レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 第10章・背信(裏切り)について(On Betrayal)②。
 (8)我々は、何の分類もなくして、当該の国家が正統なものでないならば背信は許される、と言うことすらできない。なぜなら、国家の正統性(legitimacy)という規準は、決して明瞭ではないからだ。
 国際法では、いわゆる国際共同体で、換言すると国際連合(the United Nations)によって承認されているならば、その国は正統だ。
 しかし、国際連合によって承認された国家の中には、最悪の専制的体制や、その国民の大量殺戮を行なっている国家もある。
 このような国家に対する背信は、非難ではなく賞賛に値するように思えるだろう。
 イデオロギーが規準であるために、そしてイデオロギーは様々であるために、何が背信となるかについての合意は存在し得ない。
 民主主義諸国に反対して共産主義専制体制のためにスパイをしたソヴィエトの工作員たちは、たいていは、少なくとも共産主義体制の初期の時代にはイデオロギー上の理由を動機としていた。
 のちになって、金銭または脅迫あるいはこれら両者がイデオロギーに取って代わった。
 さて、このような人々—例えばCambridge スパイ網—は、理由がイデオロギー上のものだという理由で正当化され得る、と我々は言うべきなのか?
 かりにそうではなく、そのイデオロギーが間違っているか、または犯罪に該当する場合にはどうか?
 困難さがあるのは、明瞭だ。
 イデオロギー的動機はしばしば感情的なものにすぎないことが判っている。
 そして感情を正当化できるならば、我々がしたことの全てが正当化されるだろう。そして、悪いものとしての背信という観念は、その意味を失う。//
 (9)だがしかし、背信という観念に含まれる曖昧さをたんに指摘するだけでは、満足できないところがある。
 我々は背信という観念をまさにその本性から生じる行為として必要としていると感じているという理由で、問題を放置することには我々は同意しない。
 そしてそれがもつ我々にとっての重要性のゆえに、明確にすることができるようにすべきだと感じる。何かの哲学や政治的イデオロギーによって相対的にではなく、絶対的に、正しいか間違いかの明瞭で簡潔な言葉を用いることによって。
 例えば、内密に語られた他人のことを、自分の個人的な利益の獲得のためであれ、娯楽のためであれ、暴露する人々は、明らかに背信であって有責だ。
 実際に我々はこのような人々について、「信頼を裏切った」と語る。
 個人を対象にしているこのような場合では、誰かが背信したか否かを決定するのはかなり容易だと我々は考える。
 背信の行為が許されても、それにもかかわらず、それは背信の行為であるままだ。St, Peter は危急の場合に非難したことを君主と救済者に許された。だがなお、その継承者と教会の設立者として指名された。  
 この事件の神学上の解釈は、しかしながら、ここでの我々の関心である必要はない。//
 (10)政治的な背信または反逆は、多くの理由で、もっと曖昧な観念だ。
 第一に、政治では正しいか間違いかを明確には区別し難いため、第二次大戦のような明瞭な状況は滅多に発生しないからだ。
 第二に、その結果として、我々はしばしば大きな悪と小さな悪とを見極めなければならないからだ。
 かくして我々は、共産主義と戦争の結果に関して全てを知っているにもかかわらず、戦争中にソヴィエトの情報機関のために働いた人々はドイツに反対して仕事をしたのだから、また当時のナツィ・ドイツは最大の悪魔で最大の脅威だったのだから、良い教義のためにに奉仕したのだと結論づけるように強いられる。
 そして第三に、人々の動機は、水をさらに汚すからだ。悪の教義であることを理由としてではなく個人的な利益を得るために悪の教義に背信する人々は、我々の尊敬には値しない。
 他方で、個人的利益のためではなくイデオロギー上の理由で悪の教義に奉仕する人々は、その教義が本当に悪だと相当に明瞭ならば、正当化されない。
 要するに、政治には絶対的に善であるようなものはなく、そのためにできることは我々にはない。
 このことはつぎには、政治には絶対的な悪のようなものはないと、推測させるかもしれない。
 しかしながら、これはより疑わしい。//
 (11)さて、人々が特定のある行為は背信かどうかに関してしばしば同意できないだろうというのは、かなり確かだ。
 しかし、背信の被害者が国、国家や教会ではなく個人である場合について論じるのは容易だと言えるとすると、それはこの場合は我々は多少とも何が重要で、何が維持されるべきかを知っているからだ。
 それを知っており、かつ維持するならば、背信の被害者が国、国家や教会である場合についてもまた、論じるのが容易になるだろう。//
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 第10章、終わり。