一 民主党政権の成立による<左翼・売国>政策実施の現実化の可能性が高いことは、じつに深刻な事態だ。
 とこれまでも書いたが、深刻な事態の第二は、あるいはさらに深刻なのは、朝日新聞やテレビ朝日等の報道ぶりにもよるのだろう、多くの国民が現政権の「危険性」を理解していないことだ。
 先日、たしか10/31の夜のNHKスペシャルの中で、御厨貴・東京大学教授は、古い55年体制を打破しようと小沢一郎は1993年に行動を起こしたが、当時は多くの者が小沢のスピード感に従いていけず、細川政権崩壊・自社連立政権成立を許したが、自社両党は55年体制の利得者だったところ、ようやく時代に即応しない55年体制が2009年総選挙で崩壊した旨をのたまい、もともとは日本社会党のブレインだった山口二郎・北海道大学教授も反論していなかった。
 NHKが収集した各「証言」自体は興味深いものもあったが、上のような御厨貴の簡単な総括でぶち壊しになった。1993年・1994年政変と2009年「政変」(政権交代)を上のようにしかまとめられない御厨貴は政治学者か、しかも東京大学所属の政治学研究者か、と問いたい。
 民主党御用学者ぶりはいい加減にしてもらいたい。また、小沢一郎の1993年の行動を素晴らしいものと積極的に評価しているが、小沢らの離党は、自民党内部、とくに旧田中派内部での「私憤」にすぎないとの見方があるくらい、政治学者ならば知っているだろう。田中-金丸の「金権」体質を継承しつつ、のちには彼の「自由党」は自民党と連立したという事実もまた、政治学者ならば記憶しているだろう。小沢が1993年以降は終始一貫して<古い55年体制>との闘争者だったなどとは、とんでもない話だ。
 今や明瞭な「左翼」の立花隆ですら、小沢離党・新生党設立の際に、小沢が<改革(・清潔)>派ぶるのは「ちゃんちゃらおかしい」と朝日新聞に書いた。理念なき選挙・政局好みこそ小沢の体質・政治感覚だろう。御厨貴はいったい何を観ているのか。それこそ「ちゃんちゃらおかしい」。
 こんな人物にまとめらしき発言をさせるのも、NHKらしいとも言える。
 二 深刻な第三、あるいはさらに深刻なのは、民主党<左翼・売国>政権にとって代わるべき政党が存在するかが疑わしいことだ。
 自民党に期待できそうにない。衆議院の予算委員会(第一日め)での質問者に、党内<リベラル左派>で有名な、安倍政権を(「右寄り」で)「危ない」とマスコミを前に語った加藤紘一や、同じ傾向の、<日本国憲法のどこが悪いんだ>とやはりマスコミの前で公言した後藤田正純を起用するようでは、まともな「保守」政党ではない。だからこそ、鳩山由紀夫のブレ等々にもかかわらず、少なくとも来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想が出てくる。
 現政権もダメ、自民党にも大きな期待をとてもかけられないそうにない、ということこそ、じつに深刻な事態だと認識すべきだろう。
 三 深刻な第四、あるいはさらに深刻なのは、<保守>言論人または<保守>論壇において、現状を打破するための建設的で具体的な議論が、ほとんどか全く、存在しないようにみえることだ。
 自民党が頼りなくとも、しっかりとした言論が小さくとも存在していれば、それを手がかりにして、多少は明るい未来を展望できそうなものだが、それもなさそうであることが、じつに深刻だと思われる。
 ①隔月刊・表現者27号(ジョルダン)、佐伯啓思「『民主主義の進展』による『政治の崩壊』」(p.52-)。
 「民主党を批判することはきわめて容易」、自民党に<保守>再生能力があるとは言えない(p.53)、等々、佐伯啓思の主張の趣旨はよく分かる。
 だが、ではどうすればよいのか。佐伯は、「プラトンの政治論に立ち返るのが適切」だとし、「善き国家」=市民が「善き生」を送れる国家の実現を説き、かかる国家は「民主」政では生まれない旨を書く。民主主義は目ざすべき「価値」とは無関係との旨は佐伯が繰り返し書いてきている。
 しかし、「われわれは、仮に民主主義者でなくとも、民主政治の社会秩序のもとで生活していることは事実である。とすれば、…できることはと言えば、あのプラトンの言葉の危惧を絶えず思い起こすことであろう。保守とは古典の精神に学ぶことにほかならないからである」、との文章だけで結ばれたのでは、何の慰めにもならず、何の建設的で具体的な展望も出てこないだろう。
 なぜプラトンかとの疑問はさて措くとしても、「あのプラトンの言葉の危惧を絶えず思い起こすこと」をしていれば、民主党政権を打倒することができ、「保守」再生政権を生み出すことが可能になるのか。この程度の抽象性の高い主張では、ほとんど何の役にも立たないと思われる。<思想家>・佐伯啓思に期待しても無理なのかもしれないが。
 なお、上掲誌同号の諸論考は(西部邁「保守思想の辞典/役人」も含めて)、民主党批判と現状分析が中心で、<保守>派の現在と今後の具体的あり方については説き及ぶところがほとんどないようだ。
 ②月刊・文藝春秋11月号(文藝春秋)、中西輝政「英国『政権交代』失敗の教訓」(p.94-)。
 1994年の自社さ連立内閣以降の自民党は「政権にしがみつくこと自体」を自己目的化した、という御厨貴に近いニュアンスの批判(p.96)はまぁよいとしよう、また、鳩山・菅直人「団塊世代」の対米屈折心理の存在の指摘(p.98)やフランス・イギリスを例にしての、<脱官僚>等の民主党政権への懸念・不安もそれぞれに参考にはなる。
 だが、それらは民主党政権継続を前提とする議論だ。そして、「民主党による政権奪取は、より大きな日本政治の大移行期の『第一幕』に過ぎないのかもしれない。今後十年、いやもっと長いスパンでの日本の命運が、そこにかかっている…」(p.103)という結びだけでは、建設的で具体的な展望は何も出てこない。「今後十年、いやもっと長いスパンでの日本の命運」がかかっているとは、すべての(基本的な?)政治事象について言えることではないのか?
 執筆を依頼されたテーマが「日本政治の大移行期」の具体的な展開内容の想定・予想あるいは<あるべき移行の姿>ではなかったためかもしれないが。
 なお、文藝春秋同号の立花隆の文章(p.104-)はこれまでとほとんど同じ内容の小沢一郎批判で、御厨貴よりもマシかもしれないが、新味に乏しい。立花隆、ますます老いたり、の感がますます強い。
 ③西村幸祐責任編集・撃論ムック/迷走日本の行方(オークラ出版)の中の、西村幸祐=三橋貴明=小林よしのり=城内実(座談会)「STOP!日本解体計画―抵抗の拠点をどこに置くのか」(p.6-)。
 これの方がまだ将来の具体的なことを語り合っている。
 しかし、小林よしのりが「『伝統保守』という理念の再生」の必要を語りつつ、「地道なやり方をつなげていって、大きな流れにするしかない…。一人二人が四人五人になる。そういう核が全国各地でいくつもできて、それがやがて大きなうねりになる。…」と(p.23)、日本共産党・民青同盟の拡大あるいは「九条の会」会員拡大の際してと似たような話ではないかと思われる程度の発言しかできていないのは、やはりなお大きな限界と歯がゆさを感じる。
 むろん抽象的には上のとおりかもしれないし、小林よしのりは一人で「『伝統保守』という理念の再生」のために数十(数百?)人以上の仕事をしているので、引き続いての健闘を彼には期待しておくので足りるとは思われるのだが。
 この座談会で城内実は、将来はA「日本の国益と伝統を大事にする保守主義の政党」、B「個人主義や新自由主義を打ち出す自由主義政党」、C「平和主義のリベラル政党」に「分かれていくのではないか」と発言している(p.21-22)。
 これ以上の詳細な展開はないが、この辺りを、その具体的な過程・方策も含めて、<保守>言論人または<保守>論壇には論じてもらいたいものだ。
 他人のことをとやかくいう資格はないかもしれないが、民主党(政権)を(厳しく?)批判しつつ、将来については何となく<様子見>の議論が多すぎるような気がする。その意味では、<保守>言論人・<保守>論壇にも大きく失望するところがある。