前々回に「参院選の基本的争点」などという大口を叩いた。産経6/26の正論欄では、村田晃嗣が「選挙への思惑を超えて、取り組むべき長期的な課題し山積している」として、第一に地球環境(温暖化)問題-安倍首相の「美しい星」構想、第二に集団自衛権問題を挙げている。そして、与野党ともに選挙にかまけて「日本外交にとっての長期的な戦略的課題」をなおざりにするなと結んでいる。
 異論はないが、こうした課題に関する議論は選挙の争点又はテーマのいくつかの一つにしても何ら差し支えないものだろう。
 月刊正論8月号(産経)の中西輝政「「年金」を政争の具にする愚かさ」は、政治家の事務所経費問題は「本当は小さな問題」で、これが大きくなったのは「瑣末民主主義」という「日本政治の病理の更なる昂進」の証左であり、政治とカネの問題を軽視するのは怪しからんという「小児病的正論」が歴史的に何をもたらしたのか「マスコミや世論はじっくり考え」るべき旨を述べている(p.78)。まことに正論、と私は感じる。
 中西においてはタイトルどおり、「年金」もまた「政争の具」にされてはならない。同感だ。自民党は街頭演説会等でこの問題に殆どの時間を費やすような愚かなことはしなくてよいのではないか。他の問題も含めて、安倍内閣のこれまでの成果を堂々と訴え、今後の方向を年金問題も含めてこれまた堂々と自信をもって訴えたらよいのではないか。
 中西によれば、年金記録漏れ5000万件の事実は日経が2月に報道し、民主党も認識していたが、5/23の会合で、つまり参院選の時期が近づいてから、小沢一郎・民主党代表は「年金問題を参院選の最大の争点にせよ」と檄を飛ばした、という(p.81)。国家の理念も国益も忘れてもっぱら<選挙に勝つ>ことしか考えていない小沢一郎の戦術は果たして成功するのかどうか。
 再び中西によれば、年金制度は重たい問題で、その変革は超党派で取り組むことが求められるのがスエーデン、ドイツ、イギリスなどの例であり、教訓らしい。戦前のドイツで時の与党を年金問題で攻撃して大躍進したのがヒトラー・ナチスだという。中西によれば、にもかかわらず、日本では「与野党、特に野党の側に自己抑制が働いていない」。
 中西は言う-「ポピュリズムを煽ることしか念頭にないマスコミに煽動された国民の多くはあのずさんな社保庁を放置してきた責任は「与党にある」としかとらえない。マスコミは「政争の具にしてはならない」との声を、単なるレトリックとしてしか見ない。そこにこそ年金問題の本質がある」(p.82)。
 代表者(立法議会議員)を選出する自由な投票こそが「民主主義」の根幹だが、民主主義又は民主制はもともと<衆愚政治>の意味を内包している。「衆愚」というと印象の悪い言葉なので、「大衆民主主義」には弊害又は消極的側面がある、と言った方がよいかもしれない。
 「大衆民主主義」とは現代を表現する学問上の概念だ。阪本昌成の本によると、オルテガやオークショットは「大衆民主主義の影」を気遣い、懸念した、という(同・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.93)。
 日々の生業・生活に忙しい国民(有権者)の全てが必要な全情報を得たうえで適切かつ合理的に政治的な判断・選択ができる訳がない(これは憲法改正以外の案件に関する国民投票制度や自治体レベルでの住民投票制度の設置や利用に私が消極的で、「代議制」=間接民主主義の方が優れていると考える理由でもある。この点はまた別の機会に)。
 もともとそういう限界があるところに、現代の選挙は「マスコミ」が作るイメージにかなり左右されてしまうという面もある。
 ということもあり、年金問題がなくとも自民党は敗北する(議席減少)予定の選挙だったのだから、敗北(議席減少)はやむをえない。
 だが、安倍首相の退陣だけは是非、何としても避けたいものだ。朝日新聞と日本共産党・社会民主党がこれまでの首相に対するのと比べても安倍首相攻撃・批判を強めてきたのは、安倍が彼らと正面から闘う人物だからだ。彼らにとっては、安倍は怖いのだ。安倍退陣は朝日新聞の若宮某を含む彼らを小躍りさせて喜ばせてしまうだろう。北朝鮮が喜ぶのも目に見えている。
 そのような首相を変えてはいけない。共社両党と妥協したり朝日新聞の主張に部分的にせよ<迎合>するような首相に変われば、近年の数年間の努力は無に帰してしまう。
 保守派からの不満は残ったのだろうが、内閣総理大臣による靖国神社への参拝をともかくも復活させたのは、小泉前首相だった。
 教育基本法も改正され、憲法改正手続法も制定されて、大きな変化の時代を乗り越える準備が現に着々となされ(社保庁解体・公務員制度改革もその一つ)、たんなる準備ではない成果も挙げてきているのだ。首相在任まだ10ケ月の安倍晋三を辞めさせるのは早すぎるし、日本のためにも絶対にならない