中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社現代新書、2008.07)はひと月以上前に通読している。

 あらためて精読したわけでもないが、昨日ケルゼンを最初に持ち出したのはたぶん西部邁と書いたのは誤りで、中島岳志。
 中島はp.23で言う-「法」の「背景」には「自然法」や「慣習法」がある。「保守派」なら「実定法至上主義、あるいは制定法絶対主義」の立場は「本来、手放しではとれないはず」なのに、「東京裁判や戦争犯罪をめぐっては、きわめて純粋法学のハンス・ケルゼンの立場、あるいは法実証主義と言われる立場で東京裁判批判を展開するという転倒が起きている」。
 きわめて不思議に思うのだが、中島は法学または法理論なるものについて、これまでにどれだけの基礎的素養を身に付けているのだろうか(まさかウィキペディアで済ませていると思ってはいないだろう)。
 経歴を見ると、中島岳志は法学部又は大学院法学研究科で「法学」の一部をすらきちんと勉強してはいない。むろんそのような経歴がなければ法学・法理論について語ってはいけないなどと主張するつもりはない。
 しかし、上のような論述を平気で恥ずかしげもなく公にできる勇気・心臓には敬服する。

 そもそも、第一に、少なくとも「慣習法」は「法」の「背景」にあるものではなく、すでに「法」の一種だ。「自然法」となると「法」の一種かについて議論の余地があるが、「法」の「背景」につねに「自然法」があるとは限らないことは-中島は別として-異論はないものと思われる。
 第二に、「きわめて純粋法学のハンス・ケルゼン」という言い方は奇妙な日本語文だ。「純粋(法学)」に「きわめて」という副詞を付ける表現自体に、法学やそもそものケルゼンについて無知なのではないか、という疑問が湧く。
 上に続けて中島は言う-「保守派」なら「道徳や慣習、伝統的価値、社会通念は『法』と無関係であるという法実証主義をこそ批判しなければなりません。…しかし、パールを援用した自称保守派の東京裁判批判は、全面的に法実証主義に依拠している」。
 この中島岳志は、①「法実証主義」(Rechtspositivismus)というものの意味をきちんと理解しているのだろうか。②「保守派」は、「法実証主義」を批判する(すべき)というが、では「左翼」は「法実証主義」者たちだ、ということを含意しているのだろうか。③そもそも「(自称)保守派」は「全面的に」「法実証主義」の立場で東京裁判を批判している、という論定は正しいのだろうか。
 じつはこの二人のこの本はほとんど読むに値しないと私は感じている。法学や国際法のきちんとした又は正確な知識・素養のない二人が、適当な(いいかげんな)概念理解のもとに適当な(いいかげんな)議論・雑談をしているだけだ、と思っている。講談社が月刊現代を休刊させるのも理解できるほど(関係はないか?)、講談社現代新書のこの企画はひどい。
 (朝日新聞社と毎日新聞社が授賞したという、もともとの中島岳志の本もじつは幼稚で他愛ないもので、授賞は<政治的>な匂いがある。)

 中島岳志に尋ねてみたいものだ。①現在の日本において、つまり現行日本国憲法のもとで「法実証主義」は採用されるべきものなのか、そうではないのか? 「法実証主義」なるものは、一概にその是か非かを答えることができないものであるのは常識的ではないのか(従って、その賛否が左翼-保守に対応するはずもない)。
 ②現憲法76条3項は
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。この裁判官は「良心」と「憲法及び法律」に拘束される(~に「従う」べき)という規定を、中島岳志は、「法実証主義」という概念を使ってどのように説明・解釈するか?

 幼稚な理解に立った(この人は誰から示唆・教示を受けたのか知らないがケルゼンを理解できていないと思う)、長講釈など読むに耐えない。
 上の中島の文章は東京裁判にまだ関係させているが、のちに西部邁はp.160で次のように言って論点をずらしている、あるいは論点を拡大させている。
 「日本の反左翼」は「ケルゼンにおける価値相対主義、法実証主義」を「受け入れるのか否かはっきりしていただきたい」。「法と道徳は全く別物だ、法に道徳や慣習が関与する余地がないという形式主義」を「自称保守派」が採るというなら、「保守」ではなく「純粋の近代主義(左翼)」に与していることが明瞭になる。
 東京裁判批判者が「法実証主義」に立っているという前提的論定自体に議論する余地があるが、それは措くとしても、「法実証主義」とは「法に道徳や慣習が関与する余地がないという形式主義」であるかの如き表現・理解だが、そもそもこの立論又は理解自体が適切なのだろうか。例えば、「法」(「実定法」でもよい)の中に「道徳や慣習」が(一部にせよ)含まれていることは当然にあり、そのことまで「法実証主義」は否定しないだろう。

 60年安保前にマルクスの一文も読まないまま日本共産党入党を申し込んだらしい西部邁は法学部出身のはずだが、まともに法学一般をあるいはケルゼンを理解しているのだろうか。平均人以上には幅広い知識・素養にもとづいて、しかし、厳密には適当ではないことを語っているように見える。
 それに何より、「ケルゼンにおける価値相対主義、法実証主義」に賛成するのか否かという問題設定・問いかけを(「反左翼」に対して)するようでは、パール意見書にかかわるより重要な論争点から目を逸らさせることになるだろう。こんな余計なことを書いて(発言して)いるから、小林よしのりや、さらに東谷暁による、瑣末な論点についての時間とエネルギーを多分に無駄にするような文章が書かれたりしているのだ。
 もっと重要な論点、議論すべき点が、現今の日本にはあるのではないか。
 八木秀次や西尾幹二のような者たちが、皇室に関する(しかも現皇太子妃に相当に特化した)議論に<かなり夢中に>なっているのも、気にかかる。
 中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社)のような駄書が出版されたのも、日本にまだ余裕があることの証左だと、納得し安心でもしておこうか。