産経2/09、山田慎二「週末に読む」の最後から二つめの文にいわく-「『偽装』のはびこる社会の底には『虚感』がただよっている」。
 産経発行・月刊正論3月号(2008.02)の佐伯啓思「『偽』の国から『義』の国へ」のうち共感できる又は参考になる叙述は以下。
 1 ・明瞭な「偽」ではない「虚」というものもある。世界的金融市場でのある種の投機的活動は後者にあたる。
 ・経済だけでなく、政治の世界でも「虚」が闊歩しており、典型は昨年の参院選挙だった。「長期的な展望にたったスケールの大きな争点」、つまり「本来の争点」としては「憲法改正、教育改革、日米関係や対アジア関係」、あるいは「戦後レジームからの脱却」をめぐる問題、これらが大きすぎればせいぜい「小泉改革」=「構造改革」の評価、が論点とされるべきだった。だが、争点は民主党がもち出し、自民党が「その戦略に乗せられ」、「大方のジャーナリズム、マスメディアがその方向へと世論を誘導した」、「消えた年金」と「政治とカネ」に縮減された。
 ・「『戦後レジーム』の見直しという『真』の争点ではなく、『消えた年金』という『虚』の問題を政権選択の争点にした」という意味で、2007参院選は「いわば壮大な『虚』」だった。「地方の病弊と格差」が選挙を左右したのは事実だが、これは「小泉改革」=「構造改革」の評価を問うことを意味するはずなのに、「自民も民主もマスメディアも」この争点を問題にする姿勢を示さなかった。自民党は「改革の継続」を訴えすらした。/「改革」の意味は不明瞭だった。自民党は「改革」と連呼すれば勝てると錯覚していたのか。ここにも「実」のない「虚」の言葉があった。
 ・政治の「虚」化は、2005衆院選でも見られた。
 2 ・教科書通りの合理的な民主政が「合理的な政治体制」を生むとは限らない。十数年来の日本の政治がその例。「『民意』を反映するはずの透明な民主政治が、著しく政治を不安定化し、一種の人気投票に変貌していった」。
 ・小泉純一郎の政治手法は「ポピュリズム=大衆迎合政治」とは少し違う、「デマゴーグ政治=大衆煽動政治」というべき。内閣直属の民間人専門家集団の活用は、「『民意』を反映するという名目で直接民主制的な要素をたぶんに持ち込んだ」。/「党主導の派閥政治」から「『民意』の反映という劇場型政治」へと大きく変化した。その際、「テレビやマスメディアの情報が、政治を動かす…決定的な力を持つようになる」。
 ・テレビは、決して物事のありのままを映像化しない、本質的に「虚」のメディアで、「その映像的効果そのものが、不可避的に作り出されたもの」だ。そして、「テレビに大きく依存した政治(テレ・ポリティックス)は、ますます政治を『虚』のものとして」いき、この「虚」を通じて「世論」=「民意」も作られる。<「民意」を反映した民主政>という口実の完成だ。
 ・「民意」自体が一つの「虚」だ。テレビの影響力を批判しているのではなく、それは「現代政治の条件」に組み込まれていることを「深く自覚」すべきと言っている。
 ・「テレ・ポリティックス」による「世論形成」に「政策」は左右されるので、「選挙」を前にした政治家はこの「『虚』の構造に巻き込まれざるを得ない」。政治家は「自分自身の確固とした見解」を持ってはならず、「思考停止」に陥って、「民意を尊重する」、「民意に従う」と言わざるをえない。
 ・「民意」という「虚」→政治家の政策・公約形成=「民意」の表明→「民意」による現実の政治、という「循環構造」の中で、「民意」は「実体をもたずに」「『偽装』されてしまう」
 ・日本は「虚」と「偽」の国家になった。
 以上(p.80~p.86)で、とりあえず終える。産経新聞の一部記者に見られた単純・素朴な<民主主義・民意>論とは大違い。
 佐伯はこのあと、別の論稿でも書いていることだが、<戦後日本>そのものに大きな「虚」と「偽」があることを述べている。
 勝手に書けば、占領(主権喪失又は主権制限)下での「新」憲法の制定、その憲法上の「陸海空軍その他の戦力」の不保持の明記と「自衛隊」(という実力・武力組織)のれっきとした存在……。基本的なところにすでに日本国家には「虚」と「偽」がある。これでは、誠実・真摯に物事を考える人々にとってますます「広く深くニヒリズムに覆われた時代」(佐伯・正論p.91。佐伯の文脈とは違う)になってしまうのもやむを得ないのではないか。
 2/06早々に、1/16に200,000到達以来21日めで、アクセス数が210,000を超えた。