<反朝日新聞>と謳いつつ、定期購読はしておらず、外出先で偶々読むか、社説をネット上でときに見るにとどまる。べったりとこの新聞と付き合うのは、精神衛生に悪い。
 外出先で偶々読んだとき、たいてい、「朝日らしさ」をどこかに発見する。
 販売店で古物を売って貰おうかなどとぼんやり考えているうちに月日が経ったが、朝日新聞今年1/05夕刊にも「朝日らしい」記事があった。
 記憶に頼らざるをえないのだが、①正月の「初詣で」を冷笑し、②「神道」は<純粋に日本的ではない>とするものだった。
 ①は直接にそう書いているわけではない。正月の「初詣で」者数の全国的な多さに驚いて、そのような<慣例>にイチャモンをつけておきたい気分がうかがえた、ということだ。
 ②はその旨を明示して、神道からは<むしろ(東)アジアに普遍的な>ものが見えてくる、というようなことを書いていた。
 <純粋に日本的なもの>を神道に求めるという風潮?を批判したい気分の明らかな記事だった。だが、歴史をいにしえへと遡れば、「日本」という概念すら曖昧になる。古代のずっと先から原型があったとすれば、「神道」は<純粋に日本的なものではない>というのは至極当たり前のことではないか。
 執筆した若い?記者は、正月の「初詣で」という、神道という宗教との関連性の多い筈の<慣例的行事>に多数の国民が参加していることに怖れをなし、そのような現象に水をかけておきたいと思ったのではなかろうか。さすがに明示はしていないが、そのような「朝日的」気分の表れた記事だった。
 ところで、日本共産党員、社会民主党員およびこれら両党の熱烈なシンパは社寺への「初詣で」(その他「食い初め」とか「七五三詣り」とか)はしないのではなかろうか。社寺のもつ「宗教」を馬鹿にし、そのようなものに関与している<大衆>をもバカにする、まじめな党員であるほど、そのような心情をもっているのではないか、と思われる(そして朝日新聞の記者もそうかもしれない)。