レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 第12章へと進む。原書、p.85〜。この書に邦訳書はない。
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 第12章・退屈について(On Boredom)①。
 (1)退屈について語って、退屈させようとしているのではない。
 換言すると、私は簡潔でなければならない。
 退屈の問題それ自体は、退屈なものでも瑣末なものでもない。我々みんなが経験している感覚(sensation)に関係するからだ。
 極端な場合(例えば、感覚喪失を伴う心理実験)を除いて、退屈は楽しい感覚ではない。だが、それを苦痛と呼ぶこともできない。//
 (2)退屈は、美学上の性質に似て、経験し得るものと、経験した事物に帰属するものとの、両方であり得る。すなわち、私はある小説に退屈し得るが、その小説自体がまた退屈なものであり得る。
 ゆえに、ある人々が何のために「現象論理学」研究と称するのを好むかは、適切な主題だ。//
 (3)この言葉の日常的な用法を考えるとき、まず最初に気づくことは、我々がそのうちに経験する事物についてのみこの語を使っていることだ。
 かくして、演劇、演奏会、歴史論文や仕事は、全て退屈であり得る。
 我々はしかし、絵を描くことは退屈だと通常は言わないだろう。絵を描くのは、我々が一瞥すれば理解することだからだ。
 風景は、長い間それを見ていると、退屈なものになり得る。列車の窓から見える雪で覆われた平原は、その単調さと目立つものの欠如のために退屈なものになり得る。
 我々が経験する事物は、繰り返しが多いか、または混沌、無意味、支離滅裂かのどちらかの理由で、退屈であり得る(混乱や支離滅裂を描写する小説または戯曲は必ずしも退屈ではないけれども。Beckett やJoyce は好例だ)。
 そして、こうした事物に関する我々の経験が不変で連続していて、新しさの見込みがないために、その結果として何も新しいことが生じるのを期待できない、かつかりにそうであっても何ら気にしない、つまり我々に関しては期待することが全く起きないと思う、そういう世界にいると感じるときに、我々は退屈する。//
 (4)それ自体で退屈なものは何もない、と人は論じることができる。なぜなら、人々は世界の些少な違いにかなり異なって反応するのであり、退屈かどうかは、人々の過去の経験や現在の環境条件によるのだ、と。
 かつて面白いと感じた映画は、のちにすぐにもう一度観ると退屈になる。その映画の中で起きることはもうすでに我々に発生したからだ。
 音楽についてほとんど知らない人は、ブラームスの一定の交響曲に退屈するかもしれないだろう。だが、例えば、チャイコフスキーやパガニーニのバイオリン協奏曲、あるいはショパンのピアノ協奏曲には退屈しないかもしれない。一方で、音楽の知識が多い人は、そのような人の反応に同意せず、その人を無知だと非難するだろう。
 他者には魅力的な歴史論文であっても、その主題に習熟しておらず、関係もないために、私には退屈かもしれない。そうして、違いを感知して、今までになかった重要さや独自性を見極めることができなくなる。
 長期間にわたって決まりきった事として行ってきた人には退屈だと感じる仕事も、初めての人にとっては必ずも退屈でない。
 あるアガサ・クリスティの殺人事件小説は、我々が知らない言語で読もうとすれば、極端に退屈だろう。等々。//
 (5)退屈というものは相当の程度は我々の経験や世界に対する個人的な反応いかんによっている、というのは明瞭だと思える。また、これについては全員一致というものはない、ということも。
 ゆえに、ある何かはそれ自体で退屈であり得るか否かと問うことは、美学的特性はつねに我々の個人的反応の反射にすぎないのか、それとも、何らかのかたちで我々の知覚の対象、つまり「物それ自体」、の中に内在しているのか、と問うことにむしろ似ている。
 確かに、上の両者のいずれについても、同意も不同意もある。
 また、いずれの場合も、議論の性格は文化依存的(culture-dependent)だ。
 しかし、問題はたんに答えられないということかもしれない。つまり、こうした退屈の性格を知覚するときに心(mind)と客体(object)は相互に働き合っており、我々の知覚と知覚される客体の間の相互影響関係は、どちらが最初なのかを語ることを、いやそれを問うことすら、不可能にしているのかもしれない。//
 (6)我々は退屈について、普遍的な人間の現象であるのみならず—我々みんなにむしろ、例えばBaudelaire やChateaubriand〔いずれもワインの銘柄—試訳者〕に限定されるような、特権を与えてくれる感情—、人間に独特なものだとも考えている。
 我々は動物について、退屈を感じる生物だとは考えない。
 危険がなく、肉体的な欲求が充たされれば、彼らは何もしないで横たわり、活力をたくわえる。そして、彼らが退屈していると考える根拠はない。
 (我々がときどき想像するように、犬が退屈しているとすれば、それはたぶん、我々から退屈を学んだからだ。)
 いつ、我々人間は退屈という経験を最初に明確に語り始めたのかも、明瞭でない。
 この言葉それ自体は存在していたとしても、19世紀より以前の文学上や哲学上の文章の主題ではなかったように見える。
 伝統的な原始的村落で、農民たちは、生存し続けるために明け方から夕暮れまで同じ場所にいてこつこつと働いた。そのような毎日繰り返す仕事の同じさに、彼らは退屈していただろうか?
 我々はこれへの答え方を知らない。だが、ほとんど時間を超えた、変化する見込みがないその農民たちのような運命ですら、退屈という恒常的な感情を誘発することがなかった。
 日常から生まれて継続するものがあった。子どもたちが生まれ、死んでいき、隣人たちは姦通し合い、干魃や激しい雷雨があり、火事や洪水があった。予期できない、神秘的な物事全ては、危険なものも慈悲あるものも、彼らの存在の単調さを救い、自分たちの生活は予測し難い運命の気まぐれに掴まれている、と感じさせたに違いない。//
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 ②へとつづく。