小林よしのり・昭和天皇論(幻冬舎、2010)は読み了えているし、小林よしのりのサピオ(小学館)と月刊WiLL(ワック)上の天皇・皇室関係の連載もすべて読んできている。
 そのつど何らかの知識も追加的に得ており、何らかの感想も持ってきている。
 皇位継承問題が-雅子皇太子妃の個人的問題などよりはるかに-重要であることは言うまでもない。但し、小林よしのりの議論・主張に全面的に反対はしないが、無条件に支持することもできない。
 結論・内容自体についてもそうだが、論旨・論理過程にいささか無理なところもあると感じるし、内在矛盾がある点もあると感じる。
 さかのぼることは面倒なので(ヒマがあればいつか書いてもよいが)、最も新しい、サピオ4/14・21号(小学館)の2本の「天皇論・追撃篇」を取り上げてみる。
 小林よしのりは女系天皇容認論者で、男系限定論者、小堀桂一郎・櫻井よしこ・渡部昇一らを批判する。それはそれでもよいとして、その理由づけには疑問も残る。
 小林よしのりは今上天皇および皇太子・秋篠宮両殿下の意向は<女系天皇容認>だとし、それを「忖度」せよ、と主張している。
 基礎的データを小林が使っているものに限るが(いろいろと調べ、確認するのにも時間が要るし、そのヒマがない)、第一に、天皇陛下が「将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」と述べられたその意味は、「将来の皇室の在り方」は皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしい、という趣旨かどうかは疑問が残る。日本国憲法を遵守する旨を仰ったこともある天皇陛下が、皇室典範が法律として国会が定めることに現憲法ではなっていることを御存じないはずはなく、現実にも「国会の議論にゆだねるべきであると思いますが…」と前置きされている(p.61)。
 皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしいとかりに望まれているとしても法制上はそれが絶対的に可能だとは思われていないと推察されるのであり、上のご発言の基本的な趣旨は、国会が議論する際には、皇太子・秋篠宮の「考え」も十分に配慮して議論して決定してほしい、ということではないだろうか。
 国会(あるいは加えて政府・審議会)だけで議論すれば足り、皇族の意見などいちいち聴く必要はないと考えている者たちもいるので、その意味では、陛下のご発言は「実に異例」、あるいは画期的だったかもしれない。
 だがそれは、審議(議論)・決定の<過程>に皇族、とくに皇太子・秋篠宮殿下も参画する機会、ご意見を発表する機会が与えられ、かつそれが十分に配慮されるように望む、という趣旨ではないかと思われる。
 上の意味でのご発言に、私はまったく異存はない。皇太子・秋篠宮殿下に限らず、皇族は発言して(意見発表して)も構わない、と考える。その内容について自由に批判する自由も国民には(あるいは政治家・評論家等)あるが、しかしそうした発言をすること自体を<けしからん>・<余計な介入をするな>とは言えないだろう。そのような意味で、天皇陛下のご発言は理解されるべきではないか。
 上の趣旨に沿ったことを秋篠宮殿下も言われているようだが(p.63、「皇太子」とご自分・「秋篠宮」殿下にとりあえず限定されているようだ)、第二に、皇太子殿下や秋篠宮殿下のお考えが「女系天皇」の容認(p.65)、あるいは「将来の皇族は…皇太子と秋篠宮、そしてその子供が新設する宮家に限定すべき」というもの=かつての皇族の皇族復帰の否定(p.63)であるかどうかは、なおも断定できないし、断定してはいけないような気がする。
 小林は「というお考えにしか読めない」(p.63)、「誰にでも『お察し』できよう」(p.65)と言うが、それは自らの女系天皇容認論に都合のよいように推測(忖度)している可能性を、なおも論理的には否定できないのではないか? かりに「せっかく」の「サイン」だとしても(p.65)、あくまで推測であり、「忖度」の結果であることは明瞭に意識しておく必要があるように思われる。
 第三に、小林よしのりは女系天皇容認の論拠の一つとして皇祖・天照大御神が女性だったことを挙げ、「ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできる!」と言っているようだが(p.66)、これはさすがに無理だ。
 天照大御神が女性だったとしても(これは間違いないだろう。「卑弥呼」も女性だ)、その後の天皇位の継承が<男系>主義でなされたことは歴史的事実だろう。女性天皇は存在したが例外的で、<女系天皇容認>の歴史的根拠を探すならば、皇子がいたのに皇女が皇位を継承した例、あるいは最初に生まれた子供が女性(皇女)だったが最長子を優先して天皇となった、というような例、というのを見出さなければならないように思われる。あらためて勉強する気持ちは今はないが、そのような例は皆無だったのではないか。
 まだ「天皇」位というものが意識されていない時代の、そしてまた後世(飛鳥時代・奈良時代)になっても「天皇」とはされなかった天照大御神が女性だったことを援用するのは、いかにも苦しい。
 「日本の天皇は女系だったと考えることもできる」と小林は言うが、その場合の「女系」という語は一般に理解された「女系」ではなく、拡張された、あるいはズラされた「女系」概念で、今日の議論にそのまま当てはまるものではないだろう。
 第四に、上の点をもち出したうえで、小林は男系限定論者は天照大御神が登場する「神話」を無視、否定しようとしていると批判しているが(p.66、p.73)、そこで登場させている小堀や新田均の主張を正確には知らないものの、これも無理筋、<いいがかり>にすぎないような気がする。
 小堀、新田均のこの問題に関する主張を支持している、と言いたいわけではない。彼ら「男系主義者」は天照大神を「排除」するために「神話」を「切り離し」、「何が何でも『神武天皇から』にしたいのだ、という論難は当たっていないような気がする、と言いたいだけだ。彼らとて、神話を完全に「否定」・「排除」する気などはないだろう。
 したがって、「神話を否定することは、天皇を否定することだ」、<男系主義者>は「どこまでカルト化」するのか、彼らは「うるさい少数者」で「左翼プロ市民と変わらない」、「神話と歴史を切り離し、天皇を単なるホモ・サピエンスの子孫としか」見ない、などと批判するのは(p.74)、感情的な表現で、それこそ「左翼プロ市民」の言い方にも似ている悪罵・罵詈雑言の類のように思える。
 それに、そもそもが、天照大神からか神武天皇からか、という議論の仕方は不毛なのではないか。
 第五に、最後の基本的な問題として、かりに天皇陛下や(重要な)皇族の意向が「忖度」できたとして、日本国民はそれを絶対的に支持しなければならないのか、という問題があるだろう。
 こんなことを書くと、小林よしのりから<不忠>・<左翼>と罵られるのかもしれないが、しかし、皇位継承の仕方は、歴史的に見ても、各時期の天皇や皇族の意向どおりになった、とは必ずしもいえないように思われる。この点もあらためて勉強しないで書くが、ときどきの政治的・世俗的権力者の意向も反映して定められたことはあったのではないか。
 そのような事例こそ異例であり、純粋に天皇・皇族の意向どおりに皇位の継承(とその仕方)は決定されるべきだ、という主張は成り立つだろう。しかし、かりに異例であっても事実としては、天皇・皇族の意向どおりには皇位継承されなかったこともあった。あるいはそもそも天皇・皇族の間で(皇室の内部で)皇位継承につき争いのあったこともあったのだ。
 天皇陛下や皇太子殿下等の皇族のご意向・ご意見も十分に考慮して審議・決定はなされるべきだろう。だが、かりに万が一正確に拝察できたとしても、「忖度」されたその内容に国民(・国会)はそのまま従うべきなのか、という問題はなおも残っている、と私は考えている。重く受け止めるべき、という程度のことは言えるだろう。しかし、「そのまま」拘束されるべき、とまで言えるのか…。
 以上は思考方法、論理の立て方の問題にかかわる。皇位継承の仕方の中身の問題については別途書くつもりだ。