一 憲法学上に、「国民主権」や立法議会(議員)の地位・性格にかかわって、「ナシオン(国民)主権」論と「プープル(人民)主権」論の対立があるようだ。
 八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書、2003)も上の対立に言及し、この対立・分類は「フランス革命のときに生れた」などと書いている(p.50)。
 だが、この二つの意味に関する八木の理解は適切なのだろうか。あるいは少なくとも、現在の日本の憲法学上の一般的・常識的なものなのだろうか。

 第一に、八木は、「ナシオン=国民主権」(「狭義の国民主権」)論における「国民」を「歴史的な総国民」と説明し、この意味での「国民主権と君主制は…両立する」と書く(p.48~49)。
 この、「狭義の国民主権」における「国民」の説明、「君主制」との関係の説明は、どうも一般的・常識的ではないような気がする。
 上の点にもかかわるだろうが、第二に、八木は、日本の「現在の憲法学の主流は…『プープル主権』『人民主権』に立っています」と書く(p.50)。
 「プープル(人民)主権」論からは「直接民主制が要請され」るとの説明(p.50)は妥当だとして、しかし、その「プープル(人民)主権」論が「憲法学の主流」だという認識が妥当であるかは、疑わしく思っている。
 二 浦部法穂=棟居快行=市川正人編・いま、憲法学を問う(日本評論社、2001)という本があり、その中で、棟居快行(現・大阪大学)と「プープル(人民)主権」論者らしい辻村みよ子(現・東北大学)が「主権論の現代的課題」というテーマで対談している。
 棟居快行によると、辻村みよ子は「杉原泰雄教授のブープル主権(人民主権)論を継承されると共に、その具体的な実現のコンセプトとして…『市民主権』を提唱されて」いる(p.56)。
 辻村みよ子はその杉原泰雄の指導を一橋大学で受けたようだ。マルクス主義憲法学者・杉原泰雄についてはその本の一つの一部をこの欄で紹介・言及したことがある。

 その点はともかく、八木秀次の叙述との関係でいうと、棟居快行は「…ナシオン主権論が有力なわけですが…」と明言し(p.56)、辻村も、「ナシオン主権の解釈が通説を占めるなかで…」と発言している(p.60)。いずれも、(日本の少なくとも2001年頃の)憲法学界の「有力」説又は「通説」は、「プープル(人民)主権」論ではなく、「ナシオン(国民)主権」論だと述べているわけだ。
 これら二人の認識は八木秀次とは異なる。はたして、八木秀次の日本の現在又は近年の憲法学説理解は適切なのか。
 また、フランス革命期の憲法・人権学説に関する研究書もある辻村みよ子と八木秀次では、「ナシオン(国民)主権」という場合の「国民」の理解も異なるようだ。

 すなわち、八木によると「国民」は「歴史的な総国民」で「国民主権と君主制は…両立する」らしいが、辻村はそんなことを書いてはおらず、「ナシオン(国民)主権」における「国民」は「…全国籍保持者」で、「国籍保持者の全体」なのか「有権者」団なのかという論点は残っている、という(p.58)。八木の「歴史的な総国民」という理解・説明とは大違いだ。
 三 辻村みよ子の所論、とくにその「プープル(人民)主権」論・「市民」主権論・直接民主制論を支持するために書いているわけではない。むしろ、これへの批判的なコメントを今後書くだろう。
 指摘しておきたいのは、八木秀次の日本国憲法論あるいは実際の日本の憲法学説の理解には、どうも正しくないところがあるということだ。
 また、些細な揚げ足取りの可能性もあるが(一方で重要な指摘の可能性もあるだろう)、例えば、八木秀次が「日本国憲法が政治哲学でいえば自由主義と民主主義に立脚」しているのは「評価」すべきだと肯定的に論及する(p.38)一方で、「日本国憲法が社会契約説に立脚していることを問題に」する改憲論に肯定的・好意的に言及する(p.47-)のは、矛盾していないだろうか。
 ともあれ、<保守>派の現役の憲法学者は数少ないので、<保守>派の人々は憲法論については八木秀次の本を参照することが多いかもしれない。しかし、この人の書いていることを無条件に信用・信頼してはいけない。上に書いたことはその一例だ。

 もともと、きちんとした憲法研究者ならば、高崎経済大学という法学部のない大学に所属しているのは奇妙なのではないか。いや、それは、<保守>派だから冷遇されているのだと八木は反論又は釈明するだろうか。

 私にとっては、八木秀次とは憲法(思想)研究者・憲法学者というよりも、<保守>派の「活動(運動)家」・「評論家」のイメージの方がとっくに強い。だが、一般論として言うのだが、専門分野(または「得意」分野)できちんと(それなりに高く)評価されていない者は、すぐれた「評論家」にはなれない(ならない)のではないか。