フランス「革命」時のジャコバン派(モンターニュ派、ロベスピエールら)独裁、又はその初期を画した1793年憲法(但し、未施行)について、何回か書いてみる。

 一 すでにいく度か言及している。例えば、
 A 憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波書店、1971)にも触れた。
 より短縮して再紹介するが、杉原は、ルソーの「人民主権論」はとくに「『プロレタリア主権』論として、私有財産制の否定と結合させられながら存続していることは注目されるべき」で、「国民主権と対置して、それを批判・克服するためにの無産階級解放の原理として機能している」と述べたのち、次のようにつなげる。「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流、…二〇世紀…普通選挙制度・諸々の形態の直接民主主義の採用などに示される人民主権への傾斜現象さらには人民主権憲法への転化現象は、このことを明示するものである」。以上、p.181-2にあり、「」内は直接引用で、私・秋月の要約ではない。
 杉原において、「ルソーは民衆の解放を意図していたために、ブルジョアジーのための主権原理(「国民主権」)を本来構想しえなかった」とされる(p.92)。すでに書いたように、杉原において<ルソーは、早すぎたマルクスだった>のだ。
 また、これも既述だが、1971年には「ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制」という歴史的必然?を杉原は語り得たが、今となってみれば、<夢想>であり<幻想>であり、あるいは<妄想>にすぎなかった。
 杉原泰雄の上の著は、むろんジャコバン憲法=1793年憲法にも論及している。例えば、次のように。  ・p.82-「一七九三年憲法」による「『人民主権』の樹立に一応賛成する態度をとりつつ…封建地代の無償廃止に踏み切ったことも、民衆革命の高揚と…反革命に対処するためにブルジョアジーがそれに頼らざるをえない状況」にあったことを前提としてはじめて「合理的に理解」できる。。
 ・p.83-「民衆」は「人民主権」を、「ブルジョアジー」は「国民主権」を要求する。「民衆の革命的エネルギー」に頼らざるを得ない状況下では、「ブルジョアジー」は「『国民主権』の主張を自制」し、留保を付しつつ「『人民主権』に賛成するポーズ」をとった。「その事例」は、「一七八九年人権宣言、一七九三年憲法」である。
 1793年憲法(とくにその「主権論」)それ自体(但し、繰り返すが、施行されなかった!)の<急進的>・<民衆的>・<直接民主主義的>内容には、とりあえず、ここでは立ち入らない(杉原p.273~など)。

 B 憲法学者の樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)にも触れた。
 樋口陽一は、「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える立場に依って「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を述べ(p.122)、次のように明言していた。再紹介する。p.170だ。

 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」。

 樋口において、「ルソー=ジャコバン主義」、そして1793年憲法が肯定的・積極的に評価されていることは明らかだろう。そして、日本(人)はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と(1989年、ソ連「社会主義」体制の崩壊の直前に)主張していたのだ。

 二 杉原泰雄は「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流」を明言していたが、樋口陽一も含めて、口には出さなくとも、戦後の所謂<進歩的>知識人・文化人は、ルソー→マルクス→レーニン、あるいはフランス革命(のような「ブルジョア革命」)→ロシア革命(のような「社会主義」革命)という、普遍的で必然的な?<歴史の流れ(発展法則)>を意識し、そのような観念・尺度でもって日本の国家・社会を観察していた(場合によっては何らかの実践活動もした)と思われる。

 そのような歴史観の形成に少なからず寄与したと思われるのは桑原武夫らのグループのフランス「革命」史研究であり、河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)もその一つだろう。

 概読してみると、ジャコバン独裁(・1793年憲法)の位置づけ・性格づけなどについて、杉原泰雄や樋口陽一が前提とし、イメージしているような、マルクス主義的「通念」が<見事に>叙述されている。以下は、その概要又は断片のメモだ。「」は直接引用。

 ・フランス革命は「ブルジョア革命の模範」であるのみならず「歴史上の一切の革命の模範」とされる(「はしがき」)。
 ・1792年8-9月頃、ロベスピエールはこう書いた。「自分たち自身のため」の共和国を作ろうとする「金持ちと役人の利益」だけ考える者たちと、「人民のために」、「平等と一般利益の原則」の上に共和国を樹立しようとする者たちの二つに、これまでの「愛国者」は分裂する、後者こそ「真の愛国者」だ、と。「ロベスピエールが目ざしたのは、後者」だった(p.131)。
 ・1792年の時点で、「ジロンド派」と「モンターニュ派」の議会内対立は封建制・資本主義、資本家・労働者、反革命・革命の対立ではなく、両派ともに「ブルジョア・インテリたち」だったが、「ジロンド派」はチュルゴら百科全書派の弟子で「経済的自由主義」者だったのに対して、「モンターニュ派はルソーの問題意識と理論の継承者だった」。ロベスピエールもマラーもサン=ジュストも後者だった(p.133)。
 ・「モンターニュ派」は「…農民や手工業者を中核として、平等で自由な共和国をつく」ることを理想とし、その実現のための解決を、「政治の上では独裁と恐怖政治、道徳の上では美徳の強調と国家宗教(最高存在の崇拝)の樹立」のなかに求めた(p.134)。
 ・対外国戦争敗北等により1793年春以降、「政治情勢は急速に進んだ」。主流派の「ジロンド派」は抵抗し、「私有財産擁護」や「地方自治体の連合主義」を主張したが、5/31に「モンターニュ派」支持者による「蜂起委員会」の成立等により、6/02にパリでは「モンターニュ派」が勝利した(p.144-6)。
 ・1793年の6/24に議会が1793年憲法を採択、「人民投票」により成立した(但し、緊急事態を理由に施行延期)。この憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だ(p.148)。
 ・実施されなかったこの憲法を、のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・だが、「あまりにも美しく、あまりにも完全な」この憲法は、「一七九三年の条件のもとでは、まったく実現不可能なものだった」。「モンターニュ派」の「理想」ではあっても「現実政策」の表明ではなかった(p.149)。
 ・「都市の民衆暴動」に「モンターニュ派」は苦しみ、妥協して急進的法律をいくつか作りつつ、「過激派」の逮捕・裁判も強行した。そして、「公安委員会の独裁と恐怖政治がはじまった」(p.149-150)。

 ・公安委員会は「王党派、フイヤン派、ジロンド派」を追及し「処刑」した。だが、「ブルジョア的党派と、プロレタリア党派が排除されると」、「モンターニュ派」自体が左右に分裂し始めた。ロベスピエールら公安委員会は「反対派の生命をうばう」「個人的暴力」を用いた。これが「残された唯一の道」だった。1994年4月以降、公安委員会の独裁というより、「ロベスピエール個人、あるいは…を加えた三頭政治家の独裁」だった(p.155-7)。

 ・三人の一人、サン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 (河野健二による総括的な叙述の紹介を急ごう。)
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていた。その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったとき、「危機が急速度にやってきた」。
 ・だが、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。
 ・ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。

 ・今世紀、ロシア・中国で、「ブルジョア革命のもう一歩さきには、社会主義社会をめざすプロレタリア革命が存在することが…実証された」(p.193)。
 ・レーニンは1915年に書いた。「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と。その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。レーニンは「ブルジョア革命と社会主義革命」との間の「深いつながり」を見ていた。
 ・「事実、ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 ・すべての「民族・民衆が『自由、平等、友愛』をめざすたたかいをやめないかぎり」「フランス革命は、…永久に生きつづけるにちがいない」(p.193)。
 三 以上の河野健二著の紹介は、むろん<(肯定的に)学ぶ>ためにメモしたのではない。現在はフランス、アメリカ等で<修正主義>が有力に主張されるなど、フランス革命の「革命」性自体が問題になっている。そして、細かな部分は別として、河野の叙述もじつに教条的なテーゼらしきものを前提としていることが分かる。最後の方の「まとめ」的部分などは、むしろ冷笑と憐れみをもって読んだ。
 <進歩的>知識人・文化人が共有したと見られる<フランス革命観>からもはや離れなければならない。
 <ジャコバン独裁>の中に、ロベスピエールの思考の中に、ロシア革命<「社会主義革命」の「先取り」>を見て、あるいは<早すぎたがための失敗・挫折>を見て、(いかほどに正直に書くかは別として)肯定的側面を見出すような思考をもはや止めなければならない。
 河野健二もまた、(明言はたぶんないが)日本にも徹底した「民主主義」化と「社会主義革命」がいずれ不可避的に生じるだろうと「夢想」していたのだろう(フランス革命の経験が<日本革命>にとってどのように「貴重な先例」として「学び」の対象になると考えているのかは全く不明だが)。
 四 1950年代末に書かれ、長く出版され続けた河野のような本を、杉原泰雄も樋口陽一も読んで、脳内に蓄え込んだものと思われる。そこでのフランス革命観と基本的な歴史発展の認識が誤っているとすれば、彼らのいかなる憲法関連の議論も、どこかが狂っているものになっているだろう。