ほとんど登場させていないが、小林よしのりからは、ある意味、ある程度、影響を受けている。ヴィジュアルな手法での主張内容の<明快さ>によることも大きいだろう。
 その小林よしのりが、おそらく月刊正論2007年11月号(産経新聞社)以来、同誌2008年2月号とともに、雑誌・サピオ(小学館)の2007年11/28号あたりから同誌上で毎号継続して、<パール判事「意見書」>の理解をめぐって、主として中島岳志・パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義(白水社、2007年)を批判している。なお、牛村圭も、雑誌・諸君!(文藝春秋)の2008年1月号に「中島岳志著『パール判事』には看過できない矛盾がある」(p.198~)を書いている。
 パール判事「意見書」そのもの(邦訳でも)、中島岳志の上掲書、牛村圭・「戦争責任」論の真実-戦後日本の知的怠慢を断ず(PHP、2006)を読んでいないため、<論争>に参加する資格はそもそもないが、小林の書いたものを読んでいると、<小林・中島論争>のかぎりでは、小林が自信満々で書いているように-それが理由ではないが-小林よしのりの理解・中島に対する主張の方が適切だろうと思える。
 議論又は戦線は広がって小林は西部邁のパール理解(月刊正論1月号p.150-、「パール判事は保守派の友たりえない」)も批判しているが、その西部邁自体が、(小林・中島の)「応酬については、小林の言い分のほうに圧倒的に歩がある。そう評するのが公正というものであろう」と言い切っているのだ(上掲p.150冒頭。但し、二人の間の「応酬」の具体的または正確な内容を私が詳細に知っているわけではない)。
 かりに小林はもちろん西部や牛村の中島著に対する指摘が正当なものだとすれば、中島岳志の上掲書に肯定的評価を与えた書評者・論者・新聞等のマスコミは、過ちを冒したことになる筈だ。
 小林よしのりはサピオ3/12号で、中島著を種々の表現で「絶賛」した「学者」として、御厨貴(東京大学)、加藤陽子(東京大学)、赤井敏夫(神戸学院大学)、原武史(明治学院大学)、長崎暢子(龍谷大学)の5名を明示している(p.59。なお、中島岳志北海道大学)。
 「絶賛」という表現は正確ではなく、「肯定」した(「肯定的評価」を述べた)、又は問題点・欠点に言及しなかった、と表現した方がよい可能性もある。だが、一般雑誌上で明示的に名指しで批判され、パール意見書(「判決書」は正確ではない)を「読んでいないか、読んでいるとしたら、…小学入試不合格の国語力しかない者たち…。バカデミズムである」とまで書かれているのだから、弁明・釈明または反論をきちんと公にすべきだろう。学歴だけみると高校卒業の(筈の)小林にこうまで指弾されて沈黙しておれるのだとすれば、大学を卒業し大学の先生・「学者」になった方々は、なんと<無神経な>あるいは<傲慢な>ことだろう。
 ついでに、小林はサピオの上記号に「中島岳志や保阪正康ら『薄らサヨク』…」と記している(p.62)。最近この欄で保阪正康に批判的な書き込みをしたばかりなので、保阪正康を「サヨク」と明瞭に評する者がいる、と感じて、些細なことだが自分の感想・評価は大きくは誤っていないだろうと心強く感じた。
 もっとも、小林よしのりの論じ方をすべて肯定的に見ているわけではない。
 瑣末なことかもしれないが、基本的に重要な点だとも思える。すなわち、サピオ3/26号(小学館)p.55~も含めて、東京裁判を「認める(認めない)」とか、同裁判を「肯定する(肯定しない=否定する)」ということの意味をもう少し厳密に示した上で叙述・議論する必要があるのではないか(同じく「東京裁判」との概念にもその設定・手続・管轄なのか「判決」内容(多数意見)なのかという問題もあるだろう)。このことはむろん、小林よしのり以外の東京裁判を論じる全ての者についても言える。