佐伯啓思・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)からの要約的引用のつづき。
 ・フランス革命の同時代の英国人、「保守主義の生みの親」とされるエドマンド・バークは1790年の著で、国家権力・「政府」は「社会契約などという合理主義でつくり出すことはできない」と述べ、フランス国王・王妃殺害の前、むろん「ジャコバン独裁」とその崩壊の前に、フランス革命は「大混乱に陥るだろうと予測した」。(p.162-3)
 ・バークによれば、フランス革命の「誤り」は「抽象的で普遍的な」「人間の権利」を掲げた点にある。「人間が生まれながらに自然に普遍的にもっている」人権などは「存在しない」、存在するのは抽象的な「人間の権利」ではなく、「イギリス人の権利」や「フランス人の権利」であり、これらは英国やフランスの「歴史伝統と切り離すことはできない」として、まさにフランス「人権宣言が出された直後に『人権』観念を批判した」。(p.166)
 ・バークによれば、「緩やかな特権の中にこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣がある」。彼は、「特権、伝統、偏見」、これらの「合理的でないもの」には「先人の経験が蓄積されている」ので、「合理的でない」という理由で「破壊、排除すべきではない」。それを敢行したフランス革命は「大混乱と残虐に陥るだろう」と述べた。(p.167-8)
 今回は以上。
 「合理的でないもの」として、世襲を当然視する日本の「天皇」制度がある。これを「破壊、排除すべきではない」、と援用したくなった。
 それよりも、<ヨーロッパ近代>といっても決して唯一の大きなかつ「普遍的な」思想潮流があったわけではない、ということを、あらためて想起する。
 しかるに、日本国憲法はこう書いていることに注意しておいてよい。
 前文「……<前略>。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
 第97条「……基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、…、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 もちろん、客観的に「普遍の原理」にもとづいているのではなく(正確には、そんなものはなかったと思われる)、<制定者が「普遍的」だと主観的には理解した>原理が採用されている、と理解しなければならない。「生まれながらの」(生来の)とか「自然的な」自由・権利という表現の仕方も、一種のイデオロギーだろう。
 話題を変える。月刊WiLL5月号の山際澄夫論稿(前回に触れた)の中に、「(朝日新聞にそういうことを求めるのは)八百屋で魚を求める類であろうか」との表現がある(p.213)。
 上掲誌上の潮匡人「小沢民主党の暴走が止まらない!」を読んでいたら、(民主党のガセネタ騒動の後に生じたことは)「木の葉が沈み、石が浮くような話ではないか」との表現があった。
 さすがに文筆家は(全員ではないにせよ)巧い表現、修辞方法を知っている、と妙な点に(も)感心した。潮匡人は兵頭二十八よりも信頼できるが、本来の内容には立ち入らない。民主党や現在の政治状況について書いているとキリがないし、虚しくなりそうだから。