1.外国人(地方)参政権問題に関して不思議に思っていることの一つは、すぐれて憲法問題で(も)あるにもかかわらず、現在の日本の憲法学者(研究者)による発言等が雑誌や新聞上でほとんど報道されないことだ。

 産経新聞紙上では、百地章・長尾一紘と近藤敦(名城大学)くらいで、保守系論壇ではほとんど百地章が一手に引き受けて憲法学者としての反対論(外国人参政権否定論)を述べているようだ。

 かかる状況は、憲法学界または憲法学者の対社会影響力、世論形成力の弱さを示しているとも感じられ、果たしてよいことなのかどうか、気になるところだ。

 また、マスメディア(新聞を含む)に従事する人々の<法学>オンチ、または苦手意識からする<法学(・法律)・何となく嫌い>気分が表れているようでもある。

 産経新聞紙上で少なくとも二度は目にした近藤敦(名城大学)は、賛成論者として登場している。

 この問題についての学説はさまざまな観点から分類できるが、被選挙権を含まず、かつ「地方」参政権に限って、長尾一紘は月刊正論5月号(産経)p.55で、3分類(禁止説・要請説・許容説)を示している。

 このうち「要請説」とは、憲法は法律で付与することを「許容」しているのみならず付与を「要請」しているとするもので、厳密にはさらに、①この要請に違反すれば憲法違反になるとする説(付与していない現行法律=公選法は違憲になる)と②立法者=法律制定者に付与するよう努力義務(政治的義務・責務)を課しているだけで、この違反はただちに憲法違反にならないとする説に分けられる。

 長尾は上の①の意味のものを「要請説」と称している。

 2.辻村みよ子(東北大学)、近藤敦(名城大学)の見解はより正確にはどのようなものなのか。その一端だけを、辻村みよ子・憲法〔第三版〕(日本評論社、2008=A)、同・同〔第一版〕(日本評論社、2000=B)によって、見ておく。

 辻村A・Bによると、「学説は、外国人参政権を一切認めない従来の禁止説から脱して、しだいに地方参政権を認める見解(許容説)が有力になった」とされる(Ap.148、Bp.167)。

 辻村Bによると、国政選挙ではなく、地方選挙に限ると、a「禁止(否定)説」、b「積極的肯定説」、c「消極的肯定説(許容説)」に分けられる。ここでのb「積極的肯定説」は「要請説」とほぼ同義のようであり、上記の①の、違憲判断を導く「要請・違憲説」と、上記の②の、ただちに違憲とはしない「要請・政治的義務説」とに分けられている。

 辻村自身の説はいずれか。辻村A・Bによると、「要請説」だ。その中のいずれか、というと、辻村Bは、<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>だという書き方をしている(Bp.167-8)。この部分は、辻村Aにはない。

 ともあれ、辻村みよ子説は、「禁止説」でも<有力な>「許容説」でもなく、「要請説」だ。

 現在の代表的な「左翼」憲法学者の一人・辻村みよ子は、平成7年最高裁判決の「傍論」以上に、一定の外国人の地方参政権付与に積極的であることに、とりあえず注目しておく必要がある。

 なお、「要請・政治的義務説」か「要請・違憲説」かは不明だが、「要請説」であるかぎりで、近藤敦も同じのようだ(辻村著の文献参照による)。

 かかる見解の持ち主だと、民主党(中心)政権は今のところは国会提出を見送っているようだが、一定の外国人への地方参政権付与法案を歓迎しているだろう。

 3.興味深いのは、一定の外国人の「国政」参政権についての辻村等の見解だ。辻村は(上のAでもBでも)「要請説」に立っている。そして辻村Bでは、「地方」の場合と同様に<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>という書き方をしている(Bp.168)。

 「国政」参政権について、「禁止(否定)説」ではない。さらに「許容説」でもなく、それを超えた「要請説」を採っているのだ。辻村著によると、近藤敦も同じ。

 さすがに、「左翼」憲法学者の面目躍如というところだろう。外国人「国政」参政権を法律で付与することが「要請」されるという考え方(憲法解釈?)なのだ。

 「地方」はともあれ平成7年最高裁判決のように「国政」参政権を憲法上否定するのが(「禁止(否定)説」が)憲法学界でも一般的だ、と即断してはいけない。

 上に地方参政権について「許容説」が「有力」との辻村の認識を紹介したが、「国政」参政権についてもかなりあてはまりそうだ。

 辻村著によると、「国政」についての「許容説」論者に、九条の会呼びかけ人の一人・奥平康弘(元東京大学)がおり、「国政」についての「要請説」論者に、辻村・近藤のほかに、浦部法穂(神戸大学→名古屋大学)、後藤光男(早稲田大学)がいる。

 4.後藤光男は、ロ-スクールを含む学生(・同業者?)向けと思われるジュリスト増刊・憲法の争点(有斐閣、2008)の「外国人の人権」の項の中で、以下のように述べる。

 平成7年最高裁判決は「外国人は国政レベルの参政権は有しない」という前提に立っているが「なぜ外国人には地方参政権だけしか認められないのか、…疑問が生じる」。この見解は「住民自治」と「国民主権」を「別個の原理」と見ていて「妥当ではない」。「民主主義」=「共同体の自治」と考えれば「生活の本拠をもつ住民」を「単位」とすることの方が「当然」。「基本的」なのは「共同体の一員」であるか否かであり、「国籍」の有無は「それに付随した技術的なものである」(p.74)。

 何とも見事な、反国家・<ナショナルなもの否定>、そして「左翼」の文章だ。

 百地章は平成7年最高裁判決の「本論」の「禁止説」と「傍論」での地方参政権についての「許容説」を、前者の立場で一貫させよ、という観点から「論理的に矛盾」等と批判していた。一方、後藤光男は、<地方>につき「許容説」を採るならばなぜ<国政>でも採れないのか、と矛盾(?)を指摘しているわけだ。

 後藤と似たようなことを、辻村みよ子も書いていた。(*次回へと続く*)