Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。今回の最後の段落は二つに分ける。
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 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道②。
 (9)1920年のあいだに、強制労働の原理は他の分野にも適用された。
 数百万の農民たちが、材木を伐採して輸送する、道路や鉄道を建設する、収穫物を集める、といった目的の労働チームへと徴用された。
 トロツキーは、全国民が労働連隊へと動員されれば常備軍またはmilitia の二倍の働きをするだろうと見込んだ。
 これは、1820年代の軍事大臣だったArakcheyev の軍事封建主義に似ていた。この人物はかつて、農奴労働をロシア西部国境の軍隊の業務と結合させた集団居住区網を作った。
 トロツキーの計画は帝政時代に長くつづいた「管理ユートピア」の相続者で、それはピョートル大帝にさかのぼるものだった。この大帝は全てを、軍隊の方法で考えた。非合理的なロシア人を理性化し、無秩序の農民を連隊化し、彼らを整列させ、鍛えて絶対主義国家の必要に応えるよう強いるために。
 トロツキーのように、Os'kin は、つぎのような日が来るのを待ち望んだ。「いかなる外国も、ロシアを侵略しようとはしない。民衆全てが、ある者は前線で手に武器を持ち、ある者は工業や農業の分野で、祖国を防衛しようとする気構えがあるために。
 全国土が、一つの兵舎になるだろう。」
 これは全て、官僚的な夢想にすぎなかった。
 労働軍と同様に、農民の労働チームは絶望的に非効率だということが判った。
 一本の樹木を倒して枝を切り刻むのに、平均して、50人の徴用者と一日全部が必要だった。 
 労働チームが建設した道路は平らでなかったので、ある観察者の言葉によると、「氷結した大海の波のように見えた」。そこを通るのは「乗り物遊びよりもひどかった」。
 労働義務からの離脱はあまりにふつうの事だったので、多くの地区では義務の履行自体ではなく脱走者の追跡に従事する者たちの方が多かった。
 脱走者を匿ったと疑われると、村は占拠され、制裁金が課せられ、ソヴェトの指導者を含めて、人質は射殺された。
 数千の農民たちが、労働紀律を破ったとして有罪とされた労働者の「矯正施設」として全ての地方(province)に設置された労働収容所へと送られた。(*7)//
 (10)労働者や学生が土曜日に、社会主義者の崇高な義務として街路や広場のごみを「自発的に」掃除するよう強いられていた。だが、この「土曜労働の作戦運動」、<subbotniki>も、同じように非効率だった。
 1920年のメイ・デイ(May Day)週間のあいだ、モスクワの100万人を超える住民がこの「労働の祭日」にかかわった。
 そのとき以降、その祭りは、ソヴィエト的生活様式の永続的な特徴になった。その週のみならず、全ての週の土曜日が、人々が支払いなく働くよう求められる日として予定されるようになった。
 ボルシェヴィキは、<subbotniki>はソヴィエト集団主義の輝かしい達成物だとして称賛した。
 政治的にはおそらく、それは都市住民に、紀律、従順および服従の意識を植えつけるのを助けただろう。
 結局のところは、<subbotniki>へと「自発的に参加する」ことをしないことは、疑念を生じさせ、おそらくは「反革命者」として訴追されることを意味した。
 しかし、感情的には、ほとんど何も達成しなかった。
 教授のVodovozov は、5月1日にペテログラードで行われた大衆的<subbotniki>の印象を、こう記録している。/
 「冬宮と海軍本部の間の広場に、活動の中心があった。
 手作業が必要とする以上にはるかに、本当におそろしく大変な数の労働者がいた。彼らは、冬宮の垣根が壊れて以来ほぼ18ヶ月間残っていた鉄の柵と積み重なったレンガをすっかり除去した。
 Rosta〔ロシア電信電話庁〕は、最後には汚い塀がなくなつた、と明確に述べた。
 だが、全くそうでなかった。レンガは本当になくなったが、鉄の柵は広場の端に積み重ねられていた。
 そこに今日も残っている。
 広場全体には、まだ山のように積み重なったゴミがある。
 疑いなく、不完全にでも塀を解体してしまうには、同じ場所に建設するよりも10倍の費用がかかる。」(*8)//
 (11)内戦の影響の一つは、貨幣価値の下落だった。
 ボルシェヴィキは、1918-19年の間、二つのことに考え悩んでいた。
 ルーブルの価値を維持するか、それとも廃止するか?
 一方で、財物や業務の代金を支払う貨幣を印刷しつづける必要も、認識していた。
 彼らはまた、大衆住民は通貨の価値で体制を判断するだろうことも知っていた。
 他方で、自分たちの通貨を導入するためにインフレを促進すべきだと考える、極左のボルシェヴィキもある程度はいた。
 彼らは、通貨制度を、国家発行のクーポンにもとづく物品配布の一般的制度に置き換えようとした。
 (誤って)想定していたのは、通貨を排除すれば自動的に市場システムは、そして資本主義は破壊され、結果として社会主義となるだろう、ということだった。
 経済学者のPreobrazhensky は、著書の一つを捧げた。すなわち、『財務人民委員部の印刷所へ。—頓馬なブルジョア体制を撃つ機関銃、通貨システム』
 1920年までに、左翼派は方向を見出していた。通貨は、それを守るのがもはや無意味になるほどに猛烈な速さで印刷されている。
 造幣局は1万3000人の労働者を雇っており、全く馬鹿げたことに、紙幣を印刷するのに必要な紙と染料を輸入するために大量のロシア・ルーブルの準備金を使っている。
 ルーブルを印刷するには、ルーブルが実際にもつ価値以上が必要なのだ。
 郵便、通信、輸送、電気のような公共的業務は、ルーブル紙幣を印刷して費用として使うことで国家が金を失っているのだから、自由に行われなければならない。(*9)
 このような状況は、超現実的だった。—しかし、これがロシアなのだった。//
 (12)ボルシェヴィキ左翼派は、配給券を共産主義秩序を創り出す偉業だと見た。
 配給が示す階級が、新しい社会階層でのその人の位置を明確にした。
 人々は、国家にそれを使うことで分類された。
 かくして、赤軍の兵士、官僚、重大工場の労働者は、第二級の配給を受け取った(適切な程度より少なかった)。
 一方で、階層の最下辺にいる<burzboois>は、第三級の配給でやりくりしなければならなかった(ジノヴィエフの記憶に残る言葉では、それは「匂いを忘れない程度のパン」だった)。
 実際に1920年の末までに、国家の貯蔵倉庫にはほとんど食糧がなくなった。—多数の人々が配給制度で暮らしていた。そして、第一級の配給で生活している者たちすら、飢餓の割合を減らす程度のぎりぎりしか受け取れなかった。
 3000万の人々が、国家の制度により何とか食っていけた、あるいは、食っていけなかった。
 都市住民のほとんどは、小工場の食堂に大きく依存していた。そこでは薄粥や軟骨が毎日提供された。
 だが、開いている店を見つけ、粗末な食事のために行列をするという競い合いは大変なものだったので、おそらくは実際に食事によって得たそれよりも、食べるまでにすることで多くの労力を費やしただろう。
 これは、馬鹿げたことのただ一つではなかった。
 食料、タバコから衣服、燃料、書籍まで、配給が導入されていたほとんど全ての分野で、製品が実際にもった価値以上の時間と労力が、それらの配布のために費やされた。
 労働者たちが配給を受け取るために列をなして並んでいる間、工場や役所は、動きを止めた。
 人々は平均して、毎日数時間かけてソヴェトの複数の役所を渡り歩いた。そして、よく折られた配給券を約束された物品と交換しようとした。しかし、その物品はときにしか見つからなかった。
 疑いなく、彼らは、自分たちが願い出ている官僚機構の者たちが十分に食べて、よい衣服を着ている様子に気づいたに違いない。//
 (13)ペテログラードの教授で1900年代の指導的リベラル派、そしてレーニンの若い頃の友人だったVasilii Vodovozov は、その日記に、典型的なある一日を描写している。
 ソヴィエト同盟について知っていた読者は、彼と同様の観察をしたかもしれない。/
 「1920年12月3日
 この私の日々を、数人の幹部たちについてを除いて、叙述していく。—瑣末な詳細がそれ自体で興味深いからではなく、ほとんど全ての者の典型的な生活状態だからだ。/
 今日、午前9時に起床した。
 まだ暗くて家の光はまだ点いていなかったので、これより前に起きても無意味だ。
 燃料が足りない。
 使用人はおらず(何故かは別の話になる)、湯を沸かして病気の(スペイン風邪にかかった)妻の世話をし、独りでストーブ用の薪を取ってこなければならない。
 (オート麦の)コーヒーを、もちろんミルクや砂糖なしで飲んだ。そして、2週間前に1500ルーブルで買った一塊のパンから作った一片の食パンを食べた。
 小さなバターもあった。この点で私は、たいていの人よりもまだ状態が良かった。
 11時までに外出の準備をした。
 しかし、朝食の後でもまだ空腹で、野菜店へ行って食べることに決めた。
 恐ろしく高価だったが私がペテログラードで知っている唯一の場所で、そこは食べるのが比較的容易で、どこかの人民委員部の規制がなく、または許可を必要としなかった。
 この場所すら閉まっていて、あと数時間は開店しないことが判った。それで、ペテログラード第三大学まで行った。そこは大学としては実際には閉まっているのだが、私が食事を登録しているカフェテリアがあった。
 そこで、私と妻と、やはり登録している友人のVvedensky家が食べられるものを購入しようと望んだ。
 しかし、ここでも不運だった。食べたい人々の長い行列があり、うんざりとした気分と苛立ちが彼らの顔に浮かんでいた。 
 列は少しも動かなかった。 
 いったい何が問題だったのか?
 ボイラーが壊れていて、少なくとも1時間は遅れるだろう。/
 遠い将来にこれを読む者の中には、この人々は大宴会を待っていたと想う人がいるかもしれない。
 しかし、食事は全部で、一つの料理だけだった。—ふつうは、ジャガイモかキャベツの入った薄いスープ。
 肉などは、問題外だった。
 特権のあったほんの少しの人々だけが、肉を食べた。—つまり、台所の内側で仕事をした者。/
 私は、そこを去って仕事の後まで食べるのを延ばすことに決めた。
 午後1時まで路面電車がまだ来なかったので、野菜店に戻った。そこには食料はなく、少なくともあと30分はその見込みもなかった。
 空腹のままで仕事に行く以外の選択肢はなかった。/
 Nikolaev 橋で、ようやく電車4号線の車両をつかまえた。
 路線上に流れはなく、静止したままだった。
 私は何故かをまだ理解していない。
 路面電車は全て停まっていた。だが、運行し続けるだけの燃料がないと分かっていたなら、どうして進行しなかったのか?
 人々は座席にすわったままだった。—何人かがとうとう諦めて、目的地に向かって歩き始めた。残る者たちは、Sisyphus の辛抱強さで座っていた。
 2時間後に私は電車が動いているのを見たが、5時までに再び、路面電車は全て停まった。/
 午後2時頃、私は徒歩で文書館まで到着していた。30分そこにいて、その後に大学へと行った。大学では午後3時に、手渡されるキャベツの配給のあることが予定されていた。
 誰に対してか私はよく知らなかったが、たぶん、教授たちにだろうと思った。—だから機会を得る必要があった。
 しかし、私は再び、幸運から外れた。すなわち、キャベツは配布されず、翌日に与えられることが判った。
 しかも、教授たちにではなく、学生たちに対してだけだった。/
 私はまた、大学では先の1週間、パンの配給もないだろうということを知った。ある人々は、パンはすでに全部、全ての委員会を動かしている共産党員に提供された、と言っていた。/
 大学から家に帰り、妻を見守り、必要なことをし、食べられると希望して野菜店へと再び戻って行った。
 もう一度、運が悪かった。食料は全てなくなり、少なくとも先の1時間はもう何もなかった。
 待たないと決めて、Vvedensky の家へ行き、あとで順番を待つことができるかと頼んだ。
 5時に家に帰った。
 そして、その日の最初の幸運の一欠片にめぐり会った。我々の地区の電灯が点けられていた(ペテログラードは電気について二つの地区に分けられていた。電力不足のため、各地区は交代で夕方に灯りが点いた)。
 そのため、読書する貴重な時間ができた。—食事、パンやキャベツ、あるいは材木取りのための走り回りから自由になった最初だった。
 6時にVvedenskyの家へ食べに行った(やっと!)。そして帰ってきて、この文章を書いている。
 9時、もう暗かった。
 好運にも友人の一人がやって来て、その夜の数時間、妻の世話をしてくれた。私には再び貴重な時間だった。
 9時過ぎて、ろうそくを灯し、湯わかしの火をつけ、妻と一緒にお茶を飲んだ。そして、11時に就寝した。」(*10)//
 (14-01)共産主義ユートピアの鍵は、食糧供給の統制だった。それなくして、政府は経済と社会を支配する手段を持たない。
 ボルシェヴィキは痛々しく、彼らの体制が圧倒的多数の農民のおかげで存在していることを、知っていた。
 ——
 ③へとつづく。