人が亡くなると、とくに何がしかの業績を残した人については、追悼集会・お別れの会が開かれることがある。そうした会の発起人たちは、故人のすべてを「讃え」、故人の全ての行動・言葉に「賛同」しているだろうか。いくら立派な人だったとしても、そういうことは通常はありえないのではなかろうか。
 1970年に三島由紀夫が自裁したのち、文学者・作家を中心に42名が発起人となって「三島由紀夫追悼集会」が開かれた。発起人代表は林房雄、発起人の中には倉橋由美子、桶谷繁雄、水上勉らもいた。
 この追悼集会発起人全員の名を明記した上で、これらの人々に対して、1.「日本が朝鮮や中国などを侵略したこと」、2.「日本の侵略軍が…一般民衆を虐殺したこと」、3.「それらすべてが、最終的には『天皇』の名のもとに行われたこと」、これらの「事実に対して、あなた方はどう思っているのだろうか」との問いを発した人物がいた。
 この問いを発したのは、元朝日新聞の、本多勝一氏だ。同・殺される側の論理(朝日文庫、1982)p.298以下に収載されている。
 上の3点と三島由紀夫の「思想」との関係もさることながら、追悼集会の発起人として名を連ねただけでかかる質問を受けるとは、発起人たちには訳がわからなかったのではないか。それが、常識的な、普通の感情だろう。追悼集会の発起人になったことが三島の「思想」・言動の全てを肯定し賛同することになるとは通常は思えないからだ。
 本多勝一氏は「名を口にするのも不快な一小説家」、「あのハラキリ小説家」と言うくらいだから、余程三島由紀夫が「憎い」か「嫌い」だったのだろう。だが、死後に追悼集会が開かれることに、そして42名の発起人がいたことに、なぜこんなに憤ったのだろう。少なくとも私には、理解不能だ。神経が違うとでもしか言いようがない。
 朝日新聞にはかつてこんな人がいて、記者として中国・南京等に出向いて、聞いたことをそのまま新聞記事にし、本にまとめたりした。また、こんな人を尊敬して朝日新聞に入った、本田雅和という、今は現役の記者も生まれた。