月刊正論7月号(産経新聞社)のp.240~、大月隆寛「『論壇』は歴史的限定を超えられるか」
 本当にメモ、引用したいのは以下の第三だが、他にもついでに触れる。
 第一に、月刊・諸君!廃刊にかかわり、実質的には(株)文藝春秋批判がある。以下のごとし。 
 (株)文藝春秋は雑誌「文学界」はなお維持する。赤字は同様で経営的視点からは同じ。「文学」畑の老舗との「意地」があるのだろうが、それは「諸君!」には何故機能しなかったのか。
 月刊WiLL(ワック)の如き編集方針でやってみる可能性もあったはず。それができないのは(株)文藝春秋の「プライド」で、「そこまではしたくない、堕ちたくはないという一線」を感じていた。
 「なりふり構わず『保守』ブランドでまだしぶとく商売」するとの<論壇馬鹿>の「心意気など、良くも悪くも初手から無縁」の会社だった。等々。
 大月の指摘のとおり、(株)文藝春秋はこの程度の会社だったと思われる。同業(同様傾向?)各誌・各社による<内輪褒め>・<楽屋褒め>に通じる月刊・諸君!廃刊への<残念>ぶりは白々しい。
 第二に、とくに「論壇」誌編集者と執筆者の<共同体>幻想への批判。
 ノンフィクション・ライターと雑誌編集者が「仲間」・「同志」という気分が感じられるのは気持ちが悪い。大手出版社の編集者ともの書きは「共闘」相手などではとっくになくなっている。
 「学生運動的な、文化祭チックな」「内輪」気分の「共同体」があるとの「勘違い」、出版・ジャーナリズムはただの商売ではない「文化」的事業との「勘違い」。そんな状況は「内側から確実に腐り始めて」いた。
 さて、第三。月刊・諸君!の廃刊とは無関係に、時代認識・時代表現として、興味深い文章が並んでいる。
 ・「ある時期以降」メディアの「左翼的」「もの言い」は、書き話す当人たちにとって「そういうものだから」というだけで「習い性としてやっている程度のこと」。
 ・「学校とその延長線上に連なる空間で、世渡りの作法としてのサヨク/リベラル系言説」は「必須」だった。「ある時期までは確実に」。
 ・「学校」や「その繋累の場であるマスコミ周辺」ではその「世渡り作法は長い間温存されて」いた。「実利があればこそ温存されていた」。「サヨク/リベラル系言説を身につけておれば、ひとまずいらぬ摩擦や軋轢を回避しながら、…超伝導のようにあらかじめ設定されたチューブの中を滑走」できたのだ。
 ・小中学校のホームルームでの「耳ざわりのいい」「もの言い」や「立ち居振る舞い」こそが、「反日マスコミ」に象徴される「サヨクぶり」・「プロ市民的もの言い」の発生地点。それは「ある意味で『優等生』の身だしなみ」。「学校」と「その延長線上の世界」、例えば「マスコミ、大学などの学者・研究者から学校の教員、そして役所に医者、弁護士…」、何のことはない、「勝ち組」とも称される「職種の多くは」、「学校民主主義の型通りが跋扈するにふさわしいものになっている」。「反日」の「身振り」はかかる「優等生」たちの「身だしなみ」で、戦後日本の「エリートカルチャー」の「あるコアの部分、でもあった」。
 ・「身だしなみ」である限りいちいち考える必要はない。「マナーとしてのサヨク、…『反日』」。「反日マスコミ」の「反省のなさ」、世間の視線についての「自覚の欠如」は、それほどまでに彼らの「反日」が「単なる習い性」で、「深く考えた上で自覚的に選択されたものではとうになくなっていることの、雄弁な証拠にすぎない」。
 ・「サヨク」は、「特に高度成長期の大衆化をくぐっていく過程」で、「ある『自由』の表象」、「『個人』であることを最も手軽にかつ効率的に身にまとうことのできるアイテムと化して」いった。「お手軽なジーンズみたいなものになった」。
 以上。このあと、「保守」は「大衆アイテム」になれなかった。だが、「少数派」だから「正義」だとの倒錯も生じた、との叙述や「田母神現象」の捉え方等への言及もあるが、省略。
 上の引用・紹介部分は、感じていたことを巧く言葉で表現してくれているようだ。
 法曹(弁護士・裁判官等)・行政官僚・大学教授等の多くが戦後教育の「優等生」である、日本国憲法の下での<平和・民主主義>教育によって彼らはほとんど自然に<何となく左翼>になっている、というような旨は、この欄で私もいく度か述べた。
 大月は「身だしなみ」・「マナー」としての「左翼」(・「反日」)という表現を用い、かつ、「世渡りの作法としてのサヨク/リベラル系言説」という表現も使っている。

 「左翼」がかなりの程度において広く「世渡りの作法」になっているという現実は事実として確認しておく必要がある。換言すると、<処世のための左翼>だ。
 だが、それ以上に、あるいは「処世」の中身として、昔風にいうと<立身出世>あるいは<著名人化>するための「左翼」、という者もいることも確認しておく必要があるだろう。
 この場合はたんに「左翼」というよりも、「確信左翼」・「組織左翼」と称してもよく、「左翼」思想ではなく、マルクス主義又は親マルクス主義という語を使った方がより理解しやすくなる。
 そして結局は<処世のため>に、そして<立身出世>・<著名人化>するために、(「綱領」をきちんと理解しているか、「マルクス主義」を本当に<正しい>と言えるかの自信は本当にはないままで)日本共産党に入党するような研究者・文化人等々もいる、ということも広く知られてよいだろう。
 「文化人」ならまだよいかもしれないが、大学に所属する研究者の場合、真の意味における「学問の自由」が彼らにある筈はない。固い枠の中で、真否の判断や発言・執筆内容に<政治的な>考慮を加える「共産党員」研究者は、(米国・英国・ドイツ等に比べると日本には)ウジャウジャと棲息していると思われる。
 少なくとも「深く考えた上で自覚的に選択されたものではとうになくなっている」、「サヨク」・「反日」の<身だしなみ>を持つ者として、NHKの日本デビューの制作者たち(浜崎憲一・島田雄介ら)及び放送総局長・日向英実や会長・福地茂雄挙をげることができよう。
 そういう「左翼」たちを生み出すことに役立っているのが、執筆者に日本共産党員も紛れもなく含まれていると推定される、実教出版の教科書、高校/政治・経済(宮本憲一・山口定・加茂利男・浦部法穂ほか執筆)でもある。
 大月隆寛の文章を読んで、こんなことまで書きたくなった。