〇櫻井よしこ・いまこそ国益を問え―論戦2008(ダイアモンド社、2008.06)はたぶん半分程度は既読のものをまとめたもの。数えてみると70ほどの項目があったが、見出しに「皇室」・「皇太子妃」を含むものは一つもない。
 この1年間の<国家基本>問題又は「国益」関係問題としては、対中国、対北朝鮮、これらにかかわる対アメリカや台湾問題の方がはるかに重要で、福田首相問題、(日本の)民主党問題もこれらに関係する。地球温暖化防止のための日本の負担の問題、公務員制度改革問題、さらに「道路改革」、集団自決・大江「沖縄ノート」等々と、櫻井よしこの関心は広い(にもかかわらず、「皇室」・「皇太子妃」に言及がないのは<静かにお見守りする>姿勢なのだろうと思われる)。
 〇小林よしのり・誇りある沖縄へ(小学館、2008.06)の最終章「『沖縄ノート』をいかに乗り越えるか」とまえがき・あとがきを読了。
 曽野綾子の本が初版は「巨塊」で増刷中に「巨魁」になった(p.189)というのは本当だろうか。私の持っているものは「巨塊」だ。小林はサピオ(小学館)では山崎行太郎を無視しているが、ここでは「オタク的言い掛かり」などと言及している。
 まえがきで小林よしのりが、大江健三郎の「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との文(大江・沖縄ノート)に「しびれる~~」と書いているが、似たような趣旨の文章をどこかで読んだ気がした。
 思い出した。樋口陽一の、同・自由と国家(岩波新書、1989.11)の最後のつぎの文章だ。
 「その名に値しようとする憲法研究者=立憲主義者は、立憲主義―その起源は西欧にあるが、しかし、くり返すが、その価値は普遍的である―を擁護するためには、彼の、あるいは彼女のナショナル・アイデンティティから自分自身を切りはなすだけの、勇気とヴィジョンを持たなければならない」(p.215)。
 「普遍的」な「立憲主義」を擁護するために、憲法学者は、自らの「ナショナル・アイデンティティ」を捨てる(「自分自身から切りはなす」)「勇気とヴィジョン」をもつ必要がある、つまりは、式上は日本国民であっても<日本人>たる「アイデンティティ」を捨てよ、と樋口は主張している。
 これは、大江健三郎のいう「このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえること」ではないだろうか。
 だとすれば、反日・亡国・日本国家「帰属」嫌悪者は、似たようなことを(いずれも相当にわかりにくく)言うものだ。
 すでに触れていることだが、「ナショナル・アイデンティティ」(日本国民意識・日本国家帰属意識)を「勇気とヴィジョン」を持って「切り離す」こと求めるこの樋口陽一の主張を、<樋口陽一のデマ2>としておこう。