エントリーが100回を超えてしまうと、既に書いたことなのかどうかが分からなくなるものがある。
 日本の社会系・人文系の学界にはまだマルクス主義の影響が強く残っているようであることに、すでに言及したかもしれない。とりあえず私がそう感じるのは(たぶんに推測を含んでいるが)、日本史学と政治学だ。
 法学界のうち、少なくとも憲法学界も含めてよいだろう。前々回に一部紹介した渡部昇一の書評文の中には、「…憲法九条のおかげだ」という「嘘に学問的装いを与えてきたのは東大の憲法学教授たち」だとの文もある。
 その書評の対象だった潮匡人・憲法九条は諸悪の根源のp.250には東京大学に限らない、次の語句もある-「前頭葉を左翼イデオロギーに汚染された「進歩派」学者の巣窟ともいうべき日本の憲法学界…」。そして、「学界の通説」を代表する芦部信喜氏は「自衛隊は…九条二項の「戦力」に該当すると言わざるをえないであろう」と述べて「明白な自衛隊違憲論」に立っているとする(p.252。なお、芦部は1923-1999で故人)。また、改憲を説く憲法学者は少なく、樋口陽一は「とりわけ先鋭的に「護憲」を奉じている」と書いている(p.253)。この二人は東京大学教授だった。樋口の論の一部には言及したことがあるが、芦部(および現役東京大学法学部教授の長谷部恭男等)の論も含めて、今後言及することがあるだろう。
 「「進歩派」学者の巣窟ともいうべき日本の憲法学界」と称される中では、別冊正論Extra.06・日本国憲法の正体(産経)に原稿を寄せている憲法学者はごく少数派に属するに違いない。八木秀次百地章の2人、憲法「無効論」の小山常実氏を含めて3人だ。こうしたタイトルの現日本国憲法に批判的な特集に(但し、呉智英氏は九条護持論者だ)、編集部を除く20人の執筆者(巻頭は櫻井よしこ)のうち憲法学者が2~3名しかいないというのも、現憲法に批判的な憲法学者が少ないことの現れかと思える。
 上にいう「進歩派」とはマルクス主義者、親マルクス主義者、少なくともマルクス主義憲法学者に敵対はしない者をおおむね意味していると、大まかには言えるだろう。
 上には名前が出ていないが、これまでに言及したことのある阪本昌成(現在、九州大学教授)も、少数派に属する憲法学者のようだ。
 阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー〔第二版〕(有信堂、2004)は<反マルクス主義>に立つことを次のように書いている(1998年の第一版も所持しているが、文末の表現を除いて同一内容だ)。ここまで明瞭にマルクス主義を批判している憲法学者がいることを知り、驚くととともに安心もした。
 「
マルクス主義とそれに同情的な思想を基礎とする政治体制が崩壊した今日、マルクス主義的憲法学が日本の憲法学界で以前のような隆盛をみせることはないはずだ(と私は希望する)。…。
 マルクス主義憲法学を唱えてきた人びと、そして、それに同調してきた人びとの知的責任は重い。彼らが救済の甘い夢を人びとに売ってきた責任は、彼らみずからがはっきりととるべきだ、と私は考える。…本書は、マルクス主義憲法を批判の対象としない。なぜなら、マルクス主義は、もはや古典的リベラリストにとっての「論敵」ではないからだ。それでも彼らは、<社会的弱者を放置するなかれ>という平等主義を、社会主義に代わるスローガンとして掲げ続けるだろう。
 マルクス主義者の失敗の最大原因は、経済自由市場のメカニズムを信用することなく、確固とした正義(彼らにとっては、イデオロギーではなく「科学」であると思われたもの)が市場の外にあるとの前提のもとで、その正義の鋳型に沿って国家と社会を設計主義的に作り上げることができると過信した点にあった。計画経済、基幹産業の国有化、集団農場政策等がこれであった。これらは、自由市場の「見えざる手」をあざ笑うかのような成果を見せたように思われた。が、全面的に失敗した
」(p.22-23、以下省略)。
 マルクス主義は消滅したように見えてもルソー的平等主義を主張するかぎり必ず復活してくる旨の中川八洋の指摘を思い出す。「設計主義」とは、マルクス主義(共産主義)を批判する際にフォン・ハイエクが用いた概念だった。
 この阪本昌成の現憲法に対する態度は、正確には(まだ彼の本を十分には読んでいないので)知らない。しかし、現憲法「無効」論者の小山常実はさしあたり別として、「マルクス主義的憲法学」が(少なくとも従前は)隆盛の中での
、八木秀次、百地章、そして阪本昌成各氏を、私が何をできるかは分からないが、少なくとも精神的・心理的には、強く支持し、応援したいものだ。
 現時点での最も大きい対立軸は共産主義者(又はその追随者。朝日新聞、立花隆、社民党等々)と「自由主義者」(反共産主義者)との間にあるのであり、現憲法についての有効論者と無効論者との間にあるのでは全くない、と考えている。