朝日新聞は、「東京裁判」判決言渡しの翌日の1948.11.13社説に次のように書いた。
 「東京法廷において決定された意思が…動かし難い権威ある意思であることはいうまでもない。…意思の寛厳について論ずる資格をもたないし、また論じようとも思わない」。
 「この際銘記しておきたいことは、この裁判が…軍国主義的な過去の日本の完全な精算を要求すると同時に、…未来に建設すべき日本の姿を明確に平和国家として規定するものだという点である。しかもこの要求と規定は、今後決して再審の機会を与えられることなく、いつまでも日本国民の行動を制約するものだということである。そして、われわれは進んでこの制約に服するものである」。
 この社説は、東京裁判が過去の日本の「清算を要求」し将来の日本を「規定」するので、日本の行動を「制約」するが、「われわれ」=朝日新聞は「進んでこの制約に服する」と宣言している
 占領下なのでGHQに「迎合」する気分があったに違いないが、それにしても見事に、自分には自分で思考し判断する能力・資格がない、ただただ(東京裁判判決を)有難く頂いて永遠に尊重します、と告白しているわけだ。
 しかし朝日は主権回復後も、すなわちGHQのプレスコードによる実質的な「検閲」があり自由な言論ができなかった占領期が終わって独立して以降も、「自由な」マスメディアとしては最悪・最低の告白を改めようとせず、占領期間中の、<自虐史観>あるいは東京裁判史観をそのまま維持し続けた、と私は理解している。
 ここに朝日新聞の致命的な欠陥があるのでないか。近年の靖国・戦犯問題等での朝日の論調の基礎にも、この60年近く前の社説があるようだ。その意味でじっくりと読まれてよい社説だと思う。