179)。
 樋口陽一に限らず、殆どの憲法学者がいう「個人主義」・「個人的自由」は、戦前の<国家主義>又は「個人的自由」の制限に対する反省又は反発を、過度にかつ時代錯誤的に<引き摺り>すぎている、と思う。
 〇佐伯啓思・学問の力(NTT出版)はたぶん5/10にp.260まで読んで、あとわずか20頁ほどになった。この本についても、感想は多い。
 〇他に、まだ読みかけの本や、月刊雑誌を買ったが読んでいない収載論考があるはずだが、ただちに思い出せない。今、浅羽通明・昭和三十年代主義―もう成長しない日本(幻冬舎、2008)を思い出した。少しは頁数を延ばしている。
 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006)と佐伯啓思・隠された思考―市場経済のメタフィジックス(筑摩書房、1985)は、途中で止まったきりだ……。

0502/三種の神器の一つ=八咫鏡と三角縁神獣鏡、式年遷宮と天皇陛下の「御治定」。

 「三種の神器」という言葉とそれが天皇位と関係のあることは知っていても、正確に何々であり何処に本体が所在しているのかとなると、多くの国民は、戦後教育のみを受けた国民に限ればほとんど全員が、知らないのではないか。特定の宗教にかかわる天皇家の<私事>として、学校教育の場では何ら教えられなかったからだ。それでよかったのか? 「三種の神器」に限られないが、国の肇まりに関する<物語>くらいは(「神代」の御伽話としてであれ)きちんと教えられてよかったように思う。国民(民族?)にとって、建国の「物語」があるだけでも誇らしいことだろう。そのようなものがない国家(・民族)もあるに違いないのだから。
 さて、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)は、「三種の神器」の一つ、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)の由来についても論及している。伊勢神宮や宮内庁はそれなりの説明をしていると思うが、さしあたり安本に依拠して紹介してみよう。
 安本によると、古事記・日本書紀は八咫鏡につきこう書いている。-天照大御神が天の岩戸に隠れたときに製作を命じたのが八咫鏡で、神武天皇東征に伴い畿内に移動し皇居(宮中)にあったが、第一〇代・崇神天皇の時代にレプリカが作られ、本体は(伊勢)神宮に祀られることになった。レプリカ作成の際の試鋳品が奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社に祀られている。
 以下は、安本の推論又は主張。鏡作坐天照御魂神社にある試鋳品は三角縁神獣鏡なので、八咫鏡も三角縁神獣鏡の可能性がある。天照大御神=卑弥呼が没したとき(天照大御神が天の岩戸に隠れたとき)に三角縁神獣鏡の祖型を作ったとすれば、それは卑弥呼の功績を記念したもので、中国・魏と交流しその「冊封体制」に入ったことから魏の年号が記されていても自然だ。奈良県の「弥生時代」又は「三世紀」の遺跡からは(「四世紀」以降は別として)三角縁神獣鏡は一つも出土していない(北九州からは出土している)。
 安本の論はこうして天照大御神=卑弥呼の所在地に関する問題へとつながっていくが、ともあれ、邪馬台国問題で話題になる三角縁神獣鏡が「三種の神器」の一つ=八咫鏡と関係がある、と推測又は推論している。これはどの程度一般的な説なのかは分からないが、知的好奇心の湧く話ではある。八咫鏡なるものが歴史の深いかつ貴重なものだったことはある程度は判る。
 ところで、別のテーマになるが、八咫鏡本体が存置されている伊勢神宮の式年遷宮(次回は2013年)の準備のための今上天皇の「ご聴許」が宮内庁長官名で(伊勢)神宮あての文書で伝えられていると推察されることはすでに書いた。
 神宮司庁・神宮(2007.04、講談社編集)という写真集のような本によると、この一般的な「ご聴許」以外に、式年遷宮に至るまでに「天皇陛下に御治定を仰ぐ」とされている、以下の多くの行為がある。今年の、すでに産経新聞でも小さく報道のあった「鎮地祭」の挙行もそうだが、2005年の「山口祭」・「木本祭」・「御船代祭」、2006年の「木造始祭」が<御治定>にもとづきすでに行われている(それぞれの意味・内容の簡単な記述もあるが、省略)。あとは、2012年の「立柱祭」・「上棟祭」、2013年当年の「杵築祭」・「後鎮祭」・「遷御」・「奉幣」・「御神楽」がある。これらのうち「遷御」は「御神体を新宮に遷しまつる祭り」で、「天皇陛下が斎行の月日をお定めになる」と記されている。
 天皇陛下の「御治定」なるものの正確な意味は分からないが、これらの祭儀を特定の月日に挙行することを<許す>・<認める>という趣旨は少なくとも含まれているだろう。式年遷宮は、天皇(皇室)自身の祭祀行為として、「勅使」(天皇陛下の代理?)を主宰者として行われるものだからだ(なお、前回の実際の祭祀主宰者の氏名を特定していなかったが、1988年から「神宮祭主」をされている、昭和天皇の皇女・今上天皇の姉の池田厚子氏だったと判った)。
 しかして、天皇はいかなる権限にもとづいてこの「御治定」なるものを伊勢神宮という一宗教法人に対して行うのだろうか。伊勢神宮との間に詳細な<契約文書>でも交わされているのだろうか。
 そんな<近代的な法的観念>に馴染むものはおそらく存在しないだろう。天皇(・皇室)と(伊勢)神宮の特別に密接な関係にもとづき、歴史的・伝統的な慣行・慣例に従っているのだ、と思われる。それらは国家神道の時代を超えて、遅くとも明治維新以前の時代から形成されてきているのだろう(かかる歴史的・伝統的な長年の慣行・慣例に従った、<天皇制度>と不可分の天皇の行為が「私的」行為扱いされるとは解(げ)せないが、同旨のことは何度も書いた)。
 だが、一般的には(「鎮地祭」の挙行に関する産経新聞の記事によってもそうだが)、伊勢神宮の式年遷宮に関する諸行事に天皇(・皇室)が深くかかわっていることは知られていないのではないだろうか。式年遷宮の費用が基本的には国民の寄付金(奉賛金)による、ということ以外に、正確な実態は知られていないのではないだろうか。そして、それでよいのか、と疑問に思う。

0501/邪馬台国・三角縁神獣鏡問題と人文・社会系「学問」。

 産経新聞5/11の読書欄に安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版)の紹介(簡単な書評?)がある。その文の中に「最近は畿内説が有力になってきて、畿内にあったことを前提に議論がなされる傾向もみられる」とある。これは紹介者(書評者?)の自らの勉強・知識にもとづくものだろうか、安本が言っていることを真似ているのだろうか。
 安本の少なくとも安価な本(新書・文庫)はおそらく全て所持しており全て読んでいる。最も新しいのは、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)だろう。
 後半1/3は安本の従来の主張の反復及び補強だ。この本だけに限らないが、①邪馬台国所在地=北九州>現在の朝倉市甘木地区説、②卑弥呼=天照大神説、③神武天皇実在説、等はそれぞれ-素人にとってだが―説得力がある。
 ①について、甘木付近(と周囲)と奈良盆地西南部付近(と周囲)に同一又は類似の地名が同様の位置関係で存続していることの指摘は目を瞠らせた(上の本ではp.182-3)。
 ②について、天皇在位年数の統計処理を前提としてのヨコ軸=天皇の代の数、タテ軸=天皇の没年(又は退位年)のグラフ(上の本ではp.177)を延長すると初代(代数1)の神武天皇は280年~290年、その祖母とされる天照大神(代数でいうと、いわば-2)は240年頃になる、という指摘も、上の地名問題とともに安本の独自の指摘(発見?)だったと思うが、相当に説得力がある。
 中国の史書によると、卑弥呼は239年に中国に使者を派遣している。また、中国の史書によると卑弥呼の没年は247~8年らしいが、この両年に(二度)皆既日食があったのは事実のようで、安本は日本の史書による天照大神の「天の岩屋」隠れと再出現は天照大神の死亡とトヨ=台与(安本の上の本p.189はニニギの命(神武天皇の父)の母とされる「万幡豊秋津師比売命」ではないかする)の<女王>継承を意味するのではないか、とする。卑弥呼の死亡年頃に実際に皆既日食があり、天照大神の「天の岩屋」隠れの伝承が一方にある、というのは全くの偶然だろうか。
 上の③を補足すれば、現在は紀元2700年近くになるというのではなく、安本は、記紀上の在位年数や活躍年代の記載は信じられなくとも、北九州から大和盆地に「東遷」し、のちに神武天皇と称された、大和朝廷という機構の設立者にあたる人物がかつて(3世紀後半頃に)存在したこと、その後の支配者(=祭祀者?)の代数、くらいの記憶は7世紀くらいまで残っていても不思議ではない、とする。
 安本説によっても<王朝>の交替=血統の変更は否定されないが、勝手に自分の言葉(推測)で書けば、少なくとも継体天皇以降の天皇家の血統は現在まで続いているのではなかろうか(むろん、奈良時代の天武天皇系の諸天皇、南朝の諸天皇等々、現在の天皇家の直接の祖先ではない天皇も少なくない)。
 さて、安本の上の本の前半は最近の「邪馬台国畿内説」論に対する厳しい批判で、樋口隆康(この本の時点で橿原考古学研究所所長、京都大学卒)、岡村秀典(同、京都大学人文研究所助教授)らが槍玉に挙がっている。
 京都大学の小林行雄等が中国産(魏王から卑弥呼に贈られた)とした、そして京都大学系の人が同様の主張をしているらしい三角縁神獣鏡問題の詳細等には触れない。
 もともと安本美典は<マルクス主義は大ホラの壮大な体系>とか述べてマルクス主義(唯物史観・発展段階史観)歴史学を方法論次元で批判しており、津田左右吉以来の、記紀の「神代」の記述を全面否定する<文献史学>に対しても批判的だ。
 そしてまた、安本自身は京都大学出身だが(但し、日本史又は考古学専攻ではない)、樋口隆康や岡村秀典に対する舌鋒は鋭い。
 ・安本はかつてこう言ったらしい。-「京都大学の考古学の人たちは、オウム真理教といっしょ…。秀才ぞろいだけど…馬車馬のように視野が限られていた」。また、京都大学出身の原秀三郎(静岡大学)も次の旨言ったらしい。-「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才の考古ボーイが入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズム〔小林行雄の説〕を徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」。(p.103)
 安本はこうも言う。-京都大学は近畿という地の利もあり「京大勢がリーダーになりやすい」。「どんなに論理的に無理があろうと」「三角縁神獣鏡説=卑弥呼の鏡」に「固執」する。「強力な刷り込みが行われると、そうなる」のだろうか(p.54)。
 ・安本は、岡村秀典についてこう書く。-「氏の論議の本質は、実証というよりも、空想である。科学的論証の態をなしていない。…著書で証明されているのは、およそ非実証的、空想的な内容であっても、圧倒的自信をもって発言する人たちがいるのだということだけである」(p.148)。p.102の見出しは、「カルトに近い『卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡説』」。 
 ・安本は、樋口隆康「ら」についてこうも書く。-「発掘の成果じたいは立派」でも、「多額の費用をかけた奈良県の…地域おこし、宣伝事業に、邪馬台国問題が利用されている面が、いまや強く出ている」(p.18)、「誤りと無根の事実とに満ちている」(p.20)、「この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえしておられる」、「氏の頭脳の構造は、どうなっているのであろう」、「与えられた先輩の説…を…八〇年一日のごとく、機会あるごとにくりかえす。念仏や題目を唱える宗教家と、なんら異ならない」(p.30)。
 以上は、たんに邪馬台国又は三角縁神獣鏡問題に関心をもって綴ったのではない。古代史学・考古学という<学問>にどうやら<人情>・<感情>・<情念>が入ってきているらしいということを興味深く感じるとともに、<怖ろしい>ことだとも思い、かつそうした現象・問題は古代史学・考古学に限らず、歴史学一般に、さらに少なくとも人文系・社会系の<学問>分野に広く通じるところがあるのではないか、という問題関心から書いた。
 政治学の分野で、マルクス主義又は少なくとも「左翼」程度に位置しておかないと大学院学生の就職がむつかしい(少なくとも、かつては困難だった)ということは、かつて月刊・諸君!誌上で中西輝政が語っていた。同様の事情は、歴史学、社会学、憲法学等ゝの法学(さらに教育学?、哲学?)についてもあるのではなかろうか。そして、そういうような研究者の育て方で、<まともな>学問が生まれるのだろうか。
 あたり前のことと思うが、安本美典は上の本でこうも書く。-「個人崇拝的な学説の信奉はよくない」(p.102)。
 もともと邪馬台国所在地問題については東京大学系-北九州説、京都大学系-大和説という対立があると知られており、個人レベルではなく大学レベルでの対立があるらしきことを、<非学問的な>奇妙な現象だと感じたものだった。大学レベルではなく指導教授レベルでもよいが、<非学問的な・個人崇拝>的現象は、広く人文系・社会系の<学問>分野に残っているのではないか
 若い研究者にとっては、大学での職を求めるために唯々諾々と?指導教授の学説ないし主張に盲従?していないだろうか。全面的にそうだとは推測しないが、何割かでもそういう現象があれば、その分だけはもはや<学問>ではなくなっているのではないか(「秘儀」の「伝達」の如きものだ)。
 なお、京都にあっても、同志社大学出身・同教授だった森浩一は三角縁神獣鏡問題でも安本説と同じで、かつ邪馬台国=北九州説。一方、京都大学出身の立命館大教授だった山尾幸久の同・新版魏志倭人伝(講談社現代新書、1986)は、京都大学系そのままの、邪馬台国=大和説。

0500/昭和30年代末・東京五輪の年の映画「愛と死をみつめて」と関川夏央等。

 吉永小百合・浜田光夫主演映画「愛と死をみつめて」は池田勇人首相時代、昭和三〇年代の末、東京五輪の前月の1964年9月に上映された。私は観なかったが、1964年末の紅白歌合戦でも歌われた「マコ、甘えてばかりで…」とのはやり歌の影響か、1965年に原本の書簡集を読んで、当時の少年らしい感動を受けた。
 のちに上記の映画を観ることがあったが、私の好みの文筆家・関川夏央・昭和が明るかった頃(文春文庫、2004)は、「女性の結婚への希望と家庭への願望の方に重心を大きく傾けた」のが映画ヒットの主因の一つとする(p.376)。
 これは間違いだろう。原作もそうだが、「結婚への希望と家庭への願望」は付随的テーマにすぎない。むしろ、青山和子の歌った上記の歌や吉永小百合歌唱の映画主題歌としての「愛と死のテーマ」こそが、フェミニストから見れば許されない程に?、「弱い女」・「慕う女」のイメージで歌詞が作られていて、大島みち子氏の強さと逆に河野実氏の(実在の方に申し訳ないが)弱さを感じさせる原作から見れば違和感がある。
 関川はまた言う。大島が死ぬ前に下さいといっている三日のうち、恋人といたいというのはたった一日にすぎない、と。二人の「愛」も、女性の気持ちもそんなものだと言いたげだが、これも間違っている。かりに自由な(そして健康な)三日間が与えられたとすれば、一日を父母・兄妹と過ごし、一日を一人で「思い出と遊ぶ」というのは至極当たり前の気持ちではないか。関川は恋愛至上主義者でもあるまいし、三日間とも恋人と一緒にいたいと書いてほしかったのか。いや、大切な三日のうち一日を「あなた」と過ごしたいと思うだけでも、素晴らしい恋愛であり、河野青年への「愛」だった、と私は思う。この物語、そして映画の主題は20~21歳の男女に実際に成立した恋愛そのものであったからこそヒットしたのであり、「結婚への希望と家庭への願望」に重きを置いたからでは全くないと私は思っている。
 一方、関川の、「男性側の『子供っぽさ』『成熟への拒絶』と、期せずして母親の役割を果たさざるを得なかったオトナの女性の『みごとな覚悟』といったすぐれて戦後的な対比をあえて排除」という指摘はほぼ同感で、映画上の浜田は原作の青年の苦しみと弱さをうまく演じてはいないが、これは浜田の責任というより脚本のなせる技だろう。
 なお、読書中の浅羽通明・昭和三十年代主義(幻冬舎、2008)には「愛と死をみつめて」は二回しか登場せず(索引による)、しかも「純愛」ものというだけの言及で、本格的な分析・論及は何もない。この本のアヤシゲさの一つの現れでなれればよいのだが。

0499/大衆民主主義とマスコミ-飯田経夫・日本の反省(PHP新書)等。

 飯田経夫・日本の反省-「豊かさ」は終わったのか(PHP新書、1996)の第三章「ケインズ経済の落とし穴」(p.63~95)だけを読了。
 まず、1950年頃の「成長」論争に関して、(おそらくはマルクス経済学主流の)<日本(経済)はダメだ>との「日本の知識人に固有なマゾヒズム」に対して、政府の需要抑制策は不要とし高度成長を予測した「下村治理論」が「ひとつの強力なアンチテーゼ」で、事実は後者のとおりになった、との叙述が興味深い。
 つぎに、経済(財政・金融)政策につき「(大衆)民主主義」との関連を
述べるところがきわめて面白い。
 ・大衆=「選挙民」は「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視するので、財政支出の増加・減少については前者を歓迎し後者を忌避する、増税・減税については前者を忌避し後者を歓迎する。かくして「財政支出はとかく膨らみがち」で「税収はとかく不足がち」になる。
 ・これは「民主主義政治の永遠のディレンマ」で、①「福祉国家」論と②財政による介入を是認するケインズ経済学という「悪条件」がさらに加わった。
 ・国民は「受益」の最大化と「負担」の極小化を望む。これは換言すれば「ただ乗り」・政府からの「タカリ」を指向することだ。
 ・「(大衆)民主主義を否定するつもりは毛頭ないが、それにもかかわらず、(大衆)民主主義とは、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う。この認識を片時も忘れないことが、現代の理解にとって必須」だ。
 以上、しごく当然の指摘だ。(大衆)民主主義のもとで国会議員が選出されるとなれば、財政負担についての<正しい>理論・政策の主張者よりも「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視した<財政支出(給付)の増大・負担の減少(減税)>政策の主張者の方がより容易に当選することとなり、そうした国会議員が政府の経済政策を決定する(又は決定的な影響を与える)のだ。
 短い文章だが、選挙の結果=<民意>を最大限の価値をもつものとし、<誤っていても尊重すべき>等と堂々と?主張していた、<単純・素朴・幼稚な民主主義者>には是非読んでほしいものだ。
 また、福田内閣の支持率低下の原因が<もっぱら>ガソリン代再値上げという目に見える(分かりやすい)金銭的負担の増大にあるのではないこと、民主党の支持率が上がっている(とすれば)、その原因が<もっぱら>財源・負担に言及しないで<(ばらまき)給付=財政支出>政策を主張していることにあるのではないこと、を願うばかりだ。現在は民主党の小沢一郎は、有権者の<劣情>を刺激して<支持率>を高め、<票>を掠め取る戦術に長けているように見えるから。
 1989年参議院選挙で日本社会党が躍進し(これは今日の参院構成にも影響を与えている)、土井たか子が<ダメなものはダメ>・<山が動いた>とか言ったのは、<消費税導入反対>の主張によっていた、ということも思い出した。
 飯田経夫はまた、「失業と餓えの恐怖」がなくなったために「不平不満・うらみつらみ」を述べ、吐き出す「余裕」が出てきた旨も書いている。明瞭に述べてはいないが、<より豊かな者>・<より力をもつ者>に対する(戦後教育も助長したと見られる)「平等主義」の観点からの「不平不満・うらみつらみ」は、容易に選挙の際の<投票>行動へと結実もしただろう。
 「不平不満・うらみつらみ」に支えられた<大衆民主主義>。まさに、飯田とともに、「否定するつもりは毛頭ないが、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う」。
 さて、かかる大衆民主主義において大衆の「不平不満・うらみつらみ」を高めたり煽ったりするのは、決定的に、マスメディア、とりわけテレビと一般新聞だろう。1年前の政治家「事務所経費」問題は、いったい何の騒ぎだったのか?
 <国民主権>の国家ならば、政府や官僚に失態・失策があったとしてもその最終的な責任を負うべきは<国民>の筈だ。「ねじれ国会」が国家・国民のためになっていないとすれば、その最終的責任は「ねじれ国会」を現出させた<国民>自体にある。より正確には、2005年衆院選挙と2007年参院選挙とで異なる投票行動をとった、多くても数十%の有権者国民にある(余計ながら、新しいほど「民意」に近いとは実際上は言えないと思われる)。
 マスコミがそうした「国民」の側に立つことをしばしば明言し、「国家」・「政府」を監視することを役目と考えているならば、政府や官僚の失態・失策についてもマスコミ自身が<責任>を感じなければならないのは当然だ。<国民>の世論を適切に誘導・形成することに失敗すれば、あるいは政府や官僚の失態・失策を防止できなかったとすれば、そのかなりの部分の責任はマスコミ(とくに大マスコミ、テレビ局・有力一般新聞)にこそある。そのような自覚と責任感を現代日本のマスコミ関係者はもっているだろうか。
 この点でも、産経新聞5/08阿川尚之「正論-『マスコミの常識』は非常識」は、ほとんど首肯できる。
 「特ダネ、視聴率、締切といったことばかりにエネルギーを注ぎがち」。「不祥事の疑いがあるだげで、会社や役所の責任者に記者会見で居丈高な物言いをする」。「テレビのワイドショーやニュースで、無責任かつ根拠のないコメントをする」。「誤報を流しても簡単な訂正で済ませる」(この最後のものは、<誤報を流しても、訂正しないで開き直ることもある>の方がより正確だろう)。
 「報道ステーションの某など、基本的知識の欠如、大仰な言葉や身振りばかり目立ち、見るに堪えない。横に坐るジャーナリストは恥ずかしくないだろうか」(恥ずかしいという感覚は朝日新聞の者にはない。某と同レベルではないか)。
 「マスコミは…非常識を衝くのを商売にしていながら、自らの非常識が問われることが少ない」。
 マスコミ関係者は自分たちの影響力を自覚していないふうに思えるときもあるが、その<力>に、身の震える想いをもって仕事をすべきだろう。また、阿川が指摘するように、「内容など気にせず、広告の効果のみを基準に番組を提供する企業の責任は重い」。 

0498/産経新聞5/08櫻井よしこ論考と佐伯啓思。

 産経新聞5/08櫻井よしこ「福田首相に申す」は、中国共産党のチベット人・ウイグル人弾圧・「文化の虐殺」が進行中だとしたあと、「近い将来、台湾制覇のため南進すると思われる」と書き、さらにつづけて「そうなれば、日本にとっても深刻な危機が到来する」とする。
 <異形の国家>・共産党独裁の中国は、まずは尖閣諸島を皮切りに沖縄諸島から始めて、日本列島全域を支配することを狙っているものと思われる。太平洋(の軍事管理)を米国と中国で東西に二分しようと中国要人が米国人に発言したとかの報道(氏名・役職等の詳細を確認しないままで記憶で書いている)も、上のことが全くの杞憂でないことを裏付ける。
 となると、日本は中華人民共和国日本州となり日本人は日本「人」ではなく日本(大和?、倭?)「族」と称されるのだろう。中国の一部とされなくとも旧ソ連と旧東欧との関係の如く、中国の<傀儡>政権(日本共産党が存続していれば参加?)のある実質的な<属国>になる可能性もある。
 そうなれば、―最近、伊勢神宮等の神社・神道のことについて書く機会が増えたが―伊勢の神宮を含めた、神社という「日本的な」ものは、―チベットの仏教施設がそうなっていると報道されているように―すべて又は殆ど破壊され、解体されてしまう可能性もある。日本全国から、根こそぎ、「神社」(お宮さん)が破壊され、なくなってしまった日本という地域は、もはや「日本」ではないだろう。同様のことは日本仏教・寺院についても言える。
 上のことが全く杞憂とは言えないのは、1945年の占領開始の頃に、主だったいくつかの神社を除く多数の神社はすべて潰される(物理的にも破壊される、又は自ら破壊しなければならない)のではないかとの危惧と<覚悟>を神社関係者はもった、ということを最近何かで読んだことでも分かる。幸い、GHQは、神社・神道があったからこそ戦争が開始された、とは理解しなかったので<助かった>ようなのだが。
 ところで、櫻井よしこは、福田首相が「念頭に置くべき」なのは、「異民族も含めた中国の人々、そして国際社会に向かって、いかなる普遍的価値観に基づいた言葉を発することができるか」という点だ、とも主張している。
 ここでの「普遍的価値観」とは生命を含む<人権>の尊重、信教の「自由」の保障を含んでいるだろう(民族の自決権は?)。
 かかる「普遍的価値観」はアメリカのそれであり、<左翼>価値観だとして日本の保守派がそれを主張するのは<奇妙な光景だ>と言ったのが佐伯啓思だった。前回言及した、佐伯啓思・学問の力(NTT出版)でも同旨のことが述べられているようだ(p.164~)。だが、アメリカの独立と統一(連邦化)を支えた思想がフランス革命の際の「左翼的革命思想に近い」(p.164)と言えるのかなお吟味が必要だと感じるし、それよりも、戦略的に(本当に「普遍的」かは厳密には怪しいだろうことは認めるが)「普遍的価値観」なるものに基づき中国(・胡錦涛)に対して発言することは当然でありかつすべきことで、少なくとも批判・揶揄されることではあるまい、と考えるが、いかがなものだろう。

0497/佐伯啓思・学問の力(NTT出版)を半分以上読んだ。

 佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)はあらためて「あとがき」を読むと、学問論・教養論の「語りおろし」で、たしかに微細さ・厳密さに拘泥しない、平易なエッセイ風の書物だ。そのp.51までを読んでフーコーにも言及したのだったが、その後p.165あたりまで進んだ。
 第一章・学問はなぜ閉塞状況に、は1「専門主義」と「ポスト・モダン」という不幸と2教養主義の残照に分けられ、前者の1がp.51まで。その後は第二章・体験的学問論―全共闘と教養主義が1全共闘世代と戦後民主主義、2原風景を求める教養の2つを含み、第三章・「知ること」と「わかること」には1センス・美意識・感受性、2「頭がよい」とはどういうことか、の2つがあり、第四章の1は「リベラリズムの破綻」と「保守主義の困難」。これの中途まで読了したことになる。
 さまざまな感想が生じるが、書ききれないだろう。①西尾幹二の少年時代の本、西尾・わたしの昭和史・少年篇1~2(新潮選書、いずれも1998)を読んでも感じたが、佐伯啓思が少年あるいは(当然に新制の)中学生・高校生時代にすでに早熟で外国の思想・古典ものを読んでいたなど、早くから感受性豊かでとても「頭がよい」人はいるものだとあらためて感心する。
 ②「全共闘世代」に関する叙述はかなり理解でき同感もできるが、一部は首を傾げる。そもそも一部の世代を「全共闘世代」と称してよいかどうか疑問だし、私は「全共闘」なるものに佐伯ほどには<意味>を認めていない。むしろ<「団塊」世代>に関する叙述の方に共感できる所が多い。
 ③いつぞや佐伯啓思の現代文明論上・下(PHP新書)を読んでいた頃、丸山真男と違って日本の思想(家)への言及がないとか記したことがあったが、日本の思想(家)への言及もあり「日本的なもの」(「原風景」にも近い)への肯定的な論及もある。佐伯・日本の愛国心(NTT出版、2008)でもかなり出てくる日本の思想(家)・「日本的なもの」に関する素地は、2006年のこの本の時期にはとっくにあったわけだ。
 ④瑣末だが、印象に残る言葉も多い。例えば-「われわれは文化の語法の中で生きている」(p.140)、「文化とは共有された思い込みにほかな」らない(p.141)、「思考は感受性を通して原風景から発して、また最後には原風景へと回帰してゆくもの」だ(p.144)。
 ⑤佐伯啓思が五つの赤い風船、カルメン・マキ、吉田拓郎、朱里エイコ、石川さゆり、井沢八郎、太田裕美等に言及しているのは同世代人として愉しいが(p.104~、p.118)、この辺りだと、私にも類似の文章は書けそうだ。文字どおり瑣末だろうが、<地方から都会へ>という時代を象徴した一つの歌は井沢八郎「ああ上野駅」(1964年)かもしれない(p.118)。だが、この歌のとき(東京五輪の年)にはそのような時代は既に始まっていて、守屋浩「僕は泣いちっち」(1959年)、同「長いお下げ髪」(1962)などはそうした時代の開始を反映している。前者は東京へ行った<彼女>を地方の青年が想う歌で(「僕の恋人、東京へ行っちっち。僕の気持ちを知りながら」)、後者は東京(都会?)へ来た青年が地方に残った(幼い頃に「あぜ道帰りいじめた」・「鎮守の森で泣かせた」ことのあった)娘を思い出して嘆く歌だ(「これが恋ならば、僕は寂しいよ」)。余計ながら、こんな歌にも、言及しておいてほしかったね。
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