佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)に、安倍首相のもとでの2007参院選のあとで書かれた文章が収載されている。この本でのタイトルは原題と同じく「<無・意味化な政治>をもたらすテレビメディア」で、初出は隔月刊・表現者2008年1月号(ジョルダン)。かくも厳しいテレビメディア批判をしていたとは知らなかった。

 2007年夏の参院選前の朝日新聞等のマスメディアの報道ぶりはいま思い出してもヒドかった。異様だった。そのことの自覚のない多くの国民の中に、産経新聞の記者の一人もいたのだったが。

 佐伯啓思は述べる。・「テレビは本質的に『無・意味』なメディアである。…テレビは本質的に世界を断片化し、統一体を解体し、真理性を担保せず、視聴者に対して、感覚的で情緒的で単純化された印象を与えるものだからだ。それはテレビメディアの構造的な本質」だ。

 ・我々は「この種の『無・意味化』へ向かう大きな構造の中に…投げ込まれていることを知」る必要がある。「政治に関心をもつということは、いやおうもなくこの『無・意味化』へと落とし込まれる」ことだ。

 ・とすれば、「政治への関心の高さ」を生命線とする「民主政治」とは、現代日本では「『無・意味化』の中での政治意識の溶解を称揚する」ことを意味する。かかる現代文明の構造からの脱出は困難だが、「そうだとしても、そのことを自覚する必要はある」。これは世界的傾向でもあるが、「欧米の民主政」が「同様の構造をもった視角メディアにさらされながらも…かろうじて健全性を保っているように見えるのは、この自覚の有無と、政治に対して意味を与えようとする意思にある」のではないか(p.137-8)。

 上にいう「無・意味化」とは、佐伯によると、「ある価値の体系にもとづいてある程度の統一と真理性をめざした言説や行動の秩序の喪失」のことをいう(p.136)。

 佐伯はテレビメディアと「民主政」は相俟って「無・意味化」へと「急激に転がり落ちている」旨をも述べる(p.136-7)。

 とりわけ小泉内閣のもとでの2005年総選挙以来、「劇場型政治」とか「ワイドショー政治」とかとの論評が多くなった。「大衆民主主義」のもとでのマスメディアの役割・影響力に関する、上の佐伯啓思のような指摘もとくに珍しくはないのだろうが、しかし、2009年総選挙も含めて、上にいう「テレビメディアの構造的な本質」による政治の「無・意味化」が続いていることは疑いなく、また、そのような「自覚」を国民は持つべきだが、必ずしもそうなってはいない、という状況は今日でも何ら変わっていない、と考えられる。

 中国での数十人の「反日デモ・集会」を大きく報道しながら、日本での中国を批判・糾弾する数千人の集会・デモ(今月)を全く報道しない日本のマスメディアには、佐伯啓思は上の一文では触れていないが、NHKも含めて、欧米のテレビメディアとは異なる、独特の問題点もあるのではないか。

 NHK以外の民間放送会社の資本は20%までは外国人(法人を含む)が保持できるらしい。また、民間放送が<広告料>収入に決定的に依存している経営体であるかぎり、中国を市場として想定する、総じての<企業群>の意向を無視できないのではないか。別の面から言うと、テレビメディアとは、その「広告」(CF等)によって消費者の「欲望」(購入欲)を煽り立てる(企業のための)装置でもあるのだ。公平・中立な報道というよりも、<視聴率が取れる、面白い政治関係ニュース>の方が重要なのだろう。

 まともな教育をうけ、まともな「思想」を持った、まともな人たちが作っているのではない、退屈しのぎの道具くらいの感覚でテレビメディアに接しないと、日本にまともな「民主政」は生まれないだろう。あるいは、「民主政」=「デモ(大衆・愚民)による政治(支配=クラツィア)」とは元来その程度のものだ、とあらためて心しておく必要がある。