今月末の参院議員選挙では、いつの選挙でもそうだが、現時点の日本がどういう国際環境に置かれ、国内的にどういう経済的・社会的状況にあるのかをふまえたうえで、どの政党又は候補者に「政治」を任せるかが判断されなければならない。
 その場合、どうしても、巨視的かつ歴史的な今日という時代の位置づけ、そして安倍晋三政権の意味、に考えをめぐらすことも必要だ。
 巨視的かつ歴史的に見た場合、私は次のような変化の真っ只中にあるのが今日の状況だと考えている。
 第一は、経済政策的にみて、ケインズ主義的な国家介入とともに「社会民主主義」的とすら言えるような国家による経済(市場)への介入および「福祉」政策を展開してきた、かつそれが財政的にまだ可能であった時代から、国家の一種の「放漫」経営をやめた、「自由主義」的経済政策、スリムな国家づくり、国家の<役割・分限>をわきまえた政策運営へと舵を切りつつある重要な時代の転換点にある。
 こういう傾向、動向は不可避であり、進めるべきものと私は考える。
 米国にレーガン、英国にサッチャーという、「自由主義」者(「保守主義」復活者)が現れ、欧州における<冷戦>も終わったのだったが、日本は90年代に逆に、細川連立政権・村山連立政権という「社会民主主義者(+一部の本当の社会主義者)」が加わった政権ができたために、「自由主義」への回帰が決定的に遅れた。小泉内閣以降の<構造改革>とはこうした遅れを回復しようとするもので、ケインズ主義的又は社会民主主義的な国家の介入、言い換えれば国家への依存、に慣れた者にとっては<弱者に冷たい>・<格差が拡大する>等の批判になっているのだろうが、国家も<無い袖は振れない>場合があるという現実をまともに直視すべきだ。
 いったいいくらわが国家は国民から借金しているのか。国家の赤字は結局は国民の負担となる。できるだけ早く借金漬け国家財政から脱却しなければならない。
 国家財政を圧迫しているのが国家の被用者=公務員の人件費だとすれば、これも削らなければならない。余計な事務・仕事を国家(公務員)が引き受ける必要はないし、まじめに仕事せず、ましてや意識的・組織的にサボりミスをして国家運営をしている政権与党に不利になるようにと考えていたような公務員は、まず第一に放逐する必要がある。
 第二に、1980年以降だと思うが、特定アジア諸国に対しては、過去の贖罪意識からか、弱腰で、言いたいことも言えない、逆に相手の意向に合わせて、事実でないことも事実であるかの如く認めてしまうような<卑屈な>外交が行われてきたが、これを改めて真に対等に、堂々と是々非々を発言し、議論する外交等を毅然として特定アジア諸国に対して行うように変わりつつあるように思われる。
 明瞭に変化していない論点・問題もまだあるが、こうした方向は正しく、一層進めていかなければならない、と考える。北朝鮮の金正日が拉致犯罪を自ら認めたのは大きかった。<媚中>・<屈中>外交はいいかげんにやめるべきだ。歴史認識も、相手国のそれに追随する必要はもちろん全くない。
 教科書検定に<特定アジア考慮条項>を持ち込んだ当時の内閣総理大臣、<従軍慰安婦国家関与>を認めた官房大臣談話のときの内閣総理大臣、の責任ははなはだ大きい、と私は思っている。
 第一、第二の点のいずれについても、私は、宮沢喜一首相の責任は小さくない、と思っている。彼は、首相をやめた後で再度小淵内閣の蔵相だったとき、最高額の国債を発行したようだし、所謂河野談話のときの内閣総理大臣は宮沢喜一その人だった。
 いずれの点にも関係しているだろう、現在の内閣を「危ない」と言い、「リベラル」派の結集が必要などと自民党内で主張している旧宮沢派の加藤紘一は、巨視的な時代の流れを理解していない。<国家ができるだけいろいろなことに面倒を見てくれた>戦後体制のシッポを加藤紘一は引き摺っている。そして、朝日新聞には気に入られるようなことを発言して報道してもらって、とっくに政治生命は終わっているのに、それが分からないまま、自己満足しているようだ(自民党から脱党して貰って結構だ。ついでに谷垣某、曖昧な古賀某も)。
 日本共産党や社民党は主義として<弱者保護>・<格差是正>等と主張して<大きな国家><大きな財政>の維持を客観的には望んでいるに違いないが、その他の党派や国民はそう考えるべきではない。再述すれば、国家も<無い袖は振れない>のだ。何となく、国家はずっと存続するだろう、と考えていたら、甘い。
 第三に、まだ明瞭になっていないかもしれないが、日米関係が微妙に変化していく端緒的時代にいるような気がする。
 むろん両国の緊密な同盟関係は今後も(少なくとも表向きは)続くだろうし、続けるべきだとも思うが、しかし、日本の安全保障に関して本当に米国は信頼できるのか、という問題はでてくるだろう。いや、すでに一部では論じられているかもしれない。
 米国の日本に対する態度がどうであれ、ある程度は米国に頼ることなく自国だけで安全保障を達成するように少なくとも努力することは考えられてよい、と思う(日本の軍事的自立に、米国は自国は楽になったとは思わず、日本を警戒して反対するだろうと予想するのだが)。ちなみに、憲法九条二項の削除はそのための重要な手段だ。
 以上のいずれをとっても、重大な問題ばかりだ。だが、大まかにせよ、上のような基本的問題について各政党の基本的スタンスを知ったうえで選択し、投票すべきだ。
 日本共産党や社民党は勿論、民主党の中にも「社会民主主義」・<特定アジア諸国シンパ>の議員はいる。余計ながら、政党として、自民党が上の三点の方向に最も近いことは確かだ。
 ところで、上のように政治に素人の私でも一国民として考えるのだが、月刊・諸君!8月号(文藝春秋)の座談会、国正武重・田勢康弘・伊藤惇夫「安倍政権、墜落す!」は何だろう。
 巨視的・歴史的な今回の選挙の位置づけなどまるでない。政治家に対する政治屋という言葉があるようだが、この三人は、政治評論屋であり、「政治」に関する適当な雑談や雑文書きを生業としている政治屋だ。
 この三人全員に尋ねたいが、貴方たちは日本がいったいどのような国家・社会になれば望ましいと考えているのか。そのようなマクロな歴史観・国家観なくして、近視眼的にのみ「政局」を論じて(いや雑談して)もらっては困る。
 国正某は元朝日政治部次長等、田勢某は元日経編集局長等、伊藤某は元民主党事務局長。すべて、真摯に日本国家のことを考えてきた人たちとは思えない(私は日経も含めて新聞社の人を基本的に信頼しない、朝日新聞となれば尚更だ)。
 文藝春秋の月刊・諸君!編集部(編集人・内田博人)は、安倍政権を見放すような記事をメーンに持ってきた。これは編集方針の大きな変更とも感じられる。文藝春秋もつまるところは<世論迎合>の<儲け主義>の出版社だった、というところだろうか。
 むろん私は絶対的に信用できる出版社があるとは思っていない。すべて相対的な話なのだが、文藝春秋の月刊・諸君!は今後、販売部数を減らすだろう。