Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。同(Encounter,1986)の修正つき再印刷だとされている(1990年版のp.3 の脚注)。
 この書を、冒頭から試訳する。邦訳書はないと見られる。 
 <Modernity>は訳しずらいので、そのまま用いる(小文字のmodernity も同様)。modern も、そのまま使うことがあるかもしれない。
 一行ごとに改行し、本来の段落を示すために原文にはない数字番号と//を用いる。
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 緒言(Foreword)
 (1)この書物に収載された諸小論は、多様な場合に、様々な言語で、1973年から1986年の間に、書かれた。 
 この書で、何らかの「哲学」を提示するつもりはない。
 そうではなく、我々の文化、政治、宗教生活について語って完全に一致していようと努めるときにつねに立ち現れる、多数の不愉快で不可解なデレンマの指摘を試みて、ほんの少し哲学的な話をする。
 しばしばあることだが、矛盾に充ちた世界で最良のものを得ようとして、その結果、我々は何も得るものがない。
 それができずに、あるときに精神的資産を質入れしても、我々はそれを再び買い戻すことができず、一種の教条的(dogmatic)な不動の状態に嵌まり込んでいる。 
 我々は自分たちを森の中の宝捜し(tresure hunter)だと想像しているのかもしれない。しかし、森の中の伏兵を避けることに力を費やしているのであり、かりにそれがうまくいっても、成果はただ、伏兵を避けた、ということだけだ。
 もちろん純益はなく、我々が追い求めたものはない。//
 (2)ゆえに、この書の諸小論は、教訓を垂れるものではない。
 そうではなく、調和のうちに中庸さを求める訴えだ。—そして、私が多年にわたって多様な視座から見つめてきた主題だ。//
 (3)この書の文章は別々に、一つの書物としてまとめられて出版されるという考えなどなくして、書かれている。
 私はこのことに大して悩んではいない。なぜなら、—拘禁状態にある私を別とすれば—、いったい誰が、ともかくも全体を読み通すことができるほどに、我慢強いだろうか?
 レシェク・コワコフスキ
 1990年 3月 3日// 
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・限りなく審判されるModernity①。
 (1)ヘーゲルを—あるいはCollingwood を—信じるとすれば、時代も、文明も、それ自体を概念的(conceptually)に把握することはできない。
 それらが終焉した後で初めて、そうすることができる。そしてそのときでも、きわめて十分に知っているように、間違いのない把握や普遍的に受容されるような把握の仕方はあり得ない。
 文明に関する一般的形態論も文明の構造的特性に関する叙述も、いずれもひどく異論があり得るもので、大きなイデオロギー的偏見を伴っている。表現しているのは、過去と比較しての自己主張をする必要か、それとも自分の文化的環境の不安とそれによって生じている古き良き時代への郷愁か、そのいずれにせよ。 
 Collingwood は、どの時代にも多数の基本的な(「絶対的な」)前提条件(presuppositions)がある、だがその前提条件を明瞭に説明することはできず、その前提条件は典型的な反応と願望である明白な価値と信条に潜在的な刺激を与える、と説く。
 もしそうならば、そうした前提条件を古代や中世の祖先たちの生活のうちに見破り、おそらくはそれにもとづいて「心性(mentalities)の歴史」を築き上げることができるのかもしれない。
 しかし、ミネルヴァのふくろうはすでに飛び立って我々が黄昏時に、時代のまさに終末に、生きているのでないかぎり、自分の時代の前提条件を明瞭にすることは原理的にすることができない。//
 (2)そうなのだから、我々自身の精神的(spiritual)な基盤についての救い難い無知を受け容れよう。そして、我々の—この語が何を意味しているのであれ—「modernity」の表面を概観することだけで満足しよう。
 この言葉が何を意味していようと、確実に、modernity はmodernityに対する攻撃がそうであるほどにはmodern でない。
 「ああ、現代は、…」、「もはや…でない」、「昔は、…」といった嘆きの言葉や、腐敗した現在を過去の偉大さと対照させる同様の表現は、たぶん人類の歴史と同じ昔から見られる。
 聖書や<オデッセイ>に、そうした表現はある。
 永続的な住処を持った方がよいという愚かな考えに怒って抵抗する、あるいは車輪という邪悪な発明物のために人類の衰退が切迫しつつあると予言する、旧石器時代の遊牧民を、我々は想像することができるだろう。
 知られるように、衰亡と把握される人類の歴史は、世界の多様な地域で最も長く持続している神話的主題の一つだ。追放された者の象徴および五つの時代に関するヘシオドス(Hesiod)の叙述の両者を含めて。
 このような神話が頻繁に見られることは、考えられ得る社会的および認知的機能を別にすれば、人間に普遍的な、変化に対する保守的不信感を示しているし、また、よく考えれば「進歩」は少しも進歩ではないという疑念や、いかに利益となるように見えても、物事に関する確立した秩序の変化に順応することには気乗りがしないことも示している。//
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